原告の陳述書

 陳 述 書 平成27年2月19日 原告 大平 勝美 1 私の父大平幸治は、昭和 3 年生まれで、昭和 28 年 1 月 1 日から、旧エタニット大宮工場で働き始め、鷲宮工場に
移転してからも昭和 57 年 12 月 7 日まで働きました。大宮工場へは自転車で 30 分位かけて通っていました。朝 7 時
頃家を出て、夜 7 時位には帰ってきていました。 昭和 55 年頃でしょうか、父は、1度、私に会社の話をしてくれました。 「自分の肺には手術では取れない細くて小さい石綿の粉塵が刺さってるんだ。 同僚はじん肺4で、自分は3だ。」
と。四畳半の部屋の中で、父は動揺する気持ちを押し隠しながら、3 人の子供のうち、私だけに吐露してくれたの
です。ところが、私はその時はよくわからず、聞き流してしまいました。特に配置換えなどされたようでもなく、
それほど深刻なことではないと感じてしまったからです。 2 昭和57年に退職し、父は自分の好きな植木いじりや地元のお祭りなど、いろいろな事を楽しんでいました。
家族のために長年働いてきた父が、自分自身のために楽しんで長生きしてくれることを私も喜んでおりました。 3 ところが、平成14年のはじめ頃、急に咳やたんなどの症状が現われ、同年6月頃に病院で肺癌と診断されま
した。医師には、余命6ヶ月と言われました。他の内臓はまったく異常はないが、肺だけはボロボロの状態だと
言われ、レントゲンを見せられ驚きました。私は医師に、
「父は以前、石綿を使っていた会社で働いていて、じん
肺ということを聞いているが、それと関係があるのでしょうか」と医師に尋ねたところ、医師は首を傾げるだけ
で答えてくれませんでした。 4 父は手術入院し、いったん帰宅しましたが、薬を服用するようになり、入退院を繰り返しました。7月に父の好
きな祭りを見に行きましたが、いつもなら皆と雑談する父が、身体が辛かったのでしょう、少したつと歩きだし、
一人山車の柱に寄りかかり、肩で呼吸をしていました。私はそれを見てやるせない気持ちになりました。あんなに
元気だった父がか細く、小さく見えました。父には病名は告げていませんでした。 それから父は日に日に体調が悪くなり、翌年には痛み止めの薬も効かない状態になり、呼吸をしても酸素が身体
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に行き渡らない状態に至り、それはもう苦しそうで見ていられませんでした。 平成 15 年 3 月 2 日、父は、全身汗だくになり、手足の指は血色をなくし、自分の意志とは関係なく内側に曲がり
始め、意識が遠のき、亡くなりました。私達家族は何もしてあげられず、辛く悔しかったです。文章にして、ただ
読み上げるだけでは、あの時の父の苦しさ、私たちの辛さなど到底わかって頂けないと思います。 5 国がアスベストの危険性をわかっていたのも関わらず、その対策に至らず、このような結果となり、非常に残念
でしかたありません。もっと早期に対策を考えていてくれれば、父はもっともっと元気でいられたと思います。 この裁判を提訴して調べていくうちに、昭和 25 年には、通産省など国の役人、自治体関係者、学者に交じって、
エタニット社も委員となってエタニットパイプのJIS規格を決めたことを知りました。その規格の中には、エタ
ニットパイプを水圧で破壊してみて、強度を記録する試験もありました。その他にも、原料の吹き上げ、パイプの
切断や、溝掘りのサンダー掛けもあります。それなのに、国は、局所排気装置も、マスクも義務付けなかったので
す。労働監督権限も行使されていませんでした。JIS規格を決める際に、そのメーカーが入るのであれば、当然
にそれを普及しやすいように決めてしまうでしょうから、労働者や環境のことはないがしろにされてしまいます。
現に、エタニット社は安全教育などやりませんでした。昭和 55 年の水道管の約25%がエタパイだったそうで、全
国の地下に8万㎞ものエタパイが埋められていたそうです。今は、エタパイが鋳鉄管などに取り替えられつつある
そうですが、その工事でのアスベスト飛散の危険性が広報されるようになったのは、クボタショック後です。その
前はほとんど広報らしい広報がなかったようですから、これまでの取り替え工事でも多くの人がアスベスト被害に
あっていると思います。 JIS規格もあり、安全なものと思い込んで、父は誇りをもって働いていたのです。国がアスベストの危険を知ら
せてくれていれば、アスベストを扱う会社で、肺だけボロボロにされ、息ができない苦痛の中で亡くなることもな
かったのです。父は、会社にも国にも見殺しにされたのです。 6 最後に、皆さんに一言 言わせてください。もし貴方ご自身のご家族がアスベスト被害にあったとしたら、きっと
私と同じ思いをし、私と同じ行動をしたのではないでしょうか。 以 上 2