1988年夏号 - 一般財団法人住総研

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目次
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都心型居住とコミュニティの作在形悼由 奥 田 道 太 : 日
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都市化社会のなかの住居﹂へ向けて
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特集川東京の原風景
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イランの砂漠の周縁部には、土の結日開とでも呼ぶべき美しい集落
群がある。これらの集落には、その厳しい風土に対応した面白い空
関的な仕掛けがある。とりわけ風に対するからくりは巧妙である。
砂漠では季節により風向きがほぼ二足している。この風を巧みに
生活に取り込む装置が通風塔である。屋程に拘げたスリットを通り、
風は一トの部屋に導かれる。きわめて単純な機構であるが、実際には
なかなか効果的で、厚い日子しレンガに回まれた薄暗い空間川に、心
地よい風が流れ込む。通風塔が風上に向かって林立する様は、帆か
け船の船団のようで壮観である。⋮般に通風塔は居間か仕事場の隠
根の上に立てられるが、その他の部原の毘根もよく見ると、その機
能に対応した形態の穴が穿たれている。円錐形で盛り上がっている
のは寝室で、単に丸い穴だけのものは家南小屋、丸くて跨問が則一一一く
探けているのは厨房、ガラスの三角錐が絞っているのは浴場といっ
た具合である。外相倒的にはきわめて閉鎖的な住民であるが、原根の
記号性に気が付くと、外からその生活を伺い知ることが可能となる。
風をより積械的に生産手段として活用したものに印刷卒がある。風
車というとヨ i ロッパに見られる羽を拡げたような形を連想するが、
この地域の風車はユニークである。丸太を心棒とし、そこに掘られ
たほぞに横木を幾本も掃し込み、それに藁束をぶらさげる。風が吹
くと葉束が嵐をはらみ心棒が回転し、軸受けの右の上で粉が挽かれ
るという仕組みである。こうした機構が成立するということは、そ
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れだけ風が強いということの証でもある。
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砂漠の風は熱砂を運び、オアシスを埋めつくす過酷な自然現象で
あるが、砂漠の民はこの風土と共生するすべを身につけている。そ
し て そ の 叡 知 は 見 え な い 風 を も 形 象 化 す る こ と に 成 功 し 、 その造形
は共同体の象徴となっ℃いる。
ふじい・あきら/東一以大学生産技術研究所助紋佼
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ら洋服といい、伝統的な衣服が当たり前である所から単に者物と呼んでいた険代か
といい、日常肴ている衣服を服という。欧米から人ってきた衣服が特別であったか
人されたぷ服を洋服と呼んでいる。それにたいして、子供述は伝統的な衣服を和服
うに思えるのに、今年は明治一五年から数えて円二十年、あと十一年で同暦二千年を
そのほか小国料理の応も多い。ドイツ料慢、スペイン料開、インド料相川、ギリシャ
次は、﹁食﹂である。レストランでは、正統なフランス料理がはばをきかせている。
いる。まずは完全に洋風化された、言い換えれば近代化されたという意識であろう。
近代化のあらわれと一日に言われることが多い。しかし、その過殺は単純にとらえ
ら、導入された衣服のほうがあたりまえの世代に移り変わりつつあることを示して
ることはできず、その小には、幕末までなれ親しんできたいわゆる伝統的な生活文
料理など、あらゆる同の料理が日本では食べられる。家庭ではどうであろうか。正
日本人の住生活は、明治以降欧米からの影響の下に、激しく変化してきた。今日
の生活文化にどのように対応してきたか、の問題が存在する。
化をどのように保ち、その上に山明治維新以後急激に取り入れることになった欧米式
改革されつつあった生活様式とが浪花している。また、伝統的な生活文化と外米の
ンカツ、飛竜頭、カステラ等々。テーブル・マナーも、ハレとケではヘヱく述、っ。レ
あるのか全くわからなくなってしまった料開もある。カレーライス、ラーメン、ト
生活文化のいずれをとってみても、伝統的な生活文化には近代化の小で今日まで生
﹁住﹂。引在の東京での中治をみよう。椅子とテーブルで食事をする山本が増えた。
ということができるのではなかろうか。
明治三十年代から次第に家庭に取り入れられた、家族が共同で凶み廃って使う食市
ストランでは、無理しなくてもいいのに、ナイフとフォークをぎこちなく使う O E
本
一
一胞では、うたがいなく答である。衣食住の内で、最もうまく折史したのが食である。
日本独自の生活様式を創造した場合も認められる。日本では、さまざまな要素を近
しでも定着しなかったものがある。さらに、受け入れた近代的な意識にもとづいて
代化という言葉で単純にとらえているが、本当の近代化の道程を見極めるには、こ
業の人だけと言ってもいい。寝るときも、浴衣よりパジャマ等が主流になった。附
﹁衣﹂はどうであろうか。日常、着物(和服)を着て生活している人は、特殊な職
である。新しいし不でも矩倍。本当は腰掛け式の場り矩憾と言いたいところなのだろ
組熔が登場する。大学生協の新入生むけのカタログでは、綬一房総兵はだんぜん仮健
し、矩憾には恨強い人気がある。コマーシャルにも、クーラーやヒーターと五九月に
で 寝 る 。 セ ン ト ラ ル ・ ヒ │ テ ィ ン グ 、 ガ ス や 石 油 の F Fス ト ー ブ 、 ク ー ラ ー 。 し か
は、大変彩が薄くなってきた。子供は、椅子式の勉強机があたり前であり、ベッド
利一桁世代の私は、まだ伝統的な去服を着物といい、ヨーロッパやアメリカから導
まず、衣食住の現状について、簡単にふれて見ょう。
れらを整理して見直さなければならない。
き続けてきたものと失われたものがあり、外来の生活文化にも定着したものと伝米
受け入れた生活文化にも、欧米における旧来の生活文化と、近代的な意識の下に
統ではないが、沢山の日本化した外同料埋が食市にのっている。その起源が何処に
もまた、今まで以上に急速に移り変わりつつある。明治維新以降の住文化の変不は、
迎える。このあたりで日本の近代化について振り返ってみても無駄ではなかろう。
幕末に始まり、明治維新を契機にたかまづた近代化。明治
塑
の洋便器も、近年普及しつつある。立ち働き式の台所流し。洋風の応接向。プライ
・ル!ムと計いであって、お中合終にどんな使い方をされるんですかと聞いても、答
もつかみどころのない部尽なのである。﹁:・:・たと、えば設計閑耐の段階でリビング
と こ ろ が こ の 問 問 1 リ ビ ン グ ・ ルi ム は 、 住 み チ に と っ て も 設 計 す る 側 に と っ て
!ムに、食事の場は食堂あるいはダイニング・キッチンに分化したといえよう。
バシー。中廊下。家族本位。茶の問。子供部屋。 S I M P L E L I F E。 台 所 無
えが山山てこない場合が多いんですね。リビング・ルームはなんとなくなくちゃいけ
うが、コンクリート・スラフでは堀り矩縫を作るのも簡単にはいかない。際情け式
ってみても、さまざまな話題が見つかる。
用論。椅子式。食寝分離。最小限住居。 D K。 ち ょ っ と 近 代 住 宅 史 の ぺ │ ジ を め く
そ し て 居 間 中 心 裂 と 呼 ば れ る 平 面 型 ま で 成 立 し た 。 そ れ か ら mml五十年たった今け、
えていたような居間が想定され作られ始めたと忠います。その後、民間のあり方に
が別にあったために、だんらん(ゑとしてのみの松山、すなわち大正期に建築家が考
また﹁昭和一一一十年代にだんらん主への要求が山て米た持は、慨に D Kという食事(込
(井上ニ部吋リビング・ルームに何が求められているか、︾泡 QCω 会より)とい、つことになり、
自 分 の 部 屋 に と じ こ も る 子 供 、 コ ミ ュ ニ ケi シ ョ ン の ほ と ん ど 無 い 家 族 が 問 題 に な
ついて研究はいろいろなされていますが、結局はっきりしません﹂(資木正夫﹁明治以降
ないんだなと思いつつ、具体的にどう使っていいかわからないことが多いんです﹂
っている。朝起きて食事もそこそこに家を飛び出す大学生や大学技生達に開いてみ
の住様式の変化発渓に間附する一考察 L住宅建築研究所持制3gより)ということになる。
明治以後、建築家にとって住宅に関する最大の課題は、接客本位から家族本佼へ
たところ、家族との会話は殆どないという答えであった。この傾向は自宅通学者の
の転換であった。明治から大正、昭和の初年へと、この流れは確実に進行していた。
方がひどいのが意外であった。自宅を織れていても、 Aーは電話があるのが普通で、
建築家は、居間中心型以来住宅に居間を作ってきた。その居間は締子式で、はじ
機能分化しなければならないのか。一一一一川外に機能分隊が近代的とするようなず Jえ方が
倒室の確立、食寝分離、食事宗の確立等が、時代を追って明確になってくる。何故
いわゆる近代化が始まってからは、その傾向が強い。休刊客の坊の分縦、子供室等の
住宅の進化は、機能分化の方向をとってきた。特に欧米からの彩川市引を受けてから、
めは建築家の設計する特別な住宅に限られていた。しかし、家族が集まり同援する
読み取れる。このような考えは間違っているのではなかろうか。従米、研究は分析
屯話を通しての家族との会話が案外多いのである。
場は、それ以前から無かったわけではない。例、えば、﹁家族の食事の州切であり、閉山梨
的であった。しかし、造る行為は総合化である。実際の人間生活を形式的な区分に
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の良い場所だったのだに松山猛﹃僕的リビング・ル iム考﹂
茶の聞を分解したのは、さまざまな事怖があるにせよ、結来として間違ってはい
当てはめて分離することはできないのである。
の場であり、時には被容の場ともなるフレキシブルな空間で、僕にはとても印刷心地
都の家の﹁おだいどこ﹂と呼ばれた空間はその典型である。このような部屋は、明
なかったか。住宅は基本的にまず家族の暮らすところであって、個人の住まいの集
治以後の都市住宅では、明治三十年代からいわゆる﹁ちゃぶだい﹂の名称で代表さ
れる、家族が共同で囲み座って使う食取をともなう茶の間として成立している。そ
子供に自分の生きざまを伝、えるところであるという原点から、日本の近代住宅を性
的情付けていた茶の間を見直し、住宅を考え夜してみる必要があるのではなかろうか。
合体ではない。それぞれが家族の一川同一であることをつくづく実感するところ、税が
(ひらい・きよし/点以工業大山下教佼)
して、茶の間は明治以後の都市住宅を象徴する部患となったといえるほど、家族本
一に考えた住様式から生まれた茶の間は、敗戦後都市住宅の洋風化にともなって次
伎を究様の尽標とした都市住宅を性絡づける部屋となった。この、家族の生活を第
第 に 消 え て い っ た 。 機 能 的 に は 茶 の 間 が も っ て い た 団 山 梨 の 場 は 民 間1リ ビ ン グ ・ ル
陣内(司会)今口 uは ﹁ 江 戸 東 京 四O O年 ﹂ と い う こ と で シ ン ポ ジ
いう東京再発見の気運が高まってきました。
しよう、 そ う い う 意 味 で 、 東 京 に も 江 戸 以 米 の 歴 史 を 振 り 返 る と
経済や効率、機能というようなことばかりを重視して都市づくり、
随分出てきているわけですが、それを解決していくにもなかなか
や形態はまた大きな波をかぶりつつあります。一様集中の弊室口も
ところが一方、東京は世界の金融経済の中心として、その機能
ウムを開催させていただきます。趣旨を簡単にお話しさせていた
住宅政策を行なってきたと思うのです。その結果、﹁東京砂漠﹂
世界にモデルになるものが見つからないわけで、自らの問題を白
2
だきますと、明治以後の日本の近代というのは、産業社会であり、
と言われる味気ない近代都市としての東京になった時期があった
国際都市ないしは世界都市という言い方が東京についてひじよ
ら考えていく必要があるということだと思います。
業構造から見れば﹁悦工業化社会﹂、文化的に見れば﹁。ホスト・モ
うに言われるようになりましたが、これもただ単に技術とか経済、
と思います。その反省がこの一 O 年1 一五年、随分出てきた。産
ダン﹂と呼ばれる時期がいま来ている。もっと都市の豊かな個性、
金融で先端を行くという意味だけではなく、自ら個性を持ち、ア
推定凶がありまして、それを私がこの凶に重ねあわせてみたわけ
えるものです。一万、﹁来京市域拡張史﹂には天正一八年ごろの
ときの学術的な調査報告書としては第⋮級に挙げられる仕事とい
てあると忠います。これは震災予防調査会による、関東大長災の
お手元に﹁発火地点と火流﹂という一枚の凶耐をお波しし
小木新造
進歩しているのは物質だけ
江戸の伝統を全部捨てたことに開題、がある
れではまず小木先生にお願いします。
お話をいただいて、東京の開題を考えていきたいと思います。そ
的に研究を進めてこられた方々ばかりで、いろいろな立場から、
今日ご出席の先生方は、皆さんそういうことで日ごろから学際
症すということが非常に求められていると思います。
ういう中で、江戸以来の歴史に立って、もう一度東京の都市を見
きる文化を作る場でもなければいけないと思われるわけです。そ
イデンティティのある世界に、そういう意味で貢献でき、発信で
暮らしの中の楽しみ、さまざまな観点から人間らしい生活を追求
於1建築会館ホ l ル
財団創立相周年記念シンポジウム審
五月一回器
当財団の創立一四O周年を記念して開催する一一一倍連続シンポジウム
トータルテーマ﹁都市のすまい﹂の第一回
江戸東京フォーラムでも活動されている五人の
江戸東京への思い、東京の未来についての討議が
四時間にわたって展開関されました。
木
司会勢
秀
パ ネ ラi @
陣
内
芳賀徹
法政大学助教授・建築史
国立膝史民俗博物館教授・江戸東京学
東京大学生産技術研究所助教筏・建築史
東洋大学助教授・都市計的
東京大学教養学部教授・近代日本比絞文化史
新
造
照 雄
造
本
藤 内
ァ民
臨
本本
でございます。 期せずして、 ベ止一八年時代には小川であったよう
九土町立、 地 盤 と 建 築 の 関 係 か ら 割 合 に 発 火 地 点 と な っ て い る こ と
2!(
が明瞭に現われてさております。
この図の製作に協力された寺出資彦が、関東大震災が起ってか
ら 一 カ 月 後 の 九 月 三O 日 に 、 ベ ル リ ン に お り ま し た 小 宮 思 降 と い
う友人に宛てた手紙が﹃寺出資彦全集﹄の小にあります。その⋮
部に、こういうことを書き送っています。
﹁調査の必要から、昔の徳川時代の大震、大火の記鉢を調べてい
るが、今度われわれのなめたと同じような経験を、昔の人がもう
とっくになめ尽くしている。それを忘却してしまって勝手な真似
をしていたために、こんなことになったと忠う。昔に比べていま
の人間がちっとも進歩していない。進歩しているのは、物買だけ
でしょう。かつて昔の政府や土民のやり口がいまより立派なよう
な気もします﹂。
これは誠に注目すべき一文だと忠うのです。
関東大震災の火流部の中に、間関川の脇と、神間川のほとりに
ちょっと空いている白い部分がありますが、これは焼けなかった
所です。いうまでもなく浅草寺と、もう一つは神間佐久間町周辺
で、ここは四つの町が共同して江戸時代以来の初期消火を必死に
なってやって、町を守り通した。これはこの地域の小学生の副読
本にもなっている有名な話です。焼けたところは各一時の火災に、
まず物を持って逃げ出したと⋮般にふ一一同われているわけです。
江戸時代のやり方というのはどういうのかと中しますと、ご存
じのとおり﹁火事と喧時は江戸の事﹂と言われるように、火災が
しょっちゅうありましたから、夜分休むときにも、子供には必ず
下者を着せて寝かせる。火の用心は一家の、王人の役割で、もちろ
ん奥さんがその前にやるわけですが、あとで主人が見て回る。そ
れから江戸に風呂屋が多いのは、個人の家に内風呂を作らせなか
ったということで、 武 家 屋 敷 は 別 で す が 、 そ う い う 火 災 対 策 を 常
て、家康のあの先見の明を踏襲すべきである。現に、武家屋敷が
うのは、非常に達見だと思うのです。関東平野を意識の中に入れ
うことで、誠に立派な建白書が残っておりまして、これを聞いた
に考えていたということがありまして、そういう昔の知恵が忘れ
江戸時代がすべていいなどとは決して思つてはいないのですが、
大久保が、ほとんど大阪遷都に決まっていたのを急速変更しまし
あれだけ空いているのだから、あれを利用しない手はない、とい
一八六八年を契機にして、江戸の伝統をすっかり捨てたところに
て、東京ということになったのです。確かに東京というのは、江
られたというようなことを言っております。
問題がありはしないか、ということから、幕末から明治の歴史、
ては十分なるものを持っている。日本の都市の中では注目すべき
戸以来の伝統を持っていて、いまは荒廃しているが都市機能とし
存在である、と前島は見抜いたわけでございます。
特に東京の歴史を調べてみますと、どうもわれわれに伝わってい
るイメージの文明開化東京の実体とは、だいぶ違っているという
これは役割分担が見事にできておりまして、大阪は米穀、その他
江戸時代には、大阪、京都、江戸の三つの大きな都があります。
ことに気づきました。やはりこれは都市を研究する場合には、江
勉強してみる必要がある、ということを強く感じたわけです。
国産品を売りさばく商業都市、京都は伝統産業都市、そして江戸
戸の開府、少なくとも家康入府天正一八年からずっと縦に通して
⑧大名さえ竿く穏居して江戸にずっと住みたかった
のはわかるのですが、在府のときも平均してということは大変な
はどうなのかというと、⋮大消費都市である。たとえば庄内務の
ことです。大名の持っている家屋敷というのは莫大で、彦根藩の
現在、遷都論がさかんに叫ばれております。この遷都論は戦後
明治維新のときはどうかといいますと、実は明治維新の際にい
場合には年聞の収入のだいたい八割ぐらいを江戸で消費する。こ
ちばん開題になったのは大阪です。大阪に決まって、ほとんど遊
例 で 申 し ま す と 、 二O数 万 坪 で 、 い ち ば ん 大 き い の が 現 在 の 明 治
も何回か出ておりますが、戦前では関東大震災の直後一週間ほど
都する寸前、九割五分ぐらいまで遷都は確実なものになったので
神宮の所です。紀州家は八つ屋敷を持っており、二三万三六一一二
れは平均です。江戸へ参勤をしているときに八割消費するという
す。その当時の決定権を持っていましたのは、参議の大久保利通
坪です。いちばん大きいのがいまの赤坂御所で、赤坂離宮と青山
の開でしたが遵都論がございました。
という人物です。ところが、これに最終段階で異論が出てきまし
御所の所です。この御殿の周りのことは﹃南紀徳川史﹄という書
んであり、何石取りの人が江戸へ来た場合にはどのくらいの長憶
た。いろいろな人がおりますが、いちばん強く異論を理論的に主
彼の埋論というのは極めて雄大でありまして、関東平野を控え
に入るかという決まりがちゃんとありまして、本当にいやになる
物の中に詳しく山ておりまして、間りを全部二階建ての長屋で囲
ている東京を捨てることは、誠に不利である。当時、人口は明治
ほど江戸の町は、大名達の屋敷町で占められていたかという事実
張したのは前烏密という人であります。
五 年 に 五 七 万 八 千 人 。 天 保 時 代 は そ れ か ら 三O年ぐらい前ですが、
がわかります。
ら申しますと、武家町。武家地が六八・六%、神社・寺町が一五・
ですから、江戸は決して町人の町ではなくて、総体的な感じか
このときの人口が約一三五万人位と推定されていますが、そうい
う状況でありますから、東京中が⋮時にくらべてがらんどうにな
っていたのです。そういうときに関東平野のことを意識するとい
三i
o
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三
そう
ま全
すと
六%、町地は一五・八%で
すし。
体、の 一 六 % の 所 へ 、
千h d IしV
ご、‘、
という記事がありますが、それと全く同じであります。
から、むしろ来京の、あるいは江戸の知恵を、もう二度正しく見
は、都市および都市化社会の中で生活することは股界の趨勢です
現在も、一極集中で東京が悪いことをしているようなことを言
ところが、その中には実にうまい決まりがありまして、御天道
武家人口、寺社人口をほとんど合わせたのと同じ人口が住まって
様と町内をまず第一にする。江戸には木一戸があり、木戸の中を叶一
直してみる。そして伝統がどこで切れていて、どこがつながって
う 人 が お り ま す が 、 都 市 そ の も の は つ 一C C万 人 か ら の 人 関 を 抱
間と考えています。これに顔向けのできないようなことをしては
いるのか、ということをきちんと位置づけることは、二一位紀に
いるわけですから、当然すまいが九尺二間のような、小さなラビ
い け な い 、 と い う ルl ル が 自 然 に 都 市 生 活 の 中 に 生 ま れ て き て い
生きる人間の必須の条件だと私は考えているわけでございます。
え、首都圏を数えますと、一一一CCC万 人 で す 。 ⋮ 二 世 紀 と い う の
ます。そういうものは現在の東京のど真ん中には全くなくなって
陣内、どうもありがとうございました。江戸木京学という、先生が
ット・ハウスでないと生活ができないという状況になっていた。
いる。東京に住む人たちというのは、大正期の調査でもわかるの
提同附されている都市の見方のエッセンスが、いろいろな具体例を
続きまして、藤森さんから﹁都市構造、都市計画﹂といった、
ですが、ほんのわずかしか江戸時代からずっと続いて住んでいる
かなり大きなスケールでの江戸と東京の開館についてお話いただ
通して非常にわかりやすくお話いただけたと忠います。
い。だから、よそ者が来て、それをよそ者としてはねつけるよう
きます。
人がいない。江戸時代でもそうなのです。いつでも出入りが激し
てみれば、国内における国際的、少なくとも他陣の人達を受け
なことをしていたのでは、生活が一日として成り立たない。いっ
入れる一つの姿勢が出米上がっていました。江戸、それは非常
閉じた空間から開いた空間ヘ
乱暴に破って開いた都市、それが東京
にある意味では危険な町でもあるし、一方には悪をあまり記憶し
ないという都市独特の雰囲気がありますから、自由関連に生活で
藤森照信
近代都市と前近代の都市とは、 道路計曲、 道的的を中心とし
きます。大名までがなるべく早く抱居をして、できれば江戸に住
みたい。つまり大名でいる間は⋮年ごとに参勤交代をしなければ
ならないが、隠居をしますと、江戸にずっと住めるわけです。
た柳沢士口保の孫である柳沢信鴻は、五O歳 で 隠 居 を し ま し て 、 現
ロッパですと﹁城唆都市﹂ という一一沿い方をされております。
山川近代の都市は、 日本では ﹁封建都市﹂ と呼ばれますし、
て交通計画に閲することにいちばん大きな差があります。
在の六義閣の所に住みました。非常にお芝居の好きな人で一カ月
都市と城控都市という一今一日い方が、 前者は政治体制を指し、 後 者 は
のれとき
に由、五回お芝居を見物しました。その記録が﹃円遊日記﹄とい
たいていの都市国家というのは城壁で閉じておりますが、
いたということだと考えています。
都市の具体的なことで指しているわけですが、 基 本 的 に は 閉 じ て
一例を申し上げますと、第一ホテルの辺りに上屋敷がありまし
藤
う形でいま泣されていますが、誠に優雅な記版作心的です。
関東大震災のときに、﹃婦人公論﹄である婦人たちの意見をまと
めた中に、どんなに括れでも、どんなに焼けても東京は離れたく
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建
本
森
ごとの自治単位を作っておりまして、そのいちばん小さな単位が
二五0 年 間 ゆ る が ざ る こ の 強 さ を も っ て 、 江 戸 幕 府 が 統 治 を 仕
﹁五人組﹂という形でカッチリ分けられていたわけです。
具体的に一一一一日いますと、大きな石垣と土子と堀で城は閉じられて
切ったという秘訣のようなものは、そういう物理的な構造と社会
は城壁を使わない閉じ方をしています。ただ基本的には聞く閉じ
いる。町中は石垣や土子や堀をあまり作られますと実用性で国り
構造のようなものが、わりとうまく密着していたのではないかと
ていたということは変わらないわけです。
ますから、代わりに武家地に多い鈎の手とか、町の中は江戸の場
いう気がいたしているわけです。明治維新でそういう閉じた構造
合閉じられない性格を持っておりまして、川を使っていましたか
合ですと、町の木戸という一種のバリケードがありまして、長の
その閉じたパターンについては、渦巻き型に都市も閉じていた
ら、そこはいつでも開いていたわけですが、近代の物流や人の動
というのは役に立たなくなります。産業革命によって人間と物資
とか、双六状にいろいろなものが配置されていたという見方もあ
きは、水運から大きく車、鉄道の隙路に変わってまいりました。
聞は開いていますが、夜はそれを閉じて守っております。夜にな
ります。双六というのも、だいたいある種の渦巻き的な閉じ方を
そうなりますと閉じていた江戸的な構造もくずれていく。これは
が都市の中に膨大に流れ込み、その中で渦巻くように生産活動を
しております。あるいはキャベツみたいな感じで閉じている。い
加に日本が最初ではなく、イギリスがそれを最初に体験し、次に
ると、九O O近い木一戸をチェック・ポイントとして全部町を閉じ
ろいろな言い方がありますが、江戸の軒というのは、小さなパリ
フランス、ヨ i ロ ッ パ の 国 々 が い ろ い ろ な 形 で 、 前 近 代 の 都 市 を
やっていくわけです。おまけに鴎ったことに、水運というのは割
を い く つ か 重 ね る こ と に よ っ て 、 全 体 と し て は 割 A口上手に
てしまっていたのが江戸の町です。
ケ
開かれた都市骨格を持ったものに作り変えてきたわけです。
ihht
すごろく
閉じていたわけでございます。その開閉じた中心に将軍がいて、そ
そのとき二つの大きな考えが出てきます。一つはパリのように
開きたいという外務省が考えたやり方。開いた都市の代表として
の周辺に議代の大名がいて、もう少し離れると外線大名がいて、
その外には町人がいるという形で、危険度の高い人ほど高いパリ
は、パリがヨーロッパでは大変有名だったわけです。それはちょ
う ど 明 治 維 新 の こ ろ で す が 、 ナ ポ レ オ ン 三 位 が オl スマンという
ケiドによって閉じられていました。
この閉じるという構造は、都市の物理的な構造だけで出じるわ
パリ市長に命じて、現在のパリを作り上げたわけです。これは初
当時の臼木の指導者たちは、欧米をずっと巡回するわけですが、
けには当然いかないわけでして、当然ながら社会体制から見ても、
たとえば遊郭とか歌鋒伎など、これを私は﹁身分住み分け﹂とい
そのときパリというのは大変大きな印象を与えるわけです。パリ
めて開かれた都市構造を持ったということと同時に、現衣のパリ
う言い方をしていますが、職業による宥干の封じ込めといいます
の非常に絶対主義的な政権の持っている壮麗なイメージに大変深
きっちり区画していくということが行なわれていたわけです。武
か、ある閉じ方をしております。初期には職業ごとに、大工町と
くひかれてしまいます。特に文明開化を推進した井上禁という男
にみられる大変壮麗な美観を持った都市を作ったわけです。
か紺屋町などという名前でギルド的な町を作っていたこともよく
が、そういう性格が強い男で、とにかくパリのように美しく作り、
士と町人を分けて住まわせる。それから町人の中でも特殊な職業、
知られております。普通の町人達は、すべてある名、王の下に、町
八
iU
れはドイツ人を呼んできてやらせるわけですが、幸か不幸か馬鹿
なおかつ都市構造を聞こうということで一つの案を立てます。こ
開き方をしてしまったわけです。
きまくった都市になるわけです。相当乱恭に開いて破ったような
も中心は道路ということで高度成長期までやり、日本の都市は開
陣内江戸と近代に作られた都市の対比を明快にご説明していた
都市を、提案をしていかなければいけないと考、えている状況です。
この辺でようやく私たちとしては、もう少し骨絡だけではない
馬鹿しいくらいのお金がかかります。政府はそれを本気で始める
のですが、結局いまの法務省の赤レンガと隣に建っていた裁判所
だけを作って破綻してしまうわけです。
もう一つ派手にやることの経済的な危険を考えたのが内務省で、
だきました。
江戸のことに関しまして、閉じた都市ということを強調されま
リーダーは山県有朋です。彼が考えた東京の改良の仕方は、悪い
所を少しずつ改良するだけで東京を聞きたいと考えたのです。日
閉じにくいということを、まさに指摘されました。城下町で防舗
を屈めていくいっぽうで、消費都市、流通都市になっていき、水
し た が 、 そ の 中 で 水 運 と い う お 話 を さ れ 、 水 の ルi ト と い う の は
ぐらいのお金は払えるということで、まず角欠き(角切り)とい
辺にいろいろな文化が間附いていくということで、ある意味では途
本の道は事の交通に合わせていないので、道路の交叉点は誼角に
うことをやるわけです。また線がグチャグチャな道をまっすぐに
中から体質が変わっていった而もあるでしょうし、海や抑制で開い
なっていて角を欠いていない。内務省はせこいわけで、角を欠く
とおすなどということをやります。これも当時、﹁古家の修繕﹂
小木先生は、江戸の人々の間には非常にオープンなマインドが
ているということが、最初から'日己矛盾をもった都市だったので
しますとすぐ道路のお金は水道のほうへ出すという形で、少しず
あった、というお話もされたわけで、江戸の本当の姿というのが、
と批判されましたが、悪い所を少しずつやっていく。日清戦争が
つ少しずつ道路改良を進めていきました。明治二一年から都市計
聞いていた耐と閉じていた面と雨義性を持っていたと思うのです
はないかとも思うのです。
画をちゃんとやるのだということを匝が決意して、計画を決めて
が 、 そ の 辺 の お 話 も あ と で 突 っ 込 ん で い た だ け た ら 而 けいのでは
始まるとすぐ都市計画をやめます。あるいはコレラが流行ったり
から、実際には明治二三年に法令として実施にうつされます。そ
ないかと思います。
芳謂徹
出蕉の江戸に対する親愛の情、礼讃
一七世紀末にはそんな都市ができ上っていた
E
の意味で近代都市計爾が始まって一 O O年 、 家 康 入 府 四O O年と
いうことで、今年は大変記念すべき年です。その古家の修繕を明治
二三年から大正三年までかかって、ようやくなし遂げる。
以降ずっと大正三年以来、震災復興、戦災復興というように、
都市計画の主流は全部、土木屋さんの道路計画の人たちが撮って
芳賀
いくわけです。これに対しては建築家の側が、たとえば内田祥三
さんなどが若干横から口を出して、もう少し道路計画だけではな
とか美術の中に、江戸や東京の町はどういうふうに捕かれてきた
い ま 私 が 少 し 勉 強 し た い と 思 っ て お り ま す テl マが﹁文学
くて、宅地の割り方の問題とか美観の問題、公閣の問題などをや
か﹂ということであります。いったい江戸というのは、
いつ文学
るわけですが、そういうことは常に隅に追いやられて、あくまで
の中に登場してくるのか。
江戸というのは新しくできた都市でして、たちまちそこに人口
一戸に寄せる礼讃がよく出ていると思います。
芭蕉の俳句をほかにも探ってみますと、
花の雲鐘は上野か浅草か
いろいろありますが、大概が江戸礼讃の匂でありまして、芭蕉の
が流入してくる。あとから来る人たちのために﹃江戸案内記﹄が
何種類か出ています。案内記の類をも文学と呼べば、これが文学
界の中心であるという気持ちになっていく。そういう気持ちにさ
て江戸は素晴らしい、江戸は日本の中心である、そして日本は世
なかなかよくわかりませんで、結局のところ私は、芭蕉の俳句の
せるものが一七世紀の末、元禄の前後のころには、もう江戸の町
ような俳人でさえ、アッという開に江戸の中に飲み込まれ、そし
辺りではないかと思っております。藤森さんは、江戸東京という
にあったのだろうと思います。新江戸市民の江戸という町への適
に現われた江戸の最初かもしれません。しかし、いわば純文学に
のは道路である。都市というのは道路である、土木がリードする
応の速かさ、そして江戸という町に適応していったときに見出さ
近いほうで、いつ江戸が文学の中に出てくるかというと、それが
のが都市である、というお話でしたが、芭蕉の俳句を見ましでも、
れる江戸の面白さ、美しさ、壮麗さ、そして誇り、自慢、そうい
うものが芭蕉の俳句の中にもよく読みとれます。
まさにそういうことが言えそうであります。
芭蕉が江戸に出てきましたのは⋮六七二年ですから、満二八歳、
一年に一回春になりますと、オランダ人さえもはるばる、この江
カビタンもつくばわせけりおが森
戸にやってきて、将軍様の御前にひざまづいている、つくばって
それから六年ぐらい経ったころ、もう芭蕉は新しい江戸棺林の俳
人として活躍し始めます。年代順に編まれた﹃芭蕉句集﹄を開け
っと太鼓橋になっていて、その上に立つと東西南北非常に見晴ら
わたしながら作った句なのではないかと思います。日本橋はちょ
橋の上に立って、京橋のほうにずうっと続いていく通り町を眺め
が見はるかせる、という句であります。たぶん芭蕉は、日本橋の
されて、﹁間口千金のとおり町﹂それがスl ッとパ l スベクティブ
﹁げにや月﹂、いま秋の夜空に高く上ったこうこうたる満月に照ら
られてやってきた。芭蕉は元禄七年に亡くなりますが、一冗禄五年
うどそこに吉蕉が、まさにそういう江戸であるからこそ魅き付け
事にこなして、町らしい、大都市らしい体裁を整えてきた。ちょ
戸の町がようやく体制を整え、明暦の大火以後の急激な変化を見
て完成する勺ちょうどその時代の幕務制完成の時期と、そして江
八0 年 代 、 間 代 将 軍 の 末 の こ ろ か ら 五 代 将 軍 の 初 め の こ ろ に か け
た の で す 。 確 か に 礼 讃 さ れ て し か る べ き 体 制 が 、 ⋮ 六 七0年代、
日本を覆っている。芭蕉はこのころは本当に体制礼讃の詩人だっ
いるのだ。それほどに公方様のご威勢は高く、この江戸を覆い、
しが良かったというのが、その当時の浅井了意の﹃江戸名所案内
(一六九二年)に新大橋の工事が始まります。新大橋は、ちょうど
げにや月間口千金のとおり町
ますと、最初に出てくる俳句、これはまさに道路を詠んでいます。
い通り町。その両側に間口千金の豪華な商家がずっと軒を並べて
そのころ芭蕉が住んでいた小名木川のほとりの深川吉荒庵からす
記﹄に出ている一一一一口葉でもあります。幅一八間という四0 メ ー ト ル 近
いる。あれは蔵造りでだいたい二階建てぐらいです。柱も看板も、
土木工事を俳句に詠むわけです。
ぐ近い所に架かります。それで芭蕉はさっそく橋を架けるという
種ここには芭蕉の江戸に対する親愛の情、それから江
のれんも立派で、重い瓦も名月に照﹀りされてずっと広がって見え
ていづ令。
けですから、畳の上の人通りというわけです。それほどの賑いが、
てやってきて、畳の上に品物を並べて、それをみんな見て歩くわ
芭蕉はもともと伊賀上野の務で、土木担当のいわば技師でもあっ
もう駿川町のデパートメント・ストアにはあったわけです。
初雪や架けかかりたる橋の上
たということもあるから、こういう関心があったのかもしれませ
い。その木の香も新しく半分できかかった橋の上に、いま初雪が
にそり気味の橋が伸びてきている。まだ真ん中はつながっていな
ちょうど橋が架かっていて、たぶん隅田川の両岸から少し太鼓型
という値段で、木などを植えている余絡はない。通り阿の商家の
に木があると忠って飛んできたわけです。通り町は坪当たり何金
蝉が神田明神かどこかから飛んでくる。それは馬鹿な蝉で通り町
芭蕉の俳句の﹁げにや月間口千金のとおり町﹂と同じ通り町です。
とおり町うろたえてきた蝉の声
かかっているという、実に土木工事のもつあの面白さ:::。そう
並びの所にやってきた蝉は、止まる木がなくてうろたえていると
んし、﹁深川大橋半ば架かりけるころ﹂という一言葉がありまして、
いう雪と橋と、その下をいく水、それを見事に五・七・五の中に
いう情景です。これも芭蕉のころよりいっそう賑わいを増した通
江戸の景観も、やがて川柳などと同時代、宝暦のころから始ま
@フランスと江戸の文明を対等に見た待風
り町界隈の商業活動を、川柳風にとらえて見せています。
とらえ込んだ土木俳句というものです。
これほどの集約性、凝集力を持って、江戸の景観を文学の中に
表現したのは、やはり芭蕉が最初ではないかと、いま私は思って
いるわけです。
年ぐらいあとになることになります。川柳の中にも、もちろん庶
の後半に入ってです。ですから、芭蕉から数、えるとだいたい八O
めの両国広小路の夏の夕涼みのころの娠わいを、実に見事に立体
源内の最初の戯作小説の中には、隅閏川のほとり、両国橋の橋詰
﹃根無草﹄という一七七三年(宝暦一三年)に書かれました平賀
っていく戯作の文学の中によく描かれるようになっていきます。
民の目から見た江戸の姿が案外よく出ております。これも挙げて
的に描いた長い⋮節がありまして、あれは江戸の両国を言葉で書
いわゆる川柳が川柳として成り立つようになるのは、一八世紀
いくときりがありませんが、たとえば、
これもうまいもので、大通りを行くと、何本も横了が芝の海のほ
な動きがあるかというようなことを、本当にビデオ・カメラで撮
れ、どんなふうに人が歩き回り、橋の上と下とでは、どんなふう
いた文学の最高のものだろうと思います。そこでどんな肢が営ま
うに向かって通じている。だから、大通りを歩いていてヒヨツと
ったような文章です。このながれはやがて幕末になって、寺門静
横丁にひとつずつある芝の海
右側をのぞくと、あるいは左側をのぞくと、その横丁の一つ先に、
軒の﹃江戸繁昌記﹄になり、それが明治になって服部臨松の﹃東
辺りからでしょうか。それから正岡子焼の俳句とか歌、夏目散石
東京の姿などを文学に著わすのは﹃当世書生気質﹄の坪内建造の
やがて明治になりますと、明治の東京が、市区改正前のころの
て勺かどせい
いつも芝の海がキラキラと青く光って見える。これも一七七O年
京繁昌記﹄につながっていくという形かもしれません。
けんはっとり市しょ今
ごろの江戸の芝の海岸の風景をよく思い起こさせ、とらえている
川柳だろうと思います。それから、
という句もあります。駿河町というのは、もちろん駿河町の越後
の﹃描﹄や﹃一一一四郎﹄です。ヨ一四郎﹄などは東京山の子の本郷の
駿河町畳の上の人通り
屋でありまして、越後屋の上では、もうお客がたくさん群をなし
ら小インテリたち、小ブルジヨワたちの生活などもよく描かれる
だ っ て ま だ い ま 見 る よ う な オl スマンの都市計画が行なわれてい
ドンの町は立派になっていったと言われているわけですが、パリ
だロンドンの都市などは木造が多く、一八世紀の大火以後、
わけですし、それと競争するようにして書かれた森鴎外の、明治
ない。ひょっとすれば江戸のほうがはるかに都市的感性は発達さ
それが近代の、藤森さんのお話にあったような土木的な都市の
四四年ぐらいの﹃青年﹄という作品の中にも、東京はよく描かれ
﹃青年﹄という小説の主人公は、地方から出てきて初めての町、東
改造、道路計画によって、どんどん破られていった。それは近代
せていたのではないか、とも言えるのではないかと思います。
京を歩くわけです。そんなふうにして東京は文学に登場するよう
産業の効率のいい都市を作ろうとしたわけですが、同時にいま言
ったような形の都市的感性が失われてしまった。その批判者とし
われる産業革命以後の東京の破れたように聞かれた東京のだらし
閣だけではなくて、本当の庶民の暮らしといいますか、都市のい
部分、都市の光のお話をしていただきましたので、内田先生から
都市には常に光と閤があるわけです。芳賀先生から江戸の光の
て荷風がいたということなのでしょうか。
なきを、真っ向から批判するわけです。そしてこの東京の中で、
ちばん重要な身近な空間について、制り起こしを是非お願いした
に持っていて、その目に立って、自の前の近代化、藤森さんが一言
して﹃日和下駄﹄を書くのです。パリという近代都市を荷風も頭
ひよりげた
永井荷風は、東京を描くだけではなく、東京に対する批判者と
になります。
ます。森鴎外自身が作っていた﹁東京方眼図﹂というのを持って
景観も、そこに出始まった新しいお役人、学校教師、学生、だか
、
口
まだましなのは残された江戸の姿である、と言うわけです。山の
る
いと思います。
お
会
手の森、そして下町の水が東京の宝であると言うわけです。です
油
白
?
で
V
Vノ
が
、
市
から荷風にとって、フランスの文明と江戸の文明は、だいたい等
7
3
Z
フ
'
都
F
価値に置かれて、どちらから見ても産業革命以後の東京は駄目だ
という観点になっていったりする。
やはり文学から江戸東京を振り返るということも、江戸東京を
一貫して江戸東京学という形で考、えていく場合に、一つ大事な道
はの
れてきたわけですが、いまの芳賀先生のお話で、芭蕉の時代、⋮七
町は、一方では﹁巨大な田舎﹂などという一言われ方が繰り返しさ
陣内どうもありがとうございました。江戸あるいは東京という
の中心がたくさんあるわけです。ヨーロッパの都市がマーケット・
す。アジアの都市というのは、非常に多心型といいますか、都市
ある面での江戸東京の持っていた別の側面をお話したいと思いま
とつが変わりながら、全体として都市が大きく変容している気が
どんどんダイナミックに変わっている。ダイナミックにひとつひ
プ ラ ザ な り 、 シ テ ィl ホ ! ル な り が 中 心 に あ る の と 随 分 違 う の で
その時代、ヨi ロッパで見ますと、ようやくロ l マが一七世紀
世紀の後半には、非常に都市的感性が育まれて素晴らしい町並み、
後半のバロックの時代に、都市の改造を行なっていましたが、ま
はないかと思います。そういう各々の中心を中心とした地域が、
いまの言葉で言えばスラムとか不良住宅地などを中心に、
東理
独特の都市風景が成立していたということがよくわかりました。
筋になるかと思います。
内用多
田途様
雄のな
造純も
一化の
内
田
/
それから、ヨーロッパの都市などに比べて、非常に用途が混合
から、ある面では非常にカッカツな生活をしていた人たちの居住
口の半分はいたということになるのではないかと思います。です
たのではないか。九尺二間の長屋に住んでいた人たちが、町方人
している。あらゆるものがごった煮みたいにある。日本でもそう
します。
だと思うのですが、大通りに面して、お銭頭の皮の部分には大き
だと思います。それはヨi ロッパの都市が、特に城壁で閉まれて
えば、アジアの都市というのは非常に境界がはっきりしない都市
藤森さんが閉じたという言葉を使われたのですが、ある面で言
常に低層高密住宅があるというのがアジアの都市だと思うのです。
入ればスラムという言葉がいいのかどうかはわかりませんが、非
ちが出てきて住みついたという例が多いわけです。東京の空間を
住地であった所に、無宿者とか生活を農村でできなくなった人た
いうふうにできたかというと、特に非人系というか各種賎民の居
橋などというように名前が挙がっていますが、こういう町がどう
三大スラムと言いますと、下谷万年町、芝の新制町、四谷の鮫ガ
っと環境の惑い居住地がありました。たとえば、明治期の東京の
もうひとつ、江戸あるいは東京の中でスラム的な、あるいはも
地であったわけです。
いて、一杯になると城壁をとり壊して外側に都市を造っていく。
な商家があったり、ちゃんとした建物がありますが、一歩内側に
城壁をとり壊したあとにブ!ルパ i ル を 造 る と い う こ と を 、 パ リ
うな居住地、それはだいたい場末にあったり、低湿地にあったり
考えていくうえでも、江戸時代のさまざまな賎民が住んでいたよ
するわけですが、そういう所は無授できないのではないかと思い
やウィーンなどは何回もやるわけですが、それとはだいぶ違うよ
うな気がします。
むしろ明治の初期は、参勤交代の侍は帰ってしまったわけです
ます。
だ 。 そ う い う 話 を し ま し た ら 、 へ ン リl ・スミスさんという国際
し、直参の侍もいろいろ散ってしまっているわけで、町人にとっ
東京というのは臣大な田舎だ、上下水道も不備だし道路も不備
基督教大学におられた日本学研究のアメリカの方から﹁江戸の終
て生活は非常に苦しかったろうと思います。
これは身分的住み分けを蟻んに考えるわけです。それは当時の一一一日
そういう状況に対して、明治政府はどういうふうにやったか。
わ り か ら 明 治 の 初 め ご ろ の 外 人 の 書 い た も の に は ﹃ ルl ラル・コ
ミュニティーの巨大な集まり﹄と書いであって﹁臣大な田舎﹄と
いう表現はつかっていない﹂と指摘されました。
いまの言葉で言えば、セントラル・ビジネスセンターにするのだ。
葉で言えば、貧富分離論という形で、東京の中心市区の部分は、
町方の人口というのは半分ちょっとぐらいかと思うのですが、当
その部分に住んでいる貧民は追い出してしまいたい、という方針
江戸時代二一一0 1 一四O万 人 ぐ ら い の 人 口 が あ っ た 。 そ の う ち
時の幕府は、江戸の町に対して飢鐘とかいろいろな問題が起こる
で一貫して対処するわけです。追い出されてしまうという形で、
大正一五年に八七のスラムがあったうち一一年経った昭和二一
と、布施米といいますか、特別にお米などを生活に闘っている人
い生活保護の対象にするかというと、当時の幕府の記録によりま
年 に は 、 五O地 区 は 消 滅 な い し 改 良 さ れ て い ま す 。 そ の 理 由 を ひ
どんどん外へ外へとスラムが動いていくわけです。
すと、その日暮らしの者が一二O万 人 を 超 え て い る わ け で す 。 そ う
とつひとつ追っているのですが、約半数が道路区画整理とか不良
に配る、という記録が何回もあるわけですが、その中でどのぐら
すると町方の人口のほぽ半数以上は、だいたいその日暮らしだっ
改良され、あとのほほ半数が家主による建て直しだということで、
住宅地区改良事業による面的な整備という都市計画で消滅したり
したし、確かにヨーロッパではそうなっているわけです。私が江
けるべきではないかという議論は都市計画の中では昔からありま
に多様なのだ。そういうさまざまな生活をもっと受け入れていく
戸東京の空間を見て感じるのは、江戸東京の生活というのは非常
道路なり区画整理ができたというのは、それなりに当時の都市
ような都市にしなければ駄目なのではないかと思います。企業活
あとは少数例として火事があります。
計画の水準が上がったのだと思いますし、家主によるリニュアル
という気がいたします。
もうひとつは生活環境です。どうもいまは道路などの計画ばか
動だけの場にしていくことは、都市としては自滅なのではないか
というのは、共同していなくては住めなかったわけですが、そう
りが中心に置かれすぎているのではないか。もう少し生活環境の
というのも、それに見合うだけの経済力が住民のほうにも付いて
いう人たちがやがてある程度経済水準が上がって、家庭を持って、
問題、それもさまざまな生活の入り組んだ環境の務備をやってい
きたということ。あるいは明治期から大正にかけてのスラムなど
別にスラムに住んでいなくても生活できるようになって、ある両
さだ
A
Y
長た
匂注
く必要があるのではないか、と感じているわけです。
簡に
では低所得の方も都内全体に散っていったということがあると思
たり
が都
た市
く的
います。
ただその一方で、スラムの所に工場がずいぶんできてきて、そ
ういう工場の労働者に子弟がなっていくという例も、記録されて
いるわけです。ただ、スラムがあった辺りというのが現在どうい
うところかというと、住商工の混合地帯だというのです。木貨のべ
都は
市る
事か
も必要なのではないかと思ってお話したわけですが、最後に簡単
江戸東京学というものも、こういう別の視点からのアプローチ
味がある。つまりヨ!ロッパの都市、ロンドンやパリにはない空
いますが、商工住が混在していることが、非常に彼にとっては興
ております。いま内問先生がおっしゃられたアジアの都市との共
通性もある。そういう中で、用途の純化という問題を抱えている
した町の営みを感じさせる。と、興奮しながらいろいろ調査をし
力のあるうちにとにかく金融・情報センターとしての東京の基盤
わけですが、もう一度考え直す非常に重要な問題を提起していた
最近の東京の、特にウォーター・フロントの問題、あるいは道
を整備したいという思いが、非常に強いように思うのです。これ
東京への一つの本壁面ということがあると思うのです。
もうひとつ、アンダー・ワールドの作り出す文化が、江戸から
だいたと思います。
宅地は住宅地、商庖街は商庖街として、それに見合った税金を掛
してしまってはしょうがない、もう少し用途地域を純化して、住
は私たちの分野でもよくあるのですが、こんなに土地が値上がり
路網の整備の問題などを見ますと、カッコ付きの国力ですが、国
間、それがゆえに非常に彼にとっては新鮮で、そこに生き生きと
陣内どうもありがとうございました。私の知り合いのイギリス
あ
と
ザ
フ d、
に現代の問題を話させていただきたいと息います。
いまでもある面では都市計画をするには問題
にF
ルト地帯だったり
{言語《
人、ポール・ウエリ!という粁い日本学名が荒川試の町民に住んで
秀寸 P
になる地域だと言われているわけです。
陣身パ
肉体?
間違いなく大火になって、五千戸や六千戸は間違いなく焼ける。
うというのです。にんまり笑うというのは、西北から風が吹けば
部分に光を当てられたわけですが、 ま さ に 小 木 先 生 や 芳 賀 先 生 の
こういう災害を喜ぶ市民などというのはあまり聞いたことがない。
もっぱら社会、 経済の側面から、 東京の表といいますか、 基 層
文化の爾からも、 こ れ は 大 い に か か わ っ て く る 問 題 で は な い か と
それを外国人が見ますと非常に異常に感じるわけでありまして、
うなことを日記の中に書いているのです。
んでいる。こういう情景は世界中でも見たことがないへというよ
ぶっているのに誰もが生き生きとして働いている。子供までが喜
ベルツなども﹁これは本当に驚くべきである。まだ焼け叫がくす
思います。
火事もエンジョイしてしまうバイタリティ
小木閉じられているか開かれているかというのは視点によって
山子線の内側の本所、深川を入れた一五区でありますが、それが
明治二一年の資料ですが、住宅の規肢は-一一坪強くらい、これは
こういう現実があった。これは決していい形ではないのですけ
とえば住宅の広さ、現在話題になっております汐留のもとの貨物
大正七年ですと、これは市の統計ですが二⋮・七五坪、一 O年が二
大問題だと思うのですが、確かに都市計画その他の問題からすれ
駅。あれは新橋ステーションが置かれたところですが、あそこに
了九六坪ということで、二O 坪 ち ょ っ と の と こ ろ へ 乎 均 的 に あ が
れども、都市生活の中における閉じこもった意識みたいなものが
三角屋敷というものがありまして、大名屋敷がほとんどですが、
ってくる。それが関東大震災を過ぎますと、これは新築だけでご
あまり感じられない。つまり﹁宵越しの銭は持たない﹂という考
ごくわずか町地がございました。明治問年それの買上げをすると
ざ い ま す が 昭 和 二 年 に は 三O 坪、昭和三年には三七・三三坪という
ば、いま藤森さんのおっしゃられたようなことを私も是認いたし
きの資料で調べてみますと、平均的には一一一 1 三 坪 の 家 に 住 ん で
ことで、だんだん居住空間が平均的に良くなっている。もちろん
ますが、ただそれだけでは江戸東京はわからない。先ほど申しま
いるのですが、一軒の家が一・七五坪といったような小さな例もご
そのほかにスラムの問題などがありますから、なかなか単純にそ
え方がございます。
ざいます。ところで九尺二間(一一一坪)というのはどのぐらいの家
したように、多重構造でいろいろな要素が混じり合っている。た
賃かというと、だいたい大工さんですと三日か四日働きますと家
の平均値だけで物を一一一日うことはできませんけれども、言ってみれ
いか。そんな感じもしてならないのであります。
は生活の空間として近代化されてくるのは関東大震災以降ではな
賃が稼げてしまう。そのぐらいの計算になるわけです。
ではそういう人たちが全く閉じられた生活をしていたかという
と、そうではなくて、むしろその中でエンジョイしている。たと
戸時代にも土地を投資の対象にしていることがうかがわれます。
それから先ほど地上げ島の訴がちょっと出ましたけれども、江
吉が指摘しておりますように、﹁東京の町にもし火災がなかったら
たとえば寛政元年に浅草の新鳥越というところで二五両で買った
えば火災が⋮度起これば、例の明治一七年の火災のときに福沢諭
開である﹂と。
土 地 が 、 天 保 六 年 ま で の 三 六 年 間 に 八 惜 の 二C O両 に な っ て い る
3ゆ弓
また、﹁富久﹂という落語がございますが、パッと表へ出た人に
のです。それから同じ新鳥越の宝暦五年に巽った土地、 これは少
とみ・
﹁風はどっちだ﹂とやの者が聞くと、﹁西北だ﹂と言、つとにんまり笑
天保六年にまた戻ってきている。だから点々と売られている開に
ことにこの寛政の土地の場合には、最初に買った所有者が最後の
し長くて七九年間に一二・六倍に跳ね上がっているのです。不思議な
てくる宿を軸にして、みんな便利なために人が住む。平賀源内や
辺に、先ほどちょっと話が出ていた長崎屋というカピタンがやっ
﹁日本稿の文明開化﹄という本をお書きになっていますが、あの周
ら二O 分 ぐ ら い の 距 離 の 中 に 、 た く さ ん の 文 化 人 が 一 八 世 紀 後 半
鈴木春信という浮世絵師は白壁町に住んでいた。歩いて⋮五分か
関東大震災のちょっと前の記録で、大正一二年の四月ですが、
以降集中している。そういうふうに人材を呼び集めるというよう
自分のところにまた戻ってくる、というやり方。
のは多くの地方の人が買うからだ﹂と書いてあるのです。要する
﹃東京経済雑誌﹄というのに﹁近来東京の土地を高からしめている
ると岩波サロンとか、中村屋サロン、あるいはそれが拡大して馬
な要素。これもやはり江戸の特徴であり、これがやがて近代にな
込村であるとか、出端の文士村というような彩、長崎の芸術村と
に東京の土地をやはり投資の対象に地方人がしているということ
です。ですから明治以降、地権というものはしっかり確立されて
いうふうに山山米上がってくる原型というものがそこにある。
て残りの土地を区画整理して渡すということに大反対をされてお
だから関東大震災のときに二割の土地を後藤新平が公共に、そし
その泊券図がしっかり残っておりますように、きちんとしている。
ばいけない。そのためにいろいろな学問の分野を総合的に物を見
した都市の持ち味というものは、やはり目を見据えていかなけれ
れはまさに近代の一つの方向だと思いますが、江戸と東京を連続
だからある二削から見ると封鎖されたものが間かれていく。こ
こけん
おりますが、それ以前でも都市の場合には泊券というものがあり、
じゃんになるということは、私権が非常に強かったという事実を
るというような学際的研究が、江戸東京学には絶対の条件だとい
な千両的な絵が多いと思うのです。それに対してヨーロッパでは、
踏まえておかなければ理解できない。そうすると現代における経
それからもう一つ申し上げたいのは、たとえば江戸の浮世絵、
ルネッサンス以降、ム戸川敵国というものを描いてきたわけです。一千
うことを主張しているわけでごぎいます。
錦絵という独特なもの。これは関西には西川という一派がござい
両閃はもっとあとにならないと山てこない。そして建物、景観を
済的な関係というようなものが、このすべてが同⋮だとは申し上
ますけれども、ほとんどがやはり江戸で栄えてくる。江戸絵、東
非常に重視して、都市の美を強調するような絵が出たと思うので
陣内先ほど藤森さんから身分的住み分けというのがありまして、
錦絵というような江戸独特のものがなぜ発達するのか。しかもそ
すが、江戸の場合は身分ごとの住み分け、道路、土地が非常に重
げませんが、根源が江戸にすでにあった、と考えておかなければ
れが武家も町人も、あるいは絵師も彫り師も刷り師も一体になっ
要視されていたのではないか。それから敷地の中でも出券陪とい
ヨi ロ ッ パ の 都 市 と 江 戸 と を 都 市 岡 の 点 か ら 比 較 し ま す と 、 江 戸
てやっていく。ですから身分差別というものがあまり感じられな
う土地を中心にした資料が江戸では使われましたが、たとえばイ
いけないのではないか。
いような雰囲気の中で、江戸のサロンというものができている。
タリアなどでは、建物を重視した不動産の資料がよく残っている
の場合は江戸の大絵図といいますか、都市全体のトボグラフィック
非常に関かれた近代的な要素、ある空間の中に入りますと身分格
わけです。そういう点で土地に対する社会的意味といいますか、
⑧文化人が集まるサロンが江戸にできていた
式を捨て去っていくような部分。池田弥三郎さんが亡くなる前に
これをもう一度検討し直す必要があるのではないか、 ﹀}い、っこ﹀)
合もありますし、叩世阿憤的にある場合もある。たとえば﹁しょんべ
からぬ中間帯みたいなものがあるのです。それは物理的にある場
ようなことを社会に向かって訴えているものがあるわけです。
んするな﹂とか﹁犬の糞の何とか﹂とか、あるいはどうでもいい
をいま感じました。
パブリックとプライバシーの関が面白い
つまりどこかのおじさんが、社会の不道徳な人に対して言わな
くていいことを言うみたいな、ああいうパブリックとプライバシ
割合そういうところが而白かったという体験でございます。
藤森路上観察学会というのをずっとやっていまして、町を歩い
ては大変いいところで、散歩するにはいいのですけれども面白く
陣内どうもありがとうございます。﹁しょんべんするな﹂とい
ーの開の峻昧な領域に、私たちは物件といっているのですが、割
ない。わりと退届なものなのです。銀座や新宿のネオン街という
うような張り紙がヨーロッパにはないという話は大変本質を突い
ているわけですが、まず面白くない場所というのは丸の内です。
のは、ちゃんと、不オン街向きにすべてができているのです。ただ
ているなと思いました。いま務浬されたように公私の聞の暖昧な
合面白い物件が発生しているということは体験的にわかりました。
それが非常にラスベガス的な狼雑性みたいなものを意図している
領域というのは、非常に日本の都市の町並みの中で重要なわけで
それで立外と面白いと思って面白くなかったのは、銀座とか新宿
から、一見変化に富んでいるように見えるのですけれども、丸の
す。そこは住み手の個人の表現といいますか、自分が領域を拡大
に路上観察の楽しみとしてやっているのですが、その中で見ると
内と基本的に同じだと思ってください。ああいうネオン街の原理
して使えるというようなスペースで、ヨーロッパには確かにない
仕事として東京を使う時間以外の自分の時間、東京を楽しむとき
というのは、方向は違うけれども、貫徹性といいますか目的が非
わけです。その暖昧な領域というのは、やはり江戸や東京の中で
の繁華街、山手線の外に広がる郊外住宅地。戦前の震災復興期ぐ
常にはっきりしている。つまりあそこで何となくそういううきう
の森の意味ある空間になっていったのが、だんだんと合目的な空
非常に意味を持っていたと思うわけで、たとえば土手っ縁、鎮守
らいから田園調布とか成城などができてきたのですが、環境とし
りとそれに従って全部できていまして、発見の喜ぴというのは意
芳賀江戸をいつから絵にしたか。江戸を描いた絵といいますと、
新しいもの好きが始めた江戸の絵画
近代化というものにつながってくると思うのです。
なってくるというようなことになってきて、ある意味での日本の
間がつくられてくると、遊ぴ場は公園だけだというようなことに
きした気分にさせてお金を落とさせようということですから、わ
外とないのです。
どういうところが面白かったかといいますと、台東区、中央底、
特に月誌のような所、それから港区の昔の武家屋敷がいまの高級
住宅地になり、いまはオクションか何かが建っていますが、あの
辺の港一匹。これは割合私にとっては新鮮なことでした。やはり建
東京の問題が見えてきたわけです。古いものと新しいものが割合
まず﹁江戸図降風﹂というものが出てくるわけです。これは多分
築の西欧化を見歩いているときと、まただいぶ違う形でそういう
グジャグジャしているということと、道路と建物の間にわけのわ
って、 芝 居 を 見 た り 飲 食 を し た り し て 楽 し ん で い る 姿 が 克 明 に 描
姿。そしてその繁盛の下で、江戸の民衆が武士も町人も一緒にな
戸図昇風﹂、これは江戸が日本橋を中心にして非常に繁盛している
物舘にある﹁江戸図降風へそれから出光美術館が持っている﹁江
ます。いまわれわれがよく知っているのでは、同交断史民俗間
師が大名家あるいは豪商家の注文を請けて描いたのだろうと思い
たわけだから、ぜひ江戸の繁盛を捕かなければということで、絵
京都を描いた﹁洛中洛外図扉風﹂に対抗して、江戸も首都になっ
た銅版画がお手本にあったのではないかと思います。パリ、ペニ
きの彼らのお手本になったものの中に、きっと西欧の都市を描い
面白い。そしてパ l ス ペ ク テ ィ ブ と い う 西 欧 風 の 画 法 を 学 ん だ と
すのには、この都市の景観が芝居小屋とか座敷などよりもさらに
え合わせますと、やはりそのパ l スペクティブというものを生か
のに興味を持っていた同一人物によって捕かれたということを考
た。その当時、江戸を中心にして盛んになり始めた洋学というも
江戸は江戸としてその市街の景観が絵の中に描かれるようになっ
それでは絵を映してみたいと思います。
芝居も含めて、そういうものが成立してくる。
ための江戸の市民による江戸の文学とか、美術とか、文化とか、
もらっていたわけですが、ようやく江戸が自前で、江戸の市民の
それまで江戸の文化というのは、いつも上方からのお下がりを
だろうということですから、ちょうど閉じころです。
初めて﹁江戸っ子﹂という一一一一口葉を使ったのは、昭和何年かの川柳
時代という時代であります。西山松之助さんの説によりますと、
活動を始めるのが一八世紀の後半、ということで、ちょうど田沼
が一斉に江戸に集中して、その新しい地平線を拓こうという知的
た平賀源内のお弟子でもありました。ちょうどこういう新知識人
鈴木春信のお弟子と自称していましたのが司馬江漢ですが、ま
よう、というふうになったのではないかと思います。
心を持って眺めて、それならこの江戸の町もそうやって描いてみ
の新しい浮世絵の一派の人たちは非常に珍重し、面白がり、好奇
また長崎経由で入つできたりして、そういうものを一八世紀後半
中国の蘇州辺りで蘇州版画というものに一度翻訳されて、それが
中に流布する。それがおそらくオランダ人たちを通し、あるいは
葉書の代わりに一八世紀には非常に盛んになって、ヨーロッパの
ス、ロンドン、ライブチヒ、そういう町を描いた絵が、いまの絵
ではないかと思います。つまり一八世紀の後半になって、初めて
人で素姓はよくわからない人ですが、そのあたりがいちばん最初
版画を初めて日本でやった絵師がいるのですが、これも江戸の町
の豊春のすぐあとの一八世紀の後半になって、司馬江漢という銅
しばこうかん
を持って江戸の景観が描かれ始めるのではないかと思います。そ
という浮世絵師でありまして、この人あたりから江戸っ子の自覚
狭くして描いている。それを早速江戸でやり始めるのが歌川盟春
うたいかわとよはる
た形で、そういう芝居小屋の構造とか広い屋敷の向こうのはうを
風の遠近法を入れて、いわゆる浮絵という非常に遠近法を誇張し
京 都 の ほ う の 系 統 の 浮 世 絵 師 た ち は 一 七 四0年 代 か ら も う 西 欧
あまり市街の景観というようなものは描いておりません。
屋とか、料亭、役者、あるいは美人といった風俗画でありまして、
浮世絵に描かれている江戸というのは、みんな吉原とか、芝居小
して成立していくようになった。ところが菱川師官一などの初期の
ひしかわもろのゆ
すね。千葉県出身の菱川師宣あたりから、浮世絵がいまの版画と
さんの話にも出てまいりましたように、浮世絵は江戸で始まりま
うになったか。これはまたなかなか問題であります。先ほど小木
ったいいつから江戸が町としてタウンスケープとして描かれるよ
そういう格別の特級ランクの昇風絵のようなものを除けば、
かれております。
Lミ
U
円/匂
口
国橋のオランダ訟への直訳。向こうに今一戸の
士山というのは非常に大事なモニュメントで
うに富士山が兇える。やはり江戸にとって街
なところだったわけです。そしていつも向こ
これはいまの原山俗であります。原市はこん
@葛飾北斎隠自の水車
瓦焼きの煙が上がっていて、ちょうどその辺
あり、方向指示誌であり、時計代わりでもあ
﹁トゥイl ランドブルック﹂とあるのは、両
@司馬江漢両国橋の翻
がフォi カ ス に な っ て い る 。 こ こ は い ま の 東
り、お天気の予報ム口といいますか、それが見
えることによって、江戸の人たちは安心して
にしたような所でありまして、両日出橋の上を
何千という人が波っている。そしてこちら側
生活の日々のリズムをやいむことができたとい
京の、間出宿も浅苓も新宿も六本木も一緒くた
にはよしず張りの茶屋があって、火山 Tたちが
赤前垂れをして通りを行く人を誘っている。
いるのではなくて、山口同土山がいかに民衆の生
いているわけなのです。ただ山口川公山を揃いて
えると思います。それで北斎は市中らそこを揃
活には州黙の彩符を与えているか。それをとら
男女相乱れて、士農工商相乱れてぞろぞろと
江戸のご討を楽しんでいる。その家間気をよ
そして地平線が半分丸くなっておりますが、
り勤めをして帰る人たちが采っている。別に
泌し船の上には、今日一日の行商をやった
@葛飾北斎おうまや河岸より筒国体閣の夕日を見る
だと思います。
えているのがこの﹁富山泳三十六栄﹂の尚L
H昧
く出している絵であります。
司馬江漢が地球は丸いということを知ってい
たので、それを表現したのだという勝本清一
郎の説は当たっているのだろうと思います。
@司馬江漢お茶の水の風景
山口同士山を日んようとはしていない。しかし市1
初めて銅版爾で遠近法で掛かれたのを、の
いうのは、さぞかし新鮮でかつ深かっただろ
ぞき娘鋭で見たときの江戸の人たちの絞きと
いい天気だな、また明日もあそこのふ人工の仕
で知っていて、ほっと安心している。明日も
事があって、明日一日働けばまた一一一日食う分
山山が向こうに見えていることはみんな心の中
て日本人は、江戸の人間は、いずれ東京の人
う と 思 い ま す 。 こ こ で 初 め て 浮 きk がって立
間は、この江戸東京という約を立体的に把擬
の水で濯ぎ物をしている。問的川川がいかに江
が稼げると。手前のほうでは女の人が糾問川
体的に見えてきているわけで、これ以米初め
するようになった。その第⋮歩がこの絵であ
戸の人にとって大事なものであるかがよくに
ります。それで向こうにやはり出土山がある。
ああいうふうに定士山を描くことがやがて、
じみ出てくる絵だと思います。
山口附士山は 以
H 後の姿を滋紺のシルエソトで見
北斎に伝わっていくわけです。
せている。そして向こう側の家々にはもう明
かりがともっているか、あるいは夕空が向子
ごしに見えているのか。そういうところが非
常に隅問川へのノスタルジアなのでしょう。
Hい江戸の景観を発見し、描いている。
々に而E
今度は﹁名所江戸百景﹂の広重の作品。次
ぎたぐらいの問でありまして、道は泥んこで
に判例いのある問。文字通り判例いが少しありす
これもいつも水の景がある。当がある。本中ー
これが子一円、つまでもない海運橋第一一限立銀行。
@小林清親海運橋第一一国立銀行
お祭りで人たちが行列している。白木屋を
@安藤広重巴本橋還一丁目
はじめ大きな臨ん永がれ判を放べている、通り一
あります。
な外にないわけであります。これか大問題で
どういうふうにとらえられていくか。これが
よ峨んになっていく油絵のうえでは、米京は
漢のころから始まって、明治になっていよい
それならば明治になって、あるいはバ品川汀
品噛岸沼劉生銀座風景
によって次々に九八花見していった。
という的の新しい長州慨を自分対有のアングル
札讃し、江戸への'日分の受者を表明し、江戸
快絵の伝統を受け継いだ絵帥たちは、
qpを
こんなふうに浮欧絵の絵師たち、そして浮
しくなるわけです。
ありましたが、絵に描けばこういうふうに美
に、みんな笠なとで顔を隠しております。
F
丁 目 の 賑 わ い で あ り ま す 。 し か し 出 けいこと
@安際広雲自信平橋、聖堂、神田川
この近くに平行(淑内も住んでいた。神山川
の水が滋んでいて、市川山斤の十手がまだこんな
に背く、川弘仏製食のそばの坂道があんなに急
だったことも、誇張されているけれどもけん%
アメニティ、潤い、やすらぎ、そういうも
がつきます。そこに凶が降っている。
のを完備していたのが江戸であった。
きよむか
品目小林清親江戸橋タ蕃れの富士
明治になると小林清判明が登場してきで、急
速に文明間開化していく東京の中に残された江
にかけて百何十点か拙きまくる。
戸へのノスタルジアを、明治九年から一向年
向こうに北斎をそのまま引き継いでいる広
士のシルエットが浮かび上がっていて、ガス
a
一年のころの伊川劉生の
それでようやく少しそれらしくなってくる
のが、これは一九
ありまして、銀出生まれのセイキスイという
作品であります。制約生がまだ二O歳 の こ ろ で
があり、川の水の上に明かりが反映している。
灯があって、江戸橋があって、鉢巻のおやじ
急迷に変化していこうとする東京の小に残さ
たごく初めのものとパっていいでしょう。
がおそらく油絵で京奈の川がちゃんと拙かれ
住み馴れた銀座を揃いた絵であります。これ
楽屋さんの山月初品川呑の息子の劉生が、自分の
れた江戸の情緒への、江戸つ子から寄せる感
傷的ノスタルジア。それがあとで明治の末の
パンの会の詩人たち、永井荷風や木下水プ太郎
に強くアピールすることになるわけです。
の、劉伎なりの東京の川以矧慨を抗
2MM
木村技八といえば、東京のド問を拙いた、水
@木村荘八塁東符護揮し総
一一一年になるわけですが、校八のいちばんの
ル街刷出の吋以来什阿部いの同押し絵。これは山川和
本当に独
三岸田劉生切り通し
くようになるのは、大正一一年に彼が代々木に
が問ヘム向かってどんどん新開発されていく、
引っ越してからでありまして、これが、氷点
ていて、向くて、迫力がなければいけない。
常にし仏体的で、線級で、重くて、ずっしりし
油絵で揃くためには、都市というものは非
傑作。
らやはりこれも大事な求心爪の絵だと-川、えると
ところがどうも油絵で捕、﹂うとすると京京が
その途上の姿を挑いているわけです。ですか
八一比例年
L
る石ころ、向こうに切り取られたばかりの切
たちでさえも、い米京をよく揃くことができた
反ると、日本の同家たちも附欧闘をやった人
ところがやはり浮附絵的な伝統にちょっと
ったわけです。
みんな都市を捕くためにパワに出かけてしま
そう見えなかった。日本の油絵姉きたちは、
思います。
令月一五日という日付けも入ってねります。
これが有名な切り通しの写生で、
小山信柱が赤土のk に 実 に や さ し い 影 を 洛 と し
ておりまして、この泳ト Lの州むような感じ、
り通しの山花が見えている。こういうところに
。
ので占1
そこにベタッと生えている雑巾、転がってい
大正問年の京京があった。
@川瀬巴水深川上の橋
のを通して求心爪をまた別な日で兄る動きが山
か、明治問三年から始まる内織とかというも
ころに、明治問一年からのパンの会の動きと
ばんいい作品は大災災広前の大正-︿)年のこ
は第二次大戦後まで作品を作りますが、いち
この山水の作品をもって終わりになる。己水
で江戸以米綿々と続いてきた浮欧絵の伝統は、
日以後の浮欧絵師川瀬む水の作品です。ここ
@木村荘八パンの会
てきた。東京をパリやロンドンなどと比べな
ゴカバ﹂というシリーズの作品であります。
ろに掛かれました﹁氷点今守山出﹂とか﹁東京
この劉生のような新しい凡方が山山てきたと
がら見るという見方が人ってきて、それが伊
あります。しかし実際は、これは一九ョツ八年、
だった木村治八が始きましたパンの会の絵で
思います。これは劉伎の少年時代からの友達
ジアを持って、揃いているわけです。
た江戸の迎。それへのいよいよ強いノスタル
絞れたように問かれていくボ京の中に伐され
よ い よ ス ブ ロ i ルし、総本品川m
u
N川流に一-一一川、えば、
これは﹁深川上の続﹂という作品ですが、い
A
川劉生のようなとらえ方を促す、﹂とになると
でありますから、その手同気を伝えるのみと
昭和三年になってから洲恕されて摘かれた絵
ヨ叶えると思います。
やがて藤森さんが観察するのにふさわしいよ
ンになりながらもあちこちに妥みが山てくる。
一生懸命近代化しようということで、モダ
@長谷川利行地下鉄ストア
自覚しているかのように、あと二年後には大
まるで、﹂ういう景観が失われていくことを
@川瀬田水大根河岸
震災で瓦解して、すべてこういうものはなく
うな東京がつくられていく。
これは、大きな時計があって、そこに地下
なってしまうことを予感しているかのように、
り抑も別にいた。その三人がちゃんと協力し
あります。このころは佐伯祐三などはパげに
それを歪んだままに揃いたのが長谷川利行で
になりながらも、懸命に頑張っている東京。
鉄ストアとある。こうやって奈んでかタビシ
てこういう作品が作られたわけですが、この
行って、一生懸命にパリを怖いているのです。
巴水は絵師でありまして、まだ彫り師も刑制
川瀬巴水は大正九年﹁火根湾岸﹂を描く。
絵師と彫り師と刷り仰の組合わせが震災後は
馬江漠あたりに始まって、この松本竣介に終
たのがこの松本竣介です。江戸東京の絵は司
そして最後に、戦前から戦中の東京を拙い
@松本俊介二コライ堂と聖橋(上)
ころによく出ているとも言えると思います。
尚早いんでいる東京の姿が、かえってこういうと
いた。東京のあえぎ苦しみながら近代都市を
ちが、こうやって残って東京を描いたりして
フランスに行けなかった本当の貧乏の画家た
何か洋画家たちは東京に愛情を持たなかった。
崩れてしまうわけです。
すf さえ、命かた
今度は鏑木清方でありますが、清方も一一一川、つ
晶聞鏑木清方銀座金沢亭
までもなく江戸生まれのいは戸つ子の絵師であ
りまして、これは﹁銀夜金沢亭﹂というもの
いた江戸東京の姿は、みんな思い出の絵ばか
で、一九二六年であります。しかし清方の描
りであります。もう日の前には清方が揃きた
いようなものはなくなっている。描くものは
みんな思い出の中の幻戸。
これは昭和一六年の絵であります。持たんた
わると一⋮一一日ってもいいようなものであります。
る東京、本当に物悲しい東京が捕かれており
きょうのなかった洋同家がやっと揃いてくれ
ます。戦争がいよいよやってきてどこへも行
たこんな東京だった。
一九回二年、昭和一七年であります。山系に
@松本俊介議事堂の見える風景(下)
時たんたる感じで、人影もあんまりない。
けていって、向こうで油絵を描いている臼本人の絵描きとだいぶ
陣内どうもありがとうございました。私もイタリアなどに出か
絵を通して言える東京の特徴かと思います。
世絵の伝統に一反らざるを得ないような町であったということが、
からあまり好かれなかった。そして東京を描こうと思うと結局浮
東京の一つの特徴であるかもしれません。それから油絵画家たち
芳賀こんなふうに油絵になりにくかったということが、やはり
のは大手のディベロッパ i が 入 っ て 、 か な り ク ー ル な 計 算 を し て
る。それが山の手のほうの、たとえば表参道とか代宮山などのも
みこなしてきたからこそ、みんなで意志一致をして再開発ができ
り好きになれませんけれども、下町でそういうふうにみんなで住
のが再開発が行なわれるわけですが、私はその再開発自体はあま
が随分残っていますけれども、今度中の郷という押上のそばのも
自治会が中心になって本当によくやっている。いま開潤会の建物
がするわけです。どこかが壊れれば一生懸命にそこを修繕する。
本当によくみんなでコミュニティで住みこなしているという感じ
﹁あんたは得だよ﹂という形でやっている。それについては随分違
は全く描こうとしないのです。最近、写真家が外国の写真も撮る
し東京の写真も撮る。だから写真というもう一つのメディアを通
うような気がするわけです。そういう商で、下町の、あるいは九
知り合いになったのですけれども、彼らはいまでも東京の絵など
じて、東京がまた違う角度でとらえ直され始めたかという感じも
尺二間の長屋の生活というのは、それはそれなりに非常に生活的
はないかという気がします。
な意味ではしたたかに、またコミュニティとして生きてきたので
しております。
ネガティブなものが文化に深味をつける
多くげんた
それから悪というのは同時にプラスイメージも持っているわけ
あると思うのです。私は先ほどどちらかといえばネガティブにス
すけれども、間同じように文化の問題でも非常にそういうところが
ういうふうに、一方でいえば庶民はしたたかに生きてきたわけで
に人々が嬉々としているというお話をされたのですけれども、そ
ですからそういう単なるネガティブなものではなくて、非常に江
やはりそういうところを抜きにしては語り得ないのではないか。
べてある商では被差別民によって行なわれていて、文化の両でも
よ、日常的な雑芸能の獅子舞とか猿回しとか、そういうものもす
うふうに、やはり江戸の吉原にせよ、演芸であった猿若三座にせ
ですよね。惑源太などというふうに、強いとかすばらしいとかと
ラムの問題をしゃべりましたけれども、たとえば九尺二間の長屋
戸東京の文化に深みを与えていたのではないか、ということを補
先ほど小木さんがベルツのことを例に挙げて、火事の直後
などは、当時の様々な文献を見ますとこざっぱりときれいに維持
足しておきたいと思います。
丸の内も生活臭があれば一面白くなる
前野東京芸術大学の前野でございますが、先ほど丸の内が面白
(東京袋入ー)
管理されているわけです。スラムはちょっとまた別ですけれども、
たとえばいまでも月島の長麗街を見ますと、非常にきれいに盆栽
などが飾られていてきれいです。昨年、問潤会の鷲谷アパート、
ら相談を受けて、﹁民聞のディベロッパ l が建て直そうと盛んに一一一日
くなかった、山の手郊外の住宅地も面白くない。銀座、台東、月
も う 建 っ て 六O年 ほ ど な の で す け れ ど も 、 そ こ に 住 ん で い る 方 か
ってくるけれども、どうだろう﹂という話をしたのですけれども、
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売さん
内
田
島が面白かったというお話がございまして、さもありなんと思っ
っている小木先生、何か一一言締めくくり的なことをお願いします。
者でおられて、江戸東京捧物館の展示構想の取りまとめ役をなさ
外住宅地にもそういったものが見当たらない、丸の内を面白くす
同時に、一つには江戸東京というのが、やっぱり全国に支えられ
小木私は、大事なのは、東京のそれぞれの時代の特徴を出すと
生活にゆとりをとり戻し東京をもっと楽しく
たわけですが、実は五月三日に丸の内を描く写生大会というのを
の内の面白いことか。藤森さんがさつき面白くないとおっしゃっ
やりまして、二千人の子供から老人までが集まりました。何と丸
るのはやっぱり生活臭をもってくる必要があるのではないか、あ
ながら発展してきた都市だということを、きちっと位置付けたい
たのは、よくよく考えてみますと丸の内に生活の昧がないし、郊
の辺の建物の一階をずうっと見てまわりますと銀行ばかりあるた
という願いを強く持っております。
に重要なのだなということが、いまの前野先生のお話でも非常に
に日本の都市にはふさわしくない、やっぱり人けというのが本当
ものは、人が本当に寂しげにというかぽつんといるだけで、まさ
一緒になって町らしさが生まれているのに、悲劇の東京の戦前の
いうのは必ず人けがあって、人と建物、物と自然みたいなものが
が映された絵の中でも、明治になっても描かれた浮世絵的世界と
陣内どうもありがとうございます。確かに、先ほどの芳賀先生
もっと面白くなるし、絵の材料にもなってくるだろうと思います。
ま で あ の 外 輪 加 が 通 っ て い た 。 明 治 の 三0 年 代 に は あ の 外 輪 船 の
それを客船まで出すようになって大繁盛するのです。昭和の初め
か と い う と 、 仙 台 の 米 を 江 戸 に 述 ぶ ルlトであったわけですが、
船 は お 客 を 乗 せ て 銚 子 ま で 行 く 。 そ れ は も と も と ど う い う ル iト
にあったわけです。あれは実は銚子に通っているわけです。外輪
川をちょっと下って小名木川に出る、その小名木川の絵があそこ
が始まったのは明治からです。浅草を起点にいたしまして、隅田
図が出てきました。あれに外輪船が出てまいりましたが、外輪船
先ほど芳賀先生の映されたスライドの中に、清親の小名木川の
めに、人が寄り付かない。あそこをやっぱり臨底街に開放すべき
よくわかったと忠います。
た。その仙台の米を江戸に運んで、そういうササニシキの先住み
造船を増やしていくというようなことをやったりした時代があっ
だし、あるいは喫茶庄テラスなり何なりでやれば、丸の内はまた
芳賀先ほど挙げましたような曲家たちは、皆それぞれにやっぱ
たいな米を、われわれの先祖は食っていたのだという。一日五合
それから先ほど文化の問題でちょっと芳賀先生もおっしゃり、
ずつ大工さんなどは食べていた。そういう生活のおりみたいなも
その芸術と都市が両方活きていくのではないかと思います。ルノ
私もちょっと触れた全国の優秀な人物が江戸に集まり東京に集ま
りその時代の前衛の曲家たちであったわけです。⋮方ではそうい
アi ル に し て も マ チ ス に し て も 、 マ ル ケ に し て も 、 そ れ ぞ れ や っ
る。これはいまでも変わりはありませんが、しかしそれと同時に
う絵画上の新しい試みによって、新しい試みをするために、いま
ぱりその時代の最先端の画法を自分で編み出して、それにふさわ
諸国の国産と中しますか、たとえば薩摩焼きであるとか萩焼きで
のが全国をパックにしながらいるということ。
しいパリをその画面の上にとら、えたというのであろうと思います。
あるとか、そういうものを大名が江戸へ持ってきて、江戸のお城
まで人が気づかなかった東京が発見されるということがあると、
では時間も非常に追ってきましたので、江戸東京学の提哨
陣
内
小中ノド ~W~況が Jiiい、たタト申it荷台
ρ
o
q/
臼
に行っても譜代以外は用はなく、お茶を飲んで帰ってくるだけで
おります。
問題点、そういうものがはっきりしてくるのではないかと考えて
どうもありがとうございました。ただ過去のこととして調
ありますから、そのときに自分たちの物産を交換し合う。人に差
し上げる。それが評価されることによって、また闇産が盛んにな
して意味があるのではないかということが、多少なりともおわか
非常にひとつひとつが示唆に富むという、そういう今日の学問と
べるというだけではなくて、現代の都市の問題を考えていく上で、
その中で失っているものは何かというと、斎藤月本が二時間ほ
る、というような機能を、いまも昔、も変わらず持っている。
ど名主の仕事をして、江戸中を歩き回っている。その行動半誌と
法政大学の出中優子さんが﹃江戸の想像力﹄というすてきな本
りいただけたかと思います。
実にこまめによく歩いている。しかし歩きながらソパを食べたり、
の中で、江戸の文学、文化というのはつないでいく文化だ、連鎖
i03-.!8ト:, ;
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-参加ご希望の方、詳細をお7:
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:1)¥、介わせトーさ L。
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いうのはまことに狭い。七キロ四方ぐらいのところでありますが、
あるいはスシを食べたり、まさに都市生活をエンジョイしている
する、イメージをつないでいく、その中に豊かな展開があるとい
いろヒントに富む場面場面、一一一一口葉がたくさん散りばめられたと思
ということが言えるかと思うのです。外輪船で二日もかけて銚子
皇居の周りのあの美しさというようなものは、仕事をしている
いますので、皆様方が個人個人で、その気に入った場面、絵柄を
うことを言っていて、まさに双六的なんです。今日のお話もいろ
ときには全然気が付かない。しかし、あそこをゆっくり景色を眺
まで出かけていくような、ゆとりではないか。
めようという姿勢でものを見たら、こんなに美しい緑があるとい
はないかというふうに考えております。五らぬ点も多々あったと
思いますがこれを以てまとめにかえさせていただきたいと思いま
結んで双六的に理解していただければ、今日の意味があったので
まだ臆された面、先ほど丸の内のお話がございました。われわれ
す。どうもありがとうございました。
うのは、他に例がないのではないか。そういう都市の持っている
も丸の内の研究というのを一一一年ばかりやってみて、いまよりもも
っと丸の内界隈に活気があったのは、昭和の初めの神田から丸の
大坪(財団専務破事)今回のシンポジウムをうけて、次は七月に、
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のシンポジウムにひきつづき、 i
大の I
人]芥で!HI
Hl,いたします。
第 2s
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J r都市化主I
会のなかの住居 J 7)J9IWう9
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3
0分 午 後 5
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3
0分
第 3回「明日のすまいを求めて J(
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3
0分
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内を腰弁街道と一一高われた時期が、いちばん都市としての丸の内は
これは主に現在の都市、東京というようなものの中の守まいとい
活性化があったというような感じがするわけであります。実は今
日もお見えになっておられた践原先生が軸になっていま東京ルネ
られてくれば、また非常に楽しいものになるのではないかという
う問題にスポットを当てましての、シンポジウムを開く予定にな
ただしお祭りをやるのではなくて、相内か後世に残るような形で東
ふうに思っております。今日ご米州場の皆様方も、もしお時間がご
ッサンスというのを考えられています。これは二年後に、家康が
京だけではなくて、世界に広がってやろうではないか。そういう
ざいましたら、ぜひまた次のシンポジウムにも参加していただけ
っております。今日のお話が、また何らかの形でそこに散りばめ
ようなことが考えられている途中でございます。したがって皆さ
ればと、お願い申し上げます。
い安二つのスパンと考えて、東京にいろいろなイベントをやろう。
んからいろいろなお知恵をいただければ、ますます東京の良さ、
入 府 以 来 ち ょ う ど 回O O年 に な り ま す の で 、 そ の 前 後 八 年 間 ぐ ら
*
トータルテーマ「都市のすまし ¥J 於/迷築会主i'iホール
創立4
0潤年シリーズシンポジウムのお知らせ
陣
内
品
十
図解東京資料探索
どこの機関にどんな資料が揃っているか、 そしてどう使えるのか:::ニつの具体例をひいて紹介してみると
官
官
F
昆
Z
E早
稲 東
京
東京は情報をたべるパクのようなものである。日々情報が取り込ま
①は、基本資料として泊券同、地日仏凶、住宅地凶、向業地凶等の地
μ
司見町かつかないが、ともかく考えてみたい。
舘
れ、消えて行く。中には活字や映像になって記録に初められるものも
凶類、地価表、地側公示倒的約、上地取引文書、上地告代以価物表一等の地
側関係文書、地籍台帳、地主名簿等の名簿類、航空写真、街路の写真
都
東
京 立
公
E
司 文
ある。こうして記録に溜められるものの中にも、拾てられ忘れられる
書
官
ものがある。一台、そうしたものの方が圧倒的に多い。忘れられたもの
のをチェックすることとなる。どれ位これらの資料を集められるか、
等の写真・凶版類がある。これらの中から剥べる地点が絞っているも
主
誓
門編として、記録に沼められ整現されたもの、つまり目に見えている
P
9
を捜し出す。ここにこそ資料傑索の醍醐味があるのだが、ここでは入
初覧できるかが勝負の分れ目となる。②は上地の売山共事併が豊富にわ
かることが望ましいが、それはまず無埋だ。そこで、こうしたことが
専
のことを何か誠べるということから始まる。
そ日都東京京京高 特 政 府f
新
主日大東京 都
の本技
手
学
十
日1
本宅
市
ものからとりかかりたい。東京関係の資料を採すということは、東京
かりに資料を繁いで行くことになる。新聞聞記事、雑誌記事が最初の有
社会問題となったり、犯罪がからんだりした事例を集め、それを手掛
,ョ
東京のことを調べる。ここでは、その調べ方のアウトラインを述べ
吉
宮
てみたい。話を具体的にするために、まず、最近話題になっているこ
種
んこれらに者かれた論文、記事があればそれにこしたことはない。そ
力な資料となる。江戸時代はまた別な調べ方が必要になろう。もちろ
宜
官
名
とに関連した質問をふたつあげてみたい。
主
宰
公
文
寄 答
舘
文
土地についてのこつの醤簡
①中央区銀座二丁目七番地の、江戸時代から現在までの土地の所有者
と建物、地価の変遷について。
ついて。
主
宮
宰
古
間
喜
実
善
十
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古
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専
政
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エ室百査会聞
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岳東京の土地ブローカー、 地上げ尽の起源、 そ し て 現 在 ま で の 変 遷 に
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大
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こうした問題について、 そ れ ぞ れ ど の 位 わ か る も の か ? わ た し 自
表 1
東京関係資料主要所蔵機関・
図書館一覧
ム
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門
官
官
大
串
港区立みなと悶慈館郷土資料室
箇.
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盟会図主宰館
新関きり抜き主主
国立国会図傘館・都立中央図察館各主主霊室
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昭
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1
(
)
可
こでこうした事例を念頭において、東京関係資料の誠査の仕方を述べ
都立中央図番館策京室
てみたい。
各穫専門図書書館・資料室
おもな資割前蔵機関と使い方
専門的憐報・資料
表ーを阿んていただきたい。これは、東京関係のおもな資料所蔵機
関・閲書館をリストアップしたものである。建築、住宅、都市計画関
係 に 焦 点 を 当 て て い る 。 表12は、その山中かおり所蔵資料が多いものを
は 、 研 究 者 が 東 京 関 係 資 料 を 探 す と き の 検 索 ル l卜 を 図 式 化 し た も の
中心に資料提供方法、資料検索方法についてみたものである。阪ー
である。研究者、特に専門図書館協議会所属の資料窓を使える人は、
専門図書館協議会のネットワークを使って、一般市民よりはるかに容
易に専門的情報・資料を入手することができる。専門的研究機関・資
各種デ!?│ベース
出版されてから 5… 7:1'.;まで|持'l~l~
1
1幕府 J}Iき都ぎ文汗もある
料室のオンライン端末を使って、例えば三菱総合研究所が開発したシ
ステムによって国会臨書館の所蔵情報を入手することができる。
。
資料の効率的な入手という点から、図表について少し説明しておこ
よノ
表ーでは、それぞれの資料所蔵機関の資料の内容の遠いに注白し
ておきたい。例えば、公共図書館は多くの資料を持っているが、専門
的な資料は少なく、一般市百底に流通している図書と郷土資料が中心で
あ る 。 表! 2で は 、 資 料 の 効 率 的 入 手 と い う 点 か ら 、 コ ピi、 写 真 級
いつも使う資料家には必ず備、えておくようにしておくことだ。個人で
日里子市立図警宣宮市政図髪室
地域情報・資料
7
咋1
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1附 1
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:館協議会のネソトワ
一般国警・情報
影ができるか、冊子自録があるかどうかが問題だ。冊子目録は自分が
ファクスで送ってくれる。もちろんそれなりに金がかかるが。この点
になれば電話をかければカードの検索をしてくれるし、必要なものは
こ こ に は な い が 大 宅 壮 一 文 庫 は 六O万 件 の カ ー ド を 持 っ て お り 、 会 員
を得ることができるので、どういうものか日頃から注意しておきたい。
システムは、新聞記事の切り抜きの検索システムとともに貴重な情報
は新聞社でも同様で、例えば毎日新聞はサービスコーナーで電話で記
は入手できないが、資料室なら入手できるものが多い。雑誌記事検索
事があるかどうか調べてくれる。記事を見るときは、質問一件二000
1 東京関係資料検索ルート
中央区立京橋凶警館郷土資料室
江 東 区 立 深)
1
1包]筆書館郷土資料室
図
'J4Y4F4u﹄
なし
マク作成中
×
あり
冊子体の形式
もコトム
の形式
円、記事複写一枚一 O O円という具合に金を取られる。情報は、
まで
図ーーは、資料にたどり着く経路を図式化したものだが、なにごと
介類カード
がかかるものとかんかえておいた方がよい。
×
1
9
6
9年
も入り口が肝心だ。専門的情報・資料を必要とする人は、まず身近な
なし
あり
著者名
資料室に行って係員に相談して、備、ぇ付けの文献目録・索引類、オン
×
分類
ライン端末を駆使して資料所在状況を把揮することだ。資料の所蔵機
キイワ
関がわかったらその利用方法も調べてもらうとよい。また、必要なら
専門の研究者を紹介してもらうのもひとつの方法である。こうして問
入り込むわけである。なお、これ以外にも資料所蔵機関は沢山あるの
題 の 性 格 、 必 要 と す る 情 報 ・ 資 料 の 形 態 ・ 性 格 に 応 じ て 検 索 ル lトに
で、﹃特殊コレクション要覧﹄、﹃類縁機関名簿﹄、﹃専門情報機関総覧﹄
などであたりをつけることも必要だ。
次に、主要資料所蔵機関・図書館の所蔵目録にどのようなものがあ
るか、簡単に紹介しておきたい。
所蔵目録にはどういうものがあるかっ・
まず、東京市政調査会市政専門図書館の﹃東京に隠する文献目録﹄
2
なし
×
あり
著者名
あり
なし
八 六 年 版i 、 吋 地 方 自 治 関 係 雑 誌 文 献 索 引 ﹄ 件 名 編 一 九 八 六 年 版 そ の
特 別 区 協 議 会 資 料 室 は 、 ﹃ 特 別 区 協 議 会 資 料 室 資 料 目 録 L件 名 線 一 九
一を出している。東京都立中央臨書館は、東京関係では東京室と特別
文庫の中の﹁東京誌料﹂を持っている。東京室は明治以降の刊行物を
高工図書書館
三四七 p m mを 取 り 上 げ た い 。 こ れ は 、 分 類 目 録 で か つ 書 名 索 引 が
五東京都
iιit--
み可
あり
会員の
出納
東京商工会議所
東京市政調査会首都研究所縞東京都企画誠整局調査室一九六六年
ないという難点があるが、資料の豊富さという点では他の機関の追随
RM
録類を一度は目を通しておきたい。ここが持ってい
を詐さない。国立国会図書館は、さすがに資料の数が多い。東京関係
も少なくない。
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年千J
あり
はともに、最新の情報を中心に資料構成をしている。ともにコンピュ
い。公文書の簿冊目録は﹃東京都公文書蔵書悶録﹄第一
一九六
公 文 審 舘 一 九 七 回 ! 一 九 七 八 年 五 冊 目 mが あ る 。 東 京 都 発 行 の
jlili--
五年刊行中で見られる。特別区協議会資料室、都民情報センター
刊行物については﹃東京都公文書館斤内刊行誌目録﹄第一
昔
日
目
×
×
×
出納
×
ータを導入している。都民情報センターは、﹃資料もくろく﹄各年版を、
表
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とができる。東京都公文書館は、東京都及ぴ東京市、府の公文書と公
一九六九年一二冊に細目を見るこ
る旧幕府引継書は、江戸町奉行を中心としたもので﹃旧幕府引継審問
イ牛名
資料室
介類
は一部可
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×
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問書館へ
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国立国会図察舘
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子行政専門図望号館
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書
名
…昔日開
×
出納
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東京都公文芸書館
×
特別文庫
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都立多摩図言書館
出納
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図書書館
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昔日開
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都立中央図芸書館
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国主書館
東京室
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東京市政調査会
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国立公文芸書館
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雑誌記事索引
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資
資 料 提 供 方 法
冊子体
自 主
カード
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撮影
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館外
貸出
提供
方法
一般
刊資料を保存している。公文書は件名目録がないためひどく使いにく
録 ﹄ 直 立 国 会 図 番 館 一 九 六O
東京関係主要資料所蔵機関・問書舘資料提供方法一覧
弓今d
ハ
U
収集の対象としている。﹁東京誌料﹂は、近世資料が中心で明治則は少
ない。これらの所蔵資料は﹃東京一一路料分類目録﹄そのてその二、追
加東京都立臼比ハ合一凶審館一九五九;一九六三年口一冊目師、﹁東
人のネットワークも忘れては・
八 一 年 六 九 九 p m mに見いだすことができる。新収情椴は﹁東京
絵、似叶風絵、名所凶等、さらに近代以降の写真は、あまりいい索引が
関係資料に当たることになる。間版、
地問目録や所蔵目録を使って、治券関、地符川間など、また名簿、地側
ここで訴を円以初の設問にもどそう。①は、これまで相介した
室月報﹂がある。区立図書館では、﹃東京都江東区深川函番館郷土資料
さて
総目録﹄昭和五八年三月現在東京都江東区立深川箇繋館一九八三
できていない。写真宗引は、 HK近悶会閉会館が作ったがこれは人に悶の
京都立中央図番館所蔵東京関係国審問録﹄東京都立中央呂番館一九
年 二 三 四 、 六 一 P 幻問、﹃中央区立京橋図書館郷土資料室所蔵地域
写真集を対象としたもので、心米京関係はわずかだ。戦前、十米氷山立級
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銀座文化研
いうものを作っているが、この戦後版があれば解決する。なお、銀山肌
p n 酬と
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↓
パが一茶難しいだろう。浮険
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資料目録﹄一九八三年三月末現在中央区立京橋図番館一九八四年
河台凶作い μ
館が﹁東京地誌絵函写真索引一白一九一一一六年四一
の近代の地問については尾崎叫倣美﹁銀座の審誌﹂その一
このほか注gす べ き も の と し て 、 港 区 立 三 回 図 書 館 の 三 間 図 書 館 ツ
一一一月二九四 p m m がある。
ールズ︹第二第一⋮二﹃江戸箇年表稿判記年別江戸泊所在目録ノー
究
一 号 一 九 八 六 年 一 O Rの
ふ
ハO j六 八 沢 に 解 説 が あ る 。 ② は 、 火
ι 戸東京
ト ﹄ 港 区 立 三 国 図 番 館 一 九 七 三 年 一 一 三 八 P お×訪問、 J
てはわからない。なお、新聞記事で注目しておきたいのは、日本都市
はないか。近代はそれでなんとかなっても、近附一は研究者に出かなく
a
文隊の件名索引、新聞記事などをたよりにさがしはじめること
になろう。これは、不動段関係の研究機関に照会することになるので
宅壮
b
七 七 年 六 二 P お叩)をあげておきたい。﹃江戸東京地誌検索﹄は、
地 誌 検 索 ﹄ 一 九 七 五 年 一 一 凶 P お師、﹃江戸東京研究者名簿﹄一九
資 料 を 検 索 す る と い う と こ ろ に 主 限 を 置 い た 目 録 で あ る o﹃江戸間年表
センターの新聞切り抜きである。これは、 N I R Aの 委 託 研 究 ﹃ 新 開
稿刊記年別江戸図所在尽録ノート﹄は、三凶図書館、東洋文席、東
京都公文書館など八つのコレクションの総合目録で、江戸凶目録の決
以上、ごく簡単に資料検索方法について述べてみたが、いずれにせ
にみる社会資本終備の一除史的変遂﹂明治大正期、昭和則をまとめた時
よ効率よく探すためには目的とする分野の資料のありかを知って平く
作成したもので、研究者には公開されている。
たどりつくことである。同時に、できるだけ多くの人のネットワーク
定版である(なおこれは今年二月末に刊行された吋江戸図の歴史﹄築
一一九 P M m が ま と ま っ た も の と し て あ る 。 そ れ ぞ れ の 地 図 に 詳 細
国には、﹃都政史料館所蔵東京溜巨録﹄東京都都政史料館一九六八年
を立識的に作ることも忘れてはならない。的阪のネットワークは一洲、
地番館の別冊﹃江戸図総覧﹄とほぼ同じである)。明治以降の近代東京
文書館である。一九七一年には﹁東京都公文番館江戸図目録﹄も刊行
探索する場合にもあてはまる。十米京関係の研究おの名簿は過去に幾度
人のネットワi ク で あ る と い わ れ て い る が 、 こ れ は 東 京 関 係 の 資 料 を
な内容細目が付けられている。東京都都政史料館は、現在の東京都公
なお最近、東京関係では、都立日比谷間書館が﹃東京の地価と住宅﹄
されている。東京都公文書館は、東京関係の地閣の宝庫と一一一一日ってよい。
ーティなど人の集まるところでは忘れず治川したいものである。
か作られたことがあったが、最新のデータに基づく名簿を作成し、パ
一九八八年一月)を特別区協議会資料室
(﹁新関雑誌記事案内﹄ M
m
η
(おおくし・なつみ/ボ京都中央附九館)
が﹃資料案内﹄ M
m叩 一 九 八 八 年 三 月 で 東 京 問 題 、 都 市 計 画 ・ 再 開 発
を特集して出している。ともに小冊子である。
七月四日(月)
1八日(金)
建築文化適留のご案内
建築会館ホ l ル・展示コ i ナl
⋮本的には変わることなく継承されてきた下町が、このように激
⋮変する姿は、まさに東京にとってショッキングな出来事であり
の噂は、東京へ⋮造先生に相談をもちかけたところ、自由な交流の場の﹁サロン﹂
参加方法
H
関東地区大学日校の優秀作品オリジナル原図展
閥幽
PARTN ﹁大学優秀卒黍設計原凶展﹂
来を知る
圏PARTm ﹁ステユ│デントセミナー﹂
砂どこに進路を求めるか建築界の現状と将
.第四日/七月八日(金)住まいの法律
講師・穴道恒信(山八道建築設計事務所所長)
・第三日/七月七日(木)住まいの管理
講師一吉阻停郎(仁学院大学助教授)
講師一村上美奈子(計画工房所長)
・第二日/七月五日(火)一一世帯のための住まい
講師.祖国武文(芝浦工業大学教授)
-第一日/七月限白(月)これからの住まい
開 議 時 間 一 問 時l ⋮六時
圏PARTH ﹁公潟市民講座日期﹂
現代家相学 PART2叩﹄れからの住まい
建築のヴィジョン
園PARTI ﹁建築夜楽校日期﹂
います。
激動する下町に、﹃江戸東京博物館﹄がまさに建設されよう
一園都﹁江戸東京博物館﹂も動き出している
⋮としています。この博物館建設の狙いの一つには、﹁文明開化
小木新造、内田雄造、陣内秀信の三氏の呼びかけによっては⋮的な実験場﹂、あるいは﹁青雲の志をいだいてくる人たちの都﹂
じめられた﹃江戸東京フォーラム﹄は、今年の四月で二十回を⋮としての東京像を描いていくだけでなく、むしろ、東京で生活
の研究者もすでに三十名に達し、ますます自由間違な意見交流一東京という都市空間の中で指き出していくことにあります。
数えることになりました。この﹁集い﹂に参加する多分野から・している人びととその周辺で江戸東京が連続してきでいる姿を、
の﹁場﹂となっております。この集いは、昭和六十一年七月七・この﹃江戸東京博物館﹄については、江戸東京の系統的な都
日、﹁七夕﹂の日に第一回が関かれました。まさに、﹁江戸﹂・市研究を行なうセンターとする意向が、東京都側から打ち出さ
と﹁東京﹂を橋渡しする﹁場﹂のはじまりとしては、実に魅力⋮れつつあります。その一方で、江戸東京博物館を外部の同体が
閤一極集中、激動の東京にあって⋮江戸東京を系統的に研究する組織は見当りません。
的な日が選ばれたのではないでしょうか。しっかりとした形でサポートすることも望まれますが、いまだ
ところで、﹃江戸東京フォーラム﹄の発足当初の東京におい閣そして江戸東京フォーラムが発足
て、二十一世紀を占う章一要な変化、動きがありました。昭和五⋮ちょうどこのような時期に、内問雄造、陣内秀信泌氏が、財
十九年ころから、都心五区(千代凶区、中央区、港区、新宿区、⋮凶法人・新住宅普及会において、江戸東京の資料収集をはじめ
渋谷区)では地価高騰の狂乱ぶりが表面化し、東京一桜集中構⋮ていました。それを一つのきっかけとして、この研究所に江戸
4
造の歪みが再び浮き彫りにされだしました。この地価高騰の引⋮東京に関する情報交換の場ができないものかと、雨氏が小木新
金ともなった汐東京都心部のオフィス床不足
の業務集中化を促す結果にもなってしまったのです。国際的にいとして、﹃江戸東京フォーラム﹄を開催することになったわけ
も、東京はニューヨークやロンドンと並ぶ﹁国際金融・情報セ⋮です。そして、江戸東京の研究者でその主旨に賛同していただ
ンタl ﹂ の 地 佼 も 確 立 し つ つ あ る と い う 記 事 が 、 新 聞 の 紙 面 を い け る 方 々 に 、 毎 月 一 回 ず つ 集 ま っ て い た だ く こ と に な り ま し た 。
賑わすことになりました。東京における現実の奈みを回避する⋮闘策京ならではの特長を生かす
i 申込みいずれも先着服(ただし、 P A R
T m ﹁ステュ iデントセミナー﹂については
所定の申込方法による)
方策として、バラエティにとんだ構想が提案されるのも、この⋮この﹁江戸東京フォーラム﹄を間開催するにあたって、少なくと
ような激動する東京の姿の現われなのでしょう。⋮も三つのイメージがあったのではないでしょうか。その一つは、
2 定員一建築会館ホ i ルゐ一五C名、展示コ l
8ω456i2051
東京都港区芝 5 m m
4mAHせ一一日本建築学会事務局幹及卒業認
3 参加賀 .ALPART鉱山料
ナ!参観自由
東京の昼間人口は、都心部だけが突起した切り立った岩山の東京のもつ﹁都市としての特徴﹂を生かした﹁フォーラム﹂に
構造に変貌してしまいました。その足元では、地上げによって⋮していくということです。それは、人を自由にし、育て、人と
につくようになっています。都心の夜間人口は慢性的な窓洞化いつづけた江戸東京にふさわしい﹁場﹂とすることでもあります。
即応世になった土地や空家が、都心の古い町並みのそこここで目・人との交流を察易にする大都市特有の特性を、最大限に発回押し
現象を起こし、そこに居住する人びとのコミュニティの崩壊が⋮圏あらゆる学障を結集
百に目見えて視界に飛び込んでもきます。江戸・東京を通じ、根⋮第二のイメージは、学際的で関かれた﹁尚早関(雰囲気どをつ
くっていこうとするものです。それは、﹁都市機能が雑然と混⋮①都市比較からみた江戸東京
ざりあって、極めて鰯終した多議構造都市、東京の解明には、一②近代化する東京の都市基稼
江戸東京を一貫した視座から捉える必要が高まってきた﹂(句江⋮③近代東京の衡と建築
一戸東京フォーラム﹄小木新造より)という現実的な要請の中か⋮④新しい視康からの江戸
ら生まれた発想だったようです。もちろんそこには、﹁単に都市⋮⑤江戸の建築技術
史学といった狭い単科的視点﹂(前出)からではなく、﹁比絞都一のように五つの分野に大まかに分類することができるでしょう。
市、都市計画、建築、経済史、社会史、文化史、民俗学、社会一さらに、この﹁サロン﹂でより魅力的なことは、毎回新鮮で
すまいろん秋号
十月一五日発行
特集﹁高層居住﹂
︿対談﹀
予告
湯川利和(建築や)+山本和郎(心哩学)
高層居住を考える
MMGの問題
Z川
H
︿私のすまいろん﹀
︿すまいのテクノロジー﹀
高層住宅・什はみかたの記
同伯尚阿川住径の防災
v
野老正問
長谷見雄二
七月一六B 午後一符一二O分i
於一(財)新住宅普及会会議官一
詳しくは当財団へお問い合わせ下さい。
岱ω484153845
内問機造
研究対談︿高層居住を考える﹀のご案内
閣品川利和(奈良女子大住居学科)
山本初郎(鐙応大学医学部)
*すまいろんのご務読については、
村口真をご酔降下さい。
明治則以降の文献
︿閃洋室だより
佼界の回出仁とすまい
︿風紋﹀
パネラ l H山間治之・奥川送大・:-村治巾入
川会日巽和夫
﹁都市化社会のなかの住居﹂
シン。ホジウム
ハ八日け汎郎
学等々、およそ都市研究に必要なあらゆる学問分野の一専門家が、⋮興味深い問題提起に対し、自白で間違な意兇交流が行なわれて
に与えられ
484 538Al
︿佐川上円。
河じフロアに立って忌僚のない研究発表のできる場が必要であいいることです。この活発な論議からは、新たな問題の再提起が
る﹂(前山山)との願いが込められています。⋮なされ、新しい研究対象の必要性も幾っか提起されました。ま
た、個別分賢の研究をクロスオーバーした視点の中から、江戸
υ
吋江戸東京フォーラム品開催の意義がそこに行きついた持、一東京を捉える新たな者限点が浮かび上がるということもありま
盤文化創造のサロンにしよう
江戸や近代の東京に展開された﹁文化サロン﹂のゆ分間四気を強く⋮した。
心に描いたのかも知れません。文化創造に欠かせない思索のた一このような吋江戸東京フォーラム﹄にとっては、まだまだ討
めの﹁私的な時間と空間﹂を生み出す﹁東京におけるサロン﹂⋮議されていない問題が山積みにされています。そして、今後さ
は、江戸東京フォーラムを展開するうえで、かつこうの第三の一らに新たな研究者を加えながら、﹁サロン﹂の浮間四気を常に活
イメージであったはずです。一性化させていくことも必要だと考、えています。同時に、ここで
例えば、鈴木泰信の錦絵の創出には、牛込に住んだ旗本、大一討議された成果を社会に問うことも、あわせて考えていかなけ
久保甚四郎を中心とする﹁大久保サロン﹂が背反にあったこと⋮ればならないでしょう。
は、現代の東京に生きる私たちを、充分に刺激してくれる史実⋮麹生活に根ざした視点に立って
といえるでしょう。⋮これら一連の﹃江戸東京フォーラム﹂の活動は、今後同線の
こうした観点から、今日的な議題にチャレンジしながら、東⋮﹁サロン﹂が東京に新たに生まれ、さらに﹁サロン﹂間での交
京で﹁サロン﹂を育てていくことは、﹁江戸から今日までの都⋮流が行なわれ、﹁江戸東京学﹂のより大きな進展に向けての縫石
市形成発展と、文化変容の過程を一貫した祝肢から捉え、その一となることを願っております。
連続性や非連続性と、江戸東京の都市との特性を学際的に研究⋮昭和六十七年皮には、﹃江戸東京博物館﹄が間開設される予定
する﹂(前山山)場をもつことになるでしょう。一になっています。それまでに﹁江戸東京学﹂に対して正当な佼
このような目的と蕊義のもとに、昭和六十一年七月から叫江・都市・東京の在り方を、取に緊急な政治課題としてだけとらえ
閤毎月一回、すでに一一O 回 の フ ォ ー ラ ム を 開 催 ⋮ 置 づ け を す べ き だ と い う 機 巡 も 高 ま っ て お り ま す 。 一 極 集 中 型
一戸東京フォーラム﹄が関俄されることになったのです。以米二一るのではなく、生活に岡山、ざした視点に立ちかえって、問先衣の来
宮川出
おかもと・てっし/同本折口ぷ郎市後築研究所代ぷ)
L
年近くの歳月が経過し、研究者による発表内谷には、江戸東京二尽のあるべき姿を問うことが、﹁都市の時代﹂といわれる二ト一
oH(
こ の ニ 十 悶 の テi マ を グ ル ー ピ ン グ す る こ と は 難 し い の で す ⋮ た 課 題 で は な い か と 忍 わ れ ま す 。
に関する多種多様な問題提起があったように忍われます。一世紀を迎えるにあたって、﹃江戸東京フォーラム
が、内察の性絡から、次のように分けられると思います
ω
﹁江戸東京フォーラム﹂にご問問 をお持ちの万は、七1八名の方ならば傍隠の余席もありますので、当方まであ潤い合わせ下さい。
際
立4
木造復活の大気運だが、
誤った常識、誤解がまかりとおっている
最近、住宅を木造で建てるという気運が捷り上
がってきました。狭い敷地のためには、三階建て
も良いということにまでなってきています。
木造住宅というのは良いものです。しかし、つ
い少し前までは、もう木造は止めよう、これから
はぜひ鉄筋コンクリート造か鉄骨造としましょう、
ということであった訳です。
これにはそれなりの理由があったからで、です
から下手に木造を復活すると、これは大変まずい
ことになりかねません。木造というものをしっか
り理解して建てる必要があるのです。それである
のに、現在この理解は大変不充分なようです。誤
った常識が横行しており、しかも、専門家である
建築家、建設にたずさわる大工さん、指導にあた
る建設省や、金融公庫などにも、これが見られま
す
。
いで、明治以前の構造(これを伝統型といいます)
の 考 え 方 が 、 今 も っ て 現 在 の 在 来 型 ( ツl パ イ プ
ォーや、ブレファブに対する呼び名)を律してい
るからです。またこの背景には、木造建築の二面
性もかかわっています。すなわち、
千年も保っている
火性がある
特に鉄骨造よりも耐
1111
鉄筋コンクリート造
嗣園出一地震に弱い地震に強い
木造建築は、
嗣圃回一大変燃え易い
極圏回一腐り易い
この二面牲のために木造はダメだと一一一日われたり、
大変良いものだと言われたりしました。さて、そ
れではこれらの不思議なことについて解説致しま
しょ、つ。
1 にその大
ジれることで家が倒れるのを防ぎます。このコジ
この構造は、柱と、貫通する梁材やぬき材がコ
略を一不します。
るラーメン構造というものです。図
わゆる大黒柱構造です。学術的には貫通仕口によ
し、民家としては徳川中期に完成した構法で、い
の構造を支配してきた方式で、社寺建築から出発
伝統型の構造というのは、長い間、日本の建築
材が太ければ丈夫という迷信の発生
伝競欝議と在来議選
会~*の.t!~lfIのいろりまわり(写真/知i売夫)
なぜそうなったかと申しますと、今まで永い問、
木造は学会、建築関係の教育から、うとんじられ
てきたからです。現今の建築研究者、指導者、設
計者で木造住宅の正しい構造問の画ける入は大変
まれで、ほとんどが大工まかせです。その大工は
実は現在の木造建築の仕組みを正しく理解してい
ません。建築構造の力学的考え方は、明治以前と
明治以後とでは、百八十度違ったものになってい
るのにもかかわらず、そのことが良く判っていな
すまいのテクノi
コジ一一⑧
誤解語れた本造
後藤 一雄
たちまち倒れ易くなりま
す。一五仰角(五す角)
ともなれば閤O分の一の
?
。 は 万 に 比 例 l,力、つ j旨し鴨居の出み易さに比例する
山汗の台風地帯に密集して建てられたのですから
。
た
楽
弘
、
、
、
、
、
、
海の器十
ていますが、京都という所は盆地で山に図まれてお
り花山間山石賀の災い地盤上にあるので、台風に襲われ
ることが然く、強い地渓にも会うことが無かったの
で永く保存され得ました。北日はこういう安全な所を
では、家の通風など構って居られず、家の軒近くま
都としたのです。台風のしばしば襲う九州南部など
で石焔一を積み特に風の強く来る東南隣は一段と高く
して築山などを設けます。それ稜は襲われない間関東
2)
平野でも、良質な地擦の所を選ぴ家の問問問は森で閥
ってしまいます。
したので、ヘドロの地殻となり、台風も集中して強
近代の都市は経済優先で交通の要点に発生(図
均
一手
ら
.・の
噛円討
1
@-2
い
ひとたまりもなく倒れて災害の元凶となってしま
波 り 沿 い 中 洲 か ら 発'
1
'す る 争
※ずっと細い柱の茶家や数寄屋造りが、京都では残っ
太 平 洋!
;
1の 台 風
この構造は柱が太ければ太くなるほど丈夫にな
コヂレる(趨定 ,
"
i
,
)
℃
く当ります。
台風
耐力に落ちてしまいます。
こんな太い柱は庄屋さ
んのようなよほどの金持
ちでないと建てられませ
ん。まして長い太いケヤ
キの梁などは、入手困難
になってきました。一般
庶民は仕方なく、柱、を細
くしました。少しくらい
金がある人でも、ケヤキ
は仲々手に入らないので、
ヒノキが良いだろうとな
りました。しかしヒノキ
は松よりやわらかいので
す。この弱い建物が、地
震が強く働くヘドロの上
が
)
J
llに]lJ
(き つ け る
ります。しかし相当太くなければなりません。梁
反カ
皮
(江戸も、名古屋も、大
です)の土地で、太平洋
阪も大部分の所はヘドロ
海
る力は柱の下から梁までの距離(梁の高さ)に比
ある.
中川ヘド口附
例するので、できるだけ低くし、人のようやく通
r
i
l
近代のr,[
;
i!
i
は
(指し鴨居)がケヤキのような堅い木で一一一五仰角位、
大g
¥
校は家のほぼ真中に主主てる.
家がねじれぬために,もう一本をやや離して設け,
H柱などという.
これをえびす桔ーあるいは小 !
考:J~ の{列は,援のあるところも,太い買を柱に貫通
し,クサビ締めとしている. しかも校は 3尺 隔で
虫
、
可
れる高さまで下げます。それで建具の鴨居と一緒
←
マツのような針葉樹で五O 仰角以上が要ります。
I
dI
になってしまったので、指し(差し)鴨居と称す
太くなければなりない
l i l l - t力
梁 ( 指 L鴨 居 ) に は
曲げの力が働くので
逆に細くなると柱径の三乗に比例して弱くなり、
水平力一一+
るようになりました。
滋仕口によるうーメン構造である.
1 伝統型構造(いわゆる大泉柱構造)とは,質i
図
そこへトラスの考え方、か入ってきて
﹁材が太ければ丈夫﹂という観念は、この伝統構
法から来たものです。しかし一般の庶民の家をこ
のような太い材で建てさせることは国難です。
それで明治になってから、西洋の知識を入れて、
スジカイ
細い材でも丈夫になるトラス型構造を取り入れま
した。筋違を使いましょうというのはこれです。
トラスというのは材を三角に組んだ構造です(毘
屋根もトラスにすることにしました。
n
レ
一
一
一
一
辺
一
物
強いのです。細くて良いのです。どのくらい材が
に木は単純に引張ったり圧したりしたならば大変
下がるのは伝統構法の観念から材が細いからだろ
完全ですから、トラスは下がります。大工さんは、
んが形だけ真似たトラスの例です。この仕口は不
←
この構造は、前のラーメン構造では山げの力が
4 に一不します。しかしそ
n
働くのに対して、圧縮か引張の力しか働きません。
細くて良いかの併を臨
うとしか考えませんので、材を太くして見ます。仕
o
h
u
-
割ばしで試して下さい。割ぱしの両端をつかんで
の代リに、この引張ったり圧したりするためには、
これは
は
図 5 形だけ真似て作大
士口がコド完工
ってもダメ. f
全だと小屋は下がる.
さ
5
ちょ、つど
時代前には、栄養の良い太った人は
って危険になるのです。
抑制(薄)ければ良いのですが、太くすると、かえ
ものでしたら相当曲げても壊れません。すなわち
の時、もっと細い材(薄い材)例えば経木のような
曲げられると弱いことは前述しました。しかしそ
ます。小屋が下がると、材は曲げられます。木材が
く な り 兼 ね な い の で す 。 そ の 理 由 を 図16に一不し
良いのですが、材を太くするとトラスの耐力が弱
引張っても圧して見ても、容易には壊れませんが、
ただ形だけを真似て造りました。
閤
ところがこのようなことは大工には判りません。
す
。
口の惑いことには気付きませんから、それでも下
図-6 不完念なトラスが下がる理由はこれ.
材を太くするとかえって弱くなりかねない.
材の両端をしっかり握らねばなりません。すなわ
使用材続日日 J
m
曲げてやると簡単に折れてしまいます。このよう
マツ 2~J.5cmX6
がります。それでますます太くします。それで陸梁
J
多
ち材の端部の仕日がちゃんとしていなければなら
これをトラスにすると
が和小屋の梁のようになって、ようやく何とかな
6
るということになりました。しかもそれだけなら
o
m
i
B
V
一
一
コ
ム
な い の で す 。 た だ し 盟i3に 示 し た よ う に 、 こ の
3)。
4 トラスにすれば材が級くて済む.
随
仕日は回転に対しては無抵抗であることが必要で
3 トラス構造では曲げの力は働かす
圧縮か引張の力しか働かない.
図
(
米
)
回転自在なヒン(!茶番)を表わす
ρHU
均ぺ d
まいました。ずいぶん材のムダ使いです。
きらめて、一持ぴ和小屋で専ら建てることにしてし
そのようなことで、日本の大工さんは洋小屋をあ
在は、太った人は短命といわれるのに似ています。
丈夫でよいといわれていたのに、時代が変って現
構造は転倒するのです。この転倒を防ぐためには、
は土台が持ち上がってしまいます。すなわちこの
あります。しかしそれだけではありません。今度
しいようにしっかりと金物で結合しておく必要が
それで柱と桁、柱と土台は筋違の太さにふさわ
郡
誌が
いろいろな処置を必要とするのに組
土
自
長
量
る
で
ています。
1壁
さ議
用に対して
ゴ飛
ンfす
トラス構造なのですから、一階と二階の柱は元来
同じようなことは通し柱についても見られます。
とによります。
て同定してしまったのと仕口をおろそかにしたこ
これは本米蝶番的であるべき仕口を、材を通し
す。ほどこしが不充分ですと、かえって危険にな
して、始めて太い筋違は有効にその力を発揮しま
要があります(図 8)。 こ れ だ け の こ と を ほ ど こ
基礎は折れないように鉄筋コンクリートとする必
元で、アンカーボルトでしっかり止めて、また布
土台と下部の布基礎とを、引張りを生ずる柱の根
軽い屋根で、しかも飛ばないようにすることにな
しかし屋根を重くすると地震には良くないので
たので、このような事はあまりありませんでした。
はめずらしくありません。昔は大変毘根を重くし
き 上 が り ま す 。 屋 根 は 空 中 を 二OOmも 飛 ぶ こ と
布01-~碇
で務子板ボルトで引き付けます。和小屋(京呂作
付け、小屋は品母屋を使って品母屋から下の柱ま
所で良く母屋に止め付け、母屋は小屋構造に取り
に引き付けて置かねばなりません。たる木は軒の
には雨戸がほしいのです。そして、屋根を具く柱
このためには、二階の窓(太平洋岸では南側)
から要注意です。
で破られますと、大変大きな吹上げ力が働きます
蝶番的に結合されるべきものです。これを通すと、
羽子板ボルト
¥¥_Ll
r
.
これはちょうど強い薬を飲む時には、 そ の 副 作
ります。特に、二階の窓ガラスが飛んで来たもの
通し柱を太くさせたがっていますが、これは問題
です。通し柱は伝統構法の名残りで、この時は大
太い滋遼
J
黒柱を延ばして二階を作りました。柱は太いほど
良いのです。ただ各仕口を力学的にしっかり作り
変形を少なくすれば柱の変形も少なくなるので、
は国難です。接着すれば変形は大変小さくなりま
太くしても良いのですが、これはなかなか実際に
水平力一+令一一一一勺
すると要注意)かねないのです。金融公庫は大変
ります。
また木造の家の屋根は台風で飛行機のように浮
議
員
小屋と同じように、かえって弱くなり(特に大く
凶… 8 筋違が抜けないよう
これだけのことが必要.
き
設
函 9 台風で屋根が飛ばない
ためには,屋根をよく柱に引き
つけておく.
すが、今度は風には良いのですが、地震にはあま
り良くないことになります。この理由は専門知識
の無い方に一口では説明し難いので省略致します。
このほかに、トラスというものには必ず引張り
の材が存在します。この時、引張材の仕口のつか
み方が足りないと壊れてしまいます。例えば筋違
など下手に太くしますとその力は強くなるので、
図i7のように桁を突き上げて壊してしまいます。
O
こうすれば
O
こう山
図ア引猿材の仕口が足り
ないと鱒単に嬢れてしまう.
り)ではしばしば鼻母屋を使わず、したがって小
地震に弱い?
屋を下の柱に引き付けられない構法が行なわれて
いますが、これは良くありません(図 9)。
つ
調圏国
木造は火事に強い? 火事に弱い?
命題 2 に は 驚 か れ た で し ょ う 。 木 造 は 火 事 に 強
いとは何事か、木造のお蔭で大火も生じたし、現
しかし、次のことをご経験なさっておられると
細い木材は燃えない材で囲んで、空気に触れな
骨よりはるかに強いのです。
いようにします。鉄骨も火事に弱いので不燃材で
包むのです。 ち ゃ ん と 包 め ば 鉄 骨 造 よ り 火 事 に 強
くなります。
木造の家が燃えるのは表面積の大きい薄板を使
うからです。もちろん障子や唐紙一戸などはいけま
せん。これは火付け役です。焚火を燃やす時を考
い木の天井板はいけません。天井に火がついて燃
に火を、つつして太い材を燃やすでしょう。特に薄
えて下さい。まず紙に火を付けて、それから小枝
ばパッと燃えてしまいますが、分厚い電話帳のよ
え抜けて小屋裏に火が入りますと、一気に家中が
焚火をしていて、紙切れを一枚一枚火に投ずれ
思います。
うなものを投げ込んでもなかなか燃えてくれない、
火になり、まず全焼はまぬがれなくなります。桧の
なぜそれが地震に弱いとなったのかは、前項で
述べました。伝統構法から在来構法に代っても、
ということです。
従って空気に触れる面積を小さくすれば燃えなく
セメント板類を裏に貼り合せた材(木の表面積は
ら、五叩以上の厚板か、厚めの石背ボード、石綿
木目の美しさを愉しむために木板を使われるな
天井板や屋久杉の天井板などはもってのほかです。
なるのです。四仰角の表面積は九六ぽです。これ
約半分になる)を使って下さい。
燃えるという現象は空気中の酸素との化合です。
小さくすれば表面積は増し、大きくすると減りま
これを心掛ければ木造の家は大変燃え難くなる
煙突状になって小屋裏に火が廻ります。
填して全体を密閉します。壁の中に火が入ると、
また壁の中は空胴とせず、不燃牲の断熱材を充
を半分に割ると両方で二一八耐になります。物を
す。鉄でも粉末にするとパッパッと燃えるのです。
鋼材は六O O度 で 強 度 は 0 になります。火事の
逆に太い木は燃え難くなります。
正しい在来構法は安くて(材は細くて済む)し
温度は一 000度以上ですから、たちまち約一 O
成木材は一 m角くらいのものを簡単に作れます。
のです。
構造図なしで済ませているのは木造の住宅だけ
このような太いものは三時間や四時間の火事でも
場 合 は 、 二 五 m角 以 上 と し ま す 。 こ れ を 同24
といい、これで建てた家はアメリカなどで
dg2
ゲ
分でへナってしまいます。このごろ出来てきた集
です。そして大工さんまかせです。鉄筋コンクリ
平気で耐えるのです。鉄筋コンクリートでも大体
このほか内部にはなるべくウレタンフォームを
なお、集成木材類で材を太くして燃えなくする
ート造も鉄骨造も構造図を画きます。
り火事に強いといって良いでしょう。もちろん鉄
は耐火造として認められています。
設計者の猛勉を望みます。
これでは欠焔口聞ができるのは当り前です。建築
二時間しか耐えませんから、鉄筋コンクリートよ
しても充分です。
かも地震には絶対に強いのです。もちろん風に対
のことが、この不完全さを助長しています。
木造の住宅は習慣上、構造留を画きません。そ
耐力壁の配置とか、細々としたことがあります。
そのことの注意を前述しましたが、その他にも
書に従っても充分でないことは前記の如くです。
建 築 基 準 法 を ク リ アl し で も 、 金 融 公 庫 の 仕 様
いないので、しばしば事故を生じます。
前記のように木造トラスのことが良く理解されて
れを示しているのです。
も 地 震 に は 有 利 な は ず で す 。 前 述 の 命 題 1は 、 そ
すから軽くて強い木材は、鉄筋コンクリートより
に今でも木造の家は良く燃えているではないかと
強
いわれると存じます。
i
ま白
地震の力は建物の重量に比例して働きます。で
地
震
木圏
諸[題l
と思います。断熱材もウレタンは禁物です。また
レタンフォームとなっているので、困ったことだ
です。このごろ、ふとんのマット類はほとんどウ
で焼け死ぬ前に意識を失ってしまうことが多いの
使わないで下さい。これは毒ガスを発生しますの
気口の無いものがありますが、これも駄目です。
匝ったことです。寄棟などの家で、軒裏にしか換
小屋裏の換気口のない家を見掛けますが、これは
れます。もちろん小屋哀の換気は大切です。近頃、
高価ですが、アセチル化合板などは良いかと忠わ
数の違いなどで問題があるようです。まだだいぶ
す。合板との貼り合せが考えられますが、膨張係
んし、風にも弱くなりますので一工夫が要ります。
上げるのですが、軒も都会地ではあまり出せませ
はこうはいかないので、軒を深く出し土台を高く
とは土台へのひさしです(図i 印)。現在の住宅で
の日本家屋は家の周回に廻廊を廻しました。廻廊
めに密閉すると壁の中の湿度が高まって腐り易く
問題は壁の中の乾燥です。酎火性を良くするた
ので感心しません。
への雨のかかることの防止も兼ねて、囲れのよ
すと、大変問題です。現在考えられる案は、土台
なります。特にラスモルタルなどで外壌を造りま
らです。これはどうしても越屋根を附けて下さい。
小屋の頂部に溜った空気は停滞したままになるか
難燃合板はたいへん一酸化炭素ガスを発生します
同閣回一
木造は腐りやすい? 千年もつ?
腐ります。また、乾いたり水を吸ったりを繰り返す
口かおり水を吸うので、雨がかかると腐ってきます。
次に、外部に木口を見せないことです。木は木
ために,.らくしてある
なお筆者は、目下、夏期にこのような心配や冷
方が良い結果になります。
あり、この場合、夏期には通気をストップさせる
と、かえって外界の混気を壁内に吸収する問題が
工法は、ともすれば夏季に室内を強力に冷房する
うな案を考えて見ました。ただ、このような通気
棟に換気口のとれる換気棟材なども数穂高口開化さ
ことも良くありません。乾燥させておくことが一
この意味で、ログハウス誌などは要注意です。
木口が出るときは、銅板で木口をカバーします。
れています。これなども良いでしょう。
番です(水に浸り放しでも腐りません。埋れ木や、
木材というものは、適度な湿度を与えるとすぐ
木の基礎杭などはそれです)。この原則を守れば、
あぜ︿り
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也!
(
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を仰ぐ
(ごとう・かずお/求京仁業大学名此パ教佼)
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※正倉院の校合は水口に雨がかからぬように粁を深く
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細い木でも腐らず、木造の家屋は大変永持ちしま
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房病を生ぜしめない空調法を実験中です。
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し、下部に行くほどパソクさせている。
土台には雨がかからないようにして下さい。昔
千
幸
{
明
す。金融公庫は通し柱を少しばかり太くしただけ
本屋
で高品質だというのですが、この意味は筆者には
よく判りません。下手に太くすると良くないこと
む保り
れた・る
見出削
山同日開だ
で本ん
やしるす
山中
ルの方か受ましい 3
ル(ロノクウ
クラスウ
は前述の如くです。
,
¥
家はまず雨漏りさせないことです。日本瓦はそ
結 fWJI 立本 1;\ の h~Jじに山
雨の吹込み
のものの耐久性は絶大ですが、時間から水が入る
の で 、 こ の 下 地 が 大 切 で す 。 厚 手 の ル i フィング
を使用します。薄っぺらな防水紙と称するものは
駄目です。野地板はできれば石綿セメント板とす
るのが良く、これは火事のためにも良いのですが、
AU
川時こ
題~I
若資ホト
カ"う、かり 1
1ようにしたこ
組向から変化したもの
¥ ¥
¥
食とあ修
科ぬで問問
uこ
'
mu
はを協約
側との品
1
1 壁の中を乾燥ざせておく.
図
人が乗って割れないためにはちょっと厚くせねば
なりませんので、高価にはなるので困るところで
阪 1
0 雨から本屋家守るために,
かつては廻廊を廻したものだが・・・・・・.
どう
杯、具番が単
つ
句
余分な人や建物は、どしどし何処かへ行って欲しい。東京に生ま
れ育った者としては、束京が子供の頃に仰いに戻る日まで、
気長に待つつもりなのだから。
人生、か一つの劇ならば、
魚河岸が、関東大震災で、日本橋から現在の築地市場に移転し
願いたい。昭和四年に生まれて、昭和一二O年 に 結 婚 し て 離 れ る ま
かなくなったから、何処かへ移ろうなんて、少々、虫がよすぎや
現在の東京のみじめな様を、最もよく表徴しているのが、お江
での二六年間、この家の世話になって来た。この問、殆ど家に子
た後の昭和四年に、私は京橋区小出原町二丁目七番池の家に生ま
戸の中心といわれているあの日本橋。石橋になって今年で七七年
を入れた覚えがないので、改めて私は、木造日本家屋の堅牢さに
しませんか﹂と一一一日いたくなる。我等、東京っ子にとって、﹁東京に
になるから、﹁喜寿﹂を祝う催しがこの四月にあったが、東京っ子
感心している。この間、戦争に突入し、空襲の恐怖にさらされた。
れた。わが家は、木造二階建、絵心のない手で描いた下手なわが家
としては、果たして喜ぶべき事であったろうか。日本橋は、高速
東京が日に日に焼野原と化して行き、多くの人命を失っていった
は空がない﹂という、あの言葉ほど腹の立つ言葉はない。空を無
道路に蓋をされて空を失い、里程元棋の先のランプが辛じて、高
あの時ですら、家を捨てて疎開する気はなかった。家さえ焼けな
のスケッチと、大ざっぱな平面図で、生家のたたずまいをお察し
速道路の隙間から首をのぞかせている。古老は、江戸と江戸っ子
ければ、均一え生命の危機にさらされても、生まれ育った東京を離れ
私の人生そのものを一つの劇と見るならば、住んだ家は、さし
は、もはや関東大震災でなくなっちまったというが、その後の東
のだ。東京にだって、胤が上げられるほど、広い青空があったし、
づめ舞台装置という訳だ。芝居の世界では、場面の変わる道具の
たくなかった。
鬼ヤンマだって飛んでいた。遷都論が現実になるのなら、どうか
京っ子達も、東京のいたる所で、日本橋のような浮目にあっている
くしちまったのは、何処の何奴だと一一一一阿ってやりたい。
けない。勝手にドカドカ東京へ入り込んで米て、今更身動きがつ
子供の時から東京で育ってきた者に言わせりや、﹁冗談一一一一口っちゃい
最近、﹁東京遷都論﹂という論議がささやかれている。私等、
裏尽に青空か戻ってくるのを気長に待っている
武
す ま い の 履 歴 書 i l築 地 小 田 原 町 、 魚 河 岸 の 仲 卸 業 の 家 に 生 ま れ て
騨略い
加
藤
U
日
S4
と三幕が同じ場面で、二幕が場面変りする場合、再ぴ同じ場面に
一っぱい道具の芝居も、じっくりお客をひきつけるものだ。一幕
の眼を楽しませるが、舞台上の年月は経っても、場面変りしない
数を
なかった故である。下町の子に欠かせないのは祭りである。小田
親になった我々の責任である。我々が祖父母からしっかり伝示し
り方であった。今の子供達は、行事を知らないというが、これは
て静かに消す。火の消えた熔焔を、二、三度またぐのが祖母のや
て迎火のおがらを賠絡の上で焚く。残り火を水に浸した摘をふっ
まっていた。設には、家の前に草市が立った。祖母が取りしきつ
は一つ λf、 し さ み
戻るから、これを﹁行って米い﹂と呼ぶ。一っぱい道具の芝居の
原町は、氏神様の波除神社の祭礼も、かなり派手なものだったが、
っぱい、二はいと勘定する。幕毎に場面が変る芝居もお客
だ。舞台は、東京は山の子にある堤家の庭に両した座敷の一っぱ
*部一時の広さ、間口・
ョ
奥 行 の ブ ロ ポiシ
ンなどは、記憶によ
るもので、はなはだ
d隊ではない。
r1IA岬 川
均一
Eli-
一一一一二一一
JH
小田原町の家
-一一一二事者将
l
一
一
一
二
三
ー 川一
H
F
中
の
お祭りは、一対一。一一五 4m
一の
それにもまして、 何年に一度という白f
川可
jf
yド'
干華
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持アし
代表的なものは、杉村春子の当り狂言である森本菜作﹁女の一生﹂
い道具である。第一幕は、明治三十八年正月、旅順陥落の堤灯行
列の祝勝の声が家の外から聞こえてくる所から幕があく。継母か
ら邪剣にされて家出した少女、布引けいがこの家にふとまぎれ込
んでしまうのが発端で、やがてこの一家を切りまわす女家長とな
って行く⋮生が、空襲で堤家が焼け、焼跡に老婆となって付んで
いる終幕まで、展開される。私も、生まれてから結婚までの﹁男の
半生﹂を、築地の一っぱい道具の家で過した。けだし、すまいは、
人生の舞台装置といってよかろう。
四季の行事に事欠かない、 メリハリのある生活
下水が完備するのは、ずっと後の事で、子供の頃の家の前には、
ドブ板が渡しであった。時々、ドブ板を持上げて鼠取りを仕挫け
て行く人が来た。便所も当然、汲み取り式で、汲み取り屋さんが、
おわい桶を牛車に積んでやって来た。家の向いは三軒続きの長屋
で、右側から箸屋、仕立屋、ブリキ屋の家族が住んでいた。わず
か回、五メートルほどの道幅の往来でも、人の行き米に四季の流
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れがあった。お正月は高蔵、才識のコンビに、獅子舞が通る。物
は、私に子供の時の然りを控らせる。年の瀬の仕度は、正月を迎
子供はアイスコーヒーであった。だから夏のアイスコーヒーの昧
米パン、鍋焼うどん等々、その売り声もさまざまだった。五月の
える子供の気持を更にかき立てる。町内の鳶の連中が門松を立て
よりいっそう、豪勢なものであった。子供も神輿のかつぎ放しで、1
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-汁戸﹂一一
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寸 J J一
一
一
一
一
一
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足腰が痛くなった。大人は町内の辻々で、樽酒をふるまわれるが、二幽一作
笥の時期に、竹の皮に梅干しを包んで祇めた。そのまま長火鉢の
ているその家の中では、番頭の徳さんがお飾りの仕度に忙しい。
売 り は 、 朝 の 納 豆 売 り か ら 、 富 山 の 薬 売η、 定 斎 売 り 、 甘 酒 、 玄
引出しに放りこんで、暫くして取り出すと、竹の皮が真っ赤に染
~~
茄でるところから始まる。粉をふいた昆布の潮の香を吹ぐと、正
昆布まですべて本物を用意して組立てていた。大きな伊勢海老を
毎年、お飾りは徳さんの分初だった。鏡餅はもとより、海老から
間もなく、勝手口からこっそり帰って米たもリそはねえやを、誰
る、わが-家の思いは誰しも同じであったらしい。我々が帰って
そうな顔が印象的であった。判け十く、夜遅い勤めのねえやに対す
ドを霞いただけの洋間は、叫にい加に山ていた長兄が、梅山の三役
二時の梅山は、祖母の専用の部原であった。板張りの床にベッ
も伶めようとはしなかった。
の髭を折ってしまったら、徳さんは顔を海老より真赤にして怒っ
月がそこまで米ている気がした。二度、余計な手出しをして海老
た
。
ばかリの部屋を次兄が使刑していた。竹は、五い衆の郎原で、不
れに住みこみの若い衆が三人、我々が﹁ねえや﹂と呼んでいたお
家族構成は、祖母と両親と、兄弟姉妹五人でわが家は八人。そ
が山山稽十日にい‘りしていたから、川町を切って炉をしつら、ぇ、委を焚
へだてた松は、竹の地獄にくら、へたら夫出で、お茶やお花の先生
子の売り出しの咲の歌が謡音機から流れて聞こえていた。倹一つ
潔きわまりなく、安物のポマードの臭いが漂っていた。淡小八日のり
子信いさんが三人、計十四人が、この間取りの家に寝起きしてい
いたりしであった。バランスのとれていない卒、移しい。松には、
ここに十四人が寝起きしていた
たのだから、部屋数の割に人数の方が多かった。殆どの座敷が雑
年頃の姉が寝ていた。
大戸の下りる商家の構え
魚寝を強いられる。私は、⋮階の座敷山に、両親と、すぐ上の姉
と四人で寝ていた。魚河岸は、朝が早い。セリがあるから、明け
きらない中に出て行く。夜ふかしの父だったが、私が眼を覚ます
折しも夏の夜の事とて、窓は明け放されてい加の中は丸見えであっ
の⋮家が揃って、家の角のそば屋﹃砂場﹄の前にさしかかった。
新橋演舞場は、わが家から歩いて十分位の距離である。芝居帰り
ても羽がのばせるいい機会となったに違いない。歌舞伎座、京劇、
りは夜十一時頃と遅い。恐らく、若い衆や、ねえやさん達にとっ
であげて芝居見物をするのが楽しみの一つで、芝居がはねての帰
た。一{皮、若いねえやさんで、こんなことがあった。時々、二本
た。ねえやさん達の年は、十代から三十代初めとさまざまであっ
河岸へ行く男達と同じ時間に起きていたから、御苦労な古学であっ
敷間か、座敷山で、男は二階の竹に寝ていた。ねえやさん達は、
市場の前売もきぴしくなり、やがて仲卸制度は廃止されることに
兵隊で一平隊に応召され、勿論、ねえやさん達もいなくなった。魚
のだ。私が中学生になると、戦争もはげしくなり、必い衆は皆、
引き出すだけでくぐり戸の上に重なる。実にうまく出米ているも
リて米る。次にもう一枚、上戸の方はほに押し込まれているから、
窪みに押し込むと、まずドのくぐり一戸の部分が柱に沿って滑り一卜
長方形の令一釘が一戸を支えている。一戸を上に浮かして釘を横にして
鴨居の上に両手をのばすと、左右の予の間隔で同く所で二ケ所、
硝子戸を戸袋に納めると、まず敷居が外れるようになっている。
衆の仕事であった。昼間は、二枚組の砧子一戸が立ててある。夕方、
く玄関には、夜になると大戸がドりた。大一戸をドろすのは、宥い
仲卸業だから、家で商売をしていた訳でもないのに、向山系らし
た。と、今しも家の若いねえやが、もリそはを箸にかけてたぐり
なる。大戸をドろすのは、専ら、中学生の私の仕事となった。し
頃は、父の床はさまって藻ぬけの殻だった。ねえやさん達は、陀
こもうとする一瞬を見てしまった。その瞬間のね、えやのしあわせ
みたいで嬉しかった。
かし、大戸に手が届くようになったのは、 そ れ だ け 大 人 に な っ た
ありながら、 こ の 有 様 は 、 あ の の ど か な 川 開 き の 花 火 に 似 て い る
、フ
うであった。築地から両国は、そう近間でもないが、高いビルも
る。平面図でお分りいただけると思うが、二部小山人が住まうには、
昭和問七年、杉並一民宮前の現在地に、やっと家を持つことにな
くさやも焼けない現在のすまい
と息を引きとっていた。
が家は焼け残っていた。しかし、祖母は、 大 八 車 の 上 で ひ っ そ り
ものだと思った。明け方、逃げくたびれて戻ってみたら、
なと、 ふ と 思 っ た り す る の だ っ た 。 人 間 は 、 不 思 議 な 連 想 を す る
そレて大宮嚢
両国の川開きの時は、二階の物干しの階段から更に屋根の上の
物干しに出ればよい。打ち上げられて大きく散った大輸の花ぴら
なく、遮る物は何もないから、家の物干しからでも充分に花火見
如何にもせまい。とてもお客など呼べたものでない。やがて娘二
が、満天をおおいつくして、仰ぎ見る私の上にのしかかって米そ
物の気分を味わえた。
周辺が襲われた。 B mが着陸するのではないかと思われるほど、
だったと聞く。井の頭通りと、五日市街道にはさまれた、住宅地
の家となろう。このあたり、以前は大宮前といって竹林の多い所
人が山て行くことになれば、老夫婦にとって、初めて手頃な広さ
低空まで降下して米て焼夷弾をドカドカと落した。すぐ近くの海
とも商業地ともつかぬ半端な所である。近頃は、スーパーや、フ
昭和二十年五月二五日、三月十日の大空襲から出もなく、銀座
軍経理学校の屋上から、パリパリと機銃を撃ち出した。落下する
ムーの家の住宅論を二一⋮一口でいえば、大好物のくさやの干物を焼け
ァミリー・レストランが、あちこちに建ち始めた。
の中を我々は逃げまどった。火が風を呼ぶのか、その風のすごさ
ない不自由さである。もし、焼いたら、近所でパトカーを呼ぶの
焼夷弾の光りと、燃、えさかる地上の火とで真昼間のような明るさ
にも驚いた。その時、老衰で寝たきりの祖母を、布附ごと二階か
ではないかという不安がある。仕方なく瓶詰のくさやを食べてい
,
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1際
かとう・たけし/川開催・文学山内
地下
ら階段をずり下ろして、大八車に横たえた途端、掻巻がまるで紙
O
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る有様だ。もはや、東京つ子もおしまいである。実にどうも情な
ミ
し
居間
屑のように空に巻き上げられてしまったのだ。火の手の上がって
2階
いない方角を目指して、ただただ逃げのびた。この修羅場の中に
宮前の現在のすまい
し弘前のすまい
川/丸山叩
/
十
引 Mm 小
(万六1 川畑必七八)
創立刊周年記念シンポジウム︽都市他社会のなかの住居︾へ向けて(引引間収
︿論文﹀
市化社会における住ふ
出国 浩之
しかし、都市化とは何であろうか。
といってト品い。
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人口集中は大規模に進行しており、世界的にあてはま
進諸国だけでなく、発展途上国においても大都市への
現代社会は都市化社会であるといわれる。これは先
ても、都市問題の中で最も重要な問題を構成していた。
ならない。いうまでもなく、住宅問題はどの時代におい
質が変われば、都市政策の方向も当然変化しなければ
問問題の性質も大きく輿なるからである。都市問題の性
の進展にも種々の段階があり、その段階によって都市
問題の把握も極めて単純となる。というのは、都市化
都市化を直線的に、単調にとらえたにとどまり、都市
たしかに、そのことは事実であるが、それだけでは
期が、最初の﹁都市化﹂iit初期的都市化あるいは集中
く、人口・雇用の中心部市への集中が支配的である時
中心都市における人口・一雇用の成長が郊外よりも大き
通手段の未発達が大きく影響しているが、ともかく、
都市地域の外延的拡大は微弱であった。これには、交
向は、都市のや心地域への人口・雇用の集中であって、
近代に人って一般的にみられる都市発展の最初の傾
ってきたのかを、まずみておく必要がある。
それに対応して都市政策や住宅政策がどのように変わ
よって、都市問題及ぴ住宅問題がどのように変化し、
あり方も変化してきた。したがって、都市化の段階に
一般に都市化といえば、都市への人口集中、それに
しかし、都市化の段階あるいは方向によって、住宅問
。
い
ヲ hv
伴う都市に居住する人口の比率の増大を指すことが多
題の内容は大きく変わってきたのであり、住宅政策の
国都市北と住宅選択
く、都市化の指標としては都市人口比率が用いられて
択
し た が っ て 、 一 方 で は ス ブ ロ l ルを抑制し、他方で
の開発、雇用者の間住環境等の点では、地方都市、新
道路へのアクセス、広大な土地を必要とする生産技術
た。したがって、この時代は労働者階級の不良住宅問
的であって、労働者階級の貧国を象徴するものであっ
れは労働者の職場に近接していたが、狭小かつ非衛生
居住する不良住宅の密集、スラムの問題であった。そ
住宅を提供しつつ秩序ある町づくりを行い、問時に通
る。ニュ l タ ウ ン で は 職 住 近 接 を 前 提 と し て 、 良 好 な
い止め、都市成長の諸要素はニュ l タ ウ ン で 受 け 入 れ
の外縁部にグリi ンベルトを設定して都市の膨張を食
が、グリーンベルトとニュ l タ ウ ン 政 策 で あ る 。 都 市
そして、この課題にこたえる方法として採用されたの
それは新たな段階、いわば﹁再都市化﹂の段階に入る
に成功して逆都市化の段階を脱出することができれば、
市の再生をはかることが都市政策の課題となる。それ
になり、したがって、都市の衰退・荒廃を解消し、都
も成長のポテンシャルを失って、衰退問題に悩むこと
かくして、古い大都市の多くは対内的にも対外的に
は通勤混雑を解消することが都市政策の課題となる。
題が最も章一要な都市問題となったのである。そしてス
勤 交 通 量 の 減 少 を は か る 、 と い う の が こ の 政 策 のR襟
この段階における最も重要な都市問題は、労働者が
的都市化とよぶこともできる││の段階と考えられる。
ラム・クリアランスと労働者・低所得者への良好な住
わけである。
興都市の方がより有利となった。
宅供給が最も重要な都市政策となった。
ツパ全体にも拡がり、かなりの成功をおさめたが、そ
である。英国で、この政策は広汎に実施され、ヨ!ロ
以上が、欧米先進諸国における都市化の展開を極め
これに対して、交通手段の発達とともに、都市地域
ひろ
の外延的拡大がはじまり、郊外が都市化されてゆくと、
というのは、欧米では多くの大都市が、郊外化の絶
のフェイズに到達している。欧米の大都市の多くは、
阪では中心都市の人口が減少して郊外化の絶対的分散
全体としては郊外化の段階にあり、そのうち東京と大
て大づかみにとらえたものであるが、わが閣の現状は
対的分散のフェイズを絞た後、中心都市の人口減少が
の後、都市化は新たな展開をすることになった。
郊外の人口増加を上回って、都市圏全体としても人口
に悩むことになったのであるが、わが匝でも東京、大
そこから逆都市化の段階に進み、﹁インナlシティ問題﹂
郊外での人口増加がや心都市の人口増加を上回り、都
このような時期が都市化の第二の段階であり、﹁郊外
減少となる﹁逆都市化﹂とよばれる段階に入ることと
市成長が続く中で人口の郊外への分散が支配的となる。
化﹂の段階とよばれる。郊外化が進行すると、中心都
なったからである。このことは、それらの大都市がい
阪にはいわゆる木賃住宅の密集地があって、その老朽
市から郊外への人口流出等によって、中心都市の人口
255rn-5と の 時 代 を 迎 え 、 都 市 の
わば都市衰退
も老朽化して地域の活力が失われている地域もある。
化が進行している。また老齢層が多くなり、社会資本
心都市の成長を上回って郊外の成長がみられる相対的
衰退・荒廃の問題に悩みはじめたことを意味するので
減少がはじまる。そこで、郊外化の段階としては、中
分散のフェイズと中心都市の人口減少を相殺して余り
あるが、その原因としては種々の要因があげられてい
フ匂。
ある郊外の成長が行われる絶対的分散のフェイズとに
く自然の破壊を意味するものであった。つまりスブロ
成 す な わ ち ス ブ ロi ル が 進 行 し 、 そ れ は 都 市 を 取 り 巻
はむしろ例外的であり、一般的には無秩序な市街地形
に秩序ある郊外の開発が行われた相場合もあるが、それ
なく都市の膨張であり、無秩序な拡大である。計画的
進展、人ぴとの価値観の変化によって、産業(企業)
問の関係において、高速交通体系の発展や技術革新の
がいわゆる﹁インナi シ テ ィ 問 題 ﹂ で あ る 。 次 に 都 市
加し、都市成長の活力が失われることになった。これ
生じ、老齢層、未熟練労働者層、失業者が相対的に増
都市施設の荒廃が進むとともに、居住階層にも変化が
をはじめとする種々の社会資本の老朽化がはげしく、
れているのかを明らかにしようというのが本研究の課
考察するために、人ぴとの住宅選択がどのように行わ
﹁戦後の日本における都市化の分析﹂参照)
など過密問題が再び深刻化している。(←山盟国之・徳間州事
の影響もあって雇用の集中が進行しており、地価高騰
入っていない。とくに最近の東京では情報化・国際化
定住化等の再生政策が行われて﹁逆都市化﹂の段階には
が発生しているが、再開発や人口呼び戻し、あるいは
し た が っ て 、 一 部 の 地 域 で は ﹁ イ ン ナl シティ問題﹂
ールが大きな都市問題となったのである。また、スブ
立地の有利性にも大きな変化が生じた。十日い大都市は
まず、都市内の問題としては、士口い大都市ほど住宅
ロi ル的都市膨張は職住分離を伴っていたから、大量
集積の利読の点で優位を保つてはいるが、空港や高速
この郊外化の段階の最も顕著な傾向は、いうまでも
分けて把握することができる。
の通勤交通を生み出し、通勤混雑というもう一つの都
題である。その場合、上の都市化の流れの把揮におい
このような状況の中で、わが国の住宅政策の方向を
市問題を発生させたのである。
て示されたように、住宅がどこに立地するのか、つま
字の﹁字﹂がつく。かくて、東京への人の流れは、方
それが××県× x郡 × × 町 字 × × 、 な ん と 故 郷 と 同 じ
のことであるが、公営住宅も公団住宅も都市における
の仮りの住まいとして供給されたものであるから当然
る。木賃アパートは、大都市に大量に流入した人びと
一流をすごすに足る、水久住宅となり得なかったことであ
したがって、住宅選択の分析においては、住宅のタイ
かったのである。
生波住宅に対する需要を十分に吸収する、}とができな
だが、その地側は天井しらず。やむなく遠く郊外へ。
集めて土地を良い、家を:::となる。
プ、すなわち建て方(一戸建、共同住宅等)と所有関
済学﹂昭和灯年)
から荘、そして号、字へと変っていく。﹂(よ古市の中の経
り住宅配置の空間構造を明示的に考慮する必要がある。
係(持家、借家)だけでなく、立地点(市中心都市、郊
ンであった。そして、都市に住もうとする人たちのラ
生 活 を は じ め よ う と す る 若 者 が た ど る 一 般 的 な パ タi
限界地の地価を高めるとともに、他方ではスブロ l ル
、
外へと拡大していったことである。それは、一方では
の 安 い 郊 外 に 集 中 し 、 大 都 市 の 外 縁 部l 限界地が外へ
その結果、一一戸建持家を実現する土地への需要が地価
第二は、人ぴとの一一戸建持家に対する選好が強く、
イフサイクルの変化に伴って、住宅タイプがいかに変
これは、東京だけでなく大都市で家族から自立して
化し(下宿←木賃アパート←鉄筋コンクリートの共同
もちろん、第一の問題と第二の問題は強く関係して
すなわち無秩序な市街地形成を促進するものとなった。
園高度成長期の住宅選択
まず、高度成長期に地方から大都市へ移住してきた
返郊)か
う 変 化 し た ( 大 都 市 の 中 心 部 ← 郊 外 の 近 郊 it
住宅(一ニ 1五階建)←木造一一戸建)、また住宅立地がど
まいとしてしか機能せず﹁終の住処﹂とならなかった
いる。公営住宅や公団住宅などの公的住宅が仮りの住
このパタi ン に は ま た 、 高 度 成 長 期 の 主 要 な 住 宅 問
一一服川機会の噌加は顕刊行であった。
での桜山地加に伴うものであり、とくに学卒刊行年層の
大都市閤における人口急増は、わが国の場合、大都市
人口を大幅に上回って、人口が急増した。このような
闘(東京圏、大阪問、名古屋国)への転入人口が転出
高度成長期は人口移動量が急激に上昇し、また大都市
大都市圏への人口集中である。閲1 1に示されるように、
第一にあげなければならないのは、いうまでもなく
ろ、っか。
題をもたらした背景はどのようなものであったのであ
と こ ろ で 、 高 度 成 長 期 の 住 宅 選 択 パ タi ンと住宅問
作用したのである。
りも持家の方が有利となったことも大きな要因として
かった。さらに、地偶の急激な上昇によって、借家よ
一性のため多様な住宅ニ l ズ に こ た え る こ と が で き な
が一不されている。
人びとの、典型的な住宅選択のパターンをみることに
﹁方←荘←号←字iiよ﹂れが、東京に集ってくる人た
かたあざ
出している。
しよう。伊東光晴は、そのパターンを次のように描き
なければならない。
外近郊、遠郊、大都市圏外等)をも考慮の対象とし
2) .IB{rnljij; 土、沖縄!\lを~;?まない。
埋由としては、まずその狭山惟さがある。また規格の画
昭和 303132333435263
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とより公営住宅も、中間所得層向けの公団住宅も、生
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人!の移動紋は除いてあるつ
題 が 反 映 さ れ て い る 。 そ の 第 一 は 、 木 賞 ア パ i トはも
口
0 0さん
転入人口
単身、地方から上京して都内に下宿する。
(万人}
ちのたどる典型的な住居表示の変化である。
﹁方﹂の四畳半1 1よ﹂れが第一歩。次に勤めて収入が増
し、結婚。そこでアパートの一家を借りる。いわゆる
木賃アパートムム﹁荘﹂である。そこで隠忍自重。公団
住宅、公営住宅への入居申込みを続け、迷がよければ
何 回 目 か に 、 悪 け れ ば 何 十 回 目 か に X ×団地の一 O五
引っ越した当初、古川丁主も女房もうれしくでしょうが
﹁号﹂というようなものに移ることができる。
ことを気にする生活だった。今度は述、っ。鉄筋コンク
ない。なにしろ木賃アパートは音がっつ抜け。他人の
だが、この家も一年、二年、一一一年、子どもが生れ、
リートというか文化性々を経験するからである。:
一人がこ人となってくるといかんせん狭い。:・・:そこ
で公的住宅の家賃の安さゆえにたまる貯金に精を出し、
会社から住宅資金を借りて、いや集められるだけかき
1 地域間人口移動の推移(正大都市麗)
図
や文化住宅に入居せざるを得なかった。したがって、
やむなく単身であれば下宿、結婚すれば木賃アパート
する良質の住宅供給は極めて不十分であった。彼らは、
しかし、大都市に流入する人口、とくに宥年層に対
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め
ヲ
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。
して、近郊から遠郊へと宅地開発が進んでいったので
安い郊外地域の土地が求められることになった。こう
都心からより速い、より不便ではあるが、より地価の
地価の上昇は所得の上昇よりも急激に進み、そのため
当然、郊外の地価を上昇させることになる。しかも、
との八一%が﹁庭っき住宅﹂を選ぴ、﹁高層でも大都
に住みたい﹂のどちらを選ぶかの設関に対して、人ぴ
大都市に住みたい﹂か﹁まちから離れても庭っき住宅
みよう。まず住宅志向を問うよ同層住宅でもよいから
室によって行われた﹁住みよさ﹂に関する世論調査を
の昭和四八年一
O月 に 京 阪 神 国 で 京 都 大 学 上 問 篤 研 究
口急増を可能にし、大都市の成長を支えたといっても
こ れ だ け み る と 、 昭 和 四O年 当 時 と ほ ぼ 同 じ と い う
会﹂と答えた人は六%にすぎなかった。
きた場合でも、最終目標は庭っき一戸建住宅である。
住宅購入資金を蓄積したのである。公団住宅に入居で
選)に申し込むと問時に、他方ではせっせと貯金をして
いたのである。そこで彼らは一方では公団住宅(の抽
をとるとともに必ず所得が上昇することが保証されて
って、都市で得た識にしがみついてさえいれば、年齢
長政策をとっていた。また年功序列賃金制の定着によ
昇していた。政府は所得倍増計画を打ち出し、高度成
いたのである。高度成長によって、所得水準は年々上
もっと良い住宅に移ることができるという夢をもって
にすぎず、一戸建住宅に対する志向は圧倒的な強さで
ー ト ﹂ を あ げ た 人 は 都 心 と 郊 外 を 合 わ せ て も 三 1四 %
う人が二⋮ 1 二 七 % あ っ た 。 こ れ に 対 し て ﹁ 高 層 ア パ
は 六 四 1六 八 % に 迭 し 、 次 い で ﹁ 都 心 で 二 戸 建 ﹂ と い
理想の住まいとして﹁郊外で一一戸建住宅﹂をあげた人
高 度 成 長 期 の さ 中 、 昭 和 四O 年 に 京 浜 及 ぴ 京 阪 神 地
域において朝日新聞社が行った調査によれは(表 1)、
人びとの住宅志向の動向をみることにしよう。
に対する強い願望があったことを指摘したが、ここで
ターンが形成された要因の一つに、﹁郊外の一戸建住宅﹂
前節において、高度成長期に⋮般化した住み終えパ
でもらおうという虫のよさがあると皮肉っぽく解釈す
かないだろうから︿高層住宅﹀を建てて、他人に住ん
人としては︿庭っき﹀に住みたいが、実際はそうはゆ
﹁二つの質問を組み合わせて考えてみると、人びとは個
この前答を分析した田端修は次のように書いている。
がかなり増加している。
が二一二%、﹁庭っき住宅﹂が六八%となり、﹁高層住宅﹂
だからみんな庭つきの住宅に住めるようにすべきだ﹂
宅に住むようにすべきだ﹂と﹁日本人は庭の愛好民族
を用意し、﹁日本は国土が狭いからもっと都市に高階住
どういう住宅に住むべきだと思いますか﹂という質問
団住宅志向と住民意識
木賃アパートや文化住宅等の民営借家の大量供給が人
木賃アパ iトに入居した若い夫婦は、もちろんそこに
過言ではあるまい。
し た が っ て 、 上 に み た 住 宅 選 択 パ タi ンを成立させ
あった。東京で﹁都心二戸建﹂をあげた入が大阪より
ることもできるところである。あるいは素夜に、理想
ことになるが、この世論務食では、﹁日本人はこれから
た第二の要因としては、高度成長による所得上昇と年
としては︿庭っき﹀だが、悶土も狭いことだから︿高
永住するつもりはない。彼らは何年かそこに辛抱すれば、
功序列賃金制をあげることができる。人ぴとは年々の
にも注目しておいてよいであろう。
も若干大きいとはいえ、両地域で大きな芳一がないこと
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と回答したのは、公営借家・給与住宅、コンクリート
きよう。なお、クロス集計によると、﹁都市に高層住宅﹂
が二つの設問の回答の差となっているとみることがで
いずれにしても、理恕と現実のギャップに対する認識
筆者には比較的素直に解釈してもよいと思われるが、
(よ﹁近畿隣住民の﹁住みよさい意識﹂鈎ベ 1 ジ)
いうふうに読みとってもよいのかも知れない。﹂
層住宅﹀に住まざるをえぬと覚悟している人も多いと
のいずれかを選択させている。その結巣、コロ同層住宅﹂
所得上昇を期待しつつ貯蓄にはげみ、下宿の二ゑから
これに対して、高度成長末期、 オ イ ル シ ョ ッ ク 直 前
)討も心外
一一戸建住宅への梯子を昇っていった。そして、第三の
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要因としては、一戸建住宅に対する強い額望をあげる
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べきであろう。一戸建住宅はまた土地を持つことを意
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ことであった。その結果、都心から遠く離れた郊外
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ならば、通勤や買物等が不便であっても止むを得ない
に一戸建住宅を求めることになったのである。郊外に
おける一一戸建住宅すなわち土地に対する需要の増加は
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皇想の住宅(%)
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アパート・マンションの居住層や高学際層に棺対的に
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外がよい
市街地がよい
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の朝日新聞の調査結果とほぼ同じ俄である。しかし、
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昭和五七年と六一年とを比べると、共同住宅を選ぶ数
このように、理想の住宅を尋ねると、﹁一戸建﹂が圧
和五回作土二月に総埋府によって行われた﹁大都市地域
が⋮一%をこえて、かなりの変化が生じている。そし
現実のきびしい条件の中での選択となると、たとえば
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F-ーL
ノ
の住宅・宅地取引﹂に関する世論調査(七月刊世論溺査﹂昭
て、より現実を意識させる質問の場合には、さらに大
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和室・ 9月)をみると、﹁かりに現在、家を建てたり質った
きな変化が生じてくる。昭和六一年の世論調交では、
問
りする場合、質物や通勤に便利なマンションなどの共
日常生活の不使を忍んでまでも﹁二戸建持家﹂に固執
間 住 宅 ロiンと持家
こ
、
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。
%以下となるのである。住宅地の選択においては、現
に示されるように、﹁二戸建持家﹂を優先する人は五O
している。これは、先に示した住み符えパターンによ
に対して高齢期には郊外を選ぶ人がふハ⋮%となり逆転
在は市街地とする人が五六%にも達しているが、これ
この数値は、先の﹁これからの日本の住宅﹂に関する
長期間にわたる住宅ロ l ン を 背 負 わ な け れ ば 家 を 持
﹁高額のロ l ン を 背 負 っ て も 持 家 ﹂ 五 三 ・ 九 %
てない場合、
安定している、といえそうである。とくに、都市留別
って説明されると忠われるが、むしろ高齢期において
も市街地を選ぶ人が三四%もいることに注目すべきで
あろ、つ。
化のプロセスにおいて、﹁市街地の共同住宅で借家﹂へ
本人の住宅志向に定着しているとはいえ、戦後の都市
以上から、理想としての﹁庭っき一戸建持家﹂は日
﹁日常生活が多少不便でも持家﹂四三・五%
いった、とみることができるのではなかろうか。もっ
の志向もまた現実の住宅選択の中でウエイトを塙して
サービスを提供するものとなることを期待してのこと
とも、それは市街地の共同住宅がより水準の高い住宅
であろう。
くても日常生活が便利な市街地がよいか、の住宅の場
は、いうまでもなく住宅事情及ぴそ
きであろうか 111
むしろ動揺という、へ
前 節 で み た 住 宅 志 向 の 動 向 i11
匝住宅選択パターンの変化
所について現在と高齢期に分けて質問したところ、表
のよい郊外がよいか、それとも自然環境などは多少悪
交通や買物などの日常生活が多少不便でも自然環境
凶郊外か市街地か
﹁共同住宅でも日常生活が便利な方﹂三八・九%
﹁日常生活が多少不便でも二戸建﹂四六・八%
ば一一戸建住宅を持てない場合、
通勤時間がかかるなど日常生活が多少不便でなけれ
同 日 常 の 便 利 さ か 二F建 か
﹁借家でも臼常生活が便利な方﹂四二・七%
ければ家を持てない場合、
通勤時間がかかるなど日常生活が多少不便な所でな
閉日常の便利さか持家か
﹁高額のロ l ン を 背 負 う ぐ ら い な ら 借 家 ﹂ 三 了 九 %
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一形fllili--iiトlili--iトlili--表の資料三月間附論調先﹂、附和五八年ム川及び zハ争点仁川川
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望間一主将位主一匹一一 i
宅 寸 ilili--Jil--ー ー イlili--主一一五七年一六一年
が両年とも出されており、その回答は次のようになっ
しょうか、それとも共同住宅でしょうか﹂という質問
住まいになる場合の望ましい住宅の形態は、一戸建で
の住宅について世論調査を行っているが、﹁あなたがお
総理府は、昭和五七年及ぴ六一年にも、大都市地域
は四一一一%に達していることは注目に値する。
共同住宅﹂を選ぶ比率が高くなっていて、二O歳代で
となっており、また年齢別では若年層ほど﹁市街地の
く(二九%)、次いで大波(二六%)、名古屋(一八%)
では﹁市街地の共同住宅﹂を選んだのは東京が最も高
の共同住宅﹂を選ぶ人がかなりあり、またその割合も
質問の答と非常に近く、現実の住宅選択では﹁市街地
あり、﹁市街地の共同住宅﹂と答えたのは二七%である。
ω、聞の回答
以上の結果から、ご一戸建の持家﹂が理想だとしても、
;3のような結果が得られた。
表
同住宅と、異物や通勤が不便でも郊外の一一戸建住宅が
する人は大幅に減少することがわかる。
多く、持家や一戸建の居住層に少ないことが注目される。
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て、調査されているので、アンケートの結果をみてお
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とくに住宅志向に閲する優先度がいくつかの点につい
倒的多数となり、とくに昭和五七年の答は昭和問。年
一
一
一
,
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に対して、﹁郊外の一一戸建住宅﹂を選んだものが六八%
選択(%)
同じ倣格であったならばどちらを選ぶか﹂という質問
次に、高度成長が終わって安定成長時代に入った昭
住宅地の
人員は急速に低下しており、全国値では昭和三五年に
いるように、戦後の核家絞化の進展によって平均世帯
る。そして、高度成長期の典型であった住宅選択パタ
四・五四人であった平均世帯人員は昭和六O 年には三・
れを取り巻く社会経済環境の変化と密接に関連してい
ーン││﹁方←荘よ号←字﹂という住み替えパターン
二二人にまで低下した。この結果、世帯数の仲ぴが人
2-2 勤労観の多様化
〔人は何のために働くことが大切か〕
(お金を得るために働く)
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ーーーも第一次石油危機以降の安定成長期に入って徐々
口の伸ぴを上回って、住宅需婆に大きなインパクトを
,
に崩れてゆき、必ずしも典型的なパターンではなくな
与えることになる。この傾向は大都市の場合にとくに
100%とならない。
ってゆく。そこで、いかなる要凶によって、どのよう
著しいが、これは大都市で単独世帯の比率が高いため
応 対:
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な変化が生じたのかについて検詠しよう。
であり、今後さらに増加すると考えられる。
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そこで、総世待数に占める単独世帯の比率をみると、
〔物質的生活の愛かさに蜜点をおく〕
まず第一に、住宅事情の長期的な動向に影響を及ぽ
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生活の価値観の変化
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す人口・世帯構造の変化をみておこう。よく知られて
図 -2 価値観の多様化
のに対して、五五年には一五・八%に伸び、七五年には
全国値であるが、昭和三五年は囚・七%にすぎなかった
T経済企画斤コ一 0
00
年の日本乙。これは、未婚男女及ぴ配偶者を失った高
⋮一一二・四%に達すると予想されている
齢者の一人暮らし世帯がそれぞれ大幅に増加すると予
想されるからであるが、その場合、とくに高齢者単独
世帯の住宅問題が重要な課題となるであろう。
他方、昭和三五年以降、日本の出生率が低下してお
り、死亡率の低下と相まって、日本の人口変動はかつ
ての多産多死刑公から少産少死型に移行してきた。その
結果、家族の兄弟数が低下し、人口に占める長男・長
女の比率が増加している。長男・長女数の相対的増加
は、後継ぎ確保の必要上、若年間閣の人口移動を制約す
るとともに、大都市留の人口移動があっても、親と同
居 す る た め の U タi ンをも哨加させる可能性がある。
人口・世帯構造の変化の中で、住宅問題に大きなイ
ンパクトを与えるもう一つの要因は高齢化の進展であ
ろう。六五歳以上の老人人口が総人口に占める比率は
昭和三五年には五・七%にすぎなかったが、ムハO 年には
一
0 ・三%に達している。そして、高齢化は今後加速的
に遂行し、厚生省人口問題研究所によれば、昭和九五
年 ( 二O 二O 年 ) に 老 人 人 口 比 率 は 二 了 八 % 、 絶 対 数
で約会;八C C万人に達すると考えられている。
大都市闘では、今日までは者年岡崎の比率が高いが、
今後は高齢者が急速に増加すると考えられる。また老
人の住み方も多様化しつつあり、それに対応して同居
型住宅、一叶一川 W型住宅、老人絞家紋・単身老人向け住宅
などの多様な住宅供給が必要であろう。
第二に指摘しなければならない点は、価値鋭の多様
化と、それに伴うライフ・スタイルの多線化・成熟
化の影響である。高度経済成長によって所得水準が上
υ
り
ハdAT
に豊かな社会に到達したといってよいが、物質的に豊
昇するとともに、余暇時間も増大し、わが国は絞済的
方、家庭や健康、レジャー等の個人生活を重視する傾
社会進出を促進し、共働き枇帯を増加させている。他
に関する意識や結婚観にも変化をもたらして、女性の
策関査﹂1 2 、参照)このような変化は、また男女の役割
が多様化していることがわかる。注目すべき点は①の
型的だと考えられたのに対して、住み替えのパターン
パターンがかなりのウエイトを占めていることであろ
高度成長期は、すでにみたように③のパターンが典
⑤親族の家・寮・下街等←持家←より良い持家
の重みが減少して心の豊かさやゆとりへの傾斜が強ま
かになったがために人ぴとの意識における経済的価伎
う。これは民営借家の中での住み替え、とくに設備共
用のいわゆる木賞住宅から設犠専用のマンションタイ
向も強まっているが、それは住生活に対する関心を高
巻く条件を重視する志向を強めており、都市における
めるとともに、都市景観や自然環境などの住宅を取り
この傾向は、図 2 1 にみられるように、大都市地
プへの移動が大きくなったからである。
りつつある。
域においては全国以上に進んでいる。勤労綴について
動を生み、あるいはウォi タl フロントを見直す動き
﹁みどり﹂iil公 園 、 雑 木 林 な どiiiの創出・保全の運
〈燃位:万世帯〉
207
18
9
公団公社住宅
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〈〉主主替え、増改築
ζ〉 主 主 替 え
なお、斗{主将殿 1 1I:{I~形成にf'Iう f U,'}移動、時は jU:':l} のfIみ H: えによる fU"i 移動をあらわしている。
2)所有!日l 係のトの数ドは lU:':l~ 数。
るが、逆に、従来の労働慣行にとらわれないで転職を
このような動きは定住意識を強化する一闘をもってい
とによるところが大きい。非木造共同住宅の増加は図
同住宅いわゆるマンションの建設が義実に増加したこ
進まなくなったこと、これに対して民間の非木造の共
4 に一不されているが、木造が大部分と考えられる二
階建の共同住宅は棟数では約四分の三であるが、戸数
でみると、非木造の三階建以上の共同住宅は昭和五八
借 家 や 公 的 住 宅 を 絞 て 持 家 等 に 来 る 住 胞 移 動 の パ タi
の世帯がライフサイクルのステージに合わせて、民、営
によって純移動の方向と蚤が示されており、新規形成
行われた住居移動の実態を図示したものである。矢印
1 3は、昭和五四年から五八年にかけての約五年間に
うに、五一一一年から五八年にかけて減少がはじまり、五八
大幅に増加しているのに対して、表
なったのであるが、昭和田三年から四八年にかけては
和 四 三 年 の 住 宅 統 計 調 査 か ら デi タが得られるように
離れが進行しはじめたのである。木賃住宅の戸数は昭
貸住宅が狭山沿であるうえ老朽化も進んで、徐々に木賞
もう一つには、昭和三0年 代 に 盛 ん に 建 設 さ れ た 木
年には約五一二O万戸となり、過半を占めるに至った。
ンを読みとることができる。このパターンを分矧すれ
く、一戸数の七割が三大都市閣に集中している。とくに
である。もちろん、木賃住宅は大都市圏で圧倒的に多
4 に示されるよ
ば、ほぽ次のようになるであろう。
年には全国デl タでは約三OO万一戸までに減少したの
東京閤では昭和五三年に約二O%に達し、五八年に一
質な住宅を代表するものであり、その解消は大都市に
をたどると忠われるが、木賞住宅はわが問の狭少・低
六%にまで低下し、今後は木貸住宅は一一層の減少傾向
②親族の家・寮・下宿等←民営借家←持家
{羽小
④親族の家・寮・下街等←公的住宅・給与住宅←持
与住宅←持家
③親族の家・寮・下宿等←民営借家←公的住宅・給
借家
①税伎の家・寮・下宿等←民営借家←より良い民営
選択はどのように変わりつつあるのであろうか。次の図
さて、以上にみたこれらの変化の中で、現実の住宅
るいは許容するライフスタイルを生み出している。
態にこだわらないで住み替えを行い、移動性を選好あ
行う者も増加しており、この方向では、住宅の所有形
る高・遠・狭となって不評となり、公的住宅の建設が
これは、一つには公的住宅とくに公邸住宅がいわゆ
も同様の傾向がみられ、東京では働く目的の中で経済
128
になっている。
的理由のウエイトが減少し、自己実現欲求が高まって
東京都企商審議室長京における地域経済施
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1,
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1
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ているが、民営借家が口以も通勤時間が短く、利便性
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では七0 ・四%の高率となっている。このことは、大都
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%であり、共同住宅率は二三区で六二・五%、都心七区
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ほど土地の高度利用が進んでいることを示しているが、
限 -4 共同住宅の階数別棟数・住宅戸数の推移
できよ、っ。
(本節の住宅デ lヲは、建設省住宅局﹁磁説田本の住宅事情﹂
によるところが多い
却価値観の多様化と住宅選択
視するタイプ。商業・娯楽・医療施設に対する近接性
おまるであろう。
7ルチハビテl シヨ
ンの可能性を指摘したが、今後、穏々の理由から、マ
さて、上で移動許容型の場合の
職住近接をはかるため交通アクセスを重視するタ千ブ
ルチハビテl シ ョ ン が 行 わ れ る こ と が 予 想 さ れ る 。 四
を優先し、また教育・文化環境が重視される。なお、
も、この烈に入れることができる。都心に近い共同位宅
てそれは変化し、あるいは形成される、と考えてよい。
や 所 得 水 準 に よ っ て 、 つ ま り ニ l ズや制約条件によっ
い 。 ラ イ フ サ イ ク ル の ス テi ジ に よ っ て 、 ま た 、 戦 業
備を金融上の効成措法等により促進する。﹂
illマルチハビテl シヨン iijに 対 応 す る 住 宅 の 務
ライフスタイルを可能とするため、複数住宅の利
充足、あるいは国際化等に対応した大都市の機能的
﹁自然とのふれあいや余暇を重視した生活ニ l ズの
人上総でも、
まず、若年腐の場合は、娯楽や文化等の都市サービス
と述べられており、政府もマルチハピテ│シヨンの促
ところで、これらの価値観は必ずしも限定的ではな
はこの引によって故も選好されることになるであろう。
想 の 住 宅 で あ る と は い え 、 現 実 の 条 件iii高 地 価 、 所
悶の大多数の人ぴとにとって隆っき
に対するニーズが強い一方、住み替えの自由度も大き
進をうたっている。
以上の分析を前提にして、大都市圏における今後の
得 制 約 、 職 業 に よ る 制 約 等1
1iに よ っ て 理 怒 の 実 現 は
い。したがって、都市サービス享受裂や移動許容型が
住宅選択がどのように行われるかを考察しよう。わが
決して容易ではない。これに加えて、ライフスタイル
多 く 、 都 心 近 く の 共 同 住 宅 ( 借 一家)が選択されること
考えることができる。
居住する、住宅に加えて、大都市出向内の近隣地域あるい
間トゥインハウス・タイプ一大都市開内・外の家族が
マルチハビテ!ションは、大きく次のこつに分けて
m
の多様化も遂行している。したがって、住居をめぐる
が多い。もっとも、若年時代から﹁庭っき持家﹂を求
山セカンドハウス・タイプ一大都市間内に家族が居住
φ 。(類似の分類が、経企序﹁民世紀居住の展望と課題﹂において行われている。)
A
価値観も多様化しつつある、といってよい。そして、
めて貯蓄に努力する人ぴとも存在するであろうが、こ
する住宅以外に、大都市閣外に自然との按触や余暇活
戸建持家が刻一
それは大きく次の三つの価値観に分かれると考えられ
の場合もできるだけ家賃の安い共同住宅に間住せざる
動のために新規の住宅を取得・利用する場合
るニ i ズ が 生 じ 、 他 方 所 得 水 準 の 上 昇 に よ っ て 持 家 を
壮年期になると、子供ができるため教育環境に対す
L
川庭っき持家圏執型一従米からの一般的な価値観にも
を得ない。
ヲ
とづいて、あくまでも庭っき持家を求めるタイプ。高
持つことが可能となり、庭っき持家固執型の場合は近
所得層あるいは東京以外の比較的地価の低い都市闘で
は、中心都市や郊外の一一戸建に居住できるが、東京閤
宅)が選択される場合も今後は多くなるであろう。ま
地を転勤するという﹁マルチハビテ│シヨン﹂(波数住
族は郊外あるいは近郊の庭っき住宅に居住し、犬は各
の地価高騰によって、住宅地の地価はほとんどの地域
従米はセカンドハウス・タイプが主であったが、今
郊タウンハウスや郊外の一戸建持家に居住することに
は都心近くに新規の住宅を取得・利用する場合
なる。また移動許容型の人びとは、都心に近い共同住
ウス・タイプが増加するであろう。
後は高地側、高齢者ケアの必要性などからトゥインハ
あるいは中所得層の場合は一戸建は容易ではなく、近
郊タウンハウスが代表的なものとなるであろう。いず
宅(借家あるいは持家)を選択する場合が多いが、家
が多く、居住地選択の自由度を確保する必要があり、
間移動許容型一職業の関係から国内的・鴎際的な転勤
た、都心サービス享受型も今後は増加し、都心に近い
で約二倍となり、⋮縫っき持家間執裂に属する標準的な
ふめマ令。
れにしても、庭すなわち土地を所有することが目的で
住み替えの可能性を優先するタイプ。転勤は多くの場
附併が新規に東京でや一戸建持家を取得することに械
庭っき持家間執型と都市サービス享受型に分かれるが、
ぶ附外で総人するのでなければ子に入れることはで
めて附妹となっている。したがって、一戸時叫持家は京
と く に 東 京 闘 の 場 合 に は 、 最 近 ( 昭 和 五 八 ILO-年)
し て 、 次 の も の を あ げ て い る ( 表17)。
な お 、 国 土 庁 で は マ ル チ ハ ビ テl シ ョ ン の タ イ プ と
合昇進を伴っているから、昇進を住宅よりも重視する
老年期になると、移動許容裂は減少ないし消滅し、
共同住宅(持家)に対するお姿が培加すると考えられる。
間都市サービス一甲子受型一都市の中心部で得られる都市
いずれにせよ種々の形態の高齢者住宅に対する需要が
ハウスが選択されるであろう。
エリート岡崎に多く、都心に近い共同住宅や近郊タウン
サービスに対するニ i ズ を 優 先 し 、 生 活 の 利 便 性 を 意
6 で居住水準
改善裂とみることができるが、自然指向対応型のケー
きない状況といってよい。これは、表
スもあるであろう。この場合、平日は夫は単身で都心
臨むすび
最後に、以上の考察を前提にして大都市における今
れるとしても、住宅の外部は都市住居によって共同で
らない。住宅の内部は個人の白期な設問としてつくら
ティの重要な構成要素であることを考慮しなければな
同住宅が必要となっているが、都市住宅は都市アメニ
第三に、大都市においては、今後ますます良質の共
てゆかなければならないであろう。
ョッピング関連、生活・文化サービス等を一一層充実し
さらに情報化時代に対応した情報・通信サービスやシ
ンフラストラクチャ)の強化は当然のことであるが、
市の基礎的サービス(上・下水道、道路と交通等のイ
一戸建持家をあきらめる層も増加しつつある今日、都
受できることにある。生活利便性のためには、庭っき
に 居 住 す る こ と の 魅 力 は 多 種 多 様 な 都 市 サi ビスがす子
第二は、都市サービスの多様化と強化である。都市
適切な﹁棲み分け﹂がはかられねばならない。
様のトラブルが生じていたが、住宅タイプの多様化と
フスタイルの居住者が入局することで種々の不満や様
でみられるように、一つのタイプの住宅に多様なラ千
ければならないであろう。従来は、例えば公団住宅等
好・許容するタイプも増加しつつあることを考慮しな
他方では住宅の所有形態にこだわらないで移動性を選
り、都市の生活環境を重視する傾向があるとともに、
スタイルへの対応である。一方では、定住意識が高ま
第一は、価値観の変化・多様化に伴う多様なライフ
後の住宅政策の方向づけを行い、住宅間開発を誘導・計
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の外部は公共財的な性格をもち、広場や街路樹、道路
アメニティを構成するものである。その意味で、住宅
の向上をはかることは重要な課題である。
(ゃまだ・ひろゆき/京都大学経済令部数
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な ど と 同 じ 性 格 を も っ て お り 、 都 市 環 境1 アメニテイ
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年
8月
析﹂(吋地域内イ研究﹄第μ巻、昭和印年
山田浩之・徳岡一幸﹁戦後の日本における都市化の分
昭和ω年刊月
東京都企画審議室﹁東京における地域経済施策調査﹂
究
﹄ 1 9 8 5年 9乃)
出共和夫﹁都市居住の活性化と住宅政策﹂令部市問題研
所収)
、
凶会議編﹃都市の復活﹄都市文化社、昭和臼年 6月
巽和夫﹁都市住宅再生への道﹂(日本都市問題会議関
昭和必年 5月
国民住宅建設協会﹁近畿幽住民の︿住みよさ﹀意識﹂
和創年 5月
建設省住宅局住宅政策課﹁図説日本の住宅事情﹂昭
和
伊東光附﹁生活の中の絞済学﹂講談社、昭和日年 8月
絞済食品凹庁総合計爾烏﹁幻世紀居住の展望と課題﹂昭
参考文献
2
に近い共同住宅に居住し、週末は大都市圏外の居住環
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容
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3
境の良い広い住宅に家族とともに住む﹁ウィークシェ
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画するに当って必要な要件について、次の点を指摘し
ておこ、 7。
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都心型住とコミュニティの存在臨形態
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│大都市中心地の都市社会学的分析
奥
とくに中枢管理機能の集積地としての﹁都心﹂﹁新都
管理機能の自己巡動化が光られるようになっている。
九 八0年代の東京論と設ねて巨大都市論が大きく査開場
大都市をまさに大都市たらしめている情報や資本、権
心﹂空間が、東京論の焦点となっている。逆に震えば、
(
C
m三三ミ)をめぐる論議が
力のや枢管現機構分析と併せて、人びとが生き、働
東京の﹁都心﹂﹁新都心﹂が時代の思潮を体現した象
か、いわゆる巨大都市
都市社会学の研究系譜は、大都市への視点・概念・
徴的空間として、大都市論全体を牽引している。﹁日
跡を絶たないはけ。しかしそれがメガロポリス論であれ、
モデルの構成にあると言えるが、現代社会の変容過程
の二国性を有していた。時代の思潮にあって、大都市
き、そして思考する場所としてのコミュニティ分析と
本のモデル﹂そして﹁世界のモテル﹂としての東京論
ひきかえに、間内レベル、さらには国際レベルのゆ枢
にあって、大都市の視点・概念・モデルのゆらぎ現象
把握の焦点が権力機構とコミュニティとのいずれかに
してからである。具体的にはコミュニティ論の後退と
が著しい。例えば欧米の都市社会学では、﹁メガロポ
偏するとしても、この二耐性のバランスのなかで、大
メガ・シティ論であれ、都市社会学の大都市把擬は、
リス(豆晶弘喜三岡田)﹂論の呈一不が、それ以前の大都市
たことは、確かである。
は、従米の大都市論の概念枠組みで包摂できなくなっ
都市社会学上のこのバランスが崩れだしたのは、
都市抱濯が試みられたことに変わりはない。
々)﹂とか﹁世界都市(者2 5 2々)﹂と
(ロ向。間白n
H
の概念枠組みでは包摂できない、新しい質的な合意が
シ-アィ
あった。﹁メガロポリス﹂論以後も、例えば﹁メガ・
回大都高論の現在をどう読むか
*山中叫ナ閣の加仙人口により、申立l l、 同11お よ び 去 4 ー か ら 去 4 ; 却 ま で と 別 表 は 刻 愛 さ せ て い た だ き ま し たo Aし く お 知 り に な リ た い 方 は 、 勺 住 宅 建 築 研 究 所 総 い Uけを参照ドさい。
田
大都市論としての東京論のゆくえは、まさに﹁大都
市が大都市でなくなる状態﹂にあると言えよう。﹁東
京はもはや都市であることを止めた﹂と附える研究者
もある、けの。一方、一九七0 年 代 に ﹁ 地 方 の 時 代 ﹂ ﹁ 地
域主義の思潮﹂の立場をとった研究者のなかにも、八
0年 代 中 後 期 の 東 京 論 を 地 域 の 文 脈 で 説 明 で き な い と
こ ろ か ら 、 例 え は ﹁ わ た く し た ち は 一 九 七0年代以降、
地域の立場から都市の再生へ、そして大都市がひらく
以下ではこの課題を、さまさまの具体的事例を通じて
ティ出題﹂と規定されている。そして﹁大都市インナ
地 に 顕 在 化 し て い る と こ ろ か ら 、 ﹁ 大 都 市 イ ン ナi シ
る よ う に な る 。 ﹁ 大 都 市 イ ン ナl シティ間一組﹂は﹁大
綻と重なり、﹁落日のニューヨーク﹂がとりさたされ
都市インナ│シティ問題﹂がニューヨーク市の財政破
別大都市としても、例えばニューヨークのばあい、﹁大
大都市問題の最大のトピックスとして浮上する、け的。倒
i シティ問題﹂は、一九七心年代前・中期の合衆国の
解き明かしていくことにしたいけけ。
国アメリカ大都市からの教訓
北 東 部 メ ガ ロ ポ リ ス £ omZ︿︿︿出才、その後
=
s
s
=
)
フランスの地則一学者・ゴットマン C Z口。。
(C55 り23唱。2zzご と し て 受 け
!シティ問題は、大都市問の負の述関をともなって、
とめられるところから、倒山川大都市の亥退化l イ ン ナ
北東部メガロポリス全体のスノウベルト(∞口三︿Z
F)
都市哀退化問題
2Jヘ若山岳と略称)を﹁メ
ルチモアi ワシントン(∞2
にはボストンニューヨークフィラデルフィアボ
ガロポリスアメリカ合衆国の都市化された北京地区
が AH
衆凶北東部沿岸の帯状に述なる大都市群、具体的
や 、 都 市 に つ い て 、 か な ら ず し も ﹁ 地 域 ﹂ の タl ムで
化 が 、 七C年代的トピックスともなる。
である﹁地域﹂は、どこにいったのであろうか﹂﹁いま
かたる必然性はうすくなっているからである。都市へ
一年であった川日。機能・構造的にコンプレックスを
臨海部﹄のタイトルの大著にまとめたのが、一九六
新局面へとみちぴかれてきた。その問に、当初の発想
のまなざしはたしかに変容した﹂との﹁力点の移動﹂
﹁﹁地域﹂の排他的説明力を減殺﹂したが、地域の文
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国 の 経 済 好 況 に も 支 え ら れ て 、 国 内 レ ベ ル 、 さ ら にM
なす超大都市のメガロポリスが、第-一次大戦後の合衆
大 都 市 と し て の ﹁ 故 盛 期 ﹂ を 過 ぎ た ニ ュ l ヨi クが、
ークの伏択をうかがうことになる。ところで、いわば
のモテル﹂﹁限界のモデル﹂としてポスト・ニューヨ
ークの影の部分の大きさから、大都市・東京が﹁日本
北東部メガロポリス、あるいは中核都市・ニューヨ
が率直に語られだした日付。確かに大都市論のゆく、えは、
脈が﹁都市の文脈のなかにおかれた一語句﹂とまで一一ニ同
際レベルの中松管理機能集積地として、まさに大都市
沈んでいる﹂にしても、京以一化の危機をパネとして、
群のか最盛期々を誇ったことは、総かである。しかし
都市と地域が協働関係に丘つ大都市阿佐の州路と川能
い切れるかどうか。東京論を下敷きとした大都市論の
と再生﹂が八心年代にかけてのトビソクスをなすが、
性を見山したことは、)小川定できない。﹁大都市の衰退
変容過程を認めながらも、大都市、そして巨大都市を
一般化して二一口えば、都市と地域との共通の文脈を求
しているわけだが、しハC年 代 末 か ら 七0年 代 の オ イ ル
大都市の内実尚(リアリティ)の影とが二軍構造をな
ニューヨークの再生事例は、同じ北東部メガロポリス
その後哀込化のぬ途を辿っているのかとコ一一円うと、必ず
めること、そして都市と地域とを相万一に入り組み浸透
ショックを挟んで、大都市川材全体の基調に変化が促さ
のボストンやフィラデルフィア、あるいはボルチモア
大都市川群のか円以盛期々は、同時に、似別大都市の内郎
し合う協働関係において捉えること、ここに挙者のしり一
れた。倒別大都市の地域レベルに者れすると、中心市
についても該当する。日正立したいのは、同内の経済基
地域の文脈との繋がりで捉える立場は依然として有効
して中継管理空間化の﹁都心﹂についても、併外では
場 が あ る 。 こ の 立 場 は 、 八C年 代 中 後 期 の 東 京 論 、 そ
少、高齢化、人種・エスニック問題、失業・半失業問
街 地 問 辺 の イ ン ナi シ テ ィ に お い て 企 業 流 出 、 人 什 減
H 削減則﹂の大
般の川復にもけん八日う大都市の制作工は、﹁ 山
いる東京と比べて、ニューヨークを被う常気は﹁京く
ない。都市や地域への校点は、概念規定だけでなく、
の川川難
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しもそうではない。例えば﹁抗感矧﹂にさしかかって
都市社会学の方法論上の立場、さらに研究者の都市鋭、
その他の問問題群の顕在化がけんられた。これらの問題が
題、施設・装置の老杓化と機能不全、治安維
にさまざまの示屑を敗秘していたことも、知る必要が
地域観に由来していることも一台定できない。本一紛の主
都市への復位をただちに意味しないことである。むし
ある。大都市群の外貌出(アヒアランス)の光と倒別
題勺一つ﹁都心型居住﹂も、﹁都心﹂と﹁居住﹂とい
は、税皮の差こそあれ、山街地に持した既成知外地波
である。
う利五排他関係にある両概念をコミュニティ論を仲立
を合め大都市桃造全体に波及するにボるが、中心市街
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ろ 京 退 化 以 後 の 大 都 市 像 を 探 る と こ ろ dに
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ちとして繋ぐという都市社会学的課題を、判っている。
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をピ!クとして、一九六O年三・一一一%、九七O年i 二
ィに占める黒人人口の比率がど一O%のラインをこえる
いずれにしても、それが人ぴとの近隣的結合や帰属
論上の課題認識がある。衰退化以後の大都市像は、未
感(アイデンティティ)、あるいは自治システムの運営
ゆだねられるとの調査報告は引もある。
にせよ、中産階級白人の郊外住宅地を奥裂として発想
と 、 そ の コ ミ ュ ニ テ ィ の コ ン ト ロ i ルは、黒人の手に
示している。減少人口の内訳は、圧倒的に白人(当EZ)
O年から八O年の一 0年間にl 二八・四%の減少率を
されたコミュニティ・パラタイム(郊外型コミュニテ
に中心市街地に近い北部フィラテルフィアでは、一九七
を中心としており、したがって市人口に占める有色人
ィ、郊外自治体、中産階級的価値観念)は、現実的変
七%、一九八O年⋮一二・閤%の減少ネを続けている。とく
種、とくに黒人(宮田口乞の比率は、⋮九七O年三一⋮⋮・
容のなかで改編を迫られることになる。戦後都市社会
ての成熟化した大都市像を探るという点では、共通し
一時的、局所的問題としてではなく、大都市群全体の
ている。むしろ大都市衰退化lインナi シティ問題を
六%から八O年三七・九%へと上昇している。一九九
だ不透明であるが、世紀末、あるいは一二世紀に向け
構造的問題として把握する。
O年センサスでは凶五%前後の開示人人口が見込まれる
を挙げているけ引け。大都市衰退化i インナi シティ問題
まロ)に続く第四段階として、再都市化(到。口吋ZENE。
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る。筆者の所属していたペンシルベニア大学の周辺は、
人口という従来の図式は、もはや通用しなくなってい
が、地域別では中心部1 黒 人 人 口 、 郊 外 間 辺 部l白人
を主なフィールドとしていたが、中心部、郊外周辺部
見た郊外化と郊外地コミュニティの形成(サパ i ビア)
へ﹂と⋮一一日われるように、第二次大戦後大規模な展開を
g
)
学の研究は、﹁スラム(巴口同とからサパ iビア(∞与号r
阻
クラッセン (
Fg
出
E
E
印
加
。
ロ
)
の
都
市
化
三
段
階
説
を紹介した山田浩之は、山狭義の都市化(己吋宮口MN白
色
。
口
)
、
が印逆都市化を表徴しているが、この間逆都市化を通
かつては中産階級白人を中心とした郊外住宅地であっ
カケとして、郊外型のコミュニティ・パラダイムの見
を 貫 通 す る 大 都 市 衰 退 化1イ ン ナl シティ問題をキツ
ω郊外化552ggN5。ロ)、同逆都市化(宮ロユEMN
過して凶蒋都市化にどう繋げるかに、﹁大都市の衰退
たが、現在はコンドミニアム形式の集合住宅、庭付き
直しが求められている。同時に現実問題として、比較
と蒋生﹂の課題認識がある。
部にはじまる地区環境の荒廃化は、中心部と隣接した
た。郊外地の変化のなかで、住宅ニ lズと供給システ
的安定的な郊外地に大規模な住宅市場がひらかれてい
しかし黒人人口は地区環境荒廃化1 スラム化にただ
既成郊外住宅地にも波及、浸透していると一一一一悶える。
の独立家屋いずれも黒人人口で!日められている。市中心
とくにフィラデルフィアの現場から
J表選化﹂問題
ここでは筆者が一九八五八六年に滞在したフィラ
問中山部と郊外周辺部に売る
ムに関する抜本的検討がはじまっている。そこでは、
0
土地と住宅という不動産倣値の選択だけでなく、住形
ちにつながるわけでなく、一部中産階級黒人(玄五色。
て、﹁ハウジング(泊。己田宮間)﹂がテi マ化している花川川
式や生活スタイル、価値観を含めた総合的な問題とし
デルフィアの事例注討を中心として、主題﹁都心型居住
級眼前人は、これまで中産階級白人をや心とした典型的
zom吋。)のム口頭と、いわゆる黒人郊外化現象(盟2r
EE吋
ZEN丘一。ロ)に注意しなければならない。中産階
ルフィアは、既成市街地を中心として、人口減少、人
パlグ 、 ボ ル チ モ ア に つ い て も 問 様 で あ る 。 フ ィ ラ デ
の転換という点では、フィラデルフィア田川城のピッツ
ンナ│シティ問題の影響をいち速く受けた。産業構造
業 中 心 の 産 業 構 造 の 転 換 に あ っ て 、 大 都 市 衰 退 化1イ
が、同時に﹁最盛期﹂の製鉄、造船・ドック、化学工
遠いによる葛藤、紛争がひきおこされているが、附一出入
そこには人種・階層間の利害、既成観念、生活様式の
認定包)のコミュニティ形成が現実化している。当然
新しい事態の積み重ねのなかで、社会的混成型52E
ている。郊外住宅地全体としては未だマイナーだが、
(}互認ぎ向。答。吋)という全くに新しい事態がはじまっ
の白人の撤去と、郊外住宅地での白人と黒人との共住
な郊外住宅地にも進出してきでいる。郊外住宅地から
線が殴昧だし、コミュニティ内部も二世、三位人口、
が弛み出している。コミュニティと外部社会との境界
るロ i カ ル ・ エ ス ニ ッ ク ・ コ ミ ュ ニ テ ィ と し て の 基 盤
に形成されたスラムが、世代交替期に入って、いわゆ
段階に海外移民あるいは国内移住者を核に自然発生的
とコミュニティの存在形態﹂にからむ大都市動向を把
で膝史文化的由緒のあるか古都。として知られている
撮しておきたい。フィラデルフィアはボストンと並ん
穏・エスニック問題、施設・装置の老朽化と機能不全、
郊外化現象はもはや不可避である。特定のコミュニテ
とくに第一次ベビi ブiム世代の﹁郊外二位55cろg
地域管理能力の弱体化、治安困難その他の問題を抱え
一方、郊外からゆ心部に目を移すと、狭義の都市化
成の住宅市場では対応できなくなる。
z
z
h
w
r
z
L
) ﹂が、住宅取得年齢に入るに及んで、既
た。フィラデルフィア市の人口は、一九五O年の二O七万
ー
rqJ
ρhu
ミュニティ放棄(。。E 出
EE々 ﹀EEggg丹)﹂と一一一日わ
場地区に接した低所得アパi卜や商業地区では、﹁コ
ストリiト単位にかなりの空洞化が目立つ。とくに工
ってきているが、既成の黒人スラム自体、ブロックや
分化のなかで、かれらの居住地選択はかなりの娠をも
l ルをなした、黒人スラムの存在である。黒人の階層
る。とくに印象的なのは、中心市街地周辺に巨大なブi
るいは東南アジア系の移民が散発的に侵入してきてい
六0 年 代 以 降 の 新 移 民 、 ヒ ス パ ニ ッ ク 系 や 中 近 束 、 あ
でいる。そして、この空洞化を埋めるかたちで、一九
あるいは高齢者世帯の転出にともない、空洞化してき
ア メ ニ テ ィ 志 向 の 人 び と ) の 小 心 市 街 地 復 帰 組 aRr
ルな職業、夫婦共働き、子供無し、都市的なスタイル、
!?iの郊外二世(とくに高学歴、プロフェッショナ
ヒルの間十数階の市層アパートには、第一次ベビーフ
ター・センター等と見まちがっていた。ソサエティ・
えっているところから、当初は生保関係のコンピュー
は、このタワーがいつ通りかかってもしんと静まりか
心市街地のランドマークとなっている。ところで筆者
現在では歴史的建築物のシティ・ホ│ルに代って、山中
るがは問、デラウェア川沿いに前出立する美しいタワーは、
EE2・∞印ロ。ロ)であ
たエドゥムンド・ベーコン日仏門
計 は 市 都 市 計 画 委 員 会 の か ゴ ッ ド フ ァ ザ10 と一戸一口われ
ったが、しだいに魁りだし、ストリートには活者らの
は、治安の惑さと荒廃した風景で放浴されたままであ
レッジの問を東部に交差する﹁サウス・ストリート﹂
また﹁伊川市一のソサエティ・ヒル﹂とクイーン・ヴィ
物、界限﹂の兄直しが進められるようになっている。
に点在する﹁古い町(オールド・タウン)﹂や﹁古建築
ヴィレッジの魁りが起爆剤となって、同じ山中心市街地
期のスラムであったとは信じられない。このクイーン・
らニュ lイ ン グ ラ ン ド 地 方 の 郊 外 風 景 で 、 こ こ が 一 時
犬をお供の夫婦姿などを目のあたりにすると、さなが
家屋、後方には白い尖搭の教会が見えかくれしている。
た。美しい並木道に立ち並ぶ飾り窓のある三角屋根の
れるゴースト・タウン風景を現前とすることになる出川。
軒一軒の家屋は、出入口が一一一葉、四重にロソクされて
どで賑わっている。しかしクイーン・ヴィレッジの一
ラ千ブ・ハウス、名前座、小劇場、骨董尿、十日本屈な
ニュiヨークに近接しているところから、マンハッタ
おり、新入居者の生活スタイルやニiズにんいわせた生
群れと飲食応、コーヒー・ショップ、白然食品の応、
ンにオフィスをもっ中堅ホワイトカラーが、通勤別の
活関連施設(とくにプライベート・スクールやマーケ
エリート等の都心活動層を見込んでいた。実際には、
れている。工場や倉庫群が閉鎖されたまま野ざらしの
アパートとして利用する向きがおおいとのことであっ
zson広 三 や 大 学 教 授 、 弁 護 士 、 医 師 、 ビ ジ ネ ス ・
状態になっていたり、人つ気のない朽ちたアパートや
た。﹁ソサエティ・ヒルの実験﹂は、人口定着化の効
ットなど)不足と併せて、地域管理のシステムが米整
とくにフィラデルフィアの市境のデラウェア川沿いの
商庖が立ち並ぶ風景は、異様である。
俄である。
北東部は、このゴースト・タウン風景がくりひろげら
間再生の田揺と可能性
果凶では成功したと一一一円、えないが、しかし中心市総地の
﹁サウスウォ l ク(∞E
P2Rr)﹂ と い う 場 所 で あ る
ン・ウィレッジをデラウェア川沿いに南下した一角の
﹁第三のソサエティ・ヒル﹂にあたるのが、クイー
三つのモデルと﹁力点の移動﹂
﹁第一のソサエティ・ヒル﹂と地続きのクイーン・
な意味をもっ。
っ計画意志を呪わしたということで、モニュメンタル
衰退化のただなかにあって、くっきりとした輪郭をも
﹁コミユニテイ放棄化﹂は哀退化問題の⋮つの極限
とも-一
ζ釦ミ句。吋之)を先頭として﹁コ品前別進するフイラ﹁デアルフイア
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大
都
市
再
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⑦
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芯
司
吾芯
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江川。﹁サウスウォ l ク﹂は、中心市街地からすれば﹁周
辺 ﹂ の イ ン ナl シティ地域に印刷する。﹁サウスウオー
白色。とへの真剣な取り組み
﹁第二のソサエティ・ヒル﹂と呼ばれている。クイー
のは、米だ人びとが住まい、暮らしを立てているコミ
ク﹂が第一、第二のソサエティ・ヒルと決定的に違う
司
屯
(
活 力 化 百 円rgm2H
ン・ヴィレッジも市街地の十日くからの住宅地であった
ュニティが維持されている点にある。﹁サウス・スト
での再開発事例け凶が、
が、しだいに荒廃化して、ム笠屋も目立つようになって
リート﹂から南部の市街地はかなりに荒廃化が目立ち
5525-vmo)
が、﹁ソサエティ・ヒル(∞2 広々 E
Z
)
いた。ここでは﹁第一のソサエティ・ヒル﹂の経験に
ウィレッジ
る。ソサエティ・ヒルは市街地の中高級住宅地であっ
学んで、更地型(クリアランス型)の再開発ではなく
仲間-同 N
たが、黒人のスラム地域化、やがてはコミュニティ放
廃原かブロック単位で散衣しているが(南郎フィラデ
の実験﹂であ
棄化の見られた場所である。市当局は民間ディベロッ
町の構造(ストリートや地慌の付組み、家尿、教会等の
ルフィアlω25 匂E Z
号SE由 一 帯 は 、 ス ペ イ ン 系 住
をしている。中心市街地の再開発事例として有名なの
パ!と協力してソサエティ・ヒルを更地化して、その
十日処築物)をそのまま活かして、全 倒 的 な 改 造 を 施 し
γ
跡に三棟からなる白亜の高脂アパートを建設した。設
るなかで、コミュニティ独自の雰囲気が談し出されて
朽化して、時代の錆のついた﹁スラム﹂と一一一一問えるかも
れる。フィジカルには一つ一つの建物や地区環境は老
帯が清潔で秩序感あるコミュニティであるのに驚かさ
民がおおい)、﹁サウスウォ l ク﹂の内部にあると、一
、第二のソサエティ・ヒルの経験にハ子んで、第一一一の
っ深い。また一 C Cパ ー セ ン ト 新 人 問 者 を 予 定 す る 第
とするなかでは、﹁人の住む﹂ ゃん尖はまことに章一くか
れている事実に着日付する。コミュニティ欣楽化を引前
態であろうと、とにかく人が住み、近隣生活が雑仕付さ
のソサエティ・ヒル﹂とは、仮りにそれがスラム的状
再開発卒業は、係史的に坊われたコミュニティの存荻
しれないが、現に人が住み、丁寧な近隣生活を維持す
い
ヲ
令
。
並ぶ。屋根裳部屋のある民家は三階建てを、主体として
づ け ら れ て い る こ と を 知 っ た 。 い わ ばC 々 と し て の 中
﹁最初の郊外地域(吋宮司百三∞口吉与)﹂として佼罰
て は 、 サ ウ ス ウ ォi ク は 実 は 初 期 フ ィ ラ デ ル フ ィ ア の
人たちから成っていた。サウスウオ│クの袋而史とし
グランド、アイルランド、ドイツ、ロシア、そして然
事例に見合っている。そして、第一から第三に一歩るモ
つのモデルが第一から第三のソサエティ・ヒルの実践
た引状維持・修復型の市打開発卒業、さしあたりこの三
烈の再開発卒業、そして既存のコミュニティを核とし
ランス型の河川開発卒業、いわば換骨奪胎の全両的改造
﹁古い都市の中のニュ l タウン﹂と守⋮一一口われるクリア
を前提として、コミュニティの機能維持、凶復とその
いるが、木造のばあい老朽化は避けられないが隅々に
心市街地からすると、﹁問辺﹂﹁問紘﹂にあたるべ∞zrRf
ための仕掛け、仕組みづくりが、当面の課題をなして
細かい予人れが施されている。職業階層的には、中学
は も と も と ﹁ω
zg﹂ と し て の 意 味 を 悦 び て い た と い う
デルの﹁力点の移動﹂が、都市再開発卒業の時代の類
コミュニティ内部には一袋小路、山庫、淵、坂の陰影を
一般事務従事者、あるいはアーチストなど﹁普通の人﹂
校の先生、中堅技術者、職人、市役所職員、サービス・
ω。 歴 史 的 に ﹁ω25﹂ と し て 形 成 さ れ た サ ウ ス ウ オ
ともなう生活道路が網の目状に張りめぐらされており、
で あ る 。 サ ウ ス ウ ォ l クの風景には、パブや一般食食、
け
型とも 一一日える。時代の類型とは、
いる。そして、サウスウォ l ク の コ ミ ュ ニ テ ィ を 小 核
ドラッグ・ストアと並んで地区公会堂や学校、倉庫
ークは、多様な人種のルツボとしてだけでなく、施設
外発的都市﹁再開発﹂から内発的都市﹁再生﹂への道
旅龍、民消印四・パ l、 民 殺 場 、 火 葬 場 、 火 薬 会 郎 、 大
すら一一同える引状維持・制復刑土が都市再開発モデルの先
程を指す。通常の見方からすれば、消桜的・受動的と
a
般化して一一一日えば、
として、外阿川の市街地環境改努へと述動させている。
群、古い館、そしてデラウェア川に附して古い揃測な
的にも中心市街地から締め出された鎌怒胞設売春婦、
この道路浴いに古い木造、煉瓦、石造りの民家が立ち
た ず ね る と 、 サ ウ ス ウ ォ l クの最初の居間問者は一六三
建物の﹁スウェーデン教会﹂がある。会磁調交資料を
砲の筒の製造工場その他がは間流状をなしていた。火砲
ティ問題の深刻さを灼くとしても、興味をひく。間切実
端 と し て 弦 場 し た こ と は 、 大 都 市 公 退 化i 千 ン ナl シ
に四四年先立っていた。⋮七六二年に自治制(玄ロロ広
の筒の製造工場は現在でもいけ川い煉突(∞吉三件。君。吋)
八年のスウェーデン人で、フィラデルフィア市の誕生
が残されているが、工場自体は地区の青少年向け体育
に、時代の絞却を呉にする三つのモデルが、デラウェ
合 併 し た 。 ま た 、 サ ウ ス ウ ナiク の 民 家 や 教 会 等 の 公
ア川沿いの市街地に並んでいることは、二郎では一一一つ
m年 に フ ィ ラ デ ル フ ィ ア 市 に
吉宗可)がしかれ、て八五 m
に負の山山ム闘を持つサウスウォi ク は 、 地 域 の 重 荷 を 机
のモデルの選択の一仰を問時代的に残していることを怠
館に改造されている。いずれにしても、胞設、地滅的
味する。一つのモデルが他のモデルを排除するという
デルフィアのなかの最古の建築物﹂であること、もと
Mの般利を持
って祁万一に折り合いながら洗練された独r
共施設は、一七枇紀後半から一八世紀初頭の﹁フィラ
つコミュニティを取っていった。
外発的﹁再開発﹂から内発的﹁再午﹂への近松にあ
地域の復位と社会的ストックu
u財 の 見 直 し
関係にはない。
もとデラウェア川沿いの港町としてひらかれたサウス
放棄化の侵蝕を免れ符ないことも舷かである。﹁第一二
ォi クも、現在では問械の市街地にはじまる荒廃化、
コミュニティ形成史としても存在感のあるサウスウ
ウォ l クは、船員、船大工、各種工口氏、職人(皮革、
衣服仕立て関係ほか)、サi ビ ス 業 関 係 の 比 較 的 低 層
の住民構成と、人種的にも多様な系統を背景としてい
た。最初の居間問者はスウエ│テン人を先頭としてイン
るにせよ、同地(質・多様なものへの徹底した許容度が、
間辺部のフィラテルフィアを見るとき、ボス十ンとの
人 を 受 け 入 れ る な か でE
U治 制 の 改 編 を 繰 り 返 す 郊 外
の郊外地域﹂のサウスウォ iク、あるいは中産附級黒
自 治 郎 (ZEEZE可 ) を 依 然 と し て し い て い る 。 こ
クエーカー精神の真髄をなす。大都市・フィラデルフ
相違が浮き彫りにされる。わが同の郊外地コミュニテ
って、 地 域 を 磁 場 と し た 大 都 市 の 再 生 が 一 本 の 太 い 線
パl等 に よ る ク リ ア ラ ン ス 裂 の 大 規 棋 再 開 発 事 業 が 依
ィアは、さまざまの問題群を抱えているが、いまや山中堅
ィ、﹁自治﹂制度のパラダイムは、フィラデルフィア
の点で、﹁スラム﹂としての陪史的出自を持つ﹁最初
ι
然として進められているが、既存コミュニティ や
生活
市民層としての黒人や、異人積、マ千ノリティ・グル
現よりはボストン型(あるいはニュ│イングランド型)
﹁
ロ 11カル(}。2
}
)﹂と類型分けしている。
体験者の住民を中心に発想の大都市の再生過程が、着
ープにとって住みやすい、リベラルであると聞く。ムハ
先 の サ ウ ス ウ ォi クは歴史的にやや枇村監(な事例であ
実に経験を積み重ねて新しい潮流をなしていることは、
C年代の移民法改正では、フィラデルフィアは韓国、
をなしていることがわかる。もちろん民間ディベロッ
であるが、人びとの生き方や心的態度を含め地域の内
もはや否定できない。サウスウオ│クの経験例もそう
閉鎖的である。もちろん、これには地域に根ざす自治
だけでなく、﹁排斥的地域制
ては、清教徒ホストン人の地域生活を律する心的態度
ュニティとしてのまとまり、秩序を維持するにあたっ
のシステム、同一階層・同質性のコミュニティの原則
け川町その他、黒人等の呉人種の佼入を事前にチェックす
を志向していることは、機説を要しない。しかしコミ
﹀﹂介
t
h
v。
の前に、これらのシステム、原則をおかす外部的イン
る
ベトナムなどからの新移民を多数受け入れた。この点
フィラテルフィアの市街地全体についても、係史的
パクトには防禦的、と一一ニ問うのが当然の筋書きをなす。
J日治。制度としてはややルーズで、組(質・多様なも
で、ピューリタンのボストンは、実質・多様なものに
に内蔵した建築物や生活関連施設、町としてのたたず
都 市 歴 史 学 ( ピ ユE 自己。ミ)シリーズの一郎に、
つフィラテルフィア型は、大都市衰退化と再生の具体
のとの折り合いでコミュニティの拡がりと重層性を持
に連動するとき、大都市の再生過程はより篠かなもの
ま い や 骨 格 、 人 び と の 都 市 ・ 地 域 へ の 誇 り ( 宵EO え
ビンフォード(問。ロミの巴ロゲ三)の話題作﹃日以初の
面的な力が、外部からの計画的仕掛けや仕紺みづくり
手
。 12と や 帰 属 感 情 、 洗 練 さ れ た 都 市 的 生 活 様 式 な
郊外地域(吋宮司町三∞与三宮)﹂がある花山川。ピンフ
η
的可能性という点で、今日的意味に笥む。
ひろ
自治。制度が有効に働いているからに他ならない
一
(
Z
n
55542ロ宮町)﹂
﹁日取盛期﹂に内蔵したこのような社会的ストック1財
ど の 社 会 的 ス ト ッ クl財がゆたかであるけ日。大都市の
日大都市再定義、再組織犯に向けて
と定義するならば児問、このようなコミュニティ定義を
的に築く洗練された新しい共同生活の規範、スタイル﹂
ォ ー ド は 、 ボ ス ト ン 郊 外 の ケ ン ブ リ ッ ジ ( のZMrZ仏
問
。
)
め、とくに大衆交通機関の発達により、郊外地域が﹁住
とソマi ビル(∞。E
52--E を 対 象 と し て 、 郊 外 地
宅地域﹂﹁寝 主コミュニティ﹂化している現実の前に、
抗保する都市の資質、条件が間われてこよう。合衆国
が、衰退化の重い経験を介して漸く見えてきた。人び
ューリタン・ボストンとクエーカー-フィラデルフィ
郊外地域の一般的性格が規定されている。しかし最初
フィアの地域現場では、このような都市の資質、条件
北東部メガロポリスの‘角をなす大都市・フィ一フテル
との心的態度や生活様式における﹁コスモポリタン感
ア﹄と題するユニークな一書がある日川。フィラテルフ
の郊外地域は大衆交通機関の発達以前に成立しており、
コミュニティを仮りに﹁さまざまの意味での呉質・
ィアとボストンは、先に述べたように、同じ北東部メ
そこには理念的、制度的に独立の気概と﹁小宇宙﹂と
つ成熟した大都市モデルを桃恕するには米だ時日を要
が漸く整ってきたとお一一日える。地域と相互協働関係に立
多様性を認め合った上で、初万一に折り合いながら白党
ガロポリスの傘下にある歴史文化的な古都である。し
しての自足的な単位をなしていたことが、ケンブリッ
域(∞ロr
Rr) の 原 型 を た ず ね て い る 。 彼 の 仮 説 は 、 大
かし地域や人ぴとの生活に根ざす﹁コスモポリタン感
ジとソマ l ピ ル の 実 証 的 資 料 に よ り 解 き 明 か さ れ て
するが、メガロポリス以後の﹁欧界都市﹂化の動向に
都市郊外地域が中心地との機能・構造的つながりを強
覚﹂には微妙な如何違がある。パルツェルはこれを宗教
いる。確かにケンブリッジとソマ i ビルの呪在は、ボ
あって、地域と和五初除関係に立つ大都市モデルの同
だ社会学者・パルツェル(肘・ 0
m
S ∞己定。=)の﹃ピ
文化のル│ツにもとづく﹁都市・地域の精神﹂の相違
ストン郊外住宅地としての性絡を強めているが、制
定義、持組織化を促すことは確かである。しかもフィ
覚﹂にも注意しておきたい。フィラデルフィアの生ん
に求めている。すなわち、フィラデルフィアはクエー
度的にはボストン中心市との合併を桁否して、独自の
A
2∞B。唱。r
カー精神をルl ツとする﹁コスモポリタン(
L ボストンはピューリタン精神をル│ツとする
gロ) 、
o
戸川d
}
(
‘
いからである。
とは、﹁世界都市﹂ニューヨークについても例外でな
ラデルフィアの事例が、かなりの普遍性を持ち符るこ
通の住宅戸内向。止血
r
r 出。5 同=開)﹂供給が、ニューヨー
ストックの河側発と併せて、小・低所得者向けのよ川
がとなっていることは避けられないが、とにかく既存
は不良化、廃屋化して、施設の維持自体が小山の財政負
いても求められてくることになる。わが国なりの衰退
るだけに、いずれこのテ!?は﹁殴界都市﹂東京につ
のありかた、﹁都市﹂の復位を尚一九磁のテ!マとしてい
心 的 態 度 、 あ る い は'
H治のシステムとも結ぶ﹁都市﹂
﹁世界都市﹂ニュ i ヨ ー ク が ﹁ 国 内 の モ デ ル ﹂ の 枠
例にとどまらず、内発的﹁都市﹂再生についての独自
大阪市や神戸市の市街地再開発は、再間開発の具体的事
をこえて、情報や金融、権力の阪で﹁世界のモデル﹂
の方法論、釘学を持っている。そしてこの市街地再開
と可能性について、実紡、のあることは否定できないけ守
ューヨーク・プラン﹂では、山規模の紡少、山ロ
ジ・プログラムも、かなりに一般化している。﹁新ニ
発を地域の側で支える住民イニシアティフとしては、
化を経験した関西の大都市が、地域と結ぶ再生の凶路
否定できない。しかし﹁世界都市﹂ニューヨークの中
ーカル・セクタiの振興、間都市川上小工業のあり方などが
﹁作為姿求刑どあるいは﹁作為阻止型﹂住民巡動を起
オフィス・ビル建設にあたっての住空間のリンケイ
根管理空間・マンハッタンに表白してみると、情報や
柱立てとなっており、地域と結ぶさまざまの仕掛けと
点とするコミュニティ形成、まちづくり遂動の重い経
ク市の当耐の課題をなしていることは、日汗日してよい。
ニ
ュ i ヨーク市立大学の社会学スタッフによるニュー
金融の集積地としての位置づけでは、不充分である。
ニューヨークは、象徴的空間としてのマンハッタンに
プラン・メlキングが進められている。﹁昨一界都市﹂
として﹁もう一つの国家﹂の様相を深めていることは、
ヨ ー ク 市 の 社 会 学 的 研 究 ﹃ ス ラ イ ス さ れ た 林 檎 2r
諸適応、就業機会、教育・自治制度、性・犯罪などを
エスニック・グループの生活スタイルや文化、都市的
だ名のニューヨークをスライスして見ると、各人種、
ポリスでは、佐紀末あるいは二一川町紀に向けて、大都
を骨子としていることが明らかである。北京部メガロ
ず、山地(一政・多様な人口の定義する場所としての牟一射性
見るように、中枢管理機能・機関の集街地にとどまら
り一般化して言えば普遍としての経験の﹁戦後モデル﹂
市の構造変化を地域現場で鋭く捉えた﹁戦後史﹂、よ
地区、真野地区その他の巡動経験は、戦後日本の大都
験がある。一併として、大阪市上六地区、神戸市丸山
ω ご2eh 山抑によると、ビてク・アソプルとあ
﹀宅r
トビソクスことに実態調査し、マンハッタンのもつ多
プランナーの次の発一一一日は、示唆的である。﹁元来、﹁都
この意味で真野地区の再開発過程に参画した一人の
った。
この運動経験を抜きにしてはリアリティを持ち得なか
を提供している日守﹁住民参加﹂の市街地再開発も、
市のモデルの組みかえ作業がすでにはじまっている。
国大都市・東京と﹁世界都甫﹂東京の間
層的性格を浮き彫りにしている。例えば新規移民の緯
国人の分析では、第一次海外移民当時とは異なり都市
的適応に優れており、とくに最初の就業機会としての、
ら、いまやニューヨーク市の野菜、果物関係の市場を
勤勉な家族労働力主体の野菜や果物のパラ売り商売か
いかもしれないパω。とくにフィラテルフィアの事例は、
現在には、ニューヨークの経験は直後に参考にならな
ポスト・ニューヨークを目ざす﹁社界都市﹂東京の
まちづくりは、まさに﹁都市再生﹂をはたすことにな
しい次元で形成することになろう。そのとき、内発的
同化、持続化は、必ずや本米的な﹁都市的﹂様相を新
つけていること﹂であるとしたら、多面的な住民の協
同生活﹂、そこにおける﹁居住者の礼儀、洗練を身に
市 的 (C吋 ず き ご と い う こ と ば が 、 密 集 し た 場 所 で の 共
ッタンの居住人口分布が地問上に精細に色塗りされて
東京との距維をひろげられた関西の大都市にむしろ適
大都市・東京の構造的変容i中心部と郊外周
辺部の分極化
いるが、それによると居住人口部分が予想以上にマン
合的なのかもしれない。間会総段階における﹁東京閥﹂
る。逆にいえば、都市再生は、住民の自発的協同の行
されている。都市計画家・林泰義の調査では、マンハ
ハッタン全体に拡がっており、しかも都心空間の拠点
為の累積なくして達成しえないともいえよう﹂品。
寡占するまで韓国人が進出している状態が、明らかに
にも居住人口の浸透が目立っている。このことは、ニ
や町村並みの﹁その他﹂に位誌づけられていることに
大阪市の市街地再開発過程については、フィラデル
対﹁その他﹂の地帯区分で、関西の大都市が地方都市
注 意 し た い 。 し か し ニ ュ l ヨi ク や フ ィ ラ デ ル フ ィ ア
フィアの事例を挙げるまでもない。戦前期からの民間
ューヨーク市が第二次大戦後、連邦政府の援助のもと
宅系のストックが豊かであることが、居住人口の定着
の重い経験は、人ぴとの新しい都市的生活スタイルや
に公共住宅の建設に尽力してきたこと、したがって住
化に寄与していると一一一日、える。もちろん公共住宅の一部
ハ
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地価の高騰等は外部の引き金に過ぎない。ムハ0年代の
を 、 ﹁ 住 空 間 ﹂ や ﹁ 居 住 者 ﹂ の カ テ ゴ リi で く く れ る
が、限りなく高級ホテルに近いスペースやレジテント
ビルに付議された﹁住空間﹂がいかにも貧しく、いつ
イニシアティフの街づくりの共有経験、あるいは人ぴ
でも﹁オフィス空間﹂に差しかえ可能と映る実情か
ものか。しかし一方で、容積ボーナス制度のオフィス・
﹁世界都市﹂東京の出口を楢んでいっきにナダレ化し
高度成長期以米、東京の中心部をめぐるさまざまの芯
たと言えようか。後に詳しく紹介するが、立教大学社
惑、利害が負荷として根雪のように堆積したものが、
神戸とは同列に論じられないが、それでも大都市・京
て考えれば、準ホテル形式しかリアリティを持ち得な
すれば、都心区で﹁住空間﹂を市場メカニズムにのせ
と の 都 市 的 生 活 様 式 や 心 的 態 度 の 社 会 的 ス ト ッ ク1財
都の魅力は、施設や装援面ではなく、市街地の中心に
て、七チi ムが一四箇所の﹁阿﹂を実態調査している。
会学部の奥剖ゼミナールでは一九八七・八八年におい
がゆたかである点が、現実に効いている。京都は大阪、
現に人が住み、﹁町﹂が維持されていることにある。
市﹂としての於持を忘れて、東京の一極集中構造にく
﹁都市﹂とは何かへの思いをいたすことなく、また﹁都
奥行きをうかがわせる。しかしこのような関西三都も、
の洗練された独自の様相は、﹁都市﹂としての厚み、
いても︾わいたいからである。神田・神保町界限は、⋮
郊外二世)に、﹁町﹂の残影を自分の目で確かめてお
り運動の次世代を担う学生たち(その多くは東京国の
録化するというよりも、コミュニティ形成、まちづく
実際には、消える都心の﹁町﹂を調査してきちっと記
、
﹁
ノ
。
引きのほうが、ビジネス感覚に合うということであろ
というよりも、ホテル形式の長期宿泊契約者との取り
ら﹁賃貸﹂へと切りか、えられたと開く。﹁人口定着化﹂
呪わしているが、四O階の高層アパートは﹁分譲﹂か
いことになる。中央区の大川端の再開発もほぼ全容を
り
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多少とも陰影をともなう人間関係紋様を合め、﹁町﹂
みする動きが、八0年 代 に 及 ん で 目 立 ち は じ め て い る
ヶ月も聞をおくと、﹁町﹂の様子がわからなくなる。
とも無関係ではない。当然、中心部を地域の側から捉
あたかもこつの大都市のように交差することがないこ
東京の大都市構造が中心部と郊外周辺部に分極化して、
一様化の方向にあることは、先述した。このことは、
結びつきを欠いたままに、日本そして世界の顔として
ともヤlドとも言、えない暖昧な空間である。筆者がた
されているが、ビル正面の﹁公開空地﹂はストリート
表通りの商届街も一部は大手不動産の巨大ビルに収容
地区ぐるみ移転のゴースト・タウン風景が見られる。
屋 の 暗 躍 で 知 ら れ た が 、 八0年代中後期の現在では、
の状態である。芝・増上寺の門前町・大門は、地上げ
す神間・三崎町界限は、まさに戦い済んで日が暮れて
﹃明治生れの町・神田三崎町﹄け却のすぐれた記録を筏
界線、すべて過去の繰り言になってしまった。側、えば
クヒルズの謹南坂教会、大川端の佃烏および住吉神松
神保町のストリート上の古本屋街と裏町の界限、アー
でも、個性と厚みを増すと怠うが、いかがなものか。
界隈性)日初を保全することが、向じ人為的都心空間
の施設、景観(更に言えば、歴史的に培われた陰務、
型の再開発の前に次々と姿を消していく﹁町﹂の⋮部
逆だとここで指摘するつもりはないが、外発的な更地
それにしても、アメリカの再開発モデルとは流れが
HH﹁都心﹂が、地域との
えると、人ぴとが生き、働き、そして思考する場所と
またまこの﹁公関空地﹂からビルの写真を撮ろうとし
大都市・東京の中心市街地
ことを付言したい。
いることが、明らかになる。
しての内実蘭や自治の仕組みにおいて表弱化してきて
﹁
アl クヒルズ開発が、あの美しくも印象深く、象徴
的であった議南坂教会を活かせなかったことは、その
を 持 っ て い る ﹂ と の プ ラ ン ナ ー の 指 摘 バ却も、筆者らは
が⋮のみで、この開発の価値が殆んど失われる程の意味
ういうことなのであろうか。
たら、ガードマンが飛んできて差し押さえられた。ど
とくに﹁都心﹂地域への関心
東 京 の 都 心 再 開 発 の 目 玉 と な っ て い る 港 区 の ﹁ アi
は、地域が徐々に変容するというよりも、ちょうどナ
⋮夜にして﹁消える﹂という光景に出くわす。それ
は、著しいものがある。歴史的経過のある﹁町﹂が、
都心空間は、象徴的であるけ加。一角をなす高層アパー
から﹁丘(ヒル)﹂へとまさに人為的に造られたこの
古い町名であったことからすると、﹁谷(ヴアレイご
ル﹂風景を思わせるが、この場所かかって谷町という
家グル i。フの協力のもとに一九六0年代にすでに四分
した民間イニシアティブで、河原⋮郎・鬼頭梓ら建築
の際史的出絡を持つ地区だが、同地区は教会を中心と
ルズ﹂が進められている北品川は、﹁品川宿﹂として
知らないわけでない。それにしても﹁第二のアークヒ
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クヒルズ﹂は、フィラテルフィアの﹁ソサエティ・ヒ
タレが外部のちょっとした引き金でいっきにおきるよ
トを区の職員は﹁人口定着化﹂の一環として説明した
東 京 の 都 心 と 外 周 の イ ン ナl エリアの地域的変容に
川川都印区の内部的蛮容と問題点
うに、この町くずしのナダレは容易に止みそうにない。
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の一世紀後を読んだ﹁品川河開発プラン﹂平一不の経験
を持つ日仏山。問地区を訪れた⋮九八八年一一一丹羽衣、周辺
の更地化のなかでポツンととり残された教会合問川教
会 ) も 、 シ ン ボ ル と し て の 搭 が ま さ に ブ ル ドl ザi で
l'!E!l谷区議事段
総溺新太郎
こわされている最小であった。日以後に二一一日。仰向と続
く月おの⋮角(公闘跡地)に、目下大型ビルの工事が
進められている。周凶の﹁町﹂の問介限とは山地(質のこの
ビルを、区の総合庁舎(凡お支所)だと知ると、行政
のまなさしがどこに向けられているか明らかである。
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話文京1E'f怒木
谷
平臼野市神笥台
中林よし千代宿区持部事均
議選議畿議議
松 苔 諮 鐙 千1
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E持E!l小川町
発的﹁再開発﹂プランは、市場メカニズムだけでなく、
東 京 の 都 心 お よ び 外 周 の イ ン ナi エリアをめぐる外
せて A を卜l ン ・ ダ ウ ン し た も の をB、 現 状 維 持 をC
統する神出のし江体的都心形成をA、地区の刑判況に合わ
A、B、 C の 選 択 肢 が 示 さ れ た 。 霞 ヶ 問 、 丸 の 内 と 述
当職員らの方法論上の立場や価値観にかかわっている。
シナリオ B は ﹁ 乱 開 発 防 止 ← 初 対 的 地 盤 沈 下 の シ ナ リ
メリットをスライドをまじえて熱っぽく説き、反対に
オ﹂、シナリオ C は ﹁ 都 心 機 能 喪 失 の シ ナ リ オ ﹂ と 決
と し た 。 都 市 計 画 の 専 門 家 は 、 シ ナ リ オ A の必一安性と
めさしてiil都 心 定 住 を 考 え る シ ン ポ ジ ウ ム ﹄ と 千 代
出いていたが、一九C C名をこえた地元の出席者は﹁⋮
席する機会があった。港区の﹃やわらかな生活都心を
の事例報含と、市街地再開発の芝浦港街地区を舞台と
生この町で住みつつけたい﹂﹁神的で生まれ、神間で
ルフィアの第一、第二、第一二の再開発モデルと重ねて
した都心定住の設計競技の発表があった。美しいデザ
育った。死ぬまで何とかして神間にとどまれないもの
め つ け た 。 学 者 は こ の シ ナ リ オ A、B、 Cをフィラデ
インの模型展示は楽しかったがけ湖、都心定住を一定の
か﹂とのな思表示を押さえつつ、とにかく現状の一歩
凶区﹁住むまち、住めるまち千代間区﹄がそれである。
リアリティをもって具体的に進める手がかりは、もは
先の街づくりプランを、期待していたものと思う。現
とはみなされない。フィラデルフィアのサウスウオー
千代田区ではやはり底地質いのはげしい神田で集会
クに学ぶまでもなく、﹁現状維持﹂という日々の選択
づけるという白々の選択は、﹁無為の怠け者の態度﹂
ら裂に入ると、会場の神田小学校界隈は、別世界のよ
状維持と一一一一口つでも、同闘の変化と外圧のなかで住みつ
うに﹁判﹂の秩序、雰凶気が潔っているのには、驚い
が持たれたが、夕刻すぎ高層ビルの立ち並ぶ大通りか
や失われていることを知った。
港 区 で は 先 に 触 れ た 、 底 地 震 い の は げ し い 大 門 二γ 自
筆者は一九八七年に都心区で開聞かれた二つの集会に出
﹁再開発﹂に携わる建築・都市計剣山系らや計画行政相
た。集会では都市計断行政の学会による、神間地区の
より 7
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交した人生 i
こし
工烏﹂のサi ビスをすでに見込んでの行政改編と一一一一向う
大川端を含め再開発後の新人民者および東京湾上﹁人
これからも、待自l';J8Jを5!l鑓と惑い、新たな
再開発プランが発表されたけ川。神間を﹁情報向感度都
塁
塁
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翠に心に止まることでし
かう。
ことであろうか。
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a!l]問。
私共がこよなく愛した、ここ持
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この授、私共 1
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古i
きになりました神
市﹂と位置づけ、この実現にム向けて街づくりシナリオ
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雲閣悲喜護れ、それぞれに新たな生活をスヲー
回 都 山 区 を め ぐ る 外 発 的 ﹁ 再 開 発 Lプラン
/ありがとうございました。
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辺(総集部)
をさまざまの仕掛けを介して外的に以降するというこ
とが、本米の計附(あるいは計同行政)のあり方と
九一川うものであろう。似りにシナリオ A でも、仲間山介限
の﹁町﹂の秩序、芥同気を取りこむほうが、﹁社界都
市﹂東京の都心にふさわしい似性と厚みある小笠間が形
の専門家に限らず東京の都心⋮以⋮をめぐる考え方には、
成されることは、先に述べたとおりである。都市計耐
﹁川間際都市﹂﹁枇界都市﹂としての顔をな識する余り、
もう-つの存夜としてのコミュニティには日がいかな
い。それどころか、都心には人の住むコミュニティは
不安との考え方(ネ能機能としての都心像)が機たわ
っている。この考え方の前提には、人目減少を合め都
心阪の内部的変容の既成事実化がある。
矧 法 人 都 市 化 の 流 れ と ﹁ 特 別 市 域 L指定
都 心 阪 の 人μ減少は汁問、一九六C年 代 の お 度 成 長 期
以後ド伴化の傾向を辿っている。人口の下降化は、す
で に 戦 前 期 に は じ ま る が 、 そ れ で も 一 九 六C年当時と
くらべて、例えば千代山区、中央区の⋮九八七年引在
M常
は 、 そ れ ぞ れ 問C %台 の 状 態 で あ る 。 減 少 は 都 市P
業 等 永 年 間 住 者 の 多 か っ た 都 心 の ﹁ ド 問 ﹂ 地 区 にM立
つが、地方から住み込みの⋮時居住者憎の激減、表ザヰ
後榊航者用が結婚等を契機に他民に転出、辛うじて地元
に残っていた永年居住者が仕事をたたみ後継者に続い
て転出、あるいは中腐のビル経常者も地区ぐるみの再
開発でどルを予離すという事態が目下進んでいる。人
防のホテル住まい的な応住形態も、当然に人口数にカ
μ減少の歯どめにあたっては、外国人を今日め都心活動
ウントされるが、都心区行政の立場からすれば、この
都心活動燃と永年印刷住者層との院を繋ぐ存在として、
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ない。とくに抑制市自営業者等のす手後継者グルi ブは、
永年間住者の一一昨一人口の定着化が凶られなければなら
内/︼
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地域の新しい担い子をなすはずである。しかし現実に
いき、また伝統的な居住者組織としての町内会も、﹁制
は、居住人口の減少と符節を合わせて﹁問が消え﹂て
町内の居住者世帯(世併主)の総立を代弁する州組織と
ように、ム日然人ではない法人を構成主体としたね会の
以外の大都市の実態に照らしてみるとき、特殊米京的
づく。繰り返しになるが、都市論と地域論(コミュニ
ティ論)とは、本米、如何一υ一協働関係にあるものだが、
側から﹁特別市域﹂﹁特別自治体﹂の指定を求める動
方というより、日本のモデル、日本の体質にも由米す
京論の現在がある。しかしこれは東京に内在する考え
それが和五初除関係にあるところに、﹁枇界都市﹂東
きが出てくることは、必至であるリリいずれにせよ、
穏化している特別区(二三区)においては、都心区の
とは何か。とくに﹁区﹂から﹁市﹂への制度改編が日
る。日間や大都市閤直轄の﹁特別市域﹂﹁特別自治体﹂
な(同時に特殊日本的な)波野であることに容易に気
アメリカ合衆凶の北東部メガロポリス)ゃれ本の東京
この時代気分も、欧米の先進大都市(本稿ではとくに
象徴的笠間としての都心を引前にすると白川とされる
群がひそんでいる。しかし﹁附界都市﹂京京、しかも
点の移動)から自治体の制度的改編に来る一述の問題
時代気分の背後には、都市観にかかわる基本認識(力
中・後期の東京集中・説集中のやや肯定的とも一⋮一問、える
一九六C年 代 当 時 の 過 大 都 山 論 と 違 っ て 、 八C年 代
ていることに、改めて注意しておきたい。
所在だけでなく、このような考、ぇ方が一本の線をなし
一坊には、川平に資本や情報、装慌の
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のレベルで捉える E
5年
昭和 4
る持代気分であって、えり山した会つの流れは、しば
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度﹂としての形式而ばかりが維持されている。それは、
って﹁法人﹂会員で涼め合わせされている状態である。
しての﹁制度﹂は残されても、減少の居住右社指に代
都心区全体を通じて、﹁法人﹂会員の相対的比重は高
く、なかには民住会員ゼ口、町内会長も区外出住とい
うケ│スもある司令そしてこの﹁制度﹂としての阿内
会を唯一のパイプとする都心区行政においても、しだ
いに非居住の昼間人口、法人組織との結びつきに基礎
サービスが振り向けられてきている。刑題は都心地域
の﹁法人材会化﹂の実態のなかで、都心区行政自体が
他の山の手区や郊外都市とは横,収、へできない、﹁別枠﹂
との判断をもつことにある。人口減少と﹁的﹂の解体
は、基本的には地域自治体の存立基般にかかわる問題
だが、これらの傾向に意外と危機感が薄いのは、この
﹁別枠﹂の判断があるからに他ならない。とくに一同
の、そして国際規模での﹁都心﹂を現前にすると、最
高伎の山中枢管理機能・機関の法人都市化が当然祝され
(女)
あり方や、自治体の制度的仕組みがテーマ化されてく
てくる。そこでは、ゐ部ですでにとりさたされている
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人が住むとかコミュニティの存在は、東京のような都
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らく見守るより他ないのかもしれない。
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図
図-2 千代田区人口の年齢構成の推移
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L 域の洗練された独自の
嫌相とは
ス。フロ i ル 的 な 郊 外 地 に マ イ ホi ムを符た人びとが、
日常生活(環境)子設の解決を通じてどのような新し
い共同生活の規範、スタイル、さらには地域に根ざす
自治の仕組みづくりを闘っていくかが、コミュニティ
争点の住民活動・述動の展開過程に着目をして、コミ
誠交の主な関心事であった。筆者自身も、新しい型と
ュニティの概念化とモデル構成を試みた江川。郊外地は、
コミュニティ論の射裡において
﹁世界都市﹂東京の中心部i都心とい、えども、地域
戦 後 生 れ の 第 一 次 ベ ビl フ!ム社代を挟んですでに﹁郊
化を前提として、郊外向辺部を専らフィールドとして
と相互に入り組み浸透し人口うモテルとして創案しなけ
きたコミュニティ研究は、戦後都市社会学の一つの苔
ればならない。洗練された独自の様相をもっ都心とは、
ル ジ ー で は な く 、 郊 外 や イ ン ナl エリアの地域とも交
積をなしているが、他面では、山中心部、とくに中心市
がひろく定着するに至っている日初。しかし大都市郊外
差する拡がりを持つ。しかし﹁人口定着化﹂を与件と
街地l 都心はコミュニティ閉山九が射程外というか、かア
外二位﹂の時代に入り、住形式を含め郊外的生活様式
した郊外型のコミュニティ形成のモデルを、そのまま
ンタッチャフル。なフィールドをなしていた。中心部
このような地域と重層する都心にほかならない。ここ
イ ン ナl エ リ ア や 都 心 に 移 行 し て も 、 現 実 的 な 説 明 カ
にはコミュニティ・モデルに拠らない、施設・装置や
代の﹁地方の時代﹂﹁地域主義﹂の思潮にも見合うコ
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での地域は、失われるもの、壊されるものへのノスタ
が進む中心市街地にあってコミュニティ復位を政策が
を欠くことは明らかである。﹁コミュニティ放棄化﹂
られた。中板管理空間としての都心は、巨大都市間レ
機関、権力等の概念枠組みを手掛りとする説明があて
ベル、国内レベル、さらには出際レベルの施設・装置、
れることになる。いわば都市社会学のフィールドが、
境﹂﹁住民意識﹂﹁住民参加﹂﹁自治行政﹂その他のキ
中 心 部 と 郊 外 周 辺 部 に 振 り 分 け ら れ て 、 例 え ば 中 心1
マクロ(あるいは超マクロ)な視野の都市論が燦関さ
辺部のコミュニティ形成は、それなりの概念枠組みと
機関の集積的場所でもあるところから、都心と重ねて
具体的素材が務えられたが、中心市街地の地域論は核
まちづくり環論がとくに交義しないまま、それぞれに
結 節 機 関 、 統 合 機 関 理 論 、 周 辺1 コミュニティ形成・
イワiド を 持 つ コ ミ ュ ニ テ ィ の 概 念 化 も 、 中 心 地 の 現
となる﹁住民﹂や﹁組織﹂不在のままに、より自覚さ
実に照らして点検されてよいは守それにしても郊外周
れたテi マ と し て は 熟 さ な か っ た 。 地 域 論 者 も 結 果 と
ミュニティ形成・まちづくり理論の展開に対して、八
展 開 し て き た 。 時 代 の 類 型 と し て 言 え ば 、 一 九 七C 年
このことは都市社会学の研究事情とも、無関係では
0年 代 に 入 っ て ﹁ 日 本 の モ デ ル ﹂ ﹁ 険 界 の モ デ ル ﹂ と
して都心機能純化説にくみしたと一気、える。
ら⋮九六0年 代 の 大 都 市 郊 外 化 現 象 に 着 目 し て 、 コ ミ
な い 。 戦 後 日 本 の 都 市 社 会 学 は 、 一 九 五0年代後期か
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況をどう読むか。﹁夜間人口﹂﹁住民﹂﹁定住﹂﹁居住環
ュニティ概念化の間切実的基礎を得た。それが開地形式
都市論の新局砺をひらいたとも一一一一悶える。九八C 年 代
の集合住宅であれ、戸建ての独立住宅であれ、いわば
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論と地域論との相互協働関係において、どのような成
と﹁地域﹂論なき都市論との並置の状態である。都市
てはまる。単純化して言えば、﹁都市﹂論なき地域論
ィとの相互排除関係は、都市社会学内部についてもあ
まざまの問題群、具体的には施設・機関とコミュニテ
の現在、すでに考察してきた東京の﹁都心﹂の苧むさ
ナ│シティを挟んで例えばフィラデルフィアのインナ
ンナ!シティ祁立の比較、さらには大阪都市凶のイン
ィ相互の比較、あるいは東京都市阪と大阪都市闘のイ
力 点 を 移 動 さ せ て 、 例 え ば 東 京 都 市 閣 の イ ン ナl シテ
見るに主って、都心・準都心外周のインナ!シティに
に一九七0年 代 に 人 っ て 、 大 都 市 衰 退 化 現 象 の 発 現 を
とコミュニティの視野と枠組みをひろげてきた。とく
│シティを見るという手法をとった。とくに大阪都市
熟した大都市モデルを構築できるかは、都市社会学の
方 法 論 に か か わ る 重 要 な テl マであるけ制。
│シティ烈、そして都心型のコミュニティの複合類現
コミュニティ論の定式化としては、郊外型、インナ
した。
閣のインナ│シティに根さした住民活動・述動の展開
過程が、地域からの都市論の発想に、有力な示唆をな
円
アメリカの都市社会学も、第二次大戦後の大規模な
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s研究の展測が凶られたが、
郊 外 化 の な か で 、 ∞ZZ
がはじまり、また人積・階層間の住民の入れかえが進
既成郊外地から中心市街地の衰退化現象の波及、浸透
捗することで、郊外型のコミュニティ・パラダイムの
ここでの類型はあまり国定的に従える必要はない。郊外
化が、地域から発恕の都市論に接続することになるが、
で、より現実感が得られる。フィールドにあたっては、
型 と 都 心 型 の 比 較 で も 、 イ ン ナl シ テ ィ 型 を 挟 む こ と
ィの再定義、再組織化が促された。中心市街地の﹁コ
ミュニティ放棄化﹂がコミュニティ復伎を現実課題と
改編、あるいは中心市街地を射程に入れたコミュニテ
した先述の事情も、都市社会学研究に反映している。
郊 外 あ る い は 都 心 ・ 準 都 心 地 試 の 背 後 に 、 イ ン ナl シ
× 知 外 川 iコミュニティ
る。中心市街地の周辺にあって、かつては山の手郊外
っている。ここではさしあたり、都心・準都心地域外
定住の模担展示では、初当者向身が﹁ポンチ絵﹂と語
住形式その他がとりざたされるが、先述の浴院の都心
まで聞いていたり、賑わいが期日付できる。さらに、事
素である。また、人が住むことによって向山が夜遅く
ることになる。これは、都会の安全や消潔の大事な一要
が住んでいれば、二問時間だれかがまちを兄て気を配
ニューヨーク・マンハソタンの観察をふまえた林泰義
野区などが、すでに都心ないし準都心区としての変容
住宅地として知られた新宿、渋谷の各区、あるいは中
矧 の イ ン ナl シ テ ィ を 挟 む こ と で 、 コ ミ ュ ニ テ ィ を 複
ティ地域をおくということでもある。都心地域の諸特
を見せているけ制。渋谷区と抜する目黒区なとも、昼間
なっているところが、欧米と京京の迷うところである﹂
一一日っているわけである。しかし、それが当然のお識に
れている。つまり通品川われわれが一一一一口うのと同じことを
長い歳月の間で安定した街の賑わいに重要だと考えら
務所だけの単一の機能に特化しない街であることが、
合類型的に捉えていきたい。
を縦認しておかねばならない。ここではさしあたり、
都心をはじめ中心市街地に人が住むことの意味と機能
都心居住をめぐる生活と意識の諸相
人口が夜間人口を上削る傾向にある。既成山の子、郊
外地域においては、﹁市街地のコミュニティ形成﹂を
射程に入れる必要がある。
筆者は、郊外型コミュニティを基軸としながらも、
市街地のインナ│シティ、そして添都心・都心地域へ
a
イ
なかで、両者の交差点を地域レベルでとくに意識する
f
主
主
のつぎの発ゐ一一口を引別するにとどめておく。﹁欧米では
τ
ナ
ア
イ
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心う
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徴に人nわせた﹁都心川土﹂の強制は、﹁郊外型﹂につい
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ことが薄かった。しかし都市総合計画上の﹁多極分散﹂
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型の流れもあって、市街地に絞する既成郊外地がしだ
W}iコミュニティの系、
られている。その理山は次のように一一品われている。人
r
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I
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都心に人が住むのは、いろいろな意味で当然だと考え
十 I:;:~ν;て 11\1)
ニティ、都心活動腐とかれら特有のライフ・スタイル、
(
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!p立・上,~;;tl: の糸、
ても出様だが、現実感を失わせる。都市的便益・アメ
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"
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いに﹁都心﹂﹁準都心﹂空間に州組み入れられてきてい
東京都市闘では、中心部と郊外周辺部との分紙化の
4 「都市 J r地域」連続線上のコミュニティ類型
図
戸
qd
ρhリ
範屈を広げて二O同問ぐらいを比較すると、東京はニ
ういう実態にも反映していると考えることもできる。
人が住んでこそ都心であるというコンセンサスが、こ
東京の都心三区は八O人/出前後と低くなっている。
と、マンハッタンの人口密度は二五O人/出前後だが、
六五万人ぐらいしかいない。人口密度を比較してみる
が、東京の都心で同等の面積の人口を比較すると、約
﹁マンハッタンは、部積約五七回、人口一四O万人だ
﹁間風﹂としての歴史を持つコミュニティとして、ど
を現実化する上での波及効果をもたらす。市街地の﹁問﹂
ミュニティの存続性が、関連する地域全体に都心居住
ウォ l ク の 経 験 を い ま 一 度 怒 い お こ し て お き た い 。 コ
全できるかが、鍵をなす。フィラデルフィア・サウス
のたたずまいの﹁山の手﹂住宅地)をどう活かし、保
ィ(とくに﹁何﹂﹁的風﹂としての自営十商業地、独自
都心居住を担保するには、現に人の住むコミュニテ
かに空洞化しているかを端的に表しているといえようち則。
る而抜調査の結果の一部(一九八七年⋮一、一二月実
よる面接調査を実施した。ここでは自由民答を主とす
チl ム。⋮チーム二矛判)、現地ヒアリングと調査明治に
ィ湖水礼のチl ム を 編 成 し ( 二 地 点 を ペ ア と し た 七 調 査
度の立教大山千村会学部奥防ゼミにおいて、コミュニテ
諸相が見られるか。先述のように筆者は、⋮九八七年
ニティに居住する人ぴとは、どのような生活や意識の
のような事例が挙げられるか。またこのようなコミュ
戦後期五八・二%で、間m和問。年ム日以降が二五・五%(問。
(明治五・二%、大正 ハ・七%、昭和⋮ i ⋮九年崎一六・九%)、
の内訳となっている。川公同名の来住期は戦前期会ふご八・八%
おだやかな住宅地、環境がよい﹂八・九%、﹁都心に近くて
物倒が安く尚后も近い﹂一一・六%、﹁静か、閑静な住宅地、
ん、人情、仲間﹂二二一・問%、﹁生活しやすい、住みやすい、
については、表4iーのように﹁ド問、税切、ざっくばら
かせください﹂の設附で、日助役地の攻荻の印象・イメージ
施)を抜き書き的に紹介しておきたい。
ュl ヨi ク よ り 人 口 密 度 が 高 く な る 。 東 京 の 都 心 が い
調査地点
東京・中心市街地および外周のコミュニティ
実態調査(一九八七年一二月現主)
である。出身地別では、現在の町が三了二一%で東京託部
年ム口九・六%、五O年ム日⋮一・六%、ムハO年ム口以降問・一二%)
いる人が多い、古い建物﹂五・七%、﹁みんな顔見知り、いいこ
便利、交通機関も便利﹂六・四%、﹁何代にもわたって住んで
では、男性限七・O%、女性五三・O%。年齢別では、五O
ンプルムハ一ニO(有効サンプル三四五、回収率五閲・八)。性別
調資サンプルと属性調市民票による個別面接調資。調査サ
G、品川区北品川一・二丁目口、南品川一・二・コ一了目
F、港区大門二丁目、三回一一 j隠(間・小山町)
E、千代田区神間・三川崎町二丁目、司町・多阿
D、中央区館一・三了白、月 ド
一・二丁目
h吋
隔がある。﹁都会に山山たかった﹂(板検)、﹁下刈のよさを知り
0・九%、﹁交通の使、通勤の便がよいので﹂四%その他と
地を見つけることができた。二戸建てを持ちたかった﹂
つため、奉公先を求めて﹂二子一二%、﹁地価が安かった。土
があるから、その他﹂一五・一二%、﹁仕事場を求めて、結を持
﹁当地区に嫁いだから﹂他)三一一⋮・一%をはじめとして、﹁実家
往路一白としては、﹁結婚をキッカケに﹂(その大半は女性、
円以外の人びとの米
端、佃・月島、神間におおい。現在の w
じめない﹂ということである。また﹁人がいない、人の住
嫁いできた女性にとっては﹁潔慣の速いを感じさせる、な
が見られる。例えば﹁下町的﹂の似・月めが、その土地に
ある﹂三・二%、﹁住めば都、人が仰といおうと﹂一一一・二%等
の遠いを感じる、独特の地域、最初はなじめないところが
問・一%、﹁保守的、変化がない、閉鎖的﹂一一三ハ%、﹁相川恨
では、﹁雑然、ごちゃごちゃ、ごみごみ、アパートが多い﹂
佃・引けれ叫に、﹁務かな住宅地﹂は池之端にとくに強い。⋮方
問・一八%その他が特徴的である。﹁ド肺門的﹂はい爪お・向島、
と惑いことみなつつぬけ、隣組、なにかあるとまとまる﹂
L
A、笠島区東池袋限・五丁呂(山山・日山山町)、板肱川区本町、
出身者二四・三%を加えると、全体の過半数が東京出身者で
仲宿
二・三γ白、東向島一了目
B、巡回区京
hMW
ある。現在の町にずっと朴氏み続けているのは、とくに池之
歳ム口二0 ・八%を筆頭として四O歳台以下三二・二%、六O
たくて﹂(京島、似・月島、大門・一二郎)、﹁立ち退きのため﹂
c、ム悶京区池之端コ了間間丁目(問・花倒的)、谷中一一i R
歳台以上三七・七%(全体として N A九二二%)の内訳である。
むところではない、ビジネスのまち、ゴ i ストタウン、尚
(大門)、﹁{系の管現のために池之端)などの防答が見られる。
⑦怠住地の現在の印象・イメージおよびその変化
﹁この地域に生活されての印象や、あなた御自身の当地域
当初と現在の印象、イメージの迷いとしては(表412
70
に対するイメージについて簡単にお教えください。また、当
参照)、﹁ピルになった、マンションがふえた、高層化して
(自営小売、卸売、その他)の二二・六%、一般事務一
毅繋別では、無業(主婦その他)の二六-m%以外には、販売
%、技能・生産工程従事(建築、印刷・製本、縫製・袋物、
地域に移られてきた方の場合には、当初のイメージと移ら
に仲間、大門・三閃に集中していることがわかる。
金属プレス、菓子製造、写植、塗装その他)九・八%、専門・
れてきてからの印象の違いなどについても、具体的にお悶
山川街がない﹂八・四%との都心地域特有の受けとめが、とく
ション・アパート・貸家管理経営その他)四・一二%、その他
管理八・一%、サービス(クリーニング、源一容・美容、マン
ρnu
ρ0
問団が二戸建てに、二階
EX
だった、北日のほうが便利だった、昔のほうが活気があった﹂
体の三分の一をこえる。﹁人がいなくなった、昔はにぎやか
ってきた、意識が変ってきた﹂一回・O%を合わせると、全
﹁新しい人が多くなった、人情がなくなった、そっけなくな
きた、十日い町並みが新しくなった﹂二一・九%を筆頭として、
企業センター、区民会館等の利用率の高いこと、集会所関
結果については省略するが、各地点を通じて図書館や中小
病院﹂﹁図書館等の教育・文化施設﹂﹁子供の遊び場﹂等の回答
生活問域外にある。その他の﹁銭湯﹂﹁行きつけの診療所・
地埋的佼漬から全体として郊外聞辺部と結ぶ新宿、渋谷は
三回←銀座、日比谷、品川←渋谷、有楽町で、調査地点の
問舎に住む気はしない﹂﹁都心のほうが環境がよい、静か﹂
誇りに思う。恵まれている、都内に住めない人より幸せ、
四%以外に、かなりの多様性がある。﹁中心部に住むことを
動しやすい、情報が得やすい、郊外は疎外感がある﹂二八・
﹁仕事、生活に便利、満足、便利で住みよい﹂﹁中心地、行
ジとしては(表415)、先の生活の効率・便益性と煎じく
屋もふえた﹂七・四%の結果と合わせると、景観、人情・気
所のように、地一冗の神社施設との結びつきも特徴的である。
係では、侃・月島←住吉神社社務所、一二回←天祖神社社務
て(宵氏。。町子。三言。)、﹁都内は自分にとって生れたところ。
﹂ハ・六%との中心部に住まうことの誇り、一体感情と併せ
七・八%、﹁家がたてこんできた、
風函で、下町型社会の崩壊が浮き彫りされている。そこで
③日常生活箇での良かったこと、困ったこと
になった、昔よりよくなった﹂七・五%、﹁きれいになった、
があがった、地下鉄やスーパー 71ケソトができた、都会
ーの反面(とくに大門・三間)、﹁便利になった、生活レベル
413)、﹁交通の便がよい、駅に近い、都心にすぐ出られ
ては、先ず﹁良かったと思う点、便利な占 Cについては(表
ことや不便なことはどんなことでしょうか﹂の設問につい
Y あるいは図ったと怠う
良かったと思うことや便利なこ Iて
ここに住まなければ﹂﹁いまさら他には移れない、もう少し
な動機づけとしては、﹁郊外に住みたいとは思うが、仕事上
なじみの場所としての受けとめに注怠したい。やや消極的
市街地居住がそれ以外の選択のない、ごく自然な生活の場珂
﹁郊外は親しみがない、都内は下町的、庶民的工二・五%と、
都心という感じはしない、間りの人がそう一言っているだけ﹂
一子八%、ご}の地域が東京の中心部だとは思っていない、
ふるさと、住み慣れたところ、削舎にあこがれもない﹂二
は﹁住みにくくなった、北日のほうがよかった、北日のほうが
背は木造の家が密集していたが﹂三・五%との現状白定派の
る﹂間七・六%、﹁貨物の便がよい、商応街が近い﹂二⋮一・二
﹁当地域にお住まいになられて、とりわけ日常の生活面で、
凶答も見すこせない。﹁変化なし﹂も二了七%ある。
%等の都心的使益性と並んで、﹁近所の人が親切、相川かあっ
のんびりしてた﹂三・九%との下町型相会へのノスタルジ
②日常生活面で利閉する施設、場所
池之端←上野、日本橋、銀座、他・月島←銀席、神田←日
事する場合は近所)、向島←日本橋、銀座、錦糸町、亀戸、
ンシャインシティ)、京烏←日本橋、上野、浅草(ただし食
でとくに傾向的であり、池袋・板橋←池袋(デパート、サ
品等改まった物の買い物﹂や﹁外で食事する場合の場所﹂
地の町内で自足しているわけではない。このことは﹁賊答
かなりに選択的というか遠出が目立つ。日常然活闘が現住
デパート、神間駅周辺、大門←銀座、新橋、築地魚市場と、
バ色町←築地魚市場、門前仲町、神田←日本橋の
上野、加m-H
v上野アメ横、
く利用するが、例えば京島←浅草、池之端i
は、河内および周辺の商応街、スーパーマ│ケソトをおお
罪や災害、緊急医療サービス耐での住民不安は未だとくに
の他の凶答も上向きの傾向にあるが、欧米大都市に見る犯
酔客がさわぐに昔の環境が失われていく、ビルになる﹂そ
いやられる﹂﹁若い人が少ない、活気がない﹂﹁夜さぴしい、
ている。﹁人口が減った、近所の人がいなくなる、住民が追
問・三%、その他の生活凶灘、アメニティの欠如が訴、えきりれ
が狭い、車の通行に不便﹂五・四%、﹁プライバシーがない﹂
宅が狭い、日当りが惑い、風通しがよくない二ハ・二%、﹁道
一五・六%(とくに神間、大門)、﹁物価が高い﹂六・五%、﹁住
﹁庖が遠い、生活用品を震うのに不便、夜、応がすぐしまる
4) については、﹁とくに不便はない﹂二一・五%に次いで
って六%の同答が目をひく。﹁困る点、不便な点﹂(表4 1
た時に心強い、留守にするとき便利、顔見知りがおおい﹂
♂めりこ八・O%を大きく上岡る。なお建て替え予定の理 閏
居等の予定﹂(表 4 8 ) については、﹁なし﹂一八0・三%が
わかる。したがって、﹁いまの住宅について、建て替えや転
挟んで戦後に住宅の新鳩改築がかなりに進められた、﹂とが
年合一六・五%、五O年台以降二五・八%で、戦災の時期を
戦後の昭和二O年合一一一一・0%、三O年ム口一0・四%、四O
お住まいでしょうか﹂では(表417)、戦前から二六・七%、
住宅や土地の所有者である。﹁いまの住宅にはいつごろから
有の一戸建て﹂♂一0・六%を合わせると、全体の八O%弱が
己所有の二戸時比て﹂が五八・八%で、﹁借地で建物が自己所
できることなら、郊外へ行きたい﹂その他一九・七%がある。
今の状態で住めればよいのだが﹂﹁都心には住みたくない、
人がいれば都心もさぴしくないが﹂﹁ピルには住みたくない、
﹁生鮮食品等の買い物﹂と﹁それ以外の日用品の買い物﹂
本橋(食事は近所)、大門←銀席、新橋、三剖←麻布、銀座、
表明されていない。
﹁当地域のように、郊外や地方ではなく特に東京の中心部
としては、﹁狭いし古い。もっと広くしたい、現在の家をも
E
住宅の所有状況については(表416)、﹁土地も建物も自
⑤住宅の所有状況・建てかえの予定
渋谷、品川←大井町との結びつきが見られる。﹁一杯飲む場
④市街地居住の意味性
っと有効に改築したい﹂﹁災家のそばに行きたい、子供と同
L
所﹂は、生鮮食品等の買い物と外での食事のちょうど中間に
ないし﹁市街地域﹂にお住まいになることについてはどの
居したい﹂をはじめとして、﹁大家が土地を売った、借地が
あたる。﹁映画その他の娯楽﹂は、池袋←池袋、新宿、板橋
←池袋、新宿、京烏←浅幕、向島←錦糸町、池之端←上野、
ようにお考えでしょうか﹂の設問に見る市街地底住イメ│
m←銀政、大門←有楽町、銀康、
片品←銀政、神
銀服、側 -n
リ
ハ
ρ
7i
る。﹁流れにまかせる、郊市⋮計画しだい﹂との凶答もある。
てる、マンションにしたい﹂﹁環境が悪くなった﹂が見られ
売られた﹂﹁このあたりは立退きを返られている﹂﹁ビルを建
しかた、金一徹などをきちんと決めておく﹂等が続く。﹁プラ
訴を受けたら返す﹂﹁何かあった時、助け合う時の金銭の波
は
﹂
⋮
一
二
ハ 1八%を筆頭に、﹁病気の仰にお凡舞いをする、また刊
刊は)としては、﹁冠川町葬祭の時には子伝う、とくに一小学の時
その他とヴァラエティにとんでいるが、全体として終日開必
動、まちなみ保作会、おはやし保存会、借地・山川家人組合
道のサiクル、絵附・コーラス、民話・おどり、消費者運
川本会、外旅宗教同体での活動、旅行会、同恭・俳句・市
るほう﹂二六・七%を加えると、全体の八六・じ%が濃淡の
﹁かなりある﹂三三・九%、♂ある﹂二六・一%で、﹁まあ、あ
き合いはあるほうですか﹂との設問に対しては(表419)、
﹁あなた御自身(あるいは御家族)は、となり近所のお付
り、相談をもちかけたら応じる心の山なをしておく、これ
には立ち入らない、そっとしておく、しかし初予が川削った
行常的には判明しいおつき八日いをしても相子のプライバシー
距縦をおく﹂一一:一・0%も、付き合いトしの大切な心得である。
イバシーを守る、でしゃばらない、深入りしない、多少の
池山叫の閃じ年代が集った﹂﹁氏子だから、先制代々入ってい
トレス解消のため﹂﹁や校時代からの友人・仲間が集った、
ションのため、大勢の人と下山したかった﹂﹁健康のため、ス
われた﹂を準以として、﹁税娘、お付き合い、コミュニケー
したがって活動参加の動機も、﹁会 只に成われた、友人に説
川町の会、文化・ス一ボiツのサークルに力点がかかっている。
⑥となり近所とのつき合い、ルiル
秀一こそあれとなり近所とお付き合いをしている。﹁それはど
が下判型のルiル、心符と一一一日うことであろうか。
われる点﹂(表4!日)については、子制心される事柄ではあ
⑧邸内会活動への参加状況
えられている。
たから﹂その他と、日常生活の一つのクッションとして捉
H
のようなお付き合いですか﹂(表4im)には、﹁お茶を飲ん
るが、﹁とくに変化はない﹂三C ・一一一%以外には、﹁代以けりゃ
日以近、となり近所のお付き AHいでとくに変ってきたと忠
土産を印刷ける。問引きものをおすそ分けをすると五・六%、
引っ避しでなじみの人がいなくなってきた。知った人に会わ
で役間話をしたり、おかずをあげたりする﹂ョ二・八%、﹁お
﹁いっしょに飲みに行ったり、食事をしたり、旅行に行った
が令体の九O%台で、全欧間 W全加入の状況に近い。ところ
前町内会への加入については(表4iげて﹁加入している﹂
りする。趣味や遊ぴを一緒にする。友人同トしの付き合い﹂
なくなった、感党が違ってきた﹂二八・六%、﹁付き合い
u灼くとして、全体的に﹁あ
いに関心がある﹂一六・・一%は二r
が削町内会の活動に対する関心としては(表4lm)、﹁おお
一・七%、﹁親子みたいに、何かあれば助け合う﹂六・五%
った﹂一二・0%、﹁アパート、マンションができて、知らな
があっさりしてきた、ドライになった、深入りはしなくな
ない﹂今
まり関心があるとはテ Hえない﹂一二一一・八%を筆頭に﹁山内心は
祭時に﹂⋮九・八%も一つの傾向をなしており、例えば池之
い人がおおくなり、閉鎖的になった﹂⋮0・一一一%、﹁働く人がふ
等のかなりに観点砂川な付き合いを過半数としている。﹁冠給葬
えて付き合いが減った﹂六・九%、﹁子供がいなくなった﹂
りがおおくなかが良川和気あいあいで税減向土のよう、
感じになられていること﹂については(表ヰ什)、﹁顔見知
J地域の行事としてはどのようなものがあるか﹂(表4
中
﹁
ーは参照)については、﹁祭リ﹂問八・七%を多数派として
⑦地域行事への参加
什めるようになっている。
五・七%その他の川答が過半数を I
てなとで暇がない。子伝うことができないので﹂﹁役目以でも
に分かれる。無関心派の烈山九表4im)は、﹁仕事、﹁行
活性化に必梨、人的のあるまちにしたい﹂一五・五%その他
﹁住民だからおたり前﹂一一一⋮一一・今一%をはじめとして、﹁役けはを
に入れられることになる。関心派の崎山川(表4imは)は、
AJ
九%を加えると、川答狩の過半数が無関心派
﹁冠絡葬祭時﹂には進んで義攻立てをする。
端では日常の﹁隣近所との付き合い﹂ではやや淡白だが、
鍵がいらない﹂二郎・O%を年頭に﹁下町、人情、苦からの
の地域行事への参加は(表4ーはこ、﹁役はとして参加する、
全体的に町内会開述行事的なものがおおい。﹁然り﹂その他
風としているのはうなづけるとしても、同時に﹁今のまま
御別所に別や食事を出したり﹂以外は、ほどほどの参加が
つぐ﹂﹁子伝いとして参加する、子供におやつを出したり、
い、つまらない﹂﹁全体に活気がない、役に立たない、仕が
次に﹁当地域でのとなり近所でのお付き合いについてお
付き合い、義理がたい﹂一五・四%、﹁さっくばらん、きさく、
寄付を集めたり、その他の仕事をする﹂﹁自分でみこしをか
でよい、さしさわりがない、ふつう﹂二一・二%、﹁あっさり
をしていない﹂等mo--λ%、市寸ら町山門会の悦成観念、ある
実際に経験したことがあるので﹂一九・六%、﹁まちの泥炭、
すぐになじめる、気兼ねがないと0・六%を地減全体の気
ないし、関係ないから﹂間一二・六%以外は、﹁一郊の人がや
っている、長老がや耳っている﹂﹁もう時代が述、 7、ト Hくさ
してちょうどよい、深入りしなくてよい、うるさくない、一干渉
その他多数の川答者の気分をなしている。
は反耐では、町内のさまざまな出米本や行事・活動両、あ
M 答である。このこと
いは存衣・信頼感の炭火に山川米した 問
しないと三・五%や、﹁税しく付き合い過ぎる、ありがたい
るいは人間関係やまとめに町内会(あるいは役口氏府)の誠
a
ていない﹂六九・三%が﹁入っている﹂
悠能力への則待があったものと九八、える(表4i幻)。
一八・問%を大きく
ひろく地峡活動商での参加についても(表4im)、﹁入っ
上川る。参加している同体・サークルとしては、﹁卓球、野
⑨住民ガ当面している地域生活問題、問題解決の方法
まり、それ以外の付き合いがない、もっと隠ひろく
反商うるさくもある﹂九・六%、﹁年寄りは年寄り同士でかた
球、パレ l、ゴルフ、ゲートボ│ル、ジョギング﹂んやのス
きん円
MM
いたい﹂八・七%その他の回答についても、臼くばりしてお
ポーツ、老人会決似の各極活動、議、各極仲間会・税隣人五、
﹁となり近所でのお付き合いのきまりやル│ル﹂(表4│
きたい。
り
o
o
nh
ば池之端の人ぴとにとっての﹁上野の山、工小忍池、上野の
長とは同じ山間川内ではない。似りに京複するとしても、例え
衡が活性化する﹂﹁私い人がふえる﹂との宵定的受けとめが
間仕される、木造家尿が務理される﹂﹁道路が広くなる﹂﹁向山
身近な問題として迫っていることがわかる。地域別でも、
ビジネス街化する、住むところではなくなる﹂間一・五%を
わるべき)と考えるか﹂に対しては(表 4 お)、﹁ビル化、
く住民像、土地柄、景観・名物は何か。ここでは似別の項
京の中心市街地および周辺で応依し統けている人ぴとの姉
会的ストック日財となっていたように、変貌過税にある東
や気質・気風、あるいは施設・装置がその地波・都市の村
防述の大都市・フィラデルフィアに見る人ぴとの生き方
景観、名物
⑫地域の特色を現わす住民層、土地柄(気質・気風)、
中めづ令。
Jd地域で、今一番問題になっていることは何でしょうか﹂
ている。
寡附気﹂は、自らの地峡の存在証明ともなる意味性を保ぴ
(
表412) については、現実感溢れるさまざまの問答が
寄せられている。余体としてナダレ的な変化のもたらされ
⑪ 地 域 変 化 の 将 来 イ メiジ
た中心市街地特有の﹁人口激減、無人化﹂﹁地上げ、立退き﹂
﹁再開発、共同ピル化﹂﹁地側高燃にともなう同定資絵税、相
例えば﹁人口激減﹂は神田、大門、﹁不忍池の地下を駐車場
る﹂﹁総が少なくなる﹂﹁人口激減する、年寄りが多くなる﹂
筆頭として、﹁人もまちのみ凶気も変わる、人的が湾くな
﹁出川聞の変化のなかで、当地域は将来どのように変わる(変
にする問題﹂﹁通過道路化と事故﹂の池之端、﹁リハ i シティ
続税の問題、家賃値上げの問題﹂﹁路上期車、交通事故﹂が
建設﹂の相川島、﹁地上げ、立退き﹂の月局、三問、﹁再開発﹂
っきりとした輪郭と泌史文化的奥行きのあるイメージは川
答例からひきだすことはできないが、⋮つの参考資料とし
口として学げており、また地域別の違いも大きいので、く
て添付しておく。紙阪の関係上、説明部分については、削
その他、地域の変貌、変質を現実に感じとる人びとが、過
神川、大門に強い。池之端、知はこのゆらさ派と﹁しばら
m各参照)。
除することにする(表4 1初、幻、初、 m
の京島がそれぞれ切実な問題として浮き彫りされている。
くは変わらない﹂現状維持派とに住民間が二分されている。
半数を出めている。この地域のゆらぎ現象は、とくにけ品、
により多様な阪のあることがわかる。問題の性格により、
もちろん地域の変貌も、少数派ではあるが﹁密集住宅が怒
地域生活上の問題解決の方法(表4 n ) も他人、地域
ろう。全体として、﹁有力者、とくに議員に相談する三二・
住宅街を建設する事業の先駆をなしたものである¥こ
ーいわゆるデべロッパーが、新興住宅地を開発し、
メlキング
のか明治生れの問。にほとんど一線に放んでスタート
あるのも、特徴的である。新しい製と争点の問題解決の子
先に触れたが、同書のはしがきには、﹁神田三崎町が、
間三川町町﹄(一九七八)のすぐれた記録を持つことは、
と戦災、敗戦後の復興と、高度成長期を経て現在にい
一次大戦、関東大震災と帝都復興、そして第二次大戦
の中で多様な変化を重ねてきた。日清・日露戦争、第
を き っ た 三 崎 町 の 人 ぴ と の 生 活 は 、 約 九O 年 近 い 歳 月
段として、町内会の現実的有効感党が喪失しているのが明
八九O)
本当の意味での﹁阿﹂になったのは、明治二三年三
剖州小食事関の一つ神間・三崎町は、﹃明治生れの町・神
刊新しい生活圏域とネットワーク形成
都心農住をめぐるさまざまの仕掛けとプラン@
慣行上の一義的な手段はもはや有効でないと言うことであ
問%、﹁自分で何とか解決する、個人の力で解決﹂一一・九
%、﹁住民運動をおこす﹂ご・五%、﹁区役所に相相談する﹂
一-五%以外に、﹁なるようにしかならない、成り行きに
まかせる﹂⋮八・⋮%、﹁がまんする、対処しない、無視する﹂
ヒ・九%も目立つ。本来、伝統的な町内ではいちばんに初日付
らかである。
されるはずの﹁町内会に相談する﹂が六・六%と低ランクで
⑬地域でとくに保全・保護してあきたい環境や場所、建
間の東京と東京人が遭遇したと同じ影響を、一一⋮崎町の
たる間の、何出もの大きな社会的変動の波は、この期
で、この新興山街地に集まってきた人ぴとの倒々の巡命
人びとに与えずにはおかなかった。かつて希望にあふれ
三月六臼、﹁一二菱会社﹂が経箪省よりこの地を
その町名も、実体も、ともにか明治生れの町。という
て今日にいたった﹂﹁しかし、この町には変らぬものが
一つだけある。それはこの町がか生まれた。時からこ
もまた、文{子どおり有為転変・離八日集散をくりかえし
に入れた三菱が、独自の都市計画にもとづく市街地を
こに生活しつづけている人ぴとを中心とする強い連指感
った。いいかえれば、都心部における広大な更地を予
界限・雰囲気が取り上げられていることがわかる。そこで
設計し、入居者を募集して成立させた新興の﹁川町﹂で
と 阿 に 対 す る 愛 情 で あ る 。 約 九C 年のこの川の川町山止は、
大半をなす当時の三崎町三丁目は、陸町出?の練兵場であ
特 徴 を も っ て い る 。 と く に 現 衣 の 三 崎 町 二 l三丁目の
買い入れたのちのことである。つまり、神山一一⋮崎町は、
﹁当地域ないしその周辺で、とくに保全・保護しておきた
物、施設
い環境や場所、建物、施設としては何があるか﹂の設問に
対しては、表4imに見るように、その地域の人ぴとの集
合的記憶や岡市偶感情を刻みこんだ、あるいは転出した人ぴ
は、﹁まちの雰凶気、家並み﹂﹁神社﹂や﹁小学校﹂﹁古くからの
あった。これは現在、多くの土地開発業者や建設業者
とにとっても過去の居住経験の印となるような建物や場所、
ド街屋﹂﹁地中どが出てくるように、東京や都心区名勝一 C C
ρHり
ハHυ
町の人びとの附代でいえば、すでに三附代目に人ってい
あたった広松悦によると、次のようなれ例が版行され
枇殺の苛予後継者)の而抜減点叫が試みられた。湖水 Uに
その際三崎町からの降一信分隊転出名(とくにれやい業
ている。
反って住むといったことは﹁凡そ考えられない﹂とし
て、将米的にも現存のビルに日出住筑間をひろくとり、
今一崎町はリアリティを失っており、あくまで、白ら従
以 上 の よ う に E さんにとって、﹁住む場所﹂としての
る。祖父可から祖母へ、そしていまや孫たちの依代に
区 氏 の ケl ス
ている。
なっている。この三代にわたるか原住民々を小心とす
る﹁町風﹂は、人口の災動の激しい都心部に珍しく、
新住民を同化し一体化する子不ルギ!を持っている。
ル内での食品製造・版売を悦んでおり、心会と今一
するな識もあり、子供を氏域外川抗争させていることな
場所﹂、﹁自分にとってゴ絞っこ
しかしながら、その-方で、⋮一島崎町は﹁自分が脊った
事する﹁向売上の土地﹂として川町を校出づけている。
の五人家族である。文京日刊の古代けれマンションに川住し
mHa火
E さんは、現在一二六歳、一一一時的でビル管収業と同ビ
れの町。という新天地を求めて集まってきた人びとの、
ながら、三崎町の仕事場まで通っている。
そのエネルギーの淑は、くりかえすようだが、ヶ明治生
いわば開拓者的な連帯意識と、自治的な活動にある﹂
L
のある場所﹂であると
﹁東京の都心部の町々が、土地の経済的効率だけを追っ
て、次第に都心部における過疎地域をつくりだしてい
住し、化粧品山を内引いんできた。 E さ ん は そ の 長 切 で あ
Rさんの税は、昭和二一一一年から三崎町の引花地に川
引状では共同化による大規模なビル化は不可能である﹂
自分の家と同様にいけ川府化するであろう﹂が、﹁一一一時間の
位から分断・転出していくケースは、今後とも絞くで
と し て 、 自 分 と 同 じ 、 ス ベ i ス不込を派出にして山好一
三時前川の今後の動向については、﹁倒人向付業の末以は、
る。神間三崎町といえども、その例外ではあり得ない
る。彼は、一時会社勤めをしていたが、一⋮.年前に父税
どは、こうしたな識と関係がないわけではない。
のだが、それだけに、この阿の人ぴとの﹁自分たちの町﹂
階部分
で弁当尽を始めた。同ピルの・一階では、 E さ ん の 弟 が
a
意識の強さが目立つのである。人間が部会で生活する
が五階径のピルに従米の民宅を改築した際、
場としての﹁町﹂は、たんなる都市計闘の線引きや、
拡光して、一時的にでも附住吋能なスペースとして活
あろうとする。将米は、ビル内にある休憩の場を的投開・
川 し て い こ う と す る 展 望 をE さんはもっている。
いるが、-部は管内山品川(ここには、仕事小に休憩や仮
眠をとることのできるスペースがある)として利川し
喫茶筒を経常し、筏りのスペースは託事務所となって
ている。なお、この約(米川町)とE さんの父親は神山本
も変りはない﹂正ωとしるしである。いわば小心市街地の
﹁間総﹂にあって人為的な﹁ニュ i タウン﹂として出発
規絡住宅の建設だけでは成り交たぬことは、明治も八ー
した三崎町は、その後の郊外住宅地として計剛造成さ
なく、以前から﹁スペースがなく、結納後は川川印刷はい川
ピル改築前の実家には'け分の存川スペースが一主しか
Eさ ん の 転 出 は 、 昭 和 五 . 年 の 結 燃 が 契 機 で あ っ た 。
ョンに住み、同州川の会社の事務所ビルに、同業に従
の小学生の子の間人家族である。文京試の賃貸マンシ
Kさんは:八歳で印刷業を叫なかいいしており、心会と一一人
K氏のケ1 ス
以の投資マンションから通っている。
万一に響き人口う性終を持つけ守三崎町は市街地の﹁問﹂で
m
- 渡辺町、本郷・問片山内、
れた駒込・大和郷、日暮
ありながら、中心地と郊外地とを結ぶ両義性がある。
駅﹂と芯っていたため、その際の転出は﹁ごく'れ然の
一人の了の家族余員で自動車通勤をしている。間批川建
説左でもある。
めくると未だ地域の視もり、集合的記憶が残っている
記念陣のな昧を持つとともに、一枚のアスファルトを
町・神間三崎町﹄の集大成は、﹁町﹂の終溺にともなう
と背中合わせで進められている。しかし﹃明治生れの
町との職住近接を考慮して選択したものである。従つ
三崎町に住みたい﹂とする希裂は弱く、転出先は三崎
ら な か っ た 。 し か し 、 も と も と E さんには﹁日正非とも
して利川したほうが有利であると判断され、実現には一全
日出できるねの余裕はなく、また、経済的にも事務所と
出として残す計両もあったが、制机と自分の一一叶一併が同
二一年前の実家の改築の際には、ビルの一部を川住心情
K さんは、一一一%の弟とともに家業(現在、会社組織上、
九引いんでおり、長引が就職して家を山山た後、次切である
Kさんの籾附一代は、戦後日十くから三崎町で印刷業を
生活パターンである。
の業務が終了した後、また家全員で帰宅するという
に子供たちのド校後の居場所となっており、夜、会社
事務所ビルの最上階には応住スペ!スがあり、現在、主
e
筆者は一九八四、八五の両年度に千代間区の﹁人口
目白・文化村、間関一調布、板橋・常競合その他とも相
このような系終の三崎町も、都心の本社ビルの転人と
成り行き﹂であった。
事する犬人および近くの小学校に民投外就学をしている
ブロック単位での更地化が町のシンボルの﹁三崎神社﹂
動態調中市川プロジェクト﹂に参加する機会かあったがけ川、
-r/
ハ
U
VA
さんの父が会長であり弟が専務である。なお、
む父母はもはや業務を行つてはいない。この家屋の敷地
んの兄弟は六人あった)を継いだ。三崎町の実家に住
は、近隣に住む借地人からの転借地である。
Kさんは、昭和四八年、結婚を契機に三川町阿の家か
ら転出した。現由は、閑居できない居住面積の狭さで
んでいたこの三崎町の家屋から出ることに、⋮一僚の﹁解
あったが、転出時に Kさんは、住工併用で多人数で住
Kさんは、現在、三崎町に戻って住みたいとは思っ
放感のようなもの﹂を感じたという。
ており、その場合は現在両親の住む住居を数階建の専
用住居化し、両親と自分の家族とで同居しようと考え
ている。同地を離れたがらぬ両親の世話や取引先との
距離の近さ、子供の教育而での利便性や現在のマンシ
ョン出住に対する種々の不満といったことが、帰るこ
とを希望する理由である。
ただし、ビル化の実現の可能性は低い。経済的条件
に加えて、土地をめぐる権利関係が複雑であり、﹁よほ
どのことがないかぎり、地主の許可は出ないだろう﹂と
K さんはみている。
Kさんは、旧米、住商工混合で、さまさまな戦積の
人びとが集まって住んでいた場所としての二山崎町で、日以
H
日
間
近、不動産会社による土地の買収や貸事務所化、一 同
化が進んでおり、﹁人つ子ひとりいない﹂無人の街へ変
貌しつつあるのではないかとしている。将米、何らか
のきっかけで、この業務地区への転換が﹁地すべり的﹂
に起こるのではないかと予想し、﹁居住志向をもっ自分
AI
のKさ
としては、ただただ﹃恐ろしいことだととしている。
ただ、羽山中火のこうした変化にもかかわらず、
んには、⋮⋮一崎叫が以前回往していた時と違って、﹁行け
ば何かしら安心できる﹂所ではあるという。
双生川んである H兄 弟 は 、 引 介 何 一 歳 、 ど ち ら も 、 支
層化を考えている。﹁貸ビルにすると、兄弟が共に家族
は布利﹂と判断しており、将米的には実家の改築・山
﹁三崎町の家は、住むよりも貸ビルにした方が経済的に
観的な兄通しは、﹁ないわけではない﹂というOR兄弟は、
と一人の幼児の三人家族である。二人は、父親と共に
H氏のケ i ス(双生児兄弟)
有限会初による製本業を営んでおり、れんは工場の所在
ごと居住できるような面核の隊保は無期一だろう﹂とし
本社事務所の他にも、三崎町界限で活動する場合の﹁拠
ながらも、八七雨的に貸ビル化するのではなく、本業の
点﹂となり得るようなスペースは、新ビル内に時四すこ
地である板橋区の併問住宅に父親と同居し、弟は豊島
日兄弟の父親は、戦後半く、一二崎町二]自で製本業
区のマンションに居住して、工場まで通勤している。
を始めた。その後、日兄弟が同町内の日本大学を卒業
通学の﹁足場﹂として、また、自分たちの一一一崎町での
った小・小学校には通わせたいとしており、その際の
教会関係の活動を中心とした地域的活動の拠点になる
とはがノ、えている。将米には、自らの了弟を山口分たちの通
の後、開和問。年に本社としての事務所機能だけを残
ような﹁休息場所﹂として、このようなスペースの設
に工場を叩泣き、家族はその併問住宅に、住んでいた。そ
して、工場部分を現在地に移した。三崎町の木造二階
計・総保を考えているのである。
後、中立経営に参加して現在に至っている。当初は同地
している。引在、⋮階を飲食応に貸し、二階に事務所
建の家屋は父親の所有であり、敷地は半分以上を借地
で同地に居住していた。地域的なサークル活動を三崎
地元の大学を卒業し、各々昭和五六、五七年の結絡ま
いたまま現在に烹っている)した後も、兄弟は残って
親社代が工場とともに移転(住民票は千代山区に置
り、地一冗意識も消えつつある﹂とみている。しかし、
る。更に、﹁業務地化の進行で、﹃昼間だけの街﹄にな
と考え、﹁住むのには五桜不便な太地﹂であるとしてい
細な肉凶や工場だけが残った、企業的な活気のない街﹂
る意志のない、細々と情性で続けているに過ぎない零
兄弟は、現夜の三崎町を卒業経常の商では、﹁拡大す
町で行っていた兄弟にとって、転出することには﹁伐
自分たちにとって、﹁一一崎町には、子供の頃からの、場
と民性スペースがある。
念な耐﹂もあったが、仕事場が近くなることもあり、
人間関係がつくられてきた所﹂としての意味が今まで
所に根づいた数々の﹃思い出﹄があり、削切在まで続く
日兄弟は、共にこの三崎町の実家に一段って応住する
﹁仕事だから仕方のない﹂との心境だったという。
ことを希望している。はん第は、⋮⋮-崎町内にある教会の
は﹁この池に似ざした人間関係が絞いていくかぎりなく
も続いているとし、こうした場所と自分たちとの関係
なることはないであろう﹂とみている。そして、﹁ け分
サークル活動を組織し、現在まで巡常してきでいる。
そのため、ミ崎町山介限における人間関係が現在の同住
F
地に比較して向日かであり、何よりも﹁三崎町界限の地
ていく者は、現在も占 一崎町に居住している府も合めて、
たちのように、一二崎町に何らかの吋特別な﹄関係を保っ
ここでは叶一括分隊転出者の事例を山中心として
これからもいなくなることはないだろう﹂としている。
A
域社会が自分たちにとって同一伯仲的な拠り所﹄である﹂
としている。さらに、﹁自分たちが生まれ、大学まで過
深い﹂ともいう。
JU
この一二崎町に反って百円ぴ似性することについての存
ごした三崎町に対する愛者
わ
K
さ
﹁住民﹂﹁定住﹂等の概念をややゆるやかに解して、﹁ネ
棒クラブ活動に参加している。しかしこれらは単
趣味・教義、老人クラブ、スポーツ、宗教・議などな行
いる。先の調査結果から明らかなように、住民俗人は
もん実際には町内会の関連組識、ないし下部組織化して
も調査待点(一九八四年)以後の数年間の三崎町を取
ットワーク烈居住﹂﹁ネットワーク型間住行動﹂の発恕
能のクラブ活動であって、地域全体をカバーするもの
間人びとにとっての根拠地とは
り巻く変化がとくに激しかったことを前提にするとし
を取り入れたばあい、拡がりと京協川性ある池域を綴場
ゆる挙家転出世帯の事例を紹介していないこと、しか
ても、各事例を通じて底住人口(夜間人口)減少、ピ
とする人と人との結びつき、社会諸活動、あるいはさ
ではない。
筆 者 の 考 え で は 、 こ れ ま で の 町 内 会 ( 町 内 会 述 人 H)
e
機
ル化の町内も、、そこには自に見えない生活空間の網
まざまの出米本や﹁もの﹂としての施設・装慣を総経
の役割を如、つのではないか。地域関連の﹁施設・装波﹂
等の﹁組織﹂に代るものとしては、﹁施設・装置﹂がそ
し結川即する役割を狙うものは何かが、間われてくる。
内の総意と利放を代弁する制度的枠組みとしての町内
市街地の伝統的な町内では、そのや心的な役割は、町
白
E Zえ者。吋宮ごという初
の白が重臆的に拡がっていることが明らかである。﹁場
会 学 的 テl マが、そこには見られるたゆ o職住分隊、とき
所とネットワーク(古田口2
に 職 住 ぐ る み の 転 置(
2
-。
EC。ロ)ではあるが、生活の擦
間にわたる人と人、人と組織、組織と組織を般的き述
り情報センター﹂などが念頭に浮かぶ。地域内、地域
としては、町内会館とかコミュニティ・センター、地
的役割から後退していることは、否めない。町内会長
環するメディア装哉としては、新しい引の﹁施設・装
がり、拠点を前住地に残す新しいライフスタイル、ワ
づ
令
。
ク型居住﹂からの読みができるとしても、全体として
似人の日常生活に者阿付したばあい、先の﹁ネソトワー
は特定の地域(あるいは町内)に狼ざしつつも、例え
夜﹂が求められる。ここでの﹁まちづくりセンター﹂
区公民館等が挙げられるが、これらの施設規段や機能
市街地のコミュニティ形成においては、結婚等をキ
象 徴 的 リ ー ダi の 役 割 を 初 え き れ な く な っ て い る こ と
ばコミュニティ・センター等に見る地域の身近なけ
会、あるいは象徴的リーダーとしての町内会一えが犯っ
ッカケに他出した若手後継者御一帯を前住地にどうUタ
は、確かである。町内会は町内の十日くからの地付き府
常施設の枠をこえる。それは、いわば私的領域をこえ
ていたと -悶
Y えるかもしれない。しかし町内会(あるい
ーンさせるかの政策課題もあるが、この魂尽の前に、
(その多くが町内会役只経験者)を中心とした和五親睦・
て公的領域に踏み込んだ施設と一一一一悶える。しかし中心市
i クスタイルを、﹁ネットワーク型居住﹂とでも一一一一同う観
世按分離転出者の実際のライフスタイル、ワークスタ
扶助機能に水銀がある。先の都心コミュニティ調小食で
街地等に立地する民間営利、あるいは行政関連の大型
では不充分である。拡がりと重層性ある地域の結邸内⋮
イルからすると、﹁住民﹂や﹁定住﹂概念をややゆるや
は、町内で実際に伎活している人ぴとの間でも、町内
としては、さしあたり﹁まちづくりセンター﹂﹁まちづく
か に 、 多 義 的 に 解 す る 必 要 が あ る 。 事 例 の K さんのよ
会は葬祭一郎に限られてきており、地域生活上の不安や
の専門的施設とは同列でなく、地峡と結ぶというな味
は町内会長)の現在は、制度化の枠制み(いわゆる町
うに、職住分離型ではあるが、日常の生活拠点が家族
では、﹁中間﹂施設と訴える。施設の運営形態は多様性
内会体制)を維持しつつも、実際にはこのような中心
ぐるみで前住地の三崎町にあること、あるいはH兄弟
閣総慨を解決する手段、あるいは調務能力として、町内
マ化すべき時機にさしかかっていることも、確かであ
のように職住ともに引き払ったが、自らのアイデンテ
点から、従米の﹁住民﹂概念の河解釈と併せて、テー
ィティを三崎町のし百くからの人間関係や、教会、出身
会への役割期待が決ちているのが明らかである。このこ
を依びるが、各府住民の
る。行政との然がりでは、行政と民間との協動シス
rMM
、来的管烈一・速一品川口を原則とす
とは、京京都全体のレベルでも傾向的となっているけ日。
では、判内会に代る新しい地減組織が存在している
校を基地とした社会奉仕活動に依然として夜いている
の民間山非常利の﹁中間﹂施設が、法人絡を持つことも
テムにもとづく﹁中間﹂施設としての機能をもっ。こ
実態は、さまざまの読みが可能となる。この点で、例
(あるいは問内会述人口)に代る、例えば﹁住民自治協議
定されない)ゃな介積ボランティア・グループを含め他
﹁まちづくりセンター﹂が各層住民(町内出住者に限
考えられるが、ここでは立ち入らない。
かというと、疑問である。知外地域等では、﹁町内会﹂
会﹂あるいは﹁市民生活会議﹂方式その他を係別して
a
際上の拠点としているようなばあい、これをグ不在町
いる。三崎町に限らず市街地の伝統的灯内では、町内
えばビル経営に転じた町内会長は、町内非居住者では
内会長。、あるいは町内会の法人化、形式化の商だけで
会のナンバー2の地域組織が見当らず、各孫機能川川体
あるが、ビルの一室を自分の仕事と地域社会活動の 実
は読めないのかもしれない。
ーや弁護士、社会学者、地域担当行政職員などのゥ駐
別集団・組織のバー録人あるいはまちづくりプランナ
ズだが、たいそう洗練された設計意志を忍ばせた、﹁部
構図が、建物全体の造形に象徴されている。一見ルー
そしてこの仕事場初立の意府的・多段的ネットワーク
ス・スペース、工一切)をゆるやかに放置させており、
メージの都心を目指すべきである。それは、均質で無
﹁港区は地区の視点、首都の視点を融合させた新しいイ
M書 ﹂ で あ る 。 そ こ で は
な る 、 内 容 の 充 実 し た ﹁ 都 心F
区、⋮九八六)は、高度の政策選択のガイドラインと
の﹁根拠地﹂にまで桜をおろすかどうかは、今後の議
デンティティ、あるいはその人の生き方、思恕として
立ちとして人と入との結びつきから、前住地へのアイ
を如、 70 町 内 を 他 出 し た 人 ぴ と が 、 こ の セ ン タ ー を 仲
この﹁部分﹂と﹁全体﹂との関係、あるいは﹁子造り﹂
、っ、注汗してよいモテルである。建築史の鈴木博之が、
の美しい建物は、﹁中間﹂施設としての象徴的機能を如
ぞらうことができる。造形のない造形の、混成系のこ
くりは、財述の﹁地域﹂と﹁都市﹂との協働関係にな
他のまちづくり坦念が示されている。治氏では、この
常まれる都心、凶印刷住と仕事の場の 公
A 布する都心、その
創造的な仕事の場を備えた都心、同多様な都心居住が
区ことの個性と魅力を備えた都心、山ヒューマンで、
えたやわらかな生活都心である﹂として、とくに山地
能を持ちながら、優れた間住環境と倒性的な宗鋭を備
機的な効虫学優先の都心ではなく、多様で古川皮な都心機
L(
東京都港
在。を合め自主的なプロジェクトおこし(﹁こと﹂)を通
分﹂と﹁全体﹂との関係のたくみな仕掛けと仕組みづ
題である。しかし光の 仲
M 間・三崎町の剥←食事例では、
スケールと﹁大型装置﹂スケールとの関係を、次のよ
その一つ、吋やわらかな作活都心の提案
﹁もの﹂との連環を積極的に図るメディアとしての役割
じて、﹁ひと﹂と﹁ひと﹂、﹁ひと﹂と﹁もの﹂、﹁もの﹂と
規模や機能は限られているが、地元の教会や学校が、
うな立表をつく発一一一日をしているのも時除的である。﹁以
正方針を決めており、そこでは﹁港区は超高地側と業
日兄弟の地域へのアイデンティティの象徴的役割を机
さんのニ一一円っている子は、 .CCMが一万勾町になった吋
に、幻僚機で一 0 0依 に リ ブ ロ テ ユ │ ス で き る ん で す
よ。一 C C倍に伸ばしても密度を保って残る子と、
C C並べなきゃ予が残らない子の速いだと芯うんです。
務化の進行に伴い大きく変貌しつつある。江戸以米の
設)の建物が興味ぶかい。歴史の古い佐久間小学校・
而し山肌附棋を平めている。都心とは本米、人が住んでこ
(一九八七・一二)では、一年後に Hiくも同よ前川庄市﹂の修
部門を受けもつ吋港区街づくりマスタープラン・素案﹄
きな柱立てとなっている。ちなみに長期計画のハード
吋やわらかな生前都心の提案﹄が、長期計耐阿見直しの大
幼稚闘が、学区内の幼児・児童数の激減から、学校敷
o 作品としての﹁ヤマト・インタ
ているわけですね﹂けm
そこのところで、僕は大きい連物の士素晴らしさをつ Hっ
っていた。この意味では、三崎町と向じ千代間区内に
地と隣接の公闘のスペースをいかして、学校教育と社
ーナショナル﹂は、地峡と一見ルーズだが、繊細ななM
誕生した﹁ちよだパ i クサイドプラザ﹂(一九八七年開
会教育を統合化した大型の建物へと衣替えした。白斑
阪史の中で洗練されてきた地域社会は、この状況に抗
のこめられた協働関係に拠る﹁都市﹂モデルの方法論
の高層ビルは、建物内部の例別施設と併せてか表栄作
の二誌に尽きるが、しかし学校教脊系と社会教育系、
した一様な都心は、此界都市に必要なゆとりも魅力も
そ、魅力と活力を持ちうる場所であることを、叶一界の
﹁紛織﹂から﹁施設・装中古川﹂へ、﹁中間﹂施設として
付ち引ない。また、歴史的に形成されてきた港区の臼
諸都市は示している。人の住まない、業務機能に特化
の聞かれた施設とは到底一二一口えない。都心一肢としての附
のまちつくりセンター楠恕、方法としての﹁ちよだパ
然的、郡山的資践を紋示し、活かすことが、港区のア
にほかならない。
有性にこだわる余り、施設・装置としては燐核のオフ
ークサイド・プラザ﹂と﹁ヤマト・インターナショナ
イデンティティ、東京の険 m
介に対するアイデンティテ
矧まちづくり推進計画とのつながりにおいて
ィス・ビルに遜色がない大型化に成功したが、機能的
ル﹂の遠いについて述べてきたが、日以後に郎心一肢の計
てきた人びとが支、える地域社会は、際きト一げられてき
ィを確立する重要な鍵である。永年、泌氏に住み絞け
さらに幼稚閣と保育園とが管理のシステムに応じてこ
にはむしろ地域との繋がりの断たれた、内問的な桃迭
ぶ自治のシステムに有効な計尚子段を発郊できないの
両づくりに触れておきたい。都心阪か‘般に地域と結
まかく物理的に仕切られており、地域の結節点として
を示している。
し仏叶の﹁ヤマト・インターナショナル﹂日附が、刺激的で
街地のはずれに氏間企業の建物として新設された、原
楠恕・計同が一部の特別似で従来されだした。
辺氏とも呼応する独自の'市街地環境撃的、まちづくり
が現状だが、それでも散発的ながら、山の子、郊外周
域社会の仔在それ自身が港ほのみでなく、氷点都心の
衰退を防き、その活力を創りだしてきた。そうした地
た生活システムを持ち、時代ごとの変遷をこえて郷市の
筆者にとって専門的な評価はできないか、むしろ市
ある。いわば相対的に自立した小さい仕事場(オフィ
活都心を実現するため、街づくりマスタープランを核
割の変化に対し、以上の認識を踏まえてやわらかな生
ならない¥股界的な産業構造の転換、東京の悶際的役
諸機能の複合と共存の望ましいあり方が兇出されねば
い状況にやわらかに対応するためには、都心における
支重な資産である。これらの資産を活かしつつ、新し
を地方自治を構成する主体として、公的に認知したと
受けとめられる。しかし﹁住民﹂﹁行政﹂と放んで﹁企業﹂
の危機感に根ざしたこの提案は一つの意士山表示として
遅きに失したと一二一口、えるが、﹁区議会﹂と﹁町内会連合﹂
している。千代田区の池域のかか、える現状からすれば、
自らのまちに自らが責任をもっ﹂街づくり方針を提案
う見解もある。だが、それはやや
子ゾi ン﹂は近代化の遅れたお荷物的存在であるとい
うビジネス郡市にとって、(糸川を山中心とする)﹁川の
機関を況の一つのな志として描いている。﹁京京とい
住・向・工初万一の述惜別化と自律性あるまちつくりの
とするが、むしろこの﹁川山叫んとの利点を活かして、
憐恕したものである。山市開は住商工の混合地域を特色
方といえるだろう。というのも、この﹁川の子﹂が、
A
方的で皮相的な兄
ころに、都心区・千代田区の置かれた立場がある。
文化の蓄積として、来京の同一性に侵食されつくして
産業のあり方として環境の条件として、あるいは生活
な お 、 こ れ は イ ン ナi エリアからの従業であるが、
とし、積極的な街づくり行政を推進する。これにより、
の構図江東京都議問⋮以勺⋮九八七)は、出色のレポー
選 問 区 の ﹃ イ ー ス ト サ イ ドlli工 房 ネ ッ ト ワ ー ク 都 市
地域社会の継承、新しい都心コミュニティの形成など、
ープラン策定調査﹄資料、一九八八・二)との基本的
いない、地域としての豊かな倒性を、かろうじて確保
定住の促進に全力を投入する﹂(﹃港区絡づくりマスタ
している独特な地域だという重要な事実を見逃してい
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﹁都心の過疎化﹂に悩む都心自治体が、﹃都心白書﹄を公
七O年である。約一八年を経過した一九八八年の現在、
に ﹄ 東 京 都 町 田 市 、 一 九 七O) を 公 に し た の が 、 ⋮ 九
(﹃問地建設と市民生活ili町 阪 市 の 新 し い 出 発 の た め
体が、地域の安定と自律的発展をめざして司団地白金悶﹄
住者をかかえた﹁人口急増市町村﹂としての郊外自治
な郊外化と﹁団地﹂建設により、一時的に多数の新居
そ れ に し て も 、 ⋮ 九 六0 年 代 の 高 度 成 長 期 に 大 規 模
待したい。
の基調を変える仕掛けの⋮っとして作動することに期
は、一義的で一様な東京の﹁郁心¥そして東京論全体
刊行されている。これらのささやかな提案も、やがて
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(東京都板橋区、⋮九八七)が、それぞれ
市を拓く(中野まちづくり白書)﹂(東京都中野区、⋮九
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国都心的住まいの様式とは
研究の最高の頭脳として知られた。大都市・ニューヨ
業績であった。筆者が一九八五年暮にこのセンターを
ークの総合研究のシリーズも、一九六0年 代 の 大 き な
ケンブリッヂに再訪したとき、﹁住まい共同研究センタ
ことが隊認できる。
都心型居住のテーマ化において、﹁都心型﹂に桜限化
武装をした建物や施設・装置よりも、震い意味を持つ
したかたちで住居の様式や人びとの価値観、ライフス
ii│
結びにかえて
都市化の成熟段階に見合う住まいの様式を共通主題
とする地道なスタッフ構成となっていたが、しかしこ
ていた。研究者も経済学、政治学、社会学者らを中心
都市計画家の﹁ポンチ絵﹂か、社会学者好みのタイプ
こでの﹁住まい(問。5 広岡ごは住形式にとどまらず、大都
EEL-2)﹂に看板をかえ
ーC三ロ件。。口広司向。円自由。口出回出m
とくに戦後日本の都市社会学では、空白部分をなした
分け作業の段階ならよいが、結果論として時代の気分
な再編成のなかで、﹁普通の住宅﹂、﹁普通の人びと﹂を
市の市場的、地域的、あるいは人種・階階的、世代的
タイル、あるいは﹁自治﹂の制度をつめることは、あま
中心市街地、﹁都心﹂の実態を、大都市開の比較を通じ
に乗った﹁都心機能純化﹂や﹁白治くずしの新制度﹂
軸 に ど の よ う な テl マの総合化が間られるかの実託研
り現実的でないことも明らかとなった。それが建築・
て観察してきた。﹁都心﹂に人が住むことの意味と機能
っている世界都市・東京(とくに都心、準都心)をめ
にくみすることになる。とくに﹁最感期﹂にさしかか
ての﹁都市¥地域﹂とは何かの議論に終始してしまった。
は何か。このことは、﹁最盛期﹂をすぎた欧米の大都市、
のみならず世界各国の都市専門家を一堂に会した都市
ずる。(おくだ・みちひろ/ル立教大中村会学部教佼)
研究への総合的視角が求められる日も近いものと、信
都市化の成熟段階に見合う﹁住まい(出。=2品)﹂の実証
とくに合衆国北東部メガロポリスのゆ心市街地が、﹁コ
かつて北東部メガロポリスと重ねて都市と都市化の
究を主体としているのを知った H問。わが国においても、
政策とを同時に視野に入れるという逆説的状況につい
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時 代 を 予 測 し た ハ ー バ ー ド と 窓 口 の﹁都市共同研究セ
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宮邑芯印)﹂は、合衆国
て紹介した。﹁住民﹂人っ子ひとりいない現実を眼前に
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したとき、人が地域に住む、あるいは人が地域にアイ
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デンティティを持つという事実が、どのように理論的
フィラデルフィアのダウンタウン(写真/林泰義)
ミュニティ放棄化﹂の現実と﹁コミュニティ復位﹂の
ぐる八0年代的状況に、このことは該当する。
としながら、主題の趣旨からはずれて、人ぴとにとっ
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に大江守之氏(社会開発総合研究所、当時)から多く
所、ム九八五)同﹁東京郷心地波における投資位んもの
北川総合研究所、
こと。なお千代川区人口動向調木口にあたっては、とく
動向等に関する利宣報告芥﹂(問、一九八六)を参照の
の示唆を得た。とくに謝立を表したい。
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川川↑八しハ、ム九八じ所以の特集記事・ヤ?
41
58 ほかを参照。
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之・係広可)﹂、﹃建築文化 L h m八六、前仰向、一一一三沢。
陀談会﹁建築変火口の波頭を見通す(石山修武・鈴木博
精一界風景;︿集落の教、え﹀をめくって﹂、ゐ九一八じ)。
2原広司﹁文学と筏築の
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M間九C (対談・大汀健一二郎
七八(特集・機能から様相へ、一九八六)[往築文化
ト・インターナショナル参照。他に、﹁建築文化﹂尚川
﹁出叫築文化
一九八七)参照。
の実態に関する細川交研究報合計﹂(京京都生活文化財、
︿・えのrE仰
口ター﹁
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。 HJ2ω唱忌∞ωを参照。
例えは調木日報告書﹁附町内 Af
了山治会等の住民自治組織
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のUZL。∞・司一 ω。
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ユGEML
﹁、不ットワ l クと場所﹂の診え方については、例えば、
中央区アンケート誠査結果﹂(立教大川子社会学部奥山研
にとっての﹁臼治・拡光﹂寸都政研究
七 、 問 1八
百
九
。
a
有斐問、一九八問)、ムコ一川 1 一一六六百(。山
L
般 B ﹁大都市都心地域の公以一と小川止しに関する比較判官会学的
付記i1│本論文は、会九八七年度文部省利や研究助成、
川 区 人 口 動 向 務 査I、H﹂前仰向。他に調交総合計﹁東
る(一九八八年一二バ)。
研究﹂(矧究代表者・奥山道大)の成果の一部をなしてい
河辺宏・大江守之・奥山道大ほか)﹁千代
京都心地域における都市更新の誘道方向等に関する鈴
H(
木川相抑止日記﹂(同土庁大同州市川間格悩M- 日刊会開発総人口研究
誠ボ円相抑止口女
鹿島出版会、一九八七、谷参照のこと。
口慶一制﹁郊外住宅地の系諮東京の州問ユートピア﹂
市の文化
鈴木博之﹁都市のすまい﹂(様山紘一-奥山道大一樹﹃都
、
林泰義﹁東京の土地と往んもをどう考えるか﹂民地域開発
、今 い 、L、
、
一 'U干
04fl
ノ,ノ,ノ ・-ノ
一,ノ一一 1
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MA
。
、
鈴木理生﹁明治生れの問・神川。一一崎山内﹂前川向、 -1一
一
氏
。
﹁小野氏政附論調資W﹂(東京都小野区、牟九八七)参照。
おける住民附論のゆらぎ現象をたくみに反映している。
例えば、小野区の叶ぷ嗣前夜引舶来は、地域の変貌過程に
八一 1 一九九頁参照。
持論﹄第三八巻第二号、 H本社会学会、一九八七、
ア
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参照
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奥山道大﹁戦後日本の都市社会学と地滅私会﹂﹃科会や
耐火山道大﹁第一次ベビ│ブi ム世代と大都市・東京﹂
奥山道大﹁都市コミュニティの別論﹂前仰向参照。
いる﹂との指 紛zがある。
非常に厳しい状況にあり、大きな岐路にさしかかって
や︿自治﹀や︿コミュニティ﹀といった級以からは、
まく激動のなかで、港反のおかれている状況が、︿定住﹀
恕の見広しのポイント、一九八七)には﹁都心をとり
一例として、東京都港以の基本比例恕メモ(射行恭本構
ι尚一一一二、一九八
この点については、奥川道大﹁特別限制度改不と住民
究室、一九八五)を参照。
a
間﹂(川、今九一八五)を参初。
東京都千代問区・相会開
HL(
九一八一)、制﹁千代川氏人口動向調式日
﹁戦後モデル﹂としての運動経験のもつな昧については、
例えば、調木日報告書﹁東京都心伐の川内会千代川氏・
戦後日本の大都市地域を中心として﹂土地域社会開発凶
次でくわしく論じた。奥山道大﹁住民の自己組織力
a
九八八・一一一・一一二一)。
際シンポジウム﹄提出論文、国際連合地域開発センタ
ー・神奈川服、
延際安弘・{伊川西悠司﹁内発的まち、つくりによる地以内
生過程﹂(大板市立大学経済研究所編叶大都市の衰退と
a
鈴木埋生﹁明治生れの問・神川一一一崎町﹂青蛙隊、手九
頁
。
再生﹄、前掲)、一八 一
七八。
長谷川徳之総﹁都市形成と土地市場│赤坂六本木再開
発地阪にみる土地の所有と利用の百年の変遂﹂(建設経
済研究所、一九八回)。
尚一-七一一、
h
芦原義信﹁隠れた秩序一一一川町紀の都市に向かって﹂
(中央公論松、一九八六)。
林泰義﹁生活都心を構恕する﹂﹃池域開発
ゐ九八じ、一二⋮頁。
佐伯洋一郎・河原一郎・鬼頭科ほか﹁地域夜間の共同
主 観 性 を 索 め てl 品川市川開発研究会の実践﹂、 τSDL 一
im間百(。
﹁新しい芝浦港街地域をめざしたウォーターフロントの
九七O年九月号、二一一
再 生 と 住 宅 ・ 業 務 施 設 の 努 ま し い 複 A打 開 発 の あ り 方 ;
港 反 ﹃ 都 心 型 住 宅 市 街 地 設 計 競 技 ι入 賞 ・ 選 外 佳 作 作
品﹂(東京都港区、一九八七)。ほかに﹁やわらかな生活
都心の提案江東京都港区、一九八六)。
﹁庶民集会﹂での能⋮川禎宣(東工大)の碁誠講演﹁情報
高 感 度 都 市 に 向 け てi 千代田区の街づくりシナリオ﹂
と質疑応答の今一記録は、﹁私迷の千代国区を庶民集会
記録﹂(東京都千代田区連合町会・区議会、一九八七)。
他に、﹁千代田波街つくり方針大きな明日にム向かって﹂
﹁自らの衡を自らの手で地反別街づくり方針﹂(ともに
東京都千代田区、一九八七)参照。
m反一人口動向調州市
か)﹁千代
例えば、務中市民報告書(河辺宏・大江守之・奥川道大ほ
4
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2
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3
1
3
2
或る自のハウジング・ムlブメント
天野義孝
仲間に求めて、テ!?を隣き絞り込む。私
山知にぷリ、歩を支えるアイディアを企業の
ムの構築を夢恕したり、あるいは現実の仕
はずの集山内が、あてどもなくれ大なシステ
かくも悦ましきナショナル・プロジェク
定状態に限ります。
的な選択をへて、ビジ、不スにつながるよう
タとして、側倣ある確かなものに見えてき
トの災態が、時代のテ!?のインキュベー
事に活路を見いだそうと布伎な往して、迷
っと、線の大い MMっぽい印象を免れません。
にと子を動かす。こうした立場の迷いその
ィアが学問的に大系づけられ、企業の終的附
オランダのデルフト工科大学の教授フア
そういえば、欲州通の友人に作われ、京
ままに、日的の表引はさまざまながらも、
たちは求めに応じ、なろうことならアイデ
ジ・ランテンさんとの出会いが、思えば転
橋。八了間引界践の路地裂を俳制した析に、彼
:このあたりの仕組舛屈が路地の常気を残
たのは、オランダ波りのゑかなティシュー
機となったのでしょう。先ごろ、二十一川町
共に判じと信じるイメージを模索して、い
したまま、今流企業のブランチ・オフィス
集を伐して
AH
る悶縁は、こうした柔かなティシュー感覚
おそらく、ランデン教授が東洋に旅され
ムiブメントは、そこにつどう人びとの、
ムlブメントは起こせない。ハウジング・
なく怖れもなく、戦略的な行動に走らせる。
l?をムリてなさい。仕事は人をして、夢も
町:いきなり行事よりは入、人を得て、テ
が口氏い牒史につちかわれて、中川仰や日本の
ィシュiに除いしれたい、そんな怨いにあ
への衝動も、洋の京阪を問わず詩編な、テ
ートしようとする忠悦から起る。やがてテ
時代と境遇が求めるテi?を、インキュベ
f
へあまの・よしたか / J
ZP
新・郡山ハウジング研究開先協議会品
その後の進展に待ちたいと思います。
の日に起ったハウジング・ムiフメントの
悠党にとりつかれてしまった私のれのせい
が添った⋮河川葉を思い出します。
システム開発を連呼していた私のれを突い
ットに触れられ、示唆に山口川む
しむなや
紀の住宅抽出をめくる議論のさなか、税同聞に
て、我々の新しいハウジング・ムiブメン
に生まれかわる。出れいと芯わないかい。
なのでしょうか。それとも結論は、あ
ト、巡動を意味するキlワ!ドが飛び出し
路地を治して、街区ごとそっくり誇らしげ
お帰りになりました。
つもの委久会の活動がいつものように始ま
た。その場に印出合わせたのは若々しい官僚、
な本初ビルがそそりたつ。何て針等なんだ
る の で す j j。
大学の研究者、民間企業の設計者。プロフ
ろう・:。
ランテン教佼は山口・パγ ・民協誠のスピリ
ェッショナルにあの手この予を思案顔な訴
の色を見せ、王様当然のように私のゆ一日菜を
もが、⋮瞬、張りつめた表情の中に、安堵
インナl・シティに息づいていること。旅
問の旅を終え、日本に立ち寄られました。
るのでしょ、 7。
このれの数日前、ランデン教授は中国訪
受け入れた。
先生のパートナーであるロッテルダムの建
*
られることまで、研究者・実務委から市民の皆さ
一歩もなく怖れもなく。ル、不サンスの火性
され、思い思いの仕事が生まれる:・・。
!?が自立し、多倒的で柔軟な活動が反問
築家ファン・デル・ヴェルフさんとご一緒
に私の仕事場をお訪ね下さったのです。
日本の住宅研究・開発の動向を紹介する
イザべラ・テステの背悦が私白身の境遇と
ま方の忌憾のないご投稿をお待ちしております。
段となり、必近のナショナル・プロジェク
照らし合わせて思い起こされるお活でした。
こ の 方 は 、 昨 年 米 目 さ れ た M I T教授ジョ
トを例に、多少の脚色を加えて、次のよう
大学に身を前く方がたは往々にして夢に溺
ゃいます。街にも村にも、春めいたこの日
を摘み上げながら、これだこれだとおっし
でした。先生はお沼しになったスiツの納
お開きしたのはティシュー-プランのこと
手腕をもち、新しいハウジング・システム
官僚は、オiガナイザ!としてもよ引越した
技術論をバランスよく議論している。彼ら
都市住宅について、制度論、宅問論それに
私のような氏側の建築家と⋮絡に、未米の
僚建築家がいて、大山下に絡を置く建築家や、
・・この同の'中央官庁には桜めて有能な山口
支配されていきます。いきおいブロである
mな小宮山川に
の つ ど い は 、 次 第 に 及 的 し く 窮M
れに不遜。これらが入り泌る三者一二様の入
昨怖を冊以こうとなさいます。耽溺と法巡、そ
し、怖れもなく大山肌不敵にイザベラの生き
お 役 人 方 は 文 字 通 り 夢 も な く A日開桁神に徽
て怖る怖る暖味に行動しがちです。一方、
れ、余惜浪人は前後左ふれの米側に疑心時鬼し
すまいろん綴察部﹁ひろば﹂係
156家京都世間谷区制臨時愉4了gnI8
寸
一
財団法人新住宅普及会
﹁住﹂に関する援索から日頃お感じになってお
ン・ハブラlケンさんと深いかかわりをお
にお話してみました。
ご投稿をお待ちしております。
もちで、やはりオiブン・ハウジングの研
の先生の装い同様に、街の装い、村の装い、
のために研究開発の環境を殺えてくれる。
究をライフワークとしておられます。まず
雰閤気を織り成すティシューが要るという
大学の仲間は、ライフワiクとする夢を-俊
宛て先
だく域合もありますので、ご諒承下さい。
内容を儀っけない範闘で一部手臨しさせていた
住所、氏名、年齢、齢制畿を御記入下さい。なお、
原稿間用紙(凶O O字詰)一一一枚穏度。原務には
(採用文については薄謝進皇)
ツクと呼んでいるそうです。これだとちょ
ことなのでしょうか。米隠では、ファブリ
守
寸 43い7
qん
﹂
-年 間 予 約 購 読 ・ ご 自 宅 郵 送 制 で オ (
底頭
'
販売は左記以外においては行なっており
年間予約購読のお願い
﹁住 ﹂ に 関 す る 研 究 成 果 の 公 開 普 及 を 中
心に、研究者、実務者またひろぐ市民の皆
-購 読 申 込 み 方 法
1600阿(送 料 笑
1400円 (詮料共
9
'
購読申さみ方法は次の何れかによってお
、
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年度分の購読予約をされた方に限り、
年 度 瞬 続 予約 者 へ の 特 典
。
一 括 送 り 先 を 明 記 し て 下 さ い-
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無料で配布させてい‘ただきます。
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すまいろん ﹂を
w年 度 の ﹁
左 記の要領で m
布
願 い し ま す。
川刊同卦の﹁すまいろん 半 購 読 申 込 書 ( 振 替 、
用 紙 ) を 利 用する。
山氏 名 、 年 令 、 住 所 、 日 、 勤 務 ( 所 属 ) 先
号号 号 号
ません)
-建 築 会 館 資 料 頒 布 所 ﹄港 区 芝5 1ぉ m
J
-骨骨話 (03)4561 2 0 51
小額 切 手
名 、 所 在 地 を 明 記L て 郵 便 切 手 -(
・南 洋 堂 書 底 千 代 田 区 神 田 神 保 町 11 幻
・秋 ・冬 号 )
で御願いします)、来は現金 同 封の上申し -
電 話¥(03)291l A 3 3 8
6 年 間 購 読 料 ( 例 年 度 春 ・夏
2 0 0 0円 (送料芙)
いただきますので別に領収書が必要な場合
込 む 。 ( 領 収 は 本 誌 発 送 を 以 刃か え さ せ て
間グループ予約が必要な場合は人数民及ぴ
5nuO円
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さ ま の 意 見 交 流 の 場 と し‘て、昨年までお届 ,
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金にいたします。
一人 当 り1800阿(送料共)
-且‘ は 注 記 し て 下 さ い )
-T ルlプ 予 約 の 場 合 は 次 の と お り 割 引 料、
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頒価
ポ ジ ウ ム の 話 題 の片守に 、 一
安 に 時 を 越 1て 一 季 刊 す ま い ろ ん 前
つながる ﹁ヒ ト ー 空 間 と ﹂ の 文 脈 の 存 在 を 一
一九 八 八 年 七 月 一日 発 行
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戸、
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秋秋秋 無
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りt& ﹁すまいろん ﹂ しい改称、内容一 一
新
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充実をはかり、 ー季 刊 と す る こ と と い た し ま
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3人 以 上
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には今もはるかな﹁森のたたずまい﹂が
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ひ そ ん で いる よ う な 気 が し て な ら な い。
総 じ て 見 と お し の き く ことを良しとする
﹁平 原 に 発 達 し た 西 欧 等 の 文 化 に 対 し 、 日本
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年夏号
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、した。
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つきましズは マ よ り タ く の 方 々 に お 読 み
一 いただけるよう、実費の一部を年間購読料
として 、 ご 負 担 を お 願 い す る こ と と な り ま
一、
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、し た 。 財 団 の 意
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編集後記
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わたし 、 ベ ﹄
トルトブレヒトは
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黒い森から出てきた 。
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母 は 胎 内 に わ とL を い れ た ま ま
の そ れ は 更 に な が く 森 に 浸 り き った 歴 史 を
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隔離 、 そ し て 予 期 せ ぬ 展 開 の 連 鎖 か ら な る
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都 市 の 中 へ と や ってきた 。
あの 森 の 冷 た き は 、
森 の景 観 11 国 際 情 報 都 命 と し て の 光 に さ
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命 あ る 限り わ 士 し の 体 内 に 残 ふ だ ろ う 。
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の 詩 を 読 む こ ど は 、 ブ レ ヒ ト に 対 す る 冒演
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都 市 を 造 り つ つ あ る 現 吠 の ヒ ト の 深 層 心理
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財)新住宅普及会は昭和=三年、故 ・
・清水康 雄氏(当時 清水建設 社長)が、私財の一都を基金として 設立された公益法人です。 住居に 関わる研究助成を 事黙 の中心とし、また、図書室、セ之ナ l室等を公 開
し、研究普 官
﹁住宅 建築研究所報﹂(年一回)、﹁研究報告書﹂(
随時) を刊行しております。
官活動を行なっ℃おります 。 ニの﹁すまいろん﹂のほか、 〆
を つ まず に 贋 用 「
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電 話(03)48415381 制 作
1 建築思潮研究所
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頒 価5 0 0円
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新住宅普及会
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