イタリア出身のバリトン、ティート・ゴッビが3月5日の夜、亡くなった。74歳であった。 ゴッビは、1度だけ日本に来ている。1959年のことである。そのときゴッビは、デル・モナコと 共演して、ヴェルディのオペラ「オテロ」のヤーゴをうたった。オペラ歌手とはこういう人のことをい うのかと、そのときのゴッビのうたいぶりと演技にふれて、思った。ゴッビによってうたわれた言葉の ことごとくは、うたわれているとは考えがたいほどに自然であった。 そのころのぼくは、右も左もわからないながら、オペラのたのしさを手探りしはじめていた。本当に オペラってそんなに素晴らしいのかと、レコードできくオペラの圧倒的な迫力と、現実にふれることの できるオペラのこころもとなさとの間で、ぼくは半信半疑になっていた。 お前はオペラなんて変なものを好きなんだな、と友人たちに好奇の目でみられたりもした。たしかに、 当時の日本で接することのできたオペラには、どことなくわざとらしさがついてまわり、精一杯謙虚に なってきいてもなお、生意気ざかりのききてはともすると萎えがちであった。あやうくオペラへの興味 が薄らぎそうになったときに、ゴッビやデル・モナコのうたった「オテロ」にふれた。そのとき、ぼく のオペラへの愛は、ひっこみがつかなくなった。 すでにそれまでに、いくつかのレコードで、ゴッビのことはしっていた。そのうたいぶりから、ゴッ ビは演技巧者であろうとは思っていた。しかし、実際に目の前にしたヤーゴをうたってのゴッビの演技 力は、かけだしオペラ・ファンの予測をはるかにこえていた。ティート・ゴッビというひとりのオペラ 歌手のなかでは、声の演技力と舞台上の動きの演技力とが一体となっていた。 これがオペラなんだ。オペラって本当はこうだったんだ。ゴッビのうたい演じるヤーゴに圧倒されな がら、そう納得した。オペラのもっともオペラ的な部分をゴッビに教えてもらった、と思わないではい られなかった。 その折、知り合いの外国人の家で、じかにゴッビのはなしをきく機会にめぐまれた。ゴッビはなかな かの論客でもあった。ここはしばしばこううたわれることがあるけれど、こううたうのが本当だと思う、 というようなことをいって、軽くうたってみせたりした。オペラ教に入信したばかりの若い信者は、ま るで教祖の言葉をきくような気持で、顔を紅潮させながらゴッビの言葉をきいた。 ゴッビは、論客ではあっても、優しかった。高慢なところなど、まったくなかった。「シモン・ボッ カネグラ」をうたわせてもらえるのなら、どこにだっていくんだが、といって、当時はまだ今日のよう には人気があるとはいいがたかった「シモン・ボッカネグラ」への並々ならぬ愛着を口にしたりした。 それっきり、ゴッビは、日本には来なかった。ヨーロッパにでかけた折にも、ゴッビをきくことはで きなかった。 しかし、ゴッビのレコードはずっとききつづけてきた。ことあるたびに、ゴッビのレコードに耳をす ましては、うたうというおこないにおける表現といったことについて考えてきた。たとえ、ききかたに よっては「くさい」と思われかねないところがゴッビのうたいぶりにあったとしても、ひとたびゴッビ の口をついてでると、すべての言葉が、まるで生き物のように呼吸しはじめるという奇跡を認めないわ けにはいかなかった。 窮地にたったトスカは、身代金を払ってカバラドッシを助けようと、スカルピアに、こういう、「ク アント?(いかほど?)」。スカルピアは、トスカにききかえす。「クアント?(いかほどって?)」。ゴ ッビという歌役者は、そのひとことで、スカルピアがいかに邪悪な男かをあきらかにできた。 そのゴッビが亡くなった。ゴッビの死は日本の新聞ではごく小さく報道されたにとどまった。ゴッビ のレコードの大半はすでに廃盤になっている。悲しいと思う。残念なことだとも思う。 むろん、ゴッビが死んでも、オペラは死なない。オペラはまだまだきかれつづけていくと思う。そう、 思いたい。しかし、もうひとりのゴッビは、いない。その分だけ、確実に、オペラはつまらなくなった。 さようなら、ぼくの恩師ゴッビさん。 *音楽通信 5月号 1984年
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