野 分

野 分
28.野分
の
わ
き
源氏物語詳解・第二十八帖・野分
あらすじ
秋好中宮は、里下がりしている六条院で 秋の庭の 美しい花々を愛でて過ご
している。八月、激しい野分が、六条院を襲い、秋の庭を、吹き荒らした。
父源氏の名代として、夕霧が、野分の見舞いに 六条院を訪れる。南の御殿で
は、紫上が、風の吹き荒れる庭を、端近くに 眺めていた。その姿を、垣間見
た夕霧は、継母である紫上の 美しさに、すっかり 心を奪われてしまう。春
霞に 咲き零れる「樺桜」のような 美しさである、と 感じるのであった。
源氏が 息子の夕霧を、六条院に 住まわせないのは、自分を 紫上に 近づ
けさせない為である と、夕霧は 父の深い心配りを 感じ取るのであった。
その後、紫上のことが 心から 離れない夕霧を、源氏は、直観的に 見抜い
てしまうのであった。
源氏は、中宮 そして明石上を見舞い、次に 玉鬘の許を訪れる。供をしてい
た夕霧は、御簾の隙間から 源氏と玉鬘との 親子を越えた 睦み合いを見て、
驚くのであった。微かに見た 玉鬘の姿に、またしても 夕霧は 心を奪われ
てしまう。その美しさを、夕日に輝く、露を帯びた「八重山吹」と 見るので
あった。
その後、夕霧は、明石姫君を見舞いに訪れる。姫は 不在であったので、待つ
間に、心にかかる雲井雁・その他の許に 消息を書く。やがて 戻った姫を、
几帳の端から隙見して その美しさを「藤の花」に、譬えるのであった。
主なことがら
と
すじ立て
異常な野分に、各所の庭や建物が荒れてしまった。夕霧は、野分見舞いの為に
六条院その他 各所を廻る。その際、紫上や 明石姫君を 偶然に 垣間見る。
更に、源氏と玉鬘が、親子を越えて
親しみ深くしているのも、ふと覗き見る。
1
夕霧は 雲井雁に消息を送る。
1.秋好中宮は、好みの秋の草花を、里である六条院の庭に、今年は 見どこ
ろが多いように、特別に 植えたのであったが、異常な野分の為に すっか
り 荒らされてしまう。紫上の庭も 同様である。夕霧は、祖母大宮の三条
宮から 源氏の六条院に 見舞いに訪れて、紫上を 垣間見る。その美しさ
は 全く 驚異的であった。
…P.3
2.源氏の使者も兼ねて、夕霧は、道々、紫上の事を 思慕しながら、三条宮
に帰った。三条宮の被害も亦、大きいものがあった。祖母大宮は 夕霧に頼
り切っている。
…P.12
3.夕霧は、早朝、花散里を見舞う為 六条院に廻る。夕霧の 咳払いで、源
氏と紫上とは、「暁の別れ」などと 睦言を語らって 起床する。源氏は、夕
霧から 大宮の情況の報告を受け、更に 大宮への孝養を 勧めるのであっ
た。その序に 内大臣の性格についても 觸れるのであった。 …P.19
4.夕霧は、源氏の使として、秋好中宮の御許に 見舞いに行く。中宮の女房
たちは、虫篭を持って、庭に下り 虫に露をやったり 撫子の折れた枝を 拾
ったりしている。夕霧は、中宮に 源氏の消息を伝え、知己の女房などに会
って、南の御殿に帰り 源氏に復命する。源氏は 気がかりなので、中宮を
見舞うことにする。源氏は、直感的に
姿を 垣間見たのではなかろうか、と
夕霧が、昨日
感じ 疑念を
風の紛れに、紫上の
抱くのであった。
…P.25
5.源氏は、明石上をも 見舞ってから、玉鬘の許を 訪ねる。源氏は、美し
い玉鬘を、身近く寄せて 戯れ掛かっている。夕霧は、それを 密かに 覗
き見て、大いに驚くのであった。
…P.34
6.源氏は、花散里の許に 立ち寄り、彼女の 裁縫や染色の技術の素晴らし
さに、感嘆する。
…P.44
7.夕霧は、明石姫君を訪ね、雲井雁と惟光の娘への消息を 認めるのであっ
た。
…P.46
8.夕霧は、明石姫君を 仄かに見る。その後、祖母大宮を 訪れる。たまた
ま 内大臣の来訪もあった。内大臣は、心にあまる 近江君の事を、母大宮
に それとなく 語るのであった。
…P.51
2
原 文
1 野分
と
注
解
そして
現 代 語 訳
秋好中宮・紫上方の被害 夕霧 紫上を垣間見する
中宮の御まへに、秋の花をうゑさせ給へること、つねの年よりも、見どころ
多く、色くさをつくして、よしある黒木・赤木の笆をゆひまぜつゝ、おなじき
花の、枝ざし・すがた、朝夕、露の光も、世のつねならず、玉かとかゞやきて、
つくり渡せる野べの色を見るに、はた、春の山もわすられて、すゞしう、おも
しろく、心もあくがるゝやうなり。春秋のあらそひに、むかしより、秋に心よ
する人は、數まさりけるを、名だたる春の御前の花園に心よせし人々、又、ひ
きかへし、うつろふけしき、世のありさまに似たり。これを御覽じつきて、里
居し給ふ程、御遊びなども、あらまほしけれど、八月は、故前坊の御忌月なれ
ば、心もとなくおぼしつゝ、明け暮るゝに、この花の色まさるけしきどもを、
御覽ずるに、野分、れいの年よりもおどろおどろしく、空の色かはりて、吹き
いづ。
* 中宮の御まへに…秋好中宮(もとの梅壷女御、母は六条御息所)、の御前の庭に。中
宮の里は、六条院の未申(西南)の町にある。
* 秋の花…秋の草花。
* つねの年よりも 見どころ多く…下の「すゞしうおもしろく」までは 庭を説明し
た。
* 色くさをつくして…色々の種類を あるだけ沢山植えて。
「いろくさ」は、色種・色
草。いろいろの種類・特に
色とりどりの秋の草 の意。
* 黒木…皮のついたままの木。
* 赤木…皮を削り取った木。
* 笆をゆひまぜつゝ…笆垣根
は、籬・笆。竹や木で作った
即ち 低く 木や竹などを 粗く立てた垣根。「ませ」
目が粗く、低い垣根。籬(まがき)
・籬垣(ませがき)
の意。ここは 黒木と赤木とを 繩で縛って 庭の花の間のあちこちに 作りまぜ
ておいたもの。丈の高い草花の茎が
* おなじき花の…花といえば
風で折れないようにするのである。
同じ花で。
* 朝夕…下の「かゞやきて」に懸かる。
* 露の光も 世のつねならず
玉とかゞやきて…後撰、秋中、伊勢「植ゑ立てゝ君が
しめゆふ花ならば玉と見えてや露もおくらむ」。
* つくり渡せる野べの色…ずっと 遠くの方にまで 作ってある 秋の野の趣深い景
色。
3
* はた…春も素晴らしいが 差し当っては また。下の「あくがるゝ云々」に懸かる
「はた」は、将。A.副詞として、1.あるいは・若しかすると・ひょっとすると。
2.上の意を受けて、これを翻す意を表す。然しながら・そうは言うものの・それ
でもやはり。3.上の意を受けて 係助詞「も」と同じような意を表す。~もまた・
その上また。4.多く、下に打消しの語を伴って、きっと・おそらく。B.接続詞
として、
「はたまた」に同じ。
* 春の山もわすられて…春の山
即ち 紫上方の庭を
暗に指しているのである
の
面白さも 自然に忘れてしまって。
* すゞしう おもしろく…まして、秋好中宮の秋の庭は、涼しく 風情があって。
* 心もあくがるゝやうなり…心も魂も
身に添わず 浮き浮きするようである。
* 春秋のあらそひ…春秋の優劣論に。胡蝶帖、P. 参照。伝宗尊親王筆、十巻歌合、
巻十「むかしのうたよみの、はるあきをあはせたる」と題した 豊主と黒主の問答
歌がある。近衛家には宗尊親王筆、四季歌合一巻として 類聚歌合と 別にあった。
…その一部…
左
面白くめでたきことをくらぶるに春と秋とはいづれまされり
黒主
右
春はたゞ花こそは咲け野べごとに錦をはれる秋はまされり
豊主
左
秋はたゞ野べの色こそ錦なれ香さへ匂へる春はまされり
黒主
右
さ牡鹿の声ふりいでゝくれなゐに野べのなりゆく秋はまされり
豊主
以下十七番は略す
躬恒
判す
わびしさは思ひも恋ひも劣らぬを深き浅きの程やあらぬ
拾遺、巻九、雑下、
「ある所に、春秋いづれかまさると、問はせ給ひけるに、詠みて
奉りける、貫之」として、 春秋に思ひ乱れてわきかねつ時につけつゝうつる心は。
及び「元良のみこ、承香殿のとし子に春秋いづれまさると、問ひ侍りければ、秋も
をかしう侍りと言ひければ、面白き桜を、これはいかゞと言ひて侍りければ、大方
の秋に心はよせしかど花見る時はいづれともなし。更に、「題知らず、読人不知」と
して、春はたゞ花のひとへに咲くばかり物の哀は秋ぞまされる。村上帝の応和三年
(九六三)七月二日 藤原伊尹、即ち謙徳公の公達の春秋歌合(平安朝歌合大成第
二)
・後冷泉帝の天喜四年(一〇五六)四月皇后宮の春秋歌(類聚一八〇)などもあ
った。薄雲帖、P. 参照。
* 數まさりけるを…数が多いのであったけれども。
* 春の御前の花園…紫上の 春のお庭の花園に。
* 世のありさま…権勢に靡く
* 御覽じつきて… 秋好中宮が
一般の人々の様子。
お見馴れ お気に召し
なされて。
「ごらんじつく」
は、御覧じ付く。
「見付く」の尊敬語。A.自動詞として、見慣れていらっしゃる・
ご覽になって好ましく思われる。B,他動詞として、お見つけになる の意。
* 故前坊(こぜんばう)…故前春宮。秋好中宮の故父宮、故六条御息所の夫。
4
* 心もとなくおぼしつゝ 明け暮るゝに…お遊びも出来ずに 気になさりながら
日々を過ごしておいでであったが。
「こころもとなし」は、心許なし。待ち遠しくて
心が苛立つ・じれったい。2.気がかりだ・不安だ。3.ぼんやりしている・はっ
きりしない。4.不十分で物足りない などの意。
* おどろおどろしく…そら恐ろしい程に。「おどろおどろし」は、1.気味が悪い・耳
目を驚かすさまである。2.仰々しい・大袈裟である・ひどい の意。
秋好中宮の
御前のお庭には、秋の花を
お植えさせになられたのであるが、
今年は、常の年よりも、見る価値が 多くあるようにと、ありとあらゆる種類
の草花を 植えて、風雅な 黒木や赤木の笆垣なども、縄で結い、庭のあちこ
ちに 作り交ぜて置き、同じ花ながらも、枝ぶりも 姿形も、朝夕の露の光も、
この世の物とも 思われず、玉とばかりに 輝いていて、野辺の景色を お写
しなされたお庭の さながらに、秋の野辺とおぼしき風情を 見渡していると、
ついつい 春の山の、情趣も忘れられて しまって、ここ 秋の庭は、爽やか
に涼しく、興趣が湧いて、心も魂も ふわふわと 浮き出してしまいそうなの
である。春秋の優劣論では、昔から 秋に味方する人の方が 多いのであるけ
れども、音に聞えた 紫上の、春のお庭の花園に 引き寄せられた人々も、今
は また、引き返して、こちら 秋好中宮のお庭に、心が移る、という具合で、
そのような所は、世間の人々の 権勢に阿る様を、そのままに、現わしている
のであった。秋好中宮は、このお庭の眺めが、お気に召して、里居していらっ
しゃるのであったが、八月は、父宮である 故前春宮の御忌月であるから、管
弦のお遊びなども、ご遠慮あそばして、うつろう 庭の色香を、お気になさり
ながら、日々を 明し暮らしなされていらっしゃるのであった、が、日に日に、
花園が 見事に咲き揃った、と 御覧あそばした、丁度 その頃に、空の模様
が、急に 怪しくなって、例年よりも、物凄く 恐ろしく 野分が、荒々しく
吹き出したのであった。
花どものしをるゝを、いと、さしも思ひ染まぬ人だに、「あな、わりな」と、
思ひさわがるゝを、まして、くさむらの露の玉の緒、みだるゝまゝに、御心惑
ひもしぬべく、おぼしたり。おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ、ほしげ
なりけれ。暮れゆくまゝに、物も見えず吹きまよはして、いと、むくつけゝれ
ば、御格子などまゐりぬるに、「うしろめたく、いみじ」と、花のうへをおぼし
なげく。
* しをるゝを…萎れてしまうのを。
* さしも思ひ染まぬ人だに…それほどに、関心のない人であっても。
「そむ」は、染む。
5
A.自動詞として、1.染まる・色づく。2.感染する・なじむ。3.心い深く感
じる・心に深く染み込む。B.他動詞として、1.染める。2.思い込む・心を深
く寄せる・傾ける
の意。
「だに」は、副助詞。1.強調・・・せめて~だけでも・
~だけなりと。2.類推・・・~だって・~のようなものでさえ。3.添加・・・
~までも の意。
* あな
わりな…まあ、無残なこと。
「わりな」は、
「わりなし」。1.道理にあわない・
無理である・めちゃくちゃである・分別がない。2.堪え難い・苦しい・辛い。3.
仕方がない・止むを得ない・どうにもならない。4.殊の外である・一通りでない・
程度が甚だしい。5.格別に優れている などの意。
* くさむらの露の玉の緒 みだるゝまゝに…叢の露が
ばらばらと 乱れ散じるにつ
れて。草花も 千切れ散じてしまったので。
* 御心惑ひもしぬべく
おぼしたり…御心も 暮れ惑うばかりに
お悼みになられる。
「こころまどひ」は、心惑ひ。思い乱れること・正気を失って取り乱すこと
の意。
* おほふばかりの袖は…嵐を防ぐ為の 大空を 覆うばかりの大きな袖は。
* 秋の空にしもこそ…秋の空であったればこそ。後撰、春中、読人不知「大空におほ
ふばかりの袖もがな春さく花を風にまかせじ」。これは「春の空」を 詠んでいるの
で、「秋の空にしもこそ」と
言ったのである。
* 吹きまよはして…吹き乱して。
* いと
むくつけゝれば…たいそう 気味が悪いから。「むくつけし」は、1.恐ろし
い・気味が悪い。2.無骨である・無風流である の意。
* うしろめたく いみじ…夜の間に 草花が
すっかり
痛んでしまうのでは
と、
気がかりで、たいそう 困ったことになった。
花などが、萎れてしまうのを、そうも 気にもかけないような 女房たちで
さえも、「まあ、無残な」と、悲しみ 騒ぐくらいで あったから、まして、中
宮は、叢の露が、ばらばらと 乱れ散るのにつれて、折角の草花も、倒れ千切
れてしまうのでは、と 御心も、くれ惑うほどの、お悼みなのであった。秋の
空を、覆い隠すほどの袖は、春ならぬ 秋の空にこそ、格別に 欲しい、と 思
われるようなのであった。日が 暮れ行くにつれて、物も 見えずに、吹き荒
れて、たいそう 気味が悪いから、女房たちが、御格子などを、下ろしてしま
ったけれども、中宮は、「夜の間に、草花が、すっかり 痛めつけられてしまう
のでは なかろうか。何とも 困ったこと」と、花の上を、たまらなく 心配
して、お案じなさるのであった。
南のおとゞにも、前栽つくろはせ給ひける折にしも、かく、吹き出でゝ、も
とあらの小萩、はしたなく待ちえたる、風のけしきなり。折れかへり、露もと
6
まるまじく、吹き散らすを、すこし端近くて、見給ふ。おとゞは、ひめ君の御
かたにおはしますほどに、中將の君、まゐり給ひて、ひんがしの渡殿の小障子
の上より、妻戸のあきたる隙を、なに心もなく、見入れ給へるに、女房の、あ
また見ゆれば、たちとまりて、音もせでみる。御屏風も、風のいたく吹きけれ
ば、おしたゝみ寄せたるに、見とほしあらはなる、廂の御座にゐ給へる人、も
のにまぎるべくもあらず、氣高く、清らに、さと匂ふ心ちして、春のあけぼのゝ
霞の間より、おもしろきかば櫻の咲きみだれたるを見る心地す。あぢきなく、
見たてまつるわが顔にも、うつりくるやうに、愛敬は匂ひちりて、またなくめ
づらしき、人の御さまなり。
* 南のおとゞ…南の町の 紫上の御殿。
* もとあらの小萩…根元(株)の まばらな小萩。
「もとあら」は、本荒・本疎。根元
のほうの葉がまばらなこと・一説に
木がまばらに生えていること
の意。古今、
恋四、読人不知「宮城野のもとあらの小萩露重み風を待つごと君をこそ待て」。
* はしたなく待ちえたる 風のけしきなり…並々でない
激しさで、吹いて来た
野
分の風の 様子である。
「はしたなし」は、端なし。1.中途半端だ・どっちつかず
だ・不釣合いだ。2.体裁が悪い・間が悪い・みっともない。3.つれない・無愛想
である・そっけない。4.雨風などが 激しい・並々でない
の意。「まちう」は、
待ち得。待ち迎える・待っていて手に入れる の意。
* 折れかへり
露もとまるまじく 吹き散らすを…繰り返し 繰り返し 少しも止み
そうにもなく 激しく 吹き散らすのを。
「つゆも」は、露も。1.下に打ち消しの
語を伴って、少しも・ちっとも。2.少しでも・ちょっとでも の意。
* 見給ふ…紫上が。
* おとゞ…源氏。
* ひめ君…明石姫君。
* 中將の君…夕霧。
* まゐり給ひて…紫上のおん方に お見舞いに。
* ひんがしの渡殿…東の方の
渡り廊下。
* 小障子の上(かみ)より…小さい衝立越しに。
* 妻戸のあきたる隙(ひま)を…「つまど」は、妻戸。端(つま)戸(と)の意。寝
殿造りで、寝殿や対屋の四隅にある、出入り口に設けた 外側に開く 両開きの板
戸。夜間など 廂と簀の子の境は、蔀で閉ざしてしまうので、妻戸によって、出入
りした。
* たちとまりて…夕霧は。
* おしたゝみ寄せたるに…折りたたんで 片隅に 寄せてあるので。
* ものにまぎるべくもあらず…余人に
紛れるべき筈もなく。
7
* さと匂ふ…香気が。
* おもしろきかば櫻の咲きみだれたる…趣の深い 樺桜の咲き乱れているのを。「か
ばざくら」は、樺桜。木の名。山桜の一種。「かには桜」、また「黄桜」とも。ばら
科。拾遺、春「浅みどり野べの霞はつゝめどもこぼれて匂ふ花桜かな」(「菅家万葉
集の中」と題して読人の名はない)
。
* あぢきなく…情けなくなる程に。下の「匂ひちりて」に懸かる。「あぢきなし」は、
味気無し。1.正常でなく乱れている・道理に反している・不当だ。2.甲斐がな
い・無益だ。3.面白くない・苦々しい・情けない
の意。
* うつりくるやうに…匂いが。
* 愛敬は匂ひちりて…紫上の
愛敬は
零れ出るので。
* またなくめづらしき…この上なく 珍しい。
* 人の御さまなり…紫上の ご器量なのである。
南の町の 紫上の御殿でも、お庭先の 植え込みの お手入れを させてい
らっしゃった 丁度その折に、このように 野分が 吹き出して、株元も ま
ばらな小萩が、激しさに 堪え切れない程に 吹く風の様子なのであった。繰
返し 繰返し 少しも 止みそうにも思わずに、激しく 吹き散らすのを、紫
上は、少し 端近くにいらっしゃって、御覧になっていらっしゃるのであった。
源氏の大臣は、明石姫君のお側に お渡りなされて、ご不在である折に、中将
君夕顔が、紫上方に お見舞いに 参上して、東の渡り廊下の 小さい衝立越
しに、妻戸の開いている隙間から、中を 何気なく 覗き込みなさると、女房
どもが 大勢見えるので、そこに立ち止まり、音も立てないようにして 眺め
るのであった。御屏風も、風がひどいので、押し畳んで、隅に 寄せてあるか
ら、すっかり 見通すことの出来る 廂の間の御座所に、座っていらっしゃる
人は、余人に 紛らうべき筈もない 御方紫上 その人、と 見えて、気高く、
清らかで、香気が、さっと 香って来るような感じがして、恰も、春の曙に 立
ち昇った霞の間に、美しい樺桜が、咲き乱れているのを 眺めているような心
地が、するのであった。どうしようもなく、こちらが 情けなくなる程 紫上
の愛敬は、零れ出るので、その美しさを、じっと 隙見している 自分の顔に
もまで、映って来るような 気がする程に、類いなく珍しい、紫上の ご容貌
なのであった。
御簾のふきあげらるゝを、人々おさへて、いかにしたるにかあらん、うち笑
ひたまへる、いと、いみじく見ゆる。花どもを、心ぐるしがりて、え見捨てゝ
入り給はず。御まへなる人々も、さまざまに、もの清げなる姿どもは、見わた
さるれど、目移るべくもあらず。おとゞの、いとけ遠く、はるかにもてなし給
8
へるは、かく、みる人、たゞには、え思ふまじき御有樣を、いたり深き御心に
て、「『もし、かゝることもや』と思すなりけり」と思ふに、けはひおそろしう
て、立ち去るにぞ、
* おさへて…御簾の裾の方を
押さえている。御簾や帳の裾を
犀の形をした金属製
の重しなどを置いて 押さえるのである。犀の形をした置物を「鎮帷犀」という。
壁代や御簾などが
* いと
風に吹き動かされないように その端に載せて重しとする。
いみじく見ゆる…紫上の様子は たいそう 美しく見られるのであった。
* 花どもを 心ぐるしがりて…花々のことを
* さまざまに
心配なされて。
もの清げなる姿どもは…色様々に 何と言うことなしに、美しげな姿
をしているのは。
* 目移るべくもあらず…夕霧が、目移りするべき筈もない。
* いとけ遠く
うに
はるかにもてなし給へるは…なるべく
間を遠ざけて
隔てを置くよ
お計らいなされたのは。
「けとほし」は、気遠し。1.人気がなくもの寂しい。
2.遠く隔たっている。3.よそよそしい・近寄り難い の意。「け」は、接頭語。
動詞・形容詞・形容動詞について、~のようだ・~も感じだ・何となく~だ
を表わす。け恐ろし・け劣る・けすさまじ・け高し
* かく
を
の意
など。
みる人 たゞには え思ふまじき御有樣を…このような具合に、見る人の心
動かさずにはおかないような 紫上の
おん有様でいらっしゃるのを。
* いたり深き御心にて…思慮深く 行き届いた 父源氏のお考えで。
* もし
上に
かゝることもや…万が一にも
このような 即ち 今日の夕霧のように
紫
心を動かすような 事でも あるとしたならば。
* けはひおそろしうて…自分の居る 辺りの様子が 恐ろしくなって。ここに居ては
ならぬのだ
風に
と 気が咎めたのである。
御簾の吹き上げられるのを、女房どもが、裾を
押さえているのであ
ったが、何かしたのであろうか、紫上が お笑いあそばされるのが、非常に 美
しく見えるのである。風に 花の散るのが、気がかりで、ようも 見捨てて、
奥に お入りなされないのである。お前に 侍うている女房たちも、いずれも、
とりどりに 綺麗な姿で居るのが 見渡されるのではあるが、紫上以外の女に、
夕霧の目が、目移りするようなことは、あるべくもないのであった。源氏大臣
が、紫上から、夕霧を なるべく遠ざけて、隔てを置くように お取り計らい
なされていたのは、この場合のように、紫上を、垣間見るような者は、誰も彼
も、皆、心を動かさずには 居られないような ご容姿でいらっしゃるのを、
思慮深く、行き届いた 父源氏の、慮りで、「『万が一にも、こういう事も あ
ろうか』と、お考えなされたからであろう」と、思うと、夕霧は、そのままそ
9
こに居るのも、そら恐ろしいような気がして、そっと
その時に、
立ち退きなさる、と、
西の御方より、内の御障子ひきあけて、わたり給ふ。
源氏「いと、うたて、あわたゞしき風なめり。御格子下してよ。男子どもある
らんを。あらはにもこそあれ」
と、きこえ給ふを、また、寄りてみれば、物きこえて、おとゞも、ほゝ笑みて、
みたてまつり給ふ。おやとも思へず、わかく清げに、なまめきて、いみじき、
御かたちのさかりなり。をんなもねびとゝのひ、あかぬことなき御樣どもなる
をみるに、身にしむばかりおぼゆれど、此(の)渡殿の格子もふき放ちて、た
てるところのあらはなれば、恐ろしうて、立ち退きぬ。いま參れるやうに、う
ち聲づくりて、簀の子の方に、歩みいで給へれば、
源氏「さればよ。あらはなりつらむ」
とて、
源氏「かの妻戸のあきたりけるよ」
と、いまぞ、みとがめ給ふ。「年頃、かゝることの、露なかりつるを、風こそ、
げに、巖も吹きあげつべきものなりけれ。さばかりの御心どもを、騒がして、
めづらしく、嬉しき目をみつるかな」と、おぼゆ。
* 西の御方…西の 明石姫君の御殿。
* 内の御障子…内部の襖。
* わたり給ふ…紫上の御許に
* いと
お渡りなされる。
うたて あわたゞしき風なめり…たいそう 酷い 騒がしい風のようでござ
いますよ。
「なめり」は、~であるようだ・~であると見える。断定の助動詞「なり」
の連体形「なる」+推量の助動詞「めり」=「なるめり」、その撥音便「なんめり」
、
その撥音「ん」の表記されない形。普通「なンめり」と
読む。この帖 最終ペー
ジ参照。
* 男子(をのこ)どもあるらんを…男たちが、見舞いに
* あらはにもこそあれ…これでは 如何にも
* また
寄りてみれば…夕霧が
* 物きこえて…何か
参るでありましょうに。
奥が 丸見えでは ありませんか。
また 寄って来て 紫上を 覗き見すると。
お話しなされて。
* みたてまつり給ふ…紫上のお顔を 御覧あそばしていらっしゃる。
* わかく清げに なまめきて
いみじき 御かたちのさかりなり…若々しく 美しく
優雅で、素晴らしい 男盛りの ご立派なご様子なのである。「きよげ」は、清げ。
1.さっぱりして
美しいさま。2.きちんとしている・整っている の意。「げ」
は、気。接尾語。形容詞の語幹(シク活用は終止形)
・形容動詞の語幹などに付いて、
10
いかにも~の様子である・~らしく見える
の意の形容動詞の語幹を作る。例、あ
さましげ・悪しげ・徒(あだ)げ・卑しげ・危ふげ・荒げ・愛(いち9しなげ・い
とほしげ・いぶせげ・いみじげ・後ろめたげ・艶げ・恐ろしげ・汚なげ・清げ・心
地よげ・心無げ・さうざうしげ・さがなげ・凄げ・鋭げ・頼もしげ・物しげ・物映
ゆげ・易げ・安げ・らうたげ・侘しげ・をかしげ・惜しげ など。
* ねびとゝのひ…お年に相応しい 色香を具えて。
「ねぶ」は、1.年をとる・老ける。
2.大人びる・ませる の意。
「ねびととのふ」は、成長し
心身ともに成熟する・
大人びる の意。
* あかぬことなき御樣どもなるをみるに…何一つ 足りない所のない
のに。「あかぬ」は、飽かぬ。満足しない
お姿のである
の意。
* 身にしむばかりおぼゆれど…身に染むばかりの感動を
覚えるのであったが。
* 此(の)渡殿の格子もふき放ちて…こちらの 渡り廊下の格子(蔀)も、風に
吹
き払われて。
* うち聲(こわ)づくりて…今
来たことを知らせる
咳払いをして。
* 簀の子…縁側。
* さればよ あらはなりつらむ…だから 言わないことはありませんよ。きっと
見
られてしまったことでしょうよ。
* かの妻戸のあきたりけるよ…あの 渡り廊下の妻戸が
開いていたのですよ。
* いまぞ みとがめ給ふ…今
思い出したように、ご注意なさる。
* かゝることの…このように
紫上を
* げに
拝見するような事は。
巌も吹きあげつべきものなりけり…なる程 風の力は、大岩のような
な警戒をも
取り除くことが
厳重
出来るものであったのだよ。
* さばかりの御心どもを…あれ程 用意の行き届いている紫上のお心を。
* 騒がして…大風が。
西の
明石姫君のおん許から
お戻りなされた源氏が、内側のおん襖を、引
き開けて、お入りなさる。源氏は、
「本当に、いやな風が、慌しく 吹き荒れますね。格子は、下ろしてしまっ
た方が よいでしょう。男どもが、見舞いに 参りましょうから。これでは
奥が 丸見えでございましょう」
と、紫上に 仰せになるのが 聞えて来たので、夕霧は、引き返して来て、ま
た 覗き見するのであったが、源氏大臣は、紫上に、何か お話をされて、微
笑まれて お顔を 御覧あそばされていらっしゃるのである。その様子は、全
く 夕霧の親とは 思えない位に、若々しく 美しく 優雅で、素晴らしい男
盛りの、ご立派な ご様子なのである。紫上も、すっかり 成人された色香を
具えて、何一つ、足らぬ所もない
お姿であるのに、夕霧は、身に染むばかり
11
の、深い感動を 覚えるのであったが、こちらの 渡り廊下の格子も、風に吹
き払われて、夕霧の 立っている姿が、見通しになったので、人に 見られる
のが、再び 恐ろしくなって、立ち退いて しまうのであった。そして、たっ
た今、お伺いしたかのように、咳払いをして、縁側の方に、歩みを 進めると、
源氏が、その姿を お目に止めて、
「だから 言わないことではありません。きっと、見られてしまった事でし
ょうよ」
と、仰って、更に、
「あの 渡廊下の妻戸が、開いていたのでしたよ」
と、今になって、お気が付いて、ご注意なされて いらっしゃるのであった。
夕霧は、「この長い年月、このように あの御方を、拝見することなど、全く な
かったのに、風こそは、本当に 厳重な警戒をも、取り除く力の あるものな
のだ。あれ程 用心をしていらっしゃる辺りを、お騒がせして、珍しくも 嬉
しい目を 見たのもかな」と、思うのであった。
2 夕霧
祖母を見舞う
紫上への思慕
人々、まゐりて、
男「いと、いかめしう吹きぬべき風に侍り」
男「うしとらの方より吹き侍れば、この御前は、のどけきなり」
男「馬場のおとゞ、南の釣殿などは、あやふげになん」
とて、とかく、事おこなひのゝしる。
源氏「中將は、いづこよりものしつるぞ」
夕霧「三條の宮に侍りつるを、
「風いたく吹きぬべし」と、人々の申しつれば、
おぼつかなさに、まゐり侍りつる。かしこには、まして心細く、風の音をも、
いまは、かへりて若き子のやうに、怖じ給ふめれば、心ぐるしさに、まかで
侍りなん」
と、申し給へば、
源氏「げに、はや、まうで給ひね。老いもていきて、又若うなること、世にあ
るまじき事なれど、げに、さのみこそあれ」
など、あはれがり聞え給ひて、
源氏「かく、さわがしげに侍めるを、
「この朝臣さぶらへば」と、思ひ給へゆ
づりてなん」
と、御消息きこえ給ふ。
12
* 人々…見舞いの。
* うしとら…丑寅(北東)
。
* 馬場(むまば)のおとゞ…馬場殿。
* 南の釣殿…花散里の住む南の御殿の
釣殿。
* あやふげになん…丑寅(北東)の方角に在るので、どうも危うげである。
* とかく 事おこなひのゝしる…何やかやと
風を防ぐ手立てを 構じながら
わい
わいと騒いでいる。「とかく」は、副詞。副詞「と」+副詞「かく」。1.あれやこ
れやと・なにやかやと・いろいろ。2.ややもすれば・ともすれば。3.なんにし
ても・いずれにせよ。4.下に打消しの語を伴って、どうにもこうにも・全く
な
どの意。
「ののしる」は、罵る。1.大声で言い騒ぐ・大騒ぎをする・わいわい言う。
2.喧しく音を立てる・声高く鳴く。3.盛んに評判が立つ・噂をする。4.勢力
が盛んである・威勢がよくなる・今を時めく。5.喧しく言う・悪し様に言う。6.
動詞の連用形の下に付いて、大声を上げて~・大騒ぎして~。例、遊びののしる・
歌ひののしる・言ひののしる・騒ぎののしる・泣きののしる・逃げののしる・響き
ののしる・誉めののしる・見ののしる・愛でののしる・呼ばひののしる・笑ひのの
しる
など。
* いづこよりものしつるぞ…何所から
こちら六条院に参ったのであるか。
* おぼつかなさに…父君のいらっしゃる 六条院の事が
心配で。「おぼつかなし」は、
1.はっきりしない・ぼうっとしている。2.気がかりだ・心配だ・不安だ。3.
よく分からない・疑わしい・不審だ。4.待ち遠しい・もどかしい
などの意。
* かしこには…あちら 三条宮には。
* まして心細く…昔にも まして 大宮は 気が お弱くて。
* かへりて若き子のやうに…年を取るのと反対に、幼い子供のように。
* 心ぐるしさに…大宮の事が
心配ですから。
* まかで侍りなん…また 三条宮に 帰ろうと 存じます。
* げに
はや まうで給ひね…大宮の恐ろしがるのを
お気の毒と言うのは なる程、
尤もな事である。早く 参上致しなさい。
* 老いもてゆきて また若うなること
世にあるまじきことなれど…年を取りながら
もう一度 若くなってしまう事など、世間には ある筈がないと思う事ではあるが。
* さのみこそあれ…老人は そのようになるものであるよ。
* あはれがり聞え給ひて…大宮を お気の毒がりなされて。
* かく
さわがしげに侍めるを…このように
野分が
吹き荒れておるような様子で
ございますが。「はべめり」は、「あめり」の丁寧語。(~で)あるようです・(~よ
うで)ございます。動詞「侍り」の連体形「はべる」+推量の助動詞「めり」=「は
べるめり」
、その撥音便「はべんめり」、その撥音「ん」の表記されない形。普通「は
べンめり」と 読む。この帖
最終ページ参照。
13
* この朝臣さぶらへば…この朝臣(夕霧)が
お付き添い 申し上げることでござい
ますから ご安心でしょう。
* ゆづりてなん…万事を 任せまして、私は 失礼致します。
「ゆづる」は、譲る。自
分の物・権利・地位などを、他人に与える・譲渡する
の意。
* 御消息きこえ給ふ…夕霧の伝言で お便りを 申し上げなさる。
家司が、駆けつけて来て、
「実に、猛烈に 吹き募りそうな
野分でございますなあ」
「内寅の方から 吹き付けますので、この御殿は まあまあ 安心でござい
ましょう」
「馬場の御殿や 南の釣殿は、丑寅の方でございますから、危のうございま
すよ」
と、何や彼やと、風を防ぐ手立てを 構じながら、わいわいと 騒ぎ廻ってい
るのであった。源氏は、
「中将(夕霧)は、どちらから ここ六条院に 参ったのですか」
と、お尋ねなさる。夕霧は、
「三条宮に 居りましたのですが、宮の人々が、「この風は、きっと 激しく
なりましょう」と、申しますので、父君の 六条院の事が、心配で、参上致
したのでございます。然しながら、あちらでは、昔にもまして、大宮は お
気が弱くなられて、風の音などにも、今では 年を取るのと反対に、却って、
幼い子供のように、怖がりなされるので、あちらが 気になりますので、ま
た、三条宮に、帰らせて頂きます」
と、申し上げなさるので、源氏は、
「なる程、その通りですよ。早く 大宮の許に、お帰りなさい。年を取るに
つれて、また 若くなるということは、世間に ある筈も無いことでは あ
るけれども、全く 老人というものは、そういう風に なるものですからね」
などと、大宮を お気の毒な、と お思いなされて、
「このように 風の吹き荒れそうな お天気でございますが、「この朝臣夕
霧が、お付き添い致しましたらば 安心」と、考えて、万事を任せ、私は 失
礼致します」
と、夕霧に、言伝を 托したのである。
道すがら、いりもみする風なれど。うるはしくものし給ふ君にて、三條の宮
と六条院とにまゐりて、御覽ぜられ給はぬ日なし。内裏の御物忌などに、えさ
らず籠り給ふべき日よりほかは、いそがしきおほやけごと、
・節會などの、暇い
るべく、ことしげきにあはせても、まづ、この院にまゐり、宮よりぞいで給ひ
14
ければ、まして、今日、かゝる空の氣色により、風のさきにあくがれ歩き給ふ
も、あはれに見ゆ。
* 道すがら…三条宮への 道の
途中で。
* いりもみする風なれど…荒れ狂う風に 揉まれてしまったが、無事に 三条宮に、
お帰りなされた。
「いりもむ」は、入り揉む・焦り揉む。A.自動詞として、1.激
しく揉む・風などが吹き荒れる。2.思いつめて気を苛立たせる・気を揉む。B.
他動詞として、是非にと願う・一心に祈る
の意。
* うるはしくものし給ふ君にて…夕霧は、何事も 礼儀正しく
几帳面に なさる君
なので。
「うるはし」は、麗し・美し・愛し。1.立派だ・美しい・壮麗だ。2.き
ちんとしている・端整だ。3.格式ばっている・本格的である・正式である。4.
親しい・仲がよい。5.由緒正しい・間違いない などの意。
* 御覽ぜられ給はぬ日なし…ご機嫌伺いを なさらぬ日とて、ないのであった。
* えさらず籠り給ふべき日…余儀なく
宿直を なさらなくてはならない日。「えさ
らず」は、え避らず。とても避けることが出来ない・逃れられない・止むを得ない
の意。
* いそがしきおほやけごと…多忙な 公事(政務)
。
* 節會…節日、祝儀などを行う日。元日・白馬・踏歌・端午・相撲・重陽・豊明など
の集会で 宴を賜わる。
* 暇いるべく…何かと 時間が必要な。
* ことしげきにあはせても…多用な折に かち合っても。
* この院…六条院。
* 宮よりぞいで給ひければ…三条宮より
宮中に参内なされるという風であったから。
* 風のさきにあくがれ歩き給ふも…激しい野分の 風より先に
何物も取り敢えず
大急ぎで あちこちと 歩き廻るのも。
「あくがる」は、憧る。魂が身から離れる・
上の空になる。2.心がひかれて、落ち着かない・思い焦がれる。3.居所を出て、
浮かれ歩く。さ迷い歩く。4.仲がしっくりせず離れる・疎遠になる などの意。
* あはれに見ゆ…いかにも 孝心深く
見えるのであった。「あはれ」は、A.感動詞
として、ああ。B.形容動詞として、1.しみじみと心を動かされる。2.しみじ
みとした情趣がある・美しい。3.寂しい・悲しい・辛い。4.可哀そうだ・不憫
だ・気の毒だ。5.可愛い・愛しい・懐かしい。6.情が深い・愛情が豊かだ。7.
尊い・優れている・見事だ
などの意。C.名詞として、1.しみじみとした感動。
2.悲哀・哀愁・寂しさ。3.感情・人情・好意 などの意。
三条宮に
お帰りなさる道々、夕霧は、荒れ狂う風に、揉まれながらも、無
事に お帰りなされた。夕霧は、何事も
15
礼儀正しく、几帳面に
なさる君で
あったから、常は、三条宮と六条院とに、参上して、祖母と父君、お二人の ご
機嫌伺いを なさらない日は 無いのであった。宮中の御物忌みなどで、止む
を得ず、宿直を なさらなくてはならない日を 除いては、忙しい公事や、節
会などで、何かと 時間も必要で、多用な折に かち合っても、先ず、この六
条院に お伺いし、その後に、三条宮に お廻りなされて、そこから、宮中に
参内なさるという風であったから、その 常にもまして、今日の このような
荒れた空模様であってみれば、風の先に、まず 何物も取り敢えず、大急ぎで、
あちこち 気を揉みながら、お見舞いに 歩き廻るのも、如何にも、孝心深く
見えるのであった。
宮、「いとうれしう、たのもし」と、待ち受け給ひて、
大宮「こゝらの齡に、まだ、かく騒がしき野分にこそ、あはざりつれ」
と、たゞ、わなゝきにわなゝき給ふ。大きなる木の枝などの折るゝ音も、いと、
うたてあり。
大宮「おとゞの瓦さへ殘るまじく、吹きちらすに、かくてものし給へる事」
と、かつはのたまふ。そこら、所せかりし御いきほひの、しづまりて、この君
をたのもし人におぼしたる、常なき世なり。いまも、大方のおぼえの薄らぎ給
ふことはなけれど、内の大殿の御けはひは、なかなか、すこし疎くぞありける。
* いとうれしう…見舞いを。
* たのもし…夕霧を。
* こゝらの齡に…この年齢に
なります迄に。
* わなゝきにわなゝき給ふ…震える上に 震えていらっしゃる。「わななく」は、戦慄
く。1.わなわなと震える・手足が震える・笛の音や声が震える。2.ざわざわと
動く・ざわめく。3.髪の毛がほつれる・ぼさぼさになる の意。
* うたてあり…ひどく 恐ろしいのである。
「うたて」は、A.副詞として、1.物事
が進むさま、ますます・ひどく。2.普通でないさま、異様に・怪しく・気味悪く。
3.嫌に・不快に・情なく・嘆かわしい。B.形容詞「うたてし」の語幹として、
気味が悪い・嫌だ・いとわしい。C.形容動詞として、ひどい・情けない などの
意。
* 吹きちらすに…吹き散らす
そんな折に。
* かくてものし給へる事…ようもまあ
このように、ご無事で
おいで下さいました
事。
* かつはのたまふ…恐怖に 震えながらも 仰せられる。
「かつは」は、且つは。副詞。
多く「かつは~かつは~」の形で、一方では・一つには・同時に の意。
* そこら 所せかりし御いきほひ…かっては
16
辺りに
所狭しと 盛んであった
夫
の左大臣が
在世当時の ご権勢。
「ところせし」は、所狭し。1.所が狭い・置場
所に困るほど いっぱいだ。2.心理的に
窮屈だ・気づまりだ。3.厄介だ・面
倒だ・扱い難い。4.辺り狭しと振舞っている・堂々としている・重々しい。5.
仰々しい・大袈裟だ などの意。
* しづまりて…衰微してしまって。
* この君…夕霧。
* 大方のおぼえの薄らぎ給ふことはなけれど…世間一般からの
信望が 薄らいでし
まった訳では ないのであるが。
* 御けはひ…母大宮へのお仕向けは。
* すこし疎(うと)くぞありける…少し 冷淡になっているのである。
大宮は、夕霧の見舞いを「たいそう嬉しく 頼もしい」と、お待ち受けなさ
れて、
「この年齢になります迄、まだ このような 激しい野分に 遭ったことは、
ございませんでしたよ」
と、ただ ただ 震えてばかりいらっしゃる。戸外で、大きな木の枝などの 折
れる音も、この上なく 物凄い、と お聞きなのである。大宮は、
「御殿の瓦までが、一枚残らず 吹き飛ばされてしまいそうな 風の勢いな
のに、よくもまあ、ご無事で おいでなされました」
と、恐怖の中にも、喜んで 仰せになる。かっては、辺り一面、所狭しと、あ
れほどに 盛んであったご権勢も、今では 衰微してしまって、ただ この夕
霧のみを、頼りになすっていらっしゃるのも、常無き浮世 と いうものであ
ろう。さりとて、世間からの 大宮への信望も、全く 薄らいだ訳でもないの
ではあるが、内大臣の この母に対する態度は、世の思えに反して、少し 冷
淡になっているのであった。
中將、夜もすがら荒き風のおとにも、すゞろにものあはれなり。心にかけて
戀しと思ふ人の御事は、さしおかれて、ありつる御面影の忘られぬを、「こは、
いかにおぼゆる心ぞ。あるまじき思ひもこそ添へ。いと、おそろしきこと」と、
身づから思ひまぎらはし、異事に思ひ移れど、なほ、ふと、おぼえつゝ、來し
かた・行くすゑ、ありがたくものし給ひけるかな。かゝる御なからひに、いか
で、ひむがしの御方、さるものゝ數にて、たち並び給へらむ。たとしへなかり
けりや。「あな、いとほし」とおぼゆ。まめやかなれば、似げなさを思ひよらね
ど、「さやうならん人をこそ、同じくは、見て明かし暮らさめ。かぎりあらむ命
の程も、いますこしは、かならず、延びなんかし」と、思ひ續けらる。
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* すゞろにものあはれなり…紫上の事が気に掛かるので
何という事なしに 心寂し
いのである。
「すずろ」は、漫ろ。1.何となく心が動くさま・漫然とそうなるさま・
当てもないさま・何となく~だ。2.むやみやたらである。3.予期しないさま・
思いがけないさま。4.理由のないさま・何の関係もないさま・用のないさま
な
どの意。
「すぞろ」
・
「そぞろ」とも。
* 心にかけて戀しと思ふ人…雲井雁。
* さしおかれて…一応 余所に置いておいて。そっち除けにして。
* ありつる面影のわすれられぬを…昼間 隙見した 紫上の御面影が、忘れられない
ままに。
* こは
いかにおぼゆる心ぞ…これは、何としても 考えずには いられない気持ち
なのであろうか。
* あるまじき思ひをもこそ添へ…あってはならない とんでもない料簡 即ち 紫上
に
手を出してしまうような考え も どうも 加わりそうである。
* 身づから思ひまぎらはし異事に思ひ移れど…自分自身で 他の事に
思いを紛らわ
せて、別の事に 思いを移すのではあったが。
* なほ
ふと
おぼえつゝ…それでも
やはり ひょっと 紫上の事が 思い出され
て。
* 來しかた・行くすゑ ありがたくものし給ひけるかな…過去にも 未来にも
あの
ように 美しいお方は、お有りになろうか。有り得まいよなあ。
* かゝる御なからひに…紫上も
父源氏も、美しい者同士の ご夫婦仲でいらっしゃ
るのに。
* いかで ひむがしの御かた
* さるものゝ數にて
…どうして 美人でもない 花散里の御方が。
たち並び給へらむ…人並みに 源氏の寵愛を受けて、肩を並べ
ていらっしゃれるのであろうか。
* たとしへなかりけりや…比べようにも とても 出来るものではない。「たとしへ
なし」は、譬へ無し。譬えようがない・比較しようがない の意。
* あな
いとほし…花散里が。
* おとゞの御心ばへを…花散里を 思い捨てる事をしない 源氏の 人情の深さを。
* ありがたしと思ひ知り給ふ…世に類のない事である
と 夕霧は 漸く お分かり
になる。
* まめやかなれば…真面目であるから。
* 似げなさを思ひよらねど…義母紫上に 懸想するなどという
怪しからぬ事は
思
い寄りもしないけれども。
「にげなし」は、似げ無し。つりあわない・相応しくない・
似合わない
の意。
* さやうならん人をこそ…あの紫上のような女性をこそ。
* 見て明かし暮らさめ…妻として 世話をして 一生を
18
送りたいものであるよ。
* かぎりあらむ命の程も…仮令
限りある命であるとしても、その命の程(寿命)も。
中将夕霧は、夜もすがら 荒れ狂う風の音を 聞きながらも、紫上の事が、
気にかかって、何という事なしに、心寂しいのである。心に掛けて 恋しいと
思うお方(雲井雁)のことは、そっち除けにして、昼間、垣間見た 紫上の御
面影ばかりが、忘れられないままに、夕霧は、「これは、何とした料簡なのであ
ろうか。このような有様では、道ならぬ とんでもない考えが、出て来るかも
知れない。ああ、恐ろしいことよ」と、自分自身で、他の事に 考えを 紛ら
わそうとして、別の事を 考えるようにするのであるが、それでも、なお ふ
っと、紫上の事が 浮んで来て、過去にも 未来にも、あのような 美しいお
方が、お有りなさるのであろうか、と 思うのであった。紫上も父源氏も、あ
のような、ご夫婦仲でいらっしゃるのに、どうして、美人でもない 東の御方
(花散里)が、源氏の寵愛を受けて、紫上と、肩を並べて おいでなのであろ
うか。紫上と花散里とでは 比べようにも 比べられたものでは 無いであろ
うに。「ああ、お可哀そうに」と、花散里を お思いなさるのであった。が、同
時に、源氏が、あの花散里を お思い捨てなさらずに、ああして お世話して
おいでなさる、その 人情の深さの、世に類のないことが、漸く お分かりに
なるのであった。夕霧は、もともと 人柄が、たいそう真面目であるから、義
母の 紫上に恋慕するなどと、怪しからぬ事は、思いも寄らない事 ではある
が、「自分も、あのような 美しいお方をこそ、同じ事ならば、妻として お世
話をして 一生を送りたいものだ。そうすれば、仮令 限りある寿命でも、も
う少しは、きっと、生き延びる事が 出来るであろうなあ」と、お考え続けな
さるのであった。
3 夕霧
花散里訪問
大宮の情報 内大臣評
曉がたに、風すこししめりて、村雨のやうに降り出づ。
人々「六条院には、離れたる屋ども、倒れたり」
など、人々申す。「かぜの吹きまふほど、ひろく、そこら高き心ちする院に、人々、
おはします御殿のあたりにこそ、しげゝれ、ひんがしの町などは、人少なにお
ぼされつらん」と、おどろき給ひて、まだほのぼのとするに、まゐり給ふ。み
ちの程、横ざま雨、いと、ひやゝかにふりいづ。空の氣色もすごきに、あやし
く、あくがれたる心ちして、「何事ぞや。又、我(が)心に、思ひ加はれるよ」
と、思ひ出づれば、いと似げなき事なりけり。「あな、物ぐるほし」と、とざま
かうざまに思ひつゝ、東の御方に、まづ、まうでたまへれば、おぢ困じておは
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しけるに、とかくきこえ、なぐさめて、「人召して、所々つくろはすべき」よし
など、いひおきて、みなみの御殿にまゐり給へれば、まだ、御格子もまゐらず。
* しめりて…静まって。
* ひろく そこら高き心ちする院に…邸も広く 建物の数も多く、棟も高いように思
われる六条院には。
* 人少なにおぼされつらん…警護の人間も 少なくて、心細く
お思いなされた事で
あろう。
* ほのぼのとするころ…夜明け前の 白々と
明けかかる頃に。
* まゐり給ふ…六条院に。
* ひやゝかにふり出づ…冷たく
降り出して来た。
* あやしく あくがれたる心ちして…不思議に 何故か
頻りに そわそわするよう
な気持ちがあして。
* 我(が)心に 思ひ加はれるよ…雲井雁を
ちが
恋い慕う自分の心に 紫上を慕う気持
加わったせいなのであろうか。
* いと似げなき事なりけり…全くそれは あられもない
夢のような事で あるので
あった。
* おぢ困じておはしけるに…怯え切っておいでであったから。
「おづ」は、怖づ。恐れ
る・怖がる
の意。
「こうず」は、困ず。1、悩む・苦しむ・困る。2.草臥れる・
体が弱る・病が重くなる の意。
* とかくきこえ なぐさめて…夕霧は、様々に お慰め申して。
* みなみの御殿…源氏と紫上の
* まだ
南の御殿。
御格子もまゐらず…まだ
御格子も お上げなさらずに
明け方に、風が、少し凪いで来ると、雨が、村雨のように
ある。人々が、
お寝み中であった。
降り出したので
「六条院では、離れの建物が 倒れたそうだ」
などと、口々に 申している。夕霧は、それを聞いて、「あの激しい風の 吹き
荒れた間に、敷地も広く 建物の数も多く 棟も 高いように思われる 六条
院の内では、源氏のおいでになる 東の御殿こそは、警備の者も 多く詰めて
いたであろうが、東の花散里の御殿などでは、さぞ 人少なで、心細く お過
ごしなされたのであろう」と、俄かに 気がかりに おなりなされて、まだ
白々と 明けかかる頃に、再び 六条院に 参上なさるのであった。道すがら、
横様の雨が、冷え冷えと お車の中に 吹き込んで来る。空の景色も 物凄い
のに、何故か 頻りに そわそわと 物に 憧れるような気分に なるので、
「どうした事であろうか。雲井雁を
慕う気持ちの中に、新しく
20
紫上を思う
気持ちが 加わった そのせいで あろうか」と、思い出してみると、紫上へ
の 恋慕の気持ちなど、全く、あられもない 夢のような事なのであった。「あ
あ、本当に 狂気の沙汰で あるよなあ」と、あれこれと、煩悶しながらも、
まづ 東の御方花散里のおん許に、お伺いなされて、すっかり 怯え切ってい
たっしゃるのを、様々に お慰め申し、家司の者を 召して、所々 繕うよう
に、言いつけて置いてから、南の御殿源氏と紫上のおん許に、お伺いなさると、
まだ、御格子も お上げなされていないのであった。
おはしますにあたれる勾欄におしかゝりて、見わたせば、山の木どもゝ、吹
き靡かして、枝ども、おほく折れ伏したり。くさむらは、更にもいはず、檜皮・
瓦、所々の立蔀・透垣などやうのもの、亂りがはし。日の、わづかにさし出で
たるに、うれへがほなる庭の露、きらきらとして、空は、いとすごく霧り渡れ
るに、そこはかとなく涙の落つるを、おし拭ひかくして、うちしはぶき給へれ
ば、
源氏「中將の、聲づくるにぞあなる。夜は、まだ深からんは」
とて、起き給ふなり。何事にかあらむ、きこえ給ふ聲はせで、おとゞ、うち笑
ひ給ひて、
源氏「いにしへだに、知らせたてまつらずなりにし、あか月の別れよ。いま、
ならひ給はむに、心ぐるしからん」
とて、とばかり語らひきこえたまふけはひども、いとをかし。をんなの御いら
へは聞えねど、ほのぼの、かやうに聞え戯れ給ふ、言の葉のおもむきに、「ゆる
びなき御なからひかな」と、きゝ居たまへり。
* おはしますにあたれる…源氏と紫上の ご寝所の 近い辺りに。
* 勾欄におしかゝりて…勾欄に、夕霧は、凭れ掛かって。
* 更にもいはず…言うまでもない。
* うれへがほなる庭の露…暴風の止んだ後も
まだ 心配しているように見える
庭
の露も。
* いとすごく霧り渡れるに…たいそう
物凄いように、一面に
霧が 広がっている
様子に。
* そこはかとなく涙の落つるを…雲井雁や 紫上の事を
思って 何と言う事なしに
悲しくなって、涙が 零れ出るので。「そこはかとなし」は、1.どこということも
ない・それとはっきりしない。2.はっきりした理由がない・とりとめもない
の
意。
* うちしはぶき給へれば…訪問の合図の 咳払いをされた所が。
* 聲づくるにぞあなる…殊更に
咳払いなどを しているようであるよ。「こわづく
21
る」は、声作る。1.わざと声をつくろう・作り声をする。2.相手の注意を引く
為に
わざと咳払いをする。3・殊更に 声を出す
の意。
「あなり」は、1.「な
り」が推定の場合…あるようだ。2.「なり」が伝聞の場合…あるそうだ・あるとい
うことだ・あるとかいう。動詞「有り」の連体形「ある」+伝聞・推定の助動詞「な
り」=「あるなり」
、その撥音便「あんなり」、その撥音「ん」の表記されない形。
「あンなり」と
読む。この帖 最終ページ参照。
* きこえ給ふ聲はせで…紫上の
お話しなさるお声は
聞えずに。
* いにしへだに…お若い時でさえも。
* 知らせたてまつらずなりにし…一度も
お味わいさせ申さずに
済ましてしまった。
* あか月の別れよ…暁の別れの味で ありますよ。
* いま
ならひ給はむに…今もし 暁の別れを 体験なさるとすれば。
* 心ぐるしからん…それは 貴女(紫上)にとっては
辛い事となりましょう。
* とばかり語らひきこえたまふけはひども…暫時 互いに 話り合っているらしいご
様子の。
「とばかり」は、副詞。副詞「と」+限定の意の副助詞「ばかり」。ちょっ
との間・暫く の意。
* ほのぼの かやうに聞え戯れ給ふ…仄かに、源氏と紫上が、このように、冗談など
を
仰せられる。
* 言の葉のおもむきに…お言葉の具合にも。
* ゆるびなき御なからひかな…水も漏らさない
親密な
ご夫婦の間柄なのであるよ。
「ゆるぶ」は、緩ぶ・弛ぶ。A.自動詞として。1.緩くなる・緩やかになる・締
りがなくなる。2.心がたるむ・油断する・怠る。3.寛ぐ・気持ちにゆとりが出
来る。B.他動詞として、1.緩くする・たるませる。2.気を許す・自由にさせ
る
の意。
* きゝ居たまへり…夕霧は。
源氏と紫上の、ご寝所の
前に当たる辺りの
勾欄に
寄り掛かって、辺り
を見渡すと、築山の木々は、吹き倒され、数知れぬ枝が、地に 折れ臥してい
るのであった。前栽の草は、言うまでもなく 乱れ散っており、桧皮や 瓦や
所々の立蔀や 透垣などと いったような物までが、乱雑に 散らばっている
のである。日の光が、僅かに 射して来たので、野分は、過ぎてしまったのに、
まだ 心配そうな顔をしている 庭の露が、きらきらと 輝いて、空には 物
凄い霧が、深く立ちこめている、そのような景色に、夕霧は、何という事もな
く、ただ 悲しくなって、涙が 零れるのを、そっと 拭い隠して、咳ばらい
をなさる、と 源氏が 聞きつけなされて、
「中将(夕霧)が、咳払いで、挨拶を しているらしいな。まだ 夜は深い
のであろうに」
22
と、仰って、お起きになる ご様子なのである。格子越しであるから、何を 仰
っていらっしゃるのであろうか、紫上のお声は 聞えて来ないけれども、ただ、
源氏大臣が、お笑になりながら、
「昔でさえ、ついぞ一度も、暁の別れの悲しさを、味わわせることは なか
ったのに、その 暁の別れですよ。今 ご経験なさるとは、お辛い事でしょ
うね」
と、暫く 語り合っていらっしゃるらしい お二人のご様子は、たいそう 優
雅である。紫上のご返事は、聞えないけれども、微かながら、このように 冗
談などを 仰せられるお言葉の様子にも、「水も漏らさぬような、お睦まじいお
二人の お間柄なのであるよ」と、夕霧は、耳を 傾けていらっしゃったので
ある。
御格子を、御手づからひきあげ給へば、けぢかきかたはら痛さに、たちのき
て、さぶらひ給ふ。
源氏「いかにぞ。昨夜、宮は、まち喜びたまひきや」
夕霧「しか。はかなきことにつけても、涙もろにものし給へば、いと、ふびん
にこそ侍れ」
と、申し給へば、わらひ給ひて、
源氏「いまいくばくもおはせじ。まめやかに、つかうまつり、見えたてまつれ。
内の大臣は、こまかにしもあるまじうこそ、うれへ給ひしか。人がら、あや
しう花やかに、をゝしきかたによりて、親などの御孝をも、いかめしきさま
をばたてゝ、人にも見驚かさむの心あり、まことにしみて、深きところはな
き人になん、ものせられける。さるは、心の隈おほく、いとかしこき人の、
すゑの世にあまるまで、才たぐひなく、うるさながら、人として、かく難な
き事は、かたかりける」
など、のたまふ。
* 御手づからひきあげ給へば…源氏は
ご自分の手で
* けぢかきかたはら痛さに…極く 近くに 侍うていた
お上げなさると。
その決まり悪さに。
* いかにぞ…どうであったか。
* 宮…大宮。
* まち喜びたまひきや…貴方(夕霧)を 待ち受けていて お悦びなされましたか。
* しか…左様でございました。たいそう お喜びで ございました。
* いまいくばくもおはせじ…大宮は、もう それほど、長いことはあるまいよ。
「いく
ばく」は、幾許。副詞。1.でれほど・どのくらい。2.多く「いくばくも」の形
で、下に打消しの語を伴って、それほど・いくらも
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の意。
* つかうまつり…孝養を お尽くしして。
* 見えたてまつれ…常に お会いなされよ。
* こまかにしもあるまじうこそ…実子でありながら 細かな事にまでも 行き届いた
情愛が ありそうにもない。「しも」は、副詞。副助詞「し」+係助詞「も」。1.
強意・・・それそのもの。2.とりたて・・・よりによって・~に限って。3.却
って・・・にも拘わらず、却って。4.必ずしも・・・必ずしも~ではない
など
の意。
* うれへ給ひしか…大宮は かって 愚痴を零して おいでであったが。
「うれふ」は、
憂ふ・愁ふ。1.不満や心の悩みを人に訴える・嘆願する。2.悲しむ・嘆く。3.
気づかう・心配する。4.病気になる などの意。
* 人がら…内大臣の。
* あやしう花やかに…不思議に
派手であって。
* をゝしきかたによりて…雄々しい所に 片寄って。細かい 目立たない事などには
身を入れないのである。
* 親などの御孝(けう)をも。
* いかめしきさまをばたてゝ…大袈裟な 目だった表面的な 事柄を
主にして。外
見の立派さを先にするのである。
* 人にも見驚かさむの心あり…人目を
驚かそうとする心はあるが。
* まことにしみて 深きところはなき人になん…心の底から しみじみと 親身にな
るといった
細かな情愛には
欠けている人で。
* ものせられける…元来、そういう お方でいらっしゃる。
* さるは 心の隈おほく…そうではあるけれども、心の奥には、秘策とか策略とかが
沢山あって。「こころのくま」は、心の隈。心の奥・心中の秘密 の意。
* いとかしこき人の…たいそう
賢明なお方で。
* すゑの世にあまるまで…末世である
末の世。だんだん下がって
では
今の代には、勿体無いほどの。「すゑのよ」は、
衰え穢れた世の意で、仏教から出た思想・末世。仏法
釋迦の入滅後、五百年を「正法の世」、次の千年を「像法の世」、その次の一
万年を「末法の世」と称した。
* 才たぐひなく…文才も本才も共に 比類なく 優れていて。
「もんざい」は、文才。
学問、特に 漢学・漢文の才。
「ほんざい」は、本才。役に立つ実際的な才能。政治
上の学問。また、芸能や儀式典礼などに関する才能。
* うるさながら…煩いものの。
* ためらひ侍る程になむ…お見舞いに 参上致しかねております。
源氏は、ご自分のお手で、御蔀を
お引き上げなされるので、夕霧は、余り
にもお近くに、侍うて居たことが、ばつが悪いから、つと
24
引き下がって、お
控えなさる。その 夕霧に向かって、源氏は、
「どうでしたか。昨夜は、大宮は、貴方を お待ちかねで、お悦びでありま
したか」
と、お尋ねになる。夕霧は、
「左様でございました。一寸致した事に つけましても、祖母大宮は、涙脆
くていらっしゃいますのが、とても お可哀そうでなりません」
と、ご返事申し上げる と、源氏は、同感らしく お笑いあそばして、
「大宮は、もう 決して 長くはありませんよ。ですから 今のうちに、ま
めまめしくお仕え申して、面倒を見て お上げなさい。「内大臣は、実子であ
りながらも、細かなことにまでは、行き届いた事は してくれない」と、大
宮が、かって 愚痴を零して おいででした。内大臣のお人柄は、妙に 華々
しい所があって、男性的な所が 多すぎ、親への 孝養などというような事
にも、外見の 立派さなどを 主にして、人目を 驚かそうとする気持ちが、
あって、心の底からの、しみじみとした、細かな情愛には、欠けていらっし
ゃるお方で、どうも いらっしゃるのですよ。然し、そうではありますが、
心の奥には、色々な考えも 多く、たいそう 賢明なお方で、末世 と言わ
れる現代には、勿体無い程に、文才も本才も、比類なく 優れていて、煩い
所は ありながら、人間として、内大臣程に、あのように
う事は、なかなか 難しい事なのですよ」
などと、仰せられる。
4 夕霧
秋好中宮を見舞い
欠点の無いとい
帰って源氏に復命する
源氏「いと、おどろおどろしかりつる風に、中宮に、はかばかしき宮司など、
さぶらひつらんや」
とて、この君して、御消息きこえたまふ。
源氏「夜の風の音は、いかゞ聞し召しつらん。吹きみだり侍りしに、おこりあ
ひ侍りて、いと、たへがたき、ためらひ侍る程になむ」
と、きこえ給ふ。中將、おりて、なかの廊の戸より通りて、まゐり給ふ。あさ
ぼらけのかたち、いと、めでたく、をかしげなり。ひむがしの對の南のそばに
たちて、御前のかたを見やり給へば、御格子、二間ばかりあげて、ほのかなる
朝ぼらけのほどに、御簾まきあげて、人々ゐたり。勾欄におしかゝりつゝ、若
やかなるかぎり、あまた見ゆ。うちとけたるは、いかゞあらむ、さやかならぬ
あけぐれのほど、色々なるすがたは、いづれともなくをかし。童べ、おろさせ
給ひて、蟲の籠どもに、露飼はせ給ふなりけり。紫苑・撫子、こき薄き袙ども
25
に、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四五人つれて、こゝか
しこの草むらによりて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあは
れげに吹(き)散らさるゝ枝ども、取りもてまゐる、霧のまよひは、いと、艶
にぞみえける。
* おどろおどろしかりつる風に…恐ろしく 吹き荒れた
野分の風でしたが。
* はかばかしき宮司など さぶらひつらんや…しっかりした 頼りになる 中宮職の
官人が 伺候して居ったでしょうか。
「はかばかし」は、果果し・捗捗し。1.すら
すらと捗るさま・てきぱきしている。2.際立っている・目だっている・はっきり
している。3.頼もしい・信頼出来る・しっかりしている の意。
「みやづかさ」は、
宮司。中宮職(ちゅうぐうしき)・春宮坊(とうぐうぼう)
・斎院・斎宮の職員。
* この君して…この夕霧を 使いに立てて。
* 御消息きこえたまふ…秋好中宮に。
* 吹きみだり侍りしに…野分が
吹き荒れておりました
その折に。
* おこりあひ侍りて…生憎 持病の風邪が 起こってしまいまして。
* いと たへがたき…たいそう 苦痛に 堪えかねておりますから
* おりて…辰巳(東南)の御殿にいらっしゃる 源氏の御前から下がって。庭を通り。
* なかの廊の戸より通りて…未申(西南)の中宮の御殿に行き
中宮方の寝殿と東の
対の、間の 廊下の戸口から(通って)上がって。「なかのらう」は、中の廊。建物
と建物とを結ぶ 屋根のある細長い渡り廊下。ここは
寝殿と東の対の間の廊であ
ろう。
* まゐり給ふ…秋好中宮の御殿に 参上なされた。
* あさぼらけのかたち…朝日を受けた
夕霧のお姿は。
* ひむがしの對…秋好中宮の御殿。
* 御前のかた…秋好中宮の寝殿の方。
「御前」は、貴人を称する代名詞。
* 二間…柱と柱との間を「間」という。二間は その間二つである。
* ほのかなる朝ぼらけのほどに…ほんのりとした 朝明けの中に
見る人もあらじと。
* 勾欄におしかゝりつゝ…簀子の勾欄。
* 若やかなるかぎり…若々しい
女房ばかりが。
* うちとけたるは…気を許して
打ち解けている姿は。
* いかゞあらむ…どのような物であろうか。
* さやかならぬあけぐれのほど…はっきりと見えない
「あけぐれ」は、明け暮れ。夜がまだ明けきらない
* 色々なるすがたは…様々に
明け方の薄暗い時分には。
薄暗い頃 の意。
寛いだ姿は。
* いづれともなくをかし…どれがどうということもなく、趣深いのである。
* 露飼はせ給ふなりけり…露を
与えていらっしゃるのであった。「かふ」は、飼ふ。
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動物に飲食物を与える・動物を飼う・飼育する の意。
* 紫苑(しをに)…薄紫で やや青味のある色。
* 撫子…淡い紅色。
* こき…濃い紫色。
* 薄き…薄い紫色。
* 女郎花…襲の色目、表黄色、裏青。七・八月の着用である。
* 時にあひたるさまにて…季節に合った 衣服の色合いで。
* 色々の籠(こ)どもを持てさまよひ…様々の 虫篭などを持ち あちこち歩きまわ
って。
「さまよふ」は、彷徨ふ。1.うろうろする・放浪する。2.心が定まらない・
うろい易く浮気である の意。
* 撫子などの
いとあはれげに吹(き)散らさるゝ枝ども…野分の風に 傷めつけら
れて、すっかり哀れな姿になってしまっている 撫子などの枝などを。
* 霧のまよひは いと 艶にぞみえける…霧の中に 見え隠れする情景は、たいそう
優艶に 見えるのであった。
「まよひ」は、迷ひ。1.迷うこと・思い悩むこと。紛
れること・混雑。3.紕ひ・・・髪の毛や糸・布などが 乱れること・ほつれる。
4.騒ぐこと・騒ぎ などの意。
更に、源氏は、
「たいそう 恐ろしく 吹き荒れた野分であったが、中宮のお側には、頼り
になる宮司など、伺候していたであろうか」
と、お気遣いして、この夕霧を、お使いに立てて、中宮へ、御消息を お差し
上げなさる。その御消息、
「昨夜の 嵐の音を、どのように お聞きなされましたか。あのように 酷
く 吹き荒れましたのに、生憎、風邪を引いて しまいまして、たいそう 辛
うございますので、お見舞いにも 参上出来かねて 居ります」
と、申し上げられるのであった。中将夕霧は、源氏の御前から下がって、中宮
の御殿の 中の廊下の 戸口から上がって、中宮の御殿に 参上するのであっ
た。あさぼらけの中を 行く 夕霧のお姿は、たいそう 優雅で、美しいので
ある。夕霧は、東の対の南側に、お立ち止まりになり、中宮の寝殿の方を、お
眺めになると、お蔀を 二間ほど上げて、ほのぼのとした 朝明けの中に、見
る人もあらじと、御簾を 巻き上げて、女房たちが、控えているのであった。
夕霧は、簀子の勾欄に 寄り掛かかりながら、若々しい 女房ばかりが、大勢
居るのを 見るのである。気を許して、すっかり 打ち解けた姿は、近くへ寄
ったならば、どうであろうか と 思うのであったが、定かには 見えない 朝
まだきの 薄暗い中では、さまざまの 寛いだ姿は、どれがどうという事もな
く、風情が
あるのである。中宮は、女童を、庭に
27
お下ろしなされて、篭の
虫に 露を 与えていらっしゃるのであった。女童どもは、紫苑や撫子の 濃
い紫や 薄い紫の袙の上に、女郎花の 汗衫などのような衣服を 着けて、今
の季節に 合った身なりで、四五人ぐらいで 連れ立って、此処彼処の草叢を
踏み分けて、様々の 篭などを持ち歩き、野分の風に、吹き荒らされて、みじ
めな様になってしまった、撫子の枝などを、折り取ってくるのが、霧の中に 見
え隠れする、その情景は、たいそう 優艶に 見えるのである。
吹(き)くるおひ風は、「紫苑ことごとに匂ふそらも、香のかをりも、ふれば
ひ給へる御けはひにや」と、いと、思ひやりめでたく、心げさうせられて、立
ち出でにくけれど、忍びやかに、うち音なひて、あゆみ出で給へるに、人々、
けざやかに驚き顔にはあらねど、みな、すべり入りぬ。御まゐりのほどなど、
童なりしに、いりたち、なれ給へれば、女房なども、いと、け、うとくはあら
ず。御消息啓せさせ給ひて、宰相の君・内侍など、けはひすれば、わたくし事
も、しのびやかにかたらひ給ふ。これ、はた、さいへど、氣高く住みたる、け
はひ・有樣をみるにも、さまざまに、もの思ひ出でらる。
* 吹(き)くるおひ風…夕霧の後を追って、吹き渡る追風は。下の「思ひやりめでた
く」に続く。「おひかぜ」は、追風。後を追って来る風 の意。後撰、恋三、兼覽王
「今はとて行きかへりぬる声ならば追ひ風にても聞えましやは」
。順風をも追風とい
い、「吹き込む風」の意もある。伊勢集「おひ風の我が宿にしも吹き来ずば居ながら
空の花を見ましや」。
* 紫苑(しをに)ことごとに匂ふそらも…特別に 匂わない 紫苑の花でも、ありっ
たけ
匂っている
その匂いまでも。「匂ふそら」は、「匂ふすら」である。
「匂」は、
香には薫 色には光沢 をいう。
* 香のかをり…匂って来る 薫香の薫。
* ふればひ給へる御けはひにや…中宮が 香を薰き染めた御衣を お触れなされた
その移り香を 伝えるように吹くのであろうか。
「ふればふ」は、触ればふ。1.繰
り返し触れる。2.関係を持つ の意。
* 思ひやりめでたく…思いやるのも 格別に
* 心げさうせられて…夕霧は
奥床しくて。
すっかり緊張してしまって。「こころげさう」は、心化
粧。相手を意識して 気をつかうこと・緊張すること・心配り の意。
* 忍びやかに
うち音なひて…小声で
忍ぶように お声を お掛け申し上げて。
「おとなふ」は、音なふ。1.音をたてる・響く・鳴く。2.訪れる・訪ねる。3.
手紙を出す・便りをする の意。
* けざやかに驚き顔にはあらねど…目だって
驚いた様子ではないけれども。
「けざや
か」は、鮮やかなさま・はっきりしているさま の意。
28
* すべり入りぬ…奥へ にじり入って
* 御まゐりのほど…秋好中宮の
おしまいなされる。
ご入内の折。
* 童なりしに…夕霧は。
* いりたり なれ給へれば…秋好中宮の 御簾の内にも
入りこんで、馴染んでいら
っしゃった事であったから。
* けうとくはあらず…あまり
疎遠ではない。「けうとし」は、気疎し。親しみにくい・
馴染めない・疎ましい。2.人気がない・恐ろしい・気味が悪い。3.素晴らしい・
たいしたものだ などの意。「け」は、接頭語。動詞・形容詞・形容動詞に付いて、
~の様子である・~の感じだ・何となく~だ の意を表す。例、け恐ろし・け劣る・
け短し・けすさまじ・け高し
など。
* 宰相の君・内侍…共に 女房。夕霧の知己でもある。
* わたくし事も…夕霧の 個人としての用事も。
* これ
いと
はた
さいへど…これはこれとして、人はまた、そう
紫上は 類なく美し
は 言うけれども。
* 氣高く住みたる けはひ・有樣をみるにも…秋好中宮が 何事にも
く
お暮らしでいらっしゃる
* さまざまに
その状況や生活ぶりを
もの思ひ出でらる…様々な事
上品に
気高
拝見するにつけても。
即ち 紫上・雲居雁などの事 が 思
い出されるのである。
夕霧を追って 御殿の方から 吹いて来る風は、「香りのない 紫苑の花も
悉くが 匂うような その匂いも、また、匂って来る 練香の薫も、どれも、
中宮が、香を薰き染めた御衣を お触れなされた、その 移り香なのであろう
か」と、想像されるのも、まことに 奥床しくて、夕霧は、胸をときめかせて、
立ち出で難いのではあるが、そっと、小いさく お声を 掛けて、歩み出てい
らっしゃると、控えていた 女房たちは、格別に 驚いたふうは しないけれ
ども、皆、奥に すべり入って しまうのであった。秋好中宮が、ご入内の折
には、夕霧は、まだ 幼い童であって、中宮の 御簾の内にも 這入り、馴染
んでいらっしゃった ことであったから、女房たちも あまり 疎遠では な
いのであった。夕霧は、中宮に、源氏からの御消息を、言上されてから、もと
からの知己である 宰相の君や 内侍といった女房が、居るらしいので、それ
らの女房と、暫く、小声で 内輪話をなさる。此方は 此方で、また、そうは
言うけれども、気高く 暮らしていらっしゃる、その状況や 暮らし振りを、
見るにつけても、紫上や雲井雁のことが 様々に 思い出されるのであった。
みなみのおとゞには、御格子まゐりわたして、昨夜、見捨てがたかりし花ど
もの、ゆくへも知らぬやうにて、萎れふしたるを、み給ひけり。中將、御階に
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ゐ給ひて、御返(り)きこえ給ふ。
夕霧「
「あらき風をも、ふせがせ給ふべくや」と、わかわかしく、心細くおぼ
え侍るを。いまなむ、なぐさみ侍りぬる」
と、きこえ給へれば、
源氏「あやしく、あえかにおはする宮なり。女どちは、もの恐ろしかりぬべか
りつる、夜のさまなれば、げに、おろかなりとも、おぼいつらん」
とて、やがて、參り給ふ。
* 御格子まゐりわたして…御蔀を こちらから 向こうまで 全部上げて。
* 見捨てがたかりし…お見捨てなり難かった。
* ゆくへも知らぬやうにて…美しさは
全く
どこへ行ってしまったのか、跡形もな
いように。
* み給ひけり…光景を 眺めていらっしゃるのであった。
* 御階(みはし)にゐ給ひて…寝殿の正面の
階段の所に 来ていらっしゃって。
* 御返(り)…秋好中宮からの。
* ふせがせ給ふべくや…吹き荒れる風を 防いで下さいませぬか。
* わかわかしく 心細くおぼえ侍るを…子供のように
心細く
思っておりましたの
に。
* いまなむ…只今 お便りを
頂戴致しまして。
* あやしく あえかにおはする宮なり…本当に、中宮は、妙に お気の弱いお方です。
「あえか」は、如何にも弱々しい・繊細だ・きゃしゃだ の意。
* げに
おろかなりとも おぼいつらん…本当に その通り、お見舞いもしない
の私を、冷淡だと
こ
思し召しなされた事であろう。「おろか」は、疎か・愚か。1.
粗略だ・いい加減だ・並み一通りだ・なおざりだ。2.それでは言い尽くせない・
十分に表わしきれない。3.おろかだ・頭や心の働きが鈍い。4.未熟だ・劣る な
どの意
* やがて 參り給ふ…直ぐに
中宮方に お見舞いにお伺いなさる。
中将が、帰って来ると、南の御殿では、お蔀を 全て上げて、昨夜、お見捨
てに なりにくかった 美しい花々が、跡形も無いように、萎れ 伏している
光景を、お二人で 御覧になっていらっしゃる。中将は、寝殿の正面の 御階
段の所に 畏まって、秋好中宮からの ご返事を、言上なさる。
「「此方にいらっしゃって、吹き荒れる風を、防いで下さりませぬか」と、子
供のように、心細く 思っておりましたが。只今の お便りで、漸く 胸も
治まりました」
と、口頭で申し上げる、と
源氏は、
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「本当に、中宮は、妙に お気の弱い お方ですね。女ばかりで、そら恐ろ
しく お思いであったに 違いない、昨夜の様子であったから、本当に、お
見舞いもせぬ この私を、冷淡であるよ、と お思いなされた事であろう」
と、仰って、直ぐに、お見舞いに お伺いあそばされるのであった。
御直衣などたてまつるとて、御簾ひきあげて、入りたまふに、みじかき御几
帳ひきよせて、はつかに見ゆる御袖口、「さにこそはあらめ」と思ふに、胸「つ
ぶ、つぶ、つぶ」と鳴る心地するも、うたてあれば、ほかざまに、見やりつ。
との、御鏡など見たまひて、忍びて、
源氏「中將の朝げの姿は、きよげなりな。たゞ今は、きびはなるべきほどを、
かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや」
とて、わが御顔は、「古りがたく、よし」と、見給ふべかめり。いといたう、心
げさうし給ひて、
源氏「宮にみえたてまつるは、恥づかしうこそあれ。何ばかり、あらはなる故々
しさも見え給はぬ人の、おくゆかしく、心づかひせられ給ふぞかし。いと、
おほどかに、女しきものから、氣色づきてぞおはするや」
とて、出で給ふに、中將、ながめ入りて、とみにも驚くまじきけしきにて、ゐ
給へるを、心疾き人の御目には、いかゞ見給ひけむ、立ちかへり、女君に、
源氏「昨日、風のまぎれに、中將、見たてまつりやしけん。かの戸のあきたり
しによ」
と、のたまへば、おもてうち赤みて、
紫上「いかでか、さはあらむ。渡殿のかたに、人の音もせざりしものを」
と、きこえ給ふ。
源氏「なほ、あやし」
と、ひとりごちて、わたり給ひぬ。み簾のうちに入(り)給ひぬれば、中將、
渡殿の戸口に、人々のけはひするによりて、ものなど言ひたはぶるれど、おも
ふことのすぢすぢ、なげかしくて、例よりもしめりて居給へり。
* 御直衣などたてまつるとて…御直衣などを、お召しなさるというので。今、源氏は
内々であるから 下襲のままである。中宮へお見舞いに行くというので 直衣を着
用するのである。
* みじかき御几帳…丈の低い御几帳。
* ひきよせて…引き寄せてあるから。
* はつかに見ゆる御袖口…その
みじかき御几帳の 端から ほんの
少しばかり
零れて見られる御袖口。
「はつか」は、僅か。僅かなさま・なすか・ほんのり
* さにこそはあらめ…如何にも
その袖口の主は 紫上なのであろう。
31
の意。
* つぶ
つぶ
* ほかざまに
つぶ…どき どき どき。
見やりつ…わざと 外の方に
* きよげなりや…我が子ながら
目をやって 余所見をしている。
美しいね。
* きびはなるべきほどを…子供じみている筈の 年頃ではあるが。夕霧は十五歳。
「き
びは」は、幼くて弱々しいさま・幼少だ の意。
* かたくなしからず見ゆるも…野暮ったくないように
見えるのも。
「かたくなし」は、
頑なし。1.融通が利かず頑固である・強情だ。2.見苦しい・みっともない
の
意。
* 心の闇にや…子を思う 親の心というものでしょうか。即ち、親の贔屓目というも
のであろうか。
* 古りがたく
よし…何時までも 美しい。
* 見給ふべかめり…御覧になって いらっしゃるらしいのである。
「べかめり」は、~
に違いないようである・~筈のようだ の意。助動詞「べし」の連体形「べかる」
+推量の助動詞「めり」=「べかるめり」
、その撥音便「べかんめり」
、その撥音「ん」
の表記されない形。普通「べかンめり」と
* 心げさうし給ひて…心遣いを
読む。この帖、最終ページ 参照。
即ち 緊張なされて。
* みえたてまつるは…お目にかかり 申し上げるのは。
* あらはなる故々しさも見え給はぬ人の…表に出て 目に付くような
所も
由緒ありげな
お見えなさらぬお方であって。
「ゆゑゆゑし」は、故故し。いわれがありそう
だ・品格があって重々しい・優雅である の意。
「さ」は、接尾語。形容詞の語幹(シ
ク活用は終止形)
・形容動詞の語幹に付いて、程度・状態の意を表す名詞を作る。例、
危ふさ・いみじさ・憂さ・悲しさ・口惜しさ・心もとなさ・尊さ・露けさ・つれな
さ・ねたさ・はしたなさ・ゆかしさ・わびしさ・らうたさ・わびしさ・わりなさ・
をかしさ など。
* 心づかひせられ給ふぞかし…御前では 自然に、此方が 気遣いを
させられる
そんなお方でございますよ。
「かし」は、A.終助詞として、1.念を押す・・・~
よ・~ね。2.強め・・・~よ。B.副助詞として、強め・・・~よ の意。
* 女しきものから…女らしいお方ではありますが。
「をんなし」は、女し。女らしい
の
意。
* 氣色づきてぞおはするや…何か 胸に一物
お持ちのようでいらっしゃいますよ。
「けしきづく」は、気色付く。1.前もってそれらしい様子が現れる・きざす。2.
何かありそうな様子が見える
の意。
* ながめ入りて…物思いに 耽っていて。
「ながむ」は、眺む。1.物思いに沈んでぼ
んやりと見る・物思いに耽る。2.見渡す・じっと遠くを見る の意。
* とみにも驚くまじきけしきにて…源氏のお出ましにも、直ぐには お気づきなさら
ない様子で。
32
* 心疾き人…察しの良い人 即ち源氏。
「心とし」は、心疾し。察しがよい・機敏であ
る
の意。
* 風のまぎれに…野分の騒ぎに
紛れて。
* 見たてまつりやしけん…貴女(紫上)を 垣間見たのでは ございませんか。
* かの戸のあきたりしによ…あの妻戸が 開いていたからね。
* いかでか さはあらむ…どうして そのような事 夕霧が 紫上を垣間見たような
事
が ありましょうか。見られてはいませんよ。
* 人の音もせざりしものを…人の足音も しませんでしたのに。源氏と紫上の御殿で
は、渡殿の東面の格子は 風に吹き飛ばされていたので、渡殿に上がらなくても 夕
霧には、外から 内部が 見えたのである。
* なほ
あやし…紫上が どう言おうとも 源氏には
やはり
夕霧の様子が
不審
なのである。
* わたり給ひぬ…中宮の御殿に。
* み簾のうちに入(り)給ひぬれば…中宮の御簾の内に
源氏が、お入りなされたの
で。
* 中將…源氏の供をして来た
中将は。
* 渡殿…中宮方の。
* ものなど言ひたはぶるれど…女房たちに 冗談を言ったりなさるけれども。
* おもふことのすぢすぢ なげかしくて…悩む事の あれこれが、嘆かわしくて。
* 例よりもしめりて居給へり…いつもより しんみりと
していらっしゃるのであっ
た。
「しめる」は、湿る。1.水に濡れる・湿っぽくなる。2.風雨などが静まる・
おさまる。火勢が衰える・火が消える。4.物思いに沈む・しんみりする。5.落
ち着きがある・もの静かである などの意。
中宮の御方に、お見舞いに お伺いなさる その為に、源氏は 御直衣など
を、お召しになられるというので、階段の簀の子から、御簾を 引き揚げて、
奥に お入りなさる その時に、引き寄せた 丈の低い 御几帳の端から、ち
らりと 見えた袖口は、「ああ、きっと あのお方のものであろう」と、思うと、
胸が、「どき どき どき」と 高鳴るのも、たまらない 気がするので、夕霧
は、わざと 外の方に、目をやって、余所見をするのであった。源氏は、御鏡
などを 御覧あそばして、
「中将の 朝の姿は、我が子ながら、綺麗でしたね。夕霧も、今はまだ、子
供じみているべき筈の 年頃ではありますが、野暮ったく 愚かしくは、見
えないのは、親の贔屓目と いうもので ありましょうか」
などと、仰せられて、ご自分のお顔も、「何時までも 美しいな」と、御覧の様
子である。たいそう
いたく
お心をお遣いなされて、紫上に、
33
「中宮に お目通りするのは、気後れいたしますよ。中宮は、特に これと
いって、表に出て 目に付くような 由ありげな所も ございませんのに、
何となく、奥床しくて 御前では、何かと 気遣いしなくては ならないよ
うな そのようなお方ですよ。たいそう 鷹揚でいなさって、女らしい感じ
ではありますが、お胸に しっかりした物を、お持ちのようで いらっしゃ
いますよ」
と 仰って、お出になられる。と、中将が、物思いに 耽って、直ぐには お
気づきなされない様子で、座っていらっしゃるので、察しのよい 源氏のお目
には、どのように お映りなされたのであろうか、其処から 引き返して、紫
上に、
「昨日、風の騒ぎに、夕霧は、貴女を 垣間見たのではございませんか。あ
の妻戸が、開いていましたからね」
と、仰せになるので、紫上は、お顔を 赤らめて、
「どうして そのような事が ございましょう。渡殿にには、人の足音も、
致しませんでしたもの」
と、ご答え申し上げなさる。然し 源氏は、
「やはり、変ですよ」
と、独り言を おっしゃって、中宮の御殿に、お渡りなされるのであった。源
氏が、中宮方の 寝殿の御簾の内に お入りなされたので、お供をしていた夕
霧は、渡殿の戸口の方に、女房たちが 控えている気配が したので、そちら
に 近寄って、冗談を 交わしたりするのであったが、悩むことの あれこれ
が、嘆かわしくて、いつもよりも、しんみりと していらっしゃるのであった。
5 明石上の庭 源氏
玉鬘を愛撫 夕霧 盗み見
こなたより、やがて北に通りて、明石の御方をみやり給へば、はかばかしき
家司だつ人なども見えず、なれたる下仕へどもぞ、草の中にまじりて歩く。わ
らはべなどをかしき袙すがたうちとけて、心とゞめ、とりわき植ゑたまふ龍膽、
あさ顔の這ひまじれる笆も、みな、散り亂れたるを、とかくひき出で、たづぬ
るなるべし。ものゝ、あはれにおぼえけるまゝに、筝の琴をかきまさぐりつゝ、
端近うゐたまへるに、御さき追ふ聲のしければ、うちとけ、なえばめる姿に、
小袿ひきおとして、けぢめ見せたる、いといたし。端のかたに、ついゐ給ひて、
風の騒ぎばかりを、とぶらひ給ひて、つれなく立ち歸り給ふ、こゝろやましげ
なり。
明石上
おほかたに荻の葉過ぐる風の音も憂き身ひとつにしむ心ちして
34
と、ひとりごちけり。
* こなた…秋好中宮の御殿。
* 北に通りて…北の方に 通り抜けて。
* はかばかしき家司だつ人なども見えず…荒れてしまった庭には、これといった
家
司らしい者も 見えず。
「だつ」は、接尾語。名詞・形容詞の語幹(シク活用は終止
形)
・形容動詞の語幹などに付いて、~のようになる・~らしく見える の意の動詞
を作る。例、あやにくだつ・後ろ見だつ・うるはしだつ・艶だつ・大人だつ・懸想
だつ・気色だつ・野分だつ・はかなだつ・聖だつ・田舎だつ
など。
* 草の中にまじり歩(あり)く…草の中を 分け歩いている。
* をかしき袙すがたうちとけて…汗衫も着ないで、美しい袙姿に 寛いで。
「袙(あこ
め)
」は、1.男子が束帯直衣を着ける時に、下襲と単衣の間に着る衣服。綾の地で
裏は平絹、色は表裏共に紅、但し 年齢により色が違い 壮年は萌黄や薄色、老人
は白を着た。2.女性や童女が、肌近くに着た衣服。童女は汗衫の下に着るが
こ
れを表着にすることもあった。
* 心とゞめ…心を込めて。
* とりわき植ゑたまふ…特別に
お植えになられた。
* あさ顔…桔梗。朝美しく咲くのでこのように呼んだもの。字鏡の草の部に「桔梗 阿
佐加保、又 岡止止支(をかとゝき)」とし
天治本字鏡にも「桔梗
ある。山上憶良の秋の七草の旋頭歌にも「…又、藤袴
阿佐加保」と
朝顔の花」
(万葉八)があり
また「朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」
(万葉十)などと
あるのは、今日の朝顔ではない。木槿や牽牛子花も
朝顔と呼ばれた。ここは
桔
梗である。
* 這ひまじれる笆も…倒されて、地面に這って まつわっていている笆垣も。
* とかくひき出で…あれこれと、引き出して。
* たづぬるなるべし…何か 探しているのであろう。
* ものゝ あはれにおぼえけるまゝに…明石上は、周辺の情況に 悲愁の感を
催さ
れるままに。
* かきまさぐりつゝ…弾き弄びなされながら。
* うちとけ なえばめる姿に…寛いで
気を許して 糊の気の失せていた 下襲だけ
の姿の上に。
「なえばむ」は、萎えばむ。衣服などが、着慣れて柔らかくなる・着慣
れてよれよれになる の意。「ばむ」は、接尾語。前出。
* 小袿
ひきおとして…小袿を
衣桁から 引き下ろして。
「小袿」は、高貴な女性の
日常服。裳や唐衣を着ない時に 上に打ちかけて着た上着。下に着る袿より
少し
短く仕立ててある。表は浮織物 裏は平絹。
* けぢめ見せたる…物のけじめを 示した態度は。普段着と 源氏の来訪を迎えるの
35
に
敬意を失わない事の。
* いといたし…本当に 殊勝である。
「いたし」は、甚し。程度が甚だしい・激しい。
2.非常によい・素晴らしい
* 端のかたに
の意。
ついゐ給ひて…源氏は、端近くに そのまま一寸 居りなされて。
「つ
いゐる」は、突い居る。
「つきゐる」のイ音便。1.かしこまって座る・ひざまずく。
2.ちょっと腰を下ろす の意。
* とぶらひ給ひて…お見舞いなされて。
「とぶらふ」は、訪ふ。訪れる・見舞う の意。
* つれなく立ち歸り給ふ…そっけなく
お帰りになられるのが。「つれなし」は、1.
冷淡だ・冷ややかだ・余所余所しい。2.そ知らぬ顔だ・さりげない。3.関心が
深くない・平気だ。4.何の変化もない・元のままだ
などの意。
* こころやましげなり…明石上は ご不満気である。
* おほかたに…野分の大風ではなくて
辛い我が身一つにだけには
ごく普通に
荻の葉の上を渡る風の音でも、
染み込む気がして、寂しくもあり 悲しくもあるので
す。
こちら 秋好中宮の御殿から、源氏は、そのまま 北の町に 通り抜けて、
明石上の御殿の方を お眺めになられる、と、荒れてしまった庭には、これと
いって 気の利いた家司などの姿もなく、使い馴れた 下仕えの者どもが、草
の中を 踏み分けて 歩いているのである。女童などは、上着の汗衫も着ない
で、美しい袙を 着たままの姿で、気を許して 寛ぎ、明石上が、格別に 丹
精して お植え置きなされた 龍膽や桔梗などが、昨夜の風に、地面に 倒さ
れて、まつわりついている笆垣も、みな、散々に 乱れているのを、その女童
たちが、兎に角も 引き出だしては、何か 捜し物を しているらしいのであ
る。明石上は、野分の後の、荒れた情況が、自然と もの悲しく、お感じなさ
れるままに、筝の琴を 弾き弄びなされながら、端近くに いらっしゃったけ
れども、源氏の、先を追う御前駆の声が、聞えたので、寛いで 気を許し 糊
の気の失せた 下襲だけでいらっしゃった、そのお姿の上に、小袿を、衣桁か
ら外して、お召しになり、物のけじめを お付けあそばされた その殊勝な お
心がけ、ご立派である。源氏は、端近の所に、そのまま一寸 いらっしゃって、
風のお見舞いだけを 仰せられて、そっけなく お帰りなされるのが、明石上
には、何とも 恨めしい気がするのである。それで、
野分の大風ではなく ただ何となしに 荻の葉を渡る ありきたりの風
の音さえも 辛い我が身一つにだけ 染み入るような 心地が致しまし
て 寂しいかぎりでございます
と、独り言を お漏らしなさるのであった。
36
西のたいには、おそろしと思ひあかし給ひける名殘に、ねすぐして、いまぞ、
鏡など見給ひける。
源氏「ことごとしく、先な追ひそ」
と、のたまへば、殊に音せで、いり給ふ、屏風なども、みな、たゝみよせて、
物しどけなくしなしたるに、日の、花やかにさし出でたるほど、けざけざと、
もの清げなるさまして、ゐ給へり。ちかくゐたまひて、例の、風につけても、
おなじすぢに、むつかしう聞え戯れ給へば、「たへず、うたて」と思ひて、
玉鬘「かう、心憂ければこそ、今宵の風にも、あくがれなまほしく侍りつれ」
と、むつかり給へば、いとよく、うち笑ひて、
源氏「風につきて、あくがれ給はむや、かるがるしからむ。さりとも、とまる
方、ありなむかし。やうやう、かゝる御心向けこそ添ひにけれ。ことわりや」
と、のたまへば、「げに、うち思ひのまゝに、聞えてけるかな」とおぼして、身
づからも、うち笑み給へる、いとをかしき、色あひ・つらつきなり。ほほづき
などいふめるやうに、ふくらかにて、髮のかゝれるひまひま、美しうおぼゆ。
まみの、あまり、わららかなるぞ、いとしも品高く見えざりける。そのほかは、
つゆ、難つくべくもあらず。
* 西のたい…花散里の御殿の
西の対。
* おそろしと思ひあかし給ひける名殘に…玉鬘が、一晩中 恐ろしくお思いで、夜を
明かしなされた その影響で。
* 鏡など見給ひける…鏡に向かって 朝の身嗜みなどをなされていらっしゃる。
* ことごとしく…あまり大袈裟に。
* たゝみ寄せ…片隅に 畳んで
寄せて。
* 物しどけなくしなしたるに…調度など 乱雑にしてある所に。「しどけなし」は、1.
雑然としている・乱れている・しまりがない・だらしない。2.無造作である・ゆ
ったりしている・打ち解けたようす
* けざけざと
などの意。
もの清げなるさまして…玉鬘は、目が覚める程に、際立って お綺麗
なご様子で。
「けざけざ(と)」は、副詞。際立ってはっきりしているさま・くっき
り・あざやかに の意。
* ゐ給へり…座っていらっしゃる。
* ちかくゐたまひて…源氏は
* 例の
玉鬘の
風につけても おなじすぢに
お近くにいらっしゃって。
むつかしう聞え戯れ給へば…野分の見舞いに
ついても、何時ものように
何の彼のと うるさく
* たへず うたて…聞くのも
堪らずに、嫌らしい。
* かう
冗談を
仰せられるので。
心憂ければこそ…戯言は、このように 嫌でございますから。
* 今宵の風にも あくがれなまほしく侍りつれ…昨夜の風に 私は あてもなく飛ん
37
で行ってしまいたい と思っていたのでございます。「今宵」は、夜が明けてから言
う場合は「前夜」とか「昨夜」の意である。その一例、摂津風土記逸文、夢野の条
に「明旦、
牡鹿其ノ嫡ニ語リテ云フ。今夜ノ夢ニ、吾ガ背ニ雪降リオケリト見キ云々」。
和泉式部日記「五月五日になりぬ」の条「いたう降り明かしたるつとめて、「今宵の
雨の音はおどろおどろしかりつるを」など…」とある。
「あくがる」は、1.魂が身
から離れる・うわの空である。2.心が惹かれて落ち着かない・思い焦がれる。3.
居所を出て、浮かれ歩く・さ迷い歩く。4.仲がしっくりせず離れる・疎遠になる
などの意。
* むつかり給へば…機嫌悪くなさると。
* あくがれ給はむや…あてもなく 飛んで行きなさるのは。
* かるがるしからむ…軽率ではなかろうか。
* とまる方 ありなむかし…大方 何所ぞに
落ち着く先が おありなのでございま
しょう。
* やうやう かゝる御心向けこそ添ひにけれ…だんだんと 私から離れて このよう
に
あくがれるようなお心が
加わってしまったのですね。
* ことわりや…それも 当然の事でございますね。
* うち思ひのまゝに…自分は
* うち笑み給へる…照れ隠しに
心の内に 思ったことを
そのままに。
お笑いなさる。
* いとをかしき 色あひ・つらつきなり…たいそう 情緒のある 美しい顔の
と
色艶
頬の様子である。
* ほほづきなどいふめるやうに
ふくらかにて…酸漿とかいう物のように 赤くふっ
くらとしていらっしゃって。
* 髮のかゝれるひまひま…髮が
降りかかっている その隙間から 見えるお肌は。
* まみの あまり わららかなるぞ…目許が
余りにも
ららか」は、笑らか。陽気なさま・にこやかなさま
にこやかであるのが。「わ
の意。
「らか」は、接尾語。名
詞・形容詞の語幹などに付いて、いかにも~と感じられるさまである の意の形容
動詞の語幹を作る。例、浅らか・厚らか・薄らか・多らか・重らか・軽らか・煌ら
か・高らか・なだらか・伸びらか・丸らか・安らか・緩らか・わららか など。
* いとしも品高く見えざりける…そう上品であるとは
見え難いのである。
「いとし
も」は、下に打ち消しの語を伴って、それ程には・たいして
の意。
* つゆ 難つくべくもあらず…聊かも 欠点のつけようがないのであった。「つゆ」は、
露。副詞として、下に打ち消しの語を伴って、少しも・一向に、全然~ の意。
「な
んつく」は、難付く。欠点を見出す・非難する の意。
花散里の御殿の
もなされなかった
西の対では、玉鬘が、昨夜一晩中、恐ろしく
その影響で、寝坊をしてしまって、今
38
漸う
まんじりと
鏡などに向
かって、朝の 身嗜みを なさって居られるのであった。源氏は、
「余り 仰々しく 先を追うでない」
と、仰せられるので、供の者は、大きな音も 立てないで、這入って 来るの
であった。お部屋の中は、屏風なども、皆、畳んで 隅に片寄せてあり、調度
なども、乱雑にしてある、そのような所に、朝の光が、さっと 鮮やかに 射
し込んで来たので、玉鬘は、眼が 覚めるような、際立って 美しいお姿で、
座って いらっしゃるのであった。源氏は、その玉鬘の お近くに、お座りな
されて、野分のお見舞いに 託けても、何時ものように、何の彼のと、厄介な
冗談を 仰せになるので、玉鬘は、「聞くに 堪えないこと、ああ嫌な」と 思
って、
「このような、戯れ言は、嫌でございますから、昨夜の風に 吹き飛ばされ
て、あてもなく 飛んでいって しまいとうございました」
と、ご機嫌を 悪くなさる、が、源氏は、ひどく 朗らかに お笑いなされて、
「風と一緒に、あてもなく 飛んで行こうとは、軽率な事では ございませ
んか。それも、大方、落ち着く先が、あるのでございましょうか。だんだん
この私から、離れて行く お心が、お付きになったのですね。然し それも、
尤もな事で ございますが」
と、仰せられるので、玉鬘は、「ほんに 私とした事が、思いのままを 明け透
けに、言い過ぎてしまいました」と、お悟りなされて、ご自分でも、照れ隠し
に、微笑んでいらっしゃる、そのご様子は、たいそう 趣のある お美しいお
顔の 色艶なのである。酸漿とかいうもののように、ふっくらとしていて、お
髮の、振り掛かる 隙間隙間から 透いて見える お肌の艶々しさ。お眼許が、
余りにも にこやかなのが、どうも 上品とは 見え難いのである。が然し そ
れ以外には、聊かの難点も 付けようが ないのである。
中將、いとこまやかに、きこえ給ふを、「いかで、この御かたち、見てしがな」
と、おもひわたる心にて、隅の間の御簾の、几帳は添ひながら、しどけなきを、
やをら、ひま、ひき上げてみるに、紛るゝ物どもゝ、とりやられたれば、いと、
よく見ゆ。かく、戯れ給ふけしきのしるきを、「あやしのわざや。親子ときこえ
ながら、かく、ふところはなれず、物ちかゝるべきほどかは」と、目とまりぬ。
「みやつけ給はむ」と、おそろしけれど、あやしきに、心もおどろきて、なほ
見れば、柱がくれに、すこしそばみ給へりつるを、ひきよせ給へるに、御髮の
なみよりて、はらはらとこぼれかゝりたるほど、女も、「いと、むつかしく、苦
し」と、思う給へるけしきながら、さすがに、いと、なごやかなるさまして、
寄りかゝり給へるは、ことゝ馴れ馴れしきにこそあめれ。「いで、あな、うたて。
いかなることにかあらむ。おもひよらぬ隈なくおはしける御心にて、もとより、
39
見馴れおほしたて給はぬは、かゝる御思ひ、そひ給へるなめり。むべなりけり
や。あな、うとまし」と思ふ心も、恥づかし。「女の御さま、げに、兄弟といふ
とも、すこし立ちのきて、異腹ぞかし」など思はむは、「などか、心あやまりも
せざらむ」とおぼゆ。
* いとこまやかに きこえ給ふを…源氏が 玉鬘に たいそう親しげに お話し申し
上げていらっしゃるのを。
「こまやか」は、細やか・濃やか。1.きめのこまかなさ
ま。2.行き届いて丁寧なさま・綿密なさま。3.情が厚いさま・親密なさま・懇
ろである。4.色が濃くて美しいさま。5.体つきが小さくて可愛いさま・小柄で
ある
などの意。
* この御かたち…この姫君(玉鬘)のお顔を。
* 隅の間…西の対の
隅の一間。
* 几帳は添ひながら…几帳は
添えてあるのであったが。
* しどけなきを…しどけなく
即ち だらしなく 乱れているのを。
「しどけなし」は、
1.雑然としている・乱れている・締まりがない・だらしない。2.無造作である・
ゆったりしている・打ち解けている
* ひま
の意。
ひきあげてみるに…御簾を 引き上げて、隙間から 奥を 見通すけれども。
* 紛るゝ物どもゝ…邪魔になるような物 即ち屏風や几帳など
* 戯れ給ふけしきのしるきを…玉鬘に
は。
戯れ掛かる 源氏の様子が、はっきりと
見
えるのを。
* あやしのわざや…妙な事であるなあ。
* 親子ときこえながら…如何に
親子であるとは申しながら。
* ふところはなれず…懷に じっと 抱かれて。
* 物ちかゝるべきほどかは…玉鬘に このように 接近なさるべき筈の 年齢であろ
うか。も早
玉鬘は そのような 幼い年齢ではない。
* みやつけ給はむ…源氏が この夕霧の 覗き見を お見つけ
なされないであろう
か。
* あやしきに
心もおどろきて…いぶかしさに 胸も轟かせて。
* 柱がくれに
すこしそばみ給へりつるを…柱に隠れるようにして、少し 横を向い
ていらっしゃるのを。
「そばむ」は、側む。1.わきに寄る・横向きになる。2.僻
む・拗ねる。3.片寄る・偏する の意。
* ひきよせ給へるに…源氏が
お引き寄せなされるので。
* 御髮(ぐし)のなみよりて…玉鬘のお髮が、波打ちながら、垂れ下がって。
* こぼれかゝりたる…お顔に。
* むつかしく
苦し…五月蝿くて 嫌である。「むつかし」は、難し。1.鬱陶しい・
不快である・嫌だ・我慢出来ない。2.煩わしい・面倒である。3.気味がわるい・
40
恐ろしい の意。
* さすがに いと なごやかなるさまして…拒否するのでもなく 相当に 源氏のな
すがままに
たいそう 穏やかな様子で。
* ことゝ馴れ馴れしきにこそあめれ…如何にも よくよく馴れなれしい お二人の仲
であるように思われるのである。「ことと」は、事と。副詞。1.特に・とりわけ・
格別。2.どんどん・すっかり の意。
「あめり」は、あると見える・ある様子だ・
あるらしい
の意。動詞「有り」の連体形「ある」+推量の助動詞「めり」=「あ
るめり」
、その撥音便「あんめり」
、その撥音「ん」の表記されない形。普通「あン
めり」と
読む。この帖 最終ページ参照。
* おもひよらぬ隈なくおはしける御心にて…女の事にかけては、ご存知でない所など
お有りなさらない
父源氏のご気性なので。
「おもひよる」は、思ひ寄る。1.気づ
く・思い当たる・考え及ぶ。2.心が惹かれる・懸想する・求婚する の意。
「くま
なし」は、隈無し。1.暗い所がない・曇りや陰がない。2.行き届いている・何
でも知っている・抜け目がない。3.隠し立てがない・あけっぴろげである
の意。
* もとより 見なれおほしたて給はぬは…最初から、お側に置いて、見馴れたり、養
育したり なされなかった娘には。
「おほしたつ」は、生ほし立つ。育てあげる・養
い育てる の意。
* そひ給へるなめり…「なンめり」と 読む。この帖、最終ページ 参照。
* 思ふ心も恥づかし…そう思うのも 自分の心ながら
恥ずかしいのである。
* 女の御さま…玉鬘の 生い立ち。
* 兄弟といふも…なる程 姉弟だといっても。
* すこし立ちのきて…少し 縁も遠くて。
* など思はむは…などと 考える その時には。
* などか 心あやまりもせざらむ とおぼゆ…どうしてか 心得違いも 起こしかね
ないなあ と 思える程であるのだ。
中将夕霧は、源氏が、玉鬘に たいそう親密に お話しなされているのを、
「何とかして、この姫君のお姿を 見たいものよ」と、かねがね 思って居た
事であったから、西の対の 隅の一間の御簾に、几帳が 添えてあるのである
が、しどけなく 乱雑になっているのを、そっと 引き上げて、隙間から 奥
の方を 覗き見ると、邪魔になるような 屏風や几帳も 取り払われているの
で、ずっと 奥まで 見通されて、よく 見えるのであった。玉鬘に、このよ
うに 戯れ掛かる 源氏のご様子が、はっきりと ご覽になれて、夕霧は、「何
と 妙な事であろうか。如何に 親子とは申しながら、父の源氏が、このよう
に 娘の玉鬘を、ご自分の懷に、抱き抱える程に、接近なさるような、幼い年
齢でもあるまいに」と、目に
とまるのであった。この覗き見を、「お見つけな
41
されないであろうか」と、恐ろしくは 思うのであったが、源氏の態度が、あ
まりにも 訝しいので、目のみならず、心までもが 驚いてしまって、なお、
よく 見入ると、玉鬘は、柱の陰に 隠れるようにして、少し 横を向いてい
らっしゃったのを、源氏が、抱くようにして、お側に お引き寄せになる拍子
に、玉鬘のお髮が、波を打つように はらはらと お顔にお掛かりになる、そ
の時、玉鬘も、「まあ、嫌な、辛いこと」と、お思いの ご様子では あるもの
の、それはそれとして 拒否なされるでもなく、さすがに、源氏の なされる
がままに、たいそう 穏やかな様子で、源氏に、凭れ掛かって いらっしゃる
のは、よくよく、如何にも 馴れ馴れしい お二人の仲であるように 思われ
るのである。「でも、まあ、嫌な。そもそも これは 一体、どうしたというの
であろうか。この道にかけては、随分と 抜け目なく 振舞う筈の、ご性分な
ので、実の 我が子であっても、最初から、お側に置いて 養育なさらなかっ
たお人には、このような お気持ちに なられるものと見える。なる程、あの
ように 馴れ馴れしいのも 尤もな事だ。然し、何とも 疎ましい事よ」と、
そう思うさえ、自分の心ながら 恥ずかしいのである。「玉鬘の、生い立ちは、
なる程、姉弟とは言っても、少し 縁も遠く、異腹の姉弟であるなあ」などと、
考えた その時には、「どうして、心得違いなども、起すのでは あるまいか」
と、夕霧には、思える程である。
昨日見し御けはひには、け劣りたれど、みるに笑まるゝさまは、たちも並び
ぬべくみゆ。八重山吹の咲きみだれたるさかりに、露のかゝれる夕映ぞ、ふと、
思ひいでらるゝ。折にあはぬよそへどもなれど、なほ、うちおぼゆるやうよ。
花は、かぎりこそあれ、そゝけたる蘂なども、まじるかし。人の御かたちのよ
きは、たとへむかたなきものなりけり。お前に、人も出でこず。いとこまやか
に、うちさゝめき、語らひ聞え給ふに、いかゞあらん、まめだちてぞ、立ち給
ふ。女君、
吹きみだる風のけしきに女郎花しをれしぬべき心ちこそすれ
くはしくも聞えぬに、うち誦じ給ふを、ほの聞くに、にくきものゝ、をかしけ
れば、なほ、見果てまほしけれど、「『ちかゝりけり』と、見えたてまつらじ」
と思ひて、たち去りぬ。御返り、
源氏「下露になびかましかば女郎花あらき風にはしおれざらまし
なよ竹を見給へかし」
など、ひが耳にやありけん。きゝよくもあらずぞ。
玉鬘
* 昨日見し御けはひ…昨日 垣間見に
* け劣りたれど…何所となく
拝見致した 紫上のご様子。
劣っては 見えるけれども。「け劣る」は、気劣る。ど
42
ことなく劣る の意。
「け」は、接頭語。前出。
* みるに笑まるゝさま…一目見れば 自然に
微笑まれてしまうような 玉鬘のご容
姿は。
* たちも並びぬべくみゆ…肩を並べる事が 出来そうに見えるのである。
* 八重山吹の~思ひいでらるゝ…実に 玉鬘のご容姿は
八重山吹に
露の置いた 夕映えの気色が
自然に
譬えてみれば 咲き乱れた
思い出されるのであった。
* 折にあはぬよそへどもなれど…秋なのに 山吹などと、季節には合わない 擬えで
はあるけれども。
* うちおぼゆるやうよ…そのように 自然に
感じなされるようなのであるよ。「う
ちおぼゆ」は、打ち覚ゆ。A.自動詞として、1.心に浮ぶ・自然と思い知らされ
る。2.どことなく似ている。B.他動詞として、思い出して言う
の意。「うち」
は、接頭語。動詞に付いて、意味を強めたり、ちょっと・素早く・すっかり
など
種々の意を添えたりする。また、単に語調を整える為にも用いる。例、うち出づ・
うち驚く・うちまもる・うち語らふ・うち絶ゆ など。
* 花は
かぎりこそあれ…花の美しさには、限りがあり。
* そゝけたる蘂(しべ)なども
まじるかし…ぼさぼさと 呆けた蘂なども 醜く交
じるものであるよ。
「そそく」は、A.他動詞として、紙・織物などを、毛羽立たせ
る・綿などをほぐす。B.自動詞として、髮・紙・織物などが、毛羽立つ・ほつれ
乱れる の意。
* 人の御かたちのよきは…玉鬘の ご容姿の
素晴らしさは。
* たとへむかたなきものなりけり…譬えようもないもので あったのである。
* お前に…玉鬘の おん前に。
* こまやかに
うちさゝめき
小声で お話し合い申される
語らひ聞え給ふに…しんみりと懇ろに、ひそひそと
その間に。
* まめだちてぞ 立ち給ふ…真面目な
お顔つきで お立ち上がりなさる。
「まめだ
つ」は、忠実だつ。真面目に振舞う・本気になる の意。「だつ」は、接尾語。前出。
* 吹きみだる…吹き乱れる風の有様(余りにも淫らな
源氏の態度)に、女郎花(私)
は、萎れてしまって きっと死ぬのではないかと 思われるのです。
* ほの聞くに…夕霧には はっきりと
聞えないけれども。
* にくきものゝ をかしければ…父源氏が 妬ましくはあるけれども、興味深いので。
* なほ
見果てまほしけれど…最後まで 見届けたいと
思うけれども。
* 「『ちかゝりけり』と 見えたてまつらじ」と…近くに居たのであった、と
源氏に
見られ申したくはないと。
* 下露に…下葉の露(私)に靡くならば、女郎花(貴女)も荒い風には
萎れないで
ありましょうに。
(強情で靡かないから 苦労もするのですよ)。
* なよ竹を見給へかし…あの
なよ竹を 御覧なさい。靡くからこそ
43
折れないので
すよ。
「なよたけ」は、弱竹。細くしなやかな竹・若竹 の意。「萎竹(なゆたけ)
」
とも。
* ひが耳にやありけん…聞き間違いなので あろうか。
「ひがみみ」は、僻耳。聞き違
い
の意。
* きゝよくもあらずぞ…あまり
聞きよい お歌では
ないのであった。
昨日、隙見をした 紫上のご様子には、見劣りするけれども、玉鬘の、見る
からに 微笑ましいご容姿は、紫上と 肩を並べる事も 出来そうに、見える
のであった。誠に 玉鬘には、八重山吹の花が、咲き乱れる盛りに、露の置い
た 夕映えの景色が、ふと 思い出されるのであった。秋なのに、山吹とは、
季節に合わない 譬えでは あるけれども、夕霧には、やはり 自然に、そう
思わずには いられないのであろう。蓋し、花は、その美しさも、限りのある
ものであり、ぼさぼさした蘂なども 交じっている事もあって、見苦しい事も
ある。然るに、玉鬘の ご容貌の お美しさは、譬えようもないもので あっ
たのである。その玉鬘のお側には、女房など 誰も、出て来て 居ないのであ
る。源氏は、たいそう 親密に、小声で お話しなされていたのであったが、
如何したのであろうか、真面目な お顔付きで、お立ち上がり なさるのであ
った。と、すかさず 玉鬘は、
吹き乱れる 風 即ち淫らな貴方の 無理じいのせいで 女郎花の私は
萎れてしまって きっと 死んでしまいそうな 気が致します
と お詠みになる。夕霧には、はっきりとは 聞えないのであったが、源氏が
そのお歌を 口ずさみなさるのを、微かに 聞くと、父が、妬ましく 思われ
るものの、一方では、興味も 湧いて来るので、見てはならぬ事 とは知りな
がら、やはり、最後まで 見届けたい と 思うのではあったが、「『あまりに
も 近い所に居たな』と、見咎められたらまずい」と 思って、立ち去るので
あった。玉鬘へのお返しは、
「 下葉の露である 私の密かな思いに 靡いたならば 女郎花の貴女も
荒い風にも 萎れる事はなく 何の苦労もないで ありましょうに
あの なよ竹を 御覧なさい。靡くからこそ 折れないのですよ」
などと、申し上げるのであったが、それは 聞き間違いなのであろうか。何れ
にもせよ、その応答は、あまり 聞きよいものでは なかったのである。
44
6 花散里の裁縫と染色の技
ひんがしの御かたへ、これよりぞ、わたり給ふ。今朝の、朝寒なるうちつけ
わざにや、物裁ちなどするねび御達、おまへにあまたして、細櫃めくものに、
綿ひきかえて、まさぐる若人どもあり。いと、きよらなる朽葉のうすもの、い
まやう色の、二なく打ちたるなど、ひきちらし給へり。
源氏「中將の下襲か。御前の壼前栽の宴も、とまりぬらむかし。かく、吹きち
らしてんには、何事かせられん。すさまじかるべき秋なめり」
など、のたまひて、なにゝかあらむ、さまざまなるものゝ色どもの、いと、清
らなれば、「かやうなるかたは、みなみの上にも、おとらずかし」とおぼす。御
直衣を、花文綾を、このごろ摘み出だしたる花して、はかなく染め出で給へる、
いと、あらまほしき色したり。
源氏「中將にこそ、かやうにては着せ給はめ。若き人のにて、めやすかめり」
などやうのことを、きこえ給ひて、わたり給ひぬ。
* ひんがしの御かた…東の 花散里の御殿。
* これよりぞ…玉鬘の 西の対から。
* 朝寒なるうちつけわざにや…今朝の寒さに対する 俄か仕事なのであろうか。「う
ちつけ」は、打ち付け。動詞「うちつく」に対応する形容動詞。1.突然だ・出し
抜けだ。2.軽率だ・深い考えがない。3.ぶしつけだ・露骨だ の意。
* 物裁(ものた)ちなどするねび御達…裁縫などをする
は、物裁つ。布を裁つこと。転じて
老いた女房達。「ものたつ」
衣服を裁ち縫うこと・裁縫 の意。
* あまたして…大勢で。
* 細櫃めくもの…「ほそびつ」は、細櫃。箱の やや細長のもので 蓋がある。枕草
子、流布本第三段「祭近くなりて、青朽葉・二藍などの物ども押し巻きつゝ細櫃に
入れ」。「めく」は、接尾語。名詞・形容詞、形容動詞の語幹・副詞・擬声語・擬態
語などに付いて、~のようになる・~らしくなる・~という音を出す などの意の
動詞を作る。例、婀娜めく・今めく・色めく・呻(うめ)く・朧めく・親めく・才
(かど)めく・唐めく・子めく・そそめく・そよめく・どよめく・張るめく・犇(ひ
し)めく・閃く・ふためく・古めく・態とめく・由めく・痴(をこ)めく など。
* まさぐる若人どもあり…引き伸ばしている若い女房も居る。
「まさぐる」は、弄る。
もてあそぶ・いじる の意。ここは 綿入れを作る為の準備の仕事なのである。「ま」
は、接頭語。名詞・形容詞などに付いて、真実・正確・純粋・称賛・強調などの意
を添える。例、ま新し・ま悲し・ま心・ま清水・ま一文字・ま正面・まっ赤
など。
* きよらなる朽葉のうすもの…綺麗な朽葉色 即ち 黄色にやや赤味がかった色
45
の、
薄い織物 即ち 紗や絽や羅の類。
「きよら」は、清ら。A.形容動詞として、気品
があって美しいさま・華麗なさま。B.名詞として、気品のある美しさ・華麗さ の
意。
「ら」は、等。接尾語。1.名詞・代名詞に付いて、ア、複数・親しみの気持ち
などを表す。イ、謙譲の気持ちを表す。ウ、方向・場所を示す。例、いづら・あち
ら・こちら
など。エ、語調を整える。2.形容詞の語幹(シク活用は終止形)に
付いて、状態を表す名詞 または形容動詞を作る。例、賢(さか)しら・清ら
な
ど。
* いまやう色…紅色。
「いまやういろ」は、今様色。流行の色 の意。当時「紅色」を
言うのは その流行が長かった故である。花鳥余情には「紅梅の濃きをいう」と述
べている。末摘花帖に「今様色の、え許すまじく つやめう古めきたる 直衣のう
らうへ等しうこまやかなる云々」。玉鬘帖「今様色のすぐれたるは、この御料云々」
などにも見える。
* 二なく打ちたるなど…砧で
この上なく 見事に 艶出しした絹など。
* ひきちらし給へり…取り散らかして
いらっしゃった。
* 御前の壼前栽の宴…内裏の壷前(つぼせんざい)栽の宴。
「壷前栽の宴」は、清涼殿
の西庭で行われる。
* とまりぬらむかし…お取りやめに なることでしょう。「らむ」は、「らん」とも表
記される。~ているであろう
の意。「かし」は、A.終助詞として、1.念を押す・・・
~よ・~ね。2.強め・・・~よ。B.副助詞として、強め・・・~よ の意。
* すさまじかるべき秋なめり…「なンめり」と読む。この帖、最終ページ 参照。
* なにゝかあらむ…どういう物に 仕立て上げられるのであろうか。
* さまざまなるものゝ色どもの…さまざまな色をした
絹織物などが。
* かやうなるかたは…このような 染色の技術の方面では。
* みなみの上にも…南の紫上にも。
* 花文綾(けもんりよう)…花の模様を織り出した絹織物。
* このごろ摘み出だしたる花して…最近 摘み取った
青花(つゆくさ)や赤花(べ
にばな)で。
* はかなく染め出で給へる…薄っすらと、お染め出しなされた二藍。源氏は今年三十
六歳の中年であるから 二藍を着用するのが 適当なのである。老年は 青花ばか
りで染めた薄藍色(縹色)を着るが、縹は夏の用である、今は 秋であるから
氏の御召料として
花散里が
源
縹に染める筈がない。若い人は 赤花ばかり、また
は赤花勝ちの色に染める。
「二藍」を 源氏は 自分用はもとより、夕霧にも
似合
うであろうと 考えて 花散里に依頼したのである。但し「花染」と言えば、露草
で染めたものを称した。古今、恋五、読人不知「世の中の人の心は花染の移ろひ易
き色にぞありける」。
* あらまほしき色したり…たいそう 好もしい色合を
46
しているのである。
「あらまほ
し」は、1.動詞「有り」の未然形「あら」+希望の助動詞「まほし」。あること、
居ることが、望ましい・そうありたい。2.形容動詞として、1を、一語として用
いる。そうある事が望ましいと思われるような状態だ・好ましい・理想的だ
* かやうにては着せ給はめ…このような色に
の意。
染め上げて お着せなされて欲しいも
のです。
* 若き人のにて…若い人向きの
色合いで。
* めやすかめり…夕霧には きっと お似合いであろう。「めやすし」は、目安し・目
易し。見苦しくない・感じがよい の意。
* わたり給ひぬ…南の御殿に
お帰りなさる。
東の 花散里の御殿に、玉鬘の 西の対から、源氏は、お渡りになる。今朝
突然にやって来た 寒さ故の、俄か仕事なのであろうか、裁縫などする 年老
いた女房どもが、花散里のお側に、大勢 集って居て、細櫃のような物に、真
綿を引きかけて 引き伸ばしている 若い女房なども 居るのである。周辺に
は、綺麗な朽葉色の 地の薄い織物や、今流行の 紅色で、砧を打って この
上なく 見事な光沢を出した 薄物など、引き散らかして いらっしゃるので
あった。源氏は、それらを 眺めて、
「中将夕霧の 下襲のご準備でしょうか。折角 ご用意して戴いても、今年
の 内裏での 壷前栽の宴は、昨夜の野分の為に、恐らく お取止めになる
でしょうね。このように 吹き散らしたのでは、どのような催しが 出来ま
しょう。草花の見所も すっかり なくなってしまって、ほんに、興冷めな、
この秋ですね」
などと、仰って、お見回しなさると、一体 どのような物に お仕立てになる
のであろうか、様々な色彩の 絹織物などが、真に 綺麗であるから、「このよ
うな 染色の技術は、紫上が 巧みではあるが、花散里も なかなかのもので
あるなあ」と、お思いになる。源氏の お召し料の 御直衣として、花文綾を、
近頃 摘み採って来た 青花や紅花で、薄く 染め出しなされた二藍は、真に、
申し分のない 色合いをしているのである。源氏は、
「中将夕霧にこそ、このような 色に染めて お着せなされて 欲しいもの
です。この二藍の色は、若い人向きの色合いで、夕霧には、特に お似合い
のように 思いますよ」
などと、いうような事を、仰せられて、南の御殿に お渡りなされたのである。
47
7 夕霧
乳母に明石姫君への消息を托す
むつかしき方々めぐり給ふ御供にありきて、中將は、なま心やましう、書か
まほしきふみなど、日たけぬるを思ひつゝ、姫君の御かたに、まゐり給へり。
乳母「まだ、あなたになむ、おはします。風に怖ぢさせ給ひて、今朝は、え起
きあがり給はざりつる」
と、御乳母ぞ、きこゆる。
夕霧「ものさわがしげなりしかば、
「宿直もつかうまつらむ」と、おもひ給へ
しを。宮の、いとも、心苦しう思いたりしかばなむ。ひいなの殿は、いかゞ
おはすらん」
と、問ひ給へば、人々、笑ひて、
女房「あふぎの風だにまゐれば、いみじきことに思いたるを」
女房「ほとほとしくこそ、吹きみだりしか」
女房「この御殿あつかひに、わびにて侍(り)
」
など、語る。
* むつかしき方々…気疲れのする 面倒な御方々。
「むつかし」は、難し。1.鬱陶し
い・不快である・嫌だ・我慢出来ない。2.煩わしい・面倒である。3.気味がわ
るい・恐ろしい の意。
* なま心やましう…気が、何となく 晴れ晴れしくなくて。
「こころやまし」は、心疚
し・心疾し。思い通りにならず不満なさま・劣等感から不快を感じるさま・面白く
ない
の意。
「なま」は、接頭語。1.名詞について、不完全な・未熟な・若い な
どの意を表す。例、なま浮かび・なま覚え・なま学生・なま公達・なま親族・なま
受領・なま心・なま孫王・なま夕暮・なま酔ひ・なま女 など。2.用言に付いて、
何となく~・少し~・中途半端に~
の意を添える。例、なま荒々し・なまいとほ
し・なま恨めし・なま苦し・なまけやけし・なま強ひ・なま憎し・なま妬し・なま
はしたなし・なま難し・なま煩はし
など。
* 書かまほしきふみ…書きたいと思っている
雲井雁や
惟光の娘への 手紙。
* 日たけぬるを思ひつゝ…日が高くなって、遅れてしまった と心配しながら。夕霧
は、朝早くに書こうと思っていたのである。
* 姫君…明石姫君。
* あなたになむ おはします…明石姫君は あちらの紫上の御許に いらっしゃいま
す。
* きこゆる…夕霧に。
* ものさわがしげなりしかば…野分が
大いに 荒れ模様であったから。
48
* 宿直もつかうまつらむ…明石姫君の お近くに 宿直して 警戒申し上げよう と。
* おもひ給へしを…昨夜は。
* 心苦しう思いたりしかばなむ…恐ろしがっておいででしたから、三条宮の大宮の許
に居りましたので。
* ひいなの殿…姫君の 雛の御殿は。
「姫君の御殿」というべき所を、「ひいなの殿」
などと 洒落て言ったので、女房達の笑いを誘ったのである。
* あふぎの風だにまゐれば…扇の風が
吹いて来るだけでも。
「だに」は、副詞。1.
強調・・・せめて~だけでも・~だけなりと。2.類推・・・~だって・~のよう
なものでさえ。3.添加・・・~までも の意。
* いみじきことに思いたるを…姫君様は 大変な事として ご心配なされるのに。
* ほとほとしくこそ…殆ど 今にも 潰れてしまいそうに。「ほとほとし」は、1.差
し迫っているさま・殆ど~しそうだ。2.今にも死にそうである・危篤である・危
険が差し迫っている の意。
* この御殿あつかひに…この雛の御殿の お世話には。
* わびにて侍(り)…当惑し切っておるのでございますよ。「わぶ」は、侘ぶ。1.思
い煩う・辛く思う・思い悩む。2.寂しく思う・心細く過ごす。3.困る・当惑す
る。4.落ちぶれる・みすぼらしくなる。5.閑寂な境地を楽しむ
などの意。
気疲れのする 御方々の お見舞いに、源氏は、お廻りなさるが、そのお供
をして歩く 中将夕霧は、何となく 気が晴れずに、早く 書かなくては、と
思っている手紙も、未だ 書いていないので、日が すっかり 高くなってし
まったのを、気に 掛けながらも、明石姫君の お部屋に 参上する。すると、
「姫君様は、まだ、南の紫上様の御許に、おいででございます。風を お怖
がりなされて、今朝は、お起きに なりませんでした」
と、御乳母が、申し上げる。夕霧は、
「昨夜の野分が たいへんな 荒れ模様であったから、「姫君のお近くに、
宿直して 警戒申し上げよう」と、存じましたが、大宮が、あの風に たい
そう 怯えていらっしゃったので、三条宮に 居りました。お雛様の御殿は、
如何で ございましたか」
と、お尋ねなさるので、女房たちは、笑いながら、
「扇の風でさえも 吹きますれば、姫君様は、たいへんな事と ご心配でご
ざいますものを」
「危うく 吹き壊されてしまいそうに、吹き荒れまして ございましたねえ」
「この「お雛様の御殿」の お世話には、困り切って 居りますよ」
などと、話すのであった。
49
夕霧「ことごとしからぬ紙や侍る。御局のすゞり」
と、こひ給へば、御厨子によりて、紙一巻、御硯の蓋に取り下してたてまつれ
ば、
夕霧「いな。これは、かたはら痛し」
と、のたまへど、北のおとゞのおぼえを思ふに、すこし、なのめなる心ちして、
文書き給ふ。むらさきの薄樣なりけり。墨、心とめておしすり、筆のさきうち
見つゝ、こまやかに書きやすらひ給へるさま、いとよし。されど、あやしく定
まりて、憎き口つきこそ、ものし給へ。
風さわぎむら雲まよふ夕べにもわするゝ間なくわすられぬ君
吹きみだりたる萱に、つけ給へれば、人々、
女房「交野の少將は」
女房「紙のいろにこそ、とゝのへ侍りけれ」
ときこゆ。
夕霧「さばかりの色も、思ひ分かざりけりや。いづこの野邊のほとりの花よ」
など、かやうの人々にも、言ずくなに見えて、心とくべくも、もてなさず、い
と、すくずくしう、け高し。またも、書い給ふて、右馬助に賜へれば、をかし
き童、また、いと馴れたる御隨身などに、うちさゝめきて、取らするを、若き
夕霧
人々、たゞならずゆかしがる。
* ことごとしからぬ紙…大袈裟に上質でない
普通の紙。
* こひ給へば…お頼みなさると。
「こふ」は、乞ふ・請ふ。1.求める・ねだる・望む。
2.神仏に祈願する の意。
* いな
これは かたはら痛し…いやいや、こんな立派な 姫君のご料紙では、痛み
入ります。
「いな」は、否。1.人の言動に対して不同意・拒否の意を表す時に用い
る。いいえ・嫌だ。2.相手の問いを、否定する時に用いる。いえ・いいえ
の意。
* 北のおとゞのおぼえを思ふに…北の御殿 即ち 明石上 の 世間からの声望を、
考えて見れば。
* すこし なのめなる心ちして…夕霧は そう気を使う程でもないような気がして。
「なのめ」は、斜め。1.ありふれたさま・平凡なさま。2.いい加減なさま・不
十分なさま・心を込めないさま の意。姫君の将来は
后になられるお方であって
も、その母の身分は 決して高くはないので、それ程
恐縮することはない
とい
うのである。
* こまやかに書きやすらひ給へるさま…念を入れて 書いては休み また書いては休
み考える そのご様子は。
* あやしく定まりて
い
憎き口つきこそ
ものし給へ…妙に 型に嵌って、感心出来な
詠みっぷりでいらっしゃったのである。「くちつき」は、口付き。1.口の形・
50
口許のようす。2.物の言い方・歌などの詠みぶり。3.牛や馬の轡をとって、引
く人・口取り の意。
* 風さわぎ…野分の風が吹き荒れて、群がった暗雲が飛散して行き来する夕方でも、
私は
貴女を忘れる片時もない。私の忘れる事の出来ない貴女なのです。
* 吹きみだりたる萱…風に吹き揉まれて 折れた萱。
* 交野の少將…古物語の主人公。帚木帖にも出て来た。落窪物語巻一・枕草子二一二
段にも見える。美男の評判が高かった。
* 紙のいろにこそ とゝのへ侍りけれ…紙の色と 同じ色に合わせて
結びつける花
の枝を 揃えなさるのでしたよね。紫の紙に 萱は相応しくない と女房どもは
咎めたのである。
* さばかりの色も…それ位の
色合いの。
* 思ひ分かざりけりや…見分けが 私には 難しいのですよ。
* いづこの野邊のほとりの花よ…何所の野辺の花を 選んだらよいのやら。女房たち
が
何と言おうとも 野分の過ぎたばかりの今日は
分の直後なればこそ 却って
この吹き乱された萱が
それは困難な事であろう
適当なのだ
野
という夕霧の
内心である。
* 心とくべくも もてなさず…女房たちに、打ち解けた様子も
見せずに。
「こころと
く」は、心解く。緊張がゆるむ・気がゆるむ の意。
* いと
すくずくしう け高し…たいそう 生真面目で
気品高いのである。「すく
ずくし」は、如何にも生真面目だ・愛想がない の意。「すくすくし」
・
「すぐすぐし」
とも。
* またも 書い給ふて…もう一通の お手紙を。
* 右馬助…夕霧の家人。
* をかしき童…美しい童。
* 取らするを…右馬助が 童や隨身に
手渡すのである。
* たゞならずゆかしがる…心をときめかせて、お手紙の
届け先を知りたがっている
のであった。
「ただならず」は、徒ならず。1.普通でない・いわくありげである。
2.並々でない・優れている
の意。
「ゆかしがる」は、~たいと思う・見たがる・
聞きたがる・知りたがる の意。「がる」は、接尾語。形容詞の語幹(シク活用は終
止形)
・形容動詞の語幹、あるいは名詞に付いて、~のように思う・~の様子をする・
~らしく振舞う の意の動詞を作る。例、あやにくがる・うつくしがる・興がる・
口惜しがる・暗がる・賢しがる・情けがる・妬がる・さかしらがる・ゆかしがる・
らうたがる・痴(をこ)がる
夕霧は、雲井雁や
「余り
など。
惟光の娘への
上等でない紙は
お手紙を
書かなくては、と、
ございましょうか。それと、お局にある
51
硯とを、
拝借致したいのですが」
と、ご依頼になるので、女房は、明石姫君の 御厨子に近寄って、紙の一巻を、
御硯の蓋に載せて 差し出しすと、夕霧は、
「いやいや、このような 姫君のご料の 立派な紙では 痛みいります」
と、仰るけれども、姫君の母である 北の御殿の 明石上についての 世評を
考え合わせれば、それ程に、気を 使うまでもない と、思って、お手紙を、
お書きになる。紙は 紫の薄様である。墨を 丹念にすり下ろし、筆の穂先を
見守り見守り 心を込めて お書きになる、そのご様子の、素晴らしさ。然し、
儒学出のこともあって そのお歌には、妙に 型に 固定していて、面白くな
い詠みぶりで おありなさるのであった。
野分の風が 吹き荒れて 群がった雲が 飛散して 飛び交う 夕べで
も 私は 貴女を 忘れる片時とて ありません 私の 忘れる事の出
来ない 貴女なのです
と、お詠みになり、風に吹き荒らされて 折れた萱に、お付けなさるので、女
房たちは、それを 見て、
「交野の少将は」
「紙の色に合わせて、結びつける花の枝を、お選びなされたのでしたよ」
と、申し上げる。夕霧は、
「それ位の 色の見分けが、この私には 出来ないのです。同じ色には 一
体、何所の野辺の花を、選んだらよいのでしょうね」
などと、このような 女房達にも、言葉少なに、打ち解ける素振も、お見せな
さらずに、いたって、生真面目で、気品高い 態度なのである。他に、もう一通、
お認めなされて、家人の右馬助に、お授けなさる、と 右馬助は、そのお手紙
を、みめよい童と、物馴れた御隨身とに、それぞれ こっそりと 言い含めて、
持たせて 遣るので、若い女房どもは、色々と 気を廻して、お届け先を 知
りたがるのであった。
8 明石姫君の容姿
夕霧の大宮見舞いと近江君
わたらせ給ふとて、人々、うちそよめき、御几帳ひき直しなどす。みつる花
の顔どもに、思ひくらべまほしうて、例は、物ゆかしがらぬ心ちに、あながち
に妻戸の御簾をひき着て、几帳のほころびより見れば、ものゝそばより、唯は
ひ渡り給ふ程ぞ、ふと見えたる。人の、繁くまがへば、何のあやめも見えぬ程
に、いと、心もとなし。うす色の御衣に、髮の、まだ丈には外れたる末の、ひ
き廣げたる樣にて、いと細く小さき樣體、らうたげに、心苦し。「一昨年ばかり
52
は、たまさかに、ほの見たてまつりしに、又、こよなく生ひまさり給ふなめり
かし。まして、盛りいかならむ」と思ふ。かの、見つるさきざきのを、櫻・山
吹といはゞ、これは、藤の花とやいふべからむ。「木高き木より咲き懸りて、風
に靡きたる匂ひは、かくぞあるかし」と、思ひよそへらる。「かゝる人々を、心
にまかせて、明け暮れ見たてまつらばや。さもありぬべきほどながら、隔て隔
てのけざやかなるこそ、つらけれ」など思ふに、まめ心も、なまあくがるゝ心
地す。
* わたらせ給ふとて…明石姫君が、紫上の御許から 此方に お帰りなさるというの
で。
* みつる花の顔どもに 思ひくらべなほしうて…先ほど
顔立ちと 姫君を
* 例は
隙見をした方々の 花のお
比べてみようと思って。
物ゆかしがらぬ心ちに…何時もは そのような 物好きな気持ちは ないの
ではあるが。
「ものゆかし」は、物ゆかし。何となく心が惹かれる・何となく慕わし
い
の意。
「もの」は、接頭語。感情・心情を表す形容詞や形容動詞などに付いて、
何となく の意を表す。例、ものあはれ・もの恨めし・もの恐ろし・もの寂し・も
の悲し・もの珍し
など。
「がる」は、接尾語。前出。
* あながちに…ええままよ と
強いて。
* ひき着て…引き被って。
* ものゝそばより…何か 襖か屏風などの 物蔭から。
* 唯はひ渡り給ふ程ぞ…ただ
静かに
目立たないように 通りなさる様子が。
* 繁くまがへば…頻繁に 行ったり 来たりする。
「まがふ」は、紛ふ。A.自動詞と
して、1.入り乱れて区別できなくなる・入り交じる。2.間違えるほどよく似て
いる。3.見分けがつかなくなる・間違える。B.他動詞として、1.入り乱れさ
せて
る
区別できないようにする・見失う。2.見間違える・聞き違える・思い違え
の意。
* 何のあやめも見えぬ程に いと 心もとなし…誰が誰やら 見分けもつかない程度
なので、夕霧は
全く 気が気でないのである。
「あやめ」は、文目。1.模様。2.
形や色合いの区別。3.物事のすじみち・道理・分別
の意。「こころもとなし」は、
心許なし。1.待ち遠しくて心が苛立つ・じれったい。2.気がかりだ・不安だ。
3.ぼんやりしている・はっきりしない。4.不十分でもの足りない などの意。
* うす色の御衣…薄い紫色のお召し物。
* まだ丈に外れたる末の…髮が
まだ身の丈には 届かないで
ふさふさとした
先が。
* ひき廣げたる樣にて…扇を広げたように 末広がりに
* らうたげに
心苦し…可愛らしくも
広がっていて。
いじらしいのである。
53
毛
* たまさかに…偶然に。
* こよなく生ひまさり給ふなめり…「なンめり」と 読む。この帖 最終ページ参照。
* 盛りいかならむ…盛りの お年頃の美しさは どのようであろうか。
* かの
見つるさきざきのを…先夜來
* 風に靡きたる匂ひは…風に吹かれて
隙見をしてしまった、紫上と玉鬘とを。
ゆらゆらと靡く
藤の花の 艶々しい美しさ
は。
* かくぞあるかし…明石姫君の如く 如何にも この通りであるよなあ。
* 思ひよそへらる…思い比べられるのであった。
* かゝる人々…紫上や 玉鬘や
明石姫君など。
* さもありぬべきほどながら…確かに
そのように 朝晩 見たてまつる事は
親兄
弟の関係なのであるから あり得る筈の 間柄でありながら。
* 隔て隔てのけざやかなるこそ…父源氏の あちこちへの 隔ての 厳しさが。
「けざ
やか」は、鮮やかなさま・はっきりしているさま の意。
* つらけれ…辛く恨めしいのである。
* まめ心も なまあくがるゝ心地す…実直な夕霧も、我慢出来ずに いい加減
浮か
れ出るような 気がするのである。
明石姫君が、紫上の御許より、此方に お渡りなさるというので、女房たち
は、忙しく 立ち働いて、御几帳を 引き直したりなどするのであった。昨日
來、隙見をした 御方々の 花のお顔立ちと 比べてみたいもの、と お考え
なされた夕霧は、何時もは、そのような 物好きなご性分でも ないのである
が、今日は、強いて、開き戸の 御簾を跳ね上げて、引き被るようにして、中
に隠れ、几帳のほころびから、外を 覗き見る、と、姫君が、何か 物の蔭か
ら、ただ静かに 目立たぬように 歩み出られる ご様子が、ちらっと 見え
るのであった。女房たちが、足繁く 行ったり来たりするので、はっきりと 見
分けられないのが、ひどく 焦れったいのである。薄い 紫色のお召し物に、
まだ お身の丈には 届かない お髮の毛先が、末広がりに 房々と 広がっ
ていて、たいそう 華奢な お小さい お体つきなのが、可愛らしくも、いじ
らしいのである。夕霧は、「一昨年辺りに、時々、それとなく お見かけ申した
事が あったのに、今 見ると、改めてまた、この上なく、年と共に、優れて
美しく ご成長なされたように 思うなあ。まして この先、盛りのお年頃に
は、どのように、お美しくなられる事であろう」と 思うのであった。隙見し
てしまった お二方、紫上は、「春の曙の、霞の間より おもしろき かば桜
云々」と、玉鬘は、「八重山吹の 咲きみだれたるさかり云々」と、そのように
譬えたけれども、この姫君は、「藤の花」と いうべきであろう。「藤の花が、
高い木の枝に、咲き懸かって、風に吹かれて、ゆらゆらと
54
靡いている
艶々
しい美しさは、丁度 このお方の、お人柄のようであるなあ」と、思い比べら
れるのであった。「このような おん方々と、心のままに、明け暮れ お会い出
来るように したいものだ。当然、そうしてもよい筈の、間柄でありながら、
それぞれに 厳しい隔てのあるのが、何とも 辛く 恨めしい事よ」などと、
思うと、実直な 夕霧の心にも、浮いた心が、湧いて来るような 気がするの
であった。
おば宮の御もとにも、參り給へれば、のどやかにて、御行ひし給ふ。よろし
きわか人など、こゝにもさぶらへど、もてなし・けはひ・裝束どもゝ、さかり
なるあたりには、似るべくもあらず。かたちよき尼君たちの、墨染にやつれた
るぞ、なかなか、かゝる所につけては、さるかたにて、あはれなりける。内の
大臣も、まゐり給へるに、御殿油などまゐりて、のどやかに、御物語などきこ
え給ふ。
大宮「ひめ君を、久しく見たてまつらぬが、あさましきこと」
とて、たゞ、泣きに泣き給ふ。
内大臣「今、この頃のほどに、まゐらせん。心づから、物思はしげにて、口を
しう、衰へにてなむ侍める。女子こそ、よくいはゞ、持ち侍るまじきものな
りけれ。とあるにつけても、心のみなむ、盡くされ侍りける」
など、なほ心とけず思ひおきたる氣色して、のたまへば、心うくて、せちにも
きこえ給はず。そのついでにも、
内大臣「いと、不調なるむすめまうけ侍りて、もてわづらひ侍りぬ」
と、うれへ聞え給うて、笑ひたまふ。宮、
大宮「いで、あやし。むすめといふ名はして、さがなかるやうやある」
と、のたまへば、
内大臣「それなん。見苦しきことになんはべる。いかで、御らむぜさせん」
と、きこえ給ふとや。
* おば宮…大宮。夕霧の 祖母にあたる。
* のどやかにて…心静かに 落ち着いていらっしゃって。
* 御行ひ…仏道の勤行。
* もてなし…身の処し方・物腰。
* けはひ…立ち居振る舞いの
様子。
* 裝束…着ている衣裳。
* さかりなるあたりには 似るべくもあらず…今を盛りと 栄えている 六条院のお
ん方々に お仕えする女房とは 比較にも
ならないのである。
* かたちよき尼君たち…容貌の優れた尼君たち。大宮は尼であるから、召し使う者の
55
幾人かは 尼なのである。
* 墨染にやつれたるぞ…墨染めの衣に
身を窶して、質素にしているのが。
* なかなか かゝる所につけては さるかたにて あはれなりける…なまなか
姿などをしている者よりも、却って
女房
このような場所では、世を背いた簡素な姿 と
いう点で、風情があるというものであった。
* 内の大臣…内大臣。元の 頭中将。
* ひめ君…雲井雁。
* あさましきこと…心外に 存じられまして。
* 今
この頃のほどに まゐらせん…極く近い内に、伴って ご機嫌伺いに参上させ
ましょう。
* 心づから…心から。
「づから」は、接尾語。上代の格助詞「つ」+名詞「から」。濁
音化した語。1.名詞について、~から・~でもって・~のままで
などの意を添
える。例、手~・心~。2.人との関わりを示す名詞について、~の関係にある の
意を表わす。例、隣~・従弟~ など。
* 物思はしげにて…心配そうにしていて。
* 口をしう…残念な程に。
* 衰へにてなむ侍める…衰弱した状態で 過ごして居るようでございます。
「ばべンめ
る」と読む。この帖 最終ページ参照。
* よくいはゞ…有り体に 言うならば。
* とあるにつけても…どちらに
致しましても。
「とある」は、副詞「と」+動詞「あ
り」の連体形「ある」
。ある・ちょっとした の意。
* 心のみなむ
盡くされ侍りける…気ばかりが 揉まされて しまうのでございます
よ。
* なほ心とけず思ひおきたる氣色して…まだ
あいも変わらずに 夕霧の事が
心に
蟠ったまま、考えている様子をして。
* 心うくて…大宮は、辛く恨めしくて。
* せちにもきこえ給はず…是非にとも
お申しなさらない。
「せち」は、切。1.ひた
すらである・頻りである。2.深く感にうたれる・素晴らしい・面白い。3.大切
である の意。
「せつ」とも。
* 不調なるむすめまうけ侍りて…不調法 即ち する事なす事の 行き届かぬ粗忽
な娘を 持ちまして。
* もてわづらひ侍りぬ…持てあまして
* うれへ聞え給うて…愚痴を
* いで
いるのでございます。
お零しなされて。
あやし…おやまあ、妙な事を 仰せられますね。
「いで」は、感動詞。1.相
手に行動を促す時に用いる。さあ。2.自ら思い立って行動する時に発する。さあ・
どれ。3.感動や驚きを表す。いやもう・いやはや・ほんとうに。4.否定や反発
56
の気持ちを表す。いや・さあ
などの意。
* さがなかるやうやある…教養が ない訳が
ありましょうか。「さがなし」は、1.
性質がよくない・たちが悪い・意地が悪い。2.口が悪い・口喧しい。いたずらで
手に負えない の意。
* それなん…いかにも、さがないのでございますよ。
* いかで 御らむぜさせん…どうにかして、お目にかけ申しましょう。
* きこえ給ふとや…申し上げなされたとか いう事であるよ。
夕霧が、また、三条宮の 祖母大宮の許に、参上なされたところが、大宮は、
心静かに 落ち着いて 仏道の勤行を しておいでなされた。此方にも 相当
に美しい 若い女房などが、伺候しては 居るものの、身の処し方(物腰)や、
立ち居振る舞いの 様子や、着ている衣裳など、何れも、今を 盛りと 栄え
ている 六条院の御方々に お仕えする女房たちとは、比較にも ならないの
である。容貌の優れた 尼君たちの、墨染めの衣に 窶している 簡素な姿が、
却って、このような場所には、相応しく、それなりに、風情が あるのであっ
た。丁度、その夕方、内大臣も、野分の お見舞いに 参上なされたので、大
殿油などを 灯して、大宮は、のどやかに お話など 申し上げなさる。
「姫君雲井雁に、久しく お目にかからないで居るのが、情けないのですよ」
と、仰って、ただ 只管に、お泣きになる。内大臣は、
「極く 近い内に、伴って ご機嫌伺いに 参上させましょう。雲井雁は、
自分から、塞ぎ込んで 居りまして、この頃では、残念な程に、衰弱し切っ
た様子で、過ごして 居るのでございますよ。女の子は、有り体に 申せば、
持つべきでは ございませんね。何れにしましても、女の子には、気ばかり
揉まされて 居るのでございますよ」
などと、いまなお、依然として、夕霧の事が、心に蟠ったままの様子で、仰せ
られるので、大宮は、辛く 恨めしいけれど、雲井雁に、是非にも 逢いたい
などとは、申し上げなさらないのである。話の序に、内大臣は、
「私は、たいそう 不調法な娘を 持ちまして、如何したものかと、持て余
しているのでございますよ」
と、愚痴を お零しなさって、苦笑いをなさる。と 大宮は、驚き 怪しんで、
「おやまあ、妙な事を 仰せられますこと。貴方の娘という以上は、教養が
ない という訳が ないではありませんか」
と、仰るので、内大臣は、
「いかにも、その教養が ないのですよ。全く、体裁の悪い事で ございま
して。どうにかして、お目にかけとう ございます」
と、申し上げなされた
とか、いう事である。
57
源氏物語詳解・第二十八帖・野分
終
参 考
主な登場人物
源氏…三十六歳の八月
玉鬘帖の
竪の並の六である。
紫上…二十八歳
秋好中宮…二十七歳
玉鬘…二十二歳
夕霧…十五歳
雲井雁…十七歳
明石上…二十七歳
明石姫君…八歳
書名由来
この巻は、
「野分」に 関係した記事に
終始している。
本文には、
・・・野分、れいの年よりもおどろおどろしく・・・
…P.3
・・・こゝらの齡に、まだ、かくさわがしき野分にこそ、あはざりつれ・・・
…P.14
などと、ある。
これらに拠った。
言葉の手引き
なめり・P.10-2・39-12・45-5・52-7。
~であるようだ・~であると見える。
断定の助動詞「なり」の連体形「なる」+推量の助動詞「めり」=「なるめり」、その
撥音便「なんめり」
、その撥音「ん」の表記されない形。普通「なンめり」と
はべめり・P.12-15・54-10。
58
読む。
「あめり」の丁寧語。
(~で)あるようです・(~ようで)ございます。
動詞「侍り」の連体形「はべる」+推量の助動詞「めり」=「はべるめり」、その撥音
便「はべんめり」
、その撥音「ん」の表記されない形。普通「はべンめり」と
読む。
べかめり・P.31-7。
~に違いないようである・~はずのようだ。
助動詞「べし」の連体形「べかる」+推量の助動詞「めり」=「べかるめり、その撥音
便「べかんめり」
、その撥音「ん」の表記されない形。普通「べかンめり」と
読む。
あめり・P.39-10。
あると見える・あるようだ・あるらしい。
動詞「有り」の連体形「ある」+推量の助動詞「めり」=「あるめり」、その撥音便「あ
んめり」、その撥音「ん」の表記されない形。普通、「あンめり」とよむ。
あなり・P.21-7。
1.「なり」が推定の場合…多く声や音など聴覚による判断を表わして・あるようだ。
2.「なり」が伝聞の場合…あるそうだ・あるということだ・あるとかいう。
動詞「有り」の連体形「ある」+伝聞・推定の助動詞「なり」=「あるなり」、その撥
音便「あんなり」
、その撥音「ん」の表記されない形。普通「あンなり」と
59
読む。