平将門を歩く

平将門を歩く
武士の発生
(岩井市、石岡市、石下町)
今日、歴史研究部の史子さんと顧問のヨウイチ先生は平将門に関する史跡を歩
くために、茨城県に来ています。今、二人は関東のシンボル筑波山の頂上で、武
士の発生について話をしています。
史子「わぁ。筑波山からの眺めは最高です。関東平野が一望できますね。関東は
武士の発祥の地ですが、これから少しどのようにして武士が発生してきた
の か に つ い て み て み ま し ょ う 。武 士 の 発 生 に つ い て は 10 世 紀 前 半 の 平 将 門
の頃といわれています。その後、武士は大きく成長し、平清盛は平氏政権
をつくり、さらに源頼朝は鎌倉に幕府を開き、本格的な武士政権を誕生さ
せました。鎌倉幕府の成立は、これまでの天皇や貴族中心の律令政治から
武士中心の封建制度にもとづく政治への移行を意味しました。その後、武
士政権は室町幕府を開いた足利政権、江戸幕府を開いた徳川政権へと受け
継がれ、武士は日本の歴史の中で主流的勢力となり、安定政権を築いてい
きました」
彎刀と大鎧
先 生「 武 士 の 発 生 は 、10 世 紀 前 半 に 東 国 と 西 国 と で 起 こ っ た 平 将 門 の 乱 と 藤 原 純
友の乱(承平・天慶の乱)の頃ですが、その頃戦闘に用いる武具の形態が
わんとう
大きく変化します。たとえば刀剣が直刀から彎刀に変化し、甲冑が短甲か
おおよろい
ら大 鎧へ変わるが、その変化は武士の発生と大いに関係があります。武士
の魂である日本刀の歴史を振り返ってみますと、古墳時代頃の刀は反りの
ない真っ直ぐな『直刀』と呼ばれるものでありました。それがだんだん変
化して映画の時代劇などに見られるような反りのある『彎刀』へ変化しま
すが、その直刀から彎刀への変化はいつ頃なのかをみてみましょう」
わらび て と う
史 子「 直 刀 か ら 彎 刀 へ 変 化 す る 過 度 期 の 中 で 、使 用 さ れ る の が『 蕨 手 刀 』で あ り
さわらび
ます。蕨手刀は柄頭が早蕨の形をしていることから蕨手刀と呼ばれ、彎刀
の祖型といわれております。最古の蕨手刀は 7 世紀中頃といわれ、北海道
ふしゅう
や 東 北 地 方 で の 発 見 が 多 く 、 蝦 夷 の 長 が 使 用 し た も の と 考 え ら れ 、『 俘 囚 の
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剣』とも呼ばれています。蕨手刀は柄と刀身が連続した共金造りで、全体
として外反りになった彎刀で、馬上から振り切るには非常に機能的な刀で
す 。8 世 紀 頃 に な る と 、蕨 手 刀 の 柄 の 握 り の 部 分 を 毛 抜 き 状 に 打 ち 抜 い た 毛
抜き透かしの形態に変わります。この透かしは、斬撃時の衝撃からくる柄
元の振動を弱めるための工夫で、非常に実用的なものとなりました」
先 生 「 10 世 紀 に な る と 刀 身 長 が 2 尺 ( 60.2cm) を 越 え 、 刀 身 は 細 身 と な り 、 刃
反り、柄反りを強くした毛抜形太刀が出現し、蕨手刀は姿を消すことにな
ります。その後、このタイプの刀は約 2 世紀間にわたって使用され、平将
門の乱にも使用されたと考えられています。平安時代末期になると、毛抜
形太刀はほとんど姿を消し、すべて木製の柄が取り付けられた日本刀の最
こ
た
ち
初 の 型 で あ る 古 太 刀 が 出 現 し ま す 。古 太 刀 が 使 用 さ れ る 11 世 紀 頃 は 、清 和
源 氏 と 桓 武 平 氏 の 二 大 武 士 団 が 活 躍 し 、『 武 者 の 世 』 が 到 来 す る 頃 で あ り ま
す。次に、武士が戦場で身に纏った大鎧についてみてみましょう」
史子「大鎧もまた、武士の発生を背景として誕生してきます。奈良時代にはその
存在が認められず、平安時代後期になると完成度の高い大鎧が登場してく
ることから、平安前期頃にはすでに誕生していたと思われます。大鎧は武
士の台頭とともに製作され、各個戦の騎射戦用に開発された甲冑でありま
お も だ か おどしよろい
した。現存する最古の大鎧は、愛媛県の大山祇神社所蔵の『沢瀉 威 鎧 』で
あ り ま す 。 こ の 大 鎧 は 、 平 安 時 代 中 期 以 前 に 遡 り 10 世 紀 後 半 か ら 11 世 紀
前半頃に製作されたもので、現在、国宝に指定されており、文化財として
も優れた価値を持つものです」
こ ざ ね
おどし げ
と
おど
先 生「 大 鎧 は 、小 札 ( 鉄 ・ 革 な ど の 小 片 )を 威 毛 ( 組 紐 や 革 紐 )で 綴 じ( 威 す と
わいだて
いう)たもので、身体の三方を覆い、右脇の透き間に脇楯という防具を当
たんこう
けいこう
てる構造になっています。大鎧は古墳時代の甲冑(短甲・挂甲)が原形に
りょうとうしき
なっていますが、中でも挂甲や裲襠式挂甲の手法が踏襲されていると考え
られています。古墳時代は、徒歩での戦いが主流であったので短甲や挂甲
でもよかったが、平安前期頃から馬上で弓を射たり、刀を振り回したりす
る戦法に変わるとそれらは機能的ではなく、武士の登場とあいまって改良
された大鎧が出現してきたと考えられます」
史 子 「 彎 刀 も 大 鎧 も と も に 10 世 紀 頃 に 誕 生 し ま し た が 、 武 士 も ま た 9 世 紀 か ら
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10 世 紀 頃 に か け て 歴 史 上 に 登 場 し て き ま す 。 そ し て 、 直 刀 か ら 彎 刀 に 変 化
していった理由は、武士が一騎打ちの戦いで、馬上から刀を振り回して相
手を倒すには刀は反っていたほうが切りやすく、また深く切り込み、殺傷
力を増すためです。また、大鎧も騎馬戦用に開発され、馬上から弓を射っ
たり、刀を振り回したりするには非常に機能的な構造でありました」
先 生「 9 世 紀 か ら 10 世 紀 に か け て 、こ れ ま で の 貴 族 勢 力 と は 異 質 の『 職 業 的 殺 人
集団』である武士が発生し、その武士たちが彎刀や大鎧を身につけ、争乱
の中で活躍していきました。そして、日本の歴史上に、武士の登場を強烈
に印象づけたのが東国の平将門と西国の藤原純友とが同時に起こした承
平 ・ 天 慶 の 乱 ( 935~ 941) で あ り ま し た 。 こ れ か ら 東 国 ( 関 東 ) で 起 こ っ
た平将門の乱をみながら、武士発生の理由やその時代背景などについて考
えてみましょう」
平将門の乱
史 子「 平 将 門 の 乱 に つ い て 記 さ れ て い る 中 心 的 史 料 は 、
『 将 門 記 』で す 。そ れ は 漢
文 体 で 書 か れ 、古 く は『 将 門 合 戦 状 』
『 将 門 合 戦 章 』な ど と も 呼 ば れ ま し た 。
『将門記』では、平将門の系譜について“将門ハ、昔天国押撥御宇柏原天
皇五代ノ苗裔、三世高望王ノ孫ナリ” と記しております。ここに記されて
いる天国押撥御宇柏原天皇とは桓武天皇のことで、将門は桓武天皇の第五
皇子である葛原親王からかぞえて五代目の後胤にあたります。高望王は高
見 王 の 子 で 、 桓 武 天 皇 の 曾 孫 に あ た り 、 889 年 ( 寛 平 元 ) に 皇 族 籍 を 離 れ 、
臣籍に下り『平』の姓を名のりました。その後、高望王は常陸国・上総国
の国司として関東に下り、任期が過ぎたあともそのまま東国に土着して、
平氏が武士化していく土台をつくりました」
先 生「 9 世 紀 後 半 か ら 10 世 紀 前 半 に か け て 、地 方 で は『 群 党 』と 呼 ば れ る 勢 力 が
武装蜂起や闘乱事件を起こし、時には国司の支配と衝突して鎮圧の対象と
な り 、 中 央 か ら 高 望 王 の よ う な 家 柄 の 高 貴 な 紛 争 調 停 者 が や っ て き て 、『 武
芸之輩』の中核をなしていきました。この『武芸之輩』と『群党』の出現
は、武士発生の大きな要素となりました。この『武芸之輩』と『群党』に
ついては、のちほどみてみましょう。東国にやって来た高望王は、その血
統の良さから関東地方の豪族たちを配下におき、また、彼の息子達と豪族
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の子女との婚姻関係を通して、上総・下総・常陸・武蔵など関東地方一円
にその勢力を急速に伸ばしていきました。将門の父は高望王の子良持(良
持の名前については『良将』と記された文献もある)であり、母は犬養春
枝の女といわれ、在地勢力の娘といわれております」
【平将門系図】
桓武
平城
仁明
文徳
嵯峨
淳和
国香
伊予親王
良兼
葛原親王
高見王
高望王
貞盛
良持(将)
将門
良文
史子「将門は、桓武天皇を祖として、父もまた陸奥鎮守府将軍に就くといった名
門家系に生まれ、その当時関東地方に出現してきた武装集団を束ねるには
最 適 な 資 格 を 持 つ 存 在 で あ り ま し た 。ま た 、将 門 の 本 拠 地 は 下 総 国 北 部( 現
在の茨城県南部、岩井市付近の猿島郡・豊田郡)の広大な地域で、父の死
後これらの領地を受け継ぎました。この広大な領地の中に、将門の本拠地
の 館 は 、 豊 田 、 鎌 庭 ( 鎌 輪 )、 石 井 、 俗 説 で は 守 谷 を 加 え て 四 カ 所 に あ り ま
した。現在、石下町には平将門が生まれ、幼少時代を過ごした豊田館があ
り、岩井市には将門最後の地となった石井館(島広山)などの史跡が残さ
れております。現在、豊田館跡は将門公苑として整備され、そこには宮地
寅彦氏の作品平将門公之像と将門を称えた顕彰碑が建っております」
先生「近年、将門の本拠地跡から 2 つの重大発見が報告されています。1つは茨
城 県 八 千 代 町 の 古 代 放 牧 場 跡 で あ り 、も う 1 つ は 同 町 の 製 鉄 遺 跡 の 発 見 で あ
り ま す 。 将 門 の 本 拠 地 に つ い て 『 将 門 記 』 の 中 で は 、『 辛 ( 幸 ) 島 の 広 江 』
つ ま り 猿 島 の 広 大 な 沼 沢 地 と い う 表 現 が 使 わ れ て お り 、こ の 地 は 鬼 怒 川 と 利
根 川 に 挟 ま れ た 大 氾 濫 地 帯 で あ っ た た め に 、水 田 な ど の 耕 地 と し て は 適 さ な
い湿地帯でありました。そのため、この地は軍馬の放牧場として利用され、
広 さ 約 350 ヘ ク タ ー ル の 地 を 土 塁 で も っ て 取 り 囲 み 、 馬 の 放 牧 を 行 っ て お
お お ま ぎ
り ま し た 。こ の 土 塁 の 残 る 一 帯 の 地 名 は『 大 間 木 』と い わ れ 、朝 廷 の 放 牧 場
お お い
を 示 す『 御 牧 』に 由 来 し 、こ の 放 牧 場 は『 延 喜 式 』に み ら れ る 官 牧『 大 結 馬
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牧』であったと考えられております」
きゅうぼくりょう
史 子「 律 令 に は『 厩 牧 令 』が あ り 、軍 団 や 駅 馬・伝 馬 な ど に 必 要 な 牛 馬 を 供 給 す
るために諸国に官牧を置き、官牧ごとに牧長を、百匹ごとに2人の牧子を
配置し、国司の監督下に増殖・貢上することを規定しております。将門の
な が す
本拠地内に官牧『大結馬牧』と『長洲馬牧』があり、将門は二つの官牧を
持ち、彼の騎馬軍団の大きな原動力になったと考えられます」
おさききまえやま
先 生「 1978( 昭 和 53)年 か ら 1980 年 に か け て 、茨 城 県 結 城 郡 八 千 代 町 尾 崎 前 山
で発掘調査が行なわれ、製鉄遺構が発見されました。この製鉄遺構跡は、
将門の官牧『大結馬牧』の南端にあり、また、この近くには将門の根拠地
である官厩常羽御厩もあり、この鍛冶場の製鉄炉では馬の轡・鐙などの馬
具をはじめ農具や武器なども製造されていたと思われます。この二つの遺
跡の発見によって、将門は二つの官牧を所有し、さらにはそれに関連した
製鉄・鍛冶工房を持っており、それらによって馬と武器とを自由に調達で
きる環境にあり、将門の強力な騎馬部隊編成を可能にさせました。このよ
うな背景の中で乱が生じますが、その乱の経過についてみてみましょう」
史 子「『 将 門 記 』に よ る と 、平 将 門 の 乱 の 経 過 は 大 き く 三 段 階 に 分 か れ て お り ま す 。
最初は将門一族の争いから始まり、次の段階になると常陸国国府を襲撃し
国家への反乱に発展し、そして最後は鎮圧されるという経緯で記されてい
ます。それでは乱の第一段階についてみていきましょう。乱の原因は、二
つあります。現存する『将門記』はその冒頭部分が欠落しているため乱の
発端については不明ですが、抄本の一つである『将門略記』によると『女
論 』の こ と で 将 門 と 伯 父 良 兼 は 対 立 し て い ま し た 。こ の 女 論 に つ い て は『 女
性をめぐる争い』のことで、その具体的な内容については不明ですが、女
性問題で将門は伯父良兼・国香や源護らと対立をしていたことは確かであ
り ま す 。 乱 の 原 因 を 女 論 説 に 置 く の に 対 し て 、『 今 昔 物 語 』 で は 土 地 争 い か
ら争乱が始まったと記しています」
先 生 「 935 年 ( 承 平 5) 2 月 2 日 、 乱 は 野 本 の 戦 い か ら 起 こ り ま し た 。 こ の 戦 い
は、将門が常陸の野本付近で前常陸大掾源護の子源扶らによって要撃(待
ち 伏 せ さ れ 襲 わ れ る )さ れ る と い う も の で あ り ま し た 。そ こ で 、4 日 に は 将
門が源護の本拠地を襲ってこれを焼き、源扶・隆・繁らが討たれ、伯父国
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香 も 焼 死 し て い き ま し た 。こ う し て 将 門 一 族 間 の 争 い が 始 ま り 、937 年( 承
平 7 )8 月 6 日 に は 伯 父 良 兼 が 常 陸 国 と 下 総 国 の 境 の 子 飼 の 渡 し で 将 門 を 攻
め 、将 門 は 敗 退 し ま し た 。そ の 後 、伯 父 良 兼 と の 戦 い が 939 年( 天 慶 2)の
良 兼 の 病 死 ま で 続 き 、同 族 紛 争 は 第 二 段 階 に 入 り ま し た 。そ の 間 、938 年( 天
慶 元 ) 2 月 29 日 に は 国 香 の 子 の 貞 盛 ( 将 門 の 従 兄 弟 ) が 京 に 上 が り 、 太 政
官に将門の非行を訴えたが、将門にとっては全然効果がなくかえって逆心
を示し、ますます暴悪となりました」
史 子「 乱 の 第 二 段 階 は 、939 年( 天 慶 2)6 月 中 旬 に 起 こ り ま し た 。常 陸 国 に 住 む
はるあき
これちか
藤原玄明が国府に納める貢米を滞納すると、常陸国司藤原維幾は玄明の身
柄を逮捕しようとしました。そこで玄明は大急ぎで妻子を連れて、下総国
の将門の館に逃げ込んできたために、この争いは一族間の私闘から国家に
対 す る 反 乱 へ と 変 わ っ て い き ま し た 。939 年( 天 慶 2 )11 月 21 日 に は 、将
門は藤原玄明の逮捕令の撤回を求めて常陸国府に出兵し、交戦しこれを焼
き国司維幾らを捕え、国印と正倉の鍵とを奪いました。現在、常陸国府跡
は、茨城県石岡市の石岡小学校付近と推定されております。以前、私は石
岡市を訪れましたが、小学校の敷地内に『常陸国府跡』の碑が立ち、近く
には常陸国総社宮が隣接し、市内には常陸国分寺跡や国分尼寺跡も保存さ
れ、古代常陸国の中心地の面影を見ることができました」
先生「平将門の国家に対する反乱の第一歩が踏み出されたが、その後武蔵権守興
世 王 が 坂 東 八 カ 国 の 略 奪 を 勧 め 、 そ れ に 応 じ た 将 門 は 同 年 12 月 11 日 、 下
野 国 府 を 襲 い 、 15 日 に は 上 野 国 府 を 攻 略 し 、 国 印 と 鍵 を 奪 い 、 坂 東 八 カ 国
を支配下におきました。上野国府を攻略した将門は、ここで『諸国の除目』
と『新皇僣称』とを行い、さらには新皇である将門が政治を行う皇居の建
設計画なども協議されました。この時の除目(国司の任命)の内容は全国
的規模ではなく、坂東八カ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上
野、下野)の範囲内の人事であり、新皇とは都の天皇に対して『東国の新
天皇』という意味でつかわれたものであります。除目の人選と任国の割り
振りについては、以下の通りであります」
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官
名
氏
名
身
分
将門の舎弟
下
野
守
平
将
頼
上
野
守
多
治
経
明
陣頭・常羽御厩別当
常
陸
介
藤
原
玄
茂
もと常陸掾
上
野
介
興
世
王
安
房
守
文
屋
好
相
模
守
平
将
文
将門の舎弟
伊
豆
守
平
将
武
将門の舎弟
下
総
守
平
将
為
将門の舎弟
もと武蔵権守
立
上兵
史子「将門謀反の知らせはたちまち諸国に広がり、近隣諸国の長官達は次々と都
に 逃 げ 帰 り 、そ の 謀 反 の 急 報 は 、12 月 27 日 に 信 濃 国 府 か ら 京 都 に 伝 え ら れ
ました。この報告を受けた都の天皇はじめ公家達は、唯ひたすら神仏に祈
願 す る ば か り で あ り ま し た 。 940 年 ( 天 慶 3) 1 月 下 旬 に な る と 、 将 門 は 諸
国から招集した兵士たちを全部帰国させてしまい、残る兵はわずかに千人
にも満たない状態でありました。この頃の兵士は『伴類』と呼ばれ、各地
の土豪や有力農民で編成され、利害によって左右される極めて流動的な同
盟関係で結ばれていました。この将門の兵士が手薄であることを伝え聞い
た平貞盛(国香の子、将門の従兄弟)と押領使藤原秀郷らは四千余人の軍
兵 を 従 え て 、攻 撃 を 仕 掛 け よ う と し ま し た 。2 月 1 日 に は 、将 門 は こ の 攻 撃
を防ぐために下野に出兵したが、副将藤原玄茂らの快挙によって敗北して
しまいました。藤原秀郷らは、これを川口村に追撃して将門軍を敗退させ
ました。そこで将門は、本拠地のある幸嶋郡(猿島郡)の広江に逃れ、将
門の館がある北山で最後の決戦が行なわれました」
先 生「 940( 天 慶 3)年 2 月 14 日 、将 門 は 北 山 の 戦 い で 亡 く な り 、2 月 16 日 に は
将門の配下についた平将頼、藤原玄茂らは相模国にて殺害され、興世王は
上総国において誅殺され、坂上遂高・藤原玄明らは常陸国において切られ
ま し た 。そ の 後 、将 門 の 首 は 4 月 25 日 に 都 に 送 ら れ 、こ の 反 乱 は 終 息 し て
いきました。そして、この乱を平定するのに功労あった者たちに対して論
功行賞が行われました。介源経基に対しては従五位下、藤原秀郷には従四
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位下そして平貞盛には正五位上の位階が、それぞれ与えられました。これ
らの者たちに位階が与えられたことによって、後の平氏や源氏の発展のも
とがつくられることとなります。それについては後ほどみることにいたし
まして、その前に藤原純友の乱についてみてみましょう」
藤原純友の乱
史子「平将門の乱と時を同じくして、瀬戸内海を拠点に反乱を起こしたのが藤原
純友でありました。藤原純友の系譜をみてみると、嵯峨天皇に仕えた藤原
冬嗣を祖とする名門の家系につながり、伊予掾として四国にやってきた中
央貴族でありました。藤原純友は、名門家系につながる下級貴族で、伊予
国司として四国に赴任してきましたが、その後、任期が切れた後も任国に
とどまり、日振島を拠点に瀬戸内海の海賊を配下に従え、暴虐な活動を行
っておりました」
【藤原純友系図】
遠経
良範
純友
長良
藤原冬嗣
基経
時平
良房
基経
(養子)
実頼
忠平
師輔
先 生 「 純 友 の 乱 は 939 年 ( 天 慶 2) 12 月 26 日 、 備 前 の 国 司 藤 原 子 高 の 圧 政 に 抵
抗していた盟友藤原文元の救援要請を受け、子高を摂津国須岐駅(現・芦
屋 市 )に 襲 撃 し た こ と か ら 始 ま り ま し た 。
『 扶 桑 略 記 』に 引 く『 純 友 追 討 記 』
によれば、純友は都への進攻をくわだてその配下の者を京の街に放ち、連
夜放火をさせて人心の動揺をはかったといい、子高はそれを知って報告の
ため上京するところを純友に襲われ、乱の発端となりました。この事件は
平 将 門 が 東 国 に お い て 上 野 国 府 を 占 領 し た わ ず か 11 日 後 の 出 来 事 で 、関 東
と瀬戸内海とで同時多発に起こった二つの反乱は、都の貴族たちを震撼さ
せました」
史 子「 翌 940 年( 天 慶 3)、朝 廷 は 小 野 好 古 を 追 捕 使 に 任 命 す る 一 方 、純 友 に は 従
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五位下の官位を与えて懐柔策をとったが治らず、かえって淡路・讃岐・伊
予・備前・備後・阿波・備中・紀伊・太宰府・周防・土佐の各地が次々と
襲 わ れ ま し た 。 そ の 後 、 941 年 ( 天 慶 4) 2 月 に は 、 純 友 の 本 拠 地 が 攻 撃 さ
れると、大敗して海上に逃れた純友は太宰府を襲い、放火・炎上させてし
ま い ま し た 。 5 月 20 日 、 純 友 は 博 多 の 決 戦 で 小 野 好 古 と 戦 い ま す が 、 大 敗
し 、 純 友 は 小 舟 に 乗 っ て 伊 予 国 に 逃 げ 帰 っ た と こ ろ を 、 6 月 20 日 、 警 護 使
橘遠保のために討たれて乱が終焉いたしました」
先 生 「 平 将 門 が 東 国 で 国 家 に 対 す る 反 乱 を 起 こ し た の は 、 939 年 ( 天 慶 2) 11 月
21 日 の 常 陸 国 府 へ の 出 兵 と 、 同 年 12 月 11 日 の 下 野 国 府 の 襲 撃 、 12 月 15
日 の 上 野 国 府 へ の 攻 略 で あ り 、12 月 27 日 に は こ の 乱 が 都 に 報 じ ら れ 朝 廷 の
貴 族 た ち を 震 撼 さ せ ま し た 。 こ の 同 じ 年 12 月 26 日 に 西 国 瀬 戸 内 海 を 中 心
として藤原純友の乱が起こり、これもまた中央貴族たちを驚愕させました。
この二つの乱は、同時多発的に発生し、総称してその年号をとり「承平・
天慶の乱」と呼ばれております。この二つの乱には、将門・純友二人の出
自や乱発生の原因など共通する部分が多く見られ、その原因の中に武士発
生の理由が窺えます。また、この時期には地方政治が乱れ、そのような政
情不安の中から武士勢力が発生してきますが、平将門の乱を検証すること
によって武士がどのような時代背景の中で発生し、成長していったのかを
考えてみましょう」
富豪之輩
史子「律令制度が崩壊していく9世紀初頭以後、地方には国家が国費で農民を使
役して直に開発経営にあたる公営田と、民間で私費を投じて同様な経営を
行う私営田が顕著になってきました。とくに私営田経営においては、富豪
農民の営む小規模のものや任国に土着した国司や在地首長の郡司などが開
発した大規模なものもあり、これら私営田を経営する勢力は『私営田領主』
あるいは『富豪之輩』と呼ばれ、卓越した農業経営を行うようになってき
ました。これら私営田経営を行う『富豪之輩』は、水利の管理・農具・役
畜・種子・営料など耕作に関する全てのものを準備し、経営者自らが労働
編成と監督を行い、収穫物の全部を自己の所有として収取する直営方式の
形態をとりました」
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先生「平将門もまた、この富豪之輩であり、数郡にわたる広大な領地を経営する
私 営 田 領 主 で あ り ま し た 。 私 営 田 領 主 は 、『 田 屋 』『 営 所 』 な ど と 呼 ば れ た
館を中心に直営形式の広大な私営田を経営し、一般の郡司や百姓をまるで
下人のように働かせたところに特色があります。平将門は、猿島・豊田両
郡を支配下におき、その領内に鎌輪営所や石井営所などの館を設置し、そ
こを本拠地として私営田経営を行った領主であります。将門のように、9
~ 11 世 紀 の 私 営 田 領 主 が 自 立 し た 人 民 を 思 い の ま ま に 働 か せ る こ と が で き
たのはなぜなのでしょうか」
史子「その理由は、一つには、私営田領主たちはしばしば国の役人として公権力
を利用できる立場にあり、将門のように貴族の家系にある者は強い自主権
を認められていました。第二には、多くの私営田領主は春先に農民に種籾
などを貸し付けて、秋に利息を付けて回収する私出挙を行い、さらには農
民の調庸を代納して、後にこれを取り立てる納税請負人でもあったので人
民を意のままに掌握できたのです。そして第三には、農民たちの使用する
基本的な生活用具や農具の多くが私営田領主の館で生産され、供給されて
い た の で す 。 領 主 の 館 に は 、 織 物 所 ・ 染 所 ・ 糸 所 ・ 作 物 所 ( 木 工 所 )・ 鍛 治
所・鋳 物 所 な ど の 工 房 が あ り 、そ こ で は そ の 領 内 で 使 用 す る 農 民 た ち の 鎌 ・
鍬・鋤・斧・衣類をはじめ多くの生活用具や農具が生産され、農民たちに
供給していたために領主は人民を統率できたのです。前述したように、将
門の場合は、尾崎前山遺跡の製鉄遺跡や大結馬牧の放牧場に見られるよう
に、その領内に鍛治工房や役畜・兵馬を所有し、それらを農民たちに供給
していたと思われます。このような将門の富豪之輩・私営田領主としての
性格が多くの兵を集めることができた大きな要因でありました」
武芸之輩
先生「また、平将門は高望王以来下総国に土着し、猿島・豊田などの郡内を開発
した富豪之輩・私営田領主としての一面と共に、地方の争乱を鎮圧してい
く『武芸之輩』としての性格をも合せ持っていました。これら武芸之輩が
出 て く る 背 景 に は 、 9 世 紀 後 半 か ら 10 世 紀 前 半 に か け て 、 富 豪 之 輩 ら の 武
装集団である群党の蜂起や闘乱事件が地方の各地で多発してくることにあ
ります。そして、そのような地方の争乱を鎮圧するために中央から派遣さ
10
れ、その地に土着した者が武芸之輩の中核をなした人々でありました。武
芸之輩の代表としては、東国にやって来た高望王とその流れを受けた桓武
平氏一族、鎮守府将軍として下野国に下向した藤原秀郷とその一族、西国
では『承平南海賊』を平定した藤原純友らが有名であります」
史子「9世紀末以降、東国では慢性的な治安崩壊状態となり、国衙の治安維持能
力も衰えていき、そのような中で武芸之輩としての武装集団が盛行したの
は当然であります。そして、国家権力を用い、地方の治安維持にあたる国
衙の統治能力が喪失していく中では、平将門の乱の第一段階の原因であっ
た所領をめぐる紛争などが多発し、それらを治めるために国司に代わり武
芸之輩は武力所有者相互の紛争調停者として活躍することになります。紛
争調停者の条件としては、家柄が高貴で、公平で、武芸に優れていること
が要求され、平将門はそのような意味で最適格者でありました」
先生「将門は桓武平氏という名門貴族の流れを受け、また私営田領主として広大
な領地をもち、その領内には官牧を所有し、財力・武芸そして人間的信用
とを兼ね備え、紛争調停者の立場で乱の第二段階の発端となった常陸国司
藤原維幾と富豪之輩藤原玄明との対立に介入していったと思われます。平
将門は富豪之輩であると同時に、高望王以来の『武芸』を職能とする職業
的殺人集団としての武芸之輩の性格を強く持ち、紛争調停者として介入す
ることによって、国衙勢力と対抗し反乱へと発展していきました」
群党の蜂起
史子「前述したように、富豪之輩は自己の私営田経営を行うかたわら、国衙支配
下の公田や王臣家の所有する荘園などを請け作して、地方において大きな
勢力となったが、国司や王臣家の前ではまだまだ無力でありました。とく
にこの時期、国司はその任国における権限強化が認められ、富豪之輩に対
して課税徴収を強めてきました。そのような中で、農業・非農業など様々
な 職 域 の 富 豪 之 輩 は 『 党 』・『 群 党 』 を 結 成 し て 国 衙 勢 力 に 抵 抗 を 行 う 事 例
が 多 発 し て き ま す 。 と く に 9 世 紀 末 か ら 10 世 紀 初 め に か け て 、 各 地 で 党 の
活動が活発になり、播磨国では富豪農民が群党を結び、国司・郡司の徴税
に抵抗を行っています。しかし、群党を結ぶだけでは国衙に対する抵抗運
動としては微力であり、完全に国司の権限を押さえることができる工夫と
11
して、国衙権力よりもさらに大きな権力を求めて、都の王臣家との結合を
強めていきます。9世紀末には、自ら開発した私営田を王臣家の所有と称
して、国司の徴税を拒否する私営田領主も現れてきます(寄進地系荘園の
始 ま り )。 こ の 結 果 、 富 豪 之 輩 は 王 臣 家 と の 結 合 を 深 め 、 徴 税 拒 否 を 主 張 す
ることによって、国司と彼らとの対立関係は益々深まり、地方において群
党蜂起が多発する要因となります」
先 生「 福 田 豊 彦 氏 は“ 9 世 紀 末 ~ 10 世 紀 初 期 、東 国 で は 一 層 激 し い 群 党 蜂 起 の 時
代を迎えていた”と述べ、承平・天慶の乱の意義を“これを単に東国の平
将門と西海の藤原純友の地方反乱事件として捉えるのではなく、国内的に
は9世紀以来の群党蜂起の総決算であり、さらには東アジア一帯の大変動
の一環として捉え直したい” と述べ、二つの乱が群党蜂起の延長線上にあ
り 、そ の 総 決 算 で あ る と 位 置 付 け て い ま す(『 朝 日 百 科 日 本 の 歴 史 59』)。そ
れでは次に、群党蜂起が起こる原因となった地方の政治情勢について検証
しながら、武士の発生を考えてみましょう」
地方政治の変化
史子「前述したように、9世期末頃から、党・群党が地方において大きな勢力と
なり、国衙と対立していく背景には、9世紀前半からの地方行政機構や徴
税法の改革が行われ、そのような中で国司と富豪之輩との争いが多発して
きます。以下、その変化についてみてみましょう」
郡司の弱体化
先生「この頃、在地首長として伝統的存在であった郡司の力が弱体化していきま
す 。 812 年 ( 弘 仁 3 )、 郡 司 の 任 用 に 関 し て 国 司 の 権 限 を 強 め る こ と 、 822
年( 弘 仁 13)に は 正 員 郡 司 の 任 用 に 先 だ ち 、複 数 の 郡 司 候 補 者 を 擬 任 郡 司 と
して試用する措置などが取られ、国司の郡司に対する支配力が強化されて
いきました。こうして郡司は在地首長としての権威を失い、国衙機構の中
に組み込まれ、国司のもとで地方官僚としての性格を強めていくことにな
りました」
国司の権限強化
史子「郡司が弱体化していく中で、一方国司の権限強化が認められてきます。国
司は、大宝令以来、地方の国ごとに置かれた地方官僚であったが、9世紀
12
ようにん
頃になると任国に赴任せず目代を派遣する遙任国司や、任国に赴き私腹を
ずりょう
肥やす受領などが出現し、地方政治が混迷してくる中で地方行政官である
国司(受領)の権限が強化されていきました」
富豪之輩の台頭
先生「前述しましたように、地方政治における王臣家の関与と富豪之輩の台頭が
際立ってきます。その原因としては、醍醐天皇の時に出された『延喜の荘
園整理令』に起因します。郡司の権威喪失と国司の権限強化の中で、国司
と富豪之輩との対立という構造が生じます。醍醐天皇は、律令政治の再建
を目指し、延喜の治を行い、政治改革を行いました。その改革策の一つと
して荘園の整理を行っています。その内容は、①勅旨田を廃止して、人民
の請作にかえる。②諸国の農民の寄進行為を禁止する。③皇族・貴族が空
閑地・田地・家屋を占有し、荘園を新設することを禁止する。但し、正式
の認可を受け国司の統治を妨げないものはこの限りではないというもので
ありました」
史子「この法令が出された背景には、富豪之輩が地方において領地を開発し、そ
の土地を国衙の干渉から守るために王臣家に寄進する荘園が多くなってき
た こ と を 物 語 っ て い ま す 。 ま た 、 868 年 ( 貞 観 10)に は 王 臣 家 の 印 使 用 が 公
認され、国司に対して公的文書の『家牒』を発給できるようになり、王臣
家の地方政治への関与に合法性を与え、富豪之輩と王臣家との結び付きを
深め、王臣家の『家人』となるものもあり、そのような権威を後ろ盾とし
て国司に対抗していくことになります。また、荘園整理令の中には例外規
定があり、国衙の認可を得た荘園の新設が認められたことで、班田収授の
制 度 は 機 能 し な く な り 、 902 年 ( 延 喜 2 )を 最 後 に 実 施 不 能 と な り 、 そ の 後
は荘園開発が各地で盛んに行われ、ますます富豪之輩の勢力が強くなって
きました。さらに、国司は富豪之輩を国務に使役することが公認され、富
豪之輩は『雑色人』と呼ばれ、土地調査、徴税などの業務に当たり、大き
な権限を有するようになりました。
徴税法の変化
先 生「 こ う し て 班 田 収 授 制 が 崩 れ て い く と 、口 分 田 を 班 給 し 課 丁( 調 ・庸 を 負 担 す
る成年男子)から租税を徴収するということは困難となり、賦課の対象が
13
人身から土地へと変化せざるを得なくなってきました。9世紀初頭ころか
ら、国家が国費で農民を使役して直接に開発経営に当たる公営田が出現し
て き ま し た 。 公 営 田 制 は 、 823 年 ( 弘 仁 14)、 大 宰 大 弐 小 野 岑 守 の 建 議 に よ
って行われたもので、西海道諸国で主に実施されました」
史 子 「 そ の 後 10 世 紀 に 入 る と 、『 負 名 体 制 』 と 呼 ば れ る 国 司 ( 受 領 ) に よ る 租 税
収取の体制が整えられるようになりました。これは国司が支配領内の土地
を検田した後、租税収取の単位である『名』を編成し、名ごとに租税の納
入責任者すなわち『負名』として把握し、郡郷の収納所に所定の租税を納
めさせるというものでありました。納税責任者である負名には、富豪之輩
や 有 力 農 民 ( 田 堵 )・ 中 小 農 民 な ど が 耕 作 を 請 負 い 、 租 税 を 国 衙 に 納 め ま し
た。しかし、このような負名体制の中で国衙に租税が完全に納められたか
というと、かえって滞納が多くなり、国司は『里倉負名』という形で未納
分を、民間の倉庫に保管しているというように帳尻を合わせ、処理してい
きました。このような『里倉負名』が増大していくことによって、国家財
源はますます窮乏化し、国司の権限も弱体化することとなりました。この
ように徴税法の改正によって、多様な性格をもつ富豪之輩から小規模経営
の農民までを画一的に負名として把握したために、その徴税をめぐり負名
と国司が対立関係になり、地方政治をゆがめ、争乱発生の要因をつくるこ
とになりました」
二つのタイプの国司
先生「こうして徴税法が変わり、負名体制が出来上がる中で、任国にやって来た
た
と
国 司 ( 受 領 ) は 富 豪 之 輩 や 田 堵 ( 有 力 農 民 )・ 中 小 農 民 に 対 す る 支 配 に お い
て、二つのタイプの国司があらわれました。一つは、模範的国司(受領)
のタイプです。このタイプは国家財源確保のために一生懸命に任国におい
て徴税に励み、その功績によって中央での高い官位を得ようとするタイプ
みやこの み と り
で あ り ま す 。こ の 例 と し て 、筑 後 守 都 御 酉 が い ま す が 、彼 は あ ま り に も 国
司として模範的人物であったために地方の人民からかえって反発を買うこ
と に な り ま し た 。 彼 は 、 30 余 年 行 わ れ て い な か っ た 班 田 の 実 行 を 申 請 し て
許され、統制と徴税の強化によって律令制を再建しようとして地方勢力の
群党によって射殺されました。彼は官人としては公務に忠実であり模範的
14
人物であったが、班田制が崩壊した中で新たに口分田を設けようとすれば、
当然、富豪之輩との間に対立が起こり、このような事件が起きるのは自明
のことでありました」
史子「もう一つのタイプは、悪徳国司(受領)の場合であります。このタイプは
こ く が
受領として任国にはやって来るが、国衙の政務には専念せず、私腹を肥や
な か い おう
す こ と だ け を 考 え て い る よ う な 者 で あ り ま す 。そ の 例 と し て 、豊 後 介 中 井 王
がいます。中井王は、領国内に私営田をつくりその管理を郡司や田堵に任
せ、さらには農民たちの調庸を代わって納めて後に高利をつけて取り立て
る私出挙を行い、巨利を得ていた受領であります。その他にも、天慶の乱
げ ぶみ
後 の 998 年 (長 徳 4 )に 『 尾 張 国 郡 司 百 姓 等 解 文 』 で 郡 司 ・ 百 姓 た ち か ら 訴
もとなが
えられた藤原元命などもこのタイプの受領であります。このタイプの受領
もまた、富豪之輩や田堵などの群党との間に対立を生じてきます。これら
の受領は自分の私腹を肥やすために、任国において人民を意のままに使い
苛政を行い、富豪之輩や田堵に対して租税徴収をはじめ様々な要求をした
ために対立や争乱を起こしました。前述したように、将門の乱の時、将門
はるあき
の営所に逃げ込んできた富豪之輩の藤原玄明の場合も、このような理由か
これちか
ら常陸国司藤原維幾と対立を生じ争いました。藤原玄明は国司の租税徴収
などの要求から逃れるために将門に助けを求め、それに応じた将門は玄明
を援助して反乱へと発展していきました。これら二つのタイプの国司は模
範的国司、反対に悪徳受領であっても、地方の人民にとっては租税をはじ
め様々な要求をしてくる強権的地方官僚として受け止められ、あまり歓迎
すべき存在ではなかったのです」
初期武士団の性格
先生「承平・天慶の乱を通して武士の発生について見てきましたが、武士の出現
は二つの乱以前の9世紀頃であり、それは前に述べた直刀から彎刀への変
化とも符合します。それでは、その初期武士団の性格と構成はどのような
ものであったかを見てみましょう。前述したように、武士発生の理由は9
世紀頃から地方政治が乱れてくる中で、国衙の治安維持機能が低下し、治
た
と
安状態が悪化し、そのよう中で富豪之輩や有力農民田堵らが開発した私営
田を守るために、自ら従者を従え、武装化しなければならなかったことが
15
あげられます。また、延喜の国制改革で国司の権限が強化され、それによ
って二つのタイプの国司があらわれ、私営田領主や田堵をはじめ地方の人
民に対して支配力強化をはかり、圧政を行ったために、国司に対する抵抗
運動が各地で発生し、そのような中で武装化が行われていきました」
史子「それでは、平将門の乱などにみられる初期武士団の性格はどのようなもの
だったのでしょうか。平将門の主力兵力は「伴類」と呼ばれるものであり
ました。将門が常時、配下に従えていた兵力は八千余人であったが、将門
が破れる最後の戦いの時にいた兵はわずかに四百余人でありました。ここ
に初期武士団の性格がみられます。その理由として将門の最後の決戦『北
山 の 戦 い 』 は 、 940 年 (天 慶 3 )2 月 14 日 未 申 の 刻 で 、 こ の 日 時 は 旧 暦 で あ
り、現在であれば3月末から4月の初め頃になります。この時期はちょう
ど春先の田植えの準備に入り、農作業が忙しくなるころであったので、兵
が集まらなかったのです」
先生「この頃の兵(武士)の性格は平時においては農村で農業に専念する農民で
あり、それが戦闘時になると主人の館に集まり兵(武士)として戦いに加
わる『半農半兵』の性格を有していました。そして、この農民の兵を束ね
るのが『従類』であり、この頃『領主』―『従類』―『伴類』といった初
歩的武士団編成が出来上がっていたと思われます。それは、領内の居住空
間においても領主の館を中心に従類の家、そして伴類といわれる農民の家
が館のまわりに散在するという構造からも窺えます。そのことは前述した
ように、平将門の館を中心に製鉄場や様々な工房施設があり、さらに将門
の館の周辺には従類や伴類の家が立ち並んでいたと思われ、将門もこのよ
うな武士団編成を行っていたと考えられます」
史子「平将門が率いた武士団は、その多くは農民からなる『伴類』で、彼らの都
合で兵として集まることもあり、あるいは離散してしまうこともありまし
た。領主である将門と伴類との関係は、館を中心として日常の生活用具や
農具などの供給が行われ、社会経済的関係を維持しているだけのものであ
りました。その後にみられるような土地を与え、強固な主従関係を結ぶと
いう封建制度が確立されていない中にあっては、極めて弱い関係でありま
した。そのため、将門の最後の決戦『北山の戦い』には多くの兵が集まら
16
ず 、 敗 北 し て し ま っ た の で す 。 し か し そ の 後 、 12 世 紀 頃 に な る と 、 常 時 武
とうりょう
装化した武士団があらわれ、棟 梁と呼ばれる大武士団の長も出現し、社会
的・政治的にも大きな権力をもつ存在となりました」
大武士団への成長
じょう へ い
てんぎょう
先 生「 承 平 ・ 天 慶 の 乱 は 、武 士 の 存 在 を 世 に 示 し た 出 来 事 で し た が 、そ の 後 そ の
武士勢力を組織化して、王朝国家の中でその存在を位置づけて活躍の場を
さだもり
つねもと
ひでさと
見出していったのは、二つの乱を鎮圧した平貞盛や源経基そして藤原秀郷
らでありました。彼らは、それらの乱で手柄を立て、都に上がり、官位を
もらい大武士団の棟梁として大きな勢力となりました。とくに、平貞盛は
乱後、都に上がり正五位上の官位を受け、桓武平氏の繁栄のもとをつくり
ました。一方、源経基もまた乱後、都に上がり従五位下の官位を受け、清
和源氏の祖となり、藤原秀郷は従四位下の官位を受けました。そして、こ
れらの武士たちは常時都にあって、国家が武力を必要とする時には、自分
の従者を引き連れてその職務を果たす『中央軍事貴族』となりました」
桓武平氏
史 子 「 平 将 門 の 乱 鎮 定 に 功 績 が あ っ た 平 貞 盛 は 、 940 年 、 右 馬 助 と い う 中 央 武 官
と と も に 常 陸 大 掾 の 地 位 を 得 て 、 947 年 に は 鎮 守 府 将 軍 、 974 年 に は 丹 波 守
から陸奥守への転任が確認され、東国・奥州の受領と鎮守府将軍の地位を
歴任し、同地方での勢力拡大に腐心しました。また、平貞盛の同族のもの
も官職を与えられ、それぞれの地で発展していきました。その中で、維衡
の流れを受けた伊勢流が栄え、この系譜から清盛が現れ平氏政権をつくり
ました。維衡は貞盛の子であり、はじめ右大臣顕光に仕えたが、のち藤原
道長に仕え、同時に藤原実資の家人でもあり、都の武者として活躍しまし
た。後に、顕光の推薦により伊勢守となり伊勢に地盤をおいて、伊勢平氏
の祖となりました。これに対して、武蔵村岡を拠点とする平良文の系譜か
ら平忠常があらわれ、関東で乱を起こしました。その後、この乱を鎮圧し
た源頼信・頼義父子の勢力が関東において大きくなり、良文流や繁盛流の
平氏を従えて、源氏が東国における地盤を確立しました」
17
【平氏系図】
貞盛
国香
高望王
維将
維衡
繁盛
維時
直方(北条祖)
正輔
正度
正衡
正盛
忠盛
清盛
(上 総 介 )
良持
将門
良文
忠頼
忠常
清和源氏
先生「清和源氏の始祖は源経基であります。彼もまた、承平・天慶の乱で功績を
あげ、乱後、都に上がり従五位下の位階をもらい、中央軍事貴族として摂
関家に仕え、左馬助・左馬権頭という中央武官の要職を得ることになりま
みつなか
し た 。 源 経 基 の 子 満 仲 の 時 に は 、 949 年 ま で に は 武 蔵 守 に 、 982 年 ま で に は
常 陸 介 に 任 じ ら れ 、 ま た そ の 子 満 正 は 998 年 に 武 蔵 守 と な り 、 東 国 に 勢 力
を 伸 ば し ま し た 。 1001 年 に は 満 仲 の 子 頼 光 が 美 濃 守 に 、 1012 年 以 前 に 頼 信
が 常 陸 介 に 、 1024 年 ま で に は 頼 親 が 伊 勢 守 に 任 じ ら れ ま し た 」
史子「平氏が伊勢を中心とする西国に勢力を伸ばしていくのに対して、源氏が関
東を基盤として東国に勢力を伸ばすきっかけとなったのが平忠常の乱であ
ります。そして、その勢力を不動のものとしていったのが、その後、東北
地方で起こった前九年の役、後三年の役などの争乱を鎮めた功績によるも
のでありました」
ただつね
先生「平忠常は、上総介・下総権介・武蔵押領使などを勤め、房総の各地に多く
の館を持った巨大な私営田領主でありました。この頃、国司の権限が強化
され、私営田領主や農民に対して苛政を行う国司も多く出てきました。房
総 に お い て も 同 様 で あ り 、 そ の 苛 政 が 最 高 点 に 達 し た 1028 年 、 平 忠 常 は こ
れを正すために房総三国の国府を次々と襲い、国司を追放し、一時的です
が三国を支配下において、結果として国家に対して反乱を起こすこととな
りました。この乱の鎮圧には、最初、貞盛流の平直方が任命されたが鎮め
よりのぶ
ることができず、源頼信が甲斐守兼追討使に任じられ、頼信が関東に攻め
上る前にこのことを知った平忠常は降伏してしまいました。こうして東国
18
において源頼信の名声はあがり、それまで関東で勢力を持っていた平氏一
族の流れを受けた千葉氏・上総氏・大庭氏・三浦氏・秩父氏などを配下に
従え、子の頼義は平良方の娘婿となって鎌倉の館を譲られ、東国を地盤と
する棟梁源氏の勢力が確立していきました」
史 子 「 前 九 年 の 役 は 、 平 安 時 代 中 期 1051 年 ( 永 承 6 ) か ら 1062 年 ( 康 平 5 ) に
陸奥国北部で起こった安倍氏の反乱であります。当時、北上川流域の陸奥
国 北 部 は 『 奥 六 郡 』( 胆 沢 、 江 刺 、 和 賀 、 稗 貫 、 紫 波 、 岩 手 ) と 呼 ば れ 、 降
ふしゅう
伏蝦夷(俘囚)の長である安倍氏が忠頼―忠良―頼良(頼時)と代々その
地 を 自 国 領 の よ う に 治 め て き ま し た 。 と こ ろ が 1040 年 代 後 半 に 陸 奥 守 と な
って下向した藤原登任は、安倍氏が治めている領地から強硬に租税収奪を
敢行しようとしたために安倍氏は朝廷からの自立を強め、陸奥守登任と鬼
切部で戦い大敗させました」
先生「これを知った朝廷は、天下随一の武者となっていた源頼義を陸奥守・鎮守
府将軍に任じて、この反乱の鎮圧に向かわせました。その後、安倍頼良は
大赦によって罪が許され、源頼義に恭順の意を示す中で、頼良は(その同
音の名をはばかり、頼時と改名)危機を回避しようとしたが、阿久利川で
人馬殺傷事件が起き、その犯人を安倍頼時の子貞任と断定し、ここに全面
さだとう
むねとう
戦争に発展しました。頼時の子貞任・宗任の激烈な抗戦に、源頼義は苦戦
し、出羽山北の俘囚長清原光頼・武則兄弟の援助を得てようやく安倍氏を
鎮圧しました。この戦いで源頼義父子は、東国武士はもとより北陸や東北
地方などを始め全国各地から多数の精兵を動員して、彼らを私的従者とし
て編成し、全国規模での武士団の棟梁となることができました。大きな勢
力となった源頼義父子に対して、朝廷は論功行賞で頼義を伊予守に、義家
は出羽守に任じ、清原武則には鎮守府将軍を任命して、源氏と奥州との結
び付きを最小限度にしてその勢力の増大を押さえました」
史 子 「 後 三 年 の 役 は 、 平 安 時 代 後 期 1083 年 ( 永 保 3 ) か ら 1087 年 ( 寛 治 元 ) に
奥羽地方で起こった戦役です。前九年の役後、東北地方北部ではその鎮圧
に貢献した清原武則が鎮守府将軍となり、出羽山北(横手盆地を中心とす
る雄勝・平鹿・仙北の三郡)と安倍氏の旧領奥六郡を領有して奥羽唯一の
在地大豪族となっていました。清原武則の子武貞には、先妻の子真衡、後
19
妻(安倍頼時の女子)の子家衡と、その後妻の連れ子清衡の三人の子がお
り、武貞の死後、これら三男子の間に武力抗争が生じて一族間の内紛が始
まりました。そのような中で、陸奥国の新国司として赴任してきたのが源
義家であり、義家はこの一族の内紛に調停介入をして、まず真衡を援け真
衡 頓 死 後 は 奥 六 郡 折 半 を め ぐ り 家 衡 と 清 衡 と の 争 い に 清 衡 を 支 持 し 、 1087
年 11 月 、 家 衡 を 金 沢 柵 ( 横 手 市 ) に 攻 め て 滅 ぼ し ま し た 。 こ の 戦 い に よ っ
て、源氏は関東以北に大きな勢力を伸ばすことができました」
先生「後三年の役後、清原氏は滅亡し、ただ一人清原氏の流れを受けた者として
きよひら
残ったのは清衡であり、また、彼は安倍氏の血脈を引いており、東北地方
をまとめるにふさわしい人物として脚光を浴び、その後の奥州藤原氏繁栄
の基盤を築きました。一方、この戦乱鎮圧に活躍した源義家に対して朝廷
は、この戦役は源氏の勢力を奥州地域に広げるための私闘と見なし、恩賞
を 与 え ず 、義 家 か ら 陸 奥 守 の 任 を 剥 奪 し ま し た 。そ し て 、1091 年( 寛 治 5 )
には、義家の入京停止を出し、義家への荘園寄進の停止を命じる宣旨を五
畿七道に出し、義家が東国に勢力拡大をはかることを押さえようとしまし
た。しかし、このような朝廷の処遇に対して、義家は従軍の兵たちに私財
を恩賞として与えるなど手厚い配慮を行ったために、益々その名声は高ま
り 、 武 士 や 農 民 た ち か ら の 信 望 を 得 て 、 1090 年 前 後 に は 全 国 的 規 模 で 農 民
らの義家への田畠公験寄進が高まりました」
史子「このような農民たちの田畠寄進の背景には、武士に対する意識の変化が現
れてきたことによります。武士発生の初期の頃には、有力農民たちは国司
の苛政や他権門の介入から自らの領地を守ってもらうために土地を差し出
したのですが、平安時代後期になると国衙や荘園領主に代わって、義家な
どの大きな勢力を持つ武士の棟梁を領主として仰ぎ土地を寄進して、自ら
の田畠経営を日常的に守ってもらう意図が出てきたのです。そのような意
味で、源義家のような大武士団の棟梁は地方領主化した武士を従者とする
だけでなく、全国の農民・領主一般をも主従制的に支配することが現実的
に可能になってきたのです。なお、義家は陸奥守として下向した時、本県
な こ そ
の勿来の関を通り、そこで駒を休めて歌った和歌が残されています」
『吹く風をなこそのせきとおもへども道もせに散るやま桜かな』
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【源氏系図】
頼光
満仲
経基
頼朝
頼親
頼信
義朝
頼義
義経
義家
(武 蔵 介 )
満正
平直方
範頼
義親
為義
義賢
義綱
義国
為朝
義光
義忠
行家
義仲
女子
まとめ
先生「以上、武士の発生について平将門の乱を通してみてきましたが、その初期
の性格については『半農半兵』といったものでありましたが、承平・天慶
の乱後はこれらの乱で活躍した武士たちが都に上り『都の武者』として院
や 摂 関 家 に 仕 え 、『 中 央 軍 事 貴 族 』 と し て の 地 位 を 確 立 し て い き ま し た 。 そ
して、その後は地方政治の乱れや東国における反乱発生の中で、それらを
鎮圧することによって武士の存在を王朝社会の中で不動のものとし、東国
には源氏の地盤、西国には平氏の地盤というような二大武士団の勢力圏を
つくりあげていきました。この平安末期における武士の性格は半農半兵か
ら、常時武装化して中央政権の中で武門としての任務を行い、全国から荘
園寄進を受け武士・農民を配下に領有する領主としての性格をもつに至り
ました。ここに時代は、貴族の世から慈円の『愚管抄』にある『武者の世』
に移る兆しが現れてくるのです。今、平将門の首塚が東京都大手町に築か
れ、また将門は東国の英雄として神田明神に祀られています」
************************************
こ の 原 稿 を 書 く に あ た っ て 、2001 年 8 月 に 茨 城 県 石 岡 市 、石 下 町 、岩 井 市 を 訪
れ、平将門に関する史跡や文献などを見聞・収集してまとめました。
い
ま
現代、時代の大転換期にあり、ある意味では平安末から鎌倉期にかけての様相
に酷似していると思われます。武士は貴族勢力を倒し、新しい勢力となって、新
し い 秩 序 や 文 化 を 形 成 し ま し た 。 新 し い 時 代 に 移 ろ う と す る 今 、 「武 士 の 発 生 」を
考察することは、これからの時代を読み解く上で大きな示唆を与えてくれると思
い ま す 。な お 、こ の 原 稿 を 書 く に あ た っ て は 下 記 の 参 考 文 献 を 引 用 し て お り ま す 。
21
【参考文献】
『東洋文庫
将門記1・2』
『岩波講座
日本通史
『週刊朝日百科
梶原正昭
第5巻
訳注
古代4』
日 本 の 歴 史 59』
岩波書店
朝日新聞社
『日本歴史館』
小学館
『関東中心平将門伝説の旅
『歴史誕生
平凡社
2』
上下巻』
高橋克彦・福田豊彦
『大系日本の歴史4』
棚橋光男
稲葉嶽男
角川書店
小学館
『国史大辞典』
吉川弘文館
『講座日本歴史2』
東京大学出版会
『週刊朝日百科日本の国宝』
朝日新聞社
『平の将門』
講談社
吉 川 英 治 全 集 31
『 日 本 刀 の 起 源 展 』 1988
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