会報 筑紫 第140号

)
筑紫古代文化研究会
男
o
3
2
正
4
.
TEL(093)293-4244
綱野
騰奥
199コ 手6月 15日
こ
六 月 例 会
日 時 エ
日曜 日︶
ハ月 二十 三 日 ︵
見学地 津屋崎 町 の古墳
集合地 J R鹿 児島 本線 ・福 間駅
︶
八 月 例 会 公 ︶
時 三十分 出発
日 時 八月 二十 五 日 ︵
日曜 日︶
集合 地 J R博多 駅築 紫 口 ・午前 八
J R小倉 駅新 幹 線 口 。午前
九時 三十 分出発
午前 九 時 三十 五分集合
見学 コー ス 福 間駅前 ︵
西鉄 バ ス九
見学地 山 口県 の遺跡
郷遺 跡︱ 若宮 古墳︱ 梶栗 浜遺
跡︱ 昼食︱ 安 岡資料館︱ 中 ノ
浜遺 跡︱ 土井 ヶ浜遺 跡
参 加費 七千 円 ︵
資料代 ・道路料金 ・
入場料 。保険料 な ど を合 む︶
八 月十 五 日 で締 切 ります。 参
加費 は現金封筒また は振替 で、
早 め にお申 込 み下さ い。
そ の他 弁 当持 参
出 て来 る。神 宝 と は何 であ ろう か。
三種 の神 器 に関す る こと が しば しば
日本書 紀 を読 ん で見 る と神 宝 又は
た るま で王墓 から豪 族 の被葬者 に い
これ等 は弥生 時 代 から古墳 時 代 に い
刀 ・鉾 。大 刀等 の武 具類も 入 って い
る。 これら は いず れも 当時 は珍 ら し
いも のであ った と思 われる。 そ し て
一、神 宝 とは ⋮
神宝 に ついて
下関市 上 の山古墳︱ 綾 羅木
時 三十 五分津 屋崎 行乗 車 ︶︱
宮 地宮前 下車︱ 大 塚古墳︱ 民
家 村︱ 井 手 の上古墳︱ 昼食︱
十七分神 湊行乗 車 ︶︱ 奴 山 口
宮 地宮前 ︵
西鉄 バ ス十 一時 五
田古墳群 ︵
前 方後 円墳 十 四基
下車︱ 奴 山新 原古 墳群 。須多
を見学︶︱ 大 石下 ︵
西鉄 バ ス
十 五時 二十 八分乗 車 ・福 間 駅
行︶
そ の他 弁 当持 参 ・ズ ック靴 で軽装
ら れ た宝 物、 又は神 の所有さ れ て い
る宝 物 と解 し てよ いも のであろ う。
二、 天皇 及び そ の時 代 に ついて
神 代 の音 の天照大神 から皇孫現 々
これ等 のも のは通常 では め った に手
杵尊 に、下賜さ れ た 三種 の神 器 はさ
る 天皇 は崇 神 。垂仁 ・景行 ・仲 哀 の
四代 の天皇 であ る。
と推察 さ れ る。 三種 の神 器 の鏡 創 玉
と ころ によれば 鏡 ・玉 ・剣 の他 に小
この神宝 は書 紀 に記述さ れ て いる
も これ等 の神宝 に属 し最も 貴重 な る
日 時 七 月 二十 八 日 ︵
日曜 日︶
集合地 J R赤間駅 ・
午前九時 三十分
れ 死後 も 宝物 と し て被 葬者 のま わ り
にお かれ たも のであ る。
た るま で副葬 品 と し て墳墓 に入れ ら
生
字義 の通 り に解 釈す れば、神 に供 え
宗
てお いて、 そ の他 の神 宝 に関係 のあ
に入れ る こと が出来な い貴重 なも の
七 月 例 会
本
も のと推察 さ れ る。
見学 地 玄海 町鐘崎
上八 貝塚 。上八石棺群 ・織
幡神社 ・玄 海 町歴史 民俗資料
館 ︵
海女 の用 具 。上八貝塚遺
物 ・イ ヌ マキ 天然 林な ど︶
西鉄 路線 バ ス利 用︶
︵
Il
り
発行先 福岡県遠賀郡遠賀町浅木
東和苑 6-4(〒 81143)
140号
第
第 140号
紫
筑
に
古代 文化研 究会会報
この内崇 神 は御肇 国 天皇 ︵ハツク
ニシラ ス スメラ ミ コト︶ と書 紀 に
は ほめた ゝえら れ て いる。 これ は神
初期 の こと であ る。
推 定す れば 、 三世紀 末 から 四世紀 に
かけ てと思わ れ る。 即ち 古墳時 代 の
この崇 神 以 下 の天皇 の在 位時 代 を
ると書 いておら れ る。
同 じく実在 しな か った 天皇 と思われ
務 ・仲哀 に ついて欠史 九代 の天皇 と
在 の可能 性 のあ る 天皇 であ る﹂ とさ
れ て いる。 しか しそ の後 に つゞ く成
崇
氏は ﹁
神 話 から 歴史 へ﹂ の中 で ﹁
神 から景行 に いた る 三代 の天皇 は実
武 天皇 と 同 じよう に初 め て日本 を統
治 した 天皇 とさ れ て いる。井 上光貞
(2)
紫
筑
第140号
三、神宝 等 の入手方法
これ等 の天皇 の神 宝 の入手方 法 は
天皇 により異 って いる。 これ の概 略
を記 せば 次 の通 りとな る。
1、崇神 天皇 と出 雲 の振 根 ︵
イズ
モノ フ ルネ︶
武日
崇神 天皇 の六〇年 に天皇 は ﹁
した。 そ こで殺 さ れ た飯 入根 の弟 の
甘 韓 日狭 が朝 廷 に参 上 し て実情 を報
告 した ので、 天皇 は吉備津 彦等 を出
雲 に派遣 し て振 根 を討 ち と った。
2、 垂仁 天皇 と 天 日枠 ︵
アメ ノヒ
ボ コ︶
垂仁 天皇 の三年 に天 日棒 は新 羅 の
シキ ワ
国 から播磨 の国 の宍粟 の邑 ︵
ツソヒメ︶
3、 景行 天皇 と神 夏 礎媛 ︵
カ ムナ
景行 天皇 の十 二年 熊襲 が そ む いた
為 に、 天皇 は筑 紫 にむかわれ た。 周
芳 の娑婆 ︵
サ バ︶ に着 かれ て言 われ
た、﹁
南 方 に煙 が多 く た って いる から
賊 が いるだ ろ う そ こで多 臣 ︵
タノ
﹂
オ ミ︶ の武諸木 ︵
タケ モ ロキ︶等 三
人を遣 わ し て、 そ の様 子を見 せられ
れ の国 の人 か﹂ と尋ね られた。 天 日
枠は ﹁
私 は新羅 国 の王 の子 です 。 日
磯津 山 の賢木 を抜 き と り、 上 の枝 に
照命 が 天からも つて来 た神 宝 が出 雲
大社 に安置さ れ て いる。 これ を見た
い﹂と告げ られ た。そ こで武 諸 隅 ︵
タ
ケ モ ロスミ︶ を出 雲 に つかわ し て、
本 の国 に聖 王が おられ る と問 いて、
ノ ムラ︶ に ついた。
天皇 は天 日枠 に ﹁
お前 は誰 か、何
これ を献 上さ せ た。 この時神 宝 を管
や か に討 たれ る が良 いでし ょう﹂ と
言 った。 そ こで武諸木 は皇命 に従 わ
下さ い。 ゎ が仲 間 は脊 く も のはあ り
八 処 の鏡 ︵
ヤタ ノカガ ミ︶ 下枝 に八
八握 の剣 ︵
ヤ ツカ ノ ッ ルギ︶ 中枝 に
天皇 の使 がや って来 た こと を聞 いて
た。 そ こには女 が いて神 夏 礎媛 と言
ン
フ。そ の手下 は非 常 にた くさ ん いた。
理 し て いた出 雲 の臣 の先 祖 の出 雲 の
尺瑣 を かけ、自 旗 を舟 の舶 先 に立 て、
ど うか兵 を送らな いで
や って来 て ﹁
ら せ て献 上 した。 兄 の出 雲 の振 根 が
ウマ
イリネ ︶ はそ の弟 の甘韓 日狭 ︵
シカ ラヒサ︶ と そ の子等 に神宝 を守
振 根 は丁度筑 紫 の国 に出 かけ て居 ら
な か った。 そ こで弟 の飯 入根 ︵
イイ
自分 の国 を弟 にゆず って、や って来
葉細 の
ま した と言 った。 そ し て ﹁
﹂
玉﹂﹁
足立 の玉﹂﹁
う かか の赤 石 の玉﹂
﹁
出 石 の刀子﹂﹁
出 石 の枠﹂﹁日 の鏡 ﹂
ま せん。 す ぐ に帰 順 します。 た ゞ ほ
か に悪 い賊 たち が います。 これ を速
の宍粟 邑と淡路 の国 の出 浅 邑 の二 つ
﹁
熊 のひも ろぎ ﹂﹁いささ の大 刀﹂の
八種類 の神 宝 を奉 つ った。
天皇 は天 日枠 に詔 し て ﹁
播磨 の国
も
筑紫 から帰 って怒 って言 う には ﹁
う数 日 である のに、自分 の帰 るま で
どう し て待 って呉れ な か った か。 な
に汝 の心 のまま に住 みなさ い﹂ と言
われ た。 天 日枠 は ﹁
私 の住 む所 は、
な い賊 を おび き 出 し て殺 した。
ワ ニ︶
4、岡 ノ県主 の先祖 の熊鰐 ︵
仲衰 天皇 の二年 に天皇 は熊襲 を討
ぜ神宝 を渡 し てしま った か﹂ と責 め
た。
も し許 し て頂け るなら ば、諸国 を自
ら 巡り歩 いて、 私 の心 に適 した 所を
宮室 を穴 門 に建 て、住 われ た。 これ
弟 の飯 入根 を殺 そうと思 い、欺 いて
何年 かた っても 怒りが おさまらず、
選 ば せ て いた ゞき た い﹂ と言 った。
天皇 のお許 しがあ り、諸 国を歩 い
を穴 門 の豊浦 の宮 と言 う。
と うと し て穴 門 の豊浦 の津 に来 られ
水辺 にさ そ い出 し、 弟 の刀を木 刀と
て但馬 国 に居 所 を定 めた。
︶
と り換 え、 二人 で戦 って弟 を 切 り殺
︶
3、自発 的献 上 仲 哀
4、 居住地 と の交 換 垂仁
1、強制 的献 上 崇神
2、武力 によ る討伐 三
泉行
の主 であ り、 又三角 縁神 獣鏡 は明ら
か に魏鏡 であ る﹂と言 う こと にな る。
卑 弥 呼が大和 政権 の主 であ った ど
埋納 さ れ た。
これ によれ ば ﹁
卑 弥 呼 は大 和政 権
豪 族 の死去 によ って各 地方 の古墳 に
した地 方 の豪族 に鏡 を分与 し、 そ の
宝 を奪 って凱 旋 し て いる。 反対 に鬼
話 にお いて、桃 太郎 は鬼 ケ島 を征 服
し、 そ こにあ った金 銀 珊瑚綾綿 の財
え る こと は無 く、 鏡 の分 与 説 は考 え
られな い﹂ と述 べられ た。 誠 に敬 服
す べき卓 見 であ る。
財宝 を奪 って帰 る こと はあ っても 与
八年 に筑 紫 にお いで にな った、 岡
又 これ等 の神 宝 の内 容 を検 討 し て
見 る に、 ﹁
玉﹂ ﹁
剣 ﹂ と共 に鏡 が 必ず
入 っており鏡 が非常 に重 要 であ り、
う かは、魏 志倭 人伝 の日程記事 の解
立 て、上枝 に自銅 鏡 を かけ 、中枝 に、
を根 こそぎ にし て、大き な舟 の舶 に
にな った ことを聞 いて、 大きな 賢木
ノ県主 の先祖 の熊 鰐 が 天皇 が お いで
ト ツカ ノ ッルギ︶を かけ、
十握 の剣 ︵
下枝 に八 尺瑣 を かけ て周芳 の娑婆 の
権威 の象 徴 と し て扱 われ て いる こと
に財宝 も 与え て いる こと はな い。
天皇 が お出 にな る こと を聞 いて、大
鏡 が合 ま れ て いる。特 に京 都府南部
発 見さ れ たも のは多 く の三角 縁神 獣
世紀末 より 四世 紀 にかけ て古墳 より
必ず 鏡 が含 ま れ て いる。 この鏡 は三
以上 に述 べた よ う に神 宝 の中 には
よ いではな いか。
な く国産 鏡 に固ま り つゝあ ると見 て
果 から 見れば、 ほと んど中国鏡 では
又三角 縁神 獣 鏡 は種 々 の論 議 の結
﹁
親 魏 倭 王﹂ の金 印 が発 掘 され る か
どうかす るま で確 た る証擦 はな い。
は軍勢 を出 し て三種 の神 器 を献 上さ
神 宝 を献 上さ せ、 又九 州 の豪 族 から
出 雲 の神 宝 を取 り上げ 、 天 日枠 よ り
な お 日本書 紀 にはす でに書 いた よ
海 外 の例 を求 めな く ても 我 国 の昔
浦 にお迎 え した。
5、筑 紫 の伊都 県主 の先祖 五十述
釈 によれば九州か大和か いずれはは っ
きな賢木 を根 こそぎ にし て舟 の舶 に
十数枚 の三角縁神 獣鏡 から現 代 の古
き り しな い。今 後 、魏 からも ら つた
立 て上枝 に八 尺瑣 を かけ 、中枝 に自
代学者 の間 に定 説 と し て信 じら れ て
る 三角 縁神 獣鏡 は大和政 権 に帰 属 し
も 鏡 の分 与説 は否定さ れ るも のであ
る。 椿井 大 塚山古墳 におけ る多 数 の
手 ︵
イトデ︶
銅 鏡 をかけ、 下枝 に十握 剣 を かけ穴
いる仮 説 が生ま れ た。 そ の内容 は次
た豪 族 に対 し大 和政 権 から鏡 を分与
鏡 は財宝 と の交 換 によ り 入手 したも
のか、 又は近隣 の豪族 と戦 って手 に
う に明らかに山川や海原をご覧 いたゞ
き、 十握 の剣 を ひ っさげ て天下を平
定 して いたゞきた いから であります﹂
と申 上げ た。
以上 で天皇 の神 宝 の入手方法 の概
略 を書 いた が これ を方法 別 に分 類す
九〇年 二月福 岡市 にお いて開催さ
れ た 三角縁神 獣 鏡 に関す る ﹁シ ンポ
海外 の実 例 からも 、 いず れ から見 て
的 に書 紀 は これ を書き 残す はず であ
ス
リ。
以上 の如く我 国 の文 献 から し ても
ジ
ウ
ム
に
お
い
て
奈良 大学 の水 野教
﹂
授 の主 張さ れ た ﹁
地方 の古墳 より出
ば仁徳 天皇 の仁政 と同 じよう に大 々
かれ て いな い。も し下賜 した とす れ
せ て いる。 しか し服属 した豪 族 に対
し て鏡 を 下賜 した こと はど こにも書
う に大 和政 権 の崇神 以下 の三天皇 は
門 の引島 ︵
彦島 ︶ にお迎 え した。 そ
し て申 上げ る には ﹁
自分 が この物 を
のよう である。
1、三角 縁神 獣鏡 は ﹁
魏志 倭 人伝 ﹂
に言 う 所 の邪馬台 国 の卑 弥 呼 が魏 の
したも の と言 う説 に対 し て橿 原考
﹂
古 学研究 所 の樋 口隆康 先生 より ﹁
昔
入れ たも のと推 測す る のが妥 当 と思
仲衰 天皇 が岡 ノ津 に泊 られ た とき
筑紫 の伊都 の県 主 の先祖 五十述 手が
奉 ります わけ は 天皇 が八 尺瑣 の勾 っ
明帝 から 下賜さ れ た鏡 であ る。
のアレキサ ンダ ー大 王や ロー マのシー
われ る。
の椿井 大 塚山古 墳 よ り発 掘さ れ た 三
て いる よう にお上手 に天下を治 め て
2、卑 弥 呼及び そ の後 継者 は 三世
紀 の中葉 にも ら つた鏡 を伝 世 し、椿
ザ ー に いた るま で征 服 した 土地 よ り
れば 次 の四 つのや り方 に分 れ る。
五、鏡 の分与 説 に ついて
いた ゞき ます よ う に、 又白銅 鏡 のよ
井大塚山古墳 の主 に保管さ せ て いた。
3、 大 和政 権 は そ の後 自分 に服属
四、 三角縁神 獣鏡 に関す る仮 説
がわ かる。
第 140号
紫
筑
縄 文 時 代 の土 器 か ら みた
北 部 九 州 の地 域 交 流 ︵下︶
な お、 この地 は現在 でも 対 馬東 岸 中
式 ・鐘崎式 ・北久根山式 土器が出土。
た東岸 にあ り、 中期 から後 期 の阿高
石 の産 出地 に近 く、 当時 は重 要 な基 ,
類 が出 土 し て います。 腰岳 始 め黒曜
共 に、多 量 の黒 曜石 。安 山岩 の石器
中 期︶の土器 と
︵
前 期︶、阿高 式 系 ︵
地 であ ったと 思 われ ます。
最大 の漁港 で、 十 五世 紀前半 ころ、
対 馬島 主宗 氏が島 府 を おき 、朝 鮮と
日本 最古 ︵
晩 期︶ の水 田址 が発 見
太 田
岐︶
唐津
五、菜 畑 ︵
なば たけ ︶遺 跡 ︵
部九 州 の石器 類 な どと 同 じも のが出
松 ケ崎遺 跡 は、島 の北端 湯 ノ本湾
さ れ て有名 な、 菜畑遺 跡 の下 層貝塚
から は、近 く の唐津 海底遺 跡 ととも
の修交 を行な ったと言われ ています。
土 し て います 。 即ち 、朝 鮮半島 南部
曽 畑 式期︶ の櫛 目
奥 にあ り、前 期 ︵
に縄文 時代 の土器 、 上 層 では、 晩期
期 から後 期ま で の︶ の代表 的遺 跡 ‘
市︶
前 回 は、縄文 時 代 の代表的 土 器 の
と北部 九州地方 と は、縄 文時 代 の最
文 土器 が発 見さ れ て います。名 切 ・
から弥生中期 ま で の土器 を合 む遺 物
貝塚 から出 土す る土器 を考察 し、地
壱
③ 松 ケ崎 及び名 切 ・鎌 ケ崎遺跡 ︵
出 土地分 布 から 地域交流 を考 え てみ
ま したが、今 回 は、朝 鮮半島 南 部 を
初 から終わ りま で地域交 流 があ った
ことが判 ります 。
鎌 ケ崎遺 跡 は、 現在も 海 上航 路 の要
が出 土 し て います 。
前
合 めた北部 九 州地域 で、縄文時 代 ︵
並
港 であ る郷 ノ浦 湾奥 にあ り、中期 ︵
北部 九州 と南 朝 鮮 と の交 流 があ れ
二、 対馬、壱 岐 の遺 跡
木 ∼ 阿高 式期︶や晩 期 の土器 が出 土。
域交 流 を探 りた いと思 います 。
福 岡県 におけ る縄
土器 の編年 は、﹁
魏 志 倭 人伝 ﹂ の末 慮 国
こ の地 は ﹁
に比定 さ れ、南 朝 鮮 から対 馬 ・壱岐
﹁
肥前 風土記﹂ にも 値嘉 ︵
ち か︶ と
呼ばれ、 旧石器 時 代 から の遺 物 が発
﹁
ち か しま︶、
古 事 記﹂には知 珂島 ︵
彦 崎 Zl式 ︶ 。福 田C式 土器 が
式 ︵
式 ・阿高 式 土器 と、瀬 戸内 系 の船 元
式 ・曽 畑式 土器 ととも に、 瀬 戸内 系
三、 矢櫃 遺 跡 ︵五島 ・小値賀 島 ︶
掘さ れ た島 です 。
矢櫃遺 跡 は、島 の西南部 の海岸 に
出 土 し、後 期 は途絶 え ます が、 晩期
ば、 当然 そ の中 間 に位 置す る対 馬、
壱岐 にも、 そ の中継 基地 が存 在 した
ことを推定さ れ ます が、 まだ は っき
中
あ り、曽 畑式 金田期︶、阿高 式 系 ︵
を経 て北部九 州 に至る最 短地 です。
前 期 は、朝 鮮 系 の櫛 目文 土器 、轟
り判 って いま せ ん。 強 いて参 考 地 を
期︶、鐘崎 式 ︵
後 期︶の土器 が出 土 し
対馬 ・上
田 越高 ・越高 尾崎遺跡 ︵
れます。
挙 げ るとす れ ば、 次 の遺 跡 が考 え ら
県 町︶
流 があ った こと を示 し て います。
朝鮮 と とも に、 瀬戸内 海地 方 とも交
す ると いう こと は、 そ の当時 から南
前 。中期 に瀬 戸内 系 の土器 が出 土
の羽島 下 層式 系 土器、 中期 は、並木
対馬島 の北東 部、 朝鮮海峡 に面 し
に入り黒 川式 土器 と続 いて います 。
︶
平 戸市 街 地 の対岸 にあ り、轟式 系
田平町︶
北松 浦 郡
四、 つぐ め のはな遺 跡 ︵
て います。
︶
島 のや や中央部 の対 馬海峡 に面 し
② 佐賀 員塚 ︵
対馬 。峯 町︶
器 が出 土。
越高 式︶ 土
畑式 と朝 鮮系 の隆 起文 ︵
た仁 田湾内 にあ り、前 期 の轟式 ・曽
中期 ︶、西平式 ︵
後 期 ︶な ど
阿高 式 ︵
出 土 し て います 。 更 に、 前 回 の出 土
文 や櫛 目文 土器 も 見受 け られます。
ま た、 佐賀 県 腰岳産 の黒曜 石や 北
早期末︶
た が、南 九 州 系 の塞 ノ神 式 ︵
や、 北部 九 州 の早期 ・前 期 層 から出
土す る朝 鮮系 土器 と いわれ る、隆起
地 一覧表 には記載 し て いま せ ん でし
前期 から後 期 ま で の九 州 系 の土器 が
前 期︶、
縄文 時 代 の轟 式 ・曽 畑 式 ︵
釜 山市影島 区︶
一、東 三洞貝 塚 ︵
文 土器 の編年 ﹂︵
別表︶を参考 にしま
した。
紫
筑
第 140号
あ ります 。
く湾 入 し て いた と いわれ る砂丘 上 に
先端 の岬 の南 側 で、縄文 時 代 は小さ
塚 は、 響灘 に面 した遠賀 川河 日 の右
骨 ︵
後 期︶ が出 土 し て有名 な 山鹿 貝
ステー シ ョン ︵
標式遺 跡︶ と言 われ
西 日本縄文時代 のタイプ ・
出上 して、
ここは、九 州 系 と瀬 戸内 系 の土器
が、前 期 から後 期 に至ま でそれ ぞれ
時 代 に続 く遺 跡 や古墳 があ ります。
た弥生 時代 の綾 羅木遺 跡 、更 に古 墳
期 の潮待遺 跡な ど、 土笛 が発 見さ れ
中継 地 に当 たり、近 く には、中 ∼後
市 の北郊 にあ り、響灘 と瀬 戸内 海 の
2箇 所、寄港 地 ︵
縄文 遺跡 ︶ が洩 れ
て いるよ う に思え、今 後 の調査 が期
す ると、天神 山と鐘崎 の間 にも う 1∼
等 間隔 の位 置 にあ る こと です。 そう
す。ま た、この図 から気 づ く こと は、
れら の基地 が 賑 わ った こと が判 りま
交流 は丸木舟 による海 路 によ り、 そ
の寄 港 地︶ にあ り、 当時遠 隔 地 と の
図 のと おり で、 い゛
つれも 海岸 地 ︵
舟
六、 天神 山貝塚 ︵
糸島 郡志摩 町芥
式 ︵
前 期︶、 阿高 式 ︵
中期︶、小池 原
上層式 ・鐘崎 式。北久根 山式 ︵
後 期︶
て います 。
地 に当た ります 。
あ る岬 の南 側湾 入 した 砂丘 上 に位 置
し、 北部 九 州沿岸 の東 西交 流 の寄港
糸島 半島 の西 端 で、芥 屋 の大 門が
屋︶
轟 式 ・曽畑 式 盆削期︶、並木 式 。阿
土器 と 共 に、瀬 戸内 系 の彦 崎 Zl式
期︶、中津式 ・福 田K Ⅱ式 ・津 雲 A式
水式 ・鐘崎 式 ︵
後 期︶ の土器、 瀬 戸
木式 。阿高 式 ︵
中 期︶、南福 寺式 。出
九 州 系 は轟 式 ・曽畑 式 盆剛期︶、並
待さ れます。
︵
後期 ︶ 土器 が出 土 し、 中 期 から後
考 え てみます と、 当時 の縄文 人 は、
北 は南朝鮮から西 は五島、
東 は山陰 ・
以上 の諸 点 から、北部 九 州地域 を
期 にな ると、 だ んだ ん瀬 戸内 系 の土
木 I式 盆剛期︶、船 元式 ・里木 ⅡⅢ式
内 系 は羽島 下層式 ・彦 崎 Zl式 ・里
器 が多 くな り、 九 州系 の土器 が少な
くな って います 。
瀬 戸内 海地方 ま で、或 いは九 州西岸
主 体、 中期 にな ると九 州系がやや多
量的 に見ます と、前 期 は九 州 系が
に活発 な交 流 を重ね て いた ことが判
ン 。新文 化︶ を摂 取す るな ど、相 互
し い型式 の土器 ︵ニ ュー フア ッシ ョ
より南 九州ま でも自 由 に往来 し、 新
縄文 時代 洞海湾 が深く 入り込 んだ
A式 ・元住吉山 式 ︵
後 期︶ の土器群
i
が出 土 し て います。
奥地 にあ り、 九 州 系 の轟 式 ・曽畑式
九州市 八幡 西 区︶
九、永 犬 丸 →えいのま る︶遺 跡 ︵
北
︵
中期 ︶、中津 式 ・福 田 KⅡ式 ・津 雲
貝 塚︶ が、海 路 上 ほぼ
上記 の遺 跡 ︵
中期 ︶、瀬 戸内 系 の中津 式 。福
高式 ︵
中
類似 金田期︶、船 元式 ・福 田C式 ︵
宗像 郡玄海 町︶
七、鐘 崎 貝塚 ︵
鐘崎 ︵
鐘 ノ岬 ︶沖 は、昔 から 玄海
灘 の難 所 で、 当時 の丸 木舟 の航 行 で
は風待 ち のた め、 当然 この地 区 に寄
港地があるはず ですが、現在ま で判 っ
て いる のは、後 期 の遺 物 が出 土す る
鐘崎 貝塚だけ です 。
︵
中期︶、出 水式 ︵
前期 ︶、阿高 式 ︵
後
︵
東 九 州系︶、当地 の出 土す る 土器 を
標式 とす る鐘崎 式、 北久根 山式 類似
期︶ 土器 が出 上 し、中期 以降 は、瀬
く、後 期 に入る と瀬 戸内 系が主 とな
り、九 州系 は少 量 しか出 土 しな いと
遺跡 ︵
員塚︶ を、地 図 上 で示 せば 別
後 期 を通 じ て の土器 を出 土す る主な
北部 九 州 の、 縄文時 代 の前 期 から
し てき た こと を、表す も のだ とも 言
中 四国地方 の住 民が九 州方 面 へ南 下
半 中ご ろよ り気 候 が冷 涼期 に入り、
前 回 でも 述 べま したと おり、後 期前
瀬戸内 系 の土器が主流となる ことは、
州 でも 九 州系 の土器 が少な くな り、
ま た、 縄文 後 期 にな ると、 北部 九
ります 。
の土器 と 共 に、 更 に瀬 戸内 系 の中津
報告 さ れ て います。
著 しく多 く出 土 します。
十、神 田遺 跡 ︵下関市富 任 ︶
本 州 の最 西端 、 響灘 に面 した 下関
十 一、 主な遺 跡か ら の考察
中 期︶、
戸内 系 の船 元式 。福 田C式 ︵
八、 山鹿 貝塚 ︵
遠賀 郡芦 屋 町︶
鰹節 形大 珠 を胸 に置き、 両腕 に多
数 の員輪 を は め、各 種 の装身 具 を身
に付 け た、 呪術 的色 彩 の強 い女性 人
中津式 ・福 田K Ⅱ式 ︵
後 期︶ 土器 が
式 土器 が出 土。
ここから、出 水式。 小池 原 上 層式
ここから は、 九 州 系 の轟式 ・曽畑
田 KⅡ式 ︵
後 期 ︶ の土器 が出 土。
第 140号
紫
筑
第140号
紫
筑
(6)
(別 図 )図 1
郎 越
高
熾
√守
ざ
縄文時代 の 主 な遺跡
賀
旭絶
(△ は参 考他 )
∼ヽ
命令 F `
く
響灘 、
111孝
ノ
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臨
に
疑
fil■畑
〕
象
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や忌
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矢櫃 教 ト
1
羽 島 下層
I式
く羽 島 下層 II式 〉
く磯 ノ森 式 )
里木
I式
3C3300
)
〈)は 福岡県で未発見たが,参 考のためPu載 した。
元龍著 ︶ 一九 八 四年
)
西 日本編 ﹄昭和 六十年 ︵一九 八 五︶
)
*有斐 閣 ﹃探 訪 縄文 の遺 跡
)
)
八 六︶
IIttt I(広 田 I式 =御 領 式
〃 11(広 田 n式 )
〃 HI(広 HI HI式
″ IV(広 田 IV式
〃 V(黒 川 式 古
″ Ⅵ (黒 川 式 新
九 八七︶
彦 崎 KⅡ 式
元 住 吉 山 I式
元 住 吉 山 ll式
馬
取
式
* ﹁
弥生 の使者 徐福 ﹂ 刊行会 友 田
好文 ﹁
太陽 活動 から見 た徐福 の時
B C 2000
代
船 元 I・ H式
船 元 m式
船 元 Ⅳ式 福 口lC式
里 木 H式
並 木 I・ ll式
阿 高 I・ lI式
坂 ノ ド I式 阿 高 I‖ 式
われれ て います 。
ノ 神 式
*角 川書 店 ﹃古代 の日本 3 九
塞
B C 4000
A参考 文献 ∨
押 型 文 土器
早
*中央公論社﹃日本 の古代 4L縄文 ・
BC8()00-一
州﹄ 昭和 四十 五年 ︵一九 七〇︶
爪 形 文 上 器
弥生 の生 活﹂ 昭和 六十 一年 ︵一九
11器
無 文
:Jl
時代 ﹄ 昭和 五十年 ︵一九 七 五︶
降 起 線 文 L器
草
6J
*河出書 一
房 ﹃日本 の考古学 Ⅱ縄文
系
岡県 ほか各県 ︶昭和六十 二年 ∼ 2
内
*保育社 ﹃日本 の古 代遺 跡 ﹄︵
福
戸
展﹄ 昭和 五十 二年 ︵一九 七 七︶
瀬
〈豆 半
立文 Jl器 〉
*佐賀 県立博物 館 ﹃九 州 の原始 文様
8の 編 年
*前 川威 洋遺 稿 集 刊行会 ﹃九州縄文
liツ
系
州
文 化 の研究 ﹄ 昭和 五十 四年 ︵一九
九
七九 ︶
r Vlllに お け る縄 文
*六 興出版 ﹃韓 国考古学 概説﹄︵
金
l・
嗚 6°
対 馬、 壱 岐を訪 ね て
一九九 一年 ︵
平成 三年 ︶ 二 月八 日
午前 十時 少 し前 の福 岡空 港 では、朝
から の雨 が休 みな く滑走 路 を濡 ら し
て いた。 雨雲 が低 く垂れさ がり視 界
も あま り よくな い。機 長 のアナウ ン
スがあ って、 間も な く離 陸 にむかう
が対 馬空 港 は風 が強 く、 状 況 によ っ
ては着陸 を断念 し て福 岡 へ引き 返す
かも しれ な いから、 あら かじめ承知
し てお いてくれ と いう。今 度 の旅行
は対馬 で二泊、フ ェリー で壱岐 へ渡 っ
て 一泊 と いう 日程だが最初 から 予定
が狂 っては大 変 だ。 な んと か無 事 に
降 り て欲 し いも のだ と思 って いるう
ち に離陸 し てす ぐ真 っ白 な 雲 のな か
に入 った。 Y S十 一で両空 港間 は約
四十分 程度 だ から そろ そろだな と思
そ のまま 暫 く飛 ん でまだ空 港 が見え
いな がら 外 を眺 め て いる と、高 度 が
下がり白 い波頭と青黒 い海が見えた。
な いな と思 って いたら、 いきな り足
下に滑走路が現れてすぐ着地する ショッ
クがあ った。 対 馬空 港 は高 い台 地 の
新 羅渡来 の誕生 仏や大般 若経な どが
えられ て いて建 物 はご くぶ つう であ
る がさす が に古 いお寺 だけ あ って、
最古 の仏跡 と つたえら れ て いる お寺
であ る。 お寺 そ のも のは近年建 て替
み着 いた形跡 が多 く残さ れ て いる。
く住めると ころはここしかな いと い っ
てよ い。 だ から古 の時 代 から 人 の住
に面す る対馬 では、船 を休 め人 の多
な この湾 は いま 真珠 の養 殖 が盛 んだ
と いうが、 ほと んどが 切り立 った崖
ん突 き でた浅茅 湾 があ る。波 の静 か
に深く 入り こみ、 小さ な岬が た くさ
あ った。 誕生 仏 は銅 製高さ 十 五 セ ン
チくら い、 右 手 で天を左 手 で地 を指
正 夫
す 姿 の可愛 ら し い仏像 であ った。ま
それ でも後背 地 の平 野 は限られ て い
る から、 岬 から岬 への往来 はす べ て
田
上 にあ る ので、 海 上 のかな り の高さ
から 滑走 路 に降 りる のだ とあ と で分
た高さ 三十 セ ンチ ほど の木造 の武者
前
か った がち ょ っと驚 いた。 おり てみ
わ って感 じた ことだが、実 に多 く の
神社 が各地 に散 在 し ており それ ら の
殆どが神話伝承 に登場する神様を祭 っ
も 思 ったり した。 このあと対 馬 をま
ており、 ひょ っと した ら豊 玉姫 の名
も ここから出 て いる のではな いかと
こと は間違 いあ るま い。 とく に こ こ
は現在 の行政 区画 でも 豊 玉町 に入 っ
いて後 世 の付会 とも さ れ て いる が、
い゛
つれ にせよ海 人族 の祭 る神社 でる
記や 日本書 紀 の海幸、 山幸 の神 話伝
承と そ の伝 承 に現れ る神 々とな って
祭神 は、豊 玉姫 と彦 火 火出 見命 およ
び 鵜茅葺 不合 命 とさ れ て いる。 古事
神社 は こじんま り か つ古色 蒼 然 と し
てひ っそりと春 の雨 に濡れ て いた。
ら お参 りする のがも と の形 であ ろう。
社 も 入江 に鳥 居 が立 って いて、 海 か
舟 であ ったら し い。 こ の和多 都美神
像 で両 手首 を鋭 利 に切り落 と した像
があ って、 住職 の話 によれば昔戦 い
合 った 人達 が 三度 と再 び戦 う こと の
入江 の奥 にひ っそりと しず ま る和多
都美神社 へと向 かう。 対 馬 にはち よ
うど島 の中間部 に島 を 三分す る よう
再び バ スに乗 って山合 いを抜 け、
た。
な いこと を誓 いそ の祈 りを こめ て こ
の像 をま つ ったも のと の こと であ っ
ると雨 雲 は低 くたれ こめ、 雨も こや
みな く降 って いてま る で夕方 のよう
に薄 暗 い。 こじんま り した空 港 を で
るとま わりには民家もな く、
低 い山 々
が連 な った風景 があ るば かり で 一瞬
な んと いう寂 し いと ころ へき た のか
と いう感 じ にお そわれた。 あ と で実
感 した のだが、 対馬 と いう島 には広
い平 野がな く空 港も 台 地 の上 に つく
らぎ るをえな いのだ。 山 が多 く平地
のす くな いと いう事情 は島 を めぐ る
に つれ て身 に つまさ れる ほど に ハツ
キ リ し てき て忘 れ難 いも のにな る。
バ スは ツアー の 一行 を乗 せ て北 ヘ
と むかう。今 日は神社 や古墳 を訪ね
ひた か
な がら、 北端 の港 町比 田勝 ︵
つ︶ま で行 く。 走 り出 し てから 暫 く
し て梅 林寺 と いう お寺 に寄 る。 この
お寺 は船 越 と いう東 から 西 の海 へ抜
け る地 峡 に近 い場 所 にあ って、 日本
梅 林 寺 の 誕 生仏
第 140号
紫
筑
(7)
あ った のではな かろうか。
講師 と し て同行さ れ た奥 野正男氏
なが る多 く の神 話 の生ま れ た土地 で
いうと ころ は、 日本建 国伝 承とも つ
話伝 承が色濃 く残さ れ て いる対 馬 と
話が多 い。も しそうだとす る と、神
弥生時 代 の出来 事 と思われ る よ うな
て いる のは驚 き であ った。神 話 には
代 の遺跡が多 いことも考え合 わ せて、
弥生 のある時期 に海 人 の文 化 と半島
の文 化 が こ の地 で融合 し てひと つの
像 にしかすぎ な いが、 対馬 に弥生時
である。 これ は素 人 の私 の勝 手な想
韓 の遺物 を持 った墓 が多 いと の こと
の交 流 の場 でも あ ったら しく、 倭 と
わ せる倭 の海 人 と半島 から の人び と
た海 人 であ った に違 いな いと思われ
た。 この地 はま た、 南方 の出自 を思
られ る こと を望 んだ 人達 は海 に生き
にも多 久津 玉神 社 や雷神 な ど、 対馬
進 出 した経 緯 は略 わ かるが、 この外
大 王が偏地対 馬 の祭祇 権 を収奪 しな
ければ なら な か った かが疑 間と し て
れ るが、 そうだ とす る と何故大 和 の
う が いかが であ ろ う。 と書 いておら
に収奪 したも のと考 え られ、 対 馬 の
神 々が幾内 に進 出 し、宮 廷 の卜部 と
し て対 馬 ・壱岐 の古族 が 上京 した の
は、 このような 因縁 によるも のと思
卜神
残 る。 それ よりも 氏が 同書 で ﹁
太祝 詞神 が対馬 から、 大 和 ・山城 に
形 に育 った神 話 が北部 九 州 に影 響 を
によると、湾内 の無 数 の岬 の突 端 に
は海 を見渡す 位 置 に数多 く の弥生 時
代 の箱式 石棺墓 が営 ま れ て いると い
から遷 つた と みられ る名神 が少 なく
な い。 な お ﹁
延喜 式﹂神 名 帳 に、 西
海道 百 七座 あ る うち、 対 馬 に二十九
座、壱岐 に二十 四座 あ る理由も 、 こ
の辺 から解け る よう に思われる。幾
そう でな か った と し ても 、 た ん に対
馬が僻遠 の地 であ ったが故 に このよ
内 の大 王が、大 和 に自 生 したも のか、
九 州 から東 上 した か は間わな いが、
東 遷 説 に与す れ ば 一層有 利な論 が展
開 でき る と思う。﹂と述 べ ておら れる
と ころ に こそ問 題 のカギ が潜 ん で い
対馬 の古 代史 研究 家 永留 久恵 氏 はそ
の著 書 の中 で、﹁日本書 紀 に対馬 に祭
る よう に思え てならな い。 な お、倭
はあ る。 ︵
以下次 号︶
︶
さ れ て いる が、 対 馬だけ が大官 とさ
れ て いると ころも気 になる と ころ で
を卑 狗 と いうく にをあげ ており、さ
ら に こ の卑 狗 は 日子 ではな いかと解
人伝 には各 地 に官 あ りと し て いて官
られ て いた タ カ ミ ム スビ の神 を大 和
︶
お おき み︶
が全 国 を統 一し て大 王 ︵
と称す るよう にな ったとき、自 ら 日
ヽ
子と称 し て いる。 この時 、対 馬 ・壱
岐 の古 族 が持 って いた祭祇 権 を中央
県直 が、祇官 と し て奉仕 した縁 起 を
大 和︶ の王
説 いた 所伝 は、 ⋮幾 内 ︵
の磐余 の地方 に遷 し、対 馬 の下県 の
うな古 い神 話や伝 承が残さ れ て いる
だけと は考え にく いよう に思われる。
に移 って紀記 に残された のが現在我々
の知 る神 話 ではあ るま いか。 た とえ
与え、さ ら に九 州北部 の勢力 が大 和
う こと で、 死後も 海 の見 え る地 に葬
第 140号
和 多都 美 神社
古代研通信
○ ⋮五 月例会 ︵
志摩 町︶も 大 雨。 月
末 には梅 雨も 上 がる と念 じな がら、
宮地嶽
六月例会 の準備を して います。
午後
神社 の民家村 で菖蒲 をた のしみ、
は数年ぶりに津屋崎 の前方後円墳群 公一
十基︶を 一つ 一つ踏査 します。
○ ⋮奥 野 の新著 が 六 月中 にや っと出
る こと にな りま した。
﹃卑 弥 呼︱ 邪馬 台 国英 雄伝︱ ﹄ プ
レジ デ ント社 一五〇 〇 円 ︵
六 月二
十 日発 売 ︶
﹃鉄 の古 代史︱ 弥生時 代﹄ 白 水社
六 月六 日発 売︶
三五〇〇 円 ︵
○ ⋮奥 野が 四月 から佐賀 女 子 短期大
学 で、 古代史 の講座 を担 当す る こと
にな りま した。 テー マは地域 文 化論
﹁
吉 野 ヶ里遺 跡 と邪馬台 国﹂ です 。
○ ⋮去 る 二月、 県教 委主催 の鏡 のシ
ンポを聴 いた 人 の感想がよせられた。
﹁
邪馬台 国近 畿 論者 ば かり集 めた大
合 唱だ った! ﹂ と の こと。 県費 は公
平 に使 ふ べき だ と いう結論 であ る。
○ ⋮八 月 はバ スで山 口県 の綾 羅木 郷
遺跡 と土井 ヶ浜遺 跡 に行き ます 。遺
跡破 壊 の苦難 のな かを スタ ート した
綾 羅木 が、 みご と に復 元整 備さ れ て
います 。 綾 羅木 のド ー ムも 見も ので
す。