品川哲彦氏からのコメントに対する応答

品川への応答(居永)
、
『倫理学論究』
、vol.2, no.1, (2015), pp.46-51
品川哲彦氏からのコメントに対する応答
居永正宏1
品川氏(以下敬称略)からのコメントは三点に分けられているので、順に答えていきた
い。
第一点は、筆者が「普遍性を旨とする哲学者も、思索においてジェンダー・バイアスを
逃れることはできなかった」2と述べる一方で、拙論で提示した思考実験を通して筆者自身
も自らのバイアスに縛られた「産み」観を提示してしまっているのではないか、という指
摘である。品川は特に、1.胎児が健康に生まれてくるには親密なパートナーが必要であ
る、2.思考実験中の個体が常に胎児のような胚を含んでいる=常に妊娠状態にある、と
いう二つの条件に疑問を呈する。
まず確認しておきたいのは、拙論の中でも述べたように、一般的に哲学における思考実
験とは反事実的な仮想によって何かを論証しようとするものだが、拙論のそれは「思考実
験」と括弧付きで表記したように、そもそも私たちがそうであるといういわば「現-事実
的」な事態を記述しようとしたものである。言い換えれば、筆者はそれを論証的ではなく
実践的な意図で記述しており、要するに、哲学の一つの「中立的な道具」でありながら実
際は男性バイアス(
「産み」を欠いた主体性)の染み込んだ例がほとんどである思考実験
を、逆に「産み」を含んだ主体性の記述に用いることによって、
(多くが男性哲学者であ
ろう)読者に自らも産みの主体であるという事実に目を向けさせるために筆者が用いたレ
トリックである。
その上で、筆者がなぜ産みには親密なパートナーが必要だという条件を付したかであ
る。一言で言えば、もしこの条件がなく、産みを個々の身体が自己完結的に行いうるもの
と記述してしまうと、この「思考実験」は単に「孤立して単為生殖する人間型生物」を
SF 的に描き出しているに過ぎなくなり、現実の親密圏の中のケア関係、依存関係におい
て営まれる産みから離れてしまうからである。したがって、このパートナーの必要性とい
う条件は、品川が「この設定は出産や子育てに他者の協力を要することを主張するため」
、、、、
(35 頁)かもしれないという通りであり、より正確に言えば、その必要性を論証したと主
1
2
居永正宏(いながまさひろ)日本学術振興会特別研究員 PD(関西大学)
、大阪府立大学客員研究員
居永正宏、
「『産み』を哲学するとはどういうことか――哲学と経験」
、本号、14 頁。
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、、、、、
張するためではなく、それが事実であることを主張するためである。また品川は、このパ
ートナー条件を通して筆者は一夫一婦制を肯定しているのではないかと述べているが、こ
の点については、一夫一婦制ではなくとも、産みの営みにはなんらかの形の親密性の領域
が必要不可欠ではないかと筆者は考えている。もちろん、そこにシングル・マザー/ファ
ザーは産みの営みに不適格だという含意は全くない。そうではなく、シングル・マザー/
ファザーであっても、その家族、友人、恋人等々といかなる親密性の領域も持たずに子ど
もを産み育てていくことは難しいと思われる、ということである。
次に、
「思考実験」で描いた生物の身体は「常に胎児のような胚を含んだ身体」、
「いわ
ば常に妊娠中の状態」であると筆者が述べたのに対して、品川はそれが「産まされる性」
として抑圧されてきた女性を描いているようであり、そのように強制的に常に実際に妊娠
状態に置かれるという想定をせずとも、単に妊娠が可能であると想定すればよいのではな
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
いかと指摘し、
「この思考実験は産む性をあたかも孵卵器であるかのように描いてしまっ
、
て」3いると述べる。この点に関しては、筆者の記述が不十分で、説明不足であったと言わ
ざるをえない。筆者が「常に胎児のような胚を含んだ身体」という表現で意図していたの
は、ひどい悪阻や、大きいお腹で自由に動けないといった現実の妊婦の困難を常に抱えて
いるという点を強調するためではなく、私たちの身体が常に既に産まれてくるものとの
(単なる可能性ではなく)生々しい繋がりを有しているという点を強調することであっ
た。たしかに、
「産まされる性」として抑圧されてきた女性の立場から見れば、拙論の記
述がその抑圧の再演であるように解釈されうることは否定できない。しかし、「思考実
験」のはじめに、
「その生物は、人間に似た身体を持つが、性別の区別がない」と述べて
、
、
、
いるように、筆者は「産む性」
、
「産まされる性」さらには「産ませる性」を問題にしたい
のではなく、
「産ませる性/産まされる性」の区別を解体し、私たちとはすべからく産む
存在なのではないか、ということを(多くが男性哲学者であろう)読者が自身の身体性に
引きつけて読めるようにするという狙いを持っていた。実際、女性は月経という形で常に
自身が産みとつながった身体性を有していることに直面させられる一方で、男性には自ら
の身体の生々しい経験の中にそのような契機がほとんどない。独断的かもしれないが、例
えば自慰にせよ性交にせよ、それを通して自らが産みと繋がった身体であることを確認し
ている男性が多いとは思えない(自らは決して産むことのない「産ませる性」であること
3
品川哲彦、
「居永正宏「『産み』を哲学するとはどういうことか」へのコメント」
、本号、41 頁。
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を確認しているケースは多いかもしれないが)
。このような意味で、たしかに拙論の「思
、、
考実験」は産む存在を「孵卵器」のように描いているかもしれないが、それは現在「産ま
される性」として抑圧されている人々への抑圧を強化するためでは決してなく、
「産まな
い性」
、
「産ませる性」としてしか自己把握していない読者に、実は自らも生々しい身体の
次元において産む存在なのではないかという可能性を想像させるためであった。言い換え
、、、、
れば、人は「孵卵器」ではないという方向ではなく、男性も含めて実はすべての人は孵卵
、、、
器である、という方向に向けて孵卵器の意味をずらすことによってこそ、現在「孵卵器」
として搾取されている人々の抑圧を取り除くことも可能なのではないか、また産まない存
在として自らを産みから自己疎外している人々を産みへと取り込むことが可能なのではな
いか、ということである。ただもちろん、そもそも自らを産みとは関係ない存在として認
識している人に対して自らが産む存在であるという認識の転換を提起するには拙論の記述
は不十分であったこと、したがってその記述が、自らを省みる契機としてではなく、産ま
される存在として抑圧されている人々と重ねて解釈されてしまうという危険性に一層配慮
すべきであったことは間違いない。
品川のコメントの第二点目は、拙論がいう産みの哲学の「哲学」とは何を意味している
のか、拙論では、産みをめぐる個人的体験と文献読解によって産みの哲学が可能だと述べ
ているが、それは素朴すぎる上に、そもそも「哲学」であることの説明では全くない、と
いう指摘である。
これに関しては、まず拙論の表題がミスリーディングであったことに一因がある。山下
からのコメントの中で、拙論の表題は「
『産み』を哲学するとはどういうことか」ではな
、、、、、、
く「男性にとって『産み』を哲学するとはどういうことか」とするべきではなかったか、
という指摘があり、コメントへの応答の中で筆者もそれに同意した。拙論の中では、男が
産みを哲学的に考察するのは、視覚を持たない人が視覚の現象学をするような、不可能な
試みなのだろうかという問いを立て4、それに対して男とお産の事例を挙げた上で、そのよ
うな経験の上では男にとっても産みの哲学は可能であると述べた。つまり拙論の焦点は、
そもそも産みを哲学的に考察するとはどういうことかを明らかにするというよりも、男に
とってそれは不可能ではないのかという疑念を乗り越える可能性を示すところにあった。
、、
しかしそうは言っても、品川の指摘する通り、拙論が男性にとって産みの哲学は可能か
4居永正宏、
「
『産み』を哲学するとはどういうことか――哲学と経験」
、本号、17
48
頁。
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と言っている以上、他の学問領域と哲学の違いを示す必要があり、拙論がその点において
説明不足であることは疑いない。そして、それに対しては筆者が今後展開していく産みの
哲学によって答えていく他ないのだが、ここで可能な限りで応答したい。まず品川は、
「そもそも『産み』とは何なのか、という問い」という筆者の記述を取り上げた上で、そ
れは哲学だけの特徴ではなく「概念の明確化自体は他の学問にも必須である」(38 頁)と
言う。問題となるのはこの「明確化」の意味である。例えば「長さ」という概念を明確化
するとき、一般的な自然科学においては、その測定方法によって明確化される。また例え
ば「階級」という概念を社会科学的に明確化するとき、それは所得や家柄といった属性に
よって明確化される。それに対して、例えばカントが長さ=空間は感性の形式だと述べた
り、メルロ=ポンティが階級を自由の領野としての歴史性だと位置づけたりしたときに行
われている概念把握の進展は、質を異にしているだろう。この前者と後者の違いは、要す
るにその明確化が「操作的」であるかないかという点にある。したがって、
「他の学問」
で行われる概念の明確化のほとんどは操作的なのに対して、哲学的なそれは決して操作的
な関心によって行われるのではないという点で、概念の明確化の次元でも哲学とその他の
、、、、
学問は異なる。それが、品川が引いた「そもそも『産み』とは何なのか」という表現に筆
者が込めた意味である。
しかしそれは消極的な哲学の定義にすぎないのであって、非操作的に概念を規定するこ
とが全て哲学的なわけではない。例えば死について、独断的に「死とは来世への扉であ
る」と主張するのと、カントの「不死が実践的に要請される」とかハイデガーの「死とは
不可能性の可能性である」といった論とは、共に非操作的に死の概念を取り扱っているも
のの、やはり後者に哲学の名が相応しいように思われる。ただ、この差異を積極的にあら
かじめ定義することはできないのであって、哲学と呼ばれる営みの中でパフォーマティブ
に「哲学的」な議論とそうでないものが実践的に分類されていく他ない。したがって、産
、、、
みの哲学の哲学性を積極的に提示するためには、産みの哲学的把握の内実を実際に提示す
るしかないのであって、それは品川の指摘する通り、拙論には欠けていた。品川の第三の
コメントがこの点に関連する。
品川の第三のコメントは、産みを問題化する仕方について、拙論では特に分娩に着目し
た上でそれを死と対比しているが、その対比は妥当なのかというものである。そこで、こ
、、
こでは死と産みとの対比を通して、この第三のコメントと先の産みの哲学とは何かという
第二のコメントに合わせて答えたい。
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まず、筆者が産みと死を対比している理由は、必ずしも両者が論理的に対称だとか、理
論的に全く同じ枠組みで理解しうるからではなく、実際に産みと死は生の端緒と終端を成
すという点で私たちの生における両極なのだから、さしあたり両者を対比して考察するこ
とによってそれぞれの理解に資することが大きいのではないかという直観が筆者にあるか
らである。それは、尊厳死と中絶が必ずしも理論的に対称的ではなくとも、相互に参照す
ることでそれぞれの議論に役立つのと類比的である。その上で、筆者が「誕生」ではなく
「産み」という用語を取る理由は、私の生の終端である死は私のものでしかないのに対
し、それと同じ意味で私の生の端緒は私のものでしかないとは言えないから、つまり、私
の生の端緒は私の(母)親の生と本質的に接続しているからである。私が死ぬとき私は一
人だけで無へと転化するのかもしれないが、私が誕生したとき私は一人だけで無から生じ
たのではなく、
(母)親が私を産み落としたのである。もし「誕生」が孤独な実存が無か
ら飛び出てくるような事態を表現しているとするならば、それに対して「産み」とは、私
を産んだものによって私が産まれたのであり、また私が産むときにはそこには誰か別の新
しい人が産まれる、という事態を表わしている。
拙論ではこれを人称性の区別として記述した。ジャンケレヴィッチの『死』5の中で、死
が一人称の死、二人称の死、三人称の死に分けて考察されている。その中でジャンケレヴ
ィッチが最後に考察し、哲学的考察の最大の対象としたのが一人称の死であった。それに
倣って、筆者も拙論の中で「私が他者を産むこと(=一人称の産み)」
、「私の誕生(=親
という他者による私の産み=二人称の産み)」
、
「他人が産むこと(=三人称の産み)、とい
う区分を行い6、一人称の産みこそが産みの哲学の対象となるべきだと主張した。しかし脚
注 87で留保した点を踏まえて、ここでそれを少し訂正したい。即ち、産みとは産むものと
産まれるものとが表裏一体でなければ成り立たない以上、死とは異なり、一人称と二人称
を画然と区別することができないのではないか。この訂正の上で産みの人称性を改めて整
理すると、次のようになる。
1.ゼロ人称の産み(私が無から誕生すること)
2.1.5 人称の産み(親が私を産む/私が子を産むこと)
3.三人称の産み(他人が他人を産むこと)
5
6
7
ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ、
『死』
、みすず書房、1978 年。
居永、前掲書、16 頁。
同上、17 頁。
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この中で、筆者のいう産みの哲学が取り扱うのは 1.5 人称の産みであり、この 1.5 人称
の産みという概念を明確化していくことが産みの哲学固有の課題である。品川が言うよう
に、
「親の視点に焦点をあてた分析と子どもの視点に焦点をあてた分析とをどのように結
びつけるのかという点」8は産みの哲学の今後の課題である。ただ、それは予め二つの視点
からの分析を別々に完成させて接続するという形ではなく、この 1.5 人称の産みという概
念の展開の中から二つの視点がどのように分化していくのかを明らかにする形で取り組む
べき課題だと思われる。
品川のコメントはどれも本質的な点を突いたもので、十分な答えは筆者の今後の産みの
哲学の展開によって示していくしかないが、本応答によって拙論の意図が少しでも明確に
なっていれば幸いである。
8
品川、前掲、44 頁。
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