エネルギーみなぎる 厳格なタクトに注目 スウェーデン人の両親のもとアメリカ合衆 国に生まれ、音楽家としての教育も両国で 受けたヘルベルト・ブロムシュテットだったが、 その名が日本に入ってきたのは、旧共産圏 の東ドイツ経由であったと記憶する。1973 年、当時客演指揮者として厚い信頼を受け ていたドレスデン国立歌劇場管弦楽団(シュ ターツカペレ・ドレスデン) のツアーに同行して初 来日を果たし、その後1975年には同管弦 楽団の首席指揮者に就任して、積極的なレ コーディング活動を展開するようになったこ とで、リスナーの間に広く知られるようになっ たのであった。今彼のディスコグラフィをみる 文 ◎相 場 ひろ と、今年生誕150周年を迎えるデンマークの 作曲家、カール・ニルセンの交響曲を全曲録 音した画期的なアルバムが、それより以前の 1970年代前半に西側で制作されてはいる。 ニルセンのスペシャリストでもあるブロムシュ テットの記念碑的録音であって、今でこそ多 ©Martin U.K. Lengemann くのリスナーが称賛を惜しまない名盤であ るけれど、LP時代に国内ではごく一部しか 紹介されずに終わったこともあって、一般の 人々の記憶にはほとんど残らなかった。その ため、ブロムシュテットを旧東ドイツ出身の指 揮者と長く誤解していた者も、多かったので はなかろうか。 じっさい、 それらの録音で彼がみせたモー ツァルトやベートーヴェン、シューベルトといっ た独 墺 系のレパートリーとの相性は目覚ま Herbert Blo 今月のマエストロ ヘルベルト・ブロムシュテット Herbert Blomstedt 10 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 しかった。曲想に素直に反応してストレート だったこととそうでなかったことを入念に吟 な表現を盛り込み、清新かつ温かなロマン 味し、自らのあるべき演奏スタイルを意識的 を馥 郁と薫らせるスタイルは、シュターツカペ に改革したのであろう。サンフランシスコで レ・ドレスデンの個性的な音色と相まって、独 のブロムシュテットは、楽譜を徹底的に読み 自の魅力をふんだんに振りまいていた。しか 込んだ上で細部の再現にその結果を強く反 し、こうした衒いのない音楽は、大向こう受 映させ、瞬間ごとの美しさよりも、引き締まっ けを狙う派手な指揮者たちの陰に隠れて見 て程よい緊張感をたたえた音の流れを力強 過ごされがちだ。事実当時の日本では、一 くリードし、結末に至るまでの道筋を明るく照 部から無個性な指揮者とみなされていたこ らし出すかのような指揮ぶりをみせるように ともあったようだ。 なった。それまでの、オーケストラの美質を大 切にしてふくよかなロマンを打ち出すスタイル は影を潜め、強な意志の力と、それを実現 大きな変貌を遂げたサンフランシスコ時代 するための厳しさを前面に押し出してひとを ブロムシュテットはその後1985年にシュ のサンフランシスコ時代だったようだ。 ターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者を辞 円熟と言うよりは進化とでも言った方が似 魅了するタイプの指揮者へと変貌したのがこ し、同年サンフランシスコ交響楽団の音楽 合いそうな、こうした変貌を遂げた後、ブロム 監督に就任する。この頃を境に、彼の音楽 シュテットは1995年にサンフランシスコ響の は大きな変 貌を遂げる。それまで彼は誠実 ポストを退任して北ドイツ放送交響楽団の音 であると同時にどこか鷹 揚で、部分の表情 楽監督となり、さらに1998年に同響を辞した 付けや彫 琢に優れてはいても、楽曲全体を 後はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 大きく見渡して厳しく統御し、一貫した論理 の楽長( 音楽監督 ) に任ぜられ、2005年まで 性や構築感を与えることに秀でているとい その地位にあった。この時代のライプツィヒ・ う印象を与えることは少なかった。しかし彼 ゲヴァントハウス管は、18世紀にさかのぼる は、全米トップクラスの機能性を誇りながらも 長い伝統を持ちながらも実力の低下に悩ま 独墺系のレパートリーに秀でているとは言い されており、ブロムシュテットはその建て直し 難かったサンフランシスコ響との共演を通じ を担う意味合いも込めてポストを請けたので て、それまで伝統あるシュターツカペレ・ドレ あろう。このもくろみは見事にあたった。アメ スデンでできたこととできなかったこと、当然 リカでの経験を経て獲得した統率力を遺憾 omstedt PROGRAM A/B NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 11 なく発揮した彼は、オーケストラの誇る個性 今回は2010年4月以来のオール・ベートー 的な色彩はそのままに、合奏力の水準を大 ヴェン・プログラムを掲げている。特にAプロ きく引き上げることに成功したのであった。 グラムでのベートーヴェンの協奏曲1編に交 響曲1編という組み合わせは、過去のプログ ラムを見ても彼の好むところであるようだ。ま 5年ぶりのオール・ベートーヴェン・プロ たBプログラムでは交響曲の《第1番》 と《第 3番》 という、若々しい力のみなぎる2曲を選 ブロムシュテットとNHK交響楽団との初 んだのが興味深い。いささかの老いも感じ 共演は1981年11月のこと。独墺系の音楽 させないエネルギーのみなぎった、それでい のイメージの強かった彼は、4回の公演でハ て厳格なコントロールをひとときたりとも忘れ イドンからストラヴィンスキーに至る多彩な楽 ることのないブロムシュテットが、今これらの 曲を採り上げて、聴衆を驚かせた。その後も 曲を振ってどのような音楽を聴かせてくれる ベートーヴェン、ブラームスやブルックナーと のか、大いに注目したい。 いった独墺系の作曲家に加えて得意とする シベリウス、ニルセンなど、さまざまな作品を [あいば ひろ╱音楽ライター] 演奏し、懐の深さを存分に披露してきたが、 プロフィール 1927年、スウェーデン人の両親のもとアメリカ合衆国に生まれる。ストックホルム王立音楽院およびウプ サラ大学にて音楽を学んだ後、ジュリアード音楽院で指揮法を、バーゼル音楽院にて古楽を学ぶ。その他 指揮法についてはイーゴリ ・マルケヴィチやレナード・バーンスタインにも師事した。 1954年、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でデビューし、オスロ・フィルハーモニー管弦 楽団やスウェーデン放送交響楽団、デンマーク放送交響楽団、 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指 揮者を歴任する。1985 年から1995 年まではサンフランシスコ交響楽団の音楽監督を務め、ヨーロッパ公 演を行って高い評価を得た。1996年から1998年までは北ドイツ放送交響楽団、1998年から2005年まで はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督の座にあった。 NHK交響楽団との初共演は1981 年 11月であり、以後たびたび来日して共演を重ね、現在は同楽団名 誉指揮者の称号を得ている。 [相場ひろ] 12 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 ©Greg Sailor オーケストラと一体化し、 表現を浸透させていく指揮者 広上淳一の指揮に筆者が初めて接したと きのことは今でも忘れられない。1988年12 月の日本フィルハーモニー交響楽団定期演 奏会のことだった。1984年の第1回キリル・ コンドラシン国際青年指揮者コンクールで 優勝し、さらにその審査員だったウラディーミ ル・アシュケナージが翌年ピアニストとして来 日してN響と協奏曲を共演した際に広上を 指揮者に指名したことで、彼への注目度は 高まっていたが、日本のオーケストラの定期 演奏会という大舞台に彼が登場するのはこ の日本フィル定期が初めてだった。しかも曲 がなんとマーラーの《交響曲第6番》。定期 へのお目見えの演奏会にこの難曲の大作を あえて選んだところに、若き彼のチャレンジ 精神と、楽団側の彼に対する大きな期待を 感じたものである。 果たしてその演奏は烈しいまでの劇的迫 力に満ちた圧倒的なものだった。冒頭から 気迫が凄まじく、テンションの高い運びで聴 文 ◎寺 西 基 之 く者をマーラーの世界に引きずり込んでい く。長丁場ながら一切音楽が緩まず、常に 表情が濃く熱がこもっていて、強 な響き、 鋭いアクセント、エスプレッシーヴォなカン タービレなど、刻一刻と変化する作品の相 貌を鮮やかに浮き彫りにしたその演奏に、 ただただ圧倒されたことを覚えている。ま た、そのように大きなうねりで音楽を揺れ動 かしながらも、決して全体のフォルムを崩す Junichi Hir 今月のマエストロ 広上淳一 Junichi Hirokami PROGRAM C NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 13 ことがない点も大いに感心させられた。若 烈な演奏にすでに彼の音楽家としての姿勢 手指揮者にありがちな勢いまかせの熱演と と指揮スタイルがはっきり確立されていたと はまったく違った、作品全体をしっかり俯 瞰 いうことだ。作品の全体像を見据え、その中 した音楽作りに、広上の只ならぬ実力が示 で細部をどのように意味付けし、表情付けす されていた。 るかをしっかりと捉えて、それを沸き上がるよ うな表現意欲で明確なジェスチャーをとおし てオケに伝える。そのような彼の演奏は、ど 明確なジェスチャーをとおして表現を伝える こをとっても生命が脈打ち、いかなる音符も さらに目を奪われたのはそうした表現をオ ら彼はこうした音楽作りをめざし、以後ぶれ が何かを語りかけてくる。まさにデビュー時か ケから引き出す彼の指揮ぶりだった。これほ ることなく今日まで自らの道を究め深めてき どまでに手と体全体を使う指揮者はちょっと たのではないだろうか。日本フィルの定期デ 例がなく、しかもその動きが音楽表現と見事 ビュー以来、ずっと広上の演奏に触れてきた に結び付いている。大振りの指揮者には得 筆者にはそのように思える。 てして無駄な動きのある人が多いが、広上 近ごろNHKテレビ番組で見た広上の指 の動きは、噴き上がるがごとき激しさにもか 導現場の映像にも、音楽に対する彼のそうし かわらず、すべてが必然的だと思わせるもの た姿勢がよく表れていた。学生オケを振る指 があり、それに突き動かされるように日本フィ 揮の実習生に向かって広上は、なぜ自分を ルがいつにない多様な音彩と豊かな表情を さらけ出して表現しないのか、なぜ音楽のイ 出していた。当時私は日本フィルの定期はほ メージをもっと身振りや手振りでオケに伝え とんど毎回通っていたが、これほどまで濃厚 ないのか、オケとコミュニケートすることにエ な響きをこのオケで聴いた経験がなく、それ ネルギーを注げ、などと矢継ぎ早に注意を与 を日本の新進指揮者が引き出していること えていた。その熱血指導で述べていたこと に驚かされたものである。 は、広上自身が若いときから信念をもって実 あれから四半世紀以上、広上の演奏は年 践してきたものにほかなるまい。 月とともに、表現の広がりと深みを大きく加 え、その演奏に今や巨匠の風格も感じさせ ているが、彼を今日まで聴き続けてきて改め て感じることは、あの若き日のマーラーの鮮 Junichi Hir 14 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 民族色豊かな作品に エスプレッシーヴォな名演を期待 近では京都市交響楽団を飛躍的に向上さ せることになったのだろう。 そしてN響もまさに広上と多くの名演を生 興味深いのはNHK番組の井村雅代(シ んできた。日本人指揮者の登場が決して多 ンクロ日本代表コーチ) との対談の中で広上が、 くはないN響定期に彼が特に頻繁に招か 指揮者はオケをドライブするのでなく、オケを れていることからも、N響が彼をいかに高く 助けて精神的な勇気を与え、オケにいかに 買っているかが窺えるが、 それは間違いなく、 溶け込むかが大切であると述べていたこと オケに溶け込んで一緒に演奏しようという彼 だ。激しい動きで表出力に満ち満ちた広上 の姿勢にプレイヤーたちが共感を持つから の音楽作りと指揮ぶりはいかにもオケをドラ だろう。今回はラフマニノフとドヴォルザーク イブしている印象を与えるが、実際の彼はオ という、たっぷりとした情感の表出が求めら ケと一体化することを心がけ、自分の表現を れる民族色豊かな作品によるプログラムだ オケに無理なく浸透させていくタイプなので けに、広上とN響のコンビならではのエスプ ある。だからこそ、日本フィル定期デビューで レッシーヴォな名演となることを期待したい。 あの名演が生まれたのだろうし、その後さま ざまな楽団が彼を信頼して共演を望み、最 [てらにし もとゆき╱音楽評論家] プロフィール 1958年東京生まれ、東京音楽大学で汐澤安彦に指揮を師事した。在学中の1982 年に民音・指揮者コ ンクールに入選、日本指揮者協会奨励賞を受賞。大学を卒業した1983 年に外山雄三の招きで名古屋フィ ルハーモニー交響楽団のアシスタント・コンダクターとなり、1年間務めた。 1984年第 1回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝し、一躍名前が知られるようになる。 その後世界の主要な楽団に客演して国際的な名声を確立、ノールショピング交響楽団首席指揮者(1991 ∼1995 年)、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者( 1991∼2000年)、ロイヤル・リヴァプール・フィ ルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者(1997∼2001年)、リンブルク交響楽団首席指揮者(1998∼ 2000年)、米国コロンバス交響楽団音楽監督(2006∼2008年) を歴任。2008年、京都市交響楽団の 常任指揮者に就任し、2014年以降は常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーとして同楽団の向上に大き く貢献している。 確たる造形力に裏付けられた表出力豊かな密度の高い音楽作りによって、NHK交響楽団との共演でも 数々の名演を聴かせてきた。 [寺西基之] rokami PROGRAM C NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 15 A PROGRAM 第1816回 NHKホール 土 6:00pm 9/26 □ 日 3:00pm 9/27 □ Concert No.1816 NHK Hall September 26 (Sat )6:00pm 27 (Sun)3:00pm [指揮] ヘルベルト・ブロムシュテット [conductor]Herbert Blomstedt [ピアノ] ティル・フェルナー [piano]Till Fellner [コンサートマスター]伊藤亮太郎 [concertmaster]Ryotaro Ito ベートーヴェン ) 交響曲 第2番 ニ長調 作品36(37′ Ludwig van Beethoven (1770-1827) Symphony No.2 D major op.36 Ⅰ アダージョ・モルト― アレグロ・コン・ ブリオ Ⅰ Adagio molto – Allegro con brio Ⅱ ラルゲット Ⅱ Larghetto Ⅲ スケルツォ :アレグロ Ⅲ Scherzo: Allegro Ⅳ アレグロ・モルト Ⅳ Allegro molto ・・・・休憩・・・・ ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73 「皇帝」 (39′ ) ・・・・intermission・・・・ Ludwig van Beethoven Piano Concerto No.5 E-flat major op.73“Emperor” Ⅰ アレグロ Ⅰ Allegro Ⅱ アダージョ・ウン・ポーコ・モッソ Ⅱ Adagio un poco mosso Ⅲ ロンド:アレグロ Ⅲ Rondo: Allegro 16 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 Program A|SOLOIST ティル・フェルナー(ピアノ) © Jean-Baptiste Millot オーストリアを代表するピアニスト。同時代作品を含む知性的なレ パートリーを慎重に磨いてきたが、とくにバッハやウィーン古典派の解 釈で名高い。室内楽や歌曲にも意欲をみせる。 1972 年、ウィーン生まれ。ウィーン音楽院で、ヘレーネ・セド・シュ タットラーに学んだ後、アルフレッド・ブレンデル、マイラ・ファルカス、オ レク・マイセンベルクほかに師事。1993 年のクララ・ハスキル国際 ピアノ・コンクールでオーストリア人として初めて優勝。2008 年から 2010 年にかけては集中的に、東京のほか欧米 5 都市でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会 を展開した。 2014年2月、旧知のネヴィル・マリナーが指揮するモーツァルトの《ピアノ協奏曲第22番》でN響と 初共演。得意とするベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第5番》でこの秋、早くもN響との再会を果たす。 [青澤隆明/音楽評論家] PROGRAM A NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 17 Program A ベートーヴェン 交響曲 第2番 ニ長調 作品36 ベートーヴェン( 1770 ∼ 1827 ) の創作史にはいくつかの重要な転換期があった。1792 年にボンからウィーンへ移住した後、ベートーヴェンはウィーンの音楽の伝統を吸収する。 1800 年に《交響曲第 1 番》を完成したベートーヴェンは 1801 年から1802 年にかけて、 従来の伝統的な作品様式にとらわれない新たな試みをはじめる。その代表的な例のひ と《第 14 番「月光」》の 2 曲の「幻想風 とつが、1801 年に完成した《ピアノ・ソナタ第 13 番》 ソナタ」である。そして1802 年に作曲した《ピアノ・ソナタ第 17 番「テンペスト」》で、これま での均整の取れた作品様式から大きく一歩を踏み出す。 《交響曲第 2 番》が作曲された のはまさにこの時期( 1802 年 )である。この年は創作だけではなく、難聴が悪化して音楽 家としての人生に強い危機感を持った年でもあった。彼はこの年の10 月、ウィーン郊外 をしたためる。この交響曲を、死の絶望の のハイリゲンシュタットで 2 人の弟宛に「遺書」 克服と意味づける場合もあるが、この作品の主調は明朗なニ長調で、しかも全楽章が長 調で作曲されており、 「遺書」に記された絶望的な極限状態を思わせるものはない。そし を作曲し、英雄 てこの転換期の後の 1803 年、ベートーヴェンは《交響曲第 3 番「英雄」》 様式の時期に入る。 《交響曲第 2 番》は、ベートーヴェンが 19 世紀の交響曲に新たな息吹を送り込んだ意 欲作であった。当時、最大の発行部数を誇った『一般音楽新聞』の主筆ロホリッツは、こ の作品についてこのように絶賛した。 「この交響曲こそ意欲的な作品で、この世にはび こっている数多くの浮薄な作品はこの世から消え去っても、この作品は世に残ることにな ろう。ベートーヴェンはここでひとつの予言をしているが、それは正しい」。 作品は 1803 年 4 月5日、アン・デア・ウィーン劇場でベートーヴェン自身の指揮によって 初演された。1804 年にウィーンの美術工芸社より出版され、カール・リヒノフスキー侯爵 に献呈された。 第 1 楽章 序奏:アダージョ・モルト、ニ長調、3/4 拍子。主部:アレグロ・コン・ブリオ、 4/4 拍子。ベートーヴェンの交響曲の第 1 楽章で序奏を持つのは、 《第 1 番》 《 第 2 番》 《第 4 番》 《 第 7 番》である。交響曲の第 1 楽章に序奏を持つスタイルはハイドンの特徴であり、 ベートーヴェンはその様式を継承していることを示している。トゥッティでニ音をフォルティッ 18 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 シモで奏した後に木管楽器群が弱音で荘重な動機を奏す。その動機が弦楽器群に受 け継がれる。主部は一転して快活な楽想で、ヴィオラとチェロの奏する主題動機を軽やか に第 1ヴァイオイリンが応答する。ソナタ形式で構成され、第 2 主題はイ長調で、分散和音 ののびやかな楽想がクラリネットとファゴットによって提示され、付点リズムが躍動感を醸 し出している。 第 2 楽章 ラルゲット、イ長調、3/8 拍子。ベートーヴェンの緩徐楽章の美しさは注目す べきで、ロマン派の感情表現を先取りしている。なかでもこの交響曲の第 2 楽章はふくよ かで、その表情はノクターンを思わせ、平安な情感に満ちている。第 1ヴァイオリンで提示 された主題はやがてクラリネットとファゴットに受け継がれ、ゆったりと音楽は流れていく。 全体はソナタ形式で構成されているが、展開部は短い。 第 3 楽章 スケルツォ:アレグロ、ニ長調、3/4 拍子。強弱の対比を効果的に生かしたス ケルツォで、音階的な動機を用いたきわめて躍動的な主題である。主題は付点 2 分音符 と音階的に3 音上行する動機からなり、非常にメリハリのある楽想である。トリオは穏や かな楽想で、主部と同じニ長調で、主部で用いられた音階的な3 つの音から成る動機が 用いられている。 第 4 楽章 アレグロ・モルト、ニ長調、2/2 拍子。非常に個性的でスケルツォ風の諧 謔的 な主題で開始する。主題は、2 度音程を強調したフォルテによる2 小節の動機と弱音によ る4 小節の軽快な動機からなる。楽章全体はソナタ形式で構成されるが、ロンド風のフィ ナーレである。イ長調の下行分散音の動機による第 2 主題はクラリネットとオーボエによっ て提示される。2 分音符のおおらかな表現は第 1 主題と対照的である。この楽章の特徴 として、さまざまな新しい旋律が登場する点があげられる。最後は長大なコーダによって 堂々と締めくくられる。 [西原 稔] 作曲年代 1802 年 初演 1803年4月5日、ベートーヴェン自身の指揮、アン・デア・ウィーン劇場で 楽器編成 フルート2 、オーボエ2 、クラリネット2 、ファゴット2 、ホルン2 、 トランペット2 、ティンパニ1 、弦楽 PROGRAM A NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 19 Program A ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」 《チェンバロ協奏曲》 《ヴァイオリン協奏曲》のピアノ協奏曲編曲版を別として、ベートーヴェ 「第 2 番」 と呼ばれている最初 ンが完成させたオリジナルのピアノ協奏曲は5 曲ある。今日、 では、第 2 楽章を下属調( 主調の完全5度下の調) に設定 の作品《変ロ長調協奏曲 作品 19 》 するという18 世紀の伝統様式に範をとっているが、後続 4 曲の第 2 楽章はすべてが 3 度関 に設定するという新機軸を打ち出している。1809 年作曲の 連調( 上下に長短3度離れた調 ) では、 フラット3つの主調「変ホ長調」 に対し、第 2 楽章はシャー 最後の《ピアノ協奏曲第 5 番》 という当時の音楽理論では、避けるべきと考えられていた増 5 度調が選 プ 5つの「ロ長調」 ばれている。しかし、 「ロ長調」は「ハ長調」が半音低められた「変ハ長調」 と実質的に(ピア ノの 盤上では) 同じであり、異名同音調という読み替えをすれば「変ホ長調」の長 3 度下の 調ということになる。 伝統的な協奏曲様式ではオーケストラによる主題呈示の後に独奏楽器が登場するの だが、 《第 4 番》で独奏ピアノの主題呈示で開始するという革新を遂げたベートーヴェンは、 《第 5 番》ではさらに一歩進めて、従来は各楽章終結部直前に置かれていたカデンツァ を自ら作曲して楽章冒頭に配置し、協奏曲表現に必要なカデンツァ楽段をあらかじめ曲 中に組み込んだわけである。難聴が進み、もはや自らのピアノで初演することを断念して いたベートーヴェンは、第三者の即興カデンツァで楽曲の構成バランスが崩れることを回 避したのである。 「英雄」的な「変ホ長調」の響きで雄 渾かつ壮麗なピアノ独奏ではじまる この作品は、その気高さから 「皇帝」の愛称で呼ばれるようになった。 第 1 楽章はアレグロ、変ホ長調、4/4 拍子。第 2 楽章はアダージョ・ウン・ポーコ・モッソ、 ロ長調、2/2 拍子。第 3 楽章はロンド:アレグロ、変ホ長調、6/8 拍子。 [平野 昭] 作曲年代 スケッチ開始は1808年12月末頃、1809年4月までにスケッチ終了。総譜スケッチを夏までに完成 初演 1811年1月13日ウィーン、ロプコヴィツ侯爵宮殿の定期演奏会、ルドルフ大公の独奏。公開初演は 楽器編成 フルート2、オーボエ2、 クラリネッ ト2、 ファゴッ ト2、ホルン2、 トランペッ ト2、ティンパニ1、弦楽、 ピアノ ・ ソロ 1811年11月28日ライプツィヒ、ゲヴァントハウス演奏会、フリードリヒ・シュナイダーの独奏で 20 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 B PROGRAM 第1815回 サントリーホール 水 7:00pm 9/16 □ 木 7:00pm 9/17 □ Concert No.1815 Suntory Hall September 16 (Wed)7:00pm 17 (Thu) 7:00pm [指揮] ヘルベルト・ブロムシュテット [conductor]Herbert Blomstedt [コンサートマスター]篠崎史紀 [concertmaster]Fuminori Shinozaki ベートーヴェン ) 交響曲 第1番 ハ長調 作品21(28′ Ludwig van Beethoven (1770-1827) Symphony No.1 C major op.21 Ⅰ アダージョ・モルト― アレグロ・コン・ ブリオ Ⅰ Adagio molto – Allegro con brio Ⅱ アンダンテ・カンタービレ・コン・モート Ⅱ Andante cantabile con moto Ⅲ メヌエット:アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ Ⅲ Menuetto: Allegro molto e vivace Ⅳ アダージョ ― アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ Ⅳ Adagio – Allegro molto e vivace ・・・・休憩・・・・ ベートーヴェン 交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」 (50′ ) ・・・・intermission・・・・ Ludwig van Beethoven Symphony No.3 E-flat major op.55 “Eroica” Ⅰ アレグロ・コン・ ブリオ Ⅰ Allegro con brio Ⅱ 葬送行進曲:アダージョ・アッサイ Ⅱ Marcia funebre: Adagio assai Ⅲ スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ Ⅲ Scherzo: Allegro vivace Ⅳ 終曲:アレグロ・モルト Ⅳ Finale: Allegro molto PROGRAM B NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 21 Program B ベートーヴェン 交響曲 第1番 ハ長調 作品21 「ハイドンの手からモーツァルトの精神を」。若きベートーヴェン( 1770 ∼ 1827 )が故郷 ボンを後にしてウィーンへと向かったのは、1792 年 11 月のことだった。彼の保護者だっ たワルトシュタイン伯爵に贈られた餞 の言葉は、当時のベートーヴェンの立つべき位置 を的確に示している。幼少時から目標としたモーツァルトはすでにこの世になく、ロンドン 旅行の途上にボンに立ち寄ったハイドンが弟子入りを認めてくれたためのウィーン行きで あった。 ウィーンでのベートーヴェンは、ハイドンのもとで対位法の勉強をはじめるが、ワルトシュ タイン伯爵らの紹介もあり、貴族社会に受け入れられ、ピアノの名手、特に情熱的な即興 演奏の名手としてたちまち頭角を現した。当時の主要作品として、栄誉ある 「作品 1 」の名 《ピアノ・ソナタ集 作 を冠した 3 曲の《ピアノ三重奏曲》、ハイドンに捧げられた 3 曲からなる 品 2 》、そして《弦楽三重奏曲 作品 3 》が見られるが、それがそのまま貴族の邸宅での彼 の演奏生活を彷 彿させる。 両巨匠がすでに金字塔を打ち立てていた交響曲に関しては、彼は非常に慎重であり、 最初の交響曲を発表するには、29 歳となる1800 年を待たねばならなかった。すでに交 《ピア 響曲のためのかなりまとまった草稿を2 種類残しており、管弦楽の扱いに関しても、 と《第 2 番》 (ともに1795 年 )によってある程度は学んでいたが、満を持し ノ協奏曲第 1 番》 て完成された《交響曲第 1 番 ハ長調》には、両巨匠の業績を意識しつつも、彼の個性を 十分に主張する作品となるべき想いが込められていた。自筆譜が残っていないので、創 作の過程は知るよしもないが、作曲はおそらく初演の前年にあたる1799 年から1800 年 にかけてのことと推測されている。 《交響曲第 1 番》が初演されたのは、1800 年 4 月2日、ブルク劇場における彼の最初の 自主演奏会においてのことである。そこでベートーヴェンは、モーツァルトの《大交響曲》 《交響曲第 1 ( 詳細不明 )、ハイドンの《オラトリオ「天地創造」》からの抜粋 2 曲と並んで、 番》 《ピアノ協奏曲第 1 番》の改訂稿、 《七重奏曲 作品 20 》、そしてピアノによる即興演奏 を披露している。まさにピアノの名人芸のみならず、後年ウィーン古典派の「三大巨匠」 の一角を担うべき自負をも示すプログラムである。ライプツィヒの『一般音楽新聞』はこの 22 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 演奏会について次のように報じている。 「ついにベートーヴェン氏は劇場を得た。そして これはおそらく、長い年月をさかのぼっても最も興味深い演奏会であった。彼は自作の 協奏曲を自ら演奏したが、それはきわめて美しいものであった──特に最初の 2 楽章は。 次に彼の《七重奏曲》が演奏されたが、良い趣味と豊かな感情で書かれていた。その後、 彼はすばらしい即興演奏を聴かせ、最後に自作の交響曲が上演された。そこには多くの 技と、新しさと豊かな着想があった。ただ管楽器が多く使われすぎていたため、管弦楽と いうよりはむしろ管楽合奏のようであった」。短いが、本質を捉えた批評ではないか。 第 1 楽章はハイドンのようなアダージョの序奏ではじまるが、意表を突いたヘ長調の属 七の和音で、冒頭から聴き手を驚かせることを忘れない。それから延々とハ長調の属和 音を中心に語り続け、いきなりハ長調、2/2 拍子の速い第 1 主題へとなだれ込むのである。 第 2 主題部でも、フルート、オーボエ、クラリネット、さらにはファゴットまでが思うさま歌うの だから、信号音的な管楽パートに慣れていた当時の聴衆は大いに驚いたことだろう。展 開部に入っても、意表を突いた転調や、拍節構造を乱すスフォルツァート ( 突然のフォルテ) の多用など、若きベートーヴェンのやんちゃぶりは留まることを知らない。 歌謡的な第 2 楽章も、フーガのようにはじまるのがおもしろい。展開部もなにやら妙に ドラマチックではないか。第 3 楽章は定石通りメヌエットと書かれているが、この速さと攻 撃性は、もうほとんどスケルツォである。トリオでは管楽器の豊かなハーモニーと流麗な弦 楽器との対照が、快活な笑いと同居している。 終楽章も、まず独創的な序奏が聴きどころである。ゆっくりと上昇する第 1ヴァイオリン の音型は、第 1 主題へとなだれ込む最後の上行音型の、機知に富んだ解体にほかなら ない。ト長調の第 2 主題も、屈託のない躍動感が若きベートーヴェンの青春の証だ。上 行し、また下行する16 分音符の速い動き、拍節構造を妨げるようなスフォルツァートの多 用は、ベートーヴェンならではの緊張と推進力とともに聴衆のハートをわしづかみにしてく れる。 [ 口 一] 作曲年代 1799∼1800 年 初演 1800年4月2日、ウィーンのブルク劇場におけるベートーヴェン初の自主演奏会 楽器編成 フルート2 、オーボエ2 、クラリネット2 、ファゴット2 、ホルン2 、 トランペット2 、ティンパニ1 、弦楽 PROGRAM B NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 23 Program B ベートーヴェン 交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」 1805 年の公開初演については、別記データの通りだが、これよりおよそ1 年前の 1804 年 5 月末あるいは 6 月初めにウィーンのロプコヴィツ侯の邸宅で非公開試演されていた。ま た、同年初秋にはプラハの北方約 50km のラウドゥニツェという町にあるロプコヴィツ侯 の居城で、プロイセンのルイ・フェルディナンド王子を招いて侯爵家楽団楽長アントン・ヴラ ニツキの指揮によって少なくとも3 回演奏されていた。こうしたロプコヴィツ侯の独占的占 とピアノ、 有権の期間を経て、ベートーヴェンは 1804 年 11 月3日と同 5日に《交響曲第 3 番》 ヴァイオリンとチェロのための《三重協奏曲》 ( 同じくこの時期に侯の居城で試演されていた)の 献呈に対する謝礼金を受領している。これを期に独占的占有期間から解放され、1805 年 1 月20日はウィーンの裕福な銀行家ヴュルトの邸宅で私的な演奏会が開かれ、 クレメン トの指揮により演奏されている。従って、公開初演より前に少なくとも5 回ほど演奏されて いた。 作曲完成から公開初演にいたるまでの経過をみただけでも、この交響曲が特別なも のであった様子が窺える。この間に伝説的に語り継がれてきたナポレオンへの献辞をめ ぐるエピソードもある。不運な事情で消失してしまった自筆譜は当初ベートーヴェンが弟 子のフェルディナント・リースに贈ったものであるが、そのリースが後年の回想で語っている ところによると、ベートーヴェンはナポレオンが皇帝に即位するという報 せを聞いて憤慨 し、ナポレオンへの献辞の書かれた表紙を引き裂いた、ということだ。しかし、それがナ ポレオンの皇帝宣言の 1804 年 5 月20日の直後なのか、同年 12 月2日にノートルダム寺 院で行われた皇帝戴冠式の直後のことなのか明確でないばかりか、表紙は引き裂かれ たのではなく、現在もウィーンに所蔵されているシンフォニア・グランデと大書された浄書 スコア譜上の「ボナパルテと題する」 という部分をペン先で激しく掻き消したことを指して いるのではないかという可能性が大きいようだ。作品成立事情の背景にあるナポレオン との関連はさておくとして、交響曲の様式史に大転換をもたらしたと言ってもよい《エロイ カ》の革新的な音楽特性を概観しておこう。 全体的なことでは作品規模の巨大さだ。第 1 楽章のソナタ形式が提示部・展開部・再 現部という単純な3 部分ではなく、再現部の後に提示部の規模に匹敵するほどの終結部 24 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 ( 第 2の展開部という性格も持つ )があり、大きな4 部分構成となっている。しかも、伝統的 に展開部の規模は提示部を1とすれば、長くても0.7ほどであったものが、ここでは驚くこ とに1.63 倍になっている。楽章構成も、長調交響曲としては異例の短調緩徐楽章で、し かも葬送行進曲となっている。第 3 楽章のスケルツォでは、そのトリオ部に従来の楽器法 にはなかったようなホルン三重奏によるトリオ主題を置いている。第 4 楽章は、異例の変 奏曲によるフィナーレで、その主題は 1800 年に作曲したバレエ音楽《プロメテウスの創造 物》の終曲を使っているが、変奏技法はすでに1802 年に作曲したピアノ用の変奏曲《自 作品 35 》 と同じよ 作主題による15 の変奏とフーガ(エロイカの主題による変奏曲とフーガ) うに、本来の主題をバス声部とソプラノ声部に分けて、まず、バス声部を2 声部、3 声部、4 声部というようにポリフォニックに扱ってから、ようやく 《プロメテウス》主題のソプラノ旋律 がオーボエ、クラリネット、ファゴットによって明るく歌われ、全ての変奏主題を提示する。 第 1 楽章 アレグロ・コン・ブリオ、変ホ長調、3/4 拍子。 第 2 楽章 葬送行進曲:アダージョ・アッサイ、ハ短調、2/4 拍子。 第 3 楽章 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ、変ホ長調、3/4 拍子。 第 4 楽章 終曲:アレグロ・モルト、変ホ長調、2/4 拍子。 [平野 昭] 作曲年代 1803 年(完全脱稿は1804 年初頭) 初演 1805年4月7日、アン・デア・ウィーン劇場で劇場ヴァイオリニストの F.クレメント主催のコンサートで公 楽器編成 フルート2 、オーボエ2 、クラリネット2 、ファゴット2 、ホルン3 、 トランペット2 、ティンパニ1 、弦楽 開初演 PROGRAM B NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 25 C PROGRAM 第1814回 NHKホール 金 7:00pm 9/11 □ 土 3:00pm 9/12 □ Concert No.1814 NHK Hall September 11 (Fri) 7:00pm 12(Sat )3:00pm [指揮]広上淳一 [conductor]Junichi Hirokami [ピアノ] ニコライ・ルガンスキー [piano]Nikolai Lugansky [コンサートマスター]伊藤亮太郎 [concertmaster]Ryotaro Ito ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30(41′ ) Sergei Rakhmaninov (1873-1943) Piano Concerto No.3 d minor op.30 Ⅰ アレグロ・マ・ ノン・タント Ⅰ Allegro ma non tanto Ⅱ 間奏曲:アダージョ Ⅱ Intermezzo: Adagio Ⅲ 終曲:アラ・ ブレーヴェ Ⅲ Finale: Alla breve ・・・・休憩・・・・ ・・・・intermission・・・・ ドヴォルザーク ) 交響曲 第8番 ト長調 作品88(34′ Antonín Dvorák(1841-1904) Symphony No.8 G major op.88 Ⅰ アレグロ・コン・ ブリオ Ⅰ Allegro con brio Ⅱ アダージョ Ⅱ Adagio Ⅲ アレグレット・グラチオーソ Ⅲ Allegretto grazioso Ⅳ アレグロ・マ・ ノン・ トロッポ Ⅳ Allegro ma non troppo NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO ˆ 26 PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 Program C|SOLOIST ニコライ・ルガンスキー(ピアノ) © Marco Borggreve 1972 年モスクワ生まれ。モスクワの中央音楽学校とモスクワ音 楽院で学び、タチャーナ・ケストナー、タチャーナ・ニコライエワ、セルゲ イ・ ドレンスキーらに師事した。1994 年、第 10 回チャイコフスキー国 際コンクールで1 位なしの2 位を獲得。以来、高い技巧と端正に練り あげられた表現によって、国際的な評価を高めている。 近年のオーケストラとの共演のハイライトとして、ロンドン・フィル ハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、サンフランシスコ 交響楽団、パリ管弦楽団他の著名楽団と協奏曲を共演。ロンドンのウィグモア・ホール、ベルリンの コンツェルトハウス、パリのシャンゼリゼ劇場などリサイタル、室内楽でも活躍を続ける。 N響とは2009 年および 2011 年の定期公演で、シャルル・デュトワ指揮のもと共演している。 [飯尾洋一/音楽ジャーナリスト] PROGRAM C NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 27 Program C ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30 1909 年、ラフマニノフ ( 1873 ∼ 1943 )は初めてのアメリカ演奏旅行のために新しいピア ノ協奏曲を作曲し、同年 11 月にニューヨークで自らのピアノ演奏で初演した。 ロシアの民謡や聖歌を彷 彿とさせる主題が全楽章を緊密に結びつけながら華麗なピ と同じだが、構成面での洗練の度合いは《第 3 アノ書法を展開する点は《協奏曲第 2 番》 番》でさらに強まっている。極めて高度なピアノのテクニックを要求することから演奏機会 と並ぶ人気を誇る。 に恵まれない時代もあったが、現代では世界中で愛奏され、 《第 2 番》 第 1 楽章 アレグロ・マ・ノン・タント。自由なソナタ形式。控えめな動きで狭い音程間を さまよう第 1 主題に関して、作曲者自身は民謡や聖歌から借用したものではなく、ただ「歌 手が歌うように旋律を歌わせたかった」 と述べているが、実際には古い聖歌の旋律との 類似性が指摘されている。ラフマニノフの体の中に染み込んでいた民族的な旋律が無 意識に引き出されたのだろう。夢見心地の歌謡的な第 2 主題も、ロシア民謡に見られる ような対旋律との絡み合いを伴い、雄大な景色を繰り広げていく。 第 2 楽章 間奏曲:アダージョ。3 部形式( 変奏曲 )。優美でメランコリックな主題ではじ まり、それが様々に変奏されていく。中間部は軽やかなリズムとなり、ワルツが優しく響くが、 ここで第 1 楽章第 1 主題を連想させる楽想が見え隠れする。 第 3 楽章 終曲:アラ・ブレーヴェ。自由なソナタ形式。第 2 楽章から続けてはじまり、主 題の持つエネルギーに突き動かされるかのように音楽が疾走する。展開部では第 1 楽章 第 2 主題をもとにした楽想が現れ、きらびやかなピアノの高音域、鋭いリズムで高揚感を強 め、さらに再現部から終曲部分にかけての絢 爛 豪 華な音の洪水が聴く者を圧倒する。 [高橋健一郎] 作曲年代 1909 年 初演 1909年11月28日。ラフマニノフ自身のピアノ、ウォルター・ダムロッシュ指揮、ニューヨーク交響楽団、 ニューヨークにて 楽器編成 フルート2 、オーボエ2 、クラリネット2 、ファゴット2 、ホルン4 、 トランペット2 、 トロンボーン3 、テューバ1 、 ティンパニ1 、大太鼓、シンバル、小太鼓、弦楽、ピアノ・ソロ 28 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 Program C ドヴォルザーク 交響曲 第8番 ト長調 作品88 「あなたが私の交響曲を拒絶なさるのなら、もう私はあなたに大きな作品を何もお送り いたしません。というのもあなたがその種のものを出版できないことを、私は前もって分 かっているわけですから」 (ドヴォルザークのジムロック宛の1890 年 10月7日の手紙より) と出版業者ジムロック 《交響曲第 8 番》の出版をめぐってドヴォルザーク( 1841 ∼ 1904 ) との間でかわされた一連のやりとりは、当時のヨーロッパの音楽界においてこの作曲家 が置かれていた位置を知る上で、とても興味深い史料だ。 ジムロックといえば、ブラームスの仲介で 1878 年に関係を持って以来、ドヴォルザーク を一貫してサポートしてきた出版業者である。彼は個人的にもドヴォルザークの音楽を好 んでいたらしい。しかしその彼でも、このチェコ人作曲家が交響曲やミサ曲も出版したい と申し出たときには、慎重にならざるをえなかった。ドヴォルザークの場合、小品ならばと もかく、大規模な作品で会社に利益をもたらせるかどうか分からないというのが、彼の基 本的な考えだったのである。実際にもドヴォルザークの以前の交響曲の出版で、この出 版業者はすでに「何千マルクもの損失」 を出していたという。 《スラヴ舞曲集》のような「異 国風」の音楽ならばよろこんで聴くのに、交響曲のような「普遍的な」──ドイツ人から見 れば、 「ドイツ的」な──ジャンルにおいてはチェコ人作曲家の仕事の真価をなかなか認 めようとしない、そんなドイツ語圏の空気をジムロックはプロの出版業者として、肌で感じ ていたのだろう。 一方、ドヴォルザークはもう昔の彼ではなかった。芸術音楽の大消費国であるイギリス で成功を重ねるうちに、すっかり自分の才能に自信を持つようになっていたのだ。そして を書き上げた後、次は《レクイエム》 実際に、忙しくもあった。2か月半で《交響曲第 8 番》 に取りかからねばならなかったし、その間にプラハでの《第 8 番》初演、4 週間のロシア旅 行、さらに《第 8 番》のロンドン初演など、大きな仕事を次々にこなさなくてはならない状況 にあった。当然、大きな仕事に集中するためには、生活の安定を保障してくれるようなま とまった収入が必要だったのだ。 結局両者の間で折り合いはつかず、 ト長調の交響曲はイギリスのノヴェロから出版され ることになった。この曲が「イギリス」 と呼ばれるのは以上のような経緯によってである。 PROGRAM C NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 29 第 1 楽章 アレグロ・コン・ブリオ、ト長調、4/4 拍子。ソナタ形式。意表をつくように、冒 頭はト短調ではじまる。哀愁を帯びたチェロの主題がト長調の和音上で終止すると、や がてフルートが第 1 主題を奏ではじめる。そこからヴィオラとチェロの副主題をまじえつつ、 にぎやかな音楽がしばらく続く。第 2 主題はロ短調で行進曲風。展開部は冒頭の再現か らはじまり(ブラームスも《第 4 番》で同じ工夫をしていた )、第 1 主題と副主題が主に用いられ る。冒頭主題がファンファーレのかたちで戻ってくると、もうそこからは再現部だ。第 2 主 題がト短調で再現された後、第 1 主題を素材とするコーダで曲は簡潔に閉じられる。 第 2 楽章 アダージョ、ハ短調、2/4 拍子。変則的な3 部形式。のどかさと厳かさをたた えた主部の後にユーモラスなハ長調のエピソードが続く。再び主部が現れ、今度は劇的 な緊張感が高まるが、エピソードがまたこれに続く。最後に主部の素材がもう一度回想 され、曲は静かに終わる。 第 3 楽章 アレグレット・グラチオーソ、ト短調、3/8 拍子。3 部形式。慣例的なスケルツォ のかわりに、ワルツが使われている。中間部の素材はドヴォルザーク自身のオペラ《頑固 者達》 と関連性があり、田園風の素朴な味わい。同じ中間部の素材はコーダでも2 拍子 のかたちで使われる。 第 4 楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ト長調、2/4 拍子。ソナタ形式の構成原理を取り 込んだ変奏曲。変奏主題は冒頭のファンファーレや中間部の主題とモティーフの上で関 連性を持つほか、第 1 楽章のフルート主題とも類似している。多彩な旋律が互いにうまく 関連づけられた、 ドヴォルザークならではの終曲。 [太田峰夫] 作曲年代 1889 年 8月26日に着手。同年 11月8日に完成 初演 1890年2月2日、プラハ・ルドルフィヌムでの国民劇場管弦楽団の演奏会で作曲家本人の指揮による 楽器編成 フルート2(ピッコロ1 )、オーボエ2(イングリッシュ・ホルン1 )、クラリネット2 、ファゴット2 、ホルン4 、 ト トロンボーン3 、テューバ1 、ティンパニ1 、弦楽 ランペット2 、 30 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 短期連載(全4回) 音楽史の中の 交響曲 金澤正剛 音 楽 学 の 第 一 線 で 活 躍 する 研 究 者 が 、 交 響 曲 や オーケストラを 入り口 に 自 由 なテ ーマで 執 筆 する 短 期 連 載 シリーズ 。 今 月 号 から 4 号 に わ たり、 古 楽 や キリスト教 音 楽 に つ いての 研 究 で 知ら れる 金 澤 正 剛 さん が 、 「 シンフォニー 」を 切り口 に 音 楽 史 を 捉 え 直します。 第1回 「シンフォニア」 の誕生 「交響曲」 とは一般に 「管弦楽のための多楽章構成の器楽作品」 と 説明されている。だが「交響曲」 という言葉自体は何に由来するのか ──。それはドイツ語の「ジンフォニー(Sinfonie)」 または英語の「シン フォニー(symphony)」の日本語訳にほかならない。 「sin」 とは「一緒 に」 を、 「fonie」 は「響く」 を意味する。 「一緒に響いて演奏する曲」 とい う意味で「交響曲」 としたわけである。 では音楽作品としての「ジンフォニー」 または「シンフォニー」は、歴 史的にどこまでさかのぼることができるのか。今日知られているかぎ り、それはイタリア語の「シンフォニア(sinfonia)」 で、最初に用いられ たのは1591年であったらしい。 1589年4月のこと、新たにトスカーナ[1]大公に就任したフェルディ ナンド・デ・メディチと、フランスの王女クリスティーヌ・ド・ロレーヌの婚礼 が、フィレンツェで華々しく祝われた。そこでメディチ家ゆかりの詩人、 音楽家、芸術家などが集まって余興をしようということになり、5月2日 1…トスカーナ大公国は16 ∼19世紀にイタリア北部に あった国家。フィレンツェを 中心とする。 に 《ラ・ペッレグリーナ (女巡礼者)》 と題する大がかりな劇的舞台を上演 した。今日では「インテルメディ」の名で呼ばれるが、要するに、古代 神話や寓話にもとづくさまざまな情景を音楽や舞踊によって描写する NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 31 ページェント (「インテルメディオ」と呼ばれた) を次々に上演するようなもの で、 《ラ・ペッレグリーナ》の場合は、 「天球の調和」 「アポロとピュトーン の戦い」 「精霊たちの国」 などと題された5つの情景が演じられたとい う。 そのような余興がフィレンツェで行われたことは、偶然とはいえな い。実はさかのぼること1世紀前、豪華王と呼ばれたロレンツォ・デ・メ ディチの時代には、カーニヴァルが盛んに行われたが、そのさいに豪 華な山 車が街中を練り歩いたことが知られている。それぞれの山車 には主題があって、なかには香水売りの山車や代書屋の山車といっ た宣伝カーのようなものもあったが、一方ではアリアンナとバッカスの 山車や知恵の女神ミネルヴァの山車のような神話にもとづく情景を 再現したものもあった。なかには山車の上で歌いながら演技をして 情景を表現したものも多く、 それらの歌は今日では「カーニヴァルの歌 (カンティ・カーナシャレスキ)」の名で知られている。イタリア版の葵 祭と でも呼べるようなお祭り行事であった。 メディチ家はその後、15世紀末に起こった修道士サヴォナローナに よる清貧運動によって一時権力の座を追われたが、16世紀に入って 復権し、トスカーナ大公にまでなった。考え方によっては1589年の5 つのインテルメディオは、ロレンツォ時代の山車の場面を舞台に移して 演じたものと考えてもよいのではなかろうか。 1591年になって、このインテルメディの総監督を務めたクリストファ ノ・マルヴェッツィが《ラ・ペッレグリーナ》の楽譜を出版した。ほとんど が声楽曲であるが、中に5声部または6声部の器楽合奏曲が5曲含ま れていて、それらはいずれも 「シンフォニア」 と題されている。そのうち4 2…16世紀イタリアで流行し た歌 曲 形 式。模 倣や対 位 法などさまざまな手法を用い たポリフォニー様式で作曲さ れていた。 3…複数の旋律を重ねるとい う手法による多声音楽。 曲までがマルヴェッツィ自身の作で、残る1曲はマドリガーレ[2]の大家 として知られるルーカ・マレンツィオのものである。いずれも2分足らず の短い舞曲調の曲であるが、基本的には対位法によるポリフォニー[3] で、模倣の手法も慎ましやかながら見られる。マルヴェッツィの曲は最 後の1曲のみが軽快な3拍子で、残る3曲は2拍子系であるのに対し、 マレンツィオの曲は2拍子系で始まり、途中で3拍子系に変わる。 その後、 「シンフォニア」 という言葉はさまざまな意味に用いられ、 明確な定義は不可能な状態となる。たとえばヴェネチアの巨匠ジョ ヴァンニ・ガブリエーリは1597年に《聖なるシンフォニア集》 を発表し たが、その大部分は器楽合奏を伴うラテン語の合唱曲であった。同 時に器楽曲も16曲含み、うち14曲が「カンツォン (カンツォーナ)」、そし て残る2曲が「ソナタ」 と題されている。 「カンツォン」は当時の代表的 32 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 な器楽の曲種で、16世紀に一世を風靡したシャンソン(フランス起源の 多声歌曲) の器楽編曲版に他ならない。フランス語の 「シャンソン (歌)」 がイタリア語化して「カンツォン」 となったわけで、シャンソン独特の軽 快なリズムや、個性的性格をもつ主題によるポリフォニーをその特徴と している。いっぽう、残る2曲は史上最初に「ソナタ」 を曲名とした例と して知られるが、シャンソンの特徴をもっていないために、 「演奏する (ソナーレ)曲」 という意味で「ソナタ」 と名づけたものと思われる。いず れにせよガブリエーリは「シンフォニア」 という用語を、声楽も含む合 奏曲を指す曲種として用いていたことになる。そのような用例は他に も見られ、 たとえばドイツではハインリヒ・シュッツが1629年に出版した 《聖なるシンフォニア集》 などが挙げられる。 しかし、17世紀に入ると次第に 「シンフォニア」 という言葉は、オペラ やカンタータなどの声楽曲の中で演奏される器楽合奏曲の題名とし て用いられることが多くなる。その場合、序奏として用いられることもあ るが、間奏など他の用例も少なくない。そのような中で最も初期のも のとしては、フィレンツェのカメラータ[4] と親しくつきあっていたローマ の外交官エミリオ・カヴァリエーリが故郷に戻って発表した宗教的音楽 4…16世 紀 後 半、フィレン ツェのバルディ伯爵が主宰 劇《霊魂と肉体の劇》 (1600年) がある。3幕から成るこの作品が果たし し、人文主義者や音楽家、 てオペラであるのか、オラトリオであるのかの議論はいまだに続いてい クル。 詩人などが集った芸術サー るが、2つの幕間には短い器楽合奏曲が演奏され、いずれも 「シンフォ ニア」 と題されている。1曲目は4拍子、2曲目は3拍子という違いはあ るものの、それぞれ2分足らずの単純な合奏曲である。 また、たとえばクラウディオ・モンテヴェルディのオペラ《オルフェオ》 ( 1607 年 )では、冒頭で華やかに奏される序奏は「トッカータ」 と題 されているが、オペラの中で声楽の序奏、または間奏として演奏さ れる短い器楽曲は「リトルネルロ」 または「シンフォニア」 と題されてい る。その区別は厳格には明確ではないが、前者がひとつの声楽曲 の中で間奏風に繰り返されるのに対して、後者は繰り返されない場 合が多い。特に「シンフォニア」は、時には劇の展開に応じて標題的 な役割を果たし、喜怒哀楽を表現しているようにも思われる。たと えば第 3 幕の終わり近くで、冥 途の番人コロンテがオルフェオの歌に うっとりとして寝てしまう場面での「シンフォニア」はその良い例とい えよう。 旋律に旋律を重ねて作曲するというポリフォニーの全盛期であった 16世紀においては、声楽曲は基本的に無伴奏か、一部の声部を器 楽が担当するという演奏が常識であったが、17世紀に入ると、基本 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 33 5…中世末期からルネサンス 時代に成立・発達した多声 宗教曲。 6…楽譜に低音部の旋律の みが示され、奏者はそれに適 切な和音を付けて演奏する こと。 [ 5] 的に無伴奏であったマドリガーレやモテット も、器楽を加えての合 奏が次第に盛んになっていったし、ほとんどの場合、器楽の伴奏を示 す通奏低音[6]が付くようになった。そのような声楽曲の中には器楽 による序奏・間奏・後奏をもつものも現れ、そのような器楽の部分を 「シ ンフォニア」の名で呼ぶのも一般的となった。ほかならぬモンテヴェ ルディや、アドリアーノ・バンキエーリのマドリガーレにその例がある。ま た巡礼地として有名なロレートでオルガニストとして活躍したピエトロ・ パーチェが1617年に出版した《マドリガーレ集》の表題には、 「省略 してもかまわないシンフォニア付き」 と明記されている。それらの「シン フォニア」 はいずれも1、2分ほどの小曲で、取り出して演奏するほどの 長さではない。様式的にはポリフォニーによるものと舞曲調のものがあ り、同時代のカンツォーナやソナタとはほとんど区別がつかない。 バロック初期にはこの他にも「シンフォニア」 と題して、さまざまな作 品が現れた。しかしそれらは曲種もさまざまで、共通点を見出すのは きわめて難しい。もともとの「一緒に響く」 という意味から、大部分は 器楽の合奏曲という点で共通していたものの、なかには今日の常識 では合奏曲とは考えられないものも少なくない。独立した作品もあ れば、声楽曲の中で演奏される器楽の部分を指したりとさまざまで、 さらには「合奏曲」 ではなく 「独奏曲」の範 疇に入るような例も見られ た。たとえば北イタリアで1610年頃に出版された曲集の中には複数 の「シンフォニア」 が含まれており、なかには通奏低音付きのヴァイオリ ン独奏曲が含まれているものさえある。それは実質的に最も初期の ヴァイオリン・ソナタの例といってよいような作品である。また1614年 にピエトロ・ラッピが出版した《聖なる旋律集》 と、1621年にアレッサ ンドロ・グランディが発表した《モテット集》に収録されたモテットの中 には、前奏曲風「シンフォニア」 がついている例があるが、それらはい ずれも鍵盤作品、おそらくはオルガン独奏曲にほかならない。そうし た例は例外と見なしてもよいのかもしれないが、実はバロック時代を 通じて時折見かけるものである。その最も後期の例が、ほかならぬ ヨハン・セバスティアン・バッハのチェンバロ独奏曲で、今日 《3声のイン ヴェンション》 として知られる15曲が最初「シンフォニア集」 として発表 されたことを忘れるわけにはいかない。 金澤正剛(かなざわ まさかた) 国際基督教大学名誉教授。著書に『古楽のすすめ』 『 中世音楽の精神史』 『キリス ト教と音楽』 ほか。 34 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015 ケストラの精妙なサウンドを実現しながら、 10月定期公演の 聴きどころ 特 徴 的なダイナミックスや大 胆なテンポ設 定、楽想のコントラストの強調などによって、 斬新な作品像が打ちたてられていた。今回の 《復活》でもパーヴォならではの説得力のあ るマーラーを聴かせてくれることだろう。 声楽陣にはエリン・ウォールのソプラノ、リ リ・パーシキヴィのアルト、東京音楽大学によ る合唱が加わる。巨大編成が生み出す壮麗 なスペクタクルという点でも、聴きごたえは十 分。この曲の終楽章ほど熱い高揚感をもた いよいよこの10月は、首席指揮者就任記 らしてくれる作品はない。 念公演として、A、B、Cすべてのプログラム をパーヴォ・ヤルヴィが指揮する。 パーヴォ・ヤルヴィは、すでに正式な就任に ライヴ・レコーディングが発表された オール・リヒャルト・シュトラウスのBプロ 先立って今年2月の定期公演に登場し、マー ラー、ショスタコーヴィチ、R. シュトラウス他の Bプロは R. シュトラウスのプログラムが組 プログラムで、大きな話題を呼んだ。 「N響の まれた。 《交響詩「ドン・キホーテ」》 《 交響詩 音が変わった」 と、新時代の到来を早くも実 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないた 感した方も少なくないだろう。弦楽器の配置 ずら」》、そして 《歌劇「ばらの騎士」組曲》 の3 ひとつをとっても、第1ヴァイオリンと第2ヴァイ 曲。シュトラウス作品のなかでも、ユーモアや オリンを両翼に配置し、コントラバスを舞台 ペーソス、しゃれっ気といった要素が目立つ 下手奥に並べるという、古い伝統に即したス 選曲となっている。 タイルが採用されていた。10月の公演でも同 《交響詩「ドン・キホーテ」》では、ドン・キ 様の配置がとられるのだろうか。 ホーテ役のチェロをノルウェーの名手トルル 3つのプログラムには、パーヴォ・ヤルヴィ得 ス・モルクが、従者サンチョ・パンサのヴィオ 意のレパートリーが並んだ。いずれの公演 ラをN響首席奏者の佐々木亮が務める。コ も、強い印象を残してくれるにちがいない。 ミカルな味わいに加えて、シュトラウスがくり 出す多彩なオーケストレーションが聴きどこ 首席指揮者就任記念の幕開けを飾る 壮麗なマーラーの《復活》 ろ。中世ドイツの民話に登場するいたずら 者に着想を得た 《交響詩「ティル・オイレンシュ ピーゲルの愉快ないたずら」》 ともども、パー まず、Aプロではマーラーの大作、 《交響 ヴォの語り口の豊かさが発揮されることだろ 曲 第2番「 復 活 」》が 演 奏される。今 年2月 う。 《歌劇「ばらの騎士」組曲》では、オペラ のAプロでの《交響曲第1番「巨人」》に続く の名場面を管弦楽のみで楽しむことができ マーラー・シリーズとなった。 《巨人》 ではオー る。 NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO 35 なお、前回のB定期に続いて、今回もソ 紹介に尽力している。 ニー・ミュージックによるライヴ・レコーディング 五嶋みどりが独奏を務めるショスタコー が実施され、 リヒャルト・シュトラウス交響詩チ ヴィチの《ヴァイオリン協奏曲第1番》 も話題を クルスとしてCDのリリースが予定される。 呼びそうだ。1940年代後半に作曲されなが らも、体制による批判を恐れて発表が控えら 華やかで高度な名技性を堪能したい 多彩な作品が並ぶ Cプロ れ、スターリン没後の1955年にようやく初演 されたという問題作である。第3楽章の後半 には長大なモノローグ風のカデンツァが置か エルッキ・スヴェン・ トゥールは、1959年エス れ、独奏者にスポットライトが当たる。 トニア生まれの作曲家。プログレッシヴ・ロッ バルトークの《管弦楽のための協奏曲》 で ク・バンドのリーダーとして音楽活動をスター は、オーケストラの高度な機能性と名技性が全 トさせたという異色の経歴を持つ。 《アディ 開となる。華やかな音の饗宴を堪能したい。 トゥス》 は、2005年6月にパーヴォ・ヤルヴィ指 パーヴォ・ヤルヴィとN響による新時代の行 揮によるN響定期にて日本初演された作品 方を占う3つのプログラム。期待に胸が躍る。 であり、今回再度とりあげられることになる。 パーヴォ・ヤルヴィはこれまでにもこの同郷の [飯尾洋一/音楽ジャーナリスト] 作曲家の管弦楽曲を多数指揮して、作品の 10月の定期公演 A パーヴォ・ヤルヴィ首席指揮者就任記念 マーラー/交響曲 第2番 ハ短調「復活」 土 6:00pm 10/3 □ 日 3:00pm 10/4 □ 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ソプラノ:エリン・ウォール アルト:リリ・パーシキヴィ 合唱:東京音楽大学 B パーヴォ・ヤルヴィ首席指揮者就任記念 NHK ホール 水 7:00pm 10/14 □ 木 7:00pm 10/15 □ サントリーホール C 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ チェロ: トルルス・モルク * ヴィオラ:佐々木 亮 * パーヴォ・ヤルヴィ首席指揮者就任記念 金 7:00pm 10/23 □ 土 3:00pm 10/24 □ NHK ホール 36 R.シュトラウス/交響詩「ドン・キホーテ」作品35* R.シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28 R.シュトラウス/歌劇「ばらの騎士」組曲 トゥール/アディ トゥス (2000/2002) ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77 バルトーク/管弦楽のための協奏曲 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ヴァイオリン:五嶋みどり NHK SYMPHONY ORCHESTRA, TOKYO PHILHARMONY | SEPTEMBER 2015
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