⑨キトラ古墳

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キトラ古墳
十二支寅面人身像
天井星宿図
*キトラ古墳とはへんな名前だがどうして名付けたの?
この古墳は近鉄・飛鳥駅の東800mにある高松塚古墳の真南 1.2 キロにあり、檜隈地
区の字(あざ)ウエヤマと呼ばれる丘陵の南斜面にあり、深く入りこんだ地形語「浦」の北
側にあることから北浦=キタウラ―キトウラ―「キトラ」と口承された地名に起因します。
考古学では一般の遺跡の名称はその所在地の大字(おおあざ)や小字(こあざ)をつけ
ることを原則としており古墳もこれに倣うとされています。
*どうして壁画古墳であると判ったの?
昭和47年高松塚の壁画が発見され古代史ブームが起こり、この近辺で類似古墳の調査
が進められたが、その一環として以前に道路工事の際に削り取った斜面に小礫石があった
ことから地元の人達の間では古墳があるのではという話があり、飛鳥古京顕彰会と関西大
学考古学研究所で実測図を作成して、昭和58年11月にNHKの協力で盗掘孔よりファ
イバースコープを入れての石槨内部探査の結果、北壁面に玄武(げんぶ)= 亀と蛇の壁画
があるのを確認しキトラ古墳と命名されました。
この探査では機材の故障で玄武しか発見出来ませんでしたが、高松塚古墳の経験から四
神図(青龍・朱雀・白虎・玄武)が期待され、機材の改良と技術の進歩を待ち平成 9、10、13
年のデジタルカメラによる探査で四神図や星宿図 (天文図)が鮮明に映し出された。
特に高松塚では発見されなかった南壁の赤い鳳凰(ほうおう)= 朱雀も発見され話題を
呼びました。
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*キトラ古墳壁画の保存は?
高松塚での失敗の教訓からキトラでは発見後も極力現状維持を守りながら慎重にカメラ
のみによる壁面観察を継続していた。
2001年高松塚古墳で2回目のカビ大量発生が生じており、この時期にキトラでは南
壁の朱雀が発見されたこともありこの年7月に「特別史跡キトラ古墳の保存・活用に関す
る調査研究委員会」が召集された。
本委員会により発掘調査のための仮設保護覆屋の設置竣工で2004年1月から石室内
部調査が始まったが、目視確認の結果漆喰の剥離が予想以上に進行していることが確認さ
れ剥落の危険性があることから第6回委員会が2004年6月に開催されて保存措置の議
論が緊急課題として取り上げられた。
同時進行で高松塚古墳では「恒久保存対策検討会」が立ちあげられ石室解体の方向で検
討されていたが、キトラ古墳では既に天井石が割れており凝灰岩の強度不足で石材単位の
解体は困難とされ、特に漆喰が今にも落ちる可能性あるものを救うことが優先対策として、
剥ぎ取りリスクは伴うが剥離している部分から始めることで「壁画取り外し案」が決定さ
れた。
*キトラの壁画は剥ぎ取られたの?
2004年8月から「取り外し」作業が開始し、東壁の青龍と西壁の白虎の剥落寸前の
対象からスタートしたが、星宿図のある天井部は漆喰の粉状化が激しく剥離作業は困難を
極めたが、最も注目を集めた南壁の朱雀の取り外しは2007年に無事終えた。
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「取り外し作業」は漆喰面に表打ち作業で壁画を補強し、剥離している場合はヘラで剥
離作業、固着している場合はダイヤモンドソーで剥離作業、剥離後裏打ち作業、表打ち除
去作業、封入作業の繰り返しとなる。
上図朱雀壁面に示す如く漆喰の厚みが均等でないため作業を困難にしている。
剥ぎ取り作業は2010年11月まで継続されたがこの年の春季特別展として「取り外
された四神像」が特別公開された。
2013年8月に漆喰面を全て剥ぎ取られた石室の一般公開が実施されたが、仮設保護
覆屋の作業室につながる南壁・盗掘孔部からの観察で9月から史跡整備のため埋め戻され
る最初で最後の見学会であった。
キトラ古墳は漆喰の剥ぎ取り手段により高松塚とは異なり遺跡破壊には至らず、石槨は
建造時のまま保存されることになり古墳として復旧されることとなる。
盗掘孔は石製蓋と漆喰による目留で密封され元の静けさに戻ることとなるでしょう。
*高松塚にある人物風俗図がなぜ無いの?
キトラ古墳では人物像が無く十二支像が描かれており、子(ね)と虎(とら)面人身像
等6体が確認されていますが今後の発掘調査で全貌が明らかになるでしょう。
現在の北朝鮮である高句麗の壁画古墳では四世紀の壁画では人物像が主体であったが四
神像が加わり、しだいに四神像が中心となり七世紀後半では四神像のみで人物像が無くな
っている経緯があり、この影響を受けたのではないか?と考えられます。
しかしこの十二支像は特異で、我国の獣面人身像の最古は奈良時代の那富山(なほやま)
墓(伝・聖武の皇太子墓)にある隼人石(はやといし)とされて江戸期から知られていたが
十二支像の擬人化は中国・隋の時代前後(6C末)が最初で唐の安・史の乱(755)以後急増
しているが、半島でも八世紀中以後しか実績がないため七世紀末とされているキトラ古墳
の十二支獣面人身像は謎とされている。
*天井に画かれている星宿図とは何なの?
古代の天文図で北極星を中心に東西南北7星座あり、合計28星座が画かれていますが
プラネタリュームを想像してもらえれば良いでしょう。
高松塚の星宿図よりずっと精細に画かれて天文図としては不可欠の内規(ないき)や外
規(がいき)
、黄道(こうどう)等が刻印されている。この星宿図は東洋でも最も古い遺品
とされている高麗石刻天文図(こうらいせっこくてんもんず)の拓本に類似しており、観
測地点を示す内規径より緯度を推定すると38.4 度となり高句麗の都・平壌の緯度39度
に近いことから原図は高句麗からもたらされたとする説があります。
日本書紀の天武二年に遣使が高句麗を傘下に収めた新羅から来たと記されていることか
らも、この贈答品に星宿図が含まれていた可能性があり、天武四年(676)に我国初の占
星台(せんせいだい)を造ったとするのもこの星宿図を参考に天文観測したのでしょう。
また668年唐軍により滅亡に追いやられた流浪の高句麗王族が渡来してきており、古
代からの渡来人の定住地飛鳥の檜隈に星宿図をもたらしたとも考えられます。
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*なぜ四神図が東西南北の壁面に画かれているの?
家を建てる時に方角を気にするのと同じように墓を造る場所が重要で東西南北の方向に
一定の条件を満足する場所を選定するのが風水思想で、この条件を満足しない墓地しか選
定できない場合に墓の内面の東壁:青龍、北壁:玄武、西壁:白虎、南壁:朱雀を画くこ
とで代用しようとしたのでしょう。
この考え方は5C~7Cの高句麗壁画古墳に多くの調査実例があることからも我国に
伝えられ、高松塚やキトラ古墳が造られたのではないかと考えられています。従って四神
図の壁画古墳の被葬者を朝鮮半島からの渡来王族に推定する根拠にもなっています。
キトラ古墳は平成15年9月から発掘調査が始まりますので、その結果で種々の謎が解
けることを期待したいものです。
<註>
内規:観測地点で年中地平線に沈まない星の範囲を示す円でこの直径から観測地点の緯度
がわかります。
外規:年中地平線より上に現われない星座の範囲を示す
黄道 :地球から見て太陽が運行するように見える天球上の円で、天の赤道との交点が春
分・秋分点を示し暦の制作に重要、ただしキトラ古墳では裏返しに刻印されている。
四神図:風水思想で東西南北の方角を色や獣で示し、東:青龍、西:白虎、南:赤鳳(朱雀),
北:黒の亀と蛇(玄武)をそれぞれの方角の守護神とした
占星台:天体観測するための建物
十二支像:エトの12種の獣を擬人化して獣面人身像にしたもの
那富山墓:伝承で聖武と光明皇后の皇子で幼死した基皇子の墓とされ黒髪山の近くにある
陵墓参考地
隼人石:墓の東西南北四隅の立石で東:卯と北:子の線刻は読み取れるが伝承では「犬石」
「七狐石」と呼ばれていた
安・史の乱:唐・玄宗皇帝の時代に安禄山が叛乱を起こし史思明が引継いだ乱
高麗石刻天文図:高句麗に伝承されたとする原石は
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