黒島地区

黒島地区
黒島地区の“よかところ”
○魚も野菜も空気もおいしい
○美しい自然と海の景色
○すばらしい天主堂と整った施設
○魅力ある人々と連帯意識
地区の概要
相浦港から西方約 13km の海上に位置します。周囲約 12.5km、
面積約 5.3k ㎡で、208 の島々からなる九十九島の中で最も大
きな島です。海から見ると、島全体が樹木におおわれ黒く見
えることから「黒島」と呼ばれるようになったとも言われま
す。
1954 (昭和 29) 年に佐世保市に合併しました。島の人口は 1950 (昭和 25) 年の 2, 371 人をピークに減
少し、現在約500 人です。産業は漁業、農業、畜産業の他、石材加工業などがあります。
カトリック信仰の島としても知られ、島の人ロの約 8 割がその信徒です。
交通は、定期便「ニューフェリーくろしま」が相浦-黒島間(高島経由)を片道約 50 分で 1 日 3 往復し、不
定期貨物フェリー「睦丸」も運行されています。
黒島天主堂や串ノ浜岩脈、根谷の大サザンカ、その他にも信仰復活の地、修道院、興禅寺、女瀬の鼻など
たくさんの名所旧跡があり、また、黒島地区史跡保存会のボランティアガイドが人気を呼び、観光客も年々
増加しています。
人口
黒島地区の人口の推移
1965(昭和 40)年 1985 (昭和 60) 年
1,853人
1,163人
2005 (平成 17) 年
650人
2011(平成 23)年 ※ 2011 年のみ年末、他は 10 月 1 日の時点
500人
お出かけスポット
串ノ浜岩脈など
黒島の西岸にある串ノ浜岩脈は、約 800 万年前に
大きな地殻変動が起こり、深月層という地層の裂け
目に入り込んだ溶岩が冷え固まり、長い年月の海水
の浸食で柔らかい部分が除かれ、固い溶岩部分が残
ったものです。
岩脈は平均幅が 2m あり、東・中央・西の 3 列があり
ます。東列は 120m、中央列は 55m、西列は目で確認
できるのが 100m で、先端は海に没しています。
県内最大の岩脈で、地殻変動を物語る絶好の資料
です。1998(平成 10)年に県の天然記念物に指定され
ました。
また、島の南西部にある長崎鼻の海食崖も知られ
ています。
特産物
ね
や
根谷の大サザンカなど
1800 年頃、西彼杵半島の外海地方から黒島に移住して
きた橋本氏が、一緒に持って来た木を屋敷の境に移植し
たと言われています。
実から採れる油は貴重品で、天ぷらなどに使用されて、
当時の生活を支えたのではないかと考えられます。
推定樹齢は250年~350年以上、根回り4m、
幹回り1.8m、
樹高約 10m で県北で最大規模を誇ります。今も 11 月頃か
ら一重の白い花が咲きます。島の自然と歴史を示す名木
で、1997(平成 9)年に佐世保市の天然記念物に指定され
ました。
また、アコウの木(根谷や蕨)や、椎やブナの自然林で
ある黒島神社の森(黒島漁港付近)も有名です。
黒島石
黒島豆腐、ふくれまんじゅう
か こうがん
黒島石は花崗岩で、通称「黒島みかげ」と呼ば
黒島の名物「黒島豆腐」は、海水を使用して作り、豆腐なの
れ、島の宝物とも言えるものです。
に石のように硬いのが特徴です。
運搬が大変だった昔は、
海岸近くを掘り出して
「ふくれまんじゅう」も逸品で、イース
いました。今では
トで膨らませ、かからの葉に置いて蒸し
道の整備やフェリ
ます。中に入れるあんには、小豆やえん
ーにより運搬も楽
どう豆を使用します。
になり、また、重
機の使用によって
どちらも地域の行事に欠かせないも
生産量も増えてい
ので、婦人会の皆さんが寄り合って作り
ます。個人の家の祝事・仏事でも、テーブ
ます。墓石、記念
碑・鳥居・柱石・表札等に加工され、県下一円に出
ルの上を飾る郷土料理の代表であり、次
の世代へと引継がれていくことを願います。 ふくれまんじゅう 荷されています。
歴史・史跡
に し ひた ち
16 世紀末に平戸松浦氏の家臣西常陸が島の海賊を平定し、その時に派遣された家来達が定住したとされ
ています。
19 世紀初頭まで平戸松浦氏の軍馬の牧場「黒島牧」があり、江戸時代から黒島村となる 1885 (明治 18) 年
つ よしむら
まで、黒島は平戸島の津吉村の一部でした。
☆キリシタン
黒島にカトリック信徒がやって来たのは、1803 (享和 3) 年に黒島牧が廃止されてからで、その原野の開拓者と
して入植してきました。その多くは西彼杵の外海地方にいた隠れキリシタンで、彼らは本村や古里など古くからの
地区以外の地に集落を作っていきました。
1864(元治元)年に長崎に外国人のために大浦天主堂が建てられると、黒島の隠れキリシタンたちも密かに訪れ、
洗礼を受けました。しかし、キリシタンに対しては、1867(慶応 3)年に「浦上四番崩れ」の大弾圧が行われるなど、
厳しい取り締まりが続きました。
そうした中、黒島の出口大吉親子は長崎で洗礼を受けて伝道師となり、黒島の信徒らに洗礼を授けました。そして
3 年後の 1872 (明治 5) 年、長崎からポアリエ神父を島に招き、出口家でミサを捧げてもらいました。
翌年禁教令は廃止され、1878 (明治 11) 年にペルー神父が来て、まもなく最初の木造教会堂もできました。
そして、1897 (明治 30) 年にマルマン神父が黒島の主任司祭として来島し、5 年の歳月をかけて黒島天主堂を建
設しました。その後、神父は 1912 (大正元) 年に亡くなるまで黒島で司祭を務めました。
黒島天主堂
マルマン神父(フランス人/1849 年生まれ)の設計と指導により、信徒の献金と勤労奉仕で、1902(明治 35)年
れ ん が
に名切に完成した煉瓦一部木造教会堂です。
マルマン神父手作りの説教壇をはじめ、ステンドグラスや聖人像、そして
今でも朝夕に島内に鳴り響くアンジェラスの鐘の音は、百有余年の歴史を感
じさせます。
煉瓦造りでは県内で 4 番目に古い建物で、ロマネスク様式の外観は質素で
すが、内部は充実した 3 層構造になっています。間口が 16m、奥行きが 35m
ほどで、煉瓦約 40 万個が使用されており、一部は島の赤土を焼いたもので
す。そして、珍しい半円形の祭壇の床には、1899(明治 32)年に大量生産が始
まった有田磁器タイルが敷かれています。また、内部の柱の基礎に黒島産の
御影石が使われています。
明治時代のレンガ造教会堂としては規模が大きく、完成度が高いため、そ
の後の教会堂建設の模範となりました。
[写真の出典:ウィキペディア「黒島天主堂」の「Kuroshima_church」by「Atsasebo」]
そして、当初の姿が良く保存され全国的に貴重であることから、1998(平成 10)年に国の重要文化財に指定され
ました。
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