東アジア漢文文化圏における仮名物語の生成

防衛大学校紀要(人文科学分冊) 第百十輯 別刷 平成二十七年三月
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東アジア漢文文化圏における仮名物語の生成
『新羅殊異伝』/『伊勢物語』、そして『源氏物語』へ
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中丸貴史
東アジア漢文文化圏における仮名物語の生成
――『新羅殊異伝』/『伊勢物語』、そして『源氏物語』へ――
1、『新羅殊異伝』「崔致遠」
。
(2)
中 丸 貴 史
『新羅殊異伝』は、新羅(四世紀中〜九三五年)の故事や奇異譚をおさめる、朝鮮半島において最古層に位置
づけられるテクストである。現在は逸文で十三編の物語が知られるのみで、編者・成立年代など不明な点が多い
(1)
(3)
。そのなかに「崔致遠」という話がある
となった崔致遠が南の県境を訪れたときに、「双女墳」と呼ばれる古い塚に
新羅から唐に渡り、漂水県尉
詩を書きつけたことから、被葬者である二人の女性との詩のやり取りが始まる。崔致遠はその日のうちに二人と
契りを結ぶまでに至るが、それは一夜限りのことであった。話の中心は三人のやりとりした漢詩と、その翌朝に
崔致遠の詠んだ独詠詩であるが、崔致遠の十二歳から晩年までを語り通している点にも注意したい。
この物語の主人公である崔致遠(八五七?〜?)は古代朝鮮随一の文人であり、十二歳で渡唐し、十八歳で進
(4)
。彼の在唐時の
士に及第、唐王朝に仕え、唐王朝の国使として故国新羅に帰国し、生涯を終えた人物である
のほか詩文や碑文が現在に伝わっている。日本の『千載佳句』にも九首
(5)
。また、この崔致遠の双女墳をめぐる
(7)
。崔致遠は朝鮮半島のみならず、中国、日本にわたってそ
(8)
、しかもこれはほぼ同時代的に伝わっていたようである
(6)
詩文集である『桂苑筆耕集』二十巻
収録され
物語は中国においても視点をかえて書かれている
五七
の文名を馳せた人物であったのである。
五八
本稿では、この『新羅殊異伝』「崔致遠」の典拠やモチーフ、構造を検討することによって、従来、ともする
と日本と中国のテクスト間のみの比較検討に留まっていた東アジア漢文文化圏における文学のあり方を考えてみ
たい。とくに日本の仮名物語を東アジアに位置づけ、文学史的な視座も提示したい。
以下、作品名の場合は「崔致遠」とし、人名の場合は鍵括弧無しで表記する。
2、「崔致遠」の典拠(1)
次にあげたのは、崔致遠が双女墳に書きつけた、二女との交歓のきっかけとなった詩である。
誰家二女此遺墳 寂寂泉扃幾怨春 誰が家の二女ぞかく墳を遺す 寂寂たる泉扃幾たびか春を怨む
形影空留渓畔月 姓名難問塚頭塵 形影 空しく渓畔の月に留む 姓名 塚頭の塵に問ひ難し 〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰
芳情儻許通幽夢 永夜何妨慰旅人 芳情 儻し幽に通ずる夢を許さば 永き夜 何ぞ旅人を慰むることを妨げんや
孤館若逢雲雨会 与君継賦洛川神 孤館 若し雲雨の会に逢はば 君とともに継ぎて洛川神を賦さん
前半部(首聯・頷聯)では、この墳墓に眠る二女へ思いを馳せ、時の流れの御しがたきを嘆き、後半部(頸聯・
尾聯)では、この二女と通じることを願っている。特に傍線部「若逢雲雨会」は、宋玉「高唐賦序」(『文選』巻
十九)で、高唐の楼観を訪れた王の夢に現れた神女が述べた言葉「旦為朝雲、暮為行雨。朝朝暮暮、陽台之下(旦
に朝雲と為り、暮に行雨と為る。朝朝暮暮、陽台の下にあり)」をふまえている。また波線部「継賦洛川神」は、
。崔致
(9)
曹子建「洛神賦」(『文選』巻十九)をふまえたものである。「洛神賦」は宋玉の「高唐賦」、そしてその続編とで
もいうべき「神女賦」(『文選』巻十九)に感化されて洛水の神女に出会ったことを賦したものである
遠はこれらをふまえて、もし双女墳に埋葬されているあなた方との交情が叶うならば、私も曹子建のように書こ
う、と言うわけである。本話は二人の仙女との交情をテーマとするので、言わば、宋玉「高唐賦」「神女賦」そ
して曹子建「洛神賦」の系譜につらなるものとして意識されているということができよう。
この後、二女からそれぞれ返事が届くのであるが、次にあげたのは八娘子と九娘子のうち、九娘子の詩である。
往来誰顧路傍墳 鸞鏡鴛衾尽惹塵 往来の誰か顧みん路傍の墳を 鸞鏡鴛衾は尽く塵を惹く
一死一生天上命 花開花落世間春 一たび死に一たび生くるは天上の命 花開き花落つるは世間の春なり
毎希秦女能抛俗 不学任姫愛媚人 毎に秦女の能く俗を抛つことを希み 任姫の人に愛媚することを学ばず
、しかし、それらが塵に埋もれていることを
(10)
欲薦襄王雲雨夢 千思万憶損精神 襄王の雲雨の夢を薦めんと欲す 千思万憶して精神を損なふ
首聯では、夫婦和合の象徴である「鸞鏡」「鴛衾」を詠みこみ
嘆き、頷聯では、そうなったのは天の定めと納得しようとする。
注目したいのは次の頸聯である。ここに詠みこまれている「秦女」は、『列仙伝』「蕭史」に出てくる秦の穆公
の娘弄玉のことで、弄玉は神仙である蕭史と結婚し、自らも仙術を取得した人物である。また「任姫」は、美女
に化けた狐の任氏と鄭六との物語である『任氏伝』の任氏のことである。「秦女」にしても「任姫」にしても異
五九
六〇
類婚の類であるが、前者は人間で、後者は狐であるという点において相違する。要するに九娘は、これまでは人
間の女性として異類婚の志向はあっても、自分が神仙あるいは異類の側に立ったうえでの異類婚の志向はなかっ
たのだが、崔致遠との出会いを通して変わったのだと言うのである。ゆえに尾聯では先の崔致遠の詠んだ詩を受
けて、「欲薦襄王雲雨夢」と詠み、崔致遠との交歓を実現させたいとの思いを述べるのである。
『列仙伝』「蕭史」や『任氏伝』の引用、そして崔致遠の詩に答える形で再び引用された「高唐賦」によって、
崔致遠と二女との交歓は確実なものとなっている。
3、「崔致遠」の典拠(2)
三人での聯句ののち、崔致遠は二人に誘いかけて次のように述べる。
嘗聞、盧充逐猟、忽遇良姻、阮肇尋仙、得逢嘉配。芳情若許、姻好可成。
(嘗て聞く、盧充猟を逐いて、忽ち良姻に遇ひ、阮肇仙を尋ねて、嘉配に逢ふことを得たりと。芳情若し許
さば、姻好成るべし。)
ここで言及されている「盧充」は、狩の途中で導かれるようにして訪れた屋敷で幽霊の娘と結婚する、
『捜神記』
巻十六にみえる人物である。本話とはこの娘が未婚で亡くなったことと、墓が舞台となることなどが共通する。
また「阮肇」は、劉晨とともに天台山で道に迷った結果、二人の仙女と出会うも、帰ると気の遠くなるほど時間
が経っていたという、『幽明録』に登場する人物である。本話とは二人の仙女との交歓という点で共通する。こ
の天台二女の話は、本話で二人の女性と別れた後に崔致遠が詠んだ長歌でも言及されている。
阮肇劉晨是凡物 秦皇漢帝非仙骨 阮肇劉晨は是れ凡物なり 秦皇漢帝は仙骨に非ず
当時嘉会杳難追 後代遺名徒可悲 当時の嘉会は杳として追い難く 後代に名を遺す徒に悲しむべし
。
(11)
崔致遠は、阮肇や劉晨、または始皇帝や漢の武帝など、神仙世界と関わったり関わろうとした人物と自らを重ね
合わせ、その系譜に位置付けているのである。
また、本話の全体的な構想と大きく関わるのが、以前から指摘されているように『遊仙窟』であろう
命によりその地域を訪れた官吏――張文成も県尉であった――が二人の仙女との交歓するというモチーフはもち
ろん、仙女の名前が『遊仙窟』では「五嫂」「十娘」であるのに対して、本話では「八娘子」「九娘子」であった
り、詩のやりとりを通して仲を深め話が展開する点、特に、聯句をもちいたやりとりなどが共通する。また、こ
れらの交歓が一夜のうちに行なわれ、鶏の鳴き声で別れが訪れるという枠組みなど共通点は多い。
4、東アジア漢文文化圏における「崔致遠」
『新羅殊異伝』「崔致遠」はさまざまなテクストを典拠とし、話型を借りながらも、自らの物語
以上のように、
を語っている。「崔致遠」が注目されるのは、現存する数少ない古代朝鮮の物語であるという点にあるが、双女
六一
六二
墳は現在の中国江蘇省高淳県にある。そこが舞台となったのは、崔致遠が中国に渡ったからである。舞台が中国
であるからこそ、そこに引用される漢文の典拠が違和感なく溶け込んでいるとも言えよう。漢文で書くと言うこ
とは、とりもなおさず東アジアの古典たる漢文を典拠として書くということであり、それを自在にあやつれてこ
そ、学才があるということになる。崔致遠が古代朝鮮にとどまらない、東アジア漢文文化圏における代表的文人
であるということをあらわすに、こうした叙述は似つかわしい。
あるいは、「崔致遠」が古代朝鮮の物語たりえるのは、崔致遠が新羅人であり、新羅から中国に渡り、また新
羅に戻ったという「外枠」というべきものが書かれるからであって、もしこれらがなければ、まったくもって中
国の物語である。しかしながら「崔致遠」では、新羅と中国の往復を崔致遠の人生に合わせて語る、崔致遠の一
代記の体裁をとっている。新羅からすれば中国は異郷であり、新羅から中国に渡ること、あるいは中国から新羅
。
(12)
に戻ることを語ることは、異郷への出入口を語ることであり、異郷でさらに仙女に出逢うという入れ子型の構造
は朝鮮半島ならではの視点である
5、「二人の女」の物語の日本における展開
さて、「崔致遠」のモチーフならびに典拠は、日本古典文学においてもなじみの深いものばかりである。以下
では、異郷における仙女との交歓のテーマの中でも、「二人」の仙女に出会うというモチーフを検討したい。こ
のモチーフに関して「崔致遠」が典拠としたのは『遊仙窟』の五嫂と十娘、『幽明録』の天台二女であったが、
関連するテクストとしては、漢水のほとりで鄭交甫という男が二人の神女に出会う『列仙伝』「江妃二女」、また
。両者とも曹子建「洛神賦」に引かれており
(13)
。
(15)
、その「洛神賦」は「崔致遠」に引かれていたの
(14)
帝舜の二人の妃娥皇・女英が、舜の死後、長江と湘水の交わる辺りで身を投げたという『列女伝』「有虞二妃」
がある
は先に見た通りである。また「江妃二女」は『遊仙窟』にも引かれている
いや、こうした指摘は無意味かもしれない。たとえば『遊仙窟』で主人公張文成がしたためた手紙には、「江
(16)
妃二女」のほか、宋玉「高唐賦」、曹子建「洛神賦」、
『列仙伝』
「蕭史」などが引かれている
。要するに異郷、
仙女、幽婚(異類婚)などのモチーフが複雑に編み込まれてそれぞれのテクストを形成しているのであって、そ
うした状況をふまえたうえで、二女をテーマとしたテクストの、日本でのあり方に的を絞って考えてみたいので
ある。特に、先に『新羅殊異伝』「崔致遠」が、朝鮮半島における漢文のあり方の一端を示していたことをみた
(18)
ように、東アジア漢文文化圏に日本文学を位置付けてみる際に二女のテーマはひとつの方向性を示すのではない
かと思う。
(一)『伊勢物語』初段・第四十一段
(17)
や渡辺秀夫
日本古典文学においてはすでに『遊仙窟』と『伊勢物語』初段などとの関係を丸山キヨ子
らが指摘している。特に渡辺が「単なる場面をあやどる趣向、文飾、というものではなく、『遊仙窟』という一
ことは重要である。よく言われる中国文学の日本文学への影響というような、単なる影響関
(19)
書が〈典拠〉として、より積極的に冒頭章段としての初段の表現を規定するものであることを強調しておきたい」
と述べている
係の指摘ではなく、東アジアの古典たる漢文を典拠(プレテクスト)として仮名テクストが生成されたと考える
六三
べきであろう。
六四
『伊勢物語』初段は、「むかし、男、初冠して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり」とはじま
る。『伊勢物語』の現存本が初冠にはじまり終焉に至る、男の一代記的形式を緩やかにとるのは、「崔致遠」に似
るが、しかしこれまでに見た漢文のテクストとは違い、実名を書くことはしない。狩の途中で女性に会うという
のは『捜神記』「盧充」にも似る。都から離れた地であるというのもプレテクストにならうものである。加えて、
その地というのは旧都奈良であり、「男」になぞらえられる在原業平にゆかりの地という日本固有のテクスト―
―ここでは伝承・物語・記憶などが「書かれたもの」と考えて、テクストとする――をも巻き込みながら、物語
は進んでいく。
そして「その里に、いとなまめいたる女はらからすみけり」というわけである。ここまでの展開はプレテクス
トとほぼ同じで、読者の予想通りに話は進んでいく。このような里に「いとなまめいたる女はらから」が住んで
いるのだから、それを垣間見た男は「思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり」と
なる。都ではない鄙であるこの地にどうしてこのような美女が、しかも姉妹でいるのだろうと不思議に思うのは
当然であり、読者もプレテクストの二人の女のパターンを思い起こして、これは仙女か幽霊かと想像するのであ
る。そして男は漢詩ではなく和歌を贈るのであるが、姉妹からの返事が書かれることなく初段は終わる。プレテ
クストであればここから男女の交歓が書かれるのであるが、物語はそれを書かないことによって姉妹が仙女か幽
霊であるかをも語らない。
注目したいのはここで男が詠んだ和歌である。
春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず
冒頭は「春日野の若い紫草のようなあなた方」と解釈できるが、紫草はその根が薬や染料になったことから「根」
に関連して、血縁関係を表すときにも使用された。これは『古今和歌集』雑歌上におさめる「紫のひともとゆゑ
に武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」の古歌をふまえたものである。
そしてこれらに深く関連するのが第四十一段であろう。この段は「むかし、女はらから二人ありけり」とはじ
まる。一人は身分が低くて貧しい男と、もう一人は高貴な男と結婚する。貧しい男と結婚した女が、慣れない洗
濯仕事が上手くいかず泣いていると、高貴な男がそれを慰める歌を贈るのだが、それが「むらさきの色こき時は
。
(20)
めもはるに野なる草木ぞわかれざりける」であり、物語も「武蔵野の心なるべし」というように先の古歌をふま
えたものであった
『伊勢物語』において「二人の女」は、仙女でも未婚のままなくなった幽霊でもなく、生身のその時代の現実
を生きる女性として造形されるに至ったのである。
(二)『源氏物語』「若紫」巻
(21)
。「若紫」巻の「若紫」
『伊勢物語』初段と『源氏物語』「若紫」巻との類似性は以前より指摘されている
(22)
の語
は『源氏物語』以降、なじみの言葉となったが、それ以前の文献にはほとんどみられない。初出は先
に見た『伊勢物語』初段の和歌である。この『伊勢物語』初段と『源氏物語』「若紫」巻との対応関係の具体例
六五
六六
は既に玉上琢弥が指摘しているが、舞台が、前者では南都で、後者では北山で、両者とも都から外れた場所であ
ること、季節が、前者は早春、後者は晩春で、両者とも春であること、また両者とも垣間見を経て、二人の女性
が現れるという点などが共通している。
それに加えて論者は『伊勢物語』がプレテクストとした漢文のテクストも、「若紫」巻においてもプレテクス
(23)
トとしてそのまま引き継がれていたのだと考えたい
。
。季節も『新羅殊異伝』「崔致遠」では暮春であるし、『遊
(24)
たとえば北山という場所であるが、田中隆昭は「平安京周辺の山中の寺院、仙洞御所、そして貴族の邸宅が、
主として漢詩文の世界で、容易に神仙の世界、桃源郷として表現される傾向があった」とし、「若紫」巻の北山
もそれを受けて造形されていると指摘している
仙窟』も春、『幽明録』「天台二女」は季節は直接春であるとは記されてはいないものの、劉晨・阮肇の滞在した
仙境が「気候草木是春時(気候草木是れ春時)」と表現されていた。季節は春、仙境的な場所で二女と出会うと
いうわけである。
その上で『源氏物語』はさらに話を展開させた。一人は四十余りの尼君、もう一人はその孫にあたる十歳ばか
りの女子である。二人を垣間見る源氏の視線はどちらにも無関心ではいられない。
その場面を具体的に見てみたい。瘧病のために北山で療養していた源氏は、ほかの供は帰して、惟光とともに
「かの小柴垣」のあたりを垣間見をする。源氏の目にまず入ったのは尼君であった。
「尼なりけり」と語り手と源
中の柱に寄りゐて、けうそくの上に経をゝきて、いとなやましげに読みゐたる尼君、たゞ人と見えず。四十
氏の視点が重なりあった、そこから源氏の視点にそって物語は叙述される。
余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれどつらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれた
る末も、中〱長きよりもこよなういまめかしきものかな、とあはれに見給。
大儀そうに経を読んでいる尼君は普通の身分の人とは見えない。四十ばかりで、とても白く気品があって、痩せ
てはいるが頬のあたりはふくよかで、目元のあたり、髪が若々しく、きれいに切りそろえられているのも、かえっ
て長いよりも今風である、と感じ入って見ているのは源氏である。四十といえば当時は老女ということになるが、
源氏の視線は、老女を見るそれではない。
紫上については次のようにある。
十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなへたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに
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似るべうもあらず、いみじく生い先見えてうつくしげなるかたちなり。髪は扇をひろげたるやうにゆら〱と
して、顔はいと赤くすりなして立てり。
「何事ぞや。童べと腹立ち給へるか」とて尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめ
りと見給。
(中略)つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたるひたいつき、
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髪ざしいみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまり給。
ここも源氏の視線に沿って叙述される。紫上を十歳くらいであろうと見たのも、他の子どもたちとはわけが違っ
て、将来が楽しみだと思うのも、顔つきがいかにもかわいらしい様子で、眉のあたりもまだおさなさが残り、あ
六七
六八
どけなくかきあげた額、髪の様子が本当にかわいらしいと感じるのも源氏である。そして「ねびゆかむさまゆか
しき人かな」と、二度目(波線部が該当二箇所)の「将来を見てみたい」という思いが書かれる。尼君と比較し
て「すこしおぼえたるところあれば、子なめり」と、源氏が判断するのは――実際は祖母と孫の関係ではあるの
だが――、何人もいる女性の中でこの二人が血縁関係にあるということの確認であり、二人であることの必然性
を物語るものである。
。
(25)
しかしながらこの「二人の女」は、初老の女か幼女かという極端な取り合わせなのであった。これは、プレテ
クストを超えた奇抜さであり、結局のところ源氏は幼女であった紫上獲得に走り出すわけであるが、ここでの体
験が源典侍という物語史上最大の色好みの老女を登場させることになるのかもしれない
(三)『源氏物語』「橋姫」巻
そして『源氏物語』は宇治十帖「橋姫」巻で再び「二人の女」を「女はらから」として登場させる。薫は垣間
見をしながら次のように思う。
昔物語などに語り伝へて、若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうの事を言ひたる、さしもあらざ
りけむと、にくゝおしはからるゝを、げにあはれなる物の隈ありぬべき世なるけり、と心移りぬべし。
昔物語に言及して、そんなことがあるものかと腹立たしく思っていたが、現実にあるのだなあというわけである。
この「昔物語」については諸注、『うつほ物語』や『住吉物語』の一場面を指摘しているが、それに限る必要は
あるまい。こうした幻想的な垣間見の場面は、ときに仙境と仙女をも思わせるような場面であったことはこれま
でみてきた。この、都から離れた宇治を舞台として、薫が八の宮の大君と中の君を垣間見る場面は、しかしすで
に仙境でもそこに仙女がいるわけでもないことが明らかになったうえでの叙述である。再び物語の舞台に登場し
。そして最後に「はらから」ではない浮舟を姉妹として登場させて物語は幕を閉じる
(26)
てきた「女はらから」は、現実的な、物語内の実在の姉妹として、薫と匂宮のライバル関係と対応する形で役割
をはたすことになる
のである。
6、東アジア漢文文化圏における仮名物語の生成
次 に あ げ た の は、『遊 仙 窟』 の 作 者 で あ り 主 人 公 で あ る、張 鷟 (文 成) の 伝 記 の 一 節 で あ る (『旧 唐 書』 巻
(27)
一四九「張薦列伝」)
。
新羅日本東夷諸蕃、尤重其文。毎遣使入朝、必重出金貝以購其文。其才名遠播如此。
(新羅日本東夷諸蕃、尤も其文を重くす。遣使入朝する毎に、必ず重ねて金貝を出して以て其文を購ふ。其
の才名遠く播ること此の如し。)
新羅や日本などが張鷟の著作を重んじ、入朝するごとにその作品を購入した、と述べ、張鷟の名は遠い地まで知
六九
七〇
られていると評している。張鷟には『遊仙窟』のほか『朝野僉載』や『龍筋鳳髄』などの著作があるが、これら
が日本や新羅において読まれていたということが、対象テクストの内部からのみならず、外部のテクストによっ
ても指摘されているということが重要である。『新羅殊異伝』「崔致遠」や『伊勢物語』『源氏物語』が『遊仙窟』
をふまえているということも、テクスト外部からも証明されているともいえる。『遊仙窟』は日本と中国とのみ
の関係で考えるべきテクストではなく、他の漢文文化圏、少なくとも朝鮮半島も視野に入れて考えるべきテクス
トということになろう。
(29)
。
(30)
。なかでも丸山キヨ子の研究
(28)
は、『遊仙窟』から『伊勢物語』『源氏物語』へという流れを指摘したものとして特筆すべきものである
日本古典文学と『遊仙窟』との影響関係を指摘した先行研究は数多くある
。先に述べたように、本稿のテーマで
(31)
しかしながら、『遊仙窟』のみに限る必要もあるまい。今回言及したテクストでいえば、『文選』はいうまでもな
く『列仙伝』『列女伝』『捜神記』も間違いなく日本に渡来していた
いえば、異郷、仙女、幽婚(異類婚)などのモチーフが複雑に編み込まれてそれぞれのテクストが形成されてい
る。これらの現象を日本と中国のみの関係で考えるのではなく、漢文文化圏の他の地域を視野に入れてそれぞれ
の地域の言語文化のあり方を見ていくということが重要であろう。
、本
(32)
これまでみてきたように、『新羅殊異伝』「崔致遠」が典拠としたテクストやそのモチーフは日本古典文学にも
共通するものがあった。これらは東アジア漢文文化圏における共通の古典というべきものである。となると、む
しろ日本漢文について論じるべきであるし、これまでも日本漢文で論じられてきたテーマであったが
稿では、仮名テクストを中心に論じることにした。というのも、日本において、「国文学」は、近代国民国家の
アイデンティティの形成と深く関わってきたため、研究の中心も仮名テクストに特化し、仮名テクストを漢文か
ら独立させて論じる傾向が強かったからである。
論者が関心があるのは、漢文の影響といった過小な評価ではなく、漢字から仮名がつくられたということを前
提とした、漢文の翻訳としての仮名テクストの生成という東アジア漢文文化圏の問題である。漢文を典拠(プレ
テクスト)として漢文を書くことよりも、漢文を典拠(プレテクスト)として仮名を書くことは、漢語の語義を
仮名に翻訳する、漢文のモチーフを仮名テクストに「翻訳」するという作業を経ることで、より自由な表現や発
想が獲得できるのではないだろうか。と同時に漢文の読者層と仮名テクストの読者層の違いによって、そのニー
ズに合わせた形で翻案するような作業が想定されるのである。
実際、本稿でみた二人の女に関して言えば、『伊勢物語』初段の段階では「女はらから」が仙女である可能性
は捨てきれなかったが、その続編、あるいは二人の女の『伊勢物語』的解答というべき四十一段では現実の女性
として描かれていた。これは日本の仮名物語が『竹取物語』や『うつほ物語』「俊蔭」巻など伝奇的要素が強い
物語からスタートして、次第に、宮廷女房文学とでもいうべき、現実路線を辿るのと関係があるように思える。
『源
氏物語』に至ると、二人の女は、その登場場面では漢文世界と同様、神仙的でミステリアスなイメージをもたせ
つつも、老女と幼女、そして姉妹といった現実的な問題を提示し、読者をその世界に引き込んでいる。
日本の仮名物語において二人の女のモチーフは、東アジア漢文世界の二人の女のモチーフを利用しながらも、
(33)
。
それを巧妙にずらすことで、新たな表現と読者を獲得することに成功したのである
※引用本文は『新羅殊異伝』(平凡社東洋文庫)・『伊勢物語』『古今和歌集』(新編日本古典文学全集)・『源氏物語』(新日
本古典文学大系)
・
『遊仙窟』
(中国古典小説選)
・
『文選』
(新釈漢文大系)
・
『旧唐書』
(中華書局標点本)
・
『続浦嶋子伝記』
七一
註
(群書類従)によった。字体は適宜通行字体に改めた。
七二
- 研 究 成 果 報 告 書 『崔 致 遠 撰 『桂 苑 筆 耕 集』
二〇一一年に、小峯和明・増尾伸一郎編訳『新羅殊異伝 散逸した朝鮮説話集』(平凡社東洋文庫)が出た。日本におけ
る今後の研究の発展が望まれる。本稿もこの成果に負うところが大きい。
『太平通載』巻六十八に「崔致遠」として引かれる。『太平通載』は朝鮮初期の成任(一四二一〜八四)が中国北宋の『太
平広記』を範として古今の異聞を採録して編纂した八十巻からなる類書。一四九二年刊行。多くが現在伝わらない。また『大
東韻府群玉』巻十五・去声十一「隊」にも「仙女紅袋」として同話をおさめるが『太平通載』の引用の一部と後半部が省略
されている。『大東韻府群玉』は朝鮮中期の権文海(一五三四〜九一)が中国元の『韻府群玉』を模して編纂したもので、
二十巻。一五八九年完成。漢字を韻ごとに分けて掲出し、その漢字をつかった熟語や出典を、檀君朝鮮の時代から朝鮮中期
に至るまでのテ クストから掲載している。詩文作成の際の文例集でもあり、さまざまな故事を知るための百科事典的性格を
有している。
漂水県は現在の江蘇省南京市漂水県。県尉については礪波護「唐代の県尉」(『史林』第五十七巻五号、京都大学文学部史
学研究会、一九七四年九月)をふまえ、静永健が「白居易が拝命していた「県尉」という官職は、県における最下級の品官(正
九品下)であるが、唐代、将来の宰相候補たる人物に試される、言わば〈名誉の下放〉であった」(「県尉時代の白居易――
王質夫との交友を通じて――」『白居易「諷諭詩」の研究』勉誠出版、二〇〇〇年)と述べている。
崔致遠の人物伝については『桂苑筆耕集』序および『三国史記』巻四十六「崔致遠伝」参照。なお崔致遠は『新羅殊異伝』
の選者とも伝えられるが、これについては本稿では問題としない。
これについては九州大学教育研究プログラム・研究拠点形成プロジェクトB
に関する総合的研究』(代表濱田耕策、二〇〇三年)など参照。
静永健「『千載佳句』所収崔致遠逸詩句初探」(前掲『崔致遠撰『桂苑筆耕集』に関する総合的研究』所収)参照。
『桂苑筆耕集』の奉献は八八六年、
『千載佳句』の編者大江維時はその翌々
たとえば崔致遠は八五七年の生まれと考えられ、
年の八八八年生まれである。なお『千載佳句』には崔致遠のほか、少なくとも三名の新羅詩人の八詩句が収録されている。
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南宋・張敦頤撰『六朝事迹編類』、南宋・周応合撰『景定建康志』などに「双女墳記」を出典として引載する。河野貴美
子「『新羅殊異伝』逸文「崔致遠(仙女紅袋)」について」(『アジア遊学一一四 東アジアの文学圏――比較から共有へ』勉
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誠出版、二〇〇八年)参照。
序に「感宋玉対楚王神女之事、遂作斯賦(宋玉の楚王に対ふる神女の事に感じ、遂に斯の賦を作る)」とある。
『続浦嶋子伝記』に「不欲対玉顔以同臨鸞鏡。只願此素質以共入鴛衾(欲玉顔に対し以て同じく鸞鏡に臨まんと欲せず。
只此の素質以て共に鴛衾に入らんことを願う)」とある。
(『朝鮮学報』一一九・一二〇、一九八六年)、朴銀美「『遊仙窟』と『崔致遠伝』
フリッツ・フォス「『遊仙窟』と『崔致遠伝』」
との比較研究」
(『現代社会文化研究』十二、新潟大学大学院現代社会文化研究科、一九九八年)、濱政博司「「遊仙窟」と「崔
致遠」」(『水門――言葉と歴史』二十一、二〇〇九年)など参照。
『うつほ物語』における「波
『うつほ物語』の「俊蔭」巻(俊蔭物語)もこの類型としてとらえられるだろう。論者は以前、
斯 国 」 を 異 郷 へ の 出 入 り 口 と し て と ら え た こ と が あ る (「 モ チ ー フ 《 場 所 》 波 斯 国 」『 う つ ほ 物 語 大 事 典 』 勉 誠 出 版、
二〇一三年)。
このほかに『捜神後記』におさめる袁相・根碩の話などがある。
「従南湘之二妃、携漢浜之遊女(南湘の二妃を従へ、漢浜の遊女を携ふ)」。
「感交甫之棄言(交甫の言を棄てたるに感じ)」、
「念交甫之心狂、虚当白玉(交甫の心狂ひて、虚しく白玉を当くを念ふ)」。
「洛川廻雪、只堪使畳衣裳、巫峽仙雲、未敢為擎鞾履(洛川の廻雪、只だ衣裳を畳ま使むるに堪へ、巫峽の仙雲、未だ敢
へて鞾履を擎ぐるを為さず)」とあり、「洛川廻雪」が「洛神賦」、「巫峽仙雲」が「高唐賦」をふまえている。また、「吹鳳
管於秦楼、熟看弄玉(鳳管を秦楼に吹きて、熟づく弄玉を看る)」は「蕭史」をふまえている。
(『源
「源氏物語・伊勢物語・遊仙窟――わかむらさき北山・はし姫宇治の山荘・うひかうぶりの段と遊仙窟との関係――」
氏物語と白氏文集』東京女子大学学会、一九六四年)。
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「伊勢物語と漢詩文」(『一冊の講座 伊勢物語』有精堂、一九八三年)、「『伊勢物語』における漢詩文受容」(『平安朝文学
と漢文世界』勉誠社、一九九一年)。
渡辺秀夫前掲論文「『伊勢物語』における漢詩文受容」。
本歌は、『古今和歌集』に先の古歌の次に「妻のおとうとを持て侍りける人に、袍をおくるとてよみてやりける」という
詞書とともに、在原業平の和歌としておさめる(八六八番)。
(角川書店 一九六五年)、中田武司「若紫巻と『伊勢物語』」
(『講座 源氏物語の世界』第二集、
玉上琢弥『源氏物語評釈』
有斐閣、一九八〇年)など。
巻名は藤壺と紫上との関係を知り、ますます執着する源氏が詠んだ歌「手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野
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田中隆昭「光源氏の北山行――若紫巻の桃源郷的表現――」(『交流する平安朝文学』勉誠出版、二〇〇四年、初出、上坂
信男編『源氏物語の思惟と表現』新典社、一九九七年)。
辺の若草」による。この歌はもちろん先に見た『古今和歌集』の古歌をふまえている。
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これについては仁平道明が「『源氏物語』が「遊仙窟」を受容していることを示す確実な例は、絵合巻と蜻蛉巻の例を除
けば、それほどあるわけではない」と述べ、「若紫巻・橋姫巻の垣間見の場面が「遊仙窟」の五嫂・十娘との出会いを背景
とするのものだという説についても、「遊仙窟」ではなく、それを背景としている可能性が考えられる『伊勢物語』初段を
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直接的には意識していると考えるべきなのだろう」(引用傍点論者による)と述べている(「『源氏物語』と唐代伝奇の〈型〉
――直接的受容と間接的受容」『源氏物語と唐代伝奇――『遊仙窟』『鶯鶯伝』ほか』青簡舎、二〇一二年)。仁平は唐代伝
奇の直接的引用をことさら指摘する研究の傾向に対して述べているのであって、何を直接的あるいは間接的にふまえている
のかという問題は、享受者の問題とも絡んで、この種の研究に常につきまとう問題である。しかしながら本稿では、
『遊仙窟』
などの東アジア古典ともいうべき漢文を享受した人々を前提に読みを展開したいと考えている。漢文を知らなくても読める
のが『源氏物語』であるが、漢文を知っている人間が読んだのならば、また別の角度からの読みがひろがったであろうこと
は想像に難くないし、実際に享受者側の人間にはそういう人間が多く存在していたはずなのである。
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本文中にあげた紫上の描写につづいて、「さるは、限りなう心をつくしきこゆる人にいとよう似たてまつれるがまもらる
なりけり、と思ふにも涙ぞ落つる」とあるが、紫上に惹きつけられるのは、「限りなう心をつくしきこゆる人」=藤壺宮に
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よく似ているからだと気付いて、源氏が涙を流しているのである。尼君と紫上も、似ていると言及されるが、紫上は藤壺宮
とも似ているのであった。実際、藤壺宮と紫上は叔母と姪の関係である。その藤壺宮と源典侍が照応関係にあると説いたの
テクスト
が三谷邦明「源典侍物語の構造――織 物性あるいは藤壺事件と朧月夜事件――」(『人物で読む源氏物語 朧月夜・源典侍』
勉誠出版、二〇〇五年、初出一九八〇年)である。三谷は源典侍を桐壺帝の愛人の一人と想定し、
「藤壺事件と類似する〈王
タブー
権〉の禁忌への違反性が語られている」とする。藤壺宮と源典侍も二人の女の系譜として読むことが可能かもしれない。
(『物語文学、その解体――『源氏物語』
「宇治十帖」以降』
神田龍身「分身、差異への欲望――『源氏物語』宇治十帖――」
有精堂、一九九二年)、『源氏物語=性の迷宮へ』(講談社選書メチエ、二〇〇一年)参照。神田は「薫には匂宮(媒体)が、
匂宮には薫(媒体)なくしては、宇治の女たちを恋することはなかった」(『源氏物語=性の迷宮へ』二〇頁)とする。
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『新唐書』巻一六一「張薦列伝」、『桂林風土記』「張鷟」にも同様の記述がある。
古くは小島憲之「遊仙窟の投げた影」(『上代日本文学と中国文学 中』塙書房、一九六四年)、同「唐代小説『遊仙窟』
をめぐつて」
(『国風暗黒時代の文学 上』塙書房、一九六八年)などがあるが、近年では和漢比較文学会でのシンポジウム「唐
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代伝奇と平安朝物語」(二〇〇九年九月)を受けて、『和漢比較文学』第四十四号(二〇一〇年二月)に山本登朗「『遊仙窟』
文化圏」構想は可能か――「かいまみ」と「女歌」――」、渡辺秀夫「漢文伝と唐代伝奇・物語――『続浦嶋子伝記』をめぐっ
て」、諸田龍美「伝記と物語の美意識――〈文化ダイナミズム〉から見た中唐と平安朝の文学」、新間一美「源氏物語と唐代
伝奇――基層としての遊仙窟――」などの論文が収められ、また、明治大学古代学研究所のシンポジウム「源氏物語と唐代
伝 奇 」( 二 〇 一 〇 年 十 二 月 ) の 成 果 と し て 日 向 一 雅 編 『 源 氏 物 語 と 唐 代 伝 奇―― 『 遊 仙 窟 』『 鶯 鶯 伝 』 ほ か 』( 青 簡 社、
二〇一二年)が出された。この論集には李宇玲「唐代伝奇と平安文学」、河野貴美子「古注釈からみる源氏物語と唐代伝奇」、
芝﨑有里子「『落窪物語』と『遊仙窟』」、新間一美「源氏物語と遊仙窟――若紫巻と夕顔巻を中心に」、仁平道明前掲論文な
どが収められている。
丸山前掲論文。
朴銀美「『伊勢物語』の構想とその世界――『遊仙窟』と『崔致遠伝』との比較を通して――」(『国際日本文学研究集会
会議録(第二十二回)』国文学研究資料館、一九九九年十月)は『伊勢物語』と「崔致遠」を、ともに『遊仙窟』から影響
を受けたものとして、「作品世界」や「作者の創作意図」などを探る比較研究を行っているが、三作品の比較という側面が
強く、本稿と重なる部分はあるものの、関心の方向性が異なる。
『列仙伝』『列女伝』『捜神記』も『日本国見在書目録』雑伝家に載る。また、『幽明録』「天台二女」は、『幽明録』自体の
伝来は確認できないが、『芸文類聚』や『蒙求』『世俗諺文』などに同話が採録されている。なお川口久雄が唐代伝奇と日本
文学の関係を論じるなかで、「これら唐代伝奇小説のうち、当時わが国に舶載されていたということが明らかに知られるも
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のは遊仙窟一篇だけであって、来ていたであろうと推定せられるものは任氏伝と長恨歌伝あたりにとどまる。しかし伝奇と
いうものは文言小説ではあるが、伝統的な書籍の概念からはみだしたもの、なかでも市井の人情を主題としている前掲の諸
伝奇は唐志類や日本見在書目にも著録されにくい性質のもの、従って舶載され愛読されていたにしても、官僚文人たちが正
式の記録にのこしたりすることは当然憚られたに違いない」(「寛弘期漢文学と源氏物語の形成」『三訂 平安朝日本漢文学
史の研究 中』明治書院、一九九一年)と述べていることは留意されるべきであろう。
(王勇・
拙稿「『後二条師通記』寛治五年「曲水宴」関連記事における唱和記録――「劉公何必入天台」を始発として――」
吉原浩人編『海を渡る天台文化』勉誠出版、二〇〇八年)でも「天台二女」について論じている。
わ
なぜ「二人の女」か、という根本的な問題については、折口信夫が「姉妹二人が一人の人格のようにして、結婚が行な
れた」
(『折口信夫全集 ノート編』第十三巻、中央公論社、一九七〇年)と、古代の結婚の習俗によるものとするが、渡辺秀
夫の「この種の初源への遡及による古代論理の汎用は、かえって『伊勢物語』固有の作品表現を見失う点で不満を残す」
(前
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掲「『伊勢物語』における漢詩文受容」補注三三)という指摘に同感である。
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《付記》本稿は二〇一二年七月に立教大学で行われた ASIAN STUDIES CONFERENCE JAPAN 2012
に お け る 口 頭 発 表 (題
目 「 The Production of Kana Narratives within the East Asian Cultural Sphere Narrating Otherworldly Women
」)
に基づくものである。席上、貴重なご意見を賜った先生方にお礼を申し上げます。
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