卒中八策

卒中八策
脳卒中後遺症者を
上手く歩かせるための 8 つの方法
はじめに
私は兵庫県にあるリハビリテーション病院で理学療法士として勤務しています。
日々の臨床場面で最も難しく感じるのは「どうすればもっと上手く片麻痺患者の歩
行能力を向上させることができるのだろうか」ということです。近年、脳卒中後の
リハビリテーションに関して新しい理論やアプローチが提唱され、多くの情報が氾
濫しています。私もこれまで様々なテキストを購入し、論文を読み、講習会に参加
してきました。根拠に基づいたもの、根拠の乏しいもの、臨床で役に立つもの、役
に立たないもの、様々な情報を自分なりに取捨選択し、実践してきました。そして、
有効であると実感した理論と実践を自身のホームページ「脳卒中片麻痺患者を上手
く歩かせる方法を理学療法士が一生懸命考えてみた」にて「卒中八策」と題して発
表してきました。
「卒中八策」という言葉は、幕末の志士坂本竜馬が新しい国家観を主張するため
に成文化したといわれる「船中八策」の名前をアレンジしたものです。坂本竜馬の
最大の長所は、先人の意見を柔軟に取り入れられる点にあったといわれています。
私の「卒中八策」も、様々な理学療法の先人の理論や知識を取り入れて自分なりに
編み直したものです。
今回、ホームページの内容を書籍化する機会を頂き、従来の内容に手を加えて紹
介させていただくこととなりました。本書がきっかけとなり、みなさんのなかで新
しい治療観が生まれることを期待しています。
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第 1 章 たくさん歩けば歩くのが上手くなる
片麻痺患者を上手く歩かせるために私が最も重視していることは「たくさん歩
く」
ということです。片麻痺患者はたくさん歩けば歩くほど歩行能力が向上します。
その理由を以下に示します。
理由その①:歩行トレーニングの量を増やすことに歩行能力を向上させる高い
エビデンスがあるから
理由その②:運動学習の理論上、歩行能力を向上させるには練習の量を増やす
必要があるから
理由その①:解説
脳卒中片麻痺患者に対する有効な歩行トレーニングの方法を考える上で、私が最
も重視しているのはガイドラインです。脳卒中に関する多くのガイドラインにおい
て重視されているのが「歩行トレーニングの量を増やすこと」です。
日本脳卒中学会が発行する脳卒中ガイドライン 2009 では、
「起立-着席訓練や歩
行訓練などの下肢訓練の量を多くすることは、歩行能力の改善のために強く勧めら
れる」としており、推奨グレードは A(行うよう強く勧められる)となっていま
す。その根拠として「通常の理学療法・作業療法に加えて歩行訓練などの下肢訓練
を 30 分行うと、上肢訓練を 30 分加えた群や追加の訓練を行わなかった群に比べて
20 週時点で歩行能力がより改善した」1)、また「歩行訓練を主体に訓練するとその
他の訓練に比べて歩行速度、歩行耐久性が改善する」2)などの論文が紹介されてい
ます。
また、日本理学療法士協会が発行する理学療法診療ガイドライン第 1 版でも、脳
卒中に対する「姿勢と歩行に関する理学療法」において「早期歩行練習および回復
期の姿勢・歩行練習」を推奨グレード A(行うように勧められる強い科学的根拠
がある)としており、
亜急性期患者では「早期の集中した治療と従来治療間を(中略)
実験的データで比較すると、
(中略)歩行速度と相関があるのは、全体の治療時間
ではなく歩行治療にかける時間であった」3)とされています。また、回復期では「歩
行困難な患者に対してボバースアプローチと比較して、セラピストの指導の下に行
う部分的免荷下でのトレッドミル歩行を用いた課題指向型の反復練習により、歩行
能力、歩行スピードを改善させる」4)とされています。さらに、慢性期では「慢性
期の集中的な下肢筋力強化や歩行練習は歩行能力を改善させる」5)などの論文を根
拠として、歩行トレーニングの量を増やすことが有効であるとしています。
なぜ歩行トレーニングの量を増やすことで歩行能力が向上するのでしょうか。こ
れについて理由その②で考えてみます。
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第 2 章 なるべく早く装具を作ろう
前章では運動学習の観点から片麻痺患者が新しい情報処理のプログラムを構成
するために、より良い歩行動作を繰り返すことの重要性を説明しました。
では、
良い歩行動作を行うためにはどのような道具が必要なのでしょうか。私は、
必要性のある症例ではなるべく早く装具を作成することが重要だと考えています。
その理由を以下に示します。
理由その①:適切な装具の使用により歩行に必要なエリアの脳活動を促すこと
が可能となるから
理由その②:装具処方までの期間とその後の ADL の向上には相関関係を示す
傾向があるから
理由その①:解説
従来、片麻痺患者の短下肢装具の使用目的は主に①立脚期の安定性向上、②足尖
のクリアランスの確保、③歩容を正常のパターンに近づける、④下肢の変形の予防
9)
などとされてきました。しかし近年、脳活動を画像で観察するニューロイメージ
ング技術の進化により、歩行トレーニング時に短下肢装具を使用することの脳活動
に対する影響が明らかになりつつあります。
機能的近赤外分光法(fNIRS)を用いて、脳卒中患者 8 名で裸足歩行時と装具を
使用した歩行時の脳血流の状態を比較した研究があります 10)。これによると、装
具歩行時は損傷側の下肢の一次運動野領域において酸素化ヘモグロビン濃度が有意
に増加し、非損傷側半球の活動を限局させたと報告されています。また初発の被殻
出血患者を対象に実施された研究においても、短下肢装具を使用しない歩行動作に
比べ、装具を使用した歩行動作時には損傷側運動前野を中心に酸素化ヘモグロビン
濃度が有意に増加したという報告があります 11)。酸素化ヘモグロビンとは、脳内
の神経細胞が活動した際に酸素を運搬する役割を担うものです。つまり、装具歩行
は裸足歩行に比べ損傷された領域を賦活させる可能性があると考えられます。
これまで主に運動麻痺に対する代償的な手段として位置づけられてきた短下肢
装具が、適切な使用により神経生理学的な側面からも良い影響を及ぼす可能性があ
るものと期待されるのです。
理由その②:解説
装具を早く作成することで片麻痺患者の ADL が早期に向上するかについては、
これまで明確な根拠を示すデータは得られませんでした。しかし近年、入院中の下
肢装具の作成時期と ADL 能力の変化との関係について、装具作成を早めることで
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第 3 章 長下肢装具を積極的に活用しよう
脳卒中片麻痺患者にとって適切な下肢装具とはどのようなものなのでしょうか。
私は、必要性のある症例に対し長下肢装具を積極的に用いることでより高い治療効
果が期待できると考えています。その理由を以下に示します。
理由その①:脳卒中片麻痺患者の歩行トレーニングでは膝関節を固定すること
でトレーニングの難易度を下げることが可能となるから
理由その②:長下肢装具の使用により麻痺側下肢の随意的な筋収縮よりも強い
筋活動が得られる可能性があるから
理由その①:解説
脳卒中片麻痺患者が歩行動作を学習する際に、トレーニングの難易度が患者に適
しているか、という判断は非常に重要です。難易度の高すぎるトレーニングでは効
率的な運動学習が期待できないからです。
そもそも、なぜ片麻痺患者は上手く歩くことが難しいのでしょうか。その理由を
端的に表現すると、
運動麻痺があるために下肢の各関節が自由に動かないからです。
我々が治療場面で下肢装具を用いる理由は、装具による自由度制約を用いて歩行動
作を簡単なものにすることにあります。自由度とは関節運動の方向性の数を指しま
す。例えば、ヒトの下肢は股関節 3(屈曲-伸展・内転-外転・内旋-外旋)
、膝
関節 1(屈曲-伸展)
、足関節 3(背屈-底屈・内反-外反・回内-回外)の合計 7
つの自由度を持ちます。この自由度は歩行動作の効率性を保証する一方で、片麻痺
患者のように随意性が低くなった麻痺肢では自由度が大きいことで安定性が低下し
ます。そこで、膝関節の運動自由度を制限することが有効な手段となるのです 7)。
図 2 は第 1 章で解説した学習曲線と装具の関係を示したものです。一般的にト
レーニングにより運動技術を獲得する際には「なかなか上手くならない時期」を経
て「上手くできるようになる時期」を迎え、最後に「頭打ちの時期」を迎えると言
われています。しかし、歩行トレーニングのように「やるべきこと」がはっきりし
ている課題では、セラピストが適切な難易度の課題を用意して「上手くならない時
期」を経験させず、最短で目標スキルに到達する経路を設計することで効率的な学
習が可能となるとされています 7)。そして、この難易度の調整を行う際に有用なも
のが長下肢装具なのです。
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第 4 章 立脚中期に身体重心を上昇させよう
前章では、長下肢装具を使用して膝関節を固定することの重要性を説明しまし
た。では動作の難易度を下げた状態で、具体的にどのような歩行姿勢を獲得するこ
とが大切なのでしょうか。最も重要なことは、立脚中期に身体重心を上昇させるこ
とです。その理由を以下で説明します。
理由その①:立脚中期に身体重心を上昇させることが歩行のエネルギー効率の
改善に繋がるから
理由その①:解説
脳卒中片麻痺患者の歩行能力を向上させるためには、立脚中期に身体重心を上昇
させることが最も重要です。その理由を理解するために、まず歩行の力学的なパラ
ダイムである「倒立振子モデル」を理解しましょう。
健常歩行は非常にエネルギーコストの低い移動動作であり、必要なエネルギーは
安静時代謝量から 50%増加するに過ぎないと言われています 21)。この効率性は「位
置エネルギー」と「運動エネルギー」のスムーズな変換により保証されています。
運動エネルギー
位置エネルギー
速度最大
重心位置最高
速度最大
重心位置最高
図 4 運動エネルギーと位置エネルギーの交換
12
速度最大
第 5 章 立脚初期に踵接地を確保しよう
前章では歩行の力学的な観点から、立脚中期に身体重心を上昇させることの重要
性について解説しました。では、立脚中期に身体重心を持ちあげるために留意すべ
きことは何でしょうか。
立脚中期にスムーズに身体重心を上昇させるには、立脚初期に踵接地を確保する
ことが重要です。その理由を以下に解説します。
理由その①:ヒールロッカーが機能し、身体重心を上昇させることで効率的な
歩行動作が可能となるから
ヒールロッカー
アンクルロッカー
フォアフットロッカー
図 6 ロッカーファンクション
歩行立脚相では,回転中心が踵にあるヒールロッカー,足関節にあるアンク
ルロッカー,中足指節関節にあるフォアフットロッカーに分けられる.
理由その①:解説
健常歩行の立脚期には、身体が接地している足部を中心に前方に回転していきま
す。このとき回転の中心は、①立脚初期の踵、②中期の足関節、③後期の前足部と
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第 6 章 立脚後期に股関節を伸展させよう
第 4 章・第 5 章では、運動エネルギーを位置エネルギーにスムーズに変換させる
条件を提示しました。では脳卒中片麻痺患者において、運動エネルギーの源となる
股関節屈曲動作を獲得させるためにはどのようなトレーニングを行うべきでしょう
か。
随意性の低下した脳卒中片麻痺患者が股関節を屈曲させるには、立脚後期に股関
節を伸展させることが重要です。その理由を以下に解説します。
理由その①:歩行時に股関節を屈曲させる主動作筋である大腰筋は、股関
節伸展位で最も効率的に働くことができるから
理由その②:ターミナルスタンスにおいて股関節伸展位を取ることで、同
時に足関節が背屈位となり、ストレッチショートニングサイ
クルにより麻痺側下肢の振り出しスピードの向上を図ること
ができるから
理由その①:解説
健常歩行では、イニシャルスイングにおいて股関節は 10°伸展位から 15°屈曲位
まで動き、このときにキーマッスルである腸骨筋の活動がピークに達するとされて
います 26)。
股関節屈曲作用を持つ筋の中で、なぜ腸腰筋が主動作筋となるのでしょうか。
図 7 は股関節の角度変化による屈筋の発揮トルクの違いです 27)。筋力は関節角度
の変化によって相対的に発揮するトルクが変化するため、肢位によって主動作筋が
変わる可能性があります。しかし、伸展位・屈曲位すべての関節角度において最大
トルクを発揮しているのは腸腰筋であることがわかります。
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第 7 章 フリーハンド歩行を心がけよう
歩行トレーニングでは、極力平行棒や杖などを用いずにフリーハンド歩行を行う
ことが重要です。それは非麻痺側上肢を使用しないことで、より高い機能回復が期
待できるからです。本章ではフリーハンド歩行の有用性について解説します。
理由その①:フリーハンド歩行を行うことで半球間抑制の回避が可能となり、
損傷側の脳の機能回復が期待できるから
理由その①:解説
フリーハンド歩行でのトレーニングを推奨する最大の理由は、半球間抑制を回避
することでより高い機能回復が期待できる点にあります。半球間抑制とは、左右の
大脳半球間で脳の活動を抑制しあう現象のことです(図 12)
。
正常側の脳の
活動を抑える
左の脳の
活動を抑える
右の脳の
活動を抑える
病
巣
損傷側の脳の
活動を抑える
損傷側
a
正常側
b
図 12 半球間抑制のイメージ
半球間抑制とは,左右の大脳半球間で脳の活動を抑制しあう現象の
ことである.片側の大脳の活動が活性化すると,反対側の脳活動が
抑制される.
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第 8 章 歩行速度を向上させよう
歩行トレーニング時の速度はなるべく向上させることが重要です。それにより最
終的な歩行速度が変化するからです。その理由を以下に解説します。
理由その①:強制的に速く歩くことで脳卒中患者の歩行機能が改善するから
理由その②:歩行速度を向上させることで立脚期に必要とされる筋活動を減少
させることが可能となるから
理由その③:歩行速度を向上させることで片麻痺患者の社会参加の可能性を広
げることができるから
理由その①:解説
Dobkin ら 37)は、発症後 30 日前後の脳卒中片麻痺患者 162 例を強制的に速く歩
かせた群とそうでない群に分類し、速度を向上させたトレーニングの有効性を調査
しています。強制的に歩かせるというのは、歩行トレーニング時にセラピストが
歩行速度を可能な限り向上させるように指示し、毎日のトレーニングの中で、10m
歩行の所要時間がどれくらい短縮してきているかをフィードバックするという方法
です。その結果、リハビリテーションユニットへの入院期間には差は認められませ
んでしたが、歩行速度や連続歩行距離などの値は強制的に速く歩かせた群で有意に
改善が認められたとしています。このことから、片麻痺患者の歩行トレーニングで
はただ歩くのではなく、より速く歩かせることが重要であるということがわかりま
す。では、なぜ脳卒中片麻痺患者において歩行速度を向上させることがトレーニン
グ上有効な手段となりうるのでしょうか。
理由その②:解説
図 14 は健常歩行のミッドスタンスでの床反力の変化です。初期接地時、下肢が
床に接する直前に身体は約 1cm の高さからの自由落下します。この時、短時間に
大きな床反力が生じます。ここで注目するべきは、支持脚のミッドスタンスにかけ
て一旦床反力が減少していることです。これは遊脚側の下肢をスイングした結果、
身体を上方に持ち上げる力が働くことによるものだとされています。健常歩行では
この作用により、立脚期に必要とされる筋力を減少させることが可能となります。
脳卒中片麻痺患者では、歩行時にこの床反力をコントロールすることが重要です。
歩行速度を向上させ、特に支持性の低下が問題となる麻痺側下肢立脚期に、非麻痺
側下肢をしっかりと振り上げるようなフォームを獲得させることは、力学的により
安定した歩行形態を獲得させることに繋がるのです。
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第 9 章 実践動画
本章では、これまで解説してきた 8 つの方法を臨床で実践している動画をご紹介
します。動画の多くは、川村義肢株式会社製の歩行評価装置ゲイトジャッジシステ
ム ® を使用して評価しています。そこで最初に、ゲイトジャッジシステム ® とその
画面の見方を簡単に解説します。
図 17 ゲイトジャッジシステム ®
歩行中のトルクや関節角度の計測には通常大規模な機器が必要ですが、ゲイト
ジャッジシステム ® では、短下肢装具ゲイトソリューションの油圧ユニットが底屈
制動力を発揮した際に生じるトルクを計測し可視化することで、運動力学的情報を
簡便に得ることができるようになります。当院では 2010 年より臨床場面での使用
を開始しました。
動画 2 は、当院のセラピストの歩行の様子をゲイトジャッジシステムで測定し
たものです。右下肢のローディングレスポンスとターミナルスタンス前後にゲイト
ソリューションが底屈制動力を発揮し、それに伴い赤い波形が記録されています。
緑のグラフは足関節の底背屈角度を表しており、基線よりも上が背屈域、下が底屈
域です。また股関節の屈曲-伸展測定用のユニットを使用することで、このグラフ
エリアに青いグラフが表示されます。股関節では基線より上が屈曲域、下が伸展域
になります。
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