教科書フォーラム別冊 No.15

海後先生の古稀をお祝いする会(東京大学 山上会館 1971 年)
矢口 新(やぐち・はじめ)略年譜
1913 年
朝鮮咸陽北道新阿山にて生まれる
1921 年
父総三郎死去(朝鮮総督府税関勤務)のため帰国、名古屋に居住
1930 年
東海中学校4年修了
1933 年
第八高等学校卒業
1934 年
専修大学法学部退学
1937 年
東京帝国大学文学部教育学科卒業
7月岡部教育研究室研究員に就任
1941 年
7月陸軍東部方面隊に召集、高射砲部隊に配属(〜 45 年9月軍曹で除隊)
1946 年
7月中央教育研究所の設立と同時に研究員に就任(〜 53 年3月)
1947 年
12 月川口市における社会科全国集会にて川口プラン発表
1948 年
1949 年
小学校教科書「新しい社会」(海後宗臣監修東京書籍刊)の編集に参画(〜 65 年)
「社会科教材映画大系」
(日本映画教育協会企画 教材映画製作協同組合製作)
製作監修に携わる
少年朝日年鑑(朝日新聞社)の企画編集に参画(〜 70 年)
1950 年
6月国立教育研究所研究員に就任(〜 65 年3月)
1951 年
富山県総合開発審議会調査員に就任、富山県総合教育計画に参画
1953 年
中央教育研究所の財団法人化に伴い、4月委託研究員(〜 71 年)
理事(54 〜 89 年)
1962 年
「全国プログラム学習研究連盟」発足、委員長に就任(事務所を中研におく)
1965 年
国立教育研究所を退官 日本生産性本部内にプログラム教育研究所発足、所長に就任
1968 年
財団法人能力開発工学センター発足、常務理事(所長)に就任(〜 1990 年)
1973 年
4月中央教育研究所が常任理事制を導入、常任理事となる(〜 89 年3月)
1980-81 年 『海後宗臣著作集』全 10 巻、東京書籍、編集の責任者を務める
1990 年
1993 年
2
逝去(77 歳)
『矢口新選集』全7巻、能力開発工学センターより刊行
特集第2号の刊行に当たって
公益財団法人中央教育研究所 特別相談役
寺﨑 昌男
2015 年9月に始まったシリーズ「中央教育研究所をつくった人々」も、第2号を迎えることができ
ました。この号に登場されるのは、矢口新(やぐち・はじめ)先生です。
先生のお名前は、第1号で登場された海後宗臣先生ほどに広く知られてはいません。しかし組織的に
進められた教育研究と、熱心に唱えられた新しい着想とがいかにユニークかつ現代的なものであったか
は、本号の内容に余すところなく伝えられています。
矢口先生と海後先生との師弟関係はこの上なく濃いもので、海後先生が若き日の矢口先生に伝えられ
た教育観と人格的な感化とは、その後の矢口先生の活動に大きな影響を与えたと見られます。それは海
後先生ご逝去の日の弔辞にも示されているように、最後まで変わることなく続きました。
加えて、略年譜に示されているように、矢口先生と中央教育研究所との関係は他に例を見ないほど長
期にわたるものでした。社会科教科書編纂や映画製作等を通じての東京書籍との関係も、他の学者や教
授たちとは比較にならないほどの深いものでした。そして何より強調されるべきは、矢口先生の学者と
しての出発期に、本研究所が行った「川口プラン」の実践があったことでした。
若き研究者の矢口先生がそのカリキュラムプランの創成と実施にいかに深く関わられたか、研究所の
出版活動などを通じてその後の戦後新教育にいかに深くコミットして行かれたかは、本号の内容が語る
通りです。これまであまり広く知られなかった戦後新教育―中央教育研究所―海後宗臣―矢口新という
鮮やかなサイクルがあったことを、この号は多くの面から語ってくれています。
本号の編集を担当されたのは、中学校で長く教職経験を持っておられた越川求氏です。氏は戦後教育
の歴史的研究を進めて行くうちに矢口先生が参画された地域教育プランの活動に出会い、その系譜をた
どるうちに中央教育研究所と矢口先生の活動との関係に気づき、博士学位論文まで仕上げられました。
その研究の成果を、惜しみなくこの号に生かしてくださいました。詳しくは巻末の編者あとがきと編者
略歴をご覧ください。研究所としては氏のボランティアにも近いご貢献に対して、厚くお礼を申し上げ
る次第です。
また貴重な資料の提供等に関して後援を賜ったのは、矢口先生が創建された一般財団法人能力開発工
学センターの関係者各位でした。先生のご息女に当たられる矢口みどり様はじめ皆様にも心からお礼申
し上げます。
2016 年2月
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中央教育研究所をつくった人々 ②矢口新
目次
▪特集第2号の刊行に当たって 寺﨑昌男
Ⅰ▪中央教育研究所と私
・めぐりあい 社会の中からの教育づくり─海後宗臣先生 6
・私と教育研究 8
・
〈座談会〉川口プランと海後先生 10
Ⅱ▪中央教育研究所を舞台として
・地域教育計画への動向 18
・新しい教育と社会科 27
・社会科に於ける学習活動の構成 36
・カリキュラム構成の為の実態調査(一) 42
・新教育と視覚教育 50
・富山県総合教育計画における教育調査 61
Ⅲ▪中研、戦後、そして矢口新
・
(論文)戦後教育改革における中央教育研究所の役割─矢口新の仕事を中心にして─
(教育史学会研究大会報告論文、 2015 年)
越川 求 66
Ⅳ▪師友とともに
・岩井龍也 96
・元木 健 100
・久保田晃 102
・向後 環 104
・古谷茂夫 106
・堀越通雄 109
・荒舘 実 111
・富山県総合教育計画関係者 113
・小澤秀子 118
・海後宗臣 120
▪編者あとがき 越川 求
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Ⅰ
中央教育研究所と私
めぐりあい
社会の中からの教育づくり─海後宗臣先生
能力開発工学センター常務理事
矢口 新
「めぐりあい」というのは、ある時点の事を言う言葉だが、中身は大変な深さと広さをもつ。私
にとって海後宗臣先生に出会ったということが私の人生になったといってよいようだ。
昭和十一年大学3年の時、先生が教育学科の助教授として就任して来られた。近代学校史という
講義に、学問的探究とはどういうものかを知らされた思いであった。それが今までの私を指導した
ようである。
卒業の翌年、先生の推挽で岡部長景氏(当時貴族院議員)の援助で設けられた民間研究所 に働
注1
くことになった。そこで農村、都市の勤労青年の生活実態の調査に基づいて教育のあり方を考察す
る研究に従事した。この研究の根底にある先生の哲学は次のようなことであったと思った。
現代教員は町人階級(ブルジョアジー)の系譜に属するが、次に生み出さるべき教育は農民や工
業生活者、つまり物を作る人々の生活と思想の中からの筈です。これからは産業の世界で人間がど
う育っているかを研究すべきだ。私は以後この道を歩き続けて今日に至っている。
この時の調査は、いまは日本で最初の教育社会学的調査という評価が与えられているが、文字通
り初めてのことだらけであった。先生は常に先頭に立って指導された。農村調査は千葉市の東方白
井村で行われたが、先生の御宅で徹夜で調査票をつくっては翌朝村へ行って調査を実施するという
ことが一週間も続いた。電撃作戦などという言葉で私たちは呼んでいたが、そういう方式は戦後富
山県で総合開発計画を担当させられた時もそっくり踏襲させていただいた。昭和二十五年から十五
年間国立教育研究所で働くことになったが、そこでの研究はこの体験の繰り返しであった。
昭和 16 年から5年間応召したが、戦後また先生の研究室に帰り、民間の研究機関中央教育研究
所で働くことになったが、ここであの有名な川口プランという社会科のカリキュラム作成を行っ
た。文部省の指導要領がアメリカのプランの翻訳であったのに対して、土着の社会科を主張された
のである。この思想もその後の私に定着した。日本の社会の中からの教育を作り上げるという精神
である。社会科教材映画大系数十本の製作や、プログラム学習運動もこの精神からであったが、先
生は随時適切な指導をしてくださった。
社会科の教科書
注2
の監修を先生がされたので私も手伝いをすることになったが、昭和三十年代に
なると既に今回教科書問題として、新聞をにぎわした例の密室の検定が顔をだしはじめた。このこ
とは先生の十五年も前の著書「歴史教育の歴史」に詳しい。私が企業内の教育に力を注ぐ決心をし
た
注3
る。
6
のは、そのような精神汚染に対する外からの巻き返しを地道にはかることを考えたことによ
何時か私のセンター に来られたとき、先生は「四十年前に漠然と考えたこと随分はっきりした
注4
ね」とほめてくださったが、すぐ「しかし学校がこういう方へ変わるのは何時かな」と心配げに言
(ママ)
われた。弟子共三十人が解説して、昨年「海後著作集」を全十巻七千ページを完成して「こんな立
派なものをありがとう」と喜ばれた顔が目に浮かぶ。
注1)岡部教育研究室1937 〜
注2)東京書籍「新しい社会」
注3)日本生産性本部プログラム教育研究所1965 〜
注4)財団法人能力開発工学センター 1968 〜
出典:
「毎日新聞」
“めぐりあい”1982 年 12 月2日夕刊
7
私と教育研究
能力開発工学センター常務理事
矢口 新
私と教育研究の結びつきは大学の講義からは生まれなかった。2、3の教授を除いて多くの教授
の淡々とした講義演習からは愚鈍な私に研究はどのようにするものかを与えられなかった。当時、
経済学が脚光を浴びて迫力ある講義に触れて教育学の弱さを感じさせられた。今思えば当時教育は
天皇の勅令で上から与えられる性格のもので、その雰囲気が科学的な批判的論議をするのに歯切れ
の悪さを生んでいたのである。
私が教育研究の本質に触れた思いがしたのは、岡部長景氏(当時貴族院議員)のポケットマネー
(ママ)
で作られた岡部教育研究所に採用されてからである。恩師海後宗臣先生の指導で日本社会の実態研
究に基づいて青年教育のあり方を自由な立場で設計提案しようということになった。方法論はアメ
リカのスクールサーベイに学んだが、スクールサーベイが学校教育の場での人間行動をあらゆる角
度から切って実態をえぐり科学的批判を加えて改善しようとする思想に感動した。先生から自由と
批判精神の上にビジョンを描くのが研究だと言われた。
戦争中5年間の召集生活で日本社会のひずみをいやと言うほど体験させられたが、これはその後
の研究に影を落としているようだ。
(ママ)
戦後岡部教育研究所の後身の中央教育研究所で社会科のカリキュラム研究を行ったのが、例の川
口プランの発表となった。鋳物の町の生活実態の学習(子どもなりの分析的研究)から子どもに未
来の社会の展望を与えようとしたが、教育が現実を土台としながら未来を招くものだということを
強く感じさせられた。この研究所で社会科の教材映画大系の作成に参画したこともリアルな教材に
よる教育ということに関心が生まれるもとになった。
昭和 25 年から国立教育研究所に勤務することになったが、ここでの研究はそれ迄の研究の延長
であった。一つ私の思想の成長に役立ったのは、富山県で行われた総合開発計画の策定に 10 年以
上もの期間参画したことであった。地域の現実に基づいて人間を育てる教育を成立させるには地方
分権の必要があるとしみじみ感じた。当時明治時代的な国家というものの亡霊が人と社会の成長を
妨げていたのである。それは今でもそうである。
昭和 30 年を過ぎるころ私は、教育研究に関して大きなショックを受けた。それは当時ロンドン
大学の教授 J.Z.Young 博士(解剖学、神経生理学の世界的権威)の名著『 Doubt and Certainty
in Science 』
(
「人間はどこまで機械か」という岡本彰祐氏の翻訳有り)にふれたことであった。
この書で私は、お前は人間がどうして物ごとを学習してさまざまなことが出来るようになって行く
かということについて全く無知ではないかと言われたような気がした。人間の脳の働きのメカニズ
8
ムに無知だったのである。脳のメカニズムの研究、特に教育的な点に関してはまだそれ程進んでい
ないが、それにしてもこの事を土台にするとしないでは科学と非科学との違いがあるのである。人
間を育てることを考えるについては脳行動科学は大切な柱である。教育を社会的基盤だけで考えて
いては時代錯誤に陥る。私はそれ以後研究のし直しをしなければならなかった。
昭和 40 年私は国立教育研究所を退官した。権力の中の研究機関の限界を感じたからである。民
間の研究所で学校以外の場で行われる教育、特にその頃活発になって来た企業の教育に研究の手を
のばした。そしてここでもまた日本という社会の教育的土壌の非近代性に目を開かれた。明治以来
の人間研究の貧困さが押し付け教育を払拭できず、教育を劣化させていることを感じさせられた。
この頃技術革新の波が押し寄せ特に産業界にはコンピュータの普及が急激であった。あらゆる所
に入ってきてコンピュータなしのシステムは考えられなくなった。これに応じてこれを駆使するに
は人間の能力開発を考え直す必要が出てきた。
コンピュータは人間の頭脳を代行をするものとして、従来の機械とは全く異なる性格のものであ
る。それは電子の動きのシステムであって、従来の身体運動のかわりをする機械と異なって目に見
える機械ではないのである。人間の頭脳の働きをどういう論理で電子にやらせるのかを知らないで
使うことは出来ない。それを忘れてただキーを押したりボタン操作をしていては人間はコンピュー
タに使われる奴隷になる。家庭に入って来たそれを組みこんだ道具でも使う人はあらましは正体を
とらえておく必要がある。正体のわからないものが横行するのは社会にとって危険な徴候である。
教育研究者としてはそこへ目をつけるべきだと思って、私はささやかだがシミュレータを使って脳
を働かす学習システムを開発する努力をしている。
出典:
「国立教育研究所広報」第 79 号(1988 年)
9
〈座談会〉川口プランと海後先生
能力開発工学センター所長
玉川大学教授
元川口市教育長
司会・大阪大学教授
矢口 新
飯島 篤信
村本 精一
元木 健
地域の生活の現実から出発
元木 昭和二十二年の三月に、敗戦後いち早く埼玉県川口市の地域計画として有名な「川口プラ
ン」が発表されていますが、この川口プランは、海後先生の社会科教育の中核となる業績だ
と存じます。そこで、当時川口プランを中心となって推進された三人の先生方に、その経過
あるいはその時お考えになっていた理念などについておうかがいしたいと思います。現在で
はもう肝心な部分が忘れられている面もあるのではないかと考えますので。『教育学五十年』
によりますと、終戦直後、岡部教育研究室を中央教育研究所に改組され、再出発の最初の仕
事が川口プランであったとあります。海後先生は、教育の内容は生活の現実から求められる
のだというお考えを戦前からずっともっておられ、それにはいろいろなアプローチがあるけ
れども、やはり客観的・科学的な調査をもとにしてそこから出発すべきだとおっしゃってい
ますね。それが川口プランとなって出たという印象が強いのですが、そのへんはいかがで
しょうか。
矢口 戦前、岡部教育研究室では、農村と都市の教育調査をしましたが、戦争のために中途で終
わってしまった。それをカリキュラムまでもってくることができたのは川口プランです。先
生のお考えはずっとつながっていると考えます。
飯島 白井村や三芳村では、青年の生活と教育について調査をやったけれども、その地域の教育内
容の編成にまでは入りませんでしたね。
元木 教育制度の提案をなさったわけですね。それまでの日本のカリキュラムは、上からつくられ
ていたわけですが、カリキュラムとは教育の現場で、地域でつくるのだという発想の基本は
どこにあるのでしょうか。
矢口 私流に先生の考え方を解釈すると、一つの世代が次の世代に対してもつ祈りというか期待と
かいうものが教育であるのだという考えが先生には強い。それを生かさなければ本当の教育
にはならないという基本的な考えをもっておられたと思います。 村本 それは海後先生に接していて強く感じましたね。母親が子どもを育てるように、子どもを思
うならば、教師自らが子どもに適した教材をつくる、子どもは環境の中に育っているのだか
10
ら、環境の生活現実から教材をつくって、育てていくとお考えになっておられましたね。
元木 日本の歴史の中で自らの教育方式を出していない階層は工業生活者と農民だ、だからそこを
やらなければいけないといっておられますね。
矢口 そこのところを調べて、そこから教育をつくりあげてこなければならない、川口には、新し
い工業生活者がいる、その教育をつくりあげるのだという、強い意欲をもっておられまし
た。
飯島 当時、教育者自身がカリキュラムを自主的に編成するという考え方も広まっていたし、文部
省の最初の学習指導要領にも、試案という言葉のうえに教育者の自主性を生かそうという姿
勢が出ていました。川口の場合は、終戦とともに、戦後の教育をどうやっていくか、市内の
学校の先生方が話し合っており、そのエネルギーとわれわれが結びついたのです。
地域教育のエネルギー
元木 村本先生は当時、川口市の中学校長で、現場の中心におられたわけですが、どういう経緯で
川口の方は受けとめたのですか。
村本 昭和二十年八月に終戦となり、二学期が始まりましたが、修身・地理・国史といった教科は
停止され、従来の教科書も使えなくなりました。それまで上からきめられてきた教科書を教
えることに現場の教師はならされていましたから、大変不安がありました。そこで、当時川
口で中学の校長をしておられた梅根悟先生を中心に、市内の同じ悩みをもつ先生方が月に一
〜二回集まって、何をどう教えるかを話し合っていました。中央からも講師の先生にきてい
ただいていましたが、梅根先生とのつながりで海後先生においでいただき、お話を聞いて
りっぱな先生だなと思いましたね。
矢口 そのころ、文部省ではバ−ジニア・プランを翻訳して社会科の試案を出そうという動きがあ
りました。中央教育研究所では、こっちでも独自にやって、ひとつ目にものをみせてやろう
じゃないかと、弟さんの海後勝雄さんや私たちと話していました。それでは、梅根先生にた
のもうではないかと、川口市へ行きました。梅根先生は、勝雄さんと同期で、戦前から海後
先生とおつきあいがありました。その時は、梅根先生は川口市の助役になっていたから、助
役室で話をしました。やろうじゃないか、それでは村本先生にたのもうというような話が出
ましたね。
村本 梅根先生とは親しくしていましたから、君が中心になって動けといわれて、新教育研究会と
いう会ができたわけです。会の目的は、一番切実な問題である修身・地理・国史などの教材
を研究しようということです。それで、海後先生を目黒書店にあった中研へおたずねしまし
た。その時、先生から、
「従来の教育は上から与えられた教材をどう教えたらよいかだけを
考えていた。そうではない。教師自らの手で、子どもの育ちつつある生活の現実の中から教
材をつくるのが教育の本道なのだ」といわれました。要するに、中研の先生方の何か営みを
しようという意欲と、川口にそれを受け入れるふんいきがタイミングよく醸成されていて、
みんな喜んで食いついてきたというのが、川口プランのきっかけだったと思います。
11
地域の調査と分析
元木 川口プランは具体的にどう進められたのですか。
村本 当時の川口市は人口十三万ぐらいの都市で、小学校は国民学校といいましたが、小・中学校
が二十校あり、各校から二名ずつ四十人の先生方が選出され、新教育研究会社会科委員会を
組織しました。私はまだ三十六歳の若輩でしたが、委員長をやれと校長会からの要請もあ
り、引き受けたわけです。中研から五〜六名のスタッフがきてくれましたが、中心となって
ご指導いただいたのは矢口、飯島両先生です。週二〜三回ぐらい指導にきていただきまし
た。
まず、児童生徒が現実に住んでいる地域社会をどうとらえるかという問題がありました。
これは、川口市という一つのまとまりをもった行政区画をとった方がいいだろう。市内に
は、十三の小学校があって、各々学区がきまっているから、その学区を一つの調査単位に社
会的な施設、機関その他あらゆるものを調査、抽出することにしました。各学校から二人ず
つ委員が出て、さらに通学班を担当する先生や通学班の上級生にお願いして調べました。地
域内にある社会的施設、例えば郵便局、保健所、警察などの施設、機関、鉄道やバス、農家
の軒数など、そういうものをピックアップして、中研の先生方のご指導で、カードに一つ一
つ書き、一覧表や分布図につくりました。これが最初の調査でした。
それを今度は分析していくと、学区の性格が、例えば工場の多い工業地域であるとか、商
業と工業の混在する商工地域であるとか、農村地域であるとか、だんだん明確になってきま
す。そして市全体としては、工場が千何百あり、そのうち約六百は鋳物工場であり、鋳物工
場に働いている人がいちばん多く、鋳物工業を中心として成り立っている地域社会である。
人間が社会生活をしていく上で生産とか消費とか交通通信という社会機能があり、それを分
析してみると、どういうことが中心になって地域社会が動いているかが出てくるわけです
ね。
しかし、こうした調査だけでは、地域社会を担っている市民がどういう考えをもち、どう
いう課題をもっているかということはわからない。次は、市民の中から、いろいろな立場の
人に集まってもらって、私たちの調査によれば、川口はこんな状態だということをつぶさに
報告して、そのうえに立って、皆さんはそれぞれの立場でどう考えるかを教えてもらうこと
にしました。
飯島 目的設定委員会と呼んでいました。こちらからいろいろな諮問事項を出して意見を述べても
らいました。
元木 それはどういうメンバーですか。
村本 川口の地域社会を担っている各界各層の人たちで、職域を代表する専門家や有識者、例え
ば、社長、工場長、商店主、農業者、市会議員の代表、市長、助役、駅長、郵便局長、警察
署長、各行政機関の関係課長、それから青年会の代表、婦人会の代表などでした。昔の市議
会場に集まっていただき、中研の先生方にもおいでいただいて、私たちの調査、分析結果を
図表等にして説明をしました。そのあと、それぞれの立場で、例えば自分の鋳物工場がどう
発展し伸びていったらよいか、また、市全体としてはこういう現状をどう打開し発展させて
いったらよいかということを諮問したわけです。集っていただくにはずい分骨を折りまし
12
た。中には、教育は学校の先生がやればいいだろう、ぼくらが行っても何もないよなどとい
われる人もありました。しかし集まった人たちは、非常に熱心に考えを述べてくれました。
鋳物工業はこういう現状だが将来はどうしたらよいか、鋳物工業の付随産業としての木型業
はどうするか、銑鉄やコークスなどの材料や燃料はどうするか、交通運輸はどうあったらよ
いか、鉄道か水運かトラック輸送かというところまで話が進み、地域社会の発展目標として
は川口市を文化的な工業都市として発展させるのだという形になりました。これは、海後先
生のいわれる地域課題になるわけで、これを解決する具体的な教育人間像は、実践者だとい
う言葉をよくいわれましたね。では、実践者を育成するにはどうしたらよいか、こういうと
ころへもっていかれたわけですよ。
矢口 川口という地域社会の現実を問題にして、その社会のもつ人間の意欲をとらえ、その中から
教育を組み立てようとしたところに非常に斬新な感じがしました。そこからカリキュラムを
つくって、今度は子どもが鋳物工場へいって、生き生きと活動する、帰ってきてからの授業
でも、それをまねしてつくったりします。そこのところに、私は、ああこれが教育だなとい
う感動を受けました。そこが一番だいじなところでね。ちょっととびますが、そういうこと
が、その後の教育の中では見失われてしまったという気がします。
バージニア・プランとの関連
元木 川口プランは、世間一般には、バージニア・プランに代表されるアメリカの教育課程編成法
を導入したものだと考えられていますが、私は必ずしもそれだけではないと思っておりま
す。そのあたりのところはいかがでしょうか。
村本 バージニア・プランについては、倉沢剛先生の話で知ったことですし、海後先生も、矢口、
飯島両先生もそういうことはほとんどおっしゃいませんでした。私たち現場の教師も、バー
ジニア・プランという受けとめ方はしていませんでした。
元木 そうすると、戦後の地域教育計画運動でスコープとシークエンスということばが合言葉に
なっていたわけですが、その点は。
村本 そういう言葉は、ほとんど使いませんでしたね。
飯島 海後先生が川口プランの学習課題表の形を人にわからせる意味で、例えば、スコープとシー
クエンスに相当するというようないい方をされたので、聞いている人は、そっちの方だけを
覚えてしまったということがあるのかもしれませんね。
矢口 その後、倉沢先生の『近代カリキュラム』の影響が強くなってきたので、結びついたんだ
ね。しかし、私たちは、そういうことばは使わなかったね。
元木 海後先生は、バージニア・プランが出たのは一九三〇年代で、当時すでに日本へ紹介され、
自分たちは知っていたと書いておられます。だから、戦後になって知らされたのではないの
ですね。それで、文部省が学習指導要領の試案をつくるときに、バージニア・プランをその
まま使ったことに対して、海後先生は『社会科成立の歴史的背景』で、社会科の発足にあ
たっての失敗だと批判しておられます。なぜ地域の現実から出発しなかったのか、川口プラ
ンで自分が示唆しようとしたのはそのことなんだと。海後先生が意図されたのは地域の生活
の現実から出発するということ、地域の実態の科学的な調査に基づいて立案するというこ
13
と、地域で現場で教師自らがカリキュラムをつくるのだということの三本柱ですね。そうい
うことがその後消えてしまったのですね。
矢口 結局、上から与えられたという社会科になってしまったでしょう。鋳物社会科でよかったと
思います。じゃがいも社会科もあっていいし、いろいろあっていいと思うんだよ。先生は、
問題は社会の見方を学ぶことにあるのだといっておられる。ところが、日本の社会科の伝統
はそういうことではなく、結果とか一般的な知識を教えることにあったでしょう。「社会の
見方」ということが成り立っていきませんから、スコープとシークエンスで、何か単元の名
前だけをつくっていくようなことではだめですね。
川口プランへの批判と対応
元木 川口プランに対して、外からどういう批判があったのでしょうか。鋳物社会科ということば
も一つの批判として出たのだと思いますけれど。
村本 私たちは具体的には鋳物工業中心の社会ですが、一つの社会に住んでいる人間がその現実を
解析していくことによって、社会の見方を身につけていけばいいのだ、何も鋳物のことだけ
を覚えるのではないと説明するのですが、一般の人にはなかなか理解されない。教育とは知
識を身につけるものだという考えが非常に強いですから。
飯島 川口プランのような教育をしていたら視野のせまい人間ができて、川口市で生活している間
はいいけれども、よその地域にいったらどうしようもなくなるじゃないかという批判です
ね。それに対して、私たちは、自分の住んでいる地域社会に即して具体的に学習するから社
会というものがわかってくるのであって、どこへいっても、それが実践的な能力としてりっ
ぱに役に立つのだという考え方でした。
村本 批判について、一つは、川口という地域にこもりすぎて、国家的・世界的な広がりがないと
いう批判があり、これに対しては、教材の取り扱い方一つでいかにでも広がりをもった取り
扱いができると強調してきました。もう一つは、成人本位の課題で子どもの関心がうすいの
ではないかということです。子どもの心理ということを当時問題にしていましたから、教材
をいかに咀嚼して与えるかに努力したわけですが、どう位置づけるのかという批判がありま
したね。これには子どもの活動をごらんなさいと。現場学習における子どもの取り組み方な
どはたいへんなもので、もう喜んでやるのですね。子どもも本当に勉強したという気持ちが
あるし、先生もこのうえない喜びで子どもといっしょに取り組みました。さらに、川口プラ
ンは実証的考察に重点がおかれ、歴史的な考察が足りないのではないかという批判がありま
した。これに対しては、鋳物といっても、現在の工業だけをみるのではなく、江戸時代に始
まったのが日清・日露戦争を契機に発達し、さらにこう発展したのだという歴史的、時間的
な見方もできるし、原料の入手や製品の販路を通して、地理的、空間的な見方もできるのだ
といってきました。
元木 川口プランは結局、社会科で受けとめられるわけですが、出発点は地域教育計画であって、
社会科だけの問題ではないと思いますが、これはどういうことでしょうか。
矢口 文部省が社会科をバージニア・プランで発表するのと並行して、川口プランを社会科で発表
して、それを土台に他の教科までやるつもりだったのですが、ほかの教科まで手がまわりま
14
せんでした。
元木 バージニア・プランは、コア・カリキュラムですから、コア・コースが全授業時間の三分の
二くらいはカバーしている、それを社会科という一教科だけで受けとめようとしたのは無理
だったような気がします。
矢口 海後先生は、生活学習、内容学習、用具学習の三つで、内容学習の中を社会、自然、技術と
いうようなものにしてつくっていこうという計画だったのですが、そこまでいかなかった。
そういう力は日本の社会になかった。そのいちばん根源は、私は教科主義だと思いますね。
しかし、教育というものは知識を与えるだけでなく、川口プランのように、子どもたち自ら
が学習するというものです。海後教育学の根底もそこにあると思いますし、それがもう一度
蘇えらないと日本の教育はよくならないという気がします。
元木 結局、海後先生の新教育の理念が社会科の中に、ある意味では封じ込められたということに
なりますね。ほんとうに貴重なお話をうかがいまして、ありがとうございました。
出典:
『海後宗臣著作集』第6巻「月報」
5、東京書籍(1981 年1月)
15
Ⅱ
中央教育研究所を
舞台として
矢口が推進した研究活動
を示す 6 つの論文
*掲載にあたり、新字体、現代仮名遣いに改めた
地域教育計画への動向
出典:‌
「日本教育」七・八月合併号
第七巻第二号、国民教育図書、20-27 頁、1947 年 8 月‌
(
『復刻版』エムティ出版、1991 年)
(一)
日本の教育は現在著しい変貌をとげつつある。今年度から六、三制が実施されて中等教育の段階
までが義務制となった。従来青少年の二割しか中等学校に入学しなかったのに比してこれは著しい
変革であるといえよう。この制度によって従来小学校の教育を歪めていた中等学校入学試験という
教育の癌は除かれたのである。ここに小学校の教育も中等教育もはじめて真に国民大衆の為の教育
として成立し得る地盤が出来たのである。
かくの如く教育の框組が変貌を遂げるに従ってその中の教育実態も亦変って来ている。その端的
な表現は新しい教科課程であり、就中社会科の出現である。学校に於ける教育の実態はまだ充分変
革を遂げていないとは言え、従来の知識体系に基く教育方式を改めて、次第に現実の社会がもつ課
題の中に於て教育方式を成立せしめるようになって来ている。それは学校の教育を一部階層のもの
であることから解放して国民大衆に直接結びつけようとすることである。かくの如き教育の方向が
今後次第に現実化され、具体化されるならば、国民大衆の教育が真の意義に於て成立するに至るで
あろう。併し教育の世界に於ける変貌は以上の如き実践場面に於てのみ現れているのではない。
去年から今年へかけて教員組合運動は著しく発展した。この組合運動によって教員は強固な団結
によればその主張を貫徹し得ることを自覚した。二・一ゼネストに至る迄の組合運動に於て教員は
一応自主性を獲得したといえよう。従来教職者に主体性が欠如していたことから考えて、それが如
何なる動機によるにせよ、教員の自主性の自覚は教職者の社会的使命の自覚である点に於て今後大
きな意義をもつに至るであろう。
更に文部省は近く地方教育行政法案を議会に提出するといわれている。それは使節団報告書に示
されている如き教育委員会制によって教育の地方分権化を実施しようという意図であろう。これに
よって教育の運営が国民大衆の意図を反映して行われるならば、宙に浮いた教育はその本来の地盤
へかえることになるのであって、教育はそこから己れの成長に必要な養分を豊かに吸収することが
出来るであろう。
現在行われつつある教育改革はかくの如く重大な意義をもつものである。それは一言に教育の民
主化といわれ得るけれども、まさに教育本来の地盤へかえることである。従ってこれらが真剣に行
われるならば、日本の教育は数年にして大きな発展を示すであろう。その時こそ所謂真に民主化さ
れた教育を我々はもつことか出来るのである。
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併しながらこれらの改革が進行して真に教育の現実にまで浸透し、内面的な変革がなされるため
には多くの問題が存するといえよう。むしろ問題は今後に存するとさえ言えよう。
これ迄文部省や一部教職者によって行われた改革はいわば方向を定めたにすぎないのであって、
それが実を結ぶには非常な努力を必要とするのである。教育が真に国民大衆のものとなるためには
国民が積極的にこれに参与し、これを推進する努力が必要である。国民大衆の参与がなくして、如
何にして教育を国民生活の課題を解く如きものたらしむることが出来ようか。国民が教育を自己の
ものと考えずして、これを教育行政家や教職者という一部の人に任せて無関心でいる如き状態で
あっては教育は何時迄たっても国民大衆のものとはなり得ないであろう。教育が国民大衆のものと
なるとは、単に大衆が教員を任命したり罷免したりすることでなく、教育の現実が国民生活の課題
を解くものとして成立するということである。国民大衆の生活建設に教育も直結して行くことが出
来る如き事態に於てはじめて教育の民主化があり、国民大衆の教育が成立したといい得るのであ
る。
かくの如き教育民主化は単に形式的な制度の改革や、教科内容の規定の改正によってのみ行われ
ることは不可能であって、国民大衆が自ら教育行政家や教職者と一体となって、己れの生活課題を
とくものとして教育を編成して行くことに於て真に行われるのである。
教育の側から云えば、教育が社会の現実のもつ課題の中へ投げこまれて、そこに於いて教育が組
み立てられてはじめて国民大衆のものとなり得るのである。
教育の民主化とは教育の社会化であり、現実化である。教育現実の社会化でない所の改革は、即
ち形式的な制度、法規の改正のみの民主化は名のみであって形のかわった封建主義ともいえよう。
かくの如き真の意味に於ける教育民主化のためには、我々は今後大いに努力する所がなければな
らないのであって、従来行われた改革はその発端にすぎないのである。何故ならば教育現実の社会
化の地盤は日本に於ては極めて薄弱であって、国民大衆にも教職者にも教育とは文部省の行うもの
であり、それの指令に従えばよいものであり、それに任せて置けばよいものであると考えられてい
るのである。こうして教職者や国民大衆は従来自ら教育を行うという意図をもたず、唯文部省に
よって考えられた全国一般の教育計画が各地に形式的に適用されるという状態である。かかる画一
的教育を成立せしめている雰囲気を打破することが教育の自主性の確立であり、教職者の自主性の
自覚もそこになくてはならない。而もこれらは永い伝統の下にあった、日本に於て相当困難な事で
ある。
かくて現在に教ける教育民主化の意義は教育を社会の現実の課題の中に置いて成立せしめること
であり、それは国民大衆の参与に於いて教育を運営することであり、更に国民大衆が自らの生活の
課題を解かしめるものとして教育を編成し直すことであるといわなくてはならぬ。そしてそれは国
民一般の自主独立の気概を地盤としなくてはならない。教育民主化の課題も亦一般社会の民主化の
それと軌を一にするのである。
現在我々に課せられた教育民主化の意義は以上の如く教育の現実を社会の生活現実に於ける生き
た課題の中に置いて編成し直すということであるならば、それは必然的に地域教育の形をとること
になるであろう。即ち教育が地域社会の主体的な企画と運営に任せられることである。
何故ならば人間の現実の生活は、最も具体的にはある一定の土地に於て、一定の職能者として営
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まれているのであって、具体的な人間存在は地域共同態に於てあるといえよう。そこに於て人間は
生きた課題をもちこれを解決しつつ生活しているのである。これが生活現実の最も具体的なあり方
である。
かく言えばとてそれ以外の社会例えば家族や国家が抽象的存在としてしか存在しないというので
はない。国家ももとより我々の生活共同態として具体的な存在であるが、その性格は様々な共同態
を己れの中に存在せしめつつこれらを秩序づける所の自覚的総合的な共同態である。国家は様々な
共同態を超えて、これらにその所を得せしめる如き組織体である。国家の意図する所はその中に於
ける様々の共同態がその固有の仕方で発展することに対する保証である。従って様々な共同態はそ
の発展の保証を国家に負うている。その意味で国家も亦具体的に人間の具体的な存在の仕方であ
る。けれども国家の意図はあくまで形式的な保証であって、共同態が国家の保証によって如何に具
体的な生活内容を発展せしめるかは共同態の問題である。
家族も亦一つの社会として具体的な存在であるが、それは地域共同態の中に包含され、その中に
於てのみ具体的な生活体たり得る。家族は消費の場であって、生産の場でなくなっている。生産の
ない社会はそれ自身で成り立つ具体的な存在ではない。
かくして地域社会が人間存在の最も具体的な場面であって、そこに生きた課題が具体的に生れ、
解決されて行くものであることは明らかであろう。従って教育が生活現実の生きた課題を解決する
ものとして編成されるべきものであるならば、それは地域社会に於て編成され、そこの場に於ける
課題に於て企画され運営されるべきものと考えられなくてはならぬ。国民大衆の教育への参与とい
うことも地域社会に於て具体的なものたり得るのである。
教育は地域教育の形態をとってはじめて、その具体性を得て来るのである。国家の意図もそれを
通してはじめて、具体化されるのであって、かくの如き現実に足場をもたない国民教育などという
ものはあり得ないのである。地域教育によってのみ、国民生活の課題を解決する教育ともなり得る
のである。
例えば教育の内容や方法の構成もこの見地からなされるべきものであって、地域社会の生きた課
題の中から内容方法もとられるべきものである。単なる国民一般の教養という如き見地から構成さ
れた内容、方法はあらゆる地域の生活に通ずるであろうけれども、真に生きた内容とはならないの
である。生きた教育の内容方法は、一定の地域で様々な要素の複合体としての構造をもった生活か
らのみ把えられなくてはならぬ。この独自な生活内容を独自な仕方で教育の中に生かすことによっ
て教育が現実的な力となり得るのである。
かく考えれば教育の内容方法は今後地域社会が主体的に編成すべきものである。それが教育を現
実社会に生かす道である。言い換えれば教育内容方法の民主化も地域教育に於て果され得るのであ
る。
地域教育の基盤に於て民主化されるのは単に教育の内容方法のみでなく、教育行政の民主化も実
は地域教育の前提に於てなされるのである。例えば教育委員会制も単なる行政的措置として従来の
国家的画一教育の地盤の上で考えられた地方分権ではないのである。地域教育を地盤としない単な
る教育行政組織としての委員会ならば、それは従来の県庁や市役所の学務課の仕事を委員会がする
というだけであって、唯それだけである。教育委員会が如何なる形式で任命されるかは別として、
唯それだけのものならばむしろ事務に練達した従来の組織の方が望ましいのである。そういうもの
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ならばボスの出現も可能性があり得るし、又その危険を冒して制度を改める必要はない。
地方教育委員会が存立し得る意義は、それがその地域の教育政策の企画立案をするということに
ある事は、アメリカに於ける実情を見ても明らかな事である。即ち地域教育計画機関としてそれは
存立し得る意義があるのであって、これこそ地方教育機関の中心的意義である。
かかるものであって、委員会が教育民主化の一翼を果すものとなり得るのであって、単に従来の
行政権が委員会によって運営されるということのみであり、教育の企画立案は一切文部省から来る
という如くであるならば、かかる委員会の機能がそもそもボスを発生せしめる温床なのである。従
来教職者側より提出されている所の地方教育委員会に対する疑いもかくの如き委員会に対して向け
られているのであるまいか。
教職者も国民大衆も地域教育の企画と運営の立場から改めて教育委員会に対して考察し直すべき
である。地域教育の企画立案は国民大衆と教職者との合作によるものでなくてはならぬ。それは相
互に自主性をもったものの合作であって、何れに独善的な態度があっても民主的なものとして成立
し得ない。かくの如き地域教育計画に於ける役割を果す委員会としてこの構成も最も合理的に考え
られるべきものである。かくの如き見地さえあればボスの如き民主的人民と教育者の自主性によっ
て当然排撃し得るのである。
かくの如く地域教育の基盤の上にのみ教育の民主化が現在進められるとするならば、我々には今
後あらゆる手段を尽して地域教育計画を企画し立案し運営すべき心構えがなくてはならない。
(二)
さて地域教育の計画を如何にすべきか、又その運営を如何にすべきかの実際について述べるべき
段階になった。併し地域教育の計画は元来夫夫の社会が特殊の方法を以て行うべきものであって一
概に言うべき事ではない。更に日本に於てはかくの如き動向は未だ極めて稀であって、総合的地域
教育計画の実例をまだ見ることが出来ない。
そこでここでは地域教育の実際について川口市に於ける社会科教育計画を一例として提出しつつ
考えて行きたいと思う。勿論地域教育計画は単に教育内容方法の計画にとどまらないのであって、
教育組織に関してもなされなくてはならない。併しかかるものは従来教育が画一的統制下に置かれ
ていた日本に於ては存在し得なかったのであって、今後の問題に属する。かくの如き研究も従って
従来極めて数少く、殆んど見ることが出来ない。唯昭和十三年に行われた千葉県千葉郡白井村に於
ける青年教育調査に基く青年教育計画の樹立は稍総合的実際的研究であろう。これには筆者も関係
していてその報告は、農村に於ける青年教育その問題と方策として出版されているから参照された
い。
川口市の社会科構成の手続についてはその詳細が本誌の前号に記載されているから、その点に関
しては前号を参照されたい。ここではその地域的教育計画としての意義を問題にしてみたい。前号
に述べられている如く、川口市は社会科の教育内容を社会調査に基いて構成した。地域教育計画の
樹立に当って最も必要なことはその地域の実態を把握することである。この実態が正確に把えられ
るか否かによって、樹立された計画が真に地域に適するか否が決せられるのである。従って樹てよ
うとする計画が如何なるものであるかに従って、その実態調査の方法を深重に定めなくてはなら
ぬ。如何なる目的に使用する調査であるかに従って調査の内容も極めて異ったものとなるのであ
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る。目的を明確にしない調査はその意義が薄弱である。(註、前号とあるのは二三月合併号である)
川口市に於て社会科構成の為になされた調査は、社会科の学習題材を選定するための準備調査と
しての性格をもっている。この調査は次の如き考えに基いて企画された。社会科は社会生活の現実
的理解を与えるものであるから、その学習内容は社会現実の構造に基いて構成さるべきである。
従って調査は川口の社会が如何なる現実構造をもっているのか分析的調査は如何にして行われるべ
きか。社会の現実的構造は様々な生活活動を要素としてその複合体としての構造をもっている。そ
こでこの構造はそれらの要素の機能を明らかにして、かかる機能的要素の関係形式として現されな
ければならない。所で個々の生活活動は夫々独自の機能をもっているけれどもそれは一定の類型と
して把えることが出来る。それは一定の生活の場面に於て一定の類型的な機能を果している。そこ
でこの生活場面を把えることにより川口社会の機能的要素たる生活活動を把え得るであろう。かく
て川口社会の構造を分析するのにまづ最小単位としての生活場面を悉皆把捉して行くという方法を
とった。これが前号に説明されたあらゆる生活単位の抽出ということである。
調査によってこれらの生活単位は六千にものぼった。そこで次にこれらに於て行われる生活活動
の機能を分析して、それによってこれらの川口社会の機能的要素の分類を行った。それらは結局生
産、消費、交通通信、健康、保全、政治、教養娯楽、家庭の八つに分類された。これらの機能をも
てる様々な生活活動の総合体として川口社会を考えるわけである。従って教育内容はこれらの機能
をもつ各種の生活活動を学習題材としつつ、それらの間に有機的関連をもたせることによって社会
の構造の理解に到達するように構成されねばならない。
しかしここにあげられた各種の生活活動はその機能によって分類されたのみで、そのまま平面的
に羅列されているわけである。これらのどれが川口社会の社会学習の課題として選択さるべきであ
るかはこれのみによっては決定されない。それは川口社会の全体としての性格が決定することであ
り、それは歴史的、社会的な動向に於て、又現在川口社会のもつ課題によって定められるべきもの
である。そこでこれを如何にして明らかにするかである。
所でこれまでの調査は川口市新教育研究会の成員によって行われた。この会の構成については前
号に述べられているから参照されたい。この会の中に教材構成委員会を設けて、これを中心として
これだけの事を行って来たのである。この研究会の構成員は前号にも述べられた如く教職者であり
全市の学校から二名宛選出された委員を以て構成されたものであるが、かくの如き調査は相当大懸
りに行われなくてはならないのでこの組織による運営は成功したものの如くである。且つこれ迄の
調査は教育内容構成の素材となるべきものの準備であるので教職者によって行われるのが当然であ‌
ったと考えられる。市当局も多大の援助を与えていたけれどもこの調査の企画実施はすべて教職者
の自主性に基いて行われた。
さて川口社会の性格を明らかならしめ、その課題をとらえるために教材構成委員会は川口市の歴
史を調べ、その産業の状態を調査し各種の統計を集めて準備を行った。そこでこれらを材料として
各種の事情を総合して川口社会の性格と動向を明らかならしむるためには如何なる方法によるかの
問題であるが、これは単に教職者のみの意見によって定めらるべき性質のものでない事は明らかで
ある。それは川口社会の成員のすべてによって課題とされるものを把えることでなくてはならぬ。
そこでこれらの課題を社会科の教育内容選択に必要な限りに於て一応把捉してもらう為、教材構成
委員会は問題を提出したのである。各種の生活活動から選択するための規準としてこれだけのもの
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がなくてはならぬという要求を提出して、これを目的設定委員会(仮称)の審議検討に委ねたので
ある。この委員会は一般市民の代表者としての意味をもつもので、各界各層の代表的人物を研究会
が推薦して構成した。この方式には種々な意見もあり得ると思われるが、川口の現状としては、妥
当な方式であったものの如くである。
この委員会は極めて真剣な態度で川口社会の課題を討議し、常に満場一致してその結論を出して
来た。その第一次の検討事項は前述の如くして教材構成委員会によって提出された所の次の如き諸
問題である。
一、川口市に於ける産業構成はどうあるのが最も妥当であるか。
これらの産業に於ては如何なる企業形態がとられるべきか。
二、交通通信に関して如何なる改善が行われなければならぬか。
三、衣食住の問題を川口は今後如何なる方針で解決して行くべきか。
四、川口の健康問題に関して解決を要すべき重点如何。
五、教養娯楽施設について今後如何なる方針をとるべきか。
六、政治について如何なる点を改善すべきか。
七、家庭生活に於て改善を要すべき点如何。
八、その他。
これらの問題を目的設定委員会が検討したのである。
目的設定委員会によって検討された川口社会の課題は次の如き結論として表現された。多少等し
い趣があるが、この委員会が何をなしたかという性格を明らかにする上にも、又これに基いて社会
科の内容構成がなされた点からも極めて重要であるので結論の全文を掲げることにする。
目的委員会による結論
一般的目的
川口市を文化的工業都市として建設する。
〔生 産〕
1、鋳物工業は川口市の重要産業である。国家的及び世界的に好立地条件を具えている。
いろいろな種類の鋳物工業(日用品等のざっぱく鋳物、機械類の精密鋳物)が必要である。
鋳物工業は需要の変化に応じて製品に変化を与える必要がある。
中小企業の形態がとられている。
協同組合的経営が望まれている。
技術の改良が望まれている。
原料獲得の考慮がなされねばならぬ。
(世界的)
販路について考慮がなされねばならぬ。
(国家的、世界的)
鋳物の附属工業として重要な工業がある。
(木型、バフ等)
2、機械工業は鋳物の関係工業として重要である。軽工業用諸機械の製造が考えられている。
中小企業の形態がとられている。協同組合的経営が望まれている。
技術の改良が望まれている。
3‌、鋳物工業は北部地帯に於ける重要産業である。輸出品を製造する中小企業の形態がとられてい
る。
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協同組合的経営が望まれている。
好立地条件(労働力、食糧自給)を具えている。
4、農業は蔬菜農業を中心とする。農産加工に力を入れる。協同組合経営が必要である。
5、鍛冶屋は農家の副業として需要である。
6、釣竿製造は輸出産業として存続し、立地条件に恵まれている。
7、食品工業は立地条件(東京の衛星都市、自然的条件)から見て有望である。
8‌、一般に生産を発展せしめるには都市計画が完備していなくてはならぬ(運河の完備、下水等)。
重要産業は相互の連けいを計らねばならぬ。
〔消 費〕
1‌、衣料、原料は外国に依存せねばならぬ。それは土地で加工され、加工されたものは商業者の手
によって供給されるという方式をとらざるを得ない。
保存修理、廃品利用を大いに考慮せねばならぬ。合理的な衣服(様式、使用法)を考慮せねばな
らぬ。
2、食料、川口市で主食の自給は困難である。
主食は他の土地から仰がねばならぬ。米以外の主食を考えねばならぬ。副食を主食の補いとして
重視せねばならぬ。野菜―自給。魚、肉―移入。主食、副食は商業者の手によって供給されるべ
きである。
3‌、住居、住宅の供給は公営による。集団住宅地区を設ける。住宅は著しく不足している。住生活
の最低限度が確保されねばならぬ。
4、生活の合理化、科学化が考慮されねばならぬ。
〔健 康〕
伝染病予防のために上、下水道が完備されねばならぬ。
住宅の衛生が考えられねばならぬ。
不良住宅の多いことが問題である。
作業の環境及び条件を快適ならしめるため工場衛生が考えられねばならぬ。
市街の衛生が考慮される必要がある。
(道路、緑地帯、住宅街と工場街、塵埃焼却場)
予防のための施設が強化されねばならぬ。
結核、花柳病、伝染病の予防。
衛生思想の普及がはかられねばならぬ。
生産者のための公営の施設として医療施設が拡充されねばならぬ。
農村に於いて保健施設の不足である。
生産者のための手軽な体育施設が必要である。
〔娯楽〕
生産者自らの娯楽活動を指導しなければならぬ。
企業体の中には生産者のための娯楽施設が設けられねばならぬ。
娯楽は生産への糧となるものでなくてはならぬ。
娯楽施設は手軽に利用出来るものでなくてはならぬ。
農村に於ては年中行事の健全娯楽的意味が重視されねばならぬ。
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〔教 養〕
生産者のための教養施設が必要である。
企業体の中に教養施設が設けられねばならぬ。
教養施設は手軽な形のものでなくてはならぬ。
青年運動的な組織を通じて教養が獲得されねばならぬ。
〔政 治〕
市の行政部面について必要な知識をもたねばならぬ。
会議制による政治の運営について洗練されねばならぬ。
選挙の意義についての意義を高めねばならぬ。
各政党は夫々独自の意義で市の政治に貢献せねばならぬ。
〔家 庭〕
冠婚葬祭の合理化を共同の力によって計らねばならぬ。
家庭は社会の生活単位として基礎的なものである。
家庭は家庭内のすべての人にとって団欒の場所でなければならぬ。
主婦の負担は軽減されなくてはならぬ。
〔交 通〕
生産の発展といふ見地から交通の改善が計られねばならぬ。
重量物の運搬のため道路は強靱でなければならぬ。
生産の発展のため河川の利用が考えられねばならぬ。
市街地と農村地帯とをつなぐ交通路が完備されねばならぬ。
〔通 信〕
生産の発展のため通信網が完備されねばならぬ。
〔保 全〕
社会保全のため諸施設について市民の関心が高められねばならぬ。
保育所等を設けて幼児児童の保護が計られねばならぬ。(道路の危険防止)
かくの如き川口社会がもつ課題によって、社会科の教育内容編成の見地が与えられた。教材構成
委員会は調査に基いて把握された。川口社会の構成要素の教育的意義をこの課題によって明確にし
得たのである。即ち教育内容として選択すべきものは如何なるものであるかの判別をなし得たので
ある。かくて川口社会の課題をとく所の意義をもった社会科の教育内容が構成された。これが川口
市社会科学習題材表である。
以上の如くして社会科教育計画は樹立された。その実際の学習に於て然らば如何なる形をとって
いるか。ここに於ても亦教職者と一般市民との民主的な協力が見られるのであって、そこにも亦小
さな地域計画の姿が見られるのである。
各学校は、川口市の社会計画を基礎として各校独自の地域計画を樹てる。この場合には学区の
夫々の事情が考慮されて学区の特殊事情にかなった計画を編成する。
さて各学校は夫々学校の父兄と教師を第一会員、学区の区民を第二会員とする教師と父兄と区民
の会をもっている。この会は幾つかの委員会をもっているが、社会科教育の委員会をももって居
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り、各学校の社会科学習に対して様々な援助をするようになっている。例えば学習に当って必要な
現場の見学について適切な指示を与えたり、見学場所についての予めの相談をしたり、打合せをし
たりする。或は又学習の資料のあり場所を指示したり、それを準備したりする。更に学校の目的と
する学習をよりよく生かすためには如何なる方法がとらるべきかについて教師に注意を与えること
もある。
教師は生徒の学習の状況をこの委員会に常に報告し、又実地に学習の状況を見てもらう。かくの
如き方法によって学校と父兄区民との連絡は極めて円滑に行っているものの如くである。
以上川口の社会科計画を例として教育の地域の計画のあり方を見て来たのであるが、これらに
よって我々は次の事を教えられるであろう。
(一)教育の地域計画は単に教師のみによって樹立さるべきものでなく、地域民との合作に於ては
じめて真に地域に即した計画が樹立され得るものであること。
(二)地域計画に当っては目的を明確にした実態調査が而も精確に行われねばならぬこと。
(三)教職者と一般住民との協力はあくまで相互の自立的な協力でなければならぬこと、即ち各々
が受けもつ分担の領域を明確に規定して置くこと。
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新しい教育と社会科
出典:中央教育研究所編『社会科概論』金子書房、1-18 頁(第一章)、1947 年 12 月
第一章 新しい教育と社会科
第一節 新しい教育の目標
社会科を如何なる教科として建設するかは現在教職者の眼前に置かれた大きな課題である。この
課題を解き得るためには社会科が如何なる意義を担って新しく我々の教育の中に登場してきたかを
明らかにしておかなくてはならない。然るに社会科は我々が当面している教育体制革新の課題の一
翼として出現した教科であるから、社会科成立の根拠を見るためには、まず現在我々の教育が当面
している課題を明らかにしておくべきである。
現在我々は教育をその制度、内容、方法の全面にわたって新しく組みかえようとしている。即ち
所謂六・三・三制の新しい学校系統が定められ着々その実施準備が進められつつある。更にそれら
の学校体系の中にあってなさるべき教育の内容、方法についても新な教科課程と指導要領が定めら
れ、教科書も新しく改編されて徐々に教育の変貌が行われつつある。併し教育改造の問題はこれで
終わったのではない。否むしろ問題は今後に残されているのであって、特に教育の内容、方法に関
しては今後容易ならざる努力を必要とするのである。それは過去の永い伝統を背負っているので
あって、今一朝にして新な内容方法に切り替えることは不可能のことに属するのである。我々は現
在実現されている段階が今後の発展の方向に於て如何なる位置にあるかを見極めて、今から以後に
於て解決すべき課題を明らかにしておかなくてはならないのである。然らば我々は現在新な学校体
系の中で如何なる教育を行おうとしているのであろうか。それは抑々我々の生活の建設において如
何なる意識をもっているのであろうか。
所謂教育の民主化も単に学校系統を改めたのみでは何等具体化されないのであって、要は教育の
実体が如何なる形をとるかということにかかっているのである。即ち教育の内容方法の問題であ
る。我々の今後建設すべき教育も単に制度的な框組にとどまらずして、その内容方法に於て優れた
姿態をとらしむべく努力されねばならないのである。教育の内容方法を如何なるものとするか、言
いかえれば如何なる教科を以て人間を教育すべきか、ということはその育て上げようとする人間が
如何なる人間であるべきかということにかかっている。即ち目標として如何なる人間像が描かれて
いるかということにかかっているのである。社会科が新な教科として登場し、教育内容方法に於け
る新なあり方を要請しているとすれば、それば根底には当然新な人間像をもっている筈である。
従って社会科を如何に建設するかを考えるためには、まず現在の教育に於て如何なる人間像を描い
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ているか、言いかえれば新しい教育の目標がどこにあるかを明らかにしておかなくてはならぬので
ある。
人間を教育することの意義は我々の生活の現実に於ける生きた課題の中に存在しているのであ
る。勿論教育の目的理想として人格の完成とか円満な発達とかが考えられるのであるが、これを具
体化するにはもっと現実的なものが考えられているのである。即ち現実の歴史的社会の生活者とし
てその社会の当面している具体的課題を解決し得る如き諸性格が理想的な人間像の中に描かれるの
である。社会は課題としている生活建設の方向に適った人間を求めそれが育成されることを要請す
るのである。教育に於て描かれる人間像はかかる社会の課題を地盤として存在し得るのである。
従って教育が如何なる姿態をとるかは結局に於て社会の生活建設の方向とその課題が決定するとい
い得るのである。
従って我々の建設しようとする世界が如何なる世界であるかを明らかにして、そこに働く人間の
姿が描かれるならば、その人間教養の具体的な形態も亦明かになし得るであろう。即ち我々が現在
当面している現実生活の課題の中に、その課題を解決して行くべき人間の姿を描くのである。現在
に於てはその新な人間像が我々の教育の中に目標としておかれてきているが故に教育全体に改造の
課題を投げかけているのである。
従来我々がつくりあげて来た教育は知識教育の形態をとっていた。それを我々は教科書教育の形
に於て見ることが出来る。教育内容の主なるものはすべて教科書に書かれてある。それは出来上っ
た知識を集めたものであって、教育とはこれを生徒に覚えこませることであるかの如く考えられて
いた。この事から我々は是れまでの教育を知識人を育成する教育と呼ぶことが出来よう。知識人と
しての人間像を目標に描いた教育は、社会の課題が知識的探求にあった事と相応ずるのである。明
治以来の我々の建設して来た生活は知識的探求を中心として構造づけられているのであって、教育
も亦その課題に於て成立していたのである。
然るに今や我々は新な世界を建設すべき時に直面している。その端的な事実を現在の世界の事情
に於て捉えることが出来る。現在の世界はあらゆる面で新な建設を要望されている。世界は今や新
な構造を与えられなくてはならぬ時に立ち至っている。この事は特に我が国の現在の生活の実相を
直視するとき明らかであろう。我々は今過去の成果を伝承追従する如き時代の中にはないのであっ
て、全然新な条件の下に新な生活を建設しなくてはならぬのである。この新な生活建設の課題が新
な人間のあり方を必然的に要請するのである。教育によって育てらるべき人間もこの新な人間のあ
り方に於いて考えられなくてはならぬのである。然らざれば教育は真の意義を発揮したものとはな
らないであろう。即ち我々の社会の発展へ向って教育が働くことにならないであろう。
現在の世界の課題は人間を新な生活の建設者として規定している。今後の人間は新しい世界の建
設者としてのあり方を要請されているのである。建設に於て働く人間は如何なる性格をもっている
べきであろうか。それを建設生活の実相が如何なるものであるかを見極めることによって明らかに
しなくてはならぬ。
建設者の生活活動に於て中心となるべきものは実践である。建設は何よりもまず実践的な課題で
ある。建設途上に於ては様々な障碍となるものを破砕し、あらゆる困難を突破し理想を実現化し具
体化することに於て、すべて身を挺した実践的行動が要請されるのである。新しい世界の建設はか
くの如き実践によってのみ可能となるのである。建設のために働く人間はかくの如き実践的性格を
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もてるものでなくてはならない。
建設に働く実践者に必要なものは豊かな知力であり技能である。建設は決して単に働くというこ
とのみでは成り立ち得ない。新な世界構造の建設ということは、決して白紙に地図を描く如く単純
なものではあり得ない。それは我々の歴史的社会が堆積した総合的な文化内容の上に成り立つもの
である。それらを如何に位置づけ構造づけるかが、建設の課題であり実践的行動の内容をなすので
ある。かくの如き実践は単なる実践ではなく豊かな知力によって裏づけられていなくてはならぬ。
合理性に導かれない実践は建設には関りないというべきである。
実践に働く知力は単に過去に集積された抽象的知識をそれとして所有することによって成り立つ
のではない。実践の場面に於て働く知識は現場の課題に当面して現場で合理性を働かし複雑な現実
を整理秩序づけ、これを処理する方途を発見し得るが如き知力としての知識でなくてはならぬ。そ
れは働く知恵でなくてはならぬ。かくの如き生きた実践的知恵としての働く知識を豊かに所有する
ことは建設に働く実践者にとっては何よりも必要なことである。
実践者は同時に亦すぐれた技能をもつものでなくてはならぬ。技能とは知識を地盤としてこれを
実現にまでもたらすことの出来る世界構成の科学的手段である。かかる現実構成の技能によって実
践者は課題を解決してこれを現実化し具体化し得るのである。建設とは理想を現実にもたらす歩み
であり、現実化するためにはこれを表現する科学的手段を必要とするのである。現実構成の科学的
方法が多面的に採用されてはじめて豊かな現実が構成されるのである。技能の貧困なものは建設へ
の実践者としての資格を欠くといわなくてはならぬ。
かくの如き豊かな知識技能をあらゆる生活の具体の場面に於て常に生き生きと働かし新な生活を
推進して行くことが出来るのが実践的性格をもてる人間である。かくの如き性格をもてる人間はそ
の生活態度に於てすぐれて実践的行動的でなくてはならぬ。如何なる生活者であってもその生活場
面に於てその生活内容を建設の課題に於て捉える如き積極的態度がなくてはならぬ。自己の生活場
面にあるものを単に伝承されたままのものとして受容する如き態度ではこれを新に建設し直すこと
は不可能である。与えられた生活を無条件に肯定する如き態度では生活を発展の契機に於てつかむ
ことは不可能であり、そこに積極的発展的建設はあり得ないのである。実践的性格をもてるものは
自己の生活場面に於ける様々な問題を常に発展的課題として捉え、かかる態度を根底としてそこに
知力を働かし、技能を駆使して現実を建設するのである。実践的態度は実践者としてあり方を根底
から培う所の地盤ともいうべきものである。
今後の教育が育成すべき人間を現実の生活課題から我々はかくの如き実践者として捉えるのであ
る。現在我々がもっている教育の課題はかくの如き実践者を如何にして育成すべきかということで
ある。教育の内容も方法もすべてこの課題に於いて組み直されようとしているのである。現実に与
えられた我々の生活を常に実践的課題に於てとらえ、その豊かな知性に依ってこれを合理的に考察
し、これを発展的に処理し理想を発見し現実化し新な世界を構成する如き人間が育成されて、新な
民主的日本の建設も可能となるのである。民主的文化国家の建設は単に理論の問題でなくしてあく
まで実践的な課題なのである。かかる我々の生活課題がこの実践者的性格の人間育成を教育に課し
ているのである。ここから如何なる教科を以てかかる人間を育成するかが本質的に考えられて来る
のである。社会科が成立した根基にはかかる教育の課題があるのであって、この課題の中に置いて
みて社会科の正しいあり方がみえて来るのである。
29
第二節 新しい教育の地盤
あらゆる生活者にとって共通の抽象的な知識を与える教育は是迄国定教科書制度によって推進さ
れて来た。国定教科書は全国一様に教育すべき内容と方法を規定していたのであって、それによっ
て全国至る所の土地に於て略同一規格の教育が成立していたのである。勿論夫々の土地に於て夫々
の生活者に適するようにこれを生活化し郷土化するという試みがなかったわけではない。否むしろ
熱心にそういう努力が行われたというべきであろう。併し今や国定教科書の生活化という如きこと
によってはもはや解決し得ない問題に当面しているのである。即ち実践者を育成する教育はかくの
如きことによって成り立たないというべきであろう。
国定教科書によって推進されて来た教育が画一的で現実の生活に即し得ないことはかなり早くか
ら反省されていたのである。それは抽象的な知識教育であって、具体的な生活に適応しない所から
教育を実際に役立たせるために教科書の内容を現実の事情に如何にして合わせるかが大きな課題で
あったのである。そこに様々な方途が考えられたが、それらの中生活教育の動きは最も著るしいも
のであったということが出来よう。それも併し、結局に於て国定教科書の框の中で行われたもので
あって、児童生徒の生活内容としてあるものを如何に教科書教育に利用するかという方法上の問題
として展開されたにとどまるのである。それは教育さるべき事は普遍的な抽象的知識として教科書
のなかに盛られているべきであり、その一定量を如何にして生徒に授けるかということが教育の問
題であるという伝統的な考え方を一歩もぬけなかったのである。併し実践者育成のために必要な教
育内容はかかる抽象的な一般的知識ではないのである。
従来の教育内容観の根底にあった人間像は知識人としての類型に於て描かれていたのである。知
識人と雖も勿論その知識を実際生活に於て働かすのである。従って知識の応用は最も必要なことで
ある。否現実には応用そのことが生活内容なのである。而もその生活のあり方が応用として捉えら
れ、教育が与えるものはそれらの基本となる所の抽象的一般的な知識でなくてはならぬと考えられ
たのである。教育に於て与えられるものは実践から分離してそれ自体の独自な構造体系をもつ知識
でなくてはならぬとされたのである。ここに従来の教育の地盤がかかる抽象的知識を盛りこんだ教
科書にあった所以があるのであって、そこから全国一律の教育も成立したのである。
実践者のもつ所の実践的知識、技能、態度は実践から切りはなされて抽象的に出来上ったものと
してあることは出来ないのである。それは実践的場面に於てみがかれるものである。常に実践を目
ざしてそれへの連関に於てみがかれることによって身についたものとなるのである。かくの如き実
践的性格を育成する教育内容は従来の如き形で教科書の中に盛りこむことは出来ないのである。現
実の生きた場面で生きた課題に向って集中された所の実践的教育によってのみ養われるものなので
ある。即ち実践者育成の地盤は現実にあるといわなくてはならぬのである。それは全国一般の教科
書教育から脱却した所にあるのである。
実践者の教育内容も方法も現実の場面から現実の課題に集中してとらるべきものである。教育内
容と方法がかくの如く課題を中心として現実の中から構成されて来ることが真に実践者育成への教
育を構造づけるのである。然らばかくの如き教育の地盤としての生活現実とは一体如何なる構造を
もてるものであろうか。
実践的に課題解決の生活が行われる現実は一定の地域的職能的現実といわなくてはならぬ。人間
は一定の地域に住み、一定の職能をもって社会を構成している。社会のもつ課題はかかる具体的な
30
現実の中で解決への努力が講ぜられねばならぬ。国家的、世界的な規模に於て成立した課題であっ
ても実践的具体的にはかかる地域的職能的現実の中に於て解決への努力が講ぜられているのであ
る。この意味で最も具体的な生活現実とはかかる地域的職能的現実といわなくてはならぬのであ
る。
併しかく言えばとて、実践者の生活が地域的職能的現実に於てのみ成り立つというのではない。
我々の生活のもつ課題は単に地域社会、職能社会に於てのみ成り立つのでなく、むしろ広く国家的
世界的地盤に於て成立して来るのである。その課題を真に我々の生活課題として把握するためには
その広い国家的世界的地盤に足場を置かなくてはならぬのである。その課題を真に成立している根
底から把捉するためには、広い国家的世界的地盤に立たなくてはならぬのである。否国家性世界性
を豊かに把捉し得てはじめて真にその課題の解決への正しい方向も発見されて来るのである。而も
その具体的実践に於ては最も現実的な地域的、職能的生活の場面がなくてはならぬのである。そこ
に於ける実践的努力のみが真の建設として課題解決に向って一歩を進めて行くのである。
新しい教育の地盤はかくの如き意味で地域的職能的現実である。あらゆる実践者の生活はそこに
於て営まれているのであって、これを育成する地盤もかかる現実でなくてはならぬ。実践者は実践
を通してより高次の実践へとその力を拡充するのであって、生活自体が教育するのである。真に生
活力をもった実践者は一朝にして育てられるべきものでなく、たえざる実践を通してこれに必要な
教養と性格を身につけるのである。即ち実践者の育成は常に現実に入り込み、課題に面してこれを
解決する道を通じて次第にその現実に対するすぐれた実践力を獲得するのである。
教育の内容方法の地盤が、かくして地域的職能的現実にあるとするならば、教育内容方法を現実
を地盤として編成する手続は如何なる段階を経なければならぬであろうか。学校の教育は現実をそ
のまま使用するが如き教育方式はとり得ないのである。近代的教科構造はその為に実践から分離し
て抽象的知識の世界に於て教科を成立せしめたのである。即ち実践からはなれて、これと一定の距
離をもって現実を眺めるということによって内容方法を組み立てたのである。新な実践者の教育方
式に於いては内容方法の編成方式を如何なるものとすべきであろうか。実践者の育成に於ては現実
を地盤とし実践に即して内容方法の編成をするというけれどもそれは如何にして可能であるか。
第三節 新しい教科構造
従来の教科構造は近代的学校体制の中に於て知識を教授するための方式として成立して来たもの
である。それは近世以来発達してきた知識の分野に応じた様々な教科を以て構成されている。学校
が様々な教科を次第に採用して遂に現在の如き教科構造をもつに至った事を我々は近代学校の発達
史の中にみることが出来る。近世初期の学校は読書算の学校であったが、その中から次第に現在の
如き教科を分化発展せしめた。それらの教科は夫々独自の知識体系に基いて成立したものであっ
て、学校に於いて授けられる教育内容はこの知識構造に従って初歩的段階から漸次高度の段階へ系
統的に組織されたのである。学校の教育はそれらの知識の一定量を与えることが任務であると考え
られ、ここに多くの教科が夫々の立場から教育内容の体系と分量に就て要求を提起したのである。
これら様々の教科の並列的状態から、ともすれば教育内容の統一が破れて分裂になやまなくてはな
らなかったのである。
かくの如き傾向に対しては様々な調整方策が考慮され又実地に試みられて来ている。それを我々
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は統合教育乃至総合教育の歴史の中に見ることが出来よう。併しながらこの教科統合のあらゆる試
みも結局は各教科のもつ知識体系が尊重され、その体系を破ることが拒否される限り、一定の限界
に逢着しなければならなかったのである。教科統合は結局夫々独立せる諸教科の相互の連関を如何
にして緊密ならしむるかということ以上には出なかったのである。併しかかる教科構造を以てして
は今や新な教育内容編成の問題を解決し得なくなって来ているのである。
実践的行動は様々な知識を個々ばらばらに所有する如きことでは強力に遂行され得ないのであ
る。実践者の活動はその知識、技能、態度がすべて具体的な実践的課題に集中されていることに
よって、はじめて強力なものとなるのである。そのためには教育内容はすべて実践へ向って統一さ
れていなくてはならないのである。すべての教科が実践に向って意義づけられ、実践的課題を中心
として統合される如く構成されて、はじめて実践者の生活力を教養するにふさわしい教科構造とな
り得るのである。
実践者育成のための教科構造を組織しようとするならば、まず教科が知識体系として独自の構造
をもつものなりとする考え方から脱却しなくてはならない。実践者を育成する教育内容となるもの
は生活の現場に於ける実践的課題とその課題を生起せしめている生活の現実である。教育内容はま
づここにさぐられねばならない。生活現実は如何なる課題をもっているかがさぐられて、それが如
何なる実践行動により解決せしめらるべきであるか、それは如何なる知識、技能、態度を以て解決
の方向へ近づき得るかが明かにさるべきである。かくの如き現実の課題とそれを解決するに必要な
実践的内容とがさぐられて、そこに実践者の教育内容が成立するのである。教育内容とはかかる実
践的課題を解決するために与えられるべきものであって、生活の課題解決への要請に於て成立する
のが真の教育内容というべきである。
然らばかくの如き実践者育成への教育内容は如何なる教科構造をもつべきであろうが、我々はこ
れを生活、内容、用具の三つの類型的階層に於て考察することが出来るのである。
新しい教科構造観は実践者形成の方式に於て成立するのである。実践的性格は何よりもまず実践
的生活そのものに於て形成される。実践的性格は知識も技能も態度も総合された具体の活動に於て
形成されるのであって、かかる具体の活動は現実の生活自体である。かかる具体の生活自体の中で
知識技能態度を統一的に働かすことによりはじめて実践者としての統一された風格を備えるに至る
のである。就中実践的態度は知識技能を働かす地盤として実践的性格の中核をなすものであるが、
かかる態度は習慣化された行動形式に外ならず従って不断の生活活動を通じてのみ形成されるとい
うべきである。かかる態度を基盤として知識技能も実践的に具体の場面で働くのである。そこに全
体的な性格も養われるのである。かくの如く生活によって実践者が育成されるとするならば、かか
る生活の層に実践者育成の教科がまず設定さるべきである。併しながら勿論学校は現実自体ではな
いのであって、生徒は現実の生活を基盤としつつ、学校という特殊の境涯に於て教育されるのであ
る。それは彼等のおかれてある立場から来るのである。従って学校に於ける教育内容の中生活の層
にあるべきものは現実の生活につながりつつこの生徒の立場を考慮してその活動内容が定められな
ければならないのである。あくまで現実につながり且生徒の最も具体的な活動力を磨く如きもので
ある。かくして生活の教科は実践者育成のための中核教科としての意味をもつであろう。生徒はこ
の中核教科を通して単純な生活から漸次複雑多岐な現実の活動へ入り込み生活の現場に於ける実践
者としての性格を身につけるのである。
32
生活に於て行われる学習活動がすぐれたものとなるためにはその要素となっている知識技能の高
度なものが身についていなくてはならぬ。生活に於ける活動はすべてのものが統一されて具体の姿
をとっているけれどもそれが成立つためには現実を合理的に解釈し、その意義を分析し、そこから
活動の方向を決定するような知識的働きと、理念を適切な形で具体化することの出来る技能をもっ
ていなくてはならぬ。これらの働きがすぐれたものであってそれだけ実践の内容が豊かになり得る
のである。かくて実践の内容となっているものは実践に即しつつも、一度それから分離して特別な
形で修練されることにより、それ自らの充実をはかり得るのである。ここにそれら内容の教科とし
て知識と技能を抽出した教科が成立する所以である。
内容の層に於ける教科で知識的なものは自然と社会とに分けられる。自然と社会は知識的働きの
あり方として全然別個な類型に属している。それはいわば方向の異った知識的働きである。この両
者によって知識的活動は成り立つ。併しこの内容の層に於ける知識は従来の如き出来上った知識で
はない。実践に結びついたものとして現実の合理的な認識の過程に働くむしろ知力であり実践的知
恵である。従って従来の如く単なる知識教科ではなく知識活動を中心としてそれに技能的なものも
態度もその活動の中に構造的に包含する教科として考えなければならない。かかる学習によって生
徒は知識乃至は知的はたらきを高度に身につけ得るのである。生徒が自らの学習によって学びとる
のが実践的知識獲得の本体であって、そのためには決して単に知識を授容するという従来の如き形
の学習ではあり得ない。それは知識を自ら構成する学習である。かくの如き点から知識というも従
来の教科とは構造的に異った教科である。技能も知識と共に実践の内容を形づくる大きな要素であ
る。従来の教科構成に於て技能は極めて不遇な取扱いを受けていたのであるが、実践者の活動に於
てはその教科の占める地位は極めて大きいのである。それは知識を地盤として、創造的な現実構成
をする働きとして実践者にかくべからざるものである。それは単なる技術でなく、技術を中心とし
て知識を構成要素としてもつ所の統合的な学習内容である。かくの如き内容は知識とは全然異った
生活内容の類型に属するのであって、そこに分離されて学習されなければならぬ理由がある。
内容が真に豊かに身につくようになるためには更にその基礎となるものが培かわれねばならな
い。内容は様々な要素の統一に於て成立しているのである。これらの要素の夫々が高い程度にあっ
て内容は更に高い統一を得て来るのである。自然や社会の知識或は技能の基礎に我々はこの内容を
成立せしめるものを見ることが出来る。即ち数、量、形体観念、或は言語、文字、更に身体的技巧
等をみるのである。これらを高く所有すればする程、内容はそれを使用して更に高度に発展するの
である。この意味でこれらを分離せしめて、基礎として訓練する教科が成り立つべきである。これ
を我々は用具の層に於ける教科とするのである。
従来は一つの教科に於てこの三つの層に於ける役割を悉く果さしめようとしたのである。それは
これらの三層に於て教科を構造的に考えるという考え方がなかったからである。この三つの層を相
互に連関させながら而も夫々独自のものとして成立せしめ、そこに夫々の意義を発揮する学習を展
開しようとする所に新しい教科構造の特色がある。特に現実の課題に向って意義づけられている所
に構造的な所以があるといえよう。
新しい教科構造を考察して生活、内容、用具の三層に於て教科構造が組み立てられ、そこに様々
な教科が成立することをみたのである。社会科はかかる教科構造に於て成立したものである。然ら
ば社会科は如何なる性格をもつものであるか。
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第四節 社会科の性格
社会科を単に従来の地理・歴史・修身・公民等の総合的教科とのみ考えるのは、社会科成立の根
拠を見失っているのである。既に述べた如く地理・歴史・修身・公民等は知識教授のための教科で
あって、出来上った知識を教科書に盛り込んで教育したのである。学習は教科書のもつ系統に従っ
て行われ、生徒の活動は教科書の筋書によって運ばれて行くのである。そこには出来上った知識を
体系に従って覚え込む以外の学習活動は行われなかった。そこに獲得せられるものは整然とした秩
序づけられた知識である。働かざる知識である。これを働かせようとすれば改めて別個な修練を必
要とするのである。かかる教科と実践者育成のために成立した社会科とは根本の立場を異にすると
いわなくてはならない。
体系的な知識の框を外してこれを別個な問題の下に総合的に取扱うのが社会科であると考えられ
ている。例えば従来各国別に行い或は歴史として行った農業に関する学習を新しく農業を中心にし
て各国の状況やその歴史をまとめて考察するというが如き考え方である。併しこれは何等新な教科
としての意味を発揮していないのであって、依然として知識教授を一歩も出ていない。生徒の学習
の過程を具体的にみるならば結局何等従来とかわりのない系統的知識を順序を多少変更して授けて
行くというやり方である。全体としてのまとめ方が一見異っているが如くであるけれども何等新な
構造をもった学習内容の形を提出しているわけではない
新な教科としての社会科では課題の解決へすべての学習内容が構造づけられていなくてはならな
いのである。かかる構造をもった学習活動が行われる点で社会科は従来の如き知識教授ではないの
である。あらゆる知識を総合する中核は現実のもつ課題なのである。解決を迫られている課題であ
る。例えば先に述べた例でいえば単に農業がどうなっているかをいうことではなく、現実の生活場
面に於ける農業のもっている技術改良の、生産増加の方法に関する問題である。技術改良が如何に
なさるべきかの課題に於て世界の農業技術の問題もその歴史もみられるのである。しかも更に細か
く云えばその土地の技術改良の問題に関連してそれへの貢献をなす限りに於て世界の農業技術の改
良の問題がみられ歴史がさぐられるのである。かかる見方に於て総合的なのである。併しそれは平
面的な従来あった教科の統合ではないことに留意すべきである。学習が生活現実の中に位置づけら
れていること、課題的意義をもっていること、即ちこの知識は夫々の地域の現実に於て生徒自らの
学習によってのみ成立するものであることに於て全然新な教科である。特殊の現実の中にその現実
のもつ普遍の原理をさぐることであって、学習は夫々特殊の現実に於て成立するのである。どこに
も共通する普遍の原理を覚えこむ学習とは全然異っている。
かくの如く社会科はその教科としての性格が知識教授のためのそれと全然異っている。社会科は
知識教材を与える教科でなくして自ら働くことにより知識を構成する教科なのである。然らばかく
の如き社会科で取扱われる内容は如何なるものであるか。
現実に於て具体にある生活活動は決して社会でもなければ自然でもない。それはそれらが総合さ
れて一つのものになっているのである。それを我々は人間関係の面からと自然関係の面からと、二
つの面からみることが出来るのである。前者は社会性として捉えられ後者は自然性として捉えられ
るのである。生活現実は単に人間関係のみで成立しているのでなく同時に自然が入りこんで来てい
る。我々は自然環境に支配され又それを利用して生活を立てているが、それは一方には人間の相互
関係に於て成立している。人間は最初から間柄的存在であるがそれは自然を媒介としてのみ存在し
34
得る。我々の生活を展開させているのはこの両面の結合体である。この具体的な現実に於ける人間
の間柄的関係の面が抽象されて、それが如何に現実展開に役立っているかを見ようとするのが社会
科である。社会科は従って生活現実の全領域に於ける課題の社会性即ち人間関係の面をみようとす
るものである。後に述べる如く、社会のすべての生活領域、例えば生産・消費・交通通信・政治・
保全・健康等の諸々の人間活動の社会性をすべてみようとするのである、即ちこれらのものは如何
なる人間関係に於て展開されているかである。これらの生活現実の様々の領域は夫々自然的条件に
支配されその基礎の上に立っているのである。それが如何なる様相にあるかは自然学習に於て追求
するのであるが、その社会的条件、人間的基礎を追求するのは社会学習でなくてはならない。
生徒が生活現実の中に社会的基礎を追求してその原理を把握するためには現実にとびこまなくて
はならぬ。生徒の学習する場面は生活の現実場面である。その現場から生徒は社会性の実相をさぐ
り出して来るのである。単に生活の現実を平面的に眺めるのではない。社会性をさぐり出して来て
合理的に構成するのである。この意味で社会学習は社会研究でなくてはならない。真の意味で現実
の社会性に対する科学的研究でなくてはならない。
社会学習がかくの如きていのものであるならば、社会学習は社会研究の技術や心情を必然的に伴
わねばならない。そういうもののない学習活動は社会研究とはなり得ないのである。単に知識の受
容であるならば技術や心情を伴わないこともあり得よう。自ら働くことによって社会性の獲得にま
で到達するためには、社会認識の技術や態度をどうしても必要とする。かくて社会科は社会の実践
的理解に必要な知識技能心情を生徒に身につけさせる教科となるのである。
かかる実践的理解によって生徒は現実の社会性の何たるかを把握し、様々な生活現実に於ける人
間関係の実践的あり方を理解するであろう。それがやがて現実生活の様々な場面に於ける実践的態
度を養う地盤となり、実践的性格育成の要素をなすのである。
以上本章に於ては新しい教育のあり方から考察して、教育内容の編成に於て社会の占むる地位を
考え、そこから社会科の性格を解明しようとしたのである。社会科が従来の教科概念に従って考え
られないものであることはここに明らかとなったのである。この教科を真の意義に於て建設するこ
とが我々の生活建設へ直接つながるものであることもその成立の根拠からして明らかである。かく
て教職者が社会科に対する態度は極めて真剣なものを要するのである。それは単に目先のかわった
教科が与えられたのではなくして、教職者が畢生の努力をささげて以て自らの教育の現場で建設す
る課題として置かれているのである。教職者の任務はまさに重大である。教科内容の構成や学習指
導についての如何なる研究と実践が必要であろうか、次章以下に於て論ずる所である。
35
社会科に於ける学習活動の構成
出典:‌中央教育研究所・川口市社会科委員会共編『社会科の構成と学習』金子書房、
‌
54 〜 63 頁(第四章)
、1947 年 12 月
第四章 社会科に於ける学習活動の構成
一 社会科学習の性格
地理や歴史や公民等いわゆる暗記ものといわれる教科を教科書によって教える場合教師はいわば
教師用書の拡声器の様な役割を果して居ればよかったのである。こういう学習では生徒も自発的な
学習をすることは勿論むずかしいけれども、そもそも教師が自律性をもってはいないのであって、
その意味では教師も生徒も受動的な人形的存在であった。そこでは教科書が魔物の如く、独裁者の
如く絶対の権威をもっていて、教師も生徒も自己の意志を喪失して教科書にこれ従ったのである。
従来の教育においては教科書学習が万能であって、如何なる教科の教育もそこに本筋が置かれて
いた。教科書は使われるものではなく、教育を支配するものであった。社会科があらわれて、教科
書にたよらない学習が行われようとしているが、従来の教科書学習になれて来た教師は甚だしい当
惑を感じている現状のようである。文部省からは学習指導要領が出たけれども、それとて、学習の
現場に於て用いられる教科書の役割を果すものではない。一般的に学習のプログラムのたて方を指
示したに止まっている。教科書は従来単に教材であったにとどまらず、教授と学習の筋書を提供し
ていたのであって、教師も生徒も歩く道が指示されていたのである。教科書の筋に従ってだまって
歩いてゆけば何処へ行くのかわからないけれども、兎もかくどこかへ連れて行ってくれたのであ
る。そういうものがなくなったから教師は今後は生徒の先達として自分で歩く道をさがさねばなら
ず、その道を歩いてどこへ行くかも明かにしておかなくてはならない。どういう教材を使ってどう
いう学習をするかのプログラムを自分で立てなくてはならない。これは今迄の安易な教育に比して
教師にとっては大きな革命的な出来事と云わなくてはならないのである。
従来の教科書の内容に盛られていたものは出来上った知識が主なものであって、それも極く骨組
だけが順序よく知識それ自身のもつ体系に従って、分類記述されていたのである。学習に於て教師
の仕事はその骨組に肉をつけることである。骨組につけるべき肉となるべきものは教師用書にあげ
られている。生徒はそれを覚えこむことが学習の中心となっていた。出来上った知識を覚えこむと
いうことであるならばそれも大しておかしくないことかも知れない。誰にも認められている出来
上った知識を与えるということであるならば、自らそういう形となるかも知れない。併しかかる教
科書にかかれた知識を覚えこむ事が学習活動として教育的にどれだけ意義があるかということにな
ると問題は別である。
36
社会科を従来の地理、歴史、公民の総合であると単にそう考えるならば、従来の教科書を組みか
えた総合教科書が出て来てもよいと考えられるであろう。そういう教科書は依然として出来上った
知識が従来とは別個な体系で叙述されたものとなるであろう。そういう教科書と教師用書が出来れ
ば教師と生徒の学習の形は今迄と大してかわらないものとなるであろう。現在は種々な理由でそう
いう教科書が出来ないから臨時の措置として教科書なしでやって行くのだと考えられない事もない
のである。この様な考えが教師の間にあるとしたら社会科を健全なものに発展させる上に非常な障
害となるのである。社会科はそういう出来上った知識を与える教科書学習の形は本質的にとり得な
い教科である。
社会科は出来上った知識を与える教科として考えるべきでない。一体知識には出来上ったものを
意味する以外に働くものとしての意味がある。文化にはつくる働きとその働きによってつくられた
ものと二つの意味がある様に、知識にもつくられたものとしての知識と、つくる働きとしての知識
と二つの意味がある。従来の教科書ではつくられたものだけを問題として作る働きとしての知識に
ついてこれを如何に教育するかが考えられていない。本来人を育てる所の教育は作る働きとしての
知識を問題とすべきものであって、特に現在われわれが育てようとする人間像はこの働く知恵を
持った人間である。社会科が目標とするところは実にここにあるのであって、作る働きとしての知
識を通じて、その結果として知識も身につけさせ、それによって働く知恵をもった人間を育てよう
というのである。ここに社会科が地理、歴史、公民にかわって出現して来る理由があったのであ
る。かくて社会科の教科としての性格は従来の教科と根本的に異っている。
働きとしての知識を教育する学習は、唯出来上った知識にふれることのみでは成り立たないので
ある。自ら現実の場面に飛びこんでそこの具体的な、複合した姿をもつ生の材料にふれ、そこから
これを整理し秩序づけ以て自ら知識を構成しなくてはならないのである。かくの如き知識であっ
て、所謂実践的な知恵として真に我々の生活の内にあって働き得るのである。社会科がねらう社会
の理解とはかくの如き実践的理解である。社会科の学習活動の基本的特色はここにあるのである。
かくの如き実践的理解を問題とするが故に、技術とか態度とかも自ら伴って養われ得るのである。
従来の地歴公民等の知識教材に於いてはかくの如きことは不可能であった。
社会学習がかくの如き特色をもつことからそれが課題学習の形をとって来るのである。知識を自
ら構成する学習であるためには、先ず自らの問が発せられなくてはならない。自らの問を発する所
に自ら知識活動を構成しそこに知識が成立する。自らの問が発せられるのは自らの生活が打開を要
する局面に衝突するからである。生活の課題が問を発せしめるのである。働く知識は生活の課題に
その成立の根拠をもっている。
社会科の学習は根源に於てこの生活の問題に地盤をおいているのである。社会科の学習活動の性
格をかくの如き意味において把えることが、社会科学習活動の構成を有意義ならしむる第一の要件
であろう。
二 学習活動のねらい
社会科の学習活動は生活の課題にその根源をもつ課題学習の性格をもっている。生活の課題解決
のために社会認識が要請せられるのである。従って社会科の学習は常にこの究極の生活課題へつな
がっているものでなくてはならぬ。併し学習の課題は即生活の課題であることを要しない。又事実
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それは不可能であろうが、しかし学習の課題は生活課題の系列にあるものでなくてはならない。こ
の社会科の生活課題の基本的性格は徹底的に認識されていなくてはならない。
同時に学習課題は生徒の課題である。生徒の学習活動は遊びという活動もあろうし、又明確な目
的意識をもった認識活動である場合もあろうが、これら各種の段階の活動形態に於てもその底に
あって生徒の活動を導くものとして課題がなくてはならない。如何なる形態の活動にもせよ、その
活動によって結局生徒はその課題を解決していなくてはならない。
従って課題は様々な様態の学習活動をまとめる所の中心的な支柱となるものである。教師の指導
は常にこの課題へ向ってねらいを定めてなされなくてはならぬ、課題は学習活動によって構成され
るべき知識の目標であり、種々な学習活動を夫々の意義に於て成立せしめる基盤であり、種々な学
習活動に方向を与える羅針盤の如きものである。課題によってのみ学習活動が真に多彩になり得る
し、豊かになり得るのである。様々な活動が要求されるのはこの課題が解決されねばならぬからで
ある。単に教科書の学習であり得ないのはこの具体的な課題があるからである。そこに生徒は興味
をもって溌剌と学習するのである。
従って如何なる場合もこの課題へのねらいを教師は見失ってはならぬ。例をとっていうならば芸
術の創作に於ける作者の態度の如きである。憤怒の形相物凄い仁王の像のねらいは言うまでもなく
憤怒である。このねらいは顔のしわ一本にも、口のまげ方にも、手足の構え方にも生きて働いてい
なくては、完成された憤怒の仁王が我々の前に出現しないのである。作者は仁王の各部分を彫刻し
てゆくのであるが、彼の刻刻の創作活動がすべてこのねらいにむけられてゆく。やがて全体として
この像が出来上るのである。その間彼を導き、彼の活動を導いたのはこの憤怒へのねらいであった
のである。
学習活動が全体としてすぐれたものとなる為には勿論であるが、その分割された一部分例えば一
時間の単元更に小さく十分間の活動部分をすぐれたものとするのは実にこの課題へのねらいなので
ある。かかるねらいは仁王の顔のしわに相当する十分間の学習活動にも十分あらわれていなくては
ならないのである。この意味で課題へのねらいは学習活動構成の原理ということが出来よう。学習
活動の指導者である教師は創作家と同じ様に常にこのねらいによって学習活動を指導して行かなく
てはならない。そこにすぐれた学習が創造される。
社会科の学習活動は知識構成の活動であって、それは生徒の自発的な学習によって行われなくて
はならない。複雑な現実や、或は人為的に展開された場面例えば遊戯等から知識を構成すること
は、単に受動的な態度では不可能であって、その時には最も溌剌と生徒の知識探求の精神が働かな
くてはならぬ。それは興味とも云えよう。探求的意欲とも云えよう。ともかく生徒が自ら課題を発
見し解答を出すことである。この意味で生徒も亦自己の学習を意義あらしむるためには自身の課題
に於て活動するのである。その課題が明らかであればある程、生徒の知識活動は活発となるであろ
う。この点から課題は学習のすべてを成立せしめる基盤となるべきものである。
前にも述べた如く生活から、即ちその全面から課題は出て来るのである。社会は常に生きた課題
に於て動いている。人を育てることも亦この課題に於て成り立つのである。従って学習も亦その課
題に於て成り立つ。社会科学習のねらいはこの課題解決への社会理解ということでなくてはならな
い。そこに社会理解が真に生きて働く知恵となるのである。実践者育成のための社会学習の本来の
意義は実にかかる社会的課題へのねらいによって成り立つというべきである。
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課題が教師の指導のねらいであり、生徒の学習の根底であるとすれば、それは具体的には或る地
域の学校の或る学級に於て具体化されるものである。故に夫々の生徒にとって課題は何れも異らね
ばならぬものである。
この事は課題は様々な形をとって、或は様々な表現に於て、段階的に系列づけられる形に於て成
立し得るということである。従って具体的には夫々の生徒の生活を地盤とし、その興味の方向に於
て課題が成立するのである。而もそれはより大きい、或はより高いものからより小さい或はより低
いものに至る系列をもっている。教師はこの課題の系列を充分に自己のものとしていなくてはすべ
ての学習活動をそれへのねらいに於て指導することは出来ないであろう。
かく考えるとき普通よく行われている所の最初に教師と生徒が話し合って問題構成をするという
形が社会科学習の唯一の指導の方式ではないことが明らかであらう。社会科の課題学習という意味
は何も形としての課題解決的学習活動を意味しない。学習活動の根底に課題解決へのねらいが常に
動いて居ればよいのであって、それは様々な形式をとり得る。遊戯的な学習の根底にも課題は生き
ていなくてはならず、要するに生徒の実態に応じて様々なあり方をすべきものなのである。教師は
様々な学習形態に於て常にこのねらいを把握していて、適宜これを自覚せしめて、生徒が溌剌と解
決し得る如く指導して行くべきものである。課題へのねらいが明確であり、学習活動のすべてに浸
透していることが、学習を構造ある全体として成立せしめる原動力であることをはっきり認識しな
くてはならない。
三 学習活動の形態
学習活動が問題解決へのねらいに於て指導されるならば、それは如何なる形態をとろうとよいわ
けである。学習活動の方式に別に規格がある訳ではないのであって、方式は夫々の課題によって最
も適切なものが行われてよいわけである。
複雑な現実へ飛びこむことと、これを整理し秩序づけることとに学習活動が成り立つのである。
勿論この現実には様々なものがある。必ずしも生のものでなく教師によって作られたものである場
合もあろう。ともかく生徒が入りこむ現実の世界はあらゆるものがあってよい。現に生活が行われ
ている社会のあらゆる生活場面もあれば、書物の中に表現された現実もあれば、映画や絵や写真に
よって表現されたものもある。遊びとして作られた子供だけの生活場面もある。その中で生徒は自
ら活動して知識の材料をとって来るであろう。そこから自己の力によって知識を構成するのであ
る。見学とか会見とか、実習とかこれらは主に知識の材料となるものをとって来る活動として考え
られるのである。
知識を構成する活動も亦様々であろう。統計表をつくること、絵画表現、劇構成への過程等を通
じて整理秩序づける事もあろう。ノートによってまとめること、ディスカッション、教師との問
答、演説等によってまとめることもあろう。共同的な研究もあれば個人研究もあろうし、かくて
様々な方法が考えられるのである。
これらは夫々単一でも知識構成の役割を果すと共に、組合わされて全体として学習活動を構成し
つつ生徒の社会認識を深めて行くのである。
かくの如き学習活動が行われるためには、在来の学習観念を根本的に改めねばならぬ。学習は教
室で行われるものと言う如き観念であってはかくの如き多彩な学習活動は到底展開し得ないのであ
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る。更に教室の中で行われる学習の形態を従来の如き教科書学習の形に於て考えようとしたら、同
様に行きづまるであろう。
生徒の学習の場所は学校の教室のみならず、社会の生活現場のあらゆる所へ拡大されなくてはな
らぬ。社会の一切の生活場面が教育する場所として指導者たる教師の手に握られていなくてはなら
ない。教師はあらゆる場所を学習場所として使う如き教室観をもたなくてはならぬ。そこにまず生
徒の多彩にして豊かな学習活動を展開し得る地盤が出来るのである。
教室は教師と生徒の問答や教師の講読の場所ではない。教室は生徒が様々な材料を取り扱いつつ
それを整理することの出来る参考室、作業室の役割を果すものでなくてはならない。教室には出来
るだけ豊かに各種の参考品が置かれてあることが必要である。その為には教室は社会の各生活場面
と直結して、そこから多種多様な材料を常に持ちこみ得る如く体制がととのえられていなくてはな
らぬ。社会と教室の教材ルートが出来上ることにより学習の地盤が豊かになるのである。
更に又教室は作業室でなくてはならぬ。即ち実験室でもあり、場合によっては劇場ともなり、演
説会場ともなり、絵画作製の場所でもあり、ディスカッションの場でもあり、統計計算の場でもあ
り、読書室でもあり、その他様々な学習活動が自由に行われている場所でなくてはならぬ。
かくの如き場面に於て展開される学習活動に於てはもはや教壇の上に立って黒板を背負って講演
するのみの教師観念は消え去るであろう。教師は講演者でなく指導者であり、共同研究者である。
更に多彩な学習活動の全体を構想し監督する演出家としての役割をもったものでなくてはならぬ。
教師は生徒と共に様々な生活の場所へ出入しそれを材料として生徒に見せたり聞かせたりすること
も出来るし、生徒の作業、研究の一々を指導観察し注意を与え、又共同作業によって結果を出して
やることも出来る。分らぬことがあれば共に研究する必要があろうし、ディスカッションをする必
要もあろう。その他一切の生徒の学習活動をみ守る注意深き指導者であり、観察者である。かくし
て多様な学習を通じて常に学習のねらいを表現してゆくことが出来る偉大な劇演出家となるわけで
ある。学習活動の形態をかくの如きものと考えることによって、教科書の性格が著しく異ったもの
となって来ることを、ここで一言注意しておかなくてはならぬ。はじめにのべた如き学習を支配す
るものとしての教科書はここに於ては姿を消し、使用される教科書としてその性格を著るしく変化
する。生徒は様々な教科書を自ら読みつつその中からそれの知識を構成してゆくことになる。従っ
て教科書は出来るだけ豊かに、且つ種類が多いことが望ましい。それは出来るだけ生徒に面白くか
かれたものであることが必要である。骨組だけがあって教師が肉付けする如きものでなく、最初か
ら肉がついていなくてはならない。
併し教科書のみが教材ではない、前述の如く教材はあらゆる所に展開している。生活の全面に
亘って教材はさぐられねばならない。その集中的な表現として教科書が置かれてあることが社会科
学習に於ける教材と教科書のあり方である。
四 教師の準備
多彩な学習活動を生徒が展開するとなると教師にはそれに応ずる様々な準備が必要である。従来
の如き教材研究即ち教科書の研究のみでは教育の研究は成り立ち得ないのである。
生徒の学習教材について教師は予め調査を行って、これに関する己れの知識を構成しておかなく
てはならない。先づ教師自らが新な学習活動の世界に入り込まなくてはならぬのである。自ら働き
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自ら課題を解決してそこに生徒に学習せしむべき課題と材料とを明かにして置かなくてはならぬ。
往々行われている所の準備のない散漫な学習が行われるとしたら、それは教師の居ない学習と大
してかわりはない。或は教師はせいぜい助言者の役割をしか果さない結果になろう。準備のない教
師にはそれ以上の事が出来ないのである。それは生徒に構成せしむべき知識を徒らに散漫なものた
らしむるか、生活に意義のないことを追求せしめるかである。学習の浪費以上の何ものでもない。
学習の題材は夫々の生徒によって様々な形態をとって追求されるであろう。その追求の仕方は決
して一定の方式があるわけではない。生徒の生活の中に置かれて様々なニュアンスをもって来るで
あろう。教師はその地盤となる所の生徒の環境、興味の方向、発達段階、理解力の程度、性格等を
その題材に関して充分つかんでいなくてはならない。ここに最も具体的な児童研究があり得る。そ
の題材の学習が如何なる展開の仕方をするかは一にこの生徒のもつ所のものによってきまるのであ
る。
そこに題材のねらいと生徒の興味とを一致せしめ、社会の課題として生きて来る地盤がある。社
会の課題を生徒の課題として定立せしめるのは実に教師の仕事であって、教師はこの意味で社会と
生徒の媒介者なのである。この使命は両方面への深き理解、即ち社会と生徒の理解の上に立って可
能なのである。
学習活動のプログラムはかくの如き準備の上につくられなくてはならぬ。かかる地盤の上に教師
は自らのプログラムをもちつつその中に生徒各自のプログラムを生かして行く如き包擁性のあるプ
ログラムを計画すべきものである。教師か生徒か何れか一方のプログラムしかない学習は真の学習
活動としての意義をもち得ないであろう。学習活動の構成と展開はかくして教師の十全なる用意を
必要とするのである。
社会科の教師は併しそこに十分な意味で自主性を獲得する。生徒も亦自発的な学習に入り得る。
かくて社会科学習の独自の意義は実に教師の自主性の自覚の上に、即ち教師本来の使命の自覚と遂
行によって発揮されるであろう。
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カリキュラム構成の為の実態調査(一)
出典:中央教育研究所編『教育科学研究』Ⅰ - 1、中央教育出版、15-27 頁(1949 年1月)
研究報告 カリキュラム構成の為の実態調査(一)
(一)カリキュラムと実態調査
現在、学科課程を構成するのに社会の実態調査を行って、土地の事情に即したものを作るべしと
する主張が一般的となりつつある。この主張は是迄われわれが伝統的に守って来た所の学科課程構
成の理論とは著しく異った色彩をもっている。最近学科課程若しくは教科課程という言葉にかわっ
て、カリキュラムという言葉が一般に使用されはじめているが、これも新しい教材構成の考へ方の
あらわれである。原語のカリキュラムというのは元来走路のことであって、その意味から生徒の学
習のコースの事を言うに用いられたものである。単に教科とか学科とかの極った框を示す言葉では
ないのである。経験カリキュラム等と言う言葉が使われているが、やはり原語に忠実に従おうとい
う考え方であると言えよう。ともかく学習ということを教科、学科の学習にのみ限らず、生徒の生
活経験の一切に於いて考えようとする傾向が見られるのである。社会の実態調査の上にカリキュラ
ムを構成しようというのは、この様な学習のコースについての考え方の根本的な変化の傾向に同一
の地盤に立っているものと考えなくてはならない。
是迄の教材理論では、学習のコースを定めるには学問体系を基礎とするという考え方である。教
科とか学科とかも、いわば学問の領域の区別に従って立てられたものである。その各教科の内容は
大体学問の体系に従って、これを単純化したものとしてつくられている。その学問を単純化したも
のは各教科の教科書に盛られてある。教科書は出来上った知識を盛った器である。この教科書を受
け入れることが学習である。しかもその学習の順序は教科の定めた順序に随うのである。これが従
来一般的に考えられていた学習のコース即ち学科課程に対する考え方である。
如何な学科をどういう順序で授けるか、その授けることの内容は如何なるものであるか等とい
う、学科課程に関する事柄は是迄すべて文部省で定められていた。出来上った知識を、それを盛っ
た教科書の順序にしたがって学習することが、学習の殆ど唯一のあり方であると考へられていたの
であるから、それは当然であるといわなくてはならぬ。普遍的な知識が教育の内容であると考えら
れる限り、カリキュラムに対してこの様な方式がとられていた事は当然である。
現在叫ばれている社会の実態調査に基くカリキュラムの構成ということは、以上の様な考え方と
は根本的に対立するといわなくてはならぬ。それは知識の上でなく社会生活の実態の上にカリキュ
ラムを考えようとしている。あらゆる土地に普遍的に通ずる知識のカリキュラムでなくして、夫々
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の土地に特有な生活のカリキュラムを置こうとしている。そうでなくては社会の実態調査などとい
う事は意味をなさないのである。
現在主張されている生活のカリキュラム論は所謂抽象的な知識をもっと実生活に結びついた知識
に改めようとか、より実用的な知識にしようとかいう考え方からだけ主張されているのではない。
むしろそういうことは既に過去にしばしば主張もされ、又実行もされて来た所である。けれどもそ
れらは結局知識が知識として学習されるということにかわりはない。唯知識の中で実用的なものが
問題とされたに過ぎない。現在のカリキュラムの問題はむしろこの知識として授けられるというこ
と自体に対する批判を地盤として起っていると言うことが出来よう。
知識を知識として学習するという考え方の根底には、人間の教育のすべてを、知識をもとにして
考えようとする近代思想がある。近代に於ては人間を教養するということは特に理性の問題であっ
た。理性を通して、知識を使って教養することが殆ど唯一の教育の、従って又学習の方法であった
といえよう。この根源には更に近代人間観たる理性の優位ということがある。近代教育観も勿論こ
の人間観の上に立っている。それによって中世の教育を否定し新しい教育体制を樹立し現にわれわ
れのもっている如き教育を実現するに至ったのである。これは近代教育観の貢献であって、その結
果現在われわれは膨大な学校を所有することが出来るに至っている。
併し誰も知っているようにこの人間観そのものに対して、現在鋭い批判がむけられている。新し
く人間の存在論が問題とされ、人間学が再建されようとしている所以である。そこに教育観も必然
的に変革をうけなくてはならぬ。
現在われわれの育てようとしている人間は単に物知り人ではない。単に知識を知識として所有す
る人間ではない。それは如何に実際的な知識を所有しようとも結局知識人であって生活者ではな
い。生活の実践者を育てることと生活の知識を有する人を育てることとは依然として異った事であ
る。例えば社会生活に関するもろもろの知識をもつ人間でも社会生活に飛びこんでこれを処理する
ことが出来るとは限らないであろう。生活とは多面的な行動、いわば全有機体的な活動であり、知
識は一面的な行動として成り立つものである。実践的生活者は単に知識をのみ与えられるだけでは
育たないといわれなくてはならぬ。社会生活に没入しその多面的な実践行動に於いて知性も働かし
生活の問題を自ら処理することの出来る人間は、やはり生活実践を通じてのみ形成されなければな
らぬ。世の中の出来事を単に知識として理解しているということのみでは実践的生活者とはなり得
ない。
われわれは曾って人間を育てようとして知識を通じて結局知識人をつくっていた。教育するとい
えばまず知識の道を通ずることが最初に頭へ浮んだ。それ以外のことは教育として重要視されな
かった。併し生活者を育てるにはまづ生活の道を通ずることが必要でなければならない。これは是
迄の伝統的教育観を批判する所の新しい生活教育観であるが、その根底には新しい人間像が、理性
の優位を超えた全人的な人間観が存するといえよう。
かくして生活のカリキュラムが考えられるに至る。学習のコースは生活のコースと一致しなくて
はならない。その生活のコースの中に知識を学習するということも位置づけられるのである。それ
は知識と並んで実践的なものの学習のコースを置くということではない。学習全体が生活のコース
として構造づけられ、その中に知識も実践も所を得るのである。かくの如きカリキュラムが現在求
められている。
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事実人間は生活の中で学習している。人間は或る具体的な環境の中で生活し、その中に於いて
様々な影響を受け、又は逆に環境に対して積極的に働きかけ、そうして自らの世界観や行動を具体
的に改めつつあるのである。家庭や社会に於いて、或は学校の運動場に於いて子供はこうして己れ
自らを育てているのである。否学校の教室も一つの環境であって、ここで子供はその作られた環境
に必死の力を以て向って行っている。それが社会の実際生活と縁の遠いものであればあるだけ子供
は自らをいためているとさえ言いうる。現在子供の生活全体の中にこうした知識のみを問題にした
所の環境が相当の幅を以てくみこまれているのである。併しより重大なことはそれのみが教育と考
えられている事である。子供も大人もそう考えている。子供にとって最も大切なものがこの作られ
た所のもの─生活にあらざる生活─であるという考え方が問題なのである。生活カリキュラム論は
この点にメスを入れようとしているのである。この余りにも一面的に作られた学校生活、これを単
に知識受容の場所としてでなく、人間を育てる場所、即ち生活することによって生活を学ぶ場所た
らしめようとするには、子供の生活も亦社会の人間としての生活であるという児童観が成り立たね
ばならない。子供は子供であって社会人とは別個のものであるという考え方が徹底的に払拭されね
ばならないのである。然らざる限り子供の生活とは結局大人への準備的生活であるという考え方
が、それでなければ児童中心主義的な生活観である所の大人のそれと全く異った生活であって、真
の意味の生活とはどうしても連続し得ない生活という考え方となるのである。それは何れにしても
生活によって生活を学ばせることにはならず、せいぜい生活らしきものを模倣させることになる外
はないのである。
何故なら子供の生活が大人への単なる準備であるならば子供の学習すべき事は大人の生活であっ
て而もそれは準備としてまねごとに終るであろうし、又子供の生活が大人の生活と全然別個な生活
であるとするならば、その生活はわれわれのいう生活ではなく唯言葉が同じであるというにすぎな
い、社会生活でない何か別な世界の事である。子供の生活を全然別個な独自な生活と考えればそれ
は人間の生活に対して動物の生活という事を考えるという如きことになるであろう。
そういう考え方はそもそも誤りではないだろうか。生活とは子供と大人とによって作られている
社会の生活があるのみであって、共に一つ社会に於いて成り立つものであろう。それであるからこ
そ子供が成長して、大人となるのである。子供の生活は大人の生活につながっている。子供は大人
への発展の途上にある。
所で生活を通じて生活そのものの学習をさせようとする生活のカリキュラムが、子供を唯生活の
中に放任せずあくまで教育であるためには極めて困難な多くの問題が横たわっているのである。生
活カリキュラムということは成程理論として納得のゆくものであろう。併しその実際の姿はどうで
あるかというと、そこには抽象的な理論のみの到底解決し得ない問題があるのである。まず第一に
生活の学習が行われるためには生活の体系がなくてはならない。それは併し決して生活に関する知
識の体系ではあり得ない。あくまで生活自体の体系でなくてはならない。
生活は極めて動的な性質なもので、主体と環境との関係が刻々に新しい局面を生み出しつつ進展
してゆくというが如きものである。これを把握することがそもそも困難であって、把握し得たと
思った時には既に一片の知識と化し去っているのではあるまいか。然らば生活のカリキュラムとい
うことがそもそも矛盾した事ではないか。生活とは一年間も先の事を明瞭に定めて置くというが如
き事によって成り立つのではない。明日をも知れぬという事が生活の表現としてはふさわしい。所
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がカリキュラム乃至学科課程というのは是迄の考え方では略一年間は少くとも定められている。或
は六年間のカリキュラムさえ予定されている。こういうものとしてカリキュラムを考えるならば、
生活を通じて生活を学習させるカリキュラム等という事は唯一片の理想たるにすぎない。机上の空
論とも言うべきであろう。事実生活の計画等というものは一年間も先の事まで細くは誰も定められ
はしない。一年の生活を過ぎ去った後でその出発の時の予想と比較してみるならば、そこにどんな
大きな差異がある事であろう。一年前の予想には夢にもなかった様々の事件が起っているであろ
う。而して生活を通じて学習するとはまさにこの突発事項の連続の様な生活の中で学習することな
のである。そのためのカリキュラムとは一体如何なるものか、生活カリキュラムの論が言うべくし
てその実現に於いてまさに至難の事に属するのはここにあるといわなくてはならぬ。
生活カリキュラムという時、そのカリキュラムは恐らく伝統的学科課程的概念と極めて異った形
のものとなるであろう。それが如何なる形のものとなるかは実に今後の実証的な研究によって定る
のではあるまいか。そこに社会の実態調査に基くカリキュラム構成の研究ということの意義がある
といわなくてはならぬ。そこに又この実態調査の内容方法に関する研究の重大さも横たわってい
る。
カリキュラム構成の為の実態調査が以上の様な生活カリキュラムの考え方に立つとすれば、曾っ
て行われた所の郷土の認識を目的とした郷土調査の如きものや、或は社会の法則発見ということを
任務とする社会学的ないわゆる社会調査の如きものとも完全に一致しはしない。やはりカリキュラ
ムの為の調査として独自の内容と方法を持たなければなるまい。是迄行われている社会の実態調査
はカリキュラムが知識カリキュラムであった時のものである。生活カリキュラムの地盤に立つもの
とは根本に於いて立場が異ることを考えて見る必要があろう。生活の中に生活を学習するのである
から、子供のする生活を把えなくては学習が成り立たぬことは明らかである。それは生活に関する
知識や観念でない事も明らかであり、その意味で社会の実態調査の如きものを基盤とする他道はな
いであろう。併しその具体的な内容と方法に関しては又独自な研究を必要とする。内容方法のあり
方については現在われわれには何程のことも明らかとなっていないと言わなくてはならぬ。言わば
唯実態調査が必要であるという予見のみが立てられているといっても過言でないであろう。
而してこの問題は単に理論によって解決さるべき事柄でなくそれが実態調査に関する事柄である
だけ実証的な研究手続によって解明されなければならぬ問題であろう。即ち実態調査の実施によっ
て実際にカリキュラムを構成し、この過程に於いてその理論を樹立するという方法が必要となるの
である。
(二)実態調査の目的と内容
以上の如き考えからわれわれは埼玉県比企郡三保谷村に於て実態調査を実施し、これによってカ
リキュラムを構成し、そこに実態調査のカリキュラム構成に於ける位置づけをなし、その内容方法
のあり方を研究しようとしたのである。以下その報告を記述するけれども、これはまだ進行中の調
査研究であって、今後どの様に進行するかもまだ明らかでない。事実最後の目標であるカリキュラ
ム構成はまだ完成したわけでなく現在進行中である。従って今後研究の進むにつれて明らかとなる
であろう多くの問題を残しつつ叙述をしなければならない。それらの点については今後順次問題が
明らかとなり次第報告を続けて行く積りである。
45
三保谷村に於いてわれわれはカリキュラム構成のための実態調査として村の課題を発見する目的
をもってまず二つの事を行った。その一つは村の人々の村の生活に対する課題意識の調査である。
その二はその生活に対する課題意識を発生せしめていると思われる村の客観的生活状態の調査であ
る。課題発見のためにこの二つを行った根本的な考え方については多少説明を要すると思われるの
で次にそれについて述べてみたい。
前述の如く実態調査は生活自体の体系を求めるためのものでなくてはならぬとわれわれは考えて
いるが、その生活の体系とはどういうものであるか。生活とは問題を解いて行く行動の連続に対し
て名づけられた言葉といえようが、その体系は如何にしてとらえられるであろうか。まず生活は多
くの行動という要素に分けられる。併し等しく行動というもそれには様々な段階があって、所謂分
子的な行動も考えられ、集合的な行動も考えられる。一般に併し分子的な行動は機械的な行動で
あって、人間の生活行動を見る立場というよりはむしろ生理学的な見方に立つものであろう。われ
われは人間の行動という時は分子的な行動の集合である所の目的によって一つのまとまりとして把
えられたものを考える。生活とはそういう行動の連続過程に対して名づけられたものといえよう。
行動は様々な目的によって様々なまとまりとしてとらえられる。時間的に間隔がある行動も一つの
目的ある行動としてまとめられることが出来る。それらの様々な行動の起伏進行する過程を生活と
呼ぶのであるから、生活とは極めて複雑な構造をもった行動群といわなくてはならない。これを
夫々具体的なものについて如何なる体系をもつものとして把えるかは極めてむづかしい問題がある
というべきであろう。
われわれは今生活をいくつかのまとまりある行動群の集合としてとらえようと考えた。一つの目
的によってまとめられた行動群は一生活単位としてとらえられる。生活はそういう生活単位の集合
体としてとらえられたならばどうかと考えたのである。この場合勿論一つの生活単位の中にある行
動が他の生活単位の中にも含まれるという場合があろう。行動は決して単一の目的によってのみ成
り立っているとは言えないからである。それは生活の単位として把える立場からは夫々両者に於い
て構造の中の一要素として把えられるであろう。この様にして生活の全行動をいくつかの生活単位
としてまとめ、その集合体として生活の体系を考えようとしたのである。そしてその生活単位とし
てとらえられたもの、その生活単位の集合体としての生活体系をカリキュラム構成の基礎としたい
と考えたのである。
所でまとまりある行動群を一生活単位として把えるためには、如何なるものによってまとまりが
与えられるのか、何を基礎としてまとまりが成り立つのかがまづ考えられなくてはならぬ。諸々の
行動は生活に於ける目的によって一つの系統ある生活単位として把えられる。例えば論文を書くと
いう目的の下に私は原稿用紙を求めて机に向い思想を実現する。この様に一つの目的が一つの生活
単位を成立せしめる基礎である。そこでこの様な目的によって生活単位をとらえるのが妥当な方法
である。所でこの目的というのは様々な段階に於いてとらえることが出来るものであって、一つの
目的ある行動群は更により大きな行動群にも又より小さな行動群にもまとめられることが出来るの
である。例えば私が論文を書くという目的は更に大きい私の教育活動の中の一つの行動群と考えら
れよう。そこで如何なる段階でこれを把えるかがまた一つの問題である。
そこでわれわれはこの目的ある行動群としての生活単位を生活における課題乃至問題を中心とし
て把えようとしたのである。生活とは問題を解く過程である等といわれているが、目的行動の成り
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立つ基礎にはその主体に投げかけられた解決しなければならぬ問題があると考えられる。人間の生
活は主体と環境との力動的な関係に於いて成り立つ。主体が環境に働きかけ、環境が主体に影響
し、而もそれが同時に成り立つ所に人間の生活が進行する。この場合主体が環境に働きかけるのは
環境が主体に対して解かねばならぬ、或は処理されねばならぬ局面を提出しているからである。い
わば環境が主体に対して問題を投げかけたわけである。そこに主体の一定目的を持った行動が起る
のである。併し同時にこの問題は主体の意欲に於いて成り立つとも考えられる。環境が与えた問題
も主体がこれに反応する意欲がなければ成り立たないのであって、環境が投げかけたというのは、
そういうものが投げかけられたと意欲する状態にある主体に於いてのみそれが投げかけられた事が
意識されるのである。こう考えると問題は主体の意欲に於いて成り立つとも云える。それが主体の
目的行動を生み出す基礎なのである。生活単位としての目的ある行動群は環境が主体に問題を出し
主体が環境に働きかける所に成り立つ。即ち生活は主体─環境の力動関係に於いて進展の契機とし
ての問題を中心に成り立つといえよう。従って生活単位をとらえるということは、この問題を中心
として展開する生活行動のまとまりをとらえるということであろう。
所で以上の事は自ら生活の個別性と社会性の問題について重要な視点を与える。即ちまづ生活と
は一般に個人的なものとして考えられている。而も同時にそれが社会性をもったものであるという
ことである。問題を処理することに於いて成り立つ生活というのはこの二つの相反する性質につい
て一つの統一ある観点を与えるであろう。
生活は常に個人に即して考えられる。それは私の生活であり、彼の生活である。この点だけから
云うならば問題を中心として把えられた生活単位は各個人夫々別個のものであって、それを基礎と
して学校乃至学級という集団生活のカリキュラムを作る等ということは不可能と考えなければなら
ない。成程一面に於いて生活はその如く個人に即しているのであるが、同時にそれは社会との関係
に於いてのみ成り立つものである。即ち環境の提出した局面に対して働きかけるのであって、環境
が出した問題に於いて生活が成り立っているのである。それは個人の生活が進展するのはあくまで
社会の中に、社会との関係に於いて、社会の動きとして、進展するということである。個人的行動
即社会行動でなければならない。個人の意欲は個人のものであると同時に社会関係を通さなければ
実現されないのである。仮りに頭の中で考えることは全然個人の勝手であるにしても、それは実現
される時には社会を通し社会的なものとして表現されなければ成立しないのである。否、実は考え
ることすらが社会のものなのである。問題をとく生活というのは実にかくの如き個別性と社会性の
二面に於いて見られなくてはならない。
所でこの事は問題を処理する生活単位をとらえる事が単に個人的な生活単位をとらえる事でな
く、同時に社会的な生活単位をとらえることであることを意味する。即ち問題はすべての個人に対
して何れも自分個人の問題でない社会の問題としての性質をもっている。これが社会の課題が意識
される根源である。問題は一面に於て社会の課題としての性格をもつのである。同時にそれが単に
自己から離れた社会の課題ではなく自己の生み出した自己のとくべき問題なのである。この問題の
二重性格の故にこそその基礎の上に実はカリキュラムが成り立つのだと考えられよう。
要するに人間の生活とは、村なり学校なり学級なりの集団が生活をしてゆく所に、その生活が生
み出す課題を解いてゆく所に、成り立つものである。その集団の課題は同時に人間一人一人の問題
としてあるのである。生活カリキュラムとはこの生活の問題をとく過程を学習のコースと考えよう
47
ということである。そこで生活の問題をとく過程を学習のコースとして置くためにはまづ問題が把
握されねばならず、その問題は社会の課題でなければならない。而もそれは個人の意識として存在
しなければならぬ。いわば社会の課題を夫々の個人が様々な問題として所有しているとも云えよ
う。これが村の課題を求めようとする調査の目的であり、そのために村人の課題意識と、更にその
課題を生み出している社会の局面として村の生活実態とを把えようとする理由である。
最後にかくの如き課題意識と客観的生活状況の調査によって村の課題をとらえカリキュラムの基
礎となるべき生活単位が出されたとしても、それが子供の生活のカリキュラムの基礎となるかとい
うことである。われわれに当面の最も大切なことは、このカリキュラムによって子供を生活せしめ
ることであって、大人の生活を考えることでない。今われわれが村の課題の調査をしたとしてもそ
れが子供のカリキュラムとどう関係するかが明らかにされていなければ無意味な調査に終る恐れが
ある。
子供のカリキュラムを作るために必要なことは、子供の生活単位を把えることであって、それは
子供の生活の問題をとらえることに依って可能だといわなければならぬ。それは確かにその通りで
あるが然らば子供の問題は如何にして把えることが可能であろうか。この事については既に述べた
事をもう一度考え直してみれば明らかになるであろう。子供の問題というも、それは単に子供の問
題ではなく、その一面をもつと同時に依然として社会の課題である。子供も社会生活をしているの
であって、その中に課題を意識して問題を処理してゆくことには差異はない、唯その場合に大人と
子供はその課題を意識する仕方が極めて異っていることは認めなければならぬ。尤もそれは等しく
大人の間にも同じ社会の課題を極めて異った相に於いて意識しているのであって殆んど子供と大人
の間程の差異をもっている事も多いのである。子供は極めて単純な心理構造をもち、そこからして
大人とは異った態度で社会の課題にふれている。子供の問題はそこに特異な相を示している。併し
それでも依然としてそれは社会の課題としての意義がなくては生活が成り立たないのである。社会
の課題の中に意義ある生活をしない子供の生活は成長をもたらさないであろう、そういうものはあ
り得ないのである。子供の特異性を強調しなければならない事は誰も認める所であるが、それは子
供の生活が社会の生活ではないという事ではない。子供が問題を処理するのも依然として社会の課
題の解決である。これは事実として子供が置かれている大人への発展の中間にあるという立場から
来るのである。
われわれは併し従来子供の問題の夫々が社会の課題の夫々どこに根源を置いているかを深くとら
えようとしなかった。子供の問題を社会の課題の意識として、児童の社会心理学的な研究によって
捉えることは今後のわれわれに課せられた問題であろう。そこでわれわれはまづ社会の課題をとら
え、これを子供の心理構造の中に置いて子供はこれを如何なる問題として意識しているかを把握し
ようとしたのである。そこに生活単位を子供のものとする操作があると考える。これをわれわれは
児童研究としての一分野と考えようと思う。その第一前提として実態調査を置いたのである。即ち
カリキュラム構成の為の基礎調査としてわれわれは二つの大きな分野を置く、一つはここに述べた
社会の課題の調査即ち社会の実態調査を中心とするこれまで述べた領域であり、他の一は児童の心
理構造の中に社会の課題、その問題をとく生活単位を据えてみて、子供の問題をとらえ子供の生活
単位を構成してカリキュラムの直接の基礎を把握することである。(未完)
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このカリキュラム構成の為の実態調査の研究は中央教育研究所の行っている共同研究の一部
であって、所員、矢口、飯島、倉澤、主原、田中、磯野等が常に協議しつつ研究をすすめてい
る。従ってここに述べられた所はこれらの所員の研究の結果の現段階に於て到達した結論とも
言うべきものである。矢口はこの報告を執筆して勿論責任は矢口にあるけれども、考え方その
ものは研究所員の共同によって検討されたものである。
尚この研究を進めるに当って、三保谷村の村当局、村民諸氏、学校職員その他の方々の絶大
な協力を得ていることに就ても、ここに深甚の感謝を表して置く次第である。
最後に、この研究の為に文部省から補助金を交付された事はわれわれの特に喜びとする所で
ある。
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新教育と視覚教育
出典:矢口新『カリキュラムと視覚教育』日本映画教育協会、9〜 37 頁(第一章)、1949
年 11 月
第一章 新教育と視覚教育
第一節 近代教育
教育というものが、どういうものかという考え方、即ち教育観は現実の社会にある教育からつく
られて来る。それは我々が過去に受けた教育、現在行っている教育から出来上って来る。その現実
の教育は、或る時代或る社会の特有な文化構造から具体的な形を得て来る。従って教育観も亦歴史
的なものである。この事は教育の進歩を考えるものにとっては充分認識されていなくてはならない
事である。歴史的所産としての一定の教育方式を何時の世にも通ずることと考えるならば、教育の
進歩は考えられない事になってしまうのである。われわれが現在迄につくりあげたものも一つの特
殊な教育方式である。この中に本質的なものとそうでないものを追究して、新しい社会と時代に
適った具体的教育を考え創り出すことは我々に課せられた大きな課題でなければならぬ。時代は現
在大きく動いているのである。新しい教育も亦動きはじめている。
教育という言葉で我々が頭の中に思い浮べる所の代表的な姿はどんなものであるか。恐らく学校
の教室で教師が居て、教科書をもっている生徒にその解説をしている姿が何といっても一般的であ
ろう。最近は新しい学習の形が行われているが、それでもその根柢にある思想はやはり教師─教材
─生徒というこの関係形式である。教育という言葉で、子供が映画をみていたり、機械に向って仕
事をしていたり、畠で耕していたりする姿を思い浮べることは、何が身につかない感じがするので
ある。それは本格的なものではないという我々の習慣的な考え方は急には消え去らないであろう。
ここに長い時代を経てつくられた教育観の強い伝統を感ずるのである。古い教育観は頭だけの事で
なく、血となり肉となっている。そして新しい教育観は観念の上で一通り理解されるが、現実の実
践に当って顔を出して来るのはどちらかというと、むしろ古い教育観である。観念はかわっても現
実の構造にはそれ程の変化が見られないのである。我々のなすことは、新しい教育観によって、現
場の実践を執拗に追究してこれを構造がえする所にあると云わなければならぬ。表面的な理論だけ
では現実を改めることは出来ないであろう。
現在我々は教師─教材─生徒という関係形式を教育の本質的なものと考え勝ちであるが、それは
必ずしも本質的なものと考えることは出来ない。この様な教育方式を本質的なものと考えるに至っ
たのは、日本についていえば明治以後であるといってよい。明治以後の学校教育がこの考え方を作
り出したのである。即ち学校教育が代表的なものと考えられたからであるが、それは明治以後に於
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て学校の果した役割が大きかったからである。学校が大きな役割を果したのは、明治以後の日本の
社会が特に要請したからであると考えられる。社会の特別な要請があって、このような教育方式が
重要視されているのであって、何時の時代に於ても、これが本質的であるのではない。視点を変え
れば別な形の教育が考えられるのである。
例えば明治以前の社会に於ける町人の教育についての考え方をとって見よう。町人は近世社会に
なって、城下町に住んで商業を営み、武家や百姓に品物を売り歩く仕事をした人々である。近世の
町は消費者の住む所であって、その人々に物資をもって来るのが町人の仕事である。町をつくった
のは武家であって、近世になってから武家は主として消費生活者として城下町に住んだ。中世時代
の武家はまだ百姓と同じく地方に住み、その地方の百姓の指導者としてむしろ生産者の立場に立っ
ていた。中世は勿論自給自足経済の時代であったが、近世の武家はそういう中世の武家とは異った
性格をもっている。彼らは城下町に住み、自らはつくらず、耕さず、売買の仕事もせず唯消費者と
して生活する人間となっている。それは全国的な規模にまたがる交換経済を基盤にして立ってい
る。この交換経済の担当者が町人である。町人は百姓のように土地に住みついてそこで物をつくっ
て生活する人々ではない。むしろものを方々の土地から集めたり、方々の土地へ散らしたりする
人々である。土地に結びつかないで土地からはなれて渡り歩く人々である。こういう生活者は近代
のブルジョアジーの先駆者である。ブルジョアというのが大体町に住む人という意味である。市民
の祖先といってもよいのである。
近世の封建社会の初期から武家は種々な形の教育機関を所有したが、百姓は特別な教育機関はも
たなかった。百姓の間には教育がなかったと見る事は出来ない。その教育はあくまで実際生活の中
で親や長上の仕事を見習うという形で行われたのである。町人は近世の中期以後に於て寺子屋とい
うものを著しく発達させた。それは町人がその生活の必要上生み出したものである。彼等は自然を
相手にして植物を育てる仕事を中心とする百姓とは異って、諸所方々の土地を歩きまわり人間を相
手とし、契約をむすび、金銭勘定をし帳簿をつけて、商売をしなければならぬのである。これに必
要な最少限のものを子弟に与えるために彼等は寺子屋をつくり出したのである。所謂「読み書きそ
ろばん」の学校である。併し町人は寺子屋について、我々が現在の学校についてもっているような
考え方をしてはいない。寺子屋は極めて限定された教育の場所としか考えられていない。『寺子屋
物語』という書物の中に次のような二つの句が書かれている。
「村の名と江戸方角とながしらと、商売往来これでたくさん」
「ちとばかりにじくればよし、もはや十歳、口さえあれば奉公に出よ」
というのである。これは町人が教育をどういうものと考えているか、特に寺子屋というものに対し
てどういう機能を負わせているかを示すものとして面白いものである。
町人は彼等の生み出した寺子屋について極めて限定した考え方をもっている。それは簡単な基礎
的能力を身につける場所である。
「ちとばかりにじくればよし」という言葉で表現されるような程
度の教育を寺子屋はすればよいと考えているのである。そこで読み書きすることは、村の名江戸方
角、ながしら、商売往来でよいとされる。所がそれで人間修行は終ったわけではない。教育は十歳
ともなれば本格的に生活現場に於てはじめられなければならぬと考えているのである。口さえあれ
ば奉公に出てそこで他人の中に入って人間をつくらねばならぬとする。それでなくては一人前の人
間、町人として立つ事は出来ないと考えるのである。彼等にとって教育の場所として需要なのは寺
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子屋という学校でなくむしろ生活現場であり世間であったのである。人中へ出なくては一人前とは
なれないと考えている。人中でどれだけ苦労しているかが人間をみる標準なのである。『浮世床』
という小説にあるように世間でたたかれていない知識をいくら振廻しても誰も相手にしないのであ
る。一つの知識なり意見なりもどういう世間的経験、実際的体験を基礎としているかによってはか
られるのである。これが町人の教育観であり人間観である。そこに於ては寺子屋即ち学校の教育が
代表的であるのではない。従って教師生徒という教育関係が教育の場面として最も重要なものであ
るわけでもない。又教科書が人間を育てるための最も中核的な材料と考えられているのでもない。
むしろ実際生活の現場に入れられて、そこで丁稚小僧として見習いの取扱いをうけ次第々々に任務
を与えられて見ようみまねでさばいてゆく、その生活過程こそ最も重要な人間教育の場面である。
教師といえば現場の人すべての人が教師であり、教科書といえば現場の材料のすべてが教科書であ
る。この様な関係に於て考えられる教育は、現在われわれのもっている既製の教育概念とは著しく
異っている。併しこういう教育があつたことは事実であり、現在に於ても亦ある事は事実である。
近世の町人に限らず中世の武家も人間育成という事を生活の現場に於て考えていたのである。現
在のような学校教育的な教育概念が教育の代表的なものと考えられるに至ったについては、近代社
会の成立後、即ち明治以後に於ける学校の著しい発展がある。明治維新以後日本は遅れた近代体制
を至急に取りもどさねばならなかった。それには欧米先進諸国が数世紀の間に亘って築きあげた近
代文化を速かに吸収することであった。
それには何よりも学校教育が大きな役割を果した。欧米の近代社会が作りあげた文化を出来るだ
け早く移入するということ、欧米近代生活の結果をそのまま移植することこれが日本社会の当面の
課題であった。欧米の近代生活が如何にあるかを詳しく知ること、これを知って出来るだけ早急に
衣替えすることが日本社会の仕事であったのである。欧米の近代生活に関する知識これが近代日本
の建設に最も重要な役割を果したのである。すべての日本人がそういう近代生活の知識を身につけ
ることこれが当時の教育の中心的な課題であった。これは学校教育にとって最もふさわしい仕事で
ある。教科書には、近代生活の生み出した自然科学や人文科学の知識が盛られている。これらを教
師から生徒に手ほどきして与えるのである。それによって近代生活の如何なるものであるかを一般
国民が知ること、これが日本社会の建設の諸方策に全く適合した事である。一般人民のそれらの知
識を土台として社会体制の近代化の途がたどられるのである。明治五年の大政官布告に於てもこの
事が明細に述べられている。当時の文部省の考えは「一般人民の文明なくして何の文明ぞや」(文
部省伺文)といった言葉にもよく表現されている。
学校教育はこういう日本近代化のための基礎的知識の普及という任務を担当した。学校に於ける
最大の任務は先進欧米近代文化の結果としての知識を授けることである。これによって世界の諸々
の国に於ける近代生活のあり方を知り、近代生活の基礎としての自然科学の考え方を会得し社会生
活の歴史や実体をわきまえ、近代生活に必要な諸々の技術の姿をも知ることが出来た。学校はこの
ような近代的生活の入門的知識を授ける場所であった。而もこの入門的知識が是迄の日本社会に於
ては最も大きい意義をもっていたのであって、それは日本社会が近代社会への入門の時機にあった
という事でもある。下は小学校から上は大学までの教育が主としてこの入門的知識の教育に力を入
れていたのである。この入門的知識の普及こそ、結果として日本社会の近代社会への入門をもたら
したのである。
52
学校に於ける知識教育がこの様に日本の近代生活の中核的役割を果して、われわれの生活の基礎
をつくりあげたという事は、この教育こそわれわれにとって唯一無二のものであるという確信をも
たらしたのである。教育とはそういう形の教育しかあり得ないと考える考え方を明確に樹立して来
たのである。
町人の生み出した寺子屋が小学校に改編される明治教育の過程を通じて学校の持つ意味は非常に
大きなものとなって来た。町人の考えた初歩的なものというにとどまらず、それは初歩的であるこ
とにかわりなくとも是迄と全く異った近代生活の基礎を与えるものとして、その比重が著しく増大
した。初歩的なものでもその当時の日本社会の全く持っていない近代生活の初歩であるから、寺子
屋に於ける初歩とは全く意味が異っていたのである。こうして学校教育の意味は実に大きなものと
考えられた。その形が教育の形の代表的なものと考えられる所以はここにあったといわなくてはな
らない。そうして町人が曾って考えた生活の現場に於ける教育は何時の間にやら背後に退いたので
ある。
現在我々の所有している教育の既製概念はこういう伝統の下にそだって来ている。現在漸く批判
されつつある知識教育はこういう近代日本の生活地盤の上に成立ったのである。
第二節 現実からの教育
知識教育というのは、知識を知識として与える教育について与えられた名称である。それは学習
の形として教科書学習の方式をとっている。こういう教育が如何に根強い伝統をもっているかとい
う事は、現在この教育を批判しつつあるといわれている、単元学習をみてもよくわかる。現在行わ
れている単元学習は教科書学習にかわって生れて来たものである。それは子供に経験させること、
乃至生活させることを目標として考えられた子供の学習の新方式である。併し事実はそうなってい
るのでなく、知識を与える方法として単元学習がとられたという結果に終っているのが多い。多く
の単元は大抵何かの知識を得ることが目標であって、子供はそのために調べたり見学したりしてい
る。甚だしいのは百科辞典を書きうつしている。これは知識を求める材料が教科書でなくなったと
いう事に過ぎない。教師が単元構成をするときも、こういう事を知っていなければならぬ、こうい
う事を理解していなければならぬという、あれこれの知識が真先に頭に浮ぶのである。教育とは決
して百科全書的な知識を与えることでないという事はどの教師も口に出すことである。而も事実上
単元学習というものの形は知識を目ざして行われて居り、決して生活することその事が教育内容で
あることにはなっていない。単元学習というものの、教科書学習との相異を強いて求むれば、唯知
識の体系づけ方が異っていることであろう。知識それ自身の体系であったものが、生活題材的なも
のによって体系づけられたという事であろう。これだけでも大きな変化であるといえば言えよう
が、依然として知識を目ざして居り生活自体に入りこんでいない事は注意されなければならぬ。併
し真に人間を育てることは唯知識を与え、又求めたりすることだけでは到底不可能であろう。例え
ば、自分の生活を自主的に営んで行く性格は、生活経験を通じてその中で育てられるものである。
長年の間そういう生活をしつづける事がその性格を養うのである。これは多くの教師がよく認めて
いる所であるが、而もそういうことが教育の内容として本格的に考えられていない。やはり教育の
中心はその事についての知識を求めたり与えたりすることにあると考えられている。単元というも
のが多くはそういうものである。やはり知識的な一つのトピックに過ぎないのが多いのである。
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又民主的な生活を営むには人間同志がお互に尊重し合うことが必要だという事を知っていてもそ
れだけで人間同志が尊重し合うようにはならないのであって、具体的生活場面で自己の行動を反省
しつつ作りあげて行かなければならぬのである。実際にそういう人間を育てるためには、理屈だけ
でなく、生活の中で自己自身の非民主的な態度を洗い落し洗い落して形成して行かなければならぬ
のである。利害の衝突や感情の衝突がある時にもやはり民主的であるためには、生活することに
よってその生活態度を築き上げるより外に方法はないのである。
この様に人間を育てるという事になると、単に知識を与えることでなく、生活することがより重
要であることが分る。併しこの事は知識が必要でないという事でない。生活することの中に生きて
いる知識が必要であることは言うまでもない。否生活を建設してゆく人間、より高い生活を生み出
してゆくことの出来る人間は常に自己の行動を反省し、よりよいものを求める知力、知性が豊かで
なければならぬ。すぐれた生産人として立つにも、合理的な消費生活者たるにも、自らの生活を自
主的に営む人間であるためにも、健全な社会生活を営むにも、単にその事に関して知識を持つ以上
に、知性として知的な反省力、態度として働くものがなくてはならぬ。
併しそれは唯知識をそれだけのものとして得ることによっては不可能であって、生活する間に生
活の中から結晶して来たものとしてもたなければならないのである。生活を営むうちにその中から
自覚されて来たものとしてあるときに真の知識をもったと言われるのである。従って人がつくりあ
げた結果としての知識を唯覚えようとしても、それは附焼刃に過ぎないと云えよう。自己の現実を
反省してより高いものとしてゆくという営みの中に、他人の経験も生かされるのである。
生活する事自体の中に教育内容があると考えられるのはここに理由があるのである。そういう教
育に於けるカリキュラムは従来と根本的に構造が変らねばならぬであろう。
最近新しいカリキュラムが学校で実施されているのは、こういう要請に答えたものという事が出
来るが、而も現実には尚生活のカリキュラムである事からは極めて遠い距離にある。即ち教科書に
かわって、百科全書や参考書を読んだり、人に話をきいたり、現場をみたりすることになったとい
う学習方法の変化にすぎないか、或は知識の体系が生活題材を中心として作られているにすぎない
のが多い。これらも勿論新しいカリキュラムの問題とすることであるが、それは生活することの中
に生活について自覚し、自ら知識を働かしてゆくことの結果がそういう学習方法の変化となり、知
識の構造的変化となるのである。中心となることは、カリキュラムが知識を求めることから生活す
ること自体にかわることである。これが生活の現実から学ぶという事である。
生活の現実から学ぶというと、我々はとかく子供の生活とは異った現実があって、それを学ぶこ
とだと考え勝ちである。学校生活は現実でなく、社会の生活といわれているのが現実であると一般
に考えられている。そので子供は学校の中にあって、現実のこと即ち学校の外の大人の世界のこと
を学ぶのだというように考えられる、併し子供の生活が現実でない事はない。やはりこの社会に
あって、社会の一員として生活している。その生活は社会の現実に左右されて営まれるのである。
現実は子供の生活の中にも内在している。子供は子供として、大人は大人として、社会の現実を自
己の生活の中にもっているのである。現実とは本来生活に内在するものであって、自己の生活に内
在しないものは他人の事であって現実ではないのである。唯人によってその内在する現実が異るの
である。或は同じ現実でも異った具体的様相を以て個人の生活に内在するといってよいであろう。
現実からの教育とはそういう子供の生活現実に於て人間が形成されるという事である。所で学校
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の生活は本来そういう現実的生活であるに拘らず何故非現実的と言われるのであろうか。それは即
ち自己の生活の本質を如何に自覚するかの問題である。学校生活に限らず、個人の生活でも生活と
は社会の中に於ける生活であって、単に自己だけの生活ではない。人間は生れると同時に社会の生
活現実を次第に植えつけられて行くのである。こうして社会の生活現実が自己に内在するものとな
る。社会は個人の外にあるばかりでない。社会は個人の中にもあるのである。人間の成長とはこの
社会的現実を自己の現実としてゆく過程であるといってもよいであろう。個人は個人特有の仕方で
社会を自己の生活に内在せしめる。そこに個性があるといえよう。そして同時に社会化されている
のである。この意味で個人の社会化と個性化とは教育の理念として考えられよう。個人は無限に社
会化され個性化されるべき存在である。ここに現実社会が人間教育に果す意義の大きい理由があ
る。現実社会の中に生活することによってのみ人間は成長するとはしばしば主張された所である。
所で学校生活に限らず人間の生活が非現実的であるというのは、人間存在のこの本質に背いている
事の謂に外ならない。社会の生活現実を自己の中に内在せしめ個性化していないという事である。
いわば一般的なるものを具体的な存在に於て実現していないという事である。社会的動向を自己の
生活の中に内在せしめることが出来ていない事である。
かくて学校の生活が非現実的であると言われるのは、それが社会的現実を学校の中に内在せしめ
ていないという事である。言いかえれば子供は子供のあり方で社会の動向に適った生活をしていな
いという事である。だからそれは子供がその眼を学校の外の現実に向けてその事を知るという事に
よっては解決されない問題であるといわなければならぬ。それは結局学校の社会的機関としてのあ
り方の問題である。明治以来知識を求める場所としてその使命を果して来て、専ら知識体系が授け
られ、一般社会の動向には眼を向けることはなかった。それはその時代に於て社会的動向にかなっ
たもので何等非現実的と云われる理由はなかったのである。併し今や社会の現実は学校を単に知識
探求の場所として認めておくわけに行かなくなったのである。社会は実践的な人間を要求している
のである。現実の世界で生活する人間を求めている。人間を育てる場所としての学校にもそういう
要求を出しているのである。学校は社会的動向に従ってその生活のあり方を改めなければならなく
なったのである。いわば学校に内在するものと外在する社会との間に距離が出来たのである。学校
が生活する場所として改造されることが現実の生活から教育を組みたてるという事でなくてはなら
ぬのである。これが新しい教育方式を探求する所以である。
学校が人間を育てる場所である事は、昔も今もかわりがないとしても、如何なる人間を育てるか
については、現在大きな変動が起つたのである。それは現在の社会に於て生活する人間のあり方が
変ったという事である。学校教育の目標としての人間像がかわったのである。学校に内在する社会
性の相が変ったと言ってもよい。学校は是迄知識人としての生活を学校に於て実現して居ればよ
かったのである。今はそういう生活を学校の中に展開することでは、社会的存在としての意義を果
さなくなったのである。現在要求されているのは現実の建設者である。学校の中に於て営まれる生
活も現実の建設者としての生活でなければならないのである。
現在我々の当面している生活建設の課題は曾って明治の初期に於て当面したそれとは著しく事情
が違う。明治に於ける建設は前節に述べた如く、まず近代生活を知ることであった。今や事情は異
なる。如何なる生活にもせよ自らの現実から生み出し、創り出すことが求められているのである。
それは文字通り建設であって極めて現実的な実践的な営みでなければならぬ。先進諸国の生み出し
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たものを知り求めて行く段階は一応終ったとみるべきである。これを糧として我々が自らのものを
つくり出すことが課題となっているのである。知られただけのものは依然として附焼刃にすぎな
い。自らのものにするには、自らの構造ある生活を創り出すことである。勿論この生活の営みの中
に将来も大いに外国に求めることはなされねばならぬ。それは併し実践的生活の中に於て求められ
るのである。先ず知るために知ることが求められるのではない。
人間を育てる学校の生活は、このような実践的生活をその中に於て実現すべく要請されているの
である。これが生活現実からの教育という事が云われる理由であり、カリキュラムの改造が主張さ
れる所以である。
第三節 眼を養う教育
知識教育はこれ迄の教育に於て中心的な意義をもった方式である。世界を一つの観念として与え
ることにより、人間を育てようとするのである。観念は文字に表現され、或は言語に語られ、これ
らを読むこと、聴くことに於てこの教育は成り立つのである。この意味では観念を与える教育とい
えども視覚や聴覚を通さないでは教育として成立たないと見るべきである。併しこのような文字や
言語による観念教育は現実から抽象されたものをより重んずる立場であって、現実そのものは重要
視されないのである。まず観念が与えられ、それによって現実をそのわくに入れて処理して行くと
いう考え方が根柢にあるといわなければならぬ。これは人間が現実に於て働く生活をするものであ
るということを見ない立場であるといわなければならぬ。現実の世界に於ける行動者としての人間
の教育とは云えない。
こういう考え方の教育形態を生み出したのは中世寺院の教育である。又近世武家の教育もその一
例として見ることが出来る。近世の武家や中世の寺院の教育は、現実の世界から離れて、信仰信念
をつくりあげることに力を注いだのであって、そこに行われたものは講釈聴聞や、談話読書であつ
た。これは現実世界の生活者でない、支配階級の教育としての特徴であるといってもよいであろ
う。その生活が現実に於て働くことにないものの教育である。
例えば近世の武家はその生活の地盤を失った遊民的支配者として性格づけることが出来る。彼等
は百姓が収穫するものを年貢として取り上げて、自らはその支配者として生活していたのである。
所がその支配力は、曾っての戦乱の世に於ける如く現実に根を下ろしたものでなく、大平の世に於
ては既にその根基を失ったものであった。近世封建社会は既に交換経済、貨幣経済が発展し、市民
社会への転換期であったのである。新しい社会に於ける支配力は新しい社会の勢力に根を下ろした
ものでなければならぬ筈である。戦国の世に必要とされた武力はもはや新しい社会に於ては無用の
長物でなければならなかった。にも拘らず彼等は武力によって強引にその支配力を維持しようとし
た。ここに鎖国によって、眼をふさぎ経済力の膨張を防ぎ、厳重な身分制によって手足をしばり専
ら弾圧的な警察制度によって封建制の中に全人民を閉じこめたのである。
かくして一般武士は何等実質的な意義を持たない遊民的生活者として存在していた。この新しい
社会に於ける実質的勢力は、新しく台頭した町人であった。武家は城下町の単なる消費生活者でし
かなく、その生活を悉く百姓と町人に依存したのである。この様な事態を彼等はよく認識してい
た。例えば山鹿素行である。彼はその学問観、教育観を次のように表明している。即ちまず、武士
は耕さずして食い、造らずして使い、売買せずして利するのは何故であろうかと自問する。それは
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武士に一つの使命が与えられているからである。三民即ち農工商の輩は専ら生業に忙しくて、人倫
の道を行うことが出来ない。ここに於て武士はこれら三民の監督者として専ら人倫の道を体得実践
して、範を三民に垂れる。その為に武士は教育を受け学問をするのである。これが素行の考えた所
であるが、これは当事の武家の思想を代表したものであるといってよい。
併しこの思想が如何に空虚なものであったかは、武士の言う所の人倫の道なるものが、何等生活
の現実に根を下さぬものであることによっても明らかであろう。現実の生活者でない武士によって
人倫の道がどうして実行されようか、そこにある人倫は単なる空虚な観念に過ぎないと言わなけれ
ばならぬ。新しい人倫は新しい生活者たる町人によって、その生活の中から生み出されねばならぬ
筈である、かくて武家はその観念のより所を現実でない過去に求めたのである。儒教はかくして彼
等の生活の基本原理となる。彼等の生活はこの指導原理に導かれて固定的であり、不変である。而
もそれを改造する現実の発展は彼等の世界とは別個のものである。こうして儒教は唯一個の観念と
して受けつがれるだけでよい。否むしろ師の教えに一歩も違わざらんことを汲々としてこれ務めた
のである。ここに最も模範的な観念教育が成立する。
武家の教育は新しい社会を建設する教育ではなかった。否それと反対に古きものを固定させ、あ
くまで旧きを守らんとする教育である。現実に眼をそむける教育であり、固定した観念により現実
を歪めてみる教育であつたといわなければならぬ。これは近世武士階級の矛盾せる生活、現実的な
らざる生活から出た教育であった。これは観念を以て人間を育てようとする教育の代表的な形とい
えよう。これに反して生活を以て育てようとするカリキュラムは、生活の中で人間が様々のものに
ふれて行く中に、その人間が生活への実践力を養って行くという考え方をするのである。現実的生
活とは最も力動的であり、刻々流動的に変化するものである。この中で生活させ教育するというこ
とは、固定した観念を与えるという事とまさに対蹠的であるといわなければならぬ。この流れる現
実に眼を注ぐことに於て生活が成り立つのであり、従って教育も亦成り立つのである。現実の中に
於て自己の行動を生み出さねばならぬのである。従って観念注入の教育と根本的に異つた構造をも
つのである。
生活即ち人間と環境との緊張関係は所謂感覚機関を通じて多面的に営まれている。それは単に観
念だけの事ではないのである。生活力のある人間とは、唯生活についての観念をもつのでなく現実
との具体的な交渉に於て、これを見分けたり、行動を生み出したりすることが出来る人間である。
このような行動によって環境はそのあり方をかえ、人間自体も成長する。このような人間の成長は
生活の現場に於てのみ行われるといわなければならぬ。生活のカリキュラムが要請される所以はこ
こにあるといわなければならぬ。
生活の現実にふれ、これに向うて働きかける生活教育に於ては、観念を受け入れることでなく現
実を見分けることであり、自ら行動に表して現実をかえることである。行動に表して行くために
は、その行動の対象としての現実がよく見極められていなければならないのである。併し現実がよ
く見極められるには自己が行動者として現実に対決していなければならないのである。行動する立
場に於てのみ現実は見極められるであろう。言いかえれば現実に課題をもたなければ、現実は見ら
れないのである。かくて行動することと見分けることとが構造的に関連しつつ、生活は展開するの
である。かく考えると生活に於て人間の教育を考えようとする立場は、一方に於て生活に於ける現
実洞察の眼を養う教育であり、他方に於ては生活に於ける行動表現力を養う教育であると見られる
57
であろう。勿論両者は別々のものでなく実践に於て一つのものであるが、これをかくの如き二つの
側面から見られるという事である。唯新しい生活教育を構造づける本質的なものを二つの面に於て
ながめたにすぎないものである。併しかく分析して見て我々は新しい教育のあり方について、より
具体的な様相と実施の方式を生み出すことが出来るであろう。
視覚教育ということが、現在次第に重要視されつつあるが、それは単に教育方法として眼を通ず
る等という事でない。歴史的にはそう考えられた時代もあったであろうが、現在の新しい教育観の
中にあっては、新しい意義を以て登場して来たのである。現在考えられている視覚教育は現実を見
る眼を養う教育としての視覚教育という意義をもつと言わなければならぬ。そもそも見ることが重
視されるのは、他ならぬ現実を見ることであって、現実以外の様々な視覚材料が重要視されたとし
ても、それは背後に現実を持っているからである。かく考えれば視覚教育ということは、本来現実
そのものを見ることにその意義があったのであって、而もその現実を見ることは即ち生活の実践に
於て最も本質的な意義をもっているものと考えなければならぬのである。かくて視覚教育は本質的
に生活現実を通ずる教育と結合しているものなのである。
人間の現実に対する働きかけの一つとしての「見る」働きは、単に受容する働きではない。むし
ろ読みとることであり、把えることであり、極めて積極的な働きである。言うまでもなく見るとは
単に肉眼として見るという物理的な外界の投影としての眼の働きを云うものでない。そのような働
きは本来人間の働きとしては最初から存在していないのであって、現実的な見る働きとは表現をよ
みとる作用なのである。例えば子供が母親の身ぶりや顔つきをまず単に物体の動きとして把えてこ
れを解釈してこれは母親の愛情の表現であると理解すると考えるならば、事実に反するであろう。
子供ははじめから、母親の愛情を身ぶりや顔つきに読みとっているのであって、これを分析し抽象
して物理的投影の機能や、解釈の作用という要素をひき出すのである。我々は我々の周囲に存在す
る事物にしても、はじめからこれを表現としてよみとっているのである。即ち我々の行動に対する
関係に於てこれを把えているのである。例えば机を見、インクを見、ペンを見るにしても、それは
すべて我々の行動対象としての表現の理解なのである。まず或る形態の物体をみる等という事はあ
り得ない事である。それは我々が初めて接する或る物を見るときの態度を反省しても明らかであっ
て、見ても分らない等という時はそのものの表現する意味が分らないのであり、それはわれわれの
生活に対する意義を言うのである。そこで次にはじめてそれらが分析されて形や性質や様々な事が
細かく見られるのである。
我々はかくの如く、自己の眼を通して世界の現実をよみとっているのである。この眼が養われて
居ることによって我々の生活は活溌となるのである。例えば町の通りで自分に向って頭をさげた人
をみた時は、実は挨拶された事としてみているのであり、自分も挨拶を仕返すのである。子供はそ
ういう眼が養われて居ない時にはその行動はそれだけ貧困であるといわれるのである。電車がとま
る所に人が行列をつくっているのを見る時は、それを唯肉体が林立しているとは見ないのであっ
て、電車に乗ろうとする自分の行動はその行列の後尾につくことなのである。そういう眼が養われ
て居らなければ、その人の行動は人の非難の的になるであろう。このように見る働きは人間の心の
働きとして考えられているのであって、それ故に眼は心の窓とも云われるのである。こういう眼こ
そ根源的な眼であるといわなくてはならぬ。人間を育てること、就中現実に働く人間を育てるとい
うことは、こういう根源的な眼をもつ人間を育てる事に他ならないであろう。
58
武士は、その観念注入の教育によって、即ち現実から眼をそむける教育によって、現実の姿に
のっとって現実に働らくことの出来る人間の教育を見失ってしまった。そうして没落の運命をた
どったのである。固定した観念の教育はいわば空虚な眼を養うとも云えるであろう。働かない眼を
つくり、従って働けない人間をつくるのである。
併し明治以後の教育と雖もこの観念注入の教育、従って現実に働らく眼を養うことを忘れた教育
の弊に陥っていないとどうして断言出来よう。現在日本人の一般的な教育観の底に流れているもの
は依然としてこの観念的な教育ではないだろうか。成程明治以後の教育に於てはヨーロッパ的な近
代的な知識が武家の封建的儒教的観念にかわりはした。そしてそれはもとより大きな進歩であっ
た。武家的な観念は過去のそれであったのに対して、ヨーロッパ的知識は日本にとっては未来のそ
れである。近代的な知識は近代の生活を現実の地盤としているのであり、その点でも亦空虚な武家
の封建的観念とは異なる。近代生活という実質的地盤を持つ限り知識として与えられた教育であっ
ても、必然にその方向へ眼を向けざるを得ない。これは極めて根本的な変化であるといえよう。
にもかかわらず、その教育が知識の教育であった点に於て依然として我々は真に現実に迫る教育
であると考えるわけに行かないのである。知識は結局如何なる知識であろうと、それが解釈された
観念であることに於て変りはない。いわば一つの歴史的産物としての世界解釈の結果であるにすぎ
ない。個の観念によって世界は動くのではない。世界の動向は依然として、現実の中から生み出さ
れるのである。現実から、現実に対処するために新な行動が起されるのである。加うるに現在世界
は転換期にある。新しい理想が現実から生み出されねばならぬ時である。是迄の観念を以て今後を
決定する事は到底考えられぬ時代錯誤といわなくてはならぬ。新しい世界を創り出すことを要請さ
れているわれわれは明治以後の知識教育を清算して、ここに新しく眼を養う教育の方式へ突入しな
くてはならぬのである。
第四節 自己教育としての視覚教育
曾って視覚教育というのは、教授方法の一つとしてのみ意味をもっていた。それは知識教育への
一つの手段、有効な手段であるとしか考えられなかった。コメニウスのオルビス・ピクトゥス『世
界図絵』が視覚教育の祖先と考えられ、ペスタロッチの直観教育も亦視覚教育に於ける有力な先駆
者と考えられたとしても、それらは単に知識教育の一方法論の提出としての意義しか持たせられな
かったのである。コメニウスやペスタロッチの背後にあった社会が如何なる社会でありそこから彼
等が如何なる具体的人間像を描いていたかを読みとる事が出来なかったというべきである。彼等の
もっているこの社会的背景、即ち近代社会に働く人間の現実性を度外視しては、彼等の生み出した
教育の真の意義を理解し得ないであろう。
日本に於ても視覚材料が使用されたのは決して新しい事ではない。極く概略的に見ても近世教育
の出発と同時にこの思想はあったのである。明治以後に於ても、かの有名な「庶物指数」の教育
は、立派な視覚教育であったと見られる。更に最近二十年間に於て最も近代的な映画、幻燈を使う
教育も相当に行われたのである。而も現在に於ても、この視覚教育の教育上に占める地位は決し
て、知識教育の方法論以上には出ていないのが一般的傾向といえよう。
曾って、昭和の初期に映画利用学習と、映画学習と二つの概念が対立した事があったけれどもそ
の何れの立場にしても依然として知識学習的な立場を離れることは出来なかった。即ち前者は教科
59
書の補助として映画を学習に使用する立場であるが、ここに使用される映画は、曾っての旧い教科
書の焼き直し以上には一歩も出ていない所謂知識映画であった。唯教科書の言葉を直感的に確認さ
せるために映画が使用されたのである。これに対して映画学習とは、映画そのものから学習すると
いう立場であり、前者が教科の枠から抜け出ることが出来ないのを打破しようとするのである。そ
の点に於て教科学習万能からまさに一歩を進んでたわけであるけれども、而も依然として映画とい
う構成された世界解釈の枠内で学習しようとしているのである。決して映画を使って人間の眼を育
てようとしたわけではなかったのである。恰もその点では教科学習に対して合科学習が一つの方法
論として提示されたのと相似た存在であったのである。人間の眼を養うためには映画より先に、ま
ず現実が問題であり、その現実の問題をとくために映画が使われるという基本的関係が成立しなけ
ればならぬのである。ここまで到達するには、昭和初期以来更に二十年の歳月を閲しなければなら
なかったのである。
今や生活現実を問題とする、生活を通ずる、而して且つ生活自体を学習する生活教育の考え方が
生れるに至って、はじめて現実を見る眼を養う教育が問題にされるに至った。かくして視覚教育は
単に教授方法の問題でなく、何を以て育てるかという人間教育の根本問題としてのカリキュラムの
根柢に結合した問題となったのである。
生活現実からの教育の基本構造は自己教育構造であるといわなければならぬ。自ら生活すること
に於て教育を受けているのである。それは教師から、又は他人から与えられるのではない。教師も
先輩も背後へ退いているのである。併し背後に於てこの人間が如何なる生活をするかについて援助
を与えているのである。或は具体的には次のようにも考えられよう。生徒は自らの生活を営んで行
く。教師はその生活の協力者であり、助言者である。この場合も曾っての教師─教材─生徒の関係
に於ける教師、或る事柄を教える教師の役割は背後に退いている。表へ出ているのはむしろ生徒の
生活の中の内容としての教師である。背後に退いた教師はいわば教材の管理者である。如何なる生
活を子供が営んでゆくかを見つめて、適切な材料を適時提出することを考えるのである。ここに自
己教育が成立するのである。勿論自己教育構造に転換するといつてもその学習の形が一切その形態
に移るという事ではない。全体がこの基本構造によって貫かれるという事である。
所で眼を養う教育は自ら見ることに於て、成立つのである。誰かに与えられるのではない。その
基本構造に於ては純然たる自己教育構造である。材料を与えられてそれについて或ることを教えて
もらうのではない。自ら見ることに於て眼が養われるのである。眼が養われることの中に、その見
るものの内容理解もあるのである。教師はその際に何を見せるかを考慮してやるのである。この自
己教育構造に於て新しい視覚教育が成立つのであり、それ故に新しい現実からの教育の中に重大な
位置をしめるのである。
60
富山県総合教育計画における教育調査
出典:‌全国教育調査研究協会編『教育調査』Ⅰ-1、ぎょうせい、3-19 頁のうち3- 5頁
(1952 年5月)
1 教育計画の意義
教育というのは本来意図的、計画的な性格をもつものだといえよう。もちろん教育ということを
社会の機能として考え、意図的でないものについても考察の目を向けることはたいせつなことであ
る。現在、学校その他で行われているところの自覚された活動のみが教育だと考えては人間を育成
するという本質的な社会のはたらきに目をおおうことになり、教育の発展を阻害することになろ
う。人間は生活のあらゆる場面で形成されているのであって、そういうものに広く目をつけて、そ
こから自覚的、意図的な教育のあり方についても考慮するところがなくてはならないのである。し
かしわれわれが意図的ならざる教育、すなわち社会の機能としての教育ということを考えるのも、
その意義はそれをわれわれの自覚的、計画的な営みの中に位置づけて、人間の教育全体を合理的な
構造をもったものとしてつくりあげようとするからである。このように考えると、教育というの
は、現実生活を教育という視点から計画的に整備して行くことだということができるであろう。そ
の意味で社会の営みとしての教育というのは本来計画性をもつといえよう。
いったい教育計画というのは、教育の現実態についての具体的な到達目標を描き、それに到達す
るための社会的な実践の順序を科学的に予測したものである。本質的にはこういうものがなければ
いつの時代の教育であっても、進展しないはずのものである。
しかしそういうことが自覚されてきたのは、わが国ではごく最近のことであるといえよう。とい
うのは、従来も教育は社会の営みとして行われてきたのであるから、それは当然なんらかの計画に
よって行われてきたのであるが、その計画ということ自体がいかなる操作で、いかにして樹立され
るかという点についてはなんらの反省もなかったのである。それは計画の科学性ということである
といってもよいが、そういう科学的な方法で計画を立てるという考え方は出てきていないのであ
る。いわば常識的に計画を立てて実施していたといってよい。しかし、最近地域教育計画などとい
うことがいわれるようになり、教育の計画性が問題になってきたのは、そういう意味で新しい教育
の考え方が出てきたのだということができる。
計画を立てるには目標を定め、それに達する順序段階を予測するのであるが、これらのことはた
だ頭の中だけで行われることはできない。計画が単に夢物語であるのならばそれでもかまわない
が、これを現実態として実現しようとするならば、あくまで現実の状態に即してその中から立てら
れてこなければならないのである。だれか個人が理想を描くことで計画の目標が設定されるという
のならば簡単であるが、社会に具体的にいかなる教育の現実態をつくり出すかということになる
61
と、それは社会のすべての人々の関係することであるからそう簡単には行かないのである。たとえ
ば、どこの土地にどういう学校をつくるということをだれかが考えたとしても、それは社会の人々
の理想とするところに合わなければ実際問題としてなりたたないのである。しかもそういう社会の
人々が決して一色ではないのであって、さまざまな考え方なり、理想をもった人がいうのである。
それが計画ということの現実的なむずかしさの一つである。さらにそればかりでなく、われわれは
頭の中に理想を描いてできあがった姿を思い浮べることは簡単にできるが、現実はそういう理想的
なものがただちに実現するのでなく、その前提となるもの、さらにその前提となるものから徐々に
築き上げられてしだいに具体的になってくるのである。すなわち目標に到達するには時間がかかる
ということである。しかもそれは長年月を要することが多い。しかし現在は現在として完結してい
なければならないのであって、現在から数年間はその機能を果さないというごときものが存在する
ことは許されないのである。いつの現在でもその時なりにその機能を果しつつ、しだいに完全に近
づくというごとき発展の形をとらなければならない。このように考えると、計画ということは、き
わめて困難な仕事だといわざるを得ない。
さらにこのことに拍車をかけているのは、われわれは、これまで自主的な態度でみずからの現実
をはあくし、そこから自主的に理想を描き出し、これを実現する計画的な歩みをとるという考え方
が少なかったのである。日本の近代教育の歴史は常に外から目標を与えられ、外からその実現の方
式を見せられてきたのである。みずからの社会の要求を計量し、これをいかに実現するか、その順
序はみずからの現実に即していかにあるべきかということを考え出すという経験が比較的乏しいの
である。いわば日本の教育は、ヨーロッパやアメリカの教育のダイジェストのごときものである。
これで一応形式の上では同じような教育の現実態が実現しているのであるが、こういう形式で発展
してきた日本の社会のもつ教育的エネルギーということになると、必ずしもそれを生み出した先進
国のものとは同じではない。そしてそれが何よりも大きいふつごうとなってくるのは、ほかならぬ
この教育計画というような、自主的にして、かつ実証的な営みをしようとする場合であろう。みず
からの現実を分析し、理想をその中から生み出し、その実現に要するみずからのエネルギーを計測
し、その実践の順序を計画するというごときことは、われわれの最も不得手とするところなのであ
る。いわば科学的な教育計画というのは一種の創造であって、模倣ではないから、猿まねではでき
ないということである。そうして、そういうことをこれから一歩一歩積み上げて行くのが、ほかな
らぬ自主的な国家の教育の歩みであるはずである。口に自立をとなえながら、みずからの立つ現実
をみずに、アメリカやヨーロッパの思想や実践をそのまま移入しようとする観念的な態度は、自立
そのものが観念論であることを証明するものであろう。
ともかく、このようなことは、教育計画ということをきわめて困難ならしめる大きな条件となっ
ている。しかし、戦後カリキュラムに関して地域的な計画ということがいわれ、しだいに現実的、
実証的な態度でみずからの教育を考える傾向が育ちつつある。これはきわめて好ましいことであっ
て、教育委員会制度による地方の教育の自立とともに今後この傾向を助長すべきものであろう。し
かし現在は教育委員会にしてもただいたずらに名目のものにすぎず、みずからの教育計画をもた
ず、あたかも陳情の処理委員会のごとき、その日暮しをしているにすぎない。われわれは制度のす
ぐれた点を認めるとともに、これをよりよく生かすために、教育委員会が自主的にしてかつ科学的
な教育計画をもつように育てなければならぬ。
62
こういう点から考えて今年度、富山県において総合教育計画が樹立されたことは一つの注目すべ
きできごとであると思われる。筆者もそれに関係したもののひとりであるが、次にその計画樹立の
方法についてそのために行った調査を中心として、述べてみたいと思う。この計画樹立の仕事は昨
年7月から現在まで継続して行われている。
2──以下略──
63
Ⅲ
中研、戦後、
そして矢口新
(論文)戦後教育改革における中央教育研究所の役割
― 矢口新の仕事を中心にして―
千葉県立保健医療大学准教授
越川 求
▪ はじめに
1946 年7月に民間の教育研究所として設立された中央教育研究所(=以下、中研と略)は、川
口プランを先駆としてカリキュラム改革運動に大きな役割を果たし、新教育を推進したことは知ら
れているが 、中研の歴史的位置づけは形成の途上にある。
1
戦後教育改革期のカリキュラム改造は、地域教育計画型とコア・カリキュラム型の二つで大部分
を占められていたとされるが 、それぞれの中心的な研究者は、中研に属する研究者であった。地
2
域教育計画型の海後宗臣(1901-87)
・矢口新(1913-90)・飯島篤信(1913-85)、コア・カリ
キュラム型の梅根悟(1903-80)
・倉澤剛(1903-86)
・海後勝雄(1905-72)が中研で所員や嘱託
所員として共に研究し、多くの論稿を発表している 。区別されるようになったのは 1949 年頃か
3
らである 。
4
本研究では、戦後教育改革としての新教育の推進において、中研がどのような役割を果たしたの
かを、中研の創成期(1946 〜)から 1950 年代を通じて、中研の中核的な研究者であった矢口の
仕事を検討することによって明らかにしたい。
中研設立から 1980 年代まで長期間継続して中研の中心を担っていた研究者は、海後(以下、海
後宗臣の略)と矢口・飯島であった。矢口・飯島は、1950 年に国立教育研究所(=以下、国研と
略)の所員となるが、その後も中研事務所が国研内に置かれた中で、国研教育内容室の室長と中研
の委託研究員を兼務しながら、研究を推進した。
矢口は、中研を象徴する次のような三つの重要な仕事をしている。
① 海後の教育論を実際に指導し、その実践の中で、地域教育計画論と呼ばれるカリキュラム論
を確立したこと。
(川口プランや三保谷プラン)
② 戦前の岡部教育研究室、戦後の中研、国研という研究生活の中で、科学的な実態調査にもと
づく研究調査の基盤を着実に確立し実践したこと。(『教育科学研究』や国研での研究調査、
富山県総合教育計画)
③ 社会科教科書づくりや視覚教育の理論の基礎を確立し実践したこと。(東京書籍版社会科教
科書、北加積小実践、水海道小実践、視聴覚ライブラリーなど)
66
本稿2節で①、3節で②、4節で③について論じる。
本研究は、越川求『戦後地域教育計画論の研究─矢口新の構想と実践─』(すずさわ書店、2014
年)における歴史的把握を基礎に、戦後教育改革における中研の果たした役割に焦点をあてた研究
である。概説としては『中央教育研究所 56 年の歩み』(中央教育研究所、2002 年)と『国立教育
研究所十年の歩み』
(国研、1961 年)を基本資料に、中研所蔵資料(書類・会議録等)、矢口文庫
の所蔵資料、国研発行文献を一次史料として批判・検討した。
1.矢口新と中研の研究活動
矢口新(やぐちはじめ)は、東京帝国大学文学部教育学科卒業 後、1937 年7月岡部教育研究室
5
開設 と同時に飯島篤信(いいじまあつのぶ)とともに研究員となり、東京帝国大学助教授海後宗
6
臣の指導のもと研究活動を開始している。このときに矢口は海後教育論の確立に直接的に関わり、
海後教育論の継承者となった。
1941 年7月軍隊に召集のため退職し、4年2ヶ月にわたり軍隊生活を送った。45 年敗戦により
除隊となり、その年の秋から海後宗臣の自宅のある目黒書店の四階で岡部教育研究室のメンバー
(海後・矢口・飯島)に、海後の弟である海後勝雄らの東京文理科大系グループいわゆる十条組
(海後勝雄、倉澤剛、小宮山倭)の研究者が加わり、自主的な研究会を始める 。これが 46 年はじ
7
め頃には中研と名乗り活動を始め、やがて正式に三井報恩会の後援による資金で、中研が民間教育
機関として神田駿河台に 46 年7月に設立された 。
8
中研設立時(46 年7月)の8名の理事は、有光次郎(文部省教科書局長)、小笠原道生(前文部
省体育局長)
、海後宗臣(東京帝国大学助教授)、小林澄兄(慶応義塾大学教授)、島内俊三(中等
教科書(株)顧問、同社設立時の専務取締役)、辻田力(文部省調査局長)、三井高雄(三井報恩会
理事長)
、村上俊亮(文部省視学官)であった
中研の組織は、48 年9月作成の概要によれば、所長は小笠原道生、理事が有光次郎(文部次官)、
小笠原道生、海後宗臣(東京大学教授)
、小林澄兄 、島内俊三(中等教科書(株)顧問)、辻田力
(文部省調査局長)
、三井高雄(三井報恩会理事長)、村上俊亮(文部省視学官)となっており、所
員として飯島篤信(法政大学講師)
、矢口新(明治大学講師)、倉澤剛、主原正夫、田中正吾(立教
大学講師)
、磯野昌蔵、他3名、嘱託所員として、梅根悟(東京文理科大学助教授)、海後勝雄、小
宮山倭の名前が記載されている。
1953 年3月に中研は財団化をはかり、財団設立時の役員は、理事長は村上俊亮(国立教育研究
所所長)
、理事が有光次郎(国立国語研究所長)、小笠原道生(大映株式会社取締役)、海後宗臣
(東京大学教授)
、小林澄兄(慶応大学名誉教授兼講師)、柴沼直(東京教育大学学長)、監事 松
本忠太郎(国立教育研究所庶務部長)であり、矢口・飯島が委託研究員となって発足し、設立時の
基本財産は 50 万円であった。
この間、中研は 1947 年に川口プランを発表し、社会科の理論と実践を牽引し、カリキュラム改
造運動の先駆者となった。さらに 1947 〜 49 年は中研の第二の実験プランである埼玉県三保谷プ
ランを指導し、生活実践としての自治活動のカリキュラム上の位置づけを明らかにした。
矢口は財団化の前の 50 年6月、飯島は 50 年8月に国研の研究員になり、他の研究者も 51 年迄
67
には大学に就職している。
国研教育内容室長となった矢口は、中研時代からかかわりあいのあった茨城県水海道小学校(現
常総市立水海道小)での自治活動を土台としたカリキュラム研究を国研の研究として展開、また富
山県北加積小学校(現滑川市立北加積小)での社会科の研究を、地域教育計画論にもとづき推進し
ていった。さらに、1950 年には国研により全国小・中学校教育課程実態調査が実施されたが、そ
れ以降、矢口はカリキュラム改革に関する調査研究を推進していく。51 年には、富山県総合教育計
画の教育調査員を委嘱され、富山県総合教育計画を策定する理論的リーダーとなっている。
2.カリキュラム論としての地域教育計画論の確立
2-1.中研におけるカリキュラム論の進展
中研は、教育内容・方法の設計を中心的な課題としており、戦後最初の仕事として、間近に迫る
新しい教科書編集出版に備え、アメリカの教科書研究に取り組んだ。1946 年7〜9月に「アメリ
カの新教科書展示会」
、9月に『アメリカの新教科書』(海後勝雄編、中研発行)を発行するととも
に、それらの教科書を機能的に使ったモデル授業を行うなどして、新しい教科書観を啓蒙した。
また、9月に川口市新教育研究会社会科委員会の特定指導者として中研のメンバーが委嘱を受け
る。11 月には、新教育の連続講座「教育研究教室」を開催した。翌年の、47 年3月に中研主催の
社会科研究全国集会を開催し、12 月にも開催し、『社会科概論』と『社会科の構成と学習─川口市
案による社会科の指導─』を発行し、全国のカリュラム改革運動の先駆けとなった。47 年8月〜
48 年にかけては、朝日新聞社と共催で「アメリカ児童画展覧会」開催している。
この間に、国民教育図書発行の『日本教育』
(45.10 〜 47.8)─改題『明日の学校』(47.9 〜
49.2)及び『社会学習』
『自然学習』
『芸能学習』(47.9 〜 48.7)、目黒書店発行の『教育文化』
(46.1 〜 47.5)
、東京書籍内新日本教育文化研究所発行の『教育復興』(48.9 〜 50.9)などの教育
雑誌、さらには中研の研究誌『教育科学研究』
(49.1 〜 49.10)においても、中研の関係者たちの
論稿が発表され大きな影響を与えた 。
9
中研における研究の進展とともに、海後は、教育の基本構造「陶冶・教化・形成」、<実践者の
育成>、教育内容の現実生活からの編成、カリキュラムの地域性・生活性(産業性)・総合性の重
視、実態調査からのカリキュラム編成という戦前からの骨格を土台に、学科課程の三層構造をつけ
加え、海後教育論の体系を完成させた。
海後は、
「新しい学科課程の編成」
『日本教育』第七巻一号4・5月合併号(国民教育図書、1947
年5月)においてはじめて、内容教科(自然・社会・技術)と用具教科(国語・算数・基本手技芸
能等)と生活(研究活動、クラブ活動、自治活動)の学科課程の三層構造を明示し、『教育編成論』
(原稿は 47 年9月、48 年3月国立書院)において大きな影響を与えたのである 。
10
矢口はさらに、海後の教育論を『カリキュラムと視覚教育』(1949 年 11 月)において、教科構
造の三層構造から、カリキュラム構造の行動の三層構造として「生活の層、反省的思考の層、習慣
を形成する層」として明らかにし、より効果的な行動形成のための、すなわち<実践者育成>のた
めのカリキュラム論へと進化させている。また、視覚教育を、新しい現実からの教育として、自己
教育構造において重大な位置をしめることを明らかにした。だからこそ、教材の開発や映画教材の
68
開発に精力を注ぎ、教育の方法をあくまでも実践的に探究していったのである。
『中央教育研究所概要』
(1948 年9月)によると、次のように記されている。
現在研究部は「地域計画の樹立に関する研究」「カリキュラムの構成に関する研究」を主と
して行っている。それらの研究目的・研究計画は概略次の如くである。
第一 地域教育計画の樹立に関する研究
この研究は昭和二十三年度より実施にかかったものであるが、現在教育を地域社会の実態に
基いて計画実施すべしという主張が強くなされているにかかわらずその具体的方法に関して何
ら研究がなされていない現状にかんがみ、この問題をあくまで実証的に解決しようという目的
を以てなされたものである。
この研究はその内容として教育委員会の運営に関する研究、教育計画樹立の手続きに関する
研究、学習の形態に関する研究、社会教育の運営に関する研究を含むものであって、一つの地
域社会に於て問題となる所のものを全て包含させている。
この実証的研究の方法としては現に埼玉県比企郡三保谷村を実験地区とし研究所と村との共
同研究事項として一歩一歩着実な村の教育建設方策を実施しつつその過程に於てこの諸問題の
研究を行おうとして現在実施中である。
第二 カリキュラム構成に関する研究
カリキュラム研究に関しては研究所が創立当初より特に努力して来た所である。それはこの
問題の研究が今後の日本教育革新の礎石となると考えたからである。
これに関しては先づ社会科のカリキュラム構成に関して埼玉県川口市を実験地区として選び
既に川口プランを発表して教育界の参考に供したのであるが、現在も社会科は勿論その他の内
容教科、用具教科に関しても同様な方針で研究を進めつつある。
カリキュラム構成に関しては今後は教師自らその土地の事情に適ったカリキュラムを構成す
べしという主張が強いのであるが、然らばそのカリキュラム構成の組織運営を如何にすべき
か、社会人はこの問題に関して如何に参与すべきか、その構成手続き如何、教師の学習計画の
樹立、学習指導・学習効果の判定等の方法如何等の諸問題は未だ明らかでない。研究部はこれ
らの諸問題を現在とりあげている。
このカリュラム構成の最初の成果が川口プラン時の『社会科概論』であり、発行者は中央教育研
究所代表者海後宗臣となっている。
「はしがき」は海後が書いたと思われる。
そこでは、
「敗戦の現実から生じた新な世界環境に於いて、文化国家の建設に働く国民の育成こ
そ新しい教育の課題である。新たな人間像を育成する教育が従来と異なった構造をもつべきこと」
(同、1頁)であるから、この研究を推し進め「実践記録については別に、『社会科の構成とその
学習』として発表したけれども、本著はその現場の実践の過程に於て追及した理論をまとめたもの
である」
(同、2頁)としている。そして、
「この書の執筆に当つては第一章を所員矢口新、第二章
を同飯島篤信、第三章を同倉澤剛、同磯野昌蔵、第四章を同田中正吾が担当したが、内容について
は勿論一貫した考え方に基づいている」
(同、2頁)と中研所員共通のカリキュラム論であること
を表明している。
69
矢口の執筆した第一章「新しい教育と社会科」がカリキュラム編成の原理的部分であり最も重要
である。一節で、
「新しい教育の目標」は<実践者の育成>であり、「現在の世界の課題は人間を新
な生活の建設者として規定している」
(同、4頁)から、そこで「建設に働く実践者に必要なもの
は豊かな知力であり技能である」とした。また、
「豊かな知識技能をあらゆる生活の具体の場面に
於て常に生き生きと働かし新な生活を推進して行くことが出来るのが実践的性格をもてる人間であ
る」
(同、5頁)と述べている。二節で、
「実践者育成の地盤は現実にあるといわなくてはならぬの
である。それは全国一般の教科書教育から脱却した所にあるのである」(同、8頁)として、新し
い教育の地盤は「地域的職能的現実」
(同、9頁)にあるとした。
三節の「新しい教科構造」については、生活・内容・用具の三つの類型的構造(三層構造)につ
いて次のように論じている。
「実践者の活動はその知識、技能、態度がすべて具体的な実践的課題に集中されていること
によって、はじめて強力なものとなるのである。そのためには教育内容はすべて実践へ向って
統一されていなくてはならないのである。すべての教科が実践に向って意義づけられ、実践的
課題を中心として統合される如く構成されて、はじめて実践者の生活力を教養するにふさわし
い教科構造となり得るのである」
(同、11 頁)
<実践者の育成>を目的に「新しい教科構造を考察して生活、内容、用具の三層に於て教科構造
が組み立てられ、そこに様々な教科が成立すること」(同、15 頁)を明らかにした。
最後に四節で、社会科の性格は、知識教材を与える教科でなくして自ら働くことにより知識を構
成する教科であり、社会の実践的理解に必要な知識技能心情を生徒に身につけさせる教科であると
論じている。
矢口は、川口プラン発表時のもう一つの著作である中央教育研究所・川口市社会科委員会共編
『社会科の構成と学習』
(金子書房、1947 年 12 月)においては、学習活動論・教師論・教科書論
にまで及んで論じている。第四章「社会科に於ける学習活動の構成」で、
「生徒の学習の場所は学校の教室のみならず、社会の生活現場のあらゆる所へ拡大されなく
てはならぬ。社会の一切の生活場面が教育する場所として指導者たる教師の手に握られていな
くてはならない。教師はあらゆる場所を学習場所として使う如き教室観をもたなくてはなら
ぬ。そこにまず生徒の多彩にして豊かな学習活動を展開し得る地盤が出来るのである。教室は
教師と生徒の問答や講読の場所ではない。教室は生徒が様々な材料を取り扱いつつそれを整理
することの出来る参考室、作業室の役割を果たすものでなくてはならない」
と述べ、
「教師は講演者でなく指導者であり、共同研究者である。更に多彩な学習活動の全体を
構想し監督する演出家としての役割をもったものでなくてはならぬ」とあるべき教師像に言及して
いる。
(同、67 頁)
「学習を支配するものとしての教科書はここに於ては姿を消し、使用される教科書としてそ
70
の性格を著しく変化する。生徒は様々な教科書を自ら読みつつその中からそれの知識を構成し
てゆくことになる。従って教科書は出来るだけ豊かに、且つ種類が多いことが望ましい。それ
は出来るだけ生徒に面白くかかれたものであることが必要である。骨組みだけあって教師が肉
付けする如きものでなく、最初から肉がついていなくてはならない。併し教科書のみが教材で
はない、前述の如く教材はあらゆる所に展開している。生活の全面に亘って教材はさぐられね
ばならない。その集中的な表現として教科書が置かれてあることが社会科学習に於ける教材と
教科書のあり方である」
(同、68 頁)
と新たな教科書像も提案している。
同書にある座談会「教育に於ける社会科の地位」は司会が矢口であった。矢口はここでも座談会
をリードし、
「毎日新しい課題が起ってそれを克服するのが人間の生活だといえます。その生活力
なり実践力なりを郷土の社会現実を地盤として養うのが実践的陶冶であり、それが社会科で養われ
るというわけですね」
(同、159 頁)と中研としての社会科論を再確認している。同書の他の座談会
では、梅根悟が川口市助役を辞めた後に、中央教育研究所として出席し発言しており、このことも
注目される。
2-2.矢口によるカリキュラム論の発展
1947 年 12 月の川口プラン発表後も、矢口は多くの論稿を発表している。「郷土社会と社会科」
『社会科教育』
(社会科教育研究社、1947 年)で中研は地域性を重視しすぎであるという批判に対
して、
「郷土に於ける現実の生活はかくの如き世界的、国家的観点から処理さるべき多くの問題を
含んでいるのであって、そこに於て世界的観点、国家的観点が獲得されて真に我々の生活は世界
性、国家性を持つに至る」のであり、
「真の実践的生活力を郷土の現実生活に於て獲得したものは、
それによって他の環境に於ても充分生活力を発揮し得る」と反論を行っている。(同、8頁)
矢口は、梅根の戦後初の重要な理論書について、「実践的課題の提示─梅根悟著『生活学校の理
論』
」
(
『書評』日本出版協会、1948 年 11 月)で、「著者は今この歴史をつくる営みの立場に立って
居られる。これが大切な点である。この著作の前に多くのスタイルブックの如き諸意見は姿を消す
べきものである。その著は単なる紹介や臆説ではない。実践の地盤の上に自己自身の歴史をつくる
営みとしての理論である。理論とは本来そういうものではないか。現実との必然性に於て成立つも
のである。そうして実践の課題を提示するものである」として、梅根の姿勢を高く評価している。
さらに、
「カリキュラム理論の追究」
(
『書評』日本出版協会、1949 年4月)では、次のように問答
方式で当時のカリキュラム論の全体の現状分析をおこなっており、矢口が若手にもかかわらずカリ
キュム論者の第一線にいたことがわかる。
(同、20-21 頁)
B「知識カリキュラムならば、空間性は問題にならないだろう。知識に国境なしさ。所が生活
カリキュラムで経験を問題にするとこれは空間性を問題にしなければ成り立たないさ。人間
の生活がそれぞれ空間的な構造をもっているからね。そうなれば地域性という事がどうして
も主張されるわけさ」
A「というと、どういう事になるのだ。もう少しくわしく話してくれ」
71
B「つまり、カリキュラムの空間的構造を問題にすれば、その構造の核として具体的な生活空
間が必要さ、それが所謂地域社会だが、この地域社会を空間構造分析の視点としてゆくわけ
さ。地域社会はそういうものとして出発点だと考えられるわけだね。而も亦帰着点でもある
わけだ。そこに於て、さっきいった一般性なるものも具体的に生きて居るのだからね。併し
それは一般性の単なる手段ではないよ。曾って軍国主義者の考えたように国民の一人一人が
国家の手段だという事はないようにね。この場合具体と普通、特殊と一般は弁証法的な統一
的存在なのだ。まあそういうむずかしい事はこれ位にして、ともかく、このように理論は明
なのだが、それをカリキュラムに生かす方法の問題とも言えるよ」
A「なかなか面白そうな問題だが、そういうことを勉強するのにどんな著書があるのだ」
B「雑誌に書かれたものは随分あるよ。比較的初期のものでは『社会科教育』第三号に『郷土
社会と社会科』
(矢口新)というものがあるよ。これは上田氏によって批判の対象の一つと
なったものの一つだ。同じく『教材研究』という雑誌の去年の四月号の『教材の地域性』と
いうのもそうだ。
『教材研究』は十月にも地域社会と教科課程という特集を出しているが、
これは金子孫市氏が、
『教育の目標と地域社会の要求』、青木誠四郎氏が、『児童の生活と地
域社会』というのを書いている。
『社会と学校』も去年の四月号に、教育計画という特集を
出してこれには海後宗臣氏が、
『教育の地域社会計画』、石山脩平氏が、『教育計画の範囲と
内容』梅根悟氏が『生活学校はどこへゆくのか』を書いてこの問題を取扱っている。この中
海後、梅根氏のははっきり上田氏の考え方とは対立しているから考え方を視る上では両者を
併せよむといいだろうな。地域性を単に手段とみるのを真向から否定しているよ」
A「単行本としてまとめられたものはあるのかい」
B「いや、その問題だけをまとめた考察というのはないようだな。まだそこまで突込んだ研究
はない。けれどもカリキュラムに関して言う時は一応は皆これにふれてはいる。一昨年出た
中研著の『社会科概論』
(金子書房)は比較的初期のものだ。最近のものでは海後宗臣氏の
『教育の社会基底』
(河出書房)
、石山脩平氏の『民主教育論』など何れもこの問題に正面か
ら取りくんで一章を設けているよ」
A「この問題は今後大いに研究の余地があるのかね」
B「それは、大ありだよ。この問題を根本的に突っ込むか否かで、カリキュラム構成の方法も
成立するのさ。新しい教材の性格もここから検討してかからなければ本物にはならないよ。
この辺の考え方が、甘ければ依然として知識主義的な教育内容しか編成することは出来ない
よ。実態調査によって教材を構成しようとしても、現在うまくゆかないのは、一つはこの辺
の問題について充分な理論的解明がないからだよ。カリキュラムの空間的構造をどうつける
かというのは、実体調査で生活の空間的構造をどう把えるかという事だからね。これに対し
ては、中研の機関雑誌の『教育科学研究』に共同研究で「カリキュラム構成のための実体調
査」というものを出している。まだ第一報告だからはっきりしないが、一つの実証的研究と
して意味あるものだと思う」
A「いや、どうやら地域性の問題のありかがわかったようだ。地域性の問題も結局、知識主義
に対する行動主義の問題のようだね。…略…」
72
やがて、1949 年の後半になると、矢口は最初の単著『カリキュラムと視覚教育』(日本映画教育
協会、1949 年 11 月)において、海後の学科課程の三層構造を発展させ、カリキュラム構造の行動
の三層構造というべき<生活の層・反省的思考の層・習慣を形成する層>を明らかにしている 。
11
そこでは、カリキュラムの構造について「かくて実践者の生活構造は生活建設という目標があらゆ
る生活単位に浸透して居る一つの全体としての生活であり、それは習慣的行動の地盤の上に、実践
的行動を核心とし、反省的思考によって次第に発展する生活である」(同、50-51 頁)として実践者
の生活構造を明示した。その上で、
「かく考えると、カリキュラムの構造は三つの層に於て考えられなければならぬことが明ら
かとなる。即ち中核としての生活の層である。第二に反省的思考の層、第三に習慣を形成する
層である。…特に学校の自治的活動として置かれてあるものが、生活建設の見地から編成され
直して綜合的なものとして編成されたときはじめて、生活として中核的なものとなるであろ
う。反省的思考の層とは、略現在の単元学習に当るであろう」(同、55 頁)
とし、
「第三の層は所謂用具学習の層であるが、これは生活の全面に於て , 又特に意図的に練習
をすることによって、生活の諸々の要素的行動が沈殿するのである」(同、56 頁)とした。
実践的行動=生活の層(学校の自治的活動、生活実践)、反省的思考=反省的思考の層(単元学
習、内容教科)
、習慣的行動=習慣を形成する層(用具学習、用具教科)として、海後の生活・内
容・用具の三層構造を実践者の行動の三層構造として、カリキュラム論を深化させている。いわ
ば、海後の<実践者育成>のためのカリキュラム論を、行動形成のためのカリキュラムの三層構造
として明らかにしたのである。
これらのカリキュラム改革は、
「生活することの中に教育内容を認める生活カリキュラムの考え
方は、かくの如くしてカリキュラムの根本的改造を必要とするに至るであろう。これは今後数世紀
に亘る課題」
(同、57 頁)として、歴史的使命として位置づけられていた。このことは、21 世紀の
今日においても継続している重要な課題である。
以上のような矢口のカリキュラム論は日本のカリキュラム研究を継続して発展させた海後のカリ
キュラム論を引き継いだものであった。このカリキュラム論は中研の中軸をなすものであり、矢
口・飯島が指導した国研の教育内容室等を通じて、全国に広められたものである。
矢口は、川口プラン時の二著作以外や上記の論文以外の雑誌論文に自身のカリキュラム論を展開
している。
「学習構成の基礎」
『明日の学校』11 月 12 月合併 1-9(日本の教育改題)(国民教育図書)
1947 年 12 月で、
「学習の構成は実践者育成への生活学習を中核として統一的構造をもてる学習と
なる」ことを述べ、地域性の問題については、地域教育計画とよばれるカリキュラム論の重要な特
質でもあるので、数多く論じている 。
12
さらに、コア・カリキュラム論との関連でも、1949 年8月「カリキュラム研究の現段階と課題」
『社会科教育』
(社会科教育研究社)において、
「現在なすべき事は学校を生活の場所として置く事、そこから必然的な課題を把握して課題
の学習を成立せしめること、さらにその生活に必要な用具の学習を成立せしめることである。
73
そうしてこれを現在のコア・カリキュラムの形態に即して云えば第一の生活の層こそコアと云
わるべきものである次に課題学習といわるべきものがその周辺に存在し、更にその周辺に用具
学習と云われるものが存在すべきである。これは然し単なる見通しであって、われわれのなす
べき事はこの三つの具体的内容を構成することである」(同、18 頁)
として、コアというべきものがあれば、生活の層を第一の層として、第二の層に課題学習、(す
なわち社会科)
、第三の層に用具学習が位置づけられるとした。
1950 年の段階では、1950 年2月「カリキュラム盛衰記」『教育手帖』(日本書籍)においては、
「問題は、コアなるものにしても、周辺にしても、現実の生活内容から、必然的に生み出さ
れて来たものでなければならぬはずである。形態でなくして実質をこそ問題にするはずであろ
う。その点でこの運動はどれだけのものを積み上げたか。頭の中のコアの制作ではなく、生活
からの必然的な表現としての経験内容、教材がどこまでつくられたか。地域プランの推進とい
うことも亦新しい問題になっている。これもまたカリキュラム問題の最初からの理念でもあ
り、問題であった。これも解決していないのである。現実の生活から具体的教材を、或は経験
内容を生み出す実際的研究、これもまだ何等解決していないのである」(同、44 頁)
として、コア・カリキュラム論にしても、地域プランにしても、今後に解決すべき課題が多くあ
ることを述べている。そして、
「その意味では、何カリキュラムといわないでも、例えば広島県本郷町の如き、徐々たる実
態研究から、緩慢なカリキュラム研究と実践を進めている所がまだ多くあることも注目してお
く必要があろう。何が現実を推しすすめるか。現実に関係のないものの盛衰記はつまらないの
である。まだ何がどうなっているかは明らかでないから、やっぱり盛衰記は書けなかったとい
うわけである」
と結論づけている。カリキュラム盛衰記を論じる段階ではなく、カリキュラム研究と実践が多く
あり、それらの現実の研究の推移をよく見ていくべきという提起である 。
13
3.科学的な実態調査にもとづく研究調査
3-1.中研と国研の研究調査の関係
中研のカリキュラム研究の基礎に、戦前(1937 年)に開設された岡部教育研究室の研究があ
る。
岡部教育研究室では、
「恩師海後宗臣先生の指導で日本社会の実態研究に基づいて青年教育のあ
り方を自由な立場で設計提案」するために、
「アメリカのスクールサーベイ」を方法論として研究
を推進した。
(
『国研広報』1988 年の矢口回想)そして、科学的な実態調査にもとづく教育計画の
方法論と内容を蓄積していた。戦前に、海後・矢口・飯島の強固な教育調査研究グループが形成さ
74
れ、戦後の中研で開花していったのである。
中研は、
「戦後における教育再建をめざし、教育の内容・方法・組織等について基本的実証的な
調査研究を行い、教育研究の推進と教育現実の発展に寄与」することを目的とした研究機関であ
る。まず始めに戦後の新しい教科である社会科の研究と実践のために多くの力を注ぎいだ。「社会
科は社会生活の現実と課題を基盤とする実証的な学習でなければならない」という考え方をもち、
1946 年秋から海後の指導のもとに、川口市において新しい社会科の研究および実践にのりだし
た。川口市では、市全域にわたって各小・中学校教師の共同作業により社会実態調査を行い、川口
市の現実と課題を明らかにして、学習課題表を作成している。
これらの研究成果については、前述した理論編としての『社会科概論』、実践編としての『社会
科の構成と学習』が発行されている。また同様な考え方にもとづいて、埼玉県三保谷村で中研の第
二の実験プランが実施されている。
「小・中学校、村民の協力のもとに、人々の村の生活に対する
課題意識の調査や村の客観的生活状態の調査を実施し、その結果にもとづいて村の小・中学校の児
童生徒を対象とする社会科カリキュラムを編成」した。三保谷プランの実態調査の報告は、中研研
究誌『教育科学研究』において、矢口が 1949 年に三回にわたり発表している。
矢口は、戦後教育改革期において教育調査の内容や方法において日本をリードする研究者であっ
たと言ってよいだろう。
(後述する雑誌『教育調査』創刊号、1952 年5月参照)この調査研究の力
量は、やがて国研の研究調査においても充分に発揮されていくのである。
1950 年4月に、村上俊亮理事が国研所長代理となり、6月に矢口が国研所員に、8月に飯島が
国研所員に採用となる。
51 年3月富山県総合開発審議会発足し、審議委員に村上が、調査員に矢口がなり、富山県総合
教育計画おいて、矢口は科学的な調査にもとづく教育計画の策定の推進をリードする。また、茨城
県水海道小と富山県北加積小が、国研と中研の中心的な研究実践校となり、矢口がその指導にあた
り、富山県と水海道小から国研に毎年内地留学生を受け入れる。
矢口と飯島は、国研の研究調査部の教育内容室の室長として所員をリードするとともに、委託研
究員として中研の研究も推進していった。国研の事業予算だけでは、カバーできない研究調査を中
研の事業予算で実施していったのであり、それらは、中研の研究成果としてではなく国研の研究成
果に反映され発表されていったと考えられる。いわば、1950 〜 63 年までの国研と中研の関係は、
研究推進役として別組織の中研が国研の背中を支えていたという構造であったと考えてよいだろ
う。
1952 年1月に、国研所長に村上が就任する。そして、53 年3月に、文部省所管の財団法人とし
て中研が認可され、理事長には村上が就任し、監事には国研庶務部長の松本忠太郎がなり、事務所
が国研内に置かれた。
(60 年6月に北区堀船に移転するまで)
中研では、1954 年から 62 年までの長い間、村上俊亮(理事長)、有光次郎理事、海後宗臣理事、
小林澄兄理事、柴沼直理事、矢口理事と飯島監事、委託研究員(矢口、飯島)の体制に、変更はな
かった。途中、中研委託研究員に岩井龍也や岩橋文吉、主原正夫という国研の所員が年度により加
わっている。
1972 年村上理事長辞任、海後理事長就任時直後の 72 年7月に北区栄町の東書文庫内に移転し
た。
75
なお、中研の研究課題は、以下の<表Ⅰ>のとおりである。
<表Ⅰ>中研研究題目一覧
S29 S30 S31 S32 S33 S34 S35
A:高等学校生徒の生活実態及びその意識に関する研究
○
B:小・中学校の学習指導の実態分析
⑴
⑵
⑵
C:教育に関する研究調査の批判的研究
⑴
D:勤労青少年の社会意識に関する実証的研究
⑴
E:教員養成と教育需給状況の調査研究
○
⑶
⑷
⑸
⑹
⑺
⑷
⑸
⑹
○
F:農村勤労青少年の生活と教育に関する実証的研究
⑴
⑵
⑶
G:視聴覚教材の研究及び制作
⑴
⑵
⑶
※中央教育研究所所蔵『理事会関係資料』
『一般文書綴』及び『中央教育研究所 56 年の歩み』より
作成
<表Ⅰ>の中研研究題目一覧と国研「研究題目別・年次別予算額一覧表」(S25 〜 S34)『国立教
育研究所十年の歩み』
(168-169 頁)を比較対照した結果次のことが判明した。
<表Ⅰ>のテーマAは、国研の研究テーマと S28,29,30,32 年が関連し、S32,33 年に国研の調査
報告書がある。テーマBは、S27,28,29 年が関連し、S28,30,31,33 年に報告書、テーマDは、
S28,29 年が関連し、S31 年に報告書、テーマEは S28 〜 33 年が関連し、テーマFは、S30 〜 32
年が関連し、S33 年に報告書がでている。テーマCは、基礎資料や文献の調査研究で基礎になるも
ので図書購入にあてられ、テーマGは、視聴覚教材の制作費用にあてられていた。
国研の教育内容室の中心は研究室長の矢口・飯島であり、中研の委託研究員も矢口・飯島であ
る。さらに中研事務所も国研内にあったことを考えると、国研の調査研究と関連した研究を中研の
予算(<表Ⅱ>で記載した決算よりはるかに多額な事業費予算)で補足することにより、より充実
した国研の研究が推進していったと考えられる。まさに中研の目的である「内外における教育の制
度、内容、方法に関する基礎的調査」を行い、加えて国研ではできない教材映画の制作も行ったの
である。
そのことを、国研と中研の研究に関わる費用から考えてみるために、<表Ⅱ>を検討してみよ
う。
<表Ⅱ>は国研研究調査費が、S24 年 40 万円〜 S34 年 431 万円までの推移を表したものと、
中研歳入 S28 年 314 万円〜 S34 年 361 万円の推移と内訳、中研事業費(研究調査費)の S28 年
9万円〜 S34 年 44 万円の推移と支出項目を表したものである。(額は、千円未満は四捨五入)
国研の研究調査費は、研究員も増え増加しているが財政的に十分なものではなかった。S28 年
(1953)に中研は財団法人になり、国研内に事務所を設けるが、歳入は東京書籍からの社会科教
科書印税が中研に毎年収入として計上されていた。教科書(東京書籍)の著作者は海後宗臣で、海
後が監修、編集委員に矢口と飯島、印税は個人の収入にせず中研としての収入に提供していた 。
14
S31 年からは映画の版権収入が大きなものになっている。賛助金等はない。
76
<表Ⅱ>国研研究調査費と中研収支決算における事業費の内容の内訳
●国研研究調査費(
『国立教育研究所十年の歩み』137 頁「昭和 24 年度以降国立教育研究所予算額」
より作成)
(円)
S24 決算
396000
S25 決算
S26 決算
S27 決算
1260000
1482000
2253000
S28 決算
S29 決算
S30 決算
S31 決算
S32 決算
S33 決算
S34 決算
3422000
3947000
3948000
2727000
4361000
4459000
4308000
◎中研収支決算(中研所蔵『理事会関係資料』『一般文書綴』より作成)
科目
事業収入内
訳:印税は東
S28 決算
S29 決算
1996183
2085026
(印税)
(印税)
S30 決算
S31 決算
S32 決算
(円)
S33 決算
S34 決算
982654
672551
808778
684114
536106
(印税)
(印税)
(印税)
(印税)
(印税)
667100
667699
74800
京書籍教科書
1731800
(映画版権)
(映画版権)
(映画版権)
(映画版権)
(他は略)
繰越金
1100000
2762500
4022964
3315425
3088443
2761683
2189000
歳入計
3141640
5034097
5255301
4960515
5791777
4349529
3612527
284530
617382
904101
766503
747460
1021180
1090416
歳出:事業費
94590
393751
1035775
1105569
2282634
1139252
440759
⑴高等学校
94590
203000
0
0
0
0
0
⑵小中学校
221000
1035775
0
0
0
0
⑶教育に関す
191000
11500
0
0
1446
0
269000
159290
130700
72585
0
0
29450
0
0
0
0
0
117090
55174
26700
980000
15960
25770
⑺研究成果
0
0
240
68400
0
0
⑻研究集会
390070
歳出(人件費
・財団諸経
費)
る調査研究
⑷勤労青少年
⑸教員養成
⑹教育関係資
料
48150
47070
64795
57660
23440
⑼予備費
0
0
0
0
0
⑽視聴覚
747509
901359
2068554
1064186
391549
計
残高
379120
1011133
1939876
1872072
3030094
2160432
1531175
2762520
4022964
3315425
3088443
2761683
2189097
2081352
歳出の事業費は、予算額に比べ決算額は少なく、例えば S30 年度予算額 5,896,000 円に対し決
算額は 1,035,775 円であり、そのうち視聴覚予算(映画作成費等)が S30 年から 747,509 円が支
出されている。結局は、各研究テーマごとの支出は、<表Ⅰ>と合わせて考えると、国研の研究調
査の補充的な必要性があったものに支出されていると考えられる。つまり、矢口・飯島は国研での
77
研究調査を可能とする環境を、中研における活動によって作りだしていたと考えられる。ただし、
国研ではできない映画教材の作成については中研の事業として行っていた。それを企画しリードし
たのは矢口であった。
次に、国研の紀要に発表された、矢口の関わった調査研究を下記<表Ⅲ>に示す。
矢口が室長として働いた教育内容室において、如何に膨大かつ重要な調査研究があったかがわか
る 。これらの調査研究は、戦前の岡部教育研究室から戦後の中央教育研究所の研究蓄積があった
15
から可能になったものである。
<表Ⅲ>国立教育研究所における矢口新の調査研究一覧
○(国立教育研究所時代−紀要発表順)
発表年 題名
分類
頁数 所収
研究者
1952.3 視覚教育の組織に関する調査
初等・中等教育 16 所報 10 号 小川一郎、矢口新
1953.3 全国小・中学校教育課程実態調査 初等・中等教育 462 紀要5集Ⅰ 矢口新、飯島篤信
(第一次報告)
Ⅱ
岩橋文吉、大野健
太郎、宮崎孝一
1953.3 全国小・中学校教育課程実態調査 初等・中等教育 207 紀要5集Ⅲ 矢口新
(第二次報告 第一分冊)
1953.8 全国小・中学校児童・生徒学力水 教育評価
146
準検査
(第一次中間報告)
1954.4 勤労青少年教育調査 第一分冊
勤労青少年教育 212 紀要6集Ⅰ 矢 口 新、 最 上 太
─勤労青少年教育調査の基本構成
門、大野連太郎
農村漁村における青少年の生活
構造と教育上の問題─
1955.3 全国小・中学校教育課程実態調査 初等・中等教育 378 紀要5集Ⅳ 矢口新、小川一郎
(第二次報告 第二分冊)
1955.3 全国小・中学校児童・生徒学力水 教育評価
1955.7
1956.2
1956.6
1957.3
準検査
(第二次中間報告)
全国小・中学校教育課程実態調査
(第二次報告 第四分冊)
勤労青少年教育調査 第五分冊
全国小・中学校児童・生徒学力水
準検査
(第三次中間報告)
高等学校に関する調査 第一次報
告
─学区制と学校。課程配置の問題
242
初等・中等教育 383 紀要5集Ⅵ 矢口新、宮崎孝一
勤労青少年教育 199 紀要6集Ⅴ 矢口新、山口忠信
教育評価
308
初等・中等教育 727 紀 要 8 集 矢 口 新、 飯 島 篤
Ⅰ、Ⅱ
信、岩橋
文 吉、 宮 崎 孝 一、
清水正三郎
1957.3 国際理解の見地による社会科教科 初等・中等教育 195 紀要9集
矢 口 新、 岩 井 龍
書の分析
也、大野
連 太 郎、 主 原 正
夫、山口忠信、最
上太門、元木健
78
1958.3 全国小・中学校教育課程実態調査 初等・中等教育 260 紀要5集Ⅸ 矢 口 新、 飯 島 篤
(第二次報告 第七分冊)
信、大野連太郎
1958.3 青年学級に関する調査
勤労青少年教育 131 紀要 10 集 矢 口 新、 岩 井 龍
也、山口忠信、元
木健
1958.3 農山漁村における青少年の生活類 勤労青少年教育 100 紀要 14 集 矢口新、山口忠信
型と教育上の問題
1958.3 国際理解の見地による社会科教書 初等・中等教育 166 日本ユネス 矢 口 新、 飯 島 篤
の分析
コ国内委員 信、岩井龍也、主
会報告書お 原 正 夫、 山 口 忠
よび英訳報 信、宮崎孝一、清
告書
水 正 三 郎、 元 木
健、最上太門、島
田祥生
1958.3 高等学校に関する調査 第三次報 初等・中等教育 105 紀要8集Ⅳ 宮崎孝、矢口新
告─生徒指導の実態と問題
1959.3 学力調査における学力診断の問題 教育評価
303 紀要 14 集 矢 口 新、 元 木 健、
点─学力水準調査報告─
1959.7 History of Industrial Education inJapan
大野連太郎、山口
忠 信、 主 原 正 夫、
岩井龍也、最上太
門、飯島篤信、宮
崎孝一
初等・中等教育 197 日本ユネス 矢口新
コ国内委員
会
1959.10 産業技術教育に関する研究
初等・中等教育 56 紀要 19 集
─仕事の分析から見た教育の問
題─
1961.3 産業技術教育における学科と実習 初等・中等教育 53 紀要 28 集
の関連に関する実験的研究─ラウ
ンド方式の試み─
1961.3 留学生教育の実態と問題
高等教育
119 紀要別冊
1962.5 学校教育における道徳性形成の実 初等・中等教育 65 紀要 31 集
態と問題
1966.3 後期中等教育の再編成に関する研 初等・中等教育 265 資料集
究
1967.3 プロジェクト方式における技術活 初等・中等教育 98
動の成立条件─第一次報告─
紀要 55 集
矢 口 新、 岩 井 龍
也、主原正夫、山
口忠信、元木健
矢口新、元木健
矢 口 新、 宮 崎 孝
一、山口忠信、元
木健
主原正夫、矢口新
参加機関 13, 参加
人 員 50 人( う ち
国立教育研究所員
25 人)
矢 口 新、 山 口 忠
信、元木健
3-2.研究誌『教育科学研究』と教育調査
戦後教育改革期に於ける中研の到達点が中研の研究誌『教育科学研究』に述べられているのでそ
れを見てみよう。中央教育研究所の第二の実験プランである三保谷プランの全盛期に、中研研究誌
79
『教育科学研究』が、中研編集代表者矢口新、中央教育出版代表者倉橋政之として、1949 年の一
年間だけ発行されている。その目次の一部を紹介すると、
○創刊号 Ⅰ─1:1949 年1月1日発行(全 58 頁)
創刊の辞 所長 小笠原道生…1
主張 教育の現実研究 研究部長 海後宗臣…2
研究報告 カリキュラム構成の為の実態調査(一) 矢口新…15-27
○Ⅰ─2 :発行日付なし(全 52 頁)
第三号予告あり
研究報告 カリキュラム構成のための実態調査(二) 矢口新…1-13
○Ⅰ─3・4:1949 年 10 月1日発行(全 72 頁)
研究報告 カリキュラム構成のための実態調査(三) 矢口新…1-14
であり、矢口の研究報告が各号の全ての号で論文冒頭に掲載され、「カリキュラム構成のための
実態調査」が、シリーズとして論じられている。この研究誌は従来プランゲ文庫でのみでしか確認
できなかったものが、矢口教育学研究会での水海道小調査(2007 年)の時に当時の校長(猪瀬嘉
造)所蔵印のある原本が5セット発見され、メモ書きもあり現場の実践の理論的指針として重要な
意味があったことが確認されている。
では、詳しく矢口の論考をみてみよう。
(以下、引用は巻号と頁のみ記載)
なぜ、実態調査が必要なのか。それは、
「あらゆる土地に普遍的に通ずる知識のカリキュラムでなくして、夫々の土地に特有な生活
のカリキュラムを置こうとしている。そうでなくては社会の実態調査などという事は意味をな
さないのである」
(Ⅰ - 1、16 頁)
として、知識カリキュラムでなくて生活カリキュラムであるから、実態調査は意味を持つことを
述べている。<実践者の育成>のためには生活実践を通じた生活カリキュラムでなければならない
ことが基本になっている。その実態調査は、
「カリキュラム構成の為の実態調査が以上の様な生活カリキュラムの考え方に立つとすれば、
曾つて行なわれた所の郷土の認識を目的とした郷土調査の如きものや、或いは社会の法則発見
ということを任務とする社会学的ないわゆる社会調査の如きものとも完全に一致はしない。や
はりカリキュラムの為の調査として独自の内容と方法」(Ⅰ - 1、20 頁)
を持たなければならないとした。生活のとらえ方も「生活は主体─環境の力動的関係に於いて進
展の契機としての問題を中心にして成り立つ」
(Ⅰ - 1、23 頁)として、動的な生活観をふまえ、人
間の主体的実践と環境との相互作用と人間の形成をダイナミックにとらえている。そのため、カリ
キュラム構成の為の基礎調査には
80
「一つはここに述べた社会の課題の調査即ち社会の実態調査を中心とするこれまで述べた領
域であり、他の一は児童の心理構造の中に社会の課題、その問題をとく生活単位を据えてみ
て、子供の問題をとらえ子供の生活単位を構成してカリキュラムの直接の基礎を把握するこ
と」
(Ⅰ - 1、26 頁)
の二つの分野があることを明らかにしている。
なぜ、地域調査を重視するのか。
地域社会を地盤としないカリキュラム構成は考えることができなく、実態調査は当然具体的な地
域社会を単位として行われるべきであるとした。なぜなら、
「現実の生活は具体的には一定の土地で営まれ、而も夫々の生活者によって特殊な内容を
持って居り、最初から時空間的な構造をもっている。生活カリキュラムの立場をとるとすれば
この生活の時空間的な構造を無視することは出来ない。否この時空間的構造の中に於てのみ真
の生活カリキュラムが成り立つといわなくてはならない。これが最近カリキュラム構成に於て
所謂地域性が重視されるに至った理由」
(Ⅰ - 2、3頁)
だからである。
「人間の形成は単に普遍化にあるのでなく、具体的な生活者として具体的な生活
場面に於ける具体的な実践者として行動せしむること、むしろ具体化にある」(Ⅰ - 2、5頁)と
した。地域性重視批判に対しては、
「具体的な地域社会を単に特殊と見るのは適切ではない。むし
ろ具体的なるものは普遍と特殊の弁証法的統一である」(Ⅰ - 2、6頁)と論じている。
また、カリキュラム全体に対しては、
「カリキュラムは結局生活過程の自覚的構成と考えられる。従ってそれは生活者が自ら生活
の設計をする所に構成させるのが最も理想的である。人間形成に於ける最高の段階として、
我々は自己教育の形態を考えることが出来る。それは人間が自己の生活に於て自覚的に自己を
磨く過程を歩むことであろう」
(Ⅰ - 2、6頁)
と述べている。
「学びの履歴」
「学びの自己設計」「自己教育の過程」としてのカリキュラムとい
う現代的なカリキュラム論にも通じる論の展開である。
矢口は、徹底した現実の実態調査をふまえたカリキュラム構成、すなわち教育内容の現実性・課
題性を重視し、従来のカリキュラムにみられる観念的なものに対する批判を徹底的に行っている。
カリキュラムを、
「予定に従って一歩も変更しないとすれば、そこには生活は成り立たず観念の世界に住むこ
とになり、現実からは遊離するのである。それは曾って教科書学習によってカリキュラムを構
成したと同様に、現実の生活とは全然係りのない、観念的世界に生徒を遊ばせることになろ
う」
(Ⅰ - 3・4、3頁)
81
とした。さらに、課題については「観念的に考えられたものでなく、あくまで生活の中から人を
動かすものとしてあるものでなくてはならぬ。これが地域社会の地盤に於て課題が把握されなけれ
ばならぬ所以」
(Ⅰ - 3・4、9頁)と論じている。そして、
「課題を把握する場合に前に述べた如く単にその地域の立場だけに立っては真のものは把え
ることは出来ない。世界的、日本的課題がこの地域に於いて具体化されていることに於て真の
課題といいうるのである。この地域が地球上のそういう位置にあり、世界的構造連関の中にあ
るという現実に於て真の課題といいうるのである。この地域が地球上のそういう位置にある、
世界的構造関連の中にあるという現実に於てそういう課題が生れて来るのである」(Ⅰ - 3・
4、12 頁)
とも述べ、世界的、日本的課題が地域において具体化されている課題だと把握しており、今日の
グローカルな視点の重視につながるものでもある。
さらに、矢口は 1950 年の段階で次のように述べている 。
16
アメリカはカリキュラム研究に入って既に五十年になっていることを考えてみなければなら
ぬ。一九一〇年代に既に多くの社会調査や児童調査が行われる気運が生じて、今だにそれが着
実に実施されているのである。実態調査によるカリキュラム構成はこの意味では革命的な意義
をもつものである。膨大な社会組織と教育組織、生活の複雑化に応じて起こった現実把握の新
しい方式であって、このメカニックな手段が、やがて集積されて行くならば、それによりカリ
キュラムが根本的に改革される時が来るであろう。
矢口の確立しようとした実態調査の理論は、革命的な意義をもっており、カリキュラムの根本的
改革をめざしたものであった。
3-3.富山県総合教育計画における教育調査
矢口が 1951 年に、富山県総合開発計画の調査員に委嘱されている。恩師の海後に相談し、励ま
され、岡部教育研究室以来の蓄積が生かされていった。「富山県総合教育計画における教育調査」
全国教育調査研究協会『教育調査』Ⅰ - 1(創刊号)(ぎょうせい、1952 年5月、3-19 頁)の論
文で、矢口が教育調査の重要性について論じている。全国教育調査研究協会は、文部省調査普及局
調査課内に置かれ、理事長は文部省調査普及局長が務めていた。中研理事の辻田力、柴沼直も調査
局長出身である。この創刊号の冒頭の論文である。そこでは、次のように教育計画の意義をのべ、
科学的実証的な教育調査が基礎になることを述べている。
「教育計画というのは、教育の現実態についての具体的な到達目標を描き、それに到達する
ための社会的な実践の順序を科学的に予測したものである。本質的にはこういうものがなけれ
ばいつの時代の教育であっても、進展しないはずのものである」(同、3頁)
「みずからの現実を分析し、理想をその中から生み出し、その実現に要するみずからのエネ
82
ルギーを計測し、その実践を計画するというごときには、われわれは最も不得手とするところ
なのである。いわば科学的な教育計画というのは一種の創造であって、模倣ではできないとい
うことである。…中略…戦後カリキュラムに関して地域的な計画ということがいわれ、しだい
に現実的、実証的な態度でみずからの教育を考える傾向が育ちつつある。これはきわめて好ま
しいことであって、教育委員会制度による地方の教育の自立とともに今後この傾向を助長すべ
きものであろう。…中略…こういう点から考えても今年度、富山県において総合教育計画が樹
立されたことは一つの注目すべきできごとであると思われる。筆者もそれに関係したもののひ
とりであるが、次にその計画樹立の方法についてそのために行った調査を中心として、述べて
みたいと思う」
(同、4- 5頁)
として、富山県総合教育計画の作成とその中で教育調査がいかに行われたかを論じている 。矢
17
口の行った仕事は、全国最初の都道府県単位での総合教育計画であり、これ以降の教育委員会や教
育研究所が関係する教育調査に大きな影響を与えたのであった。
4.社会科教科書づくりと視覚教育の理論と実践
4-1.矢口の教科書論と社会科教科書作成
中研は、社会科の本質やねらいを明らかにする一つの具体的な方法として、1946 年からアメリ
カで使用されている教科書やワークブックの研究に着手した。
「私どもは当時教育思想などよりも教育実践の基礎となるカリキュラム問題に興味をもって
いたので、カリキュラム研究書やその他のカリキュラム資料、さらに教科書を見たいと考え、
これらのものを次第にとりよせてくれたので、これを借りて研究に使うことができるように
なった」
「特に小中学校教科書教材がアメリカの学校で何を教えているかを知るのに最も緊要
な資料であると考えてこれをとりあげるようよう求めた」「間近に切迫している教科書編集出
版に備えて、アメリカ教科書の研究を行った。昭和二一年七月から九月にかけて「アメリカの
新教科書に関する展覧会」を東京、大阪、福岡において開いた」(『海後宗臣著作集』第一巻、
406 頁)
その際にこれらの教科書の性格、使用方法等を解説批判したパンフレット「アメリカの新教科
書」を編集した。
「社会科は従来の地理や歴史のような単なる教科書的な知識の学習でなく、あく
までも社会の現実と取り組ませて実践的知性を育てる学習でなければならぬ」 をふまえた教科書
18
づくりである。
海後は、
「教育内容は教科書のなかに書かれたことから出てくるのはなく、われわれが育てあげ
ようとする人々の生活の現実の中から求められる」べきで、「教育内容は学習指導要領によって固
定されるべきではない。教育内容を編成して教育課程をつくる際に、指導要領に示されたものは一
つの筋書きとしてうけとられるのが正しい」のであり、教育内容の地域性を重視し、現実性・課題
性をもつ動的な教育内容観を教科書づくりの基本とした。(『教育原理』、『海後宗臣著作集』第一巻
83
160-161 頁)海後・矢口らの中研では、地域の実態を生かし、子どもの学習の進展に子どもの課
題や現実に即して、創意工夫しながら、多様な教材や教育方法を駆使できる教科書づくりをめざし
たのである。
矢口は、富山県北加積小などの実践や国研での教育課程実態調査をふまえて、現場で支持される
社会科教科書づくりに長い間かかわっていった。1950 〜 68 年の間、海後宗臣監修の東京書籍版小
学校教科書の編集委員として仕事をし、
『社会科教材研究』(法政大学出版会、1957 年)には社会
科の理論と実践が述べられている。
下記<表Ⅳ>が、矢口が編集委員としてかかわった教科書である。監修者の海後と編集委員の矢
口、飯島は中研の中心的な研究者であり、50 年から 68 年まで、継続したメンバーである。下記<
表Ⅳ>の*印の編集委員の*3人は矢口新、飯島篤信、高橋早苗であり、*5人はこの3人に田中
正吾・磯野昌蔵が加わったもので、それ以上の人数はこの5人に他の人を加えたものである。
<表Ⅳ>東京書籍小学校教科書一覧
海後宗臣監修:矢口新、飯島篤信、高橋早苗の3人は 1950- 小学校社会科教科書
1968 編集委員の中心メンバー(発行年度)
:編集委員人数:〜 学年
1955 の5人は上記3人+田中正吾・磯野昌蔵(元中央教育研究
所メンバー)
あたらしいしゃかいか(1951)
:*5人
2年、3年上下
新しい社会科(1950)
:*5人
4年、5年上
新しい社会科(1951)
:*5人
5年下、6年上下
あたらしいしゃかいか(1952): *5人
1年
改訂あたらしいしゃかいか(1952): *5人
2年、3年上下
改訂新しい社会科(1952): *5人
4年上下、5年上下、6年上下
あたらしいしゃかいか(1953)
:*5人
1年
改訂あたらしいしゃかいか(1953): *5人
2年、3年上下
改訂新しい社会科(1953)
:*5人
4年上下、5年上下、6年上下
あたらしいしゃかい(1955): *5人(2年)
:*7人
2年、3年上下
あたらしいしゃかい(1956)
:*3人
1年
改訂あたらしいしゃかい(1956)
:*8人
2年、3年上下
新しい社会(1955)
:*9人:*7人(6年)
4年上下、5年上下、6年上下
改訂新しい社会(1956)
:* 11 人
4年上下、5年上下、6年上下
新編あたらしいしゃかい(1958): *3人(1年): * 16 人
1年、2年
新編新しい社会(1958): * 16 人
4年上下、5年上下、6年上下
あたらしいしゃかい(1961)
:*3人(1年)
:* 29 人
1年、2年、3年上下
新しい社会(1961): * 29 人
4年上下、5年上下、6年上下
新編あたらしいしゃかい(1965): * 26 人
1年、2年、3年上下
新編新しい社会(1965)
:* 26 人
4年上下、5年上下、6年上下
新訂あたらしいしゃかい(1968): * 26 人
1年、2年、3年上下
新訂新しい社会(1968)
:* 26 人
4年上下、5年上下、6年上下
84
さらに、教科書とあわせて使用する資料集になる少年朝日年鑑(1949 年〜 1970 年)(朝日新聞
社)の作成に継続的に関わっていた。
では、矢口の教科書論について見てみよう。川口プランの発表された 1947 年段階では、参考書
としての社会科教科書論を述べている 。
19
「あまりいろいろの知識を与えようとするのが従来のへきに陥っているのである。従来の教
科書は先生が教えなければ生徒は自分で読めなかったのであるが、こんどの教科書もそういう
所が多いのである。覚える所のない教科書、やさしく子供の世界で物語が展開されていて、し
かも考えさせるような教科書をつくらなくては本当に参考書のような教科書にならないのであ
る。暗記されては困るような教科書をつくらないで暗記出来なくて困る教科書をつくってもら
いたいものである。
」
「その意味でも早く国定制度が廃されて、いろんな教科書が出来、一学級
の生徒でもいろいろな異なった教科書をつかって自分の学習をすすめることが出来、又いろい
ろな教科書を何種類も使って学習するような形になりたいものである。」「この一冊ですべてに
わたろうとするのが、平均にあらゆることを浅くわたって出来上った地域を押しつけることに
なるのである。そういう教科書の性格と社会学習の参考書としての性格とは根本的に相容れな
いものである。思い切って狭く深く我々の生活の問題に合せて考え方を展開するという態度を
とらなくてはよい社会科教科書とはなるまい。」
旧来の知識主義、注入主義、中央画一主義の教科書を批判し、参考書としての教科書とともに、
この状態を打破する方法の一つとして、
「私は教科書と結合した教材を教科書会社が製作して提供
してくれるのがいいと思う。私は教科書会社が、視覚教材を製作提供してくれるのを待っている。
それが新しい形の教科書をつくった教科書会社の次の仕事ではないかと思っている」 として、教
20
科書と結合した教材や視覚教材の必要性を論じている。実際に少年朝日年鑑や社会科教材映画大系
の企画をリードしていくのである。さらに、今までのような全国一律の教科書は不要で、子どもに
はいろいろな読み物が必要で、たくさんの教科書が必要だということも主張している。(「社会科学
習に望まれる教科書」
『教育復興』東京書籍、1948 年9月)
教育内容=教材 を中心にした社会科論が矢口の特色であり、最終的には、北加積小の実践を踏
21
まえて、
『社会科教材研究』
(法政大学出版会、1957 年、増補版 1966 年)として矢口の社会科論が
完成していく。そこでは、教科書は、社会学習の教材であり、「教科書と教師のちがいは本質的に
はないようである。少なくとも教師のもっている社会像が児童・生徒の社会像と対決して、児童・
生徒をのばしていく点については同様であるといえる。ただ教科書は、比較的正確に概念、命題が
書かれている。それは時間をかけてつくられているだけ洗練されているといえよう」(同、53 頁)
と教科書の特性を述べている。また、
「先人が見た社会を材料として教科書には或る内容のことが
記述されているが、それを材料として生徒は自分の目を養うのである。自分の社会に対する反応の
しかた、社会事象をとらえるとらえかたを身につけるのである。ただ社会科の教科書はそういう立
場でつくられていないのが現状である。いわば注入主義の考え方でつくられている。そこに教材と
85
しての価値が乏しい理由があるのである。それを改編するのは今後のことに属するといってよい。
しかし、本質的にはやはり教材である。つまり人間能力を開発するための媒介物なのである」(同、
315 頁)として、注入主義を厳しく批判し、
「われわれ大人も、子供の目で新しい教科書を書く努
力をすること、そのためにはあまり指導要領がない方がよいということなどは、ここまでくると、
痛切な感想である」
(同、327 頁)として、子どもの視点にたった教科書づくりの大切さについて述
べている。
4-2.矢口の視覚教育論と教材映画
自ら調べ課題を発見し探究する自己教育の進展に不可欠な資料集の『少年朝日年鑑』(朝日新聞
社、1949 年〜 70 年)や『社会科教材映画大系』
(全 37 作品)の計画立案(1950 年)と各作品の
企画・監修の中心として、矢口は活躍する。加えて、中研としても教材映画を制作することにな
る。
映画教材論と実際の作成をリードしたのが、矢口であった。当時の矢口の影響力については、國
分麻里「初期社会科における教材映画の特色─「社会科教材映画体系」を手がかりとして─」全国
社会科教育学会『社会科研究』第 79 号、2013 年にも論じられている。國分論文では、「海後の考
えを引き継ぎ.教材と映画を具体的に結びつけた中心人物が矢口新である」(同、4頁)とし、「矢
口にとって教材映画は教育的意図を背景にしたドキュメンタリーであり、その条件として、真実
性、子どもの理解、子どもの生活の3つが大切であることを述べていた」(同、4頁)としている。
『社会科教材映画体系』の原案が矢口らの中研メンバーに委嘱されたことも述べており、1950 年
代の視聴覚教育論や映画教材論において矢口や中研の果たした役割が如何に重要であったかを論証
した貴重な研究である。
他に、吉原順平『日本短編映像史』岩波書店、2011 年 11 月、134-163 頁にも、矢口の教育映画
論について述べられている。最近では、丹羽美之・吉見俊哉編『戦後復興から高度成長へ─民主教
育・東京オリンピック・原子力発電─』
(東京大学出版会、2014 年7月)において、第1部「社会
科映画と戦後民主化」
(17 〜 100 頁)にも矢口がとりあげられている。同書では、筆者も参加して
いる矢口教育学研究会で発見した教材映画などをもとに、戦後民主化に果たした矢口らの歴史的役
割が述べられている。つまり、教育研究以外の分野でも矢口の仕事が再評価されてきている。
以下の<表Ⅴ>は、矢口が企画・監修した教材映画である。社会科教材映画大系の「はえのいな
い町」
「私たちの学校」
(1950)は水海道小を舞台にした映画で、自治活動・社会学習により新教
育・民主教育が如何に生き生きと実践されているかを描いた教材映画であり、矢口はシナリオ作成
にも全面的に参加している。さらに中研としても多額な費用をかけて「おかあさんのしごと」
(1956)や「近代工業シリーズ」
(1957)の映画を制作している。
<表Ⅴ>矢口が企画した教材映画
社会科教材映画体系(全 37 作品)の計画立案と各作品 社会科教材映画大系
の企画・監修
1950「はえのいない町」
社会科教材映画大系 岩波映画製作所
1950「私たちの学校」
社会科教材映画大系 理研映画
86
1956「おかあさんのしごと」
社会科教材映画
中央教育研究所
1957 近代工業シリーズ 「綿紡績」
社会科教材映画
中央教育研究所
「近代工場」
社会科教材映画
中央教育研究所
「進んだ技術」
社会科教材映画
中央教育研究所
「工員の仕事」
社会科教材映画
中央教育研究所
「工場で働く人々」
社会科教材映画
1958 〜 69 日本歴史教材映画体系の企画・監修(全 15 映画作品
中央教育研究所
記録映画社/教配
本)
1958「昔の旅」
「飛脚」
「大昔のくらし」
「昔の農民」
映画作品
記録映画社/教配
1959「武士のくらし」
「貴族のくらし」
「古代の人々」
映画作品
記録映画社/教配
1960「室町時代の文化」
「大和の国のはじまり」「武士 映画作品
記録映画社/教配
のおこり」
1961「江戸時代の商人」
映画作品
記録映画社/教配
1962「戦国時代」
映画作品
記録映画社/教配
1965「明治のはじめ - 文明開化 -」
映画作品
記録映画社/教配
1968「近代工業の発達」
映画作品
記録映画社/教配
1969「民主主義のあゆみ」
映画作品
記録映画社/教配
教材映画の制作を先駆的に実践した矢口の視覚教育論をみてみよう。視覚教育論は、カリキュラ
ム論や社会科論としても論じられている。
矢口の最初の単著『カリキュラムと視覚教育』(日本映画教育協会、1949 年 11 月)において、
「明治以後の知識教育を清算して、ここに新しく眼を養う教育の方式」(同、33 頁)、すなわち視覚
教育へ転換しなければならないとする。そして、「眼を養う教育は自ら見ることに於て、成立つの
である。誰かに与えられるのではない。その基本構造に於ては純然たる自己教育構造」であるの
で、
「眼が養われることの中に、その見るものの内容理解もあるのである。教師はその際に何を見
せるかを考慮してやるのである。この自己教育構造に於て新しい視覚教育が成立つのであり、それ
故に新しい現実からの教育の中に重大な位置をしめるのである」(同、36-37 頁)とした。視覚教育
論を打ち立て実践を広めることが「新しい現実の教育」=新教育にとって必須の課題であったので
ある。この課題に正面から向き合っていったのが矢口であった。①矢口新・阪本越郎・長谷川和夫
編「視覚教育─その原理と方法」
(
『新教育講座』第4巻、新教育講座刊行会、1950 年 12 月)、②
「聴視覚教育の方法」
(東京大学文学部教育学研究室編『講座 学校教育第6巻』目黒書店、1950
年)
、
「新教育と映画」波多野完治編『聴視覚教育新書(1)』(金子書房、1950 年)が当時の理論
的な著作であるが、視覚教育論を全面的に展開しているのは矢口である。
矢口は、
「視覚教育─その原理と方法」の、カリキュラム視覚化の理論では、「概念教育は , 言い
かえれば言葉だけの教育といってもよいであろう。言葉だけの教育がどうしていけないか、それは
真に人間の行動を育成することにならないから」(同、22 頁)として、「経験のない知識すなわち概
念だけでは空虚なのである。この空虚な概念がこれまで往々にして誤って考えられ、教育が概念の
教育だけになってしまったのである。そして、教育は概念を与えることだというように、唯それだ
けが考えられ、経験ということを教育から見失う傾向があったのである。われわれは、知識教育を
87
批判するのであるが実はこういう概念教育の体系を問題にしているのである」(同、23 頁)とした。
「すぐれた人間というのは、こういう概念をすぐれて豊富な経験から整理把握した人間のことをい
うのであろう。こう考えると真に知識を持つ、いわば生活において働く知識、或いは知性をもつた
めには、経験を整理して概念として把握するということを積み重ねて行くことが必要なのである。」
(同、23)頁とも述べ、教科書教育の方式を転換し、「学習経験化の地盤」の重要性について論じ
ている。
その学習経験について、
「われわれが今問題にしている経験は、そういう一面的なものでなく、全体的な行動的経験
であり、そこから概念を整理し、判断を生み出して来る基盤としての経験なのである。そこに
自主的、行動的な人間が、形成される理由がある。子供に自己の経験世界を出発点としなが
ら、これを自らの力によって判断し、自主的に処理させようとする。そういう典型的な経験を
教育の中に入れようとしているのである。経験の数より質が問題である」
(同、31 頁)
とした。経験カリキュラムの三つの層においても「教科書を中心とした概念方式」にかえて、
「経験から概念への方式」を中心としたカリキュラムの転換をめざしたのである。
さらに、
「視覚材料として置かれる限りそれらは半具体性をもつと云えよう。こういう半具体的
なものを使って、学習を組み立てる所に新しい教育の意味があるのである」(同、45 頁)として具
体と抽象の中間段階の認識の重要性に着目している。また、「自己学習の構造は教師の活動を根本
的に変化させる。教師はこの場合、生徒の見分ける活動の仕方についての指導者であって見分けて
何を把握して来るかは生徒自らにまかせらるべきものである」(同、50 頁)と視覚教育論にもとづ
く教師のあり方を論じ、
「問いを自覚しないで見ることは無意味であるから生徒に問いをもたせる
ことが教師の仕事である。
」
(同、51 頁)とした。自作活動=構成活動についても、「経験から概念
への構成それから実践という段階へ一歩近ずいた活動である。従って自作することの意義はやはり
実践的世界へ一歩近ずくという所にあるのであって、この点が忘れられて、みたものを唯、模写す
るような自作ならば何の意義もないわけである」
(同、53 頁)として、実践上の注意点も指摘して
いる。
視覚教材の管理についても、
「教材ライブラリー運営委員会の如きものを設けて、各学校の教育計画の責任者を委員とし、
その協議によって根本的な方針が定められるべきであろう。それは当然各学校の教育計画の変
更を要求するものであるから、そういう意味で地域教育計画の委員会の如きものがこれに当る
のが望ましいのである」
(同、247 頁)
とした。矢口の論は社会教育まで及び「社会教育視覚化の基本問題」の章で、「教育の本質から
云えば、自己教育が最もすぐれた教育の姿だといえよう。子供はその自覚が欠如しているから教育
者の補助によって次第に自己教育の段階に進ませようとするのである。学校教育はいわば、自己教
育という教育の本質から、その自覚が欠如している所に生まれたものと言えよう」(同、282 頁)と
88
した。さらには、社会教育について、
「社会教育においては、曾っての学校教育方式の影響を受けた概念教育の方式は、全く影を
没して、新たな実践的、経験的方式による人間形成が行われるであろう。人々が相互に意志を
疎通し合うこと、それにより相互に思想の交流をし、それを地盤にして直接現実世界に働きか
け、現実の改造運動を行う。それは現実に働きかけることであり、現実を分析することであ
る。これはもとより社会的実践としての人々の共同によって行われる」(同、285 頁)
と社会教育の特質を明らかにし、期待もした。そこで、「社会教育の本質的なあり方を私は運動
としての自己教育において把えたが、これは極めて高次の段階のものとも云える。自己教育の社会
化されたものである点、人間形成の媒介物としては、根源的意味をもつ現実それ自体の改造運動で
あること、その意味で組織的な生活改造運動としての社会教育は、究極の教育的段階であるといえ
よう」
(同、287 頁)と社会教育の重要性について論じている。「映画を見ること一つが社会教育な
のではなく、問題を追求して人々が運動し、知識を求め、研究する所に社会教育があり、そこに豊
富な材料を提供するものとして映画」
(同、290 頁)の意味があるから、映画を見る時には「概念を
受けとることに教育があるのではなく、様々な材料にふれつつ自ら概念をつくりあげる所に真の民
主的社会の人間教育があることの自覚が必要である」(同、291)と述べている。「社会学習の視覚
化」
(
『教育復興』東京書籍、1950 年6月)にも同様の論が展開されている。
また、
「学習映画と娯楽映画─映画教育の現状と問題─」(『映画教育』日本映画教育協、1950 年
10 月)や「社会科教材映画体系原案」
(
『視聴覚教育研究協議会資料』日本学校映画教育連盟、
1950 年)においては、現状分析と今後の方向性を的確に論じている。「教材提出の近代的方式」
(
『教育創造』高田教育研究会、1951 年7月)においては、「本質的に云うと、教科書が次第に映
画的な表現の世界に近づいて行っているということで、そういう点からいうと教科書はもはや映画
の次に位するものである。従って教科書に関するそういう努力には限界があるのである」(同、5
頁)という論まで突き進んでいる。今日のデジタル教科書とデジタル教材のあり方に関する問題提
起が 60 年以上前にすでに行われているのである。
矢口は「聴視覚教育の方法」
(東京大学文学部教育学研究室編『講座 学校教育第6巻』目黒書
店 217-244 頁、1950 年)を担当執筆している。ここでも、重要な論点を提起した。そこでは、「唯
知識を所有するだけでなく、実践の世界で知識を使い積極的に行動する人間を育てようとする」な
らば、
「知識を盛った教科書が学習の中心に位置しなくなる。知識はむしろ行動することを通じて
結果として成立するものである」
(同、218 頁)とし、
「聴視覚材料は知識を確実にするための道具ではなく、むしろ現実を表現しているのである。
それを子供が自ら見わけ、聞分けて、判断し、合理的に考える材料である。」(同、219 頁)
「映画の使い方も従来は教科書の観念を与える補助具として使われていたが、より本質的な
使い方がなされなければならぬ。映画は教科書の観念を確認するための道具ではなく、生徒が
ぶつかって行く現実を表現するものである。」(同、227 頁)
89
と論じているのである。今日のデジタル教科書が教科書の補助としての使用される傾向から脱皮
して、多くの可能性のある教具であることを指し示す矢口の論である。
「新教育と映画」波多野完治編『聴視覚教育新書(1)』(金子書房、1950 年、3-69 頁)におい
ては、世界と日本の教育の歴史から論述し、結語として次のように述べている。
われわれは明治以後八十年間の間に近代教育の一応の体制をととのえた。そして八十年間に
われわれの先輩が予想した近代教育形態を実現したのである。われわれの現在の教育の形は、
実は八十年前の形であるのである。
この八十年の間に社会はさまざまな進歩と変化をとげたが、教育において、とくに学校生活
の形において、八十年間の間に幾何かの進歩があったというであろうか。われわれは八十年前
の伝統の中に入りこんでいて、その惰性の中にあってなんら怪しまないでいる。しかし一度眼
を外に転じて、学校に帰って来ると、学校は社会の進歩とはあまりに遅れた姿で横たわってい
るのである。教育がこのように社会の現実の進歩からとりのこされていてよいのであろうか。
われわれは教育改革について、もっと真剣に、もっと現実的にならなければならないのではな
いか。
視覚教育が主張されるのは、こうした教育の現実的改造を実現しようとしているからにほか
ならない。
矢口をはじめとする中研の、今から 65 年前の戦後教育改革への思いである。
▪ おわりに
中研は、戦前からの系譜をもつ研究者(海後・矢口・飯島、小林)と文部官僚(小笠原、村上、
有光、辻田、柴沼)と教科書出版関係者が運営を担っており、その体制の中で新教育の研究は推進
されていった。矢口は、中核的な研究者として、中研時代(専任研究員)から国研時代(委託研究
員)に、①地域教育計画論と呼ばれるカリキュラム論、②科学的な実態調査にもとづく研究調査の
確立と実践、③社会科教科書づくりや視覚教育、という三つの重要な仕事を通して、戦後教育改革
の 1940 年代後半から 1950 年代にかけて、戦後新教育の基礎づくりに寄与したのである。この基
礎は、戦後教育の形となって今日においても継承されているものである。
他にも、矢口は 1950 年代に今日的な市民性教育の先駆となる論文「政治教育の理論」蝋山政道
編著『政治教育の理論と実践』
(新日本教育協会、1955 年)を著している。また、「働く青少年」
に対する教育の充実のために学校教育だけでなくむしろ社会教育を含めた生活全体からの教育の改
善を求めて研究を推進し、
「生活と教育の地図」村上俊亮・東畑精一・矢口新監修『働く青少年4』
(一橋書房、1956 年)や中研編『農村の青少年教育』(文教書院、1957 年)を著している。
その後、1960 年代には、矢口は視覚教育の限界を授業分析・調査から認識した結果、1960 年か
らプログラム学習の研究を開始し、61 年に「学習オートメーション研究会」を結成し、全国的に展
開した。さらに、63 年に「全国プログラム連盟」を発足させ、同連盟の事務所を中研内においた。
それから、50 年後の今日、戦後教育の体制が大きく転換しそうな動きが強まるなかで、中研が 70
90
年の歴史を背負い存在し続けている。中研設立時の思いと研究の蓄積、さらには戦後教育の進展に
果たした役割や継承すべき遺産を再度確認していく必要がある。本研究がその一助になればと考え
る。
注1)‌鈴
木英一「解題─アメリカ教育使節団報告書による日本教育の改革─海後宗臣」
『季刊教育法』
(エイデル研究
所、1988 年1月)を参照すると、戦後教育体制を確立するにあたり、海後宗臣らは①学校体制②教育内容③教
育方法の三つの民主化を課題としていた。その中で教育内容・方法の設計をする教育研究機関が必要とされ、
その役割を担うものとして中央教育研究所が位置づけられたと考えられる。
注2)東大カリキュラム研究会著海後宗臣監修『日本カリキュラムの検討』明治図書出版、1950 年、38-39 頁。
注3)‌川
口プラン発表時の中研発行『社会科概論』
(47 年12月)と海後宗臣の『教育編成論』
(48 年3月)は、海後
宗臣のカリキュラム論を示すものである。梅根の『新教育への道』
(47 年12月)
、
『生活学校の理論』
(48 年
10月)
、
『新教育と社会科』
(48 年8月)
、
『初等理科教授の革新』
(48 年12月)は、梅根の浪人時代(川口市
助役をやめた 47 年4月から48 年2月に東京文理科大の助教授になるまで)
、すなわち中研所員時代に執筆し
た著作である。
(梅根悟編『教育学研究五十年の歩み』1973 年、291頁参照)海後勝雄の『教育技術の理論』
(48 年2月)は、中研所員として発行している。倉澤剛は、
『社会科の基本問題』
(48 年8月)
、
『社会科の学
習形態』
(48 年6月)
、
『近代カリキュラム』
(48 年11月)
、
『社会科の地方計画』
(49 年2月)
、
『カリキュラム
構成』
(49 年8月)
、
『続近代カリキュラム』
(50 年2月)
、
『中等カリキュラム』
(50 年6月)
、
『単元論』
(50 年
8月)
、
『ガイダンス計画』
(51年1月)などの単著を中研所員として発行している。これらは、各単著の奥付に
よって確認できる。コア・カリキュラム連盟が 48 年10月に結成され、機関誌『カリキュラム』が発行(49 年
1月創刊)されるようになると、梅根・海後勝雄・倉澤のカリキュラム論は、コア・カリキュラム連盟が提唱し
ていく三層四領域論に集約されていく。47 年時の中研や海後宗臣の学科課程の三層構造が基礎になっていたと
いう仮説が設定でき、これを検証することも課題となる。
注4)‌海
後勝雄「地域教育計画の現実性」日本生活教育連盟編『カリキュラム』
(誠文堂新光社、1950 年10月)によ
ると、
「世評にしたがえば、コア・カリキュラム論と、地域教育計画派と、左派の三つに分かれるという。人に
よっては、このほかに文部省派を加えることもあるらしい。仮にこの四つを認めても、分類の基準の立て方に
よって、幾組もの対立や組合わせができそうである。中央集権か地方分権かによって、資本主義か共産主義か、
児童中心か社会中心か等々の基準によって分けることも常識的には可能であろう。しかし、今ここで問題にし
たいのは、東大の大田氏の指導する広島県本郷プランや、伊藤氏の兵庫県魚崎プランによって代表される『地
域教育計画』と、コア・カリキュラムの立場から主張することのあいだに、果たして本質的な対立があるかど
うかという点についてである」
(同、19 頁)としている。この発言は、海後勝雄は、海後宗臣の弟でもあり、中
央教育研究所とコア・カリキュラム運動双方に関係した直接の当時者の記述として重要である。生活カリキュ
ラムとしての中研のカリキュラム論が、地域教育計画とコア・カリキュラムとの基盤にあることが確認できる。
注5)1937 年3月卒業、卒業論文は『明治維新における教育改革の社会史的考察』で、主指導教授は阿部重孝。
注6)‌岡
部教育研究室は、貴族院議員岡部長景の委託の研究費で東京帝国大学図書館内に二室を借用し、海後が主宰
し1937 年7月に設立された教育研究機関であり、矢口・飯島の二人が所員として仕事をした。海後宗臣「教
育学五十年」
『海後宗臣著作集』第一巻、東京書籍、1981年、374-377 頁(初出は、評論社、1971年)を参
照。
『中央教育研究所 56 年の歩み』
(中央教育研究所、2002 年)には、
「中研設立以前(岡部教育研究室時
代)
」と記載されている。
91
注7)‌
『海後宗臣「教育学五十年」
『海後宗臣著作集』第一巻、東京書籍、1981年、405-406 参照。そこには、
「中研」
と名乗り始めた時期について明確に記述されてはいないが、矢口新『社会科教材研究』
(法政大学出版会、
1957 年、増補版1966 年)の奥付には1946 年1月中央教育研究所員、1950 年6月国立教育研究所員と記載
されていることを考えると、1946 年当初には認知されていたと考えられる。なお、
『海後勝雄著作選集』
(日本
図書センター、1978 年)の海後勝雄略歴によると、1946 年5月中央教育研究所所員と記載されている。
注8)‌海
後宗臣は、1943 年から大日本教育会研究部長であり、飯島は、37 年7月〜 44 年7月迄岡部教育研究室研究
員、44 年7月〜 45 年12月迄大日本教育会研究部員であった。矢口は、46 年1月〜2月迄大日本教育会研究部
員でもあった。
注9)‌中
研事務所は、1947 年6月に神田駿河台の目黒書店ビルから、神田小川町の国民教育図書ビル内に移転してお
り、事務所が置かれていた時期にそれぞれの出版社から、
『教育文化』
(目黒書店)
、
『明日の学校』
(国民教育図
書)という教育雑誌が発行されている。さらに 48 年2月に港区麻布北日窪 42に移転(所員の磯野昌蔵の実家
である「明治屋」所有の建物に)している。
※
‌ 『教育文化』(46.1 〜 47.5)は、海後が監修者として「巻頭言」も書いており、中研の関係者が多くの論稿
を寄せている。中研設立(1946 年 7月)以前にも、中研の母体となる研究活動が開始されていたことがわか
る。
注10)‌日
本教育学会第 74回大会(2015 年8月)の越川求「海後宗臣のカリキュラム論形成の研究─戦前から戦後
の中央教育研究所への継承と発展─」として発表している。
注11)‌飯
島篤信『視聴覚教育の本質』
(法政大学出版局、1951年12月)においても、矢口と同様な論として、行動
の三層構造を述べている。飯島は、
『教育学概論Ⅰ』
(法政大学通信教育部、1949 年2月)で教育内容の構造
を論じているが、
「この考え方は東大海後宗臣教授の意見に全面的に依っている」
(同、108 頁)と記している。
飯島の論は、49 年11月の矢口の論がでるまでは、海後の論で展開し、それ以降は矢口の論もとりいれて展開
している。
注12)‌矢
口新「教育の地域性をめぐって」
(矢口と推定:別名小松一郎)
『明日の学校』第7巻第6号、国民教育図
書、1948 年1月。
・矢口新「教材の地域性」
『教材研究』教材研究会、有朋堂、1948 年4月。
・矢口新「生活
する社会学習」
『社会科教育』社会科教育研究社1949 年2月。
注13)‌臼
井嘉一・高宮文枝「コア・カリキュラム構想と「総合的学習」
・
「社会科学習」
(Ⅰ)
」
「戦後初期のコア・カリ
キュラムの構造論議コア・カリキュラム構想と「総合的学習」
・
「社会科学習」
(Ⅱ)
:三層四領域論議」福島大
学教育実践研究紀要第 36 号、1996 年6月の二つの論文に三層四領域論の形成過程が詳しく論じられている
が、1949 年以前の論とのつながりや変遷などについては検討されていない。
注14)‌矢
口新「飯島君を偲ぶ」能力開発工学研究会『アドヴァンス・サロン』第19 号、1986 年4月、31頁。
「海後先生の監修による社会科の教科書も二人でお手伝いすることになった。二人は先生にも相談して教科書
の印税を中央教育研究所の経費の一部に提供したことも二人のよい思い出となっている」
注15)‌文
部省『学制百年史』
(記述編)
、ぎょうせい、1972 年、936 頁に国立教育研究所の研究・調査のおもなもの
を紹介しているが、1950 年代の研究・調査が正当に評価されておらず、再検討の必要がある。
注16)
「実態調査の理論─社会調査と児童調査について─」
『季刊教育』
教育大学、1950 年、2月、76 頁。
注17)‌富
山県総合教育計画の意義と展開については、越川求『戦後地域教育計画論の研究─矢口新の構想と実践─』
すずさわ書店、2014 年の第3章参照。
注18)飯島篤信「中央教育研究所の歩み」梅根悟・岡津守彦『社会科教育の歩み』小学館、1959 年参照。
92
注19)‌矢
口新「参考書としての社会科教科書─社会科教科書を読んで」
『社会科教育』社会科教育研究、1947 年、17
頁。
注 20)矢口新「知識は言葉では与えられない」
『教育手帖』日本書籍、1948 年8月、15 頁。
注 21)‌矢
口新「教材の再検討」
『教育研究』教育大付属小、1951年8月では、教科書は教具でありその内容の教材が
重要なのであり、教材は学習の目標に沿ったものをいかに提出するのかが肝要であることを述べている。
93
Ⅳ
師友とともに
教育のリアリズムをめざし、
変革をこよなく愛する社会派の先達
九州大学名誉教授
岩井 龍也
東京帝国大学卒業。矢口新の後輩。学生時代にアルバイトとして岡部教育研究室の調査を手伝
う。その後、中央教育研究所、国立教育研究所で矢口と共に研究。国立教育研究所退官後、九
州大学教授、香蘭女子短期大学学長を歴任。
矢口流の人事
昭和 27 年3月、当時国立教育研究所の教育内容室長であった矢口さんから、教育調査を手がけ
るので手伝いに東京に移住してこないかという話がもちかけられてきました。
私は 26 年3月に堺市教育研究所の主任を辞して、大阪外国語大学の教職課程の主任の仕事を手
がけはじめたばかりだったのでためらいはしました。しかし、教育調査という私の生来の性分にあ
つた仕事にありつけることではあり、村上所長の来阪による学長への協力要請もあり、5月という
変則の時期ではあったのですが、その仕事に参画することになったのです。私事を長く述べて恐縮
ですが、一見強引とも思えるこの人事に矢口流の生き方が端的にあらわれていると思います。
行動の選択にあたって、最も考えられることは、仕事と職場についての社会観、技術観、能力
観、組織活動観について自分なりに納得がいく必要がありました。矢口さんのそれまでの研究の
キャリアーは、私が知るだけでも、千葉、栃木における農村青年実態調査、川口市の社会科教育課
程策定研究、東京都の青年学級実態調査、千葉の小学校における授業分析、アメリカの教科書研
究、視聴覚教材の研究、授業分析による学習の実態調査などがありました。日本の教育の現実の奥
に潜む真の課題現象のグローバルな機能的把握のもとに、カリキュラムの策定が試みられ、教材作
成をともなう指導、教育指導者の意識統一を目ざす大がかりな教育現場の改造への試行であったと
言えるでしょう。
少なくとも私はそう確信し、矢口さんなら教育の一大転換のこの時期に敢えて手をよごし泥にま
みれて新しい教育研究のあり方を指向する人だと思い、思わされ、そうした試みに参画できること
がうれしくさえありました。宇宙船矢口号の試乗員としてのデビュー気どりだったのかも知れませ
ん。
調査を通じて全員が学ぶ
昭和 27 年といえば、日本国が占領下から完全に独立することが認められ、教育の分野において
も自主性、主体性が課題としてのしかかってきた時期でした。働く青年の教育の問題も民主主義の
理念の観念的な啓発や形式的な話し合いごっこではゆきづまり、青年団、少年団、婦人会にしても
96
地域まるがかえの方式では組織編成が成立しえなくなってきていたのでした。めいめいが自分の人
生の設計をもち、お互いに厳しい現実を見直してそれに対応することが求められてきているのでし
た。
そこで研究調査部では、占領時代に占領軍用として社会教育の分野で予算化されていた豊かな人
件費や設備費、事業費などの継承をめざして、大がかりな基礎研究ともいえる勤労青少年教育調査
として、各県1村の在村青年悉皆生活実態調査、教育機関調査、生活意識調査を青年と共に実施し
ようとしたのです。
何のために調査するのか、こんなことを調べて何がわかるのか、といった反論が案の定出て来ま
した。更には大体の傾向を大ざっぱに調べてあなた方の英知で結論を出して、私達にこうしたらと
提案してくれたらいいではないかといった提言まで聴かれ、いわゆる研究者や大学の研究室への委
託調査になれた人達の発想でうけとめ、抵抗した人もいました。
それでも矢口さんはなんとかして調査への主体的参加によって現実を見る目をつくるべく参加を
求めていきました。調査の目的には、青年の生活事情に即して、教育の編成がなされているのかど
うかを検討するために必要な生活実態の資料を得ようとすると記されていますが、そのことが理解
できていないのです。社会調査では「聴けばわかるのではなく、何をどう聴くのか」であり、「自
分の馬鹿さ加減でしか物は見えない」といったことの理解の上で、その克服として、事実が見えて
くる、事実が物語ってくれるといったことがありますので、調査にかかわる青年は勿論、わたくし
達も調査を通じて目覚まされてきます。おそらくそうした言葉を吐かれていた矢口さん自身もそう
であったでしよう。それだからこそ不安は自信とかわり、解釈が自分のものになっていくのだと今
にして思っています。
調査方法も発見しながら
生活実態の調査という言葉もまた基本的なことをわたくし達に教えてくれました。生活実態は特
定のきまった項目なのではなく、調べようとすることがらや調べられうる事項からおのずから限定
されてくるのです。調査の対象である青年との初対面の対談の中でさえどのような問題状況なのか
を知らされ、さぐりあてて、生活に関する項目はきめられていくものであり、その積み重ねが調査
項目になっていくのです。まさに歩きながら考えることであることと思い知らされることの連続で
した。疑問符の問いでは誘導になり、きめつけは誤った意識内容を生むもとになるのでした。
調査を行うという、事実にもとづく場の中での調査の基本構成であり、設問項目の選定であり、
予想される整理であり、解釈案であつたのです。矢口さんは誰とでも、どんなことでも、そうした
手口で新しい事項についての調査能力を自分のものにして行けた人でした。他人への指導助言の中
で、自分が学習でき、それが自らの新たな指導力を生むといった回転の早さが巨星としての資格を
つくりあげていったのだと思います。
調査結果はいち早くまとめられ、研究紀要として、また、時には単行本として刊行されました。
矢口さんは人間の形成を行動ならびに体験における判断の連続としてとらえ、彼自身は勿論、彼が
かかわった教育研究者諸集団の構成員の能力の形成にあたっても、そうした、on the job training
を本体とする形成理論をもつて、多くの人に学習の機会を平等に、積極的に与えることを自らの役
割と考えていたのではなかろうかと思われます。だからこそ他人が迷惑に思っていることなどに頓
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着することなく、大真面目で自らの使命と考えてかかわっていたのでしょう。
ティータイムには教育問題を討議
こうした先達をもつわれわれ国研の 15 人前後の集団は、通例の学会の研究分野を固執せず、国
の次元での教育課題について一丸となって共同研究体制をとり、敢えて言えば教育調査法が専攻で
ある、といつたおおらかな考えになっていました。したがって昼食は矢口さんを中心に一堂に会
し、ティータイムも毎日ではないがかなり頻繁に3時にとり、情報や話題の交換を誰からとなく試
みるのが日常でした。
矢口さん自身は新しい教育理念に基づいた地域の教育研究体制の確立の研究の場を求め、乞い乞
わるるままに茨城県の水海道町と富山県に設定し、そこでの実験で情報として目鼻のついた段階の
ものを逐次披露し、研究への協力のさそいを試みることになりました。
水海道では、教科書分析、AV 教材の製作利用から、富山県では県研究所を中心にした社会調査
にもとづく社会科の授業研究を発端に飼育場、廃油再生化学プラントでの泊まり込みによる中学高
校の教育指導の体質の改善という、いずれもが話題の山積する研究だけにその実態の情報交換の場
に巧まずしてなっていったのです。こうして改革の理念の問題は教育指導の現場のレベルでの課題
として話し合われていくことになったのです。
現場の先生方との交流、研究所から現地行きの荷物をもっての私達の出発など、体制づくりの教
育実験を試みる研究所の様相へと次第に変化していくことに気づかされたものでした。そして何よ
りも大きな変化は研究の成果の喜びから、児童、生徒がものが見えてくる、行動としてできるよう
になっていくことへのかかわりの喜びが感ぜられるようになっていったことでした。具体的な○○
君という人の変化が見えてきて話題になり初めました。
両地域は教育熱心ということではすぐれていましたが、地域生活としては決して豊かだとはいえ
ない地域ですし、いわゆる特定の名門校でもなかったのです。その地域の全校を対象に教育の体質
が問われていったのでした。矢口さんとの出会いが、民主教育ということの本質での出会いであっ
たからだと思っています。
厳しさのそこにあるあたたかさ
こうした順調な研究体制拡充の道程で、矢口さんの新情報のもちこみがありました。それは 34
年頃だったと思います。民主教育協会のお世話で、来日されたコナント氏が日本の中等教育の実態
を見られ、その報告会に参加された矢口さんが、研究室の定例の集いでこんな報告をされたのでし
た。コナント氏は日本の中等教育をひとことで評して、日本には数多くの学校があるが学校教育は
一つしかない。四谷、麹町、日比谷、東大の一つの系列しかない。不思議な国ですねといわれたと
の報告が、今でも強い印象となって残っています。欧米の中等教育の実態をつぶさに視られ「今日
のアメリカの高等学校」という米国で注目を浴びたコナント報告として出版された実証的な研究な
のであります。私達もこれをきっかけに本読み会をもつたのでした。階層と教育といった角度から
のきり込みによる教育の民主化論は唱えられていても、教育の質の多様化が育たない社会があるこ
とを問題にして、実践的に子どもの成長、発達、運命にみあった教育の創造への志向の論議があま
りにも忘れられ、タブー視されているのであります。
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このことが矢口さんの手にかかると、プログラム学習の研究と現場の考え方の導入となり、コン
ピューターリテラシーの立場に立って、新しい教育の体制の確立と学習の質の変革に応える実践的
工夫にまで発展していったのだと私は思っています。教育の技術、技法の新方式と産業界・社会生
活からの新要請を契機として、いつの時点でも教育の民主化と多様化が編み込まれた教育体制への
変革が最終的なねらいとなっていたといえます。
矢口さんは、まさに体を張って教育の現場と語り合いながら、研究者と教師、学習者との共同作
業の中で教育改革を進めていこうとされた人でありました。その追究の鋭さと厳しさがあるだけに
威圧感が先行し、煙たい存在をと感ずる心の行き違いは時々ありましたが、民主化と多様化を願う
本質的なあたたかさが秘められていたことを今さらのように感じさせられています。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」27 号
「明日をひらく教育に情熱をそそいで−矢口先生の行動と言葉の記録−」1991 年 4月
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先生の研究は十年早かった
大阪大学人間科学部教授
元木 健
東京大学教育学部卒業後、昭和 29 年から国立教育研究所で、矢口新の指導のもとに研究を行
なった。昭和 42 年、国立教育研究所退官後、大阪大学人間科学部教授。
私が国立教育研究所に入りましたのは昭和 29 年で、矢口先生はまだ 40 代の始め、人生で、また
研究者として最も充実した時代であったろうと思います。
この時代の先生の研究は実に多彩ですが、その中でも初めの仕事として特筆されるべきことは、
教育課程。学習指導に関する実証的研究です。これは今、日本の教育学界では授業研究と呼ばれて
教育方法学の中心的な方法論とされていますが、当時の日本にはそのような方法論は全くなく、矢
口先生の研究は少なく見積もっても学会より 10 年早かったのです。
われわれの教育方法学会で、もし特許というものがありましたら、その多くを矢口先生の研究に
特許料として払わなければならないだろうと思います。そのほかにも勤労青少年教育の研究、産業
技術教育の研究と発展いたします。いずれも後の教育学界における重要な研究課題となっているも
のです。
矢口先生は、海後先生の教えを強く受けられましたが、その研究は独自のもので、日本では全く
ユニークなほかに類例の少ない研究であったと思います。また、矢口先生は東京大学文学部教育学
科、後の教育学部の卒業生の中で空前絶後の最も鋭い方であったと思います。そうしたことが独自
の研究をつくりあげたとともに、日本の教育学会の中にお座りになれなかったということでありま
しょう。
矢口先生は開発研究というのを非常に早くからおやりになっています。これは日本の教育方法学
では、現在、ようやく重視されるようになってきました。最初は教育課程・学習指導の研究であ
り、後のプログラム学習の研究になっていきます。徹底して矢口先生は生活の現実から出発する、
事実から出発する教育学を追究しました。これも本来なら科学の常道です。つまり自然科学の対象
となる事実、自然というものから法則を導き出すのです。ただ、われわれ日本の教育学の中では、
科学の常道というものが必ずしも中心に成り得なかったという長い歴史があるわけです。社会科
学、行動科学といわれる教育学、そういう考え方が今日ようやく中心となってきています。やは
り、早すぎたという感じがするわけです。
プログラム学習を最も早く日本に紹介されるのですが、その頃から矢口先生独自のものが強く全
100
面に出てきていたと思われます。つまり教育の日標を行動から考える、それを生活の現実から調査
を通じてものを見ていくというひとつの外在的な要因から迫っていくわけでございます。教育の目
標というものは、もっと人間の内部にあるのではないか、とすると「脳のはたらき」にいき着い
て、そこから考えていく。そういう内的な目標から出発して考えていくこと、それからひとりひと
りを大切にすること、こうした発想は矢口先生の教育学の最も特徴的なことであろうと思います。
国立教育研究所時代の矢口先生は、特に初期、当時の村上所長の全面的なバックアップのもとに
共同研究を強力に進められました。教育学の研究は今日ビッグ・サイエンスでございまして、ひと
つの学部を構成するという膨大な領域になっています。また、教育の課題というのも非常に大きな
課題でございますので、いきおい、学際的なビッグサイエンスの研究という性格をもつわけでござ
いますが、当時、各大学の研究室が必ずしもそういう状況ではなかった時代に、いち早く大勢の力
で膨大なプロダクツを出してきたということは、当時の教育学界では極めて異色の、驚異であった
と思います。
ただ、国立教育研究所にいらした後半、だんだん講座制の大学のような細分化された組織になっ
てまいりました。いきおい、矢口先生のお仕事がやりにくくなってまいります。最後はどうしても
先生のご意向が活かされなくなってしまう。ご自分が死ぬか出るかというところまで当時追いつめ
られていたと思います。先生はお仕事を選ばれて出られるわけですが、これは私たちにとって大変
残念なことでございました。
ただし、この国立教育研究所にいらした 15 年、共同研究の指導者として、また今見ましても国
研の歴史の中において、ほかのだれにもできないたくさんの業績をお残しになりました。今見まし
て質的にも大変な業績であることを声を大にして申し上げたいと思います。
少なくとも 10 年早すぎて当時そういうことがあったことを、今必ずしも充分理解されていない、
学会でも忘れられているということをもう一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。矢
口先生のおやりになったことをきちんとこの時点でもう一度世に問うてみる、このことは今の日本
の教育学界にとって大きな意味になるのではないかと思います。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」26 号
「矢口新先生追悼号−人間教育をめざし教育革新に捧げた 54 年」1990 年6月
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軍隊でも自由な討論
駿河台大学広報部長
久保田 晃
軍隊で、後輩として矢口先生と同じ隊に所属。戦後、中央教育研究所で矢口の指導のもとに仕
事をする。のち矢口と共に国立教育研究所に勤務、庶務部長となる。
私は、昭和 24 年から4年間、中央教育研究所でご指導を受けました。
実証的ということを非常に強調されたように記憶しております。書いた物で判断してはいけな
い、実際に自分の日で見、足で考え、それをディスカッションして自分の物にするのだということ
だった。例えば教材映画一つとるにしても、現場に何べんも足を運んでどういう対象をどういう角
度から撮るか、を綿密にディスカッションするということだった。先生はいつ勉強されるのか、遅
くまで我々とディスカッションしていて、次の日になるとまた新しいアイデアを出される、という
ことに驚嘆した記憶がございます。
敗戦までの5ヶ年、矢口先生は軍隊に籍をおかれています。私は敗戦の1年半前に先生と同じ隊
に入りました。川口市の郊外、根岸というところがあり、そこの高射砲部隊でございました。矢口
先生は通信班の班長で、伍長です。私は二等兵でした。最後の3ヶ月程、宇都官に移るまで、そこ
におりました。
今でも非常に幸せだったと思うのは、そこに図書館があったこと。根岸文庫と称しているんで
す。その図書館の所在地は矢口先生の個室でした。矢口伍長、敗戦のときには軍曹殿でありました
が、私は上等兵で、高射砲というのは割と頭の良い人がおりました。電探機であるとか通信である
とか、身体の余り達者でない高学歴な中年の兵隊さんが多うございまして、いわばインテリ部隊と
いわれていたようですが、その下士官の矢口先生の部屋に文庫がございました。四畳半位の広さ
だったと思うが、その壁面の二つが下から上まで、ビッシリ本で埋まっていた。あの本はどこから
出て来たのか、先生のご自宅から行かれた分もあると思いますけれども、歴史本とか一般の文学書
などでした。
そういうところで、私どもは、先生を中心に特に敗戦近くになると、日本の国はこれでいいの
か、というような非常に物騒なことなども議論したが、大隊長の信任が厚かったせいで、そういう
議論も余り外にももれずにおったわけです。
ある時数名で話していた時に、小磯内閣を倒すということを実行するということについて君達は
どう思うかね、というようなことを先生が話された記憶があるんですが、その時に、2.26事件
もこんな具合にして進展したのか、とにかく先生が言うんだからついていこうか、など教祖に見込
まれた信徒のような感じで聞いておりました。
102
それは本当に先生がおっしゃったのか、或は、そういう考え方もある、という風におっしゃった
のかも知れないが、軍隊の中にあって、そういった自由に交流できる雰囲気、それを無から創られ
たということは矢口先生のどういう能力、或はお人柄であったのか、非常に稀有なことではなかっ
たか、こんな感じがいたします。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」26 号
「矢口新先生追悼号−人間教育をめざし教育革新に捧げた 54 年」1990 年6月
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非凡なる監修者の面影
元朝日新聞社(年鑑編集部)
向後 環
『少年朝日年鑑』との出会い
戦後の混乱期に、新しい社会に育っていく少年少女のために、朝日新聞社が新聞社の機構をフル
に活用して、児童向け年鑑の刊行を企画し、その意図を受けた年鑑編集部の斉藤実デスクが、2年
ほどの準備期間をおいて具体化のプラン作りに乗り出した。
教育現場ではどのような人間像が求められているのだろうか、社会科の授業はどのように行われ
ているのだろか、そうした課題をもちながら教育学者の海後宗臣先生や矢口新先生などの助言・協
力のもとに 1949(昭 24)年6月に「少年朝日年鑑」の創刊にこぎつけたのであった。それ以後矢
口先生には、毎号の構想・立案にご協力ねがうようになったのである。
このようにして始まった矢口先生と「少年朝日年鑑」とのご縁は、年を追うごとに深まっていく
のであるが、私が関係をもつようになったのは 1951(昭 26)年1月のことであった。それは前年
の 12 月に休刊となった「朝日評論」から年鑑編集部に移ってきた私が、「少年朝日年鑑」の編集を
手伝うことになったからである。その際私は、新しい教育理念や教育現場の実態を把握するために
も、また学校教育に詳しい専門家の見方・考え方を編集に反映させていくためにも、企画・立案の
協力者として専門家数名で構成するブレーンを設けてはどうかと提案した。斉藤デスクも前々から
そのような機関を考えていたとみえてすぐ賛成してくれ、さっそく矢口先生に相談をもちかけて、
いわゆる矢口委員会(仮称)の構想が生まれたのである。この委員会が、後になって編集方針の一
貫性を維持していく上で、大きな歯止めの役を果してくれるのである。
プロセス重視とカード方式
その年のもっとも代表的な事実を、具体的に振り下げてゆくためのデイスカッションは、夜遅く
まで続けられ、時の経つのも忘れて深夜の 12 時近くになることも珍しくはなかった。こうした討
議が毎号、少ない年で6〜7回、多い年には 13〜14 回開かれたものである。
委員会の資料には、編集部が用意した「目で見、足で書いた」具体的なデータが提出される。そ
のデータのなかから選びぬかれたものがカードに記入され、カード毎にどの領域で扱うかの検討が
続けられる。カードの位置づけ作業には、カードの入れ替え組み替えがついてまわる。他に移され
たカードがまた元の位置に戻されることもある。そんな時に焦れ気味の気配が感じられると、すか
さず矢口先生から「ほかにご意見は」とのお声がかかる。辛抱強い先生は、その日は結論を保留し
て次回に持ち越されることもあった。
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こういう体験が重ねられていくと、いつか知らぬ間に先生の持論である「結論を急ぐな、プロセ
スが大事なのだ」というプロセス重視の考え方が、身についてくるのであつた。先生の持論といえ
ば、忘れられないことのひとつに、子供に社会を見る目を養わせるのには「単なる思いつきであっ
たり、観念的な説明ではなく、具体的な事実で語らせることが大切なのだ」というのがあったのも
心に強く焼きついている。
人柄が偲ばれるエピソード
矢口先生と年鑑編集スタッフとの共同作業にも、長い年月の間には波風の立つこともあった。人
事異動による編集長の交代期に、その波立ちがやってきた。編集長が交代すると、新編集長によっ
ては今までと色合いの違ったものを出したがる傾向があるといわれている。少年朝日年鑑の場合に
も、その危惧が起こりそうであった。新編集長の方針として、編集部の自主性が協調され、矢口委
員会への風当りが強くなった。自主性の具体化としては、新聞社らしい「読み物」重視の方針を打
ち出してきた。斉藤デスクと私が首をひねっていると、「よし、僕が矢口先生に会って話をつけて
くる」とばかりに気負いこんで教育研究所へ出向いていった。ところが、矢口先生との間にどのよ
うな会話が交わされたかは窺い知るところではないが、帰ってきた編集長の考え方は、色濃く「矢
口方式」に染め変わっていた。
新編集長の矢口先生への信頼度はだんだんと厚みを増していき、やがて「少年朝日年鑑」の二分
冊制の採用となって実を結んでいった。矢口先生がかねてから温めていた統計編分冊の構想が、新
編集長によって実現したのである。ちなみに二分冊制とは、本冊の「基礎学習編」と分冊の「社会
科統計編」をセット入りとしたもので、1961(昭和 36)年版から刊行して、学童向け年鑑として
ゆるぎない地歩を築いていったのである。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」27 号
「明日をひらく教育に情熱をそそいで−矢口先生の行動と言葉の記録−」1991 年 4月
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子どもたちの活動が地域社会を動かした、
教師も共に学んだ
茨城県水海道市教育長・元水海道小学校教員
古谷茂夫
水海道小学校と矢口の関係は、昭和 22 年川口プランの発表を聞き感動した堀越通雄(当時筑
波地方事務所教育課長)が矢口に新教育講習会の講師を依頼したことに始まる。堀越を通じて
矢口を知った水海道小猪瀬嘉蔵校長は、矢口の教育観に強く共感し、以後約 20 年にわたり同
一小学校における教育指導−研究(実践人の育成を目標とし、児童の主体的活動を育てる自治
活動を重視したカリキュラム設計など)が行われた。古谷は研究開始当時、最も若手の教員で
あった。
教育の元は事実にある
矢口先生が水海道に来られたのは昭和 23 年が最初で、24 年からは水海道小学校(以下、海小)
で指導を受けるようになった。私は、昭和 22 年4月、猪瀬 ( 嘉造 ) 先生が水海道小学校の校長にな
られた時、海小に転勤になった。それまでは下結城にいて、のんびりやっていた。教科書もろくに
ない、戦後のドサクサの頃だった。海小に移って、大いに頑張っていた。先生から初めに聞いたの
が富山の話、総合開発をやっているんだ、という話だった。
教育というのは事実を分析して、そこから考える、事実が元なんだ、ということを言われた。こ
りやあすごいな、と思った。その頃、私達は教科書を教えることしか考えていなかった。今日は何
ページからだっけ、というような調子でやっていた。
共同研究の体制
最初にやったことは「地域課題に基づくカリキュラムの作成」、これを一番初めにやったと思う。
川口プランと同じ様な考え方で社会科のカリキュラムを作ることをやった。
それには、地域の課題、実態というものを調べなければならないということで、文化、経済、交
通からすべてをみんなで調べた。はじめは水海道小学校だけでやっていた。全体がまとまったの
は、市政のしかれた 29 年以降。こういう仕事は個人で出来るものではなく、皆して共同して共同
研究としてやる必要があるということで、共同研究の必要性を唱えられた。
教育の内容も共同で研究するように指導があった。猪瀬先生だからまとめることが出来た。それ
が現在まで、水海道教育研究会という組織として残っている。
地域フイルムライブラリーの運営
授業をやるのに、具体的な資料というものを大事にしなくてはだめなんだということで、矢口先
106
生に指導されたのが視聴覚教材の利用であった。それを子供にみせて、分析させること。フイルム
は何度も止めたりバックさせたりして使えるからいいんだ、ということ。
その頃、放送教育も NHK がはじめたが、放送は1回きりですぐ消えてしまう。そういうものは
教材として成り立たないんだ。ということで、どんどん映画を作らせた。社会科教材大系の「はえ
のいない町」や「私達の運動会」などがこの頃出来た。それらを子供たちに見せて授業を行った。
映画をたくさん買って「フィルムライブラリー」も設けた。その時には郡の方へも広く呼びかけ
て、フィルムは高いからそのためにも共同購入する組織が有効だった。PTA などに働きかけてお金
を集めた。昭和 42 年には県西地区視聴覚教育研究会という形で広がった。フィルムも年々増やし
て今は 700 本位あると思う。
地域を基盤とした教育(特別教育活動の重視)
矢口先生の考え方は、教育というのは生活が地盤で、生活をさせるということの中に用具教科
(国語とか算数)が位置づくということ。
「大工が家を建てるのに、『のみ』とか『カンナ』などの
道具が切れないといい家が建てられない。それとおなじ事だ」という話が印象に残っている。
社会科とか理科とかは、内容教科として社会や自然を見る力を育てる。そして、それら全体をと
り囲んでいるのが子供の生活。それは当時は自治活動と言った。今は特別活動などと名称が変わっ
ているが、要するに子供自身の活動だ、という考えである。
子供たちにとって社会というのは学校生活であるから、学校でいろいろ出て来る問題を子供ら自
身が考える。どうすれば学校をよくすることができるのか、ということを考えさせた。学校社会と
いう見方であった。国全体を機能的に見る見方と似ていると思った。生産委員会とか消費委員会と
か防犯とか新聞部とか購買部とか、そういう委員会にしてもどういう角度で作ったらいいのか、検
討した。ほかの学校でもやったが、教師の趣味嗜好によって作られていた。水海道では、社会の機
能というものを基本にして委員会活動の構成を考えた。その時に、例えば「購買部というのは、物
を売るだけの活動だというとらえ方では駄目だ」と言われたことを覚えている。「物を売って、代
金を集計して、物を仕入れるというようなことまで扱わなければ駄目なんだ。」生きた社会活動と
する、ということだった。
保健活動から生まれた映画「はえのいない町」
保健活動なども、単にどこが汚いからきれいにしましょうということではなく、基本は保健的な
生活というものを育てるような活動にならなければならない、という。なかなかむずかしかった。
よくわからないことも多かった。苦労して、子どもたちと一緒になってやっていった。まず学校を
調べて、ゴミためにハエが沢山いる、これを無くするにはどうするかを考える。ゴミためをきれい
にしてもまだはえがやってくる。これはどこからくるか、町へ出てみると、町にはハエがいっぱい
いる。学校だけきれいにしても駄目だということに気がついて、じゃあどうするか。町の衛生班長
さんのところへ行って、町でハエを無くすことをやってもらえないかと頼みに行った。それから町
内で石灰をまいたりしてごみ溜めの消毒をすることになった。
この活動が「はえのいない町」という映画になった。それがきっかけとなって、文部省、厚生
省、労働省の3省の主催する公衆衛生の研究会が東京の上野で開かれたときに、私が頼まれて発表
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した。
「子供の活動が地域を動かした例」として反響を呼んだ。
授業を科学的に研究する
昭和 30 年代は授業分析をずっとやった。
「日本の工業」という単元を 24.5 時間かけてやった。
少年朝日年間や日本統計年鑑などを資料として使った。国研から宮崎孝一先生や最上多門先生が
ずっと指導してくれた。授業の実践記録は毎時間とって、特に研究する授業については、観察記録
をとった。観察記録には教師が話すこと、子供の応答、使った資料などを時間の流れに従って記録
した。それを活動の単位ごとに区切って検討した。
授業の前には指導案を十分吟味しこれ以上のものはないというところまで、みんなで知恵をし
ぼって作る。授業をやったあとで、指導案と記録を比較して検討する。「これは何の意味があるん
だ。何のためにやっているんだ」と指摘される。自分じゃ指導案通りにやったつもりが、具体的に
見てみると違っている。これじゃ子供が活動しないのも当然だということがわかる。だから、よー
し今度は、と意欲がわく。
記録は国研に持って行って、我々も内地留学で行って、国研の先生方に指導してもらってまとめ
る。それをこっちに持ってきて検討する。その結果をまた国研で見てもらう、というような研究が
長年続いた。これがためになった。子供も学んだが、先生が勉強した。資料をつくるために、川崎
の工場地帯を船でしらべて回ったりもした。何故こういうところに工場ができるのかということも
調べて、子供に与える資料をつくった。本当に楽しかった。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」27 号
「明日をひらく教育に情熱をそそいで−矢口先生の行動と言葉の記録−」1991 年 4月
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川口プラン発表会での出会い
元水海道中学校長・谷和原村教育長
堀越通雄
(ママ)
私が矢口新先生に初めてお目にかかったのは、多分昭和 23 年の寒い初春の頃ではなかったので
はなかろうか。当時私は視学として筑波地方事務所の教育課長を命じられていた。筑波郡内の先生
方を対象とした新教育講習会の開催に当たって、講師の先生の選択が最大の課題であった。
その頃社会科の川ロプランが日本の教育界を風靡していた。浦和市の埼玉会館で開かれた川ロプ
ランの発表会に出向いた。最初の演壇に立ったのが矢口新先生であった。教育雑誌等で論陣を張っ
ていた矢口新先生であるが、見るからに紅顔の美青年であり、日本の教育に新風を吹き込む若武者
という印象であつた。発表を終った矢口先生を控え室に訪れ、筑波郡内の新教育講習会の講師とし
ておいでいただくお約束をいただいた。このことによって講習会の成功は間違いなし、鬼の首を
とったような、快哉を叫びたい気持ちになった。このようにして、矢口先生を講師として筑波部内
四カ所で充実した新教育講習会を開催することができた。さらに、矢口先生の父親は新治郡千代田
村のご出身であり、母親も結城市出身であることもわかり、遠い存在と思われていた矢口新先生
も、一気に近い存在と思われてきた。
当時、水海道小学校長をしていたのが猪瀬嘉造先生であった。親身になってご指導いただく講師
先生として矢口新先生をご推薦申し上げた。その結果、矢口先生と猪瀬先生とは意気投合したとい
うのであろう。猪瀬先生は全面的に一切を挙げて矢口先生に頼りきった。中央教育研究所から国立
教育研究所内容研究室へ移った矢口先生は、多士済々錚々たるメンバーの揃つている内容研究室を
挙げて水海道市内の指導にあたってくださった。このようにして、水海道市内の教育は茨城県の水
海道どころではなく、天下の水海道として花を開いた。
私は、筑波出張所長2年、下館出張所長1年、続いて古河中学校長6年を経て、招かれて水海道
中学校長に転じた。水海道中学校長 13 年、猪瀬会長の下副会長となり、猪瀬会長定年退職後は会
長となり、矢口先生を長とする国立教育研究所内容研究室の先生方の指導を徹底して仰ぎながら、
水海道市内の共同研究に参加した。
その間、文部省の教育課程審議会の委員やら教材等調査研究会の特活学校行事等小委員会を始め
として全日本中学校長会研究部の副部長、全特活の副委員長、全日本プログラム学習研究会の副委
員長等々、すべては矢口新先生を中心とする国立教育研究所内容研究室の先生方のご指導に負うと
ころが大きかった。加えて英語はエレックの山家保先生から全面的な指導を受けていた。
このような事情から、県教育庁側からは水海道は県の指導よりは、専ら国研だけの指導を全面的
に受けているといつた声が、チラホラ聞こえてくる。内部にもこの辺を多少危惧する声が一部無い
109
ではなかった。しかし問題は、教育水準が上がればよいのではあるまいか。気にする必要はなかろ
うというのが支配的であつた。
最後になったが、なにかの席で矢口先生が人間の出処進退について語った言葉が、私の頭にこび
りついている。それは、進むに当たつては人に委ね、退くに当たっては自ら決す、という言葉であ
る。進むにあたっては人に委ね、自薦はすべきではない。退くにあたっては自らの意志で決すべき
である。他人の目からは、今退くべき時である、今が潮時だとは決して言ってくれないものだとい
うのである。私の出処進退に当たって、必ずこの言葉を思い出し、私の頭の中でいつも反芻するよ
うにしている。私の座右の銘となったのである。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」27 号
「明日をひらく教育に情熱をそそいで−矢口先生の行動と言葉の記録−」1991 年 4月
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常に建設的実践人の育成をめざせ
元北加積小学校長
荒舘 実
富山県の貧しい農村における地域教育計画という課題をもって 1950 年国研に3カ月の内地留
学をし矢口の指導を受けて以来、矢口の教育理念を最も理解し実践した一人となった。矢口が
亡くなる直前まで交流があり、互いに尊敬しあう間柄であった。
私が北加積小学校から内地留学に国立研究所へ派遣されたのは、今から 40 年前の昭和 25 年で
あった。当時、矢口先生は国立教育研究所と中央教育研究所で研究を進めておられた。私が最初に
お目にかかったのは、中央教育研究所で矢口先生と飯島先生の二人であった。
先ず、最初に、荒舘さんは北加積の地域教育計画を立てるのに、国研へ来られたが、北加積とい
う農村がどんな所で、どんな問題をもっているのか私どもにはさっばりわからぬので、先ずそのこ
とを私どもにできるだけ具体的に詳しく聞かせてもらって、その上で何か参考になることがあった
ら、何かお手伝いしてあげようかと思っている。そのためには北加積の実態を思いつきのままでな
く、いくつかの視点を決めて書き、それを国研の教育内容室で週2回ほど午後5時から6時頃ま
で、調べたことをもとにして話合いをしましょうということであった。
それにしても現実のとらえ方に問題があるので、ただ今、中教研では教材映画のシナリオを検討
しているので、その研究に参加してしばらく勉強したらよいとのことで、『はえのいない町』とい
う水海道市で実践された教材映画を見せてもらった。この映画は子供達に実践行動をせまるものが
沢山あるので、私は教材研究について大いに刺激された。
こんなことから約1ヶ月ほど教材映画の製作のことで、中央教育研究所で所員の先生方と一緒に
研究させてもらった。この研究の過程で矢口先生がよくおっしやったことは、学校の先生方の多く
は社会現象を科学的に把握する力が乏しいとか、社会を見る目がなくては社会科を教える力がない
とか、育たないとか、ということをしばしば聞かされた。私にはこの教材映画の研究は生涯にとっ
ても大きな収穫となった。
もう一つは僅かに3ヶ月の内地留学の期間中に、北加積の地域教育計画を立てることは不可能な
ことだと気づくと共に、矢口先生に北加積へ来ていただき直接ご指導ご教示をいただきたいものだ
と決心し、村上所長先生、矢口先生のお許しをいただくよう努力した。公開授業研究会での指導。
授業を見て、問題を見つける矢口先生の鋭さは抜群であった。
一方北加積小学校の同僚、村役場、地教委、県教委にも 10 年間、私が研究を続けることを約束
したのである。幸いにも矢口先生はじめ国立教育研究所の先生方が県の教育計画を立てる専門委員
として昭和 26 年から指導されることとなり、そのたび毎に北加積も指導いただく回数が多くなっ
111
たのである。こうして 40 年間も先生のご指導を受けるようになったのであるが、その間先生から
直接ご指導いただいたことが随分多いのであるが、その中でも特に心に残るものを列記したい。
・研究は急ぐな、ゆっくり構えなさい。先生方が喜んでやるように常に心を配るようにせよ。
・先生方には、児童と同じように理解に個人差があるものだ。各人の段階を見てそれに応じた指
導をするように。
・時間がかかるが共同研究、共通理解の原則を忘れぬように。成果をあせるな。
・先生も児童も共に建設的実践人となるよう心がけよ。
・概して先生方は社会的思考の仕方、行動の仕方が欠けているので、みんなで考えみんなで打開
しようとする姿勢で研究せよ。
・一つの地域の現実には全体社会の動向が、それぞれの姿で現れている。それをとらえる多くの
研究の集積が、北加積の地域教育計画ともなり、日本の教育改革を実現することともなる。
・これからは教科書を教える時代でなくて、リアルなものを教材として考えることを学ぶ時代
だ。
・一人一人の児童が真面目に喜んで学習に参加しているかどうかを、常にみて指導せよ。
農業生産の仕事は北加積で最も力もいれ、詳しく研究した教材であつた。平成元年 11 月に先生
をお見舞いしたとき、米作り日本一の集団として、北加積の野町生産組合が表彰されたことを報告
したところ、その指導者は何才くらいの人かと聞かれ、50 才位の人が中心で 35 年前に学校で学ん
でいた人々であることを話したら、先生は「教育は生きているということが実証できて大変嬉し
い、北加積の先生方がまいた種が、ぼつばつ芽を出しはじめたね、教育者の楽しみだね」とおっ
しゃった。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」27 号
「明日をひらく教育に情熱をそそいで−矢口先生の行動と言葉の記録−」1991 年 4月
112
〈座談会〉
富山県教育研究所の果たした役割
元富山県教育研究所長
元富山県北加積小学校長
元富山県教育研究所員
司会・元富山県教育委員会企画係
中川
荒館
鹿間
竹長
秀幸
実
仁作
敏夫
国研の協力を得て
司会 第一次富山県総合教育計画における基本的な物の考え方は、その後数次にわたる計画の策定
にあたっても、何等変更されることなく続いてきているように思います。それだけにまた、
第一次計画の偉大さが偲ばれるのですが、その計画ができた基盤と言いますか、エネルギー
総 と呼ばれて
といいますか、それが当時の教育研究所であったと聞いております。まず、 ○
いた教育計画の問題が、教育研究所に持ちこまれた前後の状況から話し合っていただきたい
総 はマルソウと発音する。他の資料と区別するため、計画関係資料につ
と思いますが。
(注○
けられた符号である)
総 に教育計画を入れるかどうか
中川 昭和 26 年と言うと相当昔で、記憶もぼやけてきているが、○
と言った段階では、教育研究所はタッチしていなかった。近藤教育長が県土開発のための人
総 に是非教育計画を入れるべきだと主張され、それが決まって、
的資源供給の見地から、 ○
さてその下働きをどうするかと言ったことが問題になってから、研究所が関係を持つように
なったと記憶している。
荒館 私が「地域教育計画」という課題をもって国研(国立教育研究所)へでかけたのは、昭和
25 年の第2学期からであった。当時は国土総合開発計画がたてられ、地方総合開発計画が
問題になっていたときである。その留学中に、たしか近藤教育長だったと思うが国研へ訪ね
て来られて、富山県で総合開発計画を考えているが協力していただけないかとの話であっ
た。その後、国研内では「富山県をモデルに長期教育計画の策定を手がけてみては」と言っ
たことが話しあわれていた。
私が国研から帰り、北加積小学校で社会科を中心に教育課程改善の十ヶ年計画をたてた。
26 年の6月に、それを見てやろうと言うことで、国研の村上所長と矢口さんが連れだって
来県された。そのとき近藤教育長から、すぐ帰さないで富山によこしてほしいとの電話があ
り、たしか堺捨旅館で近藤さんと塩谷さんが会われたはずだ。その席上で正式に協力依頼を
されたと覚えている。
鹿間 県の上層部では 25 年の中頃から、すでに準備を進めておられたのだと思う。そして 26 年度
113
総 のことを考えていたと思うが、研究所に第一次増員が行なわれ、その中に西永
当初に、○
さんや水島、川西、杉森さんなどがおられたと思う。さらに、翌 27 年に第二次の増員があ
り、栗田さんや国香君が入ったはずだ。僕も 27 年組だが、26 年に国研へ内地留学して、留
学生の立場から教育計画にタッチした。
(中略)
鹿間 計画のための本格的な調査は 26 年の8月頃からだったと思う。最初は教育委員会が中心と
なって、研究所も協力はしたと思うが、要するに各課の予算要求上の問題点のようなものを
まとめて矢口さんの前に出したことがある。そしたら、「こんな粗雑な、方針もない、バラ
バラのもので計画がたてられるか」と大変なおしかりを受けた。それから研究所が中心と
なって本格的な調査がはじまった。
司会 矢口さんはどんな立場で。
中川 さきほどからも話がでているように、国研の村上所長さんにお願いしたところ、代理として
矢口さんをよこすと言うことになり、総合開発審議会の調査員と言う立場で、教育計画を指
導されたはずだ。あの叱られたのは、たしか第一回の審議会のときであったと思う。
ハンコの精神を守りながら
司会 あらためて調査をはじめるとき、矢口さんは何か方針を示されたわけですか。
鹿間 人間一生のあり方とでも云うか、人間が生まれてから死ぬまでの問題を基本として、学校教
育、社会教育を通じて一元的な考え方で指導された。したがって社会教育についても非常に
強い関心を示しておられたが、もっとも力の入ったのは、なんと言っても後期中等教育段階
であったと思う。
中川 研究体制としては、この仕事は教育委員会全部の仕事としてやること。その上で基本的な調
査は研究所が分担するように言われた。それから計画はあくまでも県土開発計画の一環とし
ての教育計画であることを念頭において、質と量との二面から検討しなくてはならない。教
育の質の面は、農林、水産、商工といった各産業部門の県土開発課題から出てくるだろう
し、量の面は各産業部門の人口雇用計画から出てくるだろう。
そんな指導を受けて、最初の仕事は各産業部門の委員会をたずねて色々な資料をもらって
くることから始まった。人口雇用計画がなかなかまとまらなくて、量の問題だけは最後まで
苦しんだ。
鹿間 それから、教育の現状をつかむために、膨大な調査資料を各学校に流したが、今から思えば
現場の学校も大変なことであったと思う。
中川 産業課題調査の際の西永君は工業部門を担当していたと思うが、研究所としてはまず農業部
門に重点をおいた。農業については、質の問題も量の問題も当初から割合にはっきりとして
いたからで、この部門について方法論を確立すれば、他の産業部門も同様な方法で解決でき
ると考えたからだ。
鹿間 そのまず農業から、と言ったやり方はずっと後まで続いたようですね。教育センターを作る
ときも、産業高校をつくるときも……。
司会 それらの調査や研究資料をまとめられるのも大変だったと思いますが。
114
中川 関係者が盲学校にとじこもって仕事をやった時期があったなア。それからしばらくたって馬
場茶屋に十数日ばかり泊り込みで仕事をやった。
鹿間 あのとき西永さんは、なんだかんだと言って、相当やかましく物を言っておった。それから
水島君や川西君、ハンコだ、ハンコだ、と言って。
中川 そうそう、あれは馬場茶屋だ。当時は戦後の啓もう時代で、上からの理論でおさえつけよう
とする風潮が非常に強かった。したがって調査資料を基礎に実証的に積み上げてゆこうとす
ると、各自のもっている上からの抽象論でくずされる。そこで第一段階の結論が出ると、関
係者のハンコを取っておく。次の段階で、その問題がむしかえされると、お前はハンコを押
したじゃないか、でかたづけたものだ。
鹿間 あのハンコの精神は、研究所内では相当長く残りましたね。
司会 そうしたハンコの精神を貫いていったら、教育にもっと「産業性」を導入しなくてはならな
いと言った結論に達したのだと思いますが、それについて一般からの反発はなかったもので
すか。
中川 それはあった。教育をすべて職業教育にしてしもうのか、とくってかかられたこともある。
教育はあくまでも教育で、それに産業性を導入するのだ、で押し通した。研究所内において
も、いわゆる職業教育と教育に産業性を導入することを区別して考えるまで時間がかかった
ように思う。それだけにこの問題は、現場においても相当長く尾をひいたのではないか。
司会 教育計画は施設計画か内容計画かで対立したこともあったと云う話を聞いたことがあります
が。
中川 そんなことはなかったと思う。ただ当時の教育現状から、小・中学校は内容的な計画とな
り、高校は施設計画的であったと言えよう。そして、それぞれ仕事を分担していたので、そ
こに自ずから色合の違いはあったかもしれない。
(中略)
司会 計画としてまとめあげたのは……。
中川 二十六年度の三学期。雪の降る中でやった。しかし最後的には、矢口さんがほとんど全文に
手を加えられて仕上がったと覚えている。
鹿間 そうそう、最終段階では矢口さんが全資料を東京に持ち帰って検討しておられた。
中川 仕上がった頃はお互いにわかったような、わからないようなものだったと思うね。二十七年
度に入って、自分がやるべき仕事は何かを考えながら、あらためて計画を読み直し、やっと
少しずつわかって来た。
総 資料からあらためて「課題分析表」を作成し、そ
鹿間 研究所としては、二十七年度に入って○
れを基礎に小中学校の教育課程改善の問題に切り込んでいった。
中川 まあ、あの仕事をきっかけとして、それまで個人研究のよせ集めであった研究所が、共同研
究のあり方を確立し、実証的な研究方法を身につけたと言えよう。
仕事が人間を育てる
司会 今までのお話を聞いていると大変な調査だったようですが。その後、それだけ大きなまと
まった調査がないのでは……。
115
鹿間 日常の調査資料がそろってきたということもあろう。機会としては修正を加えて三次にわた
る計画段階があった。
司会 それは第一次計画で出来上がった物の見方で資料を集め、その中で処理していただけでない
のか。物の見方それ自体を変えるような、積み上げによる実証的な調査がない。
鹿間 実証だけの問題ではなかろう。実証的に積み上げて行く方向を定めるための、大きな立場で
のアイデアが必要だ。その点で矢口さんの精神は強烈なものだった。あのときの思想が、今
やっと中央教育審議会で出て来たような感じだ。その矢口さんの思想を具体化した西永君も
また、おそろしいアイデアマンだった。
司会 1〜2年間でやった仕事の大きさと言い、またわずかの期間に多くの人間が育ったことと言
い、まだどうもハッキリ理解できないのですが……。
中川 われわれは、ただ下働きをしただけなので……。(笑声)
鹿間 今もすごいが、あの頃の矢口さんはとくにすごかった。精力絶倫、朝から晩まで、あの問題
この問題をたくさんの人間を相手に叱りつけ叱りつけやっておられたものだ。
荒館 連日の徹夜が平気だったものなア。
鹿間 今でも「お前達はもう寝るのか?」とやられるぞ。
司会 矢口さんに叱られながらにしても、それを受け止める方に受けさせる何かが。
中川 最初のうちは仕方なしだったろう。
荒館 そのうちにわかってくると、面白味が出て来たという点もあるし。
中川 他の部門との競争意識もあった。
総 という新しい試みに、非常に意気があがっていたような気がす
鹿間 それに県全体としても、○
る。
司会 そう言った事に加えて、敗戦後の日本の教育を自分らの手でなんとかしなくてはと言った教
育者自体の問題が基盤にあったのでしょうね。
荒館 もちろんあったね。僕等が地域教育計画に取りくんだのも、そうした必要感からだ。
中川 それから、文部省が学習指導要領は出さないから、各県や各学校毎に作るよう指導してい
た。富山県でも 23 〜 4 年頃からその動きがあって、県で「要素表」などを作ったりしてい
た。しかし学校だけでは行きづまっていたところへ、県全体でやると言うことで、気分的に
マッチしたものがあったのだろう。
鹿間 その通りだ。これが県全体の基本的な課題であると言ったものが示されると、各学校のカリ
キュラムは非常に作りやすくなる。
中川 同じ問題が県にもあった。県の課題はわかったが、国の課題はどうなのか。国の課題を抜き
にして、県の課題だけで教育課程を考えてよいのかと。
鹿間 それに矢口さんの持っていた詩、男らしい雄大な詩。それに関係者が酔わされたと言う面も
多分にある。この矢口さんの夢に西永氏も大いに感化されたと思う。
司会 そう言った教育に対する夢がだんだん薄くなってきているのでないか。平和ムードの中で、
教育に対する危機感がないような……。
鹿間 世の中全体が、生産的でなく、やや享楽的に傾いているような感じだ。
司会 「期待される人間像」といった文章をつくると、それだけで世の中の人がその方向を向いて
116
くれるだろう。向かなかったら、向かない人の方が悪いのだといったような安易な考え方が
ないか。
鹿間 何しろ第一次の教育基本計画が出来上がったとき、何百年たてばこの夢が実現するのだろう
かと思った。
司会 その後の教育計画の推進状況について、先輩として何か……。
中川 全般的にみて、非常にスムースに進んでいるのでないか。とくに後期中等教育段階は、中教
審が全面的に参考にするほどの進展を見せている。産業教育館なども、初期段階において、
よくあれほどまででにやったものだと思う。
鹿間 特殊教育部門も非常に伸びた方であろう。話しがとぶが、産業高校のその後の世間的評価は
どうか。アイデアが非常によいと思うが、定時制をすべて産業高校方式にしようとする動き
は弱いようだが。
中川 それには色々な条件がからんでいると思うが、特に教育以前のところに問題が多いのでない
か。
司会 小、中学校教育への産業性の導入といった点では過去何回か、実験学校の設置とか、地域教
育計画の推進とか、いろいろ試みられているが、その段階以上には進まないような気がする
が。
荒館 そう言った見方も成立するかも知れないが、しかしそう言った課題というか、夢というか、
そうしたものの解決に努力したことのある先生の授業は、他の先生方とは全然違いますね。
鹿間 まあ、人間は実践を通して、理論でなく作業を通して育つんだろう。生徒も教師も。そんな
意味では、教育計画の策定とその推進は、非常に沢山の立派な先生方を育てたんじゃないか
なア。
中川 それが一番大きいかも知れない。だが今後に残された問題も沢山ある。特にこれからは、世
界的な視野で教育をながめ、教育を考えないと、とんでもない事になるんじゃないかな。
司会 話はつきないようですが、そろそろ時間もきましたので。どうも有難うございました。
(注)‌こ
の座談会記事は、要点速記を基礎に、原稿用紙の枚数を考えながら適宜編集いたしましたので、文責はすべ
て編集者にあります。
出典:
『郷土に築く』故西永良次先生追悼誌編集委員会、1967 年2月。原題は「教育研究所の果
たした役割」
117
国研での矢口先生
能力開発工学センター理事
小澤秀子
1954 年の海外青少年派遣団において団長と団員として出会い、以後 30 年間、国立教育研究
所、プログラム教育研究所、能力開発工学センターまで、矢口と研究生活を共にする。
30 年前の出会い
1959(昭和 34)年、日本政府は、全国から青年を募って世界各国に派遣する“青年海外派遣”
という企画をスタートさせた。私は新聞でそのことを知り、即応募。都道府県ごとの選考を経て、
結団式に臨んだ。全国から集まった 100 名余りの青年たちは訪問先ごとに6班に分かれて、一カ
月ほどの合宿研修を受けた。そろそろ終わろうとする頃、それまでサボっていた我が東南アジア班
の団長が、ようやく顔を出した。気のない表情で演壇に立った団長、黒板に「矢口新(やぐちはじ
め)
」とふりがなをつけて書いた後、団員の方をふり向いて「英語を話せる人は手を挙げて下さい」
と一言。
初めての海外旅行を目前に興奮気味の団員にとっては、拍子抜けする現実的な話しぶりだった。
旅の心得とか、外国の人と接する際の心構えといった類の話は何もなかった。それだけに強い印象
だった。私は、これぞ我が師と心に決め、当時先生が勤務されていた国立教育研究所(現国立教育
政策研究所)に入れてもらった。東南アジアの旅を終えた、昭和 34 年の終わり頃だった。
研究はグループ全員で
研究所の研究体制は、教育制度、教育方法、教育内容などに分かれ、さらにそれぞれが数個の研
究室で構成されていた。各研究室には3〜5名の研究員が属しており、矢口先生は第一から第四ま
である教育内容研究室の第二研究室室長であったが、実際は内容研究室全体の指導者だった。毎週
1回、14 人の内容研究室メンバー全員が一堂に会して、発表と討議を行う。質疑は真剣そのもの、
発表に当たったものはだれもが緊張した。特に矢口先生からの質問は意表をつくものが多く、みん
なタジタジだった。
これは、研究は個人で文献を読むことではなく、メンバー相互のアイディアをぶつけあうことで
成り立つ、という矢口先生の研究に対する考えによるものだったと思う。臨時筆生というアルバイ
トのような私にまで一メンバーとして発表を割り当ててくれた。
取り組んだ研究は、視聴覚教育、授業研究、教科書分析、道徳性形成の実態と問題、教育課程に
ついての調査、学力水準検査についての調査、など、これらは小・中学校分野のものだが、高等学
校については、学区制と学校、課程配置、生徒指導の実態と問題などについての調査、さらに勤労
118
青少年を対象とした産業技術教育の実験的研究など、社会的ニーズに応える実践的研究を次々に
行った。特に 1961 年に行った留学生についての調査は、国費留学生の日本語教育、専門教育、さ
らに生活条件の調査によって、留学生教育の問題点を明らかにしたもので、矢口先生は説明のため
政府の委員会に呼ばれた。
研究テーマはすべて社会のニーズを踏まえたもので、それについて現実の調査を基礎に置いた実
験的手法で研究し、解決案または解決の方向を提案するという態度の研究であった。
新たな旅立ち−産業界の教育へ
矢口先生は時代の変化にも敏感で、世界各国で開発される新しい教育テクノロジーについての勉
強も怠らなかった。アメリカの心理学界で研究されたプログラム学習についての英語の論文をいち
早く丸善から取り寄せ、これを全員で研究開始したのも 1960 年ごろだったろうか、とにかく日本
で最初だった。やがて具体的な教材が輸入され、“Trainer Tester”、“English 2600”などのプロ
グラム教材が紹介されると、早速自分たちも作ってみようということで、国語や社会科のテキスト
を試作した。生徒一人一人をアクティブに行動させる画期的な学習方法であった。全国の学校で関
心がもたれ、全国的な研究組織も作られた。矢口先生初め所員スタッフは手探りで教材開発に従事
する傍ら、指導者として東奔西走の日々を送ることになった。
このことが産業界の知るところとなり、やがて矢口先生は国研を出て、産業界に向かうことにな
る。私も先生と行動を共にして、新たな茨の道、だが創造の刺激に満ちた道へ飛び込んだ。3年の
準備室を経て、1968 年9月、矢口先生を所長とする能力開発工学センターが創立され、教育革新
をめざす本格的な営みが始まった。
出典:能力開発工学研究会会報「アドヴァンス・サロン」27 号
「明日をひらく教育に情熱をそそいで−矢口先生の行動と言葉の記録−」1991 年4月掲載
のものに、このたび加筆
119
行動分析による教育の開発
東京大学名誉教授
海後宗臣
現代における科学技術の進歩は、多くの機器をつくりだしてきているが、歩みのおそい教育の世
界にも少しずつこれらが導入されてきている。教育政策としても、新しい教育法をとり入れなけれ
ばならないという原則が示されるとともに、それを推進するものは教育機器であるという方向が指
示されてきた。これによって学校の中にもいくつかの新しく開発された機器がとり入れられ、これ
を活用することによって、今までにない教育法が成立し始めている。それらがシステムとか CAI
とか、教育工学などという文字によってとりあげられているが、いずれも日本教育界にとっては
まったく新しい試みで、これが成長するかどうかはすべて今後にかかる重大な課題である。もしこ
れが予期したような効果をあげて、広く教育実践の中にとり入れられるならばここから教育方法の
世紀的な改革が出発するであろう。
教育機器の導入はたしかに教育改革の起点となりうる課題を提供しているが、単に機械が教育の
実践に入ればそれでよいということではない。これが教育実践の改革となるためには、それ以前に
改革されていなければならない基本的な問題がある。それは学校において知識注入の授業法が定型
となり、生徒は教室の坐学で一斉教授を受けているという方式を変革することである。この授業法
の定型を破らなかったならば、活用されて教育改革の起点ともなるべき教育機器が、一斉授業の中
に埋没してしまってその効用が減殺されることとなる。このように教育機器が古い型の教室実践の
中に埋もれている姿はすでに数十年にわたり、みられる現象である。スライド、教材映画、放送な
ど、また新しくは VTR、そして OHP、アナライザー、CAI などもまた一斉授業の一部にくり入れ
られるか、それができないものは何年を経ても実らないで、小さくなって消えてしまっている。こ
うした教育機器の不毛が積み重ねられているのをみると、何よりも先きに最も大きな障害となって
いる一斉教授による知識注入の方法を改変しなければならない。
この批判と改革の課題は数十年にわたって耳に入っているのであるが、これをどうして打破する
かは、今日においてもなおその方法がつきとめられないでいる。であるのに教育機器が導入され、
古い授業の方式につきあたってきているのである。今日では機器を使いながら、新しい授業方式を
つくりあげ、機器による教育の改革を進めなければならない。一斉授業方式の改革を教育機器の導
入によって進めることができるかどうかは必ずしも保証できるとはいえない。しかしこうした二つ
の問題をからみ合わせながら、教育の改革を進めるという方向以外に道はない。ただこれを進める
のには、新しいシステムを実践し、その結果を積み重ねることである。私は今まで何回となくこの
考え方を説いているが、私の意見を聞いた人たちは、なるほどとは考えるようであるが、これを実
120
践して世紀的な課題に立ち向って努力している人は多くない。それは今日まで、依然として一斉知
識注入方式が多くの学校の教授のあり方を支配しているということからも明らかであろう。
矢口新著「能力開発のシステム−教育工学入門−」(1972 年1月、国土社刊)は、右に述べた
難問題に勇敢に立ち向った教育実践の記録書である。この書が教育工学の類書と異るところは、著
者自からが教育機器を開発し、その原理を実践によって明らかにしながら、成果を積みあげてきて
いることにある。その中には行動による教育という新しい着想が、幾つかの実践報告によって示さ
れていて、矢口理論とその実証がよく述べられている。これはあらゆる点からみて行動による人間
教育方式の開発を啓蒙しながら来るべき教育の実相に読者を引きこまないではやまない著作であ
る。教育書としては異質であるが、それは未来の教育を志向しているということによるのである。
もしこの書を手にした教育者や教育理論家が、その内容を異様であると感ずるならば、それは従
来の教育書が真実の人間教育の問題から遊離していたことを反省させる以外の何ものでもない。教
育の探求者は、矢口理論による開発システムが何であり、センターにおける施設とこの原理を活用
した新しい人間教育の方式を見学してはどうか。今このセンターで真実の教育をさぐりあてようと
して熱心にとりくんでいる人びとがいる。それらの人は今までとは異った層の教育者であるが、そ
れらの人の真剣なまなざしを見てはどうか。これからの教育のあり方がどのようなものであるか
は、この実践によって示唆されていることを観取できるであろう。
私は昭和 11 年から東京大学の教育学科で講義をするようになったが、矢口氏は私の最初の講義
を聴いた学生の一人である。昭和 12 年から東大図書館の研究室の一部を借りて岡部教育研究室が
開設されることとなった。そのとき矢口氏は飯島篤信氏とともにここで研究員となり、私たちの研
究の協力者として働くこととなった。ここで行なった研究はすべて教育の実体についての実証的行
動的研究であって、教育思想や思潮の文献研究ではなかった。最初の調査は千葉県白井村における
農村青年調査であったが、続いて都会の勤労青年の教育調査を行なった。この調査を行なう際に私
は研究の基本となる企画と調査方法に力を注ぎ、研究員は調査実施のために努力した。企画立案の
討論から調査地の現場研究、調査用紙の作製から、調査の実施、結果のまとめまで、関係者すベて
連日の全力投球であたった。数名の学生が研究助手として参加したが、矢口氏はその中で常に推進
力となって卒先していたが私がみていてそこまでしないでもということでも敢然としてやりとげた
のであった。その態度はまことに行動的であって、矢口氏がこの数年間に体験した行動的教育学研
究の技術は、その後 30 年にわたる実践による研究の成果を示しえた根源力となったと思う。その
頃は次の日に実施する調査の用紙をガリ版刷りするために私の家で徹夜し、翌朝は早くからこれを
もつて千葉県ヘ出向するというわけで、これらの研究行動を矢口式馬力などといって、学生たちは
恐れをなしていた。これはすべて、今日開発センターでの研究成果を産みだすスタートであった。
われわれはこの研究で農村青年や大都市下町の小工場で働く青年たちの仕事の分析を行なったの
である。これは今日いう仕事における行動の分析であるが、教育研究の分野では当時まったく新し
い研究法で、研究室員の討議と実践によって自力で開発したものであった。われわれは職業を通し
ての人間教育を問題にしていたので、仕事における行動の分析を基本として勤労青年の学習の研究
に勤めたのである。それを単なる理論や思想としてではなく、実際に青年の仕事の中に入って仕事
の分析を行ない、それを基として学習のカリキュラムを組みあげたのである。その頃下町の製靴工
121
場に入って、製靴工員の生産技術を分析してステツプをつくりあげ、これをもととして技術学習の
方式を開発したことなどは、今日矢口氏が開発している方法の原初をなすものとして貴重な経験で
あった。戦後中央教育研究所での教材映画製作について矢口氏が提案したフイルム編集の考え方
も、新著の「能力開発のシステム」に連らなるものをもっていたとみている。これらをみると矢口
氏が現在のセンターの研究を始める以前に 30 年一貫した行動教育研究の積み重ねがあったことに
注目しなければならない。
行動科学の原理による教育の研究は、学習行動の分析を必須とするがこれと教育内容との結びつ
きの接点に切りこまなければならない。プログラムによる学習はその試みであり、これが新しい授
業法の開発へ進ませるものであることは疑いない。この世紀的な開発研究こそ、今後の教育改革へ
の道を指し示すものである。私は十数年前アメリカにおけるプログラム学習の方法に注目して、帰
国後矢口氏とこの方式について話し合った。この方法はわれわれが以前から追究していた内容分析
と自学法開発の課題と同じ方向であったので、矢口氏はプログラム学習の実践指導を始めた。当時
プログラム学習は海外文献の紹介であったり、単なる主張にとどまっていて実践にまで入っていな
かった。その際に国立教育研究所に在任していた矢口氏が中心となって、プログラム学習の実践指
導グループがつくられ、全国にプログラム学習の同志の組織も結成されるようになった。それは主
としてプログラム教材の編集とその実践としての個別学習の試みであったが、富山県下のプログラ
ム学習の研究があり、茨城、秋田その他においてもプログラム学習の実際展開が進んだ学校におい
てみられるようになった。これは矢口氏の研究の業績として記録されなければならないものであ
る。これが現在の能力開発工学センターでの優れた試みの基礎となっていることはいうまでもな
い。
矢口氏は国立教育研究所を離れ、行動分析による能力開発の課題にとり組み、今日まで困難の中
を切りぬけて成果をあげてきた。生産性本部から現在の工学センターの設立と経営に至るまで、引
き続いて産業界や実務の分野における行動教育の研究を重ねてきている。最近はこうした分野を教
育工学などともいってきているが、それは矢口氏の長い年月にわたる人間教育改革の課題追究も含
むであろうが、教育工学の解説をするために「能力開発のシステム」が刊行されたのではない。教
育工学入門と副題してあって、この分野にこれから入ろうとする人々のためにも考えてあるが、す
べて実施しながら開発し、現にそれを動かしながら、次の段階の実践へ進む構えがみえている。こ
の著書は単なる通俗の入門書にとどまるものではなく、教育工学の実践を高度な技術によって深め
ながら蓄積してきたのである。
「自動車運転訓練のシークエンス」として行動学習方法の一部が記
されているが、センターにある自動車運転のシュミレーターをみると、確かに人間にとっての学習
はこの方向から、変革されてくると直観させられる。これは教育に関心をもつものの心に学習革新
のクサビを打ちこむような実感をもたせるに十分な施設である。本書に例示されている映写機操作
の学習プログラム、銀行事務の学習プログラム、早くから開発したクレイン操作のシュミレーター
などとともに、行動分析による学習法開発の進度を明らかにしている。コンピューター利用の学習
も同様なプログラム学習を発展させる新しい分野として開発され算数、理科などの具体例があげら
れ、CAI へ切りこんで独自な機器の開発につとめていることがわかる。
私は矢口理論によって 30 年にわたって積み重ねてきていま行動による教育研究をよく知ってい
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る一人として、このシステムを高く評価するとともに、産業実務の分野ばかりでなく、早く学校教
育の世界にも、これが活用されることを待望している。
出典:
「視聴覚教育」Vol.26 No. 4、日本映画教育協会、1972 年
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編者あとがき
千葉県立保健医療大学准教授
越川 求
本研究紀要は、「中研をつくった人々-その2」として、矢口新 ( はじめ ) を取り上げている。
日本の教育学史上著名な教育学者として「その1」でとり取り上げた海後宗臣を挙げることについて
は、異論はないだろう。しかし、矢口は少なくとも教育学界では、鮮明な業績に比べて知られることの
広くない学者であった。海後は、中央教育研究所(以下、
「中研」
)の設立から理事・研究部長として、
さらに理事長として、長い間、発展に尽くしてきた。その海後を師として活動したのが、矢口である。
中研の前身とされる岡部教育研究室1)から中研設立と同時に研究員となり、それ以降、国立教育研究所
に就職してからも委託研究員、理事・常任理事として中研の研究を実質的に推進してきた。その意味で
も、矢口は海後に次いでこのシリーズに取り上げられるべき研究者である。
筆者は、編者略歴にも記したように、公立中学校教員を 30 年近く経験した頃、社会科やコミュニテ
イスクールなどの戦後教育の原点を明らかにしようと教育史研究にとりくんできた。そこで、中研の川
口プランに次ぐ第二の実験プランである三保谷プラン(筆者の在勤在住地である埼玉県坂戸市の隣接川
島町で実施)に出会った。その研究実践のリーダーであった矢口の活動振りに惹かれ、その足跡を立教
大学文学部前田一男教授の指導のもとに研究的に辿る中で、幸いにも立教大学から博士学位を得ること
ができた。寺﨑昌男先生を中心とする「中研人物研」に加えていただき、さらに、今回、編者としての
機会を与えていただいたことにあつく感動している。
以下、Ⅰ〜Ⅳの各章ごとに収めた諸資料について簡単な解説を加えてみよう。
Ⅰ 中央教育研究所と私
以下の3本を掲載した。
①めぐりあい 社会の中の教育づくり─海後宗臣先生(
「毎日新聞」
、1982 年 12 月2日夕刊)
②私と教育研究 (「国立教育研究所広報」第 79 号、1988 年)
③座談会 川口プランと海後先生(『海後宗臣著作集』第6巻、月報 5、1981 年1月)
これまで、戦前からの代表的海後宗臣門下生の一人が矢口であることは、あまり知られてこなかっ
た。『海後宗臣著作集』全 10 巻 ( 東京書籍、1980-81 年 ) の実質的な編集責任者がなぜ矢口であったのか
も理解されず、戦後の教育研究史がイメージされ語られてきたのではないだろうか。戦前からの教育研
究者で海後が最も信頼していたのは矢口であったことが、重要なのである。
この3本の資料により、「海後先生と矢口のめぐりあいの意味は何であったか」
「矢口の教育研究の骨
格に海後教育学があり、それを発展させようとした」
「矢口は戦後カリキュラム改造の先駆者として川
口プランで颯爽と登場し、同時に中研も揺るぎない存在として位置づけられた」などの事実を確認する
ことができる。
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Ⅱ 中央教育研究所を舞台として
矢口の論文から、以下のものを掲載した。
①地域教育計画の動向-『日本教育』1947 年 8 月
戦後最初に「地域教育計画」という用語が使われた教育論文で、中研の教育論が地域教育計画論
と呼ばれたことの歴史的意味がわかるものである。
②新しい教育と社会科-『社会科概論』1947 年 12 月(中央教育研究所編)
③社会科に於ける学習活動の構成-『社会科の構成と学習』1947 年 12 月(中央教育研究所・川口市
社会科委員会共編)
②、③の2つの論文は、1947 年 12 月1日に中研が発行した川口プランの理論編と実践編に当たる
単行本であるが、その中に収められた矢口執筆の重要な論考である。この 12 月の社会科研究全国集
会では、1日目 (12 月4日 ) の全体講演を矢口が行い、大きな反響を呼び起こしている
④カリキュラム構成の為の実態調査(一)-『教育科学研究』Ⅰ -1.1949 年
中研の研究誌『教育科学研究』の中で、編集代表者矢口がシリーズで論じたものである。中研の
川口プランに続く第二の実験プランである三保谷プランにおける研究・調査について論じている。
⑤新教育と視覚教育-『カリキュラムと視覚教育』1949 年 11 月
矢口の最初の単著であり、歴史研究からカリキュラム論を展開し,新教育と視覚教育について論
じたものである。その第1章の部分を収録した。
⑥富山県総合教育計画における教育調査-『教育調査』1952 年5月
教育調査について論じ、具体的に富山県総合教育計画の歴史的意義が述べられている。Ⅳの富山
県総合教育計画関係者の座談会と併せて読んでいただきたい。
矢口は、毎年 10 本〜 30 本ぐらいの論考を、主に雑誌に書いている。ここに取り上げた論文は、
そのうち教育史上意義があると思われるものを選んだものである。
Ⅲ 中研・戦後、そして矢口新
・戦後教育改革における中央教育研究所の役割-矢口新の仕事を中心にして-
編者越川求が教育史学会(宮城教育大 2015 年9月)で発表した論文原稿をもとに執筆した。Ⅱ
に掲載した矢口の論考の教育史上の意義について、その理解に役立つことができれば幸いである。
また、Ⅳの「師友とともに」の原稿の内容の意味も理解する一助になると考えている。
なお、この論文執筆の過程で、中研と国立教育研究所(現国立教育政策研究所)との関係を、教
育論・研究者・研究体制・研究内容・研究基盤をもとに具体的に明らかにすることができた。中研
所蔵の文書を閲覧できたことによって成し得たものである。
Ⅳ 師友とともに
ここでは、国立教育研究所教育内容室の共同研究者(岩井龍也・元木健)
、矢口が指導した現場の教
師(古谷茂夫・堀越通雄・荒舘実)、矢口が長年にわたって監修した「少年朝日年鑑」の担当者(向後
環)、軍隊時代から中研・国研と矢口の活動を支えた久保田晃、国立教育研究所から矢口の設立した能
力開発工学センターへと共に歩んだ小澤秀子の各氏の原稿、さらに富山県総合教育計画関係者の座談会
(抜粋)を選んだ。
そして最後に、矢口の師、海後宗臣の矢口に対する信頼あふれる一文を掲載した。
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本紀要の原稿資料及び写真等の収集・掲載について、矢口の次女夫妻である矢口みどり・榊正昭の両
氏に多大な御協力をいただいたことに、改めて感謝申し上げたい。また、本紀要が完成するまで、寺﨑
昌男中研特別相談役、水沼文平所長をはじめ中研伊藤育夫さん、佐藤美和子さん、
(株)リーブルテッ
ク・種田心吾さんというメンバーと、筆者越川求とで編集作業を行ってきた。
「中研人物研」では、さ
らに、数名の方々をとりあげて行く予定と聞いている。研究所が関係者各位の足跡を記録公刊して行か
れることは、教育の未来のために貴重な事業であり、今後も協力を続けて行ければ幸いである。
注1)‌岡
部教育研究室は、1937 年 7月に東京帝国大学図書館内に設置された民間の教育研究機関である。岡部長
景貴族院議員委託の研究費で運営され、東京帝国大学助教授であった海後宗臣が主宰し、矢口新と飯島篤
信が専任の研究員となっていた。研究成果として『日本に於ける学校調査の批判的研究』
(刀江書院、1938
年)と『農村に於ける青年教育-その問題と対策-』
(龍吟社、1942 年)が同研究室から公刊されている。
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■ 編者略歴
越川 求(こしかわ もとむ)
1953 年千葉県生。教育史、教育計画論を専攻。
東京大学教育学部卒業後、
1978 〜 2011年の33 年間
にわたり、埼玉県公立中学校教員を勤める。2005 年
3月放送大学大学院修了(学術修士)
、
2013 年9月立
教大学大学院後期博士課程修了(教育学博士)
。東
洋大学非常勤講師(2012 〜 2015 年)
、2014 年10 月
より千葉県立保健医療大学准教授。著書に『戦後日
本における地域教育計画論の研究-矢口新の構想と
実践-』
(すずさわ書店、2014 年2月)がある。
中研紀要 教科書フォーラム 別冊 No.15 平成 28 年3月発行
公益財団法人 中央教育研究所 理事長 谷川彰英
東京都北区堀船 2-17-1 〒 114-0004 Tel.03-5390-7488 Fax.03-5390-7489
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