I-10 飛鳥の宮内庁指定陵墓 宣化天皇陵;身狭桃花鳥坂上陵 (むさのつきさかのえのみささぎ) 考古学会名;鳥屋ミサンザイ古墳 *宮内庁と学会で古墳名がなぜ異なるの? 宮内庁は古事記、日本書紀、延喜式諸陵寮等の資料から直接墓名を引用しているのに対 し、学会では史跡名は所在地の大字(おおあざ)、小字として昔から伝承されてきた地名 を付けることを常としているためである。 単に古墳名だけの問題では無く古墳そのものの取り扱いに関して、学会では史跡であり 文化財として保護すべき対象とするのに対し、宮内庁は皇室の墓であり静安と尊厳の保持 を厳守すべき対象と定義していることである。 宮内庁の陵墓指定は歴史的経緯があり現在に至っているが、1970年代頃から陵墓公 開運動を日本考古学会や文化財保存全国協議会が中心となり推進してきた。 1975年(昭和47年)の高松塚古墳の発見での世論の高まりで宮内庁と文化庁の協 議がなされたが、1975年3月31日の文化財保護審議会にて「陵墓」は「文化財保護 法」の適用外となる旨の官庁間合意がなされ聖域化されてしまったと云える。 しかし1979年2月1日の宮内庁内規「古代高塚式古墳の見学取り扱い方針」が出さ れ、毎年1回の「限定公開」が<陵墓の外周部立ち入り見学の許可>の形で限定人員、限 定方法の制限の下でスタートし、現在まで参考地を含めて30か所程度が限定公開されて - 37 - きたが公開内容は学会が要望する調査には全く至っていないのが実情である。 *飛鳥の指定陵墓は? 宮内庁が指定する陵墓・その他は897点あり、箇所数では439箇所となるが、その 内訳として陵(天皇及び皇后の墓)188、皇族墓553、墓に準ずる42、髪・歯・爪 等埋葬地68、参考地46となっている。 このうち限定公開の「古代高塚式陵墓および参考地」は 121 とし、延喜式記載は64 と宮内庁は定義しているが全ては学会が古墳と定義する対象である。 陵墓要覧によると奈良県+大阪府所在の指定陵墓は88あり、陵は62で奈良時代まで の歴代天皇 49 代のうち天智天皇陵は京都府、明治に追贈された弘文天皇陵が滋賀県、延 喜式で廃帝とされた淳仁天皇陵が兵庫県淡路にあるがそれ以外はすべて含まれる。 従って飛鳥期の宣化~文武天皇までの天皇陵は「近ツ飛鳥」と呼ばれていた河内郡太子 町を含めて考えれば飛鳥学で対象とする広義の飛鳥に属すると考えて問題ないでしょう。 (天皇陵の詳細は I 飛鳥の古墳シリーズ参照) この期の皇后陵は殆どが合葬されているが敏達の皇后・広姫のみが「息長陵」として指 定管理されている。近江の豪族・息長真手王(おきながまておう)の娘として息長広姫陵 古墳群の村居田古墳がこれに充てられている。 また奈良期の追尊天皇陵が二箇所あり、即位直前に没した天武の皇子・草壁を岡宮天皇 として飛鳥の「真弓丘陵」として指定されて調査できないが、隣接する束明神古墳が調査 され八角墳であること、出土歯牙 6 本あり青年期の男性被葬者として草壁皇子説がある。 もう一人は天智の皇子・志貴で春日宮天皇として奈良の「田原西陵」として指定されて いるが、息子の光仁天皇が即位したため桓武天皇により追尊されたもので万葉歌人として の方が有名である。 一方皇族墓は欽明の皇女・大伴が桜井の「押坂内墓」に、皇極の母親・吉備姫王が平田 梅山古墳に隣接した「檜隈墓」に、用明の皇子・聖徳太子が太子町の「磯長墓」に、天武 の妃・太田皇女が斉明陵の参道にある「越智崗上墓」に、天武の皇子・大津が「二上山墓」 に各々指定管理されている。 更に陵墓参考地として五条野丸山古墳は「畝傍陵墓参考地」、山背大兄王の墓を「富郷 陵墓参考地」、舎人親王墓を「黄金塚陵参考地」、押坂彦人大兄皇子墓を「三吉陵墓参考地」 として指定されている。 参考ながら兵庫県では皇后陵として景行の皇后・ 「播磨稲日大郎姫命日岡陵」が加古川・ 日岡に、皇族墓として平城の皇子・ 「阿保親王墓」が芦屋に、後鳥羽の皇子・ 「雅成親王墓」 が豊岡に、陵墓参考地として玉津王塚古墳が用明の皇子・当麻の妃・舎人姫王の墓「玉津 陵墓参考地」、淳仁天皇初葬地を「市陵墓参考地」、雲部車塚古墳が開化の皇孫・彦坐王の 王子・丹波道主命の墓「雲部陵墓参考地」として指定している。 *陵墓指定は何時頃からあったの? 陵墓を祭祀する習慣は七世紀末の持統期から荷前(のさき)奉幣の制度が在ったとの伝 - 38 - 承はあるが史料で明確化されるのは九世紀平安初期の「令義解」である。 9 世紀中清和天皇による近陵・近墓の十陵四墓制が成立して陵墓の範囲限定がなされる が、時の権力者による意向で陵墓の内容改訂が次々となされていたが、律令制による陵墓 の管理の集大成として 10 世紀初めの醍醐天皇による延喜式諸陵寮で近陵10・近墓8・ 遠陵63・遠墓39が明確化されが、此処で云う遠・近は正規の皇室血統により仕分けら れている。 宮中の年中行事で年末に奉幣される荷前使の欠怠は陵墓に対する当時の「穢」感が潜在 したとされ平安初期から始まっていたが中期になると著しくなるが制度としては平安末 期まで継続していたようで「欠怠の言い訳文書」が多く残されている。 しかし室町期の百科事典「拾芥抄」(しょうがいしょう)によると近陵・遠墓の制が廃 絶したとあり、荷前使も 1350 年までは継続されていたことが記録に残されているがそれ 以降の記録は無い。 江戸期になると徳川光圀による「大日本史」の編纂が始まり、徳川家による陵墓の改修 がなされたのは室町~戦国期を通じて陵墓の荒廃が如何に激しかったが伺える。 元禄の修陵に始まり二十年毎に改修・調査がなされていたことが本居宣長「菅笠日記」 から見られ、尊王思想が勃興した幕末の文久の修陵が大規模に実施され 109 か所に手が 加えられ天皇陵だけでも 76 か所とされ考古学的知識不足の改造で問題を残したと考えら れるが調査不可のため内容は不明である。 現在につながる宮内庁陵墓指定の治定は殆どが江戸期になされたものであり、当時とし ては最大限の文献や土地の伝承収集を計ったとは考えられるが現在の考古学・文献史学に 比較すべくもなく、尊王・王制復興思想により治定された傾向は拭えない。 それでも江戸期の陵墓管理は緩やかで観光地化され、絵図面等で案内図があり立ち入り 自由だったようである。 しかし幕末の王政復興の高まりで 1864 年に諸陵寮が再興され、明治 19 年には宮内省 に諸陵寮を設置され陵墓の管理が厳しくなってゆき、大正 15 年には皇室陵墓令が制定さ れ戦前の管理体制が確立したと云える。 終戦後の昭和 22 年皇室範典第 27 条で陵墓指定が明文化されており、内容は明治期の そのままで参考地が一部改訂された程度で現代に至っている。 *陵墓公開が国会質疑にもなったの? 2009 年に吉井英勝衆議院議員が陵墓指定の基本的問題、限定公開の主旨、学術的調査 による古墳被葬者と宮内庁の陵墓指定との乖離等について全般的に幅広い質疑を国会に 提出し社会問題として話題を集めた。 特に当時飛鳥で牽牛子塚古墳が発見・発掘調査され学会でも斉明陵の可能性が有力との 説があり、1872 年大仙古墳の竪穴式石室に長持形石棺あり甲冑やガラス容器が出土し、 これら出土品がボストン美術館に収納されているのではとの話等で興味が持たれた。 これに対する宮内庁の回答は従来の延長線上の主張に始終し、何ら新しい展開への踏み こむ意向を示さなかったと云える。 - 39 - 基本問題として陵墓の聖域化が我国の古代史解明の障害になっているとの指摘に対し て「静安と尊厳の保持」に支障をきたさない範囲で見学や調査公表を実施するとの一般論 の回答が現在の宮内庁の姿勢を如実に示しているのでしょう。 *限定公開の内容は? 2009 年が限定公開から 30 周年を迎えており、公開対象を示してみると全てが飛鳥期 以前で飛鳥期として 7 件あり、参考地が 8 件含まれている。 公開当初は学会からも一歩前進と見做され期待が膨らんでおり、2007 年には内規の見 直しがされ*改修工事に限定せず見学可能*立ち入り範囲は墳丘最下段テラスまで拡大 *人数が 16 名以内と限定等であり学会要望とはまだ格段の差がある。 特に調査内容は見学・観察に限定されていること、立ち入り範囲が外堤部・周辺部・墳 丘裾・付帯部に限定されていることで考古学の基本であるトレンチによる発掘調査や出土 品の採取が一切禁じられている。 特異な事例としては 1991 年・テレビ朝日で見瀬丸山古墳の石室内部写真が放映された ことで、宮内庁としてはやむを得ず 1992 年に限定公開で石室内部を公開したのが唯一の 例外である。 今後学会としても陵墓の公開運動を更に推し進める為にも文化財の保存という観点か ら一般市民の参加を呼びこみ、世論の支持のもとに文化財からの聖域という壁を破る必要 があるでしょう。 参考ながら兵庫県の陵墓参考地である吉田王塚古墳が 2000 年に、 雲部車塚古墳が 2004 年に限定公開されている。 <註> 延喜式諸陵寮:平安中期に編纂された律令の施行細則で三大格式の一つ、諸陵式は朝廷が 管理すべき山陵諸墓に関する記述 限定公開:宮内庁が1979年に学会の要請で陵墓の保全整備工事を見学のみという条件 で公開したもので年一回程度の実績がある 追尊天皇陵:生存中には即位していないが没後天皇号を追称する事例で天皇陵として管理 されている 陵墓参考地:古文献や伝承で皇族の墓として宮内庁が指定した墳墓で被葬者を特定する資 料に欠ける陵墓 荷前(のさき)奉幣の制度:平安中期に近い時代の天皇十陵と外戚五墓に年末に奉幣を行 う十陵五墓制が規定され陵墓に奉幣することを荷前=のさきと云う - 40 -
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