fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) v はじめに 本書では,不規則系における準粒子(電子など)を扱うための理論「コヒーレ ント・ポテンシャル近似 (Coherent Potential Approximation — CPA) 」と, それに関連した理論を論じる.CPA は,複数の理論的方法で導かれた.一番 基本的なのは,不規則系における 1 電子グリーン関数を摂動展開し,展開項の アンサンブル平均を「正しく」実行し,〈自己完結的な手続き〉で必要な項を 拾って「単一サイト近似」として求めたものだ.この他にも,電子相関を考慮 したハバード理論,有効媒質近似,連分数表現に対する近似などからも,同じ 形の結果が得られている.物理学者の Krumhansl, J. A. は CPA を「歴史上, 発見され,再発見され,そして再々発見され続けた理論」と評した.異なるア プローチが同じ形に行きつくのは,この近似の奥深さを物語っている. ノーベル物理学賞受賞者の Anderson, P. W. は CPA を「静かだが過激な革 命」と位置づけた.CPA は近似理論として,無比の完成度を誇っており,また 普遍性の広さは肩を並べるものもない.それゆえに CPA は,不規則系研究の 金字塔とされている. CPA に り着いたさまざまな理論のなかで,「有効媒質近似」が最も手軽な ので,CPA はこの近似と「セット」で伝えられることが多い.しかし CPA を 「有効媒質近似」を通してしか把握していないとしたら,それはあまりに勿体な い.だから「本来あるべき理解の仕方」の解説も,本書の使命とした. さらに,アンダーソン局在の議論に 1 つの章(第 8 章)を当てた.「アンダー ソン局在」と「CPA」は,20 世紀における不規則系理論の双璧とされている ことが,局在を取り上げた理由の一端である.だが,一面的な捉え方をされて いるという点で,CPA の上述の事情に似たところが局在の問題にもある.そ れを紹介するのが目的だ.アンダーソン局在はスケーリング理論に伴って一躍 有名になったが,スケーリング理論のみを介して局在の問題を理解したつもり なら,世界を半分しか見ていないことになる.粗視化の過程をスケーリングの 手法で明かした理論は,それはそれで立派であった.しかしその前提となった fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) vi ● はじめに Anderson の元の理論を飛ばしては,本質を見失う. 本書で扱う数学は,四則演算と微分のみで,積分は 1 回か 2 回しか使わな い.関数も,代数関数がほとんどで,ときどき指数関数や対数関数が現れる程 度だ.特殊関数も高等数学も,まるきり無縁.要するに本書を理解するには, 高校で習う数学だけで事が足りる.そんな簡単な数学から,手品のように見事 な結果を導き,不規則系の理解につなげる.その醍醐味が,本書の売りである. 物理学者の Dirac, P. は,「数学的に込み入っていて,ゴタゴタした理論は, どこか間違っているに違いない」というのが持論だった.Dirac 自身, 「美しい 理論」の構築に腐心した.Dirac のいう「美しい理論」も,難解な数学を必要 としないはずだ.簡潔な数学から自然の営みの真髄を見つける.それが理論屋 としての本懐ではないか. 本書では,CPA を利用した最近の研究や,CPA 拡張の新しい試みについて は,頁を割かなかった.そういうものは,やがて時とともに取捨選択される. 一方,世紀を跨いで選択されてきたコア部分がある.CPA に関する,そうい うコア部分の記述に力を注いだ. 「不規則系」 「アモルファス」 「液体金属」などのキーワードを表題に含んだ本 は,世界中を探せば他にもあるだろう.しかしそれらの本のいずれにも書かれ ていないことを,本書に書いた.その意味で「さぁ,買った,買った.絶対に 損をさせないよ」と自信をもっていえる.それが,著者のスタンスである. 本書の原稿を読み適切な助言をしてくださった 森 弘之さん,長尾辰哉さん, ひょう 藤原 進さんに,感謝の意を表します. 2015 年 若葉萌える季節に 著者記す fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) vii 目 次 はじめに 第1章 不規則系 —––事始め 1.1 不規則系とは何だろうか 1.2 結晶の定義と不規則系 1 ・・・・・・・・・・・・ 1 ・・・・・・・・・・・・・ 2 1.3 不規則系の分類 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 1.4 短距離秩序と長距離秩序 ・・・・・・・・・・・・ 7 1.5 液晶と準結晶 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 第2章 結晶に関する議論 —––まず規則系を復習しておこう 15 2.1 空間格子と逆格子 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 15 2.2 結晶の電子バンド構造 ・・・・・・・・・・・・・ 19 2.3 金属と非金属 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 25 第3章 不規則系の一般論 —––不規則であるにもかかわらず出現する性質 33 3.1 エネルギー・ギャップの問題 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 34 3.2 モデルハミルトニアン ・・・・・・・・・・・・・ 37 3.3 アンサンブルの概念 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 53 簡単な近似からでも見えてくるもの —––置き換え型不規則系の真骨頂 59 4.1 モデルの設定と理論の方針 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 60 4.2 摂動項のアンサンブル平均 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 68 4.3 簡単な近似 74 第4章 第5章 5.1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 摂動項をダイアグラムで表示する —––直観的な把握 91 ダイアグラムによる表現 91 ・・・・・・・・・・・・ fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) viii ● 目 次 5.2 和の制限解除とキュムラント ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5.3 摂動による無限和 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 103 第6章 自己完結的な無限和が CPA を与える —––近似の数学的な素性と完成度の高さ 98 111 6.1 自己完結性が必要 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 112 6.2 自己完結性の概念 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 116 6.3 自己完結的に求めた解の優越性 第7章 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 124 コヒーレント・ポテンシャル近似の普遍性 —––再発見され続けて…… 139 7.1 さまざまな方法で同じ結果が得られる ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 139 7.2 CPA ――多元合金と複数サイト ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 153 7.3 CPA から広がる世界 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 159 第8章 アンダーソン局在 —––不規則であるからこそ出現する性質 161 8.1 電気伝導度は状態密度に比例する 8.2 アンダーソン局在 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 166 8.3 スケーリング理論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 178 8.4 移動度端 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 183 第9章 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 161 位置の不規則性をもつ系 —––コヒーレント・ポテンシャル近似はここでも有効 191 9.1 位置の不規則系に対するアンサンブル平均 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 191 9.2 位置の乱れに対するコヒーレント・ポテンシャル近似 ・ ・ ・ 193 9.3 多バンドの場合への拡張 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 207 おわりに 付録 A 219 モーメントとキュムラント 221 A.1 定義と相互の関係 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 221 A.2 不規則 2 元合金への応用 A.3 物理学におけるモーメントとキュムラントの応用 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 223 ・ ・ ・ ・ 226 fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 目 次 ● ix 付録 B 付録 C 付録 D アンサンブル平均に対する《和の制限解除》 —––3 次の項の場合 228 母関数から定義した Pn (c) と漸次式から求めた P̃n (c) との 等価性 231 自己完結的な単一サイト近似 —––バーテックスの因子 Qn (c) 233 D.1 Qn (c) (n ≦ 9) の具体的な形 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 233 D.2 バーテックスに付与される因子 付録 E E.1 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 234 ハバード理論の解析 237 (a) 「散乱補正」 (Ωτ )のみを考慮した場合 —––CPA と一致する ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 237 E.2 付録 F 「全ての補正」 (Ωtotal )を考慮した場合 τ —––バンドが融合型になりやすい ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 238 連分数の導出 240 文 献 245 索 引 253 fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 1 1 不規則系――事始め 1.1 不規則系とは何だろうか 物理学はしばしば,研究の対象とする物質の在りようで分類され,それにし たがって命名される.たとえば小さな対象から大きな対象へ,素粒子物理学, 原子核物理学,凝縮系物理学,地球物理学,天体物理学,宇宙物理学が挙げら れる.生物物理学とか超高層大気物理学,さらには雲物理学などの,楽しい命 名もある.いずれも研究の内容は,読んで字の如しである. 上掲の「凝縮系」とは,固体と液体の総称である (図 1.1 参照) .そもそも「凝 縮」とは,飽和蒸気の〔温度を下げた場合〕や〔圧力を上げた場合〕に,蒸気 の一部が液体に変わる現象をいう.図 1.1 に示すように,気体,液体,固体を [物質の 3 態]とよぶが,この 3 態の違いは,構成要素(原子や分子)の存在形 態の違いに拠る.原子や分子の数密度が低く,互いにほとんど力を及ぼさない とき,系は気体になる.一方,原子や分子の数密度が十分高いと,力が及んで 互いに引き合い,系は凝縮して液体や固体が実現する. 固体は, 「結晶」と「結晶に非ざる固体」とに分けられる(図 1.1) .後者を「非 結晶固体」あるいは「非晶質」とよぶ.前者と後者の根本的な差異は,原子配 列における周期性の有無にある.原子配列に[周期的な規則性]がある固体が 「結晶」で,そうでないものが「非結晶固体」だ.これに対して液体の原子配列 は,[周期性とは無縁]で,《常に不規則》である.したがって,「非結晶固体」 と「液体」とは,《原子配列が不規則》という共通の性質をもつ.原子配列の [不規則さに由来する]物性も,非結晶固体と液体の両方で共通に見出される. その意味でこの両者を「不規則系」という括りでひとまとめにして論ずること か も多い.斯くして図 1.1 から明らかな如く,《凝縮系》は【固体と液体の総称】 であると同時に, 【結晶と不規則系の総称】でもある.ここで記述した「不規則 系」こそが,本書のテーマである. fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 2 ● 1 不規則系 結晶 固体 固体 物質の3態 非結晶固体 凝縮系 液体 液体 凝縮系 不規則系 気体 図 1.1 凝縮系の分類. 凝縮系物理学は,一般には「物性物理学」とよばれる.先にも述べたように, はん 物理学は対象ごとに分類されるのが一般的だが,研究の「手法」は分類後の範 ちゅう 疇によらず,[要素還元的アプローチ]が基本だ.物性物理学では,対象の系 の要素還元を行なう際,追求する要素のレベルを原子止まりにする.すなわち, 《原子を分割不可能な要素として扱い》,原子の下部構造である核子(原子核を 構成する陽子と中性子)や,さらにその下部構造である素粒子(核子を構成する クォークなど)の詳細には立ち入らない.言い換えると,物性物理学の研究に おける登場人物は, 「原子 (またはイオン) 」と原子から供給される「電子」のみ とする.これらの登場人物のあいだの相互作用が与えられたとき,系全体とし てどのような物語が展開されるか.それを調べるのが,研究の目的だ. 1.2 結晶の定義と不規則系 前節では,凝縮系は「結晶」と「不規則系」とに分けられ,後者には[非結 晶固体]と[液体]が含まれることを述べた(図 1.1) .このとき言及された「結 晶」の厳密な定義を,本節で解説する. 結晶とは,原子または分子(あるいは原子群)の配列が【周期性をもつ固体】 である.結晶の周期的構造を直感的に説明するために,2 次元結晶のひとつの 例として,無限に大きい碁盤を引き合いに出すことが多い.碁盤の縦と横の線 の交点にそれぞれ 1 個の原子を割り当てると,「正方格子」になる.図 1.2 の 左上の図が,正方格子の様子を表わしている.3 次元結晶の例としては,ジャ fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 1.2 結晶の定義と不規則系 ● 3 (a) (b) (c) (d) 図 1.2 不規則系の分類.上段の 2 つの図は結晶を表わす. (a)置き換え型の乱れ(セル型の乱れ,成分の乱れ,定量的な乱れ,などとも よばれる) 混晶,不規則合金,不純物半導体,など. (b)位置の乱れ(構造型の乱れ,定性的な乱れ,などともよばれる) 液体,非晶質金属,など. (c)つながりの乱れ(ネットワークの乱れ,ともよばれる) 酸化物ガラス,非晶質半導体,など. (d)連続的な乱れ 巨視的なランダム媒質,など. ングルジムが縦にも横にも上下にも無限に並んだものを想像するのがいい.3 方向の交点にそれぞれ 1 個の原子を割り当てると,「単純立方格子」になる. 数学的には,結晶は次のように定義される.1 平面上にない 3 つの基本ベク トルを a1 , a2 , a3 で表わすと,任意の整数のセット (n1 , n2 , n3 ) に対して, R = n1 a1 + n2 a2 + n3 a3 (1.1) で位置が与えられる空間的な点配列 {R} を, 「空間格子」とよぶ.なお,2 次 元結晶については,1 直線上にない 2 つの基本ベクトルを使って空間格子を定 義する.格子点の各々に「基本構造(同等の原子あるいは同等の原子群)」の並 んだものが「結晶」だ.式 (1.1)で表わされる性質を《周期性》あるいは《並進 fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 4 ● 1 不規則系 対称性》とよぶ.本書では両者を代表して《周期性》を使う. 一方, 【格子点上の原子 (あるいは原子群)の種類が互いに同等でないもの】や 【原子 (あるいは原子群) の位置が式 (1.1)を満たさないもの】を不規則系とする. 図 1.2 (a) ∼(d)に,典型的な不規則系の例を示す(1.3 節参照). 本書の議論は,原子配置の[空間的な(静的な)]不規則性に限り,電子スピ ンのように時間的に変動する(動的な)不規則性は,対象としない.ただし,不 規則性が[静的]なのか[動的]なのかは,絶対的には決められず, 「原子配置 の変動の時間スケール」と「注目している現象の時間スケール」との比較で考 えなければならない.前者が後者より短いか同程度ならば,原子配置の不規則 性は[動的]だとし,前者が後者より十分に長ければ,原子配置の不規則性は [静的]だとみなす.たとえば,液体金属などで拡散や粘性のような物性を扱う 際には,原子の時間的な動きが本質的になり, [動的]な扱いが必要である.こ れに対して電子の振る舞いを論ずる際には,電子の数千倍もの質量をもつ原子 の配置は[静的]だと考えてよい. 不規則系については,これまでにもいろいろな分野で議論されており,さま ざまな異なるよび名が使われてきた.そのいくつかの例を,表 1.1 に挙げる. 原子配置に秩序がないという意味で, 「無秩序系」と名づけられたこともあっ た.実際には,1.4 節で述べるように,不規則系における原子の配置にも一定 の「秩序」があるので,この命名は適切ではない. 前節で述べたように結晶ではない事実を強調して,「非結晶」とか「非晶 質」とよばれる.あるいは,周期性がないことから,「非周期系」とよんだり もする.また,不規則系の典型的な一例であるアモルファス物質は,結晶のよ うなはっきりした(マクロな)形をもたないことから,「無定形」とも言及され る.そもそも「アモルファス= amorphous」という単語は,否定の接頭辞 a と morphous (形がある)から構成されており,amorphous は「形がない」を 意味する.さらに無定形固体のなかで,「融解急冷」で作ったものを別枠にし て「ガラス」とよぶ.高温で融解状態にあった物質を急速に冷却し,結晶化す る時間を与えずに固体にしたものだ. 表 1.1 の最後の行の「乱れた系」あるいは「ランダム系」は,抽象的な表現 だが,不規則系の同義語として広く使われる.表 1.1 に示された名称のなかで, fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 1.2 結晶の定義と不規則系 ● 5 表 1.1 不規則系のさまざまな命名. (最後の 2 行の「ガラス」と「乱れた系」には,否定を意味する漢字が語頭 についていない). 不規則系 無秩序系 非結晶 非晶質 disordered system non-crystalline material 固体のみ 非周期系 aperiodic system 無定形物質 amorphous material 固体のみ ガラス glass 固体のみ 乱れた系 random system 「非晶質」, 「無定形」, 「ガラス」は,固体にのみ用いられ,液体には使わない. この 3 件以外の表現は, [不規則な固体]にも[液体]にも使われる. 本書では,これらの表現を適宜用いて議論する. 表 1.1 からわかるように,結晶でない物質のよび方には, 「不」 「非」 「無」と, 否定を意味する漢字が語頭につくものが多い.考えてみれば,失礼な命名だ. 人間の思考回路で概念把握の順序として, 「秩序のある結晶」という理想像がま ず浮かび,その秩序がこわれたものが「結晶ではない不規則系」として認識さ れるからだろう.この傾向は,不規則系に対する英語の命名にも現れており, 否定を意味する接頭辞「dis」 「non」 「a」などがついている(表 1.1).人間の思 考回路は,国境を越えて人類共通であるらしい.そういう事情も命名から推測 できて,なんとも楽しい限りだ. 名前は否定の接頭辞をもっていても,不規則系そのものの尊厳が否定されて いるわけではない.それどころか実は,不規則系は結晶と比較して,はるかに 豊富な可能性を擁しており,結晶にはない興味深い物性も現れる.素材として も,結晶より優れた特性を多くの面で発揮する.何より,この世の中には,結 晶より不規則系のほうが圧倒的に数が多い. Krumhansl は,1972 年にミシガンで開催された「アモルファス磁性」の国 fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 6 ● 1 不規則系 際シンポジウムで,不規則系の研究に関する招待講演を行なった.タイトル は,“It’s a random world.” というもの.ちょっと身のまわりを見まわしてご おびただ らん,ランダムさの夥しさに気づくだろう.物理的な系から,化学的な系,生 命系,地理学や天文学や社会学で議論される現象に至るまで.ありとあらゆる ところで,ランダムさが幅を利かせている.講演のタイトルは,そういう主張 を表わすものだった.「乱れた世の中じゃのう」という意味では毛頭ない. [ランダムなもろもろ]が随所に見られる,「 (ランダムさが売りの)不規則系 が面白い!」.それが,本書の根幹である. 1.3 不規則系の分類 原子配置に関する静的な不規則性(乱れ)の種類は,不規則系の数だけあると いわれる.しかしそれでは話が進まないので,本節では,不規則性(乱れ)の典 型的な特徴をとらえて分類する方法のひとつを記そう. 図 1.2 に乱れの分類の例を示した.その図 1.2 の上段の 2 つの図は,一般の 結晶を模式的に表わしたものである.左の図において隣接原子同士を結ぶ破線 は,物理的な実体ではなく,原子の位置が規則的であることを明示するために 描き込んだものだ.一方,右の図では,隣接原子間の実線は,化学結合の手(ボ ンド:この図の例では 1 原子当たり 3 本)に対応する.この図は,共有結合結 晶などに対する模式図になっている. 下段の図 1.2 (a) に示す不規則性は[置き換え型の乱れ]とよばれる.原子が 占めている格子点そのものは規則的だが,格子点を占める原子の種類がランダ ムな場合だ.図に示すのは,2 種類の原子(白丸と黒丸で表わされる)が,規則 的な格子点上にランダムに分布した不規則 2 元合金である.この種の乱れは, 不規則合金,混晶,不純物半導体における状況を記述するのに使われる.原子 の種類が 3 種類以上の場合ももちろん,置き換え型不規則系の範疇に入る. 図 1.2 (b) は,原子の位置そのものがランダムなもので,[位置の乱れ]とよ ばれ,液体や非晶質金属の構造モデルとして有用である. 図 1.2 ( c) に示す乱れは,非晶質半導体の構造モデルとして提案された.原子 の位置が規則的でないので, [位置の乱れ]の一種だ.しかし,ボンドのネット fukisokukei-all (2015-10-07 12:31) 1.4 短距離秩序と長距離秩序 ● 7 ワークが重要な役割を担う事実を考慮して, [位置の乱れ]とは区別して[つな がりの乱れ]と分類する.原子当たりのボンドの数が 3 本という点で,上段右 図の結晶の規則性が一部残っていることに注意しよう. なお,「非晶質」という語は図 1.2 ( c) の種類の不規則系のみに使われる例も あるが,本書では「原子配置が結晶の周期性をもたない系(多くの場合,固体を 指す)」全てに相当するものとする.したがって,図 1.2(a)の「置き換え型の 乱れ」をもつ系も含める.もちろんこれは,言葉の定義に関する話なので,い ずれを採用するにせよ,本として一貫させればよいことだ. 図 1.2 (d)は,ある適切な物理量(電子の感じるポテンシャル,電子の密度, 原子の密度,あるいはマクロなレベルでの構成要素の密度など)の等高線を模 式的に表わした図である.図 1.2 (d)で表現される乱れは,[連続的な乱れ]で あり,かなりマクロなスケールの話になる.マクロと言い切ったのは,ミクロ のレベルではこの図のような状況は起こり得ないからだ.ミクロなスケールで は原子が必ず関与し,原子に基づく何らかの形の不連続性が避けられない. 実際の物質のなかで実現されている不規則性(乱れ)は,必ずしも図 1.2 のよ うに単純化した形で分類し切れないものもある.たとえば,図 1.2 (b)の白い原 子を部分的に黒い原子で置き換えたような系は, [置き換え型の乱れ]と[位置 の乱れ]の両側面を兼ね備えている.また,不純物半導体は母体原子のいくつ かが不純物原子に置き換わった[置き換え型の乱れ]であるが,不純物原子の 有効ボーア半径に比べて不純物原子間距離が十分に大きいため,理論的に扱う 際には[位置の乱れ]とみなしたほうが便利な場合も多い.要するに,個々の 不規則物質は,いくつかの種類の不規則性を幾分かずつ擁しており,その意味 で「不規則系の数だけ不規則性(乱れ)の種類がある」という,本節冒頭の記述 に戻ることになる. 1.4 短距離秩序と長距離秩序 Ziman, J. M. は, 「不規則性は,単なる混沌ではない.《欠陥をもった秩序》 , 《不完全な秩序》のことだ」といっている.「不規則」ではあっても,「無規則」 や「無秩序」ではないのだ.
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