ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題

イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)246‒258 頁
Kyoto Bulletin of Islamic Area Studies, 8 (March 2015), pp. 246–258
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
松田 和憲*
A Comprehensive Review on the Mujāhidīn Movement
MATSUDA Kazunori
The purpose of this paper is to examine previous studies about the Mujahidin movement. The
Mujahidin movement was founded by Saiyid Aḥmad Barelvī and Shāh Muḥammad Ismā‘īl.
The Mujahidin were mainly active in north India. In 1826, they started a Jihad against the
Sikhs. British officers thought that the Mujahidin movement was affected by Arab Wahhābīs,
and so they were labeled as ‘Indian Wahhābīs’. Western scholars tend to connect the Arab
Wahhabis and the Indian Mujahidin, but their connection with the Arab Wahhabis has been
denied by South Asian and Japanese scholars because of the difference of their attitudes toward
Sufism and saint cults. They insist that Indian Mujahidin had a deep relationship with the
family of Shāh Walī Allāh. Recently, a new paper revealed that this movement was influenced
by a Yemeni scholar.
The movement pursued many reforms such as the usage of lithography and the remarriage
of widows. This had a big impact on South Asian societies in those days. Their reforms exerted
influence on South Asian Islamic revivalist movements like the Deobandī, and today, this
Jihad affects Islamic militants in Kashmir.
1. はじめに
本稿では 19 世紀前半に北インドで興ったムジャーヒディーン運動についての先行研究を概観し、
今後の課題を示す。
ムジャーヒディーン運動はサイイド・アフマド・バレールヴィー(Saiyid Aḥmad Barelvī, 1786–
1831)と、シャー・ムハンマド・イスマーイール(Shāh Muḥammad Ismāʻīl, 1779–1831)によって率
いられたイスラーム復興・改革運動である。サイイド・アフマド・バレールヴィー(以下サイイド・
アフマドとする)はカリスマ的な指導者、スーフィー、軍人、宗教改革者であった。また彼は死後
マフディーと見なされた 。シャー・ムハンマド・イスマーイールは、南アジア最大の思想家であ
るシャー・ワリーウッラー(Shāh Walī Allāh, 1703–1762)の家系に生まれた学者である。彼らは当時
パンジャーブを支配していたスィク政権に対してジハードを宣言したが、1831 年に 2 人の指導者
が殉教した。その後 19 世紀の後半まで運動は続いて行った。イギリス植民地官僚は、彼らの教義
がムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(Muḥammad ibn ʻAbd al-Wahhāb, 1703–1792)が唱え
たアラビアのワッハーブ運動の思想と類似していることから、彼らの運動をインドのワッハーブ運
動と呼んだ。しかしながらアラビアのワッハーブ運動と異なる点として、ムジャーヒディーン運
動はスーフィズムとの関連が深いことが指摘されている[Colvin 1832]。彼ら自身は「ムハンマドの
道」を意味するタリーカ・ムハンマディーヤ(Ṭarīqa Muḥammadīya)
、またはムハンマディーと自称
していた 1)。
* 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程
1)
ムジャーヒディーン運動とスーフィズムの関連についての最近の研究としては[Gaborieau 2000b]や[Green
246
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
ムジャーヒディーン運動はデーオバンド派、アフレ・ハディース派、アリーガル派といった 20
世紀初めの南アジアのイスラーム改革運動に大きな影響を与えた[Gaborieau 2013; Ingram 2009;
Jaffar 1991 など]。またサイイド・アフマドとシャー・ムハンマド・イスマーイールが、カシュミー
ルで活動するイスラーム過激派組織のメンバーから偉大な英雄としてみなされており、この運動
が現代南アジアのイスラームにも影響を与えている[Jalal 2008: 2]。加賀谷[1977; 1981; 1988]や荒
[2007]は、日本語でムジャーヒディーン運動について取り上げて紹介している。
本稿でははじめにムジャーヒディーン運動の全体的な歴史を簡潔に示し、そのうえで、サイイ
ド・アフマドたちの運動とワッハーブ運動との関連性があるのかという議論や、シャー・ワリー
ウッラーの運動を引き継いでいるのかという議論、彼らのジハードにかんする議論に分けて先行研
究を概観する2)。今回の先行研究の概観は欧米語文献を使用する3)。ウルドゥー語文献においても
先行研究は存在するが、入手困難なものがある。そのためウルドゥー語文献における研究動向は次
回の課題とし、参考文献には多くの欧米語文献に用いられているもののみ提示した。
2. ムジャーヒディーン運動の流れ
ムジャーヒディーン運動の全体的な歴史についての先行研究は以下に挙げるものがある。運動
の全体的な通史[Ahmad, Mohiuddin 1975; Ahmad, Qeyamuddin 1994]、パキスタン歴史協会 4)による
インド・ムスリムの独立運動の歴史の一部としてとりあげている通史[Husain 1984a; 1984b; 1984c;
1984d]、サイイド・アフマドの宗教改革の側面からムジャーヒディーン運動を描いているもの
[Hedayetullah 1970]がある。インドのスーフィズム研究者であるリズヴィーは、ムジャーヒディー
ン運動に直接的な影響を与えたシャー・アブドゥルアズィーズ(Shāh ‘Abd al-ʻAzīz, 1746–1824)
を中心に取り上げている著作において、ムジャーヒディーン運動についても詳しく分析している
[Rizvi 1982]
。[Pearson 2008]は、1979 年にデューク大学に提出された博士論文で、多くの研究者
に参照されているムジャーヒディーン運動の文献学的研究である。日本においては加賀谷寛がこの
運動をウルドゥー語文献から紹介している[加賀谷 1977; 1981; 1988]
。これらの文献からムジャー
ヒディーン運動の歴史を簡略に示す。
ムジャーヒディーン運動の中心的人物であるサイイド・アフマドはラクナウーの近くのラーエ・
バレイリー5)に生まれた。彼の家系はサイイドに属しており、またナクシュバンディー教団のム
ジャッディディー派に属していた。彼は幼いころ読み書きができなかった。また若いころの関心は
武術であった。
1804 年に彼は宗教的訓練を受けるためにデリーへと移った。彼はシャー・ワリーウッラーの息
子の一人であるシャー・アブドゥルアズィーズに迎えられ、同じく彼の息子であるシャー・アブ
ドゥルカーディル(Shāh ‘Abd al-Qādir, 1753/4–1813)のもとに預けられた 6)。シャー・アブドゥルア
2012]がある。
2)
本稿ではサイイド・アフマド死後のムジャーヒディーン運動の動向を記すが、論点に関してはサイイド・アフ
マドが亡くなる 1831 年までを対象としている。サイイド・アフマド以降のジハードや、同時代に南アジアで興っ
たイスラーム運動との比較に関しては次回の課題とする。
3)
なお[Butt 1943]と[Nadvi 1979]は参照できていない。
4)
荒はパキスタン歴史協会についても詳しく記している[荒 2007]。
5)
アフマド・リザー・ハーン(Aḥmad Riz̤ ā Khān, 1856–1921)のバレールヴィー派の本拠地であるバレイリーはデ
リーの北の町であり、サイイド・アフマドの故郷であるラーエ・バレイリーとは地理的にかなり離れている。ま
たバレールヴィー派はムジャーヒディーン運動の影響を受けていない[Gaborieau 2013: 54]。
6)
このときにアラビア語の教育を受けたらしい[Ali 1852: 311]。
247
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
ズィーズのもとでナクシュバンディー教団・カーディリー教団、チシュティー教団に入門した。彼
は禁欲的で恍惚的なスーフィーとして修業したのち 1808 年に故郷のラーエ・バレイリーに戻った。
1812 年からおよそ 5 年間、生活費を稼ぐためにラージャスターンのトンクを支配していたパシュ
トゥーンのリーダーであったアミール・ハーン(Amīr Khān, 1768–1834)の私兵として仕えていた。
この時代に彼が何をしていたかついてはほとんど知られていない。1818 年にイギリスがマラータ
に勝利をおさめると、彼はデリーへと戻った[Rizvi 1982: 477]。
デリーではシャー・アブドゥルアズィーズに再会したのち、シャー・ムハンマド・イスマーイー
ルとアブドゥルアズィーズの義理の息子であるアブドゥルハイイ(‘Abd al-Ḥayy, d.1828)と共同して
改革運動を起こした。それと同時に彼らはサイイド・アフマドに子弟の誓いであるバイア(bay‘a)
を行った 7)。
シャー・ムハンマド・イスマーイールは、シャー・アブドゥルガニー(Shāh ‘Abd al-Ghanī, 1756
–1789)の唯一の息子である。アブドゥルガニーもシャー・ワリーウッラーの息子であったが、
シャー・ムハンマド・イスマーイールが 10 歳の時に亡くなった。そのため彼はシャー・アブドゥ
ルカーディルのもとで育てられ、シャー・アブドゥルアズィーズやシャー・ラフィーウッディーン
(Shāh Rafī‘ al-Dīn, 1750–1818)のもとでイスラーム諸学を学んだ。16 歳までにイスラーム諸学を全
て学び終え、法学や論理学の難解な問題について本を参照せずに答えることができたといわれてい
る。後にデリーのジャーマ・マスジッドの説教師となり、影響力を持つようになった。彼は当時の
異端的な聖者・墓崇拝や偶像崇拝的な慣習を批判した。そのような批判がどの程度受け入れられた
かは不明である。ただ、彼の主張を受け入れることができなかった一部の人びとは彼の著作の内容
を問題視し、論争を引き起こしたこともあった[Ansari 1978: 196]
。
アブドゥルハイイについては詳しくわかっていないが、過去にシャー・アブドゥルアズィーズの
すすめで、イギリス東インド会社のムフティーとして勤めていた[Pearson 2008: 35]
。
彼らはデリーなどの北インドの都市を中心にイスラームの改革や復興を説いていた8)。彼らは純
粋なイスラームに戻ることを説き、シーア派の行事やヒンドゥー的な宗教的慣習を批判した。また
当時の社会慣習に反して寡婦の再婚を促すなど、社会慣習の改革という側面もあった。このような
主張に惹かれていった聴衆は、サイイド・アフマドに対してバイアを行った。アラビア半島に巡礼
に行く前の彼らは、多くの時間を説法に費やしており、武力を伴ったジハードは行っていなかっ
た。しかしながらシーア派によって崇拝されていたフサインの記念碑を破壊したりするなど、攻撃
的な部分は当初からあった[Gaborieau 2013: 52]。
彼らはハッジの義務を復活させ、1822 年から 1824 年まで 753 人の弟子と共にマッカに集団巡礼
を行った。彼らはデリーからガンジス川を下りカルカッタを通ってマッカに向かった。カルカッ
タでは多くの弟子が彼に入門した 9)。このときにベンガルでムジャーヒディーン運動を率いたティ
トゥ・ミル(Titu Mīr, 1782–1831)も入門している。またカルカッタにおいて活版や石版の印刷技術
を利用し、彼らの著作やシャー・アブドゥルカーディルによるクルアーンのウルドゥー語訳の出版
を試みた。当時イスラ―ムに関する文献はアラビア語やペルシャ語で書かれていたが、多くの人び
とは読むことができなかった。そのため、ムジャーヒディーン運動に参加していた学者たちは、よ
り多くの人が読むことのできたウルドゥー語で自らの著作を記し始めた。このことから、彼らの著
7)
この時点ではジハードを唱えていない。
8)
彼らの主な活動範囲はデリーからカルカッタにいたるまでのガンジス川流域であった。
9)
本稿ではベンガルにおけるサイイド・アフマドの影響については論じない。
248
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
作はウルドゥー語の宗教文献の中で先駆的な位置づけにある[Sadiq 1984; Gaborieau 1995]
。
彼らの著作として第一にとりあげられるものは『信仰の強化(Taqwiyāt al-Īmān)
』と『真っすぐな
道(Ṣirāṭ-e Mustaqīm)』である。『信仰の強化』はシャー・ムハンマド・イスマーイールのアラビア
語の著作『偶像崇拝についての反論(Radd al-Ishrāk)
』の第一部で、彼自身がウルドゥー語訳したも
のである。このアラビア語の彼の著作『偶像崇拝についての反論』の第二部は、1830 年代にムハン
マド・スルターン(Muḥammad Sulṭān)によって『同胞への忠告(Tadhkīr al-Ikhwān)
』という題名でウ
ルドゥー語訳されている。これらの著作は主にシルク(shirk)とビドア(bid‘a)に関して述べられて
いる[Gaborieau 2010: 96–104]。サイイド・アフマドの発言をシャー・ムハンマド・イスマーイー
ルとアブドゥルハイイが編纂した『真っすぐな道』は、1818 年にペルシャ語で書かれたが、すぐに
ウルドゥー語に訳された。この著作は主にスーフィズムに関して論じられている。
マッカから帰ってきた 1824 年からは、ラーエ・バレイリーにジハードを広めるため 1 年半滞在
した。そこで銃器と人材を集め、訓練を行っていた。1826 年にヒジュラを開始し、ラージャスター
ン、スィンド、アフガニスタンを通ってペシャワールに到達した。1826 年 12 月にサイイド・アフ
マドたちはインドにダール・アル = イスラームを復興させるため、当時パンジャーブを支配して
いた異教徒であるスィクのランジット・シン(Ranjit Singh, 1799–1849)に対してジハードを開始し
た。このジハードではインド中から巧みなネットワークを通じて人材や資金が供給された。ペシャ
ワールにおいて、サイイド・アフマドは自らをアミール・アル = ムウミニーン(amīr al-mu’minīn)
であると宣言した10)。彼らはパシュトゥーンと同盟を組んで戦っていたが、ウシュル(‘ushr)の回
収をめぐって、彼らの反乱を招き、サイイド・アフマドが任命した税回収人や副行政官を秘密裏に
殺した。この殺害をきっかけに、ムジャーヒディーン運動は深刻な停滞におちいり、ペシャワール
からカシュミールの拠点に移った。そしてカシュミールの境界近くのバーラーコートでスィクの軍
隊に負け、600 人の弟子たちとともに殺された。
ジハードを開始したときから、サイイド・アフマドはマフディーであると考えられるようになっ
ていった。そのため、バーラーコートでの彼の戦死はガイバ(ghayba)として解釈され、多くの弟
子たちが、彼がスィクやイギリスに対して勝つために自分たちを指揮するために再び現れることを
期待した11)。
バーラーコートにおけるサイイド・アフマドたちの戦死以降に活躍するのはパトナ出身の兄弟、
ヴィラーヤト・アリー(Wilāyat ‘Alī, 1790/91–1853)とイナーヤト・アリー(‘Ināyat ‘Alī, 1794–1858)
である12)。彼らはサイイド・アフマドがマッカ巡礼のさいに立ち寄ったパトナで彼のハリーファ
(khalīfa)となった。
当初はサイイド・アフマドの改革に賛同したものの、北西辺境州におけるジハードに反対した人
物としてカラーマト・アリー・ジャウンプーリー(Karāmat ‘Alī Jaunpūrī, 1800–73)がいる13)。彼は
イギリス支配下のインドはダール・アル=イスラームだと主張した。彼のベンガルで行っていた改
革運動はタアイユニー(Ta‘aiyunī)運動と呼ばれている[Pearson 2008: 54]。
デリーではシャー・アブドゥルアズィーズの孫であるシャー・ムハンマド・イスハーク(Shāh
Muḥammad Isḥāq, 1778–1846)が活躍していた。彼がサイイド・アフマドやパトナの指導者とどのよ
10) シャー・ムハンマド・イスマーイールには、カリフの役割について述べた『礼拝の先導者の地位(Mansab-e
Imāmat)』というペルシャ語の著作がある。
11)一部の弟子は 40 年もの間、信じ続けていた。
12)イギリスの植民地官僚たちは彼らの存在を 1840 年代から認知していた。
13)彼については彼の生涯と著作を分析した[Ghose 2012]が詳しい。
249
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
うな関係にあったかは明らかではない。彼は 1841 年ヒジャーズに亡命する。彼の亡命はインドの
改革運動と世界のイスラーム世界の中心であるアラビア半島の人々と連携を図るためであると従来
言われてきた。しかしそれは後世の著述家たちによって脚色されており、実際はパトナの指導者た
ちの思想に賛同できなかったのではないかとピアソンは推測している[Pearson 2008: 56]。
1857 年のインド大反乱において、多くのムジャーヒディーンたちは参加しなかったとされる。
ムジャーヒディーン運動に関わる一部のデリーの人々が反乱に加わっただけのようである[Pearson
2008: 44]。
1858 年にイナーヤト・アリーが亡くなったが、1863 年まではパトナからの資金や人材は北西辺
境州へと供給され続けた。しかし 1863 年のアンバラ(Ambala)軍事作戦と 1864 年のアンバラ裁判
によって状況は大きく一変した。パトナから北西辺境州へと人材や物資を運んでいた人々や、サ
イイド・アフマドの伝記を書いた作家がジハードの思想をひろめたとして死刑判決を受けた14)。
1865 年の第一次パトナ裁判、1871 年の第二次パトナ裁判を含めて「ワッハービー裁判」と呼ばれて
図1 シャー・ワリーウッラーの家系図
シャー・ワリーウッラー(1703–1762)
↓息子 ↓息子 ↓息子 ↓息子
シャー・アブドゥル
アズィーズ
(1746–1824)
↓
シャー・ラフィー
ウッディーン
(1750–1818)
シャー・アブドゥル
カーディル
(1753/4–1813)
シャー・アブドゥル
ガニー
(1756–1789)
(↓)義理の息子 ↓息子
シャー・ムハンマド・
イスマーイール
(1779–1831)
アブドゥルハイイ
(d. 1828)
孫
シャー・ムハンマド・
イスハーク
(1778–1846)
図 2 ムジャーヒディーン運動の関連図
シャー・アブドゥルアズィーズ(1746–1824)
彼らに直接的に影響を与えた
↓
サイイド・アフマド・バレールヴィー(1786–1831)
シャー・ムハンマド・イスマーイール (1779–1831)
アブドゥルハイイ(d.1828)
↓
彼らの殉教後も運動続けた、もしくは影響を受けた人々
↓ ↓ ↓ ↓
シャー・ムハンマド・
イスハーク
(1778–1846)
ヴィラーヤト・アリー
(1790/91–1853)
イナーヤト・アリー
(1794–1858)
カラーマト・アリー・
ジャウンプーリー
(1800–1873)
ティトゥ・ミル
(1782)
14)この裁判によってムジャーヒディーン運動の北西辺境における人材や資金の供給の方法が明らかになった。それ
以前はイギリス側も特定することができなかったとされる[Jaffar 1995b: 62]。
250
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
いる。この裁判によってムジャーヒディーン運動は壊滅的な打撃を受けた15)。それでもなお 19 世
紀の終わりまで北西辺境州で活動を続けていた[Husain 1984c: 168–169]。
3. 論点①ムジャーヒディーン運動はインドのワッハーブ運動か
ここではムジャーヒディーン運動はインドのワッハーブ運動かという問題を、先行研究を踏まえ
てみていく。ムジャーヒディーン運動に関する最初の研究は[Colvin 1832]で、サイイド・アフマ
ドたちが亡くなった翌年に書かれている。彼の論文は『真っすぐな道』について書かれたものであ
るが、
『信仰の強化 16)』についても言及されている[Colvin 1832: 485–492]。『真っすぐな道』では
スーフィズムの用語を用いて、サイイド・アフマドの改革運動を説明したものである[Colvin 1832:
480]。この論文では偶像崇拝を否定し、宗教的に厳格という点からアラビアのワッハーブ運動の思
想に似ているとし、彼らの運動はアラビアのワッハーブ運動の模倣である可能性を指摘している
[Colvin 1832: 481]。イギリスの植民地官僚たちは、『真っすぐな道』がマッカ巡礼前に編纂された
としながらも[Colvin 1832: 487]、1822 年より前にワッハーブ運動の思想がインドへ渡ってきてい
たという想定をしていた。
[Ali 1852]は『信仰の強化』の英訳と解説である。ここでは彼らの運動の反対者たち17)が「ワッ
ハービー」と呼んでいたことが記されている[Ali 1852: 313]
。また、アラビアのワッハーブ運動の
影響を受けたマッカ巡礼者たちがインドにワッハーブの教義をもたらしたが、サイイド・アフマド
とシャー・ムハンマド・イスマーイールたちの著作が現れるまでは、それほど大きな影響力を持た
なかったとしている[Ali 1852: 316]。
アルヴィーは『信仰の強化』がアラビアのムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの影響を
受けて書かれたとしている。ワッハーブの著作とシャー・ムハンマド・イスマーイールの著作の
比較を行ったウルドゥー語の先行研究から、著作の構成だけでなくクルアーンの章句の選択まで
類似していることを指摘している[Alvi 2012: 100]
。しかしながら、ワッハーブの思想がムジャー
ヒディーン運動に影響を与えたかについては複雑な問題であるとし、態度を保留している[Alvi
2012: 103]
。
ムジャーヒディーン運動がアラビアのワッハーブ運動の影響を受けていないとする立場では、サ
イイド・アフマドがスーフィズムを否定していないという指摘が必ずなされている[Rizvi 1968: 95
など]。ワッハーブ運動はスーフィズムを否定しているが、サイイド・アフマドはスーフィズムを
肯定している。彼は一般的なスーフィーと同じく、タワッジュフ(対面観想)を教えていた[Khan
2012: 85]。また彼はイブン・アラビーの存在一性論よりアフマド・スィルヒンディーの目撃一性
論をより高く評価し、受け入れていたことが知られている[Husain 1984a: 573]
。
加賀谷はウルドゥー語の文献から、彼らがアラビア半島に滞在している間にワッハーブ運動に
関係ある人と接触しなかったことや、マッカ巡礼の際にアラビア半島の聖廟にも参詣しているこ
とを明らかにしている[加賀谷 1988: 60–62]
。彼らは墓崇拝の「逸脱的行為」は批判しているが、
適法であるならば勧められる行為であり、教友たちの慣行に合致しているとしている[加賀谷
15)アンバラ軍事作戦やワッハービー裁判、その他のムジャーヒディーン運動の指導者については[Jaffar 1992a;
1993a; 1994; 1999; Stephens 2013]が詳しい。
16)
『信仰の強化』が印刷された年は 1824 年となっている[Gaborieau 1995: 188]。またこれのもととなったアラビア
語の彼の著作『多神教の反対』は 1798 年ごろに書かれたと推測されている[Gaborieau 2013: 53]。
17)サイイド・アフマドの改革運動を「ワッハービー」をいう用語で呼んだのはファズル・ラスール・バダユニー
(Faz̤ l-i Rasūl Badayunī, 1798/99–1872)が最初だとされている[Stephens 2013: 26]。
251
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
1981: 152–153]
。
ガボリオーは、ムジャーヒディーン運動にワッハーブ運動の影響が全くないとする見解に若干
の疑問を投げかけている[Gaborieau 1995: 173]。彼の新しい見解として、
『信仰の強化』に著名なイ
エメンの学者であるムハンマド・ビン・シャウカーニー(Muḥammad bin Shawkānī, d.1834/35)の影
響があると指摘している[Gaborieau 2013]。実際彼らはマッカ巡礼の際に彼と面会している[Rizvi
1982: 484]。
4. 論点②シャー・ワリーウッラー一族との関連
ムジャーヒディーン運動にシャー・ワリーウッラー一族が大きく関わっているのは、第 2 節で
みてきたように明らかである。先行研究において、コルヴィンとアリーは、サイイド・アフマド
とシャー・アブドゥルアズィーズとの関係に触れている[Colvin 1832; Ali 1852]。しかしながら
シャー・ワリーウッラーに関しては何も触れられていない。イギリス人植民地官僚たちはシャー・
ワリーウッラーの思想の流れを想定していなかったように思われる。
シャー・ワリーウッラーの思想とムジャーヒディーン運動を結びつけて考える傾向はインド・
パキスタンの学者に多い[Jaffar 1993b; Jalal 2008]。ムジャーヒディーン運動はシャー・ワリー
ウッラーの思想と同様にクルアーンとハディースの遵守を強調している[Jaffar 1993b: 70]。またム
ジャーヒディーン運動は、シャー・ワリーウッラーの改革的な伝統を引き継ぎ、預言者の伝統を
復興させ、社会的宗教的改革を行い、ジハード、イジュティハードの必要を主張している[Ahmad
Khan 1968: 385]。シャー・ムハンマド・イスマーイールの著作である『信仰の強化』がシャー・ワ
リーウッラーの著作に基づいているという指摘[Ahmad, Aziz 1964: 210]や、祖父のスーフィズム
に関する著作18)があるなど、シャー・ワリーウッラーの影響があることはまちがいない。しかし
ながら、彼らの著作の比較や分析はあまり行われておらず、シャー・ワリーウッラーの思想をどの
程度シャー・ムハンマド・イスマーイールが受け継いでいるかはそれほど明らかにされていない。
シンメルはシャー・ワリーウッラーと同時代を生きたウルドゥー語詩人でスーフィーのミー
ル・ダルド(Mīr Dard, 1721–1785)とサイイド・アフマドの関連を想定している。ダルドは父親が
開いたスーフィーの修行サークルであるタリーカ・ムハンマディーヤを引き継いでいた。ダルド
はサイイド・アフマドがイスラーム諸学を学んだシャー・アブドゥルカーディルにウルドゥー語
を教授しており、その流れでタリーカ・ムハンマディーヤという呼称がサイイド・アフマドへと
受け継がれたという説明をしている[Schimmel 1980: 183]
。メトカーフはこのシンメルの説明に
対して、ダルドとサイイド・アフマドの運動の間に 40 年程度の時間の開きがあるとして疑問を
投げかけている[Metcalf 1982: 57]
。ダルドのタリーカ・ムハンマディーヤは修行のサークル的な
集まりであるのに対し、サイイド・アフマドのタリーカ・ムハンマディーヤは改革的な要素を含
む集団である19)。ダルドとシャー・ムハンマド・イスマーイールのスーフィズムに関する著作
を比較検討することで、ダルドの影響が見いだせる可能性があるが、それを実証するには幾多の
困難が予想される。
18)この注釈は英訳もなされている[Muhammad Isma’il Shahid 1994]。
19)タリーカ・ムハンマディーヤは単なるスーフィー教団ではなく、ファズルル・ラフマーン(Faz̤ lur Raḥmān)が初め
て使用したネオ・スーフィズムではないかという議論も出ている[Ahmad Khan 1968: 376; Hedayetullah 1970: 147]。
ネオ・スーフィズムに関しては[東長 2013: 94-100]を参照。今回はサイイド・アフマドの運動がネオ・スーフィ
ズムであるかという議論には立ち入らない。
252
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
5.論点③ジハードの議論
サイイド・アフマドのジハードはどのような考えをもとにして、誰に向けられたものなのか、そ
して後世の思想家が彼のジハードをどのように解釈したかを見ていく。
彼がジハードを起こす考えになったのはマッカ巡礼後の 1824 年にシャー・アブドゥルアズィー
ズが亡くなってからだとされる。彼は若いころからジハードの意思があり、アミール・ハーンの軍
隊に入ったのもそれを実現するためとサイイド・アフマドの同時代人や彼の伝記作家たちは考えて
きた。しかし彼はマッカ巡礼前に本格的にジハードを説いていなかったとされている[Hedayetullah
1970: 151]
。
彼のジハードを考える上で重要な存在はシャー・アブドゥルアズィーズである。彼は 1803 年に
「イギリス支配下のインドはダール・アル=ハルブである」というファトワーを出したことで有名
である。このファトワーに触発されてサイイド・アフマドがジハードを起こしたという説明がなさ
れていることもあるが、それは間違いである[Rizvi 1982: 522]。実際にこのファトワーに従う人は
おらず、彼自身もムスリムたちにイギリスの脅威を認知させるために出したとされており、彼はイ
ギリスの植民地官僚と険悪な関係ではなかった。また彼はイギリスがイスラームを否定しない限り
協力し、ムスリムが英語を学ぶことも認めていた[Haq 1995: 50]。
彼の存在が彼らのジハードを起こさせないための大きな歯止めになっていた可能性は十分にあり
うる。シャー・ムハンマド・イスマーイールが挑発的な内容の説教をしたことをシャー・アブドゥ
ルアズィーズがイギリスの植民地官僚から聞くと、彼は驚いて青ざめたという事実から推測できる
[Haq 1995: 25]。
彼らがジハードを起こしたのは、インド・ムスリムの新たな政治的権力を再び打ち立てるためで
あり[Jaffar 1991: 77]、それも腐敗したムガル朝を支えるのではなく、むしろムスリムに対して新
たに道徳的な社会を構築するためであったという説明がなされている[Khan 2012: 85]。実際に彼
らは社会・経済改革、ザカート、ウシュルの回収、シャリーアによる統治、非イスラーム的慣習の
廃止をペシャワールにおいて実行した[Ahmad Khan 1968: 334]
。彼らはダール・アル=イスラーム
の世界でシャー・ワリーウッラーの思想を実行しようとしていたと捉えることも可能である。
このジハードは当初スィクに対して向けられており、サイイド・アフマドの死後、スィク政権に
代わってイギリスが支配するようになってから、イギリスと戦い始めたというのが現在では通説
である[Gaborieau 2013]
。イギリスに対する戦争を最初から意図していたという論や[Mujeeb 1967:
398]、サイイド・アフマドの手紙において、インドからイギリスを追い出し、ムスリムの国を作る
ことを政治的目的にしているといった論も存在する[Jaffar 1993b: 78–79]
。しかしながらジャラー
ルは、当初からイギリスを念頭に戦っていたというのは、後世の反植民地支配を掲げる民族主義者
たちの解釈であるとしている[Jalal 2008: 61]
。
次に現代の南アジアイスラーム思想家のムジャーヒディーン運動に関する評価を先行研究[Jalal
2008]をもとにみていく。今回はムハンマド・イクバール(Muḥammad Iqbāl, 1877–1938)とサイイ
ド・アブル・アアラー・マウドゥーディー(Saiyid Abū al-Aʻlā Maudūdī, 1903–1973)の評価について
みていく。
イクバールは、シャー・ワリーウッラーをインドのムスリムに新しい精神を吹き込んだムスリム
であると高く評価し、シャー・ムハンマド・イスマーイールを異教徒に対するジハードに人生を捧
げた偉大な学者であるとしている[Jalal 2008: 231]。
マウドゥーディーはサイイド・アフマドとシャー・ムハンマド・イスマーイールたちをムジャッ
253
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
ディド(mujaddid)として認めていないが、彼らにはシャー・ワリーウッラーの思想を世に広めた
功績があるとしている。また、インドと西洋の学問の発展の在り方の違いが、彼らのジハードを失
敗させた原因であるとしている。西洋では図書館が多くの人びとに学問をひろめ、学問が議論を基
礎として構築されている。それに対し、シャー・ワリーウッラーや彼の弟子たちは小さなサークル
の中で本を書き続けた。そのため科学的な知識の研究のために、サイイド・アフマドとシャー・ム
ハンマド・イスマーイールたちは、ヨーロッパにウラマーを送るようなことはなかった。このよう
な違いが、ジハードを失敗させたのだと彼は主張している20)。
6. まとめ
以上ムジャーヒディーン運動の先行研究を概観してきた。ムジャーヒディーン運動は当初イギリ
スの植民地官僚たちからアラビアのワッハーブ運動との関連が指摘されてきたが、実際に思想的交
流があったかどうかは不明である。シャー・ワリーウッラーの影響は多くのインド・パキスタンの
学者によって指摘されている。特にクルアーンとハディースの遵守を強調しているところが共通し
ている。しかし多くの学者はムジャーヒディーン運動とシャー・ワリーウッラーの思想の関連を自
明視しすぎており、シャー・ムハンマド・イスマーイールの著作からシャー・ワリーウッラーの影
響を詳しく分析した研究は多くなされていない。また彼には『信仰の強化』や『真っすぐな道』以外
にもスーフィズムや法学について論じている著作があるが、シャー・ワリーウッラーの影響を分析
しているものはほとんどない。
最新の研究ではサイイド・アフマドやシャー・ムハンマド・イスマーイールと同時代に生きてい
たイエメンの学者、ムハンマド・ビン・シャウカーニーの影響が指摘されている。これは当時のイ
ンド亜大陸とアラビア半島との思想交流の存在を明らかにしており、それゆえに従来のムハンマ
ド・イブン・アブドゥルワッハーブの影響か、それともシャー・ワリーウッラーの影響かという
二者択一的な枠組みではなく、インド亜大陸とアラビア半島の思想的交流という広い視点からム
ジャーヒディーン運動を分析することが重要である。
ムジャーヒディーン運動は 19 世紀北インドの固有の政治的、社会的、文化的背景の上に成り
立っている。彼らは南アジアにおいて初めて武力を伴ったジハードを実行した。そのため彼らの
死後 1 世紀後に誕生するパキスタンの最初の「創始者」として描かれ[Khan 2012: 87]
、現在のイス
ラーム過激派組織にも影響を与えている。彼らのジハードは不成功に終わったが、南アジアのムス
リムにとって象徴的な事件であり、19 世紀後半のムスリムに対して、結果的に宗教的でコミュナ
ルな意識を形成させるのに大きな影響を与えたとみることもできる[Jaffar 1991: 86]。それゆえに
南アジアのムスリムとヒンドゥーの政治的・社会的関係という文脈からも論じる必要がある。
ムジャーヒディーン運動の研究において、南アジアで発展したイスラームの思想との流れやアラ
ビア半島といったイスラーム世界との思想的なつながりの解明すること、そしてムジャーヒディー
ン運動を南アジアの固有の文脈でとらえなおすことが今後の課題である。
参考文献
<日本語文献>
荒松雄 2007『インドと非インド――インド史における民族・宗教と政治』未來社.
20)このジハードの失敗から明らかになることとして、単にシャリーアを復興させるだけではイスラーム復興を実現
することができないと、マウドゥーディーは述べている[Jalal 2008: 250–251]。またジャラールは、彼の主張がア
リーガル派の考え方の延長線上にあるものとして、これを批判している[Jalal 2008: 250–251]。
254
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
加賀谷寛 1977「イスラム復古主義と反英抵抗」加賀谷寛・浜口恒夫『南アジア現代史 II――パキ
スタン・バングラデシュ』山川出版社, pp. 35–53.
――― 1981「19 世紀初頭インド・イスラムの聖者崇拝批判――Shāh Mhd. Ismā‘īl, Tadhkīr al-Ikwān,
第五章の訳」
『オリエント』24(1), pp. 151–164.
――― 1988「19 世紀初頭南アジアから海路による集団的マッカ巡礼」
『大阪外國語大學學報』76(3),
pp. 55–65.
東長靖 2013『イスラームとスーフィズム――神秘主義・聖者信仰・道徳』名古屋大学出版会.
山根聡 2011『4 億の少数派――南アジアのイスラーム』
(イスラームを知る 8)山川出版社.
<欧米語文献>
Abbott, Freeland. 1962a. “The Jihad of Sayyid Ahmad Shahid,” Muslim World 52(3), pp. 216–222.
―――. 1962b. “The Transformation of the Jihad Movement,” The Muslim World 52(4), pp. 288–295.
Ahmad, Aziz. 1964. Studies in Islamic Culture in the Indian Environment. Oxford: Clarendon Press.
Ahmad, Mohiuddin. 1975. Saiyid Ahmad Shahid: His Life and Mission. Lucknow: Academy of Islamic
Research and Publications.
Ahmad, Qeyamuddin. 1994. The Wahhabi Movement in India. New Delhi: Manohar.
Ahmad Khan, Muin-ud-din. 1965. “Some Reflections on Mawlānā Karāmat ‘Alī’s Role as a Reformer,”
Islamic Studies 4(1), pp. 103–110.
―――. 1967. “Ṭarīqah-i-Muḥammadīyah Movement: An Analytical Study,” Islamic Studies 6(4), pp. 375–
388.
―――. 1968. “Sayyid Ahmad Shahid’s Campaign against the Sikhs,” Islamic Studies 7(4), pp. 317–338.
―――. 1980. Titu Mir and His Followers in British Indian Records, 1831–1833. Dacca: Islamic Foundation
Bangladesh.
Ali, Mir Shahamat. 1852. “Translation of the Takwiyat-ul-Imán, Preceded by a Notice of the Author, Maulavi
Isma‘il Hajji,” Journal of the Royal Asiatic Society 13, pp. 310–372.
Alvi, Sajida Sultana. 2012. Perspectives on Mughal India: Rulers, Historians, ‘Ulamā’ and Sufis. Karachi:
Oxford University Press.
Ansari, A. S. Bazmee. 1976. “Sayyid Ahmad Shahid in the Light of his Letters,” Islamic Studies 15(4), pp.
231–245.
―――. 1978. “Ismā‘īl Shahīd” EI 2, IV, pp. 196–197.
Bosworth, C. E. 1993. “Mudjāhid,” EI 2, VII, pp. 290–291.
Butt, Abdullah. 1943. Aspects of Shah Ismail Shaheed: Essays on his Literary, Political & Religious
Activities. Lahore: Qaumi Kutub Khana.
Colvin, J. R. 1832. “Notice on the Peculiar Tenets Held by the Followers of Syed Ahmed, Taken Chiefly from
the “Sirat-ul-Mustaqim”, A Principle Treatise of That Sect, Written by Moulavi Mohommed Ismail,”
Journal of the Royal Asiatic Society of Bengal, 1(11), pp. 479–498.
Gaborieau, Marc. 1989a. “A Nineteenth-Century Indian ‘Wahhabi’ Tract Against the Cult of Muslim Saints:
Al-Balagh al-Mubin,” in Christian W. Troll (ed.), Muslim Shrines in India: Their Character, History and
Significance, Delhi: Oxford University Press, pp. 198–239.
―――. 1989b. “Les oulémas/soufis dans l’Inde moghole: anthropologie historique de religieux musulmans,”
255
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
lien Annales. Économies, Sociétés, Civilisations 44(5), pp. 1185–1204.
―――. 1994. “Le Culte des saints musulmans en tant que rituel: controverses juridiques,” Archives de
sciences sociales des religions 39(85), pp. 85–98.
―――. 1995. “Late Persian, Early Urdu: The Case of ‘Wahhabi’ Literature (1818–1857),” in Françoise
Delvoye “Nalini” (ed.), Confluence of Cultures: French Contribution to Indo-Persian Studies, New
Delhi: Manohar, pp. 170–196.
―――. 1997. “Les débats sur l’acculturation chez les Musulmans Indiens au début du XIXe Siècle,” in
Jackie Assayag & Gilles Tarabout (eds.), Altérité et identité: islam et christianisme in Inde, Paris:
Editions de l’Ecole des hautes études en sciences sociales, pp. 221–237.
―――. 1999a. “Criticizing the Sufis: The Debate in Early Nineteenth Century India,” in Frederick de
Jong and Bernd Radtke (eds.), Islamic Mysticism Contested: Thirteen Centuries of Controversies and
Polemics, Leiden: Brill, pp. 452–467.
―――. 1999b. “The “Forgotten Obligation”: A Reinterpretation of Sayyid Aḥmad Barelwī’s Jihād in
the North-West-Frontier, 1826–1831,” in Jackie Assayag (ed.), The Resources of History: Tradition,
Narration and Nation in South Asia. Paris: École française d’Extrême-Orient, pp. 295–306.
―――. 2000a. “Le mahdi oublié de l’Inde britannique: Sayyid Ahmad Barelwî (1786–1831), ses disciples,
ses adversaires,” Revue des Mondes Musulmans et de la Méditerranée 91–94, pp. 257–274.
―――. 2000b. “Sufism in the First Indian Wahhabi Manifesto: Ṣirāt̤ u’l mustaqīm by Ismāʿīl Shahīd and
ʿAbdu’l Ḥayy,” in Muzaffar Alam, Françoise ‘Nalini’ Delvoye, Marc Gaborieau (eds.), The Making of
Indo-Persian Culture: Indian and French Studies, New Delhi: Manohar Publishers & Distributors, pp.
149–164.
―――. 2001. “Traductions, impressions et usages du Coran dans le sous-continent indien (1786–1975),”
Revue de l'histoire des religions 218(1), pp. 97–111.
―――. 2003. “Wahhabisme et modernisme: généalogie du réformisme relieux en Inde, 1803–1914,” in
Mahir Sharif, & Salam Kawakibi (eds.), Le courant réformiste musulman et sa réception dans les
sociétés arabes, Damas: Institut Français du Proche-Orient, pp. 115–138.
―――. 2010. Le mahdi incompris: Sayyid Ahmad Barelwî (1786–1831) et le millénarisme en Inde. Paris:
CNRS éditions.
―――. 2013. “Barelwī, Sayyid Aḥmad,” EI 3 I. pp. 50–55.
Ghose, Rajarshi. 2012. “Politics for Faith: Karamat Ali Jaunpuri and Islamic Revivalist Movements in British
India circa 1800–73,” Ph.D. diss. of Chicago.
Green, Nile. 2012. Sufism: A Global History. Chichester: Wiley-Blackwell.
Haq, Mushirul. 1995. Shah ‘Abdul ‘Aziz, His Life and Time: A Study of India Muslims’ Attitude to the British
in the Early 19th Century. Lahore: Institute of Islamic Culture.
Hardy, Peter. 1972. The Muslims of British India. Cambridge: Cambridge University Press.
Haroon, Sana. 2011. “Reformism and Orthodox Practice in Early Nineteenth-Century Muslim North India:
Sayyid Ahmed Shaheed Reconsidered,” Journal of the Royal Asiatic Society 21(2), pp. 177–198.
Hedayetullah, Muhammad. 1970. Sayyid Ahmad: A Study of the Religious Reform Movement of Sayyid
Aḥmad of Rā'e Barelī. Lahore: Sh. Muhammad Ashraf.
Hunter, William Wilson. 1999(1871). The Indian Musalmans. Lahore: Sang-e-Meel.
256
ムジャーヒディーン運動研究の軌跡と課題
Husain, Mahmud. 1955. “The Mystery of Sayyid Ahmad Shahid’s Death,” Journal of the Pakistan Historical
Society 3(3) pp. 167–173.
―――. 1984a(1957). “Sayyid Ahmad Shahid Ⅰ (Life and Teaching),” in Mahmud Husain (ed.), A History
of the Freedom Movement: Being the Story of Muslim Struggle for the Freedom of Hind-Pakistan 1707–
1947, Vol.1, Dehli: Renaissance Publishing House, pp. 556–580.
―――. 1984b(1957). “Sayyid Ahmad Shahid II (Jihad),” in Mahmud Husain (ed.), A History of the Freedom
Movement: Being the Story of Muslim Struggle for the Freedom of Hind-Pakistan 1707–1947, Vol.1,
Dehli: Renaissance Publishing House, pp. 581–600.
―――. 1984c(1960). “The Successors of Sayyid Ahmad Shahid: Jihad on the North-Western Frontier,” in
Mahmud Husain (ed.), A History of the Freedom Movement: Being the Story of Muslim Struggle for the
Freedom of Hind-Pakistan 1707–1947, Vol. II, Dehli: Renaissance Publishing House, pp. 145–169.
―――. 1984d(1960). “The Successors of Sayyid Ahmad Shahid: Trails and Persectution,” in Mahmud
Husain (ed.), A History of the Freedom Movement: Being the Story of Muslim Struggle for the Freedom
of Hind-Pakistan 1707–1947, Vol. II, Delhi: Renaissance Publishing House, pp. 366–389.
Ingram, Brannon. 2009. “Sufis, Scholars and Scapegoats: Rashid Ahmad Gangohi and the Deobandi Critique
of Sufism,” The Muslim World 99(3), pp. 478–501.
Jaffar, Ghulam Muhammad. 1987. “Tariqah-i-Muhammadiyah Movement and its Contribution to Creating a
Separatist Political Consciousness among the Muslims of India, 1818–1872,” Ph.D. diss. of Exeter.
―――. 1991. “The Legacy of the Tariqah-i-Muhammadiyah Movement,” Hamdard Islamicus 14(3), pp. 77–88.
―――. 1992a. “The Ambella Campaign and the Followers of Sayyid Ahmad,” Journal of the Pakistan
Historical Society 40(3), pp. 289–297.
―――. 1992b. “The Repudiation of Jihad by the Indian Scholars in the Nineteenth Centry,” Hamdard
Islamicus 15(3), pp. 93–100.
―――. 1993a. “Agreement between the British Government of India and the Amir of Mujahidin, Mawlawi
Ni‘mat Allah,” Journal of the Pakistan Historical Society 41(1), pp. 53–62.
―――. 1993b. “Teachings of Shah Wali Allah and the Movement of Sayyid Ahmad Shahid of Bareilly,”
Hamdard Islamicus 16(4), pp. 69–80.
―――. 1994. “Mawlawi Nasir Al-Din’s Jihad Activities after the Death of Sayyid Ahmad Shahid,” Journal
of the Pakistan Historical Society 42(2), pp. 173–180.
―――. 1995a. “Social Background of the Tariqah-i-Muhammadiyah Movement,” Journal of the Pakistan
Historical Society 43(4), pp. 363–380.
―――. 1995b. “The Organization of the Tariqah-i-Muhammadiyah Movement,” Hamdard Islamicus 18(2),
pp. 55–66.
―――. 1996a. “Mawlawi Wilayat ‘Ali and Mawlawi Enayat ‘Ali,” Journal of the Pakistan Historical Society
44(3), pp. 259–271.
―――. 1996b. “Tariqah-i-Muhammadiyah Movement and the Propagation of its Ideas,” Hamdard Islamicus
19(1), pp. 57–67.
―――. 1999. “State Trials against the Followers of the Tariqah-i-Muhammadiyah Movement and their
Impact on the Movement,” Journal of the Pakistan Historical Society 47(1), pp. 25–34.
Jalal, Ayesha. 2008. Partisans of Allah: Jihad in South Asia. Cambridge MA: Harvard University Press.
257
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
Jameelah, Maryam. 1976. Two Great Mujahidin of the Recent Past and Their Struggle for Freedom against
Foreign Rule: Sayyid Ahmad Shahid, Imam Shamil, a Great Mujahid, of Russia. Lahore: Mohammed
Yusuf Khan.
Khan, Abdullah. 1984. “The Religious Thought of Shāh Ismā‘īl Dihlawī.” M.A.Thesis. McGill University.
―――. 2012. “The Life and Works of Sayyid Ahmad Shahid,” Journal of the Pakistan Historical Society
60(1), pp. 75–93.
Malik, Jamal. 2008. Islam in South Asia: A Short History. Leiden: Brill.
Metcalf, Barbara D. 1982. Islamic Revival in British India: Deoband, 1860–1900. Princeton: Princeton
University Press.
―――. 2009. “The Taqwiyyat al-Iman (Support of the Faith) by Shah Isma‘il Shahid,’’ in Barbara Daly
Metcalf (ed.), Islam in South Asia in Practice. Princeton: Princeton University Press, pp. 201–211.
Muhammad Isma’il Shahid, Shah. 1994 (1982). ‘Abaqat of Shah Muḥammad Isma’il Shahid: Being an
Exposition of Shah Waliyullahʼs Satāat & Lamaḥat. (tr.) Ghulam Husain Jalbani. New Delhi: Kitab
Bhavan.
Mujeeb, Mohammad. 1967. The Indian Muslims. Montreal: McGill University Press.
Nadvi, Sayyid Abu al-Hasan Ali. 1979. A Misunderstood Reformer. (tr.) Mohiuddin Ahmad. Lucknow:
Academy of Islamic Research and Publications.
Pearson, Harlan Otto. 2008. Islamic Reform and Revival in Nineteenth-Century India: The Tarīqah-i
Muhammadīyah. New Delhi: Yoda Press.
Powell, Avril Ann. 1993. Muslims and Missionaries in Pre-Mutiny India. Richmond: Curzon Press.
Rizvi, Saiyid Athar Abbas. 1968. “Ideological Background of the Wahhabi Movement in India in the XVIII
and XIX Centuries,” in Bisheshwar Prasad (ed.), Ideas in history: Proceedings of a Seminar on Ideas
Motivating Social and Religious Movements and Political and Economic Policies during the Eighteenth
and Nineteenth Centuries in India, New York: Asia Publishing House, pp. 93–109.
―――. 1982. Shāh 'Abd al-'Azīz: Puritanism, Sectarian, Polemics and Jihād. Canberra: Maʼrifat Publishing.
―――. 1983. A History of Sufism in India Vol. 2. New Delhi: Munshiram Manoharlal.
Robinson, Francis. 2003. Islam and Muslim history in South Asia. New Delhi: Oxford University Press.
Sadiq, Muhammad. 1984. A History of Urdu Literature. Delhi: Oxford University Press.
Schimmel, Annemarie. 1980. Islam in the Indian Subcontinent. Leiden: E.J. Brill.
Stephens, Julia. 2013. “The Phantom Wahhabi: Liberalism and the Muslim Fanatic in Mid-Victorian India,”
Modern Asian Studies 47(1), pp. 22–52.
<ウルドゥー語文献>
Mihr, Ghulām Rasūl. 1952–54. Sayyid Aḥmad Shahīd. Lahore: Kitāb Manzil.
Nadvī, Sayyid Abū al-Ḥasan ‘Alī. 1974–75, (1939–41). Sīrat-i Sayyid Aḥmad Shahīd. Karachi: Ec. Em. Sa‘id
Kampani.
258