2009.12 月号

2009.12 月号
発行元
連絡先
e-mail
アジア・ワーカーズ・ネットワークあうん
〒116-0014 東京都荒川区東日暮里1-36-10
03-5604-0873(FAXも)
[email protected]
URL
http://www.awn-net.com
17 号発刊にあたって
暑い夏が終わったとおもったら、もうすっかり冬になってしまいました。新しくなった衣類店舗
家具家電倉庫が寒くて仕方なくて、心が温まるだけでなく、なんとか体も温まる店にできないか、奮
闘中です。なにか良いアイデアはないでしょうか?
11月の半ばに、ガイアの夜明けというテレビ東京の番組にあうんが取り上げられました。非常に短
時間でしたが、私達のような協働労働という働き方が社会に認知されはじめていると、近頃強く感じま
す。
新しい政権となり、より不透明となった日本の未来に、期待と不安を同じくらい感じている人が多い
とおもいます。政治によって改善される問題も多くありますが、草の根的な市民活動の中でしか改善さ
れない問題も決して少なくありません。近年、あうんが新しい働き方だと注目されるようになりました
が、約 7 年前に下町ではじまった小さな仕事起こしが、これから、どれだけ社会に良い影響を与えられ
るのか、私達も新政権と同じく踏ん張りどころです。
ついこの間、ニュースレターの16号を発行したばかりです。通常、季刊のように年に4回ほどニュ
ースレターを発行しようと心がけています。しかし、今回、どうしても、あうんを応援して下さってい
る皆様にお伝えすべきことがあります。
ひとつは報告として、代表理事交代に関してです。
そして、もうひとつは、私たちのかけがえのない仲間の訃報です。
田中入馬
1
(記)
この度湯浅さんに代わって、あうんの代表理事に就任した若畑と申します。あうんには週に 1 回程度しか顔をさな
い、文字通りの「名ばかり」代表理事ですが、私に出来る限りのことはやっていきたいと思っています。
私の前任の湯浅さんが代表理事を辞任した経緯については、ホームページにも記載しているのでご存じの方も多
いと思いますが、ここで簡単に触れておきます。彼の活動は近年多忙を極めており、あうんの業務にも積極的には
関われない状態が続いていました。今年の 10 月からは、民主党政権の国家戦略室に政策参与として加わっており、
これを機に本人から代表理事辞任の申し出がありました。
あうんには役員報酬はなく、従業員全員が「同一時間労働同一賃金」で働いていて、代表や役員に目立った権限
があるわけではありません。ただし、営利を主目的にしないながらも、リサイクルショップや便利屋などの事業を
行っていることは事実であり、政権に加わる人間が代表や役員として関わることは避けた方がよいというのが、辞
任の理由でした。
私があうんと最初に出会ったのは、2004 年に自分の引越しを依頼したときでした。古くからの友人である湯浅さ
んが便利屋をしていると聞いて、軽い気持ちで頼んだのですが、深夜まで及んだ大変な作業を湯浅さんや橋本さん
が懸命にやってくれた姿を見て、関心を持つようになりました。それ以来、韓国語の翻訳などで少しずつ関わるよ
うになり、2007 年 4 月からは週 1 回のペースであうんの仕事を手伝っています。
私のあうんに対する最初の印象は、元野宿者など貧しい人間が頑張れば自分たちで働く場を作り出せるんだとい
うことに対する驚き、徹底的に平等な働き方に対する感心、便利屋で手に入れたものをリサイクルにつなげる「ビ
ジネスモデル」の巧妙さ、といったものでした。この印象は今でも基本的に変わっていません。
正直、私に代表理事という職名は荷が重いとも感じたのですが、役員に権限がなくて全員が平等であり、誰が代
表理事をやっても同じというこの「軽さ」が、ある意味あうんの特徴ではないかとも思います。
生活困窮者自身による仕事場作り、全員が平等に労働・経営に関わる働き方、みながゴミと思うものを可能な限
りリサイクルしていく業務内容など、どれをとってもあうんがやっていることは大きな「実験」であり、少し大げ
さに言えば今の日本社会に対するアンチテーゼだと思っています。目の前で日々進化していく「実験」の場に、代
表理事として立ち会えることは、私の大きな喜びです。
あうんの発足以来代表として関わってきた湯浅さんの功績には足元に
も及ばないかもしれませんが、私なりの貢献をあうんに果たしていきたい
と思っています。どうか今後ともあうんを暖かく見守り、応援し続けて下
さることをお願いいたします。
2
井上さんが亡くなりました
10 月 5 日 0:44、井上さんが亡くなりました。
前回のニュースレターではリハビリを頑張っていることを紹介したのですが、10 月 2 日頃に事態が急
変してしまい、その後目をあけることはありませんでした。皆さん井上さんのことを知っている人もい
るかもしれませんが、あうんにとって井上さんの死はとてもショックなことであり、中高年層のこれか
らの問題を目の当たりにしたものです。あうんメンバー初めての死を受けて、みんなショックを受けな
がらも、井上さんのためにも残された私たちのためにも 10 月 11 日に葬儀・火葬をして、12 日、
「井上さ
んを偲ぶ会」を開くことにしました。
孤独死から免れて
この偲ぶ会の報告をする前に、井上さんが脳梗塞で倒れたときの、あうんメンバーによる救出状況に
ついて少し話したいと思います。あの日は 6 月の下旬でした。お昼を少し過ぎたころでしたか、井上さ
んからUちゃんに電話がかかってきました。井上さんとUちゃんはあうんに来るずーっと前からの仲間
です。いつも仕事のときには電話に出ないUちゃんは、なぜかその日電話に出て、出たことによって井
上さんの命を救うことができました。Uちゃんが電話に出たとき、井上さんがいつもの様子ではないこ
とに気付きました。酔っ払っているかのように何を言っているのかまったくわからない状況で、何か様
子がおかしいことは確かでした。とりあえず、井上さんの様子を見に、あうんのメンバーで井上さんと
昔からの仲間であったTさんを呼び、急いで井上さん宅に向かったのです。着いてドアを叩き呼びかけ
たところ、中から返事がありました。中にいることはわかったのですが、ドアまで来ることができない
様子です。Tさんが「裏の窓が開いているかもしれない」と言い、そっちの方に回ってみると窓は偶然
にも開いており、部屋に入ることができました。井上さんは脳梗塞によって思うように動けない状態で、
すぐさま救急車を呼び、なんとか救出することができたのが幸いでした。
このことを振り返ってみると、あうんの存在があり、あうんメンバーの連携があったからこそ井上さ
んを助けることができたのだと常々思います。もし、Uちゃんが仕事に来てなかったら、電話に出るこ
とがなかったら、井上さんは今社会的な問題になっている「孤独死」になっていたかもしれません。
「孤
独死」から守ることができたのがあうんにとって唯一の救いでした。
その後、前回のニュースレターにも書いてあると思いますが、みんなに支えられながら治療やリハビ
リを頑張っていました。
葬儀場で人とのつながりを痛感
11 日に葬儀と火葬が行われました。あうんメンバー以外にも、山谷の仲間たち、井上さんが大好きだ
った水族館劇場の方々など 40 名近くの人たちが集まってくれました。そして、野宿者の支援活動などを
行っており、あうんと関わりを持っていたお坊さんの吉水さんがお経をあげに来てくれ、あの小さな体
からは想像できない太く、深みのある声に驚かされながらも、全員がご焼香をすることができました。
本当にありがたいことです。棺桶に入っている井上さんは、いつもの調子に憎まれ口でも叩くかのよう
3
な様子で、とても息をしていないとは思えなかったです。
その後、火葬してもらったら、井上さんの骨は一般の男性よりも太く大きく、骨壷に入らないぐらい
でした。山谷で昔から井上さんと仲の良かったNちゃんが「井上さんは鉄筋屋で働いていたから普通の
人よりも骨が太いんだ!鉄筋屋は普通の力じゃできない。井上さんはすごいんだ!」とみんなに教えて
くれました。骨壷は 49 日が終わるまであうんに置いておき、その後は吉水さんのお寺に預かってもらう
予定です。
火葬が終わってからは、あうんに戻り、井上さんの思い出話を語りながらみんなで飲み明かしました。
井上さんのことをみんなで「あーだこーだ」言いながら語り合い、もし井上さんが盗み聞きしていたら、
「みんな好き勝手いいやがって」と文句を言っていたでしょう。また、火葬してから 24 時間は線香を絶
やしてはいけない(?)ということで、その日はあうんに泊まれる人約 10 人で、次の日の朝まで線香を守
りきりました。
井上さんを偲ぶ会
12 日の「井上さんを偲ぶ会」は、前日の火葬に来てくれた人やあうんのお客さんなどを呼んで行いま
した。朝から会場づくりや料理を用意したりと大忙しです。偲ぶ会にも前日の葬儀場に来てくれた吉水
さんが来てくれて、お経を読んでくれました。ご焼香をした後は、昨日に続きお酒と料理をつまみなが
ら井上さんの思い出の語り合いです。桜橋で暮らしている仲間が「井上さんからもらった手作りのおに
ぎりには感動した。忘れられない思い出だ。」と発言してくれたり、井上さんの飲み友達であるMちゃん
が井上さんと一緒に飲んだことを話してくれたり、水族館劇場の人やお客さんまでもが一緒に井上さん
の思い出について語り合うことができました。
昨日から参加している人は、本当に大変だったと思います。でも、元野宿者であり、生活保護を受け
ながら生活していた人が、こんなにみんなから親しまれ、見送られた人はなかなかいないでしょう。あ
うんメンバーや山谷の仲間たち、お客さんたちから見送られ、そういう意味で井上さんはとても幸せだ
ったと思います。私たちはこれからも、井上さんの意識を引き継ぎながらあうんで働いていきたいです。
(ともよ記)
4
井上さんが遺したもの
10 月 5 日に逝った井上さん。私達は、かけがえのない仲間の一人を失った悲しみとともに、彼から又、多くの感
動を同時に与えてもらった。
井上さんの死から火葬までの 1 週間。お店にお手製の祭壇を飾り、お線香をあげられるようにした。ここで、井
上さんとなじみの深かったお客さんが、お線香をあげてくれた。時間がたつにつれて、お客さんたちが、お花を持
ってきたり、果物や大好きだったお酒など、皆さん思い思いに持ってきてくださり、祭壇は日に日に、にぎやかに
なっていった。そして皆さん涙ながらに、在りし日の井上さんの思い出話を話してくれた。彼らの涙は、決して義
理でも何でもない、真実の涙だった。
もうすぐ 60 歳、元ホームレス、生活保護を受給していた井上さん。そんな井上さんの死に、地域のお客さん達
は、心から悲しみ悼んでくれた。実を言うと、私はこの涙に心底驚き、そして感動した。
野宿者と地域住民。この両者の関係は、これまで常に対立関係にあったように思う。地域住民にとって、自分た
ちの地域に野宿者が入り込むことは、脅威であり、自分たちの生活を脅かされることになる。
(それが真実かどうか
は別にして)その結果が、
「ホームレスは出ていけ」と排除の先頭に立つ役割を担うことになるのだ。その声を根拠
として、行政の排除攻撃が強まる。こうして、野宿者に対する「あいつらは怠け者だ」
「ああなったのは、自分のせ
い」という差別意識が生まれ、このおとなたちの差別意識の帰結として、青少年の野宿者襲撃もあるのではないだ
ろうか。野宿者を同じ人として、見えなくさせてしまうもの。現象としては、ホームレス状態にあるのかどうかー
家(屋根)があるかどうかである。この「家(屋根)
」があるかどうかで、全人格が否定されてしまうのだ。
私はこの両者の不幸な関係の在り方を地域に入り込むことによって、変えていきたいという思いで、このあうん
の仕事おこしの取り組みに参加した。あれから丸 7 年余り、今回の井上さんの死は、私達がやってきたことは、決
して間違ってはいなかったと教えてくれた。もちろん井上さんの人柄に帰するところも大きいのだが、あうんが地
域に入り、地域の人たちと仲良くなることによって、
「ホームレス」という顔のない人たちが、一人一人顔を持ち、
当たり前の付き合いをすることができる、そしてその死に対して、心の底から悲しみを共有することができること、
これが今のあうんのこの 7 年の地平だろう。
「あうんはいいなあ。こんなりっぱな葬式やってもらえて。おれもあ
うんに入っていればよかったなあ。
」といっていた近くのおじいちゃん。「もうこの 1 週間泣きっぱなしだった。
」
と言っていた近くの工場に勤めているTさん。野宿者運動とは全く関係のない地域の人達が流した涙は、私達にと
って最高のプレゼントだと思う。そして、井上さんが遺した最高のメッセージだったと今更ながらに思うのだ。井
上さん、よくけんかしたけど、あなたの遺したものは大きかったよ。これからも、しっかり見ていてね。
(荒川記)
5
みゆきちゃんからのメッセージ
井上さんの死は、正直いまだに実感が湧きません。最初の一言がこれでいいのかどうか、悩みましたが、本当に
亡くなったという実感が湧かない。事実を自分でも受け入れられているのかどうかよく分からないんです。
井上さんの死を電話で知らされたのは 10 月 5 日の朝、聞いた時は驚きと同時に、涙がぼろぼろと沢山出ました。
井上さんが病院でリハビリを頑張っているという話は聞いていました。リハビリしている姿を実際に見た事はなか
ったけれど、元気そうだというのは聞いていました。私がお見舞いに行った時だって、いつもの調子で井上さんは
楽しそうにお喋りをしていました。少なくとも、私には井上さんがすっかり元気になっているように見えました。
すぐには無理でも、もう少し経てば退院出来そうな位に回復しているのだと、勝手に思い込んでいました。だか
らこそ、電話で知らされた時に、とても驚きました。嘘だとも思いました。でもやはりショックな事に変わりはな
かったです。私はしばらくあうんを休み、家にずっと引きこもっていました。井上さんと話した事や、一緒に出掛
けた場所や、思い出等を色々と回想しながら、その度に泣きました。井上さんの顔、怒った表情や笑った表情、も
う二度と見れないと思うと、本当に事実を受け止めたくなかったんです。
今思うとただ単に「井上さんの死」という事実から逃げたかっただけなのかもしれません。だけど、日が経つに
つれ、段々と気持ちが落ち着いていくのが分かりました。そして悲しいのは自分だけじゃなくて、もちろんあうん
の皆も、あうんのお客さんも、井上さんと関わった人達全てが、悲しいんだという事を改めて理解しました。10 月
11 日に火葬・葬儀が行われ、それが井上さんとの最期のお別れになりました。沢山の人達が集まりました。沢山の
人達が井上さんの為に泣きました。私もやっぱり泣いてしまったけれど、それでも井上さんの為にこれだけの人数
の人達が集まり、井上さんの死を寂しがり、悲しんでくれた事に、私は何故だか嬉しい気持ちになってしまいまし
た。こう言ったら不謹慎かもしれないけど…。でも、井上さんという人間は、やはり皆から愛されている人なのだ
と改めて感じたんです。
きっと井上さんも、こんなに沢山の人達が自分の為に集まってくれて、嬉しかったんじゃないかと思います。皆
に看取られて、幸せに眠る事が出来たんだと思います。本当に良かったと思いました。その次の日の 12 日「井上
さんを偲ぶ会」に私は出席しませんでしたが、母親や妹達は参加しました。そして後程その会の皆の現状を色々と
聞かせてもらいました。話を聞いて、また色々と私は井上さんとの思い出を回想していました。そして井上さんが
遺してくれたものがとても大きかった事に、今更ながら気付いたのです。
井上さんは料理がとても上手でした。仕事の後にいつも一緒にご飯を作ったり、料理の仕方を教えてくれたりし
ました。井上さんの料理はとても美味しかった。皆も喜んでいました。たまに皆が「味がしょっぱ過ぎる」
「これは
ちょっとなぁ…」等の冗談を言って笑い合いながら。そして井上さんは笑顔も沢山くれました。あうんではムード
メーカーみたいな存在で、皆を楽しませてくれました。誰かが落ち込んでいれば、その人の話を聞いていました。
6
私が落ち込んでいる時も「どうしたんだ、元気がないぞ?」ってすぐに気付いてくれて、その度に励ましてくれま
した。自分の大切な人が傷つけられた時には、もの凄く怒っていました。自分の事のように怒っていました。
井上さんは、誰よりも相手の事を気遣える優しい人でした。お酒や煙草やパチンコには目がない井上さん。お酒
や煙草のせいで病気になったんだと思うと、もっと前に止めていれば良かったのにって何度も思いましたが、でも
今落ち着いて考えてみると、それもまた、井上さんらしい生き方というか、何というか。そこは駄目だなぁって皆
言っていたけれど(私もそう思っていたけれど)でも井上さんには尊敬できるところが沢山沢山ありました。人と
して、とても温かい人でした。それが井上さんの印象で一番大きいところです。
井上さんは若者に対しても良くしてくれました。親みたいに、いつも心配してくれました。最初に書いた文章「井
上さんの死に実感が湧かない」というのは、井上さんが、まだどこかで生きているような気がしてたまらないから
です。あうんの事務所に行くと、皆からの井上さんへのメッセージや写真が壁に沢山貼られています。遺骨がお供
え物やお花と共に置いてあります。その写真や遺骨をみる度に、井上さんは確かにまだ此処にいるんだと感じるん
です。不思議と寂しさが和らいでいくんです。いつでもあうんの皆の事を見守っていてくれるような気がして、元
気が出てきます。井上さんが亡くなり、それと同時にGさんがあうんに戻ってきました。井上さんが背中を押して
くれたのかな。きっかけを作ってくれたのかな。井上さんが亡くなって、改めて気付かされた事って沢山ありまし
た。皆にとっても多分数え切れない位あると思います。だから井上さんの死は、決して無駄ではなかったんです。
無駄とか、無駄じゃないとか、そういう問題ではないけれど。井上さんが亡くなって悲しかったけれど、井上さ
んが遺してくれたものは確かに大きかった。二年間ちょっとしか井上さんとは一緒にいられませんでしたが、その
間の思い出は、私にとってとてもかけがえのない大切なものです。だから私は井上さんの事を忘れる事なんてこれ
から先絶対にないと思います。これからの自分の未来は、井上さんが教えてくれた事や、井上さんの意思を大事に
しながら生きていきたいと思っています。それが本当に出来るかどうかというのは、今の私にはまだ難しい問題か
もしれませんが、でも今の自分が頑張れる程度に、これからもあうんで働いていきたいと思っています。
井上さんに沢山優しくしてもらった分、今度は自分も誰かに優しくしてあげる番だと思います。じゃないと、井
上さんにしてもらった事はただの甘えになってしまうから。今は、井上さんの意思を大事にして、これからも頑張
ってゆきたいと思っています。井上さんもあうんの皆の事をいつまでも応援していると思います。なんだかほとん
ど井上さんへのメッセージみたいな文章になってしまいましたが、すいません…。
井上さん、今まで本当にありがとうございました。そしてこれからも、あうんの皆の事を温かく見守っていて下
さい。宜しくお願いします。
(みゆき記)
7
みんなからのメッセージ
井上さん亡き後、あうんのメンバーだけでなくお客さんまでもが井上さんを偲びメッセージを残してくれました。
井上さんのあたたかい性格が伝わってくるメッセージなので原文そのまま掲載します。
井上さんいつも子供をか
わいがってくれてありが
とう
井上さんはやさしくてなんでもニコ
リわらっていてくれてとっても大好
きだったのでにゅういんやなくなっ
お疲れさまでした。
たのわとてもショックでした。
いつも土曜のフリマーで元気だっ
たので、今日話を聞いてびっくりし
ました。
いつもニコニコ顔の井
本当におつかれ様でした。
上さん。あちらでも笑顔
また会いましょう。
でいて下さいね。
学生の頃から世話になって、
ちゃんと恩も返せずすみませ
ん。さみしいです。
ありがとうございました。ま
たいつか。
先日はリハビリ中との
ことで、もうすぐ退院さ
必ず元気になってくれると思っていまし
れ近く仕事に復帰され
たが、こんなに早くお別れになるとは思
ると思っていましたが
いもよりませんでした。井上さんの料理
残念です。ご冥福をお祈
をもう食べることができないのは残念で
りいたします。
す。今までありがとうございました。
短い間だったけどすごく楽しかった
です。一緒にカラオケ行けなかった
59 歳とはまだまだ若すぎ
のはものすごくさみしいです。あっ
ます。もう、あうんに来て
ちに行っても井上さんなら大丈夫だ
も 合えない なんて さみし
ね。俺らがみんなそっちに行ったら
いです。
毎日カラオケ大会しようね。
8
新人紹介
初めまして。斎藤有子と申します。
8 月から働き始め、あうんのホームページの運用と衣類店舗のお店番を主に担当しています。
あうんで働くまでは営業事務として働いたり、ホームページを制作する会社でデザイナーをしてきました。自分に
とっての仕事とは何かと悩んでいて、それに対する答えが変わる度に転職を繰り返してきました。
自分にしかできない、そんな仕事があるはずだと期待したり、お金を稼ぐためだからと割り切ってみたり、そんな
私にとってあうんで働くことは大きな決断でした。
あうんの協働労働という働き方、同一時間労働同一賃金という平等な働き方、企業組合という組織の在り方は今ま
で働いてきたどの会社とも違い、どう働くのか、何に価値をお
くのかと問われているからです。
あうんで働く、様々な年代の人たち、過ごしてきた人生の全く
違う人たちとの仕事や係り合いは理想論では語れない問題も
多くありますが、それでも『支えあう』という関係の在り方に
学ぶことが多いです。
衣類店舗でお店番をしている時にも繋がりを感じる場面がた
くさんあります。
毎日のようにあうんに立ち寄ってくださる方、あうんのことを
スタッフである私よりずっとよく知っていて教えてくださる方、井上さんが亡くなった時には思い出話をしながら
涙を浮かべる方も多くいました。
まだまだ歴史も浅い小さなリサイクルショップの周りにこれだけ多くの方の繋がりが存在していることを知り、地
域の皆さんに愛され育てていただいているということ、私もそのあうんの一員なのだと背筋の伸びる思いがしまし
た。
『人との繋がり』
『社会との繋がり』をあうんで働くことで実感し、私にとっての働くとはこういうことなのかなと
最近では漠然と思うようになりました。
まだまだ模索中ではありますが、これからあうんで働くことが楽しみです。
9