[内容の要旨及び審査の結果の要旨]「體源鈔」 の音楽論: 楽道における

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Title
【内容の要旨及び審査の結果の要旨】「體源鈔」の音楽論:楽道に
おける「姿」と「心」
Author(s)
比嘉, 舞
Citation
奈良女子大学博士論文, 博士(文学), 博課 甲第573号, 平成27年3月
24日学位授与
Issue Date
2015-03-24
Description
本文はやむを得ない事由により非公開。【博士論文本文の要約】
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/handle/10935/4007
URL
http://hdl.handle.net/10935/4010
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http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace
論
氏
文
の
内
容
名
論文題目
の
要
比嘉
旨
舞
『體源鈔』の音楽論― 楽道における「姿」と「心」―
内
容
の
要
旨
本論文は、室町時代の楽書『體源鈔』を主な研究対象とし、雅楽における「姿」と
「心」の在り方やその影響について考察するものである。
『體源鈔』は、京方の楽人・豊原統秋(1450‐1524)が著した 13 巻 20 冊から成
る楽書である。『教訓抄』(狛近真著、1233 年成立)・『楽家録』(安倍季尚著、
1690 年成立)と共に三大楽書といわれ、雅楽研究において非常に重要な史料のひと
つである。しかし、その重要性とは裏腹に『體源鈔』研究の蓄積は豊富とは言い難い。
とりわけ、『體源鈔』は楽道以外にも歌道や仏道、入木道など他分野の内容も多く含
んでいる為、室町時代の諸文化の研究において用いられてきたが、肝心の音楽的内容
に関する研究はほとんどない状況である。そこで本論文では『體源鈔』における音楽
論を主題とし、特に「姿」「心」という用語の定義やその用例、影響についての考察
を試みた。
序章では、『體源鈔』および日本音楽の美的要素に関する研究の現状について概観
し、本研究の意義と視点、構成を示した。第 1 章では、『體源鈔』巻 11 所収の歌論
書引用部分を取り上げ、楽道における「姿」と「心」の定義について検証した。著者
である統秋は、歌道を三条西実隆(1455‐1537)に学び、『體源鈔』中にも自作の
和歌を書き残すほど、和歌を好んでいた。歌論書関連の記述も『體源鈔』中にいくつ
か見られ、中でも巻 11 末所収「新撰髄脳云事」は、楽書において「心」について論
じた珍しい例として先行研究でも取り上げられている。しかし、その考察は当該記事
の範囲内で行われ、他の歌論書引用記事との関わりにまでは言及しない。『體源鈔』
中の全歌論書引用記事を検証した結果、当該記事と巻 11 本所収「一子伝云事」には
特に「心」の在り方に関して共通点があった。先行研究において楽道における「姿」
「心」は、演奏者の心構えや所作の問題に留まると指摘されているものの、両記事を
併せて考察した結果、次のような結論に至った。楽道における「心」とは、楽曲に対
する知識や演奏上の口伝であり、それ故に親子・師弟関係において代々受け継ぐべき
ものとして歌道との違いが明確に意識されていた。「姿」とは、姿勢や所作といった
身体的側面のみならず、旋律や音楽そのものを指す聴覚的要素も併せ持っていた。す
なわち、統秋は歌論の中に楽道との共通点を見出し、音楽論を形成する上で骨格とは
したものの、その相違点を打ち出すことで、歌論の援用にとどまらない「姿」「心」
論を作りあげたのである。
第 2 章では巻 1 所収「調子姿事」を取り上げ、
《調子》の音楽的構造分析を行った。
《調子》とは雅楽の楽曲の一種で、音合わせや各旋法の雰囲気を醸し出す役割をもつ
とされる。
「調子姿」とは各《調子》の雰囲気を具体的な情景に喩えた口伝である。
「調
子姿事」では各《調子》の比喩だけでなく、特殊な手・句についても言及する。それ
はつまり、「調子姿」という比喩の根拠が、それらの手や句の中にあることを意味す
る。そこで本章ではまず「調子姿事」で言及される手や句について、検証可能なもの
とそうでないものを整理している。次に巻 3 末所収の「鳳笙調子案譜注」という笙譜
を用いて、〈蜻蛉がへり〉〈トモ調〉〈乱句〉といった手・句の構造や配置を分析し、
各《調子》の特徴と「調子姿」の関連性を明らかにした。
第 3 章では、雅楽を「見る」側がどのように「姿」「心」を意識し、それらがどの
ように影響したのかを主題としている。まず、第 1 節では楽人がいかに「見られる」
ことを意識していたのか、『體源鈔』全体から関連記事を拾い、考察を行った。その
結果、第 1 章における身体的要素としての「姿」への意識が確認できた。そして、そ
れは姿勢だけでなく、指の動きや楽器のメンテナンス時といった細部にまで意識が向
けられていたことも判明した。第 2 節では、
『體源鈔』中の『源氏物語』引用部分を
取り上げ、その特徴と意図を考察した。楽書における文学作品の引用には、作者の楽
に関する知識つまり「心」の豊かさへの関心が背景として存在していた。最後の第 3
章では源氏絵を取り上げ、描かれる舞楽の「姿」の特徴について考察した。源氏絵に
おける舞楽の描写には、舞楽を主題とする舞楽図屏風と同様の定型が認められた。そ
の上で『源氏物語』各場面の特徴を描き入れることで、源氏絵としての定型が成立し、
「姿」が受け継がれていくのである。
終章では、これまでの考察を踏まえ、次のように結論づける。歌論の援用によって
定義づけられた楽道における「姿」と「心」は、身体論・概念論としても強く意識さ
れていた。これらは『體源鈔』以前にも存在した考えだが、特に豊原統秋は「姿」
「心」
を歌論の援用により概念として確立しようとした先駆者といえる。また雅楽を描いた
作品においても「姿」
「心」は踏襲されていく要素のひとつとなりえた。このように、
楽道における「姿」「心」とは音楽論形成を担う重要な用語なのである。
論
氏
文
審
査
名
の
結
果
比嘉
(外国語の場合は、日本語で訳文を(
論文題目
の
要
旨
舞
)を付して記入すること。)
『體源鈔』の音楽論― 楽道における「姿」と「心」―
要
旨
本論文は、京方の楽人・豊原統秋(1450‐1524)が著した 13 巻 20 冊からなる楽書『體源
鈔』に着目し、そこで語られる「姿」と「心」の意味と、雅楽におけるその特性について考
察する。論文の構成は序章、本論三章、付論、終章からなる。
日本の楽書は記録的・解説的な内容にとどまると評されることが多い。そのなかにあって
『體源鈔』は歌論をはじめ多様な分野の書物から故事を引用し、広く文化全般のなかでの楽
道の在り方を捉えている点で、芸術論として読み解かれる可能性を秘めている。しかし、こ
れまで必ずしもこうした視点から研究されることは十分でなかった。「姿」と「心」は日常でも
用いられる語であるが、これは日本の伝統芸術において特殊な意味を帯びている。『體源鈔』
に語られるこの語の意味合いを探ることは、翻って「姿」と「心」を核として、雅楽の世界(楽
道)の芸術的特性を明らかにし得るに違いない。本論文が研究対象を的確に見定め、かつ明
確な問題意識のもとに考察を進めていくことが、まず序章によって示される。
第 1 章では『體源鈔』において豊原統秋が「姿」と「心」という語をどのように用いているか
を考察する。いわば本論文の核となる語の定義が、最初に企てられる。その際に注目したの
は藤原公任(966-1041)の歌論書『新撰髄脳』に説かれる和歌を詠む上での「姿」の在り方だ。
統秋は『體源鈔』巻 11 でこれを引用している。これを出発点として『體源鈔』中の全ての歌
論書引用記事を整理検証した結果、歌道において「姿」と「心」は相通じあうこと、統秋はそれ
に理解を示しつつも、それとは異なる楽道の「姿」と「心」の在り方を説いていることが明らか
となった。すなわち、「姿」にはまず第一に楽人が演奏する際の姿勢や所作といった身体的側
面があり、第二に旋律や音楽そのものを指す聴覚的要素も併せもつ。また「心」とは楽曲に対
する知識や演奏する上での口伝であり、それゆえに親子・子弟の間で代々継承されるべき性
格のものであると解される。この考察は、楽書のみならず、歌論書を中心に広範な史料に目
を通した上で、「姿」と「心」という多義的な日常/芸術用語に、雅楽に特化した明確な意味づ
けをなし得た点、学問上大きな成果である。
第 2 章で目指されたのは、「姿」と「心」の重なりである。第 1 章で概念的に区別された二つ
が、実践的に重なり合うことで雅楽は成立する。『體源鈔』巻 1 に説かれる「調子姿」に着
目することで、この点を考察する。「調子」とは雅楽の楽曲の一種で、音合わせや各旋法の
雰囲気を醸し出す役割をもつ。「調子姿」とは各調子の雰囲気を具体的な情景に喩えた口伝
である。口伝であるがゆえに明確に記されること少なく、『體源鈔』中でも抽象的な譬喩で
それは語られることが多い。そこで、本論文では楽譜に記された音楽と言語的な譬喩とを比
較検証することで、楽曲をどのように演奏すべきかという実践の在り方が「調子姿」に確か
に示されていることを実証した。多くの歴史学者にとっては難解な楽譜の構造的な解読をな
すことにより、「姿」と「心」の繋がりを一歩深めて理解した点で、この章は意義深い。
「第 3 章」では音楽を演奏する専門家(楽人)の立場を一旦離れて、社会一般の中で雅楽-
-その「姿」と「心」の在り方--がどのように理解されていたかを考察する。情報発信者(文
学でいうところの作家、美術でいうところの画家や彫刻家)の視点から情報受信者(読者、
観者)への視点の移行は、文学研究や美術史学においても重視されており、音楽史研究にこ
うした視点を取り込もうとしている点、本論文は意欲的である。そのためにまず注目したの
は『源氏物語』における音楽についての言及である。楽人の演奏する「姿」を愛でる記述は『源
氏物語』に散見され、『體源鈔』各巻もまたそれを引用する。加えて『體源鈔』巻四では狛
近真(1177-1242)著『続教訓抄』をもとに、笙を演奏する楽人を「見られる者」として評価す
る事実を「付論」で指摘する。世間の評価・まなざしの在り方が、楽人の自意識へとフィード
バックされもするという本章及び付論の指摘は、享受論として興味深い。さらに『源氏物語』
をもとに描かれた絵画作品(源氏絵)に楽人や舞人は具体的・定型的に描写され、その「姿」
の美しさは長い歴史にわたり社会一般に供されたことが知られる。雅楽の理解は、その「心」
であるとともに「姿」とも深く関わっていたと、結論づけられる。
国文学あるいは日本美術を考察する上においても重要な概念となるであろう「姿」と「心」
について、雅楽の世界において--芸術論・身心論として--それがいかに重要な意味を担
うかを、本論文は室町時代に豊原統秋の著した『體源鈔』に着目することにより、具体的・
実証的に明らかにした。「終章」では、各章をふりかえりつつ「序章」で示された研究の方向が
滞りなく進められたことが示される。
以上のように、本論文は基本的に優れた内容である。しかし、些か不十分な点も見受けら
れないではない。『體源鈔』はいわば「引用の織物」のごとき書物である。先行する楽書の
みならず歌論など様々な書物からの引用で全体が構成される。したがって、一体どこまでが
先人の見解で、どこからが筆者・豊原統秋の意見であるのかが分かりづらい。本論文が明ら
かにしたことは果たして雅楽全般の特性か、統秋個人の芸術論なのかが曖昧である。それは
『體源鈔』が著された時代の特殊性とも関連する。『體源鈔』が著されたのは 16 世紀前半。
応仁の乱ののち未だ天下統一がなされる以前の混乱期であり、京都の公家社会は文化の中心
としての機能を失っていた。そうした状況下で統秋は一体誰に向けて、なにを伝える意図を
もって『體源鈔』を記したのか。同時代の三条西実隆(1455-1537)の文化活動なども視野に
入れ、室町後期社会のなかに楽道を位置づけることが、歴史研究の立場からは求められる。
音楽史の独立性を尊重しつつ、かつ文化史全般からそれを孤立させてもならない。
以上の問題点は、今後の研究の発展を期待して、敢えてここに記した。これが本論文の価
値を大きく減ずるものではなく、その成果が高く評価されることは、各章毎に記した通りで
ある。
よって、本学位論文は、奈良女子大学博士(文学)の学位を授与されるに十分な内容を有
していると判断した。