会議録 - 丸亀市

会
議
録
会 議 名
平成26年度第2回丸亀市文化財保護審議会
開催日時
平成27年1月20日(火)10時30分~12時00分
開催場所
丸亀市立資料館2階会議室
○出席委員
遠藤
亮
土岐 道憲
新居
正敏
廣瀬 永津子
秋山
徹
○ 事務局出席者
出 席 者
教育長
中野 レイ子
教育部長
竹本 忠司
総務課長
高橋 俊郎
資料館長
関野
文化財保護担当長
東
文化財保護担当
近藤
武司
文化財保護担当
谷口
梢
資料館学芸員
大北
知美
真樹
信男
議題 1 市指定文化財の指定について
議
題
議題 2 丸亀の文化財について
議題 3 その他
傍 聴 者
なし
1
発言者
発
言
要
旨
【開会】
【教育長あいさつ】
【会長あいさつ】
【議事】
会長
それでは、議長として審議会を進める。委員の皆様にはご協力をお願いする。本日の会議録署名委員
は新居委員と秋山委員にお願いいたしたい。よろしいか。
会長
まず、議題 1「市指定文化財の指定」について事務局より説明を受けた後、委員の皆様のご意見をい
ただきたい。それでは、事務局より議題 1 について説明をお願いする。
事務局
議題 1「塩飽本島高無坊山石切丁場跡」の市史跡指定について、現在までの経緯と今後の予定につい
てご説明させていただきたい。
まず、現在までの経緯については、塩飽本島高無坊山石切丁場跡の所有者の笠島人名会から市史跡指
定の申請が平成 26 年 6 月付で提出された。
これまで、山地茂さんが会長で、遠藤会長も属している丸亀城石の会がこの石切丁場跡についての調
査・研究を長年続けてきた。何度も現地に出向き、石切丁場跡に残る刻印石の調査や細川家文書、地元
吉田家文書の調査・研究等により、この石切丁場跡が江戸時代の大坂城の石切丁場跡であることがわか
ってきた。現在も石引き道が残っていることから、貴重な史跡であることが判明した。
平成 23、24、26 年度の 3 ヵ年、丸亀城石の会の石切丁場跡の調査事業が丸亀市提案型協働事業に採
択され、今年度は、市との協働事業の最終年度として市史跡指定を目標とし事業を進めてきた。
また、石川県金沢城調査研究所名誉所長の北垣聰一郎先生を現地に招き、丸亀城石の会の案内により、
史跡内を確認していただいた。この石切丁場跡は、石切遺構と文献が一致する全国的にも類例のない貴
重な史跡であると価値を認めていただき、別紙の意見書を書いていただいた。
本日の審議会では、教育委員会から「文化財の市指定について」の諮問を受け、塩飽本島高無坊山石
切丁場跡の史跡指定についてご審議をお願いしたい。教育委員会に答申する答申書の案を準備している
ので、審議し、了承いただきたい。
そして、2 月の教育委員会において、答申いたしたいと考えている。尚、教育委員会で承認された同
日に指定の告示を行いたい。
2 月 28 日には協働事業の成果と同時に、市史跡指定の記念として、調査報告会を開催したいと考えて
いるので、よろしくお願いいたしたい。
では、実際に現地での調査・研究を続けてこられた丸亀城石の会の遠藤先生より石切丁場の内容につ
いて説明をお願いしたい。その後、文化財保護担当の近藤主査より史跡の範囲について説明する。
会長よろしくお願いいたしたい。
2
会長
まず始めに、資料「本島近辺
石切場跡」の地図をご覧いただきたい。当初「高無坊山西麓石場跡」
と呼んでいた。しかし、北垣先生とともに現地に入ったところ、
「塩飽本島高無坊山石切丁場跡」が適切
ではないかと指導を受け、それ以降この名前で呼んでいる。
この地形図で、本遺跡が黒く塗りつぶしている箇所であり、今回の審議する対象の地域である。この
石切丁場は、九州豊前細川氏が大坂城へ石を供給するための石場であったことがわかっている。本島の
北側、岡山側に向島がある。この島も筑前黒田氏が採石していたことがわかっている。向島では巨石が
採れることから江戸城に石を運んでいる。その石は、江戸城二ノ門基礎に使用されている。この門は、
細川氏が築いたが、黒田氏が二ノ門に 30 石を進上したことがわかっていることから、これらの石は進上
石と呼ばれている。この二ノ門の石の組成・性質からほとんどが向島の石と一致していることから、向
島を採石推定地としていた。のちに吉田家文書に黒田氏が向島で採石していることが記されている記録
を発見し、自分たちの推測が確実になった。
もう一つ、本島の南側に小阪石場があり、京極家が築いた丸亀城の大手門の西側、内側の石に使用し
ていることが石の組成からわかっている。現在でも小阪の海岸に当時の巨石がいくつか残っており、そ
の石にある矢穴(石を割るときにつける穴)が確認できる。
航空写真を撮影すると山間部では石がまったく見られず、海岸沿いに石が点在していることがわかり、
小阪が石場であることがわかった。本島では、高無坊山だけでなく小阪、向島の 3 箇所で江戸時代初期
に採石されていることが推定できる。
資料「高無坊山石場の刻印石〔3 種類の刻印〕」で、
「十」、
「井」漢数字など 49 の刻印石が見られる。
- 」は、採石に入った組の意味。
この数字や記号にはそれぞれの意味がある。「○
「三」は、谷筋や尾根筋
などの場所の意味。
「九」は、細川氏の九曜紋の星が 9 つあり、その 9 つに因んだものではないかと推測
している。細川氏が高無坊山に入る前、兵庫県芦屋市で採石している。そこで、細川氏の九曜紋を表す
ため「九」を使用していたことがわかっている。
「井」の地域の右側に「十」の刻印石が上から下へ流れている。この尾根から現在の道路側の付近に
「田」の刻印が多くみられ、
「田」の地域の中に「井」の石が 4 個確認でき、上から運んできたものをこ
こに放置しているものと考えられる。
一 」が屋釜側の谷筋に 50mの範囲で固まっていることが確認でき
「△」は点在しているのに対し、
「○
一 」の刻印の横に数字の「三」が刻まれている。この「三」は、この谷筋を表しているものと思わ
る。
「○
一 」の横に「七」が刻まれている。このように、
れる。37 番がある谷筋の刻印には、
「○
「三」、
「七」は谷
筋を表していることがわかった。
地図の下方にある 37 番は大坂城へ運ばれた石の残りであると言われていた。私たちはこの石を初めて
見て、調査を開始することとした。
次の資料『本島
高無坊山西谷
刻印石分布図』である。赤色の点が「井」の地域である。下方に 3
箇所点在している。この石はどのようにして降ろされたのかが問題となる。この石を降ろし始めた痕跡
の付近、地図の中に A と B と書かれた箇所がある。ここが、石を切っていた作業場であると考えられ、
今後、調査を是非お願いいたしたい。
この箇所は平場になっており、周りに簡易な石垣を築いている。この石垣は 3 箇所で確認でき、この
地域を重要視していたことが伺える。この平場から北に道が続いており石引き道または石降ろし道と考
えられている。こういった平場と考えられる場所と石引き道のセットは各所で見受けられ、現在は雨な
どの影響と道路整備のため崩れている状況である。この付近にある谷地形には刻印石が点在しており、
この谷筋を降りていくと現在の住宅街に入り、その道路沿いにも刻印石が見つかっている。現在は壊さ
3
れているが、この石降ろし道が海まで続いていたものと考えられる。
細川家文書の中に非常に詳しく記載されている。元和 8 年に小倉藩から鉄砲隊が延べ人数 141,726 人
やってきたと書かれており、1 日 700 人の鉄砲隊がこの石切丁場に入ってきていることになる。この鉄
砲隊は工人のことであり、石を切る者、石を引き戻す者、縄を使用して石を引く者、海岸に波止を築く
者などの説明と人数などが詳しく書かれている。
波止は、数年前、海岸に浚渫した砂を入れて埋められてしまった。その中に波止そのものか、積替え
されたものかわからないが、この海岸にはない古い石が列を成して残っていた。現在確認できるもので
3 箇所存在している。しかし、この文書には 5 箇所の波止を築いたと記載されていた。最近波によって
浚渫した砂が流されて波止の先端が見えるようになった。さらに、最新技術の測量により、石 1 つ 1 つ
の正確な場所を確認し、図面化することができた。
『塩飽島での細川藩採石関係文書と要旨』では、元和 7、8 年を合わせると 5,162 個の石を採石して大
坂へ運んだ。その内 233 個の石を山丁場、波止、道端に置いていたということが記録に残っている。233
個の中で私たちが見つけた刻印石が 49 個で、型を切っているものも多く見つかっているが、そこに刻印
がないものもある。この屋釜の石は、丸亀城天守にある本丸の西側と南側に集中していることがわかっ
た。
『吉田家文書
丸亀市本島町
塩飽勤番所保管』という資料が最近発見された。本島笠島地域の人名
の年寄(庄屋)に残されていた江戸初期のものである。
この資料の中に、細川家家老の長岡式部少と小笠原民部少が本島笠島の年寄である吉田彦右衛門に宛
てた手紙があり、本島の石場では諸事に亘りお世話になったことを奉行から伝え聞き、感謝しているこ
と、大坂へ石を差し上らせるよう云われているので、運賃船の世話を確かにお願いしたいこと、僅かで
あるが、銀子 2 枚(約 3 両)を差し上げたいなどの内容が書かれている。さらに、小倉藩の家老が塩飽
島笠島の人名年寄に宛てた口上(寺社関係並びに士分に限り使用)であるが、
「恐々謹言」
、
「御宿處」
(書
札礼の脇付など)のように敬意を払った表現が多用されている。このようなことから、この石場を重要
に思い、機嫌を取ったり、伺ったりしている様子がよくわかる。他にも記事は多くあり、その内容から
石場と大名の良好な関係が伺える。
最後の『丸亀市指定史跡塩飽本島高無坊山石切丁場跡指定範囲図』である。刻印石の詳細な分布図で
あり、今まで手作業であったものが、最新技術によって詳しく正確に分布図を作成でき、市指定に向け
ての大きな一歩を踏み出せたものである。
事務局
いままでの報告について、質問はあるか。
【特になし】
事務局
では、市指定の範囲について説明する。
『丸亀市指定史跡塩飽本島高無坊山石切丁場跡指定範囲図』を
見て欲しい。数字と赤い線が示されている。数字に○を囲んでいるものと、無いものがある。○囲いの
数字は、高無坊山西側に分布する記号と漢数字が刻まれた石である。○囲いの無い数字の位置情報は、
丸亀市提案型協働事業により計測してもらった石で、座標管理も行われている。
丸亀市では地籍調査が不十分な地域があり、正確な土地の境界が不明であるため、この分布図では地
形図に石の分布を合わせ込んだものになる。今回の資料に、地図上にない 37 と 29 以外は笠島人名会が
所有している土地に位置している。史跡指定は、筆毎によるが人名会は 2 筆あり、1 筆面積 27hと 59.8
4
hとかなり広大なため、その内の 1 部を範囲に示しており、筆単位の指定は現実でないものと考えた。
また、海岸部は天理教や個人の所有地であり、すでに開発が行われていること、刻印石の分布もそれ
ほど多くないことから、指定範囲に含めることは適当でないと考える。このことから、指定範囲は、刻
印石の分布する範囲、現地により採石を行った痕跡がわかる箇所、石引き道、石降ろし道、鍛冶場推定
地を対象としている。
刻印はないが矢穴があるもの、石を切った痕跡が見られるものに対しても保護の対象としているため
広範囲に赤い線で示した。海岸線については、境界線が現地や図上ではっきりさせられないため、図上
で境界線と思われる線より 3m 内側に範囲を設定した。将来的に個人所有の土地と、市指定範囲とが競
合しないものと考えている。
泊方面から屋釜に抜ける道路も建設されており、この範囲についても個人所有と同様に、開発によっ
て旧状の地形をとどめていない事から、海岸部と同様に道路より 3m 内側に指定区域を設定している。
なお、これらの問題の対策として、人名会の所有地に分布する刻印石は、対象内にきちんと含まれて
いる。
今後指定範囲の面積であるが、平面上 79,615 ㎡を測り、実際の面積は山の斜面であるため 1.2~1.3
倍の 10 万㎡を超えるものと考えられる。指定範囲外での調査の成果があれば、重要性、関連性のご審議
を頂き必要に応じて範囲指定を追加等する可能性もある。
会長
1 つ言い忘れていたことがある。これらの石は大坂城へ運んだ可能性がある。大坂城の濠を挟んだ向
かい側から望遠鏡で石垣を覗いたら、細川家の九曜紋がはっきりと刻まれているのが見える。これは、
大坂城築城 1 期目に、芦屋から持ってきた石であることがはっきりとしており、何度も積み直しを行っ
ていることがわかっている。2 期、3 期では、本島に採石に入ってきていることがわかっており、双眼鏡
お
み
で覗いた大坂城の石垣の石はすべてが本島から運んだものとわかる。その中の一部に小豆島の小海とい
う刻印も入っているが、その他はすべて本島の石であることがわかり、高無坊山石切丁場でも同じ刻印
石が見られる。大阪の研究会の資料で石の分布をみると、同様の分布が見られた。大坂城築城最後の年
(寛永 6(1629)年)まで細川忠利が採石していたが、2 期(寛永元(1624)年~寛永 5(1628)年)
一 」である。高無坊山では「○
一 」の刻印が 2 期の
では見られなかった刻印が 3 期で出てくる。それが、
「○
時代で点在していることがわかっている。
会長
質問・意見などがあれば、自由に発言をお願いいたしたい。
委員
向島の石と小阪の採石場は市指定範囲に入っていないのか?
会長
入っていない。
委員
最初の地図で、黒色部分が指定範囲ではないのか?
会長
黒い部分は、自分の推定で作成しているので今回測量してもらった赤い線内が正しい。
委員
岩石は、黒雲母花崗岩か?
5
会長
黒雲母花崗岩である。黒雲母花崗岩は、場所によって何層も粗い組成であり、そのことから細かい情
報がわかり、その結果、位置がわかった。
37 と 29 の石は省くと言われたが、29 はどこにあるのか。
事務局
29 は青色の場所である。
会長
この図の中に 4 石だけは検出できていない。
事務局から専門の立場で意見があったら、お願いしたい。
事務局
一 」が見られ
今後の課題とお願いしたいことがある。2 期の刻印があると伺ったが、
「井」の地域で「○
るのは、2 期目に採石に入ったという解釈であり、
「井」の地域は山頂に近い所にあるのに 2 期で採石さ
れたのではなく、1 期目で採石されたものを放置していたという判断でよろしいか。
会長
そういう状況も考えられる。
事務局
「
」の地域は、他の刻印石があるということは、再度採石があったということか。その筋の下にあ
る「田」の地域では、道より上の石は完全に 2 期目で加工されている状況であり、道の下の「田」は他
の石などが混入していることから、2 期以降に入っていることがわかっている。このことから、2 期目の
ものとそれ以降のものとのさびわけができるのではないか。今後石を台帳化し、時期を把握していける
のではないだろうか。
今まで、採掘に何班も入って、どのように採掘していたかがわかっている石切丁場はなかった。全国
的にも稀であるため先進事例として班の組み方の状況などももっと研究していただけたらと考えてい
る。
会長
石 1 つ 1 つの計測は私たちなりに行っている。しかし、もう少し正確で詳細に計測していかなければ
ならない。
事務局
もう 1 つだけ。石には、近代に切られていると考えられる物があるので、そのさびわけもして欲しい。
会長
近代の切り方はすぐにわかる。
幸いなことに、近代の手はあまり入っていないように思う。屋釜周辺部にはドリルの痕がある石が見
られた。
委員
海岸にある波止の遺構は指定にならないのか。
会長
土地の所有者がはっきりしていないため、文化財の指定にはならないが、保護地域にはしていきたい。
事務局
海岸の波止の遺構であるが、県で海岸の改修事業が行われた。砂を浚渫し数 10m盛り付けている。し
6
かし、波によって砂が流れ、干潮時に波止があっただろうと思われる箇所に石の頂上が見られ、それが
列状に見られる。本来は 5 箇所あったものが現在は、2,3 箇所見られる。指定範囲とする場合は、確実な
範囲が必要である。残骸なのかそうでないのかが不明である。今回はそこまで踏み込んだことはできな
いため、指定の範囲にはなっていない。
会長
測量を行うと波止の位置は、現在の地図上ではるか海の中にあたる。かなり浚渫により埋まっている。
この波止が出てくれば、貴重な文化財となっている。
委員
今後波止を指定にするためには?
事務局
土地の所有者がはっきりしていないことが大きな原因。本島の地籍調査ができていないため、どこま
でが個人所有でどこからが国の所有かが曖昧なため、指定の範囲にできていない状況である。
会長
今後、波止がはっきり出てくれば変わってくるだろう。
会長
委員の方、専門的な立場からお願いしたい。
委員
市の指定になりこの遺跡にスポットライトがあたるようになれば、公開との兼ね合いが難しくなって
くると思う。小豆島の丁場の場合も公開に力点をおいて見学通路を作り、たくさんの人を呼んでいる。
本島の場合もここの所をもう少し明確に考えていったほうがいい。活用を重点にするか、遺跡の性格が
はっきりわかるまでもう少し調べるのか。発掘調査を実施し、遺跡のカード調査をしっかり行った上で、
公開していくのか、兼ね合いが難しいと思う。
将来的に史跡となったとき、土地の所有者との問題が生じてくるのではないか?遺跡の情報をもっと
明確にすると、保存活用に繋がっていくのではないか?
会長
これからは、興味を持つ人が石切丁場に入り、荒れるだろう。指定となればさらに人が増える。公開
するにはどのような公開の仕方にするかが問題になる。実際自分たちは、冬にしか石切丁場に入らない。
夏にはハミ、スズメバチが出没するため、冬にしか入れないことも問題となる。今後どのように公開す
るか、人名会(所有者)と協議し対策を練らねばならない。
もう一つ、700 人の工人が元和 8 年 3~11 月まで、この石切丁場にたくさん入ってきている。これだ
けの人数がどこで生活できていたのかが、ある程度推定できている。さらに、作業場、鍛冶場もある程
度推定できていることから、今後判明させていかなければならない。
委員
先生たちの研究から、文書についても興味のある人々が多くなると思う。吉田家文書もその一つだと
思う。吉田家文書の公開は?
事務局
吉田家文書は、丸亀市立資料館の寄託資料である。寄託資料の取り扱いは、閲覧・撮影の場合は所有
者に許可を取り、お見せすることになっている。一般に公開する段階ではないので、個々に来られた場
合のみ許可を取り、閲覧という形になる。
7
委員
写真撮影はよいのか。
事務局
所有者に許可を得て行える。
委員
吉田家文書を資料館で研究して報告していく方向はないのか。
事務局
所蔵品ではなく、寄託品であるためそれは難しい。
委員
吉田家文書を資料館に寄贈してもらうことは可能か。
事務局
それも難しいと思う。
委員
採石の時期はいつごろか。
会長
元和 8 年 3~11 月だが、その前に元和 7 年に調査に入っていることが、地元の文書から明らかになっ
ている。江戸末期の文書で地元の協力者がいることもわかっている。地元住民も携わったとあるが、信
憑性にかける。
委員の方他にはないか。
委員
特になし。
事務局
審議された中で、この石切丁場の公開などについて申請者の意図はどうか、確認できているのか。申
請は人名会からだが、人名会の意図はどうか。
会長
地元で 3、4 回報告会を行い、協力的である。石場をみんなに見てもらうことは良いことだということ
で制約は出ていない。しかし、火事や山を荒らすことは良くないので、丁場の入口に注意事項や石の分
布図、説明などの看板は付けてほしいと言われている。
事務局
所有者から指定の申請をするにあたり、どのようなことを要件としていたのか。その要件を受けるこ
とは可能なのか。
会長
申請者側は、今までわかっていなかった事実が明らかになり、そのことを今後どのように公開してい
くのかは市の協力の下やっていくべきだと言っており、2 つだけ条件が出されている。1 つ、入山に対す
る注意。2 つ、調査でわかった看板などの設置。
問題点などは、言われておらず早く指定にしてもらいたいと人名会の方から言われている。
委員
長年調査され、価値も分かり地元の理解もあり、指定を目指す方向でどうであろうか。
会長
指定について、今の話し合いでよろしいか。異議なしでよいだろうか。
8
事務局
指定の確認と、保護、公開は別として考えていくべきである。今回は遺跡の価値を認定したものであ
る。という審議でよろしいか。
会長
その通りである。保護、公開については今後審議を重ね、考えていかなければならない。
事務局
答申書(案)のとおりでよろしいか。
会長
今ご指摘がありましたように、答申書(案)のとおりでよろしいか。
委員
刻印石の種類と数字に会長と北垣先生とに違いがあるように言われていたが、どうなのか。
会長
市指定の対象地域には、5 種類の刻印と漢数字が刻まれている。1 期の時 4 種。2 期で 1 種と我々は考
えているが、その種類が混同しているようである。
委員
北垣先生は 1 期を 4 種としている。
会長
その違いが少しある。
委員
わかった。
会長
では、指定については、みなさんのご意見の通りこのまま指定を続けていくということで決定した。
あとは、教育委員会の方でよろしくお願いしたい。
会長
次に議題 2「丸亀の文化財について」事務局より説明を受けた後、委員の皆様のご意見をいただきた
い。それでは、事務局より議題 2 について、説明をお願いする。
事務局
「丸亀の文化財」の進捗状況について報告いたしたい。本日午後より、委員の皆様におきまして丸亀
の文化財の最終審議を予定している。どうぞよろしくお願いいたしたい。
また、前回の会で文化財の名称の変更について審議したが、下坂神社をはじめ、6 箇所に対し名称の
変更を文書で依頼したところ、許可を得ることができたので、名称の変更をいたしたい。
なお、今後は平成 27 年 3 月 22 日に合併 10 周年記念事業の一環として発行する。配布及び販売開始
は平成 27 年 4 月末頃を予定している。総発行数 3000 部を予定しており、一冊 1000 円で販売する。
丸亀の文化財の販売方法であるが、販売場所は、丸亀市立資料館、丸亀市観光案内所(JR 丸亀駅構内・
城内)、綾歌市民総合センター、飯山市民総合センター、塩飽勤番所跡、笠島まち並保存センター、本島
パークセンターを予定している。
また、より多くの方に購入してもらうため、書店に置くことも検討した。宮脇書店と紀伊国屋書店に
問い合わせしたところ、販売してもらえるということだが、両書店とも販売手数料が価格の 3 割かかる
とのことで、一冊 1000 円に対し 300 円の手数料がかかる。
会計課に相談したところ、単価 1000 円×販売冊数で納入してもらい、300 円×販売冊数の手数料を支
9
払うという方法をとってほしいとのことであった。
書店に、この方法を伝えたところ、宮脇書店のみ了承していただいたが、紀伊國屋書店はこの方法は
とれないということであった。
現在、販売してもらう店舗として、宮脇書店のバサラ店(丸亀市山北町)、丸亀店(丸亀市通町)、フ
ジ丸亀店(丸亀市川西町)
、総本店(高松市朝日新町)、本店(高松市丸亀町)
、南本店(高松市伏石町)
を予定している。預ける部数については売れ行きを見ながら調整していく予定である。
会長
事務局からの説明は以上である。自由に発言をお願いしたい。
委員
4 月末には希望者の手元に届くのか。
事務局
まず、無料で配布するものが、県内の博物館、図書館、教育委員会の文化財担当、近県の博物館、教
育委員会の文化財担当、県内の小中学校が 4 月末である。市内関係施設には、4 月末よりは早く届く。
宮脇書店では、委託販売の準備が整う 4 月下旬を予定している。
委員
この冊子を活用していく方法は?
この冊子を持って歩いてはどうか。
事務局
まち歩きのように文化財を見て歩くイベントのようなものはどうだろうか。
委員
その時に、テキストとして使用してはどうだろうか。
事務局
そうしたいと思う。
事務局
前回委員の方からご指摘いただいた、紀伊国屋書店での販売は、市の会計との折り合いが付かず、販
売していただくことができず、残念である。
事務局
市民は、市内の施設でも販売しているので、市民の身近な箇所で購入できるということか。
事務局
そうである。
会長
小・中学校へこの説明の出張をして、広めてみてはどうか。自分も子供たちに説明したりする機会が
あり、部分的ではあるが、喜んでもらっている。
事務局
検討してみる。10 周年記念事業の中で、市を挙げて考えていきたい。
会長
その他ではないか。
【特になし】
10
会長
無いようなので、以上でよろしいか。
では、議題 3 の「その他について」であるが。
事務局
特になし。
会長
他に意見はないか。
【意見なし】
会長
では、報告事項について、事務局よりお願いしたい。
事務局
前回の審議会において審議された樹木伐採の件の報告である。当初、都市計画課の方で、5 ヵ年で伐
採計画を予定していたが、前回の審議会においてもう少し計画を早めて欲しいとの意見が出され、計画
を見直していただいた。平成 26 年度から 28 年度の 3 ヵ年で伐採していく方針となった。
資料「丸亀城(亀山公園)平面図」を見ていただきたい。平成 26 年度は見返り坂の裾野、平成 27 年
度は裾野竹等の伐採を予定し、平成 28 年度は搦め手側の裾野を予定しており、山間部を中心に伐採し石
垣を望めるようにしてもらっている。以上である。
その他の報告事項
平成 26 年度丸亀市提案型協働事業
「塩飽本島高無坊山石切丁場跡調査報告会-49 個の刻印石に問
う-」
平成 26 年度綾歌市民総合センターロビー展
「史跡快天山古墳展」
「丸亀市内遺跡発掘調査出土遺物展Ⅲ」
七尾市親善都市交流 40 周年記念「七尾市一本杉通り
花嫁のれん展 in 丸亀」
丸亀市立資料館 1 階ロビー展「古墳のあれこれ展」
以上で報告を終わりたい。
会長
最近、資料館や埋蔵文化財の方で、展示が増えてきているのはとてもありがたいことである。綾歌町
の快天山古墳のコンパクトな展示等は、とてもありがたいことであるので、続けてもらいたい。そこで、
子供たちや若い人達に見てもらえるように努力してもらいたい。
以上をもって、本日の審議会は閉会いたしたい。
事務局
次回は、次年度の開催になるので、日程の方は改めてお伺いする。よろしくお願いいたしたい。
―閉
11
会―