沖縄 トコトコ見聞記 【1】歩き旅編 髙鍋 学 10 月 29 日(水)から 11 月 11 日(火)までの 2 週間、初めて沖縄を旅した。沖縄は南 北 140Km。いつもの歩き旅だと 5 日間で行く距離だが、ゆとりを持って 6 日間かけて南 ま ぶ に へ ど みさき 端の摩文仁の丘から北端の辺戸 岬 まで縦断をし、そのあと 1 週間は飛行機や船に乗って琉 は てる ま 球列島最南端の波照間島に向かう計画だ。 ■沖縄へ向かうフェリーの旅 沖縄へは神戸六甲アイランド港 14 時発のフェリー「琉球エキス プレス」6,266 トンに乗船し、 途中、大阪南港と奄美大島名瀬 港に寄って那覇港には 3 日目の 朝 8 時 30 分に到着する。料金は 大部屋でも飛行機より高い 21,790 円だが、フェリーの旅はいつも楽 しいので行きはフェリー、帰りは 料金 13,000 円の飛行機にした。 <沖縄本島と琉球列島> フェリーの乗客は始め 10 人程度で、大島から 10 人ほどが乗船した。大阪南港で物資の 積み込みを見ていると、コンテナと共に、軽を中心に中古車が 100 台ほどあった。中には ヤギを 5・6 匹積んだ軽トラックがあって、誰がどこに送っているのか見当もつかない。 と いみさき 航海は晴天に恵まれ海も穏やかだった。2 日目は、朝から日没まで宮崎県都井岬、鹿児 くちの え ら ぶ じま す わ の せ じま あく せきじま 島県佐多岬、種子島、屋久島、 口 永良部島、口之島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島などが 次々と姿を現し、飽きることなく眺めて過ごした。 3 日間の船旅なので、乗客同士自然と言葉を交わすことになる。六甲アイランドから乗 船した 24 歳の青年は、沖縄のリゾートホテル に派遣社員として半年契約で勤め、それから 永住するらしい。大阪南港から乗船してきた 23 歳の青年は、自転車で日本本土4島の東西 南北 4 突端を巡っているという。宿泊料の安 いライダーハウスに泊り、沖縄では調理師と してバイトをしながら島々を巡る予定とか。 名古屋のタクシー会社を定年退職し、故郷の 沖縄に戻って暮らすという夫婦。若い頃、本 土に渡っていろいろな仕事に就きながら、 <屋久島> 最後は名古屋のタクシー会社を 25 年間勤めてあげて管理職にもなった、と。故郷に錦を 飾る思いの帰郷なので嬉しそうだった。滋賀県で木樵のボランティアをしているという 60 歳代半ばの男性は、沖縄でコンドミニアムを半年ほど借り、自転車で島内や離島を巡ると いう。この方には、歩き旅を終えて奥からバスで那覇に戻る途中、名護で再会を果たした。 1 週間ですっかり日に焼けして精悍な姿になり、顔が輝いていた。 ■歩き旅 沖縄到着の初日は、途中で観光をしながら 出発地に向かった。先ずバスで世界文化遺産 せーふぁ う た き う たき の斎場御嶽へ行く。御嶽とは、南西諸島に広 く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽 かいびゃく は琉球開 闢 伝説にもあらわれる、琉球王国最 高の聖地、と説明にある。琉球王家にとって は、天皇家の伊勢神宮のような存在でもあり、 海に近い立地や岩の窪みや乳のように垂れ下 がる鍾乳石などの形から見れば、宮崎県の鵜 戸神宮にも似ている。 <摩文仁の丘から見る太平洋> ま ぶ に 斎場御嶽から歩き旅の出発地点とした沖縄本島南端の摩文仁の丘に、バスを 4 回乗り継 いで行く。摩文仁は 1945 年 3 月から 3 ヶ月間余り続いた沖縄戦で、那覇や首里方面から 南下する米軍に包囲され、 最後の抵抗戦場となった場所。 多くの碑が建つ断崖伝いを歩く。 丘の上から北の那覇方面を見ると、なだらかな丘陵地になっていて途中遮るものはなく、 後ろは断崖と太平洋だ。沖縄戦死亡者総数は日本人と外国人合わせて 241,281 人、内訳は 沖縄県人 149,329 人(死亡者総数の 60%)、県外人 77,380 人、米軍 14,009 人、とあった。 摩文仁の断崖から見える美しい景色との落差が大きいために、一層粛然とする。 2 日目、11 月 1 日(土)民宿の主人と一緒 に朝食をとってから歩きの旅に出発し、昼ごろ さくほう 首里城を訪れた。首里城内の広場では「冊封 儀式」が、色鮮やかな衣服をまとった大勢の 演技者によって再現されていた。 「冊封」とは、 中国皇帝が周辺諸国に使者を派遣し、皇帝の 名のもとに、その国の王を任命すること、また はその儀式のことをいう、とある。琉球王朝 の 1404 年から 1879 年までの 470 年間余り の間に冊封は 28 回行われている。明治維新 <首里城での冊封儀式> の 2 年前にも、清王朝によって冊封が行われていたのだ。室町時代から明治維新まで続い た琉球王朝は廃藩置県に遭遇し、本土の諸大名以上に無念さと無力感を味わったことだろ う。 3 日目。沖縄は知事選挙のさなか。首里を出発し、宜野湾市の普天間基地でオスプレイ を見てから街を歩いていると横断幕があった。 「どっちが大事 ジュゴン どっちが大事 宜 野湾市民」と。沖縄の中だけで解決を迫られている構図が見える。コザへ向かう途中、ス ーパーマーケット前の広場に青シートを敷き、その上に砂を置いて「第 3 回普天間沖縄角 力大会」が催されていた。柔道着に帯を緩く締め、お互い相手の帯を持って四つに組んで から始める。土俵はないので押出しはなく、倒して相手の背中をつけた方が勝ち。久米島 から来たチームに軽量級ながら無差別級 5 連覇の人がいて、幼稚園児の可愛い女の子の世 話をしながら勝ち進み、最後の無差別級決勝で国体柔道沖縄県代表の重量級選手に負けた。 2 時間近く見物してしまったが、 この日はコザまで 18Km の行程なので時間に余裕がある。 4 日目。アメリカの下街の趣があるコザを おんなそん 発って、嘉手納基地を見ながらお昼に恩納村 に入り、沖縄西海岸に沿って南北を縦断して いる国道 58 号を行く。海に面して大きなリ ゾートホテルが建ち並んでいる。陽は暑いが 台風 20 号の影響で北風が強く、涼しい。昼 食は初めて食堂に入って焼きそばを食べた。 道すがら、時々美しい海岸に下りて進んだ。 <恩納村の海岸> ま ん ざ もう 5 日目。7 時半に景勝地の万座毛に寄ってから名護を目指す。途中、道路脇休憩所で、 ここから名護方面にあるカントリークラブレストランの料理長という人と少し立ち話をし た。 それから1時間余り歩いてゴルフ場近くに差しかかった所に先ほどの人が車で来られ、 立派な弁当とお手製ジュースの差し入れをいただいた。あまりのことに恐縮。お礼をいう と「私も本土で一人旅をしたとき、いろいろとお世話になったので」 、と。こういう人も居 られるのだと肝に銘じた。 近くのブセナ海中公園で弁当とジュースを美味しくいただいたあと、グラス底ボートに 乗ったり海中展望塔に入ったりして美しい海中を満喫。忘れられない 1 日になった。 へん と な 6 日目。名護から辺戸名まで 28Km、9 時間 30 分かかり、何時もの歩き旅のペースにな った。名護から北は大きな街もないので、国道 58 号も狭くなって歩道も無くなるのでは ないかと心配したが、立派な道と歩道が奥の国道起点まで続いていた。 7 日目、歩き旅の最終日 30Km。昼食は、民宿のおばちゃんからいただいた大きな葉っ ぱに包んだおにぎりを、宇嘉の海岸に下りていただく。海岸の岩場の水溜りには、色鮮や かな熱帯魚や貝やカニが暮らしていた。道路脇にはヤンバルクイナ生息地の標識も見かけ る。 長く続く坂を上って目的地の岬に到着。 沖縄本島最北端の辺戸岬は想像していたよ り荒々しく雄大だった。岬の突端には、 強風に吹き上げられた波しぶきを浴びなが ら「祖国復帰闘争」の激烈な碑文が石に刻 み込まれて建っていた。 辺戸岬周辺には宿がないので、東海岸の 方に 2 時間ほど下って奥まで行き、民宿に 泊まった。夕食には、ここを長年定宿にし ているという関東から来た人 3 人と、宿の個性的な主人とで遅くまで話に花が咲き、途中 でハンサムな青年の三線演奏まで聴けた。本職は漁師で、演奏のあと 21 時ころ、これか ら海に入り素潜りで漁をするという。 宿の前に国道 58 号沖縄本島の起点標識がある。鹿児島市から種子島、奄美大島を経て 沖縄の起点となる奥に至って那覇まで続く。鹿児島市にある 58 号は城山の下から港まで 700m しかないが、その全長は海上ルートも含めると東北を貫く国道 4 号に次ぐ長さだと か。 【2】観光の旅編 につづく
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