復刻版

復刻版
bababababababababab
本復刻版は会報﹁むせん﹂第 号︵原
ご了承ください。
異なっている場合もあります。併せて
ましたが、ソフトウェアの関係で一部
また、なるべく原本に忠実を心がけ
はあしからずご了承ください。
漏れがあるかも知れません。その場合
ため校正は慎重に行いましたが、校正
テキスト化の時、誤変換が発生する
ト化して再構成しました。
本︶をスキャナーで読み取り、テキス
32
﹁特別寄稿﹂NTTドコモカスタマ技術センター 松橋 所長
目次
大変化の中に⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮副支部長 牛 島 義 男
追憶
小巻弘三さんを偲んで
針生昌次
VIII
堀井国郎
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
IX
森下一郎さんを憶う
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
4
名雲理武
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
4
岡田幸内さんを偲んで
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
4
浅見右平
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
4
長谷川四郎さんを偲んで
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
7
6
5
4
3
2
1
新会員証の配布
アンケートの実施
サークル活動
電話順送表の配布
会員名簿の配布
本部会報の配布
支部会報の発行
慶弔・お見舞い
8
役員会および常任幹事会
随想
VI
小笠原の想い出
初めての海外出張
陣痛の記
老人の暇のあり過ぎ
松井泰助
沼倉昭二
西坂敏治
牛島義男
石田 守
お知らせ
回想東京無線︵七︶
趣味・遊び・道楽
VII
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
アンケート集計結果
首都圏無線会の動き
17 16 15 14 14 14
19
27 25 24 23 22 22
平成五年度上半期事業実施概要
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
小林定夫
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
平位忠郎さんを偲んで
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
5
9
平成五年度役員
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
無線支部の会員数
1
支部総会
. . . . . . . . . . . . . . . . .
5
会員の近況だより
支部総会模様
2
新入会員の紹介
3
28
35 33 32 32 32
V
5
10
サークル活動状況
4
1
5
7
6
4
3
I
II
III
IV
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
古巣の集い
. . . . . . . . . . . . .
支部アルバムの作成にご協力を
5
編集後記
38 35
39
6
とになったところから話してくれよ。
A氏﹁NTTの移動通信部門が子会社として、分社されるこ
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
もNTTドコモ東北とかいう会社ができたんだ。﹂
TT移動通信︵NTTドコモ︶なんだ。同じように各地方に
ビスを受け持ち、さらに全国の親会社の機能も持っているN
B氏﹁うん、それが中央移動通信と合併して関東と信越のサー
出来た訳だね。﹂
A氏﹁なーるほど、じゃあ東京エリアをサービスする会社も
が全国九つの移動通信会社に分社されたのさ。﹂
動通信網︵NTTドコモ︶として独立し、昨年七月にはそれ
その方針に基づき一昨年七月に、先ず移動通信事業部門が移
方毎の子会社とする﹄ 政府方針が出されたのが契機なのさ。
争状況を実現するために、NTTの移動通信部門を分社し地
法律の見直しの時に、﹃移動通信分野に於いて一層の公平競
B氏﹁君も知ってるように、電気通信事業法施行後五年目の
最近の移動通信について
所長 松 橋 昭 一
NTTドコモカスタマ技術センター
明けましておめでとうございます。
会員の皆様には、お元気に新しい年を迎えられたこととお
喜び申し上げます。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
私、只今NTTドコモのカスタマ技術センターに勤務して
おりますが、 時々お会いする会員の皆さんから、﹁カスタマ
技術センターって何をするところなの?﹂ とか、﹁この頃の
移動通信の動きがさっぱり分からない!﹂とかのお話をいた
だきます。そこでこの紙面を借りて、久しぶりに逢った、N
TTOBのA氏、B氏二人の会話を通し、少しご紹介したい
B氏﹁そうだね、我々当事者も。動きが速くて戸惑う位だから、
どうなっているのか聞かせてくれよ。
﹂
外漢には、 最近の移動通信の動きが良く見えないんだけど、
の会社は、NTTドコモと合併したんだって、どうも我々門
A氏﹁うん、元気だよ。君も元気そうだな。ところで、先日君
B氏﹁やー、久しぶりだな! 元気にしているか?
A氏﹁ところで君らのようなNTTOBはどうなったの? ま
たんだ。﹂
体制にする必要があるということで、合併し受委託を解消し
元的に行い、生のお客様の声を即座に事業経営に反映出来る
に伍していく為には、サービスの始めから終わりまで全て一
B氏﹁そうなんだよ、これからの移動通信分野の熾烈な競争
が無くなったわけなんだろう。﹂
このNTTドコモと合併したのだから、業務の受委託の関係
A氏﹁するって言うと、君の再就職していた中央移動通信は、
よその人にはもっと、分かりにくいかも知れないな。じゃー
と想いますのでお聞きください。
どこから話そうか?﹂
1
A氏﹁そう、君は確か品川テクノセンターに勤務と聞いてい
社に移ったんだ。﹂
う扱いになってはいるが、中央移動通信にいた人は全員新会
B氏﹁君も首とは物騒なことをいうね、OBは特別社員と言
さか首にされた訳ではないんだろうね。
﹂
DOの他に自動車電話サービスをやる会社がもう出来ている
A氏﹁もうひとつだけ聞いてもいいかい、NTTドコモとI
由化されたのと同じようになるんだろうなー.﹂
NTTが民営化された時に一般の電話やコードレス電話が自
B氏﹁うん、まだ最終決定ではないが、きっとなるだろうな。
なの?﹂
A氏・B氏﹁じゃーまた近いうちに逢おうぜ。グッバイ!﹂
今年も大いに頑張ろうぜ。﹂
B氏﹁そうだな、お互いまだまだ、若いもんには負けられん。
だけは若く持ち続けたいな。﹂
A氏﹁もうこの不景気でどうしようもないよ。だけど気持ち
B氏﹁ありがとう。ところで君の方はどうなんだい?﹂
同情するよ。﹂
し、四社での競争にはなるし、君のところも大変なんだなー
A氏﹁するっていうと、これから端末機の売り切りは始まる
いるんだよ。﹂
方式で今年中にサービスを開始することで既に工事を始めて
ンとツーカーフォンという二社が許可されていて、デジタル
B氏﹁そうなんだよ。首都圏エリアには、東京デジタルフォ
んだって?﹂
たが、そこはどうなったの?﹂
B氏﹁品川テクノセンターっていうのは、自動車電話サービ
スを開始した当初から、無線機の自動車への取り付け、故障
の受付や修理、それに技術調査を担当してきた伝統ある職場
で、今回の合併でも、組織や仕事やメンバーは、殆ど変わら
なかったんだ。ただ、端末機器については、技術的に支店や
サービスセンターを指導する立場にあることから、ドコモ本
社の通信技術システム部の一組織になって、名前もカスタマ
技術センターと変わったんだ。﹂
A氏﹁なるほど。じゃーそれ以外の組織はどうなっているん
だい?﹂
B氏﹁うん。組織は本社と現場の二段階の構成を基本として
いるんだ。現場としては、都内に七支店、各県に一支店が配置
されていて、さらに都内には料金や電話による契約申し込み
受付やネットワーク保守業務を集約的に行うセンターがある
と言うことで、少しは分かって頂けたでしょうか。
んだ。また支店は、電電公社の時の通信部のように、各県の
最後に、今年も会員の皆様がお元気で活躍されますように、
また会がますます発展されますよう心からお祈り申し上げ、
移動通信サービスの経営に全責任を持ってあたるようになっ
A氏 ﹁うん、 よく分かったよ。 で、 この春から端末の無線
失礼いたします。
たんだ。
﹂
機が売り切りになるってうわさがあるんだけど、あれは本当
2
大変化の中に
副支部長 牛 島 義 男
会員の皆様、明けましておめでとうございます。新しい年
を迎えましたが、今年は如何なる年がわたし達を待っている
のでしょうか。
国内外の政治、経済などの近時の大変動のことは、まずおい
て、わたし達の母体であるNTTのなりふり構わぬばかりの
辛い決断に、その厳しい経営状況をひしひしと感じています。
販売情報の提供とか、サービスの口コミ宣伝とか、業務運
営上に役立つ提案とか、わたし達OBが出来ることは、例え
七十歳以下の会員が八〇%近くを占めており、若手の人は
もちろん、七十歳ぐらいの人でも健康な人が多数を占めてい
ます。つまり無線支部の会員は未だ溌剌として社会に貢献し
ている人や、貢献でき得る健康人が沢山いると言うことを物
語っています。
近い将来、日本人の四人に一人は老人が占めるなどと恐ろ
しいことが言われています。年金財政も必ずしも安心とは言
えないそうです。働く人口が激減して生産性が落ち、国の凋
落が心配だとも言います。
必然的に、老人という言葉のイメージが変わり、皆、何ら
かの社会への貢献、 働きを求められるようになるでしょう。
そういう意味では、いま無線支部の会員は、その先鞭をつけ
ていると言えるかも知れません。
﹁まず健康﹂です。そして、心してこの明治維新、終戦時
にも劣らないとさえ言われる大変化の時代を乗り切りたいも
のでございます。
3
些細なことでも協力を積み重ねて行きたいと願っています。
考えてみますと、人生八十年など言われますが、その働き
盛りの三 四十年間を公社・NTTに職を奉じ、多くの仲間
部会員に対し行ったアンケート結果を本号でご覧下さい。
り高いことにお気付のことと思います。また、さきの無線支
線支部の会員の再就職率が、他支部のそれに比較して、かな
試みに、お手元の会員名簿の頁をめくって見て下さい。無
体です。
未来に、いろいろな環境変貌の中を不変に一本貫いている団
しを食べた仲間の無線支部です。太い棒のように、過去から
その戦友たちの集う団体が旧友会です。同じ無線の釜のめ
重みをもっています。
と苦楽を共にしたことは、家庭同様に、人生において最大の
−
平成五年度上半期事業実施概要
支部総会
をご覧下さい︶
。
平成五年六月十二日︵土︶千駄ヶ谷の全郵政会館で開催しました
︵詳細は
慶弔・お見舞い
長寿のお祝い
平成五年度において長寿の記念を迎えられた次の方々に、総
会 当 日、 支 部 長 よ り 記 念 品 を 贈 呈 い た し お 祝 い を 申 し 上 げ ま
した。
︵敬称略 生年月日順︶
吉 田 馨、橋 本 章 三、加 藤 平 吉、 斉藤政太郎
米寿 川 崎 昌 一、倉 井 正 治、小 林 逸 正
西 形 林 造、石 井 武 雄、友 田 五 郎、高 尾 潔
横 山 辰 男、谷 島 明、宮 崎 好 彦、小 沢 勇 三
内 田 音 治、弘 世 弘 信、名 雲 理 武、加 香 辰 雄
野口 謙也
傘寿 氏原清一郎、木 村 武 夫、臼 井 忠 雄、三 須 操
喜寿
富塚 一郎
平成五年度上半期中に次の方々がお亡くなりになりました。
ご逝去
謹んでご冥福をお祈りいたします。なお、告別式にあたり支部
から香華をお供えいたしました。
長谷川四郎 様 ︵七〇歳︶ 心筋梗塞
岡田 幸内 様 ︵八四歳︶ 腎不全
森下 一郎 様 ︵六九歳︶ 心不全
小巻 弘三 様 ︵七三歳︶ 心筋梗塞
五・九・九
五・七・一七
五・五・二三
五・五・二二
五・五・二〇
黒田 修一 様 ︵七四歳︶ 呼吸器不全 五・三・三〇
平位 忠郎 様 ︵六四歳︶ 肝不全
病気のため長期にわたり療養中の次の方々に支部からお見舞
病気お見舞い
いをいたしました。
小松崎善吉 様 稲葉久男 様
支部会報の発行
第三一号を平成五年六月に、 また、 本第三二号を今回発行しま
した。
本部会報の配布
第四六号を平成五年六月に、また、第四七号を今回配布しました。
会員名簿の配布
4
III
(2)
(3)
3
4
5
I
1
2
(1)
平成五年度会員名簿を十一月に全会員に配布しました。
︶
氏名︵役員就任年月︶
古市 米雄︵元・
︶
役職名
大場 清次︵元・
︶
支 部 長
副支部長
牛島 義男︵元・
佐川 秀夫︵元・
山本 義雄︵元・
︶ ︵注1︶
︶
千葉〃
〃
〃
神奈川〃
〃
〃
東京地区
吉本 正︵
篠目 和英︵
平田 豊︵
山名 照雄︵
森山 勝己︵
堀井 国郎︵
関 政雄︵
鈴木日出夫︵
林 憲男︵
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
︶
︶
︶
︶
︶︵注2︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
〃
高岡 泰資︵
︶
6
電話順送表の配布
〃
・
︶
︶
・
・
常任幹事
新良貴 守︵
・
鈴木 秀明︵
〃
中村 恒男︵
事
〃
斉藤 俊隆︵
監
〃
〃
・
︶
〃︵会計︶
埼玉〃
渡辺 淳︵
6
︵注2︶前任者 佐川秀夫氏の後任。
︵注1︶前常任理事 戸室新一郎氏ご逝去に伴う後任。
幹事 〃
6 6
平成五年度版を九月に、対象の全会員に配布しました。
をご覧下さい。
6
6 6 6
サークル活動
各種サークル活動を展開しました。
アンケートの実施
3をご覧下さい。
支部総会のご案内に併せて会員の健康状態についてお伺いしまし
た。集計結果は本号の
新会員証の配布
電友会会長名による新会員証を平成五年九月に全会員に配布しま
した。
役員会および常任幹事会
役員会を一回、常任幹事会を五回開催しました︵審議事項は次号
に年度分をまとめて掲載します︶
。
平成五年度役員
5
IV
6 6
6 10 6 6 2
6 6
6 6 6
IX
−
56
56 61 4
62 61 2 61 59 5 4 61 4 63 63
6
7
8
9
10
II
支部総会模様
平成五年の支部総会は、例年利用している番町グリーンパレスが
その日、平成五年六月十二日︵土︶は、梅雨の晴れ間に恵まれ、
使用できないため、千駄ヶ谷の全郵政会館で開催しました。
そのうえ千駄ヶ谷駅に程近いこともあって、少し早めの十二時前頃
から会員が続々来場し始めました。十二時半開会、先ず平成四年度
に亡くなられた十五名の会員の方々に出席者一同黙祷、続いて古市
支部長の古い仲間にまつわるエピソードを交えたあいさつがあり議
事に入りました。
議案として提案されていた平成四年度事業報告・同決算報告・平
成五年度事業計画案 ・ 同予算案がそれぞれ満場一致で承認されま
した。
続いて迎寿会員にお祝いを贈呈し、 次いで昨年支部役員を退任
した池田嘉文様 ・ 石毛光郎様に原田会長から感謝状が授与されま
した。
次に当日わざわざご出席をいただいた原田会長のご祝辞があり、
旧友会の今後の在り方を中心としたお話がありました。
総会終了後恒例により懇親パーティに入りました。当日の出席会
員百六十五名が十一名の来賓のNTT幹部の方々をお迎えし、まず
支部長挨拶後、当日特にご出席の立川関東支社長のご祝辞をいただ
き、続いて梅中央ネットワーク所長のご祝辞がありました。
お二人からは、それぞれに私たちの母体であるNTTの厳しい現
状についてお話があり、出席会員みな何かNTTのお役に立たねば
としみじみ考えられたことと思います。
パーティは、 山根信義様の乾杯の音頭で始まりましたが、 会場
いっぱいの人、豊富な飲み物、懐かしい想いで話などで忽ち盛り上
がり、十六時閉会に至るまで時の移るのを忘れ皆で楽しいひととき
を過ごしました。
︵注︶ 総会提出の議案は、会報第三一号に掲載のとおりです。
6
III
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
サークル活動状況
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
いろいろのサークルが活動しています。
ご気軽に幹事にご連絡下さい。次回の催しをご案内します。
!
新規参加大歓迎!
幹事
宅 ○四八 *** ****
寄 席
鎌田 孝
吉本 正
宅 ○四二三 ** ****
宅 ○四七三 ** ****
活動状況
○ 囲碁サークル
︵有志囲碁大会︶
名の有志による恒例の大会を行った。
時の開館を待って奥まった一隅に陣取り、 特別参加の田川五
碁センタにおいて、
新緑も過ぎてこれから益々日が長くなる六月五日︵土︶
、上野囲
− −
ゲート
堀井 国郎
浅見 右平
池田 嘉文
中村 恒男
鈴木 秀明
大場 清次
斉藤 兼雄
林 憲男
佐川 秀夫
渡辺 審也
針生 昌次
高岡 泰資
青木 善二
鈴木日出夫
宅 ○四二三 ** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○四七一 ** ****
宅 ○四七三 ** ****
宅 ○四八 *** ****
宅 ○四六八 ** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四四 *** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四五 *** ****
宅 ○四七一 ** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四八 *** ****
宅 ○三 **** ****
宅 ○四二三 ** ****
巴戦を楽しむなど和気あいあいの空気が流れた。
グが開始され、夫々一・二位の者が勝ち残った。中には三者同星で
れた。
二十四日︵金︶
、熱海保養所一碧荘において
︵秋季一泊大会︶
な姿で参加されて会は盛り上がった。
敗︶
、敢とう賞 中村二段で。常連の石田、新規の岩瀬さんなど元気
優勝は相場五段︵5勝︶
、準優勝 山田三段︵4勝、田川さんへ一
した。
憩を挟んで夕刻 ︵
段︵搬送︶を迎えて、変則リーグ五回戦の熱戦が展開され、昼食休
絵 画
釣
旅 行
時頃︶ 無事終了、 次回への期待を残して解散
ボール
吉野 桂
平野会長挨拶のあと、全員浴衣姿で
名参加により実施さ
水谷幹事設営による第六回一泊囲碁大会は前日の雨も上った九月
17
時から各組4名の予選リー
時には2階宴会室に全員
夕食後再び元の部屋へ戻り、8名による順位決定戦および他の者
集合し、藤田さんの音頭で乾杯し懇談会が始まった。
早く終了した組から温泉につかり、
15
ゴルフ
園 芸
宅 ○四七一 ** ****
福島 利雄
各サークルの幹事
サーク
ル 名
囲 碁
13
平田 豊
麻 雀
2
11
IV
− − − − − − − − − − − − − − − − −
− −
13
18
−
−
−
− −
− −
−
−
−
−
−
−
−
−
−
7
−
1
の自由対戦を行った。秋の夜が静かに更けゆく中、アルコールを
少し含みながら老青年達は対戦を楽しんだ。
成績は、 優勝 福島五段、 準優勝 小泉三段、 三∼八位は、 田村
各氏であった。
︵初︶
・柏木︵1︶・平野︵初︶
・小林︵3︶
・田辺・小高︵各初︶の
︵追伸︶
伊奈・相場・福島各五段は六段へ昇段し、今井八段・小杉七段へ
近付いた。低位には3級の方もおりハンディ戦ですので、年取って
何時までも楽しめる囲碁へ多くの方が参加されることをお待ちして
︵幹事 福島利雄︶
おります。なお、現在当サークル︵無線囲碁同好会︶メンバーは三
八名です。
○ 麻雀・サークル
平成五年度は、四半期毎の会合としました。毎回二組以上を計画
しています。会員は十三名程度で、女性の方も加入しています。
第一回は、五月廿一日から廿二目の二日間で合計十八名の参加と
なりました。
成果は、中山様、市川様、海老沢様の順です。五時から男の相曽
様は五位、夕食補給後の岩崎様がガンバリましたが、四位となりま
第二回は、九月三日から四日の二日間で合計二十名の参加者とな
した。
り、ややオールキャスト、久しぶりの手合わせです。成果は、中山
様が連勝、前回四位の岩崎様、巣山様の順でした。
第三回は、十二月三日から四日の予定です。
旧友会主催の夏季大会を、 七月丗一日 ︵土︶ 横浜の南幸荘に集
合、十九名の参加者により競技が行われました。参加地区は、神奈
川九名、東京七名、千葉二名、静岡一名です。女性の方が二名参加
して下さいました。
成果は、 東京の海老沢様が優勝、 東京の広田様、 神奈川の山口
様、東京の針生様、千葉の田辺様、六位、七位、九位から十一位は
久しぶりの天候に恵まれて、人出が多く、駅に近い南幸荘迄もま
神奈川、八位が千葉出身の方々です。
れる程でした。
今回の大会から、東京地区幹事山崎輝男様に参加者の取り纏め、
8
鈴木が案内状を、神奈川の中山宗光様には、大会会場設営をと手分
二日の旅を終えた。恒例のサークル作品展は、昨年同様四月始めに
く、既に雪を戴いているであろう富士の姿に心を残しながら、一泊
二一日はあいにく小雨も混じる曇り空で、写生出来る状態ではな
を動かしていた。
東京の渡辺益次様御協力ありがとうございます。 神奈川の相曽
開催の予定。昨年は二〇点を越す傑作が展示され、年々充実して来
けを致しました。今後共、会員の皆様よろしくお願いいたします。
様、町会の役職中を、大会会場に駆けつけて下さいまして、お礼を
︵幹事 渡辺審也︶
平成5年度のサークル例会は、7月4日︵日︶
、金沢八景の船宿
○ 釣りサークル
いますので、病院へおいでの折はぜひご一覧ください。
また、作品展終了後は引き続き関東逓信病院での作品の展示を行
作品を出品してください。奮ってのご参加をお待ちしております。
絵を描きながらまだサークルに入っていない方も多いはず、是非
ております。
申し上げます。
末尾になりましたが、昨年御夫婦にて大会に参加された、平位忠
︵幹事 鈴木日出夫︶
郎様が、九月九日他界されました。ここに慎んで、御冥福を、お祈
り申し上げます。
○ 絵画サークル
九月に入ると例年通り、日比谷同友展︵彩友会展︶
、関東支部O
B作品展、東京支部OB作品展と次々にOBの作品展が開かれた。
関東支部OB作品展は交通会館ゴールド ・ サロンで九月一二日よ
名が出船の8時の1時間ぐらい前から集まりました。
﹁弁天屋﹂から、浅場の人気者﹁シロギス﹂をねらいました。釣り
天狗の
合船で釣る時は、できるだけ静かに釣ります。ベテランは﹁浅場ほ
∼
号ですから、いわゆるオモリに負
15
9
り一八日まで開催、東京無線支部の絵画サークルからも六名のメン
バーが力作を出展、奨励賞を受けるなど大活躍でした。
一〇月二〇 二一日、鎌倉で秋の写生会を行った。午前一〇時、
いていられる場所を見付けるのは中々むずかしい仕事であった。
号、使うオモリは
道具は、竿の長さ1・8メートル∼2・1メートル、オモリ負荷
がコツ﹂と言うほどです。
5∼
10
も行きにくく、一度は訪ねてみたかった切り通し︵釈迦堂︶にも足
を運んだ。独特の景観には皆絵心を動かされた模様で、一心に絵筆
10
れに訪れ、この程度ですんだ事がまあまあの救いであった。鎌倉で
どオモリの着水音で海底のシロギスを散らさないようにして釣るの
シロギスは、物音にかなり敏感で、神経質な魚ですから、大型乗
るなどです。
の上を流して釣る、時にはシーアンカーを入れてゆっくり流して釣
シロギス乗合船は、アンカーで船を泊めて釣る、船を好ポイント
ものの風は全くなく、絶好の釣り日和に恵まれました。
前日までの梅雨空がまるで嘘のような快晴、ウネリは少しあった
11
花のシーズン、紅葉のシーズンのざわめきが思いやられ、時期外
えっていた。それでも観光客はひきもきらず、落ち着いて画帖を開
紅葉にもまだ早い時期のこととてどこの寺も緑に埋もれて静まりか
四季 花で彩られる鎌倉も、今は一番花の乏しい時であり、また
史跡めぐりを兼ねて秋の好日を存分に楽しんだ。
しに、浄智寺や八幡宮などで各人夫々に画帖をひろげ、古都鎌倉の
九名の画家が北鎌倉駅に集合、縁切寺として有名な東慶寺を振り出
−
け気味で、先調子が良い。リールは小型スピニング。ミチイトは2
号。細いほうが潮流の抵抗も少ない。天ビンは幾つもの種類があり
ます。仕掛けは各船宿に常備してあるものが無難です。エサは青イ
さて、 釣り方は、 真っ正面にアンダースローで投げ、 仕掛けが
ソメを切ってタラシ3センチ程度です。
底に着いたらイトフケをとり、このあとゆっくりリールを巻いてく
そこで今年度は、気軽に皆さん参加できるようにと四月に日帰り
旅行を計画しました。
横浜駅からバスで三渓園へ行き、花見の宴を楽しんで、帰りは山
下公園から船で横浜駅へ戻るコースでした。
———————————————————————————
朝九時三十分、横浜駅に集合した参加者は九名。前日幹事が準備
﹂ の壮大な建物を横に眺め
した飲み物、つまみ、弁当を皆で分担しての出発です。
市営の路線バスは ﹁みなとみらい
並みが静かに並ぶ一寸変わった景色でした。
海上バスに乗りました。海から眺める横浜は、大きな空の下に、街
山下公園でバスを降り、横浜港を横ぎって、横浜駅東口へと結ぶ
楽しい一刻の後帰途につきました。
の廻ったせいか一向に気にならない。
我々の車座の向こうを花見の客がゾロゾロ通り過ぎていくが酔い
上を仰ぐと ベッタリと咲き揃った桜が豪華に空を掩っています。
アルコールが体に沁みるに従いだんだんゆったりした気分になる。
場所を選んで花見の宴をひろげました。
くりの建物もあり、優雅な大名生活を偲ばせます。
の庭園です。紀州徳川家から移設した臨春閣という数寄屋風書院づ
あったということですが、さすがにゆったりと落ちついた純日本式
こゝはかつて横浜財界の重鎮として知られた原富太郎の別邸で
昼には少し間があるので皆で内苑を見学することにしました。
の塔が水面に影を映しています。
門を入ると、池を前景にして、この苑のシンボルともいえる三重
てしまった本牧の街を抜けて約四十分で三渓園へ着きました。
ながら県庁前を通り、﹁新しい街づくり﹂で昔の面影が全く変わっ
21
る、これが誘い。巻くスピードは、その日のキスの食欲によって違
うので、最初はいろいろやってみます。
鋭い魚信がきますが、 あわてて大アワセしない。 ゆっくりサオ
を立てても十分ハリ掛かりします。良型だと軟調子の竿先をひった
くるように曲げる引きを見せます。このシャープなアタリがたまら
メートル、 外道はメゴチ、 カレ
日︵日︶カサゴ釣りを予定しています。
﹁案内状﹂
缶ビールを片手にしながらの釣りです。
﹁朋あり遠方よりきたる、
︵幹事 林憲男︶
また愉しからずや﹂皆さんのご参加をお待ちしています。
○ 旅行サークル
昨年は宿泊旅行を計画しましたが、皆さんお忙しいせいか参加希
望者が少なく中止のやむなきに至りました。
10
ない・・・
・。
当日の釣り場は、 富津沖水深
匹、メゴチ多数で満足して帰りました。
次回は、 月
14
をご希望の方は﹁釣りサークル﹂幹事までご連絡下さい。
11
ら、再会を約しました。
天麩羅だねにする包丁さばき、次回の釣り物の希望などを話しなが
ス
イ、ほうぼう、イイダコ、鰯、ベラでした。ちなみに私の釣果はキ
10
港に着くまでの船の中では、 今日の釣れ具合、 メゴチを簡単に
72
———————————————————————————
今年度は秋の一泊旅行も考えていましたが、多忙で実施できず大
変申し訳ないと想っています。
次回は、 希望者が少数ならバスツアーヘの参加を、 また場合に
よっては鎌倉か、三浦半島方面の日帰り散歩も考えたいと思ってい
ます。いずれにしろ皆さんの御希望を反映した計画にしたいと思っ
ていますので、是非御意見を幹事迄お寄せ下さい。
︵幹事 鈴木秀明︶
そして大勢の皆さんの参加をお待ちしています。
○ ゲートボールサークル
恒例になっているテルウェル主催の関東大会に我が無線チームも
参加。天気もまずまず、八月三十一日と九月一日の両日、鬼怒川の
町営コートはOB・OGの面々であふれ盛会だった。
親善第一の目標に従い、無線チームはB組三位の成績だった。
今年上半期の活動は別項に示したとおり、練習は池袋のハタロイ
ヤルスポーツプラザで毎月続けている。基本練習のあとは紅白に分
かれて応用編と云ったコースだが、昨年と同様クラブのインストラ
クターから懇切な指導を頂くこともある。
ところで、今年もまた同じことを述べると
﹃メンバーを増やしたい﹄
。
これはと思う人に声を掛けるので、その方は、ご指名と思ってい
ただきたい。強制はしないが、次に並べるコピーを読んで、その気
になってくれるといゝんだが・・
・。
○ とに角やってみるのがゲートボール︵GB︶。
○ やれば段々︵ルールが︶分かってくるのがGB。
○ 名人以外はみんなドッコイ、ドッコイなのがGB。
○ ニタリ、がっかり、まあいゝや、これが殆どGB。もう一度云
うよ
○ とに角やってみるのがGB。
︵幹事 池田嘉文、浅見右平︶
11
・
・
8
7
・
6
・
5
・
4
・
・
・
8
9
参加人員
同
右
右
五名 八名 六名 五名 同
右
七名 池袋 ハタロイヤルボール
同
右
五名 七名 同
鬼怒川町立運動公園
︵関東大会︶
池袋 ハタロイヤルボール
大温室、花卉場、結婚式の出来る大集会堂、ワンパク広場の塔や
少年の自然研修を目的とした諸施設が点在しています。
ミニ鉄道、林間教室、展示の大パノラマ等々多岐に亘っており、催
しも年間を通じ毎月二、三回の季節ものの花木展示観賞会や、市民
向けの餅つき、豆まき、花火等の大会と多彩なイベントがあります。
さて、一同打ち揃って入場、折しもさつき、つつじの盆栽展示観
賞会、仕立てと出来栄えの観賞も早々に先ずは初めてのところ各施
自然林に囲まれその合間には、椿、サザンカ、あじさい、つつじ、
設の見物だけでも一時間、先に行くことにします。
菖蒲の各園が色なして季節を楽しませています。公園の中央部分は
大芝生とつつじが丘、人々の動きがよく見えます。我々が立ち寄り
やがて、 それぞれ巡視が終わったのであらためて盆栽展の見直
たくなるグリーンハウスの園芸相談室やモデルミニ庭園の各種。
し、 係員に質問を重ねながら、 目玉とした盆栽教室に参入出来な
かったうさを晴らしていました。
疲れも出てきた頃あい、園内のレストランで喉を潤すことにしま
した。ミニ懇談はニコやかに満足げの顔、幹事の反省も早々に次回
を約束しながら、せめて直販場でお好みの花木をおみやげに求めら
今後、皆さんの意向と今回の経験を生かして愛好の輪を広げたい
れたらと願って散会しました。
と思っていますので、参加を願って止みません。
追伸、共済会の園芸講習会は、五月十日︵月︶今回も定着した江
出しものも先生の専花洋らんは相変わらずでしたが、いつもの土曜
尻先生の農園︵市川︶で行なわれ、無線の新顔を含め九人が参加、
ケート場、バス通りに面した入口前は展示直販場、駐車場、食事の
聞を願いたい催しです。春と秋、共済会から案内がきますので一度
日が月曜に変わって参加も少なくなっています。新会員の先ずは見
の大庭園、農業振興、青
出来る店が並んでいるチョッとしたレジャー地域です。
近くにNHK川口送信所があり、隣接して市立の広場やプール、ス
当所はJR川口と東川口駅の中間、東側地点、バスで約二〇分、
を得て初めてとしては上々の集いでした。
に近い川口市立グリーンセンターに地元周辺の方々一〇人程の参加
さつき空の好天に恵まれた五月末の昼さがり、植木、盆栽の本場
します。
の春、園芸公園の見学会を実現できましたので、この模様をご紹介
が、かねてから当サークル独自の企画をと選考していたところ、こ
従来は共済会の園芸講習会を目玉として参加を勧めてきました
○ 園芸サークル
9
場所および実施大要
平成五年度上半期ゲートボール部実施状況
実施年月日
・
5
・
・
・
5
・
・
・
∼
5
・
5
昭和四二年十一月に開園した一六万余
m2
12
5
5
31 24 20 22 25 20
28 1
5
5
参加されるよう勧めます。
○ 寄席サークル
︵幹事 堀井国郎︶
ご存じの通り寄席サークルは大変面倒見の良かった戸室新一郎さ
んが、不慮の事故で亡くなられたものですから茫然とし手につきま
月日の経つのは早くサークルの世話人の担務の入れ替えなどで
せんでした。
新世話人で遺志を引き継ぎ、 より楽しい寄席の観賞をと考えて居
新任の吉本、鎌田の両氏と私の体制で今年は次のよう要領で進め
ます。
秋たけなわの十月の三十日古典落語で腹を抱える積もりです。今
て居りますが応援下さいますようお願い致します。
13
年も二十名近くの参加で楽しい集いになりそうです。寄席の会場で
あります上野の鈴本演芸場と夜の部の宴会場の古池等は変わりませ
んが、弁当は判で押したような大船軒の鰺の押し寿司でしたが、今
年からがらりと変えますので、ご期待下さい。
私事で済みませんが、この九月、久しぶりで中支の上海、蘇州、
″
杭州、無錫に行ってきたのですが、その折りあの有名な 上海の遊
″
観覧席も大きいのですが、外国人のお客三分の一は日本人だった
技団 を観たのですが、テレビの画面に比べると迫力が違いました。
と思いますが、 我を忘れて拍手して居ましたが、 生は素晴らしい
スケールは遊技団に引けをとるかも知れないが、生の﹁噺し﹂は
です。
一年に一度大掃除の積もりで高笑いして体内の毒素を吐き出すお
面白いと思います。落語は世界に誇れる芸術です。
手伝いは寄席に限りますので、気が向けば足を運んで下さい。
︵十月中旬記 幹事 木谷保雄︶
M
e
m
o
∼∼∼∼∼∼∼∼∼
追憶
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
小巻弘三さんを偲んで
針生 昌次
︵宇都宮統無中五八年退職︶
小巻さん御逝去を知らされた時、余り突然の事だったので一瞬言
葉も出ませんでした。それもその筈、その二週間前に池袋でゲート
ボールの練習を一緒に楽しんだばかりで、五月十三日その日奥様が
バス停迄迎えに出掛けた折、胸の痛さを訴えられ、すぐ入院されて
そのまゝ眠りから覚めず、意識を回復される事なく五月二十日永眠
され、誠に残念に思います。
小巻さんと私との出合いは、昭和三十三年座間特別統制無線の時
でありました。
小巻さんは既に在勤しており、私共はこの年に駐留軍の無線回線
を全面的に委託保守を受け、大多数要員増となった時期でした。小
この様な時でも小巻さんは、若い職員の指導に常日頃の信頼から
行き届き、皆を勇気づけ、完全な操作が出来、未だにその情景が眼
に浮かんで参ります。
その後、 昨年私は無線旧友会のゲートボールクラブに入会した
処、 小巻さんは既に入会されていて審判員として競技の指導をな
さっておりました。
又御町内では、ゲートボールチームの部長を務め、チームの技術
の向上を何よりの喜びとされていた由。英会話、書道にも優れ、人
望厚き人柄が偲ばれます。
これからは二人で旅行でも⋮⋮と話し合っておられた矢先にこの
ような突然の出来事に奥様の悲しみは如何ばかりかとお察し申し上
げます。
良き先輩のご冥福を心よりお祈り致します。
昭和三十二年九月
昭和二十四年二月
東京統制無線中継所
座間統制無線中継所
座間無線中継所
根岸無線中継所
東京管理所 採用
昭和三十三年三月
主なご略歴
昭和二十年十月
マンスリマンとして週一・二度米軍整備の試験等こと細かく指導を
昭和三十八年十一月
退職
巻さんは第一試験課に、私は整備課に配属され、日夜勤務の輪番で
受けたものでした。
昭和五十三年十月
次の再会は昭和四十六年、 TRCの操作課でした。 こゝでも彼
は、操作課のベテラン保守要員として大活躍しており、この年の七
堀井 国郎
森下一郎さんを憶う
ハツカ
報があった。
去る五月廿日過ぎ訃報が相次いで流れたなかに森下さんの死去の
︵双子無中五八年退職︶
月に木星号航空機事故、そして八月には雫石上空での航空機接触事
故の大惨事となり、テレビ中継は大騒動でした。
特に木星号の場合は事故がテロップで放映されてから三日間も現
場が発見出来ず、テレビは特番に特番が組み込まれ、我々操作マン
は、二重受付が絶対ない、誤操作を許されない極限で頑張ったもの
でした。
14
V
いでいたので、入院していることも知らずダイレクトな訃報に接し
どうしてと、みずからを問い返した。この春、元気な姿に会う思
社生活のなかでこのように子供達が懐かしんだのは後にも先にも覚
をみて貰い、そのことを息子達はよく覚えています。おそらく、公
ショーなど一日楽しい思い出を残してくれました。親も及ばぬ面倒
えはありません。
て余計悔いだけが残って仕方がありませんでした。
森下さんを知ったのは無線工事局時代で、一緒に仕事をしたのは
病院へ、先生の指導に従い、又奨める薬を飲み、酒を慎み決して無
森下さんは、いつも自分の健康には気をつけ、定期的に伊豆逓信
昭和二三年頃、中途採用で特電局へ配属され、その後電信調整所
理をしなかったので安心していましたが、元気な時に恩返しも出来
気象無線が多年の懸案だった新庁舎に移った忙しい頃でした。
に移った頃、工事局へよくこられ、小ブトリな体でカラカラ声を出
ず残念の極みです。
私は今まで九文字以上の戒名を拝見した覚えは余りありませんで
して話をしている姿が印象的でした。
その頃から資材業務をやっていたようで、その後、都内や遠いと
したが、森下さんは立派な戒名を戴き極楽浄土に行かれました。
以上
︵関通五〇年退職︶
ろが奥様に麺類をどんどん持参させ補食するのをみて、岡田さん自
ら、私には嬉しさの反面羨ましさを隠すことができなかった。とこ
をし体力をつければ回復する見通しときき、明るい言葉を聞きなが
同病と言いながら、手術の欠かせぬ私なのに、岡田さんは、静養
も過ぎただろうか。
て同じ病室になるよう骨をおって頂いた時のこと。もう四五年ほど
槻受信所の先輩でもあった岡田さんに勧められ、同じ病院に、そし
こんな調子で明るく希望の湧く話をしてくれた。これは職場、岩
﹁名雲さん、調子は如何か、大丈夫よ、大丈夫、ハ・・
・
・
・﹂
名雲 理武
岡田幸内さんを偲んで
れんことを願って止みません。
こゝに慎んでご冥福をお祈りすると共にご遺族が強く生きて行か
ころで小生が気象から転出したかつての新島へも行かれたが、職場
は東京中心、気象でも資材専任でした。
しかし、輪番補充など頼まれゝば年をいとわず気持ちよく引き受
け、皆んなから森さん、森さんと親しまれた人柄でした。いつもニ
コニコと丸顔に微笑を浮かべ、時として太い声で若いものを叱る姿
が思い出されます。
表に出ない仕事を長年やっていたせいか余り知られていない人で
したが、いつも元気な人でした。そして時折りは義の気持ちを現わ
し、酒でまぎらわしていたようです。
私が気象時代、二人の息子が当時小学生の頃、ぜひお父さんの職
場を見学したいと下の息子が言い出したので、或る土曜日の午さが
り、新しい気象庁に連れていったことがあります。まだ帰らないで
待っていてくれた森下さんが見学の案内など面倒をみてくれ、帰り
にはクラインの鑽孔したテープを貰い息子は大喜びでした。
これがきっかけとなって、二回に亘って、森下さん宅と近くの立
川米軍基地の航空記念日に息子二人共々招かれ、 飛行機の見学や
15
身は見通しを不安に思っているのだ、明るい話は私を思いやっての
事だったと心にしみた。
努力と幸運に恵まれ、めでたく退院した岡田さんは、後に受信所
の初代庶務課長に任ぜられたが、その多忙のなか療養中の私に、ま
た私の留守宅にも何かと温かく面倒を見てくださったものだ。
私が療養を終え、そして転勤した後受信所は廃局に。岡田さんは
所長の代理として関係処理事務に腕を振るわれ、その後は東京無線
通信部兼関通局長室調査員に転じ定年を迎えられた。
岡田さんとは、病院時代の印象が一番深い。その外はお互いに退
院、 転勤ですれ違うことが多かったからだ。 が、 いざお会いする
と、たちまち昔の温かく懐かしい雰囲気に包まれる二人だった。
若いとき野球や、相撲で鍛えた体とて、回復後はまったく息災、
定年後は受信所関係者の集まりの纏め役や、相談役をつとめられて
きたが、昨年奥様をなくされて俄に疲れを得た様で、旧友会地区懇
談会にも欠席されるようになってしまった。
電話順送で岡田さんの名が出たときは一瞬何かの間違いではない
かと思わず確かめる始末だった。
温かい、そして思いやりの深い人、惜しい人を失った思いで一杯
です。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
ご略歴
同 二十七年
同 二十三年
東京無線通信部兼関東通信局局長室調査員
岩槻受信所庶務課長
通信事務官
逓信省 採用
同 三十七年
公社退職
昭和二年
同 四十二年
長谷川四郎さんを偲んで
浅見 右平
︵熊谷統無中六〇年退職︶
低温、長雨の今年の夏、その日も雨でした。長谷川四郎さんのお
通夜は深い悲しみの中、時折りはげしく降りつける七月十九日に行
われました。
長谷川さんの訃報は、前日、里見さんからの電話でした。﹁エッ
長谷川さんが・・
・﹂私は一瞬絶句してしまいました。
ホウ
つい、一ヶ月前、岩槻無線想い出の会でお会いした時は、何時も
と変わらない元気な姿で長谷川さんの方から ﹁やあ、 元気﹂ と聞
かれたばかりでした。 その時は、 第二の勤めも無事終わり、 いよ
く自適の生活が始まったとかで、以前にも増して明るい話しぶりで
した。
長谷川さんと私のおっき合いは、四十年になります。最初は昭和
三十一年春、係長︵当時の職名は主任︶として岩槻に着任された時
でした。直属の上司として、又社宅が隣同士だった関係から公私共
大へんお世話になりました。
長いおつき合いの中で、思い出は数限りなくありますが、そのう
ちのいくつかを思い出し、ありし日の長谷川さんを偲んでみたいと
思います。
あ
戦後、 間もない頃と思いますが電信調整所勤務時代、 エレベー
ターの墜落事故に遭われ全身に深い傷を負われたと聞いておりま
す。 その時の傷から余病も併発され、 しばらく療養を余儀なくさ
れたことかありました。 今になって考えると、 このような事故は
その後の長谷川さんの身体に影響がなかったのかと思われてなりま
16
は別項のとおりで、何れの職場でも要職また、機関長として職責を
おわりにひとこと、お別れの言葉を申し上げ稿を終わります。
果たされた功績は、私が申し上げるまでもありません。
さんは空地を利用して家庭菜園に精を出しておられました。幼かっ
長谷川四郎さん、あなたは、どんな時、どんな所でも忙しく立ち
岩槻着任の頃は、食糧事情も充分ではありませんでした。長谷川
せん。
た子供さんを連れて芋掘りをしているほゝ笑ましい情景は今も忘れ
時には、百花りょうらん花園の中を小鳥や蝶と語り合いながら、ま
回られ、 のんびりしていたことはありませんでした。 これからは
三宅無中には単身赴任でした。この時の事です。しばらく振りに
た、やわらかい日差しのもとで道端の石に腰をおろし、白雲たなび
ません。
岩槻の社宅に帰ったところ、玄関先で奥さんから﹁島の回線が障害
昭和一九年九月
東京無線通信部短波保全課保全主任
東京逓信局 採用
平成五年晩秋
く空を眺めながら、極楽の旅を続けてください。
サマ
昭和三七年二月五日
関東電気通信局保全部市外機械課
古河統制無線中継所長
三宅無線中継所長
短波係長
昭和三八年二月二九日
ご略歴
になっているとの連絡がありました﹂と知らされ、すぐ様、部屋に
も入らず次便の飛行機で帰島されたとのことでした。責任者として
のこの行動は、後々の私の職務に深い教訓となりました。
何時の頃か忘れましたが、秋葉原の電気街で長谷川さんを見掛け
ました。その時長谷川さんは﹁おふくろに補聴器を買ってやろうと
思って﹂と色々品定めをしているところでした。そう云えば、以前、
昭和四一年五月一日
臼井無線送信所長
トシ
お母さんのこと齢とって耳が遠くなったと云うこと等々を話してお
昭和四四年二月三日
宇都宮統制無線中継所長
づか
昭和四六年一月二五日
昭和四九年一月二九日
関東電気通信局建設部総合工事長
きら
られました。親を思うやさしい気遣いも長谷川さんの一面でした。
長谷川さんは演歌が嫌いでした。特にニヤけたような歌は大嫌い
昭和五二年二月一〇日
東京無線通信部兼務
退職
単にメモの用意をすると、平位忠郎さんが、の声を聞いて思わず、
電話順送ですと、 何時も聞きなれた林さんからの声、 比較的簡
小林 定夫︵昭和六一年九月千葉 ネットワークセンタ退職︶
平位忠郎さんを偲んで
昭和五六年三月三一日
で、酒の席で演歌が流れていても決してそのような歌は唱いません
でした。長谷川さんの好まれた歌は明るく健康的なもので、これは
になって三十余年、長谷川さんから頂いた
長谷川さんの性格をあらわしていたと思います。
く
勤務も住所も別れ
チカラアフ
年賀状は、手書き、毛筆で一度も印刷のものはありません。その筆
字は 力 溢れるもので、一見して長谷川さんからの年賀状だと分か
ります。
︵もう二度と頂けない年賀状ですが、今年、平成五年の年
賀状は長く保存するつもりです。︶
順序が後になってしまいましたが、長谷川さんがたどられた略歴
17
問い合わせたところ軽い口調で﹁検査の為の入院ですからご心配無
つい1ヵ月程前に奥さんに﹁平位さんが入院されたそうですが﹂と
九日午後死亡、とのこと突然目の前が真っ暗になった様な気持ち、
平位さんがと問い返す、紛れもなく平位忠郎さんが六四歳肝不全で
ら近かった︶その後は必ず隣同士の打席で色々と教授してもらって
ある日、偶然に平位さんと再会したのです︵お互いに練習所が家か
そして数十年が過ぎ、土曜、日曜の早朝ゴルフの練習所に通った
経てデータ部門で最後は関通データ室長迄大活躍されたようです。
他を経て電力部門に転身、平位さんは施設部無線課、マイクロ部を
の上武カントリーに誘われ三人で楽しく廻り、昨年の秋の旧友会の
く﹂とのこと、安心して病院も聞かず電話を置いたのですがあまり
思えば私と平位さんの出会いは筑波無線中継所に私が昭和二十八
コンペでは奥さんもピンチヒッターで出場、帰りに筑波時代の都築
大分調子が良くなったものです。そして、ご夫婦のメンバーコース
年一月から勤務し、その後約一年経ってから同じ輪番勤務もやりま
氏と一緒に家に誘われ大いに往時を偲んで飲み明かしたのがつい昨
にも突然の急変で奥さんも本当にびっくりされたようです。
した。八時半に中腹の事務所に出勤、小型車で筑波神社まで送って
日のように思い出されます。
ます。どうか、ご冥福を。
に急逝された事はご家族一同様の断腸の胸の内を察するに余りあり
思えばこれからの人生を大いにエンジョイしなくてはならない時
そして冒頭の電話順送でした。
てからはほとんど顔を合わすことがなくなって居た今日この頃で、
その後早朝ゴルフに顔を出される回数も少なくなり、今年に成っ
貰い、それからえっちら、えっちらと歩いて十一時半に引き継ぎ二
十四時間勤務の毎日でした。
当時の保守内容はVHF二〇〇、二五〇MC帯で冬の厳しい日な
どは送電線がよく切れて一晩中エンジンのお守りをした思い、など
厳しい思い出が一杯ですが、楽しい思い出も、沢山在ります。
日曜の勤務にはハイキングの人々がトイレ休憩を兼ねて﹁見学さ
せて下さい﹂と良く入ってきたものです、特に若いギャルは大歓迎
で説明にも力が入ったものです。忘れもしない二十九年の秋﹁真壁
の若い美人を連れて行く﹂ と地元の男性交換手から連絡、 丁度日
曜日で平位さんと私が明けで女性二人と男性三人がケーブルカーに
乗らず御幸が原の山を楽しく語らいながら降り、その後どのような
経過があったかは解りませんがその内の一人の彼女が現在の奥さん
の、正子さんです。
その後三十一年になってマイクロ指導者訓練に平位さんが訓練生
に選ばれ私が聴講生で一緒に那須の中継所に行き受講しました。東
仙札のマイクロ開通前の単体試験を行っている内に私は東端、その
18
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
会員の近況だより
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
︵古河統無中五六年退職︶
今回は、平成六年度に干支を迎えられる会員の方々から次のよう
な近況をお知らせいただきました。
小高 正義
もうすぐ七一才になります。妻と二人だけの静かな生活です。趣
味は囲碁と民謡です。囲碁の方は初段を目ざしてあちこち武者修行
中です。民謡はレパートリーが十曲位でまだまだです。
時々昔従軍した北支戦線のことなど想い出しています。なつかし
︵立川NWC六二年退職︶
いかつての職場だった検見川送信所跡に時々散歩します。
小田切金造
ので六年を経過しようとしています。六十才定年の予定です。
家族 二人の娘が昨年結婚し孫の生まれるのを楽しみにしてい
るこの頃です。
近況 体重が増えぎみの為、暇を見つけては山を歩くようにし
ています。八月中旬には東京都の最高峰雲取山を登ってきまし
た。生憎の雨で景色には恵まれず機会を見て再挑戦しようかと
戦中・米軍進駐・民主化・飢餓・経済復興・発展⋮⋮政治風土の
米寿。
表現すら﹁改革﹂と変わった。戦前・戦後派のメッセンジャーを自
負してきたが、近時の若者には⋮⋮
四半世紀後には、若者が、年金資金拠出に所得の三五%を出すと
のことですが。健康は、適度の運動と栄養から⋮⋮﹁三シグマをは
︵千葉部五十年退職︶
み出さないように﹂と思う、今日この頃です。
北爪 重信
長い長い職場生活から六十六才で開放され早五年。現在は健康に
も恵まれ夫婦二人住まい、 二人の息子達家族も車で三十分位の所
に住み時々ガヤガヤと来訪、まあまあ幸せな家庭環境と思っており
ます。
そこで、私の健康作りを述べますと人間の機能は使わなければ退
化することを頭にしっかり刻み、頭と身体をバランス良く使うこと
に心掛けております。 具体的には経済的な面から準公的社会資源
を大いに活用し、 週三日間は、 英語教室 ・ ダンス教室 ・ 歴史教室
へ、 毎日の散歩六十分、 その他自治会の仕事、 時々好きなドライ
ブ等々⋮⋮⋮。
良き友にも多く巡り合い全く退屈しない日々、を送っています。
︵横浜統無中五五年退職︶
以上が私の近況です。皆様のご多幸をお祈りします。
酒井 重作
柏木 信
思われるような悔がないでもありません。せめて思ってもいなかっ
りに懸命に生きた現役時代後の十四年間は、殆ど無為に過ごしたと
自分でも考えられなかった程の七十二年目を迎えました。それな
終戦は、小学六年であった。還暦を祝う同窓会では、サラリーマ
た長生きの余生を、社会還元と云うか、世の中にお返し出来るよう
思っています。
ンをしてきた殆どが定年。 代表幹事は ﹁昔は、 人生五十年 ・ もう
にと願って、地域老人会長、市老連理事や社協監事等に精魂を傾け
︵横須賀支店元年退職︶
十年も経過した﹂ とアピールし、 今後の生活対応の話題も尽きな
かった。
19
VI
仕事 島田理化工業︵株︶で営業の仕事をしています。早いも
(1)
(2)
(3)
長年苦労を掛けた女房を昨年亡くし、目下[独居老人]等と云う
ています。
︵千代田統無中五四年退職︶
嫌な肩書きをつけて貰いましたが、元気です。
中村 恒男
体調と病気は紙一重と云われ、そんな体験の中で二十一世紀を目
指している昨今です。
娘二人は結婚し、現在孫は三人です。長女親子が同居中で2世
帯住宅は賑やかです。
平成四年三月ポケットベル友の会を退職し、現在老人大学OB
としてサークル活動 ︵園芸、 カラオケ等︶ に精を出しており
ます。
園芸︵サツキ、菊、サギ草等︶
、民謡、ハイキング。何れもム
リせずコナセル範囲で楽しみ乍らやっております。
︵東京無線部四四年退職︶
旧友会の輪が広がりその絆が強くなることを祈っております。
花島 仁吉
役員の皆様大変御世話に成り有り難う御座います。電電生活四十
年も戦争中なので長い年月とは、思えません。退職したらあれも、
これもと思いながらも早いものです。 二四年が過ぎ八十三才と成
り、なんとも言いしれぬ思いです。家族は、女二人男三人孫十一人
です。皆それぞれの家庭を守り元気に楽しく働いてます。
︵横浜NWC元年退職︶
私と老妻の二人は、長男夫婦と三人の孫と一家七人で楽しい毎日
です。
今後共よろしく御願い申し上げます。
馬場 利昭
日頃いろいろとお世話になり誠に有り難うございます。
私ども、特段病気もせず元気で暮らしております。NTTを退職
して大明電話工業︵株︶伝送無線部にお世話になって早いもので四
現在、NTT関係の仕事に携わっており、毎日が大忙しで病気を
年目になりました。
する暇もなく頑張っております。
︵千葉WC元年退職︶
時折り長男夫婦が来宅すると、一段と賑やかになり、孫に追われ
てまごまごしている昨今です。
浜口 文男
年の流れの速さに、自分がついて行けないと思えるような日々で
すが、NTTを退職してまもなく四年になります。退職後、中央移
動通信︵株︶にお世話になりましたが、去年十一月一日、NTTD
oCoMoと合併し、OBの皆様と一緒に特別社員として採用され
ました。何か古巣に帰って来たような喜びと、今までと違った責任
感を感じています。
今、一番心配していることは、いつまでも健康でいられるか、健
康を保つためにはどうすればよいかということです。趣味で始めた
パソコンも新しいものが出ると買い替え四台目になりました。趣味
だけでつくるプログラムは長つづきしませんので、 仕事に使うプ
ログラムを作ったりしています。是非皆様ともパソコン通信かアマ
チュア無線で連絡が取りあえたら楽しいと思います。
藤原知々生
藤原峯子
長男 〃 幸孝
妻
︵千葉支社平成四年退職︶
皆様どうかお元気でお暮らし下さい。
一、家族
20
⃝
1
⃝
2
⃝
3
三男
〃 直孝
一、健康 九月に甲状腺の手術を行い全快、現在、健康
一、仕事 平成四年四月退職、一年間嘱託後、現在、東関東サー
︵中央NW支社六二年退職︶
一、その他 ゴルフ、麻雀、競馬、酒
ビス、新四谷ビル勤務
宮崎武次郎
昭和一桁のシンガリ組です。退職後六年、幸い、第二の職場﹁富
士通﹂も引き続き無線関係の仕事で皆様に大変お世話になっており
真理、天則は神に通じる道と信じています。
ある人は﹁もう何時死んでもいーんだよ﹂と話していました。冗
︵本社四五年退職︶
談と思いましたが、二度と生まれてこられない世の中、生命の末端
皆々様の御健勝を祈ります。
まで生きたいと願い頑張っています。
幹事さんの御苦労を感謝しつつ。
山口 健一
来年は貴方の干支だから何か書く様にと云われてみて、はて何回
目だったかと回顧してみる。生まれた年を一回目として約一年経つ
早く帰る組の子をうらやんだものです。その二年後に二・二六事件
二回目は小学校六年で中学受験のための毎日夜まで勉強させられ
と関東大震災があった。
つか本腰を入れたいと思っていた趣味の﹁写真﹂をこれを機に始め
が起き軍国になって行った。
この夏、 知人からカメラ ︵二コンF3︶ をゆずってもらい、 い
ます。
ることとしました。四二年千代田無中のペンシルタワーが完成した
たい。
今度七回目は八十四才、 それまで毎日一生懸命に生きる様にし
て自由の身となり今日に至った。
に入社し、六回目の昭和五七年に定年となり三年間アルバイトを経
五回目もまだ富山局移装、福井局移装を施工して一年後に日通建
ロ部でしていたな。
四回目昭和三十三年 葵荘で毎晩十一時頃まで設計積算をマイク
ていたっけ。
三回目はまだニューギニアやアンボン島で食物が無く腹を空かし
時、モノクロで撮影した﹁電信電話﹂の裏表紙にのせてもらった頃
以来、小休止していました。
日比谷同友会の写真会や同好の仲間との月一回の撮影旅行、また
町内の花屋から買った野草を夜な夜な撮る等レベルアップに努めて
います。約八キロの機材を背負っての野山も体力が必要です。朝の
︵飯能報話五六年退職︶
通勤電車では立って通うなど健康維持に留意しております。
山岸友三郎
人生七十 古来希なり、盛唐の大学者、杜甫十七歳のときの作詩
です。
人は節節に祝い、健康と長寿を願うのもよいことと思っています。
平成四年、古希の年に親しい方と祝杯を挙げました。
平成六年は甲戌︵きのえいぬ︶です。
私は七十二才の壬戌︵みずのえいぬ︶です。
21
随想
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
︵五十音順︶
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
老人の暇のあり過ぎ
石田 守
︵関通三五年退職︶
子供は勉強のし過ぎ、大人は仕事のし過ぎ、老人は暇のあり過ぎ
と云われる時代に、七十才以前は誰も老人とは思わず、仕事を見つ
けては一人でまだ若い気分でいる。
こんな時、老人会員ばかり多くて困るので役員を引き受けてくれ
との要望があり、今更の様にそんな年なんだと思い知らされた。
地区老連だ、区老連だ、市老連だとそれなりの組織の下で来る指
示は、このあり余る暇をどう生かすかにある様で涙ぐましい様にも
感じられる。
片手間とは云え仕事を持っていると、有り過ぎるはずの余暇がふ
き飛んでしまい時間が足りない。本当は仕事と趣味が一致する様な
平均寿命は男七十六才で三シグマは九十三才位になるのだろう
か、キンさんギンさんは例外と云うべきであろう。個々の人間は何
時死が訪れてもおかしくないわけで、ポックリ寺にお参りして、う
まく生を終われる様にしお祈りする外に手はない様である。
街創り三十年になる町内会で六十才以上の人を調査した結果も同
様な分布であったし、この年代になれば誰もが何らかの病を持つの
が普通の様であるが、年毎の体力の低下に見る様に誰もが必ず死を
迎える以上、それは如何に生きるかと云う事に尽きよう。
勤め先の﹃老一点﹄で十才から五十才も年齢の異なる人達との仕
事も、その幅が比較的狭い事もあり、相手に合わせればそれ程の問
題もなしに過ごせた。
ところで地域での﹃若年寄﹄は、六十才から九十才台の巾広い年
代の、生活も、生き方も、体力も、更に幅広い人々の姿に一種の戸
惑いを感じ、人それぞれに好みと健康状態、懐具合、と異なるので
ざとなると対応が難しいようだ。それにも増してほぼ三十年に亘る
碁、将棋、旅行、太極拳そして老人福祉大学と出し物は多いが、い
趣味も絵画、 ゴルフ、 ゲートボール、 ダンス、 民謡、 陶芸、 囲
老人世界のまとまりは難しい様だ。
六才で隠居し、その後測量術を学んで、死ぬ前に現在と殆ど変わら
世代を一束にして﹁老人﹂と云う名でくくるところに一番難しさが
対象が見つかれば一番幸福なのかも知れない。あの伊能忠敬が五十
ぬ日本地図を作ったと云うのを聞くとその生き方がうらやましく思
を如何に生きるかに掛ける日々である。
明日にも激変がくるかも知れない、不安定な年代に来て今日一日
すると云う事が一番安楽に行けると云う事でもあろう。
老年とは中古車同様に身体全体にガタが来るのだから、天寿を全う
それでも仕事に生き甲斐を見出している人は最も元気の様だし、
人会運営の難しさがこの辺にある様に思われる。
潜んでいる様に思われ、シルバー産業がうまく行かない理由や、老
うのである。
昨年の関東電電旧友会員の物故者の年齢から、 生存率曲線らし
きものを作ってみたら六十五才から九十三才まで殆ど直線的になく
なられ、その分布はここ横浜市神奈川区老人会員の分布そっくりと
なった。
気になって、嫁さんの統計の本を開いて見ると、六十才を過ぎる
と人間の寿命は特別の病で死亡すると云うより、持って生まれた寿
命が支配し、正規分布になると云う。
22
VII
陣痛の記
牛島 義男
︵昭和四十六年本社退職︶
人生はドラマだという。思いもよらぬことに巻き込まれ、あわて
の敷地に一千戸、四千五百人が
うろたえ、悲喜交々の経験を踏むことがある。そういうドラマの舞
台を月日が回して行く。
わたしの居る団地は、十二万
住む。築後十年、前々から十一年目の管理組合の役員は大変だとの
噂だった。七億円を投じての外壁改修の大工事が決まっていた。寿
命が近づいているテレビ共同視聴設備を、如何に更改するかも結論
づける年にもなっていた。百数十台の駐車場の大増設の方向づけも
然りである。運命のいたずらでその真っ只中に放りこまれることと
なった。
法律によって、 分譲団地には、 建物 ・ 施設など、 所有者皆の共
有財産保全のため管理組合が設置されており、管理者として理事長
一名を置いている。不運にもその十一代目の理事長にさせられたの
だった。平成四年の春のことである。旧友会の総会もそろそろ準備
をと考えていた時期だった。
旧友会と共に二つのボランティアはこたえるなぁ等と思っていた
のは序の口で、やがて、未経験の仕事に振り廻されながら、極言す
れば生涯で最も多忙な長い月日を過ごすこととなる。
第十一期の役員は、わたしを含め、副理事長、一般理事の計二十
人が五月の総会で選出され、先ず理事会と称する運営会議が始まっ
た。 全く見知らぬ連中、 もろもろの職業の者たちが集まり、 喧々
諤々、全く未知の課題に取り組むというのだから、その非能率なこ
と推して知るべしである。何でも一応は反対の人。強引に自己主張
の人。協力的な人。非協力的な人。正に人間模様である。毎週土曜
日は夕刻から深夜まで茶一つ飲ますの会議である。お陰で、平成四
年の無線支部の総会は、楽しみのパーティ半ばで未練のコップを残
したまま帰途につかざるを得なかった。
約六百億円と称される共有財産を預かる管理組合の理事全員が、
毎年総会後、一斉に交代するというのだから元来無茶なシステムで
ある。事業に一貫性が無ければ企業なら間違いなく倒産する。
わたしの前々代の理事長は、東大教授のロケット工学の岩間彬氏
だが、テレビ共同視聴設備の更改に熱心で、BS受信方式の導入を
計画し、次期理事長に引き継いだが、放棄されてしまった。
ニューメディアの発達で、事態が複雑になり判断出来なくなった
ので、次期のわたし達理事会でよろしくというのである。
また、数年前、将来に備えて、修繕費積立金の値上げを緻密に計
画した理事長がいたが、 以降の歴代理事会は、 総会でもめるのを
嫌って実施を見ないまま過ごして来た。
お陰で、わたしの代になって、今回の大工事が終わったトタン資
金が底をつく事態となった。みな、執行部全員が毎年一斉に交代と
いう非現実的な仕組みに起因している。
右往左往しながらも進めば道は開かれるものだ。外壁改装工事は
コンサルタントを駆使して半数の建物が対象の、第一期工事が無事
済んだ。半年間毎日、工事の大部隊の騒音に包まれていた団地内も
しーん静まり返っている昨今、計六十回余に及ぶ推進会議のことな
どを思い出している。
みな、土曜午後や平日夜間に行ったものばかりだった。いま、本
年度実施予定の、残り五百尸に対する居住者説明会が間もなく始ま
ろうとしているところである。
大工事で金が無くなったのが良い機会である。修繕積立金を本年
度に一挙に数倍に値上げすることを提案した。そうでなければ数年
23
m2
等、集計作業を簡単にするための得難い経験を学んだ。アンケート
けること。 複数の混合意見は単独意見に分解しカウントすること
理事会では激しい論争があったが、今後三ヵ年、毎年継続値上げ
の回収率が、 若干低くても統計処理上問題ないことは、 昔、 在職
後に一戸当たり二百万円近い一時金が必要になるのだ。
することが総会で承認され実施に入った。団地は十年たてば中高年
最後に残っている課題のテレビ共視聴設備の更改方式を、過日ア
中、懸命に統計学に打ち込んでおられた支部会員の横山孝雄氏に教
ンケートにかけた。詳細な説明冊子付である。現行の地上波のみ受
えを乞い自信を深めた。
理事任期を任期一年のまま半年毎に半数交代するシステムも総会
信の更新方式と、BS受信可能にする更改方式とCATV導入方式
という。あらゆる建物施設の劣化が進行し急カーブで修繕資金が上
で承認された。任期二年で毎年半数交代方式は実施例が多いが、提
昇するからである。
案の方式は全国でほとんど例のないという、この方面の専門機関の
の三つが三つ巴に競合している。この結果を次の総会にかけること
しかし、法的にも問題ないので踏み切ったかいがあった。総会後
批判めいた意見だった。
わった。人間関係の葛藤、考えの違い、根回し、説得、そして徐々
ふりかえれば、これら施策すべて大なり小なり難産の苦しみを味
となる。
に醸成して行く信頼関係に至る忍耐の連続だった。
の業務運営の空白も生ぜず業務が継続し、新任理事は先輩理事がい
るので不安が無くなり、しかも任期は一年で済む。予想外に好評で
しかし、その陣痛の苦しみも、生まれ出た﹁実現﹂という子を見
れば、いささかの満足感がただようのである。ボランティアとは元
来そんなものかも知れない。
初めての海外出張
24
ある。ただし、このシステムの言い出しっぺのわたしを合め半数の
理事は半年留任となった。
初めて駐車場の大規模増設も方向づけが出来、現状六百五十台を
八百台にすべく横浜市と今折衝中である。かの悪名高い許認可事項
の多さに圧倒され当惑しながら。
これらの諸施設の提案が、総会ですべてすんなり通ったのは望外
の喜びであった。
昭和四十四年三月、それまで公社で六〇メガ、二〇〇メガ、四〇
︵本社四四年退職︶
〇〇メガ方式といろいろ勉強させていただいて来たところ、降って
西坂 敏治
で、 時間不足に悩まされるのが通例だった。 それが多数議案の平
毎年、 付近小学校講堂を借りての総会は、 少数議案でも大荒れ
成五年の総会では、何んと時間が余り過ぎて議長があわてる一幕す
沸いた様に日本電気︵株︶に転職することとなった。
入社し配属になった部署は衛星通信建設本部と云うところで国内
らあった。これは、ひとえに、頻繁に行ったアンケートの成果だっ
外の衛星通信地球局の建設を行う部署であった。直ちにオーストリ
た。わたし共が団地内一千尸に対し実施したアンケートは年間五回
に及んだ。アンケートで賛成多数を得た提案が総会で、大もめにな
ア、カーナボン局の工事長を命ぜられた。カーナボンは、西オース
トラリアの州部パース市の北八〇〇粁のところで、南回帰線上の半
る訳はないのである。
アンケートの設問は簡明に三 四点に絞ること。意見記入欄を設
−
ジア東部の諸国とアメリカ西海岸との通信を行う標準型の地球局に
砂漠地帯で、コムサッ卜の太平洋上の衛星を介して、日本を含むア
間、比較的多人数なのでオートキャンプ場の主人に工事スケジュー
が少ないので、工事要員、現調要員の宿舎を確保する事だった。短期
現場での最初の仕事は、人口二千人位の小さな町なので宿泊設備
その英語は学校卒業の時に返納してしまったが衛星通信方式はマ
て行った。 相手工事要員、 町の人達もとても親切で作業は順調で
前に両方の工事長の話し合いにより作業者の名札をそれに掲示し
作業の方は、 作業区分を大きな掲示板に表示し、 毎朝作業開始
を宿舎とした。
ル、人員計画を提示してキャンピングカーを調達してもらい、それ
なる予定である。
さて、仕事について考えてみると、衛星通信方式は勉強した事も
イクロ波技術ゆえ何んとかなるだろうと思っていたが、実際には衛
無く、ましてやそれを英語でやるとは予想もして無くびっくりした。
星との距離上受信機入力電界が非常に低いので特殊な装置のため簡
あった。
ドニー迄不自由することもなく帰ることが出来たのは現地生活七ヶ
カーナボン、パース︵三泊︶
、アデレイドと飛行機を乗りついでシ
この間、やはり苦労したのは英語だった。しかし帰途は、一人で
持ち金を精算して工事終了した。
も無事合格して正規運用を許可され、客先との受け渡しも終わり手
十月工事完了し現地調整も終了しコムサッ卜による受け入れ試験
の申し入れがあり、その作業変更に苦労した。
よりその中継を受信するについて周波数変更して中継してほしいと
特に七月、アポロ十一号が人類最初の月面着陸を行った時、客先
務で不在の事もあり、その間の苦労が大きかった。
用等の問題では通訳を一人付けてもらったが通関、資材購入等の用
毎日の作業は我々の英単語会話で支障は無かったが変更工事や費
単には理解出来ないものであった。工場での仕事は膨大な英文仕様
書、NECより提出した英文プロポーザルを読む事と、各種機器を
勉強する事であったが辞書片手では中々はかどらなかった。
五月、いよいよ出発となったが英語については協力会社の工事担
当が英語に堪能であると言って居たが、実際に会ってみると、スペ
イン語はOKだが英語は全然駄目と言う。もう飛行機に搭乗するば
かり、 見送り人は大勢、 もうままよと度胸を据え ︵内心はどきど
き、おろおろして居たが︶外観はさりげなく挨拶して出発した。
飛行機は順調に、香港、マニラを経由してオーストラリア大陸を
越え午前七時、シドニー上空へ到着、空から美しいシドニー市街を
入国審査、税関ともに客先OTC︵海外通信担当の政府機関︶の
月のお陰と考える。
見おろしながらいよいよ到着である。
名前を出したところ、フリーパスであったが、出迎えの現地駐在員
小笠原の想い出
沼倉 昭二
︵関通五九年退職︶
﹁盲蛇におじず﹂のたとえを身をもって経験した期間であった。
が来て居らず会社の手帳にあるアドレスを頼りにタクシーで住友商
事シドニー支店に無事到着出来た。支店での挨拶を終えて、そこの
オーストラリア人職員を案内につけてもらい、直ちにアデレイド市
に飛びオーストラリア最初の夜をそこで過ごした。
翌日、それから更にパースを経由して小型飛行機で飛びカーナボ
ンに着いた。
25
小笠原諸島は、信州松本城城主小笠原貞頼が南海を航行中発見し
その後 半月位して台風の直撃である。職員を外に出して怪我を
自然の楽しさを見い出したいときは時々夕方海岸へ出かけた。
させないよう受信所に配置し、自動車を飛ばされないように石材を
たので、発見者の名にちなんで小笠原諸島と名付けられたと云われ
ている、無人島で英語名のポニンアイランズと外国で呼ばれるよう
銚子より東京市外局にて手動交換して貰う方法でした。当時、東京
に父島があり、返還後内地との電話回線は、父島、銚子間短波にて、
夜が明け台風も過ぎて、空を見ると、アンテナが切れて線が垂れさ
缶を置いて時間を見ては、エンジン室を見つめて夜明けを待った。
を見廻った。異常のないことを確認して電力室の横へ軽油のドラム
送信所へ石材を積んだ車で出かけ電力室︵エンジン室︶
、送信室
積んで待機した。夜、風雨が強くなり全島内停電になった。
都の小笠原返還暫定措置法により三年間は、小笠原復興要員が、島
かっている。受信所から職員が来て、回線不通になっているとのこ
小笠原諸島は昭和四十三年五月に返還され、東京より約一千キロ
になったそうです。
民以外一般の人達は住むことができないことになっておりました。
と、アンテナ、フィダーは切れている。都庁回線は、かろうじて連
絡がついている。
私は昭和四十五年七月に横須賀港より海上自衛隊のLS艇で行き
ました。途中色々な航海訓練をしながら約五十六時間もかかり父島
非常用無線で銚子を呼んでも応答なし、隣の漁業協同組合を見る
受信所に保安要員をのこして全員送信所へ来てもらって、 地方
と屋根がない、そのトタンが舞上がってアンテナ、フィダーを切っ
部、 無線部と云わず復旧に頑張ってくれ、 方法は簡単、 木の枝が
に到着しました。島の人達は、月一回東海汽船が来るか、自衛艦が
出迎えの車で取扱所︵小笠原父島電報電話取扱所︶へ着いたが、
被っている所は枝を切り取って、切れた線を真直ぐつなげばいい、
年に数回立ち寄る程度なので船が来ると、島中の人達が出迎えて賑
午後三時半頃太陽は、かんかん照り﹁内地で真夏に焚き火でもして
怪我をしないよう十分気をつけて作業するよう、 作業が進むにつ
たと思われる。
いるような暑さ﹂とでも表現するか何んとも云いようのない暑さで
れ、線から火花が出てあぶないと云い出し作業を一時中止した。
わいのひと時でした。
した。直ぐ前任者との交代引き継ぎ、挨拶回りである。
︵前任者は
見せて、安心させ何んとか応急復旧をしたこともあった。
のゴム手袋を買って来て着用させ、これで大丈夫と、線をつないで
都庁回線からの誘導である、BITC︵購買協同組合︶で炊事用
篠目さん︶、なにせ初めての暑さと、船酔いで心身共に付いて行け
なかった。翌朝篠目さんは内地へ出発した。
事務整理しながら、昔血気に燃えた時南方へ従軍したいと思った
こともあったのに、ここでこの暑さ位で参っては勤まらない。頑張
れるが、特に野菜物の保存がむずかしい。職員に、なんとか食べ物
は云え寮員が四十人位になる時も時々あった。食糧は大量に買い入
また、現地調査、及び工事要員が多く来られ、多い時は一時的と
夕方散歩に海岸へ出かけ、青灯台岸壁より右に行くと、サンゴ礁
らなければと自分に云い聞かせた。
の間を色々な魚が行き来している。水族館を見つめているような光
がない、楽しみがない所と思わせないよう気をつかった。
所長の吉岡さんは、母島出身なので、島の農事試験場にお願いし
景である。ここでなければ自然の情景は見られない。
またこれを見ていると、色々な問題も忘れるひと時であったので
26
くなったらマイマイ退治をしたが、一夜で大きいバケツに五ッもと
を植えたが、 一夜でマイマイに食べられてしまった。 みんなで暗
て、ナスの苗木を貰って来た。みんなで受信所の横に畑を作り苗木
﹁趣味﹂とはそれ程根気がいるものなのか。
つをまとめあげるには大変な努力が必要である。
そうな事だがいざとなると三日坊主で終わるケースが多く、何か一
夕バコの煙がもうもうと立ちこめる部屋の中で、カラカラとパイ
﹁遊び﹂とは、﹁好きな事をして楽しむ﹂と訳されている。
また、ある時先輩に、漁船の機械︵魚探のことと思う︶を修理し
をかき廻し︵今は電動式でその必要はないらしい︶夜の更けるのも
れた。
てもらったので、お礼にと云ってリヤカーに大きい魚をのせて取扱
だしたままゴルフ道具を担ぎだす。今日はストレス解消だと子供と
日頃運動不足だからと自分よがりの理屈をつけて、家の事は放り
知らずに過ごすマージャン。
さないよう、職員に注意喚起し、皆様のご協力により大過なく過ご
自分の任期中は特に、交通事故と、電力障害︵人身事故︶を起こ
所の窓口へやって来たこともあった。
させて頂きました。関係された先輩の方々には色々お世話になり有
そして真の﹁楽しみ﹂を味わいたいものである。
落ちこまないように。
も﹁遊び﹂も程ほどにして﹁道楽﹂までにとどめ、くれぐれも道に
長い人生誰でもなんらかの楽しみはなくてはならないが、
﹁趣味﹂
れてしまったらそれでおしまいだ、とその先輩は訳して下さった。
けずに楽しんでいるうちは良いが、落ちこんでしまって自分をも忘
すなおに字で読めば道に落ちる、趣味も、遊びも、他人に迷惑をか
われた事を思いだす。道落とはなんぞや辞書にはない言葉である。
私が若い頃ある先輩が道楽はしても良いが﹁道落﹂になるなと言
り好きな事をして楽しむ﹁遊び﹂と大差なく思える。
今一つ﹁道楽﹂である。辞書には﹁その道にふけり楽しむ﹂とあ
は﹂と聞く人はいないだろうが。
です﹂とお答えになる方が多いと思う。もっとも﹁あなたのお遊び
はない、 それが証拠に皆さん ﹁ご趣味は﹂ と聞かれれば ﹁ゴルフ
が﹁好み﹂であることに変わりはなく、
﹁趣味﹂とも言えないこと
こちらは比較的簡単にできて好きなことを楽しむ﹁遊び﹂である
の約束も忘れ早朝から海や川で魚を追う。
︵関通四九年退職︶
り難う御座いました。この場をお借りして、お礼を申し上げさせて
頂きます。
趣味・遊び・道楽
松井 泰助
﹁趣味﹂とはなんだろう、辞書によっては、
﹁おもむき﹂
﹁味わい﹂
﹁好み﹂と記されている。
野鳥の成長、 魚の動き、 ある時は森林をかきわけ、 また、 水に
潜ってその変化習性を探る、夜でなければ見られない動作などを徹
夜で写真にとり続ける。
春夏、秋冬、同じ山野の移り変わりを絵に書き残す。
何種類かの花から、 より良い花を求めて、 培養土造りから取り
組む。
自分の好みに合わせ心を込めて仕上げたできばえをじっとかみし
める、満足のできた部分、不充分だった点への反省、誰にでもでき
27
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
回想東京無線︵七︶
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
◎昭和二十年八月十五日
終戦・第二次世界大戦、日本の敗戦をもって締結。
数百万の犠牲者と国土の大半を焦土と化して永い永い戦争の時
代、軍国主義の時代は終わった。
創業以来、 先人たちが営々として築いて来た電信電話は壊滅し
た。その中に、マッカーサー最高司令官以下の進駐軍が続々と乗り
込んで来た。そして先輩たちが働いていた無線の職場にも至上の軍
命令が下ることとなる。
遥かに、半世紀近い歳月の彼方のことである。
終戦当時の記憶を辿って
然し同盟分室と気象分室とが同じ係に属したのは何時だったか、
分室﹂の技術関係を担当する係でありました。
はっきり憶えておりません。何れにしても、私の仕事の比重は﹁同
盟分室﹂の方が高かったので、かなり前から同盟分室に常駐をして
居りました。
当時、大日本帝国が全世界を対象に発着する短波放送の送受信所
は、栃木県小山送信所︵電信︶
、茨城県名崎送信所︵電話︶
、八俣送
信所︵電話︶
、埼玉県小室受信所︵電信、電話︶で、電信放送の運
用は同盟分室が担当しておりました。
また、気象放送は主として、臼井送信所を使用し。その運用は気
なお、電話放送のスタジオは内幸町のNHK会館内でしたが、私
象分室が行っておりましたが、気象関係の事は省きます。
の担当外の事で、定かではありません。
︵二︶
、東京中電同盟分室の仕事。
出され﹁大本営発表﹂の基となっていました。そろそろ、南方海域
ここで受信した各国からの電信放送ニュースは、内閣情報局へ提
﹁回想東京無線﹂もいよいよ終戦まで参りました、終戦当時の事
に暗雲が立ち始めた頃でも大本営から発表される戦況は、常に赫々
大場清次
は、皆様も色々の体験と、忘れ得ぬ想い出がある事と存じます。随
たる戦果で、国民を激励しておりました。
また、日本国内では短波の受信機を買うことは禁止され、短波の
来ましたが、他言は出来ませんでした。
かに察知できたので、戦況の真相は一般の方々より可成早く推察出
当時、同盟分室に勤務していた我々は、外国放送のニュースを密
分古い事ですが、私も当時を、沁々振り返って、思い出す儘に取り
纏めてみました。
︵一︶、その時、ニュースの系統。
先ず ﹁私の履歴書﹂ を探し出してみました。 終戦に近いところ
で、昭和十九年四月一日発令﹁東京無線電気通信工事局調整課無線
一方日本の国内ラジオ放送に対する妨害電波も甚だしくなり、外
ニュースを聞くことは、まず困難な状況でありました。
は日比谷公園の市政会館一階にあった同盟通信社内の﹁東京中央電
国のニュースは日本側の戦況不況を大きく伝えましたが、これらの
放送係勤務を命ず﹂であります。そもそも﹁調整課無線放送係﹂と
信局同盟分室﹂と中央気象台の中にあった﹁東京中央電信局気象台
28
VIII
ました。
ニュースは、
﹁総て敵国のデマ放送である﹂と決め付けられており
ターン号から、コーンパイプを銜えて降り、完全武装の米軍第十一
バーカー中将の出迎えを受けたマッカーサー将軍が、C 五十四バ
然し昭和二十年に入り、度重なる空襲により、国民の士気は次第
空挺隊の隊列で横浜に向かいました﹄と当時の新聞は伝えました。
線通信室は四階に漸く完成したところでした。そして、正面玄関に
カーサー司令部が横浜税関に誕生した事になりました。この時、無
横浜に到着したマッカーサー将軍は税関の三階へ、 ここでマッ
特に二月二十日に米軍硫黄島上陸、 三月十日の東京空襲は大き
は衛兵が立ちましたが、その衛兵を見て、先ず驚いたのは、日本軍
に暗くなってしまいました。
な衝撃を与え、国内は日夜、B 二十九の恐怖に曝されていました
︵六︶、無線通信室建設は四十八時間で完成。
時としては﹁常識﹂でありました。
ら不思議がらなかった私達は、今考えれば随分滑稽な話ですが、当
当時としては相当な理由があったとしても、こんな取り扱いを何
ました。
までには一∼二ヶ月要するのは普通で、長いものは三ヶ月位かかり
うち、本省準備品・通信局準備品は要求書を出してから手元に届く
要しました︵戦争末期には多少乱れておりましたが︶
。工事材料の
言い表す事は出来ませんでした。従来、通信台を造るのは数ケ月を
青天の霹靂、寝耳に水、吃驚仰天という言葉位では、その状況を
んが、
﹁四十八時間以内に完成せよ﹂が絶対命令でありました。
通信室の開設命令は、どんなルートで伝えられたのかは知りませ
︵五︶、四十八時間以内に無線通信室完成の命令。
は、本当に吃驚しました。
を見回している姿には、日本兵の凛々しい歩哨を見慣れていた我々
し振り、 小銃の銃口を顎に当ててニコニコしながら周囲や通行人
装備は立派で厳重ですが、極めて悠長な態度とリラックスした話
の歩哨と余りに態度︵規律︶の違いでありました。
が、大本営発表は国民を鼓舞し続けて居た様でした。
更に八月六日広島、八月九日長崎原爆投下と戦況は最悪へと進み
ました。
︵三︶、終戦当日。
昭和二十年八月十五日正午、ラジオによる天皇陛下の終戦のお言
葉は、同盟分室の通信室内で中電の職員と一緒に十人位で拝聴しま
した。
日頃、外国ニュースを身近に感じる仕事に携わり、可成前から、
悪い予感を抱き続けて居ましたが、それが現実となってラジオから
流された瞬間日本人として堪え難い気持ちに茫然となって、日頃、
威勢の良い職員でさえも、この時は涙を隠すことは出来なかったよ
うです。
そして終戦となりました。
︵四︶、マッカーサー指令部︵GHQ︶
終戦後、マッカーサー指令部が横浜に設置される事になり、横浜
税関の建物︵当時、米兵はカストムと呼んでいました︶があてられ
ました。
八月二十八日、 厚木飛行場に先遣隊が到着、 八月三十日、 マッ
カーサー将軍が到着しました。
﹃第八軍司令官ローバート・アイケル
29
−
−
電気通信工事局﹂が受け持つことになりました。この当時は、食料
GHQの通信設備のうち、無線通信施設の設備工事を﹁東京無線
も、その原因も結果も全く知る由もない環境でありました。
でありました。宿直の晩、GHQ前の暗い横浜公園で銃声が轟いて
解らない。何時、どんな不測の事件が起きても不思議ではない状況
られましたが、食べられたのはほんの僅かで、大部分は残りました。
フ、魚等の暫く見たこともなかった缶詰や煙草がベッド一杯に広げ
白いパン︵当時我々は黒いパンきり食べられなかった︶
、コンビー
きました。
さい!﹂と言われましたが、日頃、何も食べていない我々は只々驚
ベッドを広げて、その上に軍の食料品を山積みにし﹁さあ、食べな
び、当夜勤務していた我々にプレゼントをしてくれました。携帯用
この通信が極めて良好な状態で行われたので、 米軍はとても喜
に送られました。
無線通信室よりRCA、MKY、PWの無線回線を通して米国本土
長等が出席されたと報じられました。この模様は、悉くGHQ内の
われました。この式場には、重光葵外相、丸腰の梅津英治郎参謀総
九月二日、米艦ミズリー号甲板上に於いて日米の降伏調印式が行
︵八︶
、ミズリー号上の降伏調印式。
不足で誰でも、碌なもの食べていない様な状態でしたが、斯様な職
員の不眠不休の働きにより、命令通り四十八時間以内に立派に完成
させ、マッカーサー将軍の到着をお待ち致しました。
そして、アメリカMKY及びRCAとPWの無線回線が開通し、
GHQと米本国との間に高速度無線通信が良好な状態で開始され、
九月二日ミズリー号の降伏調印式の状況を本国につぶさに伝えるこ
とが出来、大成功を収めたのであります。
今考えると、当時の不安定な状況下で何の事故もなく、全員無事
で、短時間に進駐軍の命令に応えられた事は全く幸運だったと思い
ます。只この時、工事でご苦労された方々のお名前が、どうしても
思い出せず、誠に残念であります。私はこの時、占領軍で二世の吉
村サージャントの運転するジープで横浜・東京を走り廻りました。
終戦数日後に、米軍ジープで東京や横浜を走ったのは、日本人と
しては、早いほうだと思いましたが、大変複雑な気持ちで道案内を
させられた気が致しました。
したが、 見つかったら銃殺かも知れないと脅かされたので、 小さ
こんなに残したら勿体ない、何とか持ち出せないかと相談をしま
建設工事から引き続き通信回線の保守に入り、数名の職員がこれ
な缶詰二∼三個をズボンのポケットに隠して、GHQを抜け出して
︵七︶、マッカーサー指令部︵GHQ︶通信室の保守
に携わりました。私もこれに加えられ、毎日横浜まで通勤すること
ホッとしました。
した。
我々︵東京中電関係︶が分担し、電話スタジオはNHKが担当しま
GHQの通信室内には無線電信と無線電話がありました。電信は
︵九︶
、通信室内の事。
になりましたが、当時の交通事情で、泊込みが多かったように記憶
しております。実際のところ、マッカーサー司令部の勤務を喜んだ
者は一人も居りませんでした。当然かも知れませんが、実は恐ろし
かったのです。米兵は図体が大きく、二丁拳銃と腰に短剣の出で立
ち、しかも言葉がチンプンカンプン、大きな声で怒鳴られても全く
30
ome Come Every Body﹂で活躍された平川唯一先生
NHKの責任者は、国際局米州部主事、その後、英語講座の﹁C
に移り、NHK会館は同日、進駐軍に接収され第八軍の管理下に置
東京に進駐、次いで、総司令部が八月十七日に日比谷の第一生命館
が、後日聞いた話によれば、九月八日、米軍第一騎兵師団八千名は
︵十一︶
、副産物。
何といっても、無線通信施設の﹁四十八時間以内の完成命令﹂に
は驚き、もっと早く出来る方法を考えねばと思い、機械係への配置
替えを機会に、小室幸雄氏の協力を得て﹁高速度無線通信盤﹂を創
りました。
これは、通信台の機能全部を明るい若竹色の小さな箱に収めたも
ので、此れだけを机に置き、ラインと電源を繋ぐだけで通信台は出
来上がりという訳で、先ず、東京中央電信局の外信課︵五階全部︶
と外地課︵四階︶の通信席は全部これに取り替え、黒一色の通信室
は進駐軍の好む様な明るい若竹色に一変しました。
斯くして、逓信省の﹁機械は何でも黒色である﹂との久しい伝統
的常識は、次第に明るい色彩を採用する様に変わり、機械以外のト
ラック、自転車の色に迄及びましたが、その後、再び黒色に戻るこ
とも無く、現在に至って居ります。
この完成で、 昭和二十四年四月二十日逓信大臣賞を戴きました
が、
﹁米軍命令、四十八時間﹂と﹁高速度無線通信盤﹂のことは、終
戦に伴った私の想い出として、切り離せない事であります。
︵平成
五年九月︶
しました。
この一連の仕事に関係した人は岡省吾、岡正尊両先輩でありまし
たが、両先輩も既に故人となられました。その他、川島金太郎氏、
久保田栄次郎氏等のお名前が頭に浮かびますが定かではありませ
ん。この点は誠に申し訳無い事と思っております。
かれたとの事です。一緒に東京に移り、内幸町のNHK会館に勤務
で、とても親切に我々を援助してくれました。
″
″
﹁米兵との遺り取りは大変危険だから、私︵平川先生︶が通訳を
″
″
する。簡単な Yes No でも安易に使わないほうが良い﹂と
言ってくれました。当時は米兵に、誤解されて射たれては、との心
配があったからであります。
然し、 米兵から何か仕事を頼まれて出来上がると ﹁Thank
you﹂と言ってアメリカの煙草︵洋モクと言って貴重品でした︶
一本をくれました。私が当時煙草を吸わない事を知った平川先生は
若しも誤解を受けたら大変な事になる﹂と教えてくれました。
﹁Thank youと言って必ず貰いなさい。下手に遠慮をして、
私が、 通信室を回って通信の状況を調べて帰ってくると、 ワイ
シャツのポケットに五∼六本の洋モクがあって煙草の好きな仲間を
喜ばしました。
幸にもGHQ内の無線通信室内では、心配した様な事故は全く起
こりませんでした。これは平川先生のお陰と、今でも感謝をしてお
ります。
因に、その、お世話になった平川先生は、平成五年八月二十五日
午後二時四十八分、九十一才で、お亡くなりになりました。丁度本
稿執筆中のことであり、心からご冥福をお祈り申し上げました。
︵十︶、GHQは東京に進駐。
私は最初からGHQの通信室に働き、総司令部が横浜から東京に
進駐した時、
私は当時、 GHQ全部がNHK会館に移ったものと思いました
31
お知らせ
東
京
関東以外
を 含 む
二○八
神奈川
一五六
含 む
茨城を
千 葉
一一二
馬を含む
栃木、群
埼
玉
一六二
無線支部の会員数︵平成五年九月末現在︶
地区名
会員数
計
六三八
右のうち名誉会員は三五名、女性会員二一名です。会員数は三月
末に比し一六名の増加です。
新入会員の紹介
平成五年秋以降の入会者︵平成五年度会員名簿に未掲載の方︶
32
IX
1
2
33
34
さる七月十七日︵土︶午後二時より麹町グリーンパレスに於いて
﹁十九氏を送る会﹂
地岩槻市で持たれました。出席者五十名、全員かつて岩槻無線受信
平成五年六月六日、第四回目の﹁岩槻無線想い出の会﹂が縁りの
岩槻無線想い出の会報告
古巣の集い
平成五年春にNTTを退職された方々の﹁十九氏を送る会﹂が行わ
所に在籍した方々で、懐かしい岩槻の地を訪ね、そして職場を同じ
首都圏無線会の動き
れました。
された方々十九名で何れも、公社、NTT時代を通じて永年に亘っ
各方面の支社、支店などの責任のある職位にあって、最後まで活躍
拶を戴きました。
られ、短期間ではありますが在籍された関係でご出席下され、ご挨
旧友会の古市支部長もかつて東 仙 札の二五〇M回線を手掛け
くした古い友人達に逢える喜びの顔でした。
て無線の仕事にご縁のあった方々であります。
送られた方々は、関東一円のネットワークセンタ、TRC、及び
5
会は定刻に開かれ、最初に首都圏無線会の会長鈴木涼太氏が現役
時までもこの火を消さずに続けて欲しい﹂と述べられましたが、正
そのご挨拶の中で﹁決して増えることのない会員の会であり、何
お互いの現状を語り昔の思い出を話し、苦しかったこと楽しかっ
を代表され送別の言葉がのべられました。続いて、この度退職され
拶の後、鈴木菊之助氏の締め括りのご挨拶と謝辞がありました。
り、ほぼ毎年集い旧交を温めて来ました。
とし、これに岩槻及び近隣の在住者を加えた﹁無線友の会﹂が始ま
とうという動きがあり、閉局の二年前頃より主として庶務係を中心
この頃から、かって籍を朧いた無線人の間に﹁昔を偲ぶ会﹂を持
じたのが昭和四十年でした。
社︵閉局時︶組織である岩槻無線受信所が、その四十年の歴史を閉
ここで当会の歴史に一寸触れてみましょう。当会の母体となる公
大きく盛り上がり、時の立つのも忘れました。
た事に花が咲きました、中でも六名の婦人メンバーが参加され席が
にこの言葉こそ集まった五十名の会員の心だと思います。
−
た十九氏が司会者により順次紹介され、これに対して、各人のご挨
−
また、OBを代表して古市支部長が無事卒業のお祝いの言葉と新
しい人生の門出に当たっての心構えや考え方を述べられました。続
いて、全電通ネットワーク中央支部、執行委員長渋沢良光氏のご挨
拶の後、式次第により引き続き祝宴に入りました。
二百人近い出席者で会場は熱気に満ち溢れ、長い人生の思い出話
は何時尽きるともなく進行し、この記念すべき催しは恙なく円満に
お開きになりました。
なお、今回旧友会東京無線支部より古市支部長及び大場副支部長
が出席致しました。
35
4
また、この会とは別に主として独身寮在籍者が集まった﹁岩槻無
線クラブの集い﹂のグループがあり、閉局後昭和五十一年まで三回
の集いを持ち、昔のよき独身時代を語り合う会がありました。
この二つの流れが一本化し現在の ﹁岩槻無線想い出の会﹂ とな
り、昭和五十三年第一回の集いが持たれました、爾来今年で四回目
となった次第です。
初参加、数年振りに出席された方々が参集、OBの名に相応しく、
頭に白いものが増えたり、眩しくなったりして、すっかり貫禄がつ
いた方々が次第に多くなって参りましたが、第二の仕事に頑張って
居られる方が多く、ご同慶の至りで御座います。
この会合で何時も話題になるのは椎柴山の社宅の事で、今の密閉
型のアパートとは違い ﹁トントントンカラリの隣組﹂ の歌そのも
の、風呂は共同で家族共々裸の付き合い、レクにも家族一緒、こん
この歴史の中で特記したい事があります、それは二つの流れを一
本化し今までに四回の集いが持てたのも、過去十五年間に亘り事務
な間柄が基本になって椎柴会は盛り上がり、暫く振りの再会は一層
し出下さい。次回からご連絡を申し上げます。︵幹事 浪川静男︶
参加ご希望の方は幹事︵浪川静男、上島新一、宮内福二郎︶迄お申
の方、銚子がお好きな方のご参加を歓迎しております。椎柴会にご
ことのない方でも、ご出席されておられます。銚子に関心をお持ち
なお、椎柴会は毎年九月頃、開催しております。銚子に勤務した
した。
ら・
・
・
・。夜も大分更け、来年の再会を約して漸くお開きとなりま
白い、罪な冷蔵庫の力を借りて今では時効になった話が後から後か
が付かない ていたらく、更に各自が部屋に引き上げてからが又面
慢の喉のご披露と、相変わらずのフルコースで時の経つのも全く気
会は、 生きの良い銚子の魚と、 こくのある地酒、 カラオケで自
懐かしさを感じさせます。
局を担当されて来た伊藤義秀氏の努力のお陰であります。氏は総て
独りで、会員に案内を出し、会員の現状を把握し、会場を設定し、
当日の運営に腐心し、そして締めくくりをして決算を報告するまで
常人ではなかなか出来ない努力をして下さって居ります。
伊藤氏がいるからこそ当会が続けられると言っても過言ではあり
ません。会を終わるに当たり次回開催年を決めて欲しいとの声があ
がり、三年後の五月に持つ事が決まりました。
終わりにあたり次回も伊藤氏に全面的にオンブし、 皆が逢うこ
︵文責 栗原喜一︶
とが出来ますよう氏が益々ご健康でありますよう祈念して報告とし
ます。
第九回 椎柴会
恒例の銚子の椎柴会は、平成五年九月二十五日夕、太平洋の荒波
を眺望し風光明媚、潮香の漂う銚子の鹿島海岸旅荘で盛大に開催さ
れました。
36
東京気象無線︵気象会第五回︶
平成元年九月に第一回として東京気象無線に在職した人の集いも
今年で、 はや第五回目となり、 今回は九月十七日 ︵金︶ ∼十八日
︵土︶の日程で群馬県伊香保温泉に一泊二日の懇談会旅行︵十一名
出席︶を開催しました。
︵幹事、細田、小林正、鈴木博、小暮︶
当日は良い天気に恵まれ、又久しぶりの懐旧談に花を咲かせなが
ら夕方、伊香保の旅館に到着し、夜は懇談の大宴会に各自の近況報
告と、久しぶりの話に次第に盛り上がり最後はカラオケの歌を全員
合唱して時間のたつのも忘れ楽しい会食で、なつかしい昔をしのび
盛会裡に終了しました。
翌日は榛名神社、榛名湖、坂東十六番札所の水沢観音霊場、ガラ
ス工場、こけし工場、等を周遊しました。
特に榛名湖では今は亡き服部良一︵作曲︶高峰三枝子︵歌︶のコ
ンビに依る﹁湖畔の宿﹂の曲がモデル地として立派な曲詩碑が建立
されており、メロディーが流れており、全員でこの碑の前で記念写
真を撮りました。
又、坂東十六番札所の水沢観音では旅の安全を祈願しました。こ
この御本尊様は伊香保姫の御持仏十一面千手観世音菩薩で霊験あら
たかなる水沢寺を参拝し、水沢観音の近くでは、かの有名な﹁水沢
うどん﹂を賞味して、一路帰途に就きました。
同じ職場で共にした人、仲間との、これからも旧交をあたため開
催したいと思っております。年月の経過と共に高齢となり、出席出
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来ない方も、おられますが、元気で多数の方々のご出席を期待しま
す。次回は都内で開催予定です。
以上、第五回の気象会の報告と致します。 ︵幹事 鈴木博行︶
支部アルバムの作成にご協力を
支部では、私たち無線の仲間が集まったなつかしい写真を収録し
たアルバムを作成中です。
﹁回想東京無線﹂と共に無線支部の歴史を物語ってくれる資料と
すると同時に、皆様が支部事務室にお出の節、ご覧いただくための
ものです。
もし、お手許に、ご寄贈戴けるような写真がございましたら、支
部宛お送りいただければありがたいと存じます。その際、何かコメ
ントをつけておいていただければと思います。
38
6
M
e
m
o
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
編集後記
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
○ 本号では、多くの会員の皆様からの要望に応えて、分離後の移
動通信の実情について、おなじみ深い松橋様にご寄稿をお願い
いたしました。
大変お忙しいところ、 時間を割いてご執筆いただき本当に
ありがとうございました。 誌上を借りて厚くお礼を申し上げ
ます。
○ 毎年、若手会員が増えている一方で、病を得てお亡くなりにな
る方が後を絶ちません。
本号でも上半期中にご逝去の方々をお知らせしましたが、か
つて、苦楽を共にした懐かしい方々ばかりです。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
○ 本号でも、恒例により、企業トップの会員の方々から広告掲載
について温かいご協力をいただき、 誠にありがとうございま
した。
厚くお礼申し上げます。
○ 本号がお手元に届いて間もなく賀詞交歓会、少し間をおいて地
区懇談会、やがて春らんまんです。それが終われば新緑の候、
青葉の季節の総会です。
平成六年もこうして過ぎて行くことでしょう。皆様、お互い
に健康で、また、楽しい場でお会いしましょう。
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