金鶴泳が描いた<祖国>について 櫻井 信栄 *漢陽大学校一般大学院日本言語文化専攻博士課程 abstract In this paper, let us look carefully at the definition of <fatherland> depicted in Kim Hakyoung’s novels. First of all, in the novel “Frozen Lips” Mr. Kim portrays a young ethnic Korean living in Japan who puts the value of his own entity before anything else. Even before his identity as an ethnic Korean. Mr. Kim acknowledged how unreliable it is for political forces to integrate compatriots under the flag of patriotism by sharing the sense of belonging as an ethnic group; national identity with fellow Koreans living in Japan. The concept <fatherland> witnessed in the novel “Frozen Lips” corresponds to Chosen. In detail, this Chosen connotes the meaning “South Korea” that needs to exclude North Korea and rebels led by North. The fuzzy image of the concept <fatherland> which have been resting inside the mind of the main character begins to crystallize in Mr. Kim’s another novel “Confession”. The novel illustrates a new movement for unification in the perspective of one ethnic Korean living in Japan and repatriation of his sisters to North Korea. However, in this novel, we can tell that the presence of South Korea has increased meanwhile; the confidence of North Korea has decreased. This is significant change because in Mr. Kim’s prior works, North Korea has been illustrated as a key player of bringing unification to the Korean Peninsula. Another element worth focusing in the novel is how he portrayed a burdensome life of the father of the main character. He has done this by comparing the life of the main character who continuously suffers from family trouble, with that of his father. The main character in the novel “The Light of winter” develops speaking disorder due to mental wounds caused by domestic violence from his father. In here, <fatherland> is dubbed with a poignant phrase that says, “A country where I have never been to”. By this, what the author meant was <fatherland> is a concept, like brotherhood, which self‐consciousness is demanded by the outer world. In this novel, the presence of the Korean Society increases even greater than his previous works. “After nostalgia, we are” is a novel about an actual historic event where North Korean spies smuggled into South Korea. The novel eloquently depicts how one ethnic Korean’s nostalgia for his homeland is misused by propagandas carefully planned by North Korea and at the end how brutally his heart is crushed by North Korea. The agony he felt in the novel is used again in Mr. Kim’s later novel, “A Sense of Emptiness at a Riverside in on Afternoon”. However, clear sense of resentment toward North Korea added to the pain. Through the novel, “After nostalgia, we are” we can tell that for ethnic Koreans <fatherland> no longer simply means the Korean Peninsula but something which can utilize them to be as used as a tool for propagandas . The identity of ethnic Korean living in Japan is changing before an actual unification of Korean even takes place, owing of development of South Korea, success of Korean popular culture, distribution of the Korean language education and studies on Korea and so on. The advent of multicultural era eventually drew down the curtain of modern literature which is closely connected to a nation‐state. This trend might make us forget about the works done by Kim Hakyoung saying, “His works are too obvious”. This indeed may be true for the fact that Mr. Kim takes the fictitious side of <fatherland> seriously. However, we can say Mr. Kim’s perception on <fatherland> or national consciousness is still valid today. That is why it is necessary for us to give another close look into Kim Hakyong’s work today. keyword ethnic Korean living in Japan, fatherland, national identity, unification of Korea, end of modern literature Ⅰ はじめに 本稿では金鶴泳の小説に登場する<祖国>概念を検証する。<祖国>は字義どおりに考えれば<祖先の国>である が、分かれて住むようになった民族の<本国>を意味することもあり、ある特定の国家を指し示すこともあり、その用法は恣意 的で政治的なものである。作家は<祖国>という言葉にどんな意味を込め、そして何を表現しようとしたのだろうか。 金鶴泳論については『金鶴泳作品集成』1)に寄せられた竹田青嗣の解説『苦しみの原質』がその主導的な存在となっ ている。金鶴泳の文学は<吃音><民族><父親>というモチーフから人の生き難さの実質を表現し、なぜ人間は苦しむ のか、苦しみの中で生きるということはどういう意味があるのか、この人間の苦しみという普遍的なテーマをふるえるような感受性 で見事に描ききった――という作家像についての広い共通理解がここで形成されたと言うことができる。 一方、竹田の『<在日>という根拠』2)からは、金鶴泳の自民族志向・政治志向に目を向けまいとする姿勢が感じられ る。「金氏は、北か南かという二者択一の中に自らを投げ入れることがどうしてもできなかった」3)、「金鶴泳は、ほとんどす べての人間がそのように考え4)、またそのように考えることを強いられていた中で、一人だけ違ったふうに考えた」5)。これを否 定してしまうのが本稿でも論じる『郷愁は終り、そしてわれらは――』6)であるため、巧妙にも『<在日>という根拠』におい ては『郷愁は終り、そしてわれらは――』は取り上げられていない。このような竹田に対して李順愛は『二世の起源と「戦後 1) 2) 3) 4) 5) 6) 1986年,作品社 ちくま学芸文庫版,1995年,筑摩書房 前掲書239ページ 「民族か同化か」「民族やめますか、それとも人間やめますか」といった厳格な二者択一を指す。前掲書319ページ、320ページを参照。 前掲書320ページ 『新潮』1983年7月号 思想」』7)の中で、「理念に逃げなかった」金鶴泳の姿を語った竹田への一定の共感を示しつつ、「二者択一にまみれ た上でその一方から離れていった」「もう一方の側へと行ってしま」った金鶴泳について言及している。後述する韓国民族自 主統一同盟(韓民自統)と歩みをほぼ同じくして、韓国系在日同胞の側に付くようになった金鶴泳像については、<祖 国>概念を検証する過程においてより明らかになるだろう。本稿は金鶴泳の<祖国>概念と作家像の正確な理解の一助と なることを目的とする。 検証にあたっては、作家の<祖国>観がよく表れている小説を4作品選び、作品それ自体を可能なかぎり用いることとし た。「 」で囲んだ部分は全て金鶴泳の小説からの引用である。なお、引用に際しては『凍える口 金鶴泳作品集』8)及 び『土の悲しみ 金鶴泳作品集Ⅱ』9)を使用した。 Ⅱ 金鶴泳の<祖国> 1 『凍える口』10) 作家の文壇へのデビュー作である『凍える口』には、自分と外界を隔てる吃音に心を痛める主人公の崔圭植が登場す る。港湾労働者の宿泊所と食堂を経営する父親のもと彼は何不自由なく育ち、今は上京して東京大学大学院で合成化学 を研究している。吃音者である彼には3か月ごとに開催される研究報告会が何よりも苦痛だった。「ある雰囲気の中にあると き、ぼくは、吃音者は、ほとんど物をいうことができなくなる。声を出そうと思っても、声の方で出てくれないのだ。(中略) じっさい、ぼくはこれまで、吃音のために、どれほどの嘲笑を浴び、屈辱を舐めてきたことだろう。そして、どれほど惨めな、 寂しい気持に突き落とされてきたことだろう」。 朝鮮から隔絶したところで育った圭植にとって民族意識は希薄なものだった。作品は日韓国交正常化前夜を現在時として おり、日韓会談粉砕が叫ばれる中、彼にとっての民族意識とは毎朝の通学電車で「朝鮮史、解放闘争史、南北朝鮮の 時事問題に関する雑誌」を読み「朝鮮民族の悲惨な歴史」を学んで「獲得」するものだった。当時の在日朝鮮人は 様々な権利の制限を受け、「国籍選択の自由」(朝鮮民主主義人民共和国国籍の取得を日本政府が認めないという意 味)も「祖国への往来」(北朝鮮への往来)も否認されている存在だった。 そして、ふと思う。民族意識とは何であろうか、と。この憎悪心、この憤りの心、つまり、ある他民族に対する敵対意識、これが朝鮮 人意識、朝鮮人であるという民族意識なのだろうかと。(中略)民族的疎外から祖国を回復するための民族意識強調だと、一応頭の 中では思いなす。だが、民族意識や愛国心がしきりに強調されるとき、敗戦後の、野放図なばかりに解放された自由な日本の雰囲気の 中で自己形成期を送ってきたぼくの感覚は、そこに、あの忌わしい「大和魂」と同じ臭いを感じ、「一億一心」や「特攻隊精神」と同 じものを感じ、かつての日本の軍国主義的帝国主義的民族主義と紙一重の、偏狭な民族主義、エゴイスチックな民族主義の臭いを感 じる。そして、「社会主義的愛国主義」という言葉を、奇妙に矛盾した自己合理化の詭弁として、混乱と疑惑の眼をもってながめる― ―。 このように『凍える口』では、(社会主義勢力の主導による)朝鮮民族としての公式的態度よりも自分の実感を優先し、 個人的な問題へのこだわりを表す在日朝鮮人の若者の姿が描かれている。金鶴泳は在日朝鮮人の民族的帰属意識が負 の条件によって気づかされる自覚であるということを感じ取っていた。民族と政治を結びつけ、不遇感を持つ在日朝鮮人に民 族的帰属意識=ナショナル・アイデンティティを与え、「愛国」の旗のもとに人々を統合しようとする勢力の虚妄を見ていた。 一方でこの苛烈な作家は、当時の日本において在日朝鮮人が非政治化・個人化することは、少なからず日本人化を意 味したことを率直に記している。まず、「愛国」の虚妄を感じ取る感覚の土台には、他ならぬ戦後の「自由な日本の雰囲 気」での「自己形成期」が必要だったのであり、更に作中では「社会主義的愛国主義」への「混乱と疑惑の眼」に続 けて、主人公の自己懐疑が次のように記される。 だが、それは結局、「民族意識喪失者」の特殊な感覚にすぎないのであろうか? 「国体ニ就テノ観念ノ如キモ一応ノ理解ハ有シアル如シ。然レドモ未ダ知識タルニ過ギズシテ日本人トシテノ信念ニ達シアラズ。蓋シ 日本人的感情、情操ノ裏付ケ無キヲ以テナラン」 この旧日本陸軍教育総監部の極秘資料、『朝鮮出身兵の教育参考資料』の一節において、「日本人」という言葉を「朝鮮人」 に置き換えれば、この文章は何といまの自分にぴったりと当てはまることだろう。 7) 2000年,平凡社 8) 2004年,クレイン 9) 2006年,クレイン 10) 『文芸』1966年11月号 民族意識を学ぼうと思っていた圭植は、戦時中の資料を読む中で「朝鮮人としての信念」に達せず「朝鮮人的感情、 情操」を持たない亜日本人としての自分の姿を見るのである。そして民族的帰属意識を強いる勢力にとっては「朝鮮人として の信念」とは「ある他民族に対する敵対意識」に基づくものだったのであり、これを受け入れられず「真の民族意識とは何 か、ぼくはわからなくなる」と立ち止まり、思索を続ける主人公の態度は鋭敏なもので、在日朝鮮人2世世代の姿を描き出す その先駆けとなった。 朝鮮人差別と同化政策はひとえに戦前から続く日本社会の病理であり、在日朝鮮人の反発は当然であったが、その反発 が政治的に利用されたことで、逆に政治に幻滅しどこにも帰属感を持ち得ない在日朝鮮人の層が作り出された。このような過 程を金鶴泳がつかむことができたのは、彼が吃音による外界との隔絶感(何によっても解決されない劣等感と不信)をもって 世界と向き合っていたからである。 民族間の平等、民族自決の原則による朝鮮半島の統一。作家はそのような課題の重要性を十分に認めていたが小説を 通じてその解決を主張したり、政治への帰属によって自らの苦悩を代償的に解消しようとはしなかった。金鶴泳は在日朝鮮人 作家の文学的な特権に手を出さず、自らの日本人化を率直に語りながら、いかにしても拭い去れない人間一般に共通する 普遍的な苦しみや悲しみをもとに小説を書いた。『凍える口』は2世世代の在日朝鮮人のアイデンティティを追究する作品で はあるが、主人公と同じように、自己表現の道を阻まれた孤独感と疎外感を持って生きる登場人物は日本人なのである。作 品では、主人公よりも重症の吃音者だった日本人の友人・磯貝の自殺と、磯貝の妹である道子と主人公の恋愛が描かれ ている。そして作家の後年の作品に現れる暴力的な父親像は、ここでは磯貝の父親のものとして描かれている。 作家の出発点である『凍える口』において<祖国>は「日本の日常の中」で考えられる思索の範囲内にあり、第一義 的に「朝鮮」を、具体的には北朝鮮及び北朝鮮の主導により反動勢力が排除されるべき韓国(南朝鮮)を指していた。 同時に「朝鮮」という名で、かつて朝鮮半島に存在し外国勢力によって滅ぼされた統一国家とその範囲が示されていること は言うまでもない。 だが、金鶴泳の態度は北朝鮮を積極的に支持するというものではなく「朝鮮人にとって、共産主義の側はきわめて将来性 のある『体制』側だからなあ」という感懐を主人公に語らせるものであった。「真の共産主義者と、単に『体制』に便乗し ているにすぎない、状況が変われば一朝のうちに豹変しかねない口先だけのエセ共産主義者と、自称共産主義者の中には 前者が多いのと同時に、後者もまた多いことを、ぼくは皮膚で感ずるように感じてきている」。金鶴泳は<祖国>の名を振り かざす者たちを、<祖国>を希求しているのではなく「体制」に追随しているにすぎないと考え、民族意識を食い物にする者 として不信の眼を向け続けたのである。 2 『錯迷』11) 思索の範囲内で捉えられるものであった金鶴泳の<祖国>は、その後『錯迷』に至って変化を見せる。『錯迷』では 韓国系在日同胞の立場から行われる新しい統一運動と、妹たちの北朝鮮への"帰国"が描かれている。 仙台の大学に助手として勤務する申淳一は、東京の大学でともに化学を学んだ鄭容慎から8年ぶりの訪問を受ける。慶尚 南道出身の留学生であった容慎は大学卒業後韓国に戻り、政治運動に参加したが、統一を公然と主張することすらできな い当時の韓国から、半ば亡命するように再び日本にやって来て、日本で「祖国統一運動」を続けていた。 容慎が所属し「韓国、民族自主統一K同盟」と称されている組織は、実在する韓国民族自主統一同盟(韓民自 統)とほぼ同一のものである(同様に金鶴泳は小説で在日本朝鮮人総連合会を「S同盟」、在日本大韓民国居留民 団を「M同盟」と記号的に表現するのが常だった)。朴正煕政権の成立と統一運動の非合法化、分断の固定化を進め る日韓基本条約の調印を受けて、韓民自統は1965年7月に韓国系在日同胞の立場から祖国統一運動を行う組織として日 本で結成され、朝鮮総連と韓国民団の双方から敵性団体と規定されるなどその歩みは困難なものだったが12)、組織は現在 も存続しており、後に金鶴泳の『序曲』が連載された『統一日報』は韓民自統の機関紙である。 容慎は強権的な南北政府に盲従するだけの既成同胞団体を、「自分と祖国の未来について暗い展望」を同胞に与 え、「統一に対しても諦念に近い感情」に陥らせていると非難する。「韓国政権に密着した従来のM同盟」とは異なる 「唯一の革新的統一推進組織体」として結成された「K同盟」だったが、「S同盟」から事あるごとに運動の妨害を受 けていた。かつて「S同盟」に接触し何時しか離れていった淳一は、次のようなことを思う。 常に正しい彼らは、常に私を「救済」の対象としか見なかった。彼らはある特定のイデオロギーを信奉しており、私が在日朝鮮人二世 としての生き方に迷っているのは、彼らにいわせると、私がまだ彼らのイデオロギーをよく「研究」しておらず、よく身につけていないからで あった。彼らのそのイデオロギーを身につけると、にわかに朝鮮人としての誇りに燃えるようになるというのである。自分の未来が、太陽に照 らされるように明るいものになるというのである。 11) 『文芸』1971年7月号 12) 朴慶植『解放後 在日朝鮮人運動史』(1989年,三一書房)第9章「南北分断下の総連と民団」 だが淳一は、統一運動を専有化し自分を「救済」しようとする「S同盟」に対してはもちろん、容慎に対してもある距離 感を持っていた。容慎が学生時代に語った「心の飢」は「いつも、化学する前にしなければならぬことが、何かあるような気 がしている」というものだったが、それは国の統一だったのであり、容慎は実際に化学を放擲して韓国に戻り、統一運動に飛 びこんでいった。いっぽう淳一にとっての「心の飢」「心の不安」は何よりも、父母の不和と父の陰惨な暴力による暗い郷 里の家であった。淳一には「暗い家をどうにかすること」以外の方法によって、つまり化学研究あるいは在日朝鮮人としての 政治的活動によって、個人の「心の飢」を解消することは自己欺瞞でしかなかった。 学生当時、帰省していた淳一は横暴な父に耐えかねて父に手向かっていったが、肉体労働で鍛えられた父にすぐに組み 伏せられてしまう。また母からも「たとえお前の方に理があっても、目上の人、特に父親に手向かうなどは非常にいけないこと なのだ」「朝鮮では特にそういうことに厳しく、そんなことをしたら人さまの信用をなくしてしまう」と注意を受ける(儒教的な道徳 が生きている在日1世世代とそれを自らのものとして受け入れがたい日本育ちの2世世代との隔たり13)が現れている)。淳一 が暗澹とした思いに沈んでいるうちに、妹の明子と紀子は暗い家から脱出するため北朝鮮に渡ることを決心していた。「祖国 に帰り、祖国の建設と、祖国の発展のために尽せることに、誇りを感ずる」と歓送会で謝辞を述べた明子だったが、それは 後でつけた大義名分であり、"帰国"の本当の理由は自分の暗い家にいたたまれないためであった。「これからのすべてを北 朝鮮に委ねている」ような諦めにも似た表情の「帰国者」たちと共に、明子は船上から「お母さん! お母さん!」と(習い 始めた朝鮮語ではなく)日本語で叫び「見知らぬ祖国」に去っていった。容慎の訪問を受ける前にも淳一は帰郷した折、 母に殴りかかる父を押さえようとしたが、その手ごたえは以前と違って頼りないものだった。朝鮮料理屋の経営のかたわら「S 同盟」の分会長として祖国の平和的統一を説き数々の賞状を受けた父。老いを感じさせる父の身体から、淳一は「ある種 の無神経な強靱さ」を持たなければ生き抜けなかった父の「歴史」に考えを及ばせるのだった。 金鶴泳の<祖国>は『錯迷』に至って具体的な姿を取り始めた。『凍える口』の思索においてはほとんど顧みられなかっ た韓国社会と韓国系在日同胞が存在感を増し、統一を主導してきた北朝鮮はその信頼を失った。憧憬の対象ではなくなっ た「見知らぬ祖国」北朝鮮は、妹たちの"帰国"によって念頭から去らない存在となり、「『朝鮮』そのものから逃れようとし てきた」主人公の姿が対比的に強調されるようになった。そして、個人の「心の飢」にとらわれ続ける主人公との対比を通じ て、作家は、生き抜くために<祖国>を必要とした父の「歴史」の重みまでも描き出した。当時の在日朝鮮人1世・2世に とっての<祖国>の具体的な在り方について、民族全体と個人のレベルにわたって見つめる作家の眼がここにあると言うこと ができる。 3 『冬の光』14) 『錯迷』で在日朝鮮人にとっての<祖国>を映し出した孤独な主人公像は、『冬の光』においては中学一年生の少年 の姿に託され、作家の筆は日本で鉄道自殺を遂げた祖母にも及んだ。 主人公の茂山顕吉(孫顕吉)は、父の暴力によって荒廃し索漠とした家庭でつらい気持ちを抱いて育ち、そのせいで吃 音を病んでいる。文盲の父のために朝鮮戦争の新聞記事を毎朝朗読するのが長男の顕吉の役目だったが、父が支持する 北朝鮮軍が後退を始めてから、不利な戦況に父は苛立ち、朗読にもたつく顕吉を怒鳴りつけたり、韓国を支持する同胞と刃 傷沙汰を起こしたりしている。顕吉のつらさは日本語もよく出来ないまま、気性の激しい夫とも合わず寂しさの中で鉄道自殺を 遂げた祖母の悲劇に連なる。暴力によってしか自分の感情を表現できない父の背景には、自分の母と弟の日本での死が あった。ある日、ひどく殴られた母は末娘の敏子を連れて家を出てしまう。顕吉は母が同胞の家に身を寄せているのを見つけ るのだが、そこには顕吉の家にはない家庭の温もりが漂っていた。ひとり家に帰る途中、顕吉は月明かりの下で白い光を放っ ている線路と、彼方の山の黒い影を眺める。そして遥か遠くで戦争をしている「まだ訪れたこともない自分の国」を思い、顕 吉は「山の向こうも闇、山のこちらも闇、自分には帰るべきところがどこにもない……」と考えるのだった。 『冬の光』における<祖国>は、まず新聞記事に現れる分断された遠い<祖国>であった。「まだ訪れたこともない自 分の国」という矛盾した、しかし痛切な形容によって、<祖国>も民族的帰属意識と同じように外部から自覚を強要される概 念だということが表現されている。「どちらが勝ってもいい」「早く戦争が終って、そして早く新聞から朝鮮戦争の記事が消え てくれればいい」という顕吉の率直な願いは、その強制に対する反発だと言える。 また『錯迷』において「見知らぬ祖国」と形容され(この形容にも2世世代に対する<祖国>概念の強要が表れてい る)、父と妹の存在によって具体的に感受されるものだった北朝鮮は、『冬の光』の顕吉にとっては「金日成将軍を支持 し、北を応援している」父と、わずかに新聞記事を通じて感じ取られるものだった。 13) 金鶴泳は父と子の暴力をともなう葛藤を描いたが、それに対する旧世代からの非難は少なくなかったという。「申淳一が父と殴り合う行為は、『孝』の精神を重んじる韓 国人の伝統的価値観への反逆に映ったのである。しかし、在日二世として育った鶴泳には、その伝統的価値観が身についていなかった。そこに在日二世の弱さと強さ がある。それを乗り越えることが大きな課題であることを鶴泳は自覚していたが、行き詰まった」(金両基「アイデンティティの確立と自死に惑った金鶴泳」『言語文化』 第17号,2000年,明治学院大学言語文化研究所)。これに対して朴裕河は、金鶴泳に「乗り越える」べき何ものかが存在したとする考えこそが作家を生前に抑圧し つづけたものであると指摘している(「暴力としてのナショナル・アイデンティティ」『文学年報1』,2003年,世織書房)。 14) 『文芸』1976年11月号 その父も出身は慶尚南道であり、母の妹婿は韓国から密航で日本に来ており、ある親類は故郷の「ソウル近郊の村」が 北朝鮮軍に破壊され弟が殺されたため北朝鮮とその支持者に強い敵意を持っている。母は「釜山に近いある村」の生まれ で、子供の頃からいつも飢えていたために、子守りの赤ん坊を背負って食用となる草や木の実を探しに行ったという野山が、 顕吉にとっての<祖国>の原風景だった。このように作中では同胞社会における韓国の存在がクローズアップされている。 『冬の光』では、吃音・家族・民族という金鶴泳が生涯書き続けたモチーフがよく整理され、主人公の悲しみの根源 が、同じように疎外を受け続けた家族の人生を通じて、国を奪われた民族の悲しみにまで届いている。そして、主人公を同 胞社会の中でまだ受動的にしか生きられない少年に設定したためとはいえ、北朝鮮をより遠いところに置いた『冬の光』は、 作家が「帰るべきところがどこにもない」という在日朝鮮人の不遇意識の追究をも試みた『郷愁は終り、そしてわれらは― ―』の伏線になったと見ることができる。 4 『郷愁は終り、そしてわれらは――』 北朝鮮によるスパイ事件を題材にした『郷愁は終り、そしてわれらは――』では、在日朝鮮人の<祖国>への郷愁が政 治工作に利用され、無残に砕かれる過程が描かれている。作家の日記によれば本作品は『祖国』という仮題で執筆された 時期があった15)。 『郷愁は終り、そしてわれらは――』には日本に帰化した黄海道出身の男と、視点人物となるその愛人が登場する。家 族との連絡を朝鮮から手紙が来るのを嫌がる妻によって諦めた石島。家族の消息が絶たれた悲劇を聞いて、石島の代わり に北朝鮮へ手紙を送り続けた日本人の愛人の羽瀬。やがて石島の兄から消息を伝える返事が来て、兄を知っているという 北朝鮮の政治工作員が墓参と家族との面会を勧めるようになった。二人は北朝鮮に渡ったがそこで待っていたのは韓国で工 作拠点を作るためのスパイ教育だった。羽瀬が平壌から暗号放送を受信して石島に知らせ、石島は韓国で合弁会社を設 立したが工作が露見して金浦空港で逮捕されてしまう。羽瀬は事件の原因は自分にあると弁明するため韓国に行こうとするの だった。 本作品での<祖国>は主に二人が北朝鮮に渡ってから使われる概念で、『凍える口』で見られたような北朝鮮及び北 朝鮮の主導により反動勢力が排除されるべき韓国を指す。石島の兄から最初に届いた手紙では南北朝鮮を指す言葉として 「ウリナラ」という朝鮮語が使われていたが、後の手紙ではそれは「祖国」という言葉に置き換えられ、手紙の内容も「日 本で祖国のために貢献してくれていることをたいへん誇りに思っている。こんごとも祖国統一のために尽力してくれるよう望む」と いう「格式張った無内容のもの」に変わっていた。また、石島の郷愁を利用し、北朝鮮の地で工作活動を指示する者たち が口にする「祖国」という言葉は空疎なもので、ひとつの行政用語に堕している。平壌からモスクワに向かう帰国便の中で 羽瀬が感じた「一種の虚脱感のようなもの」は「《郷愁は終り そしてわれらは午後の河辺から帰ってきた》」という韓国の 詩を思い出させ、「たしかにその詩の言葉のごとく、石島さんの郷愁は終っておりました」「そのあとに残ったものは、どこか物 憂い、白けた気配の漂う、空虚な午後の河辺のイメージそのものでした」と語られている。 本作品の題名及び上記の詩は、韓国の詩人文炳蘭の『街路樹』から取られている16)。『金素雲対訳詩集 韓国現代 詩日語対訳(中)』17)から引用する18)。 郷愁는 끝나고/그리하여 우리들은 午後의 江辺에서 돌아와 섰다./(中略)허기진 발자욱들이 돌아오는 午後의 入 口./아무데서나 너의 인사는 반갑고/너와 같이 걷는 이 길은/시진한 孤独을 나누며 가는 季節의 좁은 길./(中 略)가자./우리 所望의 머언 山頂이 보이면/목이 메이는 午後./街路에 나사면/너와 같이 나란히 거닐고 자운/너 는 五月의 휘앙세, 기대어 서면 너도/나와 같이 고향이 멀다. 郷愁は終り/そしてわれらは午後の河辺から帰って来た。/(中略)空っ腹の足音が帰ってくる午後の入口、/どこにいてもお前の 挨拶はなつかしく/お前といっしょに歩くこの道は/気だるい孤独を分かつ季節の小径。/(中略)行こう、/われらが待ち望む遠い山 の頂きが見えると/胸塞ぐ午後。/道に出ると/お前と並んで歩きたくなる。/お前は五月のフィアンセ、寄り添えばお前も/わたしに似て 故郷が遠い。 なお、同書では、日本語訳はされていないが詩の末尾に「※자운…싶은<싶다>에 해당하는 용어로 전라도에서 씀.」と、全羅道の言葉「자운」(=したい)を説明する注がついている。 『冬の光』で抽出された「帰るべきところがどこにもない」という在日朝鮮人の不遇意識は、『郷愁は終り、そしてわれら 15) 『凍える口 金鶴泳作品集』(2004年, クレイン)の1979年6月2日付け日記など 16)「行き詰って悶々としている折も折、たまたま目にしたのが、韓国の女流詩人文炳蘭さんの詩『街路樹』の冒頭の一節でした。(中略)これは金素雲さんの訳です が、この一節に触れたとき、素材となった事実の発する肉声を、詩に転化するきっかけを与えられたような気がします」(金鶴泳「自己解放の文学」『波』,1983 年,新潮社)。なお文炳蘭は男性であり、金鶴泳が氏名だけを見て誤って女性と判断したものと思われる。 17) 1978年,亜成出版社 18) 前掲書は縦書き。改行を「/」で表したほか、韓国語部分の句点「。」を「.」に改めた。 は――』で示された北朝鮮に対するはっきりとした拒絶感を経て「空虚な午後の河辺」という具象に至った。<祖国>も郷 愁も初めから何も無かったかのような、希望の朝日が昇る時間は既に過ぎて、水も風も全てが流れてゆく午後の河辺。在日 朝鮮人にとっての<祖国>は単純に朝鮮半島を指すものではなく、民族的帰属意識とともに自覚を強制され、同胞を政治的 な利用物に作り変える概念であるという認識は、考え直してみれば当たり前のようで「白けた気配の漂う」ものではあるが、そ の荒涼とした実体を自分の筆でえぐり出すことを、民族の一員として金鶴泳は諦めなかったのである。 Ⅲ まとめ 『凍える口』において<祖国>は思索の範囲内にあり、第一義的に「朝鮮」を、北朝鮮及び北朝鮮の主導により反動 勢力が排除されるべき韓国(南朝鮮)を指していた。金鶴泳は<祖国>の名を振りかざす者たちを、<祖国>を希求して いるのではなく「体制」に追随しているにすぎないと考え、民族意識を食い物にする者として不信の眼を向け続けた。『錯 迷』においては韓国社会と韓国系在日同胞が存在感を増し、統一を主導してきた北朝鮮はその信頼を失った。「見知らぬ 祖国」北朝鮮は妹たちの"帰国"によって念頭から去らない存在となり、「『朝鮮』そのものから逃れようとしてきた」主人公 の姿が対比的に強調されるようになった。そして個人の「心の飢」にとらわれ続ける主人公との対比を通じ、作家は生き抜く ために<祖国>を必要とした父の「歴史」の重みまでも描き出した。『冬の光』では「まだ訪れたこともない自分の国」とい う痛切な形容によって、<祖国>も民族的帰属意識と同じように外部から自覚を強要される概念だということが表現されてい る。また『冬の光』では同胞社会における韓国の存在がクローズアップされている。「帰るべきところがどこにもない」という 在日朝鮮人の不遇意識は『郷愁は終り、そしてわれらは――』で、北朝鮮に対するはっきりとした拒絶感を経て「空虚な午 後の河辺」という具象に至った。在日朝鮮人にとっての<祖国>は単純に朝鮮半島を指すものではなく、民族的帰属意識 とともに自覚を強制され、同胞を政治的な利用物に作り変える概念であるという認識がここで示されている。 統一された<祖国>、在日韓国・朝鮮人にとっての実質的な<祖国>ができる前に、韓国の経済発展とポピュラー文化 の成功(ドラマや映画、ポップミュージックの世界的流行)、韓国語教育や韓国学研究の普及などによって、在日のアイ デンティティは負のものから脱しつつある。日本人の在日韓国・朝鮮人に対する理解も深まっており、文学に戻って言えば、 昨年は若い日本人作家が在日韓国人と日本人の新入社員同士の友情を描いた藤代泉『ボーダー&レス』(『文藝』 2009年冬季号)が発表された。一方で楊逸、シリン・ネザマフィなどの新しい外国人作家も現れている。多国籍・多文化 時代の到来に合わせて、国民国家と結びついた旧来の日本近代文学の在り方は終焉したと言ってよい。そんな趨勢の中で <祖国>の虚構性を生真面目に書き表した金鶴泳の文学の軌跡は、古臭いものとしていずれ忘れ去られるだろう。しかし、 忘れ去られるには金鶴泳の文学はあまりに惜しい。金鶴泳の<祖国>や民族意識に対する認識は、例えば日本人にとって の<祖国>や民族意識を批判する場合にも有効である。<祖国>や民族の名を振りかざすナショナリストは相変わらず絶え ないのであり、金鶴泳の文学は何度でも読み直される必要があると思われる。 参考文献 유숙자『在日한국인 문학연구』(2002年,月印) 이한창『소외감과 내향적인 김학영의 문학세계 -「얼어붙은 입」과「흙의 슬픔」을 중심으로-』(1996年,『일본학보』37권,한국 일본학회) 井ノ川泉『金鶴泳聞き書き』(『新大国語』第17号, 1991年,新潟大学教育学部国語国文学会) 川村湊『生まれたらそこがふるさと 在日朝鮮人文学論』(1999年,平凡社) 金英達『事実は小説より奇なり――金鶴泳「郷愁は終り、そしてわれらは――」の虚構について』(『在日朝鮮人の帰化』,1990年,明石書店) 成美子『同胞たちの風景 ―在日韓国人二世の眼―』(1986年,亜紀書房)
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