、 。 ※ ゴ シ ッ ク 体 の 太 字 は 子 供 用 に 読 む 文 で す 今 日

- 1 19分の
天璋院篤姫
※ゴシック体の太字は、子供用に読む文です。
てんしょういん あ つ ひ め
今日の紙芝居は﹁天璋院篤姫﹂という人の
お話です。
皆 さんは ﹁篤姫 ﹂とい う名前を聞いたこと
がありますか?
(
)
みだいどころ
そ う で す ね 、 今 年 平成 二十 年 の N H K の 大 河 ドラ マで 放映 さ れ て い ま す の で 、 知 っ て
いる人も多いと思います。
いえさだ
江戸徳川幕府、第十三代将軍家定の御台所
だったのが、今日の紙芝居の﹁篤姫﹂です。
江戸時代 は将 軍様 と結婚 すると、奥様は御台
所と呼ばれるようになりました。
実 はこの ﹁篤 姫﹂は、 皆さんと同じように
にちえい
日蓮 正宗の御 本尊 様を信 仰をしていました。
か
ふ
総本山 第五 十一 世日英 上人様から御本尊様
ご
を御下附いただき、信心を貫いていきました。
将軍の御台所、そして大奥の総責任者とし
て、信心を基本に江戸時代最後の大奥を、取
り 仕切っ てい った ﹁篤姫 ﹂のお話しの始まり
です。
- 2 19分の
天璋院篤姫
さつ
九州の南、桜島で有名な鹿児島県は、昔、薩
ま
摩の国と呼ばれていました。
人々は その 薩摩 のお城 を、鶴が羽を広げた
つるまるじょう
姿に似ているところから、鶴丸城と呼んでい
ました。
い ま い ず み しま
そ の鶴 丸城の ほど近 いところに、今和泉島
づ ただたけ
ぶ ん け
津忠剛の屋敷がありました。この今和泉家は、
さ つ ま は ん し ゅ し ま づ け
薩摩藩主島津家の分家でありました。
てんぽう
天保六年十二月十九日のことです。その今
か わ い
和泉 家に、 とて も可愛く 、とっても元気な、
女の子が産まれました。
お か つ
名 前を﹁於 一﹂ といい ました。この子が後
の篤姫です。この篤姫が将軍の御台所となり、
江戸時代の最後を取り仕切り、徳川家を救う
大きな役 割を 果た そうと は、誰も想像できま
せんでした。
﹁こ の子も 、いつ かお嫁 に行ってしまうんで
しょうね﹂
﹁い や、嫁 にな んか行 くものか、いつまでも
わしのそばにいてくれよ、なぁ於一?﹂
お 父さん も、 お母さん も、初めての女の子
お か つ
の於一を愛情一杯に育てました。
- 3 19分の
天璋院篤姫
ふ
お か つ
か え い
わ
さ つ ま
なり あきら
ひい
の う り
か し ん
ふ へ い
おさ な
いえさだ
おこ
・
・
・
・
お か つ
にんたいりょく
みだいどころ
こ う ほ
於一は、お父様からいただいた本を読みな
が ら、た くさ んの 友だち と、色々と意見を交
換しました。
嘉永三 年十 一月 のこと 、翌年の二月に薩摩
藩主 となる 島津 斉彬公の もとへ、思いもかけ
ない知らせが届きました。
それは 、薩 摩か ら次の 将軍となる徳川家定
公へ 、嫁入 りさせ よとの ことでありました。
﹁ ありが たき 知ら せじゃ 。しかし、嫁に出し
たくとも、我が家の三人の姫はまだ 幼 い、
困った事じゃ、どうしたものかのう
﹂
と、 その時、 斉彬 公の脳 裏に浮かんだのが、
何度か会ったこともあり、家臣の中で、女の
身なれども、学問に秀でたものがあると、話
題になっていた、 あの於一でした。
﹁ あの子 であ れば 、忍耐 力もあり、いまだ怒
った顔を見たこともなく、不平を言ったのを
聞い たこと もな い。ま た人に接するのもうま
いので、将軍の御台所にピッタリであろう﹂
と、於一に、家定公のお嫁さん候補の話しが
降って湧いてきたのでした。
しかし、この時はまだ、正式なものでなく、
お嫁さん 候補 の一 人に過 ぎなかったのです。
- 4 19分の
天璋院篤姫
なり あきら
はんてい
はん
ぶ ん け
あつひめ
お の じ ま
た い せ き じ
さ
の
な ん ぶ の ぶ ゆ き
き
どうち ゅう
ご
ひ
お か つ
あ つ こ
えいき ょう
ふ
にちえい
あらた
おそ
かいふく
はちのへ
ろうじょ
さ つ ま
斉彬公は、分家の娘であった於一を、家定
公との結婚に当たり、自分の娘とすることに
しました。そして、名前を﹁篤子﹂と 改 め、
みんなは ﹁篤姫﹂と呼びました。
嘉 永六年 八月、 篤姫は 嫁入りのために、薩
摩の鶴丸 城 を出 発して、 十月には江戸の薩摩
藩 邸に着 きま すが 、その 道中、薩摩藩の老女
であった小野嶋が、ずうっと付き添います。
実は 、
この小野嶋も御本尊様を信じていて 、
信 仰に関 して 、篤 姫に大 きな影響を与えたの
ではないかと思われています。
江戸に着いた翌年、大きな不幸が襲ってき
ました。斉彬公が重い病気になってしまい、
その上、子供も亡くしてしまったのです。
そ こで、 先に 大石寺 の信仰をしていた八戸
藩の 殿様、 南部 信順公 が斉彬公を見舞いに来
て、自分 が入 信し たとき の話しや、八戸藩の
老女であった喜佐野が、御秘符を飲んで、病
気がたちまちによくなった事などを話し、
﹁南 無 妙 法 蓮 華 経 と い う 教 え は 本 当 に す ご い ﹂
と、御本尊様のすごさを話しました。
家族全員でこの話を聞き、信心をするよう
になり、さっそく、第五十一世日英上人様か
ら御 秘符を いた だき、無 事病気が快復してい
きました。
- 5 19分の
天璋院篤姫
様々なお寺や神社で願っても、いっこうに
あ と つ
よく ならな かっ た、そ の上、跡継ぎの大事な
男の子を、自分が病気と闘っている間に、亡
くしてしまった。
のぶゆき
ま
そんな中、見舞いに来てくれた南部信順公
お お お じ
は、斉彬公の大叔父に当たります。
ひとすじ
身内か らさ れた 信心の 話は、ちょうど真っ
くらやみ
暗闇の中に、一筋の光が差し込んだような心
持ちで、聞いたことでありましょう。
ちちうえさま
﹁父上様 、御 病気 がよく なり本当にようござ
いました﹂
﹁本 当よの う。 南無妙 法蓮華経の信仰とはも
はか
のすごいものじゃ。それに、御秘符の力は計
り知れないものじゃ。ありがたい
﹂
・
・
・
・
なりあ きら
斉彬公と篤姫は、嘉永七年八月に入信しま
した が、小 野嶋の 願い出 によって﹁婚礼が無
事決 まるよ うに ﹂嘉永 六年から安政三年の春
に至る足かけ四年、日英上人様は御祈念され
ました。
その願いが通じたのでしょう。正式な婚礼
決定の知らせが斉彬公へ届けられました。
そして、その御礼の御供養が、薩摩藩から
日英上人様のもとへ届けられました。
- 6 19分の
天璋院篤姫
かんれい
み や け
く
将軍の御台所となる人は、今まで宮家か公
げ
く
げ
家から迎えるのが慣例となっていたため、篤
ようじょ
姫 は、婚 礼の 正式 決定の 同じ年の七月、公家
こ の え た だ ひ ろ
の近衛忠煕の養女となりました。
こ の え け
実 はこの 近衛家 は、あ のお山の三門を建立
いえのぶ
御供養された、六代将軍家宣公の御台所、
てんえいいん
天英院様のご実家でありました。
薩 摩から 江戸 へ来る道 中、島津家と京都の
こ の え け
近衛 家とのつ なが りや、 近衛家から出られた
天英 院様の こと 、同じ く大石寺の信仰をして
し
ぎ
いんねん
いたことなどを、小野嶋から聞いていた篤姫
ふ
は、不思議な因縁を感じました。
﹁願いにより、篤姫との養子縁組の手続をす
す み こ
ませ、本日より新しき名として、﹃敬子﹄と
さず
授けようぞ﹂
近 衛家の 養女と なった 篤姫は、さらに気を
引き締めて準備にあたりました。
斉彬公 の張 り切 りよう は、すさまじいもの
さ し ず
で、婚礼道具の準備も全て指図し、準備が終
わると、倒れ込んでしまうほどでありました。
- 7 19分の
天璋院篤姫
かいこく
ひき
ぐんかん
くろ
このころアメリカのペリー率いる軍艦、黒
ふね
さ こ く
船が日本にやってきて、開国をせまってきて
いました。
ば く ふ
せい じ ょ う
幕府として、今まで通り鎖国を続けるか、
こんらん
開国して外国を受け入れるか、混乱した政情
が続くな か、 無事 婚礼の 準備も整っていきま
した。
江戸城大奥に入る前日のことでした。
﹁篤姫、前もって言っておきたいことがある﹂
じょ う きょ う
くわ
﹁父上様、何でございましょう﹂
なりあきら
斉彬公は、今の日本の状 況を詳しく話し、
か ら だ
ひ
み
と
とくがわなりあき
﹁お 身体が 弱い家 定様の 時代は長くは続くま
ぜ
ひとつばしよしのぶ
い。次の将軍には、是非とも水戸の徳川斉昭
ご し そ く
殿の御子息である、一橋慶喜様がなるように、
家定 公に言 って くれまい か。また、家定公の
お気持ちも聞いてもらいたい﹂
と、篤姫に言い渡しました。
みつやく
これは 俗に 、密 約とい われるもので、若い
お
篤姫の肩に、日本の将来を左右するような、
し め い
大変な使命が負わされたのでした。
- 8 19分の
天璋院篤姫
らいこう
こんらん
せじょう
さいじゅうよう
おさ
ペリー来航以来、混乱した世情を治めるた
つ
き た い
め、将軍の跡継ぎ問題は、最重要なものとな
っていたのでした。
よ
﹁そ れにし ても 、お世継 ぎさえも期待されて
いない将軍様とは、どんなお方であろうか?﹂
不安な気持ちで婚礼の時を待った篤姫でし
い
まわ
たが 、十二 月十 八日、 家定様と篤姫の結婚の
まめ
儀が無事に済まされました。
し ゅ み
家定様の趣味といえば、豆を煎って周りの
者に 食べさ せ﹁ おいし い、おいしい﹂と言っ
ているのを見て喜ぶだけの、まるで子供のよ
うなお方でした。
せ い し ん せ い い
しかし、篤姫は、御台所として誠心誠意、
つ
家定様に尽くされました。
そして徳川家を守り支えていく決意が、家
だんだん
定様と一緒に過ごす間に、段々と強くなって
いったのでした。
- 9 19分の
天璋院篤姫
け な げ
そんな篤姫の健気な心が、家定様にも伝わ
りました。
﹁今 度、ハ リス とやら がわしに会いたいと言
ってきておるが、どうしたものかのぉ∼?﹂
み だ い
﹁御台ならばどのようにするかのぉ∼?﹂
そうだん
かた
などなど、色々と篤姫に相談するようになっ
てきました。
篤姫の耳には、
く ぼ う さ ま
うわさ
﹁公方様は、おばかなお方であらされる﹂
わるくち
の うりょ く
か
という、悪口のような噂が入ってきましたが、
せっ
家定 様と接 して 行けば 行くほど、能力が欠け
ふ
ている、ばかな振りをしてるだけだ、という
わか
ことがよく解りました。
うえさま
﹁上様、ハリスとやらが会いたいと言うので
あるなら ば、 会っ てみて はいかがでしょう﹂
あいさつ
﹁ハ リ ス が 立 っ た ま ま 挨 拶 す る と い う な ら ば 、
わ
かさ
分か りまし た、こ っちに も考えがあります﹂
たたみ
と言 って、 篤姫 は、畳 を重ねた上にイスを置
め せ ん
す
き、 ハリス の目 線より も上になるように会場
せってい
の設定も考えました。
しんけん
はげ
そ して、 その 会見の間 は、無事済むように
ひ と し
人知れず真剣な唱題に励んでいたのでした。
- 10 19分の
天璋院篤姫
たく
や く め
篤姫に は、 父上 様から 託された 大事な 役目があ り
ひ とつ ば し よ しの ぶ
えら
ました。それは、次の将軍に、一橋慶喜様を選んで
いただくことでした。
きしゅう
よしとみ
しかし、次の将軍様は慶喜様ではなく、紀州の慶福
けってい
様に決定されてしまいました。
﹁徳川家を残すために、どうすればいいか考えての
よしとみ
み だ い
事じゃ。慶福はまだ若い。どうか御台に後ろから支
よしのぶ
えてもらいたいと思うてのぉ∼。慶喜では、それが
できないであろうからのぉ∼﹂
との家定公のお言葉に、
﹁そこまで考えて下さっておられたのか
﹂
した
と、より 深く上様 をお 慕いする ようになり ました。
ところが、次の将軍決定の間もなく、第十三代将
いえさだ
軍家定公は、お亡くなりになってしまいます。また、
その直後には父上様の、斉彬公も亡くなってしまい
ます。
てん
二人の大きな支えを亡くした失意の中、篤姫は﹁天
し ょ うい ん
よしとみ
いえもち
璋 院﹂と名を改めて、第十四代将軍慶福改め家茂
公のお母様がわりとして、二十三歳の若さで、大奥
を取り仕切って行く ようになりました。
いえもち
じゃ っ か ん
第十四代将軍になった家茂公は、まだ若干十三歳。
たいろう
い い な お す け
国の政 治は、 大老の井 伊直弼 が取 り仕 切っ ていま し
なおすけ
たが、直弼は強い徳川幕府の立て直しのために、幕
し そ う
つぎつぎ
つか
府に反対する思想を持つ者たちを、次々に捕まえて
ろ う や
は、牢屋に入れたり、時には殺してしまいました。
うら
まんえん
そしてついに、その恨みをかい、万延元年三月三
い い な お す け
あんさつ
さくらだもんがい
日、井 伊直弼 は暗 殺さ れてし まい ます。桜 田門外 の
へん
変でありました。
・
・
・
・
- 11 19分の
天璋院篤姫
らいこう
あんせい
たいごく
ペリー 来航 、安 政の大 地震、安 政の大 獄、そし て
桜 田門外の変 と、 世の中 の不 安は ますま す増大し 、
あんたい
天璋院は、国の安泰と徳川家の将来のために、その
とうかい
じょうせんじ
ふっこう
時、大地震で倒壊していた、常泉寺の復興のために、
常泉寺 にこられ ていた 、日英上 人様に 御祈 念を 願い
出られました。
さっそく
早速その願いを聞き入れられた日英上人様は、三
うるう
はさ
月十四日から閏三月を挟んで、四月五日までの五十
一日間、毎日、朝四時から八時まで、昼十二時から
夕方四時まで、夜六時から十時までの、一日に四時
間ずつ、三回に分けた合計十二時間の大唱題行を行
われ、その功徳によって世の中が少しずつよくなっ
ていきました。
天璋 院も唱 題に 励み 、真剣 に祈 ったこと であり ま
しょう。
し ょ が ん じ ょ う じゅ
日英 上人様 の唱 題行によっ て、 諸願 成就 した天 璋
院は、 その年 の常 泉寺 の御会 式に 当た り、 常泉寺 へ
あおい
ぼ た ん
りょうごもん
あ お じ
きんらんみずひき
百両と、葵と牡丹の両御紋入りの青地の金襴水引を
す ずり
けさころも
御 供養 され、 日英 上人様へ、 紙と 硯と袈裟 衣、そ れ
こ ん ぶ りょう
めいもく
に昆布 料 という名目のお金を御供養されました。
な りあ き ら
また、それに先立つ七月十六日、斉 彬公の三回
ろうじょ
忌に当たり、老女の小野嶋から、
せいぜん
﹁これはお殿様から生前、篤姫様の婚礼に当たって、
いただいた百両でありますが、今回お殿様の三回忌
に、御供養させて頂きたいと思います﹂
と、日英上人様に御供養がありました。
その真心を受けて、その年の二月に火事によって、
おんしんぼう
焼けてしまった遠信坊の建築のために、その真心の
御 供養が 使わ れ、 日英上 人様は、 その御 供養のい き
さつを含めて、遠信坊の御本尊様の裏に、
だいだんな
あお
た て まつ
﹁斉彬公を大檀那と仰ぎ 奉 る﹂
と、書きとどめられました。
- 12 19分の
天璋院篤姫
ぐ た い て き
に
け ん い
かず の み や
ごう
じ ょう や く
いえもち
なんきょ く
こうめい
さ こ く
じょうい
ぶ ん きゅ う
こ う ぶ が っ た い せいさく
ち ょう て い
いち じ る
は け ん
はいじょ
すで
あ ん てい
し ゅど う けん
つい
さて、唱題行によって
﹁ 世の中 が少 しず つよ くなり、天璋院が大変
満足した﹂こととは、
具体的に何だったのでしょうか?
そ れは、こ の難 局を打 ち破るために考え出
され たもので 、時 の孝明 天皇の実の妹である
和宮を、家茂公の嫁に迎え入れる、というも
のでありました。
そ の和宮 の嫁 入りが 、さまざまな問題があ
る中 、唱題 行に よって 現実のものとなってい
くのでした。
権 威が著 しく低 下した 幕府は、将軍家茂公
と和 宮様の 結婚に よって 、何とか安定を計ろ
うと考え、朝廷もまた、政治の主導権を取り
戻そ うと、 公武 合体政 策を進めたのでありま
した。
し かし、そ の願 い通り に事は進まず、終に
業を 煮やした 朝廷 は、文 久二年十月、幕府に
使いを派遣し、不可能な攘夷、すなわち、外
国勢 力を排 除し 、鎖国を 続けるように、厳し
く言ってきたのでした。
この時 既に 幕府 は、ア メリカやフランスと
条約をむ すん でお り、鎖 国は不可能な状態と
なっておりました。
将軍家茂公この時十七歳。若き上様の両肩
には、ずっしりと政治の責任がのしかかって
おりました。
- 13 19分の
天璋院篤姫
明けて 文久 三年二月 、 家茂公は朝廷との関
いえみつ
係を 改善す るた めに、三 代将軍家光公以来、
じ ょうらく
実に 二百四 十年 ぶりと なる上洛、京都の天皇
にお会いしに行かれたのでした。
にじょうじょう
将 軍は京都 に行 かれる と、二条城というと
ころに入られますが、その二条城におられる
いえもち
家茂公へ、天璋院よりお手紙が届きました。
﹁お題目を唱えて、無事帰られることを祈っ
て おりま す。 とに かく信 心が第一でございま
す﹂
と、 家茂公の 無事 を強く 祈る、まさに子を思
う母親の姿がそこにありました。
その母がわりである天璋院に、家茂公は、
何で も相談 し、 天璋院 の折伏によって、家茂
公も信心をするようにもなっていました。
さ らに、 天璋院 は、家 茂公が無事江戸城に
帰ってこられるように、日英上人様に御祈念
を願い出られました。
そ の御祈 念と 天璋院 の祈りが通じたのでし
ょう、三 ヶ月 後の 六月に 、家茂公は無事帰っ
てまいりました。
すぐさま、天璋院は日英上人様へ十五両の
御供養をされております。
- 14 19分の
天璋院篤姫
な
けいおう
した
げ き か
ひととき
やさ
じ か く
ひとがら
ち ょう し ゅう は ん
げ き む
せいばつ
大奥では平和な一時が流れました。京都か
ら 来た和 宮も 、だ んだ んと江戸の暮らしにも
慣れ て、特 に家 茂公の 優しい人柄に引き込ま
れ 、心か らお 慕い するよ うになっていきまし
た。
将軍の妻としての自覚を強く持つようにな
った和宮に対し、天璋院は、和宮と力を合わ
せて 、徳川 家を 、そして 家茂公を、末永く盛
り立てていく決心を、より深めていきました。
しかし、幸せな時は長くは続きません。
同じ年の年末、家茂公は二度目の上洛のた
めに出発し、船を使って京都をめざし、明け
て一月には二条城に入りました。
翌、慶応元年五月には、長州藩、今の山口
県と 幕府と の間 に戦争 が起こり、その征伐の
ために長州に向かいましたが、翌年の夏には、
そ の戦争が 激化 し、家 茂公は幕府軍の総大将
として、闘いを指揮しました。
そ してと うとう 、あま りの激務のため、身
も心 もズタ ズタ になって 、七月二十日、大阪
城にて亡くなってしまったのです。家茂公た
った二十一歳でした。
和宮は、まるで天璋院の人生と同じような
道を、たどっていくことになりました。
夫を亡くした悲しさを胸に、天璋院と一緒
に徳川家を守り支えていく決意をするのでし
た。
- 15 19分の
天璋院篤姫
よしのぶ
みつやく
さず
家茂公が亡き後は、天璋院が密約を授かっ
お
てま で将軍 に推 していた 、慶喜様が第十五代
将軍となられました。
おも
慶喜様 も主 に京 都にお られたため、将軍不
じっしつてき
在の江戸城を、実質的に天璋院と和宮と二人
力を合わせて、守っていったのでした。
れ き し
たお
徳 川幕府 二百 六十年の 歴史も、今はその権
あ らし
威もことごとく無くなり、世の中は幕府を倒
とうばくうんどう
ね
そうという、討幕運動の嵐が吹いていました。
だ か い さ く
慶喜公は 日々 その打開 策を練っていました
けんげん
が、慶応三年十月、二条城において、
と う ち
い
し
あらわ
﹁日 本を統 治す る権限を 、天皇にお返しいた
します﹂
たいせいほうかん
と、大政奉還の意志を 表 したのでした。
たいせい
りょ う
しかし、大政が天皇に返上されたからとい
ぼうだい
って、徳川家には、五百万石という膨大な 領
ち
地と、日本最強の陸軍と海軍の力が残ったま
まです。
と う ば く は
たいせいほうかん
勢 いのつ いた 討幕派 は、このような状態を
ゆる
許せるは ずが あり ません 、大政奉還の後も、
た い け つ し せ い
新体 制を作り 上げ 、徳川 家との対決姿勢を強
めていくのでした。
- 16 19分の
天璋院篤姫
と う ば く は
その討幕派の中心は、天璋院の実家である薩
いえもち
せいばつ
おも む
ちょ う し ゅう
摩と、家茂公が征伐に 赴 いた 長州 でした。
とうばくかつどう
薩摩と長州が手を結び、本格的な倒幕活動を
てんかい
展開していくのでした。
し き か ん
か し ん
さいごうたかもり
その指揮官は、薩摩島津家の家臣、西郷隆盛
でした。
だ と う
し れ い
また、薩摩軍に打倒幕府の指令を出したのは、
こんやくしゃ
婚約者が決まっていた和宮へ、将軍様への嫁入
いわくらともみ
りを、強く進めた岩倉具視でした。
そして、倒幕軍の総大将は、その和宮のかつ
ありすがわのみやたるひとしんのう
ての婚約者であった、有栖川宮熾仁親王でした。
慶応四年一月三日、江戸時代最後の年の正月、
と ば ふ し み
鳥羽伏見の戦いが始まりました。
あっとうてき
へ い りょ く
圧倒的な兵 力の幕府軍でしたが、倒幕軍の最
よしのぶ
新兵器の前にもろくも敗れ去り、 朝廷から慶喜
ついとう
れい
ち ょ う てき
追討の 令が 出され、 朝 敵と なっ た慶喜 公は 、ひ
そかに江戸に逃げ帰ってしまいました。
に しき
み は た
かか
かんぐん
い っ き
錦の御旗を掲げた官軍は、一気に江戸城に攻
め入ろうと進んでまいります。その倒幕軍の中
心が、実家の島津家であることに、
とつ
つぶ
﹁私の嫁ぎ先の徳川家を、潰そうというのか。
私が何とかしなくては
?﹂
と強く感じた天璋院は、西郷隆盛に、
﹁徳川に嫁いだ以上は、徳川家の土となり、徳
川家が安全に長らえることを願っています。江
こうげき
戸城を攻撃するのなら、薩摩出身のこの私を、
か く ご
殺 す覚 悟で おやり なさ い
﹂
と、千三百字にも及ぶ長文の手紙を書きました。
・
・
・
・
・
・
・
・
- 17 19分の
天璋院篤姫
くず
よしのぶ
ようせい
か い ひ
ぎ せ い
ち ょ くせ つ
ゆず
きんしん
ば く ふ
そうこうげき
かつかいしゅう
てっていこうせん
きょ う じゅ ん
え い が
さ つ ま は ん て い
あるじな
む け つ かいじょ う
か し ん
同時に、和宮も官軍に向けて、江戸城攻撃
の中止を要請する手紙を出していました。
歴史的には、倒幕軍代表・西郷隆盛と、幕
府軍 代表・勝 海舟 が、直 接江戸薩摩藩邸で会
談し、江 戸城 の総 攻撃が 中止されたことにな
っていま すが 、そ のかげ には、主無き江戸城
を、命が けで 守っ た、天 璋院と和宮の働きか
けがあったのでありました。
一 方江戸 城で は、幕 府の家臣たちが、官軍
との徹底抗戦を主張して、譲りませんでした。
慶喜公はその時、もう江戸城にはおらず、官
軍に恭 順の姿を示し謹慎しておりました。
戦 いとな れば 、やるか やられるか。江戸は
戦場と化し、町は火の海となり、江戸城も焼
け崩れ、多くの犠牲が出てしまいます。
何 とかそ れを回 避し、 徳川家を存続させた
い。それが天璋院の強い願いでした。
そ の願いが 通じ 、江戸 城は無血開城されま
した。
天璋院 は、 最後 まで江 戸城に残り、千人に
も及 ぶ奧女 中が 、無事 お城から出て行くのを
見届けました。
また、徳川家伝来の宝物を美しく飾り、徳
川家の栄華を示しました。
それを目の当たりにした官軍は、天璋院の
引き際の美しさに驚きました。
- 18 19分の
天璋院篤姫
ごく
よしのぶ
そ う け
つ
いえさと
りょうち
・
・
・
・
いえさと
こうよう
す ん ぷ
つかい
おおはば
か わ い
ま こと
お や こ
よういく
へ
天璋院は、宝物など何一つ必要ありません
でした。故郷、薩摩の絵が描かれている一幅
の掛け軸だけあれば、それで充分でした。
ま た、自分 が日 英上人 様からいただいた、
御本尊様 だけ は、 どんな ことがあっても肌身
離さず、持ち続けました。
そ の大石 寺の 信仰を 、天璋院へ教えてくれ
た、 小野嶋 が亡 くなっ たという知らせが届き
ま した。 一番 の基 本に 御本尊様を信じていく
こと や、日 英上 人様と縁 させてくれたのも、
小野嶋でした。
小野嶋は何度となく、天璋院の使で、日英
上人様へ御供養をお届けしました。天璋院に
とって、 小野 嶋か ら受け た影響は大きく、亡
くなったとの知らせに、今までの様々なこと
を思い出しておりました。
あの五 十一 日間 の大唱 題行により、和宮の
嫁入りから、江戸城の無血開城に至るまで、
御本 尊様の 功徳 に包まれ 、願い通り徳川家を
守ることができたことに、感謝の気持ちで一
杯でした。
﹂
﹁小野嶋、ありがとう
慶喜公もおとがめ無く、領地は大幅に減ら
されましたが、駿府、今の静岡県に、七十万
石を与え られ 、徳 川宗家 を家達にゆずりまし
た。 家達は 、そ の時わ ずかに六歳、その養育
に当たったのが、また天璋院でした。
天璋院は家達を我が子同然に可愛がり、家
達もまた天璋院に孝養を尽くし、 真 の親子
も及ばないような関係でありました。
- 19 19分の
天璋院篤姫
はんえい
いえさと
よういく
最後ま で徳 川家 繁栄の ため、家 達を養 育し、イ ギ
り ゅ う がく
さいほう
じゅうじ
リスにも留学させ、自身は、東京で裁縫に従事しな
か つ かい し ゅ う
か ず のみ や
が ら生活 し、勝 海舟や 和宮とも しばし ば会 い、 以前
くら
へいおん
に 比べ 、のんび りとした平穏 な日々であ りました。
ところが、明治十年のことであります。
﹁和宮様がお亡くなりになりました﹂
との知らせが届きました。
ちが
き ょ う ぐう
立場 こそ違 え、 自分と同じ よう な境遇を 味わい 、
せんゆう
共に江戸城の最後を守り抜いた、戦友の死に際して、
かんがい
感慨深いものがありました。
り ゅう が く ちゅ う
い えさ と
明治十五年、イギリスに留学中の家達を呼び寄せ
ました。それは結婚のためでした。
えん せ き
天璋院自らが選んだその結婚相手は、自身の縁戚
て ん え いい ん
か け い
にあたり、また、同じ信心をしていた天英院の家系
く げ
このえただひろ
で、公家の近衛忠煕の孫でした。それはあくまでも、
あんたい
徳川家の安泰を考えての御結婚でありました。
明治十五年十一月六日、家達がその方と結婚し、
すえ
みちすじ
かくにん
徳川家 の行く末 に道筋 をつけた ことを 確認 し、 約一
年後の明治十六年十一月二十日、安心したかのよう
に四十九歳で亡くなりました。
てんかん
げきどう
江戸 時代から 明治へ 転換する 激動の 時代 に、 名が
かずかず
け だ か
上 がる 男たち は数 々あれど、 女と して強く 気高く 生
ささ
き抜き、当時の日本の運命を かげから大きく支え
たお方、それが天璋院でありました。
特に、そのお方が私たちと同じ信心をしていたと
はげ
いうことは、大きな励みではないでしょうか?
しんけん
大唱 題行に見 られる ような、 真剣に 祈れ ば、 道は
開ける ことを 、天 璋院 は教え てい ると思え てなり ま
せん。以上で終わります。