I-6 天武・持統陵

I-6
天武・持統陵
野口王墓
檜隈大内陵: 天武天皇・持統天皇陵
位置
北緯 34 度 28 分 7.5 秒
東経 135 度 48 分 28.16 秒
所在地
奈良県高市郡明日香村
形状
八角墳
規模
東西 58m
高さ 9m
築造年代
687 年(持統天皇元年)
被葬者
天武天皇・持統天皇(宮内庁治
定)
史跡指定
C-9
宮内庁治定「檜隈大内陵」
C-10
参照
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*なぜ野口王墓なの?
本古墳の現在の墳丘は50M前後の円墳状で終末期古墳に属するが古くから青木御
陵とか野口王墓と呼ばれてきており、当初から天武・持統陵に指定されていたわけでな
く武烈陵、倭彦命墓、文武陵等と紆余曲折を辿ってきた古墳である。
学会では野口王墓古墳と呼んでいるが宮内庁が天武・持統陵と指定するに当たり「檜
隈大内陵」(ひのくまおおうちりょう)としている。
これは日本書紀に天武の没後持統元年に「大内陵」を築くとあり、持統2年に天武を
埋葬したと明記されており、続日本紀の大宝3年に持統が飛鳥岡で火葬にされた後大内
山陵に合葬したとあり、延喜式にも持統天皇を「檜隈大内陵」に葬ったとの記録が残さ
れていることを根拠としている。
従って学会も明治13年の治定変更による天武・持統陵の宮内庁指定を是としている
稀な事例である。
*野口王墓でなかったことがあるの?
江戸中期に天武・持統陵を見瀬丸山古墳とする説があり、江戸名所案内絵図によると
見瀬丸山古墳も野口王墓も自由に立ち入り可能だった。
幕末の王政復興による文久2年(1862)の陵墓の補修で野口王墓を文武天皇陵と
して仮改修したとあり、仮としたのは見瀬丸山古墳の石室に二個の石棺が存在すること
が認知されており、持統が火葬されたのに石棺がある見瀬丸山古墳を天武・持統陵に指
定するのは問題視されたためと考えられる。
しかし維新新政府の下で明治4年に陵墓指定がなされた際には天武・持統陵として見
瀬丸山古墳を檜隈大内陵に指定されたのは飛鳥地区での最大の前方後円墳で、現人神と
讃えられた天武天皇に最もふさわしいとの判断と、文武陵に指定する適当な古墳が無く
幕末に改修された野口王墓を文献調査も不十分なまま文武陵に指定したのは明治維新
直後の混乱期だったためでしょう。
*宮内庁が陵墓指定を変更したことあるの?
現在考古学による古墳調査技術が格段に進歩したこともあり、第二次大戦後の宮内庁
による陵墓の再指定による該当古墳が天皇陵墓に一致しないことが多々あり学会にお
いても問題視されてきている。
身近な事例としては継体大王の今城塚古墳、斉明大王の牽牛子塚古墳、文武天皇の中
尾山古墳等があり、これらは陵墓指定されていなかったため発掘調査が可能で調査結果
から見て学会では確実視しているが宮内庁は全く受け入れようとはしていない。
一方明治13年に京都・高山寺から「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき)と
いう鎌倉期の文献資料が発見され、野口王墓が盗掘された情報に基つき実地検分のため
派遣された勅使による記録であることが確認された。
この文献の内容は古墳が八角形であること、野口王墓の石室内の状況が詳細に記され
ており、天武埋葬棺内の残留物や盗難後橘寺に遷された遺品等が記録されていることか
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ら墓誌は発見されてはいないが明治政府としては天武・持統陵と認めざるを得なかった。
更には盗掘された当時に記された藤原定家の日記「明月記」にも盗掘を嘆き哀しんで
いる様が記録に残されていることからも、見瀬丸山古墳から野口王墓に陵墓指定変更伺
を当時の太政大臣・三条実美に提出され、明治14年に明治天皇の裁下を仰ぎ、可との
許諾を得て正式に治定変更された。この変更に伴い文武陵は高松塚古墳の近くにある粟
原塚穴古墳を指定し、見瀬丸山古墳は明治30年に参考地指定と変更された。
陵墓指定の改訂は明治45年が最後でそれ以降は一度も実施されたことは無い。
従って明治時代には陵墓に関しても学問的探究に理解を示す余裕があったことが伺
えるがそれ以降は頑なに現状維持を固守している。
最近では2010年に牽牛子塚古墳発掘調査を機に衆議院議員が学会の意向も踏ま
えて陵墓指定の見直しを国会に提案したが宮内庁は従来の主張を繰り返すのみだった。
本件に関してはI-1,I-2 を参照
*宮内庁は野口王墓を発掘調査していた?
2012年の新聞やNHKニュースで公表されましたが、50年以上前の昭和34年
と36年に宮内庁は野口王墓の発掘調査をしており古文書にて記録されている八角墓
であることを確認していたのに公表していなかったが、読売新聞の情報公開請求の実施
で明らかにされたものである。宮内庁は当時の調査が不十分で現場の調査図面が無いこ
とを理由として追加調査の機会があれば公表するつもりだとしている。
宮内庁は「陵墓は原則非公開」であるが学会の要望で2008年から一部の立ち入り
許可を出しており、10回目に当たる2014年に野口王墓への立ち入りを研究者16
名に許可したが発掘調査では無く目視観察の立ち入りのみで段丘が切石で覆われてい
たことの確認と切石が二上山の白石らしいことの確認程度であった。
宮内庁による発掘調査は年間数回は計画されている模様なるも、現状維持のための修
復・整備に限定されており考古学による問題解明の意思は全くないものと考えられる。
世論の高まりで宮内庁も情報公開制度に協力せざるを得ない状況に在り、学会の要望
に少しずつではあるが応えようとする方向に在るのは一歩前進でしょう。
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