2015年11月8日礼拝説教

私を贖う方
ヨブ記19章25節~27節
2015年11月8日(日)礼拝説教
夏の、お花も、秋の、お花も、だんだんと、手じまいと、なって、来て、おりまして、紅葉する樹の少ない、教会の、お
庭は、だんだんと、淋しく、なりつつ、あります。そんな中で、意外と、健闘しているのが、カーネーションです。
あの、猛暑の、さなかには、からからに、干からびて、ほとんど、ご臨終に、近いのでは、なかろうかと、見受けられ
たので、余り、お水も、あげなかったのですが、今になって、見事な、情熱的な、赤い花で、咲き誇って、おります。
旧約聖書の中には、このカーネーションに、ハタと、思い当たるような、人物が、登場いたして、おります。
その人物の名前は、ヨブです。ヨブは、ヤコブのお兄さんで、一杯の赤エジプトレンズ豆の煮込みで、長男の権利を、
弟に譲ってしまった、エサウの子孫で、赤い(アードーム)土漠・エドムから、ヨルダン川の東側にかけて、住んでい
た、人物であったと、言われております。ヨブ記の主要なテーマは、‶正しい人が、なぜ苦しまなければならないの
か″ということに、ありますので、今から三千年以上前から伝えられている書物でありながら、非常に、現代的な本
であると、いうことが、できるでしょう。今日は、このヨブ記を紐解きながら、自分に与えられた現実を通して、イエス
さまを、仰ぎ見て行く、ということに、つきまして、ご一緒に、考えてまいりたいと、存じます。
初めに、ひとこと、お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。今朝も、あなたが、私たちを、礼拝に、招いてくださったことを、感
謝いたします。どうぞ、この礼拝の、始めから最後まで、あなたご自身が私たちの真ん中に、立ってください。感謝し
て、イエスさまの尊い御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
ヨブ記19章25節。
私は知っている。 私を贖う方は生きておられ、 後の日に、ちりの上に立たれることを。
私たちが、今、住んでいる、この世界の創造主である、生ける、真の、唯一の、神さまを、怖れ、礼拝しつつ、歩んで
おりましたために、繁栄を、与えられていた、ヨブでしたが、或る日、その、すべてを、失ってしまうような事件に、
次々と、巻き込まれてしまい、財産はおろか、健康さえも、失って、息も、絶え絶えになってしまっておりました。そん
な中に在っても、ヨブは、‶私は、裸で、母の胎から、出て来た。また、裸で、かしこに、帰ろう。主は与え、主は取
られる。主の御名は、ほむべきかな。″と祈って、神さまに、愚痴をこぼすようなことは、ありませんでした。しかし、
奥さまを始め、周囲の皆から、毛嫌いされ、三人の親友たちからも、散々に非難されるに及んで、ヨブは、とうとう、
弱音を吐き、自分の主義主張が、岩に刻まれて、後代の人々には、自分が、理解してもらえることを、望んだ、とい
うことが、ヨブ記19章24節に、記されております。ヨブの、二番目の希望は、‶私を 贖う方は 生きて おられる″
という、ことでした。このことは、悩み、苦しんでいる、ヨブの傍にそっと、寄り添ってくださり、ヨブを、本当に、理解し
てくださり、ヨブを、弁護してくださる、救い主・イエスさま、そして、聖霊なる神さまを、間接的に、呼び求めているの
だと、理解することが、出来るのかも、しれません。そんなヨブの、三番目の希望は、‶後の日に、ちりの上に、立た
れる″ということ、でした。
‶神である主は、土地の、ちりで、人を形造り″と、創世記2章7節に記されております通り、‶ちり″は、私たちが今、
生かさせて、いただいて、おります、この地上の世界のことを、指しております。そうすると、ヨブは、イエスさまが、
最後の再臨の日に、再び、私たちの、住んでいるこの世界に、私たちの肉眼の、この目で、見える形で、やって来て
くださるのだ、ということを、待ち望んでいたのだ、と理解することが、出来るのです。
ヨブ記19章26節。
私の皮が、このようにはぎとられて後、私は私の肉から神を見る。
‶骨皮筋衛門″という、象徴的な表現が、敗戦後の、食物の無い時代の日本で、用いられていたようですが、この時
の、ヨブの姿は、その皮すらも、皮膚病のために、剥がれて、無くなってしまっていたと、ヨブは、告白しているので
すから、これは、相当なもので、あった、ことでしょう。そんな状態であったにも、かかわらず、ヨブは、皮の下にある、
筋肉から、生ける、真の、唯一の、神さまを、見る、と言っているのですから、この、しつこさは、たいへんな、もので
す。そんな、しつこさ、しぶとさが、私たちにも、求められているのであれば、現代に生きている、私たちは、尻尾を
巻いて、逃げ出して、行ってしまう者、なのでしょうか。
ヨブ記19章27節。
この方を私は自分自身で見る。 私の目がこれを見る。 ほかの者の目ではない。 私の内なる思い
は 私のうちで絶え入るばかりだ。
痩せさらばえ、死の、一歩手前まで、来ていても、ヨブは、必ず、自分自身の、肉眼の、この目で、イエスさまを、見
ることになるのだと、確信いたして、おります。決して、あの世に、おいてでは、ありません。この世において、なの
だという、確信なのです。しかも、自分の後輩たちの目では、ありません。自分自身の目で、イエスさまを、仰ぎ見る
ことが、できるのだ、という確信です。そのことを、待ち望んでいる、自分自身の、内なる思いは、自分の、ふところ
の奥底の、腎臓の中で、燃え尽きて行くのだ、という鋭い表現が、ここでは、使われて、いるのです。
いかがでしょうか。
そんなに、たいへんなのであれば、私は、一寸、ご遠慮申し上げておこう、と、逃げ腰になられるほうが、普通なの
では、ないで、しょうか。私たちの信仰は、あの世に望みを放り出してしまうような、安っぽい信仰なのでは、ありま
せん。
あくまでも、与えられている現実という、厳しさから逃げないで、イエスさまから全員に、もれなく、プレゼントされて
いる、イエスさまに在って生きて行く、いのち、永遠のいのちの道を、時には踏み外すようなことが、あったとしても、
踏み外しては、戻り、落ちては、また這い上がって来る、力と機会とを、イエスさまから与えていただきながら、しぶ
とく、歩んで行く、歩みであるのです。
お祈りさせていただきます。
父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。御言葉を、ありがとうございました。あなたの、ご栄光を、賛美いた
します。私たちは、一寸、自分の思い通りに行かないと、すぐに、躓いてしまう、弱い者ですが、その弱さを、あなた
の御手にゆだねます。これから、どんどん、日が短くなって行き、世界も、どんどん、暗くなってまいりますが、そん
な中に在って、あなたからプレゼントされている、永遠のいのちの道を、歩み続けさせてください。
感謝してイエスさまの尊い御名によって祈ります。
アーメン。