知の知の知の知 - 社会福祉法人大阪手をつなぐ育成会

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大阪+知的障害+地域+おもろい=創造
知の知の知の知
社会福祉法人大阪手をつなぐ育成会 社会政策研究所情報誌通算 2345 号 2015.2.27 発行
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昇竜ナンバー2345 号を記念して産経新聞連載の「まさか発達障害だったなんて」の著者=
漫画家・さかもと未明さんをまとめてお届けします。【kobi】
【話の肖像画】漫画家・さかもと未明(1)発達障害の診断と生育歴を公表
産経新聞 2015 年 2.月 23 日
(野村成次撮影)
〈発達障害を専門とする星野仁彦医師との共著「まさか発達障害だ
ったなんて」
(PHP新書)を昨年9月に刊行し、発達障害と診断さ
れたことやそれまでの生育歴を公表した〉
これまで「困った人」と思われていたのが「そうだったのか」と、
周囲の受け止め方が変わりました。奇行もなるほどと思われたようで
す。昔からいじめられっ子でしたし、何か発言するとすごく批判され
ます。この本では個人的なことを書き連ねたので、もっと非難される
と思っていました。ところが、
「よく書いてくれた」
「自分も同じだっ
た」
「自分が認知するだけではなく、周りが認知してサポートしなけ
ればいけない社会的な問題だ」など、いろいろな方が評価してくださ
った。うれしかったですね。一時は激減した執筆の仕事も次々と復活してきたんです。
〈アシスタントの指摘で平成22年に星野医師の診察を受けた〉
気づいたころは、仕事が忙しいのに難病の膠原(こうげん)病を発症してペンも持てず、
漫画家としても作家としてもだめなんじゃないかと悩んでいました。自宅が何度もごみ屋
敷になってしまい、20年にテレビ番組でごみを全て倉庫に移して物を減らす企画を放送
してもらって少し落ち着いたんです。けれども、また、ごみ屋敷に戻って体力も気力もな
くてどうにもできませんでした。そうした様子をチーフアシスタントが客観的に見て、星
野先生の本の新聞広告に記載されていた発達障害の特徴を「未明ちゃんじゃないかな」と。
〈部屋を片付けられないのは、発達障害のADHD(注意欠陥・多動性障害)にみられ
る症状とされる〉
ほかにも戸締まりにすごく神経質だとか、チョコレートやツナ缶など限られたものしか
食べない偏食ぶり。すでに断酒していましたが、アルコールへの依存。コミュニケーショ
ンが下手で、自分の世界から出ないところ、など。私もただの鬱ではないと思い、一人で
電車に乗れる状態ではなかったので、記事を書くから星野先生のところへ連れて行ってほ
しいと編集者に頼みました。
〈診断の結果は、自閉症の一つで対人関係が困難などの症状があるアスペルガー症候群
とADHDが重複した発達障害だった〉
2時間ぐらい生育歴などを聞いてもらい、号泣しました。目の前の状態を診るのではな
く、幼児期にさかのぼり、鬱や不登校、仕事上のトラブルなどが発達障害に起因している
と、人生を通して考えてくださった。その後、検査を受けて間違いないと診断され、処方
された薬を飲んでよくなったんです。歩いてみようという気になり、発達障害の治療でこ
んなに変わるんだと実感しました。体が動かないのは膠原病が原因だと思っていましたが、
発達障害の影響も強かったんですね。膠原病でいくら投薬しても思い通り治療が進まなか
ったのが、かなり改善されました。両輪の治療でやっていくしかない。気持ちが楽になり
ました。
(聞き手 寺田理恵)
【プロフィル】さかもと未明
さかもと みめい 昭和40年、神奈川県生まれ。玉川大英文科卒。商社勤務を経て、
平成元年に漫画家デビュー、レディースコミック界の女王と呼ばれる。小説なども執筆し、
15年、
「週刊SPA!」で「ニッポンの未明」を連載開始、論客としても注目される。2
1年には歌手デビュー。本紙に大型時事漫画「憂ちゃんのおしえてプリーズ!」を連載中
の18年、膠原病を発症し、翌年に難病認定。病状悪化で活動を一時休止したが、24年
に再開。著書に「マンガ ローマ帝国の歴史1~3」(講談社)など。
【話の肖像画】漫画家・さかもと未明(2)子供のころから「困った人」
産経新聞 2015 年 2.月 24 日
〈平成22年に受けた発達障害の診断時に、一人遊びが好きだった幼児期や学童期の様
子から、対人関係の未熟さが浮かび上がった〉
中高生の頃も、人と視線を合わせることができませんでしたし、いじめられっ子でした。
話そうとすると体が変なふうに動いて、つまらないギャグを飛ばして浮いてしまう子供だ
ったんです。他にコミュニケーションの方法が分からなかったので、すごく変な人だとみ
られていたでしょうね。学校では眠くて保健室で寝ていることがよくありました。発達障
害に伴う睡眠障害だったと思います。
〈発達障害が一般に知られておらず、理解が得られないこともあった〉
1日学校に行くと、次の日は行けないほど疲れるんです。でも、当時、不登校は「甘え」
とされ、家族からも「なまけ病」といわれていました。中学では成績が良かったのであま
り問題になりませんでした。高校では出席日数が足りず、退学か留年かといわれました。
地元では有名な進学校で、せっかく入ったのにそこからこぼれてしまうのは避けたかった。
推薦で大学に合格し、追試や補講で日数を調整してもらい、卒業しました。
〈元年に漫画家としてデビュー。官能漫画のレディースコミック界では女王と呼ばれる
ほど活躍し、仕事は順調だった〉
デビュー当時のレディコミ界はバブルでした。ちょっとかわいかったので、インタビュ
ーや写真集の話が次々と来ました。見た目で上げ底されているという自覚があり、漫画を
頑張ってからと断っていましたが、ヌード写真集の提案があったとき、当時の交際相手か
ら反対されたんです。ヌードは芸術表現の一つ。それなのに「脱ぐなら結婚しない、愛せ
ない」といわれる理由が分かりませんでした。結婚を選べば生活は安泰。でも、それで収
まりがつかないから「困った人」だったんでしょうね。漫画家を20年続けられたのは、
徹夜で描くひきこもりライフが体に合っていたからです。
〈北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみさんの両親との出会いをきっかけに、漫画から
評論活動へと仕事の幅を広げていった〉
最初の主人は自衛隊員でした。レディコミを描くのを反対されて離婚しましたが、世間
から尊敬を受けないまま機雷処理などに命を張っている人がいることを、チャンスがあれ
ば書きたいと思っていました。めぐみさん救出の街頭活動で、ご両親の横田滋さん、早紀
江さん夫妻とお会いして、社会批評をやりたいと。14年に北朝鮮が拉致を認める2年ほ
ど前のことで、ビラを受け取ってくれない人ややじを飛ばす人も多く、燃えてしまったん
です。セクシーなキャラクターの私が、硬派なテーマを語ることへの賛否は半々くらいで
した。
(聞き手 寺田理恵)
【話の肖像画】漫画家・さかもと未明(3)ネット上でバッシング受け
産経新聞 2015 年 2.月 25 日
横田さん夫妻(右)が仲人兼親代わりを務めた結婚披露宴=平成
25年(Naoto Ohkawa撮影)
〈平成24年、航空機内で泣き叫ぶ乳児に我慢できず
乳児の母親や航空会社にクレームをつけたことなどを雑
誌「Voice」に書き、搭乗マナーや機体の工夫につ
いて議論の必要性を提起、インターネット上で賛否を呼
んだ〉
我慢できなかったのは発達障害の聴覚過敏の状態になっていたからだと、今は分かって
います。躁(そう)と鬱を繰り返す双極性障害があることも分かり、そのときは躁に振れ
ていました。周りがゆっくり動くロボットに見えてしまい、クレームをつけたり、攻撃的
になったりします。問題提起をしたのですが、その仕方が下手でした。勝手な部分もあっ
たと思います。でも、機内の音の問題は改善された方が赤ちゃんも連れている親もハッピ
ーです。発言には全責任を負いますし、世の中がよくなるようにと疑問や提案を発信して
いるつもりです。
〈ネット上でバッシングもあった〉
「つけまつげをするな」
「服装が派手だ」と、なぜ批判されるのか自分では分からない。
でも、好感度を上げるために自分の好きな服を我慢して地味にしたいとも思わないんです。
昔からいじめられっ子で、仲間はずれにされていて、有名になったり面白い発言をしてな
るほどと思われたりすれば、いじめられなくなると思っていました。でも、やればやるほ
どいじめられる。私を否定しながらも、発言を聞いてくれる人がいるのだと思うようにし
ています。
〈評論活動を続ける中では、理解されないことがあった〉
機内の泣き声の件も、よく検索すると何らかの対策をとった方がいいという意見も多か
ったんです。今になって分かるのは、意見を言うときは隙を見せると、ものすごくたたか
れるということ。自分が人と違っているから、違う発想もできるし絵も描ける。才能に恵
まれた部分もある。けれども、そこはみんなと感性が違うのだから、もう少し丁寧に説明
しないとただの変わった人で終わってしまう。例えば、自分の家が汚いのをテレビで披露
したのは、言論の仕事をさせてもらいながらすべきではなかったと思います。「あんな汚い
部屋に住んでいるくせに政治について語るな」という人はいますから。
〈医師で9つ年上の今の夫と平成24年に結婚し、最大の理解者を得た〉
式を挙げたのは25年6月。拉致被害者、横田めぐみさんのご両親が仲人兼親代わりを
務めてくださいました。私がどんなに世間から非難されても、主人だけは分かってくれる。
著作も読んだうえで、全てを受け入れたいと言ってくれました。どれだけ感謝しているか。
自分が大好きで何をしても受け入れてくれる人を求めている、そんな私を受け入れてくれ
る奇跡的な人に出会ったから、とにかく死なないでと思って大事にしています。(聞き手
寺田理恵)
【話の肖像画】漫画家・さかもと未明(4)膠原病と二重の闘病生活
産経新聞 2015 年 2.月 26 日
〈発達障害の診断を受ける前の平成19年、国が難病に指定している膠原(こうげん)
病の全身性エリテマトーデス(SLE)と全身性強皮症、それに合併するシェーグレン症
候群(SS)の診断も受けていた〉
発症したのは18年でしたが、産経新聞に大型時事漫画「憂ちゃんのおしえてプリー
ズ!」を連載していて、テレビ出演も始まったときでした。仕事をしたかったので、熱が
続いて声が出なくなっても放置していました。半年ぐらいで手の指がソーセージのように
はれ、軽く触れるだけで痛くて転げ回るほどになり、診断を受けました。大学病院で緊急
入院を勧められましたが、仕事を優先させたんです。
結婚披露宴のため、自らデザインした引き振り袖を着て=平成25年(TAJ
IO撮影)
発症から約2年後、体に電線が走るように腱(けん)が浮き出て、
泣きながら急患で病院に行き、ステロイドの投薬を受けてテレビに
出ました。かなりの量を飲んで楽になり、驚きました。中学生頃か
らいつもだるくて空気が重くてつらかったのに、体に羽が生えたよ
う。だから、普通の人は生きていくのがつらくないのだと。病気は
中学生の頃からあったのだと思います。ただ、18年より前は体が
重くてもハードに働きましたし、重い荷物をもって取材にも行きま
した。
〈膠原病と診断された当時は執筆活動のほか、テレビのコメンテ
ーターとしても活躍していたが、病気を公表していなかった〉
テレビに出始めた頃は、所属事務所から公表は控えた方がいいといわれていました。よ
かれと思ってのことでしたが、2、3年で本当に動けなくなり、オープンにして認知され
たうえでないと働けないと言って、21年に公表しました。膠原病は、見た目ではすぐに
分かりません。皮膚の症状が出たのは、衣服に覆われ、見えないところ。でも、テレビに
出ると「顔が陶器みたいに光っている」、体調が悪いときは「猿みたいに顔が赤い」といわ
れたので、お化粧でカバーしていました。体温を調節できないので、手が冷たくて手袋を
していたら、
「みっともないからやめろ」と。周囲のみなさんが支えてくれましたが、黙っ
ていた3年間はとてもつらい時期でした。
〈膠原病と闘いながらジャズボーカルとして活動を始め、21年にはCDをリリースし、
歌手デビューを果たした〉
歌おうと思ったのはSLEのため手が動かなくなったから。ギターを習っていましたが、
指が短いのでいずれボーカルをと思っていました。病気で動かなくなったとき、ギターの
先生がバンドを紹介してくれて。経験がなくても、やりたいと思ったら始めてしまう。版
画も始めたんです。病気で手が曲がっていても、できることですから。体調がいいときも
あるので、いろいろできるところを見せて、同じ病気のみんなに勇気を持ってもらいたい
んです。
(聞き手 寺田理恵)
【話の肖像画】漫画家・さかもと未明(5)甘えといわれ苦しんだ体験伝えたい
産経新聞 2015 年 2.月 27 日
さかもと未明さん(野村成次撮影)
〈平成22年に病状が悪化し、歩行困難になるなど一時は活動休
止を余儀なくされた〉
膠原(こうげん)病のため、水の入ったコップも持ち上げられず、
ペンも持てなくなって、身体障害者手帳の交付を受けたのがそのこ
ろです。手首と足首は可動域がなく、指も曲がってしまっています。
強皮症で皮膚が硬くなってつるつるに光って、その中で、さらに発
達障害の診断も受けて。強皮症の合併症で呼吸が止まる可能性は今
もあるので、そうなったらどうしようとか、大きな恐怖感がありま
す。
〈24年に執筆や音楽活動を再開させ、著書「女子のお値段」
(小
学館)のほか、音楽CDも発売した〉
理解者である夫を得て、発達障害の治療も始めて、体調が少しよくなりました。今、本
の書き下ろしや版画、CDの制作に取り組んでいます。漫画は下絵と構成ができれば、不
自由なペン入れを助けてもらおうと思っています。私のもうけはなくても、作品が仕上が
ればいい。歌もお金にならないので、純粋な気持ちで表現できればいい。それは主人が生
活の面倒をみてくれるから考えられることです。普通だったら働ける状態ではないと、膠
原病の医師も発達障害の医師もいいます。でも、何か表現したい。疲れるので今は1日の
うち15時間ぐらい寝ていますが、インタビューを受けるときは自宅に来ていただいてい
るし、友達は「つらかったんだね、合わせるよ」といって家に来てくれます。
〈共著「まさか発達障害だったなんて」(PHP新書)では、支え合うことの大切さを訴
えている〉
発達障害のある人には、周囲のサポートが必要です。理解してもらい、甘えだといわな
いでもらえたら、その人にしかできない創作や普通の人にはない発想で仕事ができる。気
持ちが真っすぐで、嘘をつかないという美点も持っている。もっと認知されてほしいし、
発達障害のある子供を育てることに悩んでいるお父さんお母さんには、子供の可能性を信
じてほしい。
〈共著者の星野仁彦医師は、大人になって診断される「大人の発達障害」への薬物治療
に偏見を持つ人が多いことを指摘している〉
私の場合は薬が効きました。誤解しないでほしいのは、発達障害は脳の機能の障害だと
いうことです。だから薬が必要で、気合では治らないんです。私は先天的に代謝に異常が
あり、薬がないと動けませんし、こんなふうに話すことはできません。ひどいいじめに遭
いましたし、引きこもりも不登校も経験しました。ずっと甘えだといわれて苦しみました
が、診断を受けてとても楽になりました。発達障害は本人も親も、どこに相談していいか
分からないのです。体験を話すことで救われる人がいるなら、何でも話したいと思ってい
ます。
(聞き手 寺田理恵)
こんにちは! 1000人目赤ちゃん
聖隷三方原病院・助産所「たんぽぽ」命、心つなぐ場に
中日新聞 2015 年 2 月 27 日
比呂君を抱える内山さん夫婦(中)を笑顔で見守る助産師
たち=浜松市北区の聖隷三方原病院の「たんぽぽ」で
家庭的な雰囲気で出産できる聖隷三方原病院の
院内助産所「たんぽぽ」(浜松市北区)で21日午
前10時35分、1000人目の赤ちゃんが生まれ
た。頼れる助産師が見守る院内助産所は、命だけで
なく、心もつなぐ場になっている。 (木原育子)
たんぽぽは「深く地に根差し、綿毛に乗るように
幸せの種が広がってほしい」との願いで、2009
年3月に設置された。
機械に囲まれた分娩(ぶんべん)室ではなく、畳の部屋で出産する。産科医ではなく、
助産師が分娩を手助けするのがたんぽぽの特徴で、万が一の時は院内だけにすぐに医師が
駆けつける。
同病院に勤務していた縁で結婚した理学療法士の内山靖允(やすのぶ)さん(31)と
看護師の千晶さん(30)夫婦=浜松市東区小池町=も「たんぽぽ」での出産を選び、1
000人目の赤ちゃんが誕生した。
医師から切迫流産の可能性を告げられた時も、千晶さんは迷わずたんぽぽの助産師宮津
しのぶさん(50)らに相談。
「大丈夫だよ」と繰り返してくれた言葉が「魔法みたいに安
心できた」と振り返る。出産の体力をつける運動や食事管理も教えてもらい「自信をもっ
て出産準備ができた」という。
出産は、靖允さんも立ち会い、助産師の清水真由美さん(47)と梅田奈智加さん(3
7)が担当した。
「日ごろから信頼関係があったから身を任せられた」と千晶さん。281
6グラムの比呂君を出産し「やっと会えたね」と、皆で手を取って喜び合ったという。
26日に内山さん家族がたんぽぽを訪れ、あらためて感謝し、助産師からは妊娠20週
目からともに歩んだ写真やメッセージ入りの思い出アルバムがプレゼントされた。
靖允さんと千晶さんは「たんぽぽは、助産師との心の距離も近くアットホームで安心で
きる」と話す。助産師の清水さんも「お産は一人一人違う。家族が新しい命を抱えて笑顔
で巣立つ姿を見られるのが何よりの幸せ」と目を細める。
4年後 臨床目標
中日新聞 2015 年 2 月 27 日
ヒトのiPS細胞から軟骨の組織を作り、関節の軟骨
が損傷したミニブタに移植して治療することに、京都大
iPS細胞研究所のグループが初めて成功した。成果は
26日米科学誌電子版に掲載された。グループは事故や
加齢で軟骨が傷ついて歩行などが困難になるヒトの変形
性膝(しつ)関節症患者への移植手術を2019年に実
施することを目指す。
軟骨は骨の端を覆って関節を曲げたときにかかる衝撃
を吸収するが、一度損傷すると治る能力が低い。変形性
膝関節症は、高齢化による膝の痛みの主な原因のひとつ
で、国内に約1千万人の患者がいる。
現在の治療は人工関節の使用のほか、患者自身の軟骨
細胞を少量取り出し、培養して増やして体内に戻す自家
軟骨細胞移植が行われている。ただ、この方法で培養し
ても良質な細胞は増やせず、長期的には十分な治療効果
が確認できていないという。
妻木範行教授らのグループは、iPS細胞の作製後に
軟骨細胞の形成には3種類のタンパク質を加える必要が
あることを特定。さらに、細胞を溶液中に浮いた状態で
培養する「浮遊培養法」を取り入れたところ、約50日
でヒトの体内と同じ構造を持った良質の軟骨組織が形成
された。
この軟骨細胞をマウスやラットに移植したところ、体内で正常に軟骨の一部となって定
着し、がん化などの異常も起こらないことを確認した。軟骨に損傷があるミニブタ(体重
30キロ)に移植すると、軟骨が再生して、体重を支える役割を果たした。
妻木教授は「今回の治療手順はヒトにも応用できる。安全性の確認をさらに進めたい」
と説明。ヒトで実際に治療する臨床応用を、18年に厚生労働省に申請し、19年の移植
手術を計画する。
iPSから軟骨組織
膝関節症
【主張】年金抑制見送り 改革への腰が定まらない
産経新聞 2015 年 2 月 27 日
いかにも腰のすわらない改革姿勢ではないか。厚生労働省が年金額を抑制する「マクロ
経済スライド」のデフレ下での実施について、見送る案を自民党に提示した。
1月にまとめた制度改革の報告書のなかで唯一、抑制に踏み込む内容だったが、わずか
1カ月での方針転換である。
4月の統一地方選や来年夏の参院選を控え、高齢有権者の反発を恐れる与党から難色が
示されたのが原因だ。選挙が近づくたびに負担増を伴う改革から逃げて、少子高齢社会に
どう対応するのか。
見送り案は撤回すべきだ。
「役所が決めたこと」と、与党が知らぬ顔をするのも許されな
い。
年金には物価に連動して給付額を増減する「物価スライド」のルールがある。マクロ経
済スライドは勤労世代の減少や平均余命の延びに応じて、給付水準をさらに抑える仕組み
だ。将来世代の給付水準が、下がり過ぎないようにするために必要な措置である。
ただ、マクロ経済スライドは物価下落が続くデフレ下では適用されないことになってい
る。そうしたやり方では、将来世代へのしわ寄せが拡大する。経済状況に左右されずに実
施できるようにしておくというのが、当初の改革案の趣旨だったはずだ。
現役世代の保険料は上がり続け、受給者になったときの給付水準は現在より下がる見通
しだ。高齢有権者に気兼ねして改革を見送った。そんな説明で、若い世代の理解など得ら
れまい。
厚労省は先送りの代わりに、デフレ時に年金を抑制できなかった分は翌年度以降に繰り
越し、賃金や物価が大きく上昇した年度にまとめて減額する案も示した。
その時点で、大きな引き下げを高齢者に納得させる自信があるとでもいうのだろうか。
文字通りのつけ回しであり、およそ政策として成り立つとは考えにくい。
年金受給者は毎年少しずつ入れ替わっている。「大幅減額にあたった人は運が悪い」こと
になるようなやり方で、受給者間の公平性を保つことはできない。
年金を強固な制度にするには、すべての世代で痛みを分かち合うしかない。受給額を減
らされる高齢者に、実情をより丁寧に説明することは重要だ。「大衆迎合」的な判断から政
策がふらつけば、改革姿勢は疑われ、高齢者、現役世代の双方から不信を招こう。
社説:言葉のセクハラ 不快感を与えぬように
北海道新聞 2015 年 2 月 27 日
相手が不快に思えばセクハラと受け止めたい。最高裁はきのう言葉によるセクハラを認
定する判断を示した。男女がともに築く社会である。気にかける必要がある。
大阪市の水族館運営会社で、女性派遣社員2人に対し1年以上、性的発言などを繰り返
した40歳代の男性管理職2人が降格・出勤停止処分を受けた。上告審はその処分をめぐ
って争われた。
一審では処分を妥当とし、二審では女性が明確な拒否姿勢を示さなかったこと、会社が
事前に注意しなかったことを理由に、妥当ではないとしていた。
最高裁は「職責や立場に照らし著しく不適切」「企業秩序や職場規律に及ぼした影響は看
過しがたい」として、二審判決を覆した。
「俺の性欲は年々増すねん」
「結婚もせんでこんな所で何してんの。親泣くで」「夜の仕
事とかせえへんのか」―。
男性上司の言葉はセクハラであることは明らかだ。そればかりか、女性差別と言っても
いい。
正社員と派遣社員の関係を考えると、女性らは不快感はおろか、無用の圧力を感じたこ
とだろう。最高裁の判断は当然である。
身体への接触、つきまといなどの行為が具体的になくても、言葉が女性らの働く環境を
悪化させると受け止めざるを得ない。
職場におけるセクハラは、働く人の尊厳を不当に傷つける許されざる行為だ。企業にと
っても、職場の秩序を乱し、業務に支障をきたす。決して放置してはならない問題である。
男女雇用機会均等法は、事業主にセクハラ防止の措置を求め、厚生労働省も予防のあり
方を示す「指針」を示している。
こうした予防措置の周知によって、全国的には近年、職場でのセクハラ行為は減少傾向
にある。
しかし、北海道労働局の集計によると、道内のセクハラをめぐる相談は本年度、12月
末までで184件と昨年度1年間の166件を上回っている。
このうち、
「言葉のセクハラ」が全体の半分を占め、増加傾向というから心配だ。もっと
気軽に相談できる環境をつくりたい。
コミュニケーションを取ることはどの社会でも不可欠だが、受け手が不快に思った時点
で変質することを忘れてはならない。
職場での軽い冗談も時と場合によっては、セクハラ発言になり得る。常に言葉を向ける
相手を尊重する気持ちが欠かせない。このことを肝に銘じなければならない。
社説:言葉のセクハラ 男の“甘え”は通じない
中日新聞 2015 年 2 月 27 日
軽い気持ちで不用意な性的発言をしてはならない。職場の女性に「言葉のセクハラ」を
し、懲戒処分を受けた男性の裁判で、最高裁は会社の処分を妥当とした。男社会の“甘え”
は許されない。
「いくつになったん?」
「結婚もせんで、こんな所で何してんの。親泣くで」「もうお局
(つぼね)さんやで。怖がられてるんちゃうん」「俺の性欲は年々増すねん。なんでやろう
な」
「夜の仕事とかせえへんのか」…。
大阪高裁と最高裁が認めた主なセクハラ発言の数々だ。大阪にある水族館の運営会社で
働く二十代、三十代の女性派遣社員ら二人が被害を会社に届け出た。
会社側は課長代理だった四十代の男性二人から事情を聴いた上で、出勤停止の懲戒処分
を行い、さらに係長への降格処分をした。だが、男性二人は受け入れがたかった。会社側
から注意や警告がなく、
「不意打ち」で処分が下されたことや処分が重すぎるとして、裁判
所に訴えたのだ。
一審は「処分は妥当」としたものの、二審は「処分は重すぎ、無効だ」と正反対の判断
をした。女性が明確に拒否の姿勢を示していない点や、セクハラに対する具体的な処分方
針を認識する機会がなかった点を考慮したためだ。
だが、最高裁はそうした二審の見方をとらなかった。職場がセクハラ防止を重要課題と
位置付け、セクハラ禁止文書をつくり全従業員に周知するなどの取り組みをしていたから
だ。二人の男性も研修を受けていた。男性はむしろ管理職としてセクハラ防止を指導すべ
き立場にあったといえよう。
最高裁は「職責や立場に照らし、著しく不適切」
「反復継続的に行ったセクハラ行為が企
業秩序や職場規律に及ぼした有害な影響は看過しがたい」などと厳しい言葉を並べて指摘
した。
一九八六年に施行された男女雇用機会均等法は、企業にセクハラ対応を義務付けている。
しかし、議会でのセクハラやじに象徴されるように、社会の意識は十分に高まったとはま
だ言えない。
全国の労働局に二〇一三年度に寄せられたセクハラ相談は約六千二百件にのぼる。この
数字も氷山の一角にすぎないだろう。
下品な言辞で困惑させたり侮辱するのは、個人を傷つけるだけでない。就業意欲も職場
環境も壊してしまう。企業ブランドにさえ傷がつきかねない。働く場の指針も厳しく見直
す時代といえる。
月刊情報誌「太陽の子」、隔月本人新聞「青空新聞」、社内誌「つなぐちゃんベクトル」、ネット情報「たまにブログ」も
大阪市天王寺区生玉前町 5-33 社会福祉法人大阪手をつなぐ育成会 社会政策研究所発行