” 現 男 正 野 奥 五 月 例 会 五月 二十 日 ︵日曜 日︶ 糸 島 の遺跡 J R筑 肥線 周 船 寺 駅 午 前九 時 半出発 ︶ 西大 学 教授 安 本 美 典 産 業 能 率 大 学 教 授 コー デ ィネ ータ ー 荒 木 博 之 北 九 州 大 学 教 授 日 時 エ ハ月 六 日 遺 跡 見学 ︵バ ス︶ み やざ き 歴史 文 化 館 ︱ 西都 原古 墳 群︱ 川 南 古 墳 群 ︲持 田古 墳 群 日 程 着 J 昼食 弁当 ︵ 邪馬台国は東遷したか︶ : 福岡空港集 合 福岡発 宮崎公立大学者 シンポジ ュウム ホ テ ル着 6月6曰〇 杏 す ん 発 貫 JAS 844 昼食 西都原 レストラン 市立博物的 等 見学 西都 原古墳 、 持 田古墳 、 朝食 ホ テ ル ︵ 0985125155■■︶ 名 誉 田 ア レ 橋 フ シ 自 見李 コース 丸隅山古墳︱伊都神 在︱ 飯石神社︲ マツオ古墳︱ 二塚 古墳︱ 千里石︱ 三社神社 ︵ 井 田用会支石墓 ︶︱端山古墳︱ 築山古墳︱伊都 国資料館︱ 三 雪至退跡︱細石神社 =バス利用= 波多江駅 そ の他 軽装 ・弁当持参 J工 タ 杏 食 費 用 五〇 、 ○ ○ ○ 円 申込 み 五 月十 五 日古 代研または左 記 へ。 J T B ワー ルド九 州 古 川 光 彦 不曇[ 六 月 例 会 宮崎公立大学開学記念シンポジウム ﹃邪馬台 国は東 遷したか﹄ 宮崎 ・西都 原古墳群 見学 日 時 エ ハ月五 日 ︵ 土︶ 午前十 一時∼午後 五時半 △ム 場 宮崎 公立大学講堂 パネ リ スト 大 林太 郎 東京女子大学教 授 o東 京大学名誉教授 宮崎公立大学教授 天理大学教授 。大 阪府 立弥生博物館館 長 佐 原 ] 具 国立歴史民俗博物館教 授 谷川健 一 日本地名研究所長 ・関 恕 男 福 岡 4-23260 振替 1993年 5月 8日 集 見 日 合学 地地 時 金 奥 関 野 発行先 福岡県遠賀郡遠賀町浅木 東和苑 6-4(〒 81143) 筑紫古代文 化研究会 第 146号 第 146号 紫 TEL・ Rヽ X(093)2934244 古代文化研究会会報 肌〇九 二︱七 八 一︱七 五〇 五 〒譴 福岡市中央区天神 一丁目十 三︱ 二十 一 天神商栄 ビ ル9F 七 月 例 会 日 時 七 月 二十 五 日 ︵日曜 日 ︶ 見 学 地 田川 郡 香 春 町 の遺 跡 集 合 地 J R採 銅 所 駅 十 時 出 発 見学 コー ス 阿 羅斯 等 神 社︱ 古 宮 八 幡宮︱長光 清 祀 殿︱ 神 間 歩 ︵ 古 代 の採 銅 坑 ︶ ︱ 宮 原 ︱ 鏡 山 ︵ 河 内 王 の墓 ︶︱ 香 春 神 社 I J R香 春 駅 一 父 通 博 多方 面 博多発 ︵ 九 時 ︶筑 豊 本 線 新 飯 塚 の りか え ︵ 九 時 五〇 分 発 ︶後 藤 寺 の りか え ︵ 十 時 二十 四 分 発 ︶、 採 銅 所着 ︵ 十 時 四十 四分 ︶ 北 九 州方 面 小倉 発 ︵ 九 時 四十 五分 ︶ 日田彦 山 線 ・採 銅 所 着 ︵ 十 時 二十 九 分 ︶ 折 尾 発 ︵八時 四十 五分 ︶直 方 のり かえ ︵ 九 時 二十 九 分 ︶、 新 飯 塚 の りか え ︵ 九 時 五 十 分 ︶、 後 藤 寺 の りか え ︵ 十 時 二十 四 分 発 ︶、 採 銅 所着 ︵ 十 時 四十 四分 ︶ そ の他 軽 装 ・弁 当持 参 9“ 弥 生 早期︶ の編年﹂ 縄文晩 期後 半 ︵ 仮説 ﹁ 一 保育社 一九 八七年 註2 ﹁ 福 岡県 の土器編年﹂渡 辺正 気 ﹃日本 の古代遺跡︱福 岡県﹄ 化 の研究 ︱縄文土器﹄ 雄山閣 一九 八 四年 註1 ﹁ 九州縄文晩期土器編年 関係 表﹂山崎純男 、島津義昭 ﹁縄 文晩期 ・九州 の土 器 ﹂ ﹃縄 文 文 山 ノ寺式と夜 臼式 は地域的 なも ので 同時期と考 える説もあ ります 。別掲 註 1︶、 第 2 ●3表 ︵註 の第 1表 ︵ 2︶から見 ても、 その考 え方 の違 い が あります。 また、縄文晩期後半 でも、夜 臼式 期 に先行し て山 ノ寺式期を 置く説や、 半を指 し ていますが、縄文晩期末期 或 いは初期弥生文化形成期 と言 われ たり、最近北部九州 では弥生 早期 と も言われ ています。 の学会 では、 この時期 は縄文晩期後 年代 で何時ご ろを言うも のだ ろうか と いう疑間を感 じ ていました。現在 大 田 り ︱︱ ︲ IL詈国盤等全藷 命の 編翠守か ・ 、︵ 我が国の︶夜臼式期について 一 一重 又は二重 に刻 み目があ 胴部 に、 る突帯をめぐらし ているも の︶ 私 はかねが ね、夜臼式期 と は、実 われ ます。 ︵ 注 刻 目突帯文土器 =壷 や甕な ど の主とし て煮沸用土器 の口縁部 や 器﹂が、北部九州 では、相当長期間 にわ た って出土 し ている故 かとも思 言 い換 えれば、出土した夜臼式上 刻目突帯文土 器 の特徴と言われ る ﹁ 同じ夜臼式期 でも そ の年代幅 に大 き な開きがあ るよう です。 新聞 の学者 の言とし て報ず ると ころ によれば 、同 じ二重環濠を持 つ近 く 居 現 の板付遺跡 から30∼40年程度前、 或 いは 一世 紀 ︵一〇〇年 ︶前とか、 先年 ︵一九九 二年 ︶福岡市 の那珂 夜臼式期 ︶ の 遺跡 から、 日本最古 ︵ 二重 環濠 が発見され、注目を浴びま した。調査担当者からは正確 な時期 に ついては未 発表 でありますが、各 紫 第 146号 現九 州歴史資 更 に、福 岡県教委 ︵ 料館 ︶ の橋 口達也氏 は、夜 臼式期 の 曲 り田式﹂を 置き、両者を含 前に ﹁ めた時期を ﹁ 弥生 早期﹂とす る こと を提 唱され ています 。しかし考古学 会 は、全国的な見地 から、縄文晩期 の中頃 に黒川式期 を置き、縄文晩期 後半 に山 ノ寺 、夜 臼式期とす る従来 の考 え です。 なお、最近 は、山 ノ寺式 と夜臼式 と の土器 の時期区 分が明確 でな いた め、 それらを合 わ せた刻 目突帯文土 器 の時期と称す るよう にな り、今 一 つ夜 臼式期 の時代編年 は不明確と言 わざ るを得ません。︵ 註 3︶ 註 3 0 藤尾慎 一郎 ﹁ 水 稲農耕 と 突帯文土 器﹂ ② 武末純 一 ﹁ 近年 の時代 区 分論議︱特 に弥生時代開始 を中心 に︱ ﹂ 掘 調査 が盛 ん になり、また我が国と の交流など により、土器 の形式分類 ・ 編年 に ついても双方 から種 々 の研究 発表 がなされ ています。 一九九 一年 、韓 国中央博物館考古部 韓半 部長 の李建茂氏 が発表 され た ﹁ 島 以南地域 の無文 土 器 の編 年 ﹂ ︵註 4︶は、韓 国考古学会 内 ではやや異 論もあ り、 は っきり定説化 され たも のではな いよう ですが 、土器 の形式 分類 やそ の時代区分を行な った画期 的 なも ので、特 に注 目 に値す ると思 われます。 更 に、 この時代区分 に基 づき、 そ の文化期 の標式的或 いは標準的 な遺 物を指 摘 され ている こと です 。 ︵別 表 4参 照︶ 註 4 ﹃日韓交渉 の考古学 ・弥生時 代篇﹄六興出版 一九九 一年 ② 北部九州 の土器編年 北部九 州 にお いて韓 国無文土器時 代 に対応す る時期 は、縄文晩期中頃 文土器 が大 量 に出土 し てく るよう に なる のは弥生前期末 以降 で、 それ以 前 は出土 量も少な いせ いもあ り、夜 ﹃日本 における初期弥生文化 の成工﹄ ∧横山浩 一先生 退官 記念論文集 Ⅱ∨ 一九九 一年 二、韓 国無 文 土 器 の編 年 と 北 部 九 州 の土 器 編 年 臼式 や板付式 の土器 の研究 に比 べて、 無文土器 の研究 は未着手 かと思われ から弥生中期頃 と考 えられます。 この時期 、北部九州 で、韓国系無 0 韓国無文土器 の編年 韓 国 の考古学会 は、近年各地 で発 ︶ 第 146号 つ0 一 現 ︶ ま た 、夜 臼 式 ・板 付 式 土 器 に つい 曲 り 田、板 付 、今 川等 の縄 文 晩 期 後 玄 海 灘 沿岸 で、菜 畑 、宇 木 汲 田 、 ぼ比 較 対 照 が可 能 と 思 わ れ ま す 。 ては、外 部 接 合 な ど無 文 土 器 の影 響 半 ︵ 弥 生 早期 ︶か ら弥 生 中 期 にか け ます。 が 見受 け られ るも の の、 そ の母体 は 物 を 記 入 し た のが別表 4 の下段 です。 て の各 遺 跡 か ら出 土 す る 、大 陸 系 遺 在 来 の縄 文 系 土 器 の発 展 過 程 上 に成 立 し たも の であ ると言われ ています。 これを 見 ます と 、韓 国 と 北 部 九 州 で は、 ほぼ同 時 期 に同 じ遺 物 が 出 土 し し か し 、夜 臼式 期 か ら出 現 す る丹 塗 磨 研 を 主 と す る小 壺 には、 一部 に て いる ことが判 ります 。 遺 跡 か ら出 土 す る孔 列文 土 器 です 。 長 行 、貫 川 、 野 多 日 、吉 母 浜 な ど の 特 に、注 目 され る のは 、縄 文 晩 期 中 頃 と され る黒川式 土 器 が出 土 す る 明 確 と 言 わざ るを 得 ま せ ん。 を 自 由 に往来 し 、交 易 や交 流 が 行 な わ れ文 化 的 にも そ の差 はな か った と 岐 を中 継 地 と し て玄 海 灘 や対 馬 海 峡 な ク ニグ ニ︶が あ ったが 、対 馬 や壱 た と考 え て います 。双方 の各地 には、 それ ぞれ集 団 的 な生 活根 拠 地 ︵ 小さ 対 馬海 峡 を 挟 んだ 半 島 南 部 と 北 部 韓 九 州 は同 一生 活 圏 ︵ 文 化 圏 ︶ であ っ 私 はか ねが ね弥生時代末頃 ま では、 一 四、 北部九州における時期の編年 渡 来 系 と 目 され るも のも あ り 、無 文 土 器 の系 列化 にあ ると 言 わ れ て いま す。 従 って、前 記 の無文 土 器 の編 年 と は無文 土 器 の前 期 に対 応 す ると 推 定 天 地 を求 め た人 々 の渡来 が 、 朝 鮮 半 秋 戦 国時 代 ︶ の影 響 で、難 を 逃 れ 別 方 の冷 涼 化 で、北 方 遊 牧 民族 が 下 南 し 、 それ と相 乗 し た中 国 の戦 乱 ︵ 春 後 半 か ら晩期 にか け て の東 アジ ア地 更 に考 えら れ る こと は、 縄 文 後 期 人 が 双方 の地 域 に住 ん で いた と 思 わ れ る こと です 。 韓 国 では無 文 土 器 の前 期 に孔 列 文 土 器 が出 現 し て いる点 か ら 、 黒 川 式 期 韓国 ︵ 朝鮮半島中南部 ︶と北部九 州 にお いて、土器 の比較検討 は現段 階 では出来 が た いも のの、同時期と 推定 され る出土遺物 に ついては、ほ 三 、出 土 遺 物 で の対 比 出 来 ます 。 推 定 し て います 。 言 い換 え れ ば 、倭 北 部 九 州 の夜 臼 式土 器 と の対 応 編 年 は、影 響 は認 め られ るも の の未 だ 不 紫 一 島を経由或 いは中 国 の山東半島を中 心とした地方 から直接 に、北部九州 を初め 日本列島 の各地 に、集団的 に はな いにし ても、徐 々に増加 し てき たも のと思われます。 そ の結果が、水 稲農耕文化 が北部 九 州を先駆けとし て日本 列島各地 に 伝来 し、縄文文化と融合 し て、弥生 文化 が成立した ことが伺 えます。 しかしながら、弥生 前期前半ま で は、当時貴重な青 銅器 や鉄器など の 金属器 の所有者 は、 一部 の有力な首 長など に限られ ていたため、 それら の伝来 は数少 なく、韓半島 と北部九 州 では若千 の時期的ず れがあ るよう です。 以上 の諸点 から、大 雑把な考 え方 で作成 した のが、別表 4 の我 が国 の 時期編年 です。即ち、我 が国 で孔列 文土器が出土す る黒川式期 の縄文晩 期中頃 は、韓国 の無文土器前期後半 、 し 頃 に は 相 当 実 年 代 C B 〇 〇∼ 六 五〇〇年頃、縄文晩期後半 ︵ 弥生早 期 ︶は無文土器 の中 期 に当 た る B 、 C五〇〇∼ 二五〇年頃 、弥生前期 は 無文土器後期 のB、C 二五〇∼ 一五 〇年頃 、弥生中期 は無文土器末期 の B、C 一五〇∼ 〇 年 頃 と想 定 し てみ ては如何 でし ょうか。 これ ら の区分 は、あ くま でも 一つ の仮説 とし て考 え、土器など の編年 検討など の仮 の規準 とし、今後 そ の 妥当性 に ついて検討す べきと思 いま また、夜臼式期 は、板付 I式土器 す。 と共存す る夜 臼 Ⅱb式土器 ま でを考 えると、おおよそ 一五〇年程度 の年 代幅があ るかとも考察 されます。 以上 │ 可 (4) 紫 筑 第 146号 丁π¬F I 皿地域 夜臼 I式 f)^轟 轟1急 I萎 1山 ノ寺式 ︱組織痕文土器︱ 1亀 官 の 本 式 1礫 石原式 諸 1 口 重ぽi霞 [籠 曇ゑ I地 域 要 素 頸 部狭 ネ クタイ リポ ン状艦状突起 夜臼 肛b式 │(原 山式) 福岡県 における縄文土器 の編年 第3表 福岡県における弥生土器の編年 隆起線文土器 無 文 土 審 爪 形文土薔 車 創 期 早 期 一前 B B B.C.11000 羽島下層 1式 く 羽島下層 n式 〉 く 磯 ノ森式〉 式 式 船 式式式 中相津 坂ノ下 Ⅱ式 市福寺式 出 水 式 小池原上層式 饉 崎 式 北 久根 山式 西 平 式 三万 田古 式 三万 田新 式 里木 1式 謳 ﹄ ﹄ 観 津 ] = 琳 脚 臓 藤 曽 並木 I・ Ⅱ式 阿高 1・ Π式 坂 ノTI式 日高Ш式 B.C.150 中 期 ︲ n 轟 式式式側 式 い 榔 脚 D ・ C 1 期 押 型文土 番 喜 ノ神 式 様 期 細 卸 C C. 時 彦 崎 KI式 元住吉山 I式 元住吉山 u式 鳥 取 式 晩期 I(広 田 I式 =御 領式) ″ Π(広 田II式 ) ″ 皿(広 田田式) ″ Ⅳ(広 田Ⅳ式) ″ V(黒 川式 古) ││■ 新) ″ Ⅵ(黒 り (ヽ ま 福岡県で未発見だが、参考のため掲載した。 AD.50 後 期 ADAll一 古坂時代 初 ■ A.D.300 式 名 曲ワ田古式 曲り田新式 夜臼式 板付 I式 根付ЦA式 板付IB式 高楓式亀ノ甲式 城ノ越式 須玖 I式 須次Π式 高三凛式 下大限式(原 ノ辻上層式) 西新古式 庄内式 古 西新新式 庄内式 新 居 現 6) 第 146号 紫 朝鮮半島中部以南地域の無文化土器の編年 と北部九州の時期 さ 靴劉瑚 ヽ ヽ笑 彰 ↓冴 鮮 半 島 中部以南の 主な遺物 (土 器以外) 田 野多目1看冨理ぃ 藤崎 有田 玄社 北部九州の 主な遺物 (大 陸系で 初見のもの) (註 )本 表は、李建茂氏の韓国無文土器の編年表 (註 4)に 、筆者が付加 したものである。 田 一 正 夫 にかけ て舟形石棺 2基を保護 す る上 屋が建 てられ ている。石棺 は破損 が ひどく痛 々し い。古墳 の全長 は 87 メート ル、前方部 は低 く て長 い中期 の古墳 であ る。副葬品 には、舶載 の 位 至 三公鏡、獣帯鏡各 1面が あ る。 いずれも直径 15 セ ンチ程 の小 型鏡 塚矛、短甲、 だ。 ほか に鉄剣、鉄 刀、一 貝輪があ った。 この古墳 で珍し いのは、くび れ部 に立 つ2基 の石甲 であ る。石 甲と い う のは凝灰岩 で作られ た短甲 で、円 筒状 の台が ついていて、 それが偏平 な円形 の石 に差 し込んで立 ててある。 このような石製品を古墳 に立 てる の は筑後 の岩戸山 、石人山古墳 など に 見られ るが、武人が身 に つけ る短 甲 を立 てる のは本当 に珍 し い。 この後 訪れた下山古墳 にも1基 の一 石甲があ っ たが 、例とし ても この二 つの古墳 く ら いしか無 いらし い。奥野氏 の話 に よれば 、五世紀から六世紀 にかけ て 豊 の国 は磐井 の勢菫卜にあ ったから、 そ の影響があ る のだ ろうと いう こと であ った。たしか に日本書 紀 には継 前 菫景 大 分 ︶の 遺 跡 を 訪 ね て 0 バ スを降 りると左手 の小高 い丘 の 上 にこんもりとした木 の繁 みが見 え る。あれだなと見当を つけ て小道を 上 って行 くと、神社があ ってそ の先 が古墳だ った。くびれ部 か ら後 円部 築山古墳 は全長 90 メート ル、 5 世 紀中頃と され る。 この地域 は昔海 部郡 に属し海部 一族 が勢威 を誇 った 地 と いわれ、さき に見た貝塚 ともど も そ の勢力 に係 わ るも のとされ てい る。なお この古墳 を中 心 に、神崎 、 馬場 、木佐上地区 には確認 され てい るだけ で16基 の古墳があるそうだ。 神崎 八幡 の祭神 の中 に宗像 三神 ︵タ ギ リ姫、 イチキ姫 、 タギ ツ姫 ︶が含 現 まれ ている のは、 いか にも海人族 の 一 地域だと思われ た。 築山古墳を後 にし て佐賀 の関半島 を横切 り、自杵市 へと向 かう。市 の 手前臼杵湾 に注ぐ熊取川流域 の丘陵 にも大小 11基 の古墳があると いう。 全 く この地方 の古墳 の密度 には驚 か され る。 ここでは臼塚古墳 、下山古 じんかやま︶古墳 へ行 墳 、神下山 ︵ (6) 紫 第 146号 火 ・豊 、 二 つの 体天皇紀 に磐井が ﹁ 国 に掩 い嫁 り て﹂ とあ る。連合政権 だ った のか同盟関係 だ った のか分か らな いが、 このあ たり の水 軍も磐井 に呼応し て九州独 立 の戦 いに加わ っ た のだ ろうか。ただ、石製品を古墳 に立 てると い っても、岩 戸山 の場合 は石人 や石馬、猪 など の動物 、盾 、 刀など の器材、石人山 では石人 で、 石甲 はなか ったように思われるので、 そうだとす ると この点 は特殊だと い える のだ ろう。しかし こち ら の方 も 武人的 であ り、軍事的色彩が濃 いも のと いう べきだろう。 なお古墳 のすぐ側 に建 つ神社 は臼 杵神社と言 い古 いお社 らし い。祭神 は大 己貴神 、少名彦神 、菅 原神 であ フ 一. 丘を下りて川を渡 り、また丘を上 っ た所 に神下山古墳 があ る。両古墳 は 川を挟 ん で、指呼 の間 にあ る。神下 山古墳 は直径 20 メート ルの円墳 だ が、家形石棺 の棟 が は っき り刻 み出 され ていると いう珍 し い形を し てい る。さき にも書 いたが、石棺 の形な ど本当 に工夫 がされ て いて、どれ ひ と つ同じと いうも のが無 い のは驚 か され る。同 じ系統 の家形 にし ても、 少 しず つ違 う。土 器 の形 な んか地域 内 では全 く同 じな のに。 少し川下 の下山古墳 に向 かう。よ ︸ い。 く晴れ て、気温 が上がり、汗を ふき ふき丘を登 る。雑木林を上 り つめた 所 に下山古墳 が あ った。古墳 は全長 68 メート ルの前方後 円墳だ。 この 古墳 には後円部 に接 し てそ の左前方 ら別区 らしき張 出部 があ る。別区と 聞けばす ぐ思 い出 され る のが磐井 の 墓とされ る岩戸山古墳 だ。 ここにも 両者 には類似点 があ る。主体部 は凝 灰岩厚石 の組 み合 わせ による家形石 棺 で、副葬品 は記録 によ ると 三角縁 神獣鏡 一面 、貝輪 、管玉 、鉄剣、鉄 刀など、 ほか に棺外 から多量 の鉄挺 が出 たそうだ。 ︵ 注 ︶古墳 の説 明板 には三角縁神 獣鏡 が出土 したとされ ているが、 他 に記録 は無 く詳細 は分 からな 臼杵古墳 のと ころで書 いたように、 この古墳 のくび れ部 にも石甲が ひと つ、草 に埋もれ てひ っそりと立 って いた。副葬品 には近畿色 があ りなが ら、九 州的特色 も持 つ不思議な古墳 だと思 った。 昼一 前 にな って臼杵 の石仏 に着 く。 広 い駐車場 に レスト ハウ スが何軒 か 軒を連 ね、 日曜 とあ って人影も少 な くな い。入場料 も 五百円と結構観光 化し ている。石仏 は年を経 て、傷 み が激し いようだ。 そ のため屋根を つ けた部分もあ って、やや感 興を そが れ る気がしな いでもな い。 でも保全 のため には仕方 がな いのだ ろう。 こ こで昼食をと って、再び別府 へ向 か 。 ノ n , 昨 日見学し た別府大学∼北東 へ徒 歩 で十 分 程 の所 に、 鬼 の岩 屋 古 墳 ︵1号墳 、2号墳 ︶ が あ る。 1号 墳 は小学校 の裏手 に、2号墳は50メー トル程離れた小学校 の片 隅 にあ る。 いずれも横穴式石室を持 った後期 の 円墳 である。1号墳は フ ェンスで囲 っ てあ り、鍵がかか っていて中 には入 れなか った。石室 の奥部 には装飾文 様があ ると いう。 そば の家 から老婦 人が出 てき て、前 は自分達 で枯葉 の 掃除をしたりし て いたが、も う年 を と って管 理も できな いと いう。墳 丘 も見たと ころ大分荒れ ているようだ っ 。 一 現 た 管 理も周辺住民 の善意 に頼 るだ け でな く、公的な機関 でやれな いも のか、文化財保護 に ついて考 えさせ られ る。 2号墳 は小学校 から鍵を借 り て石室 に入 る ことが できた。一 型金、 羨道 、奥室と 3段階 に続 く長大 な石 室だ。古墳 の見かけと は段違 いの立 派な石室 に驚 かされ る。 こ の周 辺 に は古墳が少な いが 、6世紀頃 以降 に は この地域 にも 一定 の勢力が成長 し たも のらし い。 再び バ スに乗 って北上 し、国東 半 島 の南部、首 の付 け根 の部分 にあ る 第 146号 紫 仔) ︶ 御塔山古墳 へ向かう。杵築市 を過ぎ てから、大分空港方面 へ向 かう国道 二 一三号線を右折 、海 沿 いにリゾ ー ト地区 らし い地域を走 り、小 さな漁 港 を通り過ぎ た左手 の林 の中 に古墳 があ った。直径 80 メート ルの大 円 墳 で、保安林 の中 にあ ったため保存 は良好 、段築 や葺石 の状態 がよく分 かる。 この古墳 の特徴 は南側 に幅 1 2 メート ル、長 さ5 メート ルの造 り 出 しがあ る ことだ。ま た外周 に周涅 が巡らされ ていること であ る。未発 掘 のため詳細 は不明だが、 5世 紀前 半台 のも のらし い。海 がすぐ間 近 で 漁船 の エンジ ン音 が手 にと るよう に 聞 こえたから、築造当 初 は海 から葺 石 に覆 われた古墳 が よく見えた に違 いな い。 この海を支 配 した豪族 の墓 だ ろう。後部 の山上 には未 調査 なが ら小熊山古墳と いう前方後円墳 もあ Z 一。 大分空港 の横を通り、さら に北上 し て国東 町歴史民俗資料館を見学す る。 ここには西 の登呂と いわれ る安 国寺遺跡 の出土品があ る。安 国寺遺 跡 は ここから近 い田深川 の流域 で発 見 され た弥生時代 の農耕あと で、標 識土器と され る安国寺形土器を出 し た遺跡 である。 2階 の陳列台 の土器 はかめ形 で、外側 へ開 く 口縁部 を持 ち卵形 の胴部を持 った美 し い土器 で ︶ あ る。 この時代 にろく ろがあ ったか どうか知 らな いが 、胴 の曲線 はな ん とも言 えな い美 し さがあ って思わず 足を止 め て見入 ってしま った。まさ に芸術品があ る。 こ のような美的感 覚を持 った人達 はど んな人 だ った の だ ろうと思 うと同時 に、な んだか親 しみを覚 え るような気がし た。 夕闇が迫 り、雲 も広 が ってあたり が薄暗 い。最後 の見学地安 国寺遺跡 へ向 かう。 田深川 の低 い堤防 の横 に 発掘地を示す標識 が立 っている。あ たりは 一面 の田圃 で人家も見えない。 そ の頃 は湿地帯 だ った ろうから米づ くりも容易 ではな か った ろう。場所 的 にはち ょ っと兵庫県 の田能遺跡 に 似 ている。とうと う雨が ポ ツポ ツし はじめ て、急 いでバ スに戻 る。大相 撲 の優勝決定戦が終わ ったと ころで、 旭富士 が小錦を破 った ことを運転手 さんが教 え てくれ て、車 内 にひとし き り感想 が飛びか った。 これ で今 回 の全 日程を終 わり、大 分空港 で奥野氏と別れ て、七時 四十 五分、本格的 な雨 にな った空港から 大阪 へ飛び立 った。 今回 は豊後 の古墳 を主と した慌 た だしい見学だ ったが、最も印象深か っ た のは何と い っても この地方 の古墳 の密度 の濃 さ であ った。古墳 の分布 図など で知識 とし ては知 っていたも ‘ のの、実際 に目 にし てみ て、 はじめ てそ の実際 が よく認識 できた。古代 史 の上 では、豊 前 はと にかく豊後 は ほとんど注目 され る出来事 の無 い土 地 だ。しかし、 これだ け の古墳群を 造 る力 のあ った勢力が、歴史的な事 実を ほと んど残 し ていな いと いう の も考 え てみれば 不思議 な話だ。と い うより、中央中 心 の歴史 に地方 の歴 史 が反映 され ていな いと考 える べき な のだろう。と にかく古墳 が沢山あ ると ころだなと いう のが正直な感想 だ った。 それら の古墳 で特徴的 な のは、ま ず大分市 にあ る 一部を除 いてほと ん どが海 に面 し て造 られ ている ことだ ス 7つ。 ︵ 注 ︶大 分市 の古墳 は、最初賀来 川上流 に造 られ次第 に現在 の大 分市方面 に進出 したとされ てお り、 これが海 部郡 や国東半島南 部 の古墳 を造 った勢力 と同 じ海 人族 によるも のかどうかは疑問 であ る。 これらが海人 族 の墓 であ る こと は 間違 いあ るま い。 それ にし ても大 し た後背地 のな い海岸沿 いで、何 によ っ て富を築く ことが可能 だ った のか、 交易 によ った のだとす れば そ の実体 はど のようなも のだ った のか、あ る いは水軍 による侵略 や海賊活動が そ (8) の源泉だ った のか、 いろ いろ疑間が 浮 か ん でく る。 現地 で入手 した資料 によると、古 墳時代 の説明 は ﹁4世紀 には大和政 権 の力 が全国 にのび てゆき、大 分平 野 にも初期 の古墳 が出現する﹂とか、 ﹁初期 の大和政権 に掌 握 され 、 そ の 先手とし て活 躍した首長 たち の墓 で あ る古墳が⋮﹂と いうような記述が 日 に つくが、 はたし てそう言 いきれ る のだ ろうか。最近 では、九州が大 和 の支 配下 に入 り 日本 に統 一政権 が 生まれ る のは、少なくとも磐井 が降 伏 した後とす る考 え方が有力 だと言 われ ている。 この地 の古墳 にも別区 があ ったり石製品を古墳 に立 てるな ど筑後勢力 の影響が見られ、また磐 井が ﹁日、豊 の二国 に掩 い擦 り て﹂ とされ るよう に、 この地域 に勢力を 印象と 及ぼし ていたとみられ る点 ︵ し ては、 この地域 はかな り筑後方面 と の交流と いうか結び つきが強 い。︶ から言えば、たとえ ﹁ 初期 の大和政 権と何 らか の関係があ った﹂とし て も ﹁初期 の大和政権 に掌握 され﹂と 言 いきれる のだ ろうかと いう疑問も 湧 いてぐる。 初期 の大和政権が早くから全 国各 地 に勢力を伸ばしたと いう考え方は、 当然大和政権 が そ の初期 から強 い勢 力を持 っていたと いう考 え方 の結果 紫 筑 第 146号 であり、そ の見方 はまた初期 の前方 後 円墳が大和 に多 く、か つ集中 し て いる ことから、前方後円墳 が大和 に 大 自生 し、 それが地方 に波 及した ︵ 和政権 の規制 の下 に築造を認められ た︶とす る考 え方 に つなが っている。 しかし最近 では こうした大和中 心 の 史観 には疑間 が持 たれ ている。なぜ なら全国各地 でいろいろな特徴を持 っ た発現期 の前方後 円墳 が発見 され て お り、地方 の勢力 が前方後円墳 の築 造 に独自 の工夫を凝 らし ていた時期 があ る ことが次第 に明らか にされ つ つあ るから であ る。 このような地方 の胎動 が、あ る時期 に各地 の古墳造 り の特色を生 かしながら大和 で開花 したと いう のが今 の古代史 の中 心的 な考 え方 にな り つつあ るよう であ る ︵またそうした中 で、 北 部 九 州 の文 化 が東 へ移 って行 った事実 も明らか 。 したが って、成 にな り つつあ る。︶ 立以降大和 が早期 に ︵四世 紀な いし 五世 紀 に︶全国を支 配す るような強 大 な勢力を持 っていたと は考 え にく いし、また当然 そ のような時期 に直 接地方 に進出 したとも考 え にく い。 こう見 てくると、豊後 に ついての上 記 の考 え方 も変 わ ってこぎ るを得な いのではな いか。 また、豊後 の古墳 の特徴 は、初期 には弥生時代 の葬制 を そ のまま受 け 一︶ 継 いだ箱式石棺を 用 い、しかも竪穴 式石室 でなくそれを直葬す ると いう 独特 な方式 を継続す る ユ ニークなも のである。また副葬品も 、北部九州 のよう に大形 の方格規矩鏡 や内行花 文鏡を多数埋葬す る方式 ではなく、 やや特殊 な小形鏡を 1な いし2枚 し か入れな いと いう相違があるようだ。 ︵ 九州 はそ の地 域 的 特 性 か ら も っと 細分し て、 この地方も東部九 州と で も いう べき で、玄 界灘沿岸 および周 ︶ 防灘沿岸とは区別する必要があろう。 も っとも、古墳 を海 から見え る位 置 に造 ると いう他地域 と共 通 の考 え方 や、副葬品も北部九州などと共通 の 物 たとえば剣、刀、玉、鏡を入れ る など は同 じだが、しかし やはり この 地方独自 のも のも目 に つく。問題 の 三角縁神獣鏡が ほと んど出土 しな い ︵ 豊前 にはあるが 豊 後 には わず か 1 件 のみ、詳細不明なも のを加 え ても 2件 ︶と いう のも 、 コ三角 縁 神 獣 鏡 は大和政権 に服属 した者 に対 し て服 属 のしるしとし て交付 され た﹂と い う論議 の主旨 からす ると少 な いと い う印象を受 ける。 古代 研通信 〇︰甘木市の平塚川添遺跡の 一部保存が きま った。吉野ケ里以来のうれしい出 来事である。工場団地造成中にみつかっ たこの遺跡 の保存をもとめて、甘木市 民の 一万七千をこえる署名が集ま った。 一方、県教育委員会はブルドーザーに 追われる状況で、ねばりづよい調査、 再調査をかさねた。県文化財保護委員 会もその発掘成果をうけて適切な保存 策をだした。吉野ケ里とはまたひと味 ちが った、弥生環濠集落の復元を期待 する。 ○⋮大阪府立弥生文化館を見学してきた。 九州と近畿 の弥生文化に厳然としてあ る違い。それにふれることなしに邪馬 台国問題は論じられない︱これが私の 結論だ った。それにしても、ここに展 卑弥呼の館〃は、あの 示されていた ″ ような過密集落がはたして地上にある のか。考古学が可能な復元とは何かを 考えさせてくれるものであ った。 ほんぎょ ○⋮四月例会で見た鳥栖市本行 ︵ う︶遺跡で出上 の小銅鐸は、昨年六月 出雲 ・荒神谷鐸と回糸︶ の銅鐸鋳型片 ︵ につづくもので、九州北部での初期銅 鐸文化の存在をい っそう明らかにした。 銅鐸の起源を研究するうえでの新しい 資料である。
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