創立 60 周年記念誌 1950 年~2010 年 千葉大学管弦楽団 2010 年度団長 本多愛実 創立 60 周年という記念すべきこの年を団長として迎えることができとても嬉しく思いま す。千葉大学管弦楽団は人間でいう「還暦」を迎えました。先輩方が築き上げてきた千葉 大学管弦楽団は 60 年という歳月の中で少しずつ形を変えつつも現在まで引き継がれて参り ました。 定期演奏会は今年の冬で 108 回を数えます。時には団員同士ぶつかり合い、時には感動・ 歓喜の涙を流すこともありました。現在まで所属してきたすべての方々の思い出があふれ んばかりに詰まっていることでしょう。私も大学生活のほとんどはこの場所で過ごしてい ると言っても過言ではありません。それほど私たちにとってこの場所はたくさんの思い出 が詰まったかけがえのないものです。そして千葉大学管弦楽団はまた新たな歴史を刻んで いきます。さて、その先にはどのようなことが待ち構えているのでしょうか。今後どのよ うな変化をとげていくのか、とても楽しみです。10 年 20 年と千葉大学管弦楽団がさらなる 活躍をしてくれることを願っています。 最後になりましたが 60 周年記念誌発行にあたりご支援ご尽力いただきました先生方、 OB・OG 会の皆様、60 周年記念委員会の皆様に厚く御礼申し上げます。また今日まで千葉 大学管弦楽団を支えてくださった先輩方、先生方、大学関係者の皆様、地域の方々にこの 場をお借りして心からの感謝を申し上げたいと思います。 顧問 柴 史之 千葉大学管弦楽団創立 60 周年,おめでとうございます。私の入団 2 年目が創立 40 周年で したので、 それからもう 20 年も経過したことになります。このオーケストラで過ごした日々 がこれまでの人生のちょうど中間点に在ることに、時の経過の速さを改めて感じます。(普 段は意識していませんが、この間に竹伸や鈴屋、養老牛丼など、当時の団員御用達のいく つかのお店が姿を消してしまったことが残念です。 )先日、とある企業の新卒求人パンフレ ットを眺めていたら、その会社で働いている同期の仕事が、オーケストラでの経験と現在 の仕事を対比させて紹介されていました。私自身仕事や生活、あるいは音楽活動において 卒団後様々な変化を経験しましたが、千葉大学管弦楽団での 4 年間はいまだにこれらを支 える基盤となっている様に思います。100 人を超える団員が在籍し一つの舞台で音楽を作り あげるオーケストラは、ひとつの小さな社会であり、そこでの様々な経験や多くの指揮者・ トレーナーの先生方のご指導は、大学を離れた後でも形を変えて、生活の礎となっており ます。このような 4 年間を過ごせたことを、幸せに思っております。諸般の事情ですっか り「名ばかり顧問」と化しており、このような場に文章をお寄せすること、おこがましい 限りですが、どうぞご容赦ください。 投 稿 長尾 龍朗 鈴木 達生 岐部 浩巳 長谷部 透 丸井 重孝 松田 芳昭 村上 信乃 小川 幸春 篠原 温 菅ヶ谷 純弘 西方 健太郎 西川 哲男 遠藤 薫 (掲載順・敬称略) 1960 年入団 Vn 長尾龍郎 たとき大変落ち込み、小学校の恩師からの 私事で恐縮ですが、本年 6 月をもって古 花束を気持ちよく受け取れませんでした。 希を向かえましたが、70 にして己の欲す 約 50 年後の現在の千葉大オケ定期は大体 るところに従って、矩を越えてばかりおり 拝聴させていただいておりますが、実力は ます。さて 18 歳にしてオケに志し、学問 プロ並み、小生在学当時とは雲泥の差、隔 はせずに稲毛の部室で遊んでばかりおり 世の感ありです。70 を越えた今でも楽器 ました。10 歳のときからバイオリンを習 は嗜んであります。たまに湘南方面の病院 い、15 歳でビオラをはじめたもので、当 でボランティア演奏をやったりしており 時のご学友の中ではビオリストとして重 ます。今は音楽ソフトもいいものがあって、 宝がられ、村上信乃会長の市川交響楽団を 自分の編曲で懐メロなどもやっておりま はじめ、明大、法政、お茶大オケなどに出 す。ぜひお近くの OBOG の方にはご支援 稼ぎに行ってもいました。2 年目には村上 をいただければ幸いです。 さんに部長にさせられ、医学部同級の尾崎 梓(バイオリン、会計係)とやじきたを組 んでおりました。その年の冬の(第 9 回) 創立60周年記念誌に寄せて 2006入団 Vn 鈴木達生 定期では、私の発想で、3 大 B プログラム 創立60周年、誠におめでとうございます。 にしました。バッハのブランデンブルグ協 60周年記念演奏会の開催、及び記念誌が 奏曲第 3 番、ベートーベン 5 交響曲、そ 発刊されることに大きな喜びを感じます。 してブラームスの悲劇的序曲でした。指揮 私が入団した時は今回と同じすみだトリ は水野修孝先生で、はじめてオーケストラ フォニーホールでの100回記念演奏会の が独立した演奏会でした。それまでは合唱 年でした。それからはや4年。千葉大オケ 団と合同で指揮も石黒先生でしたから、新 が60周年という新たな節目を迎えたこと しい試みに若い血潮が燃えました。譜面は に大きな驚きを隠せません。 ベートーベンを除き、みなでスコアから写 私たちの代は、ここ近年で最も人数が少な 譜しました。ブラームスなどは♯♭が多く い代になりました。結局卒団まで所属した て見にくく、バイオリンを始めたばかりの ものは22名で、よくこんな人数でやって 団員もかなりいて、練習では現代曲のよう いたと今更ながら思うものです。同学年の でした。これがヒントになったのでしょう 人数が少ないことにはメリットもあれば か、しばらくして水野先生は 10 回定期で デメリットもあります。どちらかといえば、 「偶然性の音楽」-皆が好き勝手な音を出 最初はデメリットばかり目立ってしまい す音楽、をやり、われわれは面白かったけ ました。パート人数の比率の悪さやパート れど聴衆は大声を上げました。怒鳴ってい トップなど役職に就く人間の不足など、 たのかもしれません。程なくの第 11 回定 様々な問題が学年に上がるにつれ表面化 期でブラームスの第1交響曲をやり、バイ してきました。それと同時に深まっていく オリンソロは何と私になりました。終わっ 様々な対立。各々が何とかしたいと思いな がら、思うようにいかないことに悩み苦し に関する多くの事柄に対して、全員で取り んだ時期が長く続きました。結局,中心学 組んでいくことができたのだと思ってい 年の時には同学年のほとんどが何らかの ます。 役職に就くという状況になっていました。 私たちの代以降は新入団員にも恵まれて、 幾度となく繰り返された話し合いの結果, 千葉大オケは年々大きな団体へと変わっ 私たちが出した答えに、他学年の団員に頼 てきています。そんな中でも、団員一人ひ るというものがあります。学生指揮者やコ とりが真剣に音楽に向き合って、互いに支 ンサートマスターを含む弦トップ、パート えあいながら楽しむことが出来る場で有 チーフなど先輩、後輩にお願いをして当時 り続けることを願っています。 の技術委員会を結成しました。自分たちの 学年だけでトップ・チーフ陣を固めること 千葉大学管弦楽団創立 60 周年に寄せて 1949 年入団 Cl 岐部浩巳 ができないということへの悔しさもあり ましたが、学年に関係なく団員全員で音楽 千葉大学管弦楽団創立 60 周年を心からお に取り組むことが出来たことは,オーケス 祝い申し上げます。創成期を知る者の 1 トラという本質を思い出させてくれた気 人として、60 年前のとても管弦楽団とは がします。また、その当時の団員皆さんか 云えない音楽好きの集団が、約 160 名(第 らの支えがあったからこそ私たちの代は 106 回演奏会名簿による)を擁する管弦楽 演奏会を迎えられたのだと思っています。 団に成長した事は、本当に大きな驚きであ 私自身図らずもセカンドトップとして技 り、誇りです。その間部室炎上という大災 術委員会に参加し、自分が理想と思う音楽 難に見舞われた事も聞いておりますが、そ を追い求める機会を得られたことは、今思 れを顧問の先生方、先輩、団員が一体とな えばとても貴重な機会でした。そんな2回 って乗越え努力されたのが、今日の栄光を の演奏会があった1年間は、今でも忘れる もたらしたものと考えます。発足当時の事 ことができません。 は 50 周年記念誌で述べているので省きま 実際に中心学年としての練習が始まると、 すが、今でも色々と鮮明に思い出されます。 今までのことが嘘のように結束力が強ま 楽器は変わりましたが、尚オーケストラ、 っていきました。来るべき定期演奏会に向 アンサンブルなどに参加して、音楽を楽し けて皆が同じ方向に向き始め、真剣に音楽 んでおります。これも千葉大学時代に知っ と向き合っていくことが出来たのです。そ た音楽の楽しさによるものと思っていま の為、かつての対立とは違った、よりよい す。千葉大学管弦楽団の、今後益々の発展 音楽をつくるためのぶつかり合いが生ま を期待しております。60 周年おめでと れました。日々朝から晩まで練習にも明け う! 暮れました。夜な夜な集まって、黙々と練 習したり、酒を持ち寄って音楽の話をしな 「やりたい曲」をやるオーケストラ がら朝を部室で迎えたり。人数が少なかっ 1974 年入団 Vn 長谷部透 たからこそ、音楽のみならず、千葉大オケ 「千葉大オケの卒業者は、卒業後もオケ を続けている人の比率が多いね」との他大 さんの書下し「オーケストラ 1981」(50 学卒業者の声がある。調査結果がある訳で 回) 「ガーシュイン・Pf 協奏曲+ブラーム はないが、小生も同様な印象を持っている。 ス・交響曲第 4 番」 (52 回)「R シュトラ 小生が 1 年生の 7 月始め、夏の定期演 ウス・ドンファン+ラフマニノフ・交響曲 奏会を何とか乗り切り、当時の定例行事だ 第 2 番」(60 回)と続く。 「ブラームス二 った移音(後述)練習期間中の部室で、M 重協奏曲+交響曲第 3 番」 (34 回) 「チャ 先輩(71 年入団 Fl)の「冬の定演(36 イコフスキー・イタリア奇想曲、Vn 協奏 回)の曲が決まったぞ、ブルックナーの 5 曲、交響曲第 6 番」 (48 回)など一人の作 番だ」の一言に、1 年生の間に衝撃が走っ 曲家だけの選曲は、今ではプロオケのプロ た。「なんでそんな難しい曲なんだ、より グラムとしては珍しくないが、演奏会が少 によって 5 番とは」それに応じるように Y ない学生オケとしては当時思い切ったも 先輩(72 年入団 Ob) 「ベートーベン等は のだった。 卒業してから市民オケでもいくらでもで 4 年間オケの楽しさを満喫するように きるから、学生は、学生だからこそできる 練習や運営のシステムが定着しているこ 曲をやれば良い」この言葉に表されている とも、千葉大オケの特長である。特に弦楽 ように、千葉大オケでは学生時代だけで無 器の初心者は、楽器を手にしてから数ヶ月 く卒業してからもオケを続けることを前 の夏合宿のじゃりオケの演奏で、早くも本 提に活動をしている。実際各地の市民オケ 番の緊張感と達成感を経験しオケの楽し 等に散って活動を続ける OBOG の消息は、 さの虜になる。 1 年生にも Y 先輩の言葉を素直に納得さ 移動音楽教室(通称=移音)は、小中学 せたし、はるか先輩の「ブラームス・交響 校を回って音楽鑑賞の曲、唱歌のアレンジ、 曲第 2 番+チャイコフスキー・交響曲第 5 校歌等を演奏するもので、毎年夏休み、春 番」 (17 回)は我々の頭からプログラムの 休み直前に関東一円の十校程度を回って 制約を取り払った。 いた。当時オーケストラ生演奏を聴く機会 そのため、歴代の演奏会は、「やりたい の少ない地方の小中学生にオーケストラ 曲」を並べたプログラムが次々登場して、 の楽しさを伝える社会的な活動を目指し 他大学のメンバーを驚かせた。 「ブルック たものだが、楽しい曲に対する子供達の反 ナー・交響曲第 5 番」は、当時日本のア 応はストレートで、目を輝かせ歓声を挙げ マチュアオケが演奏するのは初めてだと て聴き、団員も音楽の楽しさを改めて共有 言われたし、サブプロは、水野さん書下し した。特に管楽器の下級生には本番を経験 のパーカッションアンサンブル「鼓」。そ する良い機会で、皆張りきって練習・演奏 の後も「バーンスタイン・ウエストサイド していた。これが前述のように定期演奏会 ストーリー+ブラームス・交響曲第 4 番」 で難曲に挑戦する原動力の一つになって (41 回) 「ドビュッシー・海+ブルックナ いたと思う。学生オケならではの若さのエ ー・交響曲第 4 番」 (46 回)「マーラー・ ネルギーを結集して難曲をものにしてい 交響曲第 5 番」のサブプロは、再び水野 く姿勢は、今も千葉大オケの伝統として根 付いているように思う。 て行ったのであった。 その後、オーケストラ再建に向け、OB 部室焼失をめぐって 1969 年入団 Perc 丸井重孝 書棚の片隅に、三冊のファイルがある。 の方々をはじめたくさんの人々の温かい 援助をいただき、ありがたさを身にしみて 感じた。その一端を物語るものとして学部 オーケストラの演奏会のプログラムはも のクラスの仲間がカンパに使ったよれよ ちん、当時発行したお知らせ文書や名簿・ れの封筒が今も私の手元に残っている。表 規約・団員新聞等々が綴られている。幾度 書きにオーケストラの窮状を切々と訴え も引っ越しているうちに、このようなもの てくれている。こうして、六月の定期演奏 は散逸してしまうものだが、なぜか今も残 会までには,ラディック社製のティンパニ っている。ガリ版刷りやいわゆる青刷りの はじめ、一部ではあるが団所有の楽器が整 ものがほとんどだが、それらを読み返して っていった。 みると、若者ならではの情熱に満ちた仲間 の姿が伝わってくる。 とはいえ、そこに至るまでの過程におい て、様々な議論が交わされたことは言うま 中でも衝撃的な出来事は、昭和四十七年 でもない。定期演奏会はもちろん、七月の の部室焼失である。夜中に「丸井さん、千 演奏旅行の実施をめぐって、団員の心は揺 葉大が火事ですよ。」という大家さんの声 れていた。私は「こんなときだからこそや に起こされ、大急ぎで駆け付けたときには、 るべきだ」という考えだったが、「とても もう中に入れる状況ではなかった。火の粉 できる状態ではないから中止すべきだ」と を巻き上げながら崩れ落ちる建物を呆然 いう考えの仲間も少なからずいた。松波町 と見ていた。手元にある当時の新聞記事は 三丁目の私の下宿に集まって、夜を徹して 次のように伝えている。 「二日午前一時半 激論を交わしたときの様子は、今も脳裏に ごろ、千葉市弥生町一丁目、国電西千葉駅 鮮明に蘇ってくる。結局実施するというこ 北側にある千葉大構内の学生合同部室一 とになったが、決まってからの団員の結束 階西側サイクリング部室付近から出火、木 は固かった。楽譜を整え、不足している楽 造二階建同合同部室一むね約千三百平方 器を借りに行き、遅れた諸準備に奔走し、 メートルのうち約八百二十平方メートル まさに団員の底力を示すものであった。指 を焼いて、一時間後に消えた。(中略)合 揮が尾高忠明さん(現在 NHK 交響楽団正 同部室の建物は、昭和十七年に東大生産技 指揮者)、チェロ独奏は毛利伯郎さんで、 術研究所として建てられたもので、二十七 「運命」 「チェロ協奏曲」 (ドヴォルザーク) 年千葉大に統合されてからは学生サーク などを演奏した。沼津・伊東方面への三泊 ル部室として運動、文化部関係のサークル 四日の演奏旅行には、尾高さんも毛利さん 約三十五が使っている。 (後略) 」団員のほ も全行程同行してくださった。一連の出来 とんどは自分の楽器を持ち帰るのが常で 事が、今思えば夢のような話である。 あった。しかし、運悪く四月二十九日、三 1969 年入団 十日が、新入生歓迎ハイキング及び医学部 入団のきっかけ 勝山寮でのコンパであった。そのため、練 高等学校時代の文化祭で同級生がチェロ 習後、ほとんどの団員は部室に楽器を置い を弾いていた会場に行ったら何故か見知 Ob 松田芳昭 らぬ人が Oboe を演奏しており、その音色 ストーブを持参して電車に乗り込んだ等 に魅せられたことから、大学は是非共オー の思い出があります。 ケストラのあるところに入学して Oboe 4 年間の在団期間中の最大の出来事 を吹こうと思いました。1 年浪人して、千 ある夜、部室が焼失という大変な出来事に 葉大ともう一つ(オーケストラなし)合格 遭遇しました。練習日を翌日に控えていた しましたが、ぎりぎり悩んだ末、自宅から のか、練習日後でたまたま楽器を部室に置 遠く離れた千葉大学工学部に入学という いていたのかはっきりしませんが、多くの よりも千葉大学管弦楽団に入団しました。 楽器を焼失してしまうという大変不幸な Oboe という楽器 事件でした。部室が焼失した日は、私がた 入団して初めて手にした楽器は、記憶がは またま大学正門近くに下宿していたため、 っきりしませんが、コンセルバトワール式 私の部屋には多くの部員が集まり、今後の ではなくそれ以前のシンプル式だったよ 対応をどうしようかと皆と悩んでいた記 うな?私は全く初心者であり、リードは先 憶があります。 輩からいただき、それで Oboe を吹いてお 卒団後 30 年経過 りました。Oboe の指使いは難しく、先輩 30 年という記念すべき年(2003 年)に何か から色々教えてもらいながら練習をして することはないかと考えておりました。そ おりました。特に、先輩の秦さんは、大学 れは、まさしく 1969 年入団・1973 年卒 から比較的近いところに下宿されており、 団メンバーの同期会でした。同期の面々に 当時私は頻繁に押しかけては、色々と教え 呼びかけた結果、何人かの方々の賛同を受 を乞うておりました。Oboe の奏法は先輩 け、2003 年 8 月に私が所属する会社の保 からの教えと、当時(昭和 40 年)出版され 養所に集合し、互いの現状・在団当時の思 ていた Evelyn Rothwell(指揮者 Sir John い出話に尽きることなく楽しい同期会を Barbirolli の奥様)著作の Oboe Technipue 行うことができました。その後、7 年間に によるところが大でした。 わたりほぼ年 2 回の同期会を開催し続け 4 年間の在団期間 私は何とか 4 年間在団しましたが、練習 不足か才能がなかったのか、上達できず、 ております。今年 2010 年 8 月は大学周辺 を散策する計画を立てております。 60 歳となった今 指揮者からみていつも右側の席に座って 千葉大オケと同じ 60 歳となった今、チャ いたという状況でした。当時を思い出すと レンジしてアマチュア・オーケストラで演 いつも記憶に浮かぶのは、ラフマニノフの 奏してみようかとも考えております。体力 ピアノ協奏曲 2 番確か 2 楽章だと思いま もどんどん落ちていくのは目に見えてお すが、簡単なシンコペーションができず、 り、早くやらなければと焦りを感じますが、 いつも冷や汗をかいておりました。入団し 中々踏み出せない日々が続いています。 たばかりの1年生団員として、団の合宿に 千葉大学管弦楽団の 60 周年記念 は、コントラバスを背負って電車に乗り込 60 年は長いようで、何とかと言います。 んだり、冬の勝山寮の合宿では自分の石油 先輩諸氏、後輩諸氏、現役生と綿々と続く 千葉大学管弦楽団の歴史を大事にして、今 わるなど奇妙な音楽でしたが、何だか自分 後も本楽団の発展に皆様共々協力し合っ まで前衛的に進化したような楽しい気分 て行きましょう。 になったことを覚えています。その他ベー トーヴェンの「英雄」なども演奏しました 27 回の定期演奏会に出演して 1958 年入団 Cb 村上信乃 が、この演奏会から、それまで音楽部合同 演奏会として合唱団と共同で開催してい 1958 年千葉大学入学の私は医学部卒業後 た定期演奏会が、各々独立して、オケの独 も数年は大学病院に所属したため、数多く 自開催の記念すべき定演となりました。 の千葉大オケの定演に出演しました。第 第 28 回では当時まだ若かった尾高忠明 100 回定期演奏会記念誌に載っている定 氏がブラームスの 1 番を振りました。本 期演奏会記録で調べてみますと、1959 年 当に分かりやすい指揮で指揮棒の先から 第 7 回以後、1974 年第 35 回までの 29 回 音楽が出てくるのを実感し、感激しました。 の定演の内、27 回のステージに乗ってい 将来ものすごい指揮者になることを予感 たことが分かりました。その間の殆どの合 しました。演奏内容も素晴らしく、8 年前 宿にも参加していますので、多分この記録 の第 11 回で初めてこの曲に取り組んで、 は当分破られないだろうと自負していま 「われわれのオケもやっとブラームスを す。この 27 回の定演の内、とくに印象深 演れるようになった」と感激した時のレベ く残っている定演の幾つかを記します。 ルとは比較になりませんでした。団員全体 先ず第 8 回定演ですが、当時部長の私 の演奏技術が格段に進歩していたのです。 を役員の一人として助けてくれていた同 もう技術の劣る私などが出る幕でないこ 級生のフルート奏者が、演奏会終了後の夜、 とを痛感しましたが、何だか去りがたくそ 高尾山の頂上で服毒自殺しました。原因は の後も図々しく出ていました。 よく分かりませんが、一種の青春の美学に 第 34 回定演直前の勝山の合宿所で、初 よるものだろうと想像しています。今でも めて当時桐朋の学生であった若き安永徹 その時演奏したラフマニノフのピアノ協 氏(前ベルリン交響楽団コンサートマスタ 奏曲 2 番の 2 楽章の冒頭のフルートソロ ー)のブラームスの 2 重協奏曲のソロパー の箇所を聞くと、あの時の彼の演奏姿が目 トの音を聞いた時の驚きも忘れられませ に浮かびます。 ん。ダイナミックで且つきめ細やかな美し 第 10 回では水野修孝さんたちの偶然音 いヴァイオリンの音に感激して、ただ聴き 楽(ジョン・ケイジが提唱)と称する前衛音 惚れていました。将来の大活躍を予想させ 楽を演奏しました。5 線譜に音符が書かれ る響きでした。 てなく、丸とかバツなどが密や疎に時間標 まだまだ書きたいことは色々あります 示と共に並んでいて、その画面から受けた が、字数制限を超えてしまいました。最後 印象を各自が勝手に指揮者の合図に応じ にこれだけは言わせて下さい。千葉大オケ て音を出すので、2 度と同じ演奏はあり得 がその後もその特異性を失わずに着実に ません。スチール椅子を次々に倒す音が加 成長、発展していることで、そのことを大 変頼もしく思っています。独自の音楽性を は味わい深い大人になれないのと同じよ 追求して長い間指揮をしてこられた水野 うに、単純な時間の経過だけでは「伝統」 修孝さんや、わが子に注ぐような深い愛情 は作られないはずです。人は、様々な経験 を持って育ててくれているトレーナーの や判断を積み重ねてその人独自の個性を 相葉武久さんの貢献の賜物と、OB の一人 形成していく、組織も同様にいろんな出来 として感謝しています。 事や経験が積み重なってそれらを取捨選 択して代々伝えていくことで「伝統」が作 60 年の「伝統」 られていく、そう思います。一方で、高校 顧問 野球のチームや大学のサークルなんかの 園芸学部 「組織」は次々と人の入れ替わりがあるの 小川幸春 で、それぞれの伝統を大切にしてうまく次 高校野球の中継では「伝統校」という言 の世代に伝えていかないと途中で途切れ 葉をよく耳にします。私は、この「伝統校」 てしまう、変質してしまう、というような という言葉にいつも違和感を抱いていま ことがよくあります。もちろんその時代そ した。だってそうでしょう!もし長く勤め れぞれの流行を素早く取り込んで新しく ている有名監督がいるにしても、実際に野 生まれ変わる、といった考え方もありでし 球をしているのはその高校に在校する野 ょうけれども、それにはとても大きなエネ 球部の生徒です。そして彼らは、学年的な ルギーと努力と、そして+αが必要です。 重なりはあるかもしれませんが、個人とし もっとも、それがその組織の「伝統」とな ては 3 年間しか在校しません。たとえ小 るのかもしれませんが。コンサバティブな 学生時分から野球に打ち込んでいたとし 考え方かもしれないけれど、「他とは違う ても,「伝統」のあるその高校にいる期間 何か」を得るためには常に新しい価値を求 はたかだか 3 年間だから、例えば「60 年 め続けることと同時に「伝統」的な価値を の伝統」と言われたところで「3 年間しか 守っていくことも必要だと思います。 いない高校生の集団に伝統もへったくれ 今の時代、CD を買うまでもなく、パソ もないわい」と思っていました。昔は... コンのスイッチを入れてインターネット でも違うんですね。 「伝統」というのは「個 につなげば世界中の超メジャーオーケス 人の肉体」が担うのではなく、その組織の トラの演奏が簡単に聴けます。実際の演奏 精神として、知恵や知識、経験などととも を聴きたければ、プロ、アマ問わず様々な に脈々と受け継がれる「何か」なんですね。 オーケストラの演奏会が毎日のように行 そしてその伝統が、組織それぞれの強さや われています。大学オケも日本にはたくさ 特徴となる、それがなんとなく分かり始め んあります。その中で千葉大オケは、 てから、伝統って大事なんだな、と思うよ OBOG の諸先輩方が代々受け継いでこら うになりました。人間で言うと、その人の れた伝統とともにどんな音を、どんな演奏 性格を決定する「何か」かもしれません。 を聴かせてくれるのか、そんな聴き方、聴 ただし、ただ無作為に時間を過ごすだけで かせ方があってもいいのではないか、そう 私が学生時代(60 年も前ではないが)の 思います。 千葉大学管弦楽団創立 60 周年、おめで 大学オケは、東大、早慶は別格として国公 とうございます。今後もますますの発展を 立大学オケは、団員数 30~40 名、粗末な 楽器、トレーナー1~2 名で、定期演奏会 期待しています。 には相当数のトラを頼んで凌いでいたと 思われる(おかげで芸大在学生などと仲良 60 周年を祝う! くなったりできたが)。幸い千葉大オケに 顧問 は水野先生という作曲家が教育学部にお 大学院 園芸学研究科 られ、兄貴分として、指揮者として、編曲 温 者として、オケに密着した活動をしておら 私が筑波大から千葉大に転勤してきた れた。外部から見ると誠に羨ましい状況で 篠 原 のは 1990 年だった。その年の秋、管弦楽 あった。 団の 40 周年記念演奏会がサントリーホー そのような古き良き時代を経て、このオケ ルであるというので聴きに出かけた。水野 は見事に脱皮を果たしている。素晴らしい 先生指揮で、ラベルのラ・ヴァルス、マー 指揮者を迎え、大勢のトレーナーのご指導 ラーの第 5 交響曲が演奏され、その立派 のもとで、半年くらいで各奏者はメキメキ な演奏に感心して聴き惚れた。しかし、 「な 腕を上げ、同時に合奏能力も身につけてし かなか良いオケがこの大学にもあるなあ」 まい、「これが大学オケか!」というよう という程度の印象で、まさかそのオケの顧 な演奏を聴かせてくれる。OBOG 会も着 問になるとは夢にも思わなかった。当時 実な活動を続けているし、OBOG オケも (今も)つくば市に在住し、妻が地元の弦 楽合奏団「アンサンブル・ベルデ」団員と 第 4 回の定期演奏会を開催するまでに育 して活動しており、管楽器入りの曲がある っている。課題であった学内練習場の確保 と私もホルンを演奏したりしていた。この も、薬学部講堂使用にある程度の目処が立 合奏団は、伴野夫妻(Vn、現 OBOG 会々 ちつつある。私には今一歩の脱皮が可能な 長)、富沢夫妻(Fl、Vn) 、菊池氏(Cb) 、 時期が来ているようにも思える。地域と密 菊池氏(Vla、現名誉顧問)など、千葉大 着した社会貢献である。地理的にも広い千 オケの先輩達が主体となって運営されて 葉県にはオーケストラの演奏に触れるこ いたが、演奏会の打ち上げで「篠原さん、 とが少ない小中学校生がまだまだ多い。依 千葉大にいるんだったら、オケの顧問にな ってよ!」と菊池先生(現名誉顧問)から 頼されれば出かけますよ、という消極的な 誘われ、「あのオケの顧問なら悪くないか ものではなく、デモ CD などで演奏内容や も」なんて思ってしまったため、97 年か 必要経費を示し、市町村の教育委員会に売 ら顧問を務めることになってしまい、13 り込みに出かけ、毎年 1~2 カ所にキャラ 年間が過ぎ、今に至っている。 バンするのである。今の実力をもってすれ この間のオケの実力の向上は目を見張 ば、プロの楽団に負けないような感動を子 るものがある。もちろん年によって若干の 波はあるが、この 13 年を振り返ってもそ ども達に与えることができる(将来の楽団 員の勧誘にもなるし)。千葉大学管弦楽団 の発展が明らかに実感できる。ましてや、 60 年間の進境はいかばかりであろうか? の存在が千葉県全体の財産となるような 活動が出来ないかというのが、60 周年を にうわさ以上のことをやってのけようと 迎えたこのオケに対する私の夢である。 いう魂胆でした。 手探りの練習がはじまりました。弦楽器 ブルックナーの交響曲第 4 番 はすべて pp のトレモロからスタート。70 「ロマンティック」 分間、ずっとこうしているのかしら、それ 1964 年入団 Va 菅ヶ谷純弘 なら肩こりのバイブレーターを右手につ 今から 46 年も前の話です。教養部の校 けたらと思ったり、もしかしたら腱鞘炎に 舎が前年に西千葉に完成し、それまで使用 なるのではと思ったり。しばらくすると彼 していた稲毛の旧陸軍施設の稲毛校舎が 方から聞こえてくるような、ホルンのソロ 部室に割り当てられました。裸電球、暖房 がはじまります。この曲はもしかしたら、 なし、汲み取り便所であることを我慢すれ ホルンの名人の O 先輩の意見によるもの ばいつでも好き勝手に音が出せたので、新 かな? 入部員初心者にとっては天国のような場 さて、曲はしだいにクレシェンドしつい 所で、代返、エスケープを駆使して西千葉 には ff に至りそこで曲はぴたりと止まる からぬけだし、練習に明け暮れたものでし のです。とぼけたような木管の歌声のあと た。 また pp のトレモロ。一体これはなんなの さて定期演奏会の曲目がどのように決 だ。 まるかは新入部員にはよくわかりません 楽章が代わるとなんと我がビオラのソ でしたが、当時の千葉大オケは「実力のほ ロが始まるのです。それもいつものチラッ どしらずの大物食い」とのうわさを他の大 となんていうものではない、延々と奏でる 学オケからちらほら耳にすることがあり のであります。もしかしたら、選曲はトッ ました。先進的に選曲に取り組んでいたの プの医学部の N 先輩の意見かとまた思っ は東大オケで、リヒャルトシュトラウスや たりするのです。そのソロも限りなく転調 バルトークやストラビンスキーなどが話 するのです。1 オクターブ以上もスキップ 題になっていたようです。そんなときに我 して転調されるともう初心者の頭は真っ がオケがブルックナー4 番をやろうとい 白になるのです。音がとれない、指がたり う話が飛び込んできました。当時日本では ない、指が絡まる、助けてー。おまけに再 ブルックナーはほとんど演奏されていま 現部ではそっくり移調するので、今覚えた せんでした。「エ、それはなんですか?」 指使いはパーなのです。汗びっしょりの悪 という具合でした。朝比奈隆さんもまだ取 戦苦闘のあとはまた、とぼけたような木管 り組んでいなかったと思います。マーラー の鳥の歌声、そして最初のうちは不協和音 もレコードは少なかったのですが、レコー の塊と思っていた弦楽器の重音が練習が ド(CD やカセットなどない時代です)で探 進むうち、次第にふくよかなオルガンの響 すとなると東京まで行き輸入版をオーダ きとなってきたのです。練習の回数を重ね ーしなければならなかったと思います。し るうち、すでにブルックナーのとりこにな かも一枚 3,000 円以上もするのです。まさ っていました。 とても新鮮な大学オケの思い出です。す ムの米軍)、社会人野球の応援と「趣味」 でにわたしも 66 歳。ずっとオケは続けて は「洋楽漬け」でした。平成 6 年に三重 県伊賀市(上野市)に移ってもホルン、トラ いますが、この曲はなかなか取り上げても ンペット、声楽と“現役”が続いて居り、 らえません。トレモロが弾けなくなる前に これは千葉大学時代の過ごし方によると もう一度演奏してみたいのですが。 考えます。そこで本年、私が「80 歳」に 成りつくづく感じることは、 「実力の向上」 80、60、10 と「三つ揃い」とは縁起が良 は人さまざま、早より遅よりも「本人次第」 い! ですが「拠を得られる」と言うことが、一 1950 年入団 Trp 西方健太郎 本年の「千葉大学管弦楽団」が「60 年」 番苦労しらずで結果がついて来るという ことです。従って「千葉大学管弦楽団」が の長期間に渡り、継続させたと言うご努力 大集団で継続されれば新入生も「拠を得ら に感心して居ります。私は初代キャプテン れる」わけで、それは付加価値のある大学 として「何しろ学内で管弦楽の演奏を楽し として現代的であるわけですから、現役、 みたい」と集まった(集めた)わけでして、 OBOG 共々よろしくお願いします。毎年 現在の皆さんのご努力は、着々と大集団と のご案内ありがとう!すっかり「洋楽マニ したわけで問題も多かろうと思います。特 ア」に成った私ですが後輩方のご参考(良 に国立大学が独立行政法人化してからは、 いも、悪いも)に成れば幸いです。 会場、人員、楽器の各々の確保から保金、 更新の上に新たな困難が加わったかと考 えて居ります。従って OB・OG 会が再発 足して「10 年」現役のサポート、余力で OBOG 管の運営と重要な組織かつ拠所が できて幸いです。大集団とも成れば大曲、 6 年間の学生生活思い出 1996 年入団 Vc 西川哲男 楽器経験は県立千葉高オケにてフルー ト数カ月のみ、昭和 41 年(1966 年)4 月 名曲、難曲も若さと実力でものともせず、 千葉大学に入学し、あこがれのチェロを手 その上良好な学生活動が送れて何よりと に取り入門しました。弦楽器は全くの素人 考えて居ります。さて一方、私の洋楽人生 です。ボスは工学部の管さんでした。毎日 は卒業と同時に「関西」に移りましたので、 忙しく研究室にこもっていたお姿を懐か この機会にあらましをご紹介することと しました。千葉大学在学中は次々と洋楽活 しく思い出します。薄汚れた部室(サーク 動が増加しまして、4 年生の折には、管弦 ル活動用の建物の一室で靴のドロが床に 楽(市川響、OB 響)ジャズコンボ、声楽(レ こびりついた馬小屋の様な部室でした。今 ッスン、混声男声)それに学内活動を八面 は消失した建物)に無造作に置かれたオケ 六臂の大活躍で“日記”を付ける程でした。 所有のスズキのチェロが私の最初の楽器 次に神戸市で就職してからは頼まれて合 となりました。新入生歓迎会は、確か県庁 唱指揮(混声、男声、女声)もこなし、男声 でうぶ声から 9 年目に全国大会最優秀団 と裁判所に近い教育会館横の宴会場でし た。随分女の人多いサークルだと鼻の下を 体に選ばれ、古今未曾有の快事とは成って 居ります。それに管弦楽、吹奏楽、第九の 伸ばした記憶があります。チェロは管さん 合唱参加、親善演奏(シンガポール、グア の厳しい指導のおかげで上達も早く、さら に独学でウエルナー教則本片手に 1 年目 弦楽四重奏に尽きる」と音楽論を戦わせた の夏休み自宅で猛特訓し、一年前の受験地 り、未熟な自分の姿を懐かしく思い出しま 獄(勉強のみ)が嘘のようでした。 す。 それから 6 年間全ての時間をオケない 現在診療や管理業務に追われサントリ しその仲間と過ごしました。医学部は当時 ーホール通いもままならず、楽器はハード 学生運動盛んで、2 年程休講状態でした。 ケースの中に入ったままで、弦が緩んでい その頃は、年 2 回の演奏会と夏の移動音 るか、はたまた、弓の状態が保たれている 楽教室で多忙なスケジュールでした。その のか急に心配になってきました。チェロの 上、医学部学生クァルテットを組織し、先 音が再び奏でられる余裕のある時間がで 輩の伴野さん、菅ケ谷さん、同級の坂本さ きるのを楽しみに稿を終えたいと思いま ん、西川で軽井沢や伊豆で合宿しベートー す。私の故郷は、ここ千葉大オケです。 ベン、シューベルト、モーツアルトの室内 創立 60 周年記念に寄せて 楽を楽しみました。ヴェルデフォリオ・カ ルテット(エスペラント語で確か、若緑? 2004 年入団 遠藤 薫(チェロ) と訳す)。当時の細菌学教授の桑田先生が 千葉大学管弦楽団創立 60 周年おめでと 名付け親です。 大学祭、全国大学オケ連、NHK 主催の青 少年音楽祭にも積極的に参加し、さらに渉 うございます。早くも OG 3 年目となり、 チェロと出会ってから 7 年目となりまし た。 外やら技術委員長など役回りも多く学生 4 年間の大学生活はオーケストラ漬け ながら社会構造と組織での個人のあり方 だったと言ってもいいくらい、私の生活の を大いに学んだ気がします。指揮者の水野 中心にオーケストラがありました。その 4 修孝先生、早川 修先生あるいはトレーナ 年間の中で最も印象に残っているのは、や ーの福富ペルケーおじさんとの折衝も大 はり第 100 回目の定期演奏会のことです。 変ながら、コミュニケーション能力を養っ 私たちの学年は、中心学年である 3 年 たものと思います。 次の冬の定期演奏会がちょうど第 100 回 その間の大きな行事は、合唱団と共演の 目にあたっていました。入団当初、先輩方 「ベートーベン弟 9」でした。今でも CD や先生方よりお話をお聞きしてはいまし が残っています。ただ昔の腕前ですので少 たが、当時の私はその責任の重さや事の重 しの音程・リズムの狂いは仕方がないかな 大さをあまりよく分かってはいなかった と自身で納得している今日でもあります。 ように思います。しかし、団員として過ご 印象的な出来事としては元旦早々の真 していくうちに、これまでの千葉大学管弦 冬の勝山合宿での寒中水泳で、見ていて風 楽団を作り上げてきた先輩方の思いや願 邪をひきました。その時トレーナーとして いを知り、千葉大学管弦楽団の歴史と伝統 参加していた金子健志さん(千葉高同級生 をようやく実感するようになりました。 )と「きっとマーラーの時代が来る」と熱 記念すべき第 100 回は、レスピーギ作 く語ったり、水野先生と「ベートーベンは 曲“ローマ 3 部作”と言われる「ローマ の祭」「ローマの噴水」 「ローマの松」、そ に演奏会を終えることができました。演奏 して指揮者の梅田俊明先生が提案してく をしている最中のことはあまりよく覚え ださった、バッハ作曲、レスピーギ編曲の ていないのですが、ローマの松の最後、ラ 「プレリュードとフーガ」が加わってプロ ストに向かってどんどん大きくなってい グラムが決まりました。第 99 回が終わっ くにつれて、胸がわくわくするような感情 てからすぐに 100 回に向けての練習が始 が湧いてきたことは覚えています。演奏が まったのですが、ローマ 3 部作は今まで 終わった瞬間は達成感と充実感でいっぱ 経験した曲の中で一番難しいのではない いで、とても幸せな気持ちでステージにい かと思うくらいでした。自主 tutti やパー ました。 ト練習などでも苦労しながら練習を重ね 今も私はチェロを弾いていますが、4 年 ました。夏合宿で、梅田先生と初めて tutti 間のオーケストラ生活があったからこそ で合わせた時のことは今でも覚えていま 続けていけるのだと思っています。音楽に す。「ローマの祭」の冒頭に入る瞬間のあ 真摯に向き合い、辛いことも楽しいことも の緊張感は今でも忘れられない思い出で 共にした仲間、音楽の素晴らしさを教えて す。 くださったトレーナーの先生方や指揮者 本番までの半年間は本当に様々なこと があり、当日演奏会ができるのだろうかと の先生方との出会いがあったからこそだ と思います。 思ったこともありましたが、様々な方々に 千葉大学管弦楽団の音楽を、これからも 支えられて無事に本番を迎え、盛況のうち たくさんの人々に届けていってください。
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