③国宝・仏頭

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国宝・仏頭とは?
*国宝・仏頭とは?
我国の白鳳仏像の代表作に挙げられる作品で、中国の隋から初唐の石仏の影響を受け
た仏像の頭部のみが遺品として現存する。
昭和 12 年の興福寺・東金堂の修理中に須弥座の下から発見された仏頭は優れた作品
としてその経歴が調査されたが、1411 年に東金堂が雷火で焼失した時に本尊の頭部が落
下したものでそのまま床下に放置されていたことが判明した。
興福寺は 1180 年に平重衛(たいらのしげひら)の焼き討ちに会い伽藍が焼失したが
1187 年に東金堂が再建された際に本尊として祭られたのが山田寺の本尊・薬師如来で興
福寺の僧兵により強奪されたものとしています。
*山田寺とは?
飛鳥の山田寺は現在講堂跡に江戸期の小さな観音堂を残すのみのではあるが、創建は
蘇我馬子の孫・倉山田石川麻呂発願で舒明朝(641 年)に起工して金堂のみが完成した時
点では、孝徳朝の重臣として活躍していた石川麻呂が 649 年に弟・日向(ひむか)の讒
言で謀叛の疑いを掛けられ自殺したため寺の造営が中断した。
その後石川麻呂の潔白が明らかとなり造営が継続されたと考えられ天武朝で本尊・薬
師如来三尊像が鋳造され、685 年に開眼供養が行われ山田寺は完成した。
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伽藍配置は中門・塔・金堂・講堂を南北一直線に並べる四天王寺式ですが、回廊外に
講堂を配する独特の配置で山田寺式と呼ばれている。
平城遷都後も飛鳥に残り寺勢は維持し続けた様で、1023 年に藤原道長が山田寺に参詣
して驚嘆したと「扶桑略記」(ふそうりゃっき)に記されている。
しかし平安末期には寺勢が衰え、興福寺の僧兵に本尊を奪われる事態となり、更には
天災で伽藍が倒壊し再建不能ながら鎌倉期には規模縮小して維持されてきた。
*薬師如来三尊像とは?
薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)とも呼ばれ須弥山の東方浄瑠
璃世界に住むとされている。
この如来は十二の大願をたて、衆生の救済に当り、無病息災長命のほか、衣料や飲食
を満足させる等の現世利益をさずけるとして信仰の対象になった。
本薬師寺の薬師三尊は天武八年(680)に発願、持統十一年(697)完成で天武・持統の
病気平癒祈願の為の造営とされるが、平城遷都で移転した薬師寺の本尊は天平期(71
8)とする説もあり、本尊の移転・新作論争は解決に至っていない。
一方山田寺の薬師三尊は天武・持統の手で 685 年に完成していることからこちらが先
輩といえますが残念ながら薬師如来の頭部のみしか現存せず、両脇持の日光・月光菩薩
が如何なるモノであったかは謎で想像するしかないが、国宝・仏頭に匹敵する素晴らし
い白鳳仏であったと考えられ、平安時代の名仏師・定朝(じょうちょう)に藤原仏を多
く造らせたとされる藤原道長をも驚嘆させるだけの作品だったのだろう。
*なぜ天武・持統が山田寺薬師三尊像をつくらせたの?
持統天皇の母が蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智媛(おちひめ)で乙巳の変 (645)
決行にあたり、中大兄皇子が蘇我一族を味方に引き込むために妃としている。
蘇我本宗家を打倒した大化改新で石川麻呂を右大臣に登用しているが、謀略で石川麻
呂を自殺に追い込んだため遠智媛が嘆き悲しみ失意の内に亡くなったので持統は母の
菩提を弔う為に薬師三尊を奉納したのではないかと推定されている。
おそらく天武は持統の要請で山田寺・薬師三尊像の開眼式(石川麻呂の 37 回忌の命日)
後に行幸していることからも氏寺であるにもかかわらず官寺並に支援していたことが
うかがえ、本尊も当時の最高技術を投入して制作され、後に作成された薬師寺の薬師三
尊像と同等の尊像として扱われていたのだろう。
しかし一説には本尊は薬師三尊ではなく、阿弥陀如来だったのではないかとの説があ
る。その根拠として山田寺講堂は五間四面とされていたが発掘調査にて八間講堂で四天
王寺講堂と類似であり、ここでは四間毎に夏堂と冬堂として使用されていた可能性があ
り、本尊が二体安置されていたと考えられる。山田寺にも丈六の十一面観音が本尊とし
て配されていた記録があり、「上宮聖徳法王帝説」の巻末裏書に造営時の備忘録的記載
があり、山田寺は蘇我石川麻呂追悼が目的で浄土寺との呼称もあり薬師如来より阿弥陀
如来を本尊とする方が理にかなっているとするものでる。
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*どうして山田寺本尊が強奪されたとわかるの?
「諸寺縁起集」は山田寺に丈六の薬師鋳仏と日光・月光鋳仏が在ったが今は興福寺・東
金堂に在りと記しており、九条兼実の日記・「玉葉」は文治五年(1189)三月9日より
同年八月 22 日までの日記に、山田寺の薬師丈六鋳仏像は 1187 年3月 9 日に興福寺の東
金堂衆が興福寺の僧綱に触れず、長吏にも申さず、山田寺から奪い取り東金堂に安置し
た顛末を記述していることでわかる。
現在の興福寺・東金堂に安置されている日光・月光像は仏頭とは様式も時代も異なる
のは明白で薬師三尊として強奪した証拠にはならない。
この頃の山田寺は 11 世紀の土砂災害で東回廊が倒壊したまま埋没されたことが発掘
調査で解明され、12世紀末には伽藍が焼失していることから寺勢が衰えていたことは
事実で鎌倉期に再興されたが興福寺の末寺として維持されたと考えられる。
山田寺の発掘調査で出現した埋没されていた東回廊を飛鳥資料館に復元されている
のでご覧いただけます。
<註>
扶桑略記:伝承で延暦寺の天台僧皇円作とされる私選歴史書で 1094 年までの記載 30 巻
しかし全文現存せず断片をあつめたもの
薬師寺・薬師三尊:天武・持統発願によるのは「本薬師寺」で現在の薬師寺では無い
従って薬師三尊も平城遷都時の移座説と新造説があり学会でも分かれてい
る
定朝:平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像を代表作とする平安中期に活躍した仏師で「和様」を
完成させ、七条仏所を開き仏師を養成 ここから鎌倉期の運慶、快慶が出た
諸寺縁起集:古代文献資料で菅家本(室町期)、護国寺本(鎌倉期)、醍醐寺本(1207 年)があ
る
九条兼実:「愚管抄」の作者・慈円の同母兄で藤原一族、源頼朝に擁立され摂政となる
「玉葉」は子孫が尊称して命名、二条家本では玉海とされ 1164~1203 年の日記
蘇我日向:石川麻呂の異母弟で身刺と呼ばれ中大兄の婚約者・石川麻呂の長女を強奪し
たとされている。代わりに次女・遠智媛が中大兄の妃となったと日本書紀に記
されている
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