ノーベル物理学賞受賞に関する資料

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中村修二さん2014年ノーベル物理学賞御受賞を記念して
昨年10月,本会会員の中村修二さん(米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)が
2014年ノーベル物理学賞を受賞されました。今回の受賞の理由は「高輝度・低消費電力白色
光源を可能とした高効率青色LEDの発明」で|赤崎勇名城大学終身教授,天野浩名古屋
大学教授と共同受賞されております。中村修=さんは1977年本学工学部電子工学科を卒
業,1979年大学院工学研究科修士課程を修了され,日亜化学工業株式会社に入社されました。
その後の青色発光ダイオードのご研究も本字工学研究科の博士論文(1994年)となっており
今回の受賞は本会としても大きな喜びであります。そこで,本会誌では,この度の受鐵を記念
し特集ページを設けることと致しました。中村修二さんご本人からの寄稿と大学院での研
究指導をされた多田修名誉教授,博士論文の指導をされた福井葛壽夫名誉教授,大学生時代
の教員でもあり先輩でもあった木内陽介名誉教授,企業研究員時代に福井先生の研究室で教
員をされていた原口雅宣教授から当時のおもいで等を当時の写真と共に掲載しております。
最後に中村修二さんの今後のご発展とご活躍を会員一同心からお祈りしております。
一●略歴・主な受賞歴●
1954年
愛媛県生まれ
1977年
徳島大学エ学部魎子工学科卒業
1979年
徳島大学大学院エ学研究科修士課程修了
1979年
日亜化学工業株式会社入社
1988年~19 89年米国フロリダ大学電子エ学部客員研究貝
1994年
1998年
2000年
2002年
2003年
徳島大学博士号取得,エ学博士,応用物理学会論文徴
IEEEジャック.A・モルトン賞
カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授
米国フランクリン蝋,武田賞
全米技術アカデミー(NAE)会員
2006年から 現在愛媛大学客員教授
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2011年
米国エミー賞技術開発部門受賀
2014年
文化勲厳受章.文化功労者顕彰
2014年
ノーベル物理学賞受蝋
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中村修一一氏
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ノーベル物理学賞受賞
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と考えました。
徳島大学時代の思い出
約半年後に大学に行くようになったのですが,
iii期試験はほとんど再受講になりました。また誰
ともあまり,口を利かずに大学を早く卒業しよ
中村修
うと決めていました。4年生から,講座に配掴に
なるのですが.福井先生の材料物性の講義がおも
1973年に,徳島大学工学部電子工学科に入学し
でした。場所は南前川町です。南前川橋のすぐ近
しろかったので.多田先生の固体物性の講座に入
りました。講座に入り,富永先生に付いて,直接
くにありました。家貸は月,5千円でした。一階
卒業研究を始めました。この時,大学に入ってか
ました。愛媛県大洲市から来たので.下宿住まい
が,ガレージになっており,二階に二部屋あ1入
ら初めて,大学がおもしろいと思いました。それ
その四畳半の一部屋を,借りました。貧乏学生
で,2年生以降は,親の仕送り無しで,家庭教師
は,自分で実験をしてⅢその結果を,論文等を読
のバイトと奨学金だけで生活をしていました。
卒業研究が好きになりました。それでも多田先生
は.論文を読む暇があれば実験をしなさいでした。
節約のため,昼食と夕食はいつも学生食堂で食べ
んで自分なりに考えて,次の実験をするという,
多田先生の講座は週に-度は飲み会をやり,楽
ていました。
入学式の後,講義を受けたのですが,この誹議
しい思い出として残っています。また福井先生
に|鶚然としました。文系科Ⅱの心]M1学,歴史,古
の,ほぼ半強制的なマラソン大会も今では楽しい
典,外国語等と訳のわからないものが必修科目で
思い出です。その後,卒業になるのですが卒業
研究がおもしろく,大学院修士課程に残って2年
間研究を続けました。そして卒業,就職になるの
ですが多田先生にilYiんで,I」jlIi化学の当時の社
長小川信雄氏と多'11先生の関係を通じて,ほぼ強
した。最初の二年間は教養を身に着けるための教
養課程だそうで,そのような訳の分からない科(|
を勉強しなければなりませんでした。また,当時
は理系の科目の講義も,全く理解できませんでし
た。このため,2週間ぐらい,大学の講義を受け
てから,大学に行くのを止め,下宿に閉じこもっ
てしまいました。下宿に閉じこもって,物理,数
学等の本を読んでいました。そのうち哲学書みた
いなものも読んでいました。半年Iillぐらい,この
ような生活をしました。この時に初めて自我に目
覚めました。この期間中に今までの生き方に疑FII
を持ったことです。親や先生等に言わオした通りに
やってきたことへの疑問がいっぱい湧いてきまし
た。その全てに疑問を持ち,その後は自分の考え
制的に入社させていただきました。会社では,開
発課に所楓になり,岐初の10年間は,赤外,赤色
発光ダイオードの材料バルク結晶成便,エピタ
キシャル成長,デバイス作製等をやりました。会
社の利益には貢献できませんでした。その後,社
長に頼んで『1989年から青色発光ダイオードの研
究を始め,1993年にI)'1発製,1M化に成功しました。
1999年に会社を辞め,2000年からカリフォルニア
大学サンタバーバラ枝で教授をやっています。
(電子52年卒.54年修士)
で行動し,他人に言われることは,極力避けよう
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学生時代室戸マラソンにて
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中村は学部を卒業,修士課稚に進んだ。修士で
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は,(チタバリ)単結晶の研究を助手中西(富永)
とした。
多田修
修士の後,京都セラミックスに就職が決まっ
た。だが‘入社を辞退,中村は徳島に帰った。新
徳島大学工学部電子工学科に昭和48年,中村修
婚の奥さんが,京都行きを嫌ったからだ。中村は
二が入学した。初め、教養課程の講義は面白くな
く,物理・数学の本を下宿で独り,読んでいた。
」W門課程に進み,題子物性工学の授業を福井灘
壽夫聞き,授業に感激したそうだ。以後,中村は
化学会社,電気は工業高校卒で充分。電子大学院
授業に出席,4年生の始めは,成績がクラスでト
生はエラ過ぎるⅢ他所へ行けといった。だが,日
ップになった。
亜の小川と多田は特別なイ[11,結局は採用して貰っ
優しかった。(結蛎の媒酌人は私達夫婦であった)
私は中村を日亜化学に就職させた。時は3月初
め,就職の時期は終わり。日iIliは云った。うちは
卒業研究は,(ネili井が所luijする)通子2識座を
た。
選んだ。だが,福井はカナダのトロント大学に留
入社後,中村は赤色の発光ダイオード(LED)
学したから,中村は講座担当の多田教授の指導を
受ける事になった。多田は理論が得意でなく当
の製作を命ぜらオした。既に,他社で,販売されて
いた。だから,難しい仕事ではない。だが製造の
初,中村はガッカリした。
ノウ・ハウが判らず]中村は絆労した。そして成
当時,学生は,コンピューターを使う講座か,
ピカピカの機器がある講座を希望した。この点
功した。だが,会社の儲けにならず,中村の評価
は低かった。
で,多田の研究室は人気が無かった。
次に,緑色LEDの製造を命ぜられた。苦労し
だが,大手の日本遜気の中央研究所,徳Hbの小
て,先成したが,中村の評価はiiiと変わらず,評
企業,日亜化学は多田研究に寄付があり,多田研
価は低かった。
も捨てたものでない。
中村は小川に直訴,青色のLEDをやりたいと
チタン酸バリウム(チタバリ)薄膜の実験をし
申し出た。これは世界で例が無い。小川は同意し
ていた。この研究は世界で-番早い競争’111手は
た。こ;|しには.中村が驚いた。
居ない。実験中,’1.村は外国雑誌を読んでいた。
仕事には,資金がいる。|ヨ皿は既に銀行に多
くの借金があり,その上に借金を増やす事になっ
多田はそれを取上げ.本を読むなと叱った。中村
は驚いた。多田語録として中村は本にfIl:いた。
この研究は奥が深く,多ul研の助手2人は,京
小川の決断は素IiIjらしい。中村の修士卒は無駄で
大から学位を貰った。当時,徳島大学では学位が
無かった。
た。日亜にカネを貸した銀行も驚いた事だろう。
中村は新技術を修得するため,米国のフロリダ
貰えなかった。
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篝
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前列左より富永先生多田名誉教授後F'1左側より中村烏野
平成25年12月14日多田名誉教授宅にて
多田・牛田・生田・横井シンポジウム
平成27年2月6日
▲
大学へ1年間行った。私は前年,徳大を停年。詳
中村が通報したと思う。
それからⅢ約20年,ノーベル賞は遠かった。平
しい事情を知らない。
フロリダでは,中村は学位が無い,論文が無い。
成25年12月14日(土),中村が我が家へ来た。家内
それで,職人扱いされたという。カネ持って来た
は喜んだ。その時の写真が我が家にある。我が家
客人に大学は失礼な取り扱い。この人が,ノーベ
の家宝だ。
ル賞を取るとは知らず冷たく扱われた。勿論,私
平成25年10月,第1火曜日,中村がノーベル賞
の授賞に決まった。報道各社が我が家へ殺到し
は詳しく知らない。
中村の苦労は帰国後も続いた。聞くところ,米
た。我が家はお祭り騒ぎ,だが,家内は半年前に
国で鱗入指図した,装職の不具合があり,外部に
死亡した。中村の成功を話す相手を私は失った。
頼むと時間がかかる。改造は自分でやった。石英
私は寂しい。
管ガラスの細工は職人仕事。酸素・水素の高温
平成27年春,中村のノーベル賞授賞の祝賀会が
バーナを使う仕事は素人ではできない。風がある
徳大の工学部であった。中村と私は並んで座っ
と,バーナの火は揺れる。夏でも窓工場の窓は開
た。その時.「私は多田先生を尊敬している」と
けられない。
言った。私は嬉しかった。
装置は運転中,爆発することもあったと云う。
勿論、聞いた話,私は知らない。
日亜の小川が生きていたら,さぞ喜ぶことだろ
う。小川は10年以上前に死亡。時間の経過は残酷
終に’日亜は成功した。小川と中村の姿をTV
で見た。この時は私も嬉しかった。
だ。私は自分が生きている事に感謝した。
私は中村にサインを呉れと言った。我が家の壁
暫く後,朝日放送のニュース・ステイション
に,サインと,2年前,中村が我が家へ来た時の
で,久米宏がノーベル賞に1番近い男と中村を紹
写真,二つを,壁に飾った。私が死んだらゴミ。
介した。何故か,朝日放送のスタッフが私を訪ね
生存中は宝だ。
て来た。私が放送局に連絡をしたわけではない。
電子48年入学当時
(徳島大学名誉教授土木17年卒)
徳島大工出身者はすごい
福井萬壽夫
したのですから.非凡な才能を持っていることに
は疑いはありません。私の眼前に成繊簿と講義
ノートがあります。当時,必修であった「電子物
性工学」の講義は1年間の長丁場で.30回の講義
内容は今の大学院レベルでした。大変だったと思
中村修二君(77年卒)は.結晶成長法である
います。試験は7~8回ありました。中村君は思
MOCVD法の指導と窒化物半導体についてのア
考力を必要とする問題では高い点数を取り,記憶
力勝負の場合は低く,総合的には3位以内でし
ドバイスを酒井士郎君(75年卒,工学部教授)か
ら受け,中村君がチームリーダーとなり。1989年
に「青色LEDの開発」に取り組み始めました。
た。高い思考力が素晴らしい業績を生み出したの
だと思います。ただ,その業績はチームカが高か
チームは青色LEDLD,紫外LED,緑色LEDな
った故でもあり,彼は日亜のチームを代表して受
どの開発に次々と成功しこの分野で日亜化学は
賞したものと思っています。
世界のトップ企業になりました。中村君は1999年
中村科は「福井先生の講義で材料に興味を持
にチームから離れ,その後のチームリーダーを向
ち,この道に入った。」,向井君は「日亜に入って,
井孝志君(87年卒)が担い‘チームは,紫外Lu
緑色LD,高出力LED・LDなどの開発を成し遂
福井先生の講義ノートで物性を勉強し直した。」
げ‘世界ナンバー1の成果を挙げ続けています。
義を特別聴講生として受諭してくれました。今更
レボリューションと言っても良いこれらの技術
開発に大きな貢献をしているのが多数の徳島大学
工学部出身者です。日亜の小川信雄前会長(35年
卒,故人),小川英治現会長(60年卒)も|可出身
者です。「徳島大工出身者はすごい」としか言い
ようがありません。
中村君のノーベル物理学賞受賞は,徳島大学工
学部関連者として大きな喜びです。研究開発の立
ち上げから約11年間,チームリーダーとしてチー
と言ってくれました。多くの日亜技術者が私の講
ながら.教育に力を入れてきてよかったと思いま
す。本工学部の教育は,人間教育,技能者(職人)
教育,技術者教育から成っていて.教員の方々は
教育に力を尽くしています。本工学部出身者から
第2,第3…のノーベル賞受賞者が出てきてもお
かしくありません。人間としても高く評価され,
「徳島大学工出身者はすごい」との思いが社会に
定着する事を心から願っています。
(徳島大学名誉教授)
ムをリードして数々の輝かしい製品の開発に成功
昭和53年度徳島大学大学院(工学研究科)修士学位記授与式昭和54年3月23 日
‐Ⅱ
2000年秋に日本生体医工学会秋季大会を徳島で
LED徳島からの嗜矢
一信念と1情熱一
ljl1催することになり,大会長を仰せつかりまし
た。その大会で中村修二さんに特別講演をお願い
木内陽介
先ずは中村修二さんのノーベル物理学賞2014受
徴に対して心からお祝い[1Jし上げます。中村修二
し,サンタバーバラからお越し頂いたことを思い
出します。おかげで大会は大盛会となりました。
その時以来帰liIi1された時折に聞くUCSBでの研
究の取り組み‘研究室の運営,研究費の漣得等!
さんと私は専門分野での1MJわりはありません。そ
']本の大学の今俊を先導するもので,ずいぶんと
ういう意味では先鍛後誰の関係が強かったと思い
参考になりました。将来的に,本学の優秀な学生
ます。会社務めしていた時の研究・開発に取り組
の留学をお引き受け頂き,人材育成の面でも本学
む姿勢はまさに筋の通った信念を持ち,情熱を燃
と連携できますことをご期待申し上げています。
中村修二さんの行動について嫌々言われていま
やしながら取り組んでいたように思いました。失
敗を繰り返しても何1111でも立ち上がる姿勢は大学
すが,私から)凸ると-本筋が通っており,ぶれる
の先生方にとっても学ぶべきものがありました。
ことはありません。“ありのまま”でいいのでな
この信念と情熱がノーベル賞受賞につながったも
のと思います。彼の学生時代,直接の恩師から独
いかと思います。この信念を活かして,次のすば
1`1の装Wltを手作りで生み出す職人芸を学んだと言
のお弟子さんと共に1V度ノーベル1'(を受1'〔されん
ことをご期待'1]し上げています。
われていますが,本当に学んだのはこの信念でな
らしい研究成果をあげてほしいものです。ご自分
(徳島大学名醤教授電気41年卒)
いかと思っています。学生時代に学んだこの信念
がノーベル賞受賞の始まりになったと思います。
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多田.牛田.生田.枇井シンポジウムおよび懇親会平成27年2月6日
宋蕾面識与巍・謬附目録嫡越式歎
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徳島大学栄誉賞授与式・寄附目録贈呈式平成27年2月6日
人の目イパも伺えると同時に,I;'1発研究がうまくい
ノーベル賞受賞で思いだす
1993年前後のこと
っていあことを感じさせました。
その後,高輝度青色LED開発成功の公式発表
が行われる直前(]993年9月頃)に,福井先生か
原口雅宣
ら日]|〔の:,了色LEDのサンプルを見せていただ
き,「とうとうできたか」との強い衝蝶を受けま
私が砺子工学科福井先生の研究室に助手として
赴任してきた1987年当時,中村氏は日亜の若手技
した。同時に,あの中村氏がリーダーのチームだ
術者として活蹄しておられ,福井先生のお部屋へ
からできたのだと納得する気持ちもありました。
アドバイスを受ける等のためしばしば来られてお
当時の半導体分野では,青色発光素子Mj発は大き
りました。そのため自然と中村氏と言葉を交わす
な課題でしたから,日亜の企業規模がこれから急
ようになりました。明るく気さくで正直な性格の
速に数勵倍以上に拡大すること,中村氏はいずれ
ノーベル賞を受批されること,を確信しました。
方で,たいへん好感の持てる方でした。当時は仕
馴内容の詳細を把握していたわけではありません
公式発表後,lriI社が初めて学会でi1j色LEDの
が,プライドを持ってしっかりと仕事をされてお
詳細を発表した1994年3月末の春の応用物理学会
られる様子はすぐにわかりました。
における講演発表会場は,発表前から満員で熱気
1992年ごろだと思いますが,中村氏が福井先生
の部屋を訪問されたすぐ後にlili下でたまたまお会
に包まれており,中村氏の講演が始まると,一言
もIjI1きillllらさまいとする独特の緊張感が漂ってお
いした|祭,国内学会での議長経験もない自分にア
りました。自信あふれるプレゼンの最後に,現物
メリカの国際会議の組織委員会からチェアをしな
の青色LEDを発光させるデモンストレーション
いかと声がかかったこと,海外では出した論文の
を行った際のご本人の晴れ晴れとした表情と,会
評価は内容によって正当に行われていると感じて
j粉全体のどよめきは今でも非常に強い印象に残っ
いることを,こちらまで嬉しくなるような表情で
ています。
話しかけてこられました。研究成果に対するご本
(光応用工学科教授)
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ノーベル賞記念賞とメダル
青色LEDについて研究をされている東京理科大の大'11教授と授賞式直後に
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中村教授の修士論文
博士論文
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エ学部での記者会見
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ることに彼も謀んでおり,先生は,彼のノーベル
ffの受f(にノリ|侍をされていた。
徳島大学,万歳Ⅲ
中村君万歳Ⅱ!
2014年7月26日に,彼が主笂となる徳島大学.
地子工学の還サドliil窓会を徳1;&のクレメントホテル
長澤敏勝
で開lll1した。誰かわからない澱に老けて,顔を兄
中村君。ノーベルj'i受1`tおめでとうございま
す。大学入学から42年間の友人が,この'(を受賞
できて本当に心から鱗しく,似う。
分けることが難しかったが,ilj:会時にはみんな大
私と彼のつきあいは,18ル蝋の時に徳1場大学・髄
子工学科に入学してから始まった。彼は下術住ま
いで,私の帰宅路の途中にあったので,時々,大
ベル物I1l1学笈・文化勲TIT受T;fパーティーを帝lヨ(|ホ
テルで|刑催した。文化勲章受章とノーベル賞受賞
のIl1lの搬大なパーティーであった。徳|;6からは;1111
学,友人等の話をしに立ち群っていた。彼の部屋
は,物理学とか数学の専門111:で溢れており,喚i111i
本等は一切なかった。その為,勉強に打ち込む妓
井前教授.木内前教授が駆けつけて来られ,ここ
での彼のiill1iimiの笑みが印象的であった。
学時代に藩返っていた。
2014年11月4日に三菱化学主催の中村君のノー
今年2015年7月25日は.電気工学科で日立製作
所の社及になった東原訓と遜子工学科でノーベル
物理学Ttを受rtした中村諭がお][い会いたいとい
うことがきっかけで,〕|(京の学士会館で徳陶大学
のf{i気・↑Iz子・I1Ij報工学科の合|Tl同窓会|;Mili1を予
定している。
良の環境だったので,一帯の成紙が良かった。
彼は大学院卒業後,阿南の日illi化学に就1W$して
徳|;$に残ったが,私は大学卒業後,東京の会社に
就職した。徳島に);,|稀時には,彼と会ってii1Iiを飲
みながら,近況を話しあった。
20代の夏休みに,3000,級のjMlMil`li小膝で,登
山途中の中村君の一行と会い,一緒に徳協へ帰っ
新規にリド業を起こすのは.人,物,金の三拍子
が揃うことが,必須条件であるが,ブルーLED
たこともあった。
の|;'1発競争に,パナソニック,ソニー等の三拍子
1999年12月31日に,日J11i化学を退職して.アメ
リカの大学の教授になるというメールを彼から受
け取った時は,根っからの日本人である彼がアメ
リカで暮らしていけるのか心配したが,アメリカ
が揃っている|(大企業に比べ,事業の必須条件が
貧弱にもかかわらず,それに挑み続け,打ち勝っ
た中村ツ|は,素Ⅱifらしい偉大な発明家だと思う。
それに勝利して,彼は,ベンジヤミンフランクリ
ン賞,ミレニアム笈,文化勲漱,そして,ノーベ
ル賞を受賞した。ついに徳脇大学は,このよう
出張時に彼と会ったら,いつものiiMI子で元気に研
究活動に没頭していたので安心した。
2006年に彼がミレニアム111を受11tした時は,姿
と彼の友人とで授賞式に参加した。
2013年の聯れには,彼の恩llmiの多田先生に会う
な発明家を生み11」す素'1,'jらしい大学になった。
岐後に,「徳,'鋤大学,万歳111中付;1M・万
戯11!」と11Iびたい。
(1lb子52年卒)
為に彼と一緒に訪問した。先生が.お元気でい
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一」》い》 』 岬個啼》呼一鱸鶴一》 』一
劇
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中村修二先生の
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中村修二先生のノーベル賞受賞・文化勲章受章をお祝いする会平成26年11月4日於帝国ホテル
幹雄ページ作成にお写真を提供頂き厚<お礼申しI:Iヂまず。(戦jM;端順不偏)木内陽介(鰯(41)艮禰M(勝〈冠子52):|」吋修二(通子52〉杉イミ窪(冊餓(52)黛田史ソj(篭子53))鍋秀和(1Ef調)