Untitled - 大学と社会のあいだ

「大学と社会のあいだ」展
武蔵野美術大学 鷹の台ホール B 課外センター展示室
2015 年 5 月 19 日 ( 火 ) - 5 月 22 日 ( 金 )
大学と社会のあいだ
---- よせ集めの企画展 ----
この展示は、中原佑介の批評文、人間と物質展以前に行われた読売アンデパンダン展、
そして規制によって終わった理由を参照し、企画された。制限の中のアートについ
て反応し、考える。
この企画展はテーマや作風で縛った一般的意味のグループ展ではない。学生作品の
いわゆる狭い視野と若者特有の肥大された自意識で自己完結している気持ち悪い感
じを大学といういわば完結された世界から、社会まで誘導するのが今回の展示であ
る。その未熟さを含めた展示行為の結果が「大学と社会のあいだ」である。
夏に行われた横浜トリエンナーレのシンボルだったビンは審査を通ったものしか捨
てる事が出来ない。国際展では規制が厳しいため、作品の広がりが縮小し、多様性
を無くす事になっている。遠い国で映画のように撮られた残虐な映像をテーマに、
もしも作品を作っても公開されることはないだろう。
未熟な学生に残されている権利は自由なことである。
美術の文脈に法って作品を制作しなくても良い。アートを方法論的に考えなくても
良い。広告的にならなくて良い。
自由…だからこそ境目を超える義務が私達にはある。
自由…だからこそ境目を超える義務が私達にはある
どこからも抑制を受けない学生達がプロにできない作品を出すべきなのだ。
今回の企画展では 21 人の学生作家が参加しているが、全くまとまりはない。なぜな
ら「社会と大学のあいだ」というテーマを元に、制作し、その展示の場に集まった
だけだからだ。21 人は円になることもなく、各々が違う方向を目指している。
制限もなにもない環境の中で、社会という大きな問いで、独りよがりではない、応
答する態度を「今」示したい。
集合写真
プライベート・ビーチ
中島侑輝
小林こう平
2015 年
2015 年
必然的に社会関係の網目の中に存在している私たちにとって、集合写真
の撮影は日常的に発生するものであり、私たちはそれを何事も無く受け
入れている。集合写真の表面。そこには、ばらばらな肉と肉の立体の集
4 年前の原発事故が原因で、避難解除準備区域※に
指定されている福島県楢葉町の海岸。先日、ゴール
合が、一つの平面を見せる一瞬が記録されている。記録された平面はま
デンウィークに遊んできました。僕以外、誰もいな
るでひとつの生き物のように団結されていて、ひとつひとつの顔を見る
いので「プライベート・ ビーチ」です。
(※
「立ち入
と、どこか不自由で気味が悪く、はっきりいって気持ちが悪い。写され
りは自由、居住は不可」となっている地域。なお、
た自分の顔を見ると、本当の自分ではないように感じるかもしれない。
だが、平面の中で無意識的に活動をし健康を手にしてしまっているその
姿こそが自分そのものである。そして、平面化されることで、平面が構
楢葉町では届出をすれば、4 月 6 日から 3 ヶ月間の
宿泊(帰還)が認められている
成される以前に確かにあったはずの、どこまでもつきまとう得体の知れ
ない違和感に対して圧倒的な無視をする、つまり蓮實重彦が云う所の「充
実した過剰による世界の畸形的変容の虚構化」という、世界の真理のよ
うであり、生きるための行為そのものに、私は違和感と気味の悪さを抱
き続けている。
選別(通過儀礼)
ここから見えるあそこのあれ
前田博雅
近藤千尋
2015 年
2015 年
社会において、我々は常に戦っている。どんなに真面目でも社会に適応
私の作品は齟齬や誤解、理解し合えないことをテーマのひとつとしてい
できなければ捨て去られ、生き血を吸われ、順応できてもあらゆること
る。この作品は言語、文字によって構成されている。言語は伝達の時点
に対して見方を変えたり盲目となったりせねばならない場面がある。大
で齟齬、誤解の生まれやすいメディアだ。 さまざまな情報が溢れる現代
学も1つの社会の形であって、極端には1対1の人間関係から、既に社
では読み書きの教育も充実し、昔に比べて言語を使う機会、使う人々の
会は始まっているのだ。こんなことを言っていられるのは自分がまだ学
層がとても多くなった。それに伴い、齟齬や誤解も増えているだろう。 生だからであって、最後のモラトリアムに浸っているからであろう。自
私たち人間は恐らく、すべてを理解しあうことは不可能だ。しかしだか
分の中にある漠然としたイメージを表出するには、超現実主義のような
らといって何もできないことはない。 この作品は表面の言葉がすべてで
形をとる必要があった。そのスローガンであった現実への懐疑、抵抗は、
形をとる必要があった。そのスローガンであった現実への懐疑
はない。この下に思惑を重ねた。その思惑をこの作品をすべての観賞者
私のイメージに近かったためだ。事実、ダリや石田徹也からは多くの影
に分かってもらいたいというわけではない。ただ、少なくとも観賞者は
響を受けている。しかし私は同時に、写真を用いての表現を試みたいと
表面の言葉の意図を読み取ろうと各々考えると思う。表面の言葉からで
も思った。写真によって現実と虚構が拮抗した様子を表現できるのか。
も下に重なった存在を感じ、それによって何かを思うこの「理解」への
或は虚構ゆえの皮肉、おかしみが現れるのか。その実験的な位置づけと
プロセスをこの作品で起こしたい。
して、この作品を制作した。
情報の墜落Ⅱ
情報の墜落Ⅰ
麦倉弘人
2015 年
麦倉弘人
2015 年
飛行機が『飛ぶ』ことの対義には『墜落』がくる。この「飛行機」を「情報」に置き換えた場合、
『情報』の『墜落』とは何を意味するのか。情報
が受け手まで無事に届かないことを『墜落』と呼ぶのならば、現代社会には情報の墜落が数多く存在する。或いは傷だらけで向こう側まで辿り着
いたとしても、それは本当に伝えたかった内容ではなくなっている。情報にはほとんどの場合、何重にも重なったフィルターがかかっている。現
代社会では誰でも簡単に情報を発信することができるようになった。しかしそこに誤った情報が紛れ込むことで正確な情報は埋もれ、伝えたい人
まで届きにくくなっている。更に視野を広げるとマスメディアや権力等によっても情報は操作され、
傷を負ってしまう。そんな現代社会における
『情
報』を、小さい頃から親しみがあり誰でも簡単に飛ばすことができ、尚且つ風により行方が左右され、最後には必ず墜落する「紙飛行機」に例え、
作品にした。
協調性アントシアニン
西野水穂
第三者は事実を知り得ない
久保佳織
2015 年
2015 年
社会って考えたときにパッと思いついた言葉は協調性である。日本の教育
は児童たちに将来を見据えて協調性を持たせるよう学ばせてきたはずだっ
た。そのわりには協調性をしっかり身に付けている人間は少ない。むしろ
自分の身は自分で守れという感じがじわじわ伝わってくる。すべての人間
が協調性を持っていれば人間が人間に防御を使うことはなかったのではな
たくさんの情報、価値観があふれている現在、事実を知
いだろうか。
ることはほとんど出来ないのではないかと考えます。また
この作品ではまるでまだサナギから羽化したばかりの蝶や蛾をイメージ
その「事実」でさえあいまいなもので、
「限りなく事実に
して撮影した作品であり、その羽は身を守るために進化されていて鮮やか
近いもの」は当人にしか分からないのではないかというこ
で、しかしなんとも弱々しい。きっと社会でもまれて生きている人間もこ
とを、描きたいと思いました。
んな感じなのだろうと思い制作した。
Lovely - 人間が人間だったとき -
痕跡
富野里咲
大寺史紗
2015 年
2015 年
もう戻れない時間があるとわかったとき、
暗い閉鎖的な世界の中から溢れ出るもの、今しか見えないものを表
とてもさみしい気持ちになります。この作品は今まで
現していきたい。自分と自分が対峙した時に、生まれてくるものに
の人生と社会に対する気持ちです。
依存しながら、縋るような気持ちで描いています。線の集積でしか
生み出せない質を追い求めています。
かくれんぼ
プレゼンテーション
鈴木寧菜
鶴澤舞
2015 年
2015 年
ふとっ、子供の頃、よくシーツを被って遊んでいたのを思い
「大学と社会のあいだ」をテーマに、一人で八名分の美大生の作品プレ
出した。あの頃はシーツ被れば見つからないと思い、隠れた
ゼンテーションを仮想した作品です。美大生のステレオタイプへの皮
気分になって遊んでいた。もちろん全く隠れきれていないが、
肉というより、複数の視点を演じることで「私の作品のどこまでが私
当時の私は本気で隠れているつもりになっていた。この作品
か」という疑問に向き合うことがこの作品の目的になっています。技
は、そんな子供の頃の気持ちを表現したものだ。
法や媒体、主題の選択がそのまま私の代名詞=個性となるのでしょう
か、それらを透明にしたとき、作者の匂いは作品のどこから発せられ
るものなのでしょう。
間
シャ怪人
島村愛美
尾坂月乃
2015 年
2015 年
完成を求めて突き進む姿が美しいと思った。完成を追い求めてふ
たつの間を行ったり来たりする。そして赤く熟していく。
現代に潜む怪人を見つけて取り上げる、空想現代怪人シリーズの第 1 作。今回は
「シャ怪人」を取り上げる。展示をすることで「シャ怪人」の実在感が出て、現
実と虚構との境が曖昧になっていく。
「毎年およそ 90 万人の新社会人が誕生する現代。15 ~ 64 歳の人間は生産年齢人
「毎年およ
とされ、昨日まで学生だった子供がいきなり次の日には社会人として大人になる
ことを求められます。そこに現れたシャ怪人とは、
何者か?シャ怪人が実際に使っ
ていた道具や分析資料など、様々なものを通して、シャ怪人を身近に感じていた
だきます」
begin (左)
biophobia
繋がる日まで (右)
松下沙織
2015 年
野中美里
2015 年
Begin については、瞬きしている間にも刻一刻と、変わっていく生
女という生物に対する愛や憧れ、憎悪と生理的嫌悪をまとめて縛って祀
り上げた様子。女は生命の源であり繁栄の象徴であるとともに生理・妊娠・
出産につきまとう不浄を穢れとして隔離された。つまり生命の発生は祝
うべきことであるとともに忌諱することでもあるということになる。子
物の姿を描きました。
宮はハレ(祭礼)とケガレ(非日常あるいは死)の混ざり合う場所だ。
繋がる日までについては、日本と韓国の間で起こっている問題など
自然 [ バイオ ] に肯定的な反応を示す『バイオフィリア』と、反対に生
現地に行き、感じたことを風景を再構成し描きました。
理的嫌悪を示す『バイオフォビア』は一心同体であり、また矛盾し合っ
ている。
ている
常 (上)
陰(下)
佐藤洸
2015 年
僕は部屋で白い小鳥を飼っている。
弱った小鳥は、病気や怪我を、本能的に隠すらしい。
だから、僕は毎日 鳥カゴを覗き込む。
弱った人間も、弱った自分を隠すらしい。
弱った人間を見つけるのは難しい。
見えない激動
群居図・不楽タル兎
山本紀子
奥山樹希
2015 年
2015 年
形だけでは大きな動きは見れなくなった現代の社会。誰でも情
ウサギは群居する動物で、彼らの中での社会があり行動します。ここでは
報を発信できるようになり、また受け取ることも自由になった
それらの自然的な配置は無視し等間隔の配置に置き換えることで、世界の
現代では、今まで以上に膨大な情報量が公の場に流れるように
フラット化を描きました。
なった。思想やモラル、個人の道徳観や主張、様々な情報が行
き交っては、大きな流れを生み出す。その激動は目には見えず、
人々の会話から生まれて始めて気付くだろう。これからの社会
はどんな形になっていくのだろうかと考えながら今回の作品を
制作しました
制作しました。
a girl
わたしが撮りたかったものは、一瞬の光です。人生を花に例えることがありますね。美
しさや若さは永遠ではないと、図らずも人は知っています。光を見たこと、心が動いた
こと、あなたとわたしが一緒に居たこと。それらは始まりと終わりの間にあり、二度と
起こらない時間です。その偶然がとても可笑しく、愛おしいのです。わたしにとって写
林花
真はラブレターです。カメラを通した会話です。ポートレートを撮る時、他人の時間を
留めるという行為に責任と不安を感じます。それでもわたしが人の「今」を残したいと
2015 年
思うのは、
気付かない間に過ぎてしまう「
気付かない間に過ぎてしまう「彼 / 彼女」の一瞬を、
「わたし」が大切に思うからです。
enicaita_
浮く男
佐久間結
森田貴之
2015 年
2015 年
とあるムサビ生が言っている言葉
男は小川から流れてくる緑の液体を集めた。それを、バケツに入れ
「授業だるー」
て持ち帰った。その液体は、
草や葉の緑にはない、
光沢を持っていた。
「●●学科の就職先ってどこなの?てか就職先ってあるの? ( 笑 )」
男はそれをつかい、物に塗っていく。何度も何度も塗っていく。そ
「これってやる意味あるわけ?」
…
の内に、男は物が元々何色だったかを忘れていく。小屋のもの全て
大学って不思議な空間だと思います。大学に行かなくても生きて
に緑が塗られた時、男は今までにない感覚を手に入れた。その感覚
いこうと思えば生きていける。なのに、今の日本ではほとんどの
は、水中にいるときに近い。塗られた緑は、
「現実」の時間と場所
人が人生において立ち寄る場所。
を生むことを否定する。ものの文脈を削がれた独立した存在に移り
そこに何がなくて、何があるのか。それを見付けることができる
変わる。男は、適応や混乱、操作をする事をやめ、その空間で体全
のは、あなただけ、そう思います。
体を浮かせ続けることができた。
大学と社会のあいだ
作家一覧
広報協力
大寺史紗
3331 Arts Chiyoda: アーツ千代田 3331:3331 ARTS CYD
奥山樹希
東京オペラシティ アートギャラリー
尾坂月乃
東京都現代美術館
久保佳織
東京ミッドタウン・デザインハブ
小林こう平
府中市美術館
近藤千尋
佐久間結
佐藤洸
鈴木寧菜
島村愛美
鶴澤舞
富野里咲
展覧会
中島侑輝
西野水穂
企画
野中美里
森田貴之
林花
前
田博雅
松下沙織
フライヤーデザイン
中島侑輝
麦倉弘人
森田貴之
アーカイブ資料作成
山本紀子
前田博雅
おわりに
この展示をするきっかけになったのは、課外センターという場所が利用できる機会をもらえたから
です。この場所は、本校に在学している学生限定の展示室です。半年ごとに応募を受付けて、多い
場合は抽選となります。企画がまともであれば、ほとんど通るでしょう。それは、なぜかというと
学内の奥にある、いかにも誰も来ない場所だからです。人気がないんです。
私は企画を出した時点で、どれだけ集客できるのかという意志も強くありました。広報では、美術
館に問い合わせ、置いてもらえる所を探しました。学内の展示であるにもかかわらず、いくつかの
美術館に置いてもらえる事になりました。その成果か定かではないですが、4 日間で 400 人以上の
人が来てくれました。
参加作家は、私自身が選び、21 人を決めました。私が今、興味が在る人に声をかけ、自由に作品を
参加作家は、私自身が選び、2
作ってくれそうな人を選びました。すでに外で展示したことがある人がほとんでしたが、展示が初
めてという人も数人いました。いざ、展示が始まってみると作品の質に幅が出過ぎてしまいました。
それは、展示経験の問題ではなく、作品の見せ方で損をしている印象が少なからずありました。
そして、作家の選抜が成功していないことで、キュレーションの曖昧さが露呈し、展示自体の批評
性を欠いてしまう結果になりました。
とはいえ、展示を見られていない人に少しでも伝わってほしいという思いで記録に残します。
森田貴之