別冊 - 一般財団法人住総研

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すまいろん側年秋号別刷
第出回住総研シンポジウム
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二O O四年七月九日に開催
講 演2
講演1
U﹁和風﹂の成立 │ │
近代皇族邸宅を通してみた近世との連続と断絶
小沢朝江
会場 H建築会館ホl ル
内外。砂公私。のなかの﹁和﹂と﹁日本﹂
0
佐藤道信
講演3
戦後日本の住空間と家庭電化製品における﹁和風﹂の文化政治
吉見俊哉
財団法人住宅総合研究財団
和風の誕生
視覚化された日本
1
波
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作
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テーマ趣旨
﹁和風﹂あるいは﹁和﹂と聞いて何を忽い出すだろうか。和風住宅、和食、和服、いずれも臼本の伝統
を継承したかにみえるが、近世の蔭写ではない。﹁和﹂は﹁臼本﹂と鐙き換えられそうだが、日本風住宅、
日本食、日本服、では伝わるイメージは大きく異なってしまう。﹁和風﹂が﹁(商)洋風﹂と対をなす言葉
天皇や自主族は、伝統の体現者であるはずだが、明治以降一貫して洋服を正装とし、住まいも﹁洋風﹂を
であれば、明治以降に対比的な概念として登場したことになる。
の生活様式を守りながら、それを包む建築様式は﹁洋風﹂から﹁和風﹂へと閤帰し、和館を前面に出した
中心にしたといわれる。しかし、建築史の小沢朝江さんによると、皇族は、公的な場では一賞して﹁洋風﹂
という。皇族が自らを表現する様式として﹁和風﹂を選んだのは、欧風化一辺倒ではない、﹁臼本﹂独自
美術史の佐藤送信さんによると、﹁日本美術﹂なる概念は、その芸術性が商飲列強と比べて遜色のない
の権威や国力を示す必要からだろうか。
ものであることを示すために、岡倉天心らによってつくりあげられたという。ところが、今でも、ヨーロ
ッパやアメリカで﹁日本美術﹂を見るには、美術(雪。印ユ印)館ではなく、民族学なさコ口一口問﹃)博物館へ
る人もいる。それは正当だろうか。アジアやアフリカ、南米の美術の扱いに対して、間様の怒りを感じて
行かなければならない。エスニツク(由主コ一口)に扱われることに、怒りを感じ、突然ナシヨナリストにな
社会学のき見俊哉さんによると、戦後のある時殿、テレビなど家庭電化製品に﹁飛鳥﹂など臼本の伝統
いるだろうか。
を想起させる名前が付き、木質系の﹁和風﹂意匠が採用された。機能と意匠の議離に隠された、時代の慈
建築の世界でも﹁和風﹂は、揺れ動いた。モダニズムの時代、﹁和風﹂は情性や保守性の権化として差
士山は何か。
別され、隅へと追いやられた。ところが、ポストモダニズムの到来とともに、マイナスイメージは消えた。
そういえば、近頃、太い柱梁を累く塗り、墜を珪藻土とした、飲み屋や焼肉屋がはやっている。単なるデ
ザインのひとつかと思っていたら、若い世代は、あれを﹁和風﹂と捉えているらしい。
﹁日本﹂の伝統や﹁和﹂の意匠を、安易なナショナリズムに隠らず、あえて間い直すために﹁和風の誕
生﹂をテl マとした。
︿目次﹀
テーマ趣冨
はじめに
1
波多野純
﹁和風﹂の成立l近代皐族邸宅を通してみた近世と由連続と断絶
小沢朝江
n 外勺八ム私 のなかの﹁和﹂と﹁日本﹂
内
u
佐藤道信
吉晃俊哉
臨明後日本の住空間と家庭吊由化製品における﹁和風﹂の文化政治
1
2
講演1
講演2
講演3
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5
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←め守也。
佐藤道信/さとう・どうしん
東京大学大学院情報学環教授
吉見俊哉/よしみ・しゅんや
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東京謹術大学美術学部助教授
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一九七九年、東北大学文学部卒業。八一年、同
大学院修士課程修了。板橋区立美術館、東京国
立文化財研究所勤務を経て、九四年より来京冬
術大学勤務、現織におエる。八五 1八六年、文部
符夜外研究員としてアメリカ合衆閉山で近代日本
美術作品の調授を行なう。
主な著書・論文に、吋明治国家と近代美術i
is美
近
の政治川ゴ(古川弘文館)、吋︿日本美術﹀誕牛
代日本の﹁ことば﹂と戦略﹄(講談社)、コ川録映
斎と菊池袋済﹄(﹁日本の美術﹂問、主文堂)、﹃附
倉天心と五浦﹄(共者、森田義之・小泉皿日弥編、
中央公論議︿術山山版)、寸人の︿かたち﹀人の︿か
らだど(共者、東京国立文化財研究所⋮潟、平凡
羽)、﹁近代史学としての美術史やの成立と展
開﹂(言行本美術史の水脈﹄所以、ベりかん社)、
﹁ジヤボニスムの経済学﹂(近代嗣説 4山明治美
術学会誌 b所以)などがある。
一九八一年、来ぶ大山宗教養学部(相関相会科学
文化コi ス)卒業。八七年、同大学院社会学研
究科陣士課桜山平作⋮取符込学。東京大学新聞研究
所助手、附大学判官会情抑制研究所助教授を経て、
二000年、同教授。二0 0問年、組織統合に
より羽織に塗る。
主な法官舎に、﹃カルチュラル・タi ン、文化の政
H)
、コ一O佐紀日本の忍恕﹄(共
治学へ﹄(人文京 院
編、作品社)、﹃拡大するモダニティ 共編者、
J叫住近代行本の文化史 6﹂山川波行山)、っ冷戦体
制と資本の文化﹄(共編務、﹁議政近代日本の文
化史 9い山布波書応)、三九一一一0年代のメディア
と身体﹄(⋮総省、点円弓社)、﹃都市のドラマトゥル
ギl
b(弘文堂)、﹃博覧会の政治学二小公新沼 u)、
守メディア時代の文化社会学﹄(新限社)、弓戸い
の資本主義﹄(議談判官選会メチエ)、吋リアリテ
ィ・トランジソト﹄(紀伊国混在硲)、﹃メディア
としての屯訟﹄(共著、弘文堂)、ぷ州市の空間
都市の身体﹄(編者、効事者一段)、﹃デザイン・テ
クノロジー・市場﹄(共編者、﹁情報担会の文化
3﹂来京大学出版会)、ほか多数がある。
各講演は、このシンポジウムのために蜜き下ろされた論文をテキストにしています。
シンポジウム参加者には事前に記布しましたが、これら論文をご覧になりたい方は、財団へお問い合わせ下さい。
お
一九八六年、東京理科大学工学部建築学科卒業。
八八年、神奈川大学大学院工学研究科建築学一専
攻修士課抑制修了。湘北級制州大学生活科学科効教
授などを絞て、二O O二年より現職。工学博土。
一九九九年皮日本建築学会奨励賞受賞。二0 0
一一一年、住宅総合研究財団優秀助成研究選奨。主
な著書・論文に、﹃二条城﹄(共著、学管研究社)、
du本美術史﹄(企ハ法制、昭和堂)、﹃建築史の回り
舞台﹄(共著、州移凶松)、﹁南禅寺大方丈前身感物
の復原考察 111
建築と隊壁画の総合的検討﹂(日
本建築写会計閥系論文集初号、一九九七年)、﹁近
代における'長族別粧の立地・沿革及ぴ建築・使
い方に開削する研究﹂(住宅総合研究対日山研究年抑制
幻号、二O O一年)、﹁近世における内楽外郭門
と築地之内について﹂(日本建築学会計画系論文
集制号、二O O二年)、﹁明治期における巡幸施
皇室に
設の建築糠式と使い方に山附する研究111
見る洋風から和風への防婦とその背栄﹂(住宅総
合研究財問研究年報開山号、二O Oコ一年)などが
科ざ
ニOO五年三同月末発行予定の吋住総研研究年報ぬ引﹂にも収録いたします。
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司会日
波多野純/はたの・じゅん
日本工業大学工学部建築学科教授
波多野純建築設計室代表
一九七O年、東京工業大学卒業。九一年より現
職。工学博士。
九八年、﹃江戸城日︿侍屋敷どで銭築史学会賞、
﹁ネパ l ル に お け る 仏 教 僧 院 の 研 究 と 保 存 修
復﹂で日本建築学会食を受賞。、主な者会・論文
に、吋復問問・江戸の町﹄(筑摩書房)、﹃江戸城立
︿城郭・侍段数十日凶作最成﹀﹄(主文笈)、﹃江戸名
所凶日叶印刷の世界﹂(共著、岩波書庖)、司都市と共
∞
肉体・下﹄(共北官、名著出版)、﹃、Hdo 閉山。苫}
EES間 由 由 主 回 忌 己 F25 三
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足告白}(ネパールの王宮と仏教僧院)い(共著、片
日
本工業大学中央公稔美術出版)、﹁隆史・文
化・景観の保全と市内伎のあり方報告書﹄(主査、
日本建築学会編)、﹃関指定史跡︿山山れ川和総商館
跡﹀凶側五棟建造物復元工事報告書﹄(編著、長
崎市)などがある。
建立
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東
はじめに
波 多 野 純 n総合司会
近ごろいろいろな形で、﹁和風﹂という語が重要なキーワードとなっていま
す。﹁和風住宅﹂﹁和食﹂﹁和服 L:::、それぞれに共通したイメージをもって
います。しかし、そのいずれもが本当に﹁日本の伝統﹂を引き継いでいるの
ノの集合だったのではないか、という観点から、テレビ、家具、住宅に埋め
佐藤さんの論文の中にドキッとする指摘がありました。たとえば﹁和風ス
込まれたイメージの世界を紐解いていただきます。
そのへんを少し考え直してみたいと思います。たとえば、天皇は日本の文
和服の女性がいる庖、洋風居酒居というのは、若子﹁和風﹂だけれどもエス
は定着しています。和風スナックというのは、カウンターパーでありながら、
ナック﹂と﹁洋風居酒屋﹂。どちらもとても乱暴な表現なのですが、イメージ
化的伝統の体現者だとされながら、明治天皇以来、天皇の和服姿はほとんど
ニック料理を出す居酒屋のことかなと考えると、﹁和風﹂とは何か、もうほ
かというと、必ずしもそうではないようです。
誰もみたことがありません。小沢朝江さんは、天皇や皇族の住まいを研究さ
とんどわからなくなってくるわけです。
そのへんまで合めて、自分たちは何を刷り込まれているのかをきちんと考
とても危ういのではないでしょうか。
らしい。日本建築の信統とは無縁の商業意匠に﹁和風﹂が埋め込まれている。
壁に塗つであると、それを若い世代は﹁和風﹂の室内意在だと思ってしまう
また、焼き肉躍さんで、太い木の柱・梁に黒っぽい色を付けて、珪藻土を
れていくなかで、明治時代以降の洋風化とその後の和風回帰、すなわち連続
と断絶が複雑な形で表出されることを発見されました。講演の、一番手とし
講演の二番目は、﹃日本美術誕生﹄という本の中で、﹁日本美術という概念
て、天皇、皇族の住まいを通して和風とは何なのかをお話しいただきます。
は、西欧列強に対抗する概念として生まれた﹂と書いておられる佐藤道信さ
ん。内外、公私という対立概念のなかの﹁和﹂と﹁日本﹂というお話をして
講演の三番目、吉見俊哉さんには、戦後の住まいをめぐる大衆的想像力の
な ら な い の は 最 初 か ら わ か っ て い る わ け で す が 、 た い へ ん い い テi マのシン
と考えるようになりました。﹁どうあるべきか﹂という議論にはしたくないし、
えなければいけない、いま﹁和風﹂をちゃんとやっておかなければいけない
なかで、かつての﹁いろり﹂や﹁ちゃぶム日にも似た共同性のイメージを担
ポジウムが実現したと思っています。では、よろしくお願いします。
いただきます。
う象徴的な作用を果たしてきたものは、家電製品をはじめとする近代的なモ
︹講演︺│││
﹁和賦﹂の成立近代皇族邸宅を通してみた近世との連続と断絶
私は、もともと近世以前の建築史が専門で、特に江戸時代の天皇や公家の
まず柱がみえている真壁という構造である。柱などにペンキを塗ったりしな
一つは、そもそもの見た臣、建築様式としての和風と洋風です。和風とは、
小沢朝江
住まいを研究してきました。少しずつ時代を下げて、近代の天皇や皇族の住
い、素木を基本としている。そして、建具は障子や襖のような引達一戸である。
も、近世と近代で住まいの形は異なっている。すぐに思い浮かべるその違い
天皇や皇族ですから、近世から近代へ、住んでいる人は連続している。で
もしれませんし、建呉は上げ下げ窓であったり、開きのドアであったりする。
であって、ペンキが塗つであるかもしれない。木造でなく、組積造もあるか
では、洋風はといえば、同じ木造であっても、大壁という柱が出ない形式
れない。おそらくそういうものをみたときに人は﹁和風﹂と呼ぶと思います。
しらさ
まいを、関東学院大学の水沼淑子先生と一緒に調査を始めて、ちょうど五年
屋根には和瓦とか檎皮という材料を使う。室内には長押が回っているかもし
は、近代には﹁洋風﹂という建築様式が存在することです。特に天皇や皇族
なげし
ぐらいになります。
は、明治になって日本が洋風化を進めていくうえで、お手本になる存在とし
そうした建築様式とは加に、もう一つの要素に、生活様式を挙げることが
そういうものが和風と洋風を区別する何かということになります。
われています。ところが、私が近世と近代を比べていちばん違うと思ったの
できます。生活様式でみたときに、和風と洋風はどこが達、つのか。﹁畳が敷い
ていち早く洋風の住宅を導入し、そして洋風の生活を積極的に導入したとい
は、その洋風の部分ではなく、実は和風の部分だったのです。これが、私が
てある﹂こと、つまり靴を脱いで床の上でじかに生活をする﹁床臨﹂が和風
洋風といっても、それはまったく違うことを表現しているということに気づ
そこであらためて考えてみると、この生活様式と建築様式は、向じ和風、
ても、テーブルと椅子を使って生活しているかもしれない。
も、中に畳が敷いてある部屋があるかもしれない。逆に、外観は和風であっ
洋は洋、和は和で組み合わさるものだと思うのですが、外観は洋風であって
生活様式としての和風と洋風、建築様式としての和風と洋風は、本来なら
家具を使って生活をする﹁椅子産﹂という生活様式です。
の生活様式です。一方、洋風は、靴のまま上がり、椅子、テーブルといった
﹁和風﹂に興味を持ったきっかけです。
きょうの話の結論を先に申し上げてしまいますと、﹁和風﹂とは、近世から
連続したものではなく、近代に新しく創出されたもの。﹁和風とは近代の産物
である﹂と私は考えています。
和嵐@洋風の概念
ところで、何をみて和風といい、何をみて洋風というのか、そのほ別はど
こにあるのか。二つ大きな要素を挙げることができると患います、
写真一 2 最初の北自)Ij宮邸
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明治 1
7年、小野木重勝 W
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きます。生活様式としての和風と洋風は、﹁どう暮らしたいのか﹂を、一方、
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度目の小松宮邸
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8年、「婦人削i
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o.6より)
建築様式としての和風と洋風は、﹁周りに対してどうみせたいのか﹂を表現し
写真一 1 最初の有摺)Ij宮邸
0)
(明治 1
7年、小野木重Jl事fI明治 i
'
1
武宮廷建築」より)
ているといえるのです。
皇族部宅にみる和風回帰
近代の皇族というごく眠られた人たちは、建築様式として、また生活様式
建築様式は洋愚から⋮転和風へ回帰
として、和風と洋風のどちらを、どんな理由闘で選んだのか。
近代の皇族というと、﹁洋風化の手本﹂というキャッチフレーズでよく表現
さ れ ま す 。 そ の 根 拠 に さ れ る も の の 一 つ 、 明 治 一 七 年 にJ ・コンドルが設計
した有栖川宮邸は、二つ洋館が並ぶ構成になっています。普通この時代の住
宅は、和館と洋館が並ぶ形式が多いのですが、この場合は、和飴には宮家に
仕える女官たちの生活空間があるだけで、宮家の人びとは洋館の中でほぼ生
活が完結していたといわれています(写真)。
同じ年にできた北白川宮邸は、門のある正面倒に洋館があり、奥側に和館
がある(写真 12)。 ま た 、 片 山 東 熊 設 計 の 伏 見 宮 邸 は 、 和 館 の ほ う が 先 に で
きて、そのあとに洋舘が明治二四年に完成していますが、これを洋館がガー
ドして後ろ側の和館は門からみえないという構成になっています。明治一四
年に皇族で初めて洋館をつくった小松宮の住宅も閉じような構成をとってい
ます。
これらを通してみると、洋風を強調して、和風は隠していたことが配置か
らおわかりいただけると思います。
ところが、これら四つの家は、屋敷替えにあってほかの場所に移転させら
れたり、災害に遭ったりして、明治時代の末期にもう一度新しく本邸を建て
直しています。
4)。
最初に洋館をつくった小松宮の二度目の住宅は、こんどは全部が和館でで
きている住宅です(写真
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度目の有揺 )
1
1宮邸
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明
治3
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:r-、「有楢川;宮総記』より)
コンドルの洋館に住んでいた有栖川宮家の二度目の住宅もまた、巨大な和
館があり、門を入ると和舘と洋館が左右にみえるという構成(写真 │ 3 )。
伏見宮の一一度目の住宅は、八O O坪 と い う 巨 大 な 住 宅 で す が 、 そ の 役 所 向
きの部分だけが洋結で、他は巨大な和館です。
北白川宮のニ度目の住宅も、洋館と和風の住宅の大きさの比率が全く変わ
って和館が大きくなっています(図i
l)。
最初に率先して洋館を建てた人たちが、明治の末期になりますと、一転し
vol
.
l No.5より)
(II!-Iì台 43"j\ 「建築仁主主 ;Ñ~,b
て和風に転向している。これは明治の終わりに初めて住宅をつくった皇族に
も共通していえる特徴です。梨本宮邸は役所向きの部分だけが洋風である以
外すべて和風ですし(写真 15)、 久 遁 宮 邸 は 和 館 の 後 ろ に 洋 館 が 隠 れ て い ま
す
。
したがって、建築様式だけをみれば、皇族は洋風を指向していたのに、あ
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る時期から完全に逆転して和風を選択した。あらためて和風に回帰したとい
うことができる。
これを今度は生活操式の部分だけに着目してみていきたいと思います。最
生活様式は、公は洋盟、暮らし向きは和風
初のコンドルの有栖川官邸にもどってみてみましょう。平面や外観だけをみ
ても、生活様式が洋風か和風か、にわかには判断できません。もしかしたら
この中に畳の部屋があるかもしれない。この中で床座の生活をしているかも
しれない。
少なくとも有栖川官邸の場合、内部写真が残っている部屋は全部寄木張り
であったり、純笹であったりという、明らかに椅子座に対応する室内になっ
ています。
一方、最初の北白川宮邸は、これも洋館だから中はみんな洋風かというと、
二階平面悶にはほとんどの部屋に﹁和室﹂と書いてあります。この洋館の中
に畳敷きの部屋がある。つまりそこでは床鹿であった。残りの部分は椅子座
であったと判断できると思います。つまり、接客など公的な部分は椅子座で、
私的な部分は畳だったといえます。
図
度目の北畠 J
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I宮邸平面図 右下の部分が洋館てー残りは和館
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三、東京都立 r
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5年、東京都立中央図書鈴木子文庫所蔵)
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写爽度目の梨本宮邸
写 爽-6 北 白 )
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1宮 邸 謁 見 所
(1別治 45年、*}~王者 1 :1z:rI' 央防主iι1i本子文JjjI所蔵)
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明治の後半に建った二度目の北白川宮邸は、大きい和館と小さい洋館が並
んでいる(図││)。大きい和館の中の﹁謁見所﹂と書いてある部屋は公的な
空間といえますが、襖を入れたり、長押を打っている。和風の内部にもかか
わらず、椅子とテーブルが置いてある。つまり、生活様式としては、洋風で
7)。ということは、一因目の住宅と同じように、
6)。しかし、一方、ごく私的な生活
営んでいたということになります(写真i
空間は畳のままである(写真
公的な部分は椅子座、私的な部分は床座という区分けがなされていたことが
わかります。
この区分けは、梨本宮邸も久題宮邸もみんな同じです、建築様式は明らか
ります。ということは、言い換えるならば、生活様式はそのままで、周りだ
は洋風、私的な部分は和風という姿をそのまま踏襲していたということにな
いかと私は考えています。だからこそ、和風は近代に生まれたと考えたいと
うのが独立したとき、それが﹁和風﹂という建築様式が成立したときではな
私たち建築を専門とする人間は、建築とは構造があって、中身があって、
そしてデザインがあって、それが一体となって成立しているものだと考えま
皇族の住まいをみる限り、それらは全部別々のものであって、中はそのまま
選ぴ直したのか、いったい皇族にとって和風とは何だったのか。それを見て
では、なぜ皇族は最初は洋風を選んだにもかかわらず、そのあとに和風を
行在所
で周りだけをこうして変えることができる。和風とか洋風という建築様式は、
天皇や皇太子が地方に行ったとき宿泊するための﹁行在所﹂という建物が
みたいと思います。
泊まる以外に、昼食用の﹁御各一行在所﹂、休憩される﹁御小休所﹂を合わせ、
あります。明治天皇が明治の初めに六大巡幸というのを行なっていますが、
に﹁日本の近代住宅はだんだん洋風化した﹂といわれています。最初は和風
延べ六O Oか所ぐらい各地で行在所が用意されています。
置いてある椅子座の生活ですが、二階は全室床は畳。皮は完全に洋風で、で
洋装をし、本人が洋風化の象徴として扱われてきた。しかも、巡幸の際は椅
捺には圧倒的に和風の建物が多かったのです。明治天皇は早くに断髪をし、
札幌の豊平舘、山形県天童の元東村山郡役所などの洋館が有名ですが、実
も畳で寝たいという状態だということがわかります。これは皇族とは逆に
て、行った先の行在所がどんな様式であろうと、椅子座を通しました。とす
子、テーブル、テーブルクロスといった身の回りの調度一式をすべて持参し
意匠と生活様式と構造がバラバラになって、意匠としての和風と洋風とい
﹁洋風﹂の建築様式で包んだ姿といえます(写真19)。
れていって、全身洋館の住宅ができる。この住宅も一階は椅子やテーブルが
と洋風の二つの建物を並べていたものが、洋館の中に和風がだんだん吸収さ
8)
二般
逆の例もみてみましょう。那須にある松方正義の別荘です(写真i
けです。
実は皮一枚、中身を包むラッピングのようなものだと考えるようになったわ
す。モ、ダニズム教育を受けた人は特にそういう意識が強いでしょう。でも、
u"格を示すコlドとしての和
いうのがきょうのお話の一つ目の結論です。
に洋風から和風に回帰した。ところが、生活様式だけをみれば、公的な部分
2 !日松方:iE薮那須別邸愛護立さの問
写
ー
翼
け﹁着替えた﹂という言い方がいちばん近いと思います。
1
3松方志豪語那須5l1J基s
写爽 -8 1
その周りを圏、つ建築も洋風という三段論法でいままで洋風の建物だけ
写察 -11 IB 東村山郡役所玉~
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日役所資料飲i
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写 爽 ー1
3 !日ヰヒ野行在所
がクローズアップされてきたわけです。
写察ー 1
0 !日東村山郡役所
では、それらの洋館を明治天皇が米たときどのように使ったのか。
天童の東村山郡役所(写真叩)は御小休所ですが、その洋風の建物の中に
四本柱を立て、一一畳分の構えをつくって、幕を張って、御簾を垂らし、なお
かつ白いカーテンのようなものでちょっと隠すという構成になっています。
わざわざこのセットをつくって、なおかつ畳も敷いて、その上に織越を敷い
て、椅子・テーブルを置いて明治天泉が座るという大変まどろっこしいこと
2 の﹁玉座﹂と書いてある部屋に﹁置床﹂と書いてあるのが注目されま
同じ山形にあった東霞賜郡役所も、やはり提洋風の建物です(写真ほ)。
をしているわけです(写真什)。
閤
す。洋風の建物で、行在所になったときだけ床の間をつくっている。なおか
っ、この王座の部分には畳をこO同日分敷いたという記鉢が残っています。上
段にして畳を敷いて、さらに械盤を敷いて、床の間があるというのがセット
行幸のときだけ、こうした畳、床の間、幕、御簾といったような和風の要
になっている。そして、椅子・テーブルを置く。
素を加えてしつらえているのです。
本来なら、椅子・テーブルを置くのに最もふさわしいはずの洋風の建物で、
なぜこんなことをしたのか。ここで、近位の住宅の姿、書院造りを考えてみ
ると、回笠が敷いてある場所のほうが絡が高いというのがルl ルです。とする
と、畳を敷いたのは、明治天皇がこの畳に鹿るわけではなくて、田宮を敷いた
写察ー 1
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草鐙賜郡役所
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1賜郡史」より)
写爽 -14 |日ヰヒ聖子行在所去~
ことでこの空間の機を高める操作をしていることがわかります。つまり、洋
風の行在所に加えられた和風の要素は、﹁天皇の座所﹂という格を表現するた
めに加えられたということができます。
これは、和風の行在所の例でみてみると、より明確です。宮城県名取市の
行在所は、﹁宮居造り﹂と呼んでいて、御所を模したようです。しかも、調度
として﹁中に鏡を置く﹂という記録があって、まるで御神体のような鏡を床
の院に飾っています。
関 2 J
賓室霊賜郡役所王座
(
言
葉(
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号
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(
1
1
)
史
』 より)
福島県郡山の行在所の例では、まるで二階かと思うほど高さが強調されてい
たり、あるいは山形県北野の行在所では、天皇が使う部屋の上だけ屋根を高
くしている(写真150 し か も 、 中 を 見 る と 、 四 畳 半 な の に 格 天 井 で 、 こ こ
に床の間、上段、金襖、銀張りの天井という要素をちりばめています。これ
写真一 1
6 北側面中央武装具飾
は書院造りのル l ルそのままです(写真ーは)。明治天皇は、この中に紙謹を
また、
写真一 1
8 朝日の問天井蛇腹絵菌
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り
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0すべて
敷いて、椅子とテiブ ル を 置 い て 、 座 っ た わ け で す 。 こ う い う も の を 使 っ て
明治天皇の座る場所の絡を高めるという操作をしている。つまり、 ここでみ
る和風は、格を示す指標として使われているのです。
近世とは連続しないデザインモチーフ
洋風のなかに埋め込まれた和風のモチーフ
現在迎賓館として使われている旧東宮御所﹁赤坂離宮﹂(写真│日)をみて
和風という人は誰もいないでしょう。ただ、確かに洋風なのですが、部分部
分に日本にしかない文物を題材にした意匠をみることができます。つまり、
和風の意匠がたくさんある。
た と え ば 正 面 の フ ァ サiド の 左 右 と 真 ん 中 の ベ デ ィ メ ン ト の 部 分 に は 、 和
サiドには洋風の甲腎が入っている。つまり、正面が和風、裏側が洋風とい
風の武具、鎧兜のセットが入っています(写真│問、げ)、反対側の南側のフア
う対比になっています。
)0
内部でも幾っかこういう意匠を発見することができます。﹁朝呂の問﹂﹁彩
鷺の間﹂にも鎧兜のモチーフが何度も繰り返されています(写真は
マントルピースの細部に日本刀が隠れています(写真│げ)。
これはいったいどういうルールで付けられているのか。どうも表向きに近
いところはど和風の装飾が多い、なおかつ、儀式空間、対面の儀礼空間に近
いほど、こうしたものの面積が大きくて強調されている傾向をみることがで
たとえば﹁羽衣の間﹂という舞踏室にも確かに和風の装飾はあるのですが、
きます。
写繁一 1
5 旧東宮御所(現迎察官Îf赤坂~ifI'iin
北側j
外観
写奥行北側中央ベデイメント
日HU
l
一瞬で和風と見破れる人はなかなかいないでしょう。ラッパ、シンバル、ヴ
ァイオリンといろいろな楽器をモチーフにしたトロフィーの中に、鼓とかで
んでん太鼓のような日本の楽器が入っています(写真
lg。
つまりここでみる和風の意匠は、楽器のモチーフの中に巧みに隠されてい
るということがわかります。表向きに近いところほど和風は表面に出るよう
に強調され、儀礼的な色彩が弱まるほど隠されるという傾向にある。
リパイパルモチi フが明かす、﹁和風は近代につくられた﹂ということ
そのなかで繰り返し用いられてきた武士像のモチーフ、これはいったい何
なのかが気になります。こうした意匠が近世に存在したのかといいますと、
とんどみつけることができません、最も近いモチーフは﹁賎狩り﹂ぐらいで
違う性絡の文様を、それぞれに必要として集めてつくった、それが近代の和
武士そして古代。まったく違う時代、そしてまったく違う用途、まったく
実は障壁画にも、建築装飾のなかにも、武士会}あからさまに描いたものはほ
しょう。そうしますと、実はこうした題材は近代に新しくつくられたデザイ
皇族邸宅の場合、いったんたどった洋風化路線を捨てて、あらためて和風
風ということができると忠います。
写
塁
審-20 羽衣の悶皇室蘭トロフィー
﹁断絶﹂があるはずです。あらためて和風をつくろうとしたとき、直前の時
江戸時代の謙式をそのまま使い続けたものが和印刷なのではなく、あらためて
化路線をたどった皇族は、ある時点で和風へと転帰します。ということは、
﹁和風﹂とは、近世から連続しているものではない。いったん確かに洋風
代である近世に戻る必要はまったくなく、もっと古い時代のモチーフを使う
和風というデザインを選択したといえると思います。
そのデザインモチーフとして選ばれた一つが、こうした武士像ということ
新しい和風をその時代につくったといえます。
の装飾をみていくと、違う時代、達、っデザインをモチーフとして選択して、
すと、もちろん近位を継いでいるところもありますけれども、こうした細部
そして、その選択したときに、近叶一のデザインを典拠にしたのかといいま
ができます。こうした武士像は、明治宮殿の中の杉戸絵に楠木正成が描かれ、
もう一つ、明治宮殿の内部に描かれた天井絵などは、いったい何を典拠に
らないままに周りの様式だけを変えることもできる。つまり、﹁和風﹂とか
張りつけることができる。そして、皇族邸宅の場合、内部の生活様式は変わ
たとえば赤坂離宮のような洋風のデザインでさえ、ある部分に﹁和風﹂を
してデザインを決めたのかということをみていきますと、正倉院御物からと
つの事実から考えたことなのです。
﹁和風とは、近代の産物である﹂という最初にお話しした結論は、 このこ
﹁洋風﹂という建築様式は、まるで皮一枚のように独立したものである。
モチーフの一つとして挙げられます。
にしたものをみることができます。つまり、﹁古代﹂というのもリパイパル
った文様、厳烏神社宝物からとった文様といったような、古代の文様を典拠
皇族ではしばしば用いられていました。
赤坂離宮の﹁狩の開﹂のタペストリーには三人の武士が描かれているように、
はずです。
ことも、いや、自分たちに合う加のモチーフを新しく選択することもできた
を選ぴ草した。ということは、近世と、近代に新しく選んだ和風との間には
*
ンモチーフということができます。
写塁率一 1
9 彩警護の悶マントルピース装飾
︹講演︺11iH
グ内外勺公私 4のなかの﹁和﹂と﹁日本﹂
佐藤道信
﹁和風﹂とは何か
っていき、それで﹁日本画﹂﹁西洋画﹂もできていくわけですが、その一方で
L
と
﹁和﹂﹁洋﹂も使われた。そうすると、﹁日本的﹂﹁西洋的﹂という場合と、﹁和
風﹂﹁洋風﹂という場合はどういう違いがあるのか。﹁和風﹂は﹁日本的
同じようではありますが、﹁西洋﹂とも対峠し、﹁洋風﹂とも対峠しますが、
﹁和風﹂と﹁日本的﹂がどう達、っか。ほぽ罰じ意味ではあるわけですが、
実は美術のほうには﹁大和絵﹂などはありますが、﹁和風O O﹂というものは
では﹁日本﹂﹁西洋﹂と﹁和﹂﹁洋﹂がどういうふうに併用されているのか、
戦前の﹃大字典﹄を調べますと、﹁和風﹂という言葉には﹁やわらかい風﹂
美術と建築での﹁嵐﹂
﹁和風﹂﹁洋風﹂の相対構図の成立
あるいは使い分けられているのか、ということです。
ない。とすれば、なぜそういう遠いがあるのか。美術のほうでも九0年代に
﹁臼本耐とは何か﹂という議論が営々と行なわれました。
﹁日本画とは何か﹂というときに、﹁日本﹂が問題なのか、﹁画﹂が問題な
のかということがありました。たとえば岩絵具を使うからか、掛け軸か、扉
風か、あるいは主題の開題かということで、いろいろ定義が試みられたので
という風の意味しか出てきません。いまの﹁和風﹂の意味が出てこないので
らち
すが、結局坪が明かなかった、それは日本だけのものではなく、東アジア共
す。建築、美術ではなくて、一般用語レベルでみますと、いまいう﹁日本的﹂
という概
かという話になりました。一言葉がそのものを意味づけ、価値づける一方の側
L
通だからです。もしかすると物そのものではなくて、一言葉の問題ではないの
という意味での﹁和風﹂はほぼ戦後のようです。
L
のなかでのことですが、美
念的な対霞構図はむしろ現代に一般化したらしい様子がうかがえます。
﹁和風﹂﹁洋風﹂という状況自体は近代にできて、﹁和風﹂﹁洋風
のものだからです。それで私たちもかなり言葉の検証をしてきました。
ただし、﹁日本とは何か﹂というイメージ自体、絶対基準がない。相対的な
ものでしかない。時間が経てば、当時の日本的といまの日本的はまったく違
また、建築での﹁和風﹂﹁洋風﹂は﹁日本建築
術で﹁西洋画﹂といった場合には、﹁西洋絵画﹂とともに﹁日本洋画﹂も合み
います。そうしますと、何に対しての日本的かという縦軸、横軸上で考えた
ほうがむしろ早いかもしれない、つまり、外側から境界線を確定するという
ます、ですから、枠組みが違っているわけで、それが図l iに示したもので
築、擬洋風建築となり、和風建築がいちばん遠い形になる。
す。建築の場合には、西洋建築を絶対基準にして、それからの距離で洋風建
作業です。
﹁和﹂は基本的には﹁漢﹂に対しての対置用語であり、一方の﹁日本﹂は
﹁西洋﹂に対しています。﹁利﹂﹁漢﹂から、近代以降﹁日本﹂﹁西洋﹂へ変わ
週去との断絶としての﹁和風﹂
﹁風﹂にはもともと二つの、ほぽ反対
OO風だが、実は違う﹂。
みたいなニュアンスがある。①﹁擬似的、
まがいもの・:疑念
0
﹁
和
f
匪群顕j
ご
110110t
築
li
詰
⋮
r
J
一
I
日欄
日聖日
OL
i和風建築:
﹁洋風﹂の場合には、この意味が強いか
・・強調いかにもOO風、らしさ﹂
!西隣袋商:l!群
西
洋
[
二
極
主
主1
もしれません。②﹁特徴的、エッセンス
風﹂の場合には、②のニュアンスのほう
が強いのではないかと思います。
そう考えた場合に、﹁洋風﹂﹁和風﹂と
して対比されたのは、﹁洋風﹂が①で、
﹁和風﹂が②の意味の組み合わせか。ある
日本
撲諮問
[建築〕
。内外
H
のなかの﹁和﹂と﹁日本﹂
﹁倭﹂﹁和﹂と﹁日本﹂
いまのは近代以降の話だったわけですけれども、もっと長い時間のスパン
で考えるとどうなるか。﹁倭﹂﹁和 Lと﹁日本﹂。この﹁日本﹂という名称は﹁ひ
のもと﹂という用語から派生したもので、七世紀に成立した対外的な自称で
す。﹁後﹂は中国からみた日本のことで、日本にとっては他称でしたが、それ
が内在化したのが﹁和﹂と﹁大和﹂です。つまり﹁日本﹂の語も昔から一言葉
はあったわけですが、﹁司本﹂の方は対外自称として使われる傾向が強くて、
﹁和﹂や﹁大和﹂の方が国内自称として使われる傾向が強かったということです。
一方で、日本が中国に対して使ってきた﹁唐﹂とか﹁漢﹂は、いわば日本
からの呼称であって、中国にとっては他称でした。﹁中華﹂﹁中夏﹂というの
が、漢民族がその国土を称した自称です。
前の時代から引いているものもあるが、切れているものもある。結局は明治
は日本国内で成立して、流通した相対構図だったということです。中心に対
漢画も﹁酎﹂としかいわないですから、﹁和漢﹂という相対構図は、基本的に
こうした自称、他称の組み合わせから考えますと、中国では漢字は﹁字﹂、
に新たにつくられたイメージ、つまり解釈です。﹁日本画﹂も伝統系の日本
する周縁の、相対的ですが、じつは閉じた認識であって、中国にとってはあ
ば過去との連続と断絶の上に構築された新たな認識、つまり解釈だったので
それと同じように、﹁和風﹂とか、広義での日本イメージも、近代にいわ
﹁日本画﹂の場合、外国にはわかってもらえないというのは、実はこうした
本絵画﹂であれば、総称なので問題ないのですが、﹁日本絵画﹂と似て非なる
これは近代以降の﹁田洋酪﹂に対する﹁日本画﹂も同じでありまして、﹁日
ずかり知らないことだったということです。
はないか。そう考えれば、﹁グとても日本的。という擬制﹂という園式が成
相対認識が、閉じた日本国内での流通概念だから、ということだと思います。
﹁﹃和漢﹄の相対構国﹂は、平安時代の一 01 一二世紀の関風文化の形成の
﹁和漢﹂の相対構園ii﹁和﹂と﹁唐﹂﹁漢﹂
りも、解釈された、あるいはこうであろうという認識としての﹁和風﹂と
朗詠集﹄もできますので、タイトル化されるレベルで﹁和漢﹂という構関も
0年代にはよ刊漠
なかで成立します、﹁唐絵﹂の語の初出は八九四年。一 O 一
からの離脱として、新たな解釈の﹁和風﹂が生まれます。ここで茶室とか、
千野香織さんは、﹁﹃和﹄は旧来のものを温存し、 ﹃漢﹄は新米のものを受け
数寄屋風とか、その実践としての和風住宅といったものが出てくるのだと思
います。
はっきり言語化されます。
﹁洋風﹂ではなかったかと思います。ただし、戦後の現代には、いわば近代
まり、リアルかどうかi l西洋としてリアルか、日本としてリアルかll
ー
よ
り立ちます。グとても日本的。は②の意味で、﹁擬制﹂は①のほうです。つ
きた。
画は昔からあったわけですが、﹁日本画﹂という一言葉、概念自体は近代にで
るか。しかし、結局、﹁﹃創出された伝統﹄としてのグ日本のイメージ
いは単に﹁風﹂をやり方、流儀、いまでいう﹁OO流﹂みたいな形で解釈す
。
図一 1
入れる器として機能してきた。近代は﹃漢﹄が ﹃西洋﹄に変わっただけだ﹂
ということをおっしゃっています。
このほか、﹁形(僧形、線形など)﹂、﹁体(草書体、階書体など)﹂というの
える部分に使われる傾向が強かったのではないかという気がします。
も似た意味として使われていまして、それはそれで﹁形体﹂という言葉にな
っていく。いろいろ似たような言葉が使われていたようです。
また、﹁日本の﹂という意味では、似たような言葉として﹁国﹂﹁邦﹂も類
義的に使われています。いわゆる﹁国風文化﹂という、当時でいう﹁くにぶ
﹁和漢﹂から﹁日本﹂﹁西洋﹂へ
というのは、相対構図としては、
り(国風)﹂、あるいは﹁本邦﹂という言い方、近世の﹁国学﹂という言い方。
L
美術でも、音楽でも、文学でも、建築でも、ほほあらゆるところで言葉とし
ここで不思議なのは、近代以前の﹁和漢
いるわけではないですが、この使い方が、近代の﹁国語﹂﹁国史﹂﹁国文学へ
て使われています。たとえば絵でいえば﹁唐絵﹂﹁大和絵﹂、音楽であれば
これは一人称ですから、白分のところのというだけで、実は日本を特定して
あるいは﹁邦楽﹂や外国にいる日本人を指すときの﹁邦人﹂という言い方に
﹁唐楽﹂﹁和楽﹂、文学でも﹁漢詩﹂﹁和歌﹂、建築でも﹁唐様﹂﹁和様﹂:・:。
本建築﹂﹁日本美術﹂といった、総称としての﹁日本﹂はどこでもありうるの
ところが、近代以降は、芸術といわれるジャンルのなかで、﹁日本音楽﹂﹁日
なっている。それが外国向けに言うときには、﹁日本語﹂﹁日本史﹂﹁日本文学﹂
﹁日本音楽﹂となるわけです。
﹁和議﹂﹁唐様﹂をめぐる﹁様﹂と﹁式﹂
は、それが総称なのか、
ですが、特定ジャンルとして﹁日本﹂の語が使われているのは、﹁日本画﹂以
外にどうも思い浮かばない。﹁日本舞踊﹂と﹁日本刀
﹁様式論﹂というのは、美術史でも建築史でも研究上非常に大きな意味を
もってきたわけですが、﹁様式﹂というのも﹁様﹂と﹁式﹂の結合語で、﹁様﹂
特定の分野のことをいっているのかよくわからない。そうしますと、﹁日本耐﹂
L
は﹁テホン﹂とか﹁カタ﹂の意味だった。﹁式﹂は、日本ではほぽ儀式の意味
は﹁日本﹂を冠している唯一の特定ジャンル(非総称の)なのではないか。
。公私。 のなかの J和﹂と守日本﹂
で使われてきたのですが、﹁ノリ﹂という属性がありました。特に﹁式﹂の字
には﹁工﹂という字が入っていて、﹁方程式﹂とか、﹁方式﹂とか、いわば理
工学的な属性がかなり入っている字のようです。
公の﹁日本﹂、私の﹁和﹂
近代以降、基本的に﹁日本﹂は公的な部分、対外的な性格の強い言葉、総
近代の﹁様式﹂というのは、その﹁様﹂と﹁式﹂をくっつけて、西洋に対
己J
qu﹂
するマックスの用語としてつくったのだと思いますが、当初は﹁50E
称、あるいは公的機関名に、﹁和﹂のほうはどちらかというと私的なところ、
明治一 0年代から、﹁日本銀行﹂﹁日本鉄道会社﹂とか、﹁日本﹂を冠した
の訳語として成立しています。﹁哲学字葉﹄では、﹁様式 Lは﹁50仏包王、﹂の訳
言葉が出始め、ニ0年代以降は続出してきます。﹁日本美術院﹂もその流れ
衣・食・住にまつわる個別名称に多用されているように思われます。
﹁ノリ﹂という規範性としてみますと、﹁式﹂がいちばん規範性が強く、﹁様﹂
語とされています。
がその次で、﹁風﹂はいわゆる﹁趣﹂なので、その閉には一線があると思いま
﹁J A﹂など、いま﹁J﹂が付くのはみんな Jm℃山口﹂が付いて
です。﹁J R﹂
葉のニュアンスが関係しているのではないかと思います。﹁風﹂の場合には、
J汗室(洋間)﹂、﹁和風
﹁洋傘﹂、﹁和食﹂﹁洋食 、
L ﹁和菓子﹂﹁洋菓子﹂、﹁和室﹂
一方、﹁和﹂のほうは、たとえば﹁和服﹂﹁洋服﹂、﹁和裁﹂﹁洋裁﹂、﹁和傘﹂
いるからで、これは一八八0年代からの延長上にある。
はその分緩くなります。﹁コリント式﹂とか﹁ドiリア式﹂とか、
すが、﹁風
L
たとえば和風建築でも洋風建築でも、工法を言うときには、﹁洋式構造﹂﹁和
住宅﹂﹁洋風住宅﹂など、衣・食・住のところのかなり個別なものに付いている。
なぜ西洋建築に﹁様﹂を使わずに﹁式﹂を使ったのかということも、この言
式構造﹂など﹁式﹂のほうを使うらしいので、﹁風﹂は外観、内視を合めたみ
だとすれば、なぜそういうことが起こっているか。こうした使い分けは、
が国外にあったので、日本はそれを最大限に利用します。一つには富国論1il
なければいけなかった。そこに予想外のジヤポニスムというラッキーな状況
り、日本は一等国であることを軍事、経済、政治、文化、あらゆる面で示さ
じつは異文化と日本、過去と現在を、使い分けることで伺時につなぎ合わせ
外貨獲得のための美術・工芸品の輸出。こつには絵画・彫刻を中心にした文
補完と接続 1 1 1
柔構造としての
る、柔構造を生むものとして機能しているのではないか。とくに明治の初め
化戦略としての日本の提示。輸出のほうは農商務省、産業政策が扱い、片方
M
はや国系の文化に加えて西洋系の文化という、とんでもない異質なものを日
は文教政策として文部省が扱うわけですが、このこつの領域を使い分けなが
H
公私
本につなぎ合わせる作業でしたから、これが最大限に機能したのではないか。
を履いたまま自宅に住んでいる人もほとんどいない。つまり公的な部分は西
ここからくるわけですが、美術がイデオロギー表象の中心に置かれた。近代
書いた﹁美術は国の精華なり﹂という一文。まさに﹃国華﹄という雑誌名も
たとえば後者については、同鳥取天心が、明治二二年に吋国華﹄発刊の辞で
ら、経済的にも、イデオロギi的にも美術を最大限に利用します。
洋式を目指してきで、ビフォ l フ ァ イ ブ ま で は 洋 式 、 ア フ タ ー フ ァ イ ブ の 私
美術は、いわば日本美術の﹁現在﹂をつくる作業で、日本美術史は、日本美
いまは靴を脱いで仕事をする職場で働く人はほとんどいない。一方で、靴
そうすることで、社会全体、あるいは偶人の一日のなかで、文化を使い分け
生活は和式という、五時を境にした文化的スタイルの転換が行なわれてきた。
術の﹁歴史﹂をつくる作業だったといえます。
て﹁日本﹂が重用された。だから﹁和風美術﹂がないという状況になってい
館に飾られ、西洋に一不されることになったわけです。だから﹁和﹂ではなく
こうして、万博で産業館に締られていた日本美術品は、﹁美術﹂として美術
ながらつなぎとめてきた。会否定しないということです。そういうことが起
こってきたのではなかったかという気がします。
﹁和﹂という﹁伝統﹂
﹁和﹂というのは近代以前からずっとありますから、まさに﹁伝統﹂とい
われる部分に﹁和﹂が使われています。ところが﹃明治のことば辞典﹄によ
伝統﹂﹁民俗の伝統﹂というような言い方に変わる。辻成史先生の研究による
いから﹁有形・無形のしきたり﹂の意味になって、一九一二0年代から﹁自の
訳していましたが、﹁宝刀∞ロぬ括的々}ゆとは何だ﹂といわれると、よけいややこ
場合はJさきg
σB-25mc、日本画の場合はJ322ゆえ10 ℃包えE
m
Cと
すので、外国で﹁日本画﹂といっても伝わらない。少し前まで、日本絵画の
また﹁日本画﹂﹁西洋同﹂というのは、日本国内での閉じた相対自己認識で
と、﹁伝統﹂の語が急に使われだすのは、むしろ戦時中からで、とくに戦後に
しくなるので、最近は﹁Z50ロ官!﹂とされることも多くなりました。説明拒否
0年代ぐら
一気にふえたらしい。﹁伝統﹂と﹁創造﹂というのも、実は戦後にかなり使わ
という気もします。いわば外を向きながら閉じてしまっている、常に気にし
の状況になりつつあるのですが、これはこれでナショナリズムではないのか
そうすると、﹁和風﹂という語と﹁伝統﹂という語は、ほとんど背中合わせ
ながらなかなか国際化できないというか、それがずっと絡まり合いながらき
とか内外。の絡
に戦後になって広まったものだったらしいと、どうもそういう状況のようで
﹁和風﹂と﹁日本的﹂の違いは、そういうふうなグ公私
み合いできた、ということをお話しさせていただきました。
6
ている気がします。
美術史と建築史
美術は、 明治期にジヤボニスムに向けた対外示威の中心に置かれた。 つま
*
す
。
れる言い方です。
ると、﹁伝統﹂という一言葉は、もともと﹁血統﹂の意味で、一九一
る
︹講演︺
ー
山
11
戦後日本の住空間時と家庭電化
吉見俊哉
時期における﹁和風﹂の文化政治
かテレビといった戦後の住まいに置かれていたものが、どういうモノとして、
たとえば広告のなかで、企業の販売戦略のなかでどういうイメージをもった
きょうの三人のパネリストの共通の認識として、次の一一一つが挙げられると
思います。
ものとして構築されてきたのかということをたどり、この和風・洋風といっ
日本人が二000年 に な っ て も 平 均 三 時 間 以 上 毎 日 テ レ ビ を み て い る と い
テレビ、 家庭電化製品のイメージはどうつくられたか
た問題とからめて考えてみたいと考えています。
①﹁和風﹂あるいは﹁和﹂が近代の発明口問であること。何か過去からの連続
性を考えてその本質的な要素を挙げようとしているわけではないこと。
②この﹁和風﹂とか﹁和﹂というものは、﹁和﹂と﹁洋﹂あるいは﹁和﹂と
﹁唐﹂といった二項対立的な項の一方として創出されていること。ただし、
一般に二項対立というと自己と他者ということになるが、﹁洋﹂が他者で
﹁和﹂が自己かというと必ずしもそうではなく、この二項関係そのものが
いうことが、いくつかの調査で出ています。そうしたテレビの特権性は、戦
う統計があって、日本人がテレビを晴好する度合いが、ずば抜けて大きいと
③﹁和﹂とか﹁日本﹂ということになってくると、建築とか美術とかエリー
い ま す が 、 ま ず は そ の テ レ ビ を め ぐ る イ メ ー ジ が 、 五0年 代 か ら 六0年代に
後の日本人の住まい方と非常にかかわりをもって出てきたのではないかと思
重層的に絶えずつくられてきた。
の関係の問題が、もう一つの軸としてからんでいること。
この街頭テレビのあり方と、その後、家庭の中に入ってくるテレビのあり
などに置かれた街頭テレビ、町の電気屋さんの庄一践のテレビであった。
一殻の人びとがテレビに接する最初の場となったのは、広場、公園、神社
思っているテレビとはかなり違うものとして意識されていたと思います。
あるいはテレビというものの存在の仕方は、いまわれわれがごく当たり前に
一九五一二年にテレビ放送が始まったときから数年間は、テレビのイメージ、
街頭テレどから家庭のテレビへ
かけてど、つつくられていったのかということを考えてみたい。
トの知識にかかわるようなレベルと、大衆的な生活スタイルに近いレベル
以上のことを共通認識として、お話しさせていただきます。
れたモノをめぐるイメージの歴史、コマーシャルなレベルで家具とか家電と
レビ、家電製品、そしてそれを囲んでいた家具といった、住まいの中に置か
のモダンリビングのイメージはいかにして人ぴとに受容されてきたのか。テ
戦後の住まいのイメージを構築してきたのはいったい何だったのか。戦後
としておりまして、きょうの話もその一環で考えていることです。
私は、戦後日本の大衆文化におけるアメリカ化について研究をまとめよう
*
方はかなり違います。街頭テレビは、いうまでもなくプロレス、野球といっ
広告に見るイメージの変容
る﹂とか﹁テレビが家にやってきた﹂という言い方をしたわけです。電気屋
問題で、五七年の広告では、椅子の
だけど椅子に誰が座るかというのが
る(写真 13)。 お 母 さ ん と 子 ど も が
9
9,
5
0
0円
mn目 白 刈 新 開 む
テレビのイメi ジ の 変 化 は 、 広 告
の中にも出ています。一九五0年 代
たスポーツ中継をいちばん中心的に流していた。そして街頭テレビは山の子
ではなく、下町や都心の盛り場を中心に置かれていました。観衆は圧倒的に
半ばくらいまでのテレビの広告では、
だけどプロレスラーがテレビの画面
テレビを買ってプロレスをみよう。
男性です。
このようなテレビが、 五0年 代 の 終 わ り か ら 六0年 代 に か け て 家 庭 の 中 に
から飛び出している(写真 ii)。飛
入っていくときに、 いくつか変容していきます。
テレビ番組の中心がプロレスではなくなり、ホームドラマ、ニュースなど、
び出しちゃうということは、実際の
ビでプロレスをみるというほうが臨
いまあるテレビの番組形態に変わっていきます。もう一つは、家庭の中での
家庭の中にテレビを最初に買ってくるのは中産階級以上ですから、街頭テ
場感があって、その疑似体験として
リングにいって、あるいは街頭テレ
レビから家庭の中に入っていく過程で、視聴者の階層的な変化、ジェンダー
家でテレビをみようということなん
視聴ということになると観客が少し変わってくる。
の変化があります。家庭の中に人ってくると、女性とテレビ、子どもたちと
です。五0年 代 半 ば 頃 の テ レ ビ の 広
ところが、だんだん家庭に入って
告は力道山が主役でした。
テレビ、という結びつきが非常に強く出てくる。
そ う い う も の が 入 っ て く る こ と に よ っ て 家 庭 の 中 で 何 が 成 立 す る か 。 五0
1六0年代にかけて、テレビと洗濯機と冷蔵庫という一一一種の神器の中核とし
てテレビというものが家庭の中で位置付けられていきます。
さんが届けたとは書かない。まるで天皇とか偉い人が家や村にやってくるの
上にまだ誰も産っていない(写真 │ 2 )。
レビをみる人が出てくるわけです。
くると、家庭の中で椅子に座ってテ
と同じような諮られ方をする。そしてそのテレビを中心に、家庭の中で﹁三
それが、その後の広告になると、
当時、おもしろいのは、テレビを買うことを、しばしば﹁テレビが家にく
種の神器﹂という電気製品が構成されているということ、これはいったい何
初めて﹁家電﹂とか﹁家庭電化﹂という一一一一向葉がメディアの中に登場するの
テレビをみるというのが広告のイメ
お母さんと子どもがテレビをみてい
は、一九五0年 代 前 半 だ と 思 い ま す 、 こ の ﹁ 家 電 ﹂ と い う も の が テ レ ビ を 中
なのかという問題が一つあります。
核にまとまりをもって一つのカテゴリーをもってくると、それ自体がイメ!
スをみるのはなんか変ですね。そこ
で力道山は和服を着て、テレビの外
ージとして定着してくると、プロレ
う主体とか、そういうものが、ある位置付けを与えられてくることになりま
に出て挨拶をするという構図になっ
ジの世界をつくる。このイメージの世界で、家庭の中の主婦とか、日本とい
す
。
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TV-1GO (
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jテーブル!i'1) 喧 t69.000
呈 舌 が こ し な t苦 悶
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三、シャープ(部分)
写察-2 椅子は用慈されたが…
1
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三、シャーフ。
写察-3 椅子に座る母と子
1
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751'、京芝(部分)
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いスヲルな
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たり、街頭テレビの人気がかげり始めるころになると、力道山はプロレスを
に変わってくるわけです(写真
ラッと並ぶという、このタイプの広告
た
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その場合の主婦は、単に電気製品
タ
・
ス
Raja8)
庭の中でのいわば能動的な主体とし
ると、アメリカは夫婦で出ていたり、
一ヨ
察シ
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空
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・ 問 問 地M
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客ゆ
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日本国憲法二五条には﹁国民は健
ていたわけではありませんでした。
を消費する存在というふうに語られ
9)。
していない。リビングに座って観客の一人になっている形に変わっています
。
(写真 i4)
五0年代末から六0年 代 に か け て 家 電 産 業 が ほ と ん ど 均 一 的 に 、 家 庭 電 化
製品のイメージをつくっていきます。﹁電化で楽しい生活、美しい生活﹂
﹁楽しく豊かな生活設計﹂:::もうほとんどどれがどの企業かわからないで
生活、すなわち民主化を可能にする
康で文化的な生活をする権利があ
では、家庭電化製品というイメージが戦後の住まいのなかに成立してくる
のが家庭電化なのです﹂とあり、そ
すが、この画一性というのは驚くばかりです。
過程で、それをめぐって人びとの想像力がどのように構造化されていったの
して﹁その家庭電化を推進する主体
る﹂とあり、この﹁健康で文化的な
か。主として松下電器(ナショナル)の広告の歴史に焦点を当てながら、ジ
っています(写盲
が、奥様、あなたなのですよ﹂とい
一九三0年 代 、 ラ ジ オ や 電 気 製 品 の 広 告 の 基 本 パ タ ー ン は き わ め て は っ き
これは戦後になっても変わりません。一九四七年の広告で、モ、ダンガl ル
洗濯機であるにもかかわらず家族で
写察- 5 戦前の広告伊j
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三代、ナンヨナノレ
家電が聞いたアメリカンライフ
ェンダ!や、あるいはそれ以外の主体をめぐるイメージが、この家電製品の
。つまり、家
イメi ジを軸にどう構築されてきたかをごらんください。
みずから家庭を経営する主婦です。
うことになります。みずから考えて、
て女性、主婦が名指されていくとい
5)。この
りしていて、ラジオは都会的なモダン生活のシンボルでしたから、都会的な
モダンガl ル が ラ ジ オ を 聴 く と い う ス タ イ ル が 一 般 的 で す ( 写 真
予の広告が無数にあります。ラジオだけではなくて、懐中電灯でもなんでも、
(原節子)がラジオを聴くというパターンです(写実 │ 6 )。
出ていたりして(写真川てそれに
アメリカの同時期の広告と比較す
四0年 代 後 半 に は ア メ リ カ 的 な ラ イ フ ス タ イ ル が 広 告 の 中 に は っ き り 出 て
てられていく傾向が強いということ
対して日本の場合は主婦に焦点が当
モダンな電気製品はモダンガi ルと一緒にしておけばいいという感じです。
きます。アメリカではこんなに電化が進んでいるのにわれわれはこんなに遅
です。
れているというイメージが前面に出ています(写真 l7)。
五 七 年 か 五 八 年 こ ろ か ら 、 い ま ま で の モ ダ ン ガl ル と は 違 う イ メ ー ジ が 電
気 製 品 の 広 告 の 中 に あ ら わ れ ま す 。 そ れ は 主 婦 の イ メ i ジです。そしてこの
主婦のイメージと一体をなしながら、家電というカテゴリーが成立してくる
わけです。サンヨーの木暮実千代。ナショナルは高峰秀子が真ん中にいて、
ご品ずつ捕えて'奥様の笑顔﹂となって、家電製品が主婦の笑顔の周りにズ
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写察 s 原節子のラジオ広告
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三、ナショナル
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洗潟、食器洗いもすべて
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電気のアメリカ生活
三れ?よいか??⋮
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監﹁、現誌では止薬品隠も一一一O歎 都 内 絞 山 間 四 一 一 円 相 開
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十年一部深く Eの点に若様、ナ
ナ Y忽 MA 附 ¥ パ
雲の霊童じ、{震をによる文化ニーに介
汚の向上音信おして縫んでまいちました。附
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写奥-15 テレビも家具溺となり和感ネーミング登場
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二、ナショナノレ
日本の技術力を誇示する広告の登場
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写緊
ナショナノレ
写爽一 1
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というステレオ、 ﹁パレス﹂﹁キング﹂﹁ハイネス﹂というテレビも同時代に
出しています。
家電をめぐってどういうイメージがつくられてきたかをみてくると、一方
日本の技術力と結びついた ﹁和風﹂ デザインの登場
六O年 ご ろ か ら 、 こ れ と 対 を な し て テ ク ノ ナ シ ョ ナ リ ズ ム と い う か 、 日 本
では家電というカテゴリーそのものが、家庭の中に囲い込まれた形での能動
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の技術力は優れている、それは国際的に評価されているという広告がたくさ
それとほぼ同時的に、その家電のつくり手としての日本のテクノロジ
111
と
的な主体としての主婦というイメージと対をなして証生してきた。そして、
﹁ニッポンの誇りがまた一つ!﹂(ソニ l
)0 ﹁世界の音をその技術でリー
これは技術者のイメi ジ 、 あ る い は 技 術 立 盟 と し て の 日 本 の イ メ ー ジ
ん出てきます、
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ド す る ﹂ ( ビ ク タi
いうものが、日本国内の人ぴとに向けてかなり意識的につくりだされていく。
﹁この小さな金属体は世界に認められている﹂(サンヨー)。﹁世
る﹂(松下
この両方が強調されて、広告戦略としてもろもろのものが打たれて、人びと
)0
界から勲章を受けている﹂(松下)。﹁日本人はその器用さを誇ろう﹂。極め付
のイメージがつくられていきました。
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と、﹁モダンリビング
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誌で、五0年代後半に和風住宅が特集されています。
暮らしあるいは 不 具 、 住 ま い に 関 す る 雑 誌 を ざ っ と い く つ か 見 直 し て み る
たと思います、
デザイナーのレベルで日本的なデザインということがいわれていた時期だっ
ヤパニ lズ ・ モ ダ ン ﹂ と い う こ と を 言 い だ し た と き で す 。 こ れ は 、 主 と し て
ザインを強調したのは、いうまでもなく、五0年代半ば、剣持勇たちが﹁ジ
戦後最初に、家具において﹁日本風﹂ということを、あるいは日本的なデ
ぐるイメージの構築過程であったとみることもできるからです。
って、そういうモノたちに聞い込まれていくプロセスが、戦後の住まいをめ
モノの側からみていくと、家電製品、家具という会体がひとつながりにな
たのではないかということが、最後の話になります。
この話と同じようなことが、家具、住まいのイメージをめぐってもみられ
家具@住宅にも同じ動きが
きが六二年の﹁誇り高きメイド・イン・ジャパン﹂(松下)というものです
ただ、これはイメージがかなり先行していて、実際、同じころにナショナ
υ 、ロ)。
(写真i
ルのアメリカで打っていた広告は、﹁安いですよ﹂というタイプの広告です。
国 際 的 に 日 本 の テ ク ノ ロ ジ ー が 認 め ら れ る の は 七0年代の半ば以降だと思い
ますが、それよりはるかに前に、日本国内に向けて日本のテクノロジi は世
界から認められていますよという広告が打たれていたわけです。
そしてそれを受ける形で、一九六0年代後半から七0年 代 に か け て 、 日 本
のテクノロジーに日本風の味付けデザインやネーミングなど、もろもろのい
わゆる和風のスタイルをかぶせていこうということになってきます。
﹁日本人の能力と情緒をこのテレビに結品化させよう﹂﹁日本の正月、日
そ の 延 長 椋 上 で 、 松 下 が 六 五 年 の 初 め に J長﹂﹁飛鳥﹂というステレオを
本の色﹂(写真150
出します(写真は)。テレビより卒くにステレオを家具として位置付ける。
そしてテレビの﹁嵯峨﹂が出てくる(写真ーはほ)。
家電メーカーは六五年くらいから六0年代の終わりにかけて、このタイプ
五0年代半ばのそうしたジャパ一一 l ズ・モダンであったり和風住宅特集であ
ところが、それはその後、そのまま続いているようにはみえない。つまり、
﹁高雄﹂。東芝﹁名門﹂﹁王座﹂。サンヨー掃除機﹁太郎﹂。(写真i 日)
ったりというものは、ジャポニスムと非常に関連しますけれども、海外で日
の 家 電 製 品 を 、 横 並 ぴ で ザl ッ と 出 し て き ま す 。 サ ン ヨ ー ﹁ 日 本 ﹂ 。 三 菱
注意しておきたいのは、日本というのは一つの項であって、東芝は﹁パリ﹂
ます。
いこう、評価していこうという、知識人レベルの動きがあったような気がし
本のデザインが話題になったことを契機として、日本でもそれを売り出して
ぼ 同 じ か 、 や や 遅 れ る 形 で 、 家 具 や 生 宅 の コ マ ー シ ャ ル な イ メ i ジのなかで
で、和風のスタイルとかイメージというものがつくられてくるプロセスとほ
そういうふうにみてくると、ムハ0年 代 後 半 か ら 七0年 代 、 家 電 製 品 の な か
大衆的な広告とか、暮らしあるいは住まいに関する雑誌のレベルでも、和
こうしたものが、全体として単に自己発展的に発展してきたというより、
も、そうしたイメージがつくられてくるというプロセスをみることができる。
ということが、その背後にはあるのではないかという気がしています。
ーとか、そういう他者からのまなざしを受ける形でイメージ形成されてきた
絶えず、アメリカからのイメージとか、世界に認められる日本のテクノロジ
風 住 宅 と か 和 風 モ ダ ン と い っ た 言 い 方 が 一 気 に 広 が っ て い く の は 、 七0年 代
に入ってからの動きです。
で 、 そ の プ ロ セ ス を ざ っ と み て お く と 、 六0年 代 、 北 欧 家 具 が ま ず 大 衆 化
する。ただ、朝日、読売、毎日新聞、あるいは普通の週刊誌レベルの広告を
ず っ と み て い く と 、 家 電 の 広 告 は 五0年 代 の 半 ば ご ろ か ら も の す ご い 勢 い で
ふえ、そのなかであるイメージ形成がされていくわけですが、家具とか住宅
に関しては、一九六五、六年以降初めて、新開や雑誌の一般的な広告の中で
大衆的なレベルで語られ始めるということだと思います。
そ の と き に 、 家 具 に 関 し て い う と 、 こ の き わ め て コ マ l シャライズされた
大衆的なレベルでの家具をめぐる言説で最初にかなりメジャーになって出て
くるのが北欧家兵です。
デンマークインテリアという松屋の展覧会(六四年)。伊勢丹のデンマー
ク家呉の展覧会(六五年)。一一一越のフィンランド家具の展覧会。白木屋のフ
ィンランド家具の展覧会などなど。
六0年代の半ばにほとんどあらゆる﹁アパートで北欧家具の展覧会をやって
いたのではないかと思われますが、それにやや遅れる形で、和風の家具の広
てきます(写真iげ
)
。
写爽-18 和風の名前のプレハフ.住宅が登場
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ハウス
写奥 1
9 日本人の心を惑う広告
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311、大水観光
告が登場し始める。﹁日本の美﹂ということを出している高島屋の広告が出
七0年 代 に 入 る と 、 プ レ ハ ブ 住 宅 で も ダ イ ワ ハ ウ ス の よ う に 、 明 確 に 家 電
製品のネーミングとかスタイルにならって、﹁臼鳳﹂﹁春日﹂﹁若草﹂﹁大和﹂
といった和風のネーミングをつけた住宅を売り始めます(写真山)。
七0年代初頭の住まいの広告に、たとえば﹁伝統の味と:::﹂みたいなこ
と で 、 和 室 と い う も の を テi マにしたり、﹁床の間はぜいたくな空間か﹂と
いうふうにいってみたりするというような流れが出てきます(写真│ゆ)。
写奥ー 1
7 和風家具の広告
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何人もいるし、その人たちがちゃんと仕事をしている。何にも問題がないと
パネルディスカッション
﹁和風﹂という言葉にまがいものというイメージを感じと
波多野(司会)モ、ダニズムの建築教育を受けた世代は、
たという気がします。そういうことまで含めて、日本あるいは和風というも
感じています。でも、そう思えるようになるまでにはずいぶん時間がかかっ
リカではエスニックな文化としてとらえられている﹂ということを再認識し
前の付いた様式があった。書院造り、数寄屋、あるいは民
小沢会場からの質問のなかに、﹁近世にはいろいろな名
さまざまな相が入り斐じった近代和嵐を整理して、それぞれに呼び名を
へと入っていきたいと思います。
まず、会場から寄せられた質問票にお答えをしていただくことから、討論
って成立したのかという部分が大事だと思います。
のを白分たちはどうとらえているのか、しかもそれがどうとらえることによ
ってしまいます。しかし若い世代には、そういう抵抗感は
ないのかもしれません。
吉見さんが先ほど﹁日本と西洋という二項対立的な概念
のなかで和風が成立してくる﹂と整理してくださったんですが、その二項対
立の自分のほうに関して、では正確に把握できているのだろうか。
私自身も体験したことで、ニューヨークの自然史博物館に行ったときに、
ました。﹁なんということだ。日本の美術はファインアl ト と し て き ち ん と
日本美術のコーナーの隣にポリネシア美術があって、﹁日本というのはアメ
扱われていない。日本はエスニックアlトなのか﹂と怒る人がいる。日本を
があった。近代をみるときに、和風と一つの名前になって
しまっている。では残りのものはいったいどこにいったん
家、町家、庶民住宅、武家住宅と、いろいろな階層の住宅
扱われていない﹂という意識をもってしまう。しかしよく考えてみたら、同
ですか﹂という趣旨のものを幾っかいただいています。残りのものといった
西欧と対置して考えることが自分の身についてしまったおかげで、﹁対等に
じ目で自分たちが南米やアフリカの美術を、特殊な地域におけるおくれた文
ときの﹁残り﹂とはいったい何なのかが、問題になると忠うんですね。
私は、﹁皇族の邸宅﹂という限られたある階層の話だけをしたのですが、
化がっくりあげた面白い美術というふうにしかみていないのではないか。だ
としたら、その僕たちの白には、同じ批判の自が向けられなければなりません。
復の仕事をしていますが、﹁もしも日本の文化財を外国人が修理をしたいと
という様式を新たに選んで、何かのモチーフを使って回帰をさせた。新しい
講演のなかで何回も﹁リパイパル﹂という一言葉を使いました。それは和風
それは一握りの人たちだけの動きです。
いつできたら、あなたは受け入れることができるか﹂という質問をされたこ
様式をつくったということを言いたかったのですが、近代になっても江戸時
も う 一 つ 例 を 挙 げ る と 、 僕 は 二 五 年 間 ネ パ l ルに通って文化財の保存・修
とがあります。これを考えることで、ネパ l ルへ行って文化侵略に近い行為
代の建物がそのまま建っている例もたくさんあるはずですし、閉じ技術で民
家や町家はつくり続けられていたはずです。和鈷と洋館が並立する形の住宅
をしているのではないか、という反省の機会を得ました。
ところが、最近では、日本の文化財修理の現場でも、外国人の大工さんは
あった。新しい様式をつくったことがりパイパルだとすれば、この近世から
時代からのそのままの技術、形がそのまま使い続けられたということも当然
であっても、私的な部分に和風を建てるときに、特に内向きであるから江戸
そろ﹁和風
はありませんが、だんだん研究が進んできたいま、研究の用語としてはそろ
代和風は建築史のなかで扱われるようになってからそれほど日が長いわけで
まりにいろいろなものが入りすぎて定義がないという気がするんですね。近
たとえばいま近代和風というのは一つのジャンルとして確立していますが、
いうのは私も・なかなか答えにくいのですが、先ほどの佐藤先生のお話にあっ
﹁今後はどうなっていくか﹂という質問も幾っかいただきました。今後と
というものをもっと整理をして、その一つひとつに別の名前を
連続しているもの、そのまま残っているものは﹁サパイパル﹂と呼べるでし
つけてあげる時期がきているという気が、私はしています。
かなり最近まで、近代和風の研究対象のなかに民家は入っていなかった。民
たように、和風の﹁風﹂という一言葉は、いかにも日本らしい擬制、援態であ
L
ょう。近代の和風にはまずこの二種類が存在しているといえると思うんです。
家は近世から続いてきたものとして、いわゆる民家の研究者、近世住宅史の
る。いかにも日本らしい、でも嘘つき、ということだと忠、つんですね。
でも、﹁いかにも﹂と感じるためには何か既知のものが必要である。その
研究者が、明治になってから建ったものも扱ってきた。町家も同じことがい
皇族の場合には和風のモチーフを先ほどの話のように選んでいましたけれ
いろだと忠、つんです。今後いったいどんな既知のモチーフが必要とされるの
像であったりしたわけです。立場の違いによってその選ぴ方はもちろんいろ
﹁いかにも﹂と思うときに、皇室が選んだのが、古代の意匠であったり武士
ども、武士、特に大名は、近代に﹁華族﹂に身分が変わって、みんな東京に
か、それがある意味で何かとの対比で選択するモチーフというのが決まって
に、はじめである意味で和風と呼べるのかもしれないんですね。
えると思います。そうすると、近代のものとして町家や民家をとらえたとき
屋敷をつくって住まなければいけなくなるのですが、明治時代の末になると、
くるような気がするんです。
企業の発信するイメージを人びとはどう受け叡ったのか
地元に和風の巨大な本邸を建てたりする。そのときに選ぶ和風というのは、
皇 族 と は 違 う ま た 新 し い リ パ イ パ ル ソl スを何か選んで、違う和風を建てる。
ということは、和風にはリパイパルとサパイパルというこつがあり、さら
法政大学の網島さんから、﹁{ゑ電を利用する身体の
吉見
りめぐる問題もまたあるのではないか。そこをどう考える
にリパイパルをしようと思ったときに何をモチーフにするかは、つくる人た
か﹂という質問をいただいています。まさにそこが問題な
側からどのようにとらえ返されていったのかという、めぐ
和風というのは非常に便利な言葉で、ずっといままで使い続けられていま
わけで、広告というのは企業や産業が人ぴとにこれを注ぎ
ちの立場によって全く違うことだと思うんです。
どんどん取りこんで、いま﹁和風﹂のやにはいったいどれくらい入っている
込もうとか、人ぴとの間に構築しようと、産業や金業の側が狙ったイメージ
す。それだけに、私がいまお話ししたよりも後の時代に、また新しい要素を
かわからないほど、さまざまな相が入り混じっているのではないかと思いま
でしかないわけで、実際の人びとがそうしたイメージをどのように経験して
から、形には残っていないわけです。細かい雑誌の記事とか、マンガとか、
ではどうすればわかるのか。これは実際に生きられた日常生活の経験です
いわけです。
いたのか、生きていたのかということは、広告だけからでは絶対にわからな
す
。
先ほどの質問に戻りますと、いま和風といっているもののなかには、近批
からあったもの、残ってしまったものも当然入っている。それから、まった
く別のつくられ方をした和風というのももちろん入っていると思います。
一つ提案したいのは、﹁和風﹂という言葉を学術用語として使うとき、あ
されていったのかというのをみていくという、もうちょっと深い段階の問題
を使ってみていかなければならないのですが、実際に使う人びとがどう経験
うのはわからない。さらに同時に社会学的な調査資料がある場合には、それ
いろいろな素材をみていかなければならないけれども、どれが平均値かとい
なって、﹁家庭の中の主婦﹂というイメージに囲い込んでいく、という話を
て主体化していくというイメージをつくった女性を、もう一度、占領後期に
だというイメージが占領期に強調される。そして、いったん民主化していっ
するに、戦前の女性は封建的な家庭の中にいて、戦後はそれを民主化するん
ットで、戦後の女性のイメージがつくられ、そしてそれが家庭空間というも
書かれていたのですけれども、民主化し、つまり主体化し、国い込むというセ
ですから私がきょうやろうとした作業は、とりあえず産業とか企業の側が
のの構築と関係している。でも、この段階ではまだ和風というのは出てこない。
になってくると、一気に難しくなるんですね、
つくろうとしたイメージに準拠しながら、そこからのズレとして実際に生き
きょう私が講演でお話しした話はこのあとに続く話で、いったん半ば消え
オリンピックとか高度成長が始まることを契機に、もう一度テクノロジーと
去った男たち、なかば去勢された男たちのアイデンティティというものが、
られた過程をみていくというやり方しかとりあえずないのかなと思って、こ
千葉大学の池田忍さんからの質問は、﹁内向き、国内に伝統を強調するさ
か 経 済 と い う も の を 依 代 に 再 構 築 さ れ て い く よ う な 過 程 が 六0年 代 。 そ の と
ういうことをしています。
まざまな言説やイメージはどのように受容されたのでしょうか。どのような
一方で、その日本的なテクノロジーというイメージの延長線上に、たとえ
きに和風というのが出てくる。
ば住宅に和室、和風のディテールやアイテムを求めたり、実際に購入する家
ば家電製品や家具の和風というイメージがつくられてきた。他方で、家庭で
階層の人びとの生活様式や意識に具体的な影響を与えたのか。また、たとえ
具のデザインを選んだりしたのは誰なのか、という問題について教えていた
てきた。しかし、この和風のイメージとジェン、ダl の 結 び つ き は 単 純 で は な
女性たちをや心に、家電製品のイメージや家庭の空間のイメージがつくられ
そこなんですね。イメージは企業の側がつくろうとしている。けれども、
い。たぶん主婦をべ!スにつくられた家庭生活のイメージは、アメリカ的ラ
だきたい﹂という質問です。
そんなに企業が考えたような予定調和的な形で経験されたわけではないと思
それとの関係において和風があるというので、和風と男性のある種の主体と
いうイメージはむしろサフであるというふうに思って、メインはむしろ戦後
イ フ ス タ イ ル な ん で す 。 そ っ ち の ほ う が む し ろ べ i スにあるんだと思います。
術日本的なイメージについては、実擦の経験のされ方ではもうちょっと、と
の主婦のイメージの構築と、それからアメリカ的なライフスタイルの普及と
いうふうに考えているかというと、きょうご紹介したような和風あるいは技
り わ け ジ ェ ン ダiを め ぐ る せ め ぎ 合 い が お そ ら く あ っ た の で は な い か と 思 つ
いうことのほうがべ l スであると基本的には思っているのです。
うんです。そこを掘り起こす必要があるんです。私自身の仮説としてはどう
ています。
建 築 の イ メ i ジ│││正直、質素など
田中厚子さんから、﹁一九0 0年 代 か ら の ア メ リ カ の 雑 誌 に お け る B本の
ずアメリカンなんだと思います。アメリカ的な生活様式というものが戦後の
れが戦後の和風につながったと考えることはできないでしょうか﹂という質
五0年 代 、 新 し い 住 ま い の イ メ i ジ と い う の は 、 和 風 と い う こ と よ り も ま
暮らしのイメージとしてはまずあったのだと思います、そして、それの主役
問です。
であった。ところが、この女性が非常に問題で、最近、﹃思想﹄という雑誌
たとえば剣持勇をはじめとするデザイナー、建築家、国捺的な情勢やトレン
確かにそういうふうに考えられる文脈もあると忠、つんですが、五0年代の、
111
はモダニズムの文脈に股収され、そ
として位置付けられていったのが、先ほどお話ししたような主婦、女性たち
に、カリフォルニア大学の米山リサさんが面白い論文を出されています。要
というイメージが構築されていくという過程、これを考える必要があるので
はなくて、高度成長していく日本社会そのものの中の自己意識において和風
していくようなときの和風というのは、アメリカのダイレクトな影響とかで
ルで、ちまたの雑誌やちまたのメディアのなかに和風というイメージが蹴息
と思います。けれども、六0年代後半からの、むしろ大衆消費社会的なレベ
ドを知っている人たちが和風という場合には、確実にそういうことがあった
ることにとても鷲きました。同時に、日本的なイメージが、援護驚
オの中で、﹁日本人﹂という呼びかけが何度も行なわれてい鍾鱗鱗鞠欝鐙稔
たく専門外ですが、先ほど古見さんが見せてくださったビデ額二⋮欝
池田忍(千葉大学)美術史を研究しています。建築はまっ議議纏撃
間違いないという気がします、
ストにとって非常に便利なデザインのボキャブラリーであったということは
波多野
数寄屋というのがありがたくもシンプルであること、それがモダニ
はないかと私自身は思っています。
けですね。
受容者を考えれば、実はかなり立場の違う人たちが一緒に呼びかけられるわ
繰り返し家電商品のデザインと広告空間の中で提示されているわけですが、
ζ
田中厚子(アクセス住環境研究所)日米の住宅史を研究し議離藤
ています、和風は近代の産物だということ、そしてアメリカ麟鵜警警ザ人
!
のまなざしがもちろんそれに大きくかかわっていて、そして禰鱗野島総鱗欝
私は、戦前のモダンガi ルとラジオやカメラなどの結びつき、それから当
はりアメリカでのモダニズムと日本建築との関連ということを避けて通れな
ていることに関心をもってきました。女性と機器の結びつきは、それを取り
時最先端の機器が女性と共に広告や絵画などの視覚イメージの中に提示され
和風という一言葉自体が戦後のものであるということから、や議欝襲警
いのではないかと思って、質問させていただきました。
しかも、そのような力の働きはなかなか検証しにくいという問題があるの
囲む室内空間のイメージを合め、戦前から﹁洋﹂と﹁和﹂の開で揺れていま
ゆえご
(EOD
です。美術史のほうでいえば、たとえば日本画と洋画のどちらを好んで展覧
アメリカで白木建築が雑誌にどのように現れたかを研究したことがあるの
ρそれはモダニズムのなかで共通
す。戦後の家電商品の購買層とは、階級やジェンダーが異なるとは思います
とか﹁回目立E と い う 言 葉 が 強 調 さ れ て
会へ見に行くのかとか、どんな部屋にどのような美術作品、あるいは複製を
です。ビiクが三回ありまして、一つはシカゴ博以降の一八九三年から一九
項として使われていたと私は忠、つんです、一九三0年代にはもう建築におい
飾るのかといった類いの判慨を、私たちが日常的に行なっているということ
が、イメi ジ、表象の問題として捉えれば、私たちの生活スタイルを﹁和﹂
てはモダニズムができあがりつつあった、そのなかでグロピウスとかノイト
にかかわります。近代、現代に生きる私たちは、﹁日本﹂を改めて意識する
0 0年代の初めくらいまで。次が一九一一一0年代。次が一九五0年代の後半か
ラという大建築家たちが白木建築を賞賛する、モダニズムと日本建築との共
機会がそれほど多くないにもかかわらず、さまざまな表象が﹁和﹂﹁洋﹂の
﹁洋﹂の枠組みで把握し、提案しようとする力が働いてきたのではないか。
通項が強調されて、それが日本に戻ってきて、日本の建築家たちは、ご﹂ん
枠組みで提示され続けるために、それを受容し、選んでいるうちに、非歴史
ら六0年代です。
なにたくさん共通項がある﹂﹁自分たちがめざす方向は、日本を踏まえたモ
的な平板な﹁和﹂を立ち上げる力に、知らぬ開に巻き込まれ、荷担している
最初の時期はジヤポニスムと関連して、日本建築の﹁正直である
ダンである﹂ということで、戦後の住宅ができてきたのではないかと思う。
のではないかと忠ったのです。
ら分析された吉見さんのお話を伺ううちに、﹁和﹂﹁洋﹂の枠組みの中で展開
建築空間にかかわる消費財、商品の視覚的イメージを、社会学的な視点か
生活様式はまた別の話ですけれども、モダンリビングのなかで、本当にモダ
ニズムというのは和風と関係ないのだろうか。すごく関係あるのじゃないか
というのが、きょう私が強く感じたことです。
した日本美術や、近代の視覚文化の問題が、くっきり見えてきたような気が
部 日 本 画 に 編 入 さ れ ま す 。 そ の 上 で 、 次 の タi ニ ン グ ポ イ ン ト は や は り 日
水盟問曲など、それまで大和絵に対して漢画といわれていたものはいったん全
清 ・ 日 露 戦 争 の 勝 利 で し た 。 脱 亜 入 欧 、 日 本 が ア ジ ア の こO 批 紀 新 時 代 の リ
しています。
吉見
ーダーだという意識が出てきた時点で、東洋美術史も日本が編もうとする。
いまの田中さんのお話と池田さんのお話がつながっているような気が
します。建築家や建築雑誌や、美術のほうもそうなのかもしれないのですけ
つまり日本のナショナリズムをアジアに投影してしまうわけですね。
では東洋美術は日本の近代美術のなかではどうなっていったか。実は中国
れども、専門的な、言説のレベルでは、先ほどまさに問中さんがおっしゃっ
た五0年 代 後 半 か ら 六0年 代 の 海 外 で の 三 番 目 の 日 本 デ ザ イ ン の ブl ムと、
趣味というのは入れ替わり立ち替わり出てまいりまして、支配下の文化とし
さにアジアに対する日本の東洋観の反映でした。戦後は、日本が侵略地から
日本の側のそうした雑誌や一一一一口説のなかでの和風的な言説の浮上というのはほ
撤退しますので、意識も撤退して、アジア趣味もいったん切れるみたいなと
て淑り扱いたいみたいな形が見え隠れすると思うんですけれども、これはま
ところが、それがすぐに大衆的な一言説への流布につながっていないように
ころがあり、戦後日本では、中国趣味みたいなものは美術からかなり後退し
ぽ同時代的に重なっているんです。
な 言 説 の な か で 和 風 と い う の が ボl ッと出てくるのは六0年代の末だと忠、つ
僕 に は 思 え て い て 、 そ の 間 に 一 O年 弱 ぐ ら い の タ イ ム ラ グ が あ っ て 、 大 衆 的
えながらどうしてもわからないのは、受け子の問題なのです。その言説がど
これはかつてのアジアの共通様式としての意味をもつわけですね。大東京共
戦時中、大東東共栄を唱えるときには、実は水墨画がいったん復活します。
ます。
う受容され、どう社会の中であるサイクルに入ってくるかというプロセスを
栄、日本と東洋の一体化といいながら、共通性を強調するときには水選画、
んです。そうするとその一 O年 と い う の は ど う 考 え れ ば い い の か 。 い つ も 考
考 え な い と 、 こ の 六0年代の一 0年 間 の 問 題 と い う の は み え て こ な い の で は
宗教であれば仏教を持ち出してきて、そのなかでの日本の国有性をいうとき
戦前までは、われわれの学問領域の出自はこんなだったのかと思うくらい、
ないかという気がしています。
日本美術史には﹁国威を発揚し:::﹂という、もう寧磁マーチが鳴っている
には大和絵や神道を出すという、こういう使い分けをしたわけです。
やってつくられてきたか、あるいは二項対立といいながら実は自分のほうは
ような条項ばかりだったのが、戦後全部そぎ落とされて、ソフト転換して、
波多野池田さんのお話を踏まえて、佐藤さんに、﹁日本﹂というのがどう
げていくという雑な操作なのかというところをぜひ伺いたいと思います、
代を過去に追いやることで現代を新出発したい。そこで、近代の過去化によ
いわば思想の産物から美の遺産へと非常にきれいに転換されたわけです。近
あまりみつめないまま、対立だけをつくることによって﹁日本﹂をつくりあ
床の間のナショナリズム
たので、﹁中聞はどうなんだ﹂という質問がいくつかあり
に出せなくなる。だから経済でひたすら突っ走ってきたわけで、工業化と二
をアピールするには、戦前までイデオロギーの象徴だった政治・寧事を前面
って近代日本美術史ができてくるのですけれども、その現代化では、﹁日本﹂
ました。なるほどごもっともで、これは近代以降日本は東
O世 紀 大 量 生 産 の 時 代 と い う 、 政 治 ・ 軍 事 に 替 わ る 経 済 立 園 、 産 業 立 国 を め
先ほど﹁和・漢から日本・西洋へ﹂というお話をし
洋に対してどのようなスタンスをとってきたのかという、
そこでさっき吉見さんのテレビの話で僕も面白いなと思ったのは、商品名
ざしてきた。それが生活を豊かにしたし、生活の中に自信を見出すしかない。
明治 O年ぐらいに西洋画に対して日本画という概念ができるときには、
まさにその問題だろうと思います。
佐
藤
にだいたい京都イメージが多いですよね。﹁嵯峨﹂とか﹁高雄﹂とか。﹁日
だきたいと思います。
うか﹂と、すごくむずかしいことを書かれておられるので、 ぜひお話しいた
京都では﹁和風﹂が行政上のコi ド に な っ て い る
いよまこ
本﹂イメージの中でも、やっぱり京都が高級イメージになっているのかなと
思いました。やはりこれは高度経済成長がある種日本人の自信を回復させた
高出光雄(京都大学)京都では、和風というのは、
政上、たとえば美観地区のいくつかでは、和風でないと建て
実務的に建築設計上の判断を迫られる概念なのです。景観行
1﹂と予を叩いたのかなとい
のだなと。小さい床の間のナショナリズム。外に向かって、﹁日本、日本﹂
と一言えないところを、テレビに向かって﹁日本
﹁臼本﹂が公的で外向けだとすれば、それを前面に出せない以上、﹁和
られないところがあるわけですから、そこで建築行為をしようと思ったら、
こで議論されているような文化的な話だけではなく、もっと
風﹂は缶統イメージを負っていますから、戦後、近代や﹁日本﹂を前面に出
つくるほうは、和風であるということを納得させないといけない。行政のほ
う気持ちでさっさみていました。
のかなと。日本的というよりも和風ということで。生活を言、つ分にはべつに
すかわりに、非近代としての伝統イメージを逆に生活の中の和風にかぶせた
うは、和風であるかどうかを判断しなければいけない。
町家はまだ話がわかりやすい。間辺の郊外住宅はもっと問題です。デザイ
ナショナリズムとして批判されることもありませんから。戦後の﹁和風﹂と
﹁日本﹂の使い分けの場合は、それも関係していたかなという感じがちょっ
化の制度化を進めたのに対して、大正期に、榔宗悦や和辻哲郎たちによって
もう一つ、民芸についての笠間が大西さんからきています。明治が、西洋
が得られるかどうかが問題です。たとえば瓦棒はだめで、瓦ならいい。みえ
らいの人が和風であると感じるということでしょう。要するにコンセンサス
景観行政上求められる和風の解釈は、一 O O人いれば少なくとも九O人ぐ
ンの規範をどこに求めるか、和風という概念をどう解釈するか。
国有美が発見(というか創出)されていきます。いわば官の日本に対しての
るところにトップライトがあるとだめ。のっペりしたR Cの壁はだめで、リ
といたしました。
民の中、生活の中の日本の発見ではなかったかと思います。
い。ダi ク ブ ラ ウ ン だ っ た ら ぎ り ぎ り い け た と 。 建 築 家 と し て は ど う い う 材
で、限りなく緊楽にもっていかされる。黒いサッシはだめで、茶色にしなさ
ブをつけると何とか通ったとか、メタリックな外壁をつくろうとするとだめ
あったかもしれないなと思います。
料でそこで折り合いをつけるか、京都で住宅を設計されている方はせめぎ合
そういうことでいえば、﹁生活け汁私 H和 ・ 民 芸 ﹂ と い う よ う な つ な が り は
なぜかと考えたときに、日本はなぜこんなにも独立住宅つまり郊外住宅が多
波多野日本的な伝統みたいなものとして近世以来のものが引き継げたのは
から何かを引き継いでいるという印象があります。これに対して町家の住み
か。しかし、瓦でないといけないとは書けないわけです。和風というのはそ
コンセンサスを得る対象として和風という概念が成り立つものなのかどう
いのなかで和風の解釈をやっている。
方が、京都を除いてはほとんどなくなってしまったのではないかという感覚
ういう概念だと忠、つんですね。和風というある種のイメージを共有して、そ
いのか。プレハブ住宅等で提供される和風というイメージは、常に武家住宅
を私はもっています。
れ を み ん な で ルl ル と し て 守 り ま し ょ う と い う の が 、 京 都 の 景 観 行 政 の 非 常
に重要な考え方です。
京都大学の高田さんからのご質問、﹁京都では和風という概念は、景観行
政上のキーワードの一つになっています。和風という概念で建築をコントロ
波多野
京都の都市景観を構成しているなかで、近代洋風建築はすごく重要
ールすることの妥当性、可能性や限界についてご意見をいただけないでしょ
な要素ですよね。あれはどうなるんですか。
えようよということをやっています
を置き、 ﹁ 和 風 度 ﹂ と い う 指 標 を つ く っ て 和 風 住 宅 を も っ と カ ジ ュ ア ル に 考
町並み・外観といえば、たとえば瓦屋根で漆喰でと、その地域地域の伝統
高田京都の景観がすべて和風で仕切られているわけではありません。美観
地一世でも五種類ありますが、そのなかには当然洋風の町並みを守り、再生し
的な家から、ではもうとことんカジュアルで、ただ色だけでも、あるいは格
和風テイストでもすごく長く引き継いでいるものもあれば、新しくつくられ
ていこうというところもあります。また、一二条通りなどは、界わい景観整備
とはいえ、やはり問題は和風建築です。現実の場でこれが和風かどうかと
てなんとなくそれっぽいというのもあります。私はそのようにとらえて取り
子が一つ入っただけでも京都らしいなというのはあります。そういう意味で、
いう議論になると、これは大変難しい問題で、和風という概念そのものにつ
組んで、マンションも含めて実践のほうでいろいろいまやっております。
地区に指定され、洋風の町並みが保全されています。
いては、よほど深い考えがないとこうだと言い切れない。しかもそういう価
波多野すごく面白い。小沢さん、これについてご意見はありませんか。
識を私はもっています。
ような、家電製品と同じようなイメージづくりが続くのでしょうか。これは
ということでは、どんな方向にいくのでしょうか。吉見先生のお話にあった
独り歩きしています。これから五O年、一 O O年もつような住宅のスタイル
口問確法ができて、日本も五O年、一 O O年 も つ 住 宅 を め ざ す よ う 、 数 字 は
小沢いまはもう、ただひたすら﹁和風﹂という一言葉を口にするのが怖いと
ですが。
商品ですから、つくる側も顧客に受けるものをつくらなければいけないわけ
値観を共有していくということが本当にできるのかどうか、そういう問題意
いう感じですね(笑)。要するに、何を和風と呼ぴ、何を和風と呼はないの
けれど、では真壁でなければ和風じゃないのか。といって項目をより詳しく
たとえば和瓦が載っていれば和風かとか、さっき真壁は和風といいました
すね。僕は一 O歳 ま で 続 き 間 の 和 室 で 育 っ た ん で す 。 僕 が 和
がって感じたのは、やっぱりみんな大人の自でみているんで
深尾精一(東京都立大学)パネリストの方々のお話をうか
低い視線でものをみる和嵐はどこへいってしまったのか
か。先ほどから﹁かっこっきの和風﹂という言い方も出ていますが、結局そ
うやって限定をしていかないと、像が統一されてこないということがまず問
していけばいくほど分類できなくなる、援味になる。それは決して現代の話
風とか和を考えるとき、そのときの印象でとらえている。ど
題だと思います。
ではなくて、すでに近代から始まっていることだという気がするんです。
う感じていたのかというと、非常に低い視線でものをみている。
ものす一代もたぶん家具の脚をみて育っている。で、僕はそれをみていないで
外国の赤ちゃんはたぶん家具の脚をみて育ってきたんだろう。僕たちの子ど
波多野難しいですね。困っちゃいましたね。
﹁和風﹂もカジュアルに考えようという意見も
さっき吉見先生がみせてくださったテレビは、脚がなくて下までグリルが
す。これはものの見え方が全然違う。
ついているのが和風のテレビ、その前までのテレビには脚があって、その上
戸ほど供給している会社です。和のテイストを取り込んだ住
古岡山登(。ホラス側)当社は分譲住宅を合め、年間二000
宅ということでずっとやっておりまして、きょう参加させて
く勝手な解釈ですけれども。
に載っかっていたんですね。下まで格子になったのが和風なのかなと。すご
一番下にデザイナーズ戸建てといわれるモダン系
いただきました
項点に数寄屋を置いて
和を考えるときに、格子があるとか瓦が載っかっているという話は建築全
体の見方だけれども、その住まい方、やはり視線の高さとか、そういうよう
ただけたらと思います。
C S (顧 客 満 足 度 ) を 最 大 に 求 め る と い う こ と で 物 事 が 動 い
ばん和風っぽいところに挙げられたのが数寄屋だということがものすごく印
小沢先ほどの﹁和風度﹂の話をうかがって、和風度の項点、要するにいち
数寄屋か和風の王様に位置づけられること自体、近代につくられたイメージ
ている。いいことか惑いことかはわかりませんけれど、そういうことからす
象に残っているんですね。私は近世の研究者ですが、私がもっている数寄屋
なことをもう少し考えたほ、つがいいと思っています。
る と 、 日 本 の 住 宅 は 顧 客 満 足 度 を 上 げ る と い う こ と を 目 的 に 、 こ こ 一 ニO 年
、
のイメi ジ と 、 こ の 会 場 に い ら っ し ゃ る 方 た ち の 何 人 か が も っ て い る 数 寄 屋
いま世界が、
四O 年 、 動 い て き て 、 日 本 の ハ ウ ス メ ー カ ー 、 住 宅 産 業 を 担 っ て い る 方 々 は
のイメージにかなりギャップがあるのではないかという気がします。つまり
最近、茶室の﹁写し﹂を調べていて、特に﹁残月﹂(京都上京阪の表千家内に
ると思うんです。
現代の数寄屋のイメージそのものが近代につくられたということを示してい
世界に対して誇っていいと忠、つんですね。
さ っ き み た テ レ ビ は ﹁ エi ッ ? 和 風 っ て こ う な の ﹂ と い う 感 じ だ け れ ど も 、
いまの臼本のメーカーがつくっているテレビはたぶん世界に誇れるデザイン
を し て い る 。 住 宅 も た ぶ ん い ま 過 渡 期 で あ っ て 、 い ま のC Sを 大 切 に す る と
う ふ う に 聞 こ え た ん で す 。 結 局 つ く る の は 注 文 主 だ っ た り カ ス タ マ l ですか
なく疑問をもちながらつくっている。いまの古岡山さんの発一一一一向も僕にはそうい
ところが、いちばん残念なのは、つくっていらっしゃる方々がすごく自信
遊びの空間だったり内向きの空間だったりした数寄屋というものが、和風の
が高いということを示すときに、数寄屋のイメージが利用されて、近世には
関係な実業家だったり⋮品不良だったりする。いかにも日本らしく、しかも教養
ている。しかもそれをつくった施主は必ずしも茶人ではなくて、お茶とは無
ある茶室)のような広い康敷は、明治以後に写しがかなりたくさんつくられ
ら、それが方向を決めていく。ただ、僕がすごく心配しているのは、僕は和
王様に位置付けられるようになった。現代に建つ数寄屋の住宅になんとなく
いうつくり方がすばらしい住宅を将来つくるのは間違いないと思います。
風が好きだし、先ほど申し上げたように、すごく低い視錦でみる和風という
を享受する側のイメージがまったく変わってしまった気がして、先ほどの和
写しですから形そのものはあんまり変わっていないにもかかわらず、それ
成 金 っ ぽ い イ メi ジ が あ る の は こ の た め だ と 思 い ま す 。
からだと、僕は思っているんです。そうすると、将来の和風というのはいま
風度という話はものすごく面白かったんですね。
ぶん僕よりは感覚としてわからない。それは、家具の脚をみて育っちゃった
ものが僕自身はわかっているつもりだけれども、いま育っている人たちはた
のテレビのデザインみたいになってしまうかもしれない。それはやっぱり時
すが、いまの和風度のお話を開いたら、これは私は数寄屋には生めないなと
やっぱり数寄屋はきれいだなとか、桂離宮っていいなとか、それは思いま
波多野ありがとうございました。実はこのシンポジウムを始めるにあたっ
いう気がしました。それほど、近世で忠っていたイメージと近代とのズレ、
代がつくるものだからしょうがないかなというふうに思います。
てパネリストの皆さんに﹁どんな家に住みたいですか、と開いてみたい﹂と
ギャップが大きいということが、私がきょう感じたことです。
佐藤
美術の世界では、 明 治 の 初 め に 日 本 画 が 西 洋 絵 画 を 入 れ な が ら 、 な お
主題と素材と技法との組み合わせで伺を強調するかは時代のセンス
いうお願いをしておきました。迷惑だろうな。だから僕は﹁冗談﹂とわざわ
ざ書いてそういうお願いをしたんです。
冗談は冗談として軽く受け止めていただいて、まさに住むということと和、
あるいは和風ということをどうとら、えているか、まとめのつもりでお話しい
をどれにふり分けるかという、組み合わせ替え実験をやったんです。ばらば
といいますと、主題と素材と技法を全部ばらばらにして、日本・剖洋の要国
かつ臼本画として着地しなくてはいけないときに、どういうことをやったか
いうことになるのかなという気がしました。
の時代のアンテナによることであって、センスであってという、たぶんそう
形になっている。だからそれを何の要素に見いだすかは、まさにその時代そ
それがそれぞれの時点でどれかがピックアップされ、強調されているという
れども、各要素が実擦にそういう一定のアイデンティティを担わされていて、
﹁どんな家に住みたいか﹂については、私は小さいころから﹁おまえは背
らにする理由は、素材とか主題とかそれぞれが歴史的なアイデンティティを
の時点では、まず主題に日本を背京わせました。歴史画だとか神話画ですね。
担っているからなんですね。具体的にいいますと、西洋との最初の出会い頭
がつかないという、あの情けない思いがずっとありまして(笑)、特に身体
も小さいし足も短いし﹂といわれて、高級なところにいって椅子が高いと足
たと、えば狩野芳崖ですと、西洋画紙に水墨で日本の山水を描いたり、ある
と合わない住生活は苦痛ですし、体型はこれ以上変わらないので、田宮に鹿っ
そこで技法のほうで西洋を取り入れるんです。
いは絹に西洋風の風景を水墨と毛筆で描いたり、色の部分はたとえば西洋顔
ているのがいいかなという気がしております。
吉見先ほど、向田さんから京都の話で大変重要な指携があったと忠、つんで
私と公か一直線にナショナリズムとつながって和がコードになっている
料を使って仁王捉鬼を描いたりとか、みんなばらばらにして組み合わせ実験
をやるんです。
何か﹂を論じると、日本闘の定義の最後の一線になっているのは、もう素材
つのまとめになるのではないかと思います。
す。そこに可能な限りお答えするのが、きょうのシンポジウムの私なりの一
そういう形で西洋と日本を接続していった。ところが、いま﹁日本耐とは
いるわけです、明治からいままでの聞をみると、主題、素材、技法の組み合
てしまっていることへの問題提起があったわけです。その京都の事例をこの
京 都 で は 、 和 風 と い う の が 、 制 度 的 に 建 築 行 為 が 認 め ら れ る コ l ドになっ
だけなんですね。つまり、素材は素材でやっぱりアイデンティティを担って
わせが、それぞれの段階でいちばん比重を負っているものがそれぞれ違って
いるという格好できている。
材の問題が重要な意味と比重を担ったということではないかと忠、つんです。
と こ ろ で ま た 紙 と か 木 が 出 て き た と す れ ば 、 そ の タl ニングポイントで、素
いた鉄、コンクリートといった素材がモダニズムを象徴し、ポストモダンの
両方の作業でした。そうすると、建築の話のなかで、たとえば工業と結びつ
﹁日本の近代化﹂というのは、実際には﹁近代化日西洋化+日本化﹂という
きるようになっていくものである。同時に生活様式のほうをみると、椅子座
つと、表も和になったり、いろいろ着せ替え人形みたいに着替えることがで
いとしての建築様式では、最初、表が洋で裏が和だった。だけれど時代がた
があったのではないか。きょうの小沢さんの最初のお話、つまり着替える装
う の で す け れ ど も 、 和 と い う の が 公 的 な コ lド に な っ て い く と い う プ ロ セ ス
九0年 代 以 降 、 あ る い は も う ち ょ っ と 前 か ら そ れ は 起 こ っ て い た の だ と 思
パネルの議論とどうつなぐかということですね。
建築での主題が見えの外観の問題にあたるとすれば、おそらく建築のほうの
のほうがやや公で、床座のほうがやや私であるということは一貫している。
ですから僕は、建築の和風にもポイントがあるのだろうと思うんです。
和風や洋風でも、そういう素材や技術と、見えの外観や内観との組み合わせ
ところが九0年 代 以 降 で み る と 、 私 た ち の 生 活 規 範 や オ フ ィ シ ャ ル な コ ー
ということは、やや和はプライベートというか私に近いところ。
てどの要素を、その時点でどういうふうに強調するかは、おそらく周りの状
ド、行政の規制とか、コマ i シ ャ ラ イ ズ さ れ た 住 宅 の 分 譲 と か 、 そ の す べ て
になっているのではないか。美術の場合は少なくともそうなってきた。そし
況との関係であって、美術の日本的でも建築の和風でも絶対基準はない。け
直線につながってしまって、それを制度化するコ lドとして和が出てきてし
の 制 度 的 な プ ロ セ ス の な か で 和 が コ iド に な っ て し ま っ て い る 。 私 も 公 も 一
うやくわかりかけてきたような気がしました。
想的にもかなり重要な問題を含んでいる設定なんだなということが、
まっているということがあるのではないか。
い宇品、ょ
みて、ある世代だけが共有する感覚なのかもしれないけれど、なにかすごく
波 多 野 あ り が と う ご ざ い ま す 。 き ょ う 吉 見 さ ん の 講 演 でOHPや ビ デ オ を
納得したんです。和というのは日本・西洋という対比と同時に、公・私のほ
恥ずかしかった部分があるんですね。いま﹁日本を生きる﹂なんていわれれ
というのに、ああそうかとすごく
うだったらやや私的だとか、制度的なものよりも生活のものに近い。でも、
ば冗談じゃねえやと思うし、﹁日本の色﹂といわれて﹁なんだい?﹂と開き
佐藤さんの﹁床の関のナショナリズム
これがナショナルなものにダイレクトにつながっていくプロセスが戦後の高
たくなっちゃう。だけど当時はまじめにテレビをみて、まじめに受け止めて、
あれがいまこれからめざす生活だと思っていた自分がいたんだという、ただ
結論があるわけではありません。いまもやっぱりどこかで常に醒めてみて
だから、﹁日本的﹂という一一一一口葉よりも﹁和風﹂という言葉が使われるとい
和風がナショナルなものをまさに表象し、しかも行政のコードにもなって
いないと、これは危ないな、という気がしました。﹁和風﹂をもう一回ちゃ
それを当時は恥ずかしいと思わなかったのは、まさにあれがそのときの時代
いく。たとえば最近は南庄街の看板建築の看板がどんどん取り外されていま
んと考え直す機会になれば、このシンポジウムはよかったと思っています。
うことは、それはより衣食住に近い部分と、さっき佐藤さんはうまい言い方
すよね。それで元の、和風の建物を表に出そうというのが全国的にいろいろ
少なくとも僕にとっては楽しいシンポジウムができました。皆さんに感謝を
性をよくあらわしていたからなんですね。
な形で起こっている。看板建築というのはやっぱりモダンキッチュだと思う
文資 H編集部)
しております。どうもありがとうございました。
は 全 然 な い ん で す が 、 そ れ が コ lド に な り 、 和 が 公 に な っ て い く 。 公 と い う
いまのナショナリズムはこういうナショナリズムなんですね。
より生活とかプライベート、私につながっていた和が公になっていくという、
国家が上から押さえつけてくるようなナショナリズムではなくて、まさに
日常生活の非常にソフトな感覚、カジュアルでいこうよ、という自体のなか
からわき出してくるようなナショナルなもの。ここにいまの和風という問題
性が集約されているような気がします。しかも一つ付け加えておくと、そこ
にはある種のノスタルジ!が入っているんですね。だから、日本とか和とい
うときは、未来という非常にプライベートでありかつノスタルジックな意識
と ナ シ ョ ナ ル な も の が つ な が っ て く る 回 路 が 、 特 に 九0年代以降強まってい
るような気がします。そうか、波多野さんが﹁和風﹂とつけられた間いは忠
会場風景
んだと思っていたのが、それを取って一冗に戻そうと。それ自体は悪いことで
んですけれども、建物の前に看板をつくってしまうことのほうがかっこいい
をされたんですけれども、連続しているわけですね。
度成長以降あったんです。
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固い
の住工
二O O四年一
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O 月二O 日発行
事議記
C刃﹁ 一言洋司・ 、 若耳垣﹂E
ωoroコ O﹃﹂ 百¥
mヨ皇よ50rs@ヨどヨ22 コO
制作 H建築 思潮研究所(山 本 直人)
印 刷 ・ 製 本 H慶 昌 堂 印 刷 株 式 会 社
﹄百
FAX(03)34841 5794
TEL(03)34841 5 3 8
干
蜘東 京 都 世 困 谷 区 船 橋 四丁目n ・
8
市
川
発行人 H峰 政克 義
発行 H財団法人住宅総合研究財団。
れ
た
日
本
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