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冥界の道敎的神格 : 「急急如律令」をめぐって
坂出, 祥伸
東洋史研究 (2003), 62(1): 75-96
2003-06-30
http://dx.doi.org/10.14989/155510
Right
Type
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Journal Article
publisher
Kyoto University
5
7
出
手
示
伸
冥界の遁教的一珊格
││﹁急急知律令﹂をめぐ っ て │ │
坂
園の遁数経典の中に見える﹁念念如律令﹂についても若干ながら考察されている 。本稿はこうした成果を踏まえながら、
中国で近年瑳見された後漢末から貌菅南北朝時代の鎮墓券な いしは買地券に記載されている﹁急急如律令﹂の文言と遁数
的な冥界諸紳との関連を考察しようとするものである 。
資暇録﹄巻中の次の文で
﹁念念如律令﹂の呪語に最初に注意したのは、唐代の考詮書としてすぐれている李匡父著す ﹃
。
あろう。﹁符祝の類、末匂の念品志知律令なる者は、人皆以て飲酒の律令の知く、速やかに去って滞るを得ずと矯すなり
一説に漢朝文書を行下する毎に皆律令の如くせよと云う。律に非ず令に非ざる文書の行下にも、嘗に亦た律令の如 くすべ
75ー
はじめに
め
一後漢時代の﹁急念知天帝律令﹂
-││﹁解注﹂﹁生死異路﹂の背且Ra
南朝における冥界諸神の繁化
││遁数的神格の出現││
じ
心如律令﹂の木簡については、早くから多くの考察がある。また、中
日本の古代遺跡から出土する呪言木筒、特に﹁念品一
ま
l
7
6
し と 言 う 。故 に 符 祝 の 類 、 末 句 に 律 令 の 如 く せ よ の 言 有 り 。 並 び に 之 を 非 と す 。案 ず る に 律 令 の 令 の 字 は 、 宜 し く 平 撃 に
讃みて零と矯すべし(音は毛詩の虚重令の令の若く、人の姓の令狐氏の令の若きなり
律令は是れ雷の遺捷なる鬼なり。筆者
。
)
(1)
量 に 之 を 知 ら ざ ら ん 。 此 の 鬼 善 く 走 り 、 雷 と 相 疾 速 す 。故 に 此 の 鬼 の 疾 走 す る が 如 く せ よ と 云 う な り ﹂ 。 つまり、首時、
一般 的 に は ﹁ 急 念 如 律 令 ﹂ の 語 は 漢 代 の 行 政 文 書 の ﹁ 律 令 ﹂ と 同 様 に 遅 滞 な き よ う に せ よ と の 意 味 に 解 さ れ て い た の を 、
入 は 異 を 唱 え て 雷 鬼 の 如 く 速 や か に せ よ の 意 味 だ と 主 張 し た の で あ る 。 ただし、この文を初めて引用したのは、
李匡 V
らく南宋初の程大昌 ﹃
演繁露﹄ (
葉大慶以下が ﹃
孜古編﹄として引用するのは誤り ) であろう 。 そ の 巻 十 二 ﹁ 如 律 令 ﹂ 僚 に ﹃ 資
暇 録﹄ を 引 用 し た 後 、 ﹁ 按 ず る に 風 俗 通 漠 法 九 章 を 論 じ 、 因 り て 言 い て 日 く 、 夫 れ 吏 は 治 な り 。嘗に先に自ら正しくして、
つね
然 る 後 に 人 を 正 す 。 故 に 文書 下 す こ と 律 令 の 知 し 。 言 う こ こ ろ は 嘗 に 憲 を 承 け 縄 を 履 み 、 動 に 律 令 を 失 わ ざ る な り 、 と
風俗遁﹄ の引用は供文
今 の 遁 流 符 児 家 は 、 凡 そ 行 移 す る に 悉 く 官 府 の 制 度 に 倣 え ば 、 則 ち 其 の 符 児 の 如 律 令 と 云う 者
﹃
(
。
)
は 、 是 れ 官 文 書 に 倣 っ て 之 を 矯 す 。 必 ず し も 撃 ち て 雷 鬼 を 言 わ ざ る な り ﹂ と 論 じ て 、 李 匡 父 の 説 に 反 論 し て 、 律 令 H雷 鬼
の 説 を 否 定 し て い る 。 そ の 後 、 や は り 南 宋 の 葉 大 慶 ﹁ 考 古 質 疑 ﹄ 巻四が更に程氏の説を補って、 ﹃
文 選 ﹄ の衰紹﹁撤橡州﹂
に﹁如律令﹂とあり、また、同じく ﹃
文 選﹄ の 曹 公 ﹁ 撤 呉 部 曲 ﹂ に も ﹁ 如 律 令 ﹂ と あ る か ら 李 説 は 謬 り だ と 知 ら れ る と 言
刑法のごときを考えているのであろ う)、 令 と は 、 首 に 篤 す べ き こ と を 令
ざる所を禁ずる所以であり (
ぃ 、 律 と は 、 矯 す を 得、
(3)
する所以である (
命令のこと指している )
、全髄として、﹁律令の知く達、つを得ざれ﹂という意味だとして、程氏の説の通り
野 客 叢 書﹄ 巻 十 こ で も 、 李 匡 父 の 説 を 取 り 上 げ て 、 ﹁
だと論じている 。 また、南宋の王琳 ﹃
雷透捷鬼の説は近世の雑書に
(4)
出ているが、西漢にはそのような説は聞いたことがなく、漢人が知律令という場合は、律令の知く速く施行せよというの
であ って
、 い わ ゆ る 捷 鬼 な る も の を 知 って い る は ず が な い 、 こ の 語 は 亙 史 に 近 く 不 経 な る こ と 甚 だ し い ﹂ と 反 駁 し て い る 。
-7
6一
お
そ
一
二 五) に 険 右 か ら 出 土 し た 永 初
また 一方 、 北 宋 ・ 越 彦 衛 ﹃ 雲 麓 漫 抄 ﹂ 巻 七 に は 、 北 宋 ・徽 宗 の 宣 和 年 間
一
(
劉宋・武帝の年競、四 二 二 の搬に、﹁、水初 二年 六 月 丁 未 朔 廿 日 丙 寅 、 得 車 騎 将 軍 幕 府 文 書 、 上 郡 属 園 都 尉 二千 石 守 丞
二年 (
九
7
7
建義豚令三水、十月丁未、到府受印綬震夫討畔蒐、念品志如律令、馬四十匹・騒二百頭、日給内侍、梁師成得之以石、未幾
梁卒﹂とあるのを引いて、その章草の書檀について議論しているが、最後に﹁念念如律令﹂について論及して、これは
(5)
﹁漢の公移の常語にして、猫お今の符到奉行と云うがごとし 。張天師は漢人、故に承けて之を用い、而して這家蓬に租述
するを得たり﹂と遮べているのは、遁数と﹁念念如律令﹂の呪言との関係を最初に指摘したものであろう。なお、南宋の
後漢書﹄ の記述との考誼を行 っている 。
東観絵論﹄巻上﹁漢筒排﹂で、出土した漠簡の記事と ﹃
黄伯思が ﹃
7)
(
微言月刊﹂三
その後、中園の撃者で﹁念念知律令﹂の呪語を問題にしたのは、民園の撃者・沼石軒﹁念念如律令考﹂(﹁
競、一九四八)までなかったのではなかろうか。この論文は、﹁知律令﹂の語は、詔書より出るものであり、漢代の文告に
貌晋清談思想初論﹄が日本の中
も用いられていたとして、おおよそは宋代の葉氏の説を襲っているのであるが、賀昌輩 ﹃
村不折の﹃圏内域出土墨賓源流考﹄巻上に紹介されている漢貌耳目の聞の陶聾に﹁念念如律令﹂﹁急如地下詔書﹂とあり、こ
れらは所謂る遁家の符呪・雷遁の捷鬼であると述 べているのを批評して、もし中村氏が得た洛陽長安出土の陶聾の年代に
(8)
資暇録﹄ のいう﹁雷遁捷鬼の説﹂にも根擦があることになり、穿撃だとして斥けるわけにはいかない
問題がなければ、 ﹃
と論じている 。
近年中園で出版された遁敬僻典の類でも、この﹁念念如律令﹂の呪語は採用されることが少なく、わずかに胡字深主編
﹃中華道数大事典﹂(中園枇舎科拳出版社、一九九五年)の﹁如律令﹂の項に、それには二つの解があるとして、先ず、本来
は官府の文書の常套語であり、公事の施行は刑律政令の要求のとおりに速やかに行うべきであるという意味であったのを、
亙師や方士が呪語に轄用してその呪語に律令と同様の権威があることを意味したのであり、後漢の﹁解注瓶﹂にこの用法
があるとして、洛陽出土の瓶に﹁解注瓶、百解去、如律令﹂の呪語が書かれ、あるいは﹁念念﹂を加えて召された鬼紳が
律のとおりに速やかに執行するよう命令していると説明し、道教はこれを継承してその句の前あるいは句中に寧紳の名を
稽して、﹁太上老君念念如律令﹂﹁念念知太上老君律令﹂﹁念念如高上林容玉清異王律令﹂のようになったという。他のひ
-77-
7
8
とつの解は、後世、雷部の一柳名﹁律令﹂が、その行くこと雷電のように速やかなのに附命回して、﹁念念知律令﹂とは、律
令のように迅速であれと示している 。 これは﹃資暇録﹄にもとづく解説であるが、この説は宋以降、雷法が興隆して初め
(
9)
(叩 )
一方、わが園では瀧 川政 次郎﹁念念如律令﹂ (
﹁法律春秋﹂第 一巻
て出現したものであるという。 しかし、この説は影響が大きく、清・紀向﹃関微草堂筆記﹄巻五にも﹁雷部鬼律令行最
疾﹂と見えている 。
以上には、中園での考察の沿革を紹介したのであるが、
抗
、 一九二七年)が、おそらく最初にこの呪語について論じた論文であろう。 この論文は、もちろん唐の李匡父の説を
第 三時
永初 二年の機の引用がそ
承知しており 、また明示されてはいないが、北宋の﹃雲麓漫抄﹄ の説をも承知して書かれている (
ここで瀧川氏は﹁念念如律令﹂の呪語そのものよりも、法制史家としては首然であるが、﹁律令﹂﹁詔書﹂の検
うである
。
)
討に関心を寄せられていて、﹁如律令﹂の語は ﹃
史記﹄三 王世家に、﹁如詔書﹂は﹁孔廟置{寸廟百石卒史碑 ﹂(
前漢・元嘉
一
一
一
年)に見えていると指摘している 。しかし、この二つの用例は瀧川氏の訓請されているような﹁ゴトクセヨ﹂ではなくて、
﹁ゴトシ﹂と誼むべきかと思われる 。また、流沙墜簡から引く二例の﹁如詔書﹂も同様に﹁ゴトシ﹂と謹むべきもののよ
うである 。その後に引く 二例の﹁母忽如律令﹂は、瀧川氏の説くように﹁念念如律令﹂と同じ意義であろう。﹁母忽﹂は
﹁ユルガセニスルナカレ﹂と訓ずるからである 。最後の 一例の﹁如律令﹂は前段の文意が不明なので剣断できない 。瀧川
氏は唐の﹃資暇録﹄の説を﹁遁家の呪符﹂だとしながらも、﹁荒唐無稽﹂として斥けているので、これ以上の深い考察に
まで及ん でいない 。
その後、 やはり法制史家の仁井田陸氏が漢代の鎖墓券に見える﹁如律令﹂について、﹁貞松堂集遺文﹂、中村不折書遁博
物館所戴銀墓券を材料として考察され、﹁知律令﹂﹁有天帝数如律令﹂﹁有天地数如律令﹂の文言は、﹁留十なる冗文といえな
いことはないが、そのもつ意味は、﹁契約の致力は律令所定の通り﹂といい、﹁天帝(天地)の敬令が巌として存するゆえ
に、もしそれに違反すれば天帝(天地)の制定した律令に従って慮分される﹂という旨をあらわしたものといえよう﹂と
7
8
9
7
(口)
説明されている。 つまり、﹁如律令﹂の呪言的性格は考察の外に置いて契約もしくは法制として理解されているのである。
なお、仁井田氏は買地券(氏の用語では墓田賀買文書)にも﹁知律令﹂の文言が見えていることに注意されている。
その後、この呪言についての考察が深められないままに、奈良卒安時代の呪符木簡が各地で出土設見されたので、日本
古代史の研究者たちは﹁念念知律令﹂の呪言を十把ひとからげに﹁遁数的色彩の濃い﹂呪符だと断定し、日本古代史の側
ではかなりの研究が進んでいるようである(本稿ではこれには論及しない)。その問、遁数研究者としては唯て宮津正順氏
)
ロ
(
が近年になって遁数経典の中に﹁念念如律令﹂の呪語のあるものを時代を問わず拾い集められた。この研究はそれなりに
意味があるとは思う。とはいうものの、呪語とそれを載せた経典の成立時期との関連を考慮する必要があるだろう。また、
てす
みい
よ例
しゃ
う2を
)奉
。
げ
っ
ょ
一九七二年、河南省霊賓牒張湾第五競東漢墓か ら出 土した朱書問瓶に書かれた一八
-79-
中園では近年、﹁急急如律令﹂の呪語を含む陶緩や地券がかなり出土していて、これらを資料とした古代人の冥界観念に
ついての考察がなされているが、呪符は車にそれのみが濁立して用いられているのではなくて、冥界を支配する神格や死
後霊的な鬼神と深く関連していることが多いので、そういう結に本稿では注意して論じたい。
﹁ 生死異路﹂の背景│ │
後 漢 時 代 の ﹁ 念 念 如 天 帝 律 令 ﹂ │ │﹁解注﹂
後漢時代の墓室や遣社から出土する資料│朱書陶瓶・陶健、鉛券、碍券、買地券、木簡などに、﹁如律令﹂の文言を含
むものがしばしば見られる 。多く は 冥 界 の 様 相 を 示 す 資 料 と し て 、 す で に 原 田 、 東 、 小 南 氏 ら に よ っ て 紹 介 さ 切 そ の 様
(U)
相のかなりの側面は明らかにされている 。 そこで筆者は三氏の鰯れていない側面や三氏の説とは異なる解穫をもっている
行
側面について私見を遮べることにしたい 。
例か
示り
天帝使者、謹魚楊氏之家銭安隠(稽)家墓。謹以鉛入金玉矯死者解適(諦)、生人除罪過(過)、瓶到之後、令母人魚
八先
二ず
字、
を分
8
0
安、宗君自食地下租、歳二千高、令後世子々孫々土(仕){臣、位至公侯、富貴、公侯不絶、移丘丞墓口、下首用者 。
如律令。(天 帝使者、謹んで楊氏の家の矯に家墓を鎮め安穏にす 。謹んで鉛入金玉を以て死者の矯に解遁(請)し、生人には罪過
0
)
を除く 。瓶到るの後は、母人をして 安を篤し、宗君は自ら 地下の租を歳ごと 二千高を食せしめ、後世の子々孫々をして仕宣せしめ、
伯)に移し、用に首たる者に下せ 。律令の如くせよ
位は公侯に至り、官田由貿、公侯は絶えず、丘丞の墓口 (
﹁天帝使者﹂については、すでに小南氏が明らかにしているように、一具界の最高紳である天帝に仕えて、死者の世界の
安穏を保障し生者にも幸一臓と繁栄をもたらす役をになっている 。天帝使者は別に﹁天帝神師﹂と稽されることがある。な
ぉ、トルファン・アスタナ 三O三競墓出土の符銭に﹁天帝﹂と推測される神像が重かれている 。紳像の下には﹁黄﹂の字
が大書され、さらに下方に書かれている四行 二
二 字の呪言の最初は﹁天帝紳符﹂とある 。 ﹁黄﹂は 黄帝の省 略であり、黄
帝は天帝の意である 。
問題は、末尾の﹁律令の如くせよ﹂であるが、これには主語がないが、天帝は天帝使者を通じて律令を下すのであり、
﹁律令の如くせよ﹂とは、﹁天帝の命令の通りにせよ﹂の意であろう 。 つまり、﹁律令﹂の前に﹁天帝﹂の二字が略されて
(
家券・裏酌一の用例、あるいは﹁天帝
いると考えてもよい。というのは、﹁他は天帝の律令の如くせよ﹂(光和元年曹仲成買 一
後漢時代、年月未詳、劉伯平銀墓赤 )の用例もあるからである 。 ﹁天帝﹂に ついては、﹃後漢書﹂方術停の王喬
の数え有り﹂ (
の停に、王喬が﹁天帝濁り我を召すか﹂といって死んだという話が見えていて、後漢時代には、上帝とともにしばしばそ
の名の見える天紳である。なお、後世、一柳あるいは遁士が﹁天帝使者﹂を自稽するのは(﹃捜紳記﹄巻四戴文謀、巻一九謝非)、
捜神記﹄巻四燦竺)。
何らかの影響かも知れないし、またあるいは、﹁天使﹂とも稽するのは﹁天帝使者﹂の省略であろう(﹃
﹁
死者 の 矯 に 解 遁 ( 摘 と す る の ﹁ 諦﹂は、 罪の意であるが、死者が生前におかした罪を指しているのではなかろうか 。
それを﹁解﹂するというのは、﹁生人には罪科を除く﹂とベアになっているように﹁解﹂は﹁除く﹂の意であろうが、し
論衡﹄解除篇)。移 とは文書を回し迭る意の官制用語。 つまり、
かし、具韓的には疫鬼を躯逐することをいうのであろう(﹃
8
0
8
1
天 帝 使 者 が 下 級 官 吏 の 丘 丞 墓 口 ( 伯 で あ ろ う) に 、 死 者 に つ い て の 生 前 の 罪 過 に つ い て の 記 録 を 回 し 迭 り 、 さ ら に 下 級 の
現 地 権 首 者 に 下 す 、 と い う の で あ ろ う。
ところで、天帝使者はなぜ死んだ楊氏の家のために、その家墓を鎮めるのか。
別 の 出 土 資 料 を 見 て み よ う 。 陳 西 西 安 出 土 の 後 漢 ・喜⋮
平元年の陶瓶の記載には次のようにある。
票卒元年十二月四日甲申、震陳叔敬等、立家墓之根、震生人除狭、篤死人解適。告北家公伯、地下二千石、倉林君、
武威王 。生 人 上 就 陽 、 死 人 下 鯖 陰 。生 人 上 就 高 蓋 、 死 人 深 自 戴 。 生 死 各 自 異 路 。急知律令。善者陳氏吉昌、悪者五精、
自 受 其 残 。念々 。
(
喜
⋮ 卒元年十二月四日甲申、陳叔敬等の篤に、家墓の根を立て、生人の篤に残を除き、死者の篤に遁を解く 。北
家公伯、地下二千石、倉林君、武威王に告ぐ。生人は上りて陽に就き、死人は下りて陰に館す e生人は上りて高宜互に就き、死人は
深く自ら簸る 。生死各々自ら路を異にす。念なること律令の知くせよ 。普なる者陳氏は吉田目し、慈なる者は五精(?)にして、自
ら其の換を受く。念々。)
これによると、生人の住む世界は地上の陽であり高重であるといい、死者は地下の陰の世界に謄れて住んでほしいとい
ぅ。つまり、死者は生者との連累を絶って別々に生活してほしいというのである。この文にも主語がないが、北家公伯、
地下二千石、倉林君、武威王に告げているのは、首然、天帝使者であろう。 これによっても、死者を生者から隔離しよう
との意圃が讃み取れる 。
では、なぜ死者の﹁解諦﹂をしたり、﹁生死各々路を異に﹂しなければならないのか。軍に死霊の巣りをもたらさない
ための願いとは考えられない 。 死 霊 の 崇 り と は 、 賓 は 疫 鬼 の 崇 り で は な か ろ う か 。 そ こ で 後 漢 時 代 の 霊 魂 観 の 背 景 に 、 首
時の疫病の大流行があったことを、関連する資料について考察してみたい 。
﹃傷寒論﹄を著わした張仲景は後漢時代の聾者として有名であるが、現行の﹁傷寒論﹄の序文﹁傷宮本卒病論集﹂にいう。
﹁余が宗族素より多く、二百徐に向んなんとす 。建安紀年以来、猶お未だ十稔(年 )ならざるに、其の死亡する者、 三分
- 8
1-
2
8
に二有り、傷寒は十に其の七に居る、往昔の治喪に感じ、横夫の救う莫きを傷み、乃ち勤めて古訓を求め、博く衆方を釆
(引 )
。
り、(中略)傷寒雑病論を矯り合して十六巻 ﹂と、 ﹃傷宮本論﹄を著わした動機を語っている すなわち、傷寒の大流行で二
。
。
百人鯵りの 一族の 三分のこが死亡したという悲惨な状況があったのである 張 仲 景は南陽の人といわれる 今の河南省南
。
陽あたりであろう。傷寒の症候の範園は庚いが記載から考えると 一種の侍染性疾患のようである
O) には、疫病の大流行は、よく知られた事例だけでも建安十三年、赤壁の戦の
こ の 後 漢 末 期 の 建 安 年 間 (一九六 l一 一
一
一
(勾)
。
前、前田操の軍内で費生した疫病、建安 二十二年、曹植の﹁説疫気﹂にその悲惨な状態が説かれる疫病の大流行である
、
建安十 三年)九月、酋国公剤州に入る 。劉涼衆を奉げて降る。苗回公其の水軍を得
﹃三園志﹄呉書 ・周瑞俸に、﹁其の年 (
孫 )権(周)論及び程並回世一寸を遣わし劉備と力を井わせ曹公を逆え、赤
船兵歩十寓を数、っ、将士之を聞いて皆恐る 。 ::: (
壁に遇、っ 。時に曹公の軍衆己に疾病有り、初め 一たび戦いを交えるや、公の箪敗退し、引いて江北に次す﹂と記され、曹
。
(幻)
走 る を 差 じ ず と 。後 書 し て 権 に 輿 え て 日 く 、 赤 壁 の 役 、 疫 病 有 る に 値 り 、 孤
江表傍﹂ にい
操の軍内に多くの病人が琵生していたことが知られるのであるが、それは疫病であった。同書 ・斐注所引 ﹁
周 略取の貌軍を破るや、曹公日く、孤
ぅ。 ﹁
船を焼いて自ら退く、横いままに周稔をして虚しく此の名を獲しむ﹂と
その詳細は省くが、曹操にとっては、疫病という思わぬ大敵によって敗北を喫した口惜しさが想像できよう。
( 川出 )
次に建安 二十二年の疫病の大流行については、薗田植の﹁説疫気﹂を全文引用しておけば、その悲惨さと規模の大きさを
推測するに足りるであろう。
建安二十 二年、病気流行す 。家家に僅戸の痛有り、室室に競泣の哀 し み有り、或いは闇門にして撞し或いは覆族にし
て喪す。或いは以篤えらく、疫なる者は鬼神の作す所、夫れ此れに擢る者は、悉く被褐茄葎の子、刑室蓬戸の人のみ
夫の殿慮鼎食の家、重紹累鳶の門には、是くの若き者鮮し 。 此れ乃ち陰陽位を失し、宮本暑時を錯う、是の故に疫を生
﹃
太卒御覧﹄巻七百四十三)
ず。而して愚民は符を懸けて之を厭す、亦た笑う可きなり 。 (
。
2
-8
8
3
一時に倶に逝けり﹂と。
しかし、疫病は貴櫨の家をも避けているのではない。貌の文帝(曹壬)が呉質に輿えた書にいう。﹁昔年の疾疫、親故
多く其の災に擢り、徐(干)・陳(琳)・麿(場)・劉(禎)、
ところで、鎮墓券の中に﹁鬼注﹂(敦埋・備爺廟出土陶鉢)﹁精注﹂(﹁永建三年 銀墓文﹂)などの文言を含んだものがいく
っか出土している。
口口乙亥朔廿二日丙申、執天帝下令、移前雄東郷東邸里劉伯卒、薄命口口口薬不能治。歳月重復、口奥口口魅鬼戸注、
皆蹄墓父(一作丘)。大山君召口口相念、苦勿相思。生属長安、死属大山。死生異慮、不得相防。須河水清、大山口口
口有天帝敬、知律令。(﹁貞松堂集古遺文﹂一五)
判讃しがたい箇所が多いが、稗文すれば、以下のようであろう。
口口(月)乙亥朔廿二日丙申、天帝の下令を執り、前の錐東郷東邸里劉伯平を移す、薄命口(早)口口(醤)薬も治
す能わず。歳月重復し、口は口口の魅鬼戸注し、皆墓正に蹄る。大(太)山君は口口を相念、つも、苦んごろに相思う
(お)
勿れ。生は長安に麗し、死は大山に属す。死生慮を異にし、相防(妨)ぐるを得ず。河水の清むを須ち、大山口口口
天帝の数有り、律令の如くせよ。
一人死して、
﹁治戸注鬼
一人復た得、気相濯注
﹁重復﹂は、劉昭瑞氏が論じているように、﹃太平経﹄で説く﹁承負﹂の観念と同じだとすべきであろうが、ここでは深
くは立ち入らない。﹁魁鬼戸注﹂は、後漢・劉照﹃務名﹂巻八﹁稗疾病﹂に﹁注病、
(お)
(幻)
するなり﹂と説明されているように、惇染性の疫病であり、戸注については、菅・葛洪の﹃肘後備念方﹄巻一
注方﹂の記述が参考になろう。
戸注・鬼注の病なる者は、葛云う、即ち是れ五屍の中の戸注なり、又諸もろの鬼邪を挟んで害を鴬すなり。其の病は
費動し、乃ち三十六種より九十九種に至る有り。大略人をして寒熱、淋涯せしめ、侃侃(ぼやっとしたり)歎歎たりて、
其の苦しむ所を的らかに知らず。而も虚として悪しまざるは無し。年を累ね月を積んで、漸く頓滞に就く。死して後
- 8
3一
4
8
復た之を秀人に傍えて、乃ち門を滅ぼすに至る 。
戸注に躍った場合の症状を記載して、寒熱や下痢に苦しみ精神状態まで冒され、死んでも傍らの人に傍染し、 一族を滅
亡させるという、恐怖の病気であ った。 この注病は菅以後も娼娠してやむことがなかったらしく、陪 ・桑元方の著わす
。 おそらく、この記述が注
諸病源候論﹂巻二十四は﹁注病諸候﹂と題して注病のさまざまな症候を詳しく記載している
﹃
藍
﹁
。 その注病の治療薬と
病に関する最も詳細な記載かと思われる 。注病を大きく分類して九種を取り上げているが、そのほとんどに﹁死又注易傍
死んでも傍らの人に移る )と注意している 。なお、﹁風注﹂には空気傍染するという注意がある
﹂ (
人
あおい て 瀬肝、朱砂、雄黄などを奉げているが、葛洪以前の ﹃一利農本草経﹄巻
して葛洪は、桑樹、桃人、社務 (
(鈎)
和名不詳、 い草の類 )の項にも、鬼注に放くと記載されているから、注病は早くから
せんぎゅう )﹁石龍柄拘﹂ (
賞﹂﹁蕨蕪﹂ (
知られていたのであろう 。
つぎに、 ﹁生死各 々自ら路を異にす ﹂﹁死生庭を 異に し﹂という文言は、鋲墓文の一種の常套語の ように考えられている
が、{貫はこれも上述のように注病が﹁死んでも傍らの人に移る﹂と生者に思われているのであれば、死者をできるだけ遠
。
くに隔離したい、死者との関係を断絶したいというのが残された遺族の切賓な願いではなかろうか そういう願いが﹁生
。小南一郎氏が解注瓶の銘文 (
後 出)につ
死各々自ら路を異にす﹂﹁死生庭を異にし﹂の文言にこめられていると考える
、
稼名﹄の ﹁注﹂字の解を引用して、注とは流行病であって 悪い試が死者から生者へと注ぎ込まれることと解穆
いて、 ﹃
されて、﹁生者と死者との聞に隔絶した距離があると強調するのも、死が傍染するのではないかと恐れてのことであった﹂
と説明されているが、その通りである 。 そ し て 死 者 の 行 く べ き と こ ろ は 陰 で あ り 東 獄 泰 山 で あ り 、 生 者 は 陽 で あ り 西 方 長
。 ﹁死生異簿﹂ (死生簿を異にす)という表 現も見られ
安に時属するとされる。(﹁喜一卒四年十二月膏文蓋銀墓文﹂をも参照)こういう生者と死者の錫属は﹁相妨ぐるを得ず﹂であり、
(犯 )
賓際には生者 H遺族の願いを妨げてくれるな、という願望であろう
これは冥界の支配者である天帝あるいは天帝使者が、死者と生者の霧命を記載した簿
﹁永欝二年二月成桃椎銭墓文﹂
る (
)
。
- 84ー
8
5
籍をもっているのである。﹁責帝生五山獄、主死人録﹂(糞帝五巌を生じ、死人の録を主る)という一節が朱書陶樺の銘文にあ
るが、この黄帝は天帝であり、東巌泰山をも含んだ五獄の榊が死者の録籍を管理しているというのである。
最後に、江蘇省高郵鯨郡家溝漢墓出土の木簡に、後漢の順帝・陽嘉二年こ三三)の記年のある呪言が書かれていて、
その末尾に﹁如律令﹂の文言があるのを例奉しよう。
乙巳日、死者鬼名篤天光、天帝紳師己知汝名、疾去三千里、汝不剖去、南山給口令来食汝。念如律令。(乙巳の日、死
者の鬼名は天光鴬り、天帝一珊師は己に汝の名を知る、疾やかに三千里を去れ、汝即ちに去ら、ざれば、南山は口を給して汝を食らわ
しめん。急ぐこと律令の如くせよ)
鬼とは葬られた死者であり、その名が天光であって、天帝紳師(天帝使者)がその鬼の﹁名﹂をすでに知ったぞとは、
どういう意味か。在世中に名を呼ぶのを忌み俸るのは古くからの風習であるが、それは名が生命の一部あるいは生命その
(鈍)
ものと考えられていて、名を知られることは、﹁名を通して魔法使いが危害を加えるかも知れないという恐怖﹂があるか
らである。この木簡の文言では死者の名についてその名が知られたというのであるが、これは死者を生者と同様に見なし
ているだけのことであり、 さらには死者の簿籍の中にその名を接見したという、より具龍性のあることかも知れないが、
いずれにせよ死者にとっては名が﹁天帝使者﹂に把握されたという恐怖感を生じさせるものであったろう。﹃抱朴子﹄登
渉篇に、﹁百鬼録を論じ、天下の鬼の名字及び白、津圃・九鼎記を知れば、則ち衆鬼自から却く﹂とあるのも、同様に理解
でき、また後の遁数経典、例えば﹃女青鬼律﹄などにも似た例が出てくる。なお、木簡の随伴出土物として封泥があり、
それには陽文築書で﹁天帝使者﹂と刻されている。
(お)
ところで年代は不詳だが、洛陽西郊の後漢時代遺跡から出土した﹁解注瓶﹂と朱で記された陶纏がある。三種の呪符に
績いて、﹁解注瓶、百解去、知律令﹂とある。これが護掘されたのは一九五四年春のことだが、それ以後に同様の出土例
がないので、比較しょうがないのであるが、この銘文を検討してみよう。
- 8
5一
8
6
一種の逐
﹁解注﹂の﹁注﹂とは、以上に紹介してきたさまざまな疫病のことであろう 。そして、﹁解﹂とは、草に﹁とく﹂﹁のぞ
く﹂の意にとどまらない 。王充が豆珊衡﹄巻二十五解除篇で﹁解逐の法は、古の蓬疫の櫨なり﹂というように、
疫の祭杷儀趨であろう。その詳細は、後漢・察凶巴の著﹃濁断﹄巻上﹁疫一脚﹂に見えている方相氏がえ楯で疫鬼を肢打する、
今の節分の﹁追機﹂の行事に似た儀穫が参考になる。
以上には後漢末の鎮墓文を検討してきたのであるが、その後、 三園時代、西音、東広日時期の出土物はやや少ないのであ
るが、南京・幕府山呉墓から出土した 三園・臭の五鳳元年 (二五 四)の紀年のある買地券 (
碍)では﹁知天帝律令﹂で結
ばれており、菅・成康四年 (二三 八)の紀年のある買地券(石)でも﹁如天帝律令﹂で結ばれているから、依然として冥
界の最高一柳格は天帝と観念されていたのであろう。その他の出土例では、車に﹁如律令﹂とあるだけである 。ただし 一
つ
(
ω
)
二 八二) の紀年のある鎮墓文(聾)であって、末尾が﹁念知地下詔書律令﹂で
だけ異なっているのが、西晋・太康 三年 (
結ばれている例である 。しかし 、立墓の年月日に績いて﹁天帝使者謹篤新氏之家鎮厭﹂で始まっているから、これも同様
に天帝を最高一
脚格と考えていた例と見なしたい 。
本節では、 おおむねは小南 一郎氏や劉昭瑞氏の﹁天帝﹂﹁解注﹂の理解に啓註されて、その上に、これらが首時の疫病
の大流行を背景にしているという面で、私見をいささか加えた 。
南朝における冥界諸紳の愛化││遁数的神格の出現││
V
かなり時代が下るが、士間斉・永明 三年(四八五 )十一月の紀年のある買地券 (
出土地は湖北省武田回)に、 ﹁太上老君﹂﹁女
青﹂という紳格名が出てくる。これらはまさしく遁数的紳格である 。長文ではあるが全文を例示しよM
斉永明三年太歳乙丑十一月甲子朔十二日乙亥、新出老鬼太上老君符勅、天一地二、孟仲四季、黄一珊后土、土皇土租、
土管土府、土文土武、墓上下左右中央墓主、丘丞墓伯、家中二千石、左右墓侯、 五墓将軍、昔土将軍、土中督郵、安
- 8
6一
7
8
都丞、武夷王、高里父老、都集伯俣、昔城亭儀、部墓門亭長、功曹傍迭、大吉小吉、勝先一珊后、太一徴明、天魁天剛
天魁、従魁太街、随斗十二一脚等、南陽郡浬陽豚都郷土支里宋武陵王前軍参軍事口口口口口参軍事劉観、年廿廿五、以
旗門永明二年口口四月十五日、口命口、口婦三天、身蹄三泉、長安高里、父元山、宋衡陽王安西府主簿天門太守、宋南
諜王車騎参軍事・尚書都官郎、租粛将軍参軍事・給事中、奮墓乃在刑州照心里、中府君今更新其丘、宅兆在此江夏郡
汝南麻孟城山北中。府君敬奉太上老君、遁行正直、不問亀察。封域之内、東極甲乙、南極丙丁、西極庚辛、北極壬美、
。
上極黄泉 。以此土一柳、買地債銭八高九千九百九十九文、畢了。 日月鴛誼、星宿篤明 即日 察迭、丘墓之紳、地下口長、
不得莫胡誌記。墳墓千口、口減不得随注生人、母敢大意、明然奉行、一如泰清玄元上三天無極大紳・太上老君陛
(
地)下女青詔書律令。
この買地券は墓券の文言の形式として注意すべき黙があるが、同時に冥界を司る諸一珊に蟹化が現れていることを示す資
。
料である 。内容か ら考えると、遁数の一神格へ饗化したことが示され、蓮数経典の成立時期をも推測できる 資料でもある
そういう諸貼から、この買地券を考察してみたい。
先ず、﹁新出老鬼太上老君﹂の符としてこの買地券の文書が書かれていること、次に﹁ 三天﹂の用語が登場しているこ
と、最後に﹁女青詔書律令﹂の文言があって、女青という太上老君の地下に汲遣された鬼吏らしき神格の名が登場するこ
と、この三黙が注意をひく。
今、詔開市)の墓葬から出土して、劉昭瑞氏によ
この買地券と同様の形式で文言もほとんど同じ地券が庚東省仁化豚 (
。
って紹介されている。宋・元嘉二十一年(四四四)九月十四日の日付をもっ地券である これもかなりの長文なので、今
。
は全文の引用を避けて、斉永明三年買地券との共通黙を示す箇所を奉げておく
。
まず、冒頭の立墓した﹁元嘉廿一年九月十四日﹂の後は、﹁新出大上老君符勅﹂であり、﹁老鬼﹂二字はない 残した人
町三泉﹂と
の姓のある べき箇所が鉄けていて不詳であるが、﹁元嘉廿年十一月廿六日、和字醇命絡、租(ワ)蹄三天、身館
7ー
- 8
8
8
あり、﹁和﹂が故人の名であろう。それに績いて斉永明三年買地券では故人の宮名が来るが、これにはない。永明三年買
地券は改墓して新たに墓地を購入したのであるが、これもおそらく同様であろうが、買主あるいは立墓した人の名が示さ
れていない。しかし、﹁家在此坑中、自口口、遵奉太上諸君文(丈)人道法、不敢選時郁(揮)日、不禁地下禁忌、遁行正義、
不口口葬﹂とあって、 ほぼ永明三年買地券に似ている。﹁太上諸君﹂は﹁太上老君﹂の誤窮であろう。﹁文(丈)人遁法﹂
の文意は不明。末尾の文は興味深い文言が示されているので、文意不明の箇所も多いが参考のために全文を引用しておく。
至三舎吉日、首蹄丘丞諸神、言功奉還、震加旅秩(秩)、如天曹科比。若有禁阿、不承︹天︺法、志詩家宅、不安亡
人、依玄都鬼律治罪、各慎天憲、明紳奉行。念念如泰清玄元上三天無極太這・太上老君北(陛)下女青詔書律令。
︺は原文のまま。前者は改字であろうし、後者は補った字であろう。
"
いかない。逆に、本買地券を根擦として太上老君の語の登場、従って新しい神格の登場を考察すべきであろう。つまり、
ら末ごろ)とするのか、によっておおきく異なっている。従って ﹁老子想爾注﹄ の﹁太上老君﹂を根擦に論じるわけには
( 何日 )
の成書時期を後漢末、 二世紀後竿とするのか、あるいは東菅の四世紀以降、もしくは劉宋中頃から後牢期(五世紀半ばか
なったのか。敦埠出土の﹃老子想爾注﹄に﹁太上老君﹂の語が見えていることは周知の通りである。ところが、この文献
第一の﹁太上老君﹂が老子の隼稀であることには異議がないと思われるが、 では蓮敬文献でいつから使用されるように
と思われる名稀についての四黙である。他にも﹁三舎﹂などいろいろの問題があろうがここでは一切省略する。
という神格とその﹁詔書﹂について、第一一 一
に﹁泰清玄元上三天無極太遁﹂という神格、第四に﹁玄都鬼律﹂という戒律か
さて、ここで以上の二例の買地券によって考察したいのは、第一に﹁太上老君﹂という紳格について、第二に﹁女青﹂
れる。
ここには、﹁三曾吉日﹂という天師這の這民の集舎日、﹁玄都鬼律﹂という天師這の戒律経典の名が見えることが注意さ
)
後漢末から雨耳目時代までの鎮墓券・買地券によると、﹁天帝﹂が地下の最高神であったが、その地位を﹁太上老君﹂が取
8
8
*
(
。
って代わったことが、この二つの買地券から伺うことができる。出土地域はいずれも劉宋、南斉の支配した土地である
に始まり
小林正美氏によると、遁敬経典で﹁太上老君﹂ の呼稀が用いられるのは、北朝では北貌の冠謙之の新天師遁
るという
(﹃貌書﹄務老志に見える嵩岳における太上老君の降臨)、南朝では東菅末期の天師遁の ﹃太上正一呪鬼経﹄に始ま
太上老君を特別視し
﹁臣重啓太上大道・太上老君・太上丈人・天師・嗣師・系師等 三師云々﹂)。また同氏は、﹃三天内解経﹄ で
(
南斉
て﹁新出老君﹂﹁新出太上﹂と稀している黙に注意していて、南朝側で新出老君が算出一宿されていた例誼として、この
買地
永明三年買地券にある﹁新出老鬼太上老君符勅﹂の語を奉げている。この買地券に加えて、前朝の劉宋元嘉廿一年の
文でも東耳目時期から使用されているかも知れないが、 いまのところ出土例は・ない。
禁
太上老君の名は唐代になると、銭墓券や買地券ではほとんど見られなくなるが(今日までの出土例のかぎり)、治療用の
ど
(同
呪に登場する 。醤書である孫思遜﹃千金翼方﹂に﹁禁経﹂という呪術治療方を集めた一篇がある。呪術や呪言によって治
の
療する方法を集めた一篇であるが、その中に、﹁念品志知太上老君律令﹂あるいは﹁念知太上老君魁剛律令﹂で終わるも
。
がある。これらについては一感すでに論じたことがあるので省略する
第二の﹁女青﹂という神格の登場であるが、銭墓文や買地券では本来は﹁天帝使者﹂とあるべき位置に、この﹁女青﹂
老君
という新しい紳格が占めるようになったのである。しかも記遮のしかたは、﹁太上老君地下女青詔書﹂のように太上
。
に従麗する地下の榊格となっている。現存の﹃遁裁﹄洞一柳部戒律類に﹃女青鬼律﹄六巻が収められている その冒頭の前
。
書きに﹁太上大遁は之を見るに忍びず、 (天皇)二年七月七日、日中時、此の鬼律八巻を下す 天下の鬼神の姓名、吉凶
。
a、
の術を紀し、以て天師張遁陵に勅し、鬼一柳に勅して妄りに東西南北を縛ずるを得ざらしむ﹂(巻 一・一 b) とある こ
が
の経典はもと八巻あったことが知られ、かつ鬼神のための戒律であったらしい。現行六巻には、天地山海の鬼神の姓名
- 89-
り普
券にも﹁新出太上老君符勅﹂の語があるから、劉宋時期には地下の最高榊格としての﹁太上老君﹂が、南方ではかな
銀墓
遍的であったといい得るであろう。そして、遁数経典で東耳目末期ごろから太上老君が登場しているとすれば、地券や
9
8
9
0
記され、また天師が遁民に守るべき戒律を指示し、鬼の名を念じて鬼を退ける法を説いている 。 この経典の成書時期につ
四OO) からさほど遡らない時
いては、小林正美氏は、東耳目の中頃 (三六 O頃)から末までの問、より詳しくは隆安四年 (
v
しかし、買地券の出土地から考えると、この戒律は北朝での制作ではなくて南朝のものと考え
期に作成されたと見ていぶ v 中園では湯用形が﹁康復札記﹂で、﹁老君音謂戒経﹄などとともに恐らくは冠謙之の著作で
あろう、と理解していぶ
るのが安首であろう。また、東菅初期の経典と推測されている ﹃太上洞淵一刺呪経﹄巻七にも﹁ 一一如女青詔書口勅律令﹂
の呪言が見える 。
四三一一) の紀年をもっ江蘇・徐州出土の甑の末尾に﹁如
なお、﹁女青﹂の文言をもっ買地券は、他にも劉宋・元嘉九年 (
四四 三) の紀年をもっ贋東始興出土の買地券 (
石)
﹂があり、また、同じく劉宋・元嘉十九年 (
女青律令 (
律令 二字は推定)
ともに
には、﹁地下女青口:・・:﹂と刻されている 。劉宋以後、﹁女青﹂の文言は南朝梁の天監四年紀年及び普通元年紀年 (
湖南資興出土 )の鎮墓券 (
陶) にも見えていて、かなり普遍化していることが知られ、湖南湘陽出土の惰大業六年紀年買
地券(陶)にまで及んでいる 。しかし、今までの出土物からは東膏時期のものに﹁女青﹂の文言は見られないし、また唐
代の買地券、鎮墓券の出土が少ないせいか 、管見には入らない。わずかに四川・彰山鯨で出土した五代・萄の庚政十八年
の紀年のある買地券(石) の末尾に﹁五帝使者女青召書契券急如律令﹂と記されているのに気づいた程度である 。
ところで、女青とはどういう素性の神格なのかについては、 ほとんど詳らかにしえない 。顔之推﹃寛魂志﹄に﹁桃英の
魂晩も亦、牧えられて女青亭なる者に在り。是れ第三地獄の名にして、黄泉の下に在り、専ら女鬼を治す﹂とあるのによ
れば、女鬼を管理する地下冥界の官吏なのかも知れない 。今後一辱論として考察すべきであろう。
三天内解経﹄に見える﹁太清玄元無上
第三の問題は、﹁泰清玄元上 三天無極太遁﹂という神格であるが、この一紳格は ﹃
(臼)
) と若干の文字の相異はあるものの同一の紳格と比定してよい。この文言は﹁太清玄元無上 三
三天無極大遁﹂(巻上・ 二a
天﹂を居所としている﹁無極大遁﹂という神格と讃むべきであろうか。
- 9
0
アになっているのが特徴である。ということは﹁玄都鬼律﹂と﹁女青詔書律令﹂とは別物であることを推測させる。たし
) とあ
かに﹃女青鬼律﹄には、﹁天師日く、:::神霊女青玄都鬼律令を書し、汝曹をして皆悉く知聞せしむ﹂(巻三・一 a
一巻が牧められている。この経典の成立と制作者について陳園符は、
って、爾者が一韓のもののように受け取れるが、この文言は﹁女青鬼律と玄都鬼律とを書し ﹂と讃むべきであろう。
玄都律文﹄
さて、現行﹃遁戴﹄洞員部戒律部に ﹃
(弘)
﹁北朝で行われたものであって、冠謙之がすでに後貌にあって遁数を清整し、三張の奮科については、己に多く更改して
いる﹂と論じているが、これを批判して、原本︽玄都律︾は二十五各本であり、曹貌以後に書かれ、その後いくらか晩出
の内容が纂入したり北朝に流入したとしても、玄都律はたとい北朝にあっても冠謙之清整以後の新道数の系統には属さな
(日)
ぃ、︽玄都律︾倹文の主龍は曹貌から冠謙之以前あるいは非冠謙之系統の北方天師遁の制度を反映している、という研究
(日)
が出ている。ただし、今日までの出土資料から考察する限りでは、出土範園が江南に止まっているので、南朝の天師遁で
行われた戒律であろう。小林正美氏が、﹃玄都律文﹄の成立年代を﹁劉宋末期から梁初に至る時期﹂と推定しているのが、
ほぼ近いが、買地券などには劉宋・元嘉二十一年の紀年のあるものがあるから、劉宋初にはこの戒律経典は成立していた
と考えられる。
以上の劉宋・南斉 ・梁時期の鎮墓文、買地券の考察によって、後漢時代とは異なった冥界の神格が登場してきたこと、
それらが皆天師遁経典に見えるものであることが分かる。ということは、六朝時代の古小説に現れる以上に、天郎遁が江
南の贋い範園にわたって民衆の聞に深く信仰されていたことを具程的に物語っているのである。本来なら、その内容につ
。
いて詳しく検討し紹介すべきであるが、紙数も量きているので、残念ながら例奉した文面で推測していただくしかない
ただし、この時期の出土資料はいまだ多いとは言えないので、今後の出土拭況次第では私の推測も訂正されるであろう。
- 91
玄都鬼律﹂である。この﹁依玄都鬼律治罪﹂ の文言は、
依玄都鬼律治罪﹂ (玄都鬼律に依り罪を治す)の ﹁
第四の問題は、 ﹁
他にも前掲の梁天監四年紀年及び普通元年紀年の鎮墓文にも見えており、その場合かならず末尾の﹁女青詔書律令﹂とペ
1
9
2
9
*
云如律令。言非律非令之文書行下、嘗亦如律令。故符祝之
類、末句有如律令。益非之也 。案律令之令字、{且卒陸軍讃鴛
零(音若毛詩虚重令之令、若人姓令狐氏之令)。律令是雷
資暇録﹄巻中﹁符祝之類、末句念念如律令者、人皆以
(1) ﹃
骨周如飲酒之律令、速去不得滞也。一説漠朝毎行下文書、皆
市其所不得鏡、令者、 所以令其酋潟、如律令者、
者、所以耕一
謂如律令不得達也 。遁家符呪、正固定数官府文書矯之、誠知
透捷鬼。同学者単一旦不知之 。此鬼善走、奥雷相疾速。故云如此
鬼之疾走也﹂ 。
演繁露﹄巻十 二 ﹁如律令﹂候﹁按風俗通論漠法九章、
(2) ﹃
因言日、夫吏者治也 。嘗先自正、然後正人。故文書下如律
令。言賞承憲履縄、動不失律令也。今遁流符児家、凡行移
悉倣官府制度、則其符冗之云如律令者、回延倣官文書鴬之 。
(7) ﹃微言月刊﹂第三競、成都、一九四八年。
(8) 賀回目撃﹃貌耳目清談思想初論﹂(北京 ・商務印書館、
﹁地券徴存考務﹂(﹃中園思想史研究﹂第四時抗、一九八 一
年)は指摘している 。
程氏説﹂ 。
野客叢書﹄巻十 二﹁僕謁雷漫捷鬼之説、出於近世雑書、
(4) ﹃
西漠未之開也 。漠人謂如律令者、戒其如律令之施行速耳。
量知所謂捷鬼邪。此語近於京一史、不経之甚﹂。
一麓漫紗﹂巻七﹁念念如律令、漢之公移常語、由今云
雲
(5) ﹃
符到奉行 。張天師漠人、故承用之、而道家遂得祖逮﹂ 。
雲 麓漫紗﹄が﹁官一和中﹂のこととしているのは傍聞の
(6) ﹃
設りで、それは黄伯思の死後のことになると、湯浅幸孫
註
る。これら抽出された問題は改めて考察したい 。
﹁五土解﹂ ) に つ い て も 考 察 す べ き で あ っ た 。 こ の ﹁ 五 方 土 紳 ﹂ の 信 仰 は 現 在 、 彫 湖 諸 島 や 金 門 島 で は 生 き て 博 承 さ れ て い
に も 残 さ れ た 大 き な 課 題 が あ る 。 後 漢 時 代 の 鎮 墓 文 に 見 え る 東 方 青 帝 な ど ﹁ 五 方 土 紳 ﹂ の 成 立 と 縫 承 (アスタナ 三三二競墓
化を論じてきたが、細かな結、例えば﹁天帝使者﹂銅印や﹁黄紳越章﹂の符印の問題にまでは論じ及んでいない 。 その他
本稿では、これまで遁敬研究者の目が届いていない鎮墓券、買地券などを材料にして冥界の這教的諸紳の様相やその壁
*
不必撃 雷鬼也﹂ 。
一 ﹃考古質疑﹄巻四 ﹁
大慶接、文選衰紹激務州終日
(3) 葉大吉
慶
如律令、曹公徴呉部曲終亦日如律令、回定知李説之謬 。蓋律
九
2
-9
*
3
9
九九年)。
(
9) ﹃閲微草堂筆記﹂巻五﹁漢陽消夏銭五﹂ 。
﹃
法律春秋﹄第一巻第三時現、一九二七年。後、同氏﹃律
(凶)
令の研究﹄所収、万江書院、一九一 三 年。
東 方 拳 報 東 京﹄第八加、昭和十三年。その後、同氏
﹁
﹃
中 園 法 制 史 研 究 土 地 法 ・取引法﹄所枚、東大出版舎、
(日)
一九八O年補訂版、四四九 l四五一頁。
ロ) 宮 津正順﹁ ﹁
念念如律令﹂について │ │中日儀種の交渉
(
││ ﹂(﹃儀種文化﹄第二 O競、一九九四年)、山里純一
琉球大撃法文挙部紀要・日本東洋
﹁﹁時間急如律令﹂考﹂(﹃
文化論集﹄第五銭、一九九九年)。
日) 原田正己﹁民俗資料としての墓券││上代中国人の死霊
(
、原
観の一面﹂(﹃フィロソフィア ﹄第五競、 一九六 三年)
﹂ (﹃東方
因正己﹁墓券文に見られる冥界の紳身とその 祭杷
宗数﹂第二九競、一九六七年)、アンナ ・ザイデル﹁漢代
E F与色余3220日出S
の鎖墓券に見える民間信仰﹂﹀ロ
二23352ロ 斗OBZ112(秋
l-Z53
E
-F
U
H
l
伺
、
這数と宗数文化﹂ 平河出版社、 一九八七年 )
月観峡編 ﹃
二松﹂第
後漢時代の銀墓陶書に関する一考察﹂(﹃
東賢司 ﹁
東方
小南 一郎﹁漠代の祖霊観念﹂
八集、 一九九四年
(
)品川、一九九四年 )など 。なお、﹃
関連す
六
拳 報 京 都 ﹄第六、
る研究として、冨谷至﹁黄泉の園の土地買買││漢貌六朝
買地券老﹁│ ﹂ 大 阪 大 祭 敬 養 部 研 究 集 詮 第 三六 輯、一
(
考になる 。
九八七年)が参﹃
以下に掲出する資料は、主に池田温﹁中園歴代墓券略
( MH)
東洋文化研究所紀要﹄第八六加、一九八一年)、劉
考﹂(﹃
漢貌石刻文字繋年﹂(香港敦煙吐魯番研究中心研究
昭瑞 ﹃
叢刊、新文豊出版公司、二O O一年)羅振玉﹁貞松堂集古
遺文﹂﹁貞松老人遺稿甲・乙集﹂ ﹁地券徴存﹂(いずれも
羅雲堂先生全集初編 ・績編・五編﹄、蓋湾・文筆出版枇、
﹃
考
文物﹂﹃考古﹂ ﹃
一九六八年、所枚)を利用したほか、 ﹃
馬域出土
古拳報﹄などに愛表された出土報告、中村不折 ﹃
墨資金百法源流考﹄上巻(西東書房、一九二七年)、中村不
折﹃=一代秦漢の遺品に識せる文字﹂(岩波書底、一九三四
、﹁
書遁博物館園銭﹂(書道博物館、二 OOO年)など
年)
をも参照した 。
(
日) ﹁ 文物﹄一九七五年第二期﹁霊賓張湾漠墓﹂。
凶) ﹃ 文物﹂一 九六O年第六期﹁新彊吐魯番阿斯塔那北匿墓
(
葬後掘筒報﹂、﹃吐魯番出土文書﹂第二加、阿斯塔那三O三
競文書(文物出版社、一九八 一年)。
(口)書遁博物館所蔵、前掲﹃三代秦漢の遺品に識せる文字﹄
の稼文による 。
。
)
羅雲堂先生全集初編﹂
国) 前掲羅振玉﹁貞松堂集古遺文﹂
(
(
﹃
(凶)大淵忍爾﹃初期の道教﹄前編・第二章﹁中園における民
漢書﹂
族的宗数の成立﹂(創文枇、 一九九 一年)九四頁に ﹃
李尋俸に成帝の時、斉人甘忠可が天{呂歴包元太卒経を作っ
て﹁漢家は天地の大終に遭う。首に更めて命を天に受くべ
し。天 帝、英人赤精子をして我に数えしむ﹂と言 ったのを
引いて、﹁天帝は五天帝でなくて 一般的に用いられる場合
は上帝であろうが、使者を下界に遣して数えるとする﹂と
- 93-
9
4
解説 さ れ、また、 ﹃
後漢 書﹂ 郷行停の戴就航吋に、戴就が拷
問を 受 けて、﹁就、考死の目、首に之を 天 に白し、筆鬼と
えを聴いて配下の翠鬼を指し向けるわけである﹂と説明さ
汝を亭中に殺さん 。如し生の全きに蒙わば、賞に手刀もて
相裂かん﹂と 言っ たとあるのを引用して、﹁ 天帝は人の訴
れている。
(初) 書遁博物館所裁、稼文は 宮内域出 土剛
密資書法源流考﹂ 上
巻。
征之哀、或幽門而 強、或覆族而喪。或以 矯疫者鬼紳所作、
日
夫権此者、悉被褐茄葎之子 、別室蓬戸之人耳 。夫殿庭鼎食
之家、重紹累薦之門、若是者鮮駕 。此乃陰陽失位、寒暑錯
時、是故生疫。而愚民懸符厭之、亦可笑也 。﹂(﹃
太平御覧﹄
巻七百四十 三)﹁貌文帝輿 呉質 書 目、昔年疾疫 、親故多催
(お)
其災、徐陳感劉 一時倶逝﹂
太平御覧﹂巻七百四十 三
)
。
﹃
(
(お) 劉昭瑞﹁︽太平 経︾奥考古
後現的銀 墓文﹂(﹃
世界宗 数研
。
究﹄ 一九九二年第四期 )
﹃
緯名﹄巻八穆疾病﹁注病、 一人死、 一人復得、気相瀧
﹁余宗族素多、向徐 二百、建{女紀念以来、循未十稔、其
(幻)
(幻)
(初 ) 前 注 ( 日 ) の小南一郎論文 。なお、都築晶子﹁六朝時代
における個人と﹁{家﹂ ││六朝遁数経典を通して ││﹂
源候論﹄の記載から推測すると、大部分は疫痢などのよう
な傍染性の病気のようである 。
(鈎)﹃一柳農本草綬﹄ は孫星術輯本による 。また、和名の同定
は ﹁
新註校訂園謬本草網目﹂(春陽堂書底、一九七八年)
による 。
三年 )﹁線名病疏﹂注病の項は、注病を結核だとしている 。
しかし、結核性の場合も含まれてはいるだろうが、 ﹃
諸病
不的知其所苦 。而無慮不惑 。累年積月、漸就頓滞。死後復
傍之芳人、乃 至滅門﹂ 。
(お ) 余 雲 附 ﹃
古代疾病名候疏義﹄(人民衛生出版枇、一九五
云、即是五屍之中戸注、又挟諸鬼邪鴬筈也 。其病繁動、乃
有 三十六種、主九十九種 。大略使人寒熱淋涯、侃侃歎歎、
﹃
肘後備念方﹄巻 一治戸注鬼注方﹁ 戸注・鬼注病者、葛
注也﹂ 。
死亡者、
分
有
二
三
、
傷
寒
十
居
其
七
、
感
往北目之諭喪、傷横矢
之莫救、乃勤求古訓、博采衆方、 (
中略 )篤傷寒雑病論合
十 六巻
﹂。
(幻) 後漢末 ・建安年間の疫病流行については、林富士﹁東漢
晩期的疾疫興宗数﹂(﹃
中央研究院歴史認問
一
吉研究所集刊﹄第
六六本 ・第 三分
、 一九九五年) に詳しい考察がある 。また、
少今古いが、刷創伯験 ﹃
中園密向学史﹂上下新(華岡出版社、
一九七四年 )第四 章第 二節﹁疫病輿雑病之流行﹂も参考。
﹃
三 図志﹄ 呉書・周市
川市開﹁其年九月、曹公入刑州 。劉
世
相
(お)
血学衆降 。曲目公得其水軍、船兵歩数十首問、勝士開之皆恐 O
i--・権遺磁及程曲目
等劉輿備井カ逆首公、遇於赤壁 。時首公
箪衆己有疾病、初 一交戦、八ム 箪敗退、引次江北﹂ 0
同書・装注所引﹁江表惇﹂﹁稔破貌軍也、曹公目、孤不差
走。後書輿権回、赤壁之役、値有疫病、孤焼船自退、横使
周磁慮獲 此名
﹂。
﹁建安 二十二年、病気流行。家家有僅戸之痛、室室有競
(
M)
- 9
4
5
9
﹃
(
名古屋大挙東洋史研究報告﹄一 四、一九八九年 )が早
くより注病について論じているのも参照。
考古問晶子報﹂ 一九五六年第 二期 ﹁一九五四年春洛陽西郊
﹃
(況)
後掘報告﹂。
百円域出土墨賓書法源流考﹄上
(認)書這博物館所裁、稼文は ﹃
巻による 。
(お) 陳直﹁漢張叔敬朱書陶縦輿張角黄巾教的関係﹂(陳直
文史考古論叢﹄天津古籍出版社、 一九八八年
﹃
) 阪鈴叢
。
(鈍)名を稀するのを避ける風習については、越翼 ﹃
孜﹄港三十一遊詩僚を参照、またその枇曾的意味について
金 枝 篇﹄第二二章﹁タブ!とされる言
は、フレーザー ﹃
葉﹂(
岩波文庫第 二働)を参照 。
考古拳
(お)郭賓鈎等 ﹁一九五四年 春洛陽西郊愛掘報告﹂(﹃
報﹄一 九五 六年第 二期)。
論衡﹄巻二十五﹁解除篇﹂﹁解逐之法、縁古逐疫之種
(お) ﹃
中略 )主疫 病人 。故
也。昔綴頭氏有子三人、生而皆亡、 (
歳終事畢、駆逐疫鬼、因以迭陳迎新、内吉也 。世相倣致、
故有解除 。夫逐 疫之法、亦種之失也﹂ 。
(幻) ﹃ 濁断﹄巻上﹁疫一利﹂﹁於是命方相氏、黄金四目、蒙熊
皮、玄衣朱裳、執文揚楯、常以歳寛十 二月、従 百隷及童兜
而時機、以索宮中、厳疫鬼也﹂ 。 ﹃後漢書﹄種儀士心中﹁大
儀﹂もほぼ同じ記述であるが、後中十で中黄門らが、十 二紳
に命じて悪鬼に向かって、雄伯は魅を食うぞ、急いで去ら
なければ後の者の績にするぞ、などと脅迫する 。 この鈷は、
前述の江蘇省高郵蘇郡家溝漠墓出土木簡の文言と同形式で
文物資料叢刊﹄第八輯、
(
﹃
羅雲堂先生全集五編﹄ 第三
(
﹃
ある 。
﹁南京郊豚四座呉墓愛掘筒報﹂
(お)
一九八 三年
)
玉﹁ 地券徴存﹂
(ぬ)前掲羅振。
﹃面問域出土墨賓書法源流考﹂上巻。
考古﹂一 九
湖北省博物館﹁武漢地直四座南朝紀年墓﹂(﹃
品川 )。
( HU)
)
ω
(
六五年第四期
)
。
、
干﹂第 二輯
民
華
必) 劉昭瑞﹁繍女地券奥早期道教的南傍﹂
(
(
﹁
一九八五年
)
。
老子想爾注校誼﹄(上海古籍出版枇 、 一九九 一
(必)鏡宗顕 ﹃
年) 附﹁老子想爾注績論﹂九に四黙奉げて結論して﹁懇爾
注は係師張魯の手に成り、託せられて張陵に始まる﹂と言
う。我が閣では大淵忍爾氏が﹁係師張魯をその作者と擬定
初期の遁数﹂前篇第三章﹁老子想爾注
して差支えない﹂(﹃
岡山史筆﹄第一九
の成立 ﹂創文社、 一九九一年 。初出は ﹃
競、一九六七年)と主張しているが、一方、萎谷邦夫氏は、
這気﹂論 などの成立を根擦に想爾注の成害時期は東且回以
﹁
降、さらに本文肱と密接に関連する経典を背景に考えるな
らば、 ﹁建議之の新 天師道敬園がこれらの経典の作成奉持
東方
者として最も相嬢しい﹂(﹁﹃老子想爾注﹄について﹂ ﹃
、
撃 報 京 都 ﹂第五七班、 一九八五年 )と主張する 。その後
想爾
小林正美氏は奏谷氏の新天師遁制作説を批判して﹁ ﹃
注﹄ は劉宋初めの ﹃三天 内解経﹄以後、劉宋末頃の﹁大遁
太容浪書﹄以前には、遮作されており、大略、
家令戒﹂や ﹃
5ー
- 9
9
6
劉宋中頃から後中十期にかけての時期の作﹂とする (﹃
六朝
遁数史研究﹄第 二 篇 第 三章 ﹃
老子想爾注﹄、創文枇、 一
九九O年、初出は前掲 ﹃
帆 そのほ
這数と宗数文化﹄ 所持
。
﹀す る設も
一井康順氏 の北貌末 (
かに一浦
五三四)以後の成立と
ある 。
(似) 小林正 美前掲書、第 二篇 第 四 章 ﹁大道家令戒﹂ (
初出
瓢)が 出土していて、これらにも
の紀年をもっ買地券 (
一
九 三七年)と論じている 。しかし 、筆者は本文で近年の
出土例を参げて推論しているように、元嘉九年、同 一九年
﹁女青﹂の文言が見えていることから、劉宋のころには女
青の﹁獄界思想﹂は出現していたと考える 。なお、この貿
地券の呉儀については私見を差し控えたい 。
﹁庚東始興後現南朝買地券﹂
考古﹄ 一九八九年第六
﹃
(
期)。
(
印)﹁湖南資輿耳目南朝墓﹂(﹁
考古挙報﹄一九八四年第三期)。
(
ω)
を中心として﹂(﹁
大久保隆郎数授退官紀念論集漢意とは
は ﹃
東洋の思想と宗教﹄第二時腕、一九八五年)。
(
千金翼方﹄﹁禁経﹂
必) 拙稿﹁唐代の呪術治療について││ ﹃
( ) ﹁桃英魂焼、亦牧在女
青
亭
者
、
日
是
第
三
地
獄名、在黄泉下、
。なお、 ﹃
菟魂志﹄)
専治女鬼﹂ (
菟魂志﹄ について
顔之推 ﹃
(日) 美伯勤﹁︽玄都律︾年代及所見遁官制度﹂(﹃貌膏南北朝
一O頁。
律﹄と ﹃
正 一呪鬼経﹄ の成書年代﹂ 。
(
日 ) 陳図符﹃遁戴源流考﹄ 下加(中華書局、一九六二年)一二
律﹄と ﹃
正 一呪鬼経﹄ の成書年代﹂ 。
(日) 小林正美前掲書、﹁補論一﹁ ﹃
洞淵榊呪経﹄ と ﹃
女青鬼
は、小南一郎﹁顔之推﹁菟魂志﹂をめぐって ││六朝志怪
何か ﹄東方書庖、二O O一年
)
補 論 一 ﹁﹃
(
洞 淵 紳 呪 経﹄ と
必) 小 林 正 美 前 掲 書、第 二篇。
小説の性格││﹂
東方撃﹄第六五輯、一九八三年 )参照 。
﹃
(
(
臼) 小林正美前掲 書
、 ﹁補論一﹁ ﹃
洞淵榊呪経﹄ と ﹃
女青鬼
一九九 一年) の﹁女青鬼律﹂項の解説も湯用形に
﹃
女背鬼律﹄と ﹃
正一呪鬼経﹂ の成害年代
﹂。
湯用形拳術論文集﹄中華書局、
(灯) 湯用形﹁康復札記四則﹂(﹃
一九八 三
)
。 なお、任繕愈主編 ﹃
遁液提要﹄ (
中園枇曾科祭
出版枇、
従 っている 。
(
必) ﹁元嘉九年十 一月王例女地券﹂(﹁貞松老人遺稿甲四﹂、
。な
前掲﹃羅雲堂先生全集積編﹂第三珊﹁石交録﹂巻 二)
陶薪磁石記﹄巻五)について、端方は
﹁高鋲買墳地券﹂(﹃
お、劉宋・元徽元年(四七三)発丑一一月の紀年のある
後人の僑迭と推断し、これを受けて酒井忠夫氏は、﹁女青
陪唐史資料 第 二
一九九 一
﹄
輯
、
年
。
)耳目 ・劉宋期の天師
(
日) 小林正美前掲書、第二篤序章﹁東
這
﹂。
の獄界思想は劉宋頃には恐らく行はれていなか ったと考へ
られるから、この粘からも後世の僑迭のことが剣ぜられ
﹁太山信仰の研究﹂ 一
O八頁、﹃史潮﹄第七年第 二競
る。
﹂(
、
- 96-
noted in the firstpoint above, had great influence on the culture of publicationin
the era through their serialpublishing d calligraphicalbums, and they participated
in numerous
important
they accumulated
tion of the Wen
the Wen
cultural activities.In short, by virtue of such
what
activities,
may be called“cultural capital,”and as a result the equa-
clan being literatiwas implanted not only in the consciousness
themselves
but in the minds
position as a literatifamily was
thus established and maintained. As regards the
society of Jiangnan after the mid-Ming
period, previous studies have
almost exclusively on passing the examinations in terms
clan, but these sorts of cultural activities,such
albums, can be understood
of
of those outside the clan as well. Their
focused
of the formation of the
as the publishing of calligraphic
as functioning sufficiently
in a similarrole.
THE DAOIST DEIFICATION OF THE AFTERLIFE:
A CONSIDERATION
OF THE PHRASE “IN
ACCORDANCE
WITH THE STATUES
AND ORDINANCES”
Sakade
The
excavation from
have been
Yoshinobu
ancient sites of wooden
tablets on which
spells 呪言
written, particularlythose including the phrase “promptly in conformity
with the statutes and ordinances”急急如律令have
garnered
the attention of
scholars of ancient Japan. This spell, which originated in China, came
early times. The
Tang.
He
Cheng
Dachang
firstto take note of the spell was
understood
Li Kuangyi
to Japan m
李匡父of
the
it to mean “to be as fast as the thunderbolt demon,”but
程大昌in
the Southern Song
argued instead that it meant “to act
in accordance
with the statues and ordinance laid down
theories have
been
by the stateグThe
two
maintained to the present. As it has been legal historians in
Japan who have taken note of this spell, they have solely problematized the legalisticphrases “in accordance
accordance
with the statues and ordinances” 如律令or
with edicts”如詔書,
“in
and have not given sufficientconsideration of its
significanceas a spell。
The
phrases “envoy
accordance
of the Celestial Thearch” 天帝使者and
with the statues and ordinances” that recount aspects of the afterlife
are found on biUs for land contracts 買地券and
Later-Han.
“[promptly]in
The
envoy
of the Celestial Thearch
j-
tickets from tombs
天帝was
露墓券of
the
an attendant of the
highest‘ranking
ceased
who
would
was
each
epidemics
for epidemics
to attack
surely
indicating
sales of the
when
Liu-Song
was
of the
materials
文.
These
and
the
findings
period
and
wiU
surely
of creation
phrase
be
also to imthe
the real-
considering
of the
from
around
Later-Han,
is found
the
the
texts
em-
epidemics.
and
deity
which
envoy
In
addition,
such
fear of
bⅢS of property
in place
of
the deification of T幽hang
of the
of the
assistance
dead
often
fifth century,
Wujidadao
“statutes
0/ the
Three
H eavens三天内解,
tombs
the
of divinity and
a great
of Daoist
and
de’
demon
However,
to drive off the
there
with
appeared.
the
of the
phrase “the living and
era
tickets
in place
女青also
to the deceased
the
Qi from
level
relatives
drive off the
phrasing“jiezhu”解注was
thereby
Han,
Fぼthermore,
Niiqing
cases
to the
Later
same
there is also found
1)1四面回s
鬼律,
Laojun.
divinity caU
sought
together
to the
clung
the Jian-an
Southern
written
elevated
who
the
The
Celestial Thearch
emphasized.
and
it comes
and
Celestial Thearch
as Taishang
the
and
注病of
extreme,
that people
Laojun太上老君,
which
of the
the living. In such
epidemics
was
Nevertheless,
the
the envoy
travel a different road” was
ity of widespread
ployed,
to have
responsible
plore it not
shaU
deity of the afterlife, a celestial emperor.
seek
無極大道(榊),
played
the
same
role
of the Celestial Thearch,
among
mystical
these
eχcavated
capital” 玄都律
in interpreting
the
contents
as the Scripture
ofthe
Inner
E x-
theDemon Sぱuesof theN匈湘女青
the Texto f the Sぱ;utes
of the
Mysticol Capital玄都律文.
THE HIYA SYSTEM IN THE REIGN OF nurhaCi:AN
INTRODUCTION TO ARESEARCH OF THE
IMPERIAL GUARD IN THE EARLY
MANCHU-QING EMPIRE
SUGIYAMA Kiyohiko
The
Manchu
Khanate
(manJM mrvm), established
by Nurhaci
Taizu, was organized on the system
or Emperor
of the Eight Bannersりa随a msa).whichwas
continued to serve as the structure of the ruling eliteof Qing 清Empire
quest of China. The
pyramid-shaped
structure of the Eight Banners is generally seen as either a
hierarchy or a federation of banner
khan, or emperor.
after con-
However,
princes (beile),including the
if viewed &omthe perspective of the vicinityof the
rulers, particularlyif observing the formation of the state, the presence
of attendants or bodyguards
con!es into focus. The
−4−
of a group
core of these was the imperial