雑誌『文学案内』と張赫宙、そして植民地の文学者たちー「朝鮮現代作家特輯」(一九三七年二月)を 中心に 曺恩美(東京外国語大学国際日本研究センター) 1 はじめに 本発表では、植民地朝鮮出身の「日本語作家」張赫宙が、その作品・批評を発表した日本のメディア に注目し、とりわけプロレタリア文学系の雑誌『文学案内』に組まれた「朝鮮現代作家特輯」(一九三 七年二月)との関わりを検証することを通じて、植民地と帝国の文学のネットワークのあり方を考察す る1。 2 「日本語文学者」張赫宙―『改造』デビューから『文学案内』編集顧問まで 張赫宙にとって『改造』(一九三二年、第五回)の懸賞当選という出来事は、その後の活動において さまざまな相互交流の可能性が存在する空間を提供するものとなった。『改造』でのデビューはその後 『文芸首都』同人への参加に繋がり、懸賞当選作家の保高徳蔵(一九二八年、第一回)と植民地台湾作 家・龍瑛宗(一九三七年、第九回)と出会い、帝国と植民地、そして植民地文学者同士の交流と支えに なる。 台湾の研究者・王恵珍によれば、龍瑛宗は「東京へ出発して《改造》懸賞創作の賞を受ける前に、改 造社を通じて張赫宙に手紙を送った。張赫宙は、龍瑛宗に直接、保高徳蔵を訪ねるほうがいいと勧めた。 それゆえ、彼は東京に着いてから、文芸首都社に保高を訪ねた」 2。張赫宙が龍瑛宗に宛てた書簡でも 「保高徳蔵(芝区巴町一)と湯浅克衛(芝区愛宕町、第二愛山荘)の両氏に是非逢つて下さい。吾々植 民地人には特に理解が深いですから」 3と、保高への会見を熱心に薦めていたことが確認される。 朝鮮に在住した経験のある保高徳蔵は「朝鮮は私の心のふるさとだ」 4とよく述べていたが、一九三 六年七月、 文学案内社の主催により開かれ、主に日本のプロレタリア文学者が集まった「張赫宙歓迎 宴」5にも保高徳蔵や『改造』懸賞作家たちの名前が確認されるのも、こうした繋がりによってであろ う。雑誌『改造』については、白川豊が述べているように「張赫宙と龍瑛宗という朝鮮と台湾を代表す る日本語作家を登壇させた」ことは注目に値する6。 張赫宙は雑誌『文芸首都』の主催者であった保高徳蔵に朝鮮の金史良7や台湾の龍瑛宗など新人作家 を推薦する紹介者として活躍する一方、プロレタリア文学系の雑誌『文学案内』においては、東京へ移 1張赫宙と日本の雑誌メディアとの関わりについては、拙稿「「帝国」日本のメディアと張赫宙の日本語文学―雑誌『文 学案内』を中心に」(『社会文学』四一号、二〇一五年三月)、を参照されたい。 2王恵珍(台湾清華大学)「植民地作家の変奏―台湾人作家から見た朝鮮人作家張赫宙」日本台湾学会、第八回関西部会 研究大会、二◯一◯年一二月一八日、関西大学、一五頁 3 一九三七年六月一三日付書簡。王恵珍氏によれば、二人の関係は書信往来など、一九四四年頃まで続いていた。 4保高みさこ『花実の森―小説文芸首都』立風書房、一九七一年、二◯頁 5丸山義二「張赫宙君歓迎会をひらいて」『文学案内』二巻九号、一九三六年九月、一五五頁。なお、本稿では、復刻版 『文学案内』(不二出版、二〇〇五年)を用いる。 6白川豊『植民地期朝鮮の作家と日本』大学教育出版、一九九五年、四頁 7保高徳蔵「日本で活躍した二人の作家」『民主朝鮮』一九四六年七月号、七〇頁 1 住して間もない一九三六年一〇月号から編輯顧問に加わり「朝・台・中国新鋭作家集」(一九三六年一 月)、「朝鮮現代作家特輯」(一九三七年二月)の企画・翻訳に関わっていた。 一方、『文学案内』の主 宰者である貴司山治は「張君には朝鮮文壇のよき作家の紹介、その作品の日本語訳等で特別の骨を折つ て貰ふことになつてゐる」8とその活躍に期待をかけている。 しかしながら、この時期、植民地朝鮮においては張赫宙の日本でのこのような活動が必ずしも、評価 されているとはいい難い現実があった。朝鮮の評論家・朴勝極の「朝鮮と文学-一九三五年文壇の回顧」 の一節「張赫宙の受難」 9からは、この時期、朝鮮文壇で張赫宙がおかれた状況の一断面をうかがい知 ることができる。他方、張赫宙において植民地朝鮮から差し向けられた非難に対して、貴司山治は「張 氏は立派な進歩的な作家である。 (略)張赫宙氏の存在はやはり朝鮮文壇の立派な誇りであると信ずる」 10 と、反応している。 当の張赫宙は日本における活動に対する朝鮮知識人からの非難と、日本文学界における後押しの狭間 で、つねに「自分は日本文壇の人間であつて、朝鮮文壇の代表者ではない」11と訴えかけていた。しか しどちらもその声に耳を傾けることはなく、朝鮮側からは、朝鮮人は朝鮮文人になる方がもっとも意義 あることだと批判され、他方で、日本側では「立派な進歩的な作家」さらには「現代朝鮮の代表的作家」 12 とみなされ、あくまで「朝鮮文学(者)」の枠内で張赫宙を扱っていた。張赫宙の日本語文学には、植 民地と帝国が出会い交流するなかで齟齬や軋みが生まれていたのである。 3「朝鮮現代作家特輯」(一九三七年二月号)―日本における最初の朝鮮文学の紹介特輯として 雑誌『文学案内』は一九三七年二月号におそらく日本では初めて「朝鮮現代作家特輯」[以下、 「特輯」 と略称]という特筆すべき企画を組む。掲載作品は李北鳴「裸の部落」、玄民(兪鎮午)「金講師とT教 授」、韓雪野「白い開墾地」、姜敬愛「長山串」、李孝石「蕎麦の花の頃」の五篇である。張赫宙は『文 学案内』の「特輯」の企画について、次のようにその意義と抱負を述べている。 私は吾が朝鮮文学が近年著しくその文学レベルを向上させつつあるのを見、種々な客観状勢に因 つて不遇の地位を忍んでゐるのを傍観することが出来なくなつた。私が文学案内社と結んで朝鮮作 家号を出してもらふやうになつた主要理由はここにあつた。これに依つて朝鮮文学の優秀性を認め てくれる人の多からんことを私は秘かに念じてやまない 13。 また、 「特輯」が組まれた同号に張赫宙は評論「現代朝鮮作家の素描」をのせて、 「特輯」に組まれた 朝鮮の作家と作品の詳細を紹介している。そこでは、日本文壇において以前にも朝鮮文学は紹介されて はいたが、それは紹介文や短編程度であり、雑誌『文学案内』の「特輯」のように、「全面的な、一時 に多くの作品を紹介」したことはないとその意義を述べている。 つづいて、 張赫宙は作家・作品の選別については、 「大体に於いて進歩的な立場にゐる作家といふこ とにし(略)朝鮮文壇に於ける開拓者とも言はる可き大家諸氏や現代の総ゆる傾向の作家の作品を一冊 8編集局「推薦原稿 編輯局」『文学案内』二巻六号、一九三六年六月、一三五頁 9 朴勝極「朝鮮と文学―一九三五年文壇の回顧」『文学評論』三巻一号、一九三六年一月、一六〇頁 10編輯局「朝鮮・台湾・中国・新鋭作家集について」『文学案内』二巻一号、一九三六年一月、九三頁 11編集局「朝鮮・台湾・中国・新鋭作家集について」同上、九三頁 12編集局「サーチライト」『文学案内』二巻一号、一九三六年一月、三五頁 13 張赫宙「文案十二月号予告―朝鮮作家について」『文学案内』二巻一一号、一九三六年一一月、一三五頁 2 に纏めて読んでもらふ為に全面的朝鮮文学の反訳集[翻訳集ー引用者]の企画も考へてゐる。それが実 現されるときには更に多くの作家と作品が紹介されることは無論」 14であるとその抱負を述べる。 それでは、実際に日本の読者に紹介された「特輯」に組まれた作品についてみてみたい。 まず、労働者出身作家・李北鳴の「裸の部落」は、張赫宙によれば、作家自ら日本語で創作したとさ れるが15、この作品は、 「暗夜行路」のタイトルで『新東亜』一九三六年九月号に朝鮮語で発表されたも のを日本語で書き直した形で掲載されたものと考えられる。改稿の過程では、朝鮮語の初出と時期設定、 主人公の日本警察に検挙される理由など、いくつかの異同が見られる。 次に、張赫宙の評論において、朝鮮文学のレベルを世界的にした傑作であると紹介している玄民(兪 鎭午)の「金講師とT教授」は、『新東亜』一九三五年一月号に朝鮮語で発表された作品を作家自ら日 本語で翻訳して掲載している。その翻訳過程で、作家自身によって大幅に改作が行われた。 そして、張赫宙の評論「朝鮮文壇の現状報告」 16において、朝鮮文学の発展を促す作家として期待さ れた李孝石の作品「蕎麥の花の頃」は、現在の韓国においても、韓国現代短編小説の代表作の一つとし て評価されている作品である。 「作者自訳」17であるこの作品の初出は朝鮮語雑誌『朝光』一九三六年一 〇月号であるが、日本語へ翻訳される過程で他の作家と比べて唯一、注意をひくような書き直しや内容 の異同は見当たらない。一方、この作品はその後『モダン日本』(朝鮮版、一九三九年一一月号)に再 録される。 つづいて、姜敬愛の「長山串」は、『大阪毎日新聞・朝鮮版』において一九三六年四月~六月にかけ て「朝鮮女流作家集」の特集が組まれ、そのなか「長山串」は、六月六日~一◯日まで掲載された作品 である。日本語訳に関しては、張赫宙によれば「反訳者は明らかでない」18としている。一方、現在の 研究状況においても、姜敬愛の「長山串」は初めから日本語で書かれた作品なのか、朝鮮語原作がある のかなど、依然としてその詳細は明らかでない。 一方、青柳優子は「長山串」は初めから日本語で発表された姜敬愛の唯一の作品であると断定してい る。19しかし、その後に大村益夫は、 「長山串」は「未だに朝鮮語の原文が見つかっていない。訳者も不 明である」というように、原文は朝鮮語であることを想定して言及している 20。また青柳は、「長山串」 のように両国民衆の友情が形象化された作品は極めて珍しいものであると評価している。 そして、 『大阪毎日新聞・朝鮮版』の初出版と『文学案内』への再録版の間では二◯箇所以上の改稿 点が確認され、張赫宙によって手が加えられた可能性を指摘している。 多くの改稿点の中でも最も重要な部分として青柳が注目するのが、 「死線を去来してゐる志村を」 (『大 阪毎日新聞』版、一九三六年六月一◯日)という表現を「死線を去来してゐる律々しい軍服姿の志村を」 (『文学案内』版、六五頁、傍線部挿入)と改稿した部分であり、 「律々しい軍服姿の」志村という一句 が挿入されることで小説の雰囲気が変わったと論じている。 しかしながら、この時期、『文学案内』などプロレタリア系の雑誌で活動しながら、朝鮮の「進歩的 な」作家に注目して「朝鮮文壇の現状報告」や「朝鮮現代作家特輯」などを組んでいた彼が、あえて「律々 しい軍服姿」という加筆を行う理由は見当たらない。 青柳は加筆の根拠として、この時期、張赫宙は日本文壇へのデビュー時には「鮮明だった民族主義か らの離脱を明確」にしており「その張の手によって紹介された『文学案内』の、「長山串」」であれば、 14 張赫宙「現代朝鮮作家の素描」『文学案内』三巻二号、一九三七年二月、八四頁 15張赫宙「現代朝鮮作家の素描」前掲、八五頁 16 張赫宙「朝鮮文壇の現状報告」『文学案内』一巻四号、一九三五年一〇月 17張赫宙ほか編著 『朝鮮文学選集Ⅰ』赤塚書房、一九四◯年、一◯九頁 18 張赫宙「現代朝鮮作家の素描」前掲 19青柳優子『韓国女性文学研究Ⅰ』御茶の水書房、一九九七年、二◯五~二二四頁 20姜敬愛著・大村益夫訳『人間問題』 朝鮮近代文学選集二、平凡社、二◯◯六年、三八五頁 3 「 「加筆・削除」は、彼が行った」と考えるのが自然であり「これは修正した意図は明らかである」21と 述べている。青柳の主張はあくまで任展慧22の論考に従ってなされた推測の域を出ておらず、張赫宙が 改稿を行ったという根拠としては、正当性があるとはいえない。 最後に、越北した植民地朝鮮の代表的なプロレタリア文学者・韓雪野の「白い開墾地」についてみて みたい。「白い開墾地」は韓国において金在湧により一九九◯年、雑誌『文学案内』から資料発掘され て、はじめて韓国において紹介された23。それ以降、金在湧の先行論は定説として定着し、後につづく 研究者もそのまま初出などの作品の詳細を採用して研究を進めているのが現状である 24。 しかしながら、朝鮮語原文の問題を含めて、金在湧が断定している朝鮮語執筆が先であって、その後 日本語に圧縮して翻訳したという議論には多くの問題点があると思われる。 金在湧によれば、韓雪野の「白い開墾地」は、「山村」(『朝光』一九三八年一一月)を中心におい て、そこに「洪水」(『朝鮮文学』続刊、一九三六年五月号)と「賦役」(『朝鮮文学』続刊、一九三七 年六月)を圧縮して組み込み、日本語で改めて書いた作品であるという25。その後、この考察は定説に なっていく。 しかしながら、雑誌『文学案内』の「特輯」は一九三七年二月に発行されている。 ここで素朴な疑問が生じる。一九三七年二月以降に朝鮮語で発表された「賦役」と「山村」が、なぜ 朝鮮語で先に執筆していたとされるのだろうか。もちろん、金在湧が述べるように、先に執筆して何年 か後に掲載する場合もしばしばあるともいえるが、やはり再考の余地はある。むしろ、「白い開墾地」 は韓雪野のもう一つの新たな「日本語」作品であり、朝鮮語の作品「洪水」の一部を借用して、日本語 で「白い開墾地」を執筆し、その後、さらに一部を朝鮮語へ翻訳して、二つの作品「賦役」と「山村」 として発表したとみなすのが、妥当ではないだろうか。 雑誌『文学案内』の「特輯」に掲載された作家と作品は、現在でも韓国文学史上で代表的と見られて いる作家と作品が揃った形で企画され、朝鮮における発表時期とほぼ同時期に日本語で翻訳・紹介が行 われた。この企画は張赫宙の評論「朝鮮文壇の現状報告」 26で、朝鮮の新人として期待され、紹介され ていた作家の作品が集められたものであるが、朝鮮知識人による張赫宙への批判、すなわち朝鮮文壇を 歪曲したとされるその批判は、当時、いわゆる朝鮮のブルジョワ文学者らと対立し論争を深めていたカ ップ(朝鮮プロレタリア芸術家同盟)派作家や、カップの活動に同調する同伴者作家たちであった兪鎭午、 李孝石らを日本で高く評価し、その対立軸にあったブルジョワ文学者を低く評価していたことにも起源 する。 一九三一年九月の満洲事変勃発以降、一九三◯年代半ばから植民地朝鮮においてプロレタリア文学者 に対する弾圧は一層強まり、朝鮮の文学者に大きな影響を与えた。さらに、第三次朝鮮教育令が一九三 八年八月公表され、帝国日本の総動員体制に至るこの時期は、朝鮮文学史の中で一つの転換期だと言え る。中でも一九三五年のカップ解散は韓国の文学史上における大事件となった。 このような状況の下、朝鮮の進歩的な作家たちはちょうど同時期である一九三五年に弾圧されるプロ 21青柳優子『韓国女性文学研究Ⅰ』前掲、二一◯頁 22任展慧『日本における朝鮮人の文学の歴史』法政大学出版局、一九九四年、二◯二~二◯九頁 23金在湧「[作品発掘]失踪作家・韓雪野「白い開墾地」 ・一九三◯年代後半事実主義小説の自己模索と「白い開墾地」の 意味」『韓国文学』、一九九◯年一月、三一◯~三一五頁 24ソンハチュン編著『韓国現代長編小説事典1917-1950』高麗大学校出版部、2013。海老原豊は「日帝強占期韓国作家の 日語作品再考―『文学案内』誌「朝鮮現代作家特輯』を中心に」(『現代小説研究』四◯号、二◯◯九年、韓国現代小説 学会)において、満洲事変と旧プロレタリア文学作家の雑誌活動を考察する一方、 「朝鮮現代作家特輯」について触れて いる。ここでも原作は朝鮮語で翻訳作品として踏まえている。なお、この論考は初出など書誌の誤記が目立つ。 25金在湧「[作品発掘]失踪作家・韓雪野「白い開墾地」」前掲、三一◯頁 26張赫宙「朝鮮文壇の現状報告」前掲 4 レタリア文学の再建をめざして創刊された日本の進歩的雑誌『文学案内』が、「張赫宙」という媒介を 通じて作品発表の場となったのではないか。 また、植民地朝鮮の文学者らは、朝鮮の厳しい検閲より日本の検閲が若干緩やかであることから、作 品に刻まれた牙を隠しつつメッセージを発することを試み始める。たとえば、金在湧が朝鮮語より「一 層、反日的で階級的」であると評価しているように、韓雪野の「白い開墾地」では、朝鮮語において「組 合」という一つの表現に統一されていることが、 「争議」 「夜学」 「T農組総検挙」 「T農組再建事件」な ど、具体的にその対象や表現が織り込まれている。また、朝鮮における「東拓」の資本や朝鮮総督府が 掲げた「心田開業、自力更生、農地改良」の虚像、 日本人校長「小林」の卑劣な交渉、 漠然とした「模 範校長」の表彰が明確に「総督府表彰」と示され、小作権が朝鮮人地主から移住日本人地主へ移動する 過程などが明示される一方、「農組」による農民の団結も加筆されている。 また、 李北鳴の「暗夜行路」では、 「できの悪い社会主義」者であった主人公・三徳が日本警察に捕 まった理由は「配達夫親睦会事件」 (三七七頁)によるものであったが、 『文学案内』の「裸の部落」で は「K邑『新聞配達夫同盟』組織準備中に検挙」 (一一頁)と明示されている。そして、兪鎭午の「金講 師とT教授」では、消極的な主人公・金講師の性格が日本人同僚に向かい怒りを爆発するなど大胆な性 格へと変化する一方、植民地の現実を浮き彫りにしている。 このように、植民地文学者ゆえの創作の苦悩ともいえるこのような表現の差異を通じてもわかるよう に、植民地朝鮮文壇よりは多少なりとも、自由な表現が許される日本の雑誌『文学案内』は、そのよう な試みの場を提供する役割を一定程度、果たしたといえる。 貴司山治らも示しているように「張赫宙君の一方ならぬ厚意によつて生れたといつていゝ」27「朝鮮 現代作家特輯」は、朝鮮の同時代の作品を日本に翻訳・紹介し、植民地朝鮮の作家たちを日本読者に紹 介したものとして意義を持つ。 また、雑誌『文学案内』が「これらの作家はいづれも現代朝鮮文壇をになふ新進、中堅の俊才で、必 ずや大方の期待に添ふであらうと共にこれらを特輯することはわが編輯部がつねに朝鮮、台湾、中国文 壇の紹介に、率先して微力を注いて来た真意を、より積極的に表現したものである」28とその意義を示 しているように、植民地作家たちに作品発表の場を与え、そのことで植民地の現実を広く知らせるきっ かけにもつながっていく。だが、雑誌『文学案内』はこの特輯の後、「今年中にもう一度第二朝鮮作家 号を出したいと思ふし中国作家号なども企てたい」29と抱負を述べたものの、一九三七年四月号を最後 に廃刊に追い込まれてしまう。 4 むすび 雑誌『文学案内』における植民地文学者との「特別の連帯心」や台湾、朝鮮、中国文壇の日本への紹 介やその作品の「日本文壇への移植」と「相互交渉」という理念は、雑誌『文学案内』が廃刊された後 も続けられた。その後、ともに『文学案内』の編輯顧問であった、張赫宙(戯曲)と村山知義(演出) の協力で「春香伝」(一九三八年)が上演され、そして、雑誌『文学案内』や戯曲「春香伝」上演に関 わっていた張赫宙、村山知義、秋田雨雀、兪鎮午の共同編輯による「全面的朝鮮文学の反訳集の企画」 30 であった『朝鮮文学選集』全三巻(赤塚書房、一九四◯年)の刊行にもつながっていくのである。 27貴司山治「編輯室レポ」『文学案内』三巻二号、一九三七年二月、一九二頁 28文学案内編輯部「朝鮮作家特輯号の発行について」『文学案内』二巻一二号、一九三六年一二月、一五九頁 。なお、 この時点での掲載予定は六篇で李箕永が「題末定」として挙がっていた。 29貴司山治「編輯室レポ」前掲、一九二頁 30 張赫宙「現代朝鮮作家の素描」前掲、八四頁 5
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