99 雑 聖マリアンナ医科大学雑誌 報 Vol. 43, pp. 99–102, 2015 横浜山手病院について 18. 解説編:ウィリスと赤坂病院 (2) かずひで うち だ 内田 和秀 (受付:平成 27 年 6 月 23 日) 索引用語 W・N・ホイットニー,赤坂病院,長与専斎,高木兼寛,濃尾地震 引っ越した (本シリーズ 17 参照 )。父ウィリアムが はじめに 客死して家族が 1 名減ったにもかかわらず,元の家 前報ではウィリスの医師免許と医学博士号の取得 は増築された。これは診療所の開業準備と考えられ ならびに,ホイットニー一家の再来日に関して解説 る。 した。本稿ではウィリスの初期臨床業務と赤坂病院 母アンナの死去に伴い弔慰金が集まり,それを基 の沿革などについて言及する。 に自宅近傍 (氷川町 17 番地) に 400 坪の敷地を購入 し,病院を設立する計画を立てた1)。敷地の購入時期 ウィリスの初期臨床業務 は不明である。1883 年 4 月 27 日,ウィリスはイン 医師免許取得後初期のウィリスは,首尾一貫して フルエンザに罹患し,少なくとも同年 5 月 2 日まで 臨床業務に携わり,来日後早期の開業が必然であっ は終日臥床していた1)。その病床に通知が届いたのは た。その一端を少ない記録から以下に示す。1882 年 5 月 1 日であった。1883 年 3 月 3 日付けで,ウィリ 1 月 16 日の日記によれば,大学の眼科診療所に勤務 していた (前報参照)。1882 年 4 月 14 日,英国に向 スは米国公使館の通訳官に任命された1)。公使館の勤 務時間は 9–16 時であったが1),ウィリスの勤務開始 かう船内で,金属片で眼に受傷した一等補助機関士 時期は不明である。1883 年 6 月 12 日,ウィリスは の診療依頼を受け,船医に代わり主治医を務めた1)。 胸膜炎・肺炎になって長期臥床していたが,同年 8 1883 年 4 月 17 日,吐血を繰り返していた母アンナ 月 7 日には朝鮮の公使一行を,ウィリス同席でもて は,ガンにより死去した2)3)。同年 4 月 22 日,ウィ なししているので,この日以前にウィリスは回復し リスは腸チフスに罹患した福音教会宣教医 Frederick たものと考えられる2)。したがって,ウィリスは夏ま Krecker (1843 年 1 月 31 日–1883 年 4 月 26 日) を 往診した1)。翌日は 17 時まで在宅し,数人の患者を 診察した 1)。これは自宅 (赤坂区氷川町 5 番地) で診 でには公務に就いたものと推測される。 めた2)。これは診療所における医療活動の休止と再開 療していたことを意味する。 を示唆する。再開した診療所の所在地を示す証拠は 4) 1883 年 11 月 20 日,ウィリスはまた施療院を始 ないものの,氷川町 17 番地に無床診療所を新たに 赤坂病院の沿革 建設するのは不合理としか言えない。したがって診 赤坂病院は 1882 年に診療所として始められた5)。 療所は氷川町 5 番地で再開されたものと推察する。 これはウィリス自身の報告に基づく。ホイットニー 1886 年,入院設備を完備した最初の病院が,氷川町 17 番地に設立された1)6)7)。1888 年 1 月 14 日 15 時, 赤坂病院の正式な開院式が挙行された (基督教新聞 1888 年 1 月 18 日号 )6)7) 。来賓は衛生局長長与専斎 (1838 年 10 月 16 日–1902 年 9 月 8 日)8)9),軍医総監 一家は 1882 年 11 月 18 日に再来日し,ワデル邸に 仮住まい後,12 月上旬に元の家 (氷川町 5 番地) に 聖マリアンナ医科大学 麻酔学教室 35 内田和秀 100 高木兼寛 (1849 年 10 月 30 日–1920 年 4 月 13 日)8)9), す。集計されたデータの詳細は不明で,誤植と思わ 医師シモンズらであった。1902 年 2 月 1 日,赤坂病 れる部分もあるので概要と考えるべきである。病棟 院は財団法人として認可された 1)6)7)10) 。これに対し は資金の調達毎に拡張され1),それは病床数に反映し て,1902 年 5 月に社団法人となったとする資料があ ている。患者数は決して少ないとは言えず,支出超 る11)12)。東京市社会局の資料10)ならびに赤坂病院自体 過の主な原因が,施療によるものであることを示し の広告表記 ている。支出超過は国内外の寄付により補われ 13–15) の信頼性を重視し,後者を誤認と判 断した。1904 年,赤坂病院の管理を英国フレンド派 た5–7)22)。 ロンドン委員会に委譲した1)6)7)。後述するように,施 赤坂病院,聖路加病院および東京病院における患 療のために病院の収支は慢性的に支出超過であった。 者負担額の比較を表 3 に示す24)26)。赤坂病院の診察 これが直接的原因となり,病院の経営は徐々に困難 料と入院料が,他の病院に比較して低価格であった となって行った。また間接的原因としては,第一次 ことが一目瞭然である。 世界大戦 (1914 年 7 月 28 日–1918 年 11 月 11 日) 16) 赤坂病院の医療支援 における莫大な戦費や経済的損害が考えられる。こ れは戦勝国である英国も例外ではなかった。閉院時 1891 年 10 月 28 日 6 時 37 分,岐阜県大野郡根尾 期を 1927 年とする資料があるが6)7)17),その根拠は全 村 (現本巣市) を震源とした大地震 (M = 7.927) あるい く示されていない。1929 年 12 月 20 日発行の医師 は 8.028)) が発生した 29)。美濃および尾張地方を中心 名簿において,氷川町 17 番地に赤坂病院勤務の医 に大きな被害 (死者数:7885 名,負傷者数:21329 師が認められるが ,1930 年 11 月 5 日発行の医師 名) を与えたので,濃尾地震と呼ばれている29)。 名簿では認められない 。ゆえに赤坂病院は少なく とも 1929 年までは開院していたものと考えられる。 1891 年 11 月 1 日,赤坂病院は川上昌保と松島 (薗 部) 彦長らを中心とした救護隊を派遣した30)。救護隊 赤坂病院の沿革を表 1 に示す。 は夜汽車で新橋を出発し,翌日名古屋に到着した。 18) 19) 同年 11 月 3 日,愛知県と相談の上,愛知県西春日 赤坂病院の収支と患者の負担 井郡枇杷町・新川町 (現清須市) に病院を仮設する 赤坂病院の病床数,患者数および収支を表 2 に示 表1 表2 も,軽傷の患者のみで病院の必要性は低かった。同 赤坂病院の沿革 赤坂病院の病床数,患者数および収支 36 ウィリスと赤坂病院 (2) 表 3 赤坂病院,聖路加病院および東京病院における患者 負担額の比較 101 である。赤坂病院の診察料 0.5 円は,現代の価格で 526 円で,聖路加病院と東京病院は 1052 円–5260 円 となる。ちなみに,2015 年現在の初診料は 2820 円 であり,赤坂病院の診察料は安価と考えられる。同 様に,赤坂病院の 2 等入院費は 1052 円で,他の施 設では 1052 円 (1578 円) あるいは 1420 円–2104 円 となる。一般的に現在の 1 日当たりの入院費 (3 割負 担) は,統合失調症 3700 円,脳梗塞 7700 円,骨折 9600 円,虚血性心疾患 23500 円とも言われている。 医学・医療の進歩,設備の改善あるいは,健康保険 制度の有無など考慮すべき事項は多岐にわたるが, 詳細を考慮しない概算において,赤坂病院の患者負 担は少なかったものと思われる。 ウィリスが米国公使館員に任命されたことは既に 述べた。彼は勤務時間以外に医療活動と伝道を行っ 年 11 月 4 日,岐阜県羽栗郡竹ヶ鼻町 (現羽島市) の たものと考えられる。1895 年,ウィリスは 12 年間 東本願寺別院内に病院を開設し,治療を開始した30)。 勤務した公使館を辞任した1)6)7)。濃尾地震の救護活動 岐阜県の統計によれば,竹ヶ鼻治療所 (開設:1891 のため,ウィリスが岐阜に行ったとする記述があ 年 10 月 31 日,閉鎖:1892 年 1 月 20 日) の患者数 る30)。しかし,その根拠とされる論文に引用された は,入院 32 名,外来 650 名であった。なお,1891 礼状の文面には,そのようなことは一切記述されて 年 10 月 31 日から同年 11 月 3 日までは,愛知県病 いない30)。また,その論文30)に示された赤坂病院救 院・同医学校の救護班が受け持ち,12 月 2 日から 7 護隊員の一覧表にウィリスの氏名は認められない。 日までは聖バルナバ病院の救護班も加わった。更に, 当時彼は公使館員であり,勝手な行動は不可能であっ 赤坂病院は独自に竹ヶ鼻治療所の運営を継続し,治 た。以上よりウィリスが直接,濃尾地震の救護活動 療した患者の延べ人数は入院 1279 名,外来 4253 名 に参加したとは考えられず,論文30)は事実誤認であ に達した (1892 年 1 月 21 日–同年 3 月 23 日)。この る。 続報でもウィリスと赤坂病院について述べる予定 他に往診 (67 回) と種痘 (156 名) を実施した。また, である。 岐阜県中島郡小薮村 (現羽島市 ) の避病院において, 腸チフス患者 36 名を施療した30)。 文 おわりに 献 1) ホイトニー夫人,梶夫人.ドクトル・ホイトニー の思ひ出,初版,基督教書類会社,東京,1930: 1–169. 2) クララ・ホイットニー.勝海舟の嫁 クララの 明治日記 (下),初版,中央公論,東京,1996: 11–582. 3) 亀山美和子.女たちの約束 M・T・ツルーと 先に当時の患者負担額を,赤坂病院と他の施設間 で比較した (表 3 参照)。ここでは患者負担額に関し て,当時 (1907 年) と現代 (2005 年) 間の比較を試み る [国立国会図書館 HP リサーチ・ナビ内過去の貨 幣価値を調べる (明治以降) 参照]。過去の貨幣価値 を現在のそれに換算することは,価値基準の相違な どにより不可能である。そこで物価指数 (物価水準 日本最初の看護婦学校,初版,人文書院,京都, の変動を示す総合的な指標) を用いた簡単な概算が 1990: 53–57. ある。現在の物価指数が,過去の物価指数の何倍か 4) 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編.日本 を求めた後,その係数を過去の価格に乗じる方法で キリスト教歴史大事典,初版,教文館,東京, ある。 1907 年の物価指数 ( 東京卸売物価指数 ) は 0.632 で31),2005 年のそれ (企業物価指数:2000 年 に改称 ) は 665.0 であった32)。これより係数は 1052 1988: 471. 5) Proceedings of the general conference of protes‐ tant missionaries in Japan: Held in Tokyo, Octo‐ 37 内田和秀 102 法規,第 4 版,医事時論者,東京,1929: 28. ber 24-31, 1900 with extensive supplements, Methodist Publishing House, Tokyo, 1901: 925– 926. 19) 金原商店出版部編.大日本医師名簿 昭和 6 年 版,初版,金原商店,東京,1930: 20–22. 20) 永井良知編.東京百事変,初版,三三文房,東 京,1890: 163. 21) Stephenson FB. Medical notes from Japan. Bos‐ ton Med Surg J 1892; 126: 46–47. 22) 女学雑誌編集部. 赤坂病院.女学雑誌 1892; (326 乙): 1295. 23) 東京市赤坂区役所編.赤坂区史,初版,東京市 赤坂区役所,東京,1942: 1222–1224. 24) 東京市市史編纂係編.東京案内下巻,初版,裳 華房,東京,1907: 58–59, 167. 25) 日本図書センター編.社会福祉人名資料事典 第 2 巻,初版,日本図書センター,東京, 2003: 12. 26) 東京市市史編纂係編.東京案内上巻,初版,裳 華房,東京,1907: 721. 27) 宇佐美龍夫,茅野一郎.河角の規模と気象庁の 規模との関係.東京大学地震研究所彙報 1970; 48: 923–933. 28) 松村郁栄.濃尾地震のマグニチュード.地震 第 2 輯 1962; 15: 341–342. 29) 飯田汲事.東海地方大地震・津波災害誌,初版, 飯田汲事教授論文選集発行会,豊田, 1985: 117–118, 160–162. 30) 中西良雄.震災実業救済会の成立過程—濃尾震 災救援活動と社会事業 (II) —.愛知県立大学文 学部論集 社会福祉学 2005; 53: 107–128. 31) 日本銀行調査統計局編.明治以降卸売物価指数 統計,初版,日本銀行,東京,1987: 24. 32) 日本統計協会編.新版日本長期統計総覧 第 4 巻,初版,日本統計協会,東京,2006: 494. 6) 渋沢輝二郎.挫折のキリスト者 ホイットニー 家の人々,初版,渋沢輝二郎,川崎,1978: 23– 35. 7) 渋沢輝二郎.海舟とホイットニー—ある外国人 宣教師の記録,初版,ティビーエス・ブリタニ カ,東京,1981: 46–93. 8) 講談社出版研究所編.講談社日本人名大辞典, 初版,講談社,東京,2001: 1090, 1405. 9) 泉孝英.日本近現代医学人名事典,初版,医学 書院,東京,2012: 357, 452. 10) 東京市社会局編.東京社会事業名鑑,初版,東 京市社会局,東京,1920: 198–200. 11) 中央慈善協会編.日本社会事業名鑑,初版,中 央慈善協会,東京,1920: 東京府 132. 12) 矢島浩.明治期日本キリスト教社会事業施設史 研究,再販,雄山閣出版,東京,1988: 91–93. 13) 日本基督教会同盟編.基督教年鑑 大正 5 年 版,初版,日本基督教会同盟,東京,1917: 無 頁. 14) 日本基督教会同盟編.基督教年鑑 大正 7 年 版,初版,日本基督教会同盟,東京,1919: 無 頁. 15) 日本基督教会同盟編.基督教年鑑 大正 8 年 版,初版,日本基督教会同盟,東京,1920: 無 頁. 16) ジョージ・C・コーン.世界戦争事典,改訂増 補版,河出書房新社,東京,2006: 288–289. 17) 河端淑子.赤坂物語,初版,あき書房,東京, 1984: 28–41. 18) 医事時論者編.日本医籍録:附・医学博士録・ 38
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