竜 口 - 法厳寺

- 1 -
たつのくち
ほうなん
日、、、、大聖人様
今日のののの紙芝居はははは 「「「「竜口のののの法難」」」」という紙芝
居居居居です。。。。
ぶんねい
くび
竜口のののの法難はははは文永8888年年年年9999月
なった法難です。。。。
ほったん
では始始始始めます。。。。
さまざま
かくさく
します。。。。よく聞聞聞聞いて下下下下さいね。。。。
う
さあ、、、、今今今今からその法難についてお話話話話しいた
姿姿姿姿をををを示示示示された法難であるからです。。。。
姿姿姿姿をををを払払払払って、、、、久遠元初のののの御本仏様としての御御御御
く お ん が ん じ ょ
れようとした時時時時にににに、、、、それまでの凡夫としての
ぼ ん ぷ
それは、、、、大聖人様がこの法難でででで、、、、頸頸頸頸をををを切切切切らららら
この法難はははは一番大きな難難難難でありました。。。。
小小小小さな難難難難はははは数数数数ええええ切切切切れないほどありましたが、、、、
大聖人様のののの御一生のののの中中中中でででで大大大大きな難難難難がががが四回、、、、
始始始始まります。。。。
けた極楽寺良観がががが、、、、様々なななな画策をしたことに
ご く ら く じ りょうかん
事件のののの発端はははは大聖人様との祈雨のののの勝負にににに負負負負
き
がががが鎌倉のののの竜口でででで、、、、頸頸頸頸をををを切切切切られて殺殺殺殺されそうに
12
19 分の
竜口の法 難
- 2 19 分の
竜口の法 難
せ い じ
大聖人様はははは、、、、政治のののの中心地であった鎌倉やややや、、、、
ひ え い ざ ん
仏教のののの中心地ともいうべき比叡山をはじめ様様様様
きよすみやま
あさひ
々々々々なななな寺院において仏法をををを学学学学ばれ、、、、その結果、、、、
けんちょう
建長五年四月二十八日、、、、一人、、、、清澄山のののの 旭旭旭旭
もり
がががが森森森森にににに立立立立たれ 「「「「南無妙法蓮華経・・・・南無妙法蓮
華経・・・・南無妙法蓮華経」」」」とととと唱唱唱唱えられ、、、、末法万
やみ
年年年年のののの闇闇闇闇をををを開開開開きききき、、、、すべての人々がががが幸幸幸幸せになれる
ただ一一一一つの教教教教えを示示示示されました。。。。
さらに、、、、その日日日日のお昼昼昼昼には、、、、
「「「「この世世世世のののの中中中中のののの、、、、苦苦苦苦しみを救救救救うううう本当のののの教教教教えは
この南無妙法蓮華経であります」」」」
とととと力強くおおぜいの人々にににに向向向向かって初初初初めての
説法をされました。。。。
そして、、、、当時のののの日本のののの中心であった鎌倉でででで
正正正正しい教教教教えを、、、、弘弘弘弘めることにしたのでありま
すすすす。。。。
- 3 19 分の
竜口の法 難
そうあん
鎌倉にににに入入入入られた大聖人様はははは、、、、この地図のののの右右右右
ま つ ば が や つ
下下下下のののの方方方方にある、、、、松葉ヶヶヶヶ谷谷谷谷にににに小小小小さな庵室をををを建建建建てててて
てててて、、、、そこを中心として、、、、折伏弘教にににに励励励励まれま
した。。。。
あた
ほう
松葉ヶヶヶヶ谷谷谷谷はははは、、、、現在のののの神奈川県鎌倉市のののの鎌倉
なんせい
ぜんしゅう
駅駅駅駅のののの南西約1111㎞㎞㎞㎞のののの辺辺辺辺りにありました。。。。
ば く ふ
しっけん
そのころの鎌倉では、、、、禅宗をををを強強強強くくくく信信信信じる北北北北
じょう と き よ り
条 時頼がががが幕府のののの執権になっていたため、、、、国国国国
きそ
のお金金金金でででで建建建建てた禅宗のののの寺寺寺寺がががが多多多多くくくく、、、、その他他他他のい
しゅうは
ろいろな宗派もももも競競競競って大大大大きなお寺寺寺寺をををを建建建建ててい
ました。。。。
大聖人様はその中中中中へへへへ自自自自らららら飛飛飛飛びびびび込込込込んで、、、、民衆
のために、、、、松葉ヶヶヶヶ谷谷谷谷にににに小小小小さな草庵をををを建建建建てたの
であります。。。。
おうぎがやつ
現在鎌倉には、、、、扇扇扇扇ガガガガ谷谷谷谷というところに、、、、日日日日
ご こ く じ
蓮正宗のののの寺院 「「「「護国寺」」」」がががが建立されておりま
すすすす。。。。
- 4 19 分の
竜口の法 難
大聖人様はははは鎌倉のののの町町町町なかで、、、、南無妙法蓮華経とととと書書書書いた
はた
旗旗旗旗をををを立立立立てて、、、、命命命命がけの説法をををを始始始始めました。。。。
「「「「あの旗旗旗旗にににに、、、、なんて書書書書いてあるんだ?」
「「「「なん・みょう・ほう・れん・げ・きょう、、、、って書書書書いて
あるそうだ」」」」
かくしん
大聖人様はははは、、、、南無妙法蓮華経をををを初初初初めて聞聞聞聞くくくく人々にににに、、、、確信
にににに満満満満ちた声声声声でででで、、、、
「「「「間違った宗教をををを信信信信じてはいけません。。。。これからは南無
とな
てんま
ほけきょう
妙法蓮華経とととと唱唱唱唱えなさい。。。。これだけが人々をををを幸幸幸幸せにする
道道道道なのです」」」」
じごく
「「「「間違った宗教とは何何何何のことだ」」」」
ねんぶつ
ののし
「「「「念仏はははは地獄のののの教教教教ええええ、、、、禅宗はははは天魔のののの教教教教ええええ、、、、法華経のののの南無
いがい
妙法蓮華経以外はははは、、、、全部間違った教教教教えです」」」」
ぼうず
「「「「なにぃ????この坊主をやっつけろ」」」」
「「「「引引引引っっっっ込込込込めめめめ!」
いか
民衆はははは怒怒怒怒りりりり出出出出しししし、、、、石石石石をををを投投投投げたり大声でででで大聖人様をををを詈詈詈詈った
りしました。。。。
それでも大聖人様はははは、、、、南無妙法蓮華経のののの説法をををを命命命命がけ
でででで続続続続けました。。。。
じょじょ
ふ
しかし、、、、三年もたつころ、、、、大聖人様のののの説法にににに真剣にににに耳耳耳耳
かたむ
くどうよしたか
いけがみきょうだい
をををを傾傾傾傾けけけけ、、、、信者となる人々もももも徐々にににに増増増増えてきました。。。。
しじょうきんご
四条金吾・・・・工藤吉隆・・・・池 上 兄 弟等のののの人々がががが入信した
ころ
のはこの頃頃頃頃のことでありました。。。。
- 5 -
えきびょう
ほか
さいなん
大聖人様がががが、、、、南無妙法蓮華経をををを信信信信じなけれ
き き ん
ばばばば、、、、飢饉やややや疫病のののの外外外外にににに、、、、もっと災難がががが起起起起こる
だ い じ し ん
とととと言言言言ったとおり、、、、大地震がががが起起起起こりました。。。。
まちじゅう
街中にににに死人やややや病人があふれて、、、、ちょうど生生生生
きききき地獄のような状態でででで、、、、人々はははは苦苦苦苦しみにあえ
いでおりました。。。。
ありさま
これらの有様をご覧覧覧覧になった大聖人様はははは、、、、
当時のののの鎌倉幕府にににに対対対対して、、、、今今今今こそ人々をををを救救救救うううう
うった
ために、、、、正正正正しい教教教教えを説説説説いて 訴訴訴訴 えようと、、、、
おおおお考考考考えになりました。。。。
そして、、、、正正正正しい南無妙法蓮華経のののの教教教教えによ
らなければ、、、、真実のののの幸幸幸幸せなないこと、、、、さらに、、、、
もしも、、、、このまま正正正正しい教教教教えを信信信信じなければ、、、、
あ
必必必必ずずずず仲間同士のののの争争争争いごとや、、、、外国のののの軍軍軍軍がががが攻攻攻攻めめめめ
しょうこ
ぶんのう
込込込込こんでくることを、、、、様々なななな経文のののの証拠をををを挙挙挙挙
りっしょうあんこくろん
ほうじょうときより
ていしゅつ
げて、、、、有名なななな立正安国論をををを書書書書かれ、、、、文応元年
しっけん
日、、、、時時時時のののの執権である北条時頼にににに提出しししし
たのであります。。。。
7777月
16
19 分の
竜口の法 難
- 6 19 分の
竜口の法 難
立正安国論には、、、、
えきびょう
き き ん
「「「「現在、、、、日本国中にににに起起起起こっている疫病やややや飢饉
などは、、、、法華経をををを信信信信じないためである。。。。南無
あん
妙法蓮華経のののの教教教教えを日本中のののの人々がががが信信信信じじじじ、、、、人人人人
お だ い も く
々々々々がががが一同にににに御題目をををを唱唱唱唱えるならば、、、、国土はははは安安安安
のん
穏穏穏穏となり、、、、必必必必ずずずず本当のののの幸幸幸幸せになることが出来
るのである。。。。故故故故にににに、、、、日本国のののの中心者である人人人人
こそ、、、、早早早早くそれらの間違った教教教教えを捨捨捨捨てて、、、、
正正正正しい南無妙法蓮華経のののの教教教教えを信信信信じなさい」」」」
とととと書書書書かれてあり、、、、この安国論でででで幕府のののの指導者
いさ
をををを諫諫諫諫めたのであります。。。。しかし、、、、北条時頼はははは、、、、
「「「「日蓮めめめめ、、、、飢饉やややや大地震をををを宗教のせいにして、、、、
外国がががが攻攻攻攻めて来来来来るというのか!!!!そんなこと信信信信
じられるものか!」
いか
とととと怒怒怒怒りりりり狂狂狂狂いました。。。。
- 7 19 分の
竜口の法 難
つうれつ
はしゃく
痛烈にににに破折された念仏のののの者者者者どもは、、、、大聖人
様様様様をををを殺殺殺殺してしまおうと、、、、松葉ヶヶヶヶ谷谷谷谷のののの草庵をををを焼焼焼焼
きききき打打打打ちにするために火火火火をををを放放放放ちました。。。。
「「「「日蓮はどこだ」」」」
「「「「こんな建物、、、、燃燃燃燃やしてしまえ」」」」
「「「「日蓮をををを殺殺殺殺してしまえ」」」」
しかし、、、、法華経をををを弘弘弘弘める人人人人はははは、、、、必必必必ずずずず難難難難をををを受受受受
けていくことが経文にににに書書書書かれていますので、、、、
大聖人様はははは御自分がががが法華経のののの行者であるとの
確信をををを益々強くされたのでありました。。。。
この焼焼焼焼きききき打打打打ちの難難難難をををを、、、、逃逃逃逃れられた大聖人様
はははは、、、、翌年には再再再再びびびび鎌倉にににに戻戻戻戻られ、、、、前前前前にも増増増増しししし
てててて強強強強くくくく、、、、
「「「「念仏宗やややや禅宗などでは幸幸幸幸せになれない。。。。苦苦苦苦
ず
る
ざ
い
しみが増増増増していくだけである。。。。南無妙法蓮華
経経経経をををを信信信信じなさい」」」」
とととと声声声声をををを大大大大にして叫叫叫叫ばれました。。。。
い
その後後後後、、、、大聖人様のののの身身身身のののの上上上上にににに、、、、伊豆流罪・・・・
小松原のののの法難など、、、、命命命命にににに及及及及ぶほどの法難がががが次次次次
々々々々とととと起起起起こったのであります。。。。
- 8 19 分の
竜口の法 難
ぶんねい
も う こ
8888年後のののの文永5555年年年年のことです。。。。蒙古という
国国国国から 「「「「言言言言うううう事事事事をををを聞聞聞聞かないと攻攻攻攻めめめめ込込込込むぞ」」」」とととと
いう手紙がががが届届届届きました。。。。
大聖人様がががが立正安国論のののの中中中中でででで 「「「「外国がががが攻攻攻攻めめめめ
けんちょうじ
じゅ
てくる」」」」とととと予言されていた通通通通りになったので
すすすす。。。。
ご く ら く じ
大聖人様はははは再再再再びびびび、、、、幕府をををを始始始始めめめめ、、、、建長寺、、、、寿寿寿寿
ふ く じ
しょうぼうしょうぎ
福寺、、、、極楽寺等のののの大寺院十一カカカカ所所所所にににに対対対対して、、、、
文書をもって、、、、
じゃほう じ ゃ ぎ
「「「「今今今今こそ、、、、邪法邪義をををを無無無無くし、、、、正法正義をををを人人人人
々一同がががが信心しなければ、、、、必必必必ずずずず国国国国はははは亡亡亡亡ぶであ
ろう」」」」
としたためて、、、、力強くくくく訴訴訴訴えられました。。。。
いわゆるこれが、、、、十一通御書とととと呼呼呼呼ばれるも
のであります。。。。
しゅのう
しかし、、、、幕府のののの首脳たちはまったく耳耳耳耳をををを傾傾傾傾
けなかったのです。。。。
- 9 19 分の
竜口の法 難
ば く ふ
その3333年後、、、、全国的にににに雨雨雨雨がまったく降降降降らず、、、、
しゅうかく
き と う
めい
作物もももも収穫できなくなり、、、、幕府はははは、、、、極楽寺良
あ ま ご
観観観観にににに 「「「「雨雨雨雨がががが降降降降るように」」」」雨乞いの祈祷をををを命命命命じじじじ
ました。。。。
りょうかん
このことを聞聞聞聞かれた大聖人様はははは、、、、ちょうど
き か い
いい機会であると、、、、良観にににに対対対対して、、、、
な の か
「「「「もし七日以内にににに雨雨雨雨がががが降降降降れば日蓮はあなたの
え
い っ し ん ふ ら ん
いの
弟子になろう。。。。降降降降らなければ、、、、あなたは法華
き
経経経経にににに帰依しなさい」」」」
やくそく
し
とととと約束をさせました。。。。
で
良観はははは弟子たちと、、、、一心不乱にににに祈祈祈祈りました
いってき
がががが、、、、七日はおろか、、、、さらに願願願願いいいい出出出出たたたた七日間のののの
えんちょう き げ ん
かん
延長期限にも一滴のののの雨雨雨雨もももも降降降降らすことがでず、、、、
い ぜ ん
それどころか以前よりも干干干干ばつはひどくなり
ました。。。。
そこで大聖人様がががが祈祈祈祈ると、、、、たちまち雨雨雨雨がががが降降降降
りりりり始始始始めました。。。。
しょうぶ
この勝負、、、、大聖人様のののの勝勝勝勝ちは明明明明かでありま
した。。。。
- 10 19 分の
竜口の法 難
ご く ら く じ
そ の こ ろ 極 楽 寺 では
「「「「良観殿、、、、日蓮のせいで信者がががが少少少少なくなりも
うしたな
・
・
・
・
・
・
」」」」
「「「「そうなんじゃ。。。。日蓮めくだらんことばっか
り い いお っ て
・
・
・
・
・
・
」」」」
「「「「このままにはしておかぬぞ。。。。なにかいい方方方方
法法法法をををを考考考考えねば
・
・
・
・
・
・
」」」」
な か ま
とととと、、、、良観はははは約束をををを守守守守るどころか、、、、仲間のののの坊坊坊坊ささささ
んや役人たちと、、、、大聖人様をやっつける方法
をををを考考考考えていました。。。。
そして、、、、役人やその女房たちに、、、、大聖人様
うった
にににに対対対対する様々なでたらめなことばかりを言言言言いいいい
ふ と う
ふらし、、、、とうとう、、、、不当なななな 訴訴訴訴 えを幕府にににに起起起起
こしたのであります。。。。
- 11 -
ぶんねい
さいばん
と
日、、、、今今今今のののの裁判
へいのさえもんのじょう
それによって文永8888年年年年9999月
ひょうじょうしょ
この時大聖人様はははは、、、、
うううう」」」」
な か ま う ち
あ
ば く ふ
しょうぼう
も う こ
いっこく
こう
日、、、、立正安国論をををを再再再再びびびび添添添添えて、、、、平平平平
そ
くくくく終終終終わりましたが、、、、大聖人様はこれより二日
この取取取取りりりり調調調調べでは一旦、、、、何何何何のおとがめもな
いったん
められたのでありました。。。。
とととと、、、、堂々とととと言言言言いいいい切切切切られて、、、、幕府にににに対対対対していさ
どうどう
撃撃撃撃やややや、、、、仲間内のののの争争争争いごとが必必必必ずずずず起起起起こるであろ
げき
必必必必ずずずず罰罰罰罰のののの姿姿姿姿として、、、、先先先先にににに言言言言ってある蒙古のののの攻攻攻攻
ばち
「「「「仏仏仏仏のののの使使使使であるこの日蓮をををを迫害するならば、、、、
はくがい
りりりり調調調調べを受受受受けることになりました。。。。
しら
所所所所である評 定 所へへへへ呼呼呼呼ばれ、、、、平左衛門尉のののの取取取取
しょ
10
早早早早くくくく信信信信じるようにうったえました。。。。
左衛門尉にににに宛宛宛宛てて手紙をををを書書書書きききき、、、、正法をををを一刻もももも
後後後後のののの9999月
12
19 分の
竜口の法 難
- 12 19 分の
竜口の法 難
にく
ま つ ば が や つ
これに対対対対して平左衛門尉はははは、、、、ますます憎憎憎憎しししし
いのち
みの命命命命をををを強強強強めめめめ、、、、その日日日日のうちに、、、、松葉ヶヶヶヶ谷谷谷谷のののの
そうあん
草庵にににに
つか
へ い し
「「「「日蓮をををを捕捕捕捕まえろ!」
くる
とおおぜいの兵士をををを連連連連れてやってきました。。。。
いか
その怒怒怒怒りりりり狂狂狂狂った姿姿姿姿をををを見見見見てててて、、、、大聖人様はははは
へいのさえもんのじょう
「「「「何何何何とこっけいなことか。。。。平左衛門尉がががが物物物物にににに
はしら
狂狂狂狂った姿姿姿姿をををを見見見見よよよよ。。。。日蓮はははは日本のののの柱柱柱柱ですぞ。。。。そそそそ
たお
しか
のののの柱柱柱柱をををを倒倒倒倒すつもりか?」
きび
とととと厳厳厳厳しく叱叱叱叱りつけました。。。。
し ょ う ぼ う
たた
この兵士のののの中中中中にいた少輔房という者者者者はははは、、、、法法法法
まきもの
まっぽう
華経のののの巻物でででで大聖人様のののの頭頭頭頭をををを三回もももも叩叩叩叩きつけ
まき
ました。。。。その時大聖人様はははは、、、、
とうじょう
あ
「「「「この法華経のののの第五のののの巻巻巻巻には、、、、末法にににに法華経
ぐ つ う
をををを弘通する者者者者はははは刀杖のののの難難難難にににに遭遭遭遭うと説説説説かれてい
み
るるるる。。。。このことで法華経をををを身身身身でででで読読読読んでいること
になる。。。。なんとありがたいことか」」」」
だいなん
とととと、、、、この大難をむしろお喜喜喜喜びになられたので
あります。。。。
- 13 19 分の
竜口の法 難
けっきょく
とら
まちじゅう
じゅうざいにん
大聖人様はははは結局、、、、捕捕捕捕われの身身身身となって、、、、松松松松
まわ
ぎゃくぞく
葉葉葉葉ヶヶヶヶ谷谷谷谷のののの草庵から鎌倉のののの街中をををを重罪人のよう
ひ
ちが
にににに引引引引きききき回回回回され、、、、その有有有有りりりり様様様様はまるで逆賊あつ
じょうたい
あつか
かいのような状態でした。。。。
やくにん
つじせっぽう
ところが役人たちの扱扱扱扱いとは違違違違いいいい、、、、大聖人
き は く
様様様様のののの気迫のこもった辻説法をををを聞聞聞聞いていた人々
どうちゅう
のののの中中中中にににに、、、、少少少少しずつ南無妙法蓮華経のののの教教教教えを信信信信
じる者者者者もももも出出出出てきておりました。。。。
ひょうじょうしょ
じ
大聖人様がががが評 定 所へへへへ連行される道中、、、、手手手手
ぶ
をををを合合合合わせ 「「「「どうかご無事でありますように」」」」
れんこう
とととと、、、、祈祈祈祈るるるる人々もおりましたが、、、、評定所へへへへ連行
や は ん
ど
る
ざ
い
された大聖人様はははは、、、、その日日日日のののの夜半、、、、一切のののの取取取取
さ
じっさい
りりりり調調調調べもなく、、、、平左衛門尉より 「「「「佐渡流罪」」」」
わた
おもてむ
をいい渡渡渡渡されたのでした。。。。
もの
けいかく
しかし、、、、これは表向きのことで、、、、実際には
な
大聖人様をををを亡亡亡亡きききき者者者者にしてしまおうと計画がががが立立立立
てられていました。。。。
- 14 19 分の
竜口の法 難
はだかうま
くび
たつのくち
れんこう
しょけいじょう
大聖人様はははは裸馬にににに乗乗乗乗せられ竜口へと連行ささささ
う
れることになりました。。。。
と う じ ざいにん
竜口はははは当時罪人をををを打打打打ちちちち首首首首にする処刑場であ
ひと し
りました。。。。つまり、、、、人知れずひそかに大聖人
くび
つるがおか は ち ま ん ぐ う
様様様様のののの頸頸頸頸をををを切切切切ってしまおうとしたのです。。。。
いっこう
お
大聖人様をををを連行する一行がががが、、、、鶴岡八幡宮のののの
まえ
前前前前にさしかかったとき、、、、大聖人様はははは馬馬馬馬から下下下下
なんじ
りられ大大大大きな声声声声でででで、、、、
は ちま んだい ぼさ つ
「「「「八幡大菩薩よよよよ!!!!汝汝汝汝はははは法華経のののの行者をををを守守守守るべ
ちか
おもむ
くくくく固固固固くくくく誓誓誓誓いを立立立立てているにもかかわらず、、、、今今今今
し ざ い
いったい
日蓮がこのように死罪にににに赴赴赴赴かんとするに、、、、いいいい
し ゅ ご
かみ
まだ何何何何のののの守護もない。。。。一体どうしたことか。。。。
しんじつ
たま
八幡大菩薩がががが真実のののの神神神神であるならば、、、、いそぎ
まも
いそぎ、、、、その誓誓誓誓いを守守守守りりりり給給給給ええええ」」」」
いさ
かいどう
とととと、、、、八幡大菩薩をををを諫諫諫諫められました。。。。
しっせき
大聖人様のののの叱責にににに街道でででで見守るるるる人々やややや信者
達達達達はははは、、、、手手手手をををを合合合合わせて、、、、御題目をををを唱唱唱唱えておりま
した。。。。
- 15 19 分の
竜口の法 難
でんせつ
もち
伝説によりますと、、、、大聖人様がががが竜口のののの刑場
ろ う ば
へへへへ向向向向かう時時時時、、、、一人のののの老婆がぼた餅餅餅餅をををを差差差差しししし出出出出ささささ
れました。。。。
しょうにん
ただいま
「「「「おおおお聖人様、、、、おいたわしゅうございます。。。。ここここ
ばあ
れはこの婆婆婆婆がががが、、、、只今こしらえたぼた餅餅餅餅でござ
め
く よ う
います。。。。どうか召召召召しししし上上上上がって下下下下さいませ」」」」
まごころ
大聖人様はこの老婆のののの真心のぼた餅供養をををを
大変ありがたく思思思思いいいい、、、、ぼた餅餅餅餅をををを差差差差しししし出出出出すすすす老婆
やさ
をををを優優優優しく見見見見つめられながら、、、、
しんじつ
「「「「真実のののの法華経のののの行者であるこの日蓮にににに、、、、ぼぼぼぼ
く ど く
たたたた餅餅餅餅をををを供養する功徳ははかりしれないものが
こころざし
ありましょう。。。。このありがたい真心、、、、たしか
どの
にお受受受受けしました。。。。しかしおばば殿殿殿殿、、、、その志志志志
はははは帰帰帰帰りに頂頂頂頂きましょう」」」」
やくそく
とととと、、、、必必必必ずずずず生生生生きて帰帰帰帰られることを約束されまし
かくしん
たたたた。。。。そして、、、、この老婆はははは、、、、この力強いいいい確信にににに
み
充充充充ちたお言葉にににに目目目目をうるませながら、、、、一心にににに
うしろすがた
御題目をををを唱唱唱唱えて、、、、刑場へへへへ引引引引かれていく後姿をををを
おおおお見送りりりり申申申申しししし上上上上げたと伝伝伝伝えられております。。。。
- 16 19 分の
竜口の法 難
いっこう
さら
あゆ
つか
ゆ
い
大聖人様のののの一行はははは更更更更にににに歩歩歩歩みを進進進進めめめめ、、、、由比ヶヶヶヶ
はま
こと
し だ い
浜浜浜浜をすぎたあたりで、、、、大聖人様はははは使使使使いをつか
し じ ょ う き ん ご
わして四条金吾にににに事事事事のののの次第をををを知知知知らせました。。。。
い ち だ い じ
大聖人様のののの一大事をををを聞聞聞聞いた四条金吾はははは、、、、夜夜夜夜
す あ し
中中中中にもかかわらずしかも素足のまま、、、、ただち
か
にににに大聖人様のもとへ駆駆駆駆けつけました。。。。
そして、、、、馬馬馬馬のくつわにとりすがって
さけ
「「「「大聖人様がががが頸頸頸頸をををを切切切切られるならば、、、、金吾もももも必必必必
ずお供供供供をいたします」」」」
ばじょう
とととと涙涙涙涙をををを流流流流しながら、、、、馬上のののの大聖人様にににに叫叫叫叫ばれ
ました。。。。
大聖人様はははは、、、、この四条金吾のののの姿姿姿姿をををを見見見見つめら
れれれれ、、、、
ささ
「「「「何何何何をををを悲悲悲悲しんでおるのだ。。。。今日蓮はははは、、、、この頸頸頸頸
はか
し
ほど
をををを法華経のののの為為為為にににに捧捧捧捧げようとしているのです。。。。
く ど く
この功徳はははは計計計計りりりり知知知知れない程大きいのです」」」」
この大聖人のののの尊尊尊尊いいいい姿姿姿姿にににに、、、、四条金吾はははは深深深深くくくく感感感感
動動動動しししし、、、、涙涙涙涙をふき払払払払って、、、、ただ一心にににに御題目をををを
唱唱唱唱ええええ続続続続けて、、、、大聖人様のお供供供供をして竜口へと
向向向向かっていきました。。。。
- 17 19 分の
竜口の法 難
竜竜竜竜のののの口口口口のののの刑場では大聖人様のののの身身身身をををを案案案案じて弟弟弟弟
おおぜい
さむらいたち
子子子子やややや信徒達がががが大勢集まっておりました。。。。更更更更にににに
け い び
念仏のののの者達やややや役人、、、、警備のののの侍 達がががが見守るるるる中中中中、、、、
とうちゃく
やがて大聖人様のののの一行がががが到着しました。。。。
大聖人様はははは頸頸頸頸のののの座座座座につき、、、、ゆうゆうと御題
目目目目をををを唱唱唱唱ええええ出出出出されました。。。。
「「「「南無妙法蓮華経、、、、南無妙法蓮華経・・・・南無妙
法蓮華経
・
・
・
・
・
・
」」」」
いっせい
よ ぞ ら
ひび
集集集集まって来来来来たたたた弟子やややや信徒達もももも一斉にににに声声声声をををを合合合合
しょうわ
・
・
・
・
・
・
・
・
」」」」
けい
しっこう
つ
わせて、、、、唱和する声声声声がががが竜口のののの刑場のののの夜空にににに響響響響
わた
きききき渡渡渡渡っておりました。。。。
と
ご か く ご
ち
「「「「御覚悟を
た
太刀取りが大聖人様にににに刑刑刑刑のののの執行をををを告告告告げげげげ、、、、
ふ
あ
((((ゆっくりめくりながら))))
かたな
お
刀刀刀刀をををを大大大大きく振振振振りりりり上上上上げげげげ、、、、大聖人様のののの頸頸頸頸をめがけ
ふ
てててて振振振振りりりり下下下下ろそうとした、、、、
しゅんかん
その瞬間!!!!
- 18 19 分の
竜口の法 難
パァーッと、、、、
空空空空にまぶしい光光光光りりりり物物物物がががが飛飛飛飛びました。。。。
「「「「あっ、、、、目目目目がががが見見見見えない
きょうれつ
」」」」
・
・
・
・
く び き
ふ
首切りりりり役人はははは、、、、その強烈なななな光光光光りに目目目目がくら
たお
と
かこ
んで、、、、倒倒倒倒れれれれ伏伏伏伏しました。。。。
まわ
に
また、、、、周周周周りに取取取取りりりり囲囲囲囲んでいたたくさんの兵兵兵兵
きょうふ
ふたた
士士士士たちも、、、、恐怖におののいて逃逃逃逃げげげげ出出出出してしま
いました。。。。
おそ
首切りりりり役人はははは、、、、恐恐恐恐れのあまり再再再再びびびび刀刀刀刀をををを振振振振りりりり
いのち
た
上上上上げることはできませんでした。。。。
けっきょく
結局、、、、大聖人様のお 命命命命 をををを断断断断つことはでき
ませんでした。。。。
- 19 19 分の
竜口の法 難
この時時時時、、、、大聖人様はははは世界中のののの人々をををを救救救救うううう本本本本
ご ほ ん ぶ つ
ぞ
ね う し
当当当当のののの仏様、、、、御本仏であることが明明明明らかになっ
たのであります。。。。
こ
このことについて大聖人様はははは
こ
こんぱく さ
ど
くに
「「「「日蓮といいし者者者者はははは去年九月十二日子丑のののの時時時時
くび
ぼ ん ぷ
せいめい
しん
にににに頸頸頸頸はねられぬ、、、、此此此此れは魂魄佐渡のののの国国国国にいた
うんぬん
りて云々」」」」
もう
およ
とととと申申申申され、、、、凡夫としての生命から真真真真のののの仏様のののの
しんみょう
生命にににに変変変変わったと明明明明かされています。。。。
く お ん
ご ほ ん ぶ つ
おすがた
大聖人様はこの竜口のののの法難という身命にににに及及及及
たいほうなん
ぶぶぶぶ大法難のののの中中中中でででで、、、、久遠のののの御本仏としての御姿
をををを示示示示されたのであります。。。。
ぐうぜん
またこの法難はははは、、、、偶然起こったものではあ
お ふ る ま い
りません。。。。大聖人様のののの法華経をををを体体体体でででで読読読読んだ、、、、
きょうもん
経文通りの御姿、、、、御本仏のののの御振舞であります。。。。
ご
私私私私たちは、、、、この御本仏日蓮大聖人様への御御御御
ほうおんかんしゃ
報恩感謝のののの気気気気もちをぜったいに忘忘忘忘れずに、、、、毎毎毎毎
はげ
日信心にににに励励励励んでいくことが大事なのです。。。。
以上でででで終終終終わります。。。。