一 泊 研 修 見 学 会

10/27~10/28
一 泊 研 修 見 学 会
平成27年10月27日(火)~28日(水)に、知識・技能の向上と会員相互の親睦を深
めることを目的に一泊研修見学会を開催いたしました。
今年度の見学先は、宮城県女川町の「東北電力女川原子力発電所」と岩手県平泉町の「世
界遺産平泉」2箇所を、天候にも恵まれ総勢18名で見学してまいりました。
見学した各施設の概要をご報告いたします。
① 女川原子力発電所
《施設概要》
.
電気出力(万 kw)
原子炉
熱出力(万 kw)
1 号機
2 号機
3 号機
52.4
82.5
82.5
形式:沸騰水型軽水炉(BWR)
159.3
243.6
243.6
圧力(Mpa)
約 6.93
温度(℃)
286
燃料(初装荷)
種類:低濃縮ウラン
平均濃縮度(%)
約 2.3
約 2.5
約 2.5
燃料集合体(体)
368
560
560
装荷量(トンウラン)
約 68
約 96
約 96
原子炉圧力容器
原子炉格納容器
た て 形 円 筒 形
マークI型
マークI改良型
タービン
くし型 3 気筒 4 くし型 3 気筒 4 流排気式(再
流排気式
熱式)
発電機
三 相 同 期 式
営業運転開始日
昭和 59 年
6月1日
平成 7 年
7 月 28 日
平成 14 年
1 月 30 日
太平洋に面する三陸海岸の南部,女川湾の南側湾口部に位置する。建屋などの主要部は
女川町内にあり,敷地の一部が石巻市域にかかる。新設時の総面積は 161ha です。
《地震発生時の女川原子力発電所の状況》
平成 23 年 3 月 11 日 14 時 46 分,宮城県沖を震源とするマグニチュード 9.0 の国内史上
最大規模の地震が発生しました。発生時,女川原子力発電所 1 号機および 3 号機は運転中,
第 11 回定期検査を実施していた 2 号機は原子炉起動中でしたが,地震を感知し,全号機と
も設計どおりに原子炉が自動停止しました。
《女川原子力発電所の津波の状況および主な設備被害》
3 月 11 日に女川原子力発電所に到達した津波の高さは 13mで,想定の 9.1mを超えてい
ましたが,女川原子力発電所の敷地の高さは 13.8mであり,津波は敷地高さを越えること
はなく,発電所の主要な建屋には到達しませんでした。設備被害としては,1 号機の補助ボ
イラー用に屋外に設置していた重油貯蔵タンクの倒壊など 4 件の法令等に基づく報告事象
のほか,発電所主要設備への軽微な被害が 55 件確認されました。
これらの被害に,使用済燃料プール内の異物や放射性雑固体廃棄物のドラム缶の転倒な
どのごく軽微な被害が約 570 件ありましたが,いずれも安全上問題となる事象ではありま
せんでした。
《国際原子力機関(IAEA)派遣団による耐震等性能の調査》
平成 24 年 7 月 30 日~8 月 9 日までIAEAの派遣団が訪れ,東日本大震災による建物な
どの構造物,系統およびへの影響調査行われ,平成 25 年 4 月に最終報告書が公開されまし
た。
最終報告書では「女川原子力発電所は,東日本大震災による地震の規模,揺れの大きさ,
長い継続時間にもかかわらず,
“驚くほど損傷を受けていない”」と報告されました。
今回の調査結果は,IAEA加盟国における原子力発電所の安全性向上のための知見と
して生かされていくこととなります。
24年7月30日~8月9日まで国際原子力機関の調査(IAEA)が行われた
《女川原子力発電所の安全対策(防潮堤のかさ上げ)》
これまで,東北地方太平洋沖地震に関わる知見等を踏まえながら,津波評価の検討を進
めてきましたが,極めて厳しい条件での評価として,発電所敷地前面の防潮堤に到着する
津波の最大遡上水位を約 23mとしました。
現状において,仮にこの規模の津波が発生した場合でも,これまで実施してきた各種安
全対策等により,発電所の安全性は確保できると評価していますが,より安全性を高め,
地域の皆さまにご安心いただく観点から,自主的に防潮堤をかさ上げすることとしました。
現在,防潮堤を約 15m(海面からの高さ約 29m)にかさ上げする工事が開始されていま
す。
(工事完了予定:平成 29 年 4 月)これに伴い,全長も現在の約 600mから約 800mに延
長されます。
女川原子力発電所PRセンターにて(平成27年10月27日)
② 世界遺産・平泉
・平泉には,仏教の中でも,特に浄土思想の考え方に基づいて造られた多様な寺院・庭園
および遺跡が一群として良く残っています。
・寺院や庭園は,この世に理想世界を造りだそうとしたもので,海外からの影響を受けつ
つ日本で独自の発展を遂げたものです。
・平泉の理想世界の表現は,他に例の無いものとされています。
《中尊寺》
中尊寺は嘉祥 3 年(850),比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。
その後,12 世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔造営が行われまし
た。
清衡公の中尊寺建立の趣旨は,11 世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合
戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め,「みちのく」といわれ
辺境とされた東北地方に,仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する,という
ものでした。それは戦乱で父や妻子を失い,骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の
決意でもありました。
中尊寺創建当初の姿を今に伝える金色堂は天治元年(1124)に上棟されました。堂の内
外に金箔を押してある「皆金色」の阿弥陀堂です。まず堂内の装飾に目を奪われます。4 本
の巻柱や須弥壇(仏壇),長押にいたるまで,白く光る夜光貝の細工(螺鈿),透かし彫
りの金具・漆の蒔絵と,平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており,堂全体があ
たかも一つの美術工芸品の感がします。
中尊寺にて(平成27年10月28日)