淀川にちかい町から 岩阪恵子 講談社オンデマンドブックス 質朴な日日 淀川にちかい町から 6 次 口惜しい人 35 目 おたふく 55 帰郷 空に籤 釘を打つ 子供の死 意気地なし まだまだ 201 182 164 141 120 102 78 淀川にちかい町から よみがえ 淀川にちかい町から のう り さ さい へん てつ 日日の生活のなかで生じる些細なこと、つまらないこと、変哲もないことどもが、時を経て、 と ぎ ふいにまざまざと脳裡に甦ってくることがある。事件などとはほど遠いそれらの過去の断片が、 よくも記憶の井戸の底で生きながらえてきたものよ、と思うほどだ。 みやく らく 四十歳をすぎて、鶴子はたびたびのそうした体験に、おやおやと驚きの声をあげる一方、途切 れ途切れにあらわれて脈絡のなかった過去の断片をなぞったり、気のおもむくまま並べかえたり が てん してみるようになった。彼女と故郷を同じくする画家が記していた「日常のくだらぬことばかり がなかなか生きている」という言葉が素直に合点されはじめたのはそんなときだ。 たたみ 十歳になるかならぬかであったろう。 すそ 畳のうえにごろりと寝転んだままテレビを観ていた鶴子は、そばにやってきた母親のエプロン の裾をひっぱって言った。 かゆ 「おなかがすいた、おなかがすいた言うてるのに」 鶴子は、昨日から腹をくだして薄いお粥しか食べていない。脚をばたばたさせたり泣いたりし 6 淀川にちかい町から こ てみても、母はいつものことで懲りていたから、知らんぷりしていた。可哀そうに思って少し食 もの ごころ せん めい つら べさせたりすると、かえってあだになる。痛がってすぐに手洗いへ駆けこむことになったから。 物心ついたときから鶴子の記憶に鮮明にあるのは、腹くだしにかんする辛さであった。好き嫌 いが多いうえに、しょっちゅう食物を制限されていたから、彼女はぎすぎすに痩せていた。学校 では「もやし」と言われた。 「なにか食べたい、食べんかったら気が狂う」 しん ぼう 鶴子が大声を出すと、 いら だ かん せん しか 「辛抱ということができんのか」 す と苛立ちが母にまで感染して叱られる。ほんとうは、鶴子のおなかはなんだかまた妙な具合に かび なりはじめているのだ。こんなときに食べるどころではない。けれども彼女は拗ねてみないでは こう いられない。下腹からじわじわと全身にひろがってくる黒い黴のようなやりきれなさに、ひとり べつ ぴん では抗しきれない。 そ 「見てみなはれ、別嬪さんやこと」 いくらかでも食べ物から気を逸らさせようと、母はテレビをつける。 「鶴子と同い年やて」 び ぼう 画面に大映しになっている少女の顔に、しぶしぶ彼女は目をやる。なんだ、あの子か。知って いる。少女のくせにすでに美貌であるのは、ドイツ人である母親の血が半分混ざっているせいだ。 7 それがどうしたというのだ。他人がどれほど美しかろうと、こちらになんの関係があろう。鶴子 む ちや の下腹はどんどん重くなってくるばかりだ。いっそ食べたいだけ食べて、腹のなかを思いきり通 過させてしまえばどうだろう。無茶な考えは、そのあとに耐えねばならない内臓の表裏がひっく にぎ りかえるような苦痛を想像させるだけだ。あげくに彼女はなぜそんなことをするのか自分でもわ ほこり だ えき からなかったが、ずっと握りしめていた母親のエプロンの端を口のなかに入れ、力をこめて噛み はじめた。埃っぽい布は舌にざらざら触れるだけで、うまくもないまま唾液に濡れていった。 あき 「なにをしてますねん、この子は。ややこみたいなことして」 呆れて立ちあがった母のエプロンに噛みついたまま、鶴子の頭は畳から持ちあがった。そのべ とべとになった布の端をようやく口から離したのは、そばに人の気配がしたからだった。 「出かけるで」 父がくたびれた普段着のズボンを脱ぎ、ちぢみのシャツとステテコだけになってタンスの引き 出しを開けている。 時計にちらと目をやった母がたずねる。 「お昼は、食べはりますか」 「ええわ、どこぞで済ませてくるよってに」 手際よくネクタイを結んでいく父を眺めているあいだ、鶴子はおなかのことも食べ物のことも 忘れている。 8 淀川にちかい町から おさ 「四時ごろになるやろな」 かばん 客に納める洋服の入った大きな風呂敷包みを左手に持ち、右手に洋服生地の見本が詰った重そ うな鞄を提げ、鶴子がそこにいるのにも気がつかない様子で、背広姿の父は仕事に出かけて行っ くも しよう じ た。あまり見事に無視されてしまったので、彼女はしばらくは声もたてずひっそりと部屋の柱に ふき で もの 凭れていた。曇り空から薄日が洩れてきたらしい。ガラス障子が汚れを浮きたたせて光りはじめ もた た。 「鶴子ちゃん」 し しつ ぱな 呼ばれて振り向くと、ぎょろりと大きな目が坊主頭の下で彼女を見つめていた。吹出物のでき た獅子鼻の穴がふくらみ、ぶ厚く赤い唇が笑っている。 「鶴子ちゃんて、ええ名やなあ」 した う いままでにこの男から何度同じことを言われたろう。彼女の顔を見れば、まるで挨拶のように 口をついて出てくるものらしかった。 男は松田といい、鶴子の父親の仕事の下請けをしている職人のひとりだ。彼には家族もいたし 家も近くにあったが、月曜日をのぞく毎日、彼女の家の離れの仕事場へ通ってきていた。そこで とし かさ は洋服の仕立をする職人が四、五人、部屋の中央の大きな仕事台を囲んで針を動かしていたり、 壁にそって並べられたミシンを踏んでいたりした。なかで松田は、いちばんの年嵩だった。頭を 丸坊主にしているので年齢はわかりにくかったが、十四歳を頭に三人の子供がおり、身のこなし 9
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