むせん会報誌第70号を掲載

む せ ん 第 70 号 目 次
1
平成24年度上半期事業実施概要
1.会員の動き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
2.東京無線支部定期総会 ・・・・・・・・・・・・・・・ 1
3.慶弔 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
4.支部会報の発行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
5.電話順送表の配布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
6.サークル活動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
7.役員会および常任幹事会 ・・・・・・・・・・・・・・ 2
8.本部理事会、常任幹事会および総会など ・・・・・・・ 2
2
東京無線支部定期総会模様 ・・・・・・・・・・・・・・・ 3
3
平成24年度上半期サークル活動状況 ・・・・・・・・・・ 5
1.サークル活動実施結果 ・・・・・・・・・・・・・・・ 5
2.各サークル活動状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
4
干支だより ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 37
5
追
憶
岡部
恒雄さんを偲ぶ
故
中田
故
松尾
中田
隆士さんを偲んで
隆士さんを偲んで
針生
昌次さんを偲ぶ
寛(ひろし)さんと山を想う
林
義昭 ・・・ 44
齋藤
隆 ・・・ 45
浅井
重男 ・・・ 48
清水
勉 ・・・ 49
髙尾
忠男 ・・・ 50
6
7
随
想
自動車電話など創成期の思い出について
星野
達也 ・・・ 52
留学生がやってきた
向後
幸作 ・・・ 55
古里の思い出
加藤
實 ・・・ 57
筑波山自然インストラクターを目指して
桜井
浩 ・・・ 59
花の百名山縦走記
井上
(大雪渓から白馬岳、朝日岳、白馬鑓ヶ岳)
克良 ・・・ 61
お知らせ
1.新入会員の紹介 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69
2.高齢者叙勲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69
3.余栄 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69
4.長寿番付十傑 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69
5.物故者の職歴など ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 70
6.その他
(1)ボランティア活動関東電友会会長賞受賞
・・・ 71
(2)支部ホームページのリニューアル ・・・・・・・ 71
8
無線中継所の今昔物語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 72
編集後記
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 74
1 平成24 年度上半期事業実施概要
1.会員の動き
東京無線支部の会員は、平成24度上半期末には前年度末より3名減の625名と
なりました。名誉会員は149名、女性会員は6名です。
(新入会員は9名、物故者8
名、退会者4名)
。今後も未加入の方の勧奨に努めます。皆様もお知り合い等で未加入
の方がおられましたら勧奨をお願いいたします。
23年度
24年度上期
625 名
628 名
新入会員数
15 名
物故者数
退会者数
前期末会員数
当期末会員数
地 区 名
会 員 数
東京(関東以外を含む)
159名
9名
神奈川
130名
10 名
8名
千葉(茨城を含む)
211名
2名
4名
埼玉(栃木・群馬を含む) 125名
628 名(名 127)
625 名(名 149)
(女 7)
(女 6)
計
625名
注:( )内は名誉会員数、女性会員数の再掲
2.東京無線支部定期総会
第44回定期総会を平成24年6月16日(土)
、新宿の東京オペラシティ24階の
NTTセミナールームにて開催し121名(来賓4名、
会員117名)が出席しました。
詳細は本号の2「東京無線支部定期総会模様」をご覧下さい。
3.慶弔
(1) 迎寿のお祝い
平成24年度に米寿(10名)
、喜寿(27名)を迎えられた方々に、総会当日、
支部長よりお祝い状と記念品を贈呈しました。
○米寿(10名)
(生年月日順)
西坂 敏治 様
高橋定三郎 様
沼尾
博 様
三品 光雄 様
新良貴 守 様
兼坂 幸治 様
高波
昇 様
尾形 勝郎 様
大久保友一 様
石塚 春夫 様
○喜寿(27名)
(生年月日順)
杉浦 鈴男 様
岩澤 國男 様
田口
大野
細川 正典 様
福岡 利夫 様
小暮 良作 様
鈴木 四郎 様
青沼
小高 正夫 様
板川 凡夫 様
吉田 哲夫 様
今井 正敏 様
小泉
藤井 一明 様
毅 様
実 様
- 1 -
明 様
浩 様
南
松市 様
松浦 武志 様
前田 敏郎 様
木村 博光 様
岡田
實 様
荒木 輝雄 様
安藤
巌 様
村上 芳昭 様
金田
博 様
高柳 義雄 様
高木 邦寛 様
渡辺 晴夫 様
(2)ご逝去
平成24年度上半期中に下記の8名の方々がお亡くなりになりました。謹んでご冥
福をお祈りいたします。なお、告別式には支部代表が参列し、香華をお供えいたしま
した。各故人の職歴などは本号の7「お知らせ」をご覧ください。
倉井 正治 様
森田 直也 様
岡部 恒雄 様
福田 憲治 様
中田 隆士 様
森
針生 昌次 様
松尾
泰男 様
寛 様
4.支部会報の発行
会報「むせん」第69号を平成24年6月27日(水)に、全会員あて発送いたしま
した。
5.電話順送表の配布
平成24年度の電話順送表を平成24年8月29日
(水)
に全会員に配布しました。
6.サークル活動
17サークルに入られている方々が、親睦と気力の活性化、健康の維持に努めてお
られます。活動模様は本号の3「平成24年度上半期サークル活動状況」をご覧下さ
い。
7.役員会および常任幹事会
役員会を3回(平成24年4月23日〈月〉
、6月27日〈水〉
、8月29日〈水〉
)
常任幹事会を3回(平成23年5月21日〈月〉
、7月25日〈水〉
、9月28日〈金〉
)
開催しました。審議事項は次号で24年度分まとめて掲載することと致します。
8.本部理事会、常任幹事会および総会など
本部理事会に2回(平成24年4月18日〈水〉
、7月18日〈水〉
)
、常任幹事会に
1回(平成24年5月11日〈金〉
)出席しました。また本部総会(5月26日〈土〉
)
には10名の無線支部役員が出席しました。
- 2 -
2 東京無線支部定期総会模様
平成24年6月16日(土)、東京無線支部第44回定期総会が東京オペラシ
ティタワー24階のNTTセミナーハウスで開催されました。当日は梅雨の最中、
小雨模様で出足が懸念されましたが、定刻前に会場の席も大部分が埋まり、予定
通り11時に高尾副支部長の司会で開会。議事に先立ち、平成23年度に亡くな
られた10名の会員の方々のご冥福を祈り黙祷をささげました。
最初に近藤支部長の挨拶があり、
「 東日
本大震災での会員の皆様方の力強い協力、
また支部活動に対する協力に感謝すると
ともに、支部としての最重要課題は新規
会員の獲得であり、23年度は最近10
年ほど右肩下がりの傾向に歯止めがかか
ったが、引き続き会員各位の協力をお願
いしたい。またNTTグループへの我々としてできる協力を推し進めたい、など
の挨拶がありました。続いて、来賓として、NTT東日本総務部重田様、関東電
友会副会長前田様の紹介があり、代表と
して、関東電友会前田副会長から東日本
大震災への協力に対するお礼と、全国の
各地方本部でも会員の獲得に苦慮してい
る状況の中で関東電友会としての総会員
数 10,000 名の維持が喫緊の課題であり、
23年度で獲得コンテストを企画したと
ころ、各支部の強力な活動により、23年度は目標を達成することができました。
引き続支部のご協力を得たい」との挨拶がありました。
式次第により、支部長が議長席に着き早速議案審議に入りました。
第1号議案「平成23年度事業報告(実施概要、収支計算、会計監査報告)に
ついて吉田副支部長、岩澤監事から説明、第2号議案「平成24年度事業計画(活
動計画、予算書案)、第3号議案「支部役員の選任」について吉田副部長から説明
し、全て満場一致で承認されました。
続いて、永年にわたり無線支部の運営に携われ、このたび退任されることにな
りました吉田哲夫様、岩澤國男様、阿部新治様の3方に対し関東電友会会長表彰
として関東電友会前田副会長から感謝状が贈呈されました。
今年度の迎寿は米寿10名、喜寿27名ですが、当日総会に出席された米寿5名、
- 3 -
喜寿18名の方へ支部
長からお祝い状と記念
品をお贈りしました。
また、今回交代した
新旧役員の紹介があり、
総会を予定どおり終了
しました。なお、迎寿
の出席者23名の集合
写真撮影を終え、会場
をNTT東日本本社ビ
ル3階の食堂へ移し懇親会を開会しました。
まずは、支部長から「会員の皆様のご協力により、総会も滞りなく終了しまし
たことに感謝します」との挨拶がありました。続いて来賓の紹介があり、来賓を
代表して NTT-Com テレビジョンセンター所長三木様から近況について「NTT・
Com として厳しい経営状況にありますが、利益は
目標額を確保、テレビジョン部門では安定した運
用をすすめており、良好な収益を上げている」な
どのお話を頂きました。
ここで、今日総会の場で米寿のお祝いを受けら
れました高橋定三郎様に乾杯のご発声をお願いし
ました。
「 米寿という区切りの年として元気に乾杯
の音頭をとれ」とのこと、と前置され元気に乾杯
の音頭をしていただきました。これを機に多くの懇談の輪ができ、積る話に花が
さきました。
今年は、仙台、長野、
浜松、大阪、大分など
遠来の会員も多く、懐
かしい話や各地での興
味ある話でにぎわって
おりました。
楽しい時間の経過は
早く、中締めは永年支部役員を勤められ、喜寿のお祝いをうけられた吉田哲夫様
にお願いし、盛大に関東一本締めで懇親会を締めました。
( 渡部
- 4 -
律雄 )
4月
4/6
22
- 5 -
支部行事
(参考)
集計
6回
67人
ハ
4/7
イ 神奈川
14
キ
ン 千葉
グ
埼玉
東京
埼玉
ゴ 神奈川
ル
フ 千葉
4/19
写真
9
4/20
園芸
5
4/24
パソコン
7
4/16
東京
10
寄席
旅行
釣り
絵画
麻雀
囲碁
サークル名
8/10
3
7/24
6/16
7回
97人
5/19
16
NTT東日本
7回
59人
総会
7月へ変更
6/23
7
7
5/16
11
5/17
32
5/23
9
6/26
8
7/17
4
6回
49人
7
2
12
5
7/4~8/30
6/21
5/22
5/26
9
7/1
19
14
上野鈴本
西伊豆
11/17
11/14~15
11/上
スケッチ会
11/10
金沢八景
関東大会
旧古河庭園
10/26
撮影会高尾山・例会
11/20 ・ 11/22
熱海
4回
33人
9
11/9
佐原CC
TRC
回
0人
地区
懇談会
11/中
未定
11/10
江の島
11/17
養老渓谷
11/10
大宮周辺
回
0人
リバーサイド・フェニクスGC
10/下
東名厚木
10/19
昭和の森
10/29
TRC
9/25 10/23 11/27
9/20
7
9/4~5
13
9/3~28
4
1月
回
0人
撮影会・展示
新春の集い
回
0人
12/上~下 展示
1/上~2/中
12/4~5
1/31
熱海 本部計画
上野
活 動 日 程 ・ 場 所 ・ 参 加 人 員
7、8月
9月
10月
11月
12月
10/12~13 11/中
8/4
12/7
6月
6/5~6
12
5/1~31,30 6/1~30
12
8
6/30
8
5月
回
0人
TRC
2/26
湯島天神
2/26
例会
2/21
八重洲センタ
2月
2/1
回
0人
TRC
3/24
3/5~6
熱海
3月
回
0人
合計
備考
10月:地区懇談会
東京地区
10/27
神奈川地区 10/27
千葉地区
10/27
埼玉地区
10/27
実施日:土曜日
25.1.12:初春の集い
24.6.16:総会
支部行事(参考)
予定日未定は中旬等
下段は参加人員・実施
までは場所等を記入
上段は日程を記入 記入例:
3 平成24年度上半期サークル活動状況
1.サークル活動実施結果
2
各サークル活動状況
○ 囲碁サークル
・総会・春季囲碁大会の開催報告
この例会は、平成24年4月6日(金)、上野囲碁センター(上野松竹デパー
ト3階)にて参加者22名(当日の欠席者:2名)により開催しました。この大
会は、定例の総会を兼ね、開会に際して松本英一会長が「新規会員の勧誘と碁会
での交流を楽しむ」を旨とする挨拶を述べられました。続いて小野幹事が議事を
諮り、囲碁同好会の活動及び会計に係る報告が承認されました。
一息入れた後、Aグループ(12名)とBグループ(10名)に分れて、高段者
と段級位者がグループ内で入り乱れて試合開始。待望の公式戦では、腕を撫す面々
が雑念を払い「着手を選択、交互に石を置く」その繰り返しを淡々と続けていま
した。
試合形式等:持ち点制によるハンディ戦とし、対局用の手合い割り表を適用。
:各自が所属のA/Bグループ内で抽選による対戦相手と全4試合。
全4試合の結果、入賞した方々は次のとおり(敬称略)。
グループ
A
B
優勝
準優勝
第三位
久富信雄
本多慶成
中嶋長重
阿部正志
(154)
(218)
(188)
(125)
(171)
関根清治
大井哲雄
小野郁生
(116)
(169)
(158)
倉本
實
敢闘賞
高屋
貢
(135)
松本英一
(201)
17時30分頃には、表彰も終えて、次回の夏季囲碁会(8月4日)を楽しみ
に散会しました。恒例の懇親会では14名が乾杯。入賞者の感想と惜敗者の話も
- 6 -
交えて熱戦を振り返り、おとなの舌
戦を繰りひろげました。そして、い
つに なく 話 題が 「碁 の 心得 や作 戦 」
に移り、田中(潤)さん、松本さん
から棋力向上のヒントをいただきま
した。
やがて、定刻となり三々五々、さく
ら祭りでにぎわう上野界隈を後にし
ました。
・夏季囲碁大会の開催報告
この例会は、8月4日(土)上野囲碁センターにて、14名の参加を得て行い
ました。猛暑の夏日、
腕が鳴る常連の方々
が集り、その中には、
ハスの不忍池を散歩
しながら、気合を鎮
めた方も居ました。
一息入れた後、組
み合わせを発表して、
7組が試合開始。久
しぶりの再会・再戦となる面々は、淡々と「手談」を堪能しました。
試合形式等:持ち点制によるハンディ戦とし、対局用の手合い割り表を適用。
:各自が14名のグループ内で抽選による対戦相手と全4試合。
全4試合の結果、入賞した方々は次のとおり(敬称略)。
優勝
小野郁生
(160)
準優勝
倉本
實
(158)
第三位
関根清治
(120)
敢闘賞
潮田
巌
(164)
柏木
信
(139)
17時30分頃には、表彰も終えて、次回の秋季宿泊囲碁会(10月12日)
を楽しみに散会しました。
恒例の懇親会では6名が乾杯。先ず3年ぶりに参加した佐藤(安)さんが近況
を述べ、それから熱戦を振り返り交流を深めました。入賞者の感想では「指運で
偶々、全勝」との倉本さんの話や「景品は孫へのお土産」と照れる柏木さんが印
- 7 -
象的でした。奥の深い囲碁、その談議はし
ばしの間、続きました。やがて、お開きと
なり、
「江戸趣味納涼大会」でにぎわう上野
界隈を後にしました。
余談となりますが、この上野松竹デパー
ト3階の碁会所が平成24年9月10日
(月)を以って閉店しました。また、京成
上野駅寄りには、西郷さん銅像の真下に9月15日(土)、大型飲食店ビル「UE
NO3153」がリニューアルオー
プンしました。その建て替え前の上
野百貨店(西郷会館:4年前に閉店)
には、囲碁会の懇親会の席として利
用した飲食店「じゅらく」が在りま
した。戦後67年の歳月、移ろう名
物ビルと街並みの風景。
・秋季宿泊囲碁会の開催報告
こ の 例 会
は、10月1
2日(金)か
ら13日(土)
「熱海ニュー
フジヤホテ
ル」にて参加
者10名により
行われました。
早々に、アマ
棋士の方々は
A グル ー プ (高 段 者 5 名 )と B グ ル ープ
(段級位者5名)に分れて、試合を開始。
やがて夕刻となり会食の席に移りワイワ
イ、ガヤガヤと歓談を楽しみました。そ
の中では、つい最近の囲碁界のイベント
が話題となり、木谷道場ゆかりの「第1
7回湘南ひらつか囲碁まつり(10/7)」
- 8 -
の話や「名人戦第4局(10/11)」のテレビ観戦の感想などで花を咲かせまし
た。この一時の団らんと談笑により鋭気を倍増させた面々は、夜中まで石音も高
く「盤上の格闘技」を続け交流を深めました。そして、少々の睡眠から目覚めた
メンバーは、早朝から熱戦を再開し、囲碁三昧の二日間を堪能しました。
試合形式等:持ち点制によるハンディ戦とし、対局用の手合い割り表を適用。
:各自が所属のA/Bグループ(各々5名)内で総当たりの4試合と、
抽選による相手とのA/B間の交流戦1試合を含む5試合。
全5試合の結果、入賞した方々は次のとおり(敬称略)。
グループ
A
B
優勝
松本
英一
(198)
南
松市
(136)
準優勝
狩野
第三位
正夫
大井
哲雄
敢闘賞
倉本
實
小野
郁生
(187)
(171)
(162)
(164)
吉村
中込
岩間
植田
幸雄
(120)
和男
(145)
勝利
(122)
庫治
(150)
11時頃には、表彰も終えて、次回の年末囲碁大会(12月7日、於港区立勤
労福祉会館)を楽しみにと、三々五々家路につきました。
余談となりますが、この例会には恒例の関東本部囲碁大会(11月17日)へ
無線支部の代表選手(5名)として出場する狩野正夫、阿部正志、朝井源一、吉
村幸雄、岩間勝利の各氏の中、3名の方が参加。各選手は公式戦の5試合の他に、
自由対局や指導碁を通じて腕を磨いておられました。
注記:枠内の数字は当人の持ち点で囲碁の力を表わしています。従来は段級位差によ
る置き石で打っていましたが、平成18年から持ち点制による対戦に切り替えています。
ちなみに120点が初段の目安です。持ち点は勝敗の実績によって増減していきます。
参考:平成24年度東京無線囲碁同好会の活動予定
1.総会・春季囲碁大会
H24年4月6日(金)
上野囲碁センター
2.搬送・無線親睦大会
H24 年7月上旬
会場等の都合により中止
3.夏季囲碁大会
H24 年 8 月4日(土)
上野囲碁センター
4.秋季宿泊囲碁会
10 月 12 日(金)~13 日(土)
熱海ニューフジヤホテル
5、関東本部囲碁大会
11 月 17 日(土)
NTT東日本本社
6.年末囲碁大会
H24 年 12 月7日(金)
港区立勤労福祉会館
7.新春囲碁会
H25 年 2 月1日(金)
八重洲囲碁センター
8.総会・囲碁大会
H25 年4月6日(土)
渋谷区立勤労福祉会館
新規に囲碁大会の案内を希望される方は、幹事へ連絡してください。
- 9 -
( 幹事:小野 郁生、植田 庫治 )
○ 麻雀サークル
(1)麻雀サークル有志による、平成24年度第一回例会は、平成24年6月
5日(火)~6日(水)にか
け熱海ニューフジヤホテルに
おいて開催しました。参加人
員12名(3卓)で実施とな
りました。
入梅も間近い季節となり、
穏やかな日和でした。ホテル
も団体客で賑わっており、数
百名の団体客の帰途と入れ違
いに、我々の到着となり温泉
入浴、バイキング食事とも混雑に遭遇せず、
ゆったり堪能できました。
二日間にわたる例会の結果は、一位:組
村明さん、二位:田中小枝子さん、三位:
小林秀行さんが力を発揮し、無事終了しま
した。
(2)無線支部麻雀大会(年1回実施)
例年通り7月1日(日)東京無線支部大会と銘打って、支部会員で麻雀を愛好
する方々に参加していただき、
「新宿メトロ麻雀クラブ」で開催されました。日曜
日の午後新宿歌舞伎町は梅雨空の中でも、若者で賑わっておりました。大会は当
- 10 -
日急遽1名の欠員が生じ、参加メンバーは19名4卓総当り4回戦で熱戦を繰り
広げました。参加の皆さんは夫々一喜一憂しながら、上がり役の手作りを楽しん
でいました。成績は一位:山根信義さん、二位:武井清六さん、三位:森本正市
さん、五位:川島岩蔵さん、と上位入賞の方々の腕前は昔から少しも衰えを見せ
ず、相変わらずのゲーム運びで順当な勝ちっぷりを披露してくれました。
(3)第二回例会は、平成24年9月4日(火)~5日(水)にわたり前回と同
じ熱海ニューフジヤホテルにて実施しました。
この夏は猛暑続きで、
熱中症が心配される毎
日でした。九月に入っ
ても暑さ続きの晴天で
した。例会に参加され
た皆さんは、元気に猛
暑を乗り越えてこられ
ました。今回は13名
の参加で、1名の余裕
を持って開催できたこ
と幹事の本望です。成
績は一位:吉田哲夫さ
ん、二位:日野朝夫さん、三位:川島岩蔵さんと実力者が順当に勝ち進み、特に
吉田さんは親の倍満を積もるなどして、ダントツの8勝1敗で三桁の勝利となり
ました。
24年上半期計画も皆さんのご協力で無事終了できました。
次の定例会は12月と3月に計画をしております。麻雀愛好家の皆様の多数の
参加をお待ちしております。
( 幹事:岩澤 國男 )
- 11 -
○ 絵画サークル
平成24年度上半期、絵画サークルは展示会を2回とスケッチ会1回を開催し
ました。関東病院での展示は病院事務局側の要望もあって5月1日から6月29
日までの2ヶ月間になりました。入院されている方や来院の方々が楽しみにして
いるとのことで、ささやかな趣味が皆様の何らかのお役にたつことは励みにもな
ります。春のスケッチ会は5月30日に横浜山下公園を中心に実施して、夫々の
目標に沿った成果があったようです。仕上がった作品はまた誌上でご披露できる
と思います。2回目のギャラリー展示は、9月3日から9月28日まで8点を出
品しました。展示希望の他のグループが増えたため展示期間も短期になりました。
「酔彩会」の会員も体調不良で休みの方々もあるので、出品数も従来に比べて若
干少なめな現状です。皆様の中にも絵を描いていられる方、これから始めたい方、
ご一緒に如何ですか。ご連絡をお待ちしております。
( 幹事:白井 静明 )
関東病院展示コーナーにて
大桟橋通り
河口
量
- 12 -
残雪南ア
白井静明
尾瀬風景
加藤
實
卓上静物
野口理彦
静物
野口弘子
○ 釣りサークル
平成 24年春季の釣り会を6月30日(土)に実施しました。
天候は、梅雨のまっただ中ですが、快晴で風も無く、波も無くベタなぎで最高の
釣り日和でした。本日は前回よりかなり少ない 8 名の参加者で、船の中は余裕が
ある大名釣りです。
- 13 -
船宿は昨年秋にもお世話になった金沢八景、金
沢漁港の鴨下丸で、130 号のおもりのビシ釣り
で「鯵」と「鯖」をねらいます。
7時30分頃には全員が集合して8時前に出
航、約45分航程で観音崎沖の釣り場に直行す
る。船長の合図で深さ、20mから40m位の
ところにビシ釣の仕掛けを入れる。すぐに当た
りがあり、仕掛けを上げると、15cmから20
cm位の中型の鯵がぼちぼち釣れるが数は伸び
ない。何回かこの作業を繰り返えし、次に東京
湾の中央付近の浦賀水道へ行く。近くに、灯台がある場所へ移動、30mから50
m位の深さです。この場所で本命の鯵・鯖が釣れはじめる、30cm~40cm
位の大きめのが釣れ出し、船内が忙しくなる。
しばらくすると当たりがなくなったので、千葉
の富津岬の近くに移動する。
鯵は中型位、そのほかカレイ、キスなども釣れる。
そうこうしてるうち、時間が過ぎ、納竿の3時
になってしまい名残を惜しみながら終了としまし
た。
港に戻り皆さんのクーラをみると、竿頭は大、
中の鯵・鯖15cm~40cm位が20匹位で、
外道もイシモチ、キス、カレイ等も混じっており、
平均すると、10~15匹位でした。
夜の酒の肴は、鯵と鯖は「刺身とたたき」か、小さいのは「から揚げか干物」
かと思い巡らしながら帰路につきました。
今回も天候にも恵まれ、釣果もそこそこで、ほぼ満足の1日でした。
次回は24年秋季として、10月下旬の予定です。初めての方、興味ある方、是
非参加してください。
( 幹事 : 藤田 克一 )
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○ 寄席サークル
ポカポカ陽気となった5月26日寄席サークル恒例の「春季寄席鑑賞会」を開
催しました。今回も他の行事や催物との予定が重複したり、体調不良により参加
者が少なくなり9名の入場となりました。しかし、少人数とはいえこの日を楽し
みにされていた方々には入場開始から顔に笑みが洩れ期待感満々のご様子でした。
約4時間にわたり食事をしたり、飲酒をしながらの鑑賞会は日ごろの憂さを片
隅に押しやり悩みごとを忘れるのに最高の場と言えるでしょう。
かっては苦虫を潰
したような面体で業
務の采配をしこなし
てこられた先輩諸氏
も此の日は好々爺の
ごとき皺だらけの笑
顔を露わに大いに楽
しんで居られました。
人間、酒・薬・趣
味に頼るのも是かも
知れませんが、やはり身体と健康の維持をはかるには笑いが一番と思います。
ただ、当サークルも高齢化の波が押し寄せ、足腰に支障が生じ参加されない状
況になった会員もあり参加者の減が目立ち寂しい感を強くしています。
なんとか会員数の増を図りたく郵送による勧誘を行いましたが、好みの違いが
有るのでしょうか、この2~3年で新会員加入は1名と言う状況です。
- 15 -
世話役も会員になられる方はそれなりに中高年層ですので持ち込み弁当の品定
めにも油気の少ないもの、
量的にもそれ相応の求め
るよう気配りをしていま
す。今回の鑑賞会実施報
告を読まれた皆さん一度
参加してみませんか。
手をたたき腹から大笑
いをすると厄が飛び去り
ます。
上野鈴本演芸場で寄席の面白さを体験したい方、幹事宛てご一報下さい。
( 幹事:仲谷 光正、片山 克己 )
○ 写真サークル
写真サークルは、今年度から幹事を守塚・渡部が引き継ぎ活動を進める事とな
りましたので諸先輩のご指導を含め宜しくお願いします。
1.例会
4月19日(木)
TRC 地下会議室
9名出席
6月21日(木)
TRC 地下会議室
8名出席
9月20日(木)
TRC 地下会議室
7名出席
前半期3回実施しました。例会の主な内容は①年間の活動計画、取り組みの具
体的調整とその進捗管
理、②個々自慢の作品
を持ち寄り相互の評価、
③相互の親睦と写真技
術のレベルアップを図
る事としています。
特に、今年から従前
からご指導頂いた部外
講 師 (元 毎 日 新 聞 社 写
真 部 長 )が 体 調 不 良 で
辞められ講評が頂け無
くなった事から、ベテ
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ラン会員のアドバイスを頂き相互で批評しあいながら腕を磨くように努めてきま
した。前半期活動のトピックスとしては、関東電友会会報表紙への吉田哲夫さん
の東京ゲイトブリッジが掲載されたこと、大竹将雄さんが地域の写真コンテスト
で知事賞市長賞、館長賞等々の輝かしい賞を射止められたことです。
また、今年から無線支部のホームページへ活動状況を掲載させて頂いています
ので是非ご覧ください。
2.撮影会
①「隅田川の桜とスカイツリー」をテーマに3/下旬に下見し、4月上旬の短い
桜花時期に合わせ各々で写真撮影を行い、例会でお互いに自慢の作品を発表し合
いました。
②梅雨の晴れ間を選び6月10日(日)に4名が参加し、潮来あやめ園、佐原水
生植物園での撮影会
を行いました。
当日は、日曜日で
いろんな催し物が行
われ観光客が多い中
でしたが、丁度見頃
のアヤメは勿論、嫁
入り舟、佐原囃等々
を興奮しながら追い
かけて撮りまくりま
した。
広大な一面に咲く、多種多様な美しいアヤメの花は、人の心を和ませ、
感動させてくれました。
お蔭様で、みんな夫々に納得の素晴らしい自慢の作品
が出来ました。
3.展示会
展示会は、関東病院お願いし
て2階フォトギヤラリコーナへ、
7月5日から8月30日の2ケ
月間、各々の力作を13点展示
させて頂きました。
展示作業中にも通行される方
よりいくつか質問を頂き、また
ギャラリーコーナー前の床屋さ
んの話によるととても好評でし
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たと褒め言葉を頂き、次回を楽しみにしていますとの事でした。
次回は12月展示のお願いをしてありますので、力作・傑作を期待しています。
また何かの機会に展示場近くへお出かけの節は、是非2階ギャラリーコーナーへ
も足を向けて頂ける様お願いいたします。
最後に、写真サークルの幹事として長年ご苦労頂きました吉田和衛さん、岡崎
利勇さんに厚くお礼申しあげます。
なお、当サークルでは、入会者を募っていますので写真に興味ある方のご連絡
をお待ちしています。
( 幹事 : 守塚 良臣、渡部 律雄 )
○ 園芸サークル
第1回、4月20日(金)
新宿御苑のサトザクラ観賞。
新宿御苑の圧巻は何と言っても春。75種、1,500 本のサクラが苑内を桜色に
染める。花の向こうには常緑樹の木立が広がり、芝生の広さと調和して、大都会
の真ん中にある公園とは思えない緑のオアシスである。
ソメイヨシノが柔らかく、は
なやかに咲き誇るのは4月上旬
で、中旬からは御苑自慢サトザ
かんざん
いちよう
ふ げんぞう
クラの「関山 」「一葉 」「普 賢 象 」などが八重の濃い桃色の花を咲かせ、ふくよか
で気品のある花色を楽しませてくれる。
参加者:林、吉永、張貝、寺田、黒尾の5名
「新宿御苑のルーツ」(新宿門の入口立看板より)
新宿御苑の敷地は、天正18年(1590 年)に豊臣秀吉から関八州を与えられた
徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷
の一部です。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土
地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西に伸びる街道と鎌倉街道が交
差する要所でした。このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼で
きる家臣に与えたものとされています。
現在は大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安
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永元年(1772年)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園、
「玉川園」の
一部です。
第2回、6月15日(金)
白山神社のアジサイ観賞。
地下鉄都営三田線白山駅 A3 出口か徒歩2分、白山神
社は歴史が古く、江戸時代から特に歯痛止めの神とし
て庶民に崇められていた。ここは都内の神社では、唯
一というべきアジサイの名所になっている。
境内にあるアジサイはおよそ 3,000 株。アジサイは
別名七変化と呼ばれる花で、咲き始めは淡い緑色だが、その後、白から青紫、桃
色へと色変わりす
る。これがひとつ
の楽しみでもある。
「あじさいまつ
り」が6月9日~
6月17日、地元
商店会や観光協会
をあげて盛大に行
われている。
参加者:中村、吉永、張貝、寺田、黒尾の5名
第3回、8月10日(金)
昭和記念公園のサギ草観賞。
国営昭和記念公園は昭和天皇御在位50年記念事業の一環として、旧米軍立川
基地跡地の一角を利用し整備された公園です。
集合場所のJR西立川駅南口から徒歩1分。サクラ、ウメのほか花木園、日本
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庭園、ハーブ園もあって幅広く草花が楽しめる一大公園。今回のターゲットはサ
ギ草。日当たりのよい平地や山麓の湿地に自生する日本を代表する野生ランです。
花木園、菖蒲田の木橋下で地植えの“サギ草”が開花を始め、サギ草まつりが8
月4日(土)~8月31日(金)の期間で開催中でした。
まるでシラサギが飛んでいるかのような優雅な花姿が印象的でした。
参加者:林、寺田、黒尾の3名
( 幹事:黒尾 忠行 )
○ パソコンサークル
電友会東京無線支部のサークル活動の一つであるパソコンサークルですが、こ
こしばらくご無沙汰して皆さんへのご報告が途絶えておりました。しかし、活動
をやめていたわけではありません。ずっと続けていたのですが、役員の交代、活
動方針の検討などをやっているうちに時が経過し今日に至った次第です。
パソコンサークルの活動は昨年度末、今年 3 月の例会で 101 回を迎えた、長い
活動履歴を持っております。パソコンをできるだけたくさんの仲間が使いこなせ
るようにとの趣旨で始まったサークルですが、活動を始めたころに比べ今ではパ
ソコンも普及して、多くの仲間が仕事に趣味にごく当たり前に利用する時代にな
りました。そんなわけでサークルの活動も曲がり角に来て、次の目標をどうすべ
きかいろいろ考えざるを得ない時期になったという次第です。
今年度になってから、9 月 25 日火曜日の 9 月例会で 5 回を数えますが、ここ
までは最近様変わりしつつある、移動体通信サービス・・・スマートフォン、タ
ブレット端末等に関係するサービスですが・・・これに我々高齢者がいかに付き
合ってゆくかを主なテーマとして取り上げてきました。これらの端末を通じて多
彩なサービスを利用できるわけですが、私たちはそれを十分活用しているとは言
えない状況です。新しいサービスの利用は若者に任せて、我々は最低限のサービ
ス、通話と簡単なメール、これもあまり使っていないようですが、これだけやっ
ていればよい、と考えがちです。
しかし、いろいろ議論してみると、我々高齢者の生活環境を向上させるのに役
立つ使い方がありそうだ。それを探ることをパソコンサークルのテーマの一つに
しよう、と議論を始めています。
それから、これは従来からのパソコンを使いこなすための活動の流れに沿った
議論ですが、パソコンが我々の仕事や趣味の中での情報蓄積手段の主役になりつ
つあるとき、パソコンのトラブルで蓄積されたデータが瞬時にして 失われること
による損失は非常に大きいのが現状です。そこでパソコンのデータをバックアッ
プするための手段を様々に皆さんとっているようですが、これをできるだけ効率
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よく実行するための手法を議論してゆくこと、これをも一つのテーマとしてここ
2 回、7 月と 9 月の例会で議論しております。
この議論を始めたきっかけは、メンバーの一人が仕事で使っていたパソコンが
突然、電源ユニットの故障と思われるトラブルで動かなくなってしまい、急きょ
新しいパソコンを購入したのですが、問題は壊れたパソコンの HDD に蓄積され
ていたデータを取り出すのにえらく苦労したことでした。初めはあきらめていた
のですが、手探りであれこれやっているうちに何とか大事なデータの取り出しに
成功して一安心。しかし、受信したメールのデータはどこにあるのか見当がつか
ず、取り出すことができなかった。
この話をサークルの7月の例会で実演を交えながら報告したところ、では、パ
ソコンのデータはハードディスクの中の、どこにどのような形式で収容されてい
るか、それをテーマに議論しようということになって、9 月の例会は開催されま
した。
例会は、メンバーの一人が資料を用意し、これにしたがって説明を進めるとと
もに、パソコンとプロジェクタによる実演の同時進行の形で進めました。これで
今までよく分からなかったハードディスク上におけるデータの記録形態をある程
度ですが理解できました。
そして、パソコンのデータはいつ壊れるかわからない危険性を持っている。パ
ソコンに内蔵されている通常の記録媒体に加え、何らかの外部記録媒体を用意し、
常にバックアップを取るよう心掛けることが肝要である、というのが当日の結論
でした。
こんなわけで、ここ 2 回ばかりは当初計画した、スマートフォンの問題を離れ、
元のパソコンの問題に戻った感じですが、別にテーマを固定する必要はなく、そ
の時々でサークルのメンバーが関心を示したテーマを皆で議論し盛り上げてゆけ
ばよいと思っています。
最近、パソコンに関係した話題といえば、著作権の改正問題と、悪意あるハッ
カーによるパソコン乗っ取り問題があります。我々パソコン愛好者にとって無視
できない問題ですので、このあたりの問題も議論の対象と考えてゆく予定です。
サークルは原則として、毎月第 4 火曜日を開催日としています。サークルの活動
に関心をもたれる皆さんの、新たな参入を期待しております。
( 幹事:齋藤 雄一 )
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○ 東京地区ゴルフサークル
第28回東京地区ゴルフコンペが平成24年4月16日(月)に昭和の森ゴル
フコースで行われました。天気は曇時々晴の予報でしたが、暑くもなく寒くもな
くゴルフ日和になりました。参加者は当初12名の予定であったが2人欠席する。
年寄のコンペは色々起きる様である。今日のゴルフ場の染井吉野は満開を少し過
ぎ散り出していましたが、枝垂れ桜が満開でピンク色の花がバックの松の緑に映
えて美しく、ゴルファーの心を和ませてくれているようでした。今回は特別参加
で岩澤さんと、小澤さんと藤田さんが加わり10名の3組でスタートしました。
久し振りの皆様の元気な顔に話が弾むなかインコースからスタート、中々思う
ようにいかないゴルフに手こずりながらなんとか無事終了しました。
プレーはハンデキャップ戦で行われ、優勝は小澤文博さんで、グロス78、ハ
ンデ4、ネット74と実力がハンデを超えたことに感服。準優勝は日頃の実力を
発揮された乙幡さんで、グロス93、ハンデ13、ネット80でした。三位は都
築さんが久し振りの入賞、グロス97、ハンデ17、ネット80でした。ネット
80が2名となりましたが、ハンデの低い順として決まりました。ドラコン賞は、
小澤文博さんが力強いスイングで2つ取り、実力が証明されたようです。またニ
アピン賞は、原邦男さんと、岩澤國男さん、ラッキーセブン賞は藤井一明さん、
水平賞は、原邦男さん、ブービー賞は木目田元さんがそれぞれ取りました。当日
は本当に天候に恵まれたゴルフ日和で楽しいひと時を送ることができました。無
事競技を終了し楽しく懇談して皆笑顔で再会を期して解散しました。
( 世話役:都築 靖明 )
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○ 神奈川地区ゴルフサークル
第45回神奈川地区、湘南OMGゴルフコンペは平成24年5月18 日(金)
初めて会場を千葉県の東京湾カントリークラブに移し開催しました。
今回は前回参加されたメンバーのうち、都合の重なり等で6名が欠席されまし
たが、横浜、横須賀、座間、東京方面からのメンバー11名が参加されました。
当日の天気予報は、午後突然雷雨が発生することもある等の予報でしたが、午
前中から快晴で昼食後の後半、久保田コースからのスタートも順調に滑り出しま
した。しかしながら、最終組が残り5ホールに近づいたころ、遠くでゴロゴロ・・・
残り4ホール目に来ると、頭の上でゴロゴロが激しく鳴り響き、激しく大粒の雨
が降り出しましたが、御歳 87 歳の三品さんはというと、何と傘を肩で支えパッ
トを、nice in 流石でした。最終組は、何とかこのホールをクリアして、電動カ
ートのアクセル一杯、急ぎ次の7番ホールにある茶屋に駆け込みました。 当然な
がらと言うか前の組もここに避難していました。
雷が去るまで茶屋での雨宿りは約40分、その後7番ホールから再び競技を再
開し無事全ホールをホールアウトすることが出来ました。
ホールアウト後トップスタート組に話を聞くと、彼たちは2ホールを残しクラブ
ハウスに逃げ込み雷を遣り過し、再度8番ホールに戻り残り2ホールをプレーし
ホールアウトしたとのことでした。
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何れにしても各組全ホールをホールアウト出来たことが幸いでした。
さて、競技の方はと言うと、
優勝は阿部新治さん
【GROSS:1 0 7、HDCP:30、NET:77】
準優勝は甘粕 恵さん 【GROSS:90、HDCP:12、NET:78】
三位は渡辺
修さん
【GROSS:94、HDCP:13、NET:81】でした。
また恒例のニアピンコンテストは長浦コ
ース/久保田コースのショートホール4ホー
ルで開催、結果は、長浦コース5番ホール 134
ヤードを小澤が、7番ホール 142 ヤードを渡
辺さんが、久保田コースでは今年80歳にな
られた島崎さんが、3番ホール 147 ヤード打
ち上げホール、7番ホール 168 ヤード池越え
ホールのダブルニアピン、流石でした。
今回も御歳87歳・86歳・80歳の諸先
輩の頑張りには感服しきりです。
プレー終了後の表彰式&懇親パーティーでは、優勝の阿部新治さんに優勝トロ
フイーと副賞のビール券1ダース、そして 2012 年モデルのナイキ 20XI-X ボー
ルが、準優勝、3位、5位、7位,BBとニアピン獲得者にも、それぞれナイキ
20XI-X ボールがそれぞれ山根信義湘南OMG会長から授与されました。
優勝3回目の阿部さんからは、これからもゴルフに精進しますとの挨拶に参加
者からから祝福の拍手贈られました。そして次回秋のコンペ幹事役を、渡辺さん
- 24 -
から阿部さんにバトンタッチされ、パーティーも和やかのうちに散会、東京湾カ
ントリークラブをあとに、何事も無かったかのような穏やかな木更津の海を背に
アクアラインを経由し帰宅の途につきました。
最後に幹事の渡辺さんに、今回東京湾CCを選定した理由を伺うと、まず廉価
であること、神奈川地区からでも道路状況が良く、渋滞地帯が皆無で短時間で行
けること、これまで開催した神奈川県のゴルフ場より、ゆったりしたゴルフ場で
あることが選択した背景にあるとの事でした。
因みに座間市にお住まいの渡辺さんでも、東京湾CCまでは 1 時間少々の所要
時間であるとのことでした。
( 世話役:小澤 文博 )
○ 千葉・茨城地区ゴルフサークル
第28回となる千葉・茨城ブロックのゴルフコンペを、5月17日(木)、午後
多少の風がでたもののよく晴れたゴルフ日和のもと、茨城県稲敷市の霞台カント
リークラブ筑波コースにおいて開催しました。
今回の参加者数は32人(8組)、参加申込があって以降1名のキャンセルもな
く全員がプレーしました。実は3名の方がキャンセル待ちをしていたのですが大
変申し訳ない結果となりました。次回以降は10組40人で設定すべきと幹事大
いに反省しています。ごめんなさい。
霞台カントリークラブでの開催は今回が初めてでしたが、手入れの行き届いた
緑の美しいコースでした。アウトはトリッキィーなホールが多く配置され、イン
はチャンピオンコース張りの距離の有る作りとなっておりました。全体的にはグ
リーンの難しさに特徴がありメンバー一同も3パット連発の様子でしたが、また
次の機会にチャレンジしてみたいものだとの感想を持ちました。
メンバーが増え続けるなかで、今回の初参加は3名(伊賀久則さん、黒川孝雄
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さん、深澤繁さん)となり現在の会員数は58人となっています。
さて、今回の成績ですが、優勝は阿部永輔さん、安定したショットと、もとも
と大得意なパットが好調でアウト4
1、イン44のグロス85、ネット
74のスコアでした。さすがです。
おめでとうございます。準優勝は伊
賀久則さん、スコアはグロス84、
ネット72で阿部さんを上回ってい
たのですが、初参加ということで準
優勝に繰り下げとなりました。申告
のハンディキャップ12が実力から
して甘かったということでしょう。
このお二人は次回からハンディ7で参加していただきます。第3位は前回優勝の
後藤義人さん、ここのところ実力アップでハンディが11となりシングルが見え
てきました。なお、BB 賞は初参加の深澤繁さん、BB メーカー賞は小林秀行さん
(*前回に引き続いての獲得です!)とコンペを盛り上げていただきました。
そのほかドラコン、ニアピンの結果は次のとおりでした。
ドラコン
5番ホール
18番ホール
ニアピン
6番ホール
17番ホール
伊藤方利さん、小野塚修二さん
小島道夫さん、鹿嶋孝さん
後藤義人さん、小野塚修二さん
小島道夫さん、名越利昌さん
今回は、浪川さんの全面的なご協力をいただき、豪華な賞品を準備することが
できました。賞品がいいとパーティの盛り上がり方が違いますね。メンバー一同
楽しそうでした。浪川さんご協力
ありがとうございました。
最後になりますが、3年間世話
人を務めてきた岩本、鹿嶋が今回
のコンペを持って退任させていた
だくことになりました。至らぬ世
話人でしたがご協力ありがとうご
ざいました。
次回以降は小島道夫さんと鈴木
博さんにバトンタッチします。今まで同様相変らぬご協力をお願します。
( 世話役:岩本 寿雄、鹿嶋 孝 )
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○ 埼玉地区ゴルフサークル
第25回埼玉地区春季ゴルフコンペを、5月23日(水)にいつものリバーサ
イドフェニックスGCで実施しました。会員は19名ですが高齢化や、体調の問
題などで前回同様9名の参加となりました。足利にお住まいの岡田巌さん、東京
の林憲男さんも遠方の所今回も参加してくれました。
天気は快晴、風もなくコース状況も申し分なくゴルフ日和となりました。優勝
はネット73で板川凡夫さん、準優勝は昨年入会された寺田毅さんネット74、
三位はネット78で林憲男さんと菅原修さんでしたが、埼玉ルール年齢優先で林
さんとなりました。
優勝の板川さんは細身ながらパワ
ーもあり、ブレないショット、アプロ
ーチもよくパーは2ホールでしたが他
ほとんどがボギーで、コメントではパ
ターを短く持ったのが良かったとのこ
とでした。
準優勝の寺田さんは、入会時よりハ
ンディ8で、IN、OUT とも41と実
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力を発揮しパー7個、バーディ1個とさすがでした。
三位の林さんは前回優勝、ハンディが少なくなった今回も42、48グロス9
0と80歳を越して益々上達しているようです。
先日タイに行って10日間で8ラウンドの合宿をしてきたそうです。
表彰式、パーティでは皆さんからコメントをいただきました。後藤実さん、プ
ロに習っているのでそろそろ優勝したい。浅井重男さん、ブービーメーカーにな
らないように110は切りたい。松本英一さん、昨年3月自転車から落ちて鎖骨
を折り、8月から再開したが安定しなかった。今回やっと100が切れた。
岡田さん、足利に住んで13年地元のゴルフ場で毎週のように楽しんでいるが、
年2回皆さんに会えるのが楽しみです。
菅原さん、新人に参加するように勧めたい。とうれしいコメントもありました。
ぜひ会員を増やしたいところです。
他に、健康の事などで話がはずみました。パーティも和やかなうちに終り、次回
の再会を期して解散しました。
( 世話役:杉沢
- 28 -
稔 )
○東京地区ハイキングサークル
春のハイキングは6月23日(土)開通したばかりの「東京ベイブリッジ」を
訪ねました。予定日は先ず先ずの天気となり、参加者は石井、組村、鈴木.都築、
吉田、埼玉地区から参加の高尾、と世話役の木村の7名でした。
メ ト ロ 新
木場駅に10
時10分前に
集合し、お弁
当を調達し、
駅前のバス停
に向かいまし
た。幸いに臨
時のバスが止
まっており、
これに乗り込んで若洲キャンプ場に向かいました。
終点でバスを降り、約10分歩くとエレベータ乗り場に着きます。エレベータ
で7階まで上がるとゲートブリッジ散歩道入口ゲートとなります。
歩行者通路はここから 1600m先の中防波堤通路までで、この間を往復することに
なります。入口に 11 時 45 分に集合することにして各人勝手に散歩することとし
ました。東京港の埋
立地が一望でき、羽
田空港に発着する飛
行機が目の前にみえ
ました。
帰りは、若洲ゴルフ
場の外周を巡るサイ
クリングコースを歩
くこととし、約30
分戻った所にある展
望の良い休憩所で昼
食としました。この
後、皆で相談して、
東京ヘリポート前からバスで駅まで戻りました。
- 29 -
( 世話役:木村 正道 )
○ 神奈川地区ハイキングサークル
平成 24 年 4 月 7 日(土) 天候 快晴 JR 横須賀駅、改札口前広場 10 時に集合
“YOKOSUKA 軍港めぐり”三笠公園など名所巡りを、高橋さん、青木さん、平
野さん、お三方の参加が有りまして 14 名で実施しました。
参加者の自己紹介、予定コース順路の変更説明のあと、10 時 30 分ヴェルニー
公園へ出発する。この公園はフランス庭園様式を取り入れた公園。公園広場を中
心に花壇や噴水、洋風あずまやなどが設けられている。
フランスの品種を中心とした、バラが春と秋に彩り添える。春に咲くバラは芽吹
きはじめでした。
園内には、ヴェルニー記念館、旧軍港時代の面影をとどめる「逸見波止場衛門」
がある。港沿いのボードウォークから、停泊する護衛艦や潜水艦を眺めながら、
“軍港めぐり”の乗船場のある所に向かう。途中には桜並木があり、また公園の
一角には旧日本海軍の戦艦「軍艦長門碑」がありました。長門は基準排水量 33,800
トン、速力増大の要望が満たされた、高速戦艦の先駆であった。敗戦後はビキニ
島における原爆実験に使用され沈没。同型艦の「陸奥」は横須賀工廠で建造される。
園内を散策のあと、ヨーロッパ調の本格的オペラハウス横須賀芸術劇場方面に
行く。劇場のある所は、戦前は旧海軍士官兵集会所、戦後は米軍海軍士官兵集会
場として使用されていた。この建物に沿い街中の名物通り「ドブ板通り」 アメリ
カの香り漂うエリアを歩く。
- 30 -
「ドブ板通り」は旧海軍の軍港街として栄えていた頃、道の中央にドブ川が流
れていて、人の往来や車の通行に邪魔なので蓋をしたことから「ドブ板通り」と
呼ばれるようになり現在もその呼び名は定着されている。バラエティ豊富な業種
が軒を連ねる、特色ある商店街スカジャン、ネイビーグッズ、ワッペンなどが有
名。「ドブ板通り」モールには横須賀や芸術劇場に関わりの深い有名人の手形のレ
リーフが埋め込まれていた。商店街を通り抜け、米海軍横須賀基地正面ゲートの
見える国道 16 号に出て、三笠アーチから三笠公園までの遊歩道を歩く。
遊歩道は幅広い自然石の歩道でせせらぎが流れ、帆船日本丸の一部模型、横須
賀の出身の童謡作家 茶木滋さんの作詞した「めだかの学校」童謡碑やイラストレ
ーター鈴木英人さんの壁画などを見ながら、三笠公園に行き日露戦争で活躍した、
世界三大記念艦の一つ「三笠」を見学する。「三笠」は上甲板の観覧、主砲 30 ㎝
砲、補助砲 15 ㎝砲や無線電信室などを見る。また、中甲板では日本海海戦、海
戦で活躍した人物写真、艦長室、司令長官公室などの見学を済ませてから公園の
せせらぎの小路で昼食をとる。
食事後公園内にある、高さ 7m、巾 55m から流れ落ちる碧泉、音楽に合わせて
舞う音楽噴水池などを見てから、軍港めぐりの乗船場がある汐入桟橋に戻る。乗
船まで時間があり桟橋の近くにあるショッパーズプラザ内で休憩する。
- 31 -
15 時 00 分 アメリカ海軍や海上自衛隊の艦船が間近で見られる、日本唯一のク
ルージングツアーに周航する。船内ガイド嬢から夫々の艦船の規模、役割などの
説明、また沿岸の建物、施設の説明を聴きながら軍港内を周遊しました。
出航早々右手にアメリカ海軍横須賀海軍施設あり、出航と同時に見られたのが潜
水艦 、イージス艦、少し先のバースでは圧倒的なスケールを誇る航空母艦が見ら
れた。横須賀本港を出まして吾妻島を過ぎ、東京湾に入り左に旋回して海上自衛
隊施設がある長浦港に入る。長浦港の海上自衛隊の護衛艦などを見ながら、吾妻
島の狭い水路を通り抜け汐入桟橋に戻る。天候にも恵まれて海上から西日に映え
る、沿岸周辺の美しい風景も見られた。軍港めぐり予定通り 15 時 50 分下船解散
する。
計画段階では前半に軍港めぐりとしましたが、事前予約時には既に満員のため
最終便と成りましたが、皆様のご協力により無事に予定のコースをめぐる事がで
きました。なお、有志により横須賀中央、繁華街の飲食店で懇親会を行ました。
( 世話人:白井 静明、加藤
實、岡部 清一 )
○ 千葉・茨城ハイキングサークル
懐かしき筑波無線や茶店の結城屋は健在でした
若かかりし頃先輩に指導されながら無線工事や保守業務で何回となく登った
中継所を訪ねたくなるのも年老いた証拠か、はたまた仕事人間の郷愁か。
今回は筑波山のつつじヶ丘駐車場から女体山・無線中継所・美幸が原へ抜ける
新緑のコースを歩く
ことにしました。
期日は平成24
年 5 月 1 9日 (土 )、
当日は久しぶりに良
い天気になったため、
筑波山に向かうバス
も超満員で臨時バス
も増発するぐらいの
人出でした。集まっ
たのは安井さんご夫
妻、谷藤さんご夫妻、
北上さん、守塚さん、秋山さん、斉藤さんご夫妻、渡部さん、埼玉から髙尾さん、
それに幹事の内田さん、増田さんご夫妻とお友達、窪田の16名の皆さんでした。
- 32 -
つつじヶ丘駐車場で自己紹介と
簡単なストレッチでからだをほぐ
したあと、筑波山登山口に向かい
ました。なだらかな南斜面の階段
を家族連れやカラフルな山ガール
などに混じってわれわれ一行も登
りはじめました。登山道の脇には
まるで同行の奥様方と妍を競うか
のようにつつじが満開でお出迎え。
約30分ほど登ると急に険しい上
りになりました。ときどき水分補
給の休憩をとりながら登ること約1時間、大きな岩がいまにも落ちそうで勇猛果
敢な弁慶でさえも七回戻ったという弁慶の七戻りをくぐり、女体山に出ました。
女体山の展望台では昼食時と重なり、また霞ヶ浦まで見渡せる絶景とあって押す
な押すなの賑わい。我々は展望もそこ
そこに昼食兼宴会場所の確保が先決と
ばかりに先を急ぎました。がま岩を過
ぎるとやっと懐かしい鉄塔が見えてき
ましたが鉄塔には小さいパラボラが2
~3面と VHF アンテナが何本か残っ
ているばかり。無線中継所の局舎は有
刺鉄線で囲われており、中の様子を見ることはできませんでした。早速、無線中
継所前の広場にシートを敷いて昼食の準備をして、それぞれが持ち寄ったお弁当
や飲み物、つまみをお互いに分け合いながら遅い昼食。しばし思い出話に花が咲
かせる。お弁当やアルコールでお腹を満たした後、無線中継所前で記念写真を撮
り下山することにしました。
下山はケーブルカーを利用し
て筑波神社方向に下りること
にして山頂駅に向かいました。
傾斜角日本一と言われている
ケーブルカーで緑濃い斜面を
下ること8分で宮脇駅に着き
ました。
茶店通りの真ん中にある結
- 33 -
城屋に寄って元若旦那とNTT当時の話や孫の話まで話題がはずみ、それぞれみ
やげ物を買い込みました。元若旦那は現役時代より少しふっくらした感じで、落
ち着いた暮らし振りがうかがえました。そこでおいしいお茶とようかんをご馳走
になり、最後の予定地青木屋の屋上露天風呂でハイキングの汗を流してさっぱり
したところで帰路につきました。みなさまお疲れ様でした。
( 世話人:窪田
達 )
○ 埼玉地区ハイキングサークル
古墳の宝庫!さきたま風土記の丘とその周辺の散策
今回のハイキングも参加者予定者の平均年齢など考慮し、歩行時間が少なく、
平坦で起伏もなくて何処からでもリタイアが出来るコースを計画しました。
当初の計画は 6 月 9 日(土)実施、コースは行田市駅→忍城跡→水城公園→さ
きたま風土記の丘→さきたま緑道→北鴻巣駅の予定でした・・・が、6 月 9 日は
丁度、入梅の初日となってしまい
一日中大雨が心配され、梅雨明け
頃の 7 月 17 日(火)に延期をいた
しました。
仕切り直しの 7 月 17 日は、丁度
関東地方の梅雨明け日となり、晴
天には恵まれましたが、いきなり
の真夏日で、行田市隣りの熊谷市
では 37.7 度と云う猛暑日でした。
午前 10 時、秩父鉄道の行田市駅
に集合したのは板川、高橋、仲谷、髙尾の 4 名だけでした。前日までの参加予定
者は 7 名だったのですが、この日、早朝からあまりの暑さで 3 名が欠席されました。
この暑さでのハイキングは熱中
症が心配されたので、当初の予定
コースも、行田市駅→古代蓮の里
→さきたま風土記の丘→忍城跡→
行田市駅と大幅に縮小・変更をし
ました。また目的地への移動も全
コース野道を歩く予定は、すべて
TAX を利用しての移動に変更をし
ました。
- 34 -
最初の目的地は、ここ行田の地で永い眠りから目を覚ました行田蓮の、その神
秘的な美しさを満喫できる「古代蓮の里」です。予定を一ヶ月以上遅らせたのが
幸いし、開花は毎年7月初旬から 8 月初旬が見ごろと云う好タイミングの最中で
した。園内には 42 種類 12 万株の花蓮を見ることが出来ます。花弁の数が少ない
原始的な形態を持つ行田蓮は約 1400~3000 年前の蓮であると言われております。
蓮の花咲く池内の木道を楽しみながら散策しました。暑さに茹だりながらも爽や
かな顔を演出して記念写真にも納まりました。
次いで本コースのメインである「さきたま風土記の丘」に向いました。埼玉古
墳群は、9基の大型古墳が集中す
る東日本最大の古墳群です。周辺
は「さきたま古墳公園」として整
備されており、園内には「県立さ
きたま史跡の博物館」や、はにわ
作りが体験できる「はにわの館」
などがありました。
古墳の散策は、先ず、愛宕山古
墳を右手に見ながら、日本一の規
模を誇る円墳の「丸墓山古墳」に
向かいます。途中、石田三成が水
攻めに作ったと云われる土手も残されておりました。暑い暑い太陽に照らされな
がら5分ほどの階段で古墳の頂上です。頂上からは忍城一帯が展望され、戦争当
時の前線基地だったことが伺われました。
次に国宝「金錯銘鉄剣:きんさくめいてっけん」が出土した「稲荷山古墳」に
向かいました。前方後円墳で頂上には鉄剣が埋葬されていた当時の様子が復元さ
れており、1500 年前(5世紀後半頃)がありありと偲ばれるには充分の光景です。
つづいて将軍山古墳へ。古墳は全長 90mで、さいたま古墳群の中では4番目に
大きい前方後円墳です。山頂には登れませんが麓の地下には石室内部を模型した
「将軍山古墳展示館」があり、ここの古墳で出土された埋葬者の副葬品などが展
示され見学をすることが出来ました。65 歳以上と云うことで無料でした。
将軍山古墳を見て、今度は池に囲まれた、前方後円墳の双子山古墳を左手に見
ながら、はにわ館の隣に位置するレストハウスで大休止の昼食としました。
弁当の後は、埼玉県名発祥の地を記念する大きな石碑の見学です。後半は瓦塚
古墳、鉄砲山古墳、浅間塚古墳、中の山古墳、最後に奥の山古墳の麓を歩き古墳
群の見学を終えました。
- 35 -
園内には埼玉県内にあった古民家が 2 軒(稲作農家の旧遠藤家、山崎家)移築
され展示されて外部からは自由に見学できました。
最後に稲荷山古墳から出土された国宝の鉄剣が展示されている「埼玉県立さき
たま史跡の博物館」を訪れました。入館料は 65 歳以上の特典で無料でした。館内
には弥生時代から縄文時代、古墳時代、奈良時代にいたる埼玉県内での発掘、出
土品の数々が展示されております。中でも圧巻はやはり中央部に展示されている
国宝の「金錯銘鉄剣」でした。
さきたま風土記の丘の見学後は、TAX
で移動、途中計画を断念した水城公園を横
目に市の中心部に位置する忍城へ。この城
は室町時代の文明年間に築城され、豊臣秀
吉の関東平定の際には、石田三成の水攻め
に耐えた「浮き城」として知られておりま
す。関東7名城のひとつに数えられた忍城
は、忍藩十万石の城下町の象徴となりまし
た。現在ある「忍城御三階櫓」は、明治時
代に取り壊されたものを昭和63年に再建
したものとのことでした。
最後だけは徒歩で忍城跡から行田市駅ま
で行き(いわゆるハイキング)解散としま
した。
( 世話役:土浦 清、仲谷 光正、髙尾 忠男 )
- 36 -
4
干支だより
平成25年に干支(巳年)を迎えられる会員は、50名(内訳は大正6年生:
1名、昭和4年生:24名、昭和16年生:8名、昭和28年生:17名)で全
体の8%、そのうち20名の方から近況、干支を迎える感想などをいただきまし
たのでご紹介いたします。
五十嵐
度、公民館の一室で開院し、子供たち
正文
通常国会に提出された通称「マイナ
が持って来る壊れたおもちゃを無償で
ンバー法」は、今国会では成立しなか
直しています。一緒にやっている仲間
った。勤務している会社に関係してい
や手伝いに来てくれる先輩ドクターは
るため、審議の状況が気になったが、
電機メーカーやJRの運転士をリタイ
残念ながら正式の審議がなされないま
ヤした方、電電の先輩などもいて、治
ま、閉会となりそうである。
し方を教えたり教えられたり楽しくや
決められない政治から抜け出せると
っています。NTTリタイヤの私も、
期待していたが、またも政争の具とさ
ハンダゴテの使い方やベル通しによる
れてしまったことは残念で仕方がない。
配線チェックなど、かなり工事部時代
次の臨時国会に淡い期待を持って日々
の技術?が役に立っています。簡単な
の仕事に取り組んで行こうと思ってい
ボランテアの割にはおもちゃが治って
るところである。
喜ぶ子供たちの顔など、やりがいも感
じるので、これからもしばらく続けた
大川
いと考えています。
文弥
足腰が弱くなりましたが、元気で
大下
日々を過ごしております。
雅利
電電の頃の先輩達は、58 才で退職し
大河原
て嘱託となっていましたが、自分の親
晃
齢を重ねていよいよ六十才を迎え
の年令に近くかなりの「老人」と思っ
ることになりました。諸先輩方と同様
ていました。ところが、既にその年令
単なる通過点でしょうが、やはり大き
を越え、還暦の年を迎えています。自
な区切りには違いないなと思っている
分では、若いつもりでも若者から見る
この頃です。
と、当時の自分と同じく老けて見える
10 年ほど前、地域になにか役立つ事
のでしょうか?さて、お陰様で未だに
が出来ないかと、仲間二人と「榛名お
フルタイムで就労できる環境にあり、
もちゃの病院」を始めました。月に一
地域貢献には無縁の状態ですが、先の
- 37 -
災害前に太陽光発電を設置して、電球
を若い方にバトンタッチ、今は、顧問
を LED に交替するなど小さな省エネに
となり少しゆるりとしています。
審判員・C級指導者ライセンスは継
取組んでいます。
(正直なところは、売電と買電で設備
続して保持、時に指導・応援の支援に
投資を回収しようとしています。)
対応しています。時を同じく始めた、
あと 5 年、年金受給開始まで、しっか
家庭菜園にしっかりはまりまして、年
り健康で頑張ってから地域貢献を考え
間、20 種類余りの野菜を作っています。
たいと思っておりますが、先ずは経験
厳冬期、夏野菜の種子をトレイに蒔き、
のあるボーイスカウトのリーダー復活
毎日、目配り・楽しいひと時です。
トマト・キュウリ・しし唐・バジル・
でもやってみようかな・・・。
トウガラシ⇒大収穫。ナス⇒苗の生長
太田
思わしくなく…苗購入・それでも秋茄
保夫
NTTComを退社後、NTTクオ
子まで上手く収穫できました。時々、
リスに入社して5年、今年の年度末で
野菜を子供達に送っています。また、
契約年度満了、満60歳を迎えます。
遊びに来た孫が食べる顔を眺めては幸
入社年度~2年間、赤字経営、3年
せを感じています。
これからも続けていくこと・スイミ
目~黒字経営、23年度は、7年ぶり
に増収増益に転換しました。昨年 9 月
ング・サッカー・畑仕事・読書。
には、NTT野方ビルからアーバンネ
「晴耕雨読」でいいから、健康第一、
ット神田ビルに本社・営業機能を移転
夫婦仲良く、孫の成長を楽しみに暮ら
しました。
せたらいいなと思っているこの頃です。
窓からは、千代田のペンシルタワー
が望めます。千代田統無中に勤務、整
大高
直治
毎度、皆様にお世話様になります。
備課の業務でタワーに上り、命綱を着
けて、作業したあの頃を思い出します。
私は,家庭の事情で昭和 42 年に退職し
(元気を貰っています。)還暦とは、誰
ましたので、現在、知人は本当に少な
のことみたいな感じですが、家族旅行
く淋しい限りです。私も今月 83 歳にな
で還暦お祝いだの・・・今は受け入れ、
りました。しかし、子供達は別居し妻
節目として、干支一回り、これからの
と二人の生活です。高齢になったら妻
人生を生き生きと過ごせたらいいなと
は病気で要介護となりヘルパーをお願
思っています。
いしている状態です。
2 年前、30 年余りお世話になった、
少年サッカークラブの指導者(代表)
- 38 -
大塚
毅然としている。
耀
80数年の私の思い出。今年は干支
前立腺の全摘手術をして、早や 1 年
の7回目を迎える年齢になり、私の人
半…未だに再発におののきながら、後
生を振り返って見ると大変貴重な混乱
遺症に悩まされている情けない。つく
した時代を過ごした。
づくネギがうらやましい。
終戦後の食糧難の時代には参りまし
た。昭和17年岩槻国民学校高等科在
木村
正道
月中、学徒動員で、軍需工場で働き終
1. 地域の町会の役員を10年間勤め
ております。
戦を迎えた。
今後の人生をどう堪え忍び厳しい生
2. 昨年の6月頃から、左目の視力が
活を送るのか、戦後の心がすさむ混乱
0.1 まで低下し、その原因が脳の中
期に、知人の紹介に依り昭和20年10
に出来た「おでき」と判明し、12
月東京無線電気通信工事局岩槻分局に
月にその除去手術を受けた。
採用。空中線保守並び建設工事を先輩
視力は、0.6 に回復し、日常生活に
に指導され約6年後、東京国内無線管
支障ない程度に回復した。
理所超短波課へ転勤、諸先輩の指導に
3. 早くハイキングが出来るようにな
ると良いのですが・・・。
より建設工事に従事する。
公社時代建設工事関係の職場が主で、
厳しさや苦楽を共にした諸先輩の顔が
榑林
敬一
思い浮かぶ。楽しかった公社、在職30
平成25年に 7 回目の干支を迎えて
数年、又退職後も30数年が過ぎ、加
84歳になります。昭和25年から38
齢と共に足、腰痛に悩む。又6~7回
年間の NTT 在職中、その後は電友会で、
の手術等に依り体力、気力も衰えまし
皆様方のお世話になり有難く存じます。
たが、もう少し頑張り静かに余生を送
定年退職後は第二の人生を見据えて、
りたいと思います。
同郷の妻と静岡県に帰り24年になる。
『老いたれば、妻との絆、命綱』
60歳代には野菜を作り近所の人々に
差し上げ、漁師さんからは魚を貰い、
鹿島
交流を深め次第に地域活動が広くなっ
保男
大根白菜の苗が、元気に育って来た。
た。
そろそろ間引きしないと…、玉葱も遅
家では夫婦の共同作業が多くなる。
れ気味ながら発芽した。ネギが青々と
海外旅行に NTT 時代の友人と数回出掛
育っている。それにしてもネギは元気
け、妻から喜ばれた。趣味の天体観測
だ。猛暑にも厳寒にも負けず、いつも
は近くの御前崎海岸で、星空の写真を
- 39 -
撮り十分堪能した。その後は、星空か
幼虫が細胞の中で、蠢いているのを見
ら宇宙へと興味が移り、書物や TV 映像
て、これ等を食せば、さぞかし珍味で
(NHKBS・コズミックフロント)から情
あろうと考えるより、成虫となった時
報を得て楽しむ。天文に対する好奇心
の恐ろしさが先に来ました。一匹の雀
は終生持ち続けたいと思う。
蜂は無くなった巣の跡に 3 日間留まっ
70歳
を過ぎて持病の腰痛が進み、野菜作り
ていましたが、姿を消しました。
地域活動は、家内に任せるようになっ
小林
た。
秀行
老妻との二人暮らしだが二人三脚で
昭和34年の春、東京無線通信部の
何とか元気にしており、周囲の人々の
採用試験に柳町にあった赤レンガ造り
交諠に感謝し迷惑を掛けず過ごせれば
の建物を潜ったのが電電公社暦36年
と思っています。
間の始まりである。
この年は皇太子のご成婚式でミッチー
小林
ブームが到来し、巷には水原弘の「黒
二郎
私も早いもので、2013 年に 7 回目の
い花びら」やスリー・キャッツの「黄
干支を迎えます。
色いさくらんぼ」が流れ、普通部の技
最近、雀蜂(スズメバチ)に追いかけら
術研修を受講した鈴鹿学園では、伊勢
れ、将に刺されそうになった所で夢か
湾台風に遭遇したりした記憶が蘇えっ
ら目覚めました。去年の秋、我が家の
てくる。
双子無線中継所を皮切りに平成6
二階の木製部分に造られた雀蜂の巣を
年の千葉NWCまで職場を変わること
発見しました。
巣は、直径 25cm位、長さ 30cm位
の提灯型のもので、巣の表面に大きな
16回を数え、何とか退職まで辿り着
くことが出来た。
蜂が一匹とまっていました。足長蜂は
電電時代における思い出として記
良く見かけられ、刺されて何度も痛い
憶に留まる様な事柄は、若き頃に上司
思いをしています。
や先輩に何度かご迷惑をお掛けした事
これ 程大 き な雀 蜂で は 恐ろ しく て 、
を除けば然して特別に浮かんで来ない。
近寄らないことにしました。
結構のほほんとマイペース人生を過し
色々考えた末、自治体(中野区役所)に
てきたようである。
第二の職場の協和エクシオを還暦
電話して、巣の除去を依頼したところ、
二日後に専門家が来宅して、30 分位後
まで勤め上げ、残る人生を未だ満足で
に蜂の巣を持って来られましたが、巣
きていないことや、やり残してきたこ
を横半分に割った状態で、何十匹もの
となど好き勝手に出来るだろうと始め
- 40 -
た「毎日が日曜日」であったのだが、
ものだと考える今日この頃であります。
なかなか思うようには行かないもので
桜井
ある。
浩
還暦・古稀と、年を重ねて行くのが
サンデー毎日となり、早や 3 年を過
何とも早く感じてはいたが、24年前
ぎ古希+1を迎えようとしています。
に亡くなった親父の年齢でもある6度
当初はこんな生活をしていいのかと悩
目の干支を迎えて、とうとう72歳と
みました。一寸待て、これからは自分
なるのです。還暦を迎えた頃から「俺
で何とかしなければだめだと思い、市
も親父ぐらいまでは、頑張ってみる
の主催する講座への積極的参加と筑波
か!」と健康維持も兼ねて日課で始め
山を知ろうと「筑波山自然インストラ
るようになった2時間ほどの田んぼ道
クタ教育講座」1 年コースにトライし
ウォーキングとその折り返し点に在る
ました。
ぽっくり弁天(ご利益は「ピンピンこ
今年は、ボケ防止の一環としてパソ
ろり」とか?)の参拝効果が現れたの
コン教室(1 年)に入学、それなりに
だろう、この様子では「ころり」のお
ヒマなし生活しております。また、体
迎えも遠のき、今しばらく生き長らえ
力維持のため 1 日1万歩を目標にジョ
そうである。
キング、
( 3 年間を)集計すると約 5,000
それならば「あとは儲けの人生よ」
Km歩いたことになります。
とお気楽に、今更ではないが好きなお
酒も良薬だと都合の良い言い訳を一人
更沢
和美
自分に言い聞かせ、γ―GTP値を横
健康を保つため、毎日二時間程歩い
目に気が済む程々に、晩酌の楽しみを
ていましたが、最近は腰に軽い痛みを
絶やさず続けられるように心掛け、丈
感じる時もあり、無理をしないよう一
夫な内に温泉旅行など妻とも一緒に楽
日一日を大事にして、過ごしています。
しめる計画をして、二人で出掛ける機
高橋
会を多くもしてみよう。
袈裟義
毎日毎日を充実した日々で迎えら
昭和63年 NTT を退職、第二の職場
れるよう、時には自我を抑えて妻にも
で10年、約50年のサラリーマン生
素直に従いながら、少しでも多くの楽
活でした。顧みれば「苦あり」
「楽あり」
しみを積み重ねることが出来れば儲け
で、無線の畑は楽しかったの一言です。
物である。無線支部の皆さんとも機会
70才を過ぎた頃から体調が落ちまし
ある毎にお会いし楽しい情報を頂きな
たが、老いて益々という言葉がありま
がら、悔いの無い人生で幕を引きたい
すが病気一つせず頑張っています。最
- 41 -
近、草花に興味を持ち、菊作りもやっ
いと思っています。
ていますが、今年は出来が良くなくが
っかりしているところです。来年も花
津田
功
に挑戦です。
《近況》大明にお世話になって5年に
なろうとしています。
玉手
1.私どもの会社は平成24年10月、
通正
大明㈱と㈱東電通が合併し、新たな社
6回目の干支を迎えました。
昭和34年にNTT入社以来54年経
名「㈱ミライト」になりました。
過しました。この間48年間のサラリ
聞き慣れないとは思いますが、社名の
ーマン生活を過ごし、現在も月4~5
由来はMIRAI(未来)+ITです。
日通信建設会社でアルバイトをしてい
旧2社に変わらないお引き立ての程よ
ます。こんなに長い期間よく働いたも
ろしくお願いいたします。
のだと我ながら感心しております。
2.私事では東北大震災で生まれ故郷
これもひとえに先輩諸氏の方々に支え
の石巻が大打撃を受けましたが、まだ
られ助けられた賜物と紙面をお借りし
まだ復興ままならぬ状況です。
( 幸いに
て、感謝申し上げます。
も実家は無事でしたが)今後もできる
≪健康・感慨≫
限り帰郷し、多少なりとも手助けにな
趣味であるゴルフを通じて健康維
ればと思う日頃です。
持を目的として、月6回プレーしてお
ります。幸い、ゴルフ場では気の置け
堤
一男
来年の「干支」は「癸巳」、漫然と年
ない仲間に恵まれストレスを発散させ
ております。
賀のこと等を考えていましたが、一筆
お陰様で、高血圧の薬を飲む以外は健
依頼があり改めて、私は「干支」7巡
康に恵まれており、好きなゴルフをあ
目、時の流れの早さを感じている次第
と7~8年プレーできることが夢です。
です。電電公社入社後、初めての勤務
≪社会貢献活動≫
が、双子無線中継所、爾来、無線部門、
昨年6月、電友会・東京無線支部・
データ部門と、先輩・同僚諸氏のご指
神奈川地区常任幹事を前阿部幹事から
導で、楽しく務めさせて頂き、サラリ
引き継ぎ活動を始めました。これまで、
ーマン生活を無事卒業出来ました。
お世話になった先輩諸氏会員の方々の
現在は、病院通いはあっても、毎日
手助けに少しでも貢献できればと思っ
を、ささやかながら、月2回の漢詩講
ております。
座とたまの旅行及びクラシック音楽会
皆様の協力を賜りながら精一杯務めた
と楽しく過ごさせて頂いています。
- 42 -
健康には自信があったのですが、夏
末筆ながら、今なお、お世話頂いて
いる電友会東京無線支部の幹事をはじ
の初めに腰痛をわずらい「腰はかなめ」
め皆様には、感謝申し上げます。
である事を初めて体験し、今でも定期
的に鍼灸・マッサージに通っています。
平島
これからの人生を楽しく・健康に過ご
一郎
すためにもウォーキングに加え、農作
色々とお世話になります。
年相応に生活して居ます。毎日ウォー
業にも重きを置き体を鍛えていこうと
キングで約1万歩を歩いております。
思っています。
それともう一つは、出来るだけ食事に
吉永
注意しております。
良男
幸い大きな病にならず、7 回目の干
アッと云う間に、この年になりまし
た。年月の速さには驚きます。
支を迎える歳になりました。
昔からの皆様と時々お会いして、楽し
お蔭様で、元気で朝夕、犬と歩いてお
くお話しするのが一番の楽しみです。
ります。又、何時まで続くか判りませ
んが、
前島
地域の防犯活動で、毎月一回ですが、
秀雄
夜間パトロールに参加しております。
(地域貢献)
地元後継者を中心とした親睦会を発
これからもあまり頑張らず、のんび
足して、間もなく20年を迎えます。
りと暮していきたいと、思っていると
メンバーは、農業、サリーマン、酒屋、
ころです。
会社社長と様々ですが総勢24名の会
となり、定例会と称した、ただの飲み
会と年一回の一泊バス旅行、町民体育
祭への参加、地域の清掃活動等、様々
な活動をしています。
また、メンバーの中から3期続けて
地区役員が選出され、地元でも欠くこ
とのできない会になっています。そし
て、新年度を迎えると5回目の幹事が
回って来そうです。今後もこの会を盛
り上げ、老化防止と地域活性化に貢献
して行きたいと考えています。
(健康・感慨)
- 43 -
5
岡部
追
憶
恒雄さんを偲ぶ
林
義昭
岡部恒雄さんが去る6月3日に亡くなられた。77歳であった。
彼は私より2年下の昭和32年の入社であったが、私とは仕事の上で一緒にな
った事は殆どなかった。思い当たるとすれば、彼が北海道通信局の調査課長の頃
(昭和40年以前の頃と思う)、旭川から稚内へのテレビ伝送のマイクロ回線にビ
デオ信号の他にテレビの音声/プログラム信号を伝送する装置を初めて試験する
ことがあった。私が担当していたが、稚内へはケーブルによる伝送路の建設が難
しく、早期のテレビ開局には音声の同時伝送が必要であったからである。装置は
フィールドピックアップ(STリンク)用のもので芝電機製であった。彼は旭川
統無中の人達とよく連携して知駒無中へも行って貰って無事に試験を済ませてテ
レビを開通させてくれた事を覚えている位である。この技術経験から佐藤総理の
くち
「口 パクパク事件」を契機に無線で全面的に映音同時伝送へ転換して行くのであ
った。彼はその時にスキーを覚えて大変好きで又上手であったようである。
仕事の上では余り関わりがなかったが、彼の家が杉並の松庵で吉祥寺の私の家
が近かった事と両方の嫁さんの父親が教員で相互に知故の間柄であった事も関連
して、LPレコードでクラシック音楽を聴いたりして行き来していた。彼がゴル
フに熱中する前の随分と昔の話である。
彼は電電公社のジュネーヴ事務所には2回も勤務している。初めは三代目所長
の松本馨氏の時にその下で、2回目は五代目事務所長としてである。彼は堪能な
語学の上に、人に対して自己の全能力を以って献身的に盡す事のできる素晴らし
い性格の持主であった。現地への出張者がどの位彼の世話になったか、皆口には
出さないがきっと感謝しているに違いない方が大勢居られるのではないかと思う。
彼の特色は、誰とでも人との付き合いが好きで、酒は殆ど口にしないが楽しい
雰囲気を作り出すのが上手だったことである。またゴルフも人との交友が好きで、
良く彼の車で連れて行って貰ったので思い出は多い。
彼は10年位前には毎日曜日武蔵境のドライビング・レンジ(練習場)へ行き、
そこでスィングの改善を行ったので、皆様も良くご存知のような特徴的な大振り
はその後は見る事が出来なくなったが、兎に角熱心に練習に打ち込んでいた。
私などは足元にも及ばない人であった。
会員の多くの方がそれぞれ皆岡部さんとのゴルフで思い出をお持ちであろうと
思う。そしてもう一緒にラウンド出来ないとおもうと深い淋しさと悲しみがこみ
あげて来るのを禁じ得ない。
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ゴルフに不可欠な自動車にも一家言あって私がよく乗せて頂いたのはマツダの
ユーノスとその後は真っ赤な4ドアセダン(MAZDA 3?)であった。そして、酒匂
ロイヤルや下秋間の思い出がまた浮かんで来る。一方、彼のカーラジオにはクラ
シックの名曲が沢山入っており、その道中は音楽とその話で楽しい時間だった。
彼はヴェトナム生まれのピアニストのダン・タイソンがお気に入りで、彼が訪日
すると「追っかけ」を奥様と一緒にやっておられたたようである。岡部さんは彼
の弾くショパンのノクターン作品 72-1 が特に大好きであったようである。
彼は先にも書いたように頼まれると事情の許す限りそれに応えてくれる態度を
持ち続けていた本当に尊敬すべき人であった。我々が先にOBとなった時でも、
余り会の規模の大きくない、例えば「所長OB会」などにも何時でも中央ネット
ワークセンター長の多忙の中で、出席して呉れて色々と激変するテレコム/NT
Tの状況を話して頂いたのを感謝しつつ伺った事を思い出すのである。この類の
話は私の個人的な事でも類挙にいとまがないので止めることにするが、元気で家
庭でもこのような「面倒見の良い人」であったから、突然それを失った奥様のお
嘆きと悲しみは如何ばかりかと今でも案じている今日この頃である。
彼は昭和63年に退職後、国際デジタル通信(株)の取締役、
(財)海外通信放送
コンサルティング協力(JTEC)の常任理事、そして会員諸兄もよくご存知のBHN
テレコム支援協議会の参与そして監事を勤められ、豊富な経験と鋭い洞察力でそ
れぞれの組織で精力的にその指導力を発揮して活躍中であった。本当に惜しむべ
き人であったと残念でならない。
ここに謹んでご冥福をお祈りする次第であります。
故 中田
隆士さんを偲んで
合掌
齋藤
隆
中田さんとの最初の出会いは、昭和 41 年 2 月の東京無線通信部工事課でした。
お互いに独身で長期の出張も意に介さず、土日も帰らず出張先で遊んでいたと記
憶しています。
当時の電電公社は、二大目標達成の大号令のもと①直ぐ付く電話と②全国自動
即時網への編入に全力を傾注していた時代です。
無線通信にあっては、短距離マイクロ方式が全国に導入され、関東では 37 年
の川越~所沢に続き、41 年に房総半島に新たな伝送路が、次々と導入された時代
です。工事課の若手であった 1 歳年上の中田さんと私(齋藤)のコンビと大内さ
んと簗瀬さんのコンビは、銚子~佐原ルートと茂原~銚子ルートに分かれて、付
帯工事を担当。通建業者の無機本体工事に続く 11G・T2-1 方式の単体試験や
区間試験に全力で取組みました。
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あの頃は、開局【有人】が予定されている中継所に、開局準備室が開設され、
所長や管理職候補の先輩が、工事中から着任。若手の配転候補者は、通信部工事
課の借役で集められ、工事課の我々と一緒に付帯工事を経験して、スキルを上げ
開局を迎えました。
銚子~佐原ルートの次は、前述の2組のコンビで、千葉~木更津ルートを中田
(作業主任)・齋藤組が担当、大内(作業主任)・簗瀬組は、木更津~館山ルート
を担当しました。
当時の思い出は数知れず休日には、私がお酒(一升瓶)と中田さんが、つまみ(鰹
の大皿盛り)を抱えて、借役者が待つ宿を訪ね麻雀に興じたことが、今でも楽し
かった思い出の一つです。又、木更津ルートの長柄局では、無人局への進入路を
バリケードで塞がれ、鉄塔の建設工事で落花生畑に砂利が飛び散ったことに抗議
を受け、中田さんが矢面に立ちつつ、通信部の指導を受けながら、折衝して事な
きを得たこともありました。
作業主任としては、工事が進捗せず頭が痛くなる事案ですが、中田さんは何時
も穏やかで、ニコニコしており、中田さんの怒った顔は見たことありません。
包容力があり、人格円満で誰からも好かれる人柄でした。
麻雀で上がるときもポーカーフェイスで、日焼けした顔と真っ白な歯が印象的で、
煙草をくゆらせ、笑みを浮かべながら「ロン」という声が、今でも耳元に残って
います。
千葉県内の工事の後は、栃木でもご一緒し小山~古河 11G・T1-3 方式の付
帯工事もコンビで担当しました。
又、通信部工事課直営で、鳴り物入りで実施した無機本体工事「宇都宮~(羽黒)
~大田原2G方式」でも中田さんは大活躍。高所作業が苦手な私と違い、先輩の
アンテナマンの受けも良く高所が得意で、地下足袋に安全ベルト・ヘルメット姿
の中田さんが、格好良かったことを思い出します。
工事課時代は、約3年弱続きましたが、その後、結婚で職場も離れ離れになり
ましたが、数年後の昭和 48 年には、テレビ伝送も可能な十条~(米本)~成田
空港 11G・T3 方式新設ルートの付帯工事で、また一緒に仕事をしました。
中田さんは、十条統無中試験課工事係長で、私は成田の試験係長でした。
この時も昔の経歴から、工事を担当することになりましたが、当時は無線部挙げ
て、保守稼働を削ってでも、建設稼働率アップが至上命題でした。
当時の苦労は、システム構成や制御系を理解した上で、請負業者に架間配線の
ジャンパー表を作成して手渡すことが、一番の難問で苦労しました。
その後は、昭和 53 年 3 月中田さんは、無線部第一保全課(電波係長)私は第
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二保全課(回線係長)で、お隣同志になったのを最後に、中田さんと一緒の職場
はなくお互いに年賀状のやり取りで、近況を知る間柄でしたが、月日の経つのは
早く、アッという間に 20 有余年が経過。
私が4年前に電友会・埼玉地区の役員を担当してから、時々、電話順送等の機
会に近況を語り合ってきました。
近年は、心臓のバイパス手術の経過も良く、大動脈瘤の心配もなくなり、すっ
かり元気になってゴルフが出来て楽しい。と喜んでいた中田さん。
「会報むせん」のゴルフサークルの記事では、毎回・毎号、元気に活躍してい
る様子が記述されており、23 年 5 月の埼玉地区ゴルフ・コンペでも元気に活躍し
ていた中田さんでした。それなのに、寝耳に水の出来事でした。
平成 23 年の 9 月 24 日に、中田さん本人からの電話があり。一週間前の 16 日に
奥さんが 68 歳で急逝したとのこと。
23 日に奥さんの葬儀を営んだが、自分はそれより前に肺がんを発症し、8 月下
旬に大宮の自治医大付属・埼玉医療センタで、10 日間の検査入院を経て、9 月 7
日から入院中で、既に 2 週間経過したとの知らせでした。
奥さんは、前日まで元気だったが中田さんの入院で、心労が重なっての急病(心
筋梗塞)との事で、中田さんも病院を抜け出しての葬儀となったとのことで、話
を詳細に聞き、この不測な出来事の連続には周囲も呆然とし、ご本人の心中たる
や、察するに余りあるものでした。
私は、ビックリしてお悔やみとお見舞いを兼ねて、入院先を訪ねましたが、只々、
呆然とし、慰める言葉も詰まりがちでした。
その後、治療方針が決まり間もなく退院。通院しつつ自宅療養する事になりま
した。一方、急激な家庭環境の変化に、奥さんを失った中田家では、所帯を持ち
外に出ていた長男夫妻が実家に戻り、自宅療養に取組む中田さんの介護にあたる
ことになったとの事でした。
そして平成 24 年 6 月 29 日、珍しく中田さんから我が家に電話あり。
用件は、会報第 69 号(24 年 6 月発行)が届いたが、2頁目の記述で、中田さん
のお名前にミスがある(誤・中田
隆⇒正・中田隆士)とのご指摘でした。
電話での口調は穏やかで、詰問調ではなくタカシには違いはないが?との話で、
私から、校正ミスをお詫びし、病状を尋ねたりしました。
この時は、まずまず元気そうでしたが、長電話は疲れるとのことで、5分位で
切ったのが、今にして思えば、最後のお別れとなりました。
その後、7 月 22 日 17 時ごろ、中田さんのご長男から我家に電話あった。との
妻の伝言に胸騒ぎを覚える。夕方、再度電話あり。
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中田さんは、ここ 1~2週間、体調が急に悪化したとの事で、突然の訃報でし
た。奥さんを亡くしてから 10 か月、今度は、中田さんが旅立つとは・・・。
ただ、ご長男のお話では、子供達はこの一年、お父さんに寄添い介護を尽くし、
出来るだけのことは、やってあげられたので悔いはない。とのことでした。
まだ 73 歳、若すぎます。中田さん 10 年早いよ・・・と叫びたいやるせなさ。
病を克服して、また元気にゴルフが出来ると信じていたのに・・・。
ギャンブルと煙草が大好きで、車の運転技術も素晴らしく、麻雀やゴルフも上
手でしたね。そして、いつもニコニコ、顔に似合わず甘党だった中田さん・・・。
貴方は、ホンワカとした温かみがあり、申し分のない兄貴でした。
自分と年が近かっただけにショクは大きく、寂しくそして、悲しい出来事でした。
ありがとう中田さん。お疲れ様でしたね・ゆっくり休んで下さい。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
中田
合掌
隆士さんを偲んで
浅井
重男
中田さんとは、昭和 32 年入社の同期です。
私が平成4年4月退職するまで、同一職場で働いたことは一度もありませんでし
た。しかし、私が退職後 PM 会というゴルフコンペに、平成6年5月から参加さ
せてもらいましたが、中田さんは丁度一年後の平成7年5月から参加されて以来、
一緒にゴルフを楽しんできました。
特に、平成17年頃からでしたが故高岡泰資さんと三人で毎月1回でしたがプ
レイを楽しんで、上手な中田さんからスイングやアプローチ等教えてもらいまし
たが、上達することが出来ませんでした。
その後、私が23年1月に肺ガンの手術をしたため一時中断しましたが、4月
から始め6月迄ゴルフはしましたが、8月に中田さんから肺ガンで入院するとの
電話を受け愕然としました。9月にお見舞に行き、その後は時々電話で様子を聞
いていましたが、24年7月3日突然中田さんから再度入院するとの電話を受け
ていましたが、20日にご家族の方から連絡を受け21日にお見舞に行きました
が、反応は無く腕を掴んだが冷たく、心で頑張れよとは言ったのですが、翌日ご
家族の方から電話で亡くなったとの連絡を受け大ショックでした。
ゴルフに一緒に行けなくなった寂しさは、残念で仕方ありませんが、印象に残
ることでは、お孫さんが高校野球球児で一年生から、ショートでレギュラーだと
いうことで、試合があると必ず行くんだと将来をとても楽しみにしていた様子が
浮かんできます。
どうぞゆっくり休んでください。謹んで、ご冥福をお祈り致します。
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故 針生 昌次さんを偲ぶ
清水
勉
針生さんとの思い出の記憶を辿ると、仕事での思い出より飲み会の思い出が多
く出てきます。それだけ飲み会の回数が多かったのです。
私が、初めて針生さんと仕事をさせていただいたのは、昭和 51 年 3 月からの
関東電気通信局施設部無線課時代でした。針生さんが電波担当調査員、私は電波
係の末席で、関東電波監理局への各種申請内容説明、電波折衝を担当しておりま
した。針生さんに初めてお会いした時の印象は、先輩には大変失礼ながらパッチ
リとした眼、愛嬌のあるお顔、何故か懐かしい栃木弁でした。
当時の飲み会場所は、現在も神田にあります居酒屋【あい津(主人は二代目)】
で、無線課の若手メンバーと度々懇親を深めていましたが、全員二日酔いになる
ことも多々ありました。
昭和 53 年 3 月、東京無線通信部工事部第二工事課長にご栄転され、マイクロ
無線部の地区総合工事、若手育成の直営工事指導等に従事されました。
次にお会いしたのは、昭和 56 年 2 月からの宇都宮統制無線中継所時代で、針
生さんが次長、私は試験課回線係長でした。
時同じにして、東京~仙台間 20GHZ 帯準ミリ波方式ルートの新設工事が花盛
りとなり、第二工事課長の経験を生かし陣頭指揮を執られていました。
当時の宇都宮統無中は、八幡山が本
局、中河原が分室となっていましたが、
中河原の設備数や自動車電話等の統制
業務等が八幡山より上まわる時でした。
このことから針生さんは、組織整備
に向けた係長・社員との意見交換も頻
繁に行い、労務担当次長として手腕を
発揮されていました。
また、私は江曽島社宅に入居してお
現在の宇都宮(八幡山)ビル
りましたが、同じ社宅にいた中河原分室の同期の松浦施設係長と拙宅での飲み会
にも度々参加され、昨年 7 月に亡くなった愛妻と同郷でもあることから意気投合
していました。
過日、八幡山局の姿を見ることができ、針生さんと仕事をさせていただいたこ
とを更に懐かしく思ったところです。
無線方式も長中短波、超短波、極超短波(アナログ、ディジタル、NNI)、
衛星通信、自動車電話、携帯電話、スマートフォンと設備やサービスは変わって
きました。この様に変化してきた無線通信の中心的な役割を担った針生さんに献
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杯したいと思います。
献杯。ご冥福をお祈りいたします。
松尾 寛(ひろし)さんと山を想う
髙尾 忠男
松尾さんに最後にお会いしたのは今年2月1日、入院、療養中の千葉市内の病
院へお見舞いをした時でした。西風が吹きつけるとても寒い日でした。病院の受
付で病棟、病室を教えてもらい行ったのですがベッドに見当たりません。うろう
ろと近くの談話室付近まで捜しに行くと、数人の女
性達に囲まれて楽しいそうに歓談中の松尾さんを見
つけ出すことが出来ました。お見舞いの人たちは松
尾さんと一緒に山登りを趣味にしている人たちのグ
ループだったのです。
そうなんです。松尾さんは若い頃から山を愛する
人でした。
私が初めて松尾さんに出会ったのは今から 47 年前
の、昭和 40 年(1965 年)4月、東京、調布市内に
あった日本電信電話公社の訓練施設でした。
松尾さんとは2年間同じ山登りのサークル(正式名称は山岳部、大げさ!)に
在籍し、休日を見つけては方々の山々に一緒に登りました。
初めて登ったのは、この4月に行われた丹沢の主脈を縦走する歓迎登山でした。
この時は全員で 24 名と云う大所帯、しかも日帰りの山行だったせいもあり、あ
まり松尾さんを意識することはありませんでした。その後、週末を利用しての小
さな日帰りの山行には何度も一緒に参加されました。また、松尾さんとは 3000m
級の高い山にも 2 度ばかり登りました。当時の山行記録を前にするとその一部始
終が今でも想い出され忘れることができません。
昭和 40 年 8 月 6 日、短い夏休みを利用して松尾さんと一緒に北アルプス剣岳
(2998m)を目指しました。上野 20 時 25 分発、急行黒部号の夜行列車に乗り込
みました。車内はギュウギュウのスシ詰め状態、勿論座席に座るなどとんでもな
い。車内冷房も全然効きません。
(有ったのカナ?)車内の通路に座れた者は幸福
者、ある者は連結器の上で、またある者はトイレの中で各自忍耐の夜を過ごした
つらい夜行でした。
( 当時、夏山への人気夜行列車はこの程度の混雑は常識でした)。
翌 8 月 7 日、やっと富山駅で夜行列車から開放され、今度はケーブルカー、バ
スに乗り換え弥陀ヶ原へ。ここはまさに山上の楽園でした。室堂にはこの季節で
も雪渓が見られました。モザイクのように美しい地獄谷の白く息吹く様を左に剣
御前に向かいました。前に剣岳を望んだ剣沢のキャンプ指定地は水、トイレ完備
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のキャンプ地でした。早速ベーステントを張り、夕食の準備にとりかかります。
松尾さんの山の経験は豊富で、テント張りなどの野営作業、食事の準備など他の
者を手際よくリードしてくれました。あの時松尾さんが腕を振るったブタ汁はイ
ンスタントではなく、肉、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ入りの本格的なもの
で、その味が忘れられません。
8 月 8 日、いよいよ今日は剣岳です。早々に味噌汁をぶっかけたご飯をかきこ
み、7 時、ベースキャンプを後にナップザック一つで剣に向かう。ゴツゴツした
岩の登りも歩きよい。一本立てる肌に風が冷たい。豊富な残雪の平蔵谷カールを
右下に続く直登、飛び出す会話、一日中好天に恵まれ、鎖場あり残雪ありの険し
くも楽しくのんびりした一日だったことを思いだします。
今度は一年後の昭和 41 年 10 月 8 日、日本第二の高峰、南アルプス北岳(3192m)
にも松尾さんと登りました。夕食を済ませ、京王線、中央線を乗り継ぎ甲府駅へ。
マイクロバスで広河原へ。深夜広河原に着き若干の仮眠で翌 9 日、白根御池小屋
まで登り付近にテントを設営。即、草すべりから小太郎尾根を経由し北岳を目指
すも山頂はミゾレ。風も強く視界もゼロ。寒さで顔がピリピリ。残念だったが明
日の天気回復を期待しベースキャンプへ引き返した。翌 10 日は早朝から誂えた
ような好天。夜空は満点の星。午前2時に山頂向けテントを出発。昨日泣く泣く
下った急坂を今度は大急ぎで直登。北岳山頂から見る北アルプス、中央アルプス、
南アルプス南部、富士山、奥秩父、八ヶ岳などなど 360 度の展望を満喫したのは
つい先日であったような気がいたします。
山の思い出ばかり書いたのでは松尾さんからお叱りを受けそうなので、ここに
短く仕事のことも書き添えさせてもらいます。松尾さんは九州天草出身で福岡統
制電話中継所採用、専門は搬送でしたが、2年間の訓練終了を機に専門も搬送か
ら無線部門に転向し、九州には戻らず東京無線通信部管内に移られました。
以降、主に無線、電力の分野で活躍し TRC を最後に㈱協和エクシオ無線部に
再就職されました。
松尾さんとは 30 分ばかりの短いお見舞いだったのですが、厳しい病気療養の
中、回復に強い意欲を燃やし、退院後はまた元気に方々の山々を登るのだと言っ
ておられたのですが誠に残念です。松尾さんのご冥福をお祈りいたします。今頃
は零れ落ちそうな満天の星空の何処かにいるのでしょうか。
合掌
(挿入の写真は昭和 40 年 8 月 8 日、剣岳山頂での松尾寛さん、当時 25 歳)
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6 随
想
自動車電話など創成期の思い出について
星野
達也
(無線と共に 50 年を過ごして)
私は昭和 23 年 6 月学校を卒業、
(無線技術士 1 級及び無線通信士 2 級の国家資
格を取得)終戦後の混乱期で就職難の時代でもあったが、学校のお世話で同年
8 月当時の逓信省岩槻無線受信所に奉職した。入寮し食糧難に苦しみ乍らも、毎
日の仕事は諸先輩のご指導のおかげで問題も無く比較的早く習熟する事が出来た。
さて、無線受信所の主な仕事は真空管 79 本を使用した triple super heterodyne
方式の space diversity 短波受信機(FS 機能追加済)を操作し通信の相手局の電
波を合成受信する(相手局は日本全国の主要大都市)。受信した信号は東京の無
線電信調整所を経て中央電報局に送られ、各地に中継され電報となってお客様に
配達される。勤続 4 年を経過し慣れるに従いぬるま湯的な日常の生活に物足りな
さを感じ、hungry spirit 抑え難く何とか力いっぱいの仕事をしたいと思う様に
なった。其の頃、隣国朝鮮半島では既に北と南で戦争が始まっており、それを契
機に日本では警察予備隊が創設される事になった。時の吉田内閣が「警察予備隊
は軍隊ではありません」と国会答弁をした為に、警察予備隊の固定無線通信施設
は警察通信施設と同様に電波法の適用を受ける事になった。このため電波法有資
格者が必要になり、私はこれに応募し幹部警察官として採用された。これに伴い、
特別幹部学生としての訓練を受けるため福岡県久留米市にある久留米保安隊普
通科学校に入隊し、12 週間に亘り座学及び実技の訓練を受けて昭和 27 年 11 月
29 日に卒業し、三等保安士(旧軍隊の少尉に相当)に任官して東京練馬駐屯地内
にある中央通信所に配属となった。軍隊の教育は初めてであったが、憲法・法律
や戦術などの座学のほか実技では拳銃や小銃などの銃器やその他各種の火器の
取り扱いや実射、口径の大きい大砲は朝鮮戦争実戦帰りの米軍の兵隊が実際に発
射して見せて呉れた。最後は久留米市郊外の演習地での野外訓練及び熊本県阿蘇
山付近での夜間実戦訓練などを実施して終了した。中央通信所での私の仕事は無
線の知識と資格を生かして、各地保安隊駐屯地の固定無線通信施設の建設及び試
験や調整を行い、無線局の開設並びに部下の指導教育でありなかなか大変であっ
たが、固定通信施設開設の基礎作りに貢献する事が出来た。
しかし、その後結婚をする事になり何時までも軍服を着ているわけにもいかず、
また元の電電公社に戻して頂いた。それ以降は、年功序列のおかげもあり年齢相
当に職位も昇進した。途中は省略するが無線中継所長を経て、自動車電話担当総
合工事長に在職当時自動車電話サービスを開始する事になった。
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「いつでも、どこでも、誰とでも」通話の出来る自動車電話は極めて便利で将
来性があると思い、マイクロ波通信方式の次は自動車電話サービスの時代になる
と確信した。そこで、未だ 50 歳で若かったが将来の成長を信じ、自分から希望
し新規サービスに challenge して頑張る事にした。
昭和 54 年 2 月期の人事異動の実施時、自動車電話会社の予定人員の発令があ
り発足の準備が始まった。内幸町の電電本社に要員は集められたが、人は集まっ
ても寄せ集めで事務用品などは何も無い。工事の工法書や説明書を作成するにも
先ず用紙が無くコピー機も無い。このためマイクロ無線部調査役の小山和男様が
主となりマイクロ無線部が全面的に援助して下さることになった。細々ながら準
備作業が開始され松村組ビルのマイクロ無線部に日参し、コピー機を使用させて
頂き資料などを作成した。また、トヨタ・日産・三菱やヤナセなどの自動車会社
とも接触が持たれ、自動車についての色々な事を教えて貰って工事実施の参考に
した。発足当時、技術者は 20 人足らずでそのうち無線屋は約半分弱、残りの方
は他部門出身の管理職の方で不安と共に心細い限りの船出であった。これに反し
初期の頃のお客様は無線に興味をお持ちの方が多くて、自動車電話の使用方法の
説明なども素人の説明ではなかなか納得して呉れない。最後は我々無線屋が補足
説明を行い理解して帰って貰うことになる。毎日が多忙であり大変であったが、
好評で社会の理解も得てお客様の増加が続いた。
最初の頃、お客様の車は外車では例えばロールス・ロイス、ベントレー、ジャ
ガー、キャデラック、リンカーン・コンチネンタル、ベンツ、BMW、シトロエ
ンなどでまた国産車ではセンチュリー、プレジデント、デボネア、クラウン、セ
ドリックなどで普段我々が見た事も無いような高級車が毎日、自動車電話取り付
け工事のために工事センターに押し寄せて来ることになる。外車の場合は勿論使
用する工具も異なり、我々は当時所持して無かったため急遽外車専門のヤナセに
事情を説明しお借りして間に合わせた。
工事センターでの作業は、フロント応対・機材準備・番号ロム打ち・工事実施
及び回線開通などであるが手の空いている者はお互いに作業を手伝った。毎日の
仕事は、1レーン当たり 2 人の作業者で午前・午後の工事を実施する。作業レー
ンは 4 から 5 レーンであったと記憶している。ところが最初の頃は色々と手間取
り午前の工事が、大体午後 2 時過ぎ近くまでかかってしまう。その後大至急で昼
食を済ませ午後の作業に取り掛かるが、またまた問題の発生する事が多く終りは
概ね夜になってしまう。高級車に傷を付けてはそれこそ大変であり神経を使って
工事をするので、一同疲労困憊の極みで毎日を過ごした。空腹で疲れている時な
どの後部座席の取り外しは特に大変で辛かった。作業時、トランク内などでは相
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当無理な姿勢をしたり、又は重い物を持ったりすることもあるので私はギックリ
腰に3回もなり、その後長い間腰痛などで悩まされた。
また、お客様も千差万別で内閣総理大臣から各省の大臣や議員先生がた、有名
なタレントさんから大物ヤーさんまでの工事を実施したがその扱いには大変苦労
した。慣れない作業の連続でまた毎日が多忙であったので、上司の方も大変気を
使って全員の懇親と融和を図るために毎週水曜日の昼食はライスカレーを作り、
ご飯を炊いて皆で一緒に同じ釜の飯を食べたり、月末には定期的に無礼講の飲み
会を設けるなど色々と趣向を凝らして、寄せ集め混成チームの一体化の醸成につ
いて工夫をして呉れた。また、料理に得意な方もいたりして結構意外と楽しく好
評で仲間意識も盛り上がり、辛い大変な仕事も何とか無事に乗り切る事が出来た。
料理なども段々上手になって虎ノ門本社でも評判となり取締役の部長さんたちも
時々顔を見せる様になった。また、特にこの時期メーカー側からも若手で優秀な
技術者が、困難な作業の応援に駆けつけてくれ随分と助けて呉れた。
昭和 54 年 9 月 17 日、会社発足時期には僅か 54 加入のお客様で始まったのに、
その後関係の皆様方のご努力や携帯電話システムの改善や進歩などもあり、爆発
的に増えて現在何千万加入のお客様になったとは、全く信じられない位の増加で
驚き且つ大変嬉しく思っている。好評でまた多忙であったが、当初営業部門や総
務部門の職員のなかには心労や過労の為に何人も倒れ、その中には鬼籍に入った
方もあり大変お気の毒であった。我々技術部門では上司の方々のご配慮のおかげ
もあり、幸い大きなトラブルも無く全員無事に職責を全うする事が出来た。
しかし、最初の頃寒風吹きすさぶ酷寒の作業場所で、ホカロンを懐中にしのば
せ一緒に苦労した仲間も今では大半の友は他界し、生存している諸先輩も既に高
齢となり昔の思い出を語るすべも無い。
携帯電話の変遷に付いては、自動車電話から始まり・ショルダーホン・携帯電
話・ムーバ(アナログ)・デジタルムーバ・i モード・FOMA・衛星携帯電話方式
に至る迄社会の要望に応えて現在に至り更に進化している。また、会社の名称も
日本自動車電話サービス(株)所謂 JMPS から始まり NTT 中央移動通信(株)
に、次は NTTdocomo となり現在に至っている。作業場所も大井サービスセンタ
ーから羽田サービスセンターに移り最後は品川テクノセンター(京急線青物横丁)
に変わった。一番大変で苦労した大井サービスセンターと羽田サービスセンター
が今では一番懐かしく思い出される。
この間、会社創立準備の最初から活躍された無線の先輩方は小川
役技術部長)・松澤利昌様(技術部長代理
界)
・松崎
昭様(取締
他界)・尾形勝郎様・中野清次様(他
勝様(他界)
・鈴木忠男様(他界)
・鈴木邑長様(他界)などの皆様方
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で心血を注ぎ一緒に頑張った事を思い出す。また、昭和 54 年後半には更に山崎 寛
様・米沢
茂様及び中島
勉様(他界)の3名の方が加わり一層充実した。
省みれば、私は電電公社に 30 年、その後自動車電話や携帯電話関係に 20 年、
70 歳迄合計 50 年間無線一筋に full time で勤務した。その間、警察予備隊の通信
施設の開設や自動車電話サービスの創業などの新規サービスを 2 箇所タッチする
事が出来た。その後、警察予備隊は保安隊から自衛隊と変わりまた、自動車電話
サービスもその後ポケットベルを吸収して、現在の NTTdocomo となり、何れも
立派に華を咲かせ社会に貢献している。振り返って考えると全て自分で選んだ道
であったが、決して平坦な道では無く却って苦労が多かった様に思う。
だが、今にして思えば良き上司や先輩・また良い同僚や部下に恵まれ、助けら
れて幸せに過ごすことが出来た。その時分、大変お世話になった皆様方には有り
難く深く感謝している。多忙で且つ苦労も多くて大変な 50 年の電電人生であっ
たが、携帯電話社会の口開けを務め、充実した毎日を過ごす事が出来たので今で
は誇りに思っている。現在は私も年齢相当の持病を持っているが、これからは健
康に注意し暮らして参りたいと思っています。
留学生がやってきた
向後
幸作
老夫婦と猫の家庭にアメリカの大学から留学生がやってまいりました。IES 全
米大学連盟東京留学センターが千葉市幕張にあります。ここは米国の大学で日本
語を学んでいる学生に日本語の上達、ホームスティを通して日本の暮らしや生活
習慣を学び家族の一員としてホストファミリーと親しい関係を築く体験をさせる
ために次のような特別プログラムが設定されています。
・1月期:2週間程のプログラム
・夏学期:6月上旬~7月下旬
・秋学期:9月上旬~11月下旬
この特別プログラムに協力しているのは神田外語大学(JR京葉線・海浜幕張
駅)です。私の家はJR京葉線沿線に近く、部屋の空もあり、自由時間も沢山あ
ること、留学生との生活を体験してみたかったこと等の理由によりIES東京留
学センターへ留学生引き受けを申込ました。
ホストファミリーを引き受けるに当たって不安だったことは、言葉の違いによ
るコミュニケーションの難しさ、食事の好み、習慣や価値観の違い、個人の性格・
相性でした。しかし、当たって砕けろの精神で挑戦しました。
①最初にホームスティに協力したのは、1月7日~1月20日までのショート
プ ロ グ ラ ム で 留 学 生 は 、テ キ サ ス 州 オ ー ス テ ィ ン 大 学 の 女 子 学 生 リ ン ジ ー さ ん
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( 2 0 歳 )です。プロファイルは、東洋文化専攻
で日本語は中級です。日本語の習得に興味があり、
趣味は、ビデオゲームと読書です。オースティン
大学特別プログラムは、最初の1週間は神田外語
大学に通学して日本語の授業、後の週は東京ツア
ー(浅草、大相撲初場所観戦等)、鎌倉バスツアー、
最後は新幹線に乗車する京都、奈良、広島ツアー
と多彩でアッと云う間の2週間。地域での交流は、
お正月餅つき大会への参加で杵をもって餅をつき
参加者一同の拍手を受けたことです。
日本での感想は、初めて乗車したラッシュの通勤電車とスイカカード乗車方式
にびっくり。大相撲は理解出来なかった様でした。新幹線のスピードと美しく見
えた富士山には大感激の様子でした。日本の文化については金閣寺、奈良の大仏、
海に浮かぶ厳島神社がとくに印象に残ったようです。
彼女は、日本語が上手で日常のコミュニケーションには不便はありませんでし
た。インターネットを駆使して、詳しい知識を事前に準備し日本文化を理解して
いました。日本語も夢中で勉強しており楽しみです。
食物では、お寿司、生魚は苦手、それ以外は積極的にわが家の食事を食べてく
れ、ほっとしました。たくさんのおみやげを持って、
「またこの家に帰って来たい」
という言葉をのこして帰国して行きました。
②二人目は、ノースカロライナ大学特
別プログラム夏学期6月8日~7月2
9日の約2か月間の女子学生レイチェ
ルさんです。プロファイルは、言語学
部日本語学科の学生で、日本語は上級
です。日本語をもっと上達させたいこ
と、日本の歴史、日本の暮らしや生活
習慣を学びたいことが目的でした。趣
味は、ゴルフ、スイミング、写真を撮
ることでカメラはニコンの一眼レフを持っていました。
ノースカロライナ大学特別プログラムは、神田外語大学での日本語授業が主体
で、毎日電車通学です。電車に乗るのは初めてとのこと心配なので前日リハーサ
ルを行いました。授業では、毎日宿題が出てレポート作成、これを基に発表、学
生同士ディスカッション、そして試験ときついスケジュールのようでした。授業
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のなかで書道体験、茶道体験があり、他にスーパー、歌舞伎の観劇、鎌倉・箱根
ツアーが組み込まれており日本文化の体験ができたようで感激していました。
私の家庭では、夕食後約1時間のコミュニケーションを行いました。家族の一
員のようにその日の出来事を話してくれたし、米国の実家の様子も話してくれま
した。実家は、4人家族、マイ
カーは一人一台。住んでいる町
には公共交通は無く高校卒業ま
で両親が送迎していたこと。旅
行好きの一家でキャンプや登山
の思い出の写真を見せてくれま
した。米国の大学では、箸を使
った日本食の食べ方、お風呂の
入り方等を学んだそうですが、
特にお風呂に入ったのは初めてで最高の気分と言ってくれました。日本語が上手
だったため日常会話では困りませんでしたが、日本語や英語を詳しく理解するた
めに電子辞書が大いに役立ちました。丁度夏の町内会盆踊り大会があり、彼女は
浴衣と下駄の姿で参加しました。そして浴衣姿が良く似合っていました。踊りの
師匠の後につき上手に踊り、会場からたくさんの拍手を頂き、良い思い出になっ
たようです。
2か月間のホームスティとなると“情”が移り別れるのが辛くなりましたが、
家族の一員として生活したので相互理解ができ日常生活が新鮮で楽しく、心に残
る思い出をつくることが出来ました。これからも二人とは、米国の親戚として連
絡を取り合い、ひと回り成長した姿を是非見たいと思っています。
来年も新たな出会いを期待してホームスティを申し込む予定です。
古里の想い出
加藤
實
白い花が咲いてた/故郷の遠い夢の日/さようならといったら♪♪・・・。
戦後間もない昭和25年ごろ日本が荒廃から立ち直ろうとした時、岡本敦郎の澄
んだ声と藤山一郎が唄う「青い山脈」の明るい歌声がラジオから流れ、瞬く間に
広がり一世を風靡し、人々に生きる勇気と希望を与えた歌謡曲でした。
この詞は正に私の山深い古里ではないか?と錯覚するような内容で、早春の山
こ ぶ し
に咲く辛夷 の花では?と思われるものでした。60年もたった今でも帰省すると、
何故か口ずさみ、返らぬ日と人々を想い出して空を見上げることが度々あります。
以前は羞恥心もあり「古里」を語ることを躊躇することもありましたが、後期高
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齢者ともなり、あの素晴らしい古里を誇りにさえ思えるようになり、脳味噌に沈
殿した記憶を辿り、恥ずかしながら回想してみました。
成長期の古里は昨年訪日されたブータン
国王の国と類似の生活様式を想像して頂け
ればと思います。標高は 500m 余、町からは
一里あまり離れた山村に、18世帯に 100
人にも満たない人々が住んでいました。み
な親戚のように喜怒哀楽を共有し,協力し
合って移りゆく四季を嬉々として甘受し生
活していました。
村人は雨天など係りなく、日課のごとく
農作業に従事し、主に米、野菜、蕎麦、麦、
古里から見た蔵王連峰
粟などを作り自給自足で賄っており、「ルソー」の言った「自然に還れ」を地で
いくような生活を営んでいました。また、鶏や山羊、羊,牛を野に放ち卵や山羊
の乳、それに鯉などで動物性蛋白質を摂取しており、戦後の食料も困窮する事な
く,大した病にも罹らず暮らして居ました。
病気の時は医者までは遠いため、風邪引きは越中富山の置き薬、腹痛の時は山
野から採取した「せんぶり」や「桂皮」の薬草を煎じて飲み、あとは「水を飲ん
で寝てろ」と渇を入れられ大抵は快復していました。
みしょう
生家は,養蚕や杉苗(実生 から)、葉煙草栽培、炭焼き、肉牛、羊など飼育し、
毎日休む暇も無く朝から晩まで働きどうしで、子供達も細かい仕事をして「猫よ
り増しだナ」などと煽てられながら手伝っていました。学校は分教場で個人指導
のように教えて頂き、また祖母達からは先祖を敬うこと、自然への畏敬と感謝の
心など、日々の生活を通して学びました。
今でも年老いた祖母が夕月に手を会わせている姿が脳裏に刻まれております。
先日義姉が死去し帰省した折、古里の山々に沈む夕日を見て、己の70年の日々
は?亡き父母は、兄弟は?義姉はどこに逝ったのか?みな幻の如きものなのか?
とこの世の無常さを改めて思ったものでした。
また、子孫を思い荒野を耕した先人達は、現在の荒廃した田畑を見て愁嘆するだ
ろうに,若人は都会人と同様、車と携帯を離すことなく、はしゃぎ周り世界中の
食物を食い散して、狂気のような騒がしい音楽を聴いて狂乱し、くだらないTV
を観ては夜更かしをして心身を壊している。生前大宅壮一氏はテレビ放送が開始
された時「日本人は今に総白痴になるゾ」との警告しておりますが、再考される
言葉だと思われます。
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トマス・H・クックの小説「ローラ・フェイとの最後の会話」の中に「ひたす
ら発展する事を至上命令としてきたが、近代社会は人間を幸せにしてこなかった、
人はふれ合う必要がある、人は大事なものほど分け合う事である」と記しており、
正に真実だナ;と思ったものでした。
運命とは不思議なもの、あの山村に転げた小石(生まれた自分)が川に流され
岩にあたりながら海岸近くに着き(住み)やがて海底の砂になろうといている。
そんな私の生涯を「スメタナ」作曲「我が祖国」第2曲のモルダウに重ね合わせ
感慨深く聴く事が度々あります。
と
わ
願わくばあの美しい山々が、古里が永久 にあれヨ!と祈るばかりである。
筑波山自然インストラクターを目指して
桜井
浩
つくば市広報に「筑波山自然インストラクター教育養成講座」の受講生募集が
掲載されていました。恥ずかしながら、筑波山の直ぐ下に住んでいながら筑波山
のことをあまり知らないことに気付き、ボランティア活動の一環(実はボケ防止
の一環)として是非これを受講しようと決めました。当講座は、NPO法人つく
ば環境フォーラムが主催するもので、筑波山を訪れる方々に現地での自然学習を
サポートするボランティア活動を行う人を養成するものです。今回は、若い人か
ら私同様リタイヤした人など、26名が受講生となりました。
講座の内容はとにかく広範囲にわたり、豊里ゆかりの森「あかまつ」
(昔、つく
ば万博で出来た施設)での座学、フィー
ルド研修として現地筑波山、里野ふれあ
いの里で全8回の他、筑波山頂駅2階に
おける3日間の展示解説「筑波山自然ミ
ニガイド」説明要員として直接お客様対
応を行うものでした。
内容は、筑波山の基礎知識として、①
筑波山の生い立ち、②筑波山の地形、地
質、③岩石の見分け方、④国定公園区域
と規制、次に登山と安全として①山での
マナー、②安全な登山、③救急救命法が
ありました。特につくば市消防本部によ
る人形を使っての「心肺蘇生法」とAE
D(自動体外式除細動器)の操作方法等
初めて経験するものでした。今まで、あまり気に止めませんでしたが必要とする
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場所には必ず「AEDが設置されています」の表示がされています。
更には、筑波山の植物、昆虫等を
図鑑を見ながらの確認等、ついて行
くのが精一杯です。なお、講座修了
毎の「ワークシート」による報告書
の提出等とんでもなく勉強になりま
した。お蔭様で一応、写真のとおり、
終了証書を得ることができました。
これで、学生および見学者への説明、案内が出来るわけです。要請があればです
が。非常に範囲が広く、説明が覚束ないので、自分流に筑波山ガイドとして項目
を絞り込んで説明用原稿を作成しました。多分色々な質問が想定されますが初め
は全てを案内できませんが、少しずつ知識を広める努力をするつもりです。
それでは、15項目程度に絞り込んだガイドを簡単に案内します。
特筆すべきは、筑波山の「ブナ」です。貴重な植物です。昔、日本は、現在よ
りも気温が低かったため、低地でもブナが生育していました。その後、気温が上
昇し、気温が低い高い山に追いやられました。山頂付近にみられるブナは生き残
った歴史の証人なのです。ただ、最近の地球の温暖化が騒がれ、更に気温が上昇
したとき、筑波山のブナは逃げるところがないのが心配です。
次に筑波山の生い立ちです。よく筑波山は火山で出来た山ですかと質問されま
すが、筑波山は火山ではありません。昔、地下深いところのマグマ冷えて固まっ
た岩石なのです。中腹から上は、斑レイ岩、麓が花こう岩で構成されており、約
6,000 万年前に固まり隆起して出来たものです。
次に皆さん、よく“筑波おろし”という寒い
風を聞いたことがあるでしょう。漢字では、
“ 颪”
と書き、山から吹き下る風のことです。颪は、
1,000~1,500mの山で吹き下る風を言い、高過
ぎても低過ぎても起こりません。依って、筑波
おろしは正規にはありません。
次に筑波山の奇岩であります。本当にめずら
しい形をした岩が散見されます。前にも述べた
ように、山頂部の斑レイ岩が地下から隆起した
時に大地を押し上げる力などで出来たもので、
奇岩
弁慶七戻
“弁慶七戻り”、“がま石”、“出船入船”等があります。
また、筑波山は日本百名山として登録されていますが、高さ標高で言うと一番
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低い山で百名山に選定されています。関東では「西の富士、東の筑波」として古
くから万葉集でも詩でも詠まれております。
特筆すべき蝶、
「アサギマダラ」がいます。本当にきれいな蝶です。旅をする蝶
と言われており、筑波山でゆうゆうと飛ぶ姿を見ることが出来、実習のとき、そ
の雄姿を見ることができました。信じ難い話ですが、海を渡り、南諸島から飛来
した例として、黒島から 2,140Km もの移動した記録があるそうです。羽根の白
っぽい筋合いが「浅葱色」、わずかに緑色がかった薄青色に見えることからこの名
がついたようです。
また、これも語らなければならない植物「カタクリの群生」です。昔の筑波無
線中継所前に「カタクリの里」があり、楽しませてくれます。カタクリ草は、高
さ 15cm ほどの茎の先に4~5cm の大輪の紅紫色をした可憐な花です。
その他、「つくば市の気候の変化」、「筑波山の高さ」、「ミズナラとどんぐり」、
「四六のガマ」、「ニホン猪」、「桧と佐原」等々がありますが紙面の都合もあり割
愛させていただきます。
筑波山へ登るには東京の秋葉原からつくばエキスプレスの快速で45分、筑波
中央から筑波山の筑波神社登山口までシャトルバス36分です。皆様のお越しを
お待ちしています。お越しの際には私に案内をさせてください。そのとき、文中
で割愛した知識をご披露したいと思います。
花の百名山縦走記 (大雪渓から白馬岳、朝日岳、白馬鑓ヶ岳) 井上 克良
東京は、都庁舎地下駐車場から一路、中央道経由で信濃大町から栂池自然園へ
とツアーバスは向かった。我々は、栂池
猿倉荘前
自然園の一つ手前、八方BTで下車し、
白馬駅
から猿
倉行き
の路線
バスに
乗り換
え、猿倉へ到着した。
35 年前は、アイゼンを登り口の猿倉荘で貸
出し、村営宿舎で返却するサービスがあった
が、現在は購入のみ。大雪渓の登りだけなら
大雪渓入口
アイゼン無しでも可能であるが、縦走用の背
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中の荷物を考えると、2km に及ぶ大雪渓には
アイゼンは、精神的・肉体的に有り難い。今回
は4本爪の簡易な物を持参した。大雪渓の登り
を含め、下りの鑓温泉からの雪田トラバース等
でも活躍した。
大雪渓を行く
7月25日(水)晴れ
白馬尻は、厳冬期は雪崩の巣であり、白馬尻荘(7/1~8/31)は解体して、6月
中旬に再建する。除雪・建設・解体を繰り返している山小屋だ。夏とはいえ、雪
渓を渡ってくる風が心地良い。水場も
それなりにあり、夏の雪上登降、氷河
の少ない日本では、剱沢・針ノ木を含
め、数少ない別天地である。ただ年に
よっては落石が多く、登降中止もある
ようだ。また、ガス等により見通しが
悪いと、登路を誤ったり、気の抜けな
い時もある。幸い、天気は上々、梅雨
大 雪 渓
明け直後で天候も安定している。夕方
まで、にわか雨に会わないこ
とを願うばかりである。アイ
ゼンも良く効き、高度も順調
に稼いでいる。アメリカンス
クールの学生か、ガヤガヤと
騒いでいる。大雪渓上部、葱
平付近で夏道が露出している
ミヤマオダマキ
シロウマタンポポ
場所で昼食を取った。雪渓を
登ってくる人々が豆粒のよう
コイワカガミ
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クルマユリ
シナノキンバイ
に見える。危険防止のため、午後2時過ぎの雪渓登降は禁止である。明るいうち
に村営宿舎着が必須である。葱平を過ぎで避難小屋が現れた。「緊急時のみ利用」
と但し書きが あ る、休憩などに利用するふとどき者がいるのだろうか。中を覗い
たら、座った状態で4~5人で満員である。
トラバース
村営宿舎
この先、小雪渓をトラバースし、お花畑を通過して、村営宿舎に到着した。宿泊
と幕営の受付は別になっている。幕営の手続きをして、
ビールを片手にテント場へと向かった。
7月26日(木)快晴
昨日は久々の雪渓登りで、最後は少々バテ気味であっ
ウルップソウ
た。予定では、昨日のうちに白馬岳山頂を踏み、本日
は、二度目の登頂になるはずであったが、疲れとアル
コールの誘惑とから先延ばしを決めた。
04 時起床の予定が 04 時 22 分起床、朝食・テント撤収後、出発は 06 時 30 分
となった。本日は、この山行中、最長の行動時間なのに先が思いやられる。
村営宿舎から白馬山荘まで 15 分、そこから山頂まで 15 分。いつもの事だが、朝
の出だしは調子が悪い。一汗かくと、本調
子になる。白馬山荘まで重い身体を持ち上
げる。本日は、北アルプス最北端“朝日平”
泊、明日は同じコースを引き返すので、サ
ブザックの小屋泊まりも考えたが、この時
白馬岳山頂
期の小屋はどこもすし詰め状態、ゆったり
と過ごすには、多少荷物になるが、自
分で担ぎ揚げるのがベストである。山
頂は、東側は切れ落ちていて、南北方
向に登山道が延びている。方位盤が設
置してある。白馬山荘方面から、次か
ら次へと登山者が登ってくる。時々、
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雪倉岳
北側、白馬大池方面からも登ってくる。
山頂で記念撮影、今回初めてのピーク
である。しかし、あまりの人の多さに
そそくさと山頂を後にする。
前方に小蓮華山を見ながらだらだら
と降って行く。途中、雪の名残が岩肌
に張り付いている。35 年前に白馬岳か
雪倉岳・朝日岳
ら針ノ木岳へ縦走した際は水確保のた
め、雪渓の雪を溶かして水を作った事を
思い出す。今回は7月下旬、梅雨明け直
後であるから雪渓の融水が確保でき、す
ごく楽チンである。
彼方に人溜り
が見える。時間
が掛かると思っ
タカネナデシコ
たが、20 分程度
で“三国境”長野・新潟・富山の県境に達した。大抵
の人は、ここから白馬大池・栂池方面へ降る。我々を
マツムシソウ
含めた、数パーティが富山県へと足を向けた。ザレた
タカネナデシコ
道を下って行くと、蓮華温泉への分岐を分け鞍部へ向
かって行く、蓮華温泉へは雪の道である。ここからが
雪倉岳への登りである。鉢ヶ岳の山
腹に付けられたほぼ水平の道を行く。
雪倉避難小屋に向けて歩を進める。
雪倉岳山頂、二百名山に指定されて
おり、レリーフが設置してある。そ
して、白
馬岳・旭
白馬岳をバックに(雪倉岳山頂)
岳から朝
日岳、小蓮華山など大展望が満喫できた。
雪倉岳からは、”朝日小屋”が望遠でき、かなりの距
離があるのを実感する。正直なところ陽のあるうちに
コマクサ
辿り着けるか心配になる。案の定、18 時 15 分という、
山においては非常識な時間に小屋に到着した。当然、
- 64 -
ミズバショウ
朝日岳へ向って
小屋泊だったら、遭難騒ぎになる時間帯とのキツイお叱りを受けた。
三国境から以北は、花の種類が違っているのが判る。高嶺撫子が其処彼処に群
生している。小桜ヶ原に
足を踏み入れると、7月
だというのに、”水芭蕉”
が今を盛りと咲いている。
丁度、春と夏が一緒に訪
れているようだ。今回、
此処まで足を延ばして正
解であった。木道を暫く
歩き、朝日岳の水平道分
朝日平
岐に到着した。水平道へ
は雪の塊が厚く残っており、通行の困難さを想像させる。予定通り朝日岳経由へ
と急坂を登る。こちらは、雪解
けの沢筋脇を登っていく。ピー
クまで 1 時間 15 分、若干時間
は掛かるが、歩行困難で引き返
し、時間を無駄にするよりは良
日没(朝日平)
い。 漸く、17 時過ぎに朝日岳到着。山頂はのっぺ
りと広くなっている。予定より若干時間をオーバー
する。降りでも若干オーバーし、前記のような事に
相成った。テント場はヘリポートも兼ねているため、
明朝は5時半には撤収して欲しい旨、念を押されて、
我等のテントは闇に包まれていった。
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ニッコウキスゲ
7月27日(金)
晴れ
04 時起床で、速攻で荷物を
纏め、テント撤収。朝食は小
屋脇のテーブルで摂った。05
時 45 分に出発した後に、ヘ
リは到着した。昨日の反省を
活かし本日はなるべく早めの
行動を心掛けた。昨日の降り
と同じ時間で朝日岳着。少し
朝日岳山頂
先で、蓮華温泉への分岐を分
けると水平道分岐へと先を急いだ。しかし被写体を見つけるとカメラを構えつつ
進んだ。17 時頃には白馬岳のテント場に着きたいが、荷物・体力との相談である。
適度に休憩を挟みつつ、最短時間での到着を目論
む。昨日通過した時は、疲れて花の撮影も儘なら
朝日岳山
なかったが、粗方イメージできる。午前中のため、
昨日昼食を取った沢筋は枯れていた。
早く出た割には、遅々として進まず、写真撮影
に時間を取られた。花の多い事このうえない。
17 時に白馬岳へ戻ってきた。村営宿舎のテント
場はすでに満員状態、ザッと見渡してもテント設
ハクサンコザクラ
置の空きは見当たらない、諦めて小屋泊とする。設営・撤収の無い分、時間短縮
になる。食事も用意できるとの事であったが、荷物を軽くするため自炊とした。
久々に布団で眠る。疲れも幾分か回
復するのを願って、眠りに落ちる。
7月28日(土)
曇り/ガスのち晴れ
村営宿舎で素泊りのため、05 時起
床。元々、本日は鑓温泉までのショ
ートコース。昨日までが本番だとす
杓子岳山頂
ると、今日・明日は”前座”である。
午前中に目的地に着く。更に、本日は山小屋には珍しく温泉付である。日本で三
番目の高所(2100m)に位置する”白馬鑓温泉”が本日の宿泊地である。
鑓温泉の期待を胸に出発するが、生憎、ガスの中。太陽が昇るにつれて、晴れ
る事を期待して杓子岳を目指す。途中から足場が不安定なグズグズの岩屑の道を
- 66 -
登る。後から後から人が続くため、
落石をしないように慎重に登る。
山頂に近づくにつれ足場は安定して
きた。漸く、杓子岳山頂、人は多い
ものの、ガスは相変わらずだ。そそ
くさと山頂を後に白馬鑓ヶ岳へ向か
白馬鑓ヶ岳
う。
白馬岳・杓子岳・白馬鑓ヶ岳は”白馬三山”と言われる山群である。杓子岳の降
りで、ガスが晴れる。前方には白馬
鑓ヶ岳山頂
鑓ヶ岳が視界を圧倒している。一度
降って、登り返すと山頂だ。鞍部が
下に見える、かなりの降りである。
鞍部からは登りを辛抱強く頑張る。
近くに見えるのに、中々辿り着かな
い。杓子岳から 90 分で、白馬鑓ヶ
岳山頂へ到着した。
白馬鑓ヶ岳山頂
遙か下に、雪渓のトラバースルートが
見える、鑓温泉への道である。今年は
雪が多くて、猿倉から鑓温泉への道は
7月20日に開通したそうである。唐
松岳への縦走路の鑓温泉分岐から一気
に降り、雪田を二度横切って、大出原
鑓温泉
というお花畑で中休止した。
その後、鎖場を通過して 12 時半頃、
鑓温泉に到着した。
山小屋、露天風呂、テント場と三段
になっている。テント設営後、いざ温
泉へ。露天風呂は基本的には男女温浴
だが、女性には内風呂もある。夕闇の
露天風呂
中、18:30~19:30 は露天風呂が女性専
用となる。直下には足湯もあり、入浴しない者にも恩恵がある。
温泉は小屋のすぐ裏の岩の裂け目から噴き出している。鑓温泉小屋は、夏から
秋口のみ開設されて、秋には取り壊されるプレハブの建物である。
- 67 -
7月29日(日)
晴れのち曇り
04 時起床、05 時 40 分出発。昨日よりもコースは短く、それもほぼ降りの状況。
残雪が気になるが、足を進める。出発して1時間程度で雪渓に遭遇する。
雪渓にて
ハクサンイチゲ
夏道は若干上部を通っているが、アイゼン装着で雪渓上を行く事にする。暫く降
ってから夏道へと少々登る。その後、雪田を2箇所トラバースし、尾根に取付く。
トラバースⅡ
猿倉荘
その後、お花畑を過ぎ“サンジロ、小日向コル、中山沢”と樹林帯の中を猿倉に
向けて歩を進めた。途中で、TVの撮影隊とすれ違い9時半過ぎに猿倉到着。タ
クシーの乗合で八方BTへ、入浴・昼食後、新宿行のバスに乗車し、今回の山行
を終えた。
- 68 -
7
お知らせ
1.新入会員の紹介
平成24年度上半期に入会された方は下記の9名です。
伊 賀 久 訓 様
自宅 04
菅 原
武 様
自宅 080
中
岡
横
平
斉
半
森
谷
崎
田
野
藤
田
田
清一郎
倫 久
博 道
洋 司
清
幸 夫
登喜夫
様
様
様
様
様
様
様
自宅
自宅
自宅
自宅
自宅
自宅
自宅
03
045
04
043
04
045
042
2.高齢者叙勲
次の方が高齢者叙勲の栄に浴されました。
高
橋
定三郎
様
平成24年8月1日
瑞宝双光章
沼
尾
博
様
平成24年8月1日
瑞宝双光章
新良貴
守
様
平成24年9月1日
瑞宝双光章
3.余栄
次の方が生前のご功績により、余栄を授けられました。
森
田
直
也
様
平成24年7月9日
瑞宝単光章
佐藤喜代雄
様
(大正
5年
3月13日生)
96歳
横井
大六
様
(大正
6年
9月
6日生)
95歳
井上
五郎
様
(大正
7年
2月21日生)
94歳
池田
嘉文
様
(大正
7年
8月29日生)
94歳
神澤
等
様
(大正
8年
1月16日生)
93歳
富田千之助
様
(大正
8年
7月29日生)
93歳
府川金治郎
様
(大正
8年
8月13日生)
93歳
山本
義雄
様
(大正
9年
1月22日生)
92歳
植田
公康
様
(大正
9年
2月
9日生)
92歳
井上千代子
様
(大正
9年
2月
7日生)
92歳
4.長寿番付十傑
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5.物故者の職歴など
平成24年度上半期で亡くなられた8名の方々の職歴などを掲載いたします。
氏
名
( 年令 )
略
歴
死亡日
入社
昭和 4 年 6 月
(106 歳)
略歴
丸ノ内電気通信管理所、東京無線通信部、
平成 24 年3月3日
退社
昭和 39 年 5 月
関東通信局
入社
昭和 23 年 9 月
東京無線電気通信工事局
(84 歳)
略歴
東京無線通信部、東京統無中、浦和統無中
平成 24 年 5 月 23 日
退社
昭和 55 年 8 月
入社
昭和 32 年 4 月
(77 歳)
略歴
ジュネーブ事務所
平成 24 年 6 月 3 日
退社
昭和 63 年 7 月
本社(関企本)
入社
昭和 14 年 1 月
名古屋逓信局金沢工務出張所
(91 歳)
略歴
府中特別統無中、関東通信局、渋谷統無中
平成 24 年 6 月 2 日
退社
昭和 52 年 3 月
技術局
入社
昭和 32 年 4 月
東京統制無線中継所
(73 歳)
略歴
東京無線通信部、マイクロ無線部、栃木 NWC
平成 24 年 7 月 22 日
退社
平成 6 年 3 月
入社
データなし
(86 歳)
略歴
データなし
平成 24 年 8 月 1 日
退社
昭和 46 年 3 月 本社
入社
昭和 23 年 3 月
(83 歳)
略歴
東京統無中、立川統無中、東京無線通信部
平成 24 年 8 月 8 日
退社
昭和 59 年 3 月
宇都宮統無中
入社
昭和 33 年 4 月
福岡統制無線中継所
(72 歳)
略歴
双子無中、東京無線通信部、関東設備建設センタ
平成 24 年 9 月 3 日
退社
平成 5 年 3 月
倉井
森田
岡部
福田
中田
森
正治
直也
恒雄
憲治
隆士
泰男
針生
松尾
昌次
寛
様
様
様
様
様
様
様
様
- 70 -
東京中央電話局
関東通信局
中央 NW 支社
東京設備建設総合センター
那須無線中継所
東京テレビジョン中継センター
6.その他
(1)ボランティア活動関東電友会会長賞受賞
平成24年5月26日(土)東京オペラシティタワー24階 NTT 東日本セミナ
ーホールにおいて関東電友会第46回総会が開
催されました。その中で東京無線支部会員で三
宅島在住の前田玄さんが第3回ボランティア活
動関東電友会会長賞を受賞されました。
前田玄様ご自身、85歳というご高齢であり
ながら、16年
間という長きに
わたり、三宅島
のシルバー人材
センターのリーダーとして、ご尽力されました。
特に、平成12年4月から平成17年3月まで
の5年間におよぶ全員島外避難中には、都内、千
葉、埼玉など、バラバラに避難している会員のよ
き相談相手となり、勇気づけ、励まし、仕事を探し、纏め上げて、帰島まで頑張
られました。
(2)支部ホームページのリニューアル
支部から会員の皆様への情報提供は会報「むせん」とホームページでお伝え
しておりますが、ホームページについて平成24年10月1日00:00からリ
ニューアルオープンいたしました。
リニューアルの主な目的は、会員の皆様からのアンケートで収集したご意見の
反映、トップページから直接コンテンツを検索できる構造、ビジュアル化等を含
めて、実施しました。
このリニューアルに当たっては、前支部長・川船武則様、前副支部長・吉田哲
夫様、支部常任幹事・小林秀行の三方が精力的に作業をすすめられ無事完成しま
した。
これを機に会員の皆様の一層の閲覧をお願いいたします。以前から、設けてお
ります「みんなの広場」では会員の皆様からの投稿のページとしておりますので、
投稿をお待ちしております。
数独に挑戦:回答
a + b
=
3
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8
無線中継所の今昔物語
(第5話)蔵前統制無線中継所
隅田川のほとりにあった蔵前統制無線中継所は昭和39年8月、東北、北海道
方面の関門局として東仙札6
GHz ル ー ト の 開 通 に 合 わ せ て
開局しました。
その後、常磐ルート、房総方
面の改式に伴う 11G ルートな
ど、次々と増設されました。そ
して機械室狭隘とその後の需要
増に対応するため、白髭に新局
ができました。TV ルートの電
波停止などによりマイクロルー
トはその役目を終わり、アンテナのない鉄塔がしばらく隅田川のほとりに立って
いましたが、現在は鉄塔も撤去し、ビル
もリニューアルされ、無線中継所の面影
をしのぶことはできません。当時は隅田
川の汚染もひどく、総武線で隅田川の鉄
橋を渡るときは、鼻をつくような異臭が
していました。その原因は隅田川からの
硫化水素ガスの発生であり、局舎搬入口
の手すりが錆でボロボロになったり、導
波管のフランジのねじが錆で破断したり、
装置内の銀メッキ部分が真っ黒に
錆びるなど色々悪影響もありまし
たが、現在はすっかり川の水もき
れいになり、魚も戻ってきており
ます。
蔵前と言えば当時道路をはさん
だ向こう側に蔵前国技館がありま
した。STL の設置などで出入りさ
れた方も多いのではないでしょう
か。
- 72 -
国技館も昭和59年の秋場所を最
後に両国国技館に移りました。当時
の蔵前国技館の跡は東京都下水道局
の施設となっております。
隅田川の川岸は遊歩道として整備
され都民の憩いの場となっておりま
す。東京スカイツリーも近くに見え、
蔵前橋を渡れば両国国技館もすぐで
す。蔵前、両国、浅草、スカイツリ
ーなどをセットにして新春の初詣を兼ねて散策されては如何でしょうか。
数独に挑戦
123456789123456789123456789
987654321987654321987654321
数字の入っていない升に1~9の数字を入れ、数独を完成させてください。
図の中の a と b の和は?
答えはお知らせの末尾
2
2
a
3
6
4
6
7
5
1
8
9
b
4
4
1
2
9
3
7
8
7
1
3
8
5
7
6
7
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8
編 集 後 記
◇日本国はどこへ行くのか。国内ではゴトゴト内輪もめばかり、災害復旧費の不
適切な使途の問題等、国全体としての前向きのベクトルが全く足りない。外で
は近隣国との領土問題から産業界へまで影響し、ますます国力を削がれている
のではと、一国民として不満で一杯である。
◇こういう時の我々の会報もワンパターンの記事の繰り返しで良いのか、自問し
ていますが、もっと前向き(どういう方向が前なのか)にという読者のみなさ
んからのご意見を聞きたいものです。
◇会報発行は1月号と6月号の年2回発行していますが、半年もあると思われる
かもしれませんが、一息つけるのは、印刷を完了し会員の皆様宅へお届けした
直後だけです。すぐに次の執筆を誰にお願いするかの大仕事が待っています。
一番大変なのが亡くなられた方への追悼文の原稿をお願いできる方を探すこと
です。会員の皆様から執筆の申し出があれば編集担当とすれば一番ありがたい
はなしですが、誰それが親しかったとか、だれそれがこういう面白いことをや
っているよ、等の情報でも寄せて頂ければ、編集担当とすると大感謝です。
◇この会報が皆様に届くのは暮れも押し迫ったころになります。日本全土に漂う
暗雲が今年のうちに去り、晴れ渡った新年を迎えられますようお祈りいたします。
( 渡部
発行年月日
平成25年1月1日
発
行
所
関東電友会 東京無線支部
事
務
局
〒107-0052
東京都港区赤坂8-4-23
NTT-COMテレビジョン中継センタ内
電
話
03-3408-4259
FAX
03-3408-4216
ホーム
ページ
http://www2.ocn.ne.jp/~musensb
Eメール
[email protected]
編集者
渡 部 律 雄
齋 藤
隆
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律雄 記 )