会報 筑紫 第146号

”
現
男
正
野
奥
五 月 例 会
五月 二十 日 ︵日曜 日︶
糸 島 の遺跡
J R筑 肥線 周 船 寺 駅 午 前九
時 半出発
︶
西大 学 教授
安 本 美 典 産 業 能 率 大 学 教 授
コー デ ィネ ータ ー
荒 木 博 之 北 九 州 大 学 教 授
日 時 エ
ハ月 六 日
遺 跡 見学 ︵バ ス︶
み やざ き 歴史 文 化 館 ︱ 西都 原古
墳 群︱ 川 南 古 墳 群 ︲持 田古 墳 群
日 程
着 J
昼食 弁当
︵
邪馬台国は東遷したか︶
:
福岡空港集 合
福岡発
宮崎公立大学者
シンポジ ュウム
ホ テ ル着
6月6曰〇 杏 す
ん 発
貫
JAS 844
昼食 西都原 レストラン
市立博物的 等 見学
西都 原古墳 、 持 田古墳 、
朝食 ホ テ ル
︵
0985125155■■︶
名 誉
田 ア
レ
橋 フ
シ
自
見李 コース 丸隅山古墳︱伊都神 在︱
飯石神社︲ マツオ古墳︱ 二塚
古墳︱ 千里石︱ 三社神社 ︵
井
田用会支石墓 ︶︱端山古墳︱
築山古墳︱伊都 国資料館︱ 三
雪至退跡︱細石神社 =バス利用=
波多江駅
そ の他 軽装 ・弁当持参
J工
タ
杏 食
費 用 五〇 、 ○ ○ ○ 円
申込 み
五 月十 五 日古 代研または左 記 へ。
J T B ワー ルド九 州 古 川 光 彦
不曇[
六 月 例 会
宮崎公立大学開学記念シンポジウム
﹃邪馬台 国は東 遷したか﹄
宮崎 ・西都 原古墳群 見学
日 時 エ
ハ月五 日 ︵
土︶
午前十 一時∼午後 五時半
△ム
場 宮崎 公立大学講堂
パネ リ スト
大 林太 郎 東京女子大学教 授 o東
京大学名誉教授
宮崎公立大学教授
天理大学教授 。大 阪府
立弥生博物館館 長
佐 原 ]
具 国立歴史民俗博物館教
授
谷川健 一
日本地名研究所長 ・関
恕 男
福 岡 4-23260
振替
1993年 5月 8日
集 見 日
合学
地地 時
金 奥
関 野
発行先 福岡県遠賀郡遠賀町浅木
東和苑 6-4(〒 81143)
筑紫古代文 化研究会
第 146号
第 146号
紫
TEL・ Rヽ X(093)2934244
古代文化研究会会報
肌〇九 二︱七 八 一︱七 五〇 五
〒譴 福岡市中央区天神
一丁目十 三︱ 二十 一
天神商栄 ビ ル9F
七 月 例 会
日 時 七 月 二十 五 日 ︵日曜 日 ︶
見 学 地 田川 郡 香 春 町 の遺 跡
集 合 地 J R採 銅 所 駅 十 時 出 発
見学 コー ス 阿 羅斯 等 神 社︱ 古 宮 八
幡宮︱長光 清 祀 殿︱ 神 間 歩
︵
古 代 の採 銅 坑 ︶ ︱ 宮 原 ︱ 鏡
山 ︵
河 内 王 の墓 ︶︱ 香 春 神 社
I J R香 春 駅
一
父 通
博 多方 面
博多発 ︵
九 時 ︶筑 豊 本 線 新 飯 塚 の
りか え ︵
九 時 五〇 分 発 ︶後 藤 寺 の
りか え ︵
十 時 二十 四 分 発 ︶、 採 銅
所着 ︵
十 時 四十 四分 ︶
北 九 州方 面
小倉 発 ︵
九 時 四十 五分 ︶ 日田彦 山
線 ・採 銅 所 着 ︵
十 時 二十 九 分 ︶
折 尾 発 ︵八時 四十 五分 ︶直 方 のり
かえ ︵
九 時 二十 九 分 ︶、 新 飯 塚 の
りか え ︵
九 時 五 十 分 ︶、 後 藤 寺 の
りか え ︵
十 時 二十 四 分 発 ︶、 採 銅
所着 ︵
十 時 四十 四分 ︶
そ の他 軽 装 ・弁 当持 参
9“
弥 生 早期︶ の編年﹂
縄文晩 期後 半 ︵
仮説 ﹁
一
保育社 一九 八七年
註2 ﹁
福 岡県 の土器編年﹂渡 辺正
気 ﹃日本 の古代遺跡︱福 岡県﹄
化 の研究 ︱縄文土器﹄ 雄山閣
一九 八 四年
註1 ﹁
九州縄文晩期土器編年 関係
表﹂山崎純男 、島津義昭 ﹁縄
文晩期 ・九州 の土 器 ﹂ ﹃縄 文 文
山 ノ寺式と夜 臼式 は地域的 なも ので
同時期と考 える説もあ ります 。別掲
註 1︶、 第 2 ●3表 ︵註
の第 1表 ︵
2︶から見 ても、 その考 え方 の違 い
が あります。
また、縄文晩期後半 でも、夜 臼式
期 に先行し て山 ノ寺式期を 置く説や、
半を指 し ていますが、縄文晩期末期
或 いは初期弥生文化形成期 と言 われ
たり、最近北部九州 では弥生 早期 と
も言われ ています。
の学会 では、 この時期 は縄文晩期後
年代 で何時ご ろを言うも のだ ろうか
と いう疑間を感 じ ていました。現在
大 田
り ︱︱
︲
IL詈国盤等全藷 命の 編翠守か ・
、︵
我が国の︶夜臼式期について
一
一重 又は二重 に刻 み目があ
胴部 に、
る突帯をめぐらし ているも の︶
私 はかねが ね、夜臼式期 と は、実
われ ます。
︵
注 刻 目突帯文土器 =壷 や甕な
ど の主とし て煮沸用土器 の口縁部 や
器﹂が、北部九州 では、相当長期間
にわ た って出土 し ている故 かとも思
言 い換 えれば、出土した夜臼式上
刻目突帯文土
器 の特徴と言われ る ﹁
同じ夜臼式期 でも そ の年代幅 に大 き
な開きがあ るよう です。
新聞 の学者 の言とし て報ず ると ころ
によれば 、同 じ二重環濠を持 つ近 く
居
現
の板付遺跡 から30∼40年程度前、
或 いは 一世 紀 ︵一〇〇年 ︶前とか、
先年 ︵一九九 二年 ︶福岡市 の那珂
夜臼式期 ︶ の
遺跡 から、 日本最古 ︵
二重 環濠 が発見され、注目を浴びま
した。調査担当者からは正確 な時期
に ついては未 発表 でありますが、各
紫
第 146号
現九 州歴史資
更 に、福 岡県教委 ︵
料館 ︶ の橋 口達也氏 は、夜 臼式期 の
曲 り田式﹂を 置き、両者を含
前に ﹁
めた時期を ﹁
弥生 早期﹂とす る こと
を提 唱され ています 。しかし考古学
会 は、全国的な見地 から、縄文晩期
の中頃 に黒川式期 を置き、縄文晩期
後半 に山 ノ寺 、夜 臼式期とす る従来
の考 え です。
なお、最近 は、山 ノ寺式 と夜臼式
と の土器 の時期区 分が明確 でな いた
め、 それらを合 わ せた刻 目突帯文土
器 の時期と称す るよう にな り、今 一
つ夜 臼式期 の時代編年 は不明確と言
わざ るを得ません。︵
註 3︶
註 3 0 藤尾慎 一郎 ﹁
水 稲農耕 と
突帯文土 器﹂
② 武末純 一 ﹁
近年 の時代 区
分論議︱特 に弥生時代開始
を中心 に︱ ﹂
掘 調査 が盛 ん になり、また我が国と
の交流など により、土器 の形式分類 ・
編年 に ついても双方 から種 々 の研究
発表 がなされ ています。
一九九 一年 、韓 国中央博物館考古部
韓半
部長 の李建茂氏 が発表 され た ﹁
島 以南地域 の無文 土 器 の編 年 ﹂ ︵註
4︶は、韓 国考古学会 内 ではやや異
論もあ り、 は っきり定説化 され たも
のではな いよう ですが 、土器 の形式
分類 やそ の時代区分を行な った画期
的 なも ので、特 に注 目 に値す ると思
われます。
更 に、 この時代区分 に基 づき、 そ
の文化期 の標式的或 いは標準的 な遺
物を指 摘 され ている こと です 。 ︵別
表 4参 照︶
註 4 ﹃日韓交渉 の考古学 ・弥生時
代篇﹄六興出版 一九九 一年
② 北部九州 の土器編年
北部九 州 にお いて韓 国無文土器時
代 に対応す る時期 は、縄文晩期中頃
文土器 が大 量 に出土 し てく るよう に
なる のは弥生前期末 以降 で、 それ以
前 は出土 量も少な いせ いもあ り、夜
﹃日本 における初期弥生文化 の成工﹄
∧横山浩 一先生 退官 記念論文集 Ⅱ∨
一九九 一年
二、韓 国無 文 土 器 の編 年
と 北 部 九 州 の土 器 編 年
臼式 や板付式 の土器 の研究 に比 べて、
無文土器 の研究 は未着手 かと思われ
から弥生中期頃 と考 えられます。
この時期 、北部九州 で、韓国系無
0 韓国無文土器 の編年
韓 国 の考古学会 は、近年各地 で発
︶
第 146号
つ0
一
現
︶
ま た 、夜 臼 式 ・板 付 式 土 器 に つい
曲 り 田、板 付 、今 川等 の縄 文 晩 期 後
玄 海 灘 沿岸 で、菜 畑 、宇 木 汲 田 、
ぼ比 較 対 照 が可 能 と 思 わ れ ま す 。
ては、外 部 接 合 な ど無 文 土 器 の影 響
半 ︵
弥 生 早期 ︶か ら弥 生 中 期 にか け
ます。
が 見受 け られ るも の の、 そ の母体 は
物 を 記 入 し た のが別表 4 の下段 です。
て の各 遺 跡 か ら出 土 す る 、大 陸 系 遺
在 来 の縄 文 系 土 器 の発 展 過 程 上 に成
立 し たも の であ ると言われ ています。
これを 見 ます と 、韓 国 と 北 部 九 州 で
は、 ほぼ同 時 期 に同 じ遺 物 が 出 土 し
し か し 、夜 臼式 期 か ら出 現 す る丹
塗 磨 研 を 主 と す る小 壺 には、
一部 に
て いる ことが判 ります 。
遺 跡 か ら出 土 す る孔 列文 土 器 です 。
長 行 、貫 川 、 野 多 日 、吉 母 浜 な ど の
特 に、注 目 され る のは 、縄 文 晩 期
中 頃 と され る黒川式 土 器 が出 土 す る
明 確 と 言 わざ るを 得 ま せ ん。
を 自 由 に往来 し 、交 易 や交 流 が 行 な
わ れ文 化 的 にも そ の差 はな か った と
岐 を中 継 地 と し て玄 海 灘 や対 馬 海 峡
な ク ニグ ニ︶が あ ったが 、対 馬 や壱
た と考 え て います 。双方 の各地 には、
それ ぞれ集 団 的 な生 活根 拠 地 ︵
小さ
対 馬海 峡 を 挟 んだ 半 島 南 部 と 北 部
韓
九 州 は同 一生 活 圏 ︵
文 化 圏 ︶ であ っ
私 はか ねが ね弥生時代末頃 ま では、
一
四、
北部九州における時期の編年
渡 来 系 と 目 され るも のも あ り 、無 文
土 器 の系 列化 にあ ると 言 わ れ て いま
す。
従 って、前 記 の無文 土 器 の編 年 と
は無文 土 器 の前 期 に対 応 す ると 推 定
天 地 を求 め た人 々 の渡来 が 、 朝 鮮 半
秋 戦 国時 代 ︶ の影 響 で、難 を 逃 れ 別
方 の冷 涼 化 で、北 方 遊 牧 民族 が 下
南
し 、 それ と相 乗 し た中 国 の戦 乱 ︵
春
後 半 か ら晩期 にか け て の東 アジ ア地
更 に考 えら れ る こと は、 縄 文 後 期
人 が 双方 の地 域 に住 ん で いた と 思 わ
れ る こと です 。
韓 国 では無 文 土 器 の前 期 に孔 列 文 土
器 が出 現 し て いる点 か ら 、 黒 川 式 期
韓国 ︵
朝鮮半島中南部 ︶と北部九
州 にお いて、土器 の比較検討 は現段
階 では出来 が た いも のの、同時期と
推定 され る出土遺物 に ついては、ほ
三 、出 土 遺 物 で の対 比
出 来 ます 。
推 定 し て います 。 言 い換 え れ ば 、倭
北 部 九 州 の夜 臼 式土 器 と の対 応 編 年
は、影 響 は認 め られ るも の の未 だ 不
紫
一
島を経由或 いは中 国 の山東半島を中
心とした地方 から直接 に、北部九州
を初め 日本列島 の各地 に、集団的 に
はな いにし ても、徐 々に増加 し てき
たも のと思われます。
そ の結果が、水 稲農耕文化 が北部
九 州を先駆けとし て日本 列島各地 に
伝来 し、縄文文化と融合 し て、弥生
文化 が成立した ことが伺 えます。
しかしながら、弥生 前期前半ま で
は、当時貴重な青 銅器 や鉄器など の
金属器 の所有者 は、
一部 の有力な首
長など に限られ ていたため、 それら
の伝来 は数少 なく、韓半島 と北部九
州 では若千 の時期的ず れがあ るよう
です。
以上 の諸点 から、大 雑把な考 え方
で作成 した のが、別表 4 の我 が国 の
時期編年 です。即ち、我 が国 で孔列
文土器が出土す る黒川式期 の縄文晩
期中頃 は、韓国 の無文土器前期後半
、
し
頃
に
は
相
当
実
年
代
C
B
〇
〇∼
六
五〇〇年頃、縄文晩期後半 ︵
弥生早
期 ︶は無文土器 の中 期 に当 た る B 、
C五〇〇∼ 二五〇年頃 、弥生前期 は
無文土器後期 のB、C 二五〇∼ 一五
〇年頃 、弥生中期 は無文土器末期 の
B、C 一五〇∼ 〇 年 頃 と想 定 し てみ
ては如何 でし ょうか。
これ ら の区分 は、あ くま でも 一つ
の仮説 とし て考 え、土器など の編年
検討など の仮 の規準 とし、今後 そ の
妥当性 に ついて検討す べきと思 いま
また、夜臼式期 は、板付 I式土器
す。
と共存す る夜 臼 Ⅱb式土器 ま でを考
えると、おおよそ 一五〇年程度 の年
代幅があ るかとも考察 されます。
以上
│
可
(4)
紫
筑
第 146号
丁π¬F
I
皿地域
夜臼
I式
f)^轟 轟1急 I萎
1山 ノ寺式
︱組織痕文土器︱
1亀
官 の 本 式 1礫 石原式
諸
1
口
重ぽi霞
[籠 曇ゑ
I地 域
要
素
頸 部狭 ネ クタイ
リポ ン状艦状突起
夜臼 肛b式 │(原 山式)
福岡県 における縄文土器 の編年
第3表 福岡県における弥生土器の編年
隆起線文土器
無 文 土 審
爪 形文土薔
車
創
期
早 期 一前
B B
B.C.11000
羽島下層 1式
く
羽島下層 n式 〉
く
磯 ノ森式〉
式
式
船
式式式
中相津
坂ノ下 Ⅱ式 市福寺式
出 水 式
小池原上層式
饉 崎 式
北 久根 山式
西 平 式
三万 田古 式
三万 田新 式
里木 1式
謳
﹄
﹄
観
津
]
=
琳
脚
臓
藤
曽
並木 I・ Ⅱ式
阿高 1・ Π式
坂 ノTI式 日高Ш式
B.C.150
中 期
︲ n
轟
式式式側
式
い
榔
脚
D
・
C
1
期
押 型文土 番
喜 ノ神 式
様
期
細 卸
C C.
時
彦 崎 KI式
元住吉山 I式
元住吉山 u式
鳥 取 式
晩期 I(広 田 I式 =御 領式)
″ Π(広 田II式 )
″ 皿(広 田田式)
″ Ⅳ(広 田Ⅳ式)
″ V(黒 川式 古)
││■ 新)
″ Ⅵ(黒 り
(ヽ ま
福岡県で未発見だが、参考のため掲載した。
AD.50
後
期
ADAll一
古坂時代
初
■
A.D.300
式
名
曲ワ田古式
曲り田新式
夜臼式
板付 I式
根付ЦA式
板付IB式 高楓式亀ノ甲式
城ノ越式
須玖 I式
須次Π式
高三凛式
下大限式(原 ノ辻上層式)
西新古式 庄内式 古
西新新式 庄内式 新
居
現
6)
第 146号
紫
朝鮮半島中部以南地域の無文化土器の編年 と北部九州の時期
さ
靴劉瑚
ヽ
ヽ笑
彰 ↓冴
鮮 半 島
中部以南の
主な遺物
(土 器以外)
田
野多目1看冨理ぃ
藤崎
有田
玄社
北部九州の
主な遺物
(大 陸系で
初見のもの)
(註 )本 表は、李建茂氏の韓国無文土器の編年表 (註
4)に 、筆者が付加 したものである。
田
一
正
夫
にかけ て舟形石棺 2基を保護 す る上
屋が建 てられ ている。石棺 は破損 が
ひどく痛 々し い。古墳 の全長 は 87
メート ル、前方部 は低 く て長 い中期
の古墳 であ る。副葬品 には、舶載 の
位 至 三公鏡、獣帯鏡各 1面が あ る。
いずれも直径 15 セ ンチ程 の小 型鏡
塚矛、短甲、
だ。 ほか に鉄剣、鉄 刀、一
貝輪があ った。
この古墳 で珍し いのは、くび れ部
に立 つ2基 の石甲 であ る。石 甲と い
う のは凝灰岩 で作られ た短甲 で、円
筒状 の台が ついていて、 それが偏平
な円形 の石 に差 し込んで立 ててある。
このような石製品を古墳 に立 てる の
は筑後 の岩戸山 、石人山古墳 など に
見られ るが、武人が身 に つけ る短 甲
を立 てる のは本当 に珍 し い。 この後
訪れた下山古墳 にも1基 の一
石甲があ っ
たが 、例とし ても この二 つの古墳 く
ら いしか無 いらし い。奥野氏 の話 に
よれば 、五世紀から六世紀 にかけ て
豊 の国 は磐井 の勢菫卜にあ ったから、
そ の影響があ る のだ ろうと いう こと
であ った。たしか に日本書 紀 には継
前
菫景 大 分 ︶の 遺 跡 を 訪 ね て 0
バ スを降 りると左手 の小高 い丘 の
上 にこんもりとした木 の繁 みが見 え
る。あれだなと見当を つけ て小道を
上 って行 くと、神社があ ってそ の先
が古墳だ った。くびれ部 か ら後 円部
築山古墳 は全長 90 メート ル、 5
世 紀中頃と され る。 この地域 は昔海
部郡 に属し海部 一族 が勢威 を誇 った
地 と いわれ、さき に見た貝塚 ともど
も そ の勢力 に係 わ るも のとされ てい
る。なお この古墳 を中 心 に、神崎 、
馬場 、木佐上地区 には確認 され てい
るだけ で16基 の古墳があるそうだ。
神崎 八幡 の祭神 の中 に宗像 三神 ︵タ
ギ リ姫、 イチキ姫 、 タギ ツ姫 ︶が含
現 まれ ている のは、 いか にも海人族 の
一
地域だと思われ た。
築山古墳を後 にし て佐賀 の関半島
を横切 り、自杵市 へと向 かう。市 の
手前臼杵湾 に注ぐ熊取川流域 の丘陵
にも大小 11基 の古墳があると いう。
全 く この地方 の古墳 の密度 には驚 か
され る。 ここでは臼塚古墳 、下山古
じんかやま︶古墳 へ行
墳 、神下山 ︵
(6)
紫
第 146号
火 ・豊 、 二 つの
体天皇紀 に磐井が ﹁
国 に掩 い嫁 り て﹂ とあ る。連合政権
だ った のか同盟関係 だ った のか分か
らな いが、 このあ たり の水 軍も磐井
に呼応し て九州独 立 の戦 いに加わ っ
た のだ ろうか。ただ、石製品を古墳
に立 てると い っても、岩 戸山 の場合
は石人 や石馬、猪 など の動物 、盾 、
刀など の器材、石人山 では石人 で、
石甲 はなか ったように思われるので、
そうだとす ると この点 は特殊だと い
える のだ ろう。しかし こち ら の方 も
武人的 であ り、軍事的色彩が濃 いも
のと いう べきだろう。
なお古墳 のすぐ側 に建 つ神社 は臼
杵神社と言 い古 いお社 らし い。祭神
は大 己貴神 、少名彦神 、菅 原神 であ
フ
一.
丘を下りて川を渡 り、また丘を上 っ
た所 に神下山古墳 があ る。両古墳 は
川を挟 ん で、指呼 の間 にあ る。神下
山古墳 は直径 20 メート ルの円墳 だ
が、家形石棺 の棟 が は っき り刻 み出
され ていると いう珍 し い形を し てい
る。さき にも書 いたが、石棺 の形な
ど本当 に工夫 がされ て いて、どれ ひ
と つ同じと いうも のが無 い のは驚 か
され る。同 じ系統 の家形 にし ても、
少 しず つ違 う。土 器 の形 な んか地域
内 では全 く同 じな のに。
少し川下 の下山古墳 に向 かう。よ
︸
い。
く晴れ て、気温 が上がり、汗を ふき
ふき丘を登 る。雑木林を上 り つめた
所 に下山古墳 が あ った。古墳 は全長
68 メート ルの前方後 円墳だ。 この
古墳 には後円部 に接 し てそ の左前方
ら別区 らしき張 出部 があ る。別区と
聞けばす ぐ思 い出 され る のが磐井 の
墓とされ る岩戸山古墳 だ。 ここにも
両者 には類似点 があ る。主体部 は凝
灰岩厚石 の組 み合 わせ による家形石
棺 で、副葬品 は記録 によ ると 三角縁
神獣鏡 一面 、貝輪 、管玉 、鉄剣、鉄
刀など、 ほか に棺外 から多量 の鉄挺
が出 たそうだ。
︵
注 ︶古墳 の説 明板 には三角縁神
獣鏡 が出土 したとされ ているが、
他 に記録 は無 く詳細 は分 からな
臼杵古墳 のと ころで書 いたように、
この古墳 のくび れ部 にも石甲が ひと
つ、草 に埋もれ てひ っそりと立 って
いた。副葬品 には近畿色 があ りなが
ら、九 州的特色 も持 つ不思議な古墳
だと思 った。
昼一
前 にな って臼杵 の石仏 に着 く。
広 い駐車場 に レスト ハウ スが何軒 か
軒を連 ね、 日曜 とあ って人影も少 な
くな い。入場料 も 五百円と結構観光
化し ている。石仏 は年を経 て、傷 み
が激し いようだ。 そ のため屋根を つ
けた部分もあ って、やや感 興を そが
れ る気がしな いでもな い。 でも保全
のため には仕方 がな いのだ ろう。 こ
こで昼食をと って、再び別府 へ向 か
。
ノ
n
,
昨 日見学し た別府大学∼北東 へ徒
歩 で十 分 程 の所 に、 鬼 の岩 屋 古 墳
︵1号墳 、2号墳 ︶ が あ る。 1号 墳
は小学校 の裏手 に、2号墳は50メー
トル程離れた小学校 の片 隅 にあ る。
いずれも横穴式石室を持 った後期 の
円墳 である。1号墳は フ ェンスで囲 っ
てあ り、鍵がかか っていて中 には入
れなか った。石室 の奥部 には装飾文
様があ ると いう。 そば の家 から老婦
人が出 てき て、前 は自分達 で枯葉 の
掃除をしたりし て いたが、も う年 を
と って管 理も できな いと いう。墳 丘
も見たと ころ大分荒れ ているようだ っ
。
一
現 た 管 理も周辺住民 の善意 に頼 るだ
け でな く、公的な機関 でやれな いも
のか、文化財保護 に ついて考 えさせ
られ る。 2号墳 は小学校 から鍵を借
り て石室 に入 る ことが できた。一
型金、
羨道 、奥室と 3段階 に続 く長大 な石
室だ。古墳 の見かけと は段違 いの立
派な石室 に驚 かされ る。 こ の周 辺 に
は古墳が少な いが 、6世紀頃 以降 に
は この地域 にも 一定 の勢力が成長 し
たも のらし い。
再び バ スに乗 って北上 し、国東 半
島 の南部、首 の付 け根 の部分 にあ る
第 146号
紫
仔)
︶
御塔山古墳 へ向かう。杵築市 を過ぎ
てから、大分空港方面 へ向 かう国道
二 一三号線を右折 、海 沿 いにリゾ ー
ト地区 らし い地域を走 り、小 さな漁
港 を通り過ぎ た左手 の林 の中 に古墳
があ った。直径 80 メート ルの大 円
墳 で、保安林 の中 にあ ったため保存
は良好 、段築 や葺石 の状態 がよく分
かる。 この古墳 の特徴 は南側 に幅 1
2 メート ル、長 さ5 メート ルの造 り
出 しがあ る ことだ。ま た外周 に周涅
が巡らされ ていること であ る。未発
掘 のため詳細 は不明だが、 5世 紀前
半台 のも のらし い。海 がすぐ間 近 で
漁船 の エンジ ン音 が手 にと るよう に
聞 こえたから、築造当 初 は海 から葺
石 に覆 われた古墳 が よく見えた に違
いな い。 この海を支 配 した豪族 の墓
だ ろう。後部 の山上 には未 調査 なが
ら小熊山古墳と いう前方後円墳 もあ
Z
一。
大分空港 の横を通り、さら に北上
し て国東 町歴史民俗資料館を見学す
る。 ここには西 の登呂と いわれ る安
国寺遺跡 の出土品があ る。安 国寺遺
跡 は ここから近 い田深川 の流域 で発
見 され た弥生時代 の農耕あと で、標
識土器と され る安国寺形土器を出 し
た遺跡 である。 2階 の陳列台 の土器
はかめ形 で、外側 へ開 く 口縁部 を持
ち卵形 の胴部を持 った美 し い土器 で
︶
あ る。 この時代 にろく ろがあ ったか
どうか知 らな いが 、胴 の曲線 はな ん
とも言 えな い美 し さがあ って思わず
足を止 め て見入 ってしま った。まさ
に芸術品があ る。 こ のような美的感
覚を持 った人達 はど んな人 だ った の
だ ろうと思 うと同時 に、な んだか親
しみを覚 え るような気がし た。
夕闇が迫 り、雲 も広 が ってあたり
が薄暗 い。最後 の見学地安 国寺遺跡
へ向 かう。 田深川 の低 い堤防 の横 に
発掘地を示す標識 が立 っている。あ
たりは 一面 の田圃 で人家も見えない。
そ の頃 は湿地帯 だ った ろうから米づ
くりも容易 ではな か った ろう。場所
的 にはち ょ っと兵庫県 の田能遺跡 に
似 ている。とうと う雨が ポ ツポ ツし
はじめ て、急 いでバ スに戻 る。大相
撲 の優勝決定戦が終わ ったと ころで、
旭富士 が小錦を破 った ことを運転手
さんが教 え てくれ て、車 内 にひとし
き り感想 が飛びか った。
これ で今 回 の全 日程を終 わり、大
分空港 で奥野氏と別れ て、七時 四十
五分、本格的 な雨 にな った空港から
大阪 へ飛び立 った。
今回 は豊後 の古墳 を主と した慌 た
だしい見学だ ったが、最も印象深か っ
た のは何と い っても この地方 の古墳
の密度 の濃 さ であ った。古墳 の分布
図など で知識 とし ては知 っていたも
‘
のの、実際 に目 にし てみ て、 はじめ
てそ の実際 が よく認識 できた。古代
史 の上 では、豊 前 はと にかく豊後 は
ほとんど注目 され る出来事 の無 い土
地 だ。しかし、 これだ け の古墳群を
造 る力 のあ った勢力が、歴史的な事
実を ほと んど残 し ていな いと いう の
も考 え てみれば 不思議 な話だ。と い
うより、中央中 心 の歴史 に地方 の歴
史 が反映 され ていな いと考 える べき
な のだろう。と にかく古墳 が沢山あ
ると ころだなと いう のが正直な感想
だ った。
それら の古墳 で特徴的 な のは、ま
ず大分市 にあ る 一部を除 いてほと ん
どが海 に面 し て造 られ ている ことだ
ス
7つ。
︵
注 ︶大 分市 の古墳 は、最初賀来
川上流 に造 られ次第 に現在 の大
分市方面 に進出 したとされ てお
り、 これが海 部郡 や国東半島南
部 の古墳 を造 った勢力 と同 じ海
人族 によるも のかどうかは疑問
であ る。
これらが海人 族 の墓 であ る こと は
間違 いあ るま い。 それ にし ても大 し
た後背地 のな い海岸沿 いで、何 によ っ
て富を築く ことが可能 だ った のか、
交易 によ った のだとす れば そ の実体
はど のようなも のだ った のか、あ る
いは水軍 による侵略 や海賊活動が そ
(8)
の源泉だ った のか、 いろ いろ疑間が
浮 か ん でく る。
現地 で入手 した資料 によると、古
墳時代 の説明 は ﹁4世紀 には大和政
権 の力 が全国 にのび てゆき、大 分平
野 にも初期 の古墳 が出現する﹂とか、
﹁初期 の大和政権 に掌 握 され 、 そ の
先手とし て活 躍した首長 たち の墓 で
あ る古墳が⋮﹂と いうような記述が
日 に つくが、 はたし てそう言 いきれ
る のだ ろうか。最近 では、九州が大
和 の支 配下 に入 り 日本 に統 一政権 が
生まれ る のは、少なくとも磐井 が降
伏 した後とす る考 え方が有力 だと言
われ ている。 この地 の古墳 にも別区
があ ったり石製品を古墳 に立 てるな
ど筑後勢力 の影響が見られ、また磐
井が ﹁日、豊 の二国 に掩 い擦 り て﹂
とされ るよう に、 この地域 に勢力を
印象と
及ぼし ていたとみられ る点 ︵
し ては、 この地域 はかな り筑後方面
と の交流と いうか結び つきが強 い。︶
から言えば、たとえ ﹁
初期 の大和政
権と何 らか の関係があ った﹂とし て
も ﹁初期 の大和政権 に掌握 され﹂と
言 いきれる のだ ろうかと いう疑問も
湧 いてぐる。
初期 の大和政権が早くから全 国各
地 に勢力を伸ばしたと いう考え方は、
当然大和政権 が そ の初期 から強 い勢
力を持 っていたと いう考 え方 の結果
紫
筑
第 146号
であり、そ の見方 はまた初期 の前方
後 円墳が大和 に多 く、か つ集中 し て
いる ことから、前方後円墳 が大和 に
大
自生 し、 それが地方 に波 及した ︵
和政権 の規制 の下 に築造を認められ
た︶とす る考 え方 に つなが っている。
しかし最近 では こうした大和中 心 の
史観 には疑間 が持 たれ ている。なぜ
なら全国各地 でいろいろな特徴を持 っ
た発現期 の前方後 円墳 が発見 され て
お り、地方 の勢力 が前方後円墳 の築
造 に独自 の工夫を凝 らし ていた時期
があ る ことが次第 に明らか にされ つ
つあ るから であ る。 このような地方
の胎動 が、あ る時期 に各地 の古墳造
り の特色を生 かしながら大和 で開花
したと いう のが今 の古代史 の中 心的
な考 え方 にな り つつあ るよう であ る
︵またそうした中 で、 北 部 九 州 の文
化 が東 へ移 って行 った事実 も明らか
。 したが って、成
にな り つつあ る。︶
立以降大和 が早期 に ︵四世 紀な いし
五世 紀 に︶全国を支 配す るような強
大 な勢力を持 っていたと は考 え にく
いし、また当然 そ のような時期 に直
接地方 に進出 したとも考 え にく い。
こう見 てくると、豊後 に ついての上
記 の考 え方 も変 わ ってこぎ るを得な
いのではな いか。
また、豊後 の古墳 の特徴 は、初期
には弥生時代 の葬制 を そ のまま受 け
一︶
継 いだ箱式石棺を 用 い、しかも竪穴
式石室 でなくそれを直葬す ると いう
独特 な方式 を継続す る ユ ニークなも
のである。また副葬品も 、北部九州
のよう に大形 の方格規矩鏡 や内行花
文鏡を多数埋葬す る方式 ではなく、
やや特殊 な小形鏡を 1な いし2枚 し
か入れな いと いう相違があるようだ。
︵
九州 はそ の地 域 的 特 性 か ら も っと
細分し て、 この地方も東部九 州と で
も いう べき で、玄 界灘沿岸 および周
︶
防灘沿岸とは区別する必要があろう。
も っとも、古墳 を海 から見え る位 置
に造 ると いう他地域 と共 通 の考 え方
や、副葬品も北部九州などと共通 の
物 たとえば剣、刀、玉、鏡を入れ る
など は同 じだが、しかし やはり この
地方独自 のも のも目 に つく。問題 の
三角縁神獣鏡が ほと んど出土 しな い
︵
豊前 にはあるが 豊 後 には わず か 1
件 のみ、詳細不明なも のを加 え ても
2件 ︶と いう のも 、 コ三角 縁 神 獣 鏡
は大和政権 に服属 した者 に対 し て服
属 のしるしとし て交付 され た﹂と い
う論議 の主旨 からす ると少 な いと い
う印象を受 ける。
古代 研通信
〇︰甘木市の平塚川添遺跡の 一部保存が
きま った。吉野ケ里以来のうれしい出
来事である。工場団地造成中にみつかっ
たこの遺跡 の保存をもとめて、甘木市
民の 一万七千をこえる署名が集ま った。
一方、県教育委員会はブルドーザーに
追われる状況で、ねばりづよい調査、
再調査をかさねた。県文化財保護委員
会もその発掘成果をうけて適切な保存
策をだした。吉野ケ里とはまたひと味
ちが った、弥生環濠集落の復元を期待
する。
○⋮大阪府立弥生文化館を見学してきた。
九州と近畿 の弥生文化に厳然としてあ
る違い。それにふれることなしに邪馬
台国問題は論じられない︱これが私の
結論だ った。それにしても、ここに展
卑弥呼の館〃は、あの
示されていた ″
ような過密集落がはたして地上にある
のか。考古学が可能な復元とは何かを
考えさせてくれるものであ った。
ほんぎょ
○⋮四月例会で見た鳥栖市本行 ︵
う︶遺跡で出上 の小銅鐸は、昨年六月
出雲 ・荒神谷鐸と回糸︶
の銅鐸鋳型片 ︵
につづくもので、九州北部での初期銅
鐸文化の存在をい っそう明らかにした。
銅鐸の起源を研究するうえでの新しい
資料である。