大塚卓人 - FC2

 真夜中の車道で眠る君がなるものは花か
うキーワードである。空間である月夜や物質であるアスファル
トに比べて花はやわらかく淡い存在である。君は固い存在(ア
賞 し、 今 回 は 最 果 タ ヒ 森 山 森 子( 同 一 人 物 ) の によって主体の虚空感、この歌の世界観のはかなさが表現され
君のことをうたっているのが主体であるのだが、その主体と比
最 果 は 歌 人 で は な く 詩 人 で あ る。 第 一 詩 集
『グッドモーニング』で第十三回中原中也賞を受 較可能である君があまりにも要素を多く携えている。そのこと
広がる静けさ(月夜)にも、はかない存在(花)
月夜かアスファルト
最果タヒ『花狂』 スファルト)にも、
にもなりうる。では、主体はどこに存在しているのか。それは
評
六首目の歌を引いた。
な雰囲気に似合っている。
また下句が六音、九音になっている。その不安定な韻律が、
君がこれからなるものを未だ定めていない現状とこの歌の不穏
あ る い は 月 夜、 あ る い は ア ス フ ァ ル ト で あ る、 もう一つ、君という存在は花や月夜やアスファルト、といっ
た主体の周りに存在するもののことを指しており、主体を中心
が固さを表現している。ここで見逃してはいけないのは花とい ・最果タヒ森山森子『全知能』
http://zenchinou.com/
ていて、月夜は秋の季語であり、アスファルトによる体言止め
して、真夜中は月夜、車道はアスファルトという単語と関連し てる一首となっているであろう。
君がその場に寝ているというブラックユーモアのような冷たい この『花狂』は最果が十八歳頃に書いた作品らしく、思春期
雰囲気が作品自体に漂う。その冷たい雰囲気を補強する単語と の不安定さ、将来の行く末にも見え年齢の近い人には好感が持
はほとんどないことが想像できる。車道の活動が少ないなか、
し た 時 間 帯 の 車 道 と い う こ と は、 車 の 行 き 交 い るように見えてその不気味さが前者の解釈と被さっている。
とした情景を
「君」と一つにまとめている、
という解釈もできる。
この歌では主体がひとりぼっちに描かれてい
る よ う に み え る。 真 夜 中 と い う 真 昼 よ り も 静 寂 こちらの場合、主体の周りの情景がすべてひっそりと生きてい
と一読してわかりやすい歌となっている。
真夜中という時間帯に車道の上で君が寝てい
る。 そ の 君 が こ れ か ら 変 わ っ て ゆ く も の は 花、
ブ ロ グ「 全 知 能 」 に 載 せ て あ る 短 歌『 花 狂 』 の ている。
首
108
109
大塚卓人
一
ヒ
タ
果
最
うのか。
たとき、
〝 ぼ く ら 〟 は い よ い よ〝 巨 鳥 の 嘴 〟 に さ ら わ れ て し ま
込む〝蜜〟なのではないか。
〝蜜〟の甘さを拠り所としてしまっ
世界といふ巨鳥の嘴を恐れつつぼくらは
はし
蜜を吸つては笑う 山田航
ただ羽化を信じてゐたりカンテラを掲げて都市といふ巨樹
二〇一〇年一〇月、札幌のテンポラリースペー を見る 同
スにて、〈昆テンポラリー展「札幌の昆虫を素材
に 」〉( ※ ) が 開 か れ た。 美 術、 映 像、 短 歌、 現
連作中では〝都市〟
半ば昆虫に移入した視点を用いたためか、
代 詩 の そ れ ぞ れ の 分 野 か ら、 昆 虫 を 通 し て 札 幌 という〝巨樹〟も根を下ろしている。この歌からは、まっすぐ
を 見 つ め 直 す 企 画 で あ る。 昆 虫 の 標 本 と と も に に〝羽化を信じ〟る、思いの強さばかりではなく、
〝カンテラ
静さが伝わってくる。
展示された、山田航の八首の連作「秋の誘蛾灯」 を掲げ〟
、〝都市〟そのものの姿を確かめようとする、主体の冷
は、〝世界〟なんて恐るるに足らない、とでも言いたげだ。すると、
本当に恐ろしいのは〝巨鳥〟などではなく、
〝ぼくら〟を誘い
はわたしが知っている花
看板の下でつつじが咲いている つつじ
植物の名前に詳しいのは、少しかっこいい。でも、つつじぐ
らいは植物に明るくない人だって知っているし、つつじを知っ
つじ」が、この歌では二度繰り返されている。世界には「つつ
月号 ているということはあえて言うほどのことではない。
そんな「つ
11
描写にしているのに対し、下句では上句で描写した対象を「知っ
世界にある。
味で、とても奇妙な歌である。上句で「わたし」が見たものを つのプロセスを、鮮やかに示したものであると私は思う。
ている」言葉しか用いることができない。この歌はそういう意 でも言うべきものは、私たちが世界と向き合っているときの一
ただろう。
短歌に限らず、私たちは情景を説明するときに、「知っ たちの日々の生活に常につきまとう。この歌の奇妙なねじれと
とはおろか、看板の下に咲くことも許されなかっ 意識を歌にしたものである。しかしながらその意識は実は、私
い た が、 知 ら な け れ ば つ つ じ は 歌 に 詠 ま れ る こ 歌ったものでもない。わたしの中で起きている、本当に小さな
知 っ て い な け れ ば つ つ じ の 歌 は 詠 め な い と 書 こ の 歌 は 誰 か に 向 け ら れ た も の で も、 自 ら の 特 殊 な 状 況 を
る程度には知っている。
見 て「 こ れ は つ つ じ で あ る 」 と い う 認 識 が で き ここで言葉にしなければ、決して起こり得ないこととしてこの
い。 と り あ え ず 看 板 の 下 に 咲 い て い る つ つ じ を そしてそのことは、わたしがつつじを知らなければ、わたしが
い う こ と ま で 知 っ て い る の か ど う か は 分 か ら な わたしは看板の下につつじが咲いているのを、確かに見たのだ。
て い る と い っ て も、 花 の 構 造 と か 由 来 と か そ う に「咲く」ことを許され、「花」であることも約束されている。
作 者 は つ つ じ を 知 っ て い る。 知 っ て い な け れ じ」と「わたし」しか存在しない。「看板」が一切の修飾語句
ば つ つ じ の 歌 は 詠 め な い の で 当 然 で あ る。 知 っ を持たない背景として存在するのに対し、「つつじ」は主体的
永井祐「夏」
年
『歌壇』 2010
ている」としか言っていないのだ。そりゃそうだろ。
その対比が、鳥のメタファーによって鮮やかに示されている。
二〇一〇年一〇月十二日から二十四日
・河田雅文(会場構成・
巨鳥に狙われているにもかかわらず〝ぼくら〟は笑っている。 出品者 谷: 口顕一郎・森本めぐみ(美術)
それは、
巨鳥が知り得ない〝蜜〟の味を知っているからだろう。
映像)・山田航(短歌)・文月悠光(現代詩)
〝蜜を吸う〟行為は〝ぼくら〟にとって、〝世界〟と接触する唯
・素材提供・木野田君公「札幌の昆虫」
(北海道大学出版会)
一の手段なのかもしれない。のうのうと蜜を吸って笑むその姿
・企画原案・熊谷直樹。
・企画協力・札幌市博物館センター・テンポラリースペース。
だろう。〝世界〟と比較したとき〝ぼくら〟はあまりに小さい。 ※〈昆テンポラリー展「札幌の昆虫を素材に」〉
鳥が翼を広げれば、蝶は瞬く間にその嘴についばまれてしまう
蝶と鳥は、
羽
(翅)を持つ生き物という点で共通している。だが、 いる。そのまなざしが頼もしい。
昆虫の生命が宿る〝巨樹〟を照らし出す主体の姿は、山田の
〝ぼくら〟とは蝶のことであろうか。
〝ぼくら〟
にとっ 歌詠みとしての姿勢に重ねられていく。
〝世界〟や〝都市〟に
蜜を吸う
て、〝巨鳥〟は途方もなく大きく、力を持った存在に違いない。 対する戸惑いや恐れを越え、彼は自身を育んだ札幌を見つめて
から一首を引いた。
狩野悠佳子
佐久間慧
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111
山 田 航 一 首 評
評
首
一
祐
井
永
新上達也
踊り場にどどうと重き風が落ちる私に依
分に依存しても受け止めきることができないから、それを警告
するためにあえて禁止という口調をとっているのである。
警告である。
そうすると、この一見力強い下の句にも、実はその内に弱さ
存してはならない
真中朋久『エウラキロン』 と優しさを含んでいるように見える。父性的な優しさを持った
第 二 歌 集『 エ ウ ラ キ ロ ン 』、「 噛 み 殺 し て ゐ る
欠伸は」と題された連作より一首目。
さきほどの歌は、八首連作「噛み殺してゐる欠伸は」の一首
目であるが、これと対になるような歌が、同連作の最後、八首
どどう、という擬音の重々しさといい、「落ち
る」という表現からくる重力のイメージといい、 目にある。
こ の「 風 」 が 主 体 に と っ て か な り の 重 圧 を も っ
らない
て 迫 っ て い る こ と が 感 じ ら れ る。 三 句 目 が 六 音 森のうへにほかりと白い雲があるあなたを支配してはな
であることも、風の重々しさを強調している。
だ が、 こ の 重 々 し い 風 に 対 し て、 主 体 は「 私
に 依 存 し て は な ら な い 」 と い う 強 い 禁 止 の 言 葉 一首目とは対照的に、軽く明るい実景である。やはり擬音が
でもって切り捨ててしまう。ここは一見すると、 おもしろい。ほかり、という擬音からは、安堵のため息のよう
吹 き 下 ろ す 重 い 風 を も さ え ぎ り 受 け 流 し て し ま な、安心感と悠々さを覚える。
う 主 体 の 力 強 さ の 表 現、 と 捉 え て し ま う か も し この歌の「あなたを支配してはならない」には、自由そのも
れない。しかし、「依存」という言葉の指す方向 のである雲を侵したくないとする主体の意志がこめられている
自身も含まれているのだろう。
を考えるに、主体はむしろ「重き風」には負けてしまっている といえる。「支配してはならない」と宣言する対象には、主体
のではないかとも思えるのだ。
そもそも「私に依存してはならない」と言いたくなるときと いうのは、依存されることが本人にとって煩わしいか、あるい この「噛み殺してゐる欠伸は」という連作には、団地に住む
は依存されるに耐えられるほど本人が強くないかのどちらかで 主体とその子どもたちの日常が景として描かれている。ここに
はないだろうか。といっても前者はどちらかというと「依存し は、父親でもある真中自身の、子どもへの優しくも厳しい目線
感 や、 穏 や か な あ た た か み を 感 じ る こ と が で き
る。
そ れ は き も ち の ど こ か に 内 在 す る、 ど こ と な く
なつかしい場所に置いてあるようにおもう。わたし、そしてわ
たしたちは「青銅のトルソ」を見たことがないはずなのに、そ
のシミリーはほのかな憧憬をも感じられる。
作中主体は「君」に対して、積極的に愛情を呈していない。
そもそも明確な相聞としての素材の「君」が、「青銅のトルソ
のやう」なのである。
「君」を表わす媒体が顔のないマネキン
の胴や「青銅」なのである。そのひとのうつくしい型を想像さ
やかにいきぐるしい。切迫した雰囲気を含むことばはないはず
なのに、その完成された対句は余情をはさむ「間」を与えない。
『水廊』 大辻隆弘
または『セレクション歌人9 大辻隆弘』
「トルソ」とはおそらく、洋服屋さんで見かけ 払い、感情すら受け流したうえでも、その男性性は読み手に安
る く び の な い マ ネ キ ン(「 ト ル ソ ー」) の こ と。 定感を与える。理不尽だ。
そんな「君」を「置く」と詠んでいる。「君がいる」のではなく、
「君を置く」。その強引さは理不尽だ。「君」の表情すらも取り
目で見て、声に出して読んでみる。字面と韻律、 表情も感情も捉えられない「君」は、歌の中でかぎりなく無機
視 覚 と 聴 覚。 こ の う た は、 そ の そ れ ぞ れ に 安 定 質なのだ。
リーズ『大辻隆弘集』の帯にも記されている。
せるのに、
「君」の表情を汲むことはできない。
「うつつの右」
処 女 歌 集『 水 廊 』 の う ち の「 ば さ ら 」 と 題 さ
れ た 連 作 か ら。 こ の う た は セ レ ク シ ョ ン 歌 人 シ というしあわせな位置に「君」がいるにも関わらず、それが穏
右にゆめのひだりに 大辻隆弘『水廊』
青銅のトルソのやうな君を置くうつつの
てほしくない」のほうであるから、ここは後者をとりたい。自 が現れているのだろう。
井上法子
112
113
評
首
一
久
朋
中
真
評
首
一
弘
隆
辻
大
瀬戸夏子
アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅ
んびが今、できました 斉藤斎藤
この歌をはじめて見たときには驚いた。驚いて、その
15分後に私が抱いた感想におそらくもっとも近いの
は吉川宏志の以下の発言であるように思う。座談会で、
吉川は斉藤に一定の評価を与えながらも以下のように
発言している。
「でもこの「アメリカのイラク攻撃に賛
成です。こころのじゅんびが今、できました」なんて歌
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字しかないようだ。
たとえば。はじめて会った相手に名前を聞く。おそらく答えは返っ
てくる。
「さいとうです。」では下の名前は。
「さいとうです。」不思議
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なことに、「家」から先に、「個人」のほうへ踏みこんでいけないと錯
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覚させるように、おなじ苗字が覆いかぶさってくる。私は彼の名前に
こだわりすぎているだろうか。しかし彼の名前は奇妙だ。
「信じられ
ない」彼の名前は斉藤斎藤だ。
「さいとうです。」と言われたところで、
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いったいどちらのことなのかわからない。よって、彼の「声」を聞く
ときには、そして読むときには、慎重にならなければならない。彼の
苗字は「斉藤」、名前は「斎藤」なのだ。彼は、わけのわからないこ
とを言ったりはしない。ただし、慎重にならなければ、どちらのこと
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あまり信じられないなと思ってしまう。
」 と 感 じ た と き、 そ の 違 和 感
を読むと、この人はあまり信じられないなと思ってしま なのかを取りちがえてしまう。
『短歌研究』1月号の時評のタイトル
う。
」
(
『短歌ヴァーサス』第6号、2004年12月) は「口語化の流れを止めるために」だ。タイトルだけを見れば、
ああ、
この人はあまり信じられないなと思ってしまう。斉藤 また口語派への苦言か、と判断しかけるが、これを書いたのは口語派
斎藤という人はあまり信じられないなと思ってしまう。 の斉藤斎藤だ。中身を読めば、この時評はむしろ口語を擁護している
この一首は。理不尽な話かもしれない。もし、この歌と のだ、
とはっきりとわかる。といって、
レトリックには含みがある。
「口
ほとんどまったく同じ一行が、たとえば小説のなかに置 語化の流れを止めるために、われわれは口語で歌を詠むべきである。
」
かれていたとしても、このような反応は起こらないので (
『短歌研究』2011年1月号)
はないか。それは容量の問題というよりも文芸形式の問
斉藤斎藤が書いたものを読むときにはそこにある違和感がつきまと
題だ。小説というジャンルが本質的に持っている多声性はこの一行の う。つきつめれば、その違和感は掲出歌を読んでしばらくののちに抱
衝撃力を良くも悪くもずいぶんと緩和させるだろう。しかしこの一行 いた印象と同根のものであるように思う。短歌というヴィークルがそ
が歌ならば。
「この人はあまり信じられないなと思ってしまう。
」
こにさしだされれば、人は多く、そこに乗り、そのヴィークルを使っ
0 0 0 0 0 0 0 0 0
「この人は」信じられない。短歌の「声」はほとんどの場合、
(それ て あ る「 ひ と つ の 歌 」 を う た っ た そ の 歌 人 の「 情 」 を 再 体 験 す る /
がフィクションという前提にあってさえ)
作者の肉声ととらえられる。 さ せ ら れ る。 そ の 歌 を 読 む こ と で そ の 歌 を 詠 ん だ 歌 人 と 短 歌 と い う
だから「この人は」信じられない。
「この人は」だれなのか。
「この人 ヴィークルを通してある感情を共有する。そのヴィークルを通して伝
は」斉藤斎藤という。奇妙な名前だ。日本人の名前は、ふつう上の名 えられた「情」が好ましいものであるにせよ、そうでないにせよ、歌
前(=「家」の名前)+下の名前(=「個人」の名前)でできている を通してそれが伝達されるということには変わりがない。しかし斉藤
のに、彼(おそらく)の名前はまるで上の名前+上の名前、苗字と苗 の歌において、短歌というヴィークルはそもそもそのような装置とし
ては想定されていない。あるいは想定された上で、別のものへとそれ
を変化させている。知らず知らずのうちに読者をべつの場所へと導こ は「この人は」の部分を別のものに転換すべきなのかもしれないとい
うとする。短歌という形式=あるひとつの歌=ある歌人がひとつづき うシグナルだと受け止めるべきなのではないだろうか。「アメリカ」
、
であるようなヴィークルとして斉藤の歌をとらえ、乗りこもうとすれ 「イラク攻撃」という言葉のあとに、
「賛成」という「表明」が続くと
ば肩すかしをくらうだろう。斉藤のヴィークルは底が抜けている。
いうこと、一文字もそこに書かれてはいないのに、「日本」や「日本人」
底が抜けているというより、より正確な表現が選ばれるべきなのか といった、それが日本語、それも国歌と同じ形式で書かれた日本語で
もしれない。たとえば永井祐における「そのままであろう」
「とどま あるということによって、作者、そしてこの歌を読んでいる日本語を
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
ろう」とするエネルギーによるものと斉藤のそれは異なるだろう。
読む(広い意味での)
「日本人」という地盤が持ちあがってくること、
それを強制的に意識させられることがこの歌の持つ衝撃力のひとつと
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして してはたらいているのではないだろうか。もちろん、斉藤斎藤の歌が
暮らしてる 永井祐 つねに「日本」という共同体を意識しているというわけではない。そ
ピンクの上に白でコアラが みちびかれるように鞄にバッジを の共同体、あるいはその文脈は、あるときには「家」であり「社会」
であるだろう。この文脈において『渡辺のわたし』という彼の第一歌
つける
集のタイトルとその戦略を私は意識させられるように感じる。斉藤は
しばしば既成の表現を流し込むかのように定型に落としいれる。しか
しそれらが単なる紋切り型の表現や、アジテーションやプロパガンダ
といった通りいっぺんの言語をすりぬけているのは、たとえば、その
(歌人にしては)風変わりな名前の持っているような、奇妙な二重の
社会性からの発語という場を選んでいることにあるのではないか。…
ここにきて、私は「この人はあまり信じられないなと思ってしまう。」
とは、ある角度から見れば、この上ない賛辞なのではないかという可
能性に気づく。しかし、私は既に掲出歌を見た15分後の世界にはい
さまざまに話題になる前者の歌よりも後者の歌を私はとるが、本筋
ではないのでここでは触れない。前者における「写メール」
「地元」
(あ
る い は「 写 メ ー ル で 地 元 を 撮 る 」
)といった言葉を、世代的な文脈で
読むことがまったく無意味であるとは私は思わない。一種の作者の態
度表明であるととることも可能であるだろう。しかし、それ以上の文
脈をそこに読みこんでいくことは、ある種の神秘化となるのではない
か。「写メール」や「地元」といった言葉は「コアラ」や「鞄」や「バッ
ジ」とほとんど同列に扱われている。永井の特徴はむしろそこにある
いところにいるようだ。
「その後」のことについていつか書くことが
のではないだろうか。一首の歌のなかに、
その言葉が
「そのように」「そ ない。とするのならば、むしろ私は「その後」の印象に、さらに言葉
こに」「とどまる」優しさ(あるいは冷静さにみえるようなもの)が を費やすべきであるのかもしれないが、いまの私はその場所からは遠
ある。
掲出歌における斉藤の態度はまったく別のものだ。それは選ばれた できれば、と願いつつ、ここでいったん筆をおきたい。
テーマによるものだけでは決してないだろう。
「アメリカのイラク攻
撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました」というヴィーク
*永井祐の引用歌は『短歌ヴァーサス』第11号(2007年11月)より
ルに乗せられたときに、激しい違和感を体験し、反射的に「この人は
114
115
評
首
一
藤
斎
藤
斉
作「
」の読解に比重を置いたものとなるだろう。
No Mouth
Jésus sera en agonie jusqu’à la fin du monde : il ne faut
この連作の構造については、文体を追うことで大まかに素描するこ
pas dormir pendant ce temps-là.
Blaise Pascal, Penséesとができる。まず「わし」一人称による関西弁口語体で性や排泄、障
害の問題を露悪的に描き出す部類の歌。そしてもう一方が文語調の文
川床の砂に半ばを埋もれつつ葉は揺れており薄暮の水に
きたりただひとつの鮮やかさのためほかみな枯れて」や「過ぎ去った
冒頭の二首を引いてみた。前者に属する歌はわかりやすいだろうか
らこれ以上引かないが、後者については他にも「ひまわりの群れて咲
それでもわしは叫ぶんやから無い口のかわりに尻からひり出している
体による叙景歌。この二種類に分かれていた文体と内容が徐々に融合
この春で二十二になるというのにいまだに思春期を引
きずっているせいか、
「数万個」と言うのが恥ずかしく していくというのが、大体の構図である。
てならない。そんなことを考えていたら、かれこれ四年
前に連作「六千万個の風鈴」で第四十三回短歌研究新人
賞を受けた吉岡太朗が、昨年末の同人誌『町』第四号に
発表した連作「 No Mouth
」の中でちんこ、うんこ、ま
んこと連呼し出したのですっかり驚いてしまった。
F的な「戦争」が要請されることも共通点として挙げら
ある側面において、思いのほか似通っている。背景にS
主体設定のもとで展開される身体性と世界観との構造は
アンドロイドと傷痍軍人(?)という、それぞれ架空の
問題である。
だが、この性と排泄のモティーフによる美しい世界への侵食につい
て語る前に、もう一つ触れておくべきことがある。「聖人」と引用の
初雪の枯野をわしは歩みゆくむかしちんこを埋めたる場所へ
そこらじゅう陵辱死体の廃駅へ安らかに冬の帳がおりる
「六千万個の風鈴」に対応する連作がこの「 Noのちに季節は輪郭をくきやかにして海に落つる葉」などといった、連
ああ、
」 な の だ ―― と い う の は、 別 に「 万 個 」 と「 ま 作中では少し浮いたような歌が見られる。この二項が後半になると次
Mouth
んこ」
の下品な駄洒落だけをもってそう言うのではない。 の二首のように一首の中に同時にあらわれるようになる。
れるだろう。逆に「六千万個の風鈴」の世界が湛えてい
たほのかな暗さとそれに裏打ちされたみずみずしい美意
近作において吉岡は、様々な先行するテクストの作者を詞書の中で
識は、そこから排除されていた排泄や性のモティーフを 「聖人」に祭り上げることで一種の本歌取りのような引用を行ってい
ワイフ、といった名前も「聖人」たちの間に列されていると考えてよ
もっとも二つの連作の比較を軸に吉岡作品の戦争観や身体性につい
て大々的に論じているほどの余裕はない。それゆえ本稿はあくまで新
スは聖人ではないが、他に挙げられている名前とは明らかに異質であ
中に一人だけ本当に「聖なる御子」が登場していること。むろんイエ
ることで、聖なる御子(=イエス)、
「聖なる雲子」(=大便)、ダッチ
ラン・エリスンといった名前が挙げられている。また詞書に挙げられ
いだろう。その一方で聖人としては挙げられないものの、明らかに本
教の特権的なイメージを薄れさせるのが目的であろう。吉岡が文化人
る。基本的には聖人ではない名前と並べ、かつ「珍鉾を祭る部族が雲
類学を専攻していることと考え合わせるとなおさら説得力を持つ解釈
鉾のトーテムポールに精なる雨を」という歌に添えることでキリスト
分け入っても分け入っても秋葉原 糞しても糞してもひとりもん
歌取りであろうという歌もある。
て、さらに一歩先の解釈ができはしないか。
ではあるが、しかしこれを前に指摘した連作全体の構造と重ね合わせ
はくてうはかなしくないもん
本当は誰のもんやろ構造上流れんはずのわしん涙は
る。タイトルや冒頭の一首からもわかるように、彼には口がないため
ける死人であり、
「うんこ製造機」というネットスラングをふまえて
ここで指摘しておきたいのは三つの点である。一つは先の引用歌か
らもわかるように、宮沢賢治『雨ニモ負ケズ』からの引用が二首にわ
い(それで誰かにお叱りなど受けた日にはたまったもんじゃない)
。
……」からの引用であろうとか、そういった議論を始めればきりがな
かそれはひかりと音と風です」の構造と文体は斉藤斎藤の「雨の国道
ぶりを強調し、性や排泄にまつわる悪意、劣等感を裏打ちしている。
ね合わせることで、賢治とは比べ物にならない主体の「でくのぼう」
ば、うんこをひり出すべき肛門すらも恐らくは人工の代用品なのであ
がないのにひり出されたから聖なる雲子」という詞書を考え合わせれ
器や涙腺が失われ、かゆみを感じないことが歌から読み取れる。
「穴
ろう。先に指摘した特権的なレフェランスの一つである宮沢賢治と重
たって挙げられることで、特権的なレフェランスとしての賢治と「わ
修司からの引用であろうとか、
「ふんづけた足からひろがるなんです 言えば、お国や社会の役に立たない弱者である。足や口のほかにも性
そこまで突っ込んで検討することはしない。義足のモティーフは寺山
え筆者の力量からしても全ての引用を数え上げるのは困難であるし、 いうからには彼はアガンベンの所謂「ホモ・サケル」的な意味での生
引用と名前のない引用との関係については興味深い点が多い。とはい 「かわりに尻からひり出」すことでしか語れない。死人に口なし、と
泉に咲かす大輪の花」との対応関係にある点などを始め、名前のある
二首目が「聖尾崎放哉」を本歌取りした「糞しとる間は同行二人なり
それぞれ、一首目と五首目が宮沢賢治、二首目が種田山頭火、三首
目が若山牧水、四首目が穂村弘の本歌取りであるのは明らかである。 作中主体の「わし」はSF的な戦争で負傷し、現在は「家庭用地雷
の実演販売」のために義足を毎日犠牲にすることで生活の糧を得てい
これからも失う日々の缶切りを使えるようになったでくのぼう
ぼくたちは空にスペルマ撒くあいしてる
雑炊の灰汁を流しにほかす夕 ほめられもせず苦にもされずに
「
「 No Mouth
」 に お い て 過 剰 な ほ ど 引 き 受 け な お す こ と る。
」 で も そ の 傾 向 は 変 わ っ て お ら ず、 と い う か む し ろ
No
Mouth
で転倒あるいは乗り越えが試みられている。
強まっており、明示されているだけでも尾崎放哉、野樹かずみ、ハー
吉田隼人
し」とが重ね合わされる構造になっていること。次の一つは
「雨がしっ
やすもんの義足をわしにはめている少年の目を見たことがない
こで雪がうんこで一面のアスファルトに受難の聖者」にだけ歌の中に
明日には失くす予定の義足なりそっと抱けば月の香のする
まで聖者が登場していること(ちなみにこの歌には詞書がついていな
などといった二首は強迫観念化した義足の再喪失が去勢のイメージ
い)。最後の一つはいくらうんこと同列にされているにせよ、詞書の と重なってあらわれたものだろう。実際に「わし」はちんこを失って
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117
万個とまんこ――吉岡太朗小論(+場所をめぐる断章)
おり、恐らくは童貞のまま戦争に行って生殖能力を喪失してしまって
と、一面のアスファルト(の上に転がる受難の聖者たち)と、陵辱死
ことができるのである。
いる。「いずくんぞ性を知らんや」
、
「SEXもRAPEのスペルミス 体と、ダッチワイフと交わることで聖誕祭を転倒された形で反復する
やろう」といったフレーズからも、それに伴う劣等感と悪意を読み取
ることができる。彼が死ぬまで子をなさずにいるであろうということ むろん、そこで生まれてくるのはうんこに過ぎないのかもしれない。
「わし」は相変わらず「でくのぼう」なのであって、せいぜい缶切り
は、宮沢賢治がダブらされていることから推測される。
が使えるようになったり、屁をこいて「うどん臭」を漂わせていた布
しかし最初のほうで触れたように、性と排泄のイメージは複雑に絡
み合いながら背景世界を侵食し、
「性」であり「精」でありまた「聖」 団を干すようになったりするくらいである。それでも彼は聖なる父と
葉の代わりに、無い尻から聖なる御子を(それが単なるうんこであっ
であるような新たな世界を構築していく。生ける死人であったホモ・ 母のせわしない一人二役を務めることで、無い口から紡げなかった言
サケルの身体が同時にまた王の身体にも転化しうるような聖性を帯び
ていたのと同様に、性的不能者としての「わし」は、
「膜があるのに」 ても)ひり出さなければならないのである。「イエスはこの世の終わ
……と、せっかく冒頭の引用文に帰ってきたのだし、ここまでで評
論 を 終 わ ら せ て し ま っ て も よ か っ た だ ろ う。 だ が、 そ れ で は フ ァ ナ
カル)
(パス
聖なる御子を産み落としえた聖母のように、
「穴がないのに」聖なる りまで苦しみの中にあるだろう。その間は眠ってはならない」
雲子を産み落としうる身体を獲得するのだ。失われたちんこを「初雪
の枯野」に埋められることで、
彼は世界と同化してセックスを始める。
町中がじっぽんずっぽんびちゃびちゃの夜半や靴紐がほどかれへん
ビルがちんこで更地がまんこでされたさに下草がぬれとる夜明け前
が孕んでいる(そしてさらに広い地平にまで広げうる)問題点につい
応の公正を保つためにも、あるいは今後の自分のためにも、この連作
ティックに過ぎるというのでお叱りを受けるやもしれない。そこで一
これらの歌とそれ以前にすでに引用した歌とを並べて考えれば、「わ
し」が世界と同化して聖なる御子を産み直すためのセックスをすると
て最後に少しだけ触れておく。
阿蘭陀の嫁を抱けばビニールの胸の向こうに雪果てぬ町
いう解釈がそう突飛なものではないとわかるだろう。雨と雪はしっこ
題の展開が説得力をもって読者に迫って来ることとなる。ところがそ
の枯野」に始まって、生娘のような百貨店の高級便所と、空と、更地
彼はむしろそのゆえに世界と同化し、そのちんこを埋められた「初雪
ちんこちょんぎられ」た世界でなお、同じくちんこを失った身である
には「膜がある」ので処女懐胎を果たしうる。神によって「バベルの
混乱した作中世界を構築している堂園昌彦(『早稲田短歌』三十九号
け加えるならば、現実との地続き性に強い内面性が侵食することで、
歌中心の作風をとる歌人にも適用しうる視点であると思う。さらに付
説的に世界を更新するための子をなす可能性を与えられる」という主
によって、これまで筆者が述べてきたような「障害を負った身体が逆
に担保される障害を負った身体の生々しさを担保している。この担保
作中にあらわれる「わし」以外の個人は、たったこの二人だけであ
る。それぞれ「戦争」といったこの連作の背景にある世界観や、それ
縁側にひとり座ってぶつくさと戦争に反対しており母は
れを担保する「少年」や「母」は、戦争や障害にリアリティをもたせ
やすもんの義足をわしにはめている少年の目を見たことがない
でありうんこであり、また精液でもある。性を知らない秋茜が「みな
うつむきて飛ぶ」空に、
「ぼくたち」
(ここだけ「わし」でないことに
も注意)は「スペルマ撒く」のである。更地だけでなく世界の全てが
るために逆算して配された舞台装置の域を脱しきれずにいるように思
の拙論参照)のような立ち位置も考えられる。彼の強い影響が見受け
まんこと化すのであって、かつ「わし」が性的に不能である限りそこ
われる。
実と地続きではない「異質な場所」のあらわれた短歌という点で、同
『早稲田短歌』三十八号で大塚誠也が
「 No Mouth
」 られる服部真里子についても、
実はこれは作歌技法上の瑣末な問題にとどまらない。
と「六千万個の風鈴」に共通する構造として、架空の戦争を経た(で 指摘しているように「主体のいる位置の不確定性」という、やはり現
あろう)架空の世界で、架空の「不如意な身体」を刻印された主体や
るだけ短歌の表現や主題が説得力を増すのもまた事実である。
続けていることからもわかるように、場所が現実と地続きであればあ
かれ架空の、虚構のものである。とはいえ「写生」が長らく力を持ち
付きまとうのを避けて「場所」と言った方がいいか――は多かれ少な
す重要な課題として浮き上がってくるものと思われる。(文中全て敬
新しい「場所」を獲得していくのかという点については、今後ますま
功/失敗しているのかをここで判断するのは避けるが、これを始めと
使用するといった手法を用いていた。こうした彼の試みがどこまで成
ら引用されてきた語彙・表現と、生活感のある語彙・表現とを同時に
吉岡に話を戻せば、仮構された場所の中でのリアリティを担保する
ため、
「 六 千 万 個 の 風 鈴 」 に 特 に 顕 著 で あ っ た が、 既 存 の S F な ど か
その他の人物たちが生活を営んでいる……というものが抽出できる。 じ座標平面の中で捉えることが可能だろう。
いちいち例歌を引いている余裕はないが、たとえば吉岡のそれとは
また異質な「身体性」を特徴としている野口あや子はそれを活かすた
称略)
もちろん短歌の中の世界――あるいは余計な(ゼロ年代風の)意味が
め、比較的現実と地続きにある位置に作中の場所を置いている。五島
して、今ざっと列挙してきたような同世代歌人たちがどのような形で
諭や永井祐も現実と近い位置に場所をとっているが、拡散を防ぐため
か短歌中の空間は極めて限定された、一つの町内で完結するような広
さにとどめられている。翻って吉田竜宇については、東郷雄二が「事
(
東郷雄二「短歌のなかの事物たち」『橄欖追放』
)
http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka/kanran58.html
物の存在感は、まるで書き割りのように極めて薄い。何か伝えたい想 《参考資料》
い、表現したい空気がまず最初にあり、事物はその単なる口実のよう
に置かれている感じが拭えない」と評したように、現実と必ずしも地
続きではない場所に、
「伝えたい想い、表現したい空気」を軸にして
現実とよく似た場所を仮構しているようなところがある。これは吉田
に限ったことではなく、彼と同世代の田口綾子や大森静佳など、相聞
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万 個 と ま ん こ ―― 吉 岡 太 朗 小 論( + 場 所 を め ぐ る 断 章 )