3.船橋市本町 不動院 大仏追善供養 1 調査地 船橋市本町3丁目 不動院 2.立地場所の景観 不動院入ロ 3.石造物名 釈迦如来坐像 4 5 法 量 たて80.0cm、`よこ90.0cm、奥行き25.0cm 銘 文 背面 毎年正月廿八日 永代供養佛 于時延享三丙寅正月良辰 浄勝寺成誉上人 行法寺日玄上人 覚王寺宿栄法師 船橋郷中 江都魚問屋中 立願者 ︵人名十略︶ 右為志三界万霊 有志両縁一切衆生 頓誕佛果菩提也 乃至法界平等利益 ︵百三十数名戒名略︶ 基礎部銘文 6.所 見 現本町三丁目の西の一角は寺町と呼ばれていた処で寺や小祠が密集しており、えんが地蔵・お 女郎稲荷など今日なお伝承と信仰が生きている界隈である。 不動院入口の通称「大仏様」は釈迦如来像で、偏祖右肩に腹前で禅定印を結び蓮華座に坐す。 像高80.0cm、台座等を含めた総高は185.0cmに及ぶ大きなものである。深くしっかりした彫引こ 重量感のある像で、破損はほとんとないが、首部の損傷のみ残念である。 像背面に「永代供養佛 毎年正月廿八日 于時延享三丙寅正月良辰」と記し、基礎部は百三十 数名分の戒名と立顕者で埋めつくされているのは、延享3年(1746)の津波溺死者供養のため造 立されたことを伝える。溺死者の供養塔と、後に漁場争いによる死者の供養も含まれ、時代と内 容の異なる二つの供養を伝えることと、釈迦像後方の供養塔も関連のある塔で、合わせて注目し - たい。 8− ■ 7.信仰○事例 (I)話者 上田祐成 昭和4年生 職業 僧侶 性別 男 風間ミヤ 昭和4年生 職業 生花店 性別 女 (2)信仰の名称 大仏追善供養 大仏追善供養は文政8年(1825)から地元の漁師た ちの手で今日まで続けられている。この供養が今日に 継続されているのは漁場を巡り、近隣の漁師たちとの 間の争いが深く係わっていた。 船橋の海はもともと魚貝の豊富な漁場であった。元 和元年(1615)船橋に宿泊した徳川家康に地元の漁師 が魚貝を献上した縁から、船橋浦は将軍家に献上する 御菜浦と定められ、課税免除や他村の漁師の入漁を禁 止するなどの特権を得ていたという。 しかし、元禄16 年(1703)の地震により海の状態が変わり魚貝が採れ なくなり、やむなく宝永元年(1704)から御菜代を金 納(永納)に代えた。金納になると他の周辺の村々の 遠慮が薄れ、無断で漁場に入り、ここに漁場争いがく り返されるようになった。 文政7年(1824)かねてから内湾北部の三番瀬を巡って争いの絶えなかった猫実村と宇喜多村 (現浦安市)の漁師が船団を仕立て、一ツ橋家の幟を立て貝漁に押しかけてきた。これを阻止し ようとした船橋の漁師との間で乱闘になり、一ツ橋家の侍を殴打し、幟を奪い取ったことで一大 事となった。そしてこの件で船橋の漁師惣代3名が江戸へ連行され入牢、取調べを受け、その苛 酷な取調べと牢生活に惣代のうち1名が牢死、出牢後まもなくもう1名も死亡した。翌文致8年、 奉行所が介入、三番瀬境筋に杭が立てられ、この大きな犠牲の上に両村は和解に至った。 死をもって漁場を守った惣代たちの死をいたみ、後、毎年1月28日(明治以降は2月28目)に 漁師たちは一日漁を休み、延享3年の津波の溺死者供養のために造立したという釈迦像(大仏) の前で改めていっしょに供養するようになったという。そしてこの供養の時に入牢中のひもじさ を憐み、せめてこの日ばかりは白飯をたくさん食べてもらおうと、大仏の口から身体にかけて山 盛引こ食べさせるようになった。 さて、その大仏追善供養は船橋市指定文化財(無形民俗)で、現在船橋市漁業協同組合が主催 し、大仏のある不動院と近くの浄勝寺・行法寺・覚王寺が交替で執り行なう。 まず、前もって漁業組合から不動院に追善供養開始の時刻を伝えてくる(概ね午前10時頃)。 前日、漁業組合の人たちが大仏の掃除をする。当日朝花や供物、鸚米を炊いた御飯を火鉢一杯用 意して集まる。時刻になると不動院と当番寺一ケ寺が仏前にて、観音経や般若心経等を唱え供養 する。読経の中、漁業組合長をけじめ組合員や地元の人々が順に焼香して、漁業組合が炊いてき た大鉢一杯の御飯を大仏のロや身体に盛りつける。この御飯をいただいて食べると風邪をひかな - い、病気にならないといわれ、地元の人たちは先を競って御飯を奪い取る。近年は盛りつけてい 9 るはじから御飯ははがされてゆく。供養は20分ほどで終了。この日一日漁師たちは漁を休む。 また、文政7年の争いで入牢、死亡した2名の惣代を供養した石塔が大仏の後方に建てられて いる。角柱型のこの石塔には 「 文政ハ乙酉正月十三日 俗名岩田園治郎 希(キリーク)了砦寂照信士 概(ア) 法要了青信士 霊 位 文致七甲中十二月廿四日 俗名内海仁右衛門 」 そして発起世話入漁士惣代松本権四郎、修覆世話人漁士惣代藤松勘右衛門、明治十五年二月と 記す。これによって惣代の内海仁右衛門が文致7年12月24日に牢死、同岩田園治郎が出牢後の文 政8年1月13日に死亡していることがわかる。ただひとり生き残った惣代が発起世話人となった 松本権四郎であろうか。 船橋と他村漁師との間の様々な争いに関するやりとりの古文書多数が村役人、漁師惣代人等の 家に残されていて、これらの資料は現在「船橋浦漁業関係古文書」として市指定文化財(有形・ 古文書)として船橋市漁業協同組合が管理保管している。 , では争いの相手方の村々での資料は残されているのだろうか。大仏追善供養に直接関係はない が、猫実村(現浦安市猫実)の花蔵院に「公訴猟願の塔」がある。これは天明年間(1781∼1788) の訴訟で三番瀬の入会権を有する漁場を主張していた猫実村では、長三郎、長兵衛、善三郎の三 人がその紛事の中捕らえられ、それぞれ非業の死をとげた。その犠牲の上に入会権を獲得したと いう。この三人の死をいたみ、百年忌を期に供養塔が建てられたという。 しかし現在この供養塔 に関して特別な信仰や供養は残っていないようだ。 なお、大仏追善供養の大仏が本来、延享3年8月1日の津波の溺死者の供養のため造立された といわれているが、銘文は「延享三丙寅正月良辰」とあり、津波の日付より早く、疑問が残され る。 (木原 律子) −10−
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