朝倉敏夫・井澤裕司 - 立命館大学国際食文化研究センター

 特集号
『社会システム研究』
2015年 7 月 1
はじめに
朝倉 敏夫*
国立民族学博物館(以下,民博)と立命館大学は,2014年 4 月10日に学術交流協定を締結し
た.この協定締結を記念して,世界の食文化研究と博物館の役割に関する国際シンポジウムを
開催することにした.
「食」は人類の生存にとって原始からもっとも大きな問題でありなおかつ,「食」と環境,生
態,安全,健康との関係は,人類にとっての今日的な問題でもある.「食」の未来を考えるこ
とは,人類の未来にとってきわめて大切なことである.また,毎日の食事とともに,日本では
テレビのグルメ番組,スーパーや百貨店の駅弁大会,B1グランプリと地域振興など,「食」は
産業化・情報化され,私たちの生活文化のなかに入り込んでいる.つまり「食」は,私たちに
とって重大な問題であると同時に,身近な問題でもある.
こうした「食」を「食は文化である」という視点から食文化研究が始まったのは,そう昔の
ことではない.おそらく1970-80年代になってからではないかと思う.「食文化」という言葉が
一般に使われるようになったのも,ほぼ同時期であろう.
本年2014年に立命館大学に国際食文化研究センターが設立され,民博と手を携えて食文化研
究を始める最初のシンポジウムとして,日本の食文化研究がどのような展開をみせてきたのか,
その足跡と現状を明らかにするとともに,世界においては食文化の研究がどのように進められ
ているのかを俯瞰してみようと考えた.
こうした意味から「食」文化の研究について,世界というと多少語弊があるが,日本,中国,
韓国という東アジア三国と,イタリアから食文化研究の泰斗をお招きした.
日本からは石毛直道先生である.石毛は日本の食文化研究の第一人者である.食文化を研究
するために,世界100カ国以上に足を運び,「鉄の胃袋」に料理を収めてこられた.小松左京か
らは「大食軒酩酊」という雅号を与えられている.昨年,自身で選ばれた『石毛直道自選著作
集』がドメス出版から刊行され,今年の 5 月には南方熊楠賞を受賞された.
中国の趙栄光先生は,中国における食文化研究の第一人者である.私は1994年に出された味
の素食の文化研究センターの『季刊ヴェスタ』18号に載せられた「中国食文化研究事情」とい
う論文で高名を存じ上げていたが,昨年,ソウルで開催されたキムチ学のシンポジウムでお目
にかかった.
韓国とイタリアの二人の先生は,立命館大学と姉妹協定を結んでおられる梨花女子大学とイ
*
執 筆 者:朝倉敏夫
所属/職位:国立民族学博物館民族社会研究部/教授
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『社会システム研究』(特集号)
タリア食科学大学とからおいでいただいた.
梨花女子大学は,韓国の名門女子大であり,韓国の食研究の創始者である方信栄からの伝統
をもっており,新たに食文化に関する学部を新設する計画があると聞いている.この梨花女子
大学の健康科学大学の学長である趙美淑先生は,1984年に設立された韓国食生活文化学会の次
期会長に内定されている.
イタリア食科学大学は「食科学」(ガストロノミック・サイエンス)を専門とする世界で初
めての大学である.スローフード協会の創設者であるカルロ・ペトリーニの考案により生まれ
た.このイタリア食科学大学で食品の化学的な分析をなされてきたガブリエラ・モリーニ先生
とは,この11月に開催された韓国食生活文化学会30周年記念大会において,私も一緒に出席し
た.当初は「食べてみることによって形成された食の科学と文化:伝統的な食事様式」という
タイトルでお話の予定だったが,本シンポジウムの趣旨をよく理解いただき,急遽タイトルを
「食科学の誕生」と変更してくださった.
この第 1 部のねらいは,「食は文化である」という再認識をし,「食」を文化として研究する
意義を明らかにし,今後の「食文化研究」のあり方を考察することにある.第 2 部においては,
食文化を研究するうえで博物館がどのような貢献をしているか,具体的な事例を通して現状を
報告してもらい,今後,博物館が食文化を研究するうえで果たすべき役割は何かを考察してみ
たいと考えている.
第 2 部のテーマとして「食と博物館」を考えたのは,2007年に本館の客員教授で来られた韓
福眞の研究に触発されたからだ.韓は韓国の全州市に「食文化体験館」を建設する基本構想を
つくるため,世界の食に関する博物館を調査・研究をするなかで,日本に300近くある「食の
博物館」を調査した.(「産経新聞」2008.2.9)
韓の報告によると,2007年 3 月 1 日から2008年 2 月28日の 1 年間に,食関連の博物館135箇
所,総合博物館・美術館96館の計231館を訪問したとある.この韓の調査データを基礎として,
日本における食の博物館の住所録を新たに作成し,203箇所の博物館に連絡をした.その結果,
今回初めて連絡した博物館からも30数館の回答がよせられ,東京農業大学「食と農」の博物館,
もの知りしょうゆ館,福寿園 CHA 研究センター,菓子資料室虎屋文庫・虎屋,つまようじ資
料館などの出席希望をえた.
本シンポジウムでは,まず,東アジアに焦点をしぼり,日本・韓国・中国における「食の博
物館」の現状を把握することにした.
日本については,まず民博の事例を紹介する.発表者の池谷和信は,狩猟採集文化・家畜飼
育文化,地域環境史を研究するため,世界を飛び回っており,今年リニューアルされた日本展
示場で,日本の食に関する展示も担当した.
日本には食に関する企業博物館がたくさんあるが,ことに日本が世界に誇る三大食品である,
うま味調味料,ラーメン,しょうゆの博物館をとりあげる.「味の素食の文化センター」 は石
はじめに(朝倉)
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毛をはじめとする食の文化研究とともに,日本の和食がユネスコの無形文化財になる支援など
も進めてきた.その専務理事である津布久孝子が発表する.カップヌードル・ミュージアムの
筒井之隆館長は,インスタントラーメンの父である安藤百福とともに,国内,海外,ご一緒に
旅行してこられ,日清食品の広報の仕事に携わってきた.味の素と並んで食文化研究を推進し
てきた千葉県の野田市にあるキッコーマン国際食文化研究センターからは斎藤文秀センター長
の発表がある.キッコーマンというと醤油だが,今年は,味醂誕生200年を迎えたという.そ
して,「食育」の都市として知られる小浜から,石毛が特別館長をつとめる「御食国(みけつ
くに)若狭おばま食文化館」の中田典子に来てもらった.来年はミラノで食博覧会があるが,
その参加に向けて多忙という.そして,日本のセッションにおけるコメンテーターである菅瀬
晶子は中東地域研究(ことにパレスチナ・イスラエルを中心とした,東地中海アラブ地域)の
研究者だが,あえて離れたところから日本を見てもらうことにした.
韓国については,まず「農心」の事例を李貞姫にしてもらう.農心は1965年にロッテ工業株
式会社として設立,1975年から株式会社農心と社名を変更した.日本でも辛ラーメンが有名だ
が,セウカン(えびせん)といったスナックなど,多くのヒット商品を出している食品会社で
ある.次ぎに石毛とともに『韓国の食』(平凡社,1988年)の共著者で韓国宮廷料理の人間国
宝である黄慧性の三女で,母子二代にわたって本館の客員として来られた韓福眞には,あらた
めて韓国の食に関連する博物館の現況について紹介してもらう.そして,コメンテーターの韓
国学中央研究院の周永河は,80年代にキムチ博物館にいた時からの私の友人であり,『飲食人
文学』(2011年)や『食卓の上の韓国史』(2013年)の著者であり,食を通した韓国文化史研究
者として注目されている.
中国についても,二人の発表とコメントがある.北京大学の賈蕙萓は,90年代には日文研や
民博の客員として来日し,石毛との共著で『食をもって天をなす:現代中国の食』(平凡社,
2000年)という著書がある.また劉征宇は,民博を基盤とする総合研究大学院大学の大学院生
で,修士課程では,昨日中国の食文化研究について講演された趙栄光の指導を受けている.コ
メンテーターの関剣平は,浙江農林大学の副教授であり,立命館大学に客員教授として来られ
ており,中国と日本の茶文化について研究している.
次いで,こうした日韓中三国の事例報告に対して,総合討論で,それぞれご専門の立場から
「食と博物館」について論じる.立命館大学のサトウタツヤには,文化心理学立場から,京都
橘大学の南直人には,ドイツ近現代史,近代ヨーロッパの食文化史を研究されている立場から,
民博の名誉教授であり吹田市立博物館長である中牧からは,経営人類学の立場から,それぞれ
発表していただく.
それぞれのセッションの司会には,立命館大学との学術交流を契機として本館において共同
研究会を立ち上げたメンバーから,日本は河合洋尚,中国は韓敏,総合討論は小長谷有紀が,
韓国は民博の客員である林史樹が担当する.
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『社会システム研究』(特集号)
なお,今後の展開として「食の博物館」のネットワークを構築し,「食文化」に関するデー
タベースを作成していければと考えている.民博には「衣文化」に関するデータベースが整え
られている.服装・身装文化資料として,
「衣服・アクセサリー」の標本資料,文献をあつかっ
た「身装文献」,洋装がまだ日常に定着していなかった1868年(明治元年)∼1945年(昭和20年)
の日本を対象とした身装関連の「近代日本の身装電子年表」などがある.しかしながら,「食
文化」に関しては,石毛が作成した「民博所蔵篠田統文献目録」しかない.近年,文化人類学
は,先端的・応用的な研究に向かう傾向にあるが,博物館をもつ研究所としての民博は「衣・
食・住」という基礎的な研究を担うことが期待されるのではないだろうか.また,民博だけで
なく連携的な研究を目指すならば,たとえば民博が「日本」,立命館大学が「中国」,韓国国立
民俗博物館が「韓国」というような分担をすることも考えられるだろう.
さらに,来年の2015年は,日韓基本条約締結50周年にあたり,民博は韓国国立民俗博物館と
共同で「韓国と日本の食文化と博物館」に関する特別展を開催する計画である.今回のシンポ
ジウムでの成果を,この特別展においても反映させ,食をどのように展示するかについて具現
化したいと考えている.
食と博物館については,食は物質文化でありながら,衣や住といった他の物質文化と違い,
ものが残らないというむずかしさがある.しかし,その食を,どのように文化として展示する
のか,チャレンジする楽しさもある.博物館では保存科学の問題から展示場に食そのものを展
示することはできないが,食文化の理解においては「食べる」ということが大切である.その
意味では,博物館にあるレストランといった問題も議論されるべきかもしれない.
今回のシンポジウムには,すばらしい皆さんにおいでいただけたが,そのほとんどの方が石
毛から紹介いただいた皆さんである.民博の食文化研究,さらに言えば日本の食文化研究は,
「石毛先生に始まり,石毛先生に終わる」といっても過言ではないが,石毛で終わらせないよ
うにしていくのが,私たちの課題なのではないかと思う.
このシンポジウムが食文化研究,そして食と博物館についての新しい地平を開くはじまりに
なることを願っている.
はじめに(井澤)
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井澤 裕司*
国際シンポジウム「世界の食文化研究と博物館」は立命館大学と国立民族学博物館の学術交
流協定締結を記念して開催された.
それに先立つ2013年末に,立命館大学はびわこ・くさつキャンパス(以下「BKC」)に国際
食文化研究センターを設置した.これは BKC のキャンパス・コンセプトである文理総合の旗
印のもとに蓄積してきた研究・教育における資産を最大限に活かしながら,食に関わる行為・
活動を,社会科学および行動科学,自然科学などの観点から総合的に研究し,国際異文化理解
やフード・ビジネスのイノベーションにも寄与しうる食研究の中核拠点を形成しようとするも
のであった.
欧米においては,『美味礼賛』の著者であるジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン以来
のガストロノミー(gastronomie,gastronomy)と総称される文化と料理の関係を総合的に
考察する領域が存在する.その総合性は,絵画,文芸,建築,音楽などの芸術から,物理学,
数学,化学,生物学,農学などの自然科学,あるいは人類学,歴史学,哲学,心理学,社会学,
法学,経済学などの人文,社会科学にまで至る広範な学問領域に跨ることに由来する.さらに,
研究の対象とされる「食」活動には,調理,飲食などの直接的な行為だけではなく,それらに
よってもたらされる,発見,理解,伝達・コミュニケーションなどの 2 次的行為にも重きが置
かれることが重要である.
他方わが国においては,国立民族学博物館などにおける研究活動を除けば,一般には,食材
の生産や調理あるいは生命・健康維持などを目的とする物理的・身体 的活動の観点に重点が
置かれることが多く,欧米でガストロノミーと総称されるような「食」の広範で総合的な研究
を明示的に対象とした研究機関は存在しない.
もとより,本研究センターにおいてこのような研究課題を一挙に取り扱うことを想定してい
るわけではないが,食研究は総合大学としての立命館のポテンシャリティを最大限に発揮でき
る分野であり,国立民族学博物館をはじめとして,孔子学院研究プロジェクト(北京大学,同
済 大 学 ) や Università degli Studi di Scienze Gastronomiche( 食 科 学 大 学 ),Slow Food
International, Le Cordon Bleu College of Culinary Arts など,国内外の主要な研究・教育機
関との共同研究を視野に入れながら,食研究の国際的拠点としての立命館大学の地位を確立す
ることを目指し出発したのであった.今回の国際シンポジウムは,そのために先ず世界におけ
る食文化研究の現状を相互に確認することを目的としたものであり,新しい研究センターの出
発を記念するに相応しいものであった.
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執 筆 者:井澤裕司
所属/職位:立命館大学経済学部/教授 国際食文化研究センター/事務局長
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『社会システム研究』(特集号)
近年は,和食のユネスコ無形文化遺産登録などもあり,
「食」に関わる活動を,単なる生産・
消費活動ではなく,文化的,社会的な活動として捉えることの重要性がますます強く意識され
るようになってきた.「食」に関わる人間の行為と営み,選択は人間の生存に関わる基本的な
行いであるがゆえに様々な文化的,社会的な意味を持つことは当然である.食文化は,地理的,
政治的,経済的諸条件のもとでの文化的要素と社会的,環境的要素の複雑な相互依存関係に
よって長い歴史の中で形成され,またその食文化が地域文化や価値観,宗教観を規定していく
という相互作用の中で理解されなければならないのである.
さらに食文化と食の行為は具体的な社会形態やシステムを形作るのみではなく,道徳,宗教,
倫理の観点からも象徴的な意味を与えられ人々の思想や行動に大きな影響を与えてながら人々
の日々の食活動を通じて,基本的な生活様式や家族関係が築かれ,社会的な礼儀作法・マナー
が形成され,それらは食器やしつらえなどに美的感覚が反映されている.
このような「食」の持つ広がりを解明し理解することは , それぞれの個別の文化に対する理
解を深めるだけではなく , 異文化理解や相互理解の重要な契機になりうるであろう.食の文化
社会面からの歴史的研究,食に関する情報の収集や食文化の国際交流の研究が強調される所以
である.
また現代の国際社会において ,「食」は国民国家,国民経済の極めて重要な戦略要因にもな
りつつある.食の確保は国民国家維持の必須の課題であるばかりではなく,たとえばクール・
ジャパン戦略や和食の無形文化遺産申請に見られるように,国民国家の文化的なプレゼンス向
上や経済戦略,あるいは場合によってはナショナリズム高揚のための道具としても重要な意味
を持ちつつある .
他方,食のビジネスに目を向けると,従来の農・漁などの物的な生産拠点形成を中心とした
観点から,フード・コンテンツ,フード・ジャーナリズムなどの興隆,あるいは生き方や哲学,
こだわりなどを商品化し , その情報や文化の観点からのアプローチの重要性が指摘されるよう
になってきている.フード・ビジネスはモノからソフトへの大きな転換期を迎えているとも言
えるだろう.
本研究センターでは,以上のような「食」を巡る諸課題に対して国内外の研究機関と広く協
力し,自然科学を総合する研究として,食研究に関わる行為・活動の情報の集積を行うことで,
国際的な異文化理解やフード・ビジネスのイノベーションにも寄与しうる食研究の拠点を形成
したいのである.
むろんこのような志は,言うは易く行うは難い.私の専門とする経済学においても,食文化
を対象とした研究はほぼ皆無であると言ってよい.確かに,農業生産から消費活動や経済開発
に至るまで,食に関わる経済問題は山積しており,其々の研究は膨大である.また食産業は,
輸送機械,化学などと並び国際経済の観点からももっとも強大な産業の 1 つである.けれども,
食を文化として捉え,それに対して経済学の観点から分析しようとする試みは今のところ見出
はじめに(井澤)
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すことは出来ない.文化経済学の専門雑誌である Journal of Cultural Economics の目次を検
索しても,音楽,演劇,映画,絵画などに対する論文があるばかりで,食文化や調理について
の論文は皆無である.これは,食の重要性を鑑みれば,研究者の無関心や無理解の表れという
よりは,むしろ食文化研究の困難さを示唆したものとと言うべきであろう.
このような研究センターの出発にあたって,わが国食文化研究の巨人とも言える国立民族学
博物館と学術交流協定を結ぶことができ,それを記念する国際シンポジウムを共同開催できた
ことは,誠に幸運であった.改めて,須藤健一館長のご理解と朝倉敏夫教授のご尽力に深く感
謝申し上げたい.またご多忙な中,中国,韓国,イタリアから参集頂いた皆様にも改めて御礼
申し上げたい.
今回のシンポジウムでは,我々の今後目指すべき目標として,食のデータベース構築が見え
てきたことは大きな成果だと言えるだろう.一般に衣食住と一括りにされるが,衣や住がモノ
の保存が可能であり,主に視覚に依ったデータベース化が可能であることに比べ,食は人間の
五感全てに関わり,しかも消費されて消えてなくなるものであるためデータベース化には多大
の困難が伴う.デジタル・データベースの可能性も視野に入れながら開発を目指すことは,文
理総合をキャンパス・コンセプトとする BKC に存在する研究センターに相応しい価値のある
研究課題と言えよう.
中国,韓国,イタリアの総領事をはじめ,多くの方々からのご支援を頂いた.特に,協賛団
体として,日本フードサービス協会,日本食レストラン海外普及推進機構,江頭ホスピタリ
ティ事業振興財団,また協力団体としてル・コルドンブルー日本校からはそれぞれ多大のご支
援を頂いた.篤く御礼を申し上げる.