復刻版

復刻版
bababababababababab
本復刻版は会報﹁むせん﹂第 号︵原
ご了承ください。
異なっている場合もあります。併せて
ましたが、ソフトウェアの関係で一部
また、なるべく原本に忠実を心がけ
はあしからずご了承ください。
漏れがあるかも知れません。その場合
ため校正は慎重に行いましたが、校正
テキスト化の時、誤変換が発生する
ト化して再構成しました。
本︶をスキャナーで読み取り、テキス
40
目次
﹁特別寄稿﹂中央ネットワークセンタ 坂田 所長
支部会報の発行
本部会報の配布
会員名簿の配布
電話順送表の配布
役員会および常任幹事会
平成九年度役員
伊藤貴祥さんを悼む
鈴木日出夫
山口恒孝
. . .
支部総会模様
サークル活動状況
細川重一さんを悼む
岩沢周三さんを偲んで
宮下勝己兄を偲んで
結城昭二
池田嘉文
会員の近況だより
随想
背筋を伸ばして
菊池正治
回想東京無線︵十五︶
お知らせ
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
無線支部の会員数
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
長寿番付十傑
会員の叙勲と受賞
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
首都圏無線会の動き
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
古巣の集い
超短波会、那須山へ
26 25
28
46 43 42 39 38 38
年頭に思う ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 支部長 山 根 信 義
平成五年度上半期事業実施概要
支部総会
小林健一
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
ヨーロッパアルプスを駆け巡り
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
鈴木秀明
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
松本昭一
晩夏のひとり旅
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
宇都宮無中・創設時の想い出
慶弔・お見舞い
1
6
VIII
IX
2
サークル活動
田中潤一
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
渋江靖生
南ベトナム調査隊
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
甲府統制無線中継所開局前後の思い出
富塚一朗
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
1
3
追憶
青春とは
. . . . . . . . . . . . . . . . .
5
. . .
5
2
4
7
9
25 24 24
49 48 48
52 52 51 51 51 51 51
6
3
5
VI
6
4
6
VII
6
5
7
5
1
I
3
8
II
III
IV
V
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
ハーバーサービスの会
第十二回椎柴会
支部からのお知らせ
編集後記
55 54 53
56
6
マルチメディア化・国際化に向けて大きく変化しつつあると
続形態の多様化、 地域/長距離、 国内/国際の相互参入等、
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
年頭にあたって
営業務等︶をテレコムエンジニアリング︵TE︶会社に業務
地域密着型業務︵所内系設備運営業務、専用サービス設備運
昨年は、長距離通信事業本部においても全社的動きの中で
め、NTTでは業務運営の大きな変革を進めています。
競争が地球規模で急速に進展している状況に対応していくた
このように情報通信のマルチメディア化・国際化といった
かです。
ともに、事業者間の競争も今後益々激化していくことは明ら
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
NTT中央ネットワークセンタ
所長 坂 田 好 男
新年あけましておめでとうございます。皆様には、益々ご
健勝のこととお慶び申しあげます。
今年は寅年なのに、犬の話で恐縮です。ドッグイヤー︵犬
の歳︶という言葉があります。犬の歳は一年で人間の七歳分
の歳をとると言われています。
マイクロプロセッサーなどの半導体チップの世界では、性
またLAN・WANやプライベートネットワーク構築など
移管しました。
の営業支援業務についても、よりお客様に近いところで業務
能が十八ヵ月で二倍に向上するという経験則があります。情
報通信の世界は、このように急激な変化の中にあります。N
トワークセンタを廃止しました。その結果、全国五十五ネッ
TTにおきましても、私が入社以来経験した変化、民営化も
この挨拶が皆様のお目に触れる頃には、新たな変化が出て
トワークセンタが十の代表ネットワークセンタになりました。
を行うという観点から地域通信事業本部に移管しました。こ
きているかも知れませんが、現在の情報で長距離を中心とし
今年度においても、トラヒックの監視・制御、設備の監視・
ありましたが、それ以上の変革がここ一年ほどでなされるの
た会社の現状と今後についてお話しいたします。情報通信市
制御などのネットワーク運営業務の長距離/地域一体的運営
れらの見直しに伴って、設備運営業務の大半がTE会社およ
場を取り巻く環境は、ネットワークのディジタル化等インフ
︵長距離設備の地域への委託︶、所内系設備の実施設計などの
ではないかと思っています。まさに最近はドッグイヤーと言
ラ整備の完了、コンピュータ技術をはじめとする急速な技術
エンジニアリング業務のTEへの事業化拡大、代表ネットワー
び代表ネットワークセンタに集約されたことから、県域のネッ
革新、ユーザニーズの高度化・多様化の進展、世界的な規制
クセンタ業務の全国一元化の検討などの施策を進めて参りま
う言葉がぴったりの毎日です。
緩和の流れなどを背景に、接続の基本的ルールの法制化、接
1
次に皆様の関心事であります再編成の話をいたします。昨
クの構築、全国型マルチメディアネットワークの構築、グロー
設備建設・保守については、競争力のある全国ネットワー
競争力をベースに、お客様層別に最適のサービス・商品を提
年六月のNTT法改正を受けて検討が開始され、再編成に当
バルネットワークの構築や、故障受付及び保守体制、ネット
す。平成十一年に予定されている再編成に向け、組織は更に
たってのNTTの事業の引き継ぎ、権利・義務の承継につい
ワークの一体的構築のあり方などの課題に取り組んでいます。
供すべく検討を進めています。
ての大枠を決める基本方針が十一月に公示されました。この
その他、財務、経営計画、顧客情報の管理、組織、人員な
大きく変わって行くことが想定されます。
基本方針を受けて、NTTでは具体的な実施計画の作成が行
再編成によって新たに設立される長距離国際会社は、
﹁改正
グループトータルの事業運営に当たっては、公正競争条件を
いずれにしましても再編成後の各事業会社を含めたNTT
ど多くの課題に取り組んでいます。
会社法﹂が適用されない純粋民間会社としての機動性の確保
遵守しつつ、持株会社がグループ戦略の策定、グループ統括・
われています。
及び公正競争の観点から、地域会社から独立した自前の体制
調整機能を発揮してグループ各社相互の連携を強化するとと
とによって、NTTグループとしての総合力を確保し、グルー
を確立し、新たな経営スタイル・営業スタイルを持った会社
新しい会社では既存サービスでは県間通信に係る電話・専
プトータルとしての企業価値を高めていくことが必要になり
もに、各社が自立的な機動的運営により独自性を発揮するこ
用・総合ディジタル通信及び国際通信の基本サービスとビデ
ます。
にすべく検討を進めています。
オテックス通信、ファクシミリ通信、パケット通信、OCN
い︶サービス提供を可能とする国際/国内一体型の組織を目
際の区別の無いエンドエンドでシームレスな︵つなぎめの無
営業・販売については、グローバル競争に対応し、国内国
しい時代が自分たちのものとなるよう努力してまいります。
ディア時代を築いていく非常に遣り甲斐のある時代です。新
今日ですが、NTTグループの輝かしい未来を築き、マルチメ
介させて頂きました。私達にとって大きな変化のある厳しい
NTT長距離事業の現状と今後の動きについて、簡単に紹
指し、 今後の厳しい競争環境に対応できるよう海外も含め、
皆様の更なるご支援とご協力をお願い申し上げます。
などのサービスを引き継ぎます。
独立した営業部門を持ち、グローバル水準の先端技術と価格
2
年頭に思う
支部長 山 根 信 義
平成一〇年の新春にあたり会員の皆様に心からお祝詞を申
し上げます。
無線支部は昭和四三年に設立されてから今年で丁度三〇周
年を迎えます。
この間会員数も、六六〇名に達しており、この様に発展し
てまいりましたのも、偏に諸先輩並びに会員の皆様の長年に
亘る御尽力と御協力の賜物でありまして、心から感謝申し上
げます。
の会員を擁する大組織になっています。
ところで電気通信では歴史的にも我々の先輩格のアメリカ
では、この様な組織がどうなっているかと言いますと、似た
ような組織にテレフォン・パイオニア・オブ・アメリカと言
うのがあります。
会員資格は電話会社に十五年以上勤務した人となっていま
すので一部現役の人も含まれますが、一九一一年に設立され
て現在アメリカとカナダに百の支部を置き、会員数が八十万
人に達しておりまして、産業に開連したグループとしては世
界最大と言われています。
会の目的が我々の方が会員相互の親睦等を主な目的にして
いるのに対して、アメリカでは会員に友好の場を提供すると
同時に非営利のボランティア団体であると云う事です。そし
て孤独な、または身体の不自由な人々に対して幅広い奉仕活
動が行われています。
長いアメリカでのボランティア活動は、この様な背景から生
まれたのではないでしょうか。
我が国の直面している高齢化社会では、更にこの様な弱者
が増加することになり、決してひと事ではありません。私は
3
旧友会本部では昨年来、会則の見直しを行って来ておりま
したが、これがまとまりましたので、今年の四月から新しい
会則が施行される事になります。主な改正点は次の通りです。
関東電電旧友会の名称を関東電友会に改める。
のもとに激しい競争が全世界的に展開されています。その結
冷戦終結後の今日、共産圏にあった国まで、市場経済の名
に行っていたものを喜寿、米寿、白寿の年に改める。
果資本主義の泣き所でもある貧富の差が益々拡大され、社会
八十三才以上に改める。
旧友会も今まで全国組織である電友会に所属していた訳で
すから、今回は名称が変わっただけで実質的には何も変わり
ません。
電友会は平成二年に発足しましたが、今では約八万七千名
的弱者が多数発生する事が懸念されます。資本主義の歴史の
従来八十才以上の会員を名誉会員としていたが、これを
長寿のお祝いを従来無線支部では傘寿、米寿、白寿の年
⃝
2 ⃝
1
⃝
3
アメリカのこの様な活動は、我が国でも我々の今後進むべき
方向を示唆しているのではないかと思います。
高齢化社会は日本人としても我々の世代が始めて経験する
わけですが、高齢者の問題は出来るだけ高齢者である我々の
力で解決する様に、努力して行きたいものです。
今後の高齢化社会に少しでも役立ち、そして自分自身も元
気に明るく生き抜いていくためには、なんと言っても先ず自
分自身が健康でなければなりません。
4
どうか会員の皆さん、益々健康に留意されて良いお年をお
迎えください。
M
e
m
o
平成九年度上半期事業実施概要
支部総会
をご覧下さい︶
平成九年六月二十一日 ︵土︶ 駒込の電通生協会館で開催しまし
た。︵詳細は
花島 仁吉、 野 本 繁、 岡 野 広
平 野 勉、 横井 大六、 柴田 正路、 鈴木 秀明、
大島 正治、 井上 五郎、 市川春之助、 大野 嘉之、
村 田 孟、 細谷 清二
細川 重一 様 ︵七一歳︶ 胃癌
伊藤 貴祥 様 ︵五七歳︶ 心不全
九・四・二二
九・四・一八
九・四・五
から香華をお供えいたしました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。なお、告別式にあたり支部
平成九年度上半期中に次の方々がお亡くなりになりました。
ご逝去
傘寿
米寿
た。︵敬称略 生年月日順︶
会当日支部長より記念品を贈呈いたしお祝いを申し上げまし
平成九年度において長寿の記念を迎えられた次の方々に、総
長寿のお祝い
慶弔・お見舞い
III
谷口 とま 様 ︵八八歳︶ 肺炎
小笹 慶美 様 ︵六九歳︶ 再発性肝癌
岩澤 周三 様 ︵七四歳︶ 食道癌
宮下 勝己 様 ︵八四歳︶ 呼吸不全
九・九・一六
九・七・九
九・五・七
会員の配偶者で逝去された方
様
平成九・六・一四
平成九・五・四
平成九・四・二三
岡 田 実 様 夫人 君代
様
鈴木 秀明 様 夫人 千代子 様
村 上 博 様 夫人 萠子
病気のため長期にわたり療養中の方々に支部からお見舞いを
病気お見舞い
いたしました。
伊藤登喜夫 様、鈴木 邑長 様
支部会報の発行
第三九号を平成九年六月に、また、第四十号を今回発行しました。
本部会報の配布
第五四号を平成九年六月に、また、第五五号を今回配布しました。
会員名簿の配布
平成九年度会員名簿を十一月に全員に配布しました。
電話順送表の配布
5
(3)
3
4
5
6
I
1
2
(1)
(2)
平成九年度版の電話順送表を九月に対象の全会員に配布しました。
サークル活動
をご覧下さい。
平成九年度役員
副支部長
支部長
役職名
新良貴 守︵
中村 恒男︵
山根 信義︵
・
・
・
︶
︶
︶
平成八年度︵就任年月︶
千葉地区
〃
〃
水谷 秀夫︵
駒形 郁雄︵
池 沢 清︵
高村 邦夫︵
・
・
︶
︶
︶
〃
石 原 勇︵
・
︶
︶
〃
︶
・
埼玉地区
・
〃
細川 正典︵
・
︶
6 6 11 6 6
6 4 6
各種サークル活動を展開しました。
林 憲 男︵
備 考
・
〃
東京地区担当
監 事
︶
6 6
6 11 6
6
役員会および常任幹事会
・
〃
武井 清六︵
神奈川
常任幹事
︶
佐川 秀夫︵
・
〃
・
︶
〃
吉 本 正︵
︶
〃
渡 辺 淳︵
・
︶
千葉
〃
・
︶
6 10 6 6
埼玉
〃
山崎 輝男︵
・
︶
︶
〃︵会計︶
小田切金造︵
関 政 雄︵
・
︶
︶
〃
東京地区
吉田 哲夫︵
・
6 6
・
〃
山名 照雄︵
・
8 62 2 1 8 63 4 61 6
幹 事
神奈川地区
斉藤 兼雄︵
9 4
6 9 8
IV
役員会を二回、常任幹事会を四回開催しました︵審議事項は次号
に年度分をまとめて掲載します︶
。
5 9
6 6 6
6
II
8
7
8
支部総会模様
第二九回東京無線支部総会は去る六月二一日︵土曜日︶会員一五
六名が出席し、来賓として関東電電旧友会鈴木副会長をお迎えのう
え、恒例となっている電通生協会館︵豊島区駒込一 一〇 一四︶
において開催されました。
−
又役員の改選は新
任 の 三 名 の 方々を 壇
上 に 招 き 夫々自 己 紹
介のうえお披露目と
なりました。
今回の議事は例年
とは比較出来ない程
豊富で会員の皆様の
ご 協 力 に よって 無 事
終了致しましたので、
引き続き会長表彰と
迎寿会員の記念品贈
呈が行われました。
先ず鈴木副会長よ
承認の件、 第二号議案平成九年度事業計画 ︵案︶、 予算計画 ︵案︶
議事は第一号議案平成八年度事業報告、決算報告、会計監査報告
様、高岡泰資様に会長表彰が行われ、次いで山根支部長より迎寿会
井国郎様、鈴木日出夫
者として旧役員の堀
り旧友会に貢献あった
承認の件、第三号議案関東電電旧友会東京無線支部運営細則変更の
員として米寿を迎えられた岡野広様、傘寿を迎えられた村田孟様、
て承認された﹁関東電友会会則﹂に伴って変更されるもので関係項
特に運営細則変更の件は関東電電旧友会本部第三一回総会におい
正治様、井上五郎様、市川春之助様、大野嘉之様、村田孟様、細谷
で、傘寿は平野勉様、横井大六様、柴田正路様、鈴木秀明様、大島
因みに迎寿会員は米寿が花島仁吉様、野本繁様、岡野広様の三名
平野勉様に夫々お祝い状と記念品の贈呈が行われました
目が八条項に亘る大変更で別冊﹁関東電友会東京無線支部運営細則
清二様の一〇名の方々でした。
明により次々と承認になりました。
件、第四号議案役員改選の件と盛り沢山で新良貴副支部長の提案説
総会﹂資料に基づいて議事に入りました。
次いで支部長が議長席につき別冊﹁平成九年度︵第二九回︶定期
し、一部の案件について具体的な内容を披露されました。
部運営細則の見直し︵本部会則の変更に伴うもの︶である事を強調
支部長は無線支部会員の現況に触れると共に今回の総会の柱は支
根支部長の挨拶がありました。
なられた会員一六名の方々のご冥福を祈り一分間の黙祷を捧げ、山
総会は定刻一一時の開会となり、先ず平成八年度にお亡くなりに
で本当にホッと致しました。
当日の天候は前日の荒模様の天気がウソの様に晴れ上がった晴天
−
︵案︶﹂を会員に配付のうえ変更の要旨を説明し承認となりました。
7
III
終わって鈴木副会長より来賓として次の様なご祝辞をいただきま
した。
鈴木副会長は旧友会発足三一年を迎え関東電友会のスタートと会
則の見直しを解説されると共に会員数 ︵一一、 ○五五名︶ の推移
に触れ、又アンケート調査結果に基づく施策として実施した囲碁大
会、香港旅行を披露し、最後にやがて来るNTTの再編スタート時
︵平成一一年︶、電友会組織の再編が俎上に上るであろう事を提言さ
れました。
かくて総会は一二
時一〇分無事終了し
懇親会に移る事とな
りました。
懇親会は来賓一六
名をお迎えし、総会
会場を模様替のうえ
一二時三〇分に開会
となりました。山根
支部長は冒頭NTT
宮津社長の講演の紹
介としてNTT再編
に伴うスタートの時
期 ︵平 成 一 一 年 七
月︶、東日本、西日本
の地 域 会 社 の 性 格
︵特殊会社︶
、特に長距離会社は純粋民間会社として発足し海外
進出が柱となる事を披露し開会の挨拶とされました。
次いで池田NWC次長は来賓としてNTTの再編を迎え情報通信
のグローバル化・ネットのオープン化を目標に
現地対応業務の事業化、
ネットの再編、
専用回線サービスシステムの見直し
等に触れ、目下此等の業務について緊急対応を迫られている事を述
べられました。
乾杯の音頭は古市米雄様が、NTTの再編を目前に東京無線支部
産みの親として特に発言し﹁旧友会の目的、誕生の経緯を思う時、
現行組織の統廃合はあり得ない﹂と提言のうえ声高らかに﹁乾杯﹂
と発声し宴会の幕開けとなりました。
広い会場には九つのテーブルが準備され、夫々に並べられた盛り
沢山の料理、ビール、お酒も豊富で、特設コーナーにウヰスキーの
水割りもあり、またゝくうちに賑やかな宴会場となって参りました。
周辺に椅子を並べた会場はコップを手に人の波が右に左に流れ、
来客を囲む歓談も再編にまつわる話題に集中し、無線の今昔物語に
花が咲きました。
呑む程に酔う程に健康談義、近況報告とつきぬ話に時を過ごしや
がて別れの時を迎え千野孝様の中締めの言葉と岡田秀夫様の関東一
本締めで一四時三〇分一同再会を約して散会となりました。
︵中村恒男︶
8
⃝
3 ⃝
2 ⃝
1
サークル活動状況
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
各種サークルが活発に活動しています。特に本年度からブロック
毎にミニサークルとしてゴルフ、園芸、ハイキングサークルが活躍
しています。詳細は後述のレポートをご覧下さい。
サークルリーダー、地区サークルの世話役さんご苦労様です。今
後ともよろしくお願いします。
ゲート
吉田 和衛
堀井 清男
鎌
吉
里
田孝
本正
見博
池田 嘉文
宅 ○三 **** ****
宅 ○四三 *** ****
宅 ○四六七 ** ****
宅 ○四二三 ** ****
宅 ○四七四 ** ****
宅 ○四七一 ** ****
宅 ○四七三 ** ****
ボール
岡崎 利勇
宅 ○四七一 ** ****
写 真
寄 席
新良貴 守
パソコン
宮崎武次郎
吉田 哲夫
中山 宗光
山崎 輝男
相場 直一
水谷 秀夫
福島 利雄
宅 ○四六八 ** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○四八 *** ****
宅 ○四二四 ** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四二七 ** ****
宅 ○四七一 ** ****
宅 ○四八 *** ****
東 京
千 葉
土浦 清
高橋定三郎
山崎 輝男
荒井 近信
杉沢 稔
高岡 泰資
石原 勇
堀井 国郎
武井 清六
佐野 正
宅 ○四七一 ** ****
宅 ○四九二 ** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四七四 ** ****
宅 ○四八 *** ****
宅 ○四八 *** ****
宅 ○四八 *** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○四二三 ** ****
宅 ○四二五 ** ****
一、各サークル幹事
佐川 秀夫
宅 ○四六七 ** ****
神奈川
稲葉 次夫
二、ブロック別サークル世話役
白井 靜明
宅 ○四二七 ** ****
埼 玉
幹 事
堀井 清男
行
千 葉
− − − − − − − − − − − − − −
サーク
ル 名
木村 英之
宅 ○四四 *** ****
旅
フ
ル
ゴ
ク 名
東 京
神奈川
埼 玉
世 話 役
斉藤 兼雄
宅 ○四八 *** ****
− − − − − − − − − − −
ブロッ
中村 恒男
宅 ○四五 *** ****
サー
クル
名
山名 照雄
− −
囲 碁
麻 雀
ゴルフ
絵 画
釣 り
旅 行
− − − − − − − −
− − − −
−
−
− −
−
−
− − −
−
− −
−
−
− −
− − −
9
− − − − −
−
−
−
IV
グ
ン
キ
イ
ハ
芸
園
堀井 国郎
関 政雄
内田 耕治
高柳 義雄
栗原 喜一
白井 靜明
芝崎 芳和
宮代 勝弘
小林 貞夫
木村 正道
宅 ○四八 *** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四三 *** ****
宅 ○四九二 ** ****
宅 ○四九二 ** ****
宅 ○四六八 ** ****
宅 ○四六六 ** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○三 **** ****
が近くの酒亭で乾杯した。
田川・水谷・福島の面々であった。終了後、水谷幹事の案内で七名
当日の参加者は、上記のほか松本・鹿島・石田・小高︵正義︶・
時頃終了した。
た今井八段︵三勝一敗︶及び四勝一敗の相場六段と小杉七段で一七
東 京
千 葉
大島 紀光
宅 ○四九二 ** ****
埼 玉
埼 玉
神奈川
東 京
宮内 良雄
宅 ○四七三 ** ****
夫々の方向へ帰って行った。
︵幹事 福島利雄︶
泉・田辺・丹上・水谷氏、翌朝表彰式のあと、三∼四のグループが
初段 ・ 鹿島三段 ・ 石田一級であった。 参加者は既出者以外に、 小
もあった。優勝小高︵正夫︶二段、準優勝須藤四段、敢闘賞は吉村
なった。夜の部の終了は一二時近くであったがその前に就寝した者
別室にて対戦、 階下の浴槽に浸ったあと一階広間で夕食懇談会と
湯檜曽川沿いの別館二階特
がった。
B組から須藤 ・ 小高が勝ち上
て行う。A組から山本・福島、
グを戦うが、何れも夜の部とし
へ進む。残りの者は敢闘賞リー
上位二名を選出し、決勝リーグ
B組六名が四回戦を行って夫々
から一次リーグ戦、A組五名、
名となった。午後の部は一三時
として水谷氏母堂が加わり一二
名の有志で開催したが、宿泊者
山 麓 の 紫 明 荘 に お い て、 一 一
九月二十七日︵土︶
、谷川岳
秋季一泊囲碁大会
神奈川
駒形 郁雄
千 葉
○ 囲碁サークル
有志囲碁大会
五月三十一日︵土︶
上野囲碁センターの一
一時開館と同時に、奧
の一画に席を占めて対
局開始となった。一二
時頃までに一一名参集
し、時間制限のない五
回戦︵長考派は三∼四
回︶熱戦が繰り広げられた。
− − − − − − − − − − − − −
成績は、優秀賞 山本八段三勝、敢闘賞は最後に山本氏に惜敗し
10
− − − −
− −
−
− −
−
−
− −
平成九年度、 旧友会無線支部主催の夏季麻雀大会を、 七月五日
○麻雀サークル
︵土曜日︶横浜駅に近い﹁南幸荘﹂において、実施致しました。
当日は、梅雨を忘れた晴天となり、そのうえ熱帯日というおまけ
までついた暑い一日でしたが、盛会の中に終了いたしました。これ
もひとえに愛好者皆様のご協力の賜物と感謝しております。
参加人員は二十名で五卓構成となりました。地区別内訳は、東京
成果は幹事の山崎が初優勝、二位 針生さん、三位 内田さんの順
十名、神奈川五名、千葉四名、埼玉一名でした。
位でした。
なお今回は大場さんより﹁特別賞﹂の提供があり、暑い中頑張っ
たが、その努力の成果な
く、 ブ ー ビ ー メ ー カ ー と
なった影山さんに、満場一
致で贈ることとしました。
平成十年度も、七月第一
週の土曜日に﹁南幸荘﹂で
開催致したく考えておりま
すのでよろしくお願い致し
ます。
麻雀サークル有志による
﹁連月会﹂は、平成九年度
第一回を、六月六日から七
日の一泊二日で﹁連月荘﹂
にて十四名の参加で開催し
ました。
成果は優勝が山根さんで初優勝でした。二位渡部さん、三位渡辺
さんの順位でした。
第二回は、九月五日から六日の一泊二日で前回同様﹁連月荘﹂に
成果は優勝 岩崎さん、二位は病気回復が順調な鈴木さん、三位
て参加者十一名で実施致しました。
が三回連続の渡辺さんの順位でした。
﹁連月会﹂の今年度の予定ですが、平成九年十二月と平成十年三
﹁連月会﹂は平成十年度も年四回︵六月、九月、十二月、三月︶
月の二回で、平成九年度の計画が完了いたします。
一泊二日の日程︵金∼土︶で﹁連月荘﹂において開催しますので、
麻雀愛好者の皆様の参加をお待ちしています。︵幹事 山崎輝男︶
今年の春は暖かく梅、
○ ゴルフサークル
桜、桃などの花は、例年
より一週間位早く咲きま
した。これにより、今年
度一回目の第三七回コン
ペは桜吹雪の中での開催
となりました。
当初六組︵二四名︶を
用意したところ参加希望
者が多く、前幹事の高岡
さんのお骨折りで一組増
して、七組︵二八名︶で
四月十一日︵金︶埼玉県
上尾市のリバーサイド・
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が、それもかなわず、過去
組にしたいと奮闘しました
今回から川船様、蔦様、藤田様、芹澤様の四名が初参加されまし
十四回なかった四組がやっ
フェニックスゴルフクラブで実施しました。
た。強くなった日差しと心地よい風を体に受け、全員元気にプレー
その結果は、当サークル
とで決行しました。
の初参加でも優勝が出来る
成績は、優勝 高柳義雄さんがみごと二連覇、準優勝 岩沢国男さ
することができました。正にゴルフ日和の一日でした。
ん、三位 石毛光郎さんでした。写真はスタート時に撮る時間がな
規定もさることながら、競
ェー方式の試行もあって、
から提案された、キャロウ
技とHD管理担当の梶さん
く、パーティのときに撮ったものです。
このところ参加希望者が多く、 幹事は嬉しい悲鳴を上げており
そこで、今回参加の皆様にお諮りし、参加者調整ルールを作りま
初参加の鈴木陽一さんがカ
ます。
したので、紹介します。参加者調整は、原則として次の三点により
さて、秋のコンペは、皆
ップを手にしました。
さん何かと日程のある十月
五組までのコンペ制限があるので、春の反動で参加者オーバーを
念頭に案内は、参加の回答到着順で締め切ることにしたら今度は逆
に五組を二名オーバーし、何んともヤルセナイ、キャンセル待ちに
して貰いました。
いずれにしても成績など成果については、次号に譲って楽しみに
前記のとおり、内容をよくし、楽しくする方途は種々あるでしょ
したいものです。
うが、今年︵九年︶から年会費、コンペ代を値下げし、新ルールの
採用で、唯一の喜びとなる優勝のチャンスを広げ、賞品はボールで
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行います。
新入会員は無調整とする。
CCで九月まで料金が安いので、ギリギリの二五日をエントリーし
︵幹事 吉田哲夫︶
調整させていただいた方は、次回優先的に参加できる。
幹事までご連絡下さい。
○ 神奈川地区ゴルフサークル
ゴルフの地区サークル化に伴い活動も盛んになってきましたが、
神奈川地区は従来からの湘南OMG会を継続しながら内容を充実
し、新加入の勧奨を図りつつ皆さんが楽しめる場にしたいと企画し
ています。
今年︵平成九年︶の春五月、いつものゴールデンウイーク後、昨
年袖にした湘南シーサイドで、 六組を予定し早目に案内したとこ
ろ、予想に反し、常連の大半が出られないハプニング、何んとか五
をさけ、例年どおり大厚木
ました。
参加申し込み順に参加者を決める。
新入会員については優先的に参加できますので、参加希望の方は
⃝
3 ⃝
2 ⃝
1
も広く平等に亘るようにしたいと考えています。そして、二、三年
二十九日∼三十日、一泊二
春のスケッチ旅行を五月
出展が楽しみです。
もおり、来年の酔彩会展の
の外、八ヶ岳を描かれた方
人数でしたが、夫々駒ヶ岳
堀井の皆さんで、さびしい
参加者は川原田、白井、
を狙って行いました。
日で甲斐駒岳の雄大な残雪
に一度位、お隣の静岡方面に一泊コンペの企画も考えています。
どうか仕事で忙しい方、新加入したい方、喜びと楽しみを求め、
なお、参考までホールインワンについて、あえて追記させて頂き
ストレス解消の一助に奮って参加して下さい。
ます。
無線支部傘下のゴルフ愛好家で、過去、埼玉地区︵KMG会︶で
当神奈川地区のOMG会メンバーの梶昭三さんが平成八年十二
どなたか達成されたと聞きおよんでいますが⋮。
月、ホームコースである伊豆にらやまCCでメンバーとして、パー
社﹁彩友会﹂展が昨年同様
八月には会長世話役の本
銀座のギャラリーで開催さ
フェクトなホールインワンを成し遂げました。
︵幹事 堀井国郎︶
ゴルフだけの仲間でなく我々も心からお祝いと喜びを申し上げま
れましたが、川原田会長の
力作二点以外は、皆出展で
きず残念でした。来年は是
非出展するよう皆さんと話し合っています。
八月十日より二十五日まで恒例の関東逓信病院のギャラリーに十
次いで九月十四日より二十日までテルウェル展が有楽町駅前の交
点出展し、入院されている方々の目を楽しませることが出来ました。
通会館にて開催され、白井さん、多田愛子さんが出展され、多田さ
んが奨励賞を受賞しました。
九月二十九日にTRC ・ 旧友会事務室にて絵画サークル総会を
開催しました。川原田会長をはじめ名雲さん外多数の会員が出席さ
れ、議題として、
秋のスケッチ会について、
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す。
○ 絵画サークル
絵画サークルのメインイベントである﹁酔彩会﹂展を九年四月七
日より一一日まで一週間、虎ノ門、電気通信産業連盟にて開催いた
しました。
川原田会長をはじめ故渡辺審也さんの遺作、原田、名雲、河合、
白井、堀井、山下、多田愛子の皆さん、それに佐川が出品、傑作、
力作を含めて二十点、さらに特別参加として村上博さんの水墨画三
点が出展され、連日観客で賑わい好評のうちに閉会となりました。
また一月に亡くなられた渡辺審也さんを悼んで﹁偲ぶ会﹂を会期
中の四日に開催、サークル会員のほか、無線支部長代理として新良
貴副支部長、村上さん、中村さん、里見さん、多田さんご夫妻等多
数の方々が出席され、しめやかなうちにも盛大に行われ故人のあり
し日の姿を偲びました。
⃝
1
新人の勧誘について、
には変わりがなくじっと耐えることが必要です。
と垂らしたままではまず釣れません。どんな釣りでも魚との根比べ
会員でなくとも参加は自由です。ゲストを伴って皆さんが積極的
で、来年こそ︵どこかで鬼が笑っているよ︶と考えております。
今年は若干時機を失し会員の皆様にご迷惑をおかけしましたの
て旧交を温めながらの船釣りはなかなか捨て難いものです。
談義はともかく、広々とした海の上で軽く一杯やりながら、そし
いようです。
根気よく糸を垂らし、いざ、となったら素早い手返しをするのがい
義や理由はないようです。要はジックリと魚の気持ちを察しながら
ては﹂などと言われますが、別にどちらが正しいかはっきりした定
よく﹁釣りは気が短いほうがいい﹂とか、
﹁いや。気が長くなく
今後のスケジュール、
TRCギャラリーの展示について
等熱心に論議され、特に今後新人の勧誘に尽力をするよう申し合わ
せました。
絵画サークルは楽しいサークルです。絵の上手、下手を気にせず
どんどん参加して下さい。必ず良い絵が描けるようになります。油
彩は面倒だという方には水彩をお勧めします。旅に出た時は、或い
︵幹事 佐川秀夫︶
は気に入った景色に出会った時描くのは楽しいものです。
○ 釣りサークル
︵幹事 斉藤兼雄︶
に参加して頂くよう期待してお待ちしています。
○ 旅行サークル
旅行サークルは従来支部主催として春秋二回、 春は花見、 秋は
会員の増加対策、
無線関係資料の収集、
地区別 サー クル
一泊旅行として実施して来ましたが、当支部の方針として三本の柱
︵
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平成九年度の例会は、当初七月と十月の二回実施の予定をしてい
たのですが、世話人の怠慢と天候などの関係から七月期はついに見
送りせざるを得なくなってしまいました。
現在秋期の例会に向けて準備をしているところですが、今のとこ
ろ日程は未定です。十月下旬から十一月はじめ、目当ては東京湾の
﹁カサゴ﹂で今年を締めくくる予定です。
活動の推進︶が打ち出され、その一環として平成九年度は各地区一
いつもいつも、 東京湾の小物攻めのせいかサークル会員から若
干、ソッポを向けられているようですが、外湾にでれば大物も期待
ます。
ここに﹁親睦旅行のご案内﹂としてその概要を紹介させていただき
云った視点でとらえており、秋を目前にして目下準備段階ですので
ところで秋の旅行はサークル活動と云うよりも支部の親睦旅行と
斉に春のハイキングが実施されましたので、当サークルは秋の旅行
先につけ、錘が海底をゴツゴツと叩くようにするのがコツで、ジーッ
﹁カサゴ﹂の船釣りは、
﹁アジ﹂等の小魚を短冊状に切った物を針
る結果となっています。
ある程度の釣果が期待できることなどからどうしても湾内にとどめ
のみ実施する事となりました。
⃝
3
出来るかわりに、丸坊主のオデコも、強烈な船酔いも覚悟しなけれ
⃝
2
ばなりませんので身分相応、天候とか波浪、釣り人の年齢、それに
⃝
1
⃝
4 ⃝
3 ⃝
2
実施月日 平成九年一〇月二四日∼二五日︵一泊二日︶
費 二四、〇〇〇円
滝、湯滝、吹割の滝、たくみの里
程 日光東照宮、輪王寺、中禅寺湖、華厳の滝、竜頭の
宿 泊 地 奥日光 光徳温泉 日光アストリアホテル
行
会
参加予定者 二一名
以上が秋の旅行の概要です。
本計画は従来六月の時点︵支部総会の時期︶に﹁秋の旅行のお誘
い﹂として旧友会会員を対象として案内を配付し大凡の希望者を募
り、次いで八月の時点︵順送表改訂の時期︶で参加希望者を対象と
して詳しいご案内を発送し実施しております。
したがって計画は四月頃から始めておりますので旅行についてご
意見がありましたら早目にお寄せ下さい。
︵幹事 中村恒男︶
なお今後はお互いに寄る年波を考え夫人同伴も視野に入れて計画
したいと思っております。
○ 東京地区ハイキングサークル
他地区では、既に昨年度から地区ハイキングサークルが発足し活
動しているとのことで、 遅ればせ乍ら、 東京地区も今年度からス
タートいたしました。
三月の地区懇談会で、全出席者に年間計画をくばり、欠席者の中
で、アンケート調査の際にハイキングサークルに関心ありという方
全員に年間計画を郵送いたしました。
年間計画では、四月から隔月の第一日曜日に年四回ということで
したが、四月は大雨で中止となり、六月と九月に実施しましたが、
残念乍ら参加者は極めて少ないのが現状です。
これまでの状況は次の
とおりです。
四月六日︵日︶
小金井公園
小 金 井 公 園 で は ﹁桜
祭 り﹂ が 計 画 さ れ て お
り、お花見には絶好の日
でしたが、朝から雨が降
り、駅には幹事二名と竹
之内さんが集まりました
が、残念乍ら中止としま
六月一日︵日︶
した。
臨海副都心
ゆりかもめ新橋駅に集
合したのは五名︵中村、
山名、折田、竹之内、木村・敬称略︶でレインボーブリッジを歩い
て渡り、フジテレビの展望台で絶景を楽しんだあと、潮風公園で昼
九月七日︵日︶
等々力渓谷
食、海浜の散歩を堪能しました。
暑い盛りでしたが、のんびりと等々力渓谷、等々力不動、玉川野
毛町公園から多摩川の土手を二子玉川まで散歩し、民家園まで足を
のばして昼食としました。参加者は三名︵竹田、山名、木村︶でし
た。幹事の小林さんは体調が悪いにも拘らず等々力駅に参集しまし
たが、大事をとって参加は中止しました。
︵幹事 木村正道・小林定夫︶
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﹁お花見奮戦記﹂
られています。鐘楼には金沢八景の一つ﹁称名の晩鐘﹂で有名な重
弥勒浄土を現す島があり、雨に濡れ色あざやかな太鼓形の橋が架け
め、釈迦堂や鐘楼などの間に大きな阿字ヶ池があります。池の中に
これまで神奈川地区、特に横浜在住の方は、有志でそれぞれお花
まずは金沢文庫の見学という事で、庭園脇の小さなトンネルを抜
要文化財の梵鐘があります。このお寺の裏山が花見の本命です。
○ 神奈川地区ハイキングサークル
見をして来ました。たまたまハイキングを兼ねたらどうかとの提案
け、香り高い歴史を尋ねました。案内書によると、金沢文庫は北条
があり、五月頃を予定していたハイキングを前倒しして、お花見ハ
イクと洒落たのがそもそもお花見奮戦のはじまりでした。
武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷 ︵横浜市金沢区金沢町︶ の居館内に
氏初代執権の北条時政の曾孫に当たる北条実時が鎌倉時代の中頃、
作ったもので、武家文庫としては最古のものとされています。
花見の計画は桜の開花時期が一番心配です。今年は例年より早い
の遅いのと、幹事の頭の中はその事で一ぱいでした。その上、曜日
幕府の崩壊に遇い、北条高時と共に金沢氏も滅び、金沢文庫は菩提
実時の後裔の金沢氏に引き継がれてきましたが、元弘三年の鎌倉
合わせも行事に付きもので、四月五日の土曜日と決定しました。
しかし﹁月に叢雲、花に何とやら⋮﹂で、花見に風雨は最大の難
問でした。当日の天気は、場所によってはというむらのある比較的
早朝から参加予定者に電話連絡し、とにかく集合場所の京浜急行
降水確率の低い予報でした。
金沢文庫駅前にお出で願いました。集まった方々は十名となり、そ
の頃には雨が降り始めていました。前置きが長くなりましたが、と
最初の訪問は称名寺でした。現在は真言律宗のお寺です。
にかく行って見ようという事で、雨傘を開きました。
金沢文庫を作った北条実時が、屋敷内に阿弥陀仏の念仏寺として
建立したのが始まりということで、 隣奥に県立金沢文庫がありま
す。駅から約八百米程歩いたところに総門があり、案内などが見ら
れます。
総門を入ると、参道の両側の桜は雨傘越し乍ら見ごとなものでし
た。参道のしっとり濡れた古木の花のトンネルは、歴史を語るよう
に長く仁王門まで続きました。仁王像は鎌倉時代の院興の作との事
で、皆見入りました。
仁王門をくぐると、広い浄土式庭園が広がり、正面の金堂をはじ
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寺の称名寺によって管理されました。その後、文庫の蔵書も徳川家
八景島まで少し距離があり、途中で人工砂浜の海水浴場の休憩所
で、海を眺めながら、少し遅い持参の昼食をとりました。
歴史的な話の次は近代的な八景島シーパラダイスを訪れました。
康など時の権力者によって持ち出されたようです。
県立金沢文庫は昭和五年に図書館として復興され、平成二年に七
い海水の小さな動物で、実物が流氷の中で可愛く泳ぐのが大勢の子
アクアミュージアムは海の生きもの館という事で、一階には﹁クリ
供達の頭越しに見られました。アクアチューブと言うのですが、沢
オネ展﹂が催されていました。今年の流氷期の北海道のオホーツク
さて、お花見の場所の裏山にどう行こうかと迷いました。同じ道
山の珍しい魚の泳ぐ中をエスカレータで通り抜け、二階三階と続く
百年ぶりに元の場所に戻ったのだそうです。館内には絵画、書跡の
の往復も能がないし、裏山の頂上には県立の公園があり、史蹟もあ
国宝が二十四点をはじめ、重要文化財、県重文など四千数百点を数
るとの事から、文庫脇の道を登る事になりました。登りは急ながら
のは正に圧巻でした。その後は子供心に帰って、イルカのショウに
海からの放映で有名になった流氷の天使と言われるものです。冷た
土留めのある階段で、他のグループの女性達も登って来ました。頂
拍手を送り、八景島を去る事にしました。雨は小降りながら落ちて
え、昔の生活や政治社会を偲ばせます。
上では残念ながら雨で展望も悪く期待はずれでした。それでは本命
いました。
八景島を通る無人運転、レール無しのシーサイドラインに乗り、
の桜をと降り道に入りました。自然を残した山道は、関東ローム層
終点の金沢八景駅に向かいました。駅付近でご苦労様会を開き、花
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と言うのでしょうか、粘土の坂道に程よい雨で靴の接着抵抗はゼロ
に近く、その上、馬手に雨傘、弓手にカメラでは、ゴルフの強豪も
より団子など言いつつ解散しました。
また、持って行った資料等が雨に濡れて目茶目茶となり、報告の
に次回も参加下さる事をお願いします。
参加された方々に雨中の強行をお詫びいたします。これに懲りず
スキーの名手も儘ならず悪戦苦闘と相成りました。
参加者に約一名、 山道が苦手の方がおり、 筆者はしんがりを勤
まとめが大変遅れました次第です。 これら総てお天道様のせいで
めました。桜の林に着いた時には先行の皆さんは見られませんでし
た。桜は比較的若木で、花は古い木の方が良いなど言いながらお寺
す。
︵幹事 芝崎芳和︶
の前に出た時には、先陣の勇者は庫裏の前でズボンのお尻についた
︶へ春のハイキングを計画、実施月日は五月二十三日西武
才でした。
しそうな空模様、参加者十二名の中で健脚組︵七名︶平均年令七十
池袋線仏子駅南口に十三時三十分までに集合、当日は今にも降り出
離十
風薫る五月の新緑が誘う武蔵野に、武蔵サイクリングコース︵距
○ 埼玉地区春のハイキングサークル
名誉の泥のお清めをしていました。お寺にお礼を述べ、濡れた持ち
物を気にしながら次のコースの八景島に向かいました。
八景島は勿論金沢八景に由来するもので、徳川光圀に招かれた明
の亡命僧心越禅師が、故郷の杭州西湖を偲んで詠んだ漢詩によって
有名になり、 広重の版画にも出て来ます。 先の称名の晩鐘をはじ
め、小泉の夜雨、内川の暮雪、野島の夕照、洲崎の晴嵐、平潟の落
雁、乙舳の帰帆、瀬戸の秋月との事です。
km
喉が渇くので持参した缶ビールをあけ雑談、
﹁桜山展望台﹂から
・・
・・
・・
見て、 東側池袋 ・ 新宿方面、 西側富士山 ・ 丹沢方面、 北側秩父方
・・
面、南側名産の狭山茶畑、あいにくの曇天で富士山は見えず誠に残
コースの中間点﹁桜山展望台﹂に到着、ここで小休止。
しさに親しみ、起伏が激しい曲がりくねった道を武蔵サイクリング
ん、栗原さん、そして亀崎が続き、緑したたる加治丘陵の自然の美
渡辺常任幹事を先頭に、大島さん、高岡さん、山下さん、堀川さ
おおわれた山裾に建つ、西洋風建物の市営団地宿舎、入間グリーン
ぎ、今日の目的地へ老骨に鞭打って、黙々と進む。眺望抜群の緑に
に青梅方面まで、狭山茶は葉が厚く甘味があると喜ばれている。
・・・・
私の住む入間台団地の一画にある﹁新久窯跡﹂は東金子窯跡群の
山茶、その狭山茶の栽培面積は埼玉県下一で入間市根岸地区を中心
香りの静岡に味の狭山と言われ、全国にその名が知られている狭
より急遽ゆっくり組に変
中村副支部長は都合に
ロッジに十六時四十分、︵七名︶全員無事到着する。
とされる瓦を焼いた窯跡である。この遺跡を見て八池団地を通り過
一つであり、九世紀前半に再建された武蔵国分寺の塔に用いられた
念であった。
島さんとバッタリ出合い、今夜の再会を約束して別れる。十五時三
更、町田さん、西田さん、
十四時四十五分﹁桜山展望台﹂を出発、途中入間台団地に住む川
十分﹁なかじま園﹂着、早速若葉香る一番摘みの新茶をご馳走にな
菊地さん、佐藤さん、の
り、とても美味しく味わう。
から五十分にかけ、入間
︵五名︶は十五時四十分
グリーンロッジに先着し
寛いでいた。
宴会には樋口さん、川
島さんが合流、宴席で川
島さんが旧友会に入会す
るとの話で拍手喝采、楽
しい思い出に残る一夜を
過ごすことができ、特に
夜景が綺麗で今でも目に
焼きついている。
今年の秋には県営﹁あじさい館﹂を拠点にハイキングを計画して
18
いる。
○ 千葉地区ハイキングサークル
︵幹事 亀崎光一︶
サークル発足第1回目のハイキングは﹁南高尾山陵﹂を目的地と
して平成九年五月一七日に実施しました。
年間二六〇万人が訪れるという高尾山から南東へ、津久井湖に向
かってのびる尾根は ﹁南高尾山陵﹂ とよばれています。 高尾山へ
の登山路として利用されていますが、南半分は起伏が少ないので、
子供連れや中高年に人気があり、 ここだけを歩く人も多いコース
です。
当日は京王線高尾山口駅前に八時三〇分集合としました。参加者
は池澤、鎌田、丹上さんと幹事内田及び友人知人等計一一名の賑や
かなグループとなりました。
駅前から高尾山ケーブルカーに向かう軽装のハイカーを横目にメ
ンバーの紹介後、ストレッチにより体をほぐした後ゆっくり歩きは
じめました。 ハイキングは歩くだけのようなイメージがあります
が予期出来ない場面で極端な動きをすることがしばしばあるので、
各関節や筋肉が動きやすいように温める︵ウォームアップ︶ことは
我々高年者にはケガ予防のために大切なことなので今後も続けたい
ものです。
駅を背に右へ相模湖方面に進み、三〇分程で梅ノ木平のバス停か
ら甲州街道をはなれ入沢川沿いの林道を賑やかに雑談しながら登り
ました。林道から登山道に入るといきなり足場は悪くなり左右の藪
の歓迎を受けやや緊張気味に前かがみに歩きながらもタラの芽や
三つ葉等山菜を採取しながら四〇分程で西山峠での休憩となりま
した。
三沢峠まではおだやかな歩きやすい尾根歩きとなりましたが、昼
食予定地に一〇分手前のベンチにすわり込み木立の先に津久井湖を
草戸山からはひたすら下り出発地高尾山口駅前に午後三時三〇分
眺めながらの早めの昼食としました。
ポンと飛び出し、 全員無事下山を肴にビールで乾杯し解散としま
第2回目は平成一〇年四月頃日帰りで花と温泉と自然が楽しめて
した。
手軽に歩けるハイキングをとの注文が幹事にありました。
︵幹事 内田耕治︶
︿コース﹀高尾山口駅∼∼梅ノ木平∼∼西山峠∼∼三沢峠∼∼草
戸山∼∼高尾山口駅
平成八年夏、関東唯一の中央ゲートボール場として利用してきた
○ ゲートボールサークル
池袋ハタスポーツセンターの改修工事の結果、ゲートボール場が廃
19
やっていた頃のお株を今は元々園芸の宝庫である埼玉地区に奪われ
園芸サークルもゴルフと同様地区別になりましたが、支部一本で
このため、都内での練
た感じで、神奈川地区は園芸人口は少なく今は苗付けに懸命です。
止されました。
習ができないので、ゲー
園芸はゴルフと異なって芝や草を削ったり、木の枝を折ったりす
神奈川地区はゴルフは盛んでも園芸はこれからです。 今年 ︵九
るのではなく、草木を育て鑑賞し楽しむものなのです。
トボールサークルは、年
支部主催﹁NTT関東退
年︶は様子眺めで企画し案内も出しましたが、時期的条件と重なり
一回の、テルウェル関東
職者ゲートボール大会﹂
断念しました。
春の薬師ヶ池公園一帯を遊歩、鑑賞しながら自然に親しみ、見る目
来季は東京地区の方々もお誘いして、今、人気の町田郊外にある
への参加をサークル活動
として続けたいと考えて
います。
春四∼六月 ︵ボタン、 エビネ、 ハス等︶ についてご案内は三月
を高め楽しみたいと企画しています。
に各地区の幹事さんに流しますので、どなたでも奮ってご参加下さ
本年の大会も、六月九
スパーク栃木 ゲートボール
日∼十日・会場は栃木市
︵幹事 堀井国郎︶
い。
寄せ植え・山野草
桜草・山野草
山野草・古典植物
展示品の種別
染谷菖蒲園
大宮2公園
浦和玉蔵院
川口そごう
場所
7
5
4
4
人員
県
• の行事としても有名な、浦和玉蔵院の桜草まつりには、立派
花しょうぶ
品を鑑賞致しました。内訳は次のとおりです。
平
• 成九年度前期の活動状況について、ご報告します。春の行事
は四回実施しましたが、主として、山野草及び園芸植物の展示
○ 埼玉園芸サークル
場、宿泊は、柏倉温泉太
子館で、参加九チーム四
無線チーム参加者は、牛島義男、里見博、鈴木日出夫、三須操、
十五名で行われました。
大島正治各氏と池田の計六名でした。
戦績は、第一日目予選・二勝一敗でAグループに残り、第二日目
決勝は、三位の成績でした。
退職者大会は、今回が十回目で、毎年、テルウェル関東支部より
﹁退職者文化活動のご案内﹂で募集されています。
初心者教室も有りますので、ご参加をお薦めします。
︵幹事 池田嘉文︶
ゲートボールに関してのお問い合わせをお待ちします。
○ 神奈川地区園芸サークル
20
大
• 宮第二公園での山野草展には、私も同好会員として、二十数
点の和・洋着生蘭類を出品し、皆様に見て頂きました。
な桜草の珍品が多く出品され大変楽しみでした。
られて入館⋮⋮。館内は空調が良く効いていて適温、適湿で心地よ
三、四メートルのドーム式の温室が見えて来ました。
区の武井清六さん、神奈川地区の堀井国郎さんと、総武線稲毛駅で
︵幹事 駒形郁雄︶
平成九年上半期、四月︵桜︶五月︵あやめ︶の撮影会が雨で︵身
○ 写真サークル
ゼで園芸談義に花が咲き、散会は午後五時近くとなりました。
一時間程の花の美術館の観賞の後、構内にあるレストラン・ミュ
相談のサーヴィスも行われていました。
な植物が展示されていました。又植物に関する図書室があり、園芸
この温室のまわりには付属棟があり、観葉植物・ハーブ等様ざま
に恥じない景観が、観覧者の目を引きっけます。
り、川が流れ、滝も配置されていて、そこかしこに花の美術館の名
ドーム式の温室内には、主として亜熱帯の植物が植え込まれてお
く気持ちも和みました。
自動券売機で二百円の入場券を買い、清楚な受付嬢の笑顔に迎え
落ち合い、稲毛海浜公園行きバスに揺られること約二十分、高さ十
︹
• 春の顔合わせ︺は大宮市郊外の染谷菖蒲園で行い、花しょう
ぶの鑑賞と園内の散策で楽しみました。
最
• 後 に、 会 合 の 参 加
者数は多くありません
が、遠方からまた埼玉
地区以外の園芸愛好者
の 方 に も ご 参 加 頂 き、
ご協力感謝致します。
さ
︹秋の顔合わせ︺
• て、
は、九年十月十日大宮
第二公園内・県緑化指
導センタの会場で︹秋
の山野草と即売会︺が
体は兎も角! カメラはぬらしたくないので︶流れるなど、散々で
開催されますので、作
品の鑑賞を兼ねてサー
の批評・感想をきくことが自然に技術の向上に役立っているよ
る作品のテーマも大きさも自由ですが、他の人の作品を見・皆
て、お茶とお菓子を前にして楽しい一時を過ごします。持ち寄
ロンで開催しています。 旧友会の主旨に基づき懇親を旨とし
原則として偶数月の土曜日の午後、NTT関東支社のOBサ
一、月例会
したが、会員二十一名和気あいあいと活動を続けております。
︵幹事 大島紀光︶
クル会員の皆様と交流
を深めたいと企画致し
ました。
台風の余波で時折驟雨の降る七月二十七日、千葉市の稲毛海浜公
○ 千葉園芸サークル
園内にある、花の美術館を訪ねました。
千葉地区からの佐藤千代五、岡戸保雄の皆さんに加えて、東京地
21
うです。また十二月は場所を変えて忘年会を兼ねるのを恒例と
しております。
共済会関東支部主催の余技作品展は毎年九月に有楽町の交通
三十日の月例会の際に記念撮影したものです。
会館で行われますが、本年も当サークルから六名が出品して
三名が入賞しました。写真︵下︶は入賞者と作品です。芹沢
雅生さん︵左端︶は昨年に続いて特別賞、吉田清三さん︵中
央︶も特別賞、吉田哲夫さん︵右端︶は始めての出品で努力
賞と大活躍でした。
この作品展写真の部は、全出品者二十一名、入賞者七名で
したから、当サークルの成績は立派なものと自負して居りま
す。なお、昨年も三名入賞でしたから、安定した腕前と言え
ますが、来年はもっと頑張りたいと思っています。
四、幹事の交替
平成九年二月に亡くなられた森山勝巳さんは当サークル結成
時から幹事を引き受けて下さっていましたので、その補充と、
一部交替を含めて、四月の月例会で次のように幹事を決定いた
しました。宜しくお願いします。
堀井 清男︵○四六七 ** ****︶ 留任
− − −
岡崎 利勇︵○三 **** ****︶ 新任
−
二、撮影会
誰もが楽しめるテーマとして花や紅葉を対象に、日帰り撮影
○ 寄席サークル
こんな時、浮き世のうさを忘れ、一時の笑いの時間をすごすのも
行政改革も出来るのか出来ないのか、全く八方ふさがりです。
最近は、世の中不景気で会社の倒産も多いとか、政治も不透明、
︵幹事 吉田和衛︶
吉田 和衛︵○四三 *** ****︶ 新任
−
22
⃝
2
﹁寄席サークルへのお誘い﹂
−
会を年に三∼四回、一泊二日を一∼二回実施します。内容は月
例会で出席者の意見をもとに幹事が選定して手紙で全員に通知
一〇月一一日 昭和記念公園︵立川︶
します。現在の予定は次の通りです。
一一月七∼八日 箱根
三、作品展
NTT関東支社正面玄関横の廊下に、絵画と交替で年に三∼
四回、毎回十∼十二点を展示しています。写真︵上︶は八月
⃝
1
絶大なるご協力とご援助によるものでこの場を借りてお礼申し上げ
新しいパソコン整備については、パソコン倶楽部の近藤昭次氏の
幹(事 新良貴守
一応気分転換のあと、御希望の方々は席をうつし、一パイやりな
ます
気分転換になるのではないでしょうか。
︵一時的だとは思いますが︶
がら旧交を温めることとして居ります。
年に一回のことですが、御参加の皆様からは、大変好評をいただ
いて居ります。
毎年、なぜ上野鈴本なのか? との御質問をうけることがありま
す。寄席は上野ばかりではないのですが、最近は各寄席も近代化が
すすみ、寄席での飲食が出来ないのです。それが出来るのが上野鈴
木のみの様なので毎年ここでやらせていただいております。やはり
耳で咄を聞き、口にウマイ物や酒類が入らなければ楽しみが半減す
るのではないかと思われます。
まだ寄席サークルに御参加のない方々もぜひ左記世話係に御連絡
〇 パソコンサークル︵パソコン倶楽部︶
パソコン倶楽部の活動は、新しいパソコンのFAX通信の整備が
号に紹介した
ほぼ完了し、インタネット通信の準備も、プロバイダーの選定も終
たいと思っています。
日開催が困難となりましたのでウィークデーに数回に分けて実施し
定例の勉強会は、TRCのセキュリティの関係で従来の様に土曜
が必要ですのでもう少し時間がかかると思います。
思います。尚、ホームページの開設は、情報の種類、内容等の検討
念願のインタネット通信の実践が自由に楽しめる様になっていると
わり本会報が発刊される頃は、 会報 ﹁むせん﹂ 第
39
)
23
下さる様お願い致します。なお、今年は十一月十五日予定ですので
間に合いませんが、来年は是非参加して下さい。
幹事 鎌田 孝 ○四二三 ** ****
− −
〃 吉本 正 ○四七四 ** ****
− −
∼∼∼∼∼∼∼∼∼
追憶
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
伊藤貴祥さんを悼む
山口 恒孝
︵東京TV中継センタ八年退職︶
大変失礼ではありますが、
﹁イトウタカヨシ﹂さんと呼ばれるよ
りも﹁キショウ﹂さんの愛称? で呼ばれることが殆どではなかっ
たかと思います。昭和三三年に座間特別統制無線中継所の採用との
ことですから、私より四年先輩にあたります。
伊藤さんは平成七年三月に東京テレビジョン中継センタ設備部長
を最後にNTTを退職し、NTTDoCoMoに再就職され、無線
基地局の用地取得の折衝を担当、ご活躍されておりました。
とは夢にも思っていませんでした。翌日、ご子息から亡くなられた
との電話を頂いた時はとても信じられない事でした。
伊藤さんは、私の大先輩でありますが、同じ職場で一緒に仕事を
させて頂いた期間は殆ど無いにも関わらずいつもご一緒する事が多
く、 特に鈴鹿電気通信学園での教官時代には二人共、 単身赴任で
あったことからよく酒を酌み交わしながら色々な事を指導して頂き
ました。
伊藤さんが鈴鹿学園時代、深夜まで実習室で翌日の受持授業の準
備をされている姿、他の教官と好きな囲碁に熱中されている姿、昼
食もそこそこにグランドに飛び出してソフトボールに興じておられ
た姿を感慨深く思い出します。
NTT在職中は色々な職場でご活躍されましたが、TRCには四
七年テレビジョン部操作課切替係長、六二年第二テレビジョン部回
線運営課長、平成五年設備部長と三回勤務され、設備部長時代には
テレビジョン中継業務の豊富な経験を活かして、MASCOTシス
のサービス開始の指揮をとられた他、 本社テレビ映像部
の課長を兼務し、当時反対の声が強かったテレビキー局へのECC
テム
端末︵お客様宅内設置端末︶の導入に持ち前の折衝力を発揮して貢
現TRCの若生所長が発刊された﹁テレビジョン中継サービスこ
献されました。
の一〇年﹂にも、伊藤さんがご活躍されている姿の一部を垣間見る
ことができます。
伊藤さんは、私にとってこれまで身近に接してきた人びとのなか
で、人生や仕事のやり方の上で影響を受けたおひとりであります。
淋しがり屋の面もあり、若い世代との付き合いを大事にされたと思
います。
24
私がTRCの回線サービス部に在職中は日に1∼2回電話があ
り、電話を受けてくれる人から﹁定期便です﹂と言われる程電話を
頂き、退職後の仕事の状況等をきめ細やかな話を聞かせて頂きまし
た。ただ一方的に言いたいことだけを話すと﹁それでは忙しいから
また﹂と切ってしまう電話が殆どでありました。
その伊藤さんからの電話がプツンと切れてしまい、
﹁どうしたの
かな﹂と心配してるところに﹁入院しているので電話ができなかっ
た﹂との連絡を受け、直ぐに入院先の東京逓信病院に見舞いに伺っ
た。入院中の病人とはとても思えないほど元気で仕事の事、ご家族
の事等話され、また私の私的なことまでご心配を頂きました。
亡くなられる前日にお見舞いにお伺いさせて頂きましたが、その
時は容態が急に悪くなったとの事で話ができませんでしたが、奥様
の﹁山口さんがお見舞いに来てくれましたよ﹂の呼びかけに目で頷
いてくれたのが分かりました。それがまさかの最期となってしまう
−
III
V
点が多く、不合格になる処 誠意を以て事にあたり無事納品したこ
と、又、大阪万博の際、電電公社が日本初の大型画面映像を、ST
Lにより伝送しました。
日本電気︵株︶製造の装置STL、TW117 RW117を使
用したが安定せず、あなたが総指揮し無事に本伝送を終了させまし
た。このことは現場検査員時代に得た技術指導を充分発揮した事と
思われます。
一方、どの職場にあっても、老若男女を問わず面倒みが良く、人
情みに溢れたお人がらであり、酒を愛し、私達友人と共に杯を手に
し、世間話を肴に大いに語り合いました。だがそれもできなくなっ
てしまいました。
昔話の語り相手も次々と他界され、今ここに頼みとしていたあな
たを黄泉にお送りしなければならない私達友人の寂しい気持ちを、
どうぞお汲みとりいただきたいと思います。
思えば、電気通信事業一筋のご活躍によりあなた様の残されたご
あなたが生前、 私達に与えられました深いご友情と、 共に睦み
功績は誠に偉大なもので、言葉に尽くし得るものではありません。
合った交遊の様々な位相が、走馬灯の様に瞼に浮かんでまいります。
合掌
″
最期のお別れの時が来ましたご家族の方々とも、別離です。
″
マロさん、俺は宇宙に旅立つよ、先輩の処に と、呼びかけて来た。
″
細川さん、サヨーナラ
さようなら心より安らかな旅立ちを祈ります。
︵江古田統無中四八年退職︶
私と宮下兄とは、昭和二十一年末、戸塚分局で施設運用の責任者
池田 嘉文
宮下勝己兄を偲んで
″
︵渋谷統無中五五年退職︶
御霊よ静かなれとお祈りいたします。
細川重一さんを悼む
鈴木日出夫
謹んで、唯心院圓覺重光居士のご冥福をお祈り申しあげます。
四月十八日電電旧友会無線支部電話順送であなたが十六日胃ガン
にてご逝去されたとの悲報を伝えてきました。
今年も年賀を戴き、無病息災にてお過ごしのことと思っていまし
たのに、ただ茫然と暫く立ちすくみ青天の霹靂に見舞われた思いで
した。
顧みますれば、あなたは終戦後まもなく東京逓信局工務部無線課
に入社されました。
当時電気通信の領域で無線通信が脚光を浴び始め、大容量、高速
通信の長距離回線としてめざましく発展し伝送路の花形として台頭
してまいりました。
この発展途上で通信局での現場指導には、大変な苦労を伴ったこ
とと思われますが、強靱な気概と指導力でよくこれを乗り切り、電
気通信網の一翼を担う無線伝送路として短い年月の内に大躍進を成
し得たのも、あなた方の努力の賜物で電気通信事業に残されたご功
績は真に大きいものがあります。
入社後まもなく、現場検査員を任命された新進気鋭のあなたは、
″
工事要領手引手帳 を手に工事現場に到着し沈着、精励、行動的
″
に検査し指示書を請負業者に渡しました。現場の監督者は工事に精
通しているので逆襲され口論となった。しかしあなたは天下の細川
であると言い一歩も引かなかったとの逸話があります。
日本電気︵株︶に転出後、電電公社へ納入する装置の一部に問題
25
戸塚時代の五年間の思い出は、銅線類の盗難騒ぎと私の結婚は別
と部下としての出会いが初めてでした。
として野球部を作ったことです。
戦後のスポーツとしていち早く野球が芽生え始め、プロスポーツ
と同時に、地域、職場での輪が広がり、戸塚無線に於いても戦前の
野球愛好者が集まり、米軍払い下げの野球用具を古道具屋から買い
求め、戸塚無線チームが結成されました。
戸塚野球チームの首領は、何と言っても宮下兄でした。
ピッチャー宮下、私も戦前のキャッチャーの経験を生かして女房
役を務めましたが、兄の投球ホームは独特で、当時としては奇異の
感がありました。
戸塚時代の一齣をもって生前の兄を偲び、ご冥福をお祈りします。
追記・余栄については、海軍時代、勲六等瑞宝章を授受されてい
︵新潟無線部二八年退職︶
るため取り上げられませんでした。︵本社︶
岩沢周三さんを偲んで
結城 昭二
去る七月九日岩沢さんご逝去の訃報に接し、一瞬我が耳を疑いま
した。それもその筈、丁度二週間前の六月二七日私が癌で入院中の
岩沢さんを見舞ったとき、氏はいとも元気な姿で車椅子を操り院内
の庭を散歩し乍ら、病気見舞いの雰囲気とは逆に歓談し握手を交わ
し、お互いの息災を誓い合ったばかりで今日の運命は全く考えられ
岩沢さんは昭和十五年逓信省横浜工務出張所無線係に採用され、
ませんでした。人生は正に無常なり。
その後軍隊生活を経て、復員後逓信省に戻り無線業務に精励されま
した。
マイクロルート工事に献身的に貢献されていました所、昭和三七年
十月東海の作手局の転落事故で足腰に痛手を受けられましたが、幸
い大事に到らず完治後も足腰の後遺症を考慮して、営業部無線担当
に変わり技術営業の手腕を遺憾なく発揮された事は誠に偉業であり
ます。
満六〇才の定年後は日通建関連企業の役員として経営に、又後輩
思えば岩沢さんと私の出会いは、昭和二八年私が新潟無線部から
育成に盡力されました。
日通建に入るとき、伊那無線通信部長様が岩沢さんに電話された事
26
今にして思えば、米大リーグの野茂投手にそっくりで、地域野球
大会、無線管内対抗大会では注目の的とされました。
特殊環境下の職場レクリエーションとして職場対抗、米軍との対
抗戦は、戸塚で育った多くの人にとって、野球の宮下と同時に、些
昭和二七年・発足間もない日通建︵株︶に入社され早速・東 名
阪間マイクロの工事長として活躍されました。その後も伸びゆく
−
細なトラブルに於いても、米軍事務所で、石井局長と一緒に釈明し
ている兄の姿が心に残っていることと思います。
戸塚時代の一大事件も忘れることは出来ません。
第一回目の機械棟火災では、自警消防団のホースの連結の緩慢さ
に業を煮やし、職員を指揮して直接消火活動をした武勇伝も伝えら
れています。
兄は、 体調の不調で昨年入院加療中のところ、 今年の春、 自宅
療養が許されていましたが、病根による痛みは治まらなかったよう
です。
而も、前日は理髪をされて翌日の他界とは、兄らしい一徹さを垣
間見たような感慨です。
−
に始まります。その内容は後で判りましたが﹁面識のない結城君だ
がよろしく指導してくれ﹂とのことでした。
それが有ってか、昭和三十年東 仙間マイクロ工事で、岩沢さん
が黒石局、 私が那須局を担当することになりましたが、 岩沢さん
は私への指導責任と東京無線様への愛着からか、しばしば那須へお
出でになり私を直接指導する傍ら当時の加藤所長様、広川︵三雄︶
監督様に種々取りなして戴きましたことは今も忘れることは出来ま
岩沢さんは仕事には情熱を注ぎ、誠実を貫き、時には忙中閑を求
せん。
め酒、演歌︵カラオケ︶を嗜む所謂、我が道を行くお人柄で多くの
人に感銘を与え愛されたことと信じます。当世七三才は未だお若い
別離の傷心去りやらず、今は唯 往時の岩沢様を偲び、心からご
です。
冥福をお祈り申し上げます。
27
−
M
e
m
o
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
会員の近況だより
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
今回は、平成十年度に干支を迎えられる会員の方々から次の様な
︵古河統無中五八年退職︶
近況をお知らせいただきました。
︵五十音順︶
青木 善二
新年明けましておめでとうございます。
現役中は大勢の皆様に助けられながら無事退職し、あれから十五
たば
年、歳月の流れは全く速くて一年一年でなく束で過ぎる感じです。
この間、私の家族も子供二人が国内外バラバラ在住ですので、体
力のあるうちにと、時々旅行に出かけたりする夫婦二人の生活です。
︵関通五八年退職︶
入出力作業のアルバイトをしてボケ防止につとめております。
今井 誠一
古希を迎え、サラリーマンから年金生活に。生活パターンも家事
の手伝いと趣味らしきものをいろいろ模索しています。
一、俳句 ︵或る結社に所属して十年余り、 毎月投句しております
が、あまり上手になりません。詩心が乏しいのかも︶。
二、囲碁︵月刊誌﹁棋道﹂を二十年来購読しており、段位認定テスト
に毎月チャレンジしてますが、参段で足踏みしたままです。
︶
。
以上︶の
踏破する。 いたって体調
程度︵時には三〇
前後自主ウォーク。 土曜、日曜日には例会
三、ウォーキング︵日本歩け歩け協会の会員として傘下の歩こう会
に所属。毎朝八
として月四、五回一〇∼二〇
コー スに参 加し一年 半で四 五〇〇
ス︶に励んでおります。
このように家事と天気と趣味らしきものと適宜組み合わせ、
結構忙しそうな毎日を元気にすごしております。七回目の干支
にも近況をお伝え出来ればと思っております。
︵唐ヶ崎統無中五七年退職︶
日頃役員の皆様方にはお世話になり、お礼申し上げます。旧友会
大島 紀光
の皆様、いかがお過ごしでしょうか。お陰様で小生も七十一才を迎
五年前に仕事から離れた後は専ら趣味の園芸に入れ込み、地元の
本電信電話公社、 そして株式会社にと組織も変わり、 短波、 超短
大宮植物同好会にも所属して、植物の探訪旅行や山野草展等に参加
えましたが、家内ともども元気な毎日を送っております。
ていきます。五十年という年月アッという間ですね。幸い健康で第
波、極超短波とめまぐるしく進歩し、ポケベルや自動車電話の電波
一、第二の人生を卒業して現在は近くの新聞専売所で、オフコンの
28
その後時折、人間ドックを受けますと﹁ここと思えばまたあちら﹂
で、必ず何処かがひっかかり、無罪放免というわけに行かず、月一
は良いです︶
。
域社会、文化生活への参加に努めたいと思う昨今です。
︵関通五八年退職︶
旧友会の皆様の相変わらぬご交誼を今後ともよろしくお願い致し
ます。
伊藤 嘉明
生を受けて、六回目の寅の干支を迎えることになり、一応大正、
昭和、平成と三つの年号を経験した事に感慨をいだいております。
km
四、市役所主催の各種講座に参加、 目下郷土史講座 ︵九ヶ月コー
のゴルフならぬ通院です。これからも健康管理に留意しながら、地
km
法申請書を苦労して作った事が走馬灯のように頭の中をかけめぐっ
思えば、丸の内工務出張所無線係に奉職後、逓信省、電通省、日
km
km
VI
するなど、結構忙しい日々に明け暮れております。旧友会園芸サー
クルでも、より交流を深めたいと活動しておりますので、宜しくご
支援の程お願い致します。
︵長者町報和四六年退職︶
皆様のご健勝をお祈り申し上げます。
大場 清次
﹁還暦までは生きたいね!﹂と戦時中、宿直の晩に友人と沁々 話
︵千代田統無中六〇年退職︶
偖、平成十年に七十二才になります。年男の心境を下手な短歌に
むたび
て申し上げまして失礼致します。
寅年を六度迎えるお正月
ひたすら願う平穏な年
小野瀬 謹
日頃地区役員及び旧友会の皆様には色々とお世話になっておりま
人生の仕事も平成九年一月をもって終了しました。平成三年には妻
五十九年の退職後東関東サービス会社に入社しましたが、第二の
す。心より厚く御礼申し上げます。
ぎ、五十余年に亘って親しんだ電気通信関係の仕事がどうにか無事
に先立たれ、現在は毎日孤独な生活を送っておりますが、元気で趣
し合った事は、 今でも忘れられない。 その還暦も何時の間にか過
に過ごせたのは、周囲の皆様のお陰で本当に有り難い事と、感謝を
″
くお願いします。
︵前橋統無中五八年退職︶
健康に留意し張りのある生活を心がけていきたいと思っています。
″
追伸 市名が秋川市から﹁あきる野市﹂に変わりました。よろし
ます。また妻と旅行、ハイキングにと欲張っています。これからも
為中断していますがインターネット通信に参加したいと頑張ってい
風邪から顔面神経マヒになり現在リハビリにいっています。その
往復しています。
機会があり山梨に土地をもとめ、草花、野菜作りに車で一時間半
スシづめの電車から開放されて早四年になります。
筆不精の私、初めて筆をとります。
ありがとうございます。
役員の皆様には何時もお世話になっています。
神長 守男
最後に皆様の御健勝をお祈り申し上げます。
味の菊作りに頑張っております。
しております。
曾て、尊敬する先輩より﹁折角年寄りを大切にする世の中に成っ
たんだから慌てて死ぬなよ⋮﹂ と言われ、 私もついついその気に
なって先般パスポートまで貰いましたが、 寄る年波には逆らえず
﹁頭以外は特に悪い処は有りません⋮﹂との日頃の挨拶も最近では
差し控えて居ります。
日常の生活にも何かと年齢を感じる事が多く、古い諺が妙に気に
なったり、神様に親しみを感じたり、高尾山薬王院に月詣りをした
だけで万事安泰と信じたり、兎に角生活が神妙になっております。
好きな旅行や諸会合にも﹁年齢相応なものを選べ!﹂との友人の
忠告や、車の運転には﹁少しは齢を考えたらどう!﹂などと、家族
的批判も有りますので、何事も無理をせずに、而も慌てない様に致
したいと思っております。
︵中野統無中五四年退職︶
今 年 は 寅 年、 会 員 諸 兄 の ご 発 展 と ご 多 幸 を 切 に お 祈 り 申 し 上 げ
ます。
小川 淳
29
広げ始めました。その間、こちらの身が修理や養生に大忙しの毎日
日除けにと植えたガジュマルが十余年してやっと屋根の上で枝を
岸 豊
時代とは全く異なった世界で苦労もありましたが私には勉強の連続
関係の業界に入り、親戚の石井材木店の仕事を手伝いました。現役
ない世界に入りました。約十年間は祖父時代の家業でもあった木材
係の仕事をさせて戴きました。それ以降は、NTTとは全く関係の
りました。十七年のうち最初の二年間は、関東通信輸送でNTT関
︵東京無線部五九退職︶
でした。昨年接ぎ木したハイビスカスに今年は紅白の花が一枝でも
大きな声でドナッて歌ったものでした。フッと気が付いたら自分が
小学生の頃﹃村の渡しの船頭さんは、今年六十のお爺さん⋮﹄と
︵池袋NWC二年退職︶
それでも都市部を離れると何かホット出来る自然、雰囲気が魅力
その年となり、毎朝洗面所で鏡に映る白髪を見て納得せざるを得な
小泉 良介
独りぼっちと妻からは云われております。
現役時代は電電の仕事仕事、いまは地域の仕事仕事で、私は一生
十年来の懸案でありました﹁山車の保管庫﹂も完成しました。
た。その分今お返しをしていると自負しております。昨年は地域四
ます。生まれ育った地域に今迄はただただお世話になるばかりでし
最近の五年間は、 専ら地域社会への恩返しに全力を盡しており
でした。
咲くのを楽しみにしています。体調と天気次第の生活です。
︵本社五六年退職︶
支部の方々には何時もお世話になり厚くお礼申し上げます。旧友
会の皆々様の御長寿をお祈りします。
木村 吉朗
平成三年九月ふらりと日本橋を出発し、二十二日間で旧東海道を
歩けたのに力を得て、 日本列島縦断、 四国八十八ヶ所を巡り、 子
供の頃に過ごした東北の自然に比べても遜色のない、本当の自然が
残っている地域がなんと狭くなった事かと淋しい思いをした事が思
で平成八年十一月十一日までに日本列島を略一周することが出来
くなっておりました。
い出される。
たのは、 健康と脚力に加えて家族の理解があったからと感謝して
ほど休んでおりました。
ゴルフを始めてから三十年ほど熱中しておりましたが、ここ六年
いる。
ところが平成八年の暮れに一段落とホットしたせいか体調を崩
し、昨年は体調の回復に努める一年に終わってしまった。六度目の
先日、急に始めてもと数日間、身体の準備をして練習場へ行き、
極軽く打ってみました。全てのショットが情けないばかりでなく、ド
寅年を迎える今年からは、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヵ所、秩父
三十四ヶ所の百観音をゆっくり歩いて巡り、新しい発見と感動の旅
ライバーショットなどは息切れがして振り切れたものではありませ
しまうと、驚くほど退化してしまう事を思い知らされました。
人間・筋肉に限らず身体全体の活力は、必要以上長期間休ませて
ておられるのを見てガックリいたしました。
ん。ちなみに他の打席で年輩の方がそれなりに良いショットを打っ
を楽しみたいと考えております。
︵水戸統無中五六年退職︶
どうぞ皆さんも少しでも多くの歩数を歩き元気にお過ごし下さい。
栗原 喜一
長い間、お世話になった電電公社を退職して早くも十七年目とな
30
スロー空港に着いた翌日がダイアナ妃の葬儀とのこと、娘の家から
偶然にも元皇太子妃の事故があった日に出産となり、私共がヒー
十分位でバッキンガム宮殿があり、私も見送ることが出来ました。
﹁今年こそと思って、もう七十二年なり﹂
本年は干支が寅であり、大いに頑張るつもりです。
なので、○○グラムオーバーし元気です。
三週間もあっと言う間に過ぎ帰国するときは、孫の体重が女の子
こんな機会を作ってくれたのは孫のおかげかな。
無理をせず、年令・体調に合わせて日々身体を動かすこと。この
・・・・・・・・・
事が﹃年はとっても⋮⋮元気一杯櫓がしなる﹄につながることを改
︵中央NWC四年退職︶
めて思い起こした次第です。
向後 幸作
﹁記念乗車券を集めて三十五年﹂
来年は寅年とテレビで知り、びっくりするやらがっかりするやら
昔流に言うなら老年期に入ること、夢も希望も消えうせてしまい
複雑な心境になりました。ついに来た還暦!
無線旧友会にはいろいろとお世話になっております。
︵川崎報話四九年退職︶
年会費︵三千円︶ご返送いただきありがとうございます。
斉藤 亮
思いますが、鏡に映る実写にはどうすることも出来ません。考えて
今後ともよろしくお願い申し上げます。
ました。いつまでも若くはつらつとしていたいのは誰もの願だとは
みれば私が鉄道の記念乗車券の収集を始めたのは、昭和三十七年横
会の発展を祈っております。
︵東京無線部五七年退職︶
浜無線送受信所に勤務していた時でした。相模鉄道の車両百両突破
境野 春衛
記念乗車券の購入が最初でした。
あれから三十五年間、北から南まで発売情報求めて活動し、購入
感がわきます。考えてみれば記念乗車券購入のための﹁年休﹂が一
同一線路・同一会社ということも増え、長い歳月がすぎていった実
新線開通記念で購入した乗車券と、廃止記念で購入した乗車券が
の寅よ﹂と返されると形無しで、夫婦の会話も事欠く始末です。こ
らない。女房に﹁五黄の寅とは何んだ﹂と聞くと﹁貴男はマルマル
と云われるともうチンプンカンプンで、どういう字を書くのかも知
なれた言葉であるが、母に﹁お前は五黄の寅だよ、二黒土星﹂など
今年の干支は﹁寅﹂である。我々の年代では干支・十二支は聞き
番多かったかとも思います。今日も長野新幹線開通・碓氷峠の廃止
ういった東洋暦にくわしい友達が職場に居て、それはもう特技だと
した乗車券で押し入れが満杯になってしまいました。
とネタに事欠きません。青春の血潮が湧くのもこの時です。記念乗
す。何んでそんな事をと言われると困るのだが、私たちも訪れる人
れはキリがありません。 寿命 ・ 体力が足りないなとあせり気味で
︵調査済四八八ヶ所︶です。さらに最近古墳調査も加わったので、こ
趣味と問われると返事に窮するのですが、 城郭調査と現地検分
感心した事を想い出しています。
︵関通五八年退職︶
車券収集が若さの糧、これからも全力で記念乗車券収集に邁進した
いと考えています。
小林 健一
昨年我が家に六番目の孫がロンドンで誕生し、女房の付き添いで
ロンドンに行くことになりました。
31
一、家 族
老妻と二人暮らし。長男は銀行員で関西に転勤中。
次男は東京の印刷会社で、広告企画を担当してい
ます。
平成九年三月で、永年のサラリーマンを卒業しま
した。
たが、一ヶ月の検査入院後、一年経ちますが、薬で
仕事、体調、ストレスが重なり心臓を悪くしまし
︵東京無線部二九年退職︶
日比谷彩友会で油彩画を出品させていただいてい
回復しつつあり、のんびり自宅で生活しています。
ます。
杉山 義一
の通知を受けました。私の小説は純文芸で詩も入っています。こう
三ヶ月ほどして書き上げ連盟へ送りました。受理され、審査の対象
シナリオにして見ませんかと電話がありました。これは又面白いと
″
に書いていたら突然日本映画製作者連盟からニッポン太平記を映画
小説四本 ︵破壊の地 ・ 世紀燃ゆ ・ ニッポン太平記 ・ ニッポン狂
″
奏曲︶ばかり書いて出版販売して次作 太陽の街 をアメリカ背景
四、趣 味
三、健 康
二、仕 事
もない無名の山岳城砦を登りながら、
﹁どうしてこんな事になって
︵関通五六年退職︶
しまったのかな、変わり者の夫婦だね﹂と言って、妻と笑いながら
ヤブコギをしています。
塩沢 惇隆
高めの血圧をコントロールしつつ、聖書を勉強したり、伝導奉仕
︵東京無線部五六年退職︶
にも励んでおります。また、趣味として、年に一、二度、旅行や山
登りを楽しんでいます。
芝崎 芳和
﹁虎は千里の道を往き、千里を帰る﹂と子供の頃お袋に言われた
のを思い出します。寅年生まれは志を大きく持てということだと肝
に秘めて故郷を出ましたが、寅さんの唄ではないが、奮闘努力の甲
斐もなく、古希とやらをも過ぎました。
今は猫のように物理的にも精神的にも、小さなテリトリー内をう
ろちょろし乍らスーパーで餌を買ったり、洗濯をしたりで毎日を生
きているような気がします。
しかし、自分の勉強のためと、これまで得たものが、少しは若者
達の役に立てばと、恥をかきながらオカムラ技術短期大学校という
企業内の教育機関の雇われ講師を続けています。
″
友と話すのが一番楽しい集いよ。
か、友ありふざけ戯れる。又楽しからずや。OB会も食って飲んで
″
食事を自分で作ることが多いですが、ストアものは自分に向くよ
いうのを映画にしてくれないかと賛辞応援を頂いていますが、題名
″
を 天馬の旅 と改題しました。
気が付くと、早 古希を過ぎての干支を迎え、高齢社会の一員に
うに味付けを替えてます。酒やビールや酎・ウィスキーなど時によ
″
り変えて適量にいただきます。 人生は食うために なんて友と話
︵渋谷統無中五六年退職︶
組み込まれたことを感謝して居ります。現在は、時々顔を見せる孫
白井 靜明
達を楽しみにしながら、地域の福祉事業に追われる毎日で、民生委
す。いいヒントだと友は云う。政治や哲学だなんて云うなんて野暮
︵本社四四年退職︶
員を十四年続けています。
皆様の益々の御健勝をお祈りします。
須賀 連七
32
秋の薔薇定年後で咲く男
還暦を迎えて
なりました。退院する時院長から﹁これからは、気持ちを強く持っ
顧みますと二十年前腎不全に罹り、人工透析に頼らざるを得なく
いつの間にか還暦の年を迎えていました。
役員の皆様には何時もお世話になっております。早いもので退職
て生きて下さい。そうすれば五年位は生きられます﹂と云われ、当
︵中野統無中五八年退職︶
して半年が立ちましたが、夫婦二人朝のラジオ体操、ウォーキング
時次女がまだ小学四年生でしたので、どうして良いか分からなくな
高岡 泰資
から週一の水泳を日課とし、時たまのドライブ、旅行等を楽しんで
孫と遊ぶ余生を送って居ます。
遠山 元
︵東京無線部五九年退職︶
階ですが、食事は孫も加えて賑やかにとっています。外孫は高校生
何時もお世話になっています。長男家族と生活し、起居は上・下
︵宇都宮統無中五九年退職︶
され、いささか照れくささを感ずる今日此の頃です。そして三才の
市から敬老会の案内や、孫娘が書いたと云う運動会の招待状を渡
事を楽しみにして居ります。
OB会の麻雀、囲碁サークル等に参加する事や、家族と旅行する
健康維持の為始めた家庭菜園で野菜作りに汗を流して居ます。
ります。
傷害者手帳を手にして早十年余り、月一回の通院治療を続けて居
田辺 宣夫
エリア調査等毎日楽しく働かせてもらっています。
シスで新入社員の教育、国家試験の受験指導、携帯電話のサービス
当時四年生であった次女には孫娘が生まれ、私も今なお日本コム
等、夢のまた夢のようです。
ることが出来ました。 しかも働きながら、 二十年間も生きられる
しかし一日でも長く生きられるよう努力したところ、今日を迎え
りました。
おりますが、お互い干渉しない事にしてます。
現在県の﹁いきがい大学﹂に通っているかたわら、ゴルフの好き
な大正生まれで結成した会で、多くの人達との交流・地域社会との
︵渋谷統無中四八年退職︶
かかわり等、﹁品位ある人生﹂を目指し頑張っております。
高橋 九七
私もお蔭様で退職して二十五年になり、今年の四月で満八十四才
になります。退職以来民謡教室を開いて現在元気でやって居ります。
家族は子供達もそれぞれ世帯を持ち孫が六人居ります。
︵関通五五年退職︶
次男は現在NTTに勤務して二十六年になります。私達老夫婦は
元気で暮らして居ります。
高橋 富男
幹事の皆様・旧友会の皆様お元気でしょうか。
何時も大変お世話になる許りで申し訳有りません。
厚く御礼申し上げます。
干支は寅 ・ 気持ちだけでも寅のようにたくましく生きたいと念
じ、併せて地域社会の方との交流、健康の維持増進を考え、持病の
腰痛の身でもなんとかこなせる軽スポーツの﹁グランドゴルフ﹂の
集いに参加し、春・秋の﹁コンペ﹂を楽しみに、週二回の練習にさ
︵中央NWC七年退職︶
わやかな汗を流しております。お蔭様で元気に過ごしております。
田中 昇
33
私は再就職後、三年目に、会社の定期検診結果により、胃を全摘
ですが内孫はこれからです。
し一応健康になるも体力低下、勤労意欲減退し、退職しました。
退
• 職後十五年になりますが、医者には一回もお世話にならず健
康を維持しています。
います。
チャチャチャ、パソドブレ、ジャイブ等、年寄り同志気楽にやって
テップ、スローフォクストロット、ラテンではキューバンルンバ、
掛け、ダンスもモダンではワルツ、タンゴ、ブルース、クイックス
が盛んで、卒業後も、ダンス、カラオケ、墨彩画と毎週三日程度出
私
• も地域で人権擁護委員を始め、 ゴミ問題 ・ 国民年金 ・ 自治
会・老人会・神社等の役員をして、すっかり地域になじんで頑
吟・カラオケ教室等で楽しんでいます。
妻
• は地区の老人会の夫人部長となり、ゲートボールの審判の免
許もとり週二回の練習のほか、 書道 ・ レザー ・ マリ作り ・ 詩
やかです。
家
• 族は四人の娘がいたが、皆嫁ぎ、外孫は十人いるが、現在は
妻と二人暮らし、連休等には孫達が一緒に遊びに来るのでにぎ
又、時にはワープロをやったり古いパソコンをいたずらしていま
張っています。趣味も家内に負けじと、菊作り・書道・墨絵・
そして一年後の平成二年、久喜市立高齢者大学入学、クラブ活動
す。六回目の干支ともなると体力も低下気味ですが、気持ちのみ若
で将来を楽しみにしています。
送っております。孫も四人になり、皆健康で順調に成長しているの
は俳句、俳画、歴史、そしてその合間に二人で旅行と楽しい日々を
現在は妻と二人の生活ですが、 小生は英会話、 園芸、 囲碁、 妻
り、元気でおります。
体の方は三年位前に大腸の手術をしましたが、 すっかり元に戻
し、最後の仕事として退社しました。
また冷暖房設備の老朽化に伴い問題点を指摘、 将来構想を上申
たので大変勉強になりました。
の修理、改造工事、その他電源設備の保守運用等に従事して来まし
今までの仕事と全然関係のない印刷会社で、印刷機および関係機器
公社に定年まで置いていただきましたが、其の後は約九年の間、
︵関通五九年退職︶
陶芸等やっているが、全部ものにならずの有様です。
旧友会の皆様、益々の御健勝を御祈り致します。
︵埼玉部四六年退職︶
長尾 利一
い積もりでボケ防止に努力しています。
床井 秀雄
御無沙汰しております。筆をとることが益々苦手になってきまし
て、益々忘れ去られる存在になっていくようです。
今回は干支に当たる者の近況紹介とのことなので、何とか報告を
したいと思い、筆をとりました。
平成一〇年には七回目の寅年を迎えることになります。あまり健
康とは言えませんが、老夫婦共々に長男家族の世話になりながら、
広くもない庭の庭いじりや、カメラ︵ビデオ︶いじりなどで日々を
過ごしております。
︵三郷報話五七年退職︶
電気通信のことなど遠い昔となりました。
皆様の御健勝を祈ります。
殿塚 富夫
34
庭野国太郎
六度目の干支が巡ってきました。
︵古河統無中六〇年退職︶
広川 三雄
︵本社五七年退職︶
旧友会幹事の皆様方には何時も大変お世話になり、有り難うござ
気持ちだけは若いと思っていますが、何時の間にか六回目の干支
います。
を迎えてしまいました。ただ健康に恵まれ、老妻と二人で平穏な暮
虎は千里を征き、千里を還ると読んだ記憶がありますが、我が足
昨年は九州・北海道・四国と旅をして緑の山河に触れてきました
分に歩き回って来ました。
お蔭様で気儘な余生?
今後とも宜しくお願い致します。
堀井 国郎
いつもお世話になっています。
す。今後ともよろしく。
︵東京統無中四三年退職︶
七十二才の寅年、全く時の流れは速いと感じます。
松山 右次
今年は最後の寅年、 過去の仕事以外の終身記録をまとめていま
さもバランスよくやると膝、腰痛がやわらぎ体調もよいようです。
一日の内、歩く︵立つ︶寝る︵横になる︶すわる︵曲げる︶のしぐ
クル活動など年を忘れて、昔の友達と楽しみ合っています。
の老化防止に努めています。又、同窓会を作ったり、旧友会のサー
今は息子や家の仕事を手伝いながら一日一善、汗を流して頭と体
した。
孫は覚えるのが早いが、我々夫婦は忘れるのが早い年令となりま
︵双子無中五八年退職︶
を楽しませて貰っています。
振りで三斗小屋温泉に泊まって、茶臼・朝日・三本槍等の山々を存
年間を通してカメラ片手に歩き続けております。昨年は、四十数年
退職後から始めた山も、五百米程の低山から三千米級の山まで、
らしが出来る事を感謝しております。
跡を顧み、会って別れた人達との交流の想い出を新たにしています。
が、今年は何処までいけるでしょうか⋮。
︵本社四三年退職︶
皆様それぞれの余生の御多幸を祈っております。
野口 謙也
皆様ごぶさたしています。小生生来の無精癖の性で、乱読、テレ
ビの講座聴視だけ位の生活をして来たためか、最近急に各種の老化
現象が進み、歩行も困難になりました。
医者のすすめで歩行運動をするようにしていますが、疲れます。
申し訳ないことですが、どの会合にも失礼しています。
最近ふと自分史を書くことを思いつきました。ところが、記憶が
驚くほど薄れていて、毎年使っている手帳には会合の﹁名﹂だけで
お会いした人、雑談の内容、感想などが記してないので、後悔して
います。皆様にも筆記をおすすめします。
ほとんど家に居りますのでお暇のある方はどうぞお寄り下さい。
︵渋谷統無中四三年退職︶
口だけは昔のままのつもりです。十月末記
樋口寅次郎
相変わらずの天文趣味で過ごしております。
東京の明るい空で暗い星を見る為に、念願の﹁冷却CCD﹂を入
手しましたが、手持ちのパソコンとの相性が悪く動作しません。そ
こで次期新機種を選定中ですが、なにせ続々登場する新型が、あっ
という間に旧くなる此の頃ですので悩んでいる最中です。
35
︵本社五〇年退職︶
本誌の三十七号で体重を数キロ減らす為にダンベルを始めた事を
山根 信義
とき、軍隊の予備兵籍に編入されることになり、海軍か陸軍か選択
書かせて戴きました、が、半年たっても体重は残念ながら減りませ
今までに危なかったことが、三度ありました。最初は戦中学生の
することになったが、陸軍組は広島で原爆に遭遇、海軍を希望した
があると宣告され、私には全く予期せぬ事でした。色々と食事療法
んでした。丁度その頃老人健康診査を受診したところ、糖尿病の気
二度目は、中近東へ海外勤務で再赴任の際、日本航空を予約する
の指導を受けましたが、なんと言っても一番大きな犠牲を払ったの
私は横須賀で無事でした。
つもりで何故かパンアメリカに変更したところ、インド空港で日本
は、毎晩楽しみにしていた晩酌を禁止させられた事でした。
︵東京無線部四八年退職︶
昭和二十年後半の横浜、三十年の頃の三宅島などの写真を、また
ントの写真撮影の明け暮れです。
に向かい、現在では五十年来の趣味を生かして明和村主催の各イベ
皆さんお元気ですか。小生も群馬に転地して一年半、怪我も快方
山平 薫
の病気と仲良くして行きたいものです。
日常の生活習慣を色々とコントロールしてご機嫌をとりながら、こ
最近は成人病のことを生活習慣病と呼ぶのだそうですが、我々も
ます。
したが、心なしかゴルフの飛距離が伸びたのではないかと思ってい
ダンベル体操の方は、 体重の減量には殆ど効果はありませんで
下がり体調も一段と良くなって来ました。
ムを達成しました。また血糖値が平常値に戻ったばかりか、血圧も
この結果体重がメキメキ減少し、三ヶ月目には目標の五キログラ
航空は墜落しました。
三度目はスリランカのコロンボ市に出張中、タクシーによる交通
事故で一瞬の差で怪我で済んだことです。
幸運にも一生の仕事として﹁無線﹂を選んだことも良かったと思
︵戸塚報話五四年退職︶
います。感謝の念を忘れず、次の干支まで頑張れればと思っており
ます。
谷所 藤雄
新年お目出度うございます。
何時の間にか私も六巡目の干支の春を迎えることができました。
干支の中でも寅というのは千里を走り、千里を帰るとか、あるい
は千里の藪に住むかといわれていましたので、子供心にも何故か仄
かな優越感を覚えたのも遙かな想い出ではあります。
公社現役時代には医者に手を握られたこともなかった私でした
が、年令とともに人並みに肺炎や脳梗塞なども患い、病床に呻吟す
る侘びしさも経験しましたが、喉元過ぎればの諺のとおり、何時の
にご覧に入れたいと思っています。段々持ち時間も少なくなりまし
半数以上は移転で紛失していますが、若干残っていますので皆様
置局選定時のものも有り、現在整理しています。
どうやら自己の存在を、孫や子供に示す自分史らしきものも出来
たが、何か残したいとは思っています。
間にか不摂生に明け暮れている今日この頃ではあります。
上がり、Shall we Dance? に精を出している昨今で
皆様もお体を大切に頑張って下さい。 家族状況は、 家内と二人
す。気まゝなゴルフや旅行などを友として、七巡目の干支に向けて
歩いて行きたいと希っています。
36
です。
吉野 桂
︵東京統無中五八年退職︶
一、家庭・家族
味
二、健 康 状 能
三、趣
︵家庭は老妻と二人︶財貨なきわれらが富
は五人の子、孫は十二人に曽孫五人。
重度の座骨神経痛︵病名・変形性脊髄症
しい毎日です。
材センター、体操、卓連、戦友会、等々忙
ランティア役員、老人クラブ、シルバー人
卓球に親しむ他、頭の体操に俳句、麻雀、ボ
親しんできた卓球に救われている。
痛を伴うが体を動かす程体調がよく、永年
痛その後も病気と同居、朝起きる時一番苦
薬、物療いろいろ探訪、結局低周波にて鎮
椎間板ヘルニア︶を患って十年、名医、妙
−
旧友会の仲間になり二度目の干支を迎えました。
この地に移り住んで早、五年近くになりますが、毎日、移り変わ
る豊かな自然に囲まれ元気に過ごして居ります。
十年余り続けてきた特許解析の仕事も峠を越して時間の余裕がで
きたので、かねてから考えていたことの一つ、不得手な毛筆になじ
もうと、書道教室に通い﹁○十の手習い﹂をしています。
また、 健康のためにと太極拳の教室に通い手解きを受けていま
す。何れも奥深いものなので極めることなどとても無理、一通りか
じるだけでもと精進して居ります。
︵浦和統無中五六年退職︶
︵大井報話四八年退職︶
37
渡辺 淳
︵千里︶を南下して子
﹁虎は千里行って千里帰る﹂ ざとう鯨はアラスカまでニシンを
追って夏を過ごし、再び赤道まで約四千
育てをする。
渡部 繁治
らも無理をしないで健康維持に努めるつもりです。
目下、家庭菜園とウォーキングを仕事としておりますが、これか
みると、青森∼東京∼博多間を歩いたこととなります。
でした。虎や鯨には到底及びませんが、JRの営業区間と比較して
昨年一年間の歩行距離を集計したところ、一八〇〇キロメートル
ロメートルを目安として歩いています。
干支も六周りをすぎると、健康管理が日課となり、一日六∼七キ
km
随想
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
︵五十音順︶
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
背筋を伸ばして
菊池 正治
︵浦和統無中六〇年退職︶
﹁心房細動です。すぐ入院して下さい﹂と宣告されたのは五年前
の夏の暑い日でした。
い頃から音楽が大好き等の理由からグループレッスンを受けること
にしたのですが、とにかく、苦しいようなら休んで見ていること、
場合によっては受講することをあきらめる等、自分自身に約束して
週一回、二時間のレッスンを受けると、当初は帰りの車のアクセ
始めました。それが現在まで既に二年半続いています。
ルを踏む足が重く、疲れが何となく翌日まで残る感じでした。
それでも、地域の人達との交流ができると共に、音楽にのって体
を動かす楽しい社交ダンスの魅力に惹かれ、無理をしないマイペー
て、心臓にできるだけ負担をかけないように気をつけることと言わ
が翌日まで残ることもなくなり、むしろ心地良い汗となる感じさえ
半年程過ぎた頃から息抜きも旨くなってきたせいか、徐々に疲れ
スを守って続けてきました。
れました。そのため好きなアルコールをやめ、楽しみにしていた月
幸い一週間で退院できましたが、 その後の日常生活の基本とし
いちゴルフもあきらめざるを得なくなりました。
時もあり、また、一曲でハァーハァードキドキの時もあります。で
現在でも、踊る曲、踊り方にもよりますが、二曲続けても平気な
するようになってきました。
仕事はしない我が身が、心臓疾患であるために家の中にいるだけで
も次の一曲を休むと動悸が殆ど平常に戻ります。恐らく自分の体は
それから約二年後にドコモを退職したのですが、通勤はしない、
は、足腰とか肺機能等の老化の進行や、ボケになるのではと心配に
自分がよく知っているという信念のもと、マイペースを守ってレッ
なお、ダンスのレッスン日、或いは練習日以外は、散歩を続けて
ました。
ましたが、社交ダンスのお勧めの他に、氏の精力的な御活躍に驚き
本誌前号に、大久保友一氏が﹁ダンスへの誘い﹂で書いておられ
でしょうか。
スンや練習を重ねてきたので、体力が少しずつ元へ戻りつつあるの
なりました。
そこで、退職した翌日から散歩を始めたのです。疲れ過ぎないよ
うに、できれば一万歩を歩ける日もあればいいなあと思いつつ続け
てきました。
退職して三ヵ月後のことですが、 狭山市シルバー人材センター
で、 六十才以上の社交ダンス講習会 ︵初心者︶ の募集をしている
のを見たので、一晩考えて申し込みをすることに決めました。私に
います。自宅を起点とした幾つかのコースの他、週一回程度は車で
約十五分行った所に、森林浴を満喫できる智光山公園を、または反
とっては、かなり迷ったあげくの答えでした。
﹁心臓疾患者が社交ダンスできるのかな﹂と。
対方向へ矢張り十五分程の所で、広大な所沢航空記念公園を一時間
以上歩くようにしています。
でも毎日散歩していて、少し早足でも余り苦しくはないし、むし
ろステップを踏むことによって散歩の代わりになるのでは、とか若
38
VII
生もきびしくなってきました。
﹁社交ダンスは、できるだけきれい
社交ダンスのレッスンもだんだん踊れるようになってくると、先
く、社交ダンスと散歩を続けたいと思っています。
題を持ちながら、 あくまでもマイペースを忘れずに、 少しでも長
り不安をもっている私が、
﹁心臓疾患者が社交ダンスを﹂という問
ヨーロッパアルプスを駆け巡り
小林 健一
トは日本のパック旅行には余り無いのが淋しい。高度二〇〇〇米の
乗客はまばら、我々パーティで一等車を独占する様だ。このルー
合編成の登山鉄道に乗り込む。終着はイタリアのティラノです。
朝やけは天候不安定と知りながら、赤色の機関車と材木貨車と混
ントレヂナ駅で別れることになりました。元気でさようなら⋮⋮。
アルプスの散策だ。途中から東工大教授と一緒になったが、翌朝ポ
養地の隣、ポントレヂナに夕方到着する。明日はいよいよベルニナ、
四日目インスブルックを出発して我々はサンモリッツの超一流保
ペンを走らせることにしました。
いて無理なため、その一端ベルニナからサースフェーまでについて
一九九五年九月八日、SR167便で飛び立ちました。全行程につ
チロル山麓から西端のモンブランまでをそれぞれポイントを選び、
さて、私達四人パーティ、平均年令六十七才、十六日間の予定で
表されオーストリアのウィーンまで続いています。
般にスイスアルプスであります。そして東部アルプスはチロルに代
近で、フランス側では海のアルプスと言う。中央アルプスこれは一
ゾーンに分かれます。西部アルプスは地中海のコートダジュール付
はじめにヨーロッパアルプスについて簡単に紹介すると、三つの
︵関通五八年退職︶
背筋を伸ばして今日もまたウォーキングに行ってきます。
に踊れなければいけない。そのためには、何よりも背筋を伸ばすこ
と﹂を強調されます。六十才台の男女約三十人の全員が、毎回毎回
背筋を伸ばすよう注意されます。
今年一月からレッスンの先生が代わりましたので、その内容も或
る程度異なるのは当然ですが、
﹁背筋を伸ばせ﹂の基本レッスンに
は変わりなく、特に高齢者は日常生活においても、どうしても下を
向いたり、 背中を丸める姿勢が多いので、 ダンスの時だけではな
く、歩く時も、電車やバスに乗っている時も、常に意識して背筋を
伸ばすように注意して欲しい。そのような日常の心掛けがあってこ
そ、社交ダンスの美しいピクチャーポーズの基本を作れるものだと
指導されています。
社交ダンスの上達は、練習の繰り返しによって体に覚え込ませる
ことで、ゴルフと共通していますが、もう一つ、美しく踊れるとい
う重要なポイントがあるのです。
六十五才から始めたシルバーダンスです。今更若い人のように華
麗に美しくとか、競技会に出るとかではなく、あくまでも健康的で
楽しく、気持ちをリフレッシュできればと思っているのですが、し
かし、どうせ踊るなら少しでも上手にきれいに踊りたいと思うのが
あたりまえです。 そのためには、 毎日の生活の中でも、 背筋を伸
ばすことを忘れないように、特に散歩の時は意識するようにしてい
ます。
これからは秋の行事が多く、見せるダンスを踊る︵主としてフォー
メーションで踊る︶機会が増えてきます。今でも常に不整脈があり、
体のエンジンがエンストを起こすことはないだろうな、とちょっぴ
39
峰が眼前に雄姿を現すはずであるが、残念乍らガスと霧が立ちこめ
まとなってすざましく、急勾配でどんどん上る。やがてパリュー三
高原を急カーブが左右に連続し、レールと車輪のキシム音が、こだ
か、日本に余り知られていない様だ。隣のツェルマットをしのぐ環
の村はアルプス有数の氷河村であり、鉄道が未だに通じてないせい
行バスでフィスパ川に沿って一時間位でサースフェーに着く。ここ
〇米級の山群の大パノラマには唯々スバラシサで見とれてしまう。
境のよいところです。そして村を半円径に取りまく、氷河と四〇〇
やがてビアンコレイクの白い湖面だけが浮き上がって来る。ベル
期待した景観は無理だ。
ところが感動やいずこ、ガスが立ちこめて何も見えない、明日を夢
待ちに待った朝が来たが峰々はオールガスが垂れ下がり真っ白だ。
ニナ峠駅を過ぎ目的地アルプグリーウムに着く。 風が強く皆んな
急遽プラン変更で隣のツェルマットに向かうことにした。結果はス
みてミシヤルホテルに入る。
ブルふるえる。ときどきパリュー氷河がガスの切れ目に顔を出して
ウインドヤッケを着るが、気温はたったの三度で寒さに身体がブル
無気味だ。次のディアボレツヘ向かい、十分位で着く。ロープウェ
八日目の朝ラストチャンスである。あの感動通りの光景を見るこ
ネガーの台地でも、ガスが巻き寒く風が強く、無駄な時間を費やし
とが出来ました。唯々見とれるばかりであり、ミシャペル山群の主
イで山頂をめざす。 ゴンドラの中は外国人八名と計十二名だけで
山頂駅を出ると強風とガスで気温二・五度、眼下にモルラッテ氷
断念して下山しました。
河が横たわりクレバスの青白さがすさまじい。急に高所に上ったの
峰ドーム︵四五四五米︶を中心とした大パノラマはスバラシサと感
ある。
で頭が重かった。谷間から吹き上げる風が冷たく全身が冷えこんで
動に尽きます。
昨 夜 来 の 大 雨 が こ こ で は ド カ 雪 と な り、 積 雪 は 一 米 以 上 で す。
タークと喜びを分かち合う。
の展望台に着く。 登山客はざっと二十名たらずである。 グーテン
イとアルペンメトロに乗り継ぎミッチェルアリラン︵三五九七米︶
朝食をすませ、まだ人がまばらな村を二十分程歩き、ロープウェ
来た。パリュー三峰が手に取る様にガスの切れ目に現れる。足元に
注意しながら慎重に歩き一時間位楽しんで下山する。ホテルに着い
てから明日のためのライズケベックで荷物の手配をしました。
夕方から雨が降りだし朝になって更に激しく降って来たが、予定
の変更は出来ないので荷物をまとめサンモリッツよりグレッシャ急
フェー氷河のクレバスに雪がスッポリ入り青と白の波を打っている
行に乗る。目的地のブリーク迄は七時間位かかる。勿論我々は一等
車、リザーブ制で満席である。車体はスバラシイ総ガラス張で四人
様だ。周辺の散策は積雪のため禁止となった。眼前に迫るミシャペ
メトロにて下山しました。
遠くモンテローザが望まれる。心ゆくまで満喫して再びアルペン
様だ。
ル山群が手に届く。神秘的なクレバスは太陽の光でエメラルド色の
机と思えばよい、一度は乗って見て下さい。
サンモリッツとブリーク間の車窓は、食事をする間もない景観の
連続ですので、それは想像して戴くこととして細かい説明は割愛す
ることにします。
列車はブリークに着く。 依然として雨が止まない。 PTTの急
40
41
そして最後にフェー氷河の造形を眼の前で眺められるレングフ
ルー︵二八六五米︶に着く。顔を近づける程に接近出来る氷河、ジ
グザグに裂けたクレバスを跨いで、すっかり堪能し氷河と別れを告
あった。簡素な平屋建てで、藤村の小諸時代の作品を中心に遺品、
書簡、写真等が展示してある。
藤村は、明治三十二年に恩師木村熊二に招かれ、国語、英語の教
スケッチ﹂
﹁破戒﹂等の作品を執筆したという。教師、塾生が一緒に
師として七年間小諸に住んだ。そして塾生に教える傍ら﹁千曲川の
九日目の朝を迎え、 白い息を感じさせる寒さの中、 ブリーク行
撮った色褪せた数葉の写真をジッと見ていると、草深いこの地で、
げて、レングフルーを後にしました。
きのバスでサースフェロを離れる。今日はフルカ峠からブリエンツ
理想に向かって燃やしたこの人達の情熱が伝わってくるようだ。
した。
は忘れ難い﹂ いつか眼にしたそんな言葉に誘われて、 上田で下車
﹁真田氏が築いた城下町、晩秋ともなると、そば屋の店先に、新
・・・
そば出ました、の紙が張られる。また千曲川のつけばでの川魚の味
いた。
番低いところを千曲川が流れている。 山々が夕陽をうけて輝いて
んでいる。小諸は坂の街である。その街より下に懐古園があり、一
群馬境の山々が北に聳え、その裾に近い斜面に階段状に家々が並
一望である。
ある。汗を流そうと五階の浴室に行く。休憩室からは、小諸の町が
長い夏の日も夕暮れが近くなった。今日の宿はすぐ近いホテルで
拾いながら散策している。
思いながら石垣に腰掛けて園内を見下す。観光客が三々五々緑蔭を
見えない。
﹁桜の咲く頃はさぞ美しいことだろう!﹂そんなことを
天主台に上った。桜の古木が緑の葉を一杯に広げ、浅間の連峰は
とは遠い風景だ。
渓谷も今はダム工事であろうか、河原をトラックが行き来し、詩情
と、深い谷底を千曲川が流れている。昔は美しかったであろうこの
記念館の後ろの深い緑の中で蝉が鳴きしきる。展望台から見下す
へ、バスの中は満席、日本人はいつもの四人だけです。この辺でア
︵関通五〇年退職︶
ルプス駆け巡りを次の機会へとペンを置くことにします。
晩夏のひとり旅
鈴木 秀明
朝、七時四十六分横浜駅を出た﹁特急はまかいじ﹂を、終着駅小
淵沢で小海線に乗り換えた。私にとって小海線に乗るのは初めてで
あり、八ヶ岳山麓の広々とした風景を眺めたい気持ちがあった。
野辺山に近づくと、線路わきに﹁JR最高地点﹂の標柱が見え、
初めて高原らしい風景が広がってきた。高原野菜らしい畑と牧場、
そしてその向こうに八ヶ岳の連邦が連っている。広々とした眺めで
ある。
北に進むにつれ、ひなびた山間を千曲川の流れに沿って走る。乗
り降りする客は殆どない。古い小さな駅舎に夏草の花がひっそりと
咲いていた。
小諸に近づくと、いままで閑散だった車内に乗客がだんだん増え
てきた。小諸に着いて懐古園を訪ねる。苔むした石垣、歳月を経た
三ノ門は長い歴史を偲ばせる。
空壕にかかる橋を渡り、本丸の石垣に沿って行くと藤村記念館が
42
を落としていた。街を散歩する。古い武家屋敷が残り、落ちついた
上田の城は、櫓だけが昔の面影を留め、老木が城跡に濃い緑の影
んな瀟洒なペンションに変わってしまったようだ。少し雲がかかっ
たと思うが⋮⋮﹂行き来したがそれらしい旅館は見当たらない。み
がら坂を上ってゆく。
﹁確かこの道の左側で、前庭に三本白樺があっ
りのせいか他にお客は誰もいない。やがて運ばれてきた﹁そば﹂に
に近く点々と浮かぶ睡蓮の花を縫って、鴨がスイスイ泳いでいる。
れ、妙高の姿を映して、三十年前と変わらぬたたずまいだった。岸
ユックリと朝食を済ませて宿を出た。
﹁イモリ池﹂は緑の林に囲ま
てきた妙高をカメラに収めて宿へ戻る。
は、生の山葵に小さな﹁おろし金﹂が添えられていた。そばはうま
通りを少し入った処で、老舗らしいそば屋をみつけた。夏の日盛
街のたたずまいである。今日も相変わらずの暑さだ。
かった。 甘味とは少し違う何か複雑な旨さが舌に残る ・ そんな味
池を前景に妙高を描いている人もいる。
池畔をユックリ眺めながら歩く。一周十五分位の小さな池なので
だった・出がけに﹁大変おいしいそばでした。どうもご馳走さま﹂
といったら女将らしいお婆さんが﹁ありがとうございます﹂と嬉し
ろう。いつの間にか、妙高は雲に隠れてしまった。山の天気は変わ
人ばかり元気に走って行く。残り少ない夏休みを楽しんでいるのだ
楽しい散歩道である。林を隔てた遊歩道を、合宿中の学生が、三十
午後、妙高高原で降り、池の平温泉に着く頃今迄晴れていた空か
そうに微笑んだ。
急に曇ってきた。宿へ入るとポツポツ雨が落ちてきた。ゆっくり温
長野行きの鈍行に乗る。次の駅で同じような年輩のひとり旅の爺
りやすい。タクシーを呼んで駅へ出た。
さんが乗ってきた。
﹁あなたもおひとりの旅ですか?﹂
﹁ええ、四月
翌朝五時半、 窓を開けると、 日の昇りきらない空に、 妙高がシ
泉に浸りながら、雨に叩かれる庭の白樺を眺めていた。
ルエットのように鮮やかに浮かんでいるではないか。
﹁来た甲斐が
に女房を亡くしまして、ずっと昔に来た妙高をユックリ見たいと思
えてきて、列車は長野駅のホームにすべり込んだ。予定の特急には
窓は外を豊かに実ったりんごの林が流れていった。高層ビルが増
いまして⋮⋮﹂
﹁そうですか、それはそれは⋮⋮﹂
もいない。 こんこんと溢れ出る浴槽にユックリ体をあずけている
朝の温泉をユックリ楽しもうと階下へ向かった。まだ早いので誰
あった!﹂ホッとした思いで暫く眺めていた。
と、過ぎ去ったこと、これからの日々いろいろな思いが去来する。
まだ間がある。
﹁サア、私も一人の宴をゆっくり楽しみながら、こ
の旅のフィナーレとしよう﹂
南ベトナム調査隊
︵本社五四年退職︶
重回線設計のために電波伝搬試験を行った昭和三十二年から丁度四
この平成九年は昭和で言うと七十二年で、南ベトナムでVHF多
田中 潤一
この温泉は三十年程前、家族で夏休みを過ごしたことがある。あ
林や保養所の点在する坂道を上った上に﹁イモリ池﹂があり、そ
の頃は娘もまだ小学生だったし、妻も元気だったが、今はいない。
の向こうに妙高がクッキリと聳えていた。そんな風景が今でも脳裏
にある。この旅もあの時の印象を辿ってみたかったからだ。
風呂から上り、カメラを持って散歩に出た。白樺の点在する道は
あの、昔泊まった宿はどこだっただろうか? 遠い記憶を辿りな
いかにも高原の湯らしい閑静な雰囲気である。
43
に来て駐在していると言う沖電気の下島さん︵記憶では︶が通関や
に一、二泊してすぐ追いかける事になったが、この時、電話台工事
資料も乏しく詳細は判らなくなっているが、幸にして副隊長だっ
〇年である。
南ベトナム軍の連絡将校から汽車の切符を渡されたが、よく見る
現地貨幣の交換をやってくれたのは、西も東もわからぬ我々として
と往復切符であった。本隊に合流出来ない場合を考えたもので、い
は大変有り難かった。
当時のベトナムはフランスに対する独立戦の結果、十七度線で南
ささか心細い思いをしたものである。
た平本さんがITUジャーナルVol二十四のNo.十二に概略を
北に分割されて独立してから三年後である。南北の対立があり、戦
寄稿しているので、それを頼りに思い出してみた。
禍の跡が残っていたが銃火は交えられていない時期であった。この
調査隊の構成は表のとおりであるが、このほかに関東通信局の医
の、もう一人は一見してインド人とわかる女性であったが、亭主と
人が乗ったが、専用ということではなく、もう一人乗って来た。こ
ンパートメントの寝台車で日本のものより広かった。その車室に三
夕刻にサイゴンの駅に行き、汽車に乗ったが、車輛は四人用のコ
務室の先生をしていた小島温氏が同行している。小島さんは、当時
おぼしき男が窓の外から心配そうに見ていたのを思い出す。
三年後に次のベトナム戦争が始まっている。
通信局に存在していた防貧協会︵?︶なるものの世話をしておられ
ぎて、朝早くナトランについた。
薪を焚いて走る蒸気機関車の細長い汽笛を聞きながらの一夜がす
たユニークなドクターである。
無線機は国際電気、アンテナと伸縮ポール
か。平本さんの話では、日本からの後続が着いたとの電報が届いて、
ら荷物をおろしていると、 なんと平本さんの顔が見えるではない
44
使用機材は一五〇M
試験ルートは図の様に南ベトナムを縦断する一二〇〇KM、十三
やっと来たのかと思ったが、よく読むと現地に着くという様にも読
往復切符のこともあり、 本隊がつかまるかどうかと心配しなが
区間で、シールディングリッジが介在する区間もいくつかあった。
みとれるので、次のサイトに向け出発する前に念のため駅に来たと
ころで合流したわけで、私はそこからA班に加わってすぐに出発し
本隊は九月十二日に羽田を出発したが、当時の海外渡航はまだ非
た。日本を出て三日程で現地のトリップが始まったわけである。
常に制約が多く、しかも行く先が南ベトナムとあって機材、物品の
とくに、後発する小島、広川、田中のビザの取得に手古ずったも
の事であり、まさに間一髪のところであった。全行程の約半分のと
のである。現地試験に間に合う様に九月末に出発を予定していたが
た様に思っている。
ますなどと言うこともあった。しかし、なぜか余り苦にならなかっ
どは言うまでもない環境で、時には河原で朝靄のなか朝の行事をす
る約四〇日︵私は二〇日︶の行程であった。この間の宿泊や食事な
調査隊はA・B二班に分かれて、対向試験をしては次の区間に移
サイゴンに着いて、本隊が宿泊していたシヨロンの中華風ホテル
はすでに十二日にサイゴンを出発していた。
日をおかず羽田を出発したが︵記憶では十月二十九日︶
、現地で
出たのが十月の末近くであった。
なかなかビザが発給されず、何回もベトナム大使館に通ってやっと
発送や渡航手続きはなかなかスムーズには行かなかった。
て居たと記憶している。試験期間中、トラブルはほとんどなかった。
は電業工作製であったが、両方とも取り扱いは容易で特性も安定し
Hz
最終地のユエで三・四泊して、古都の旧跡や王家の廟などを見物
した。その後、空路サイゴンに戻り、約二週間のデータ整理の後十
約四〇日間に見たもの、聞いた事など断片的に思い出される事は
二月はじめに帰国した。
いろいろあるが別の機会にゆずりたい。
程の差であったと記憶している。
最後に試験の結果であるが、出発前に図上で計算した伝搬損失に
対し、実測値は三
報告書は東京無線通信部の一室を借りて作成作業を行い提出され
た。その時、契約により紙一枚も残さず提出されている。
なお、この調査は電電公社が外国での仕事を請け負ったと云うこ
とで国会で問題となり、これか切っ掛けとなって海外協力会が設立
施設局・無線課
金安 博
マイクロ部
奧村 善久
通研・無線課
堤 剛章
建築局・設計課
菊地 健三
建築局・施工課
青木 伸夫
総裁室・広報課
小林権三郎
技師長室・管理課
大西 貞男
ベトナム協会
田中 潤一
施設局・無線課
秋山 忠
通研・電波伝搬室
広川 三雄
東京無線通信部
︵平成九年九月十一日︶
平本 精一
試験員
通研・無線課
隊 員
所 属
45
dB
技師長室・調査役
副隊長
牧野 康夫
柿田 潔
隊 長
氏 名
され、電電公社の海外技術協力の途が拓かれたと聞いている。
ベトナム派遣要員の所属・氏名 青春とは
原田阿久利
︵本社五二年退職︶
﹁青春とは心の若さである。信念と希望に溢れ勇気に満ちて、日
に新たな活動を続ける限り、青春は永遠にその人のものである。年
を重ねただけでは人は老いない。 理想を失う時に初めて老いがく
る、歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ﹂
これは、私の愛唱しているサミュエル・ウルマンの﹁青春﹂の詩
のではないか、絵を描いている限り私は永遠の青春を謳歌できると
確信し、絵を習って本当によかったと私を強制した先輩に今でも心
から感謝している。
そして私のお手本がいる。アメリカ国民みんなから慕われた農婦
画家グランド・マア・モーゼスである。モーゼスお婆ちゃんは七十
五才で始めて油絵の筆をもち、百一才でなくなるまで生まれ故郷を
離れず、身辺の風景に、彼女が体験した昔の生活を明るく温かく描
き、夢のある絵を亡くなるまで沢山描き続けた。
︵新宿の安田火災
部は次の如くである。
﹁青春とは人生の或る期間をいうのではなく、
﹁青春﹂ の詩の日本翻訳版 ︵松永安左門訳との説︶ の冒頭の一
どの要職を歴任し、一九二四年、八十四才で地元で亡くなっている。
共にアメリカに移住、実業家としてバーミンガム市の教育委員長な
二つ目は俳句である。絵の仲間から俳句も絵もよみたいもの描き
と通ずるものがあり、お婆ちゃんにあやかりたいと努力している。
などといわれると嬉しく励みになっているが、モーゼスお婆ちゃん
い絵だ﹂
﹁メルヘン調だ﹂
﹁週間新潮の表紙︵谷内六郎︶のようだ﹂
私の絵は皆さんから決して上手だとはいわれない。
﹁明るくてよ
ビルにある東郷青児美術館に数点常設されている︶。
心の様相をいうのだ。逞しい意志、優れた創造力、炎ゆる情熱、怯
たいものをしぼりこむ点で共通しており、お互いに相乗効果がでて
の意訳である。彼は一八四〇年ドイツで生まれ、一八五一年両親と
懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春
絵も上達するとすすめられた。
私は四国松山に延べ四年いて、俳句天国で一句もつくれなかった
というのだ⋮⋮﹂と約四六〇字の堅苦しい文章となっている。
ので適性がないとことわりつづけたが、最後に﹁では村八分にする﹂
れた。これがきっかけで二年前先生につき仲間と楽しんでいる。
これをわかり易い本文冒頭のように、本質をしぼって意訳したの
そして名実共に青春であった学生時代を再現しようとして七十二
といわれ、止むを得ずやる気になったら、今まで見逃していたもの
私は一つは油絵の制作に求めている。油絵はそのつもりで始めた
の手習いで始めたのが放送大学への入学である。五年前会社の顧問
は、松下幸之助さんといわれている。松下さんならではの名訳で、
のではない。もともと子供のときから絵は苦手だった。六十の手習
となり、自由な時間を持つことが出来た幸いを生かし、呆け防止も
口ずさみ易いのでつい口をついてでてくる。しかし問題は、いかに
いで無理やりにすすめられ、義理と人情にほだされてこの道に入っ
兼ねて人間の探究︵歴史︶専攻の学生となった。ご存知のように放
が見えてきて、季語などお構いなし五七五と俳句らしきものがつく
た。よい絵を描こうという信念と希望に溢れ、自分の思うとおりに
して青春を謳歌するかである。
勇気をもって創作活動を続けている。これこそ青春の詩を地でゆく
46
送大学は放送授業による国立大学で、一般の大学同様既定単位をと
れば学士の資格がもらえる。科目によりVHFTVかFM放送のど
ちらかの一回四十五分授業を十五回受ける、途中レポート提出、面
接授業があり、年二回の単位認定試験を受ける、ますます弱くなっ
た頭を酷使しての単位認定試験はいくつかの再試験で乗り切るのだ
しかし試験が終わると新学期まで二ヶ月の休暇となる。年二回の
が、青春謳歌どころではない。
この休暇こそ、 試験結果はどうあろうと、 最高で羽をのばすこと
は学生時代と同じ。この解放感のためにやっているようなものであ
る。 しかしお蔭様で、 平成九年度第一学期をもって卒業と認定さ
れ、卒業証書、学位記を戴くことになった。四年半あっという間に
これから半年大いに英気を養い、来年四月から再入学、あと六年
47
過ぎた感じである。
間は在学できるので人間の探究 ︵文学︶ でも専攻しようと思って
いる。
以上私にとって﹁青春﹂の詩はお守である。何かあると口ずさむ。
絵のお手本はモーゼスお婆ちゃんだが、私の最も敬服してお手本
すると何かやる気がでてくるのでありがたい。
にしているのが、磯木清一大先輩である。九十二才になられるがご
丈夫でお元気である。新しいことをよく勉強されており、お会いす
る度に若々しいお話を承り大いに教えて戴いている。磯木さんこそ
永遠の青春を謳歌されておられ、大いにあやかって後に続きたいと
大先輩はじめ皆様のますますご自愛の上一層のご健勝ご活躍を心
思っている。
からお祈りして筆をおく。
M
e
m
o
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
回想東京無線︵十五︶
共にした同志が三人、その外、地元、栃木県出身が八人、宇工出身
が五人と、いろいろな糸でつながったメンバー構成となりました。
呂場、うれしさ一杯で入居しました。今、思えばなんと狭いこと。
家族持は八人、たんぼの中に出来た社宅六畳、四畳半、台所と風
◎ 昭和二十九年東名阪マイクロ回線が開通後、東仙札マイクロ回
先頃行って見たら、未だに健在、廻りの広いたんぼは皆住宅への変
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
線が昭和三十一年に開通し、マイクロ回線は愈々全国的な伝送路と
わりようです。
でした。
台、酔うほどにエッチなきわどい話へと、宴会はもりあがったもの
な大変身、声は大きく宴席は急に賑やかになり鮎ヶ瀬さんの一人舞
ころがお酒が大好き、酒が入り頃合いになると、それはそれは見事
は軍隊調、はい自分は結構であります。といった調子。ところがと
た。エピソードもありました。普段は謹厳実直、真面目な人で言葉
ます。那須無線で新採からお世話になり、苦楽を共にした先輩でし
それから、忘れえぬ一人として今は亡き鮎ヶ瀬栄一さんが偲ばれ
れを読んで思い出してもらえますかね⋮⋮?。
はもう、四十うん才、よきお母さんになっていることでしょう。こ
ると、
﹁おじちゃんお帰りなさい﹂と、可愛いさそのものでした。今
ままごと遊び、それもコンクリート製ゴミ箱の上で、私達が帰宅す
話になりました。それに小学生のお嬢ちゃんが二人で、友達とよく
るく粋で物知りなおばあちゃんがいまして、社宅の皆さん大変お世
富塚さんの家族は、囲碁の好きなもの静かなおじいちゃんと、明
だったわけです。
富塚所長もこの時四十才前、独身組も四人と今考えると若手集団
この時、今六十うん才の橋本さんと私のところは新婚でした。
入ったと、お互いに分けあうなど楽しい家族での付き合いでした。
社宅では、野菜が届いた、煮物が出来た、それ、珍しい物が手に
して発展し、さらにはローカル市外伝送路としても利用されるよう
になりました。
今回はこれら回線に重要な役割を果たした宇都宮統制無線中継
所、並びに甲府統制無線中継所の開設当時に苦労された、松本昭一
︵宇都宮︶、渋江靖生︵甲府︶の両氏に当時の思い出等を回想して頂
きました。
宇都宮無中・創設時の想い出
松本昭一
昔々、大昔の懐かしい想い出話です。今を去ること四十数年前、
半世紀という言葉が使える程古いひとこまの話です。
東 仙 札マイクロ回線の一中継所として当時はすべて直営工事
で建設が進められ、たしか工事長は床井秀雄さんで、そのもとで亡
先々、マイクロ回線が宇都宮にドロップする。そこで有人の無中
が発足することになったわけです。
富塚所長以下十二名でスタート、顔を合わせ懐かしさでいっぱい
でした。那須無線のVHF時代からお世話になり、苦楽を共にした
メンバーが五人、更に筑波無中の開局工事であの坂道を歩き苦労を
48
VIII
−
き弟︵久雄︶もアルバイトで手伝っておりました。
−
翌朝は何ごともなかった様に、謹厳実直な鮎ヶ瀬さんに戻ってお
りました。
八幡山無中は、 市街地、 公園近くで急な登り口で狭く条件が悪
それから、局舎プラン上、今考えますに、休憩室が一つ、事務室
く、建設工事では大変苦労しました。
が一つと、無線が設計し東端のスタート時と同様、搬端は無線が保
守する設計のようでした。ところが急きょマイクロ搬端でも保守は
搬送となり、家主から店子に転落、休憩室の利用などもまゝならず
大変な苦労をしました。
幸いに、搬送に宇工出身の先輩が二人、後輩で山崎、山口両君の
同級生が三人おりまして、とっかゝりも出来、野球、マーヂャンな
どで融合を図ることが出来ました。
更に労働組合が報話局分会のもと、 伝送部会として発足し、 不
肖、私が初代の部会長に推挙され、搬送・無線のまとめが出来まし
た。私は二年で転出しましたが、無人局や施設の増加で組織も大き
くなり、八幡山局舎で苦労が多かったようでした。
蛇足ですが、中河原の局舎プランについて、幸い橋本さんと私が
通信局の係長で参画し、八幡山局舎の苦い経験から、早々と局舎担
当と接触し、更に局舎担当に立花健君がおり、良く理解して頂いた
のが幸いでした。
分散し、孤軍奮闘されている様子、益々の発展を祈念しつつ終わり
とします。
甲府統制無線中継所開局前後の思い出
渋江靖生
昭和三二年四月中頃、 大楠に勤務していた私は、 深田所長 ︵故
回線新設工事に参加するように﹂ との
人︶に呼ばれ﹁開局後は甲府へ転勤することを念頭において現在施
工中の大手 甲府間2G
U F B 1 方 式、 電 力 装 置 は 原 電 気 製 の 3 E
終段等に採用された板極管の特性のバラツキや標準鉄架に収容する
特に無線装置は、開発直後の﹁調仕﹂仕様の機器であったため、
片手に早朝から夕方七時過ぎまで苦闘する毎日であった
Gと何れも初めてタッチする機器なので、全員が説明書・回路図を
無線装置は2G
囲気で、仕事と遊びを両立させた日々を送ることができた。
いにもお互いが先輩・後輩として旧知の間柄であったため楽しい雰
小野明寛氏、矢尾板和夫氏、堀内武氏、それに私の総勢六名で、幸
あった。メンバーは、工事監督の里見博氏をトップに勝川雄藏氏、
加した五月からは無線装置と電力装置の最終試験を実施することで
甲府局の工事は、昭和三一年秋からの請負工事が完了し、私が参
半日の旅を経験した。
い海を眺められる逗子の町から秩父山系を背にする甲府盆地に至る
たが、気息奄々として峠を走る力のない列車には驚かされ乍ら、青
車窓に映る初夏の山なみと車内に流れ込む爽やかな空気は満喫し
指示を受け、翌五月未知の土地甲府へ向けて出発した。
Hz
−
充分な部屋数を確保することが出来、現在の宇都宮NWCの使用
となったと思っております。
その宇都宮NWCの組織も近々解体され、新しい保守形態になる
とのこと、一無線の懐かしさだけの小さな想い出話でしたが、ご容
赦下さい。
NTTも大きく様変わりし、分割され、無線部門も子会社などへ
Hz
49
−
関係から使用されたL型同軸接栓に起因する接触不良が頻発したた
直営試験も無事終了し大楠局へ帰任していた私は、九月一日甲府
来ているが、我々が開局以来育んできた無線技術は現在も受け継が
か3EGは姿を消し、局舎は勿論組織や設備も大きく様変わりして
て四〇周年にあたる。我々が若尾ビルに新設したUF B1方式と
振りかえってみると、 今年 ︵一九九七年︶ は甲府無線が開局し
チした者として忘れることはできない。
無線が開局と同時に甲府勤務の辞令を受け、早速馴れない手つきで
め、安定性の維持には試験当時は勿論開局後も大いに悩まされた。
世帯道具の荷造りを始めた。
トラックに上乗りして逗子を出発したが、市街地を通り過ぎると
甲州街道は、国道とは名ばかりの悪路で砂利道が多く、しかも笹子
峠はトンネルの無い時代なので、石コロだらけのガタガタ道の人通
りも無い峠を越えざるを得なかった。文字通り一日がゝりで甲府へ
辿り着いたが、トラックからおろした荷物のうち結婚直後の真新し
い家具には大きな擦り傷ができたり、思い出のアルバム類は荷台の
隙間から峠みちに落下したらしく、見当たらないという悲しい記録
化が実現し即時網の完成に貢献したことは、現場で直接タッ
−
れ、良好な顧客サービスを提供しているものと確信している。
50
もある。
開局当時の職員は、酒井昇氏︵故人︶を所長に一五名程度であっ
たが、直営試験に参加した勝川、矢尾板や堀内の各氏も甲府勤務に
なったので、新しく着任した職員に重宝がられながら回線保守に従
事した。
開局当初の慌ただしさが一段落してからは、勤め帰りの一刻を地
酒﹁七賢﹂で名物﹁馬サシ﹂をつまみに盃を酌み交わして、盆地特
有の酷暑と厳寒を乗り越えたのも思い出の一ページである。
また、当時は即時網の完成に向けて回線需要の伸びも急速で、大
手 甲府間電話回線も度々回線増設を行った。我々は、この需要に
収容
CH
も可能であると判断し上部局へ上申した。その結果、数年後には二
データを分析し、 現在の保守技術を加味するならば二四〇
−
応ずることを念頭においてUF B1方式の定期試験等で得られた
−
四〇
CH
神奈川
一六二
含 む
茨城を
千 葉
一一四
馬を含む
栃木、群
埼 玉
計
六六〇
氏 名
生年月日
︶
︶
・
︶
・
・
・
・
︵
・
工藤熊三郎 様
・
︶
・
・
・
・
︵
・
︵
︵
川崎 昌一様
三浦伊登美 様
倉井 正治様
︶
︶
・
・
・
・
︶
・
・
︶
︵
︵
・
小林 逸正様
小宮山俊雄 様
・
年令
︵台東区池之端一 三︶において会員二八二名、来賓八名、退職者
を送る会﹂ として去る七月一八日 ︵金曜日︶ 池之端文化センター
平成九年度における首都圏無線会主催の退職者送別会は﹁二〇氏
87 87 88 89 89 91 91 92 93 93
お知らせ
東 京
関東以外
を 含 む
二〇七
一七七
無線支部の会員数︵平成九年九月末現在︶
地区名
会員数
・
︶
・
・
・
・
︶
・
・
・
︵
︵
・
︵
花島仁吉様
・
首都圏無線会の動き
︵
30 15 7 23 5 11 6 5
野本 繁様
野本 清様
7 17
栗原 雄一様
5 10
5 5
右のうち名誉会員は七〇名、女性会員二一名です。会員数は前年
同月末に比し四名増加しています。
会員の叙勲と受賞
平成九年秋の叙勲
中川金次郎 様 ︵勲四等瑞宝章︶
次の方々に新日本ITU協会より国際協力賞が贈られました。
大 野 寛 様︵九・一〇・二︶
駒形 郁雄 様︵九・一〇・二︶
山 形 進 様︵九・一〇・二︶
皆様おめでとうございます。
長寿番付十傑
会員の中から長老十名の方々を十傑として紹介します。御長寿お
めでとうございます。益々の御壮健をお祈りいたします。
43 43 42 41 41 39 38 38 37 36
1 12 9
革期を迎えている時とて冒頭﹁此の時期に退職される貴方達が本当
若生所長は無線部門がNTTの再編を目前にして組織の大きな変
れ、先ずTRC若生所長︵首都圏無線会会長︶が挨拶されました。
会は一八時四〇分関東技術総合センタ松浦課長の司会で始めら
れました。
職し、無線人として長年に亘り功績のあった方々で一六名が出席さ
ファシリティーズ及びNTTテレコムエンジニアリング︵株︶に在
T中央パーソナル通信網 ︵株︶、 NTTデータ通信 ︵株︶、 NTT
今回の勇退者は二〇名でNTT、NTT移動通信網︵株︶
、NT
一六名を迎えて開催されました。
−
51
M M M M M M M M M M
1 9 6
4
IX
1
2
3
したうえで長い間の労苦を犒い第二の人生の健闘を祈り激励されま
に羨ましい﹂と発言し、今後のリストラに不安を滲ませた言葉を残
に左に移動しまたゝくうちに賑やかな宴会場となりました。
一円から参集の会員は会場に溢れんばかりで、盃を手に人の波が右
が衛星、移動通信の今後の繁栄を称え、無線のゼッケンをつけて今
次いで来賓として出席のNTT移動通信網︵株︶森永常務取締役
関東一本締めで一同再会を約して散会となり、恒例の昔懐かしい人
時を迎え、中締めとしてNTTドコモ資材部四ツ島購買担当部長の
への思いも深く尽きない話に時を過ごし、やがて宴酣にして別れの
は云え無線部門に押し寄せるリストラの波が殊更に高い事とて組織
年に一度の集いとて先輩、後輩の昔話にも花が咲き、時の流れと
後共に大いに頑張ってほしいと激励すると共にドコモは無線ファミ
した。
リーの受け皿として常に門戸を開いておくので第三の人生はどうぞ
間アーチの許に退職者一同を見送りました。
古巣の集い
た。
○ 超短波会、那須山へ
の勇退者の方々の略歴を詳細に披露され、此れに対して退職者を代
終わって関東支社ネットワーク運営部清水災害対策室長が一六名
八名で決行した。雨上がりのせいか沿道の新緑が特に鮮やかで我々
ん、里見さん、中村さん、三品さん、松本さん、岡崎夫妻、亀崎の
参加者は一番張り切っていた村上副会長も急用で欠席、結局松沢さ
九年六月六日東北新幹線那須塩原駅一四時集合と決めた。最終的に
佐川さんが体調悪く入院のため、 亀崎が幹事を引き継ぎ、 平成
″
月末から六月上旬を予定する。
︵八幡崎のつつじが美しい︶と云われており、昨年、超短波会で思
″
い出のある那須で つつじ を見る会を開くことに決め、時期は五
那須高原の八洲つつじ ︵俗称レンゲつつじ︶ の見頃は六月上旬
︵中村恒男︶
本会には当支部として山根支部長、中村副支部長が出席致しまし
我が社へと頼もしい挨拶がありました。
又NTT設備企画部佐藤電波部長がロングラインの見直しに触
れ、二〇一〇年迄に固定回線としてマイクロの導入が検討されてい
る事を披露し、ロングラインに対するマイクロの明るい未来像が解
説されました。
旧友会から来賓として出席された山根支部長は旧友会の名称変更
とその経緯に触れると共に第二の人生は何かと孤独感にさいなまれ
るものである、と自らの体験を述べ今後現役、OB間に情報交換の
場を確立したいとの希望を訴え第二の人生の健闘を祝し挨拶されま
した。
引き続きNTT移動通信支部佐藤執行委員長が組合を代表して退
表して元ドコモ多摩支店衛藤サービス推進部長がNTTの分社、民
職者一同に力強い激励の挨拶がありました。
営化を迎え私達退職者一同は第二の人生に対して精神的・肉体的に
を迎えてくれる。駅前から旅館組合手配のシャトルバスで那須平野
″
乾杯の音頭はNTT移動通信網 ︵株︶ 津田取締役の発声で行わ
れた。
を一路大丸温泉︵標高一二五〇米︶へ、今年は春先暖かい気候のた
″
め つつじ の最盛期は過ぎてはいたが、大いに目を楽しませてく
も大いに頑張って行きたいと力強い挨拶がなされました。
れ、待望の懇親会の幕明けとなりました。
広い会場に設けられたテーブルに所狭しと料理が並べられ、関東
52
5
山。一休みの後、昼食をとり
じ を見ながら大丸温泉へ下
″
宴会は松沢さんの挨
″
那 須 茶 臼 ︵一 九 一 七
明日は天気が良ければ
夜の更けるのも忘れ、
に訪れた那須高原は、空気も
い旅であったが、五十年ぶり
だんと遠くなり一泊二日の短
見 る と、 那 須 茶 臼 岳 が だ ん
新幹線に乗り 振り返って
″
拶、里見さんの乾杯と
米︶ へ 登 る た め 早 め
労したことをすっかり忘れさ
帰途につく。
に 切 り あ げ、 日 本 の
せ、機会があればまた訪れた
過ぎし日の思い出話に
秘 湯、 山 の い で 湯 で
・・・
″
有名な 川の湯 の野
︵幹事、亀崎光一︶
いと思っている。
爽やか清々しい気分で当時苦
天風呂にゆっくりつか
り、疲れをいやすこと
にした。
通称ハーバーサービスの横浜無線送受信所の揺籃期時代の仲間と
○ ハーバーサービスの会
全快祈願のため那須温
なりますと、三十八、九年も前の事ですので都合の宜しい方の集い
翌朝佐川さんの病気
泉神社に参拝、お札を
となり、二代目の所長でありました大場清次さんを囲んで懇談会を
開きました。
さずかった。
岡崎夫妻が殺生石を
んの回想﹁港湾電話の幕開けと余話﹂が掲載された記事が発端とな
偶々旧友会東京無線支部の会報︵三十七号・平成八年︶に大場さ
唐から渡ってきた金毛九尾の狐が玉藻前と称して宮中に入り、その
り、一度当時の仲間で集まらないかとの話が持ち上がり平成九年八
見学、その伝説とは、
正体を見破られ、東国へと逃れたが、那須野ヶ原で射殺され、その
名が参加し懐かしい中国料理を突きながら、若かりし頃の元気の良
かった仲間に戻って、紹興酒を飲みながら誰にも話して無かった秘
月十七日︵土︶十三時から所縁の横浜中華街の﹁赤い宝石﹂で十一
怨念が毒気を放つ殺生石に化け、この付近一帯には亜硫酸ガスが湧
″
き出し、硫黄の臭いが鼻をつく 飛ぶものは雲ばかりなり石の上
と歌われ、危険防止のため柵で囲んである。
した。
話も時効とばかり披露されるなど時の経つのもわすれて懇談致しま
山麓駅から那須ロープウェイに乗り所要時間四分で山頂駅着。山
″
頂は風が強く肌寒いので早々に山麓駅から約三十分かけ 八洲つつ
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○ 第十二回椎柴会
会は二年振りに平成九年
九月二七日一八時から参加
者二〇名で懇談会は始まっ
た。 例 年 で す と 椎 柴 局 眼
下、利根川畔の釣宿菓子屋
旅館利用が多かったが、平
成八年三月銚子無線廃局、
不慣れな幹事に交替等があ
″
り今回の かんぽの宿・旭
での開催になりました。
会場は他客と同席の大広
間で土曜日という事もあり
満席で、宴が進むにつれ懐
旧談、カラオケに、奇術も
用し、益々発展するよう関係各位の御協力を心からお願い申し上げ
しい分野でこの広大な土地と建物が周辺住民や社会のため有効再利
局舎周辺は雑草が浸入し始めており、寂寞感で一杯です。今後新
九年九月末で続いて椎柴無線は平成一〇年三月姿を消す。
明治四一年以来局周辺を君臨睥睨していた鉄塔、小畑無線は平成
足以来、大場清次会長が体調を崩し初欠席。
時間が過ぎ一二時お開きとなりました。残念な事は昭和五四年会発
飛び 出 し て 盛 況 の う ち に 三
″
今でこそ移動電話は華やかでありますが、当時の私達の職場は家
内工業のような余り日の当たらない所であって港湾台︵電話運用︶
と移動機側︵船舶通信︶と表裏一体となってサービスの向上を図り
その船舶通信の仲間の方である原さんや今井さんからも折があっ
ました。
たら参加させて貰い当時を回顧したいとの話が持ち上がっているの
ますと共に当会に御縁があって未加入の方の参加を歓迎します。
︵幹事 柴 晃、横川忠雄︶
で、何れ要望を検討し実現を図ったら如何かと思っています。
︵幹事 木谷保雄︶
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支部からのお知らせ
NTTの再編を迎え無線部門の現場機関は総括局︵RC︶
、中
心局︵DC︶を問わず、設備部門の業務が大幅にテレコムエン
ジニアリング︵TE︶会社に移管され、既に一〇月一日現在都
内、各県共に中央NWCを除き総てのネットワークセンタは廃
止となりました。
今のところNTTの最終組織︵平成一一年七月︶の展望が全
くつかめない現状でありますが、当支部としては組織の推移を
見守り乍ら無線支部のあるべき姿について皆様と共に検討して
行きたいものと思っております。
会員名簿は例年八月末に修正のうえ発行しておりますが、その
正確さを期するのに何かと苦慮しているところですので、間違
いを発見した場合は早目に連絡して下さい。
会員の中で再就職等についてご希望のある方は会報 ︵第四〇
号︶巻末に会社広告を掲載しておりますので、此等を参照し大
いに利活用して下さい。
その他
会員の杉山義一さんから出版図書﹁日本狂奏曲﹂
︵近代文芸
社刊一、二〇〇円︶が寄贈されました。青春時代︵中学、高専、
逓信省検査官︶のロマンとあこがれ、出逢いと別れをテーマに
した小説です。
杉山さんはこの外﹁世紀燃ゆ﹂
﹁ニッポン太平記﹂を出版し
ております。詳細は氏の﹁近況だより﹂にのべられており興味
のある方は一読して下さい。
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編集後記
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○ 中央ネットワークセンタ所長坂田好男様より﹁情報通信市場﹂
を取りまく国の内外の環境の厳しさについて、さらにはNTT
の対応と再編、長距離事業の運営等について詳しく解説された
原稿を頂き、ご多忙のところ、誠に有り難うございました。
我々OBとして大変参考になりました。 厚くお礼申しあげ
ます。
○ 山根支部長の﹁年頭に思う﹂の中で旧友会の名称変更︵電友会︶
の外会則の変更にふれられております。どうぞご覧下さい。
また外国のOB会の状況、活動のあり方等についても言及さ
れておりますので参考として下さい。
○ 本号でも恒例により企業トップの会員の方々から広告掲載を頂
き誠に有り難うございました。厚くお礼申しあげます。
なお再就職等についてのご希望のある方はこの広告を参照し
て利活用して下さい。
○ 本号がお手元に届く間もなく賀詞交歓会、地区懇談会、やがて
春らんまん、そして青葉の季節の総会です。元気な皆様にお会
いできるのを楽しみにしております。
終わりに私事で恐縮ですが、体調不良のため退任させて頂く
ことになりました。坂本さん、牛島さんや諸先輩のご努力によ
り﹁むせん﹂も充実してまいりした。永い間、何時も無理な原
稿依頼を申しあげたにも拘らず快く承諾していただき本当に有
り難うございました。厚くお礼申し上げます。
なお次号より高村邦夫さん、駒形郁雄さんが担当することに
なりました。私同様よろしくお願いいたします。
︵佐川︶
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