(ー906-ー993) in mem。riam 日本海セ ト ロジー石汗究会の創設当初か

粕谷復雄:大村秀雄先生の側担去を悼む
ToshioKasuya:HideoOhmura(
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nmemoriam
日本海セ卜ロジー研究会の創設当初から顧問をし
月には地方農業技師として和歌山県経済部水産課に
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2年 1
2月から胃癌
て下さっていた大村秀雄博士は 1
月には農林技師として再び:"J
.
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産庁勤
勤務し、翌年9
治療のため入院中のところ、昨年 l
月1
3日に永眠さ
務に戻り、 1
0月に漁業監督官として第二日新丸に乗
7歳の誕生日まであと 2
1日というときであっ
れた. 8
船し南氷洋捕鯨に参加した.当時、和歌山県として
た 当研究会としてはかけがえのない指導者の一人
は中央官庁から派遣された職員が、この様に短期間
を失った.氏は日本の近代鯨学の創始者の一人であ
に戻ってしまうことに大いに不満であったが、水産
り、長く国際捕鯨委員会の場において鯨の資源管理
庁としては捕鯨担当職員を確保する必要からそれを
に尽力して来られた世界の鯨学界の長老てあった.
押し切ったものの様である.氏はこの航海中の出来
この死によって、鯨研究の一つの世紀が終わったか
事を克明に日記に記録している.それによれば南氷
の感がある.
洋への往路には折りをみてプランク トン採取をした
大村秀雄博士は 1
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6年2
月3日に東京に生まれ、東
り、毎日時聞をきめて英語の勉強をしたりするとい
3歳で卒業した.卒業
京帝国大学農学部水産学科を 2
う勤勉さであった.また、操業中には捕鯨母船の処
後1
年間は内閣の嘱託として人口食料問題調査会の
理設備が不調なため、漁獲物を規則通りに完全利用
業務に従事し、続く 3
年間は農林省の嘱託として漁
することが出来なかったことに監督官として心を痛
業に関する調査に従事した.この時に沿岸捕鯨の事
めたことが蓄かれている.
南氷洋の操業中に水産庁から電報がきて、鯨油を
業場の許可事務や捕鯨統計をまとめたりしたのが、
鯨との関わりの始まりであった 1
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3
3年5
月に農林
輸送する捕鯨母船に便乗して欧J
+
Iに回って捕鯨事情
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3
6年8
技手として水産庁に勤務を命じられたが、 1
を調査することを指示された 現地に着くと今度は
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ロンドンで 1
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3
8年に開催された第2回国際捕鯨会議
タッフとして活躍し、研究報告の編集にも関係して
に日本が代表を送ることになったのでそれに顧問と
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5
4年には水産庁調査研究部研究第一
おられたが、 1
して参加することを命じられた.任務を果して米国
課長を退任され、翌 1
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5
5年には鯨類研究所理事長に、
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3
8年8
月中旬であった.これ
回りで帰国したのは 1
さらに 1
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5
6年には鯨類研究所の組織が変更され(財)
が氏が参加した最初の捕鯨会議であった.戦後は国
日本捕鯨協会鯨類研究所となり、そこの所長に就任
民の食糧難を解決するために行政官として捕鯨業の
された.そこで同鯨類研究所を鯨類資源の研究にお
再会に尽力し、敗戦の年の 1
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4
5年には沿岸捕鯨の再
いて日本を代表する研究所として位置づけ、研究体
開を、翌年には小笠原捕鯨と南氷洋捕鯨の再開を実
制を確立するとともに、研究者の育成にも力をいれ、
現した功績は大きい その後、 1
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5
1年から 1
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7
6年ま
多くの研究者を育てていった その研究成果の多く
で毎年国際捕鯨委員会とその下にある科学小委員会
は英文の研究報告( T
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に出席した.まさに、氏はわが国の遠洋捕鯨の繋明
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期から最盛期をへて終末期の始めまでの期間を第一
に発表された.これはほぼ4
0年間に 3
9巻が発行され、
線の鯨の資源研究者として活躍されており、鯨資源
世界の鯨研究者から高い評価を得ている これらの
管理の歴史のそのものであった.
事実を見れば、氏がし、かに優れた研究指導者であっ
大村秀雄博土は学究としては主として大型鯨類の
たかが判るであろう.研究費の主要部分を捕鯨企業
分類と生態の分野で活躍された.先ず、北太平洋の
に依存する民間研究所がこの様に優れた研究業績を
重要鯨類の分布と資源に関する研究により、 1
9
5
1年
あげ得たことは、まさに驚異に値することである.
に九州大学から学位を授与されたのに続き、日本沿
そこには御苦労も少なくなかったに違いないが、そ
岸でいわゆる 「
鰯鯨」として捕獲されてきた種類に
う言う事を多く語る氏で‘はなかった. しかし、晩年
穫が含まれて
は、イワシクジラとニタリクジラの 2
にお宅に伺ってお酒を頂戴しているときなど、昔の
おり、水温で棲み分けていることを外部形態と骨学
日本の捕鯨統計への疑問を持ち出されることがよく
とで明らかにし、それまで混乱していた統計上の問
あった. 一部の操業にこのような問題があったこと
題を正した.あとになって、ふたつの種類は吻の背
に心をいためておられたものと推察している.
大村秀雄博士は日本大学講師 (
1
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21
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6
2)を勤
面にあるキールを見れば泳いでいるのを見ただけで
も区別出来ることを明らかにしたのも氏である こ
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8
7年に鯨類研究所を母体として日本鯨
められた 1
の特徴は鯨の目視調査航海において今でも種類判定
類研究所が新たに設立されたのに伴いそこの顧問
に役立つている.そのほか、日本沿岸のコイワシク
(
1
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8
7 )となられ、また江ノ島水族館名誉館長(
1
9
8
6 )の任にもあった.
ジラやセミクジラの研究でも大きな業績をあげられ
大村秀雄博士は、これらの功績に対して 1
9
7
6年に
た
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7
7年には日本学士員賞を
は勲三等瑞宝章を、また 1
大村秀雄博士の研究者としての功績はこれだけに
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4
7年には(財)中部研究所を母体と
留まらない. 1
授与されている.
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4
2
4静岡県清水市折戸 5
7
1遠洋水産研究所
して(財)鯨類研究所が創設され、鯨の生物学なら
びに鯨製品に関する研究を行いつつ、英文の研究報
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告を発行していた.氏は 1
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1年頃からそこの研究ス
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