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花のお江戸を歩く会
新緑の鶴見111沿 いの谷戸を歩く
「綱島公園∼太倉山公園∼師岡熊野神社 」
緊急連絡 ⇒09085837528
≪散歩道のご案内≫
「綱 島」 は、太古 、鶴 見川 が 古東京湾 の入 江だ つ た こ ろ、綱 島公 園 な どが海 の 中の 高台 に
な つて お り、州 の 中の 島、 中州 、湿 地 に浮 かぶ 島、津 の 島 とい う意 味が転 じて綱 島 に至 っ
た と言 う。江戸時代 :武 蔵 国橘樹郡 の南綱 島村 お よび北 綱 島村 で あ り、天領 (幕 府 直轄地 )
の農村 で した。
1914年
(大 正
3年 )に 温泉
(鉱 泉 )が 出 てか ら昭和
50年 代前 半ま では 、綱 島温泉 と呼
ばれ た温泉街 であ る。 また、横 浜北部随 一 の商業地 区 として発 展 し、 一 時期 、桃 の生 産量
日本 一 を誇 つた名桃 「日月桃」 の産地で もあ つ た。 しか し、周 辺 の 宅地化 な どに よ り温泉
施設 は ご く僅 か しか残 つてい な い。
今 回 は 、 お江戸 を少 し離れ 、新緑 が鮮や かな綱 島 ∼ 大倉 山 の谷 戸 を散策 します。お楽 し
み
に
。
≪散歩道 の順路 ≫
東急東横線 「綱島駅」→綱島街道→諏訪神社→長福寺
(綱 島発祥地)→ 綱島公園 T→ 桃里庵
跡→綱島古墳→ ヒノ本の広場 T(観 桜タイム)→ 陽林寺→綱島市民の森→大北谷神社跡→飯
国家住宅→市民の森梅林 (小 休息 :観 桃タイム)→ 東照寺→綱島駅→池谷家 (日 月桃発祥
の地)→ 【ランチタイム】→ 「綱島駅」⇒東急東横線乗車⇒『 大倉山駅』→大倉山記念館 T
→大倉山公園 T(観 桜タイム)→ 龍松院→大倉山エルム道→太尾神社→歓成院→大倉山駅→
綱島街道→いの池→師岡熊野神社
山駅
(関 東随一大霊験所)→ のの池跡 (ち
の池は ?)→ 大倉
(解 散)
≪個 RIIガイド≫
① 諏請神社
綱 島は昔、綱島二郎信 照 の郷 で した。永禄 の頃には近藤 五 郎左衛 門正次 を首領 とす る
綱島十 人騎 とい われ る武 国家 の家 臣たちがそれぞれ領有 していた とされ ています。綱島
十人騎 は武 田信 玄 と同 じよ うに信濃諏訪大社 の大明神 の信仰 が篤 かった よ うです。首領
は信 濃国諏訪 明神境 内の桜 の一枝 を馬 の鞭 に して馳せ 参 じ、ここ山上か ら信濃諏訪大社
を遥拝 し、武運 の長久 を祈 り、もし験 しがあるな らば根付 かせ よ、 と挿 し木 して祈願 し
た ところ、見事 に根 が生 えた とい うのです。この桜 の木 は年 を重ね大 きく育 つた と伝 え
ます。霊験 あ らたかな諏訪大明神 は、小 田原城攻 め、関 が原 の戦 で綱島十 八騎 の活躍 を
tl)
約束 し見事 に叶 えま した。慶長
10年 (1605)こ
ろ、綱 島十八騎 に よって諏訪 明神
を勧請 したのが、綱 島 の諏訪神社 の創建 であった と伝 え られ ます。
②長福寺(網 島発祥地)
長福治 の開基は綱島十 人騎頭領 の近藤 五郎右衛門正次 といわれる。港北百話 では、文禄
元年 (1592年 )戦 国時代に西国の落武者 で綱島十人騎 と言 うものがあって、その中の一人
佐 々木賀典が出家 し関東 のこの地に長福寺を開山 した とある。現在 の佐 々木昭典住職が十
五代 目にあた り世襲制 である。境内に太子堂がある。佐 々木賀典が西国か ら落ち延びた時
に太子像 を背負 ってきた とい う。 これが綱島が歴史に具体的に登場す る最初ですc
◆網島十ハ騎群
?=綱 島十人騎 の采地は、綱島台 の辺 りと思われます。采地
(さ
いち)と
は、知行地(ち ぎょうち、領地)の ことです。天 正 18年 (1590年 )に 小 田原北条氏を滅ば した
│1家 康は、江戸に入 り、家 臣へ知行地を与えて江戸周辺に配 置 しま した。近藤 五郎右衛
徳り
Fl正 次 (こ ん どうごろ うえもんまさつ ぐ)は 、300石 の知行地を綱島 の地に拝領 したとい わ
れています。近藤正次 は、綱島十人騎 と呼ばれた武 士たちの頭 (か しら)で 、文禄元年 (ぶ
んろ くがんねん、1592年 )に 綱島台の長福寺
(ち
ょうふ くじ)を 開基 (か いき)し た とも伝
えられています。
③ 網島公園 T
綱 島公 園 は、そ の緑濃 い丘の表情 が何 よ りの魅 力 だ。駅 に近 い住 宅地 の 中にま るで島の
よ うに浮 かぶ 緑 の丘 は 、地元 の人 たちに とつ ては貴重な憩 い の場 で あ る こ とだ ろ う。来訪
者 の立 場 には綱 島古墳 の史跡 が 興 味 を惹 かれ る ところだ。 丘上 の広場 には桜 の木 が 多 く、
横浜 市内 の桜 の名所 として も名 を連ねて い る。桜 の咲 く時期 にお花 見 に訪れ るの もお勧 め
だ。 → 糀里鷹跡 (茶 店諄 )
★網島古 墳 ★
径 20メ ー タ、高 さ 3メ ー タの円墳 であ る とあ ります。
横 浜市 の市指 定史跡 だそ うです が 、
5世 紀後 半 か ら末葉 ではないか と記録 され て い ます。平成元年 に発掘調査 が
な された よ うで 、墳頂部 には木棺 直葬 (椰 が無 く直接 土 中 に木棺 を納 める)で 鉄刀 ・刀 子 ・
出土遺物 か ら
鉄鏃 な どの副葬遺物 が出土 したそ うです。
鶴見川 の河 口近 くで覇権 を握 った王の墓なのか、地元 の人が古来 より『 ちょうしん塚』
と呼ばれてい るそ うなので、勅使、即ち王権 か ら派遣 された偉 い人 の墓だ ったかも知れな
いな どロマンが広がる。 →L/本 の広場 T(小 休息タイム)→ 陽林寺
④ 網島市RO森
綱島公園 と尾根を連ねた山林で、市内で 19番 目の市民 の森 です。 森内の植 生はスギ 。
ヒノキの植林、 クヌギ・ コナラの雑木林 とモ ウソウチクで構成 されています。 また、この
あた りは明治末か ら昭和 20年 代にか けて桃 の栽培 が盛んな地であつたこ とか ら、 ハナモ
モ を中心 とした花木を植 えています。
O六 北谷神社蹄
この神社跡は、慶長 4年 (1599)に 飯 田家 の祖先飯 田助太夫によつて建て られたもので、
(2)
開墾や新 田開発な どを司る神様が祀 られていま した。周辺集落 (武 蔵国橘樹郡大綱村字北
谷)の 人たちは、 この神様 を守 り神 として開墾や耕作に勤 しんで きま した。春 には五穀豊
穣 の祈願、秋 には収穫 に対す る感謝 と、それぞれ祭 礼行事が昭和 25年 (1950)ご ろまで行
われていま した。
⑥ 飯田家住宅
この長屋門がある飯 田家屋敷は、綱島台の丘の北麓に接 し、 さらにかつ ては山麓以外 の
三方 を堀で囲まれていた とい う、中世土豪館 の屋敷構 えを残す名 主屋敷 です。 このよ うな
豪族館は鎌倉 時代 か ら戦国時代にかけて多 く見 られ 、平時は山麓 の居館で生活 していて も、
有事 の際には隣接す る山上の砦に立て籠 って戦 をす る事を想定 していま した。 (注
1)た だ
残念な事に、現在 まで堀が残 るのは西側の一部 だけです が、 この堀越 しに見 る長屋門は、
主屋 と共に市の文化財に指定 されたのを機 に修復 されて、江戸時代になつて も開拓名主 と
して当地を支配 した飯 田家屋敷 の格式を今に伝 えています。 →市民の森梅林広場 (11体 畠 :
タイム)
① 東熙寺
慶安 2年 (1649年 )に 大 曽根 の大乗 寺 の三世生外意鉄 大和 尚に よつて 開 かれ た。 そ の
頃 の綱 島は広 い水 田の 中に島 の よ うに山が あ り、寺号 を綱 島 山 といい ま した 。本尊 は心 と
身体 の健康 を守 る薬師様 です。 曹洞宗 で本 山 は永 平寺 と総持 寺で 九州鹿 児 島 の薩摩藩 主 、
島津公 の信仰 が厚 く、本 堂内に島津斉 宣公 のかかれ た額 が あ ります。 歴代 の住職 も薩摩藩
の武 士の 出身 が多 くい ま した。 江戸 の商人 たちの信仰 も厚 く、境 内にその人 た ちの名 を剣
んだ石 の手洗 い が あ ります。 →網島駅
★ 網 島 ラジウム温 泉 の 由来 ★
古文書によると、綱島や対岸 の大曽根では井戸 を掘 ると 「赤水」力`
出る ことは知 られて
いたよ うである。大正
3年 に水質分析 の結果、ラジ ウム鉱泉であることがわか り、大正 6
年最初 の温泉銭湯 「永明館」が開業。鉄道 王・五 島慶太が敷設 した電鉄に 「綱島温泉駅」
を造 り、直営の 「ラジ ウム温泉浴場」 を開場 したのが、綱島温泉 の始ま りであった。泉質
はナ トリウム‐
炭酸水素塩泉 18℃ 。効用は神経痛、疲労回復、切 り傷、火傷、慢性皮膚病
な ど。湯色が濃褐色 で通称黒湯 と呼ばれた。
戦時中火 が消 えた温泉街 も、1945年 太平洋戦争終結 と共に、温泉街 。
芸者街 として復活、
観光や湯治 目的の他に、東京 の奥座敷 と呼ばれ昭和 30年 代 か ら 40年 代 の最盛期 には 80
軒 もの温泉旅館がひ しめいた。現在、綱島温泉 の名残 としては、綱島街道沿 いにある日帰
り入浴施設 「綱島ラジ ウム温泉東京園」 と銭湯 「富士乃湯」があるのみである。
③ 池谷家(日 月HL発 祥の地)
池谷家 の母家 は、安政 4年 (1857)築 造です でに 152年 を経 ている広大な建物で、江戸
時代は名主の上位、"大 惣代"を 務 められた旧家である。そ こに 15代 ご当主池谷光郎氏 ご
夫妻 が住んでお られ、邸内をくまなく案内 していただいた。
綱島は、明治 の中期頃か ら桃 の生産高で岡山と並ぶ二大生産地であつた。 この綱島桃 の
(3)
創始者は、祖父 の池谷道太郎氏 で、津 田塾大学の創 立者 。津 田梅子 の父・津 田仙 の 「学農
舎」 の紹介 でアメ リカか ら桃 の苗本 を取寄せ、また 中国 。天津か らも種 々苗木を輸入、試
「日月桃」と命名 した。
行錯誤を繰 り返 し、よ うや く綱島の土壌 と風 土に最適 の桃を開発 し、
この新品種 「日月桃 」 は、東京・横浜 の地の利 と味の良 さで、企 国にその名 は広ま り、近
郊農家で結成 された綱島果樹園芸組合は、全盛期 の大正 13年 には組合員 91軒 、桃畑面積
約 22町 歩(22Dに も及んだ。
しか し、昭和 13年 6月 台風による 4日 3晩 降 り続 いた豪雨で、鶴見川が氾濫、ツ
は壊
`畑 つ
滅 した。折か らの軍国主義 の台頭 で穀物増産政策 と相まって、綱島桃は衰退 して ゆき、
い に戦局 の悪化 と共に消滅 した。 → Iラ ンチタイム l→「網島駅 」
⇒東急東横線乗車 ⇒『大倉山
駅』
○ 太倉山由来
大倉 山は、かつては太尾村(ふ とおむ ら)の 名 もない丘で した。昭和 3年 (1928)6月 のあ
る日、その丘の上に二人 の男 が立っていま した。一人は東京横浜電鉄常務取締役五 島慶太、
もう一人は大倉洋紙店社長大倉邦彦で した。大倉邦彦は、持 っていた ステ ッキをグル ッと
回 して 、「大体 この くらいの土地がほ しい」 と言 つて、五 島慶太か ら一 山 (一 万坪 となる)
の土地を買いま した。 二人は共に明治 15年 生まれの弱冠 46歳 で した。なん とも浮世離れ
した話 です。当時 の丘の上は、畑 が広がっていて、端に村社があるだけで した。
大倉邦彦がなぜ大倉 山の地を選定 したのかは、記録が無 くて分か りません。 しか し、丘
の上に立つ と、西南に富士 山が望まれ 、東南 には横浜港か ら東京湾 が見下ろせます。かつ
ては北方に国会議事堂 も見えま した。 日本 の象徴 である富士 山と、近代西洋文明の窓 目で
ある横浜港 、首都東京 が望める太尾の丘は、東西文明の融合を 目指 した大倉邦彦 の理想 と
す る場所であつたと思われます。
★大 倉 山 記 念 館 ★
ギ リシャの神殿 を思わせ るよ うな堂 々 として重厚な意匠 の建物で、そもそ もは実業家大
倉邦彦 が 1932年 (昭 和 7年 )に 大倉精神文化研究所 の本館 として建てたもの とい う。建築
史的にも貴重なもので あるらしく、1991年 (平 成 3年 )に 横浜市指定有形文化財 (建 造物)
となってい る。
大倉 山記念館 ハ、歴史的な建造物 として、また長野宇平治設計 の作品 として、建 築 に携
わる人 、建築 に興味のある人にとつては外観や内部 の造 りも含 めて見応 えのあるものだろ
う。建 築 に興味の無 い立場 で も、 このよ うな重厚 な件 まいの建物を じっくりと見学す るの
は楽 しい。大倉山記念館 は町のシンボル にもなつてお り、大倉山駅前 か ら西に延 び る 「大
倉山エルム通 り」 はアテネ市のエルム通 りと姉妹提携 を結び、通 り沿いにはギ リシャ風 の
意匠 の建物が並ぶ。 これ も併せて散策を楽 しみたい。 →太倉山公園 T(休 息タイム )
⑩ 籠松院
大倉 山公園の梅林 となつてい るところは、元 々はこの龍松院 の地所であ つた らしい。龍
松院は小机 の雲松院の末寺だそ うだ。
(4)
① 六尾神社
旧太尾町は土地細長 く、各地区毎に氏神 を祀 り、そのため村社一社、無格社一社存在 し、
祭典参拝その他不便 の事多 く、昭和 23年 6月 9日 無格社天満社 、同人幡神社、同杉 山神社、
同神明社、同熊野神社 を村社神明社に合併 し、無格社杉山神社跡地に移転、太尾神社 と社
号を改 め全町の鎮守 とした。各神社には夫 々明治 6年 12月 村社、無格社にallし 、各神社 の
Lム 癬 l→ 太倉山駅 →網島街道
歴史は極めて古い。 →歓威院→工′
⑭ ιlの 池
師 岡熊野神社 の境 内に 「い 」 の池 、「の」 の池 が あ ります 。「ち 」 の池 は埋 め られ て大 曽
根第 二公 園 にな つて しま い ま したが 、古 くは この二つ の池 を合 わせ て 「いの ち」 の池 と呼
んでいま した。
,
① 師岡熊野神社(関 東随―太霊験所)
724年 、全寿仙人によつて開かれた と伝わ る神社。熊野山の 中腹 に鎮座 し、「関東随一
の大霊験所」 とも言われてい る。御祭神 として祀 られてい るのは、和歌山県熊野三社 の祭
神 と御 一体 「熊野権現」(伊 邪那美尊・ 事解之男命 ・速 玉之男命 また、御社紋 は熊野大
)。
神 のお使 い といわれ る 「三つ足鳥」で、人生 の導 きの神・ 足 の守護辞 として、長 く信仰 さ
れてい る。二つ足烏は、 日本サ ッカー協会 のシンボルマー クで もあるため、近年 当社はサ
ッカー神社 としても親 しまれ 、サ ッカー 日本代表 の公式エ ンブ レムのついた 日本サ ッカー
協会公認 のお守 りや絵馬が販売 されてい る。→のの他躊→太倉山駅 (解 散 )
tb)