⑤ 喜びの祝い・聖餐(手引き)

せい さん
いわ
よろこ
喜 び の祝 い・ 聖 餐
∼ ∼ 子 ども と大人 の た めの手 引 き ∼∼
序 1)主 イ エ スの食卓 へ の招待
あなたは特別 なゲ ス トと して特別 な食卓 へ と招待 され て い
ます。ホ ス トは、教会 ス タ ッフで も牧師で もな く、聖 な る神様
です。神様 のみ こころの内に招 かれた人 々 は、神様 が愛 を注 い
だ いの ちの食事 を受 ける ことがで きるのです。
霊性 の導 き手、 トマス・ ア・ ケ ンピスの聖餐 につい ての黙想
を引用 します 。
「もし限 りない命 と光栄を得 よ うと願 うなら、朽 ちぬ糧を得な さい と。
『 すべ て重荷を負 うて
苦労 している者は、わた しのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マ タイ 11
章 28節 )と あなたは言われます。主なるわが神 よ、貧 しく乏 しい者を招いて、あなたのい
とも聖なる肉と血にあずからせ るとは、ああ、罪人 の耳には甘 く、したわ しいみ言葉 です 」
1。
序
2)聖 礼 典
(サ ク ラ メ ン ト)と して の 聖 餐
「教 会 とは説 教 と聖 礼 典 (洗 ネLと 聖 餐 )が 正 し く行 われ る と こ ろ で あ る」 とい う教 理 の 表 現
この 「聖 礼 典 」 を、 サ ク ラ メ ン ト、 も し くは 「秘 跡 」
と呼 び 、最 も大 切 な こ と と して 受 け継 い で き ま した 。「秘 蹟 」 とは 、 日に見 え な い 神 さま の 現 臨
が あ ります (ア ウ グ ス ブル グ信 仰 告 白)。
を、人 間 が 経 験 で き るチ ャ ン ネ ル と して神 さま が示 して 下 さ つ た方 法 です 。「見 え ざ る恵 み の 見
え る形 式 」 とい う恵 み の 顕 在 化 が 聖 餐 な の で す 。
<ケ ンピス 「聖餐式へ の熱心な勧め」より>
「ああ、主なるわが神 よ、真の神で人であるあなたが、わずかなパ ン とぶ どう酒 としてあなた 自身を全 く
わた したちに与え、 これを受ける者が食べてもつきることがない とい うことは、実に驚嘆すべ き こと、
全 く信ずべ き こと、人知の及ばぬ ことです。宇宙 の主で人を必要 としないあなたがあなたの礼典によつ
て、進 んでわた したちの中に住まお うとされ るのです 」
2。
トマス・ア・ケンピス『 キリス トにならいて』池谷敏雄訳 、新教 出版社 、 1955年 、256頁
ケンピス『 キリス トにならいて』265頁
.
…
1-
.
序 3)説 教 と聖 餐 3
礼拝 では、聖餐 は説教 の後 に続 くひ とつの流れ の 中に
置 かれ ます 。説教 が語 るキ リス トの福音 は聖餐 を指 し示
し、聖餐 は説教 を神秘的 に経験 させ る とい う関係 にある
のです
4。
説教 か ら心で聴 い た主イ エ スの御声 を、味わ
いつつ 聖餐 を祝 い ま しょ う。
序 4)洗 礼 か ら聖餐 ヘ
ーつ 大切 な こ とをお話 します。大切 な原則 として 「洗礼 か ら聖餐 へ 」 とい う言葉 を覚 えて く
だ さい。聖餐 の恵み は、信仰 を伴 っては じめて意味 を成す もの です 。教派 によつて は理解 の幅
があるか も しれ ませ んが 、教会 では洗礼 を受 けて信仰 を公 けに表 明 した人 が 、聖餐 を受 ける こ
とにな ってい ます 。教会 の秩序 の ために、 ご理 解頂 きた い と思 い ます 。未受洗 の方 (洗 礼 を未
‐
だ受 けて い な い人 )に も、聖餐 の 中で祝福 の祈 りをい た します。神様 のいの ちへ の招 きの 中に
あるか らです 。一 日も早 く、信仰 に導 かれ て主の恵 み の食卓 を共 にで きるよ うにお祈 りします。
<聖 餐 の流れ の受 け止 め方 >
礼拝 式 のプ ロ グラムの 中に、神 の救 いの物語 が ドラマ として現れ てい る とい う 「 ドラマ・ リ
ター ジー (ド ラマ 礼拝論 )」 とい う考 え方 があ ります 。 これ か ら聖餐 の流れ に沿 って理解 してい
きま しょ う。 聖餐では、まず序文が読 まれ ます 。 この言葉 には聖餐理 解 の諸要素 が 、散 りばめ
られ ています
5。
聖餐 の メ ッセー ジ を明確 に し、 心 を神様 の福音 へ と向わせ ます 。
3 PoT。 フォーサイ ス は、「御 言葉 の サ クラメン ト」 とい う神 学表現 を用 いて 、聖書 とその説 き明 か しの説 教
にサ クラメン ト的な性 質 を見て い ます。
カ トリックの神 学 には、聖書朗読 を準秘蹟 と位 置付 ける ものが あ ります。
4中 世 では聖 餐 が礼拝 (ミ サ)の 中心で した。 プ ロテ ス タン ト宗教改革 の ときに、聖書 の御言葉 に よる改革 が
な され 、聖書 と説教 が 中心 に据 え られ てい きます。 です か らプ ロテ ス タ ン トの礼拝 では 、聖餐 を しない礼拝 式
はあつて も、説教 の な い礼拝式 はあ りませ ん。御言葉 の 中で生 けるキ リス トと出会 うか らです 。 そ こで 、理解
してお くべ き大切 な こ とは 、聖餐 を行 なわな い礼拝式 で も、説教 は聖餐 の恵み を指 し示 してい る ことです。説
教者 はそ の意識 の 中で説 教 を行 い 、信仰者 も説教 と聖餐 がひ とつ 繋 が りで ある とい う理解 の も と御言 葉 に聞き
ます。 そ の こ とを表す 意味 を込 めて 、聖餐卓 か ら説教 をす る教会や聖餐卓 に聖書 を置 く教会 があ ります。
5聖 餐 の流れ は式文で定 め られ ています。 い くつ もの種類 の聖餐 の式 文が あ ります が 、それ ぞれ聖餐 の祝 いの
豊 か さを表現す る良 い ものです。鳩 山の ぞみ教会 では、 い くつ もの式文が用 い られ て きま した。 この手 引 きで
…2・
主イ エ ス様 による制定
第一
式 の 中で聖 餐 の制定 の御言葉 が読み 上 げ られ ます 。 聖餐の根拠 となるのは、主イエスが、弟
子 た ちにこの よ うに しな さい と明言 され た ことによ ります。そ して、主イエ スはどのよ うに、
聖餐 を祝 うのか 、 は じめの聖 餐式 の制定 の ときに語 りま した。 まず 、聖書を聴 きま しょ う。
弟子た ちは出て行 っ てみ る と、イ エス が言 われ た とお りであ つ た ので 、過越 の食
事 の用意 を した。時間 になったので 、イ エ ス は食卓 につ かれ 、使徒 た ち も共 に席 に
つい た。イ エ ス は彼 らに言われた、「わた しは苦 しみ を受 ける前 に、あなたがた とこ
の過越 の食事 を しよ うと、切 に望んで い た(中 略)」 。 そ して杯 を取 り、感謝 して言 わ
れ た、「これ を取 って 、 互 に分 けて飲 め」
。 またパ ン を取 り、感謝 して これ を さき、
弟子たちに与 えて言 われ た 、「これ は、あなたがた の ために与 えるわた しのか らだで
ある。わた しを記念す るため、 この よ うに行 い な さい 」
。食事 のの ち、杯 も同 じ様 に
して言 われた、「この杯 は 、あな たがたのために流す わた しの血で立て られ る新 しい
契約 である。 (国 語訳 ルカ 22:13-20・ 抜粋 )
キ リス トの福 音 の想 起
第ニ
御言葉 の朗読を聴 く時に、
私たちが大切に したい心の姿勢 は「想起すること(ア ムネー シス)」
です。イエ ス様 の物語 とその背後に意味 している福音 の ドラマ を心に思い起 こす のです。 ここ
では、①最後 の晩餐、②出エ ジプ トの過越、③小羊イエス、④十字架 の受難 とい う四つの福音
ドラマ を想 起 しま しょ う。
:.勲
1
欄.:
想起① 最後の晩餐
1日
聖餐を指 し示す メ
約聖書 のい くつ もの箇所 に、
聖餐が具体的に始まつたの
ッセージがあ りますが、
はイエス 。キ リス トによつて制定 されてか らです。
゜ ゛
゜
フィリッフ・卜 。
シャンハ ―ニュ
イ エ ス様 が十字架 にかか られ る前夜 、過越 の食事 を弟子 たち として い た ときに、パ ンを と
り「これ は私 の体 です J、 ぶ ど う酒 を とり「これ は私 の血です」 と言 われ ま した。 この ときイ
エ ス様 が言 われ た ことは弟子 たちの理 解 を越 えていま したが 、後 に弟子 たちは聖餐 を祝 うご
とに主 の福音 の確 か さと恵 み深 さを味わい続 けま した。
は、 日本 ホー リネ ス教団の式文の流れでみてい くことにします。
-3-
想起②
出エ ジプ トの過越
旧約聖書 にあるイ ス ラエル民族 のエ ジプ トか らの大脱出の時に、神様が 「過越 の食事」 を
するよ うに言 われま した。 エ ジプ トでの奴隷生活 の苦 しみを覚えて苦菜を食べ ます。家族 ご
とに羊をほふ り、その血 を門に塗 り、犠牲 の羊を食べ ま した。その夜、主の使いが、エ ジプ
ト中の長男 の命 を奪 うために来た とき、羊の犠牲 の血が門に塗 られた家 は、そ こを過 ぎ越 し
て、悲劇 か ら守 られたので した。過越 の食事 にあらわ される 「奴隷生活 からの解放」は、「罪
の奴隷 か らの解放」の聖餐を、予表 として指 し示 していたので した。
想起③
犠牲 の小羊イエ ス
イ エ ス様 は、わた しの体 と血 をあなたがたに与 える と、お つ し
ゃ い ま した。それ は十字架 で裂 かれ たイ エ ス様 の体 と、流 された
血 潮 を、わた したちが受 ける ことを意 味 しています。 人間 が罪
の刑罰 として身 に受 けるべ きで あ っ た永遠 の滅 び を十字架 で身
代 わ りに引き受 けて下 さい ま した。洗礼者 ヨハ ネ が 、イ エ ス様 を
指 さ して 「見 よ、世 の罪 を と りの ぞ く神 の小羊」 (ヨ ハ ネ福音書
1章 29節 )と 言 い ま した。神 の小羊 として 、いの ちを流す こと
で 、十字架 の救 いの道 を開 い て くだ さつた の です 。
想 起④
イ ーゼ ンハ イ ム祭壇 画・部分
キ リス トの受難
聖餐 を受 ける時 に、想 い 起 こす べ き ことは、イ エ ス様 の受難 の御 苦 しみ です。 そ の痛 み の
全 ては、 わた したちが人生 で背負 うあ らゆる苦 しみ と繋 がつてい るのです。 グ リュー ネ バ ル
トが描 いた十字架 の絵 (祭 壇画 )は 、神学的な意 味 と共 に、 主イ エ スの苦痛 を描 き出 した信
仰画 です 。人 生の悲痛 な痛み の 中で祈 る人 々、末期 的な病 の痛 み と戦 う病者 も、 この絵 を仰
ぎつつ 主イ エ スの恩寵 を信 じてい きま した。
イ エ ス様 は言 われ ま した。「私 を覚 えて こ
れ を行 な い な さい J(国 語訳「記念す るJ、 ル
カ 22章 19節 )イ エ ス様 の御 苦 しみ に表 され
た身 代わ りの愛 を心 に想 い 起 こ しま しょ う。
-4¨
第二
黙祷 ・ 悔 い 改 め
小 羊イ エ スの苦 しみ を想起 した私 たちは、祈 りを ささげます 。体 は礼拝 堂にあ ります が 、心
は十字 架 の足元で贖 い 主な る主イ エ ス を仰 い で い ます。「主 よ、私 が行 な っ た過 ちを赦 して くだ
いの 中で行 な う罪深 さか らきよめて くだ さい」 と、真倹1に 悔 い 改 めを、主 の御前
さい」、「私 が ′
に注 ぎ出 し祈 りま しょ う。私 た ちの教会 は、 メ ソジス ト派 の流れ にあ ります が 、伝 統的な メ ソ
ジス トの礼拝形式 では、講壇 にある聖 餐柵 の前 に進み 、 ひ ざまず いて柵 に手 をか けて しば らく
祈 りを深 める ときがあ ります 。 それ を 「恵み の座 」 と呼び ます
6。
<ケ ン ピス >
深 い心の謙遜 と、敬虔 な思 い と、十分 な信仰 と、神 のみ栄 えを表そ うとす る忠実な願 い を もつて …礼典 に
近 づ き…受 けるべ きであ る。 あなたの良心 を よく省 み、真 の悔 い 改め とへ りくだ つた告 自とを もって 、力 を
つ く して これ を清 めな さい。心 に重荷 を感 じた り、良心 の とがめを起 こ して 自由に神 に近 づ くの を さまたげ
るよ うな事 の な い よ うに。 日毎 に犯す過 ちを悲 しみ嘆 き、 自分 の情欲 の あ らゆるみ じめ さを、心 のひ そかな
ところで神 に告 白 しな さい。
あなたは嘆 き悲 しみな さい、今 なおか くも肉に とらわれ 、世 に従 ってい るこ とを。
か くも外部 の こ とに傾 き、内部 の こ とをお ろそか にす るこ とを。
美 しい もの を見 るには熱 心 で 、低 く卑 しい もの を受 け入れ るこ とには気 が進 まない こ とを。
多 くを貪 り、与 えることを惜 しみ 、
聖餐 を祝 うこ とにか くもなま ぬ る く、 これ を受 けるこ とにはか くも冷 たい こ とを
怒 りを発す る こ とはか くも突然 で 、感情 を害す る こ とはか くも容易 で ある こ とを。
か くもす ぐに人 を さば き、 きび しく人 を責 め
多 くの 良 い決 断 をす る こ とは しば しばで 、や り遂 げ る ことはか くも少 な い こ とを。
過 ちを告 白 し、 自分 の弱 さを悲 しみ 嘆 いた な らば、常 に 自分 の生活 を改 め、 さらに徳 に進 も うとす る固い
決 心 を しな さい …。 あなたの心 の祭壇 に ささげ …体 と魂 をゆだね な さい。
赦 しと恵 み を得 るため幾たび来 よ うとも、わた しは言 う、「わた しは生 きて い る。 わた しは悪 人 の死 を喜
ばない。む しろ悪人 が 、そ の道 を離れ て生 きるの を喜ぶ (エ ゼ キエ ル 33章 11節 )。 だか らわた しは もはや 、
彼 の罪 を思 い 出す ことは な い。 す べ て をゆるすで あろ う (エ ゼ キエル 18章 21節 )7。 」
6メ ソジス ト派 は、聖餐 の ときに、深 しヽ悔い 改 めに導 くた めに 「恵 み の座 」 とい う祈 りの ス タイル を行 な うよ
うにな った。 1795年 頃 に ヴァ レン タイ ン・ ク ックがベ ンシル ヴァにア州 の家庭礼拝 で 、聖餐卓 の前 に悔悛者 を
招 い た記録 が残 ってい る。後 に、19世 紀 の北米 での伝道集 会で、盛 んに取 り入れ られ るプ ログラム となつてい
く。 そ のため に、チ ャール ズ・ フ ィニー な ど、 リバ イ バル 運動 の担 い手 が発 明 した手法 とい うよ うに理解 され
る こ ともあるが 、それ は正確 ではない。本来 は聖餐 の恵 みへ の招 きであ つた。遡 る と、ジ ョン・ ウェス レー は
聖餐 を天 の祭壇 の地上 にお ける うつ しと理 解 し、そ こか ら 「mter call」 とい う呼び名 へ と続 いて行 く。「Alter
Call」
とは恵 み の座 の英語表現 で あるが、直訳す る と 「祭壇 へ の招 き」 で ある。
猪野 正 道 「チ ャール ズ 。フ ィニー の リバ イ バル神 学 へ の ウェス レー とメ ソジズムの影響 につい ての一考察 」
51‐ 54]ヨ 。
7ヶ ン ピス『 キ リス トにな らいて』 276‐ 278頁 .第 七 章 「自分 の 良心 を省 み 、改 心 の志 を立 て る こ と」 よ り、
細 か く抜粋 引用 した文 章。
-5-
第四
聖別 の祈 り
聖餐 を司式す る牧師が祈 りを捧 げます。「私た ちは今 、パ ン とぶ ど う液 を受 けよ うと していま
す。 ど うか 、み霊 とみ言 葉 に よつて これ らを聖別 して くだ さい。」 ここで 大切 な こ とは、聖霊 に
呼び求 めることです (エ ピク レー シ ス)8。 「キ リス トの霊 な る御霊 よ、聖餐 に臨在 して くだ さ
い 」 と求 めをもつて祈 る。聖霊 の 臨在 に よつて聖 餐 のパ ン とぶ ど う液 はキ リス トの体 と血 とさ
れ るのです。 パ ンの成分 は、聖餐 の 間 もパ ンの ままで あ り、実体変化 は しませ ん。 です か ら、
聖餐 のパ ン とぶ ど う液 の物質 が聖性 を帯び るので はあ りませ ん。 そ うではな く、聖霊 が臨在 し
て くだ さる とき、パ ン とぶ ど う液 を象徴 として、 そ こに聖霊 が働 き、キ リス トの体 と血 による
新 しい 契約 が 、聖餐 を受 ける人 の 内に宿 るのです。 それ ゆえに 「サ クラメン ト・ 秘蹟」 と呼ば
れ 、神秘的な キ リス トの 臨在 を この身 に受 けるの です 。
<ケ ン ピス >
「泉 の よ うに礼典 の うちにゆたかに秘められた、あなたの甘美を霊 の うちに味わ うよう、あなたの救 い を
もつてわた しを訪ねて下さい (詩 編 106編 4節 )。 か くも大きな奥義を見るよう、わた しの 目を明 らか
に し、疑わぬ信仰をもつてこれを信ず るよう、わた しを強 くして下さい 」
9。
7.招 きの御言葉
聖餐 を福 音 へ の招 き として三 つ の聖書 の言葉 が選 ばれ ています。
マ タイ福 音書 11章 28節
ヨハ ネ福音書 3章 16節
ヨハ ネ福音書 6章 53∼ 56節
*食 べ るよ うに信 じること。自分 の 中に、十字架 の福音 が受 肉す る こ とを求 め聖 餐 を受 ける。
8ジ ョン・ ウェス レー は、オ ックス フォー ド時代 に、 ノンジ ュ ラー
(臣 従拒誓者 )と 深 い交わ りを持 ち、初代
教会 の東方 の教父 の神 学 に 関心 を向 けるよ うにな った。彼 らは英 国国教会 の第 一 祈祷 書 を採用 し、聖霊 を求 め
る祈 りを重視 した。坂本誠『 ウェス レーの聖餐論』教文館 、2009年 、25頁 。
9ケ ン ピス『 キ リス トにな らいて』 270頁
.
-6
8.膳 養
a)参 養
牧師 と奉 仕者 が 、 キ リス トの血 を表す葡萄液 と、御体 を表す パ ン を分配 します。会集席 よ り
順番 に取 りに行 きます。「配餐」とい う形式 を取 る教会 も少 な くあ りませ ん。牧師 と司式者 が指
定 した奉仕者 が会衆 に配 るよ う、聖餐 のパ ン と葡萄液 とを届 けます。
待 つ 間、祈 り続 けて くだ さい。 主 の十字架 を味わ い 知 るときを持 ちま しょ う。
b)ひ とつの体・ パ ン裂 き
パ ンに は様 々 な形態が あ ります。 ホステ ィア
(白
く丸 い 乾燥 パ ン)、 四角 く切 つた食 パ ン、ひ
とかたま りのパ ンか ら千切 る方法、種無 しパ ンな ど、教会 ご とに異 な ります。 どの形体 で も、
ある本質 を保持 していな くてはな りませ ん。 聖餐で食す るパ ン とは、それ はひ とつ のパ ンか ら
裂 かれ た 、 ひ とつ のパ ンの一 部 である とい うことです。 これ はキ リス トのひ とつ の体 なる教会
の一 部 として生 きる こ とを表 しています。
使徒信条 に 「我 は …聖 なる公 同 の教会 を信ず」 とあ ります。聖 な
る公 同 の教会 とは、そ の あ らわれ は様 々であ っ て も世界 に満 ちる教
会 はひ とつの教会 。キ リス トの体 である とい う信仰 です。
薇
c)和 解 の福音
ここに和解 の福音 として の聖餐 の メ ッセー ジがあ ります 。教会 の歴 史 の 中で 、分裂や分派 の
痛み を多 く経験 して きま した。 時 には社会状況や政治 問題 、民族紛争 で 、同 じ信仰 に生 きる者
たちが敵対す るこ とがあ りま した。 しか し、聖餐 を共 に受 ける こ とに よ り和解 が生まれ て きま
した。
ホー リネ ス教会 も、以前 に信 仰理解 の違 い な どを理 由に、 い くつ かの グループに分裂す る痛
み を経験 した ことがあ ります。 しか し、長年 、関係 を再建 に取 り組 み、「中田重治宣教開始 100
年記念 Jの 大会 で 、 当時 の痛み を覚 えてい る人 々 が 、それ を公 けに分 かち合 い 、赦 しあい 、聖
餐式 を共 にい た しま した。 10以 上のホー リネ ス系 の教会、500名 ほ どの人 々 が集 い聖餐 を受 け
る中、聖霊 の働 きを感 じ、大 きな感動 に捉 え られ和 解 の福音 が ここに現実 とな つ て い る こ とを
感 じる時 があ りま した。聖餐 の恵み を受 ける とき、壊れ た人 間関係 の赦 しと回復 の ために祈 り、
和解 の福音 に生 き られ ることを信 じま しょ う。
¨7-
9.感 訪寸の祈 り
a)未 受洗者 へ の祝福 の祈 り
b)聖 餐 を受 けた方 が 、感謝 をあ らわす
ア ユ
フ
c)天 の 祭壇 の 地 上 の 表れ f恵 み の座 」
d)プ レクテ ィカル・ デ ィヴィニ テ ィー (聖 餐 の実践的 な聖性 ):恵 の手段 とそ の 目的
聖餐 は、神様 の恵み を受 け取 る手段 であ り、それ 自体 が偶像化 され た り、 目的化 されてはい
けませ ん。 ジ ョン・ ウェス レー は聖餐 の恵み とい うチ ャ ンネ ル を通 して 、 心の刷 新 と、神 の御
心 に よつて聖 化 され 、愛 に生 きる奉仕者 に作 り変 え られ るよ うに教 えま した。
「私 はあなたがたや 一 万人以上 の人 が神 の儀式 を乱用 し、手段 を 目的 と誤 り、 さらに これ らの こ とや そ の他
の外 的なわ ざを行 な うこ とが 、イ エ ス・ キ リス トの 宗教 と仮 定 して きた事実 を認 める。 (中 略 )あ なた の魂 が
刷 新 され 、真実 の義 と聖性 のため に常 に 目を注 ぎなが ら使 用 しな さい。」 (J・ ウェス レー )
-8-