こしじ往来 勤務医退職とこれから 森下英夫

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勤務医退職とこれから
悠遊健康村病院顧問 前 長岡赤十字病院院長 森
下
英
夫
この度、平成27年6月末を持って長岡赤十字病
いた前立腺への内視鏡的切除術を進めるととも
院の院長職を辞職しました。昭和62年8月より28
に、
尿道狭窄などの副作用にも注目しました。コー
年11 ヶ月の期間の勤務となりました。その間多
ドとループの間の電気抵抗を実測し、その結果を
数の皆さんに支えられ、助けられ、何とかやって
国際泌尿器科学会で発表しました。これは注目さ
参りました。特に最近は病気(ラクナ梗塞、パー
れ、
口演の他ポスターでも採択されました。また、
キンソン病)もあって、関係の職員には大変御世
こ れ を「European Journal of Urology」 に も 至
話になりました。頭は元々あまり良くないので大
急掲載されたことは大きな喜びでした。腎癌に対
きな変わりはありませんでしたが、歩行障害は適
する経腹的手術を新潟では始めたばかりで、その
切なリハビリにも拘わらず進行し、構語障害もみ
腎動静脈の処理・リンパ節郭清はほぼ克服できま
られてきました。家人とも相談し、重責を担って
した。また、大学では教授しかしてこなかった手
いて、本当は先頭に立って引っ張っていかねばな
術(尿道下裂、尿管膀胱逆流など)にもチャレン
らない時に、これ以上病院、職員、患者さんに御
ジしました。生体腎移植も院内スタッフのみで2
迷惑をかけられないと判断し、身を引くことを決
例行いました。その後神戸から来られた小池先生
めました。また、東京や新潟市で開かれる会議に
(現新潟労災病院副院長)には複雑な尿路変更な
も、転倒・骨折などの恐れのため出席し難くなっ
どを教えてもらいました。腹腔鏡手術も始めまし
たことも、大きなマイナスでした
たが、この頃より難しい手術などは優秀な後輩に
私の卒業した昭和49年は今から思えば、医者に
譲ってしまい、外科医としての進歩は止まったよ
とって最も良い時期だったかもしれません。昭和
うです。平成20年に副院長になりましたが、地震
36年に国民皆保険になり、昭和48年に老人医療無
などで出遅れた DPC 制度の院内導入に頑張りま
料になり、それまで医療や手術を受けられなかっ
した。また、クリニカルパスも外山元副院長の後
た人たちが、お金の心配もせずに受診できるよう
を継いで果たしてまいりました。
になった時代でした。今では当然の CT やエコー
平成22年4月に院長になってからは地域医療支
もありませんでしたが、それなりの検査があり、
援病院の指定を受けました。これは紹介率60%、
診断が何とかできた時代でした。また、内視鏡手
逆紹介率30% 以上が必要で、前者が難物でした。
術も少しずつ進化していきました。そして麻酔の
紹介状のない新患に対する問題もありましたが、
研修、細菌学教室での研究、県立新発田病院での
羽生先生等の頑張りもあって何とかクリアできま
臨床経験、大学泌尿器科学教室での大きな経験な
した。また、一時常勤1人となった麻酔科も5人
どを経て、長岡赤十字病院に就職することになり
以上となり、非常に協力的で手術も順調にできる
ました。
ようになりました。各種のクレーム、訴え、など
良かれ悪しかれは別にして、昭和62年8月に長
にも対処していきました。また、人を集中化し、
岡赤十字病院に就職してから私のやってきたこと
効率良い運営を心掛けるために病棟縮小を行いま
を簡単に述べてみたいと思います。元市医師会長
した。周りと必ずしもうまくいかない医師との調
の斉藤先生の後に就職しましたが、先生が進めて
整や、それを伝えることはかつて経験したことが
新潟県医師会報 H27.11 № 788
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ないことであり、苦労しました。外に目を向ける
トップとして、
病院完結型ではなく地域完結型で、
とコンゴ共和国厚生省の高官が病院のシステムを
治すだけでなく癒す時代を頑張って乗り切って欲
見学に来たり、中国ハルビン医科大学より眼科の
しいと期待しております。今後とも、赤十字はま
研修医を受け入れ、最新器機を使って活躍してい
すます患者さん・診療所に信頼され、職員も仕事
ただきました。また、赤字体質の病院を黒字化し
をする喜びと内なる誇りに満ちた笑顔でいられる
ようと頑張りましたが、
5年間で二勝三敗でした。
病院になってほしいと、心より願っております。
特に最後の年はかなり大きな赤字となりました
今回退職後は先ずリハビリテーションを受け
が、補填のない消費増税や人件費増、関東厚生局
て、体調の改善を計る考えでしたが、退職の10日
の視察などには注意が必要です。
前に突然悠遊健康村病院から、リハだけでなく就
そして自分の医師としての経験をまとめたもの
職もして負担の少ない形で働きながらリハをした
を論文集としてだしました。新潟県にとっても貴
らどうかという話をいただきました。妻も働いて
重な唯一の赤十字病院です。ひと度どこかに災害
おり、家での時間を過ごすのも大変なため、自信
があれば、何をおいても出動し、三条で、長岡で、
はありませんでしたが受けさせていただきまし
能登で、柏崎で、東北で、御嶽山で活躍しており
た。7月6日(月)より出勤し、70人のリハ技師
ます。また、必ずしも収益性の高くない器械(高
より PT(理学療法)
、OT(作業療法)
、ST(言
圧酸素療法、PET-CT など)も、中越地区でどう
語療法)各々2単位ずつを日々受けると共に、老
しても必要であれば購入しております。当院では
健施設を中心に入所されている方を主に診させて
副病院長達を中心として、BSC(バランストスコ
(担当75床)もらっています。看護師、
リハ技師、
アカード)に取り組み、①学習と成長の視点、②
介護福祉士さん方には大変お世話になっておりま
顧客の視点、③業務プロセスの視点、④財務の視
す。入所者はほとんどが自分より高齢な方で、私
点、から職員全体で考え、見直し、より良い病院
に歩行不全があって車椅子や歩行器を使っても、
になれるように考えております。また、新規感染
気にされる方が少ないのも気楽なところです。い
症が出れば保健所と協力しながら対処し、当初は
つか障害があっても働けるという希望の星になり
採算に合わないかもしれませんが、救急の切り札
たいという気持ちもあります。また、チャンスを
になりえるドクターヘリには名乗りを挙げ、県で
与えていただいた、吉井立川グループ理事長、立
大学病院につぐ2つ目の基地になっています。医
川悠遊健康村病院院長、悠遊苑の同僚に深謝いた
療行政は革命的とも言える変化で、昭和36年の国
します。また、家人にも大変迷惑をかけて申し訳
民皆保険、昭和48年の老人医療費無料化の果実を
ありません。
その他の方にも温かい話をいただき、
無意味化しようとする大改革に感じます。
身に余ることと感謝しております。慢性疾患はあ
ただ、これも国・地方自治体の大借金を考える
りますが、体を大事にして少しでも病院に施設に
と避けては通れない道かもしれません。こんな時
患者さんに貢献できればと思っています。
代こそ有能で、馬力があり、心優しい川嶋先生を
(長岡市医師会報ぼんじゅ~る 平成27年9月号より)
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