発行先 六月十九 日 ︵ 日曜 日︶ ︷ハ 日 時 午 J R 日豊 本 線 ・苅 田駅 ︵ 前 十時 ︶ 集 合地 塚山古墳︱ 苅 田町歴史資 料 館︱ 内 見学 コー ス 苅 田駅︱宇 原 神社︱ 石 例 会 飛 ろ 尾薬師︱番 塚古 墳 ︱御 所 山古 墳 月 そ の他 弁 当持参︱ 軽装 七 日 時 七月 二十 一日 集 合 地 J R博多 駅 ・筑紫 日 ・午前 九時 出発 。 見学 地 熊 本 県 ・城南 町 見学 コー ス 博多 駅=高速 経 由=城 南 町歴史資 料館 ︱ 塚原古墳 群︱ 通 潤橋︱ 三船 眼鏡 橋 申 込先 JTBトラベラ ント香椎店 ・ 古 川光彦 皿 〇九 二︱ 六六 一︱ 五六 六〇 ︶ 生口 折 居 正勝 ﹁ 志賀 島 周 辺 の古 代製 塩﹂ 奥 野正男 ﹁ 最 近 の騎 馬 民族 説批 判 に ついて ・会 場費 五〇 〇 円 卑弥 呼 の ﹁ 銅鏡 百枚 ﹂ 1、京 都府 竹 野郡 。中 郡 の大 田南古 墳 群 5号墳 出 土 の里星電三年 ﹂ 銘・ わ が 国 に搬 入さ れ古墳 時代 ま で 伝世されたも のと主 張し ていた。 小林 説を ひき ついできた諸 氏 の反応 は、 この 望星電三年﹂鏡 場合 、 これ ま で継 承 し てきた 小 あ ったとしても無理ではな い穴﹃ 毎 4︶o 日新 聞﹄ 3 ・2 都 出 比呂志 氏 は テ レビ の談 話 祖 には、 別 の鏡 を魏 から直接 か どう かは別 に し て与え た ことが 渡海 に協 力 した丹後 の首 長 の先 鋳鏡とし て三角縁神獣鏡を与え、 て いてもお か しくな い﹂ 翁読売 8 o 新 聞﹄ 3 ol ︶ 近藤 喬 一氏 は ﹁ 卑 弥 呼 には特 から 受けた銅鏡 百枚 の中 に 入 っ を卑 弥呼 の ﹁ 銅鏡 百枚 ﹂ の 一部 とす る説 に傾 いて いるが、 そ の ① 古墳 時代前 期 ︵ 4世紀代 ︶ の 8 ・8 m× 長方 形墳。︵ 墳 丘規模 1 2 ・3 m、 埋葬施 設 凝 灰岩 製 ・ 組 合 せ式 石棺 ︶ 林説 はどうな る のか。 卑 弥 呼が 魏 王 樋 口隆康 氏 は ﹁ 時 八月 二十 一日 ︵ 日曜 日︶ 場 福 岡市 中 央市 民 セ ンター ・ の後漢 式鏡 は弥 生時 代 に別途 で ︵ 故 人︶ は 三角 縁神獣鏡 を卑 弥 呼の ﹁ 銅鏡 百枚 ﹂と し、 この種 ⑤ 邪馬 台国近畿 説 の小林行雄 氏 壽 ︵ 寿 ︶ 如金 石宜侯 王﹂ ④ ﹁ 青 竜 三年 ﹂ は魏 の年 号 で、 西暦 二二五年 に当た る。 玄武 順陰 陽 八子九孫 治中央 左龍右 虎辟 不詳 ︵ 祥︶朱 爵 ︵ 雀︶ ③ 鏡 の銘 文 ﹁ 青 龍 三年 顔 氏作鏡 成 文章 ② 出土遺 物 方格 規矩 四神鏡 1 ︵ 図 11 1︶、鉄 刀1、 土器 方格 規矩 四神鏡 に ついて 男 正 会 参 加費 一万円 ︵ 昼食付 ︶ 電 話 で 正 野 例 申 し込み、 お金 は例会 当 日でも結 構 です。 野 福 岡 4-23260 奥 V 八 月 例 会 窒● 奥 FAX (093)293-4244 TEL・ 男 振替 1994年 5月 31日 月 視 聴覚 室 ︵ 午 後 一時 ∼ 四時︶ 日 会 福岡県遠賀郡遠賀 町浅木 東和苑 6-4(〒 81143) 筑 紫 古 代 文 化 研 究 会 148号 第 第 148号 紫 筑 古代文化研 究会会報 で ﹁この鏡 の出 土 は邪 馬台 国が 近畿 地方 にあ った 証拠﹂ と述 ベ て いる。 れ に対 し方格規 矩 四神鏡 、 ﹂ ⑥ ン 内行 花 文鏡 な ど後漢 式鏡 を 卑弥 呼の ﹁ 銅鏡 百枚﹂ と し てき た論 奥 野正男 含卑弥 呼 の鏡 は後漢 者。 季 刊邪馬台 国﹄2号 一九 鏡 ﹂﹃ 七九年。﹃ 邪馬台 国 の鏡 ﹄新 人物 徐率芳 ﹁三国両晋南北 朝的 銅 往来社 一九 八 一年︶。 考古 ﹄ 一九 八 四年 六期 ︶ 鏡﹂ ﹃ ⑦ 森 浩 一氏 は 一九 六 二年 に この 銅鏡 百枚 ﹂ 種 の鏡 を卑 弥 呼 の ﹁ の 一つと し てきたが、 この太 田 魏鏡 と断 南 5号鏡 に ついては ﹁ 定す る のは時 期尚 早﹂ と し て、 次 の四 つの理由を挙げ ている ︵毎 8 日︶。 日新 聞﹄ 3月 1 イ 古墳 の年代 が卑 弥 呼 の時 代 より百年 あま り後 魏 の都︶ で規 口 中 国 。洛 陽 ︵ 矩鏡 に年 号を いれ る のは ほと んど知ら れ て いな い ハ 鏡 の文様構成 であ る L字 形 が逆 L字 形 で、 これ は従 来 の 研究 では 日本製 と いわれ て い る 二 ﹁ 顔氏﹂作 の鏡が中国にな い 2、 太 田南 五号鏡 の問題 点 ① 規矩 図 形 のL字が 逆 にな って いる。 V字 の角度が 直角 ではな く鋭角 にな って いる。 逆 L字 、 V字 の鋭角 は国産鏡 に多 い特徴 であ るが 、中 国鏡 に もな いわ け ではな い。 逆 L字 の例 1、中 国 ・浙 江乗 県出 土鏡 、直 王 径 8 m、鉦 孔 の形 は 不明。︵ 1 c 士倫 ﹃ 浙 江出土銅鏡 ﹄ ヽ6 1 一九 八七年︶。 向ま で列島全域 に地域 王権が分立し、 ◆ 著 者 の 百葉 ◆ き び し い対 立 ・抗争 を つづ け て いた の時期 は 4世紀 中 ∼後半 ︶。 7、埼 玉県美 里 町 。長坂聖 天塚 2・ 古墳 出土鏡 、国産鏡 、直径 2 m、鉦 孔 の形 は不明。︵ 5c 古墳 の時 期 は 四世紀 後半 ︶。 8、京都府 山東 町 ・馬場 9 1号墳 出土 ︵ 方格規矩 八禽鏡︶、 直径 ・ 甚 大 工 上有 山 □不知老 服 白 水社 ︵ ¥ 三、 八〇 〇円︶ 布﹂ 説を真 っ向 から論 破す る︱ 具 の変 遷と分布状 況を綿密 に検討 し、 畿内 王権 より地 域首 長 への鉄器 ﹁ 配 を渉 猟 、と りわ け武 器 ・武 具 ・農 工 巨大古 墳 の五世紀 へと全 国 の鉄資 料 謎 の四世紀 、 崩れ る 三世紀 後 半 から 、 北 九 州勢 力 による鉄 器独占体 制 が 鉄の古代史 2 喜掟 げ た。 と いう 立場から 、鉄 の問題を と りあ せ るま でには いたらず 、東 国 から 日 畿内 王権 が全 国 の地域 首 長を服 属さ 本書 では、 五世紀 代 の社会 はまだ 鉦 孔 の形 は不明。︵ 古墳 の時期 は前 期? ︶。 9、長 野県 長 野市 ・川柳将 軍塚 3 m、 鉦孔 古墳 出 土鏡 、直 径 1 c の形 は 不明。︵ 古 墳 の時期 は 4 。 8 一九九〇年︶ 出土銅鏡﹄ヽ1 3、北 京市 順義 県大営 村 西晋墓 古墳 の時期 者 長 生買主壽 ﹂。 ︵ は 4世紀 前半 ︶。 2、中 国 ・吉林省 吉 林市 鳥 拉街 m、 遺 跡出 土鏡 、直 径 9 ・5 c 張英 コロ 林 鉦孔 の形 は 不明。︵ 5 m、 出土鏡 、 直径 1 ・ 2 c 鉦孔 の形 は不明、銘 文 ﹁ □生 買者 世紀 後半 ︶。 0、 1 京都 府 山城 町 ・椿 井大 塚 山 m、 古 墳 出土鏡 、直 径 8 ・2 c 1 鉦 孔長方 形、銘 文 ﹁ 羊作 同鏡 。 □青 同之鏡明旦好穴図112︶ 4、中 国 ・遼寧 省遼 陽 三道 壕 1 1、 1 福 岡県福 岡市 ・老 司古 墳 3 m、 号 石室出 土鏡 、直径 2 1 ・5 c 鉦 孔長方 形? パ古墳 の時 期 は 号墓 出 土鏡 。 5、武寧 王陵 出土 の踏 み返 し鏡 ﹁ 方格規 矩獣 文鏡 災武寧 王在 1 5 方 格規矩 鳥 文鏡 、古墳 5世紀初 頭︶。 2、 ︲ 福 岡 県 小 郡市 ・津 古 生掛古 、 墳 出土鏡 、直径 3 1 ・9 m 鉦 孔長方 形 、V字 形 鈍角 。︵ 図1 位 五〇 一∼ 五 二三︶、直径 7 1・ 、 。 図1 8m c 鉦孔 の形 は不明 ︵ 1 3︶。 の時 期 は 三世紀 後半︶。 3、 ・ 熊本 県宇 土市 ・向 野 田古墳 m、鉦 孔 出 土鏡 、 直径 8 1 ・4 c ︶ 6、兵庫 県和 田山 町 ・城 の山古 5 。4 m、鉦 墳 出土鏡 、 直径 1 c 図 11 4、古墳 孔 は長方 形。︵ ︶ 白水社 (2) 紫 筑 第 148号 第 148号 紫 筑 長方 形 、銘 文 ﹁ □□作鏡 明 大好 図 11 6︶。 長 生宜 子孫 ﹂。 ︵ ② 銘文 の ﹁ 顔 氏﹂ は中 国 ・日本 出 土鏡 で初 め て。 日本 出 土 の方格規 矩 四神鏡 の 姓 氏名 と し て、陶氏 ︵ 福岡県 ・ 平原 で七枚 ︶、羊 ︵ 氏︶作 全京都 。 府 ・椿 井 大 塚山古墳 ︶が 知られ 、 ほか に若 千 の ﹁ 尚方 作 ﹂鏡 があ 20 ③ 錮 孔が 長方 形を し て いる。︵ 三 角 縁神 獣鏡 も鉦 孔が 長方 形︶ 鉦 孔長方 形 の鏡 ︵ 三角縁 神 獣鏡 以外 のも の︶ 1、 大 阪府 和泉黄 金 塚古墳 出土 の ﹁ 景初 三年﹂銘 画文帯 神獣 鏡。 5 2、京都 府広峯 1 号 墳 出 土 の 宣ス 。 初四 年 銘 盤 鏡 龍 ﹂ 3、 辰馬考 古資 料館 所蔵鏡 ︵ 広 峯鏡 と 同型鏡 ︶。 ︶ の方格規 矩 四神鏡 。 9、熊本 県向 野 田古 墳鏡 。 0、 。 1 福 岡県津古 生掛 古墳鏡 H、滋賀 県安 土 瓢箪 山古墳 出土 のき ほう鏡 。 2、 天理参 考館 所蔵 の双頭龍文 ・ 鏡。 ︵ 以上 十 二例 は福永 伸哉 氏 による︶ 3、 ・ 福 岡県糟 屋 町平 塚箱 式 石棺 墓 の長宜子孫銘内行花文鏡。︵ 図 11 7︶ 4、 ・ 福 岡県 犀川 町山鹿 古墳 出土 の双頭龍 鳳文鏡 。 ︵ 図 11 8︶ 福 永 氏 は上記 の後漢 式鏡 を魏 の官営 工房製 品と み て、 そ の鉦 孔 が 三角縁 神獣鏡 と同 じ長方形 に作 られ て いる こと 、 三角 縁神 獣鏡 の複線 鋸 歯 文帯 の外 側 を め ぐ る外 周突 線 が 日本 出 上 の方格 規矩鏡や斜 縁 二神 三獣鏡 な ど に ︶ 矩鏡 が中原 から みれば 東北 周 辺 部 にあ た る渤海 周 辺や わ が 国 で 製 作 にあた つて原型 から の型取 りが終 わ って、最 後 に鉦 の凹部 に渡す粘土製 の鉦孔中 子 ︵ ブリ ッ ヂ ︶ の断 面 によ つて生 じる も の であ る。中 子 の断 面が半 円形 で あ れば 鉦 孔 は半 円形、 長方 形 で 上記 のよう に 日本 で出 土す る 中 子を つく る のは最 後 の工程 で 鋳型 の製 作 過程 では、 鉦 孔 の あ れば 鉦 孔 は長方 形 にな る。 鉦 孔が長方 形 の鏡 は、古墳 出 土 あ り、鏡 の製作 地や 工人 の技術 出 土 し て いる こと は今 後 のてが かりとはな る﹂ と述 べている。︵ ぎ一 角 縁神獣鏡 の系譜 と性格 鴇考古 81 1、 学 研究 ﹄ 3 一九九 一年︶ ④ 銀 孔が 長方 形 の鏡 の問題点 鏡 と出土 地 不明 の博 物館 。資 料 な るも のと思われ る。 系 譜をさ ぐ る重 要な 手掛 か り に 館 の所蔵 品 であ るが、 九州北部 の三例 が前 方 後 円墳 出 現 以前 の 日本製 の違 いは鉦 孔 の作 り方だ 日本 で中 国鏡 を 原型 にし て踏 け にしかあ らわれ な い。 長方 形 墳 丘墓 の出 土 品 であ る こと は注 意 を 要す る。 ﹁ 甘露 四年 ﹂ ﹁ 甘露 五年﹂﹁ 景 元 四年 ﹂な ど の紀年鏡 も、後述 す る ﹁ 踏 み返し﹂ の理 由 により中 国 の年 号が 入 って い 形鏡 と し てわ が 国最古 の福 岡県 6 ・5 m︶ 平原内行 花 文鏡 ︵ 直径 4 c の鉦 孔 は半 円形 であ る。 鉦孔が 王﹂な ど部 分的 に類似す る句 は あ るが、本鏡 と同 一のも のはな い。 文章 L左 龍右 虎 L朱雀 玄武 L 侯 ⑤ 銘 文 の文章 三角 縁神 獣鏡 の銘 文 にも ﹁ 成 う か。 術 の特徴 と は考 えら れな いだ ろ 鉦 孔 はわ が 国 の鏡 作 り 工人 の技 の中 心が 日本 にあ る。 長方 形 の ろ中 国 では未 発見 であ り、 分布 た 場合 には、外 見上 の中 国製 と ると 、銘 文を ふく む型取 りを し み 返し鏡 を 作 った 場合を想 定す るから即、中 国鏡 と断定す る訳 の鉦 孔を も つ鏡 は、 現在 のと こ 。 には いかな い、 と私 は考 え て い zつ 位 置 に いた ﹂ と し ﹁ 同 一工房あ る いはご く関係 の深 い工房内 で 長方 形 の鏡 は九州北部 の三例を も って出 現 し、 そ の後 、 三角 縁 漢 式鏡 の鉦 孔 の形態 は半 円形 か楕 円形を 呈し てお り、 国産 大 製作さ れた 可能 性 があ るこ と し て いる。 も 見 いだ せ る こと から 、両者 の 製 作者 は ﹁ 系譜的 にかな り近 い また そ の製作 地 に ついては、 神 獣鏡 を中 心 にし てそ のす べ て が わが 国 で出 土 し て いる。 4、 五島美 術館 所蔵 の ﹁ 甘露 四 年 ﹂銘 獣 首鏡 。 5、黒 川古 文化 研究 所 所蔵 の ﹁ 甘 露 五年﹂銘 獣首鏡 。 6、 五島美 術館 所蔵 の ﹁ 景 元四 年﹂銘 規矩鏡 。 7、奈 良 県佐 味 田宝 塚古墳 出 土 逆 L字 文様 と長方 形鉦孔 の特徴 をあ わ せ持 つ ﹁この種 の方格 規 鉦孔 の形態 の違 いは、鋳 型 の の神 人車 馬 画像鏡 。 8、京都 府椿 井 大 塚 山古 墳 出 土 ﹁ 朱爵 ︵ 雀︶玄武 順陰 陽 八 子九孫治中央﹂ と続 く句 は中 国 後漢 鏡 に多 く、 三角 縁 神獣鏡 に はみられな い。 の可能性 ⑥ 日本 国内 での踏 み返 し同型鏡 規矩 文 の逆 L字 、 V字型 の鋭 角 化 ・鈍角 化 、銘 文 の節 略 、 退 化現象 、長方 形 の鉦 孔な ど は、 後漢 晩期 に現れ 三国時 代 ま で継 続す る。 した が って この種 の鏡 はす でに見た よう に少数 ではあ るが中 国鏡 にも存在 し、古 墳時 代 に搬 入さ れ、 そ の諸要素 を複 合 した 三角 縁神獣鏡 や 各種 国産 踏 み返 し同型鏡 もふく む︶ 鏡 ︵ の原型 と し てわが 国 の鏡 作 り技 術 に導 入さ れ て い った 可能 性 も 百済 ・武寧 王陵 出 土鏡 も 同様 あ る。 の経 過を へた 百済 製 品と考 えら れ る。踏 み返し によ る この鏡 に は、原型 の方格規矩 鏡 の銘 文 も そ のまま鋳 出さ れ て いる。鋳 型 に後 で彫 り 込んだ 人物 ・動 物が な い場合 、 この種 の鏡 はわ が 国 では中 国鏡 と判定す る のではな いか。踏 み返し でも原型鏡 の図 紋や 銘 文が この程度 は移す こと が でき る。 鉦 孔 の長方 形と いう 系譜 は国産鏡 の主流 であ り 鏡 もそれ に属 し て いる。 Cr 」 LE="==コ 図 1-2 中国北京市 順義県西晋墓 出土 「 □生 銘文 買者 □ 青銅 之鏡 明旦好 」 韓 国 ・ 百済武寧 王墓 出土鏡 図 1-3 大 田南 5号 墳 出土鏡 図 1-1 (4) 紫 筑 第148号 本 図 1-4 兵 庫県和 田山町 ・城 の 山古墳 出土鏡 0 図 1-6 熊本県宇 土市向野 田古墳出土鏡 方格規矩鳥紋鏡 ) 図 1-8 Ql,`_5 Cm 福岡県犀川町山鹿古墳出土 双頭 龍鳳文鏡 第 148号 紫 筑 (5) 図 1-5 5 cIIl 福 岡県小郡 市津古生掛古墳 出土鏡 (方 格紀規矩鳥紋鏡 ) 図 1-7 福 岡県粕 屋町平塚箱式石 棺墓 出土 長宜子孫銘 内行花文鏡 (6) 福 岡 地 方 の支 石 墓 1、支 石墓 の渡 来 内 に集 団的 に支 石墓 があ るた め、特 にそ の当時 の墓 制 と し て注 目さ れ て います 。 しか し、 周 辺を 見ます と、 土墳墓 ︵ 木棺墓 を含 む︶や 甕棺 墓 が 同時期 一般 の土墳 墓 は に存在 し て います。 2千年 以上 も経 つとそ の痕 跡さ えも な くな り、僅 か に甕棺 墓 が そ の残骸 が判 る程度 です 。 いず れ にし ても、 水稲農耕 は弥 生 武力を有す る首 長的 な 氏族 の墓 では な か った かと いう こと です 。 3、 支 石墓 の構造 を支 配 下におく 、あ る程度 の文化 と て花間岩 製 で、基本 形 は 四隅 に4個︶ も のは長さが 3 m以上もあ りますが、 平均的 には2∼ l mのも の︶ と、 そ 主 とし の下部 に支 石と称 す る塊 石 ︵ 上部 構造 は、 地 上 面 に上 石と いう 巨石 ︵ 主 と し て花向岩 製 で、大 き い 我 が 国 の支 石墓 の殆 ど は、朝鮮 半 島 で の碁盤 式と いわれ る型 式 のも の です 。 時代 以後連綿 と続 いて いる にも拘 わ らず 、支 石墓 と いう墓 制 は、 九州地 方 に限られ 、弥 生時代 で完 全 に消滅 し てしまう のでし ょう か。 民族 学 を 研究 さ れ て いる岡 正雄 氏 は、﹁ 紀 元前 4、5世紀ご ろ には、ツ ングー ス系 の第 二文化複 合 ︵ 父系的 ・ ﹁ハラ﹂ 氏族的 ・畑 作 ︱狩 猟文化︶ が朝鮮 半島 を経 由 し、ま た中 国 江南 地方 から アウ スト ロアジ ア系 の第 四 の文化複合 ︵ 男性的 。年齢階梯制的 ・ 水稲 栽培 ︱漁携 民文化︶が渡来 し て、 を 置 いて、上 石を支 え る型 式 です。 埋葬 施 設︶は、土墳墓 、 下部 構造 ︵ 土墳 の中 に木棺 を 収 め る木棺 墓 、板 石を 長方形 の四周 に並 べる箱 式 石棺 墓 、粗 雑な 石組 で長方 形や 方 形 に墓 室 を造 った 石組 墓或 いは石囲 い墓 、 弥 生 早期 のも また 土墳 の中 に甕棺 ︵ 海 に近 く割 合 に展望 の利 く と ころ に あ り、 か つまた 相 互 にあ る程度 の距 お よそ、長崎 県を中 心 とす る 西北 九 水稲 農耕 文 化が 形成さ れ、 そ の基盤 父権的 ・ の上 に第 5 の支 配者 文 化 ︵ ﹁ ウジ ﹂ 氏族的 ︱支 配者 文化︶ が被 覆 し て、 日本 固有 文 化 が できあ が っ た。﹂ と言われ て います。 含日本 文化 の基礎 構造 ﹂ ﹃日本 民族 大系 ﹄ 2 平 凡社 一九 五 八年︶ 弥 生 早期 の支 石墓 を考 察 し てみま 勿 論 、佐賀 平 野や 筑 後地方或 いは 熊 本 県及び鹿 児島 県 にも 、弥 生中期 以降 の支 石墓 が あ ります が、 大支 石 墓群 のような 現象 は見ら れま せん。 離 を 隔 て て存在 し て いる ことが判 り ます。 州 地方 は箱 式 石棺墓 、唐津 や 糸 島方 私 は、 岡 正雄 氏が 言われ る第 5 の ︶ 蓋 式 もあ ります 。 下部構造 を 地域 別 に見ます と、 お 箱 式 石棺 や 石組 墓或 いは土墳墓 の上 に、平 た い石を 一枚 又は数 枚 置く 石 また 、 上部 構 造 では、支 石を 用 い ず 、地 上 面 に直 接上 石を 置く蓋 石式 と称す るも の、或 いは 下部 構造 で、 のは壺 を用 いる︶を 埋めた甕棺 墓等 があ ります。 現在 の処、 九 州 の南 限 は鹿 児 島 県 各 1基程 度︶ の下小路や 入来遺 跡 ︵ 支 配者 的先 駆者 が、支 石墓 に葬 られ た 人 々ではな か った かと、 ひそ か に 考 え て います。 即ち、支 石墓 は水稲 す と、 そ の場所 は北部 九州沿岸 の、 で、時期的 には、熊 本 県 の市 房隠遺 古墳 時代 ︶ 跡 の地 下式板 石積 石室墓 ︵ の祖型 と みられる 、弥 生後期 の支 石 墓 ︵ 1号 石棺 ︶ が最 も時 期が 下が る ︶ も のと 言われ て います。 農 耕 民 の墓 制 ではな く 、水稲農 耕 民 が て消滅 し て い った のは何 故 でし ょ う か。 或 いは九州南 方 に伝播 し て行 った に も拘 わ らず 、支 石墓 と いう墓 制 は、 主 と し て北 西九州地方だ け に限定 さ れ 、 しかも弥 生中期 以降 漸減 し、や 耕 文化 が いち 早く、 日本 列島 に北 上 弥生前期末 から中期 以降 にな ると、 この地方 は甕棺 墓 が主体 とな り、 そ の中 に 1基 又は数 基程度 の支 石墓 が 見られ るよう にな ります 。 新 我 が国 におけ る支 石墓 は、 水稲農 耕 文化が 渡来 した とさ れ る弥 生 文化 縄 文時 の形成 期 、 即ち 、弥 生 早期 ︵ 田 2、 支 石墓 に対す る疑 問 若 し、水稲 農 耕 民 の墓 制 が支 石墓 とす るならば 、弥 生時 代 に、 水稲農 太 代 晩期後 半︶ に造 られ始 め、水稲農 耕民 の墓制 であると言われ ています。 では、最 も 早く水稲農 耕 文化 が渡 で、支 石墓 は そ の 一部 に過ぎ な いよ う です。 ただ 、前 原市 の志 登支 石墓群 や 志 摩 町 の新 町遺 跡 な ど では、あ る墓 域 く、前 原市 の長 野宮 の前遺 跡 で見ら れ るよう に、 土墳墓 と木棺 墓 が 主体 来 した玄 界灘 沿岸 の、唐 津や 糸 島地 方 の当時 の墓 制 が 、す べ て支 石墓 だ け であ った かと いう と、 そう ではな 紫 筑 第 148号 第 148号 面は土墳 墓 ︵ 木棺 墓 を含 む︶、佐 賀 平 野は石蓋 土墳墓 と分れ て います 。 同じ弥生早期 に発生す る支 石墓 に、 どう し て このような 型式 に分れ て造 られた のでし よう か。墓 制 は、 もと もとそ の部族 の風習を伝 来す る も の だ と言わ れ て います 。 も し そう であ るならば 、各地方 に異な った部 族や 集 団が、渡来 し て来た とも考 えら れ ます 。 福 岡 県 (糸 島地 方 を除 く)内 の 支 石墓遺 跡 所在 地 跡> 畑 田遺 跡 朝 田支石墓 c頭 Y ?・ Y初 4 YS 須 0乙 3 c半 Y後 1 遺跡名 曜 嬢 番号 時 期 所 在 地 春 日市 岡本 7丁 目 要 文 備考 献 朝倉郡豚 町大字池田字 支石墓 5基 (下 部 は土墳) 福岡県教委 他に土壌墓、箱キ石棺墓、竪穴住居跡など 関係) 畑田 (九 州横断 自動車道 1986・ 87調 査 報告書未刊 1基 (下 部は大側石 と粗雑な 浮羽郡浮羽町大字朝田字 支石墓 鏡山猛「九州における支石墓」1956 石囲いの上墳) 浦 田 他に甕棺墓3基、箱式石棺墓 1基 〈 7削 恥 羽 山台遺跡 大牟 田市草木字羽 山 (C地 点 ) 1957 未確認 松尾禎作「北九州支石墓の研究」 支石 墓 1基 (下 部 は合せ 甕 棺 ) 大牟田市教委 「羽山台遺跡 他 に甕 棺 墓 3基 、土墳 墓 5基 (内 木 地点 )」 棺 2基 ) 1975 (C 中山平次郎 「筑後国三井郡小郡 村大字大板井 の巨石」考古学雑 未確認 1923ほ か 神社裏の甕棺墓から細形銅剣と銅文が出土 誌13-10 「 巨 石 の 伏 石 と立 石 が あ る 中山平次郎 筑後国三井郡小都村大学大 付 近 よ り銅 戎 7本 出 土 考古学雑誌13101923ほ か 大板 井遺跡 小郡市大字大板井字蓮町 下 部 か ら弥生 中期 の 甕 棺 3基 出 土 し 板井の巨石」 九州大学考古学研究室 1"2、 1"3調 査 た が 上 石 は 移 設 と判 明 6 YC 7 末∼ YZ YC 石 丸 遺 跡 久留米市東櫛原町20 北 地 点 中 央 に あ っ た とい わ れ る大 石 (下 部 は 甕 棺 ?)が 、現 在 櫛 原 天 満 宮 境 内 に あ る。 他 に 甕 棺 墓 134、 土 墳 墓 14、 石 蓋 土 墳 墓 7、 木 棺 墓 2 久留米市教委 1987・ 88調 査 報告書未刊 未確 認 四 箇 船 石 福岡市早良区四箇字船石 (支 石墓 ?) 支 石 墓 と 思 わ れ る 上 石 、下 石 (3個 ) の 石 組 遣 構 1基 あ り周 辺 よ り 弥 生 中 期 の甕 棺 片 九大 考 古 学研 究室 山 村「福 岡 市 早 良 区所 在の 四箇 船 石 につ い て 」 1988 『 九 州 考 古 学 』 62号 下部未調査 支 石 墓 1基 ?、 支 石 ?9ケ 付 近 か ら弥 生 中 期 の 上 器 片 1957 未調査 松尾禎作「北九州支石墓の研究」 前半 Y? Y? 岩 畑 )YSは 弥生早期 (支 石墓 ?) (註 主 巨石の伏石 と立石 (下 部は合せ甕棺) 前漢鏡 30数 面、細形・ 中細形銅剣、 「筑前須玖史前遺跡の研究」京 銅矛、銅大 8本 以上、ガラス壁片 都大学文学部考古学研究報告 2、 ガラス勾玉 1、 鹿角製管玉12 1lJ 1930ほ か <熊 野神社境内に移設 > 皇石 (お おい し)神 社 のご神体 (巨 YC 9 要 現在 鹿部支石 墓 粕屋郡古賀町鹿部字庵ノ園 石の立石)が 支石墓 の上石 (?) 5 8 概 1993.11.15 山門郡高田町竹飯字岩畑 YZは 弥生前期 YCは 弥生 中期 ︶ ただ 1基残 る穴観音古墳 の周 辺 には たくさ ん の古墳 があ った が 、黒 田氏 の舞鶴 城築城 時 に、 石取 り のた め破 壊されたと いう言 い伝えがあ ります。 また、 私 は筑豊 出身 です が、 明治 以 降 大 小炭坑 の開 発 で、坑 夫 が金 目 の も のを漁 り 回り、多 く の遺 跡 が破壊 さ れた と いう ことを 、古 老 から 聞 い た ことがあ ります。 特 に、下部 構造 が 貧 弱な支 石墓 は、 現在 私 は、 九州 の支 石墓 の所在 に ついて調査 し て います が 、前述 のと 上 石が無 くな ると、 そ の痕 跡さ え も 見分け が つかな くな ります 。 5、支 石墓 に ついてご連 絡 を お り、福 岡平 野 以東や 以南 の糸島地 方を除 く地方 に、支 石墓 が少な いの 4、 福 岡平 野以東 の支 石墓 福 岡県内 の支 石墓を 調 べ てみます と、 別表 1及び 2 のよう に、糸 島 地 北部 九州 の玄界灘沿岸 地方 は、縄 に疑間 を持 って います 。 筑紫 古代 研 の会 員 の方 で、若 し、 方 には多 数 見られ るも の の、 そ の他 の地方 では少な く 、弥 生 早期 では皆 無 です。 文時代 よ り朝鮮 半島南部 と の交 流が 知ら れ、弥 生 早期 にも、板付 、雀 居、 だ きます よう 、 当紙 上を 借 り てお願 いす る次第 であ ります。 な お、資 料 別表 一以外 の支 石墓 に ついてご 存 知 のも のがあ ります れば 、ご連 絡 いた 江辻 、長行遺 跡等 で見られ る よう に、 水稲農耕 文化 が 渡来 し て います 。 で あれば 、朝鮮 半島南部 各 地 にあ る支 石墓 が、 西北 九州地方 だ け に限定 さ 太 田 新 ︶ や構造 図等を お持 ち であ れば 、借 用 も お願 いした いと思 って います 。 ︵ 連 絡 先 一 T八 一四︱ 〇 一 福 岡市 例 えば福 岡 平 野 では、南 部 丘陵 に れず 、 福 岡平 野以東 の北部 九 州 にも、 当然 渡来 し てきた のではな いか と考 えられます。 紫 城南 区長 尾 二︱ 二三︱ 一四︱ 二〇 三 肌 〇九 二︱ 五 三 二︱ 八 三 二 四 筑 それが現在 見当たらな いのは、当 地方が弥 生時代 以降栄 え て、開 発が 進 み、支 石墓 が消滅 した のではな い かと考 え て います 。 (7) 紫 筑 第 148号 (8) 福岡県 (糸 島地方 )内 の支石墓遺跡所在地 1992. 8. 遺跡名 番号 時 期 所 在 地 主 要 概 文 要 現在 献 備考 1 YS 小型支石墓 1基 (下 部は土墳) 火葬墓 ? 福岡県教委「曲 り田遺跡 I、 ■、 山 り田式 糸島郡二丈町大字石崎字 他に竪穴住居跡30基 曲 り田遺跡 ・ ]I」 ■粒分、 16粒 板状 1983-85 、 米 籾痕 炭化米 曲 り田 土器 鉄斧頭部片 2 YZ 石崎矢風 糸島郡二丈町大字石崎字 他に木精墓・甕棺墓・土壌墓計47基 、 二丈町教委 1990調 査 遺跡 矢風 弥生中期 の井戸、 水路 の杭列 ・井堰 支石墓 3基 (下 部 は木棺・ 甕棺) 支石墓 の上石 と支石 4組 (?) 木舟 三本松 糸島郡二丈町大字深江字 (下 部 は消滅、原位置不明 弥生早期 の丹塗磨研土器片 遺跡 木舟 Y ?・ 3 (報 告書未刊 ) 二丈町教委 ) 1992調 査 (報 告書未刊 ) 他に弥生中期 の甕棺墓53基 4 支石墓を主 とし57基 (下 部は土墳・ 土墳 (木 棺)・ 甕棺・石囲い)、 副 糸島郡志摩町大字新町字 葬小壺 (曲 り田古式 ∼板付 1式 計34 志摩町教委 「新町遺跡 新 町 遺 跡 YZ ギ丁原 個)、 人骨14体 分 (西 北九州弥生人 前半 タイプ) 5 YS YS 支石墓10基 (下 部は配石土壌)他 に YS 6 、 >壌 棺土 甕 ・ 支石墓 2基 (下 部 は土墳、 長野宮 ノ前 糸島郡前原町大字長野 他に甕棺墓 1基 (支 石墓 ?) 遺跡 墓21基 ・ 木棺墓15基 末 ∼ 志登支石墓群 YZ 糸島郡前原町大字志登字 甕棺墓 6基 柳葉形有菫磨製石鏃 4本 坂本 I」 1987 前原町教委「長野川流域 の遺跡 木棺に甕 墓群 I」 1989 棺埋納 ? 文化財保護委 「志登支石墓群」 1956 無菫打製石鏃 6個 支石墓 1基 (下 部 は石 囲い ?) 原田大六「福岡県石 ケ崎の支石 糸島郡前原町大字曽根字 他に土墳墓 3基 (夜 臼期 ?)甕 棺墓 墓を含む原始墳墓」考古学雑誌 石 ケ崎遺跡 玉製太 23基 )碧 (夜 臼期∼弥生中期 石ケ崎 38-4 1952 YZ 7 ? 形管玉11個 8 YZ 三雲加賀石 糸島郡前原町大字三雲カロ 支石墓 1基 (下 部は敷石土壌 福岡県教委 「三雲遺跡 I 他に甕棺墓 9基 、貯蔵穴、竪穴住居跡 支石墓 賀石 I-1地 区 9 YZ 支石 墓 1基 (下 部 は配石 土墳 ) 井 田用会支 糸 島郡前原町大字井 田 碧 玉製 管 玉22個 石墓 ) ? 御子守支石墓 J 1980 前 原町教 委「井 原遺跡 群 ・ 付載 J 1991ほ か の大石は東方約300m 糸島郡前原町大字井 田字 御子守神社境内 よ り移動 したもの とい う 御子守 (原 位置不明 未確認 ) YC 小 田支 石 墓 福岡市西 区北崎小 田 支石墓 2基 (下 部は甕棺、粗製箱式 鏡 山猛 「原始箱式棺 の姿相 2」 1942ほ か 史淵27 石棺)人 骨 2体 ? 千里 支 石 墓 福 岡市西区周船寺千 里 千 里 の 三 所神 社 裏 手 に支 石 墓 の 上 石 状 の 立 石 (飛 石 )あ り (原 位 置 な ど 一切 不 明) 未確 認 ? 糸島郡前原町大字志登字 志登神社の境内入 口に支石墓の上石 志登岩鏡 状 の立石あ り(原 位置など一切不明 (岩 神)支 石墓 坂本 未確認 ) (註 )YSは 弥生早期 YZは 弥生前期 YCは 弥生 中期 ○ ⋮ 四月例会 は、 バ スで山 口県を 回 りま した。 七年 ご し の朝 田墳 墓 群 が 公園化され、みご とな古墳公園 にな っ て いま した。 ほか に県立博 物館 の恐 竜 展、 瑠璃 光寺 、中 原中也 記念 館 、 美 祢市 歴史 民俗資 料館 な ど、内 容 ゆ た かな 見学 でした。 ただ 、参加者 が 十 五人 で赤 字 にな りま した。 次 回 の七月例 会 ︵ 塚原古墳 群 ・通 潤橋︶ には、 二十 人 以 下 の場合 は中 止す る こと にします。 ○ ⋮京 都府竹 野 郡 の太 田南 五号墳 と 西暦 二 いう 小古 墳 から 重目龍 三年﹂︵ 二五︶ の年号 の入 った方格 規矩 四神 鏡 が出 土 しま した。 四月六 日 のN H 鏡が K ﹁ ク ローズ ア ップ 現代 ﹂が ﹁ 語 る邪馬 台 国﹂ と し て特集 。奥 野も 出演 し て ﹁この種 の後漢 式鏡 こそ卑 弥 呼が 入手す る 可能 性 が も っと もた か い﹂と いう年来 の主 張を しま した。 内 の詳細 は本 号 で掲載 。 容 夏 ・0 O⋮ ﹃ 東 アジ ア の古代 文 化 ﹄︵ 8 号︶ が この鏡 の問題を と りあげ る こ と にな り、主宰 者 の大 和岩 雄 氏 と奥 野が対談 ∩青龍 三年鏡を めぐ つてし。 乞 うご 期 待。 古 代 通 信
© Copyright 2025 ExpyDoc