滋賀大学大学院教育学研究科論文集 77 第 17 号,pp. 77-85,2014 原著論文 森本光瑛の平和教育について 田 中 哲† Satoru TANAKA の逃避を起こさせ,平和教育の目ざすものから Ⅰ はじめに も遠いものになってしまう。平和教育の内容を 検討するとき,観念的で子どもが受け身な教育 本論文では,1960 年代から 80 年代にかけて 滋賀県の小学校教員であった森本光瑛の実践に ついて考察し,それを通して求められる平和教 育のあり方について考える。 では子どもの平和に対する認識を育てたことに はならない。 本論文で考察する森本光瑛は,子どもたちの 生活現実に深く分け入り,子どもが主体的に平 日本の平和教育は,第 2 次世界大戦の戦争体 和について学び考える「生活綴方とつないだ平 験を主な題材として,反戦・反核・軍縮を目指 和教育実践」を行った点で,上述の勝田の指摘 すことを課題として進められてきた 。しかし, に対して応える実践であったと言える。 (1) 戦後の平和教育の方法については早くから次の ような指摘がなされてきた 。 (2) 森本は,滋賀の教育現場において地域に根ざ した平和教育を早い時期から着実に進めていっ 「平和」という正当な理念なり価値なり た人物である 。後述するように,まだ全国的 が「どのように子どもや子どもたちの親の には強制連行の事実や朝鮮人差別が平和教育に 生活現実の中に生きていくかとゆうこと 取り上げられていなかったときに,森本の教室 に」平和教育は意を向けていなかったので ではそうした問題を積極的に取りあげていた。 はないか。おとなが正しいと考えた平和の この実践の背景には,学生時代から仲間ととも 理念や価値を子どもたちに押しつけてはい に培った生活綴方という教育方法からの学びが けない。子どもの「生活現実」を見つめ, ある。そして,地域に根ざした社会科実践の積 子どもに寄り添った平和教育でなければな み上げがあった。 らない。 (3) 森本の実践は,教育研究集会等で公の場に出 社会科教育の専門家である勝田守一の上のよ されたものではないが,森本が残した刊行され うな指摘は,その後の社会科教育にもあてはま ていない実践記録や文集でその内容を知ること るのではないか。大人に考えた平和の理念や価 ができる。これらを使って,森本の平和教育の 値の子どもへの押しつけは,子どもに学びから 特徴を考察する。 本論文では,まず,森本が教師になるまでに †社会科教育専修 教科教育専攻 指導教員:馬場義弘 どのような教育理念を身に付けたかを検討する。 続いて,能登川西小学校と桐原小学校での平和 78 田 中 哲 教育の具体的展開を見る。そして,森本の地域 マは「一向一揆の思想的基盤〜親鸞の思想〜」 に根ざした社会科と生活綴方教育から彼の平和 である。貧しい民衆こそ救われなければならな 教育が生み出されたことを明らかにする。最後 いという教えは,幼い頃から仏教の説く「一切 に,竹内久顕,西尾理,村上登司文の三氏 の のものが平等」に慣れ親しんできた森本の思い 最近の研究を手がかりに森本実践の意義を述べ と一致する。 (4) る。 (2) 生涯の仲間との出会い 大学で,子どもたちに寄り添う教育を求める Ⅱ 森本の平和教育 仲間に出会う。古代史の岡崎義明,近世史の肥 田嘉明,生活綴方の南澤恭子など彼らから民衆 1.教育理念の形成 の視点に立った歴史学と目の前の子どもの生活 (1) 森本の生い立ち 現実に目を向けた取り組みに大きな影響を受け 1936 (昭和 9) 年,森本は安土の天台宗のお る。このことは,その後の森本の社会科実践の 寺の次男として生まれる。小学校の弁論大会で, 展開に多くの影響を与え,地域の民衆の歴史の 父の影響もあって「信念に生きよ」という内容 掘り起こしとその教材化の素地が養われた。 で自分の思いを述べている。今思うに,伝教大 1952 年発表された石母田正の『歴史と民族の 師の説く「人間平等」の教えが,幼いときから 発見』に代表される地域に根ざし地域の掘り起 日々の生活に入り込んでいたのではないかと現 こしを進める国民的歴史学運動も社会科教員を 在 77 歳の森本は振り返る。その当時,森本は めざす森本の刺激になった。一方,南澤との生 意見発表会で自分の考えの発表が「一席」に 活綴方教育との出会いは現場での綴方教育実践 なったことから意見の表明の大切さを感じるよ を始めるきっかけとなった。1954 年,小川太 うになる。 郎ら日本作文の会のメンバーが唱えた「生活綴 1944 (昭和 19) 年,姉を結核で亡くす。姉 方的教育法」 (5) は森本実践の根底をなすものと の夫も同年,フィリピンで戦死ししたことは, なった。その後,森本と南澤は共に滋賀の作文 森本にとって悲しい出来事であった。戦争の悲 教育のリーダーとして退職までその実践と運動 惨さを身近な人の死によって体験した。 に携わることになる。 また,小中の湖 (琵琶湖) の干拓に京都の学 生が勤労動員で来て,自宅に宿泊した。たくさ ん他人が自宅に泊まることにいやな時代の雰囲 気を感じた。また,干拓の仕事には朝鮮の労働 者もたくさん来ていた。 一方,「同和地域」の人たちが 8 月 12 日のお 2.当時の子どもと教育をめぐる状況と初期 の実践 最初に赴任した湖東第一小学校の子どもにつ いて森本はこう述べている。 子どもたちはたいへん素直で,貧しい中 盆の法要のお供えのお下がりをもらいに来てい でも家庭のあたたかさが感じられた。また, た風景が記憶にあって,教員になってから社会 親の労働や生活が子どもたちにもよく見え 的弱者に目を向け同和教育に真剣に取り組む底 る状況であった。世の中は安保条約の改定 流の一つになったように思われる。 前後で社会問題に関心も高まっていた 。 (6) 1953 年,彦根東高校に進学した。時代は朝 最初の赴任校での子どもたちとの出会いは最 鮮戦争・日米講和条約締結の時代で,雑誌『世 初から深いものであった。さっそく,森本は子 界』を愛読し平和と民主主義など,社会問題に どもたちに作文や詩を書かせた。まずは日常の 目覚める。歴史への関心が高まり,大学で歴史 生活を観察させそこに作文や詩の題材を求めた。 を学ぼうと希望を持つ。1956 年,滋賀大学学 子どもたちも家で飼っている蚕の観察,仔牛の 芸学部 (当時) 中学社会科課程に学ぶ。卒業論 世話のようすをていねいに書いた。そして,で 文には浄土真宗の開祖「親鸞」を選ぶ。これま きあがった繭や仔牛が商品として売られていく での「人間の平等」を説く仏教を一歩進めた親 姿を見ていく。雨が幾日も降らず,田んぼの稲 鸞の「悪人正機説」に関心を持つ。卒論のテー が干し上がる心配を家族の一員として心配する 森本光瑛の平和教育について 詩「青空」はその典型であろう 。 (7) 79 その父母への依頼文章に森本は次のように書 いている 。 「青空」(6 年・H) (10) 昼に空を見た,入道雲一つない,みんな, 小学校 6 年生で,日本の歴史の中の現代 “あれじゃ雨がふらない”といっている, 史〈私たちの世の中〉を学ぶためにはお父 水もしまえてしまう,青空は,海のようで さんお母さんからの聞き取り学習は欠かせ も,雨はふらない。 な い 課 題 で す。 「お じ い ち ゃ ん,お ば あ 一粒の雨も落ちてこない青空を恨めしく見上 ちゃん,お父さん,お母さん昔の話をして げる大人たちと同じように 6 年生の H も眺め やって下さい。身につまされたことを実感 ている。生活綴方で生活や労働に向かわせる意 をこめてお願いします。 味は,くらしの現実をとらえ人々の生産にかけ このような呼びかけを夏休み前に行い,祖父 る思いや願いを受け止めることができるように 母・父母に子どもたちへの戦争にまつわる話の なることである。森本実践はそのスタートから 語りかけを依頼した。 地域の生産と労働を基礎にした実践であった。 いのちを尊ぶ子,家族や地域で働く人々の生 1960 年代後半は,「いわゆる先進的な教師た ちが実践を始めた段階」 (11) だっただけに,森本 産,労働,生活を具体的にとらえ共感する子を の戦争体験の聞き取りの取り組みは滋賀におい 育てることが「いのち尊さを学び,子どもに生 ても先進的なものだったと思われる。 きる力をつける」平和教育の芽を育てることに つながっている。 (2) 戦争と父の歴史 T・G 教え子の一人 T は朝鮮人の父への聞き取り を通して,次のように書いてきた 。 (12) 3.能登川西小での実践 作文の要点と思われる点を上げると 1966 年,森本は能登川西小に赴任する。こ ・19 歳の時,無理やり船で日本に連れられ こでは,森本は 2 つのねらいを持って実践を始 める。一つは書くことを通してしっかりとした 自分の考えの持てる子どもを育てる。もう一つ は歴史の中とりわけ朝鮮との関わりの歴史の中 で戦争を教える。こうした実践が生まれる背景 てきた。 ・日本に連れてこられてからは父は苦労の連 続であった。 ・空襲の中で父は「死にたくない,ただ早く 朝鮮にかえりたい」と思っていた。 には以前から森本の大切にしてきた生活綴方の ・戦争さえなければ,朝鮮は日本人に荒らさ 教育に学ぶことと地域の中にある事柄から歴史 れることもなく,父も祖国で平和に暮らせ を学ぶという姿が表れている。 戦後 20 年ばかり過ぎた 60 年代半ばになると, 戦争に対する子どもたちの考えも「戦争はかっ こいい」ものに変わりつつあった。暮らしも少 しずつよくなりつつあったがそうした中で自分 中心主義というような考え方の子どもが増え, たのにと思う。 そして,もう一度父への聞き取りを行い T は作文を書き上げた。 T の作文を読んだ友達の感想は次のような ものだった 。 (13) ぼくは,T 君の作文が一番印象に残っ 他を思いやるような考え方や他に思いを馳せる た。朝鮮人に対して日本人はどんなことを は教育は後退していった 。こうした子どもた したのかよくわかった。(中略) T 君のお ちを前にして,森本は子どもたちに生活を綴づ 父さんも,大韓民国で生まれたのだから, らせ,綴ったものを文集して,それをもとに話 大韓民国へ帰りたいと願っているのは当た し合う学習を仕組んでいった。 り前だと思う。だれだって,自分の生まれ (8) (1) 「父 母 の く ら し ― 太 平 洋 戦 争 の 記 録」 を通して戦争を教える 。 (9) たところへかえりたいに違いない。日本に いて日本人に裏切られた。日本人は,朝鮮 「父母のくらし ― 太平洋戦争の記録」と題 人をどう思っているのだろうと考えさせら して子どもたちに夏休みに父母への聞き取りを れた。もしこの戦争がなかったら,朝鮮で 通して学ばせている。 楽しく暮らせていたと思う。そして,今に 80 田 中 なっても,T 君もみんなから朝鮮人,朝 鮮人と言われなくてもすんだと思った。 哲 える貴重な資料」にしたいと結んでいる。 竹内久顕は「アジアの人々の心を未来に向か (K) 実践を終えて森本はこのように述べている 。 わせた交流を図ろうとしたとき,過去の戦争に (14) 対する認識,とりわけ日本の加害責任の問題に 生活綴方は子どもたちの感性をゆり動か 対して自覚的でないままでは良好な関係を築く します。そこでは,子どもたちは喜んだり, ことはできない」と指摘している 。他民族と 悲しんだり,憤ったり,悔しがったり,不 の共生を考えるとき,こうした学習は大きな力 思議がったりします。そして,なぜそうな となる。歴史教育・平和教育の大きな意義を意 るのかと理性的な認識へと向かって思考し 識せざるを得ない。 (16) (3) T 君をめぐる実践から見えてくるもの 始めます。 その時,自分の綴り方だけでなく,友だ ① 徹底したリアリズム ちや多くの人々の生活綴り方を読むことで 戦後 20 年たって,子どもの世界には戦争が 生活・現実の底に流れる共通するものに気 遠いものになりつつあった時期,同じ同級生の づきます。この場合は,戦争が人民にもた 父母に今も苦しみ続ける人がいることを知るこ らすものは何かということです。その何か とは,決して戦争は遠いものではないことを理 こそ本質を示すものです。それがわかった 解する上で役立つと思う。 とき,科学的認識へと高まったと思います。 この当時の子どもは,雑誌やマンガで戦争に その科学的認識は生活綴方が土台にあって は触れていたと思うが,赤ペンで問い直す中で, こそ本物になると考えます。 そして事実を深く見つめ書きつづることで,身 T は学習のまとめを次のように書いている 。 (15) ぼくは「太平洋戦争の記録」を読んで, 近な人の話を通して戦争の無惨さ,非道さ,差 別についてこうした事実を通して学んだと思う。 みんなのお父さんやお母さんにも大変な苦 ○無理やり船で日本に連れてこられた 労があったことがわかった。ぼくは自分の ↓ 作文に「ぼくも朝鮮に生まれていたら日本 だれにどのように連れてこられたのか家 人を憎んでいただろう」と書いたが,多く 族はどうした (赤ペンによる問いかけ) の事実を知った今は,みんなを憎まない。 ○父は「ただただ朝鮮に帰りたいと思っ ほとんどの人が戦争のために苦労しなけれ た」 ばならなかった人たちなのだ。 ↓ だから憎むなら戦争を起こした人を憎ま お父さんはどうしてこのような思いに なければならない。兵隊はたくさんの人を なったのだろうか (赤ペンによる問い 殺すし,ずいぶんと悪いことをした。それ は,戦争を起こした人のせいなのだ。こう かけ) ○戦争が終わったら朝鮮人だと言って差別 いうふうにぼくの考えが変わったのは,こ する の「太平洋戦争の記録」を読んだからだ。 ↓ 歴史を学び本当のことを知ってからごかい お父さんはどんな差別を受けたのか (赤 しなくてすんだことはよかった。 ペンによる問いかけ) 生活綴方は他人の生活を知り思いを馳せるだ けでなく,書く中で自分の考えや思いをハッキ ②みんなで読み合い,考え合う 森本は「生活綴り方は,一人のものにしてお リさせる。自分と自分の生活を見つめなおし, いたのではねうちがありません。みんなで読み 生き方を考えることにつながる。T は自分の 合う中で光を増してくるものです」と述べてい 父の歴史を書き,そのことを通して,朝鮮や日 る。 本に対する自分の考えを確立していった。 日本は 70 年代から 80 年代にかけて,急速に 森本の「記録文集」では,森本は「この記録 消費社会の進行によって個別化が進んだと言わ をこれからみんながどう生きたらいいのかを考 れる。それに先立つ 60 年代も経済成長優先の 森本光瑛の平和教育について 社会にあって社会の連帯感は薄れはじめ家庭も 81 のである。 個人もバラバラな時期を迎える。小学生のころ から分断の進む社会に育ち,排他的な競争を強 4.桐原小での実践 いられる教育の中にあって,まわりの人の願い (1) 地域に根ざした平和教育 を考えたり,他人の被害を自分のことのように レーガン・中曽根の軍事拡張路線が強行され 考える子を育てる意義は大きい。教室で読み合 る 70 年代以降,一方では子どもたちにとって うことは,人間的な連帯を生み出す力も育てら 戦争は遠いものになりつつあった。そうした中, れる。 地域での戦争の掘り起こしは急務となった。牛 ③科学的認識を育てる 田守彦は「モノに封じ込められているヒトの体 森本は戦争の科学的認識につながる実相を知 験を読みとる」ことの大切さを説いた 。 (19) るために,生活綴方はどんなねうちがあるかを 森本の桐原小学校での実践は,より地域を意 追求してみたいと言う思いでこの実践を始めた 識した取り組みとして進められた。森本は,ア と降り返っている 。 ジア・太平洋戦争を地域に探るとして,地域の (17) その中で,森本はこう述べている。 お墓調べの実践を始めている。お墓調べは校区 生活綴方は子どもたちの感性を揺り動か の 5 つの地域で行い合計 92 人の戦死者を確認 します。そこでは,子どもたちは喜んだり, している。戦死者のお墓を調べる中で,誰が, 悲しいだり,いきどおったり,くやしがっ いつ,どこで,何歳で戦死しているか明らかに たり,不思議の思ったりします。そして, なる。死亡した地点を地図に落としてみると日 なぜそうなるのかと理性的な認識へ向かっ 本軍の侵略地が一目瞭然になる。また,昭和 て思考を始めます。 19 年・20 年に戦死者が急激に増え敗戦へのよ その時,自分の綴方だけでなく,友だち や多くの人々の生活綴方を読むことで,生 活・現実の底に流れる共通するものに気づ うすも見えてくる。 お墓調べをした K は次のように書いてい る 。 (20) きます。この場合は,戦争が人民にもたら もう戦争の終わりの頃 (昭和 19 年・20 すものは何かと言うことです。その何かこ 年) にすごくたくさんの人々が命を落とし そ本質を示すものです。それがわかったと ている。このことからも日本がだいぶ兵隊 き科学的認識へと高まったと考えたいと思 が死んでしまい,どんどん後ずさりし始め います。その科学的認識は生活綴方が土台 たことがわかるような気がします。もし, にあってこそ本物になると考えます。 18 年にでも戦争をやめていれば少しの人 子どもたちの感想によると , (18) でも救えたのかな。 戦争とは,どれほど苦しいこと,悲しい 校区にある墓石や碑から子どもたちは,戦争 こと,いやなことがあるかいたいほどわ で日本が侵略したのはどこか,誰がこの戦争で かった。教科書で習い,先生の資料などで 命をかけて戦ったのかなど,もの言わぬ身近な 少しはわかっていたが,この作文を読み, 墓石調べから見つけた。森本はお墓調べを通し よけい事実だとわかり身近なことなので, て,戦争の特徴を見事に子どもたちに気づかせ, 本当の苦しみがわかった。(A) 文を綴る中で自分のものにさせている。 森本は,「子どもたちは事実を知らないとき (2) N さんとの出会い は何も考えないが,事実を知れば考え出す。何 お墓調べの取り組みの中で,S 地区の N さ が正しいかを考える」と子どもの感想にコメン ん (当時 73 歳) との出会いがあった。N さん トを書いている。早くも 60 年代において過去 は,32 歳で夫を戦争で亡くされ,4 人の子ども の戦争と子どもたちの「今」は断絶しはじめて と義母をかかえ,女手一つで小作農として 4 人 いる。そんな危機感から森本は戦争体験の聞き の地主から借りた 6 反の田を耕作し,戦中戦後 取りを通して,戦争の事実を知ることを通して を生き抜いてこられた。教室で N さんは当時 戦争の被害・加害・差別の本質に迫ろうとした のくらしと戦争への思いを次のように語られ 82 田 中 た 。 哲 そこに N さんの生き様を通して現代史を見 (21) ・N さんの夫は「支那事変」に出征し病気 になり帰国,療養する。 ・2 度目は舞鶴から出征するので 4 人の子ど もを連れて見送りに行く。 ・子どもと父親との別れを見るのがやりきれ なくつらかった,最後の別れとなる。 る力が身に付き,戦争と平和を考えさせる森本 の意図的な教育実践を見ることができる。地域 に生き,地域に暮らし,地域で働く人々の願い を拾い上げ,教材化 (感性的な共感から科学的 な理解) する森本の取り組みに学ぶところであ る。 ・自分は「銃後は守ります。子どもも立派に 育てます。心配しないで下さい」と励ます。 Ⅲ 地域に根ざした森本の実践 ・貧しいので肥料も買えず,1 反の収量も 6 俵半,みんなは 7 俵 8 俵と穫っていた。 ・6 俵半しか穫れないのに戦争のため米の供 出は 7 俵で食べるものに困った。 ・麦めし・大根めしで食いつなぎ,3〜4 時 間の睡眠で働き子どもを育てる。 1.地域の何を教えるか 森本は,新任当初から地域の教材化に力を注 いでいる。早速,文集『青空』に子どもたちが 調べた「通信の発達のあゆみ」「貨幣と紙幣の 歴史」など目の前の事物を調べ書き記す実践を ・昭和 20 年 7 月 30 日,校区も空襲に合う, 始めている。物事の事実を知ることを森本は教 田の草取りに出かけていた N さんも機銃 育の基本とした。そして,父母たちのくらしの 掃射の爆撃で命拾いをする。4 人の子ども 中心をなす地域の農業を見つめる「日本の」を のために死ねないと思った。 テーマに実践を進めている 。 ・夫の戦死。(ニューギニア→フィリピン, 戦死の公報届く,遺骨のない骨箱帰る) I は N さんの話を聞いて,共感しながら次の ように書いている 。 (22) (23) 森本は地域教材についてこう述べている 。 (24) 地域を教えるのではなく,地域で教える ことが大切である。子どもたちや父母がく らしている目の前の地域の問題を教えるの 私がもっとも胸をうたれて泣いたところ だが,そのことを通して日本や世界が抱え は,子どもたちがお父さんに会いに行くと ている問題を考えることが社会科の目的で ころです。会いに行って,お弁当を一口も ある。地域での「で」こそ常に意識した取 食べてくれなかったお父さんというところ り組みでなければならない。 で,出会った喜びとまた会えなくなるなあ この時期,西尾の整理によると, 『歴史地理 という気持ちがよくわかります。帰るとき 教育』誌に掲載された全国の平和教育実践は以 に,子どもがお父さんの軍服をちぎれるほ 下の通りである ど引っ張ったというところで,もし私がそ 西尾の整理によると,報告された数は 50 年 のころの子どもだったら,泣いて行かない 代 6 本,60 年代 30 本,70 年代 61 本,80 年代 でと言ってお父さんにすがりつくと思いま 141 本。またとりげられた内容の主なもには 60 す。戦争はどうしてこんな親子のきずなを 年代 15 年戦争 12 本,強制連行・民族差別 0 本, 切りさこうとするのかなと思いました。 70 年代 15 年戦争 32 本,ヒロシマ・ナガザキ 6 お墓調べから始まった地域の戦争学習は,子 本,強制連行・民族差別 0 本,そして 80 年代 どもたちに戦争とは何かという本質に迫るもの に入って 15 年戦争 66 本,ヒロシマ・ナガサキ になってくる。森本は実践記録の中で「地域に 17 本と増えるが強制連行・民族差別 1 本であ 根ざしてアジア・太平洋戦争を探ったことは, る。取り上げ方では,60 年代では体験の聞き たとえ感性的な域を出ないものであっても,強 取り,お墓調べなどの調べ学習 0 本,70 年代 く子どもたちの心に食い込んでいき,戦争のむ では体験の聞き取り 10 本,お墓調べなど調べ ごさと平和の尊さを考えさせる糸口を与えるこ 学習 3 本,80 年代体験の聞き取り 23 本,お墓 とができたと考えます」と述べている。 調べなど調べ学習 4 本である。60 年代まだ平 この実践から次のようなことが伺えます。 和教育への取り組みが進んでいないときから, 森本光瑛の平和教育について 83 森本はすでに聞き取り学習を通して戦争の被害 から 80 年代にかけて取り組まれた全国の平和 や強制連行の事実から戦争の本質を考えさせよ 教育の取り組みの内容と方法を次の三氏の戦後 うと試みたのである。 の平和教育についての整理を手がかりに考え この時期,滋賀においても平和教育が皆無の る 。 (28) ときに このような取り組みが始められたのは (26) 地域の教材化にいち早く取り組んだ森本の実践 1.三氏の整理による戦後の平和教育の流れ と森本実践 の意義は大きい。 (1) 竹内久顕 2.森本のとりあげた地域の歴史教材 竹内は最近の著書『平和教育を問い直す』の 戦後まだ平和教育が広く行われていない中で 中で,15 年戦争など過去の戦争について,今 も,森本のめざす地域学習が教室に浸透してい 日の子どもたちにとっては実感が持てず,戦争 けば,父母の戦争体験をもとに T の「戦争と に対するイメージのズレが起こる。自分の頭の 父の歴史」に見られるように日本と朝鮮や朝鮮 中でなぜ戦争が悪いのかを考える力が育ってい 人差別を考えさせることが可能であったのであ ない 。今日の戦争に対しては,戦争などの暴 る。 力の背景となる異文化や異なる相互の関係に気 森本は,後年の教研集会の報告の中で社会科 をどう教えるか提起をしている 。 (27) ①具体的な活動や体験を通して,自分と身近 (29) づき・理解するコンフリクト教育 の大切さを (30) 解いている。 (2) 西尾 理 な社会と自然との関わりに関心を持ち,自 西尾はその著書『学校における平和教育の思 分自身の生活に関心を持つとともに,その 想と実践』の中で ,教職員組合の教育研究集 課程において生活上必要な力を身に付けさ 会で出される報告から平和と民主主義の問題を (31) せ,自立への基礎を養う生活科という社会 生活を通して学ぶことの大切さを説いている。 科は中・高学年社会科へとつなぐ社会認識 平和教育を民主教育の根底に据え,その問題解 の基礎を育てる。 決のために生活綴方的教育と歴史教育の結びつ ②生産と労働は社会を支える土台である。生 きの必要を述べている 。 (32) 産過程・生産関係・所有・労働者の権利と (3) 村上登司文 願いを押さえる。 村上登司文は近著『戦後日本の平和教育の社 ③民衆の幸せが実現される社会のしくみが民 会的研究』によると,1960 年代高度経済成長 主主義である。いのち・人権を大切にして, の中で社会全体の戦争体験の風化が急速に進み 地域・日本と世界のかかえる今日的な課題 生命の尊厳,そして戦争の持つ非人間性・残虐 に挑む。 性を学ぶことが教育の課題になったという 。 ④ こ こ で みん な で・生 き・住 み・働 き・学 び・たたかう,それが地域。地域を見つ め考えることは,子どもたちの目を社会 へ開かせる出発点である。 (33) これまでの戦争の被害体験にとどまらず加害体 験を合わせて学ぶことを強調する。 一方,森本は地域を教材化した日本史学習の カリキュラムをこの時期完成している 。 (34) 地域を教え,地域で,地域を通して歴史を教 「人々が生活し,労働し,たたかう地域」と える。この歴史の授業プランには地域教材が用 位置づけた中で,近現代史の学習の一環として 意されている。地域教材を内容とし,生活綴方 子どもたちが主体的に学ぶ平和教育を続けてい 的教育を方法として森本は子どもの認識を確か る。 にしていったと言える。 戦争の学習が過去のものとなり今につながら ない,また,平和憲法の理念と遊離していると Ⅳ 戦後の平和教育実践と森本 言うとき,こうした森本による地域の人々のく らしの願いや幸せを求める思いを断ち切った戦 森本の実践の意義を森本と同時代の 60 年代 争を歴史学習と結んで行うことは竹内の言う 84 田 中 「限界」を乗り越えるものになっている。また, 哲 証的・科学的な内容に高めるものにしている。 西尾が強調する生活と結んだ歴史教育のプラン さらに,T は書き綴る中で自分の考えを確 作りや村上の言う主体的な平和教育の展開にも かなものに作り上げている。T のこの文章は 応えるものを森本の実践から見ることができる。 そのことを表している。「ぼくも朝鮮に生まれ ていたら日本人を憎んでいただろうと書いたが, Ⅴ 森本の平和教育を 生み出したものは何か 多くの事実を知った今は,みんなを憎まない。 ほとんどの人が戦争のために苦労しなければな らなかった人たちなのだ。 」事実をもとに自分 先ずあげられるのは,地域に目を向け,地域 で文章を書き,友だちの書いたものを学級で読 に徹底してこだわり,どの学習においても地域 み合う中でこのような認識に到達させることが 資料が活かされた実践が取り組まれていること 可能になった。 である。森本は地域を「ここに,みんなで生き, また,遠くの戦争に対しても思いを馳せ考え 働き,学び,たたかう」ところと位置づけてい るには,事実をしっかり学びとらえ,人々の願 る。それ故,地域で生きる人々は主権者である いや生きる希望を奪う戦争の悲惨さを書き綴る と位置づけている。そして,その主権者を育て ことを通して自分と異なる他の考えや生活知る ることが社会科のねらいと考えている。先に見 取り組みを大切にしている。その中から,前述 たように歴史学習において,「地域には,日本 の T のように自分の考えを新しく作り出し, の課題が凝縮されている」と地域の資料から社 戦争や社会に対する深くて広い認識を育ててい 会をおさえることを徹底してる。 る。 森本は地域の教材化をただ単に「近くだか 平和教育を行う上で竹内は,今日の戦争と子 ら」「生き生き学べるから」と言うだけでなく, どもの平和への意識・学ぶ姿の乖離を問題にし 地域の矛盾を科学の眼で見つめ,民衆の視点で ている。森本は,地域を通して主体的な学びを 見る取り組みを進め,地域の「あるがままの事 つくり,生活綴方教育を実践の基礎に据え,解 実を教える」だけでなく「地域の事実で日本や 決の糸口を示している。 世界を社会を教える」ことを貫いている。そこ 森本は綴方教育は「内容でもあり,方法でも から,実証的・科学的な社会科を可能にしてい ある」とその教育力に依拠した実践を積み上げ る。 てきた。森本の実践を通して生活綴方教育の奥 次にあげなければならないものは,森本が地 域に目を向け実践した生活綴方教育である。 生活綴方は戦前から子どもに寄り添い,子ど 深さを知り,さらに学びを深めたいと考える。 ところで,森本は,早くから社会的な弱者の 存在やその不合理に気づいている。それには, もに事実をリアルに見つめ書き綴らせ,そのこ 地域で過ごした子ども時代の体験とともに学生 とを通して子どもの自立を促す教育である。朝 時代に同じような思いを持つ仲間との出会いが 鮮人の父の戦争体験を聞き取って綴ってきた 大きいと思われる。滋賀の綴方教育は森本の学 T への関わりに森本の綴方教師としての姿が 生時代にはまだ開花していない。滋賀の作文の 読みとれる。 会の発足は 1961 年まで待たなければならない。 夏休みに子どもたちが父母から聞き取って書 そうした中で,のちに作文教育の中心になる南 いてきた『太平洋戦争の記録』については森本 澤恭子や肥田嘉昭らの仲間の中で育ったことは は決して満足せず,「この記録は生活綴方とい 大きいと考えられる。また,1956 年に発足し うには不十分なものでした」と再度の聞き取り た滋賀の歴史教育者協議会は,1958 年「しが を通して事実をていねいに聞かせている。そし の地歴教育」を発行し,生活の持つ問題を掘り て,T の聞き取りに対して「お父さんはどん 起こしながら,合理的な系統的な歴史と地理の な差別を受けたのか」と赤ペンを入れて問い直 考え方とらえ方へと指導する方法を探求するこ しをしている。赤ペン指導を表記・表現の指導 とをおこなった 。 に終わらせず,事実を具体的に聞き取らせ,実 (35) こうした環境の中で森本は 1959 年に新任を 森本光瑛の平和教育について 迎える。最初の赴任校での取り組んだ学級文集 『星座』で家族とともに生きる子どもの姿を知 り,教育方法として綴方の魅力を発見している。 以来,森本は時々の課題を見失わないために生 活綴方を実践の柱としている。そして「その生 活綴方は内容でもあり,方法でもある」と確信 を持つまでに至っている。 この言葉に表されているように,実践に向か う森本の教育思想はこの学生時代から新任の頃 の初期の影響が大きいと考えられる。 注 ( 1 ) 竹内久顕『平和教育を問い直す』法律文化社, 2011 年,3 頁 ( 2 )「戦後教育と社会科」 『勝田守一著作集』第 1 巻,国土社,1954 年,26 頁 ( 3 )「お父ちゃんの兵隊時代」学級文集『青空』能 登川南小学校,1962 年 ( 4 ) 竹内前掲書 西尾理『学校における平和教育の思想と実践』 学術出版社,2011 年 村上登司文『戦後日本の平和教育の社会的研 究』学術出版社,2009 年 但し,当然ながら森本光瑛の実践については 三氏とも知らない。 ( 5 ) 生活綴方的教育法に言うリアリズムとは現象 を現象として正確に捉え,事態の中から本質 的な部分を誤りなく見いだすリアリズムだと している。(村山士郎『生活綴方実践論』青木 教育叢書 1985 年,113 頁) ( 6 ) 森本氏へのヒアリングによる,2013 年 7 月〜 8月 ( 7 )『星座』(湖東第一小学校 6 年い組学級文集) 1960 年 ( 8 ) 村上前掲書 52 頁 ( 9 )『歯車』(能登川西小学校 6 年花組学級文集) 1968 年 (10) 森本光瑛「実践記録 父母のくらし,大平洋 戦争の記録を綴らせて」第 1 回湖東作文の会 研究会,1981 年 (11) 古屋博「十五年戦争の学習」 『歴史教育 50 年 のあゆみと課題』歴史教育者協議会,1997 年, 351 頁 (12) 注 (9) に同じ (13) 同上 85 (14) 同上 (15) 同上 (16) 竹内前掲書 73 頁 (17) 注 (11) に同じ (18) 注 (10) に同じ (19) 竹内前掲書 186 頁 (20)「社会科通信」(桐原小学校の 6 年 1 組の教科 通信) 1996 年 (21)「その日,二つの命が失われた〜桐原の空襲物 語」(森本の聞き取りをもとに作成した教材) 1996 年 (22) (23) 学級文集『青空』 ,能登川南小学校,1962 年 (24) 森本氏へのヒアリングによる,2013 年 7 月〜 8月 (25)「歴史地理教育」誌に見る年代別平和教育,西 尾前書『学校における平和教育の思想と実践』 , 96〜102 頁 (26) この時期の滋賀における平和教育について木 全清博は次のように言う。 貴生川小学校での長田忠男の国際理解教育 の実践があるのみ (心情的理解および態度を 培うことをねらいとした) で広島・長崎の被 爆体験や父母の戦争体験の継承や 15 年戦争史 や国際紛争の学習などは,滋賀県の平和教育 の授業には登場してきておらず,後年を待た なければならなかった。(木全清博『滋賀の学 校史』文理閣,2004 年,220 頁) (27)「地域と民衆の歴史を見る」1994 年全国教育 研究集会社会科教育レポート 1〜2 頁 (28) 三氏の整理と合わせて前掲の歴史教育者協議 会の『歴史教育 50 年のあゆみと課題』をもと に考える。 (29) 竹内前掲書 5 頁 (30) コンフリクト教育とは対立は悪いものではな く,常に社会に存在するものと認識し,その 背景にある関係や文化に気づくことで,多様 な視点からその対応を考えさせるという,極 めて現実的なスキルを身に付けさせる教育を 言う。(竹内前掲書,91 頁) (31) 西尾前掲書 69 頁 (32) 同上 429 頁 (33) 村上前掲書 75 頁 (34) 森本光瑛「近現代史をどう教えたか」(能登川 東小学校実践報告集 1981 年) (35) 『戦後滋賀の教育のあゆみ』滋賀県民主教育 研究所 2008 年,140 頁
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