天神信仰の教学⑮ 江戸の庶民の天神信仰(下) 絵本

-冬号-
天神さまの御縁
45
久坂玄端
絵本『てんじんさま』原画展
天神信仰の教学⑮
江戸の庶民の天神信仰(下)
飛梅 冬号 第173号 平成27年1月1日 太宰府天満宮社務所発行
まこと ごころ
豊かな感性と日本特有の
細やかな美意識を融合さ
せ、 独 創 的 な フ ラ ワ ー デ
ザインを確立されてきた
方 で す。 ご 自 身 の ア イ デ
ンティティの八割は日本
から来ているとおっしゃ
るほど日本の伝統やその
美しさを敬うニコライさ
ん が、 今 回 の 個 展 で は 太
宰府天満宮の千百年以上
の伝統と歴史からインス
ピレーションを受けて約
七十点もの作品を披露さ
れ ま し た。 さ ら に は、 千
三百五十年の歴史を有す
る宝満宮竈門神社でも作
品を披露されるなど境内
外を広く使っての大規模
な展覧会となりました。
ニコライさんと当宮にはある共通の思いがありま
した。お越し頂いた方皆様に驚きを与え、元気になっ
て帰ってもらいたい・・当宮では、お参りにいらっ
しゃった方が天神様の誠心、そのお力をいただかれ
少しでも元気になってお帰りいただきたいという思
いでいつもご奉仕させていただいております。ニコ
ライさんも自ら築き上げて来たスタイルで、見る人
皆を驚かせたい・・と、天満宮に伝わる宝物とコラ
ボレーションできないかというニコライさんのアイ
デアで、宝物殿収蔵の十四代今泉今右衛門さんの陶
新 たな 命 を 吹 き 込んで〜 伝 統 開 花 〜
新しき年の始めにあたり、謹んで皇室の弥栄と御
国の平安を衷心より御祈念申し上げます。併せまし
て、氏子、崇敬者の皆様方の御健康と御平安を心よ
りお祈りいたします。
「学問・文化の神様」である菅原道真公をお
さて、
祀りする太宰府天満宮では、一つ一つのお祭りや日々
の行事の中で氏子、崇敬者の皆様と共に伝統をしっ
かりと守り伝え大事にしながら、その時代時代の旬
のものを天神様にお捧げし喜んでいただくこともこ
こから更なる百年千年につなげて行く私たちの使命
ではないかと常々感じご奉仕しております。そのよ
うな中私たちの使命に共感し、かねてより日本の伝
統的な場所での個展を望まれていたデンマーク出身
のフラワーアーティスト ニコライ・バーグマン氏か
らぜひ太宰府天満宮と一緒にやりたいというお声が
けをいただき、昨秋は十月十日より四日間にわたり、
「一一〇〇年の伝統と革新的なフラワーアートの融合
『伝統開花』」が開催されました。太宰府天満宮の鎮
守の杜に北欧の豊かな色彩が溶け込んだこの四日間、
大変多くの方がお越しになりました。
ニコライ・バーグマン氏は二十二歳の時に来日さ
れてより十六年間、デンマークで育まれたご自身の
太宰府天満宮 宮司
西高辻 信良
器や中村信喬さんの博多人形とのコラボレーション、
また文書館という和の空間を使っての展示など誰も
思いつかないような組み合わせでの作品も作られま
した。それはまさに、伝統あるものがニコライさん
により新たな命を吹き込まれ、大きな力を持った新
しいものへと昇華する瞬間でもありました。どの作
品もはっとさせられる色使いとその造形美で、見る
人を楽しませ、驚かせていました。
天満宮が北欧の文化とコラボレーションするのは
初めてではありません。二年前の『フィンランド テ
02
とびうめ 冬号 No.173
キスタイルアート展』を開催したときに、実は北欧
と神社という空間が意外にも合うのではないかとい
うことを発見致しました。北欧の人々は厳しい自然
環境にも関わらず、自然と共に生きる精神が根付い
た“森の民”でありますが、日本人も同じく自然と
共生をしてきた“森の民”です。自然に対して美し
いと感じる感性や自然と共に生きる喜びがお互いに
響きあうからなのでしょうか。今回の展覧会におい
てもあたたかな北欧の美と日本の伝統美は見事に共
鳴していました。
文化の垣根を超えてこれから目指すのは新たな花
の世界・・ニコライさんの活動は日本の生花の世界
にも新たな風を吹き込まれたことと思います。歴史
あるこの空間の中で、新しい命が生まれた、その瞬
間に立ち会えたような心持ちがしました。
道真公と花
た っ き ょ
えのきでら
お
み
たま
さ ぬ き の かみ
ふ く い く
実は御祭神 菅原道真公も、詩歌で菊・梅・桜につ
いて多く詠ぜられるほど花をこの上なく愛された方
でした。中でも、とりわけ愛されていた菊について
は実際にご自身で菊作りをされていたためか、最も
多く詠ぜられています。讃岐守時代に官舎の前に菊
の種を蒔いたときのことを詠まれた、
『菅家文草』中
の作品では「少年愛菊老逾加」と、少年時代から菊
を愛し年を加えてますます好きになったということ
が詠われています。また『菅家後集』の中では、晩
年 に 謫 居 の 榎 寺 に お い て も 菊 の こ と が 忘 れ ら れ ず、
布や書物との物々交換をするなど苦心してまで菊の
苗を入手し丹精込めて育てられたときの思いが詠ぜ
られています。苦しいご境遇の中において、荒れ果
てた庭の片隅で菊が花開いたとき道真公はどれほど
そのお苦しみを癒されたことでしょう。当
宮では毎年十一月に、菊を愛でられた道真
公の御神霊をお慰めする「菊花展」が開催
されておりますが、道真公にとって花は癒
しであり優しさでもあったのです。千百年
という時代を超えて、また異なる文化を超
えて多くの方の心を和み楽しませた北欧の
フラワーアートとの融合には道真公も御心
からお喜びになったことと思います。
こ れ か ら 境 内 は、 二 月 に は 約 二 百 種、
六千本の梅が見事に咲き誇り、馥郁たる香
りで包まれます。ご参拝の皆様にとっても
癒しであり優しさである花が心の中にも咲
く、そのような平安で明るい一年でありま
すように、今の平和な日本があることに戦
後七十年を迎えた今、静かに思いを馳せま
す。
最後に、本年が皆様にとりまして輝かし
き良き年になりますことを心より御祈念申
し上げ、新年のご挨拶とさせて頂きます。
No.173 とびうめ 冬号
03
平成二十六年九月十三日
(土)~十一月三十日(日)
於 宝物殿第二・三展示室
:
描いた絵は、いつ見ても新鮮
す。しかし、『てんじんさま』
後半の波瀾に満ちた各場面
では、悲壮感漂う道真公の
姿を描かれ、その人間味が
溢れた絵は観るものの共感
を誘いました。
会場では同時に、当宮に
伝わる天満宮縁起画伝や道
真公ゆかりの資料を展示
し、天神信仰の広がりを紹
介しました。
その他に、天満宮の記念
品や境内、博多の祭り、四
季を題材にした作品やデザ
イン作品など、水彩・ペン・
パステル・墨・切り絵・版
画などバラエティに富んだ
約百点を展示し、昭和の教
室を髣髴とさせる「にしじ
ま小学校」では、西島氏の
姿が収められた貴重な映像
を上映しました。西島氏が
で色褪せないことを再確認
できた展覧会となりました。
04
とびうめ 冬号 No.173
西島伊三雄 画
授与品
すく伝えるために、先代西高辻信貞宮
司により絵本『てんじんさま』の初版
が 発 刊 さ れ、 画 は 西 島 氏、 文 は 当 時、
当宮文化研究所の主任研究員であった
森弘子氏が担当されまし
た。
平成二十五年、三十一年
ぶりに絵本が復刊したこと
を記念して、原画の魅力や
絵本の素晴らしさを伝える
ため、この度、原画を初め
て公開する運びとなりまし
た。
原画は、絵本の原寸大で
描かれており、柔らかな筆
致や和紙を用いてのコラー
ジュ、原画の配置によって
できた余白など、印刷では
発見できない魅力を感じる
ことができました。
西島氏の作品は、ほのぼ
のとした温もりのあるイ
メージが定着しており、西
島氏自身も悲しい絵を好ん
では描かなかったそうで
デザイン当時
(昭和 50 年頃)
の
七五三記念品袋
絵本『てんじんさま』
原画展
博多を代表するグラフィックデザイ
ナーで、童画家としても親しまれてい
る西島伊三雄氏(大正十二年―平成十
三年)は、
御神忌一千七十五年大祭(昭
和 五 十 二 年 斎 行 ) を 迎 え る に あ た り、
ポスターや社務所壁面のレリーフ制
作、菅公歴史館のリニューアルの企画
など、数多くの事業を手掛けられまし
た。その後、西島氏が描いた天神さま
は絵馬・鉛筆などの授与品や、七五三
の 記 念 品 に 用 い ら れ て お り、
「天神さ
ま」のお姿として現在も変わらず親し
まれています。
昭和五十七年、御祭神・菅原道真公
の御生涯をより広い世代へ、わかりや
社務所壁面レリーフ
デザイン 西島伊三雄
彫刻 冨永朝堂・冨永良治・山田大助
西島氏の御命日を控えていたという
こともあり、賑やかで楽しいこと、人
を喜ばせることが何よりお好きだった
西島氏が偲ばれるような大変盛況な会
となりました。
②「とおりゃんせ
絵本とわらべ歌で遊びタ~イ!」
(十月十九日、於 余香殿)
記念講演会(10 月 19 日)
初版『てんじんさま』発刊当時、太
宰府にお住まいだったことから、制作
にご協力いただいた絵本作家・長野ヒ
デ子氏と、特別ゲストに児童文学者・
岩崎京子氏をお迎えし、絵本・紙芝居
の読み語りや、絵本の場面を音楽で紹
介するライブが行われました。
旧知の長野ヒデ子氏と森弘子氏
多く制作されている長野氏より、わら
べ歌遊びを知らない子供達に、天神さ
まへのお参りを歌った「とおりゃんせ」
遊びが紹介されました。地方によって
異なる遊び方や歌詞も登場し、大人か
ら子供まで一緒になって遊んだ和やか
な会となりました。
文化研究所 清水蓉子
岩崎京子氏
また、わらべ歌を取り込んだ作品を
記念講演会(9 月 28 日)
絵 本 復 刊 や 本 展 覧 会 を き っ か け に、
一 人 で も 多 く の 方 が『 て ん じ ん さ ま 』
の優しい絵と美しい文、そして道真公
の御生涯に触れ、親から子へと読み継
がれていく大切な一冊となっていくこ
とを心より祈念するとともに、本展覧
会で多くの貴重な作品を快くお貸しい
ただきました西島雅幸氏をはじめ、ご
協力いただきました多くの皆様方へ心
から感謝申し上げます。
記念講演会
No.173 とびうめ 冬号
05
笑和座(博多町人文化連盟)
講師のお二方による博多仁和加
会期中、太宰府市民図書館に特集された
天神さまコーナー
①笑い
と踊りで綴る
「おかしかぁ~!西島伊三雄物語」
(九月二十八日、於 余香殿)
西 島 雅 幸 氏 と 森 弘 子 氏 を お 迎 え し、
雅 幸 氏 に は、 西 島 氏 の“ 父 ” と“ 師 ”
の二つの顔を、森氏には『てんじんさ
ま』制作秘話を語っていただきました。
また、博多商人の会である叢匠会や、
博多町人文化連盟の方々による歌や踊
り・お囃子・博多仁和加の披露や、西
島氏のグッズ抽選会、お客様参加のど
んたく囃子が行われました。
:
:
・
お も
ひ
ご
け
に ん
⑮
は い
こ う
安則
祢宜 味酒
じ
っ
し
お お づ か
や げ
しょく
お こ し
も う
う い ろ う
か え
い
と
じょう ど
ち ゃ み せ
ふ る
ま
は た ご
に ぎ
め し
み や
げ
か い
み
み
け い た い
せ ん べ い
ま
での時期は、おおむね農閑
御本社 詣
期が利用されます。そして、参拝講は
道中の安全のため、二、三人程度の組
で行くのが普通でした。この時代、庶
民の旅には厳しい制限があったとは
いっても、社寺参拝の通行手形さえあ
れば、どの街道を通って、どこを見物
してもたいして問題にはなりませんで
した。したがって、宿坊は太宰府天満
宮近辺の名所旧跡を案内するなど、現
代の観光事業的なことも行っていまし
た。また、宿坊では、参詣宿泊者に参
拝や祈願、奉納品などの取次ぎを行い、
天神縁起の絵説きや天神講話なども
実 施 し て い ま す。 こ れ ら の こ と は、
大 掴 み に い う と、 社 寺 参 拝 の 目 的 が、
中世の争乱中は浄土すなわち来世の救
済を求め願ったのが、近世では、太平
な世となり、今を楽しく生きる現世利
益が中心に、信仰が移行したことによ
る現象でした。
宿坊が、宿泊者に振舞う「みやげ」に
も、その時代の信仰の背景が垣間見れ
ます。実は、みやげには「宮下」と「土
産」があります。神社仏閣にはお米が、
初 穂 米 と し て 献 納 さ れ ま す。 神 さ ま、
仏 さ ま が お 食 べ な る 分 以 外 の お 米 は、
境内や参道の茶店や旅籠に払い下げら
れました。お店などは、そのお米の二
次製品で、参拝者や旅人の帰りの携帯
食 を 作 っ た の で す。 そ れ が、 煎 餅、
粔籹、外郎、○○団子、○○餅で、み
んな米の粉と関係があります。当時の
参 拝 者 は、 往 き は「 握 り 飯 」作 っ て 来
ますが、還りにはありません。それで、
06
とびうめ 冬号 No.173
くつがえ
天神信仰の教学
に ん
宿坊 満盛院の間取り図
に、別当の延寿王院は黒田家、匂当坊
誘致も行います。そこで、当然ながら、
は立花家を大檀那としました。社家は、 社家すなわち宿坊は特定の地域と結び
社家間で時には全国に暗黙の縄張を定
つ き が 強 く な り ま す。 そ れ が、 参 拝
めて、神人や家人を使って配礼します。 「 講 」が 誕 生 す る ひ と つ の 契 機 と な っ
神人は配礼とともに、天満宮への参拝
たのです。
じ
江戸の庶民の
天神信仰
(下)
近
・
世 の 幕 開 け は、 古 来 よ り の 神 社
仏閣の経済基盤を根底から覆す
ことになりました。元来、太宰府天満
宮の経済は、その創建当時より、九州
各 地 に 点 在 す る「 荘 園 」に よ っ て 支 え
られていました。
荘園とは、平安時代より室町時代に
かけての貴族や社寺の私的な領有地の
ことです。そして、その土地から一定
の収穫物を収納するという経済機構で
もあります。天満宮が創建され、その
運営や維持の主な財源となるのが荘園
です。安楽寺領は、十世紀以降、朝廷
や大宰官人、地方豪族の庇護と寄進に
よ っ て 時 と と も に 拡 大 し て い き ま す。
南北朝の頃には一八○ヶ所の所領を数
え、全体では約三八○ヶ所が史料で確
認されています。しかし、応仁の乱以
後、急速に衰退に向かい、豊臣秀吉の
太閤検地によって廃止消滅したのです。
さて、ここでは、天神信仰の教学と
いうより、江戸時代に天神信仰を広め
た「人ともの 」に注目してみましょう。
⑴ 宿坊の開始
す み か
創建当時より、代々天満宮に仕える
社家はありましたが、社家制度として
確立したのは、中世の頃といわれてい
ます。中でも、上官と呼ばれた二十三
家 は、「 宿 坊 」を 始 め ま し た。 宿 坊 は
宿房ともいい、社僧や神官の住処でし
たが、江戸時代より、大名や上級武士、
さらには特定の一般参拝者も留めて収
入源とすることを考案しました。因み
宿坊 満盛院の見取図
ば
み や げ
ち か
し
り ん ば ん
お
み や
げ
・
・
あかし
くすり
あかし
しゃ
も
じ
う ぶ す な し ん
江戸時代に入り、幕藩体制が始動す
け
に ん
じ
に ん
さ ん た ん
明治維新となって、講は歴史的に神
仏習合的な要素が強かったことと、根
本の社家制度の廃止、神人、家人の解
職とで消滅する運命となります。しか
し、 神 社 内 外 の「 旧 講 再 起 」の 声 に 応
えて、明治七年、各講を統合して、祭
神の遺愛木(飛梅)によって「飛梅講社」
と 改 称 再 編 し ま し た( 太 宰 府 天 満 宮 文
書「 明 治 十 五 年 上 申 案 綴 」)。 そ し て、
十 四 年 四 月、 飛 梅 講 社 が 直 轄 教 会( 太
宰府本部)として国に許可されました。
ところで、講を再結集して飛梅講社
が誕生するにあたって、旧社家の人々
が大いに活躍していました。社務日誌
には、旧社家十四人の連名と、彼らが
全 国 各 地、 離 島 に ま で 長 期 出 張 し て、
この任にあたったことが記されていま
す。
このように、太宰府天満宮の講や講
社は、中世から近世、そして近代へと、
大きく変化する歴史の流れのなかで苦
心惨憺しながらも、天神信仰を核とし
て強い絆に結ばれ、信仰の上では旧来
に近い形で、組織の上でも太宰府天満
宮(本部)に直結した形で、現在に続い
ています。これは、神社の信仰の継続
に成功した好例といえるのではないで
しょうか。そのため、飛梅講社は、天
神さまと御縁、さらに、地縁、血縁を
中核として和合した団体であり、父祖
三代から五代と永年に亘って継続して
いるのが大きな特色といえます。
平成二十五年(二○一三)年三月一日
現在、飛梅講社は全国に一、一九二支
部、一二、五九五人の講員、別に太宰
No.173 とびうめ 冬号
07
み や げ
かさばらず、壊れないもので、喜ばれ
米の二次製品で携帯食の餅類を買うの
るものに移行しました。その代表が「お
です。それらは、お宮から下げられた
薬」です。太宰府天満宮は、対馬藩の
お 米 で 作 っ た も の な の で「 宮 下 」と 呼
びました。この太宰府天満宮の宮下が、 知行地(飛地領)であった田代領とは荘
「梅ヶ枝餅」という名物なのです。
園の時代より密接な関わりをもってい
産 」も 宮 下 と ほ ぼ 同 時 代 に 誕 生
ました。そこで、対馬藩が朝鮮より輸
「 土
しました。その誕生には次のような話
入した薬草などを「天神さまより授っ
しが残っています。庶民の旅のはじま
た製法で作った妙薬」と称して宿坊で
り は「 伊 勢 ま い り 」で す。 こ の 時 代、
授与します。それで、社家には、胃腸
思い立った全員では行けません。それ
薬とか婦人薬とかそれぞれ担当があり
ると、いよいよ旧荘園領による社寺経
で講を作り、旅費を積立て、くじを引
ました。たとえば、厳島神社の「杓文字」
営はどこも立ち行かなくなります。そ
いて代参人を決め、輪番でお礼を求め
や、善光寺の「七味唐辛子」のように、
こで、太宰府天満宮では、世襲的に奉
て神宮を参拝いたします。しかし、道
さいふまいりの証が「 お薬」で、参拝
仕する社家のうち、上官と呼ばれる二
中近場まで、伊勢の御師が神礼を持参
の「付きもの 」だったようです。太宰
して来ています。それで、講の代表で
府では、薬が土産になっていたのです。 十三家が、積極的に信者獲得を行いま
した。そして、各社家は全国各地の崇
伊勢まで行って、神礼をみんなのため
敬者へ、家人や神人の手を借りて「配
に持ち帰った人は、少なからず疑いを
⑵
講
(
社
)
の
誕
生
礼」を行います。社家の満盛院のよう
抱 か れ ま す。 そ の た め に、 代 参 者 は、
に奥州、羽州にまで配礼したものもあ
伊勢にしかない土地の産物を求めて持
講と講社は同意義で、同一の信仰を
りました。また、信者団体の関係の人々
ち帰りました。すなわち、参拝した証、 もつ人々による団体のことです。それ
が太宰府天満宮に参詣してきた時には、
そ れ が「 土 産 」で す。 こ れ が 何 か と い
が、時代とともに、参詣する同行者の
「 宿 坊 」と も な り、 太 宰 府 天 満 宮 へ の
う と、「 拳 玉 」な ん で す。 こ れ は、 土
組織や仏教儀式一般のことや、相互扶
参拝、祈願の取次、宝物の拝観、周辺
産の第一号です。二号、三号はわかり
助的な団体にも転用され、対象は多岐
名所案内などもしました。さらに太宰
ませんけれども、伊勢は二十年に一回
に渡っています。
府天満宮への奉納の取次も行い、現存
建 て か え ま す か ら、 材 木 が 豊 富 で す。
太宰府天満宮における講の起源は
する石灯籠などには、松園講、梅岡講
「 荘 園 」と の 関 係 が 深 い。 実 は、 九 州
さらに、宮大工さんも一度造れば少し
等々たくさんの講名が見られます。
各地をはじめとする荘園領内には、そ
は暇ですので、これで古い時代の拳玉
の土地や領民の守護神として、本社の
を作ります。これを一緒に持って帰っ
この時代、信者の参拝や檀家廻りは、
個 人 対 象 と い う よ り は、「 講 」を そ の
御分霊が勧請され、鎮守社や産土神と
て 来 ま す。 そ う す る と、「 私 は 皆 さ ん
単 位 と し て 行 な わ れ ま し た。 そ れ で、
して造営し奉祀されていました。した
の 代 表 で お 伊 勢 参 り を し て き ま し た、
太宰府天満宮の場合、講は社家ごとに
が っ て、 近 世、 荘 園 な き 後 の 時 代 は、
神礼も受けてきました、確かに伊勢に
持たれていたのです。したがって、こ
本社としての太宰府天満宮と旧荘園領
行ってきました。ほれ、見なさい拳玉
の講は、社家の信者組織として、近世
が、 信 仰 と い う 堅 い 絆 で 結 ば れ ま す。
を 」という形になるわけです。これが
土産のみやげなのです。
これが、天満宮の講の原風景なのです。 期の太宰府天満宮の社寺経営を支えま
した。
の ち
お伊勢参りの土産も後には、軽くて
飛梅講社の手丸提灯
は い
か
さ ま ざ ま
め ぐ
あ い じょう
じゅう
お も
い し ど う ろ う
し の
あ じ
ま さ
に
て
ひつぎ
・
み や げ
・
・
・
け ん ぎょう ぼ う
・
・
じ
・
に ん
や ま
え
み や
か い だ ん
げ
が 菅 公 の 愛 し た 梅 の 枝 に 餅 を 刺 し て、
その棺に添えて死を悼んだ、という伝
承です。老婆が菅公に餅を献上する場
面が、詳細は不明ながら江戸時代に描
かれた太宰府天満宮所蔵の『天満宮縁
起画伝』にあります。
天満宮の経済は、中世までは荘園領
地によっていたが、太閤検地によって
廃絶し、近世、江戸時代は宿坊、配礼、
講の時代となります。御本殿に奉献さ
れた初穂米を下げ、参拝などで社家の
宿 坊 に 泊 ま っ た 人 た ち へ、 宮 下 と し、
あるいは帰路の携帯食として手渡され
始めました。このことは狂歌で有名な
大田蜀山人の『小春紀行』にみえます。
文化二年(一八○五)、山家宿に泊まっ
た 時、「 宰 府 の 検 校 坊 よ り 海 陸 安 全 御
守と梅かえという餅一箱もて来たれ
り 」と記しています。また、社家やそ
の家人、あるいは神人という者たちが、
配札のために全国各地を廻壇する時の
手土産としても配られていたのです。
08
とびうめ 冬号 No.173
にん
し ゃ に ん
府市内二十四支部、八九六人、参拝講
三一七支部、六、一六六人、個人講員
二、六五八人、終身講員二二九人、大
祓講員一三、八一○人の合計三六、三
五四人の講員を擁しています。尚、毎
月二十五日参拝の飛梅講社二十五日会
は、昭和三十二年(一九五七)八月二十
五日に結成され、今日にあります。
じ
に ん
⑶ 神人の活躍
じ
の ち
神人は、家人と同様に社家の配下に
あって、神事、祭事そして社務の補助
にあたった人々で、社人、寄人を指し
ています。後に、神人は商工業者や芸
能者となって、社家より独立する場合
もありました。太宰府天満宮の神人は、
神礼の配礼、教学の流布、参拝誘致が
主な仕事で、北は北海道松前藩まで旅
をした記録が現存しています。
か
た ね
じょう みょう
江戸時代になると、旅の手段が馬か
ら船に代わり、大名の参勤交代により
街道も著しく整備され、全国を比較的
安全に移動できました。社家が担当す
る 諸 国 へ は 数 名 で 入 り、「 梅 御 守 」な
どの神符を配札して行きます。移動に
は多くの藩の領地を通過するため通行
手形は必需品といえますが、発行が厳
しい時代にあって、神人はこれを条件
な し で 入 手 し て い た よ う で す。 ま た、
教学の流布の観点では、菅公伝承や天
神伝説の流布が特筆に値します。主に、
東 日 本 で は、 菅 公 夫 人 の 話 が 目 立 ち、
さい ふ
西日本では、菅公愛嬢の話が多いとい
(太)
宰府へおじゃれ
江戸を見たけりゃ う特色があります。道真公が通過され
やがて宰府は江戸になる
た 国 々 は も と よ り、 無 縁 な 地 方 で も
様々な伝承や伝説が残るのは、この神
⑷ 梅ヶ枝餅
人の活動によるものが多いのです。さ
らに、参拝誘致では、現存する石灯籠
太宰府市の中で全国的知名度が、太
宰府天満宮に次いで第二位を占める
などの石造物や宝物殿の重宝
( 献 上 品)
梅 ヶ 枝 餅。 正 し く 太 宰 府 を 代 表 す る
そして絵馬堂の奉納書画の中に、全国
「 味 」で す。 天 満 宮 の 長 い 歴 史 の 中 で
を駆け巡った神人の活躍が今に偲ばれ
絶えることなく社人・氏子に継承され
ます。
続けてきたのが梅ヶ枝餅でした。その
神人の活躍の中で忘れてはいけない
直径は七・五センチ、厚さは二センチ
ものが、情報の収集です。神人は、江
程度の円形状で、米粉と小豆と砂糖と
戸、京都、大坂をはじめ諸藩を旅する
塩で作られた、極単純な食べものです。
中で、政治をはじめ思想や医学などの
その餅の皮に梅紋の焼き印を押すと太
知識、さらには新種の種など農業に関
宰府名物「梅ヶ枝餅」となるのです。
す る「 情 報 」等 を 収 集 し ま し た。 旅 の
途中で見聞した新たな知識や物品、祭
その起源は菅公伝説の中にすでにあ
ります。失意の日々を送られていた菅
りや歌などの民俗文化を太宰府、博多
公 を 哀 れ に 思 っ た「 老 婆 」ま た は「 も
へ 持 ち 帰 り ま し た。 そ し て、 情 報 は、
ろ 尼 」あ る い は「 浄 妙 尼 」と 呼 ば れ た
この太宰府では幕末、明治維新に大き
女性が、時折、餅を差し入れて慰めま
な成果をもたらしたのです。
した。また菅公が亡くなると、この者
梅ヶ枝餅の商標札
さんじょう
うるち ま い
あたた
も ち ご め
あ じ
二十八年(一九五三)に梅ヶ枝餅協同組
合が成立してからのことです。それま
では、大きさは「二寸もち 」「五寸もち 」
そ の 他 バ ラ バ ラ、 餡 も 塩 餡、 味 噌 餡、
小豆餡とあり、餅粉も粳米と糯米の含
有量がまちまち、それにヨモギ入りと
そうでないもの様々ありました。それ
が、協同組合の設立によって、梅ヶ枝
餅 と し て の 条 件 が 統 一 さ れ た の で す。
さ ら に、 昭 和 三 十 二 年( 一 九 五 七)に
梅ヶ枝餅は商標と意匠に関しての特許
認 定 を 受 け ま し た。 そ の こ と に よ り、
梅ヶ枝餅自体の均質化と厳正な生産が
求められるようになり、その素朴な味、
適度な甘さ、心地よい温かさ、そこに、
太 宰 府 天 満 宮 名 物 の「 梅 ヶ 枝 餅 」の ブ
ランドが生まれたのです。
⑸ 天神人形
み や げ
天神像は、天神信仰の草創期よりそ
の核心をなしたもので、菅公御自作と
伝えるこの木像を祀る神社も多くあり
ます。天拝山山麓にある御自作天満宮
も、大宰府で道真公が刻まれた像を祀っ
たことが鎮座の由緒と伝えています。
江戸時代の中期頃、天神詣でが盛ん
になるとその門前町で参道に、「土産」
と し て 郷 土 色 豊 か な「 天 神 人 形 」が 生
まれました。これは、この時代に、京
都の伏見稲荷の参道で売られた伏見人
形 の「 天 神 土 人 形 」が、 そ の は じ ま り
といわれています。天神人形が土産や
郷土玩具として全国に広まった理由は、
天神信仰が、天満宮や寺子屋、そして
せ ん た く
こ う
ひ ざ も と
あ つ
天神講などによって、その日常生活に
まで深く根付いたからです。
天神信仰に篤かった加賀百万石の前
田侯のお膝元の北陸地方では、はじめ
て男の子が誕生した家庭には、その年
の暮れに嫁の里から、健康と学業上達
を願って、天神様の木像や土人形、ま
たは掛け軸の天神画を贈って、正月そ
れを家族で拝礼する信仰が今も残って
います。またこの天神像を節句に贈っ
た り、 二 十 五 日 に 拝 礼 す る 仕 来 り は、
中国地方をはじめ各地に残っています。
ま さ し く、 江 戸 時 代 は 天 神 信 仰 が、
その教学をともなって、庶民の生活の
細部にまで広まった時代で、今日の天
神信仰の土台となしているといっても
過言ではありません。あらゆることで
選択に迷った時、唱えることばに、
どれにしようか、天神さまのいうとおり
があります。天神さまは、大人より
子どもに至るまで、日本人の生活と習
俗に親しく習合していたのです。
(次回は、天神さまと明治維新)
No.173 とびうめ 冬号
09
が『 絵 本 菅 原 実 記 』や い く つ か の 紀 行
文にみられます。これが、茶屋の起源
となり、江戸末期には、「梅賀江茶屋」
をはじめ数店の茶屋が境内に確認され、
各茶屋も梅露講という講を組織してい
ました。
十八世紀末まで梅ヶ枝餅も参拝帰路
の携帯食が中心で、むしろ主食の類に
属していました。したがって、小豆餡
の代りに味噌餡や焼き味噌をつけて食
べていた資料があります。それが、小
豆塩餡となります。薩摩藩が琉球から
砂糖を取り寄せ、船のバラストとして
長崎に持ってきました。それが長崎街
道を通って博多にきたのです。それよ
り、 梅 ヶ 枝 餅 が 大 福 餅 と 同 じ よ う に、
小豆餡となり甘くなるのです。
明治初年の神仏分離は門前町の様相
を一変させました。天満宮は宮寺から
神 社 と な り、 社 僧 の 奉 仕 が 禁 止 さ れ、
社家制度の停止と同時に神人、家人の
制度も廃止されました。一部の旧社家
を除いては天満宮を離職せざるをえな
くなり、官史や教師あるいは茶屋を開
店した者などさまざまに転職していき
ました。中でも、神人と家人について
は、望めば境内で餅を焼く許可を得る
ことができました。そして、馬場参道
に軒を連ねていた社家の宿坊もなくな
り、敷地が分割されて、民家や商店が
徐々に広がります。今のように梅ヶ枝
餅店、そして、みやげ屋が占めるのは
戦後のことなのです。
このような歴史を持つ梅ヶ枝餅です
が、現在の形に統一されるのは、昭和
天神人形
江戸時代中期頃より、庶民(個人)の
社寺参詣が盛んになると、天神さまの
縁 日 二 十 五 日 を 中 心 に「 店 株 」を 与 え
ら れ た 者 が、 楼 門 前、 山 上 町 側 境 内、
仁王門内等に出店や露店を開いたこと
江戸時代の山上町の茶屋の見取図(慶應年間の境内絵図より)
平成二十六年度
太宰府天満宮崇敬会研修旅行
第六十二回式年遷宮を
迎えた伊勢神宮を訪ねて
平成二十六年
十一月五日(水)~七日(金)二泊三日
本年は「第六十二回式年遷宮を迎え
た伊勢神宮を訪ねて」と題して、八十
名の募集のところ、はるかに多くのご
応募があり、百三十名バス三台での研
修旅行となりました。
福岡空港集合の後、愛知県中部国際
空港に向かいました。最初に訪れたの
は、昨年創祀千九百年を迎えた熱田神
宮です。名古屋市の中心地とは思えな
い、静寂で緑豊かな境内を歩き、拝殿
で正式参拝を致しました。その後、結
婚 披 露 宴 も で き る 熱 田 神 宮 会 館 に て、
大原禰宜様より講話を賜りました。
伊勢の神宮、内宮をお参りするには、
二見興玉神社、外宮と
順 に お 参 り し て か ら、
というのが習わしでご
ざいますので、明日の
内宮参拝に備え、初日
の夕方に二見興玉神社
をお参りし、御祓いを
受けました。
そして初日は安楽島
温泉にありま
す、 鳥 羽 シ ー
サイドホテル
にて宿泊でし
た。 名 前 の 通
り、 鳥 羽 湾 に
隣接した大変
眺めのいいホ
テ ル で、 伊 勢
エ ビ・ 鮑 等 豊
富な海の幸を
堪能しながら
の大宴会とな
りました。
二 日 目 は、
いよいよ神宮
参拝というこ
と で、 身 も 心
も 正 し、 ま ず
は外宮へ向か
い ま し た。 昨
年の第六十二
回の式年遷宮
を 期 し て 完 成 し た、「 せ ん ぐ う 館 」 も
拝見し、式年遷宮の歴史、御神宝・御
社殿の内容等勉強することができまし
た。
そして、内宮では、外玉垣の中へ入
らせていただき、御垣内参拝をさせて
いただきました。一般の旅行では決し
て中に入ることはできない聖域は、厳
かで清らかな空気が流れており、不思
議と穏やかに、また心が柔らかくなる
経験を致しました。そして、御神楽の
奉納もあり、楽師による雅楽の厳かな
舞には皆様大変感銘を受け、日本の伝
統文化の素晴らしさを改めて感じるこ
とができました。
昼食は、おかげ横丁で伊勢名物の「伊
勢うどん」をいただきました。博多の
うどんと同様、こしのないやわらかい
うどんで、あっという間に食べ終わっ
てしまいました。昼食後は、おかげ横
丁を自由散策ということで、皆様「赤
福」「赤福ぜんざい」「松坂牛串」等を
堪能したり、たくさんのお土産を購入
されておりました。
次に、鳥羽のミキモト真珠島を訪れ
ました。ちょうど、昔ながらの白い磯
着をまとった海女さんたちの実演ショー
を拝見することができ、海女さんたち
がサザエ等の海産物を潜って上がって
きた時には拍手喝采でした。ここでも、
美しい真珠のアクセサリー等のお土産
を購入することができました。
三 日 目 は、「 L I N I M O 」 の 貸 切
試乗体験をさせていただきました。現
在は日本でここだけでしか体験するこ
と が で き な い リ ニ ア モ ー タ ー カ ー は、
磁力で浮上し浮いて走る夢の乗り物と
考えられ、二千二十七年に東京―名古
屋間、二千四十五年に名古屋―大阪間
が開通する予定
となっておりま
す。LINIM
Oは、わずか八
㎜浮上している
状態を保ちなが
ら進むため振動
がほとんどなく
快適な乗り心地
でした。また無
人運転でもあ
り、一般の電車
より数倍も力強い走りをすることか
ら、開通後の五百㎞ h
/ もぜひ体験し
てみたいと今から待ち遠しい気持ちに
なりました。
三日間とも、秋のさわやかな気候に
恵まれ、神社の聖域での参拝はどこか
懐かしい、柔らかい気持ちにさせてい
ただきました。伊勢の神宮にはお参り
に行かれたことがある方は多くいらっ
しゃいましたが、太宰府天満宮崇敬会
の会員だからこそ、内宮の御垣内参拝
ができ、皆様も大変感銘を受けられて
いたのが印象的でした。三日間を通し
て改めて、日本という国の伝統・文化・
風土に感動し、先人たちが積み上げて
きた素晴らしい歴史を学ぶことで、純
粋に日本人で良かったと思える旅行と
なりました。最後になりますが、研修
旅行にご参加いただきました皆様大変
お疲れ様でございました。そして、こ
れからも皆様の心に残る研修旅行を企
画していきたいと思っております。今
後とも、太宰府天満宮崇敬会にお力添
えをお願い申し上げます。
10
とびうめ 冬号 No.173
第四十三回留学生との国際親善
「料理交歓会」
平成二十六年十月十九日(日)に第
四十三回留学生との国際親善「料理交
歓会」が崇敬会国際奉仕婦人部(西高
辻 典 子 会 長 )、 九 州 大 学 留 学 生 会( ア
ディグナ・バハリ会長)の主催により
中村学園大学において盛大に開催され
ました。
桜梅委員会(秋山幸子委員長)ご担
当のもと、留学生二十チーム(三十ヶ
国 )、 留 学 生 家 族、 友 人、 各 御 後 援、
御協賛団体総勢三〇七名の御参加をい
ただきました。本年も九州大学留学生
会を通じ、福岡県下の九州大学全キャ
ンパスに呼びかけ、箱崎、伊都、大橋
から御参加がございました。九時から
の開会式の後、中村学園大学の調理教
室をお借りし、各留学生の方、婦人部
の 皆 様、 御 後 援 の 各 ソ ロ プ チ ミ ス ト、
ガールスカウト、中村学園大学の学生
の方々が各チームに分かれて、交流を
深めながら故郷の料
理を作っていただき
ま し た。 今 回 は 例 年
より華やかで豪勢な
料 理 が 多 く、 中 村 学
園大学の先生方も驚
い て お ら れ ま し た。
午後からの交歓会で
はそれぞれが各国の
料理に舌鼓をうちな
が ら、 料 理 を 通 し て
故郷のお話で盛り上
がりをみせており
ま し た。 特 に ス
ウェーデンチーム
の ス ウ ィ ー ツ や、
中国チームの手作
り餃子は大変好評
を博しておりまし
た。 閉 会 式 で は 参
加 の 章 や、 福 引 に
て記念品もお渡し
し、 最 後 に 楠 名 誉
教 授 に よ る 総 評、
料理交歓会がこれ
からも続いていく
ことを願うお話を
い た だ き、 無 事 に
そして盛会に終え
ることができまし
た。
本年で第四十三
回目を迎えました
が、 ア デ ィ グ ナ・
バハリ九州大学留学生会会長からもこ
の伝統を大切に受け継ぎ、今後とも開
催を継続できるように御協力をお願い
したいというお言葉をいただきまし
た。これからも料理交歓会の開催を通
じ、多くの留学生の方々と日本人が交
流を深め、日本、そして福岡が留学生
にとって第二の故郷となるように願っ
ております。
最後になりましたが、今回ご担当を
いただきました桜梅委員会の皆様をは
じめ、御後援、御協賛、御協力賜りま
した各団体の皆様、また御参加いただ
いた皆様に篤く御礼を申し上げます。
国際奉仕婦人部
忠臣菊池一族と
山鹿周遊の旅
十月七日(火)崇敬会国際奉仕婦人
部日帰り研修旅行を飛梅委員会(福島
敏子委員長)御担当のもと総勢三十一
名にて開催致しました。
本 年 は「 忠 臣 菊 池 一 族 と 山 鹿 周 遊 」
の旅と題して、熊本県菊池市に御鎮座
する菊池神社へのお参りと山鹿灯篭や
温泉で有名な山鹿市内を観光してまい
りました。
当日は爽やかな秋空のもと、貸切バ
スにて福岡市内から熊本へ向かいまし
た。まず菊池神社にて正式参拝を執り
行い、戸髙禰宜より菊池神社の御祭神
である菊池一族や御由緒について御案
内をいただき
ま し た。 菊 池
一族は南北朝
時代に南朝方
として活躍し
た 豪 族 で、 一
時期は九州一
円を統治する
ほどの勢力を
ほ こ り、 貿 易
や文化の面で
も栄えた一族
でございま
す。 ま た 菊 池
は水が豊かな
土 地 で、 お 米
や農作物も実
りが豊かであ
り、 菊 池 渓 谷 な ど
も有名な観光地と
して夏には多くの
賑わいをみせてお
ります。
御参拝の後はメ
ロンで有名な物産
館、 メ ロ ン ド ー ム
に 立 ち 寄 り、 皆 様
お土産をご覧に
なっておられまし
た。 そ の 後 の 山 鹿
市内の温泉旅館「清
流荘」では熊本の
味覚の馬刺しや地
元の銘酒を存分に
堪能いたしました。食事中には山鹿灯
篭踊りのご披露もあり、大盛況でござ
いました。
山鹿市内では江戸時代から伝わる芝
居小屋の八千代座や、山鹿灯篭の歴史
を ご 覧 い た だ け る 山 鹿 灯 篭 民 芸 会 館、
昔ながらの酒、こうじ、米、せんべい
の問屋を回る米米惣門ツアーをお楽し
みいただきました。
菊池、山鹿は福岡から一時間半ほど
で訪れることができますが、訪れたこ
とがない方が多く、菊池神社や山鹿の
風 土 に 感 動 し て い ら っ し ゃ い ま し た。
参加された皆様からは是非宿泊で訪れ
たいというお言葉もいただきました。
国際奉仕婦人部では、これからも歴
史や伝統が根強く残る地域を訪れて参
りたいと思います。最後になりました
が、御担当である飛梅委員会の皆様お
疲れ様でございました。
No.173 とびうめ 冬号
11
春日連合会
12
とびうめ 冬号 No.173
秋の奉納スポーツ大会
杷木連合会
曰佐連合会
秋の日帰り研修旅行
小郡連合会
各連合会 秋の奉納行事
日田連合会
・九月十六日(火)小郡連合会
(山口県 松陰神社・琴崎八幡宮)三十三名
・九月十九日(金)筑紫野連合会
(山口県 松陰神社・琴崎八幡宮)三十四名
・九月二十九日(月)杷木連合会
(山口県 松陰神社・琴崎八幡宮)三十七名
・十月二十一日(火)春日連合会
(山口県 松陰神社・琴崎八幡宮)三十七名
・十月二十四日(金)大野城連合会
(山口県 松陰神社・琴崎八幡宮)三十三名
春日連合会
・九月七日(日)杷木連合会PG
(原鶴パークゴルフ場)五十六名
・十月七日(火)春日連合会GG
(県営春日公園サッカー場)三百五名
・十月二十九日(水)日田連合会GG
(三和グラウンド)九十四名
・十月三十日(木)小郡連合会GG
(たなばた地域運動広場)百二十四名
・十月三十一日(金)太宰府連合会GB
(観世多目的広場コート)二十五名
・十一月十二日(水)曰佐連合会GG
(井尻公園)四十名
・十一月十三日(木)大野城連合会GB (彦田公園上筒井グラウンド)
六十名
小郡連合会
大野城連合会
太宰府連合会
杷木連合会
大野城連合会
当宮崇敬会では、天神様のご神徳「誠
心 」 を い た だ い て、 日 本 の 輝 か し い、
そして美しい世界に誇るべき文化と伝
統、そしてその心を後世に伝えるべく
敬神崇祖の宗として活動しております。
各連合会その趣旨のもと、天神さま
とのご縁を広げ、会員に拡大を図るべ
く、活発な事業を計画、展開されてい
ます。
翌平成二十七年も旧正月の三社詣等
各連合会、様々な行事を予定しており
ます。
筑紫野連合会
崇敬会
奉幣大祭並びに大会
第四十六回太宰府天満宮崇敬会奉幣
大 祭 並 び に 大 会 が 十 月 十 五 日( 水 )、
十六日(木)の二日間、本年は両日あ
わせて、約七百名と非常に多くの御参
列をいただき、執り行われました。
十時より祭典が御本殿にて厳粛に斎
行され、皇室の弥栄、国歌の安泰、そ
して崇敬会員の皆様の平安をお祈りい
たしました。本年より祭典の中に会員
の皆様方からのお志と、ご持参頂きま
した非常に多くのお供え物を天神様へ
奉納致しました。その後、社務所二階
余香殿にて大会式典が盛大に執り行わ
れました。
まず国歌斉唱、敬神生活の綱領を唱
和し、宮司より挨拶を致しました。挨
拶の中で本年から大会の名称を「太宰
府天満宮崇敬会奉幣大祭並びに大会」
と さ せ て い た だ き、「 奉 幣 」 と い う 言
葉を入れさせていただきま
した理由を説明致しまし
た。日頃天神様から頂いて
おります、御神徳に感謝の
誠を捧げるお祭にしようと
いうことでございました。
次に崇敬会の役員として
長年に渡り、ご神徳の宣揚
に御尽力いただいた役員の
方々への表彰を行いまし
た。
式典の講演には、山口県
萩市の吉田松陰先生をお祀
りしております、松陰神社
の上田俊成宮司
様に講師を務め
ていただきまし
た。 来 年 の N H
Kの大河ドラマ
は軍師官兵衛か
ら、 吉 田 松 陰 の
妹、 文( ふ み )
を描きます「花、
燃ゆ」に移りま
す。 幕 末 の 志 士
達 は、 こ こ 太 宰
府 に も 滞 在 し、
天神様を崇敬し、
明日の日本のこ
とを真剣に考え、
明治という新し
い国の形を切り
開いていきました。松陰先生は教え子
たち、長州の志士たちに何を教え、何
を考えさせ、どこへ導こうとしたので
しょうか。
まず吉田松陰先生の顕著な御功績
は、わずか一年一か月の間に松下村塾
で、ごく普通の近所の青年を、日本を
背負って立つような人材に育て上げた
ということです。要因としては、松陰
先 生 ご 自 身 が、「 至 誠 」 に 生 き た お 方
であったこと、また、幼少期から様々
な学問を網羅され、非常に熱心な指導
をされたことであります。その根底に
あるのは、勉学は私事ではなく、公の
ためであるということです。この国の
ため、日本の未来のため、という言葉
を何度も上田宮司様から聞き、自らの
行動規範を考えさせられた方も多かっ
たのではないでしょうか。そして、「松
下陋村といへども誓って神國の幹とな
ら ん 」、 萩 と い う 片 田 舎 で 生 ま れ 育 っ
ても、日本を背負って立つ人材になろ
うという意味で、松陰先生は、
「立志」、
高い志を持つことを非常に大切とされ
ていたようです。この他にも、松陰先
生に学ぶべきことが非常に多く、現代
を生きる我々にも生かせることが多く
あったかと思います。
先の西高辻宮司の挨拶にもありまし
た 様 に、 こ の よ う な 先 人 た ち に 学 び、
思いを馳せることで、この時代を生き
る私たちは、この国の未来のために何
が出来るかを真剣に、一人一人が考え
る こ と が 大 切 な こ と だ と 思 い ま し た。
上田宮司様のご講演を聞き、来年の大
河ドラマ「花、燃ゆ」がとても楽しみ
になりました。
直会では崇敬会会員の皆様方による
多くの演芸や出しもので賑わい、笑顔
あふれる大会となりました。
これからも天神さまの誠心をいただ
き、崇敬会の和がますます多くの方々
に広がり、御崇敬賜りますよう本部と
致しましてもより一層、努力していき
たいと思っております。最後になりま
したが、ご参列いただきました皆様に
重ねて厚く御礼を申し上げます。
第二十六回崇敬会
青年部主催清掃奉仕
崇敬会青年部 平田 博
十 月 四 日( 土 )
まだ暑さの残る秋
晴れのもと、第二十六回青年部主催清
掃奉仕が開催さ
れました。
当日は崇敬会
春日連合会、日
佐連合会、鞍手
連合会、大野城
連合会、太宰府
連合会等を中心
に、 個 人 会 員、
つくし青年会議
所、別府梢風園グループ、顕彰会奨学
生などの皆様方を合わせ百六十五名の
方がご奉仕いただきました。大変お忙
しい中、またご遠方よりバスのチャー
ターまでしていただき、ご参加いただ
きました連合会もございました。大変
有り難く思います。
今 回 は 心 字 池( 太 鼓 橋・ 桜 門 前 )、
邂逅の苑、崇敬者会館周辺(禁足地・
摂末社)の三地区で清掃を行いました。
私は邂逅の苑グループで奉仕させて頂
きましたが、皆様一生懸命清掃して終
了時間前には回収袋三十袋以上の雑
草、枯れ葉が集まり見違える程綺麗に
なっていました。
今回、神職の方からは奉仕の前に邂
逅の苑にある石碑に刻まれた初代宮司
様の詩のご説明をして戴き大変感銘を
受けました。
この日は朝から参拝される方々が多
く か な り の 混 雑 が 予 想 さ れ ま し た が、
奉仕活動への影響はなく、滞りなく進
みました。清掃奉仕終了後、余香殿に
て参加者全員で昼食を頂きました。そ
の時間、前方の大型スクリーンにて「飛
梅 プ ロ ジ ェ ク ト 」、 福 島 高 校 に 太 宰 府
No.173 とびうめ 冬号
13
天満宮の梅の木を寄贈
し た 映 像 が 流 さ れ、 厳
かに奉仕活動を終了さ
せていただきました。
崇 敬 会 青 年 部 一 同、
皆様のおかげで清々し
く充実した時間を過ご
す こ と が 出 来 ま し た。
毎年続きますこの清掃奉仕活動に皆様
の近しい方々に声を掛けて頂き、ご一
緒にまた参加して頂けましたら幸いで
ございます。参加頂いた皆様方お疲れ
様でございました、本当に有難うござ
いました。
役員委嘱
日田連合会 役員・天神第二支部
(連
支合
部会
長)役員・天
石神第
松二支
益部 子
日田
(支部長)
石 松 益 子
日
田
連
合
会
役
員
・
天
神
第
二
支部
(連
世合
話会
係)役員・ 矢神
羽第
田二 い部
そか
日田
天
支
(世話係)
矢羽田 いそか
日
田
連
合
会
城
町
支
部
(連
支合
部会
長)城 緒 方 文 吉
日田
支 部
町 (支
吉
日部
田長
連)
合会 大緒
宮町方
支部文 (連
支合
部会
長)大宮町支
田部 辺 ハツミ
日田
(支部長)
田町辺
日
田
連
合
会
大
山
支部ハツミ
(支部長)
伊 藤 忠 孝
日田
連
合
会
大
山
町
支
部
(支
伊 藤 忠 孝
筑部
紫長
野)
連合 会 太宰府天満宮 崇敬会本部
☎ 0 9 2 -9 2 2 -8 4 8 4
・国際奉仕婦人部 一千円
・青年部 一千円
崇敬会支部並びに皆様のお世話をし
て頂く役員の委嘱が左記の通り行われ
ました。何卒、ご協力賜りますようお
願い申し上げます。
日田連合会
(副会長)
平 嶋
至
筑紫
野
連
合
会
(副会長)
平 嶋
至
筑
紫
野
連
合
会
(野
副連
会合
長会
)
森 木 優 元
筑紫
(副会長)
森 木 優 元
小
郡
連
合
会
新
町
一
支
部
(連
支合
部会
長)新町一支
松部 田 富 子
小郡
(支
小部
郡長
連)
合会 新松
町二田
支部富 子
(連
支合
部会
長)新 江部 崎 信 子
小郡
二 支
町 (支部長)
江 崎 信 子
太
宰
府
連
合
会
第
一
支
部
(支部長)
森部 下 昭 雄
太宰
府
連
合
会
第
一 支
(支部長)
森 下 昭 雄
太
宰
府
連
合
会
第
五
支
部
(府
支連
部合
長会
) 第五 権部 藤 規 子
太宰
支
(支部長)
権 藤 規 子
太
宰
府
連
合
会
国
分
支
部
(府
支連
部合
長会
) 国分支
宮部 川 和 子
太宰
(支
曰部
佐長
連)
合会 高宮
木支川
部 和 子
(連
世合
話会
係)高木支部
的 野 秀 子
曰佐
(世
的 野 秀 子
別話
府係
支)
部 (事務長)
板 井 教 正
別府
支
部
(事務長)
板 井 教 正
別
府
支
部
(支
世部
話係)
松 川 孝 一
別府
(世
松 川 孝 一
太話
宰係
府)
園支 部 瀬 戸 衛 二
太宰府園支部
瀬 (
戸順不
衛同敬
二称略)
(順不同敬称略)
・正会員(戸主) 三千円
(家族) 二千円
※但し連合会、支部所属の御家族は、一千円
・名誉会員 一万円
・法人会員 三万円(会社、団体での御入会)
他にも国際交流を目的とした国際奉仕婦人部に
よる「観梅会」、「観桜会」など、多くの行事がご
ざいます。
崇敬会本部までお気軽にご連絡、お問い合せ下
さいませ。(詳細は HP「太宰府天満宮 崇敬会」
でもご覧いただけます)
年会費
崇敬会行事の御案内
・三社詣で(一月下旬~二月上旬)
三つの神社にお参りし、各神社の御神徳を賜り、
新たな一年の御多幸を願う行事です
・チャリティーもちつきぜんざい会(一月十八日)
境内でもちつきを行い、ぜんざいを参拝者にふ
るまい、収益金は義援金や寄付金として寄贈し
ております
太宰府天満宮崇敬会(昭和四十三年創立、現会
員数約七千名)は御祭神 菅原道真公の御神徳「誠
心」をいただいて、一家の幸せと繁栄を願い、日
本文化の伝統を守り、より良い社会づくり、国づ
くりに努め、広くは世界平和に寄与する崇敬者の
集いでございます。
社報にて活動のご報告を行っておりますが、他
にも沢山の行事がございますので、是非御参加を
いただき、天神様と御縁を結ばれますよう、御入
会を心からお待ち申し上げます。
お問い合わせ、お申し込み先
部会費
(顧問)
桒 野 英 彦
日田
連
合
会
(顧問)
桒 野 英 彦
日
田
連
合
会
(連
会合
長会
) 橘 昭 壽
日田
(会
橘 昭 壽
日長
田)
連合 会 (連
副合
会会
長) 梶 原 善 忠
日田
梶 原 善 忠
(副
日会
田長
連)
合会
(連
事合
務会
長)
宮 崎 昭 吾
日田
(事
宮 崎 昭 吾
日務
田長
連)
合会 (会計)
矢羽田 幸 雄
日田
連
合
会
(会計)
矢羽田 幸 雄
日
田
連
合
会
(連
監合
査会
)
小 田 恒 雄
日田
(監査)
小 田 恒 雄
日
田
連
合
会
石
井
町
支
部
(連
支合
部会
長)石井町支
畑部
五百子
日田
(支部長) 畑 五百子
太宰府天満宮崇敬会 入会のすすめ
14
とびうめ 冬号 No.173
境
歳で兄と父を亡くした玄端は、幼くし
て久坂家の当主となります。家業を継
ぐべく幼名を玄端と改め、藩の学校で
学んだ久坂の聡明さは当時から群を抜
くものだったといいます。
安政三年(一八五六)九州に遊学し
た久坂は、ここで一生を左右する出会
いを得ます。熊本の宮部鼎三と、是非
教えを乞うべき人物と宮部に勧められ
た吉田松陰です。宮部は、肥後熊本の
勤王家で、尊攘派として積極的に活動
し、冒頭の七卿落之図にも描かれる人
物です。
長州に帰郷後、吉田松陰の私塾であ
る松下村塾の門をたたいた久坂は、め
きめきと頭角を現し、同門の高杉晋作
とともに村塾の双璧と称されるように
なります。
松陰も久坂のことを長州一の秀才と
認め、自身の妹である文を久坂に嫁が
せ義理の弟として嘱望していきます。
、青
と こ ろ が 安 政 六 年( 一 八 五 九 )
天霹靂となる事件がおきます。幕府に
よる政治弾圧、安政の大獄で松陰が死
罪にされてしまったのです。
松陰の死後、久坂は長州で尊攘派の
志士を牽引する存在となっていきます。
尊攘派の活動のなかで、尊攘派の公
卿、各藩の志士たちと関わりあい、時
には過激な実行におよぶ
日々にあって、
文久三年(一
八六三)八月十八日、京都
から長州勢が一掃される事
態に襲われます。いわゆる
八月十八日の政変です。
これによって朝廷の実権
は反対勢力である公武合体
派に移り、尊攘派の公卿・
三条実美以下七卿は都落ち
を余儀なくされ長州に撤退
するにいたったのです。
都を追われ長州への憂え
る旅の様子を描いたのが七
卿都落之図なのです。
七卿を守護し先頭を急ぐ
久坂、各藩の志士たち、し
ん が り を 務 め る 宮 部 鼎 三。
時代に翻弄されながらも未
来を拓こうとする尊攘派の
人々の真心を貫こうとする
姿がそこにはあったので
す。
その後、長州の七卿を拠
点に、久坂ら志士によって
尊攘派の活動は展開されていきます。
七卿が長州で滞在した三田尻の地
は、現在の防府市で、道真公と御縁の
深い地です。
この地は、平安の昔、無実の罪で左
遷される道真公が大宰府へ西下する途
中 に 立 ち 寄 っ た と さ れ、 そ の 由 縁 に
よって松崎天満宮(防府天満宮)が創
建されています。長州藩の崇敬も厚く、
初代藩主毛利秀就が寄進した石鳥居な
どが残されています。
江 戸 時 代、 当 宮
は各地に出向き天
神様のお札やお守
りを配る配札に
よって天神信仰を
広めていました
が、 長 州 に も 出 向
き配札を行ってい
ました。
当宮に残る文書
に は、 寺 社 役 所 に
宛 て て、 こ れ ま で
の通り年々一度ご
祈祷お札守配札の
ために太宰府天満
宮社家関係者の入
国許可を願いでた
も の や、 領 主 様 へ
年々一度のお札守
り献上の許可願い
な ど が あ り、 太 宰
府天満宮への信仰
も広まっていたこ
と が 伺 え ま す。 天
神様とこの地の深
い縁や信仰とともに、天神信仰の聖地
である太宰府天満宮への崇敬も深まっ
ていたのです。
、
久坂は、
しかし元治元年(一八六四)
蛤御門の変の失敗により自刃の最後を
遂げることとなってしまいます。
享年二十五歳。長州一の秀才と謳わ
れた久坂玄端は、自身が守護した尊攘
派の公卿の太宰府西下をみることな
く、描いた新しい世の到来をみること
もなく短い生涯を閉じたのでした。
No.173 とびうめ 冬号
15
久坂 玄端
内に入ってすぐ、当宮宮司邸
の門前に、七卿西竄記念碑、
いわゆる七卿都落ちの様子が
刻まれた碑があります。
幕末、当宮の別当は延寿王院とよば
れ、その邸には、八月十八日の政変で
都落ちした尊王攘夷派(尊攘派)の代
表公卿であった三条実美がお預かりと
な っ て い ま し た。
(七卿のうち五卿は
太宰府に滞在)
当宮には、この碑に刻まれている七
卿都落ちを描いた巻子「七卿都落之図」
があります。
この絵は近代の作で、そこには都落
ちする七人の公卿と警護する志士たち
が描かれています。まず先頭に長州久
坂玄端二十八、続いて筑後真木和泉守
四十二、その後に三条実美以下七人の
公卿、間には筑前平野二郎國臣二十八、
京都森寺大和守二十五、土州楠右衛門
三十一、後方には岩国城主吉川藍物五
十三、清末城主毛利左京三十三、しん
がりに宮部鼎蔵二十九がつき従い、七
卿は蓑笠を被った姿で、警護を司り先
頭を行く久坂玄端と真木和泉守は鎧甲
冑姿で描かれています。
久坂玄端は、天保十一年(一八四〇)
長州藩長門国に生まれました。父は藩
医でした。十四歳で母を亡くし、十五
七卿都落之図(江戸時代)
45
講員の皆様のお世話をしていただく新役員
の委嘱が左記の通り行われました。
何卒、宜しく御尽力賜りますようお願い申
し上げます。
〃
〃
〃
〃
支部長
〃
副支部長
〃
〃
〃
〃
支部長
役職
淀川 正俊
中島 豊一
小川 和明
福田 正
梅本 義明
梅本 芳則
森 陽一
松嶋 義光
田原 道治
濵地ケウ子
田郷 一郎
高崎日出美
水田 信也
氏名
福岡市西区西浦
久留米市北野町金島
鞍手郡遠賀町
小郡市力武
糸島市二丈吉井
糸島市二丈吉井
太宰府市国分
太宰府市国分
太宰府市国分
福岡市西区元岡
粕屋郡粕屋町阿恵
朝倉郡筑前町畑島
佐賀県武雄市鳥海
住所
〃
歴 史 を 感 じ る、 民 芸 品 な ど
を売る店や若者向けの飲食店
な ど が 並 ぶ 通 り を 散 策、 ど の
店も絶え間なく流れる涌水を
テ ー マ に し て い る ら し く、 ど
こ も 備 え 付 け 柄 杓 が あ り、 一
杯が実においしく感じました。
三愛レストランで昼食と買
い物のあと、「瀧神社」に向かいま
し た。 彼 方 の 山 麓 に 広 が る 稲 田 は
皇室に献上する御饌米の耕作地で
あ る こ と と、 そ れ に か か わ る 詳 し
い 逸 話 な ど も 興 味 深 く 聞 き ま し た。
どんよりとした天候であるにかか
わ ら ず、 説 明 の あ と の は る か な 山
麓 の 稲 田 が 一 際 輝 い て 見 え た の は、
気 の せ い だ っ た で し ょ う か。 瀧 神
社 自 由 参 拝 の あ と、 私 共 の た め に
準備していただいたであろう御饌
米 を 紙 袋 に 一 袋 ず つ い た だ き、 帰
路につきました。
二 十 五 日 会 会 員 に 加 え て 頂 き、
早くも十数年恒例の会員旅行に欠
か さ ず 参 加 し て い ま す が、 一 般 人
ではできないさまざまな貴重な体
験 を さ せ て 頂 い て い る こ と を、 実
に 有 難 く 思 っ て い ま す し、 今 後 を
生きる糧としたいと思います。
有 意 義 な 旅 行 を 企 画 し、 随 行 し
ていただき心から感謝申し上げま
す。
皆様も二十五日会に入会し、
参加しませんか。
太宰府天満宮飛梅講社の中
に、二十五日会という組織が
あります。天神様の御神徳「ま
こと心」を宣布高揚し会員相
互の親睦を図ることを目的と
する団体です。毎月二十五日
に集い、祭典に参列し、直会
を行っています。
16
とびうめ 冬号 No.173
阿蘇神社での集合写真
平成二十六年
九月二十九・三十日
二十五日会恒例の
「研修旅行」
(雑感)
参与 藤 潤一郎
バスガイドの声が聞き取れない
程 の、 後 部 サ ロ ン ス ペ ー ス で の 賑
わ い や、 内 牧 温 泉「 角 萬 ホ テ ル 」
夕食時の楽しい交流などは全くな
かったかのように・・・二日目の朝、
私 共 総 勢 四 十 名 は、 阿 蘇 神 社 に 降
り立ちました。
会員の法被を派織り流れ落ちる
清水で口を漱ぎ両手を浄め壮大な
二 楼門をくぐりました。私にとっ
て 当 社 参 拝 は 四 度 目 で す が、 今 回
は 特 に 身 の 引 き 締 ま る 思 い の「 阿
蘇 神 社 」 正 式 参 拝 で す。 拝 殿 に 昇
殿 し 着 座、 宮 司( 代 理 ) の お 祓 い
の あ と、 西 会 長 に よ る 玉 串 奉 奠 に
あ わ せ 拍 手 を 打 ち ま し た。 身 も 心
も洗われるような気分で正式参拝
を 了 え ま し た。 阿 蘇 神 社 に か か わ
る 様 々 な 祭 神・ ゆ か り・ ま つ り な
ど の 説 明 を い た だ き、 山 門 を 後 に
しました。
藤 潤一郎 氏
飛梅講社連合支部
大麻頒布式
本年も恒例により十一月一日より、十地区に
て行われました。
飛梅講社・崇敬会の各連合支部・連合会におき
ましては、毎年新年に各家庭におまつりする大麻
の頒布式を、各地区の最寄りの施設や役員の御自
宅等に斎場を設け執り行いました。
祭典では各御家庭の平安を御祈願申し上げ飛
梅講社員並びに崇敬会員の皆様に配布して戴く
ため、連合支部・連合会の役員の皆様に授与致し
ました。
役員の皆様におか
れましては、年末の
お 忙 し い 中 御 参 列、
御配布いただきまし
たこと衷心より御礼
申し上げますと共に
平成二十七年が皆様
にとりまして、良き
一年でありますよう
お祈りいたしており
ます。
福田・蜷城地方支部大麻頒布式
和佐野支部長自宅にて
古賀連合支部大麻頒布式 薦野公民館にて
宝物殿企画展の御案内
伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念
神宮に捧げた絵画展
あお ぬま せい うん
このたび、太宰府天満宮宝物殿において『第二十一回個展 青沼茜雲・神宮に捧げた絵画展』を企画展示室にて開催いたします。
この記念絵画展は、昨年の伊勢の神宮第六十二回遷宮を記念して、青沼茜雲先生の作品「竹の曲」が同宮にめでたく収蔵され、
それをお祝いして開催するものです。このことは、大変名誉なことで、心からの祝意を表します。
青沼先生は、平素より、
「芸術家の仕事は人の心の奥底に光りを送りこむ事である」という理念のもと、筑紫画壇の一匹狼として、
日本さらには世界の情景を描き続け、齢七十九を数え、その集大成としての記念すべき個展であります。
第21回
平成26年
12 6
月
青沼 茜雲
あ お ぬま
日 土
から
せ い うん
1 18
月
日
日
太宰府天満宮宝物殿企画展示室 開館/9時~16時30分
(月曜休館)
17
No.173 とびうめ 冬号
青沼茜雲(79歳)
福岡県久留米市に生まれる
フランス・サロン・ドートンヌ会員
ノルウェーノーベル財団認定作家
世界芸術遺産認定作家・日展所属
高 橋 紹 運 公あとがき
西正寺 宮小路康文書
大牟田市 大蛇まつりの時
里がえりの位牌
八尋千世
雑然と置いている資料を少
しはどうにかしなくては思っ
て い る の で す が、 無 理 な よ う
で す。 手 当 り 次 第 に 出 し て い
ると手拭が出てきました。
「岩
屋 城 主 高 橋 紹 運 公 四 百 年 祭。
昭 和 六 十( 一 九 八 五 ) 年 四 月
二 十 八 日 」 紋 所 は「 抱 茗 荷 」
です。
幾日が過ぎて棚から封筒を
出 し た と こ ろ、 高 橋 紹 運 と 書
い て い ま す。 中 を 見 る と 驚 き
ました。
「宝満ならびに巌屋城
戦死者の衆芳名の福島県月館
町耕雲寺大位牌による」昭和
六 十 二( 一
九八七)年
七月二十二
日写之太宰
府市岩屋山
西正寺」と、
九州記の一
部が出てき
ま し た。 氏
名が丁寧な
文字で書か
れておりま
す。 ご 住 職
く 父 の 菩 提 を 弔 い、 紹 運 旗 下 の 老 臣、
藤内左衛門丞重勝に霊牌を託す。藤内
は附近の太宰府梅檀口の橘菴に入り出
家して、紹運以下岩屋城戦死者の菩提
を弔い、天正十五年浄土真宗本願寺派
の末寺になり寺号を西正寺と下附され
ました。
以後、現在に至るまで、七月二十七
日 に は 三 池 の 立 花 様、 戦 没 者 子 孫 の
方々、関係者の方々が集まられ、ご法
要がいとなまれています。
せ ん だ ん ぐ ち
三池藩主が奥州下手土に国替えに
なった史実が取り持つ縁で、月館町の
文化財になっている三池藩ゆかりの
「 大 位 牌 」 が、 百 八 十 二 年 ぶ り に 大 牟
田市に里がえりしました。其の折山内
先生は写されたものと思います。貴重
な資料です。
太宰府にて茶会
の山内勇哲先生が謹写されたもので
す。
思い出しました。四百年大祭の時は
西正寺と太宰府天満宮合同の祭礼でし
た。天満宮社務日誌に「宮司、高橋紹
運公四百年祭。四王寺岩屋墓地、宮司
外七名」とあります。其の日は大勢の
人々が参拝に集まり法要はとても盛大
にとりおこなわれました。
福島県地名大辞典を調べると
大位牌のこと
伊 達 郡 月 館 町。 文 化 六( 一 八 〇 六 )
立花種善が筑後国三池から入府し、川
俣代官から分れて下手渡村ほか九村を
領していた。
月館町下手渡 曹洞宗 耕雲寺
岩屋山西正寺
太宰府市 岩屋山 西正寺
昭和六十二年七月二十七日 写之
福島県月館町 耕雲寺大位牌による
宝満並びに
巌屋籠城戦死之衆芳名
秀吉は帰途太宰府に立寄り、石田三
成 及 黒 田 如 水( 官 兵 衛 )
、小早川隆景
等に天満宮の復興を命じました。島津
義久は茶主となって天満宮の西側の岩
渕に茶室を設けて、秀吉を始め諸将の
労をねぎらいました。秀吉は義久及び
立花統虎を招き、岩屋城に於ける高橋
紹運の戦死の有様を聞き感激の涙を流
したそうです。
紹運自刃の後、八月十六日秀吉の先
発隊、小早川隆景の一隊は豊前柳原に
上陸し太宰府を指して進軍していまし
た。
立花城では、立花宗虎は近くの高鳥
居に籠っていた星野中務、吉実兄弟を
討 ち 取 り、 宝 満、 岩 屋 の 城 を 回 収 し、
統虎は麓の横岳山崇福寺に於て、父紹
運の霊牌を安置し追悼の誠を捧げ、厚
18
とびうめ 冬号 No.173
平岳喜右ェ門
上野
伊助
許斐三七郎
齋田 右京
高松 大蔵
柳 甚三郎
尾中 杢助
横尾 夭助
内田 右ェ門
今村十右ェ門
天山 紹正
賀藤田 刑部
向 孫三郎
同 掃 部
同 勘解由
横尾 内蔵助
山田彌右ェ門
田中 六郎
彌永 隠岐
馬渡 惣兵衛
関 善 虎
柳 長 門
隈手二郎三郎
院 善兵衛
同 源 丞
内田 忠兵衛
鹿毛 源助
中村 内蔵丞
勝高 左馬
荒川 弥四郎
上村 駿河
稲留 左馬助
野上 六兵衛
本田三郎兵衛
山口 土佐
豊木 酒之丞
福田 六助
戸伏 主税
千代田 兵部
大町 源助
恩田 源助
更原 右近
市富 内蔵丞
河崎次郎三郎
進藤 勘解由
矢野 右ェ門
愛力 主税
恩田 久兵衛
古賀重右ェ門
馬田 内蔵助
竹田 拾助
牀 島 傳 内
萩尾助右ェ門
内 田 織 部
村田 左馬允
牀山 弥三郎
薗田 采女
大石七左ェ門
染 三 郎
米蔵次郎三郎
今村 孫丞
薗田 内蔵助
筑前国宝満巖屋籠城戦死者之霊
宝満巌屋籠城中方々戦死之衆
今村美作入道
荒木 善助
合 勘解由
関 兵兵衛
冨松 弥助
槙 源 助
権藤 左馬助
今村弥右ェ門
牀島 勘解由
徳渕 外記
今村六右ェ門
上崎次郎三郎
林田 左馬
小島 右ェ門
濱田 市丞
横田 孫三郎
田丸 上總
加賀 丹後
長尾 舎人
大石七右ェ門
井上 市助
平山 孫三郎
光安 佐渡
同 左助
矢野 主税
山田 源助
幡崎 源助
伊藤九郎三郎
木枝 源助
隈手 六助
後藤 右近
小机 主計
本田 弥九郎
佐藤 拾助
福田 喜助
福島 古仙
大羽 右ェ門
三原 宗也
中島 左馬
花田加右ェ門
四瀉 宮内
板井善右ェ門
小中 掃部
同 右ェ門
古賀 市助
小山田 仁助
相部 山城
長松 掃部
光安 弥三郎
中島 半助
高崎次郎三郎
上村次郎三郎
小島 弥兵衛
三原 右ェ門
本田 兵部
染 大 学
合 市 助
今村三郎次郎
丸尾 右京
加賀 弥次郎
大石 下總
権藤 右近
梅野善右ェ門
石津五右ェ門
𥱋田 良信
中島 作十
三原 隼人
土岐土佐入道
向 新九郎
相部 次郎
光安 藤次郎
從立花山小籏之人數被相添爲御加勢戦死
竹迫五郎兵衛
同 傳右ェ門
𥱋瀨 三河
北原 弥兵衛
三浦 式部
辻 治右ェ門
同 喜 助
弓削 玄慶
伊藤總右ェ門
同 四 郎
関 内 記
陣 三九郎
同 新 助
同 外 記
野田 右ェ門
同 市 丞
同 右馬允
帆足 備後
同 八 郎
弓削 了意
三原 紹心
福田 閑與
馬渡 良虎
加賀 備前
福田新右ェ門
中島 隼人
同 弥五郎
同 新三郎
萩尾 麟可
同 平 内
伊部 九花
同 左馬助
市川 玄蕃
今村 六兵衛
同 兵右ェ門
同 大 炊
同 右ェ門
荒川 隠岐
荒川 伊豆
国分 主計
水城 喜助
成冨 新五郎
木野 大学
伊勢 民部
大石 七兵衛
藤 左馬助
高尾 勘解由
巌屋紹運公御截腹之時戦死之士数及
七百余人厥節忙騒乱動而靡記竹帛已
後経五十年屈指粗考聲名以顕簡面矣
高橋 越前
萩尾 大学
土師 兵部
𥱋瀨興吉兵衛
原 伊豆
野口 右ェ門
今村 弥次郎
更原 右馬允
今村 主計
今村 源内
屋山 中務
江渕 右ェ門
同 七 郎
染 但 馬
冨本 忍田
北原次右ェ門
伊藤 次助
同 次郎三郎
同 永 澤
同 内蔵助
同 太郎次郎
中島 治部
北原 内蔵助
茂松 兵部
徳渕 備前
小川 宮内
瀨戸口 市助
平山伊右ェ門
戸坂 市丞
原 越 後
同 重右ェ門
木野 新兵衛
佐藤 善丞
藤 勘 内
中野 九郎
同 三 助
合原 因幡
松延 勘七助
井上 主水
田中 安藝
行徳 右馬允
同 織 部
同 治 部
同 譯 助
同 大蔵助
同 新右ェ門
稗田四郎三郎
山本 右馬允
黒岩 隼人
久保 杢助
平井民部左ェ門
花田 宮内
八尋 源助
木下 杢助
同 三五兵衛
長松 加賀
田中四郎兵衛
石橋 弥助
長田 大蔵
同 主馬允
同 次郎三郎
田原 運澤
同 六 郎
村山刑部左ェ門
三原 和泉
麻島 孫太郎
幡崎 長門
萩尾弥吉兵衛
吉野 左京
同 勘右ェ門
横小路 市助
同 弥 助
加藤 雅楽
同 監 物
同 刑 部
同 掃 部
河崎 右ェ門
河端 勘 助
関 勘七兵衛
同 佐 助
巌橋 大蔵
赤坂 運鉄
遠藤 式部
萱島 左京
同 宗 休
弓削次郎三郎
同 隼 人
野上 右ェ門
森光 弾正
今村 弾正
同 勘 助
上村 刑部
廣田 宗祐
大原木 市助
窪山 内蔵助
No.173 とびうめ 冬号
19
土岐 大隅
同 次郎兵衛
原口 喜助
山下 刑部
小島 監物
薗木 杢助
伊部 孫三郎
同 弥九郎
渕上兵右ェ門
轟 水三郎
古野 右馬助
中願寺 和泉
千里 隼人
内田 出雲
同 刑 部
織部 山城
鬼村 外記
橋本 喜兵衛
米蔵 市助
同 喜 助
同 了 甫
鬼木 左馬助
屋山羽右ェ門
同 九兵衛
澁江二右ェ門
藤 和 泉
同 市 正
福島 主水
樺島 吉助
林田 三郎
光行 源次郎
同 孫太郎
同 七 郎
同 内 膳
同 真 慶
木野 八郎
兵松酒右ェ門
冨来 仁助
同 新四郎
中島 田作丞
大塚 七郎
徳渕兵右ェ門
吉田三郎次郎
清水 藤内
水城藤左ェ門
栗木 弥三郎
上野 式部
安河内源太郎
梅野 左京
野村 源内
遠藤 蔵人
八尋 市助
野村 宮内
陳 孫太郎
安永 金助
国部 甚助
柿上 縫殿
栗木惣右ェ門
渕上 喜三郎
和田 興市
財津 式部
今村太郎五郎
市冨 善九郎
合田 杢助
垣上 縫殿
中島新五兵衛
国分次郎三郎
同 平三郎
鹿島 雲斎
中島 興次郎
天 野 内 蔵
川崎 左馬
中島 玄番
江上 弥兵衛
同 喜兵衛
成冨羽右ェ門
今村勘七兵衛
隈手 市助
今村 八郎
同 孫太郎
戸綿 主水
小川 備後
合 大 蔵
篠原 源内
天野 弥兵衛
生渕 蔵人
檀 外 記
上原藤右ェ門
薗田 平兵衛
山本 六郎
長尾 左京
渡辺 次兵衛
篠原 出雲
笠原 孫助
槙 左 京
同 勘七兵衛
齋田 兵部
秋山 孫三郎
萩尾 采女
田中 市助
国部 次郎
江半 右ェ門
内山田 蔵人
戸渡 刑部
大町 隼人
齋藤 拾助
野上 左ェ門
同 新三郎
千壽 大蔵
今村次郎三郎
今村 金助
大町 備前
同 孫四郎
原 右 近
仲 勘 助
麥生弾正入道
江上 帯刀
右田 喜助
荒川 伊兵衛
木野 三郎
国部 左馬
𥱋瀨 宗喜
渕上 孫三郎
坂口 右ェ門
中川 三郎
小崎 喜助
冨松 與助
中村 甚助
古賀 杢助
同 監 物
米蔵助左ェ門
同 藤 内
更原 七郎
神崎 右ェ門
山下 金助
寳珠山 伊豫
今村 上總
三津木 右近
同 右 近
木野 右馬助
高木 市助
田中 木工
藤木 弥助
今村 勘蔵
戸渡 喜助
徳渕 源兵衛
松岡 掃部
安河内 三郎
薬師寺 三助
栗木 大学
綾部 外記
原口 平内
辺原 次兵衛
高木 新兵衛
賢 久 善
中島 勘解由
田瀉次郎四郎
陳 新兵衛
安永 大炊
福田 主馬助
吉村 善芳
臼井 宮内
江口 紹雪
田中 織部
中河内 甚助
阿賀野 左京
上村 三郎
北崎 左馬助
合原 右近
篠原 藤太郎
上野九郎兵衛
関 清兵衛
上野 善助
三野原三右ェ門
尾崎 隼人
三木田勘解由
佐藤 善之丞
麻角 了京
松岡 七郎
篠原 弥助
望月 織部
同 喜 助
矢田 左京
実藤 勘解由
牀山 孫三郎
藤吉 市丞
篠原 隼人
在田 兵部
帆坂 隼人
有馬 新兵衛
黒野 源三郎
伊部 市丞
森 善兵衛
若杉 藤次郎
後藤 藤七
甲斐 勘解由
伊部四郎兵衛
甲斐 新助
同時從立花籠城戦死之衆
吉田 右京
原田 次郎
工藤 弥兵衛
麻生 外記
今村 喜助
安東 内蔵助
萩尾 龍助
野村 弥助
三野原 弾助
山本 與次郎
同 監 物
北原弾六兵衛
在津 新九郎
泉原 右京
神志名孫三郎
内山 蔵人
城萬 藤四郎
木村新右衛門
日高 甚八
後藤 太兵衛
加権 甚助
𥱋瀨 新助
三原 半次
吉塚又右ェ門
末松四郎兵衛
伊藤 與平次
井上平次兵衛
三原 與太郎
平井 小兵衛
從筑紫家爲證人籠城戦死 木村新右衛門
今村 又助
村山 源助
原 新 助
帆足 左平
齋藤 勘助
清田 藤内
辻 藤兵衛
福田 伊助
於高麗戦死之衆
伊藤源右ェ門
北原孫右ェ門
陳 平 蔵
柳 加 助
今村喜三兵衛
福島 源七郎
同 市右ェ門
土師新左ェ門
弘生 左京
藤次 織部
岡本酒右ェ門
同 助左ェ門
上野四郎兵衛
内山 清之助
江渕 蔵之允
西山 織部
本田 右馬助
平野 雲慶
原口 蔵人
木原 市丞
今村半右ェ門
帆足 勘兵衛
藪 伊 助
弥永 勝三郎
安木 市丞
弓削 右ェ門
甲丸 拾助
諸藤 次郎
以上 五百三十六名の方々です。
20
とびうめ 冬号 No.173
が
ふ く じょう
太宰府天満宮の文化財
えい れん
まつの ぎ ょ え
まつの れ ん
りゅう
が
福城連歌では、柳営連歌をまねて、宗匠
が発句を詠み、藩主かその代理の人が脇句
二
( 番目の句 を
) 詠み、一座が順番に詠ん
でいくのが作法です。幕府では宗匠はお抱
え連歌師の里村家が勤めましたが、福岡藩
では、天満宮の大鳥居氏が、宗匠の役目を
担っていました。
さて、この本に収められた最も古い作品
をみてみましょう。
万治三年子ノ正月廿五日
御城
御会
松に見よ千世幾かへり神の春 信兼
百木の梅の若枝さす庭 御作代
此殿の玉のいらかの雪解て 信重
かすむ朝気の光静けし 快竺
波間より月のいさよふ沖津 信通
浦に声して雁の来る空 信達
秋風や暮る芦辺にすさふら 梅重
稲葉乱るゝ露の涼しさ 快鎮
急雨の過ぬる跡の庵の 氏次
垣ほの入日影ほのか也 信連
立つゝく竹の戦きの冴々て 昌三
小野の緑の冬浅き色 氏利
水白く流の末も氷るらし 兼秀
(初一巡)
これが現在分かっている福城連歌の作品
の中で一番古いものです。
この作品に名を連ねている人物は、御作
代(藩主の代理人)の外は、先ほど述べた
大鳥居信兼を始め小鳥居信重・御供屋信通・
じ
も ん に ん
つ
れ ん じゅう
い
な
ぼう
み や
執 行 坊 信 達・ 浦 之
坊信連ら太宰府天
満宮の五別当を始
め満盛院快竺ら宮
師 三 家、 連 歌 屋 昌
三・ 文 人 の 小 野 加
賀・ 小 野 伊 予、 原
八坊の都維那坊と、
すべて天満宮に奉
仕する人々です。
このように福城連歌には、太宰府天満宮
の神官達が福岡城に登城しておこなってい
ました。
宝暦年間(一七五一~一七六四)ごろ、
寺社奉行に差し出した書付の控に、福城連
歌の連衆と床の間の飾り付けに関する記述
があります。それによれば、別当五家・宮
師三家・連歌屋・文人(小野三家)らのう
ち、連歌の上手な者十四人をお城へ連れて
行く事、連歌の行われる大書院では床の間
に飾る天神様のご神影に、天満宮から綱政
公が寄進したご神影を持参する事などが書
かれています。
福岡城の連歌会は太宰府天満宮にとって
も、正月の大きな行事の一つになっていま
した。そしてそれは、明治維新まで永く続
いたのです。
この本の他に『松
福城連歌に関する本は、
之連歌控』と西高辻家蔵の『福城松連歌』
の二冊の写本があり、安政三年(一八五六)
まで、全部で百二十回分の作品が残ってい
ます。
(宮崎由季)
福岡御城御会連歌集
No.173 とびうめ 冬号
21
この本は福岡城で行われた連歌会の作
品を集めたものです。
万治三年(一六六〇)から延宝八年(一
六八〇)までの二十一の作品が集められ
ています。
福岡城では、幕府で行われていた「柳
営連歌」をまねて、
「福 城 連歌」を行い
ました。初めは正月・五月・九月の年三
回行われていましたが、三代藩主光之公
時代の明暦二年(一六五六)からは正月
のみの興行となり、そこから「松連歌」
とか「松御会」と呼ばれるようになりま
した。
この連歌会がいつか
ら始まったか、はっき
りしたことは分かりま
せん。太宰府天満宮の
大鳥居信兼が正保元年
( 一 六 四 四 ) の 正 月・
五月・九月に福城連歌
に出席したことを記録
しています。この記事
が 最 も 古 い 記 述 で す。
信兼はこの年に十五才
で別当に補任されたば
かりですので、これ以
前に年三回の福城連歌
会が慣例になっていた
と考えられます。
万治三年御城御会連歌冒頭と巻末
福岡御城御会
連歌集
62
一冊
江戸時代
小横帳
正月神事の御案内
つい な さい
うそ かえ
追儺祭(鬼すべ)
、鷽替 1月7日
とびうめ 冬号 No.173
22
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山
江
秋
藤
石
大
口
藤
永
田
川
藤
田
里
裕
さや佳
明 穂
紫央里
友理香
佐紀子
友梨子
林
本
桑
権 禰 宜 是 則 慶 秀
主
典 三 橋 彰 弘
〃 高 山 博 子
〃 畑 中 憲 一
主
仕 友 田 孔 大
〃 松 吉 保 知
巫
女 西 野 悠 里
中 川 瑞 穂
臼 間 友 香
新 西 杏依子
岩 㟢 あゆみ
清 原 沙由佳
島 田 紗由美
德 永
黛
稗 田 友 見
磯 畑 希充子
古 川 智 美
佐 藤 由香利
野 津 智 子
中 西 梨 恵
藤 井 なつき
脇 山 可奈子
森
千 尋
長 澤
彩
ひかり
太宰府天満宮
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〃
〃
〃
〃
宮
司 西高辻 信 良
権 宮 司 小鳥居 信 行
〃 西高辻 信 宏
禰
宜 味 酒 安 則
〃 後 藤 敏
〃 八 坂 宣 匡
〃 西 原 強
権 禰 宜 平 木 一 吉
松 永 博 康
佐 奈 正 彦
毛 利 清 彦
栗 原 昌 久
御 田 良 知
井 上 良 彦
松 尾 太 輔
田 中 教 介
野 村 木乃実
新 西 靖 斉
藤 田 英 雄
柴 田 浩 二
有 吉 重 幸
松大路 信 潔
森
大 郎
馬 場 宣 行
真 木 智 也
小鳥居 寬 貢
出 光 公 朝
越 智
洋
石 川 史 嗣
澤 田 政 彰
立 花 誠太郎 戸 髙 宗 德
〃
〃
〃
〃
〃
上
井
笠
堀
村
祐
郁
子
紀
子
沙耶香
吉
邦
則
原
田
志
是
恵美子
巫
女 横 山 実 優
〃 関 ひとみ
〃 田 中 優 美
常任顧問 森
五
郎
〃 松大路 秀 一
研 究 員 アンダーソン依里
参
事 松 岡 慶 司
主
事 武 末 健 志
録
事 畠 中 浩 憲
古 田 博 行
佐々木 幸 江
紀 子
由美子
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〃
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〃
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〃
〃
〃
録
事 久 里 美 樹
平 嶋 昭 子
渡 辺 美和子
小鳥居 千 穂
岡
美和子
豊 永 一 恵
坂 口 妙 子
清 水 蓉 子
伊 藤 ユ ミ
長 谷 示香子
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
嵜
㟢
松
大
録
事 河 津 由香子
〃 新 西 祐 子
神苑管理員 青 栁 雄 一
長 谷 広 道
井 上 栄 二
平 山 雄 一
平 嶋
功
古 賀 義 悟
松 田 耕 二
井 上 恵 一
日永田 憲 広
中 島 紀 寿
木 本
順
達 弥
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〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
神苑管理員 井 上 美津江
管 理 員 田 中 正 宏 田 村 成 寛
佐 藤 紀 道
長 谷
恵
豊 福 時 和
松 永 裕二郎
永 光 俊 介
河 津 貴美子
野 瀬 成 美
田 村 洋 子
山 川 喜美子
平 田 英 子
睦 子
殿
季和子
本
松
霊
管 理 員
祖
研
究
所
社
司 森
五 郎
事務局長 松 永 博 康
事 務 局 藤 田 英 雄
柴 田 浩 二
管 理 員 松 㟢 睦 子
化
〃 文
所
長 西高辻 信 宏
主
管 味 酒 安 則
主
任 アンダーソン依里
録
事 清 水 蓉 子
志 田 邦 子
〃 優 紀
みなみ
橋
長
丈
野
村
木
権
輝
紗
はるか
高
太宰府天満宮幼稚園
〃
〃
〃
〃
〃
園
長 西高辻 信 良
教
頭 西高辻 圭 子
顧
問 森
五 郎
〃 白 井 奉 美
参
事 新 西 靖 斉
主
事 西高辻 信 宏
副 主 事 馬 場 宣 行
〃 武 末 健 志
主
任 松 尾 秀 美
副 主 任 松 枝 寿 子
教
諭 水 口 久 実
中 垣 さとみ
教
諭 久保田 歩 実
〃 大仁田 ちなみ
〃 拝 形 麻 美
〃 小 山 文 美
管 理 員 永 田 京 子
古 田 博 行
運 転 手
公益財団法人
太 宰 府 顕 彰 会
会
長 西高辻 信 良
副 会 長 牧 山 恭 久
常
務 西高辻 信 宏
理
事 折 田 康 徳
理
事 安 川 哲 史
理
事 中 村 信 喬
監
事 外 園 令 明
事務局長 毛 利 清 彦
越 智
洋
伊 藤 ユ ミ
子
社
信
神
川
門
石
事 務 局
〃 〃 竈
宮
司 西高辻 信 良
禰
宜 松大路 秀 一
権 禰 宜 貞 方 岩 戸
〃 森 大 郎
〃 是 則 慶 秀
巫
女 山 口 綾 香
〃 宮 地 貴 子
〃 吉 川 真 未
録
事 川 下 五十鈴
〃 田 村 かおり
〃 貞 方 香代子
管 理 員 中 野 祐 士
No.173 とびうめ 冬号
23
① 伊勢ヶ濱部屋
九州場所へ挑む
十一月九日より二十三日にかけて、福岡国際センタ
ーで行われる九州場所に出場する為、天満宮紫藤館に
宿 舎 を 構 える
伊 勢ヶ濱 部 屋
の 力 士 たち は 、
早 朝よ り 激し
い稽古に励んで
お りまし た。今
場所は横綱日
馬富士関を筆
頭に安 美 錦 関・
宝 富 士 関・照ノ
富 士 関・誉 富 士
関と五名の幕内力士に続き、上位を目指す多くの力士
たちが一生懸命にこの九州場所を取り組みました。千
秋楽には余香殿に於きまして「千秋楽打ち上げ式」を
行い、タヒチアン
ダ ンス ショー や
歌 手 等で活 躍 す
るサラ・オレイン
氏が 駆け 付けて
く れ ま し た 。後
援 会の 皆 様やフ
ァンの 皆 様 が 素
晴 らしい活 躍 を
見 せ た 力 士 たち
の 奮 闘 を 称 えま
した。
② 心癒す菊の展示
十一月一日より二十五日まで天満宮境内に於いて、秋芳会の皆様に
よる菊の展示「菊花展」を開催致しました。天神さまも菊をこよなく
愛され、大輪をはじめ小菊の福助や滝の流れを表した懸崖等約一五〇
〇鉢が境内を彩り、御本殿前や天神広場などが多くの参拝者の心を
癒す空間となりました。
③ 甘い匂い漂うお菓子の奉納
十一月 七 日 、お 菓 子の神 様である 田 道 間 守 命 を お祀 り する 菓 祖中
島神社九州分社で「菓祖中島神社秋季大祭」を斎行致しました。福岡
県をはじめ、九州各県より沢山のお菓子の奉納を賜り、各企業のこれ
からの繁栄と安全をお祈り致しました。
一月
主な行事予定
一 日 歳旦祭
四 日 斧始祭
七 日 追儺祭
(鬼すべ・うそ替神事)
十二日 成人祭
二十五日 初天神祭
二月
三 日 節分厄よけ大祭
二十四日 飛梅講社大祭
二十五日 梅花祭並びに飛梅講社大祭
三月
一 日 曲水の宴
二十五日 春季大祭
三十一日 天開稲荷社初午祭
☆『飛梅』定期購読のお知らせ
年分 千五百円
○定期購読料 一
年四回発行(消費税・送料込み)
○ お 申 し 込み・お 問 合せ 先 は 左 記
までご連絡下さい。
飛 梅 第一七三号
発行日 平成二十七年一月一日
発行所 太宰府天満宮社務所
福岡県太宰府市宰府四‐七‐一
電話(〇九二)九二二‐八二二五
発行人 西 高 辻 信
良
編集員 八坂 宣匡・松尾 太輔
森 大郎・出光 公朝
石川 史嗣・戸髙 宗德
印刷所 株式会社 四ヶ所
24
とびうめ 冬号 No.173